2015 冬 Vol.93 平成2 7 年 地域の歴史 森林と生きてきた高山市の山村、旧久々野町・旧朝日村 地域の治水・利水施設 飛騨川上流の電源開発 朝日・秋神ダム 歴史記録 過去の災害を学ぶ 第三編 木曽三川下流域の豪雨災害(二) 郡上八幡、大垣・高須輪中を沈めた明治期の豪雨 研究資料 長島輪中の郷 館長 諸戸 靖 木曽三川下流域(長島輪中など)における 輪中に関するいくつかの提案 高山市 森林と生きてきた高山市の山村、 ぐ こく ふ こ はち が じん つう 市域の水系は、日本海へ流れる だい はち が 宮川・大 八賀川・小八賀川︵神 通 て縄文時代の遺 七 三︶年 か ら 昭 和 五 四︵一 九 七 は国指定史跡で、昭和四八︵一九 きょう 地域の歴史 し ょ うか ん の ん り つ ぞ う どう よ 力者であった佐々木︵京極︶道 誉 きょうごく 室町時代の飛騨国は、幕府の実 いません。 く、支配者の氏姓などは伝わって の動向を記した史料は極めて少な 古代から鎌倉時代までの当地域 三木氏から金森氏への飛騨支配 産として知られています。 最上流部に現存する古代美術の遺 県重要文化財に指定され、飛騨川 り、昭和三九︵一九六四︶に岐阜 る木 造 聖 観 音 立 像 が残されてお もく ぞう 永 亨八︵一四三七︶年の裏銘があ えい ま た 久 々 野 町 の 八 幡 神 社 に は、 行われています。 れており、住居の復元など整備が から中期末にかけてのものが知ら 岐阜県の北部飛騨地方に大きな市域をもつ高山市。 その南部で飛騨川沿川の旧久々野町・旧朝日村は、豊 かな森林資源に恵まれ、江戸時代から林業によって生 計をたてる村が多かった地域です。 跡が数多く発掘 九︶年まで七次にわたる調査によ しゅう せき 堂之上遺跡(住居復元) 旧久々野町・旧朝日村 高山市南部の飛騨川上流域 川水系︶ 、庄川︵庄川水系︶と、太 しょう 高 山 市 は、平 成 一 七︵二〇〇 平 洋 に 注 ぐ 飛 騨 川︵木 曽 川 水 系︶ く にゅ う かわ 五︶年二月一日 大野郡丹生川村・ よし き あき がみ せっけん にかけての遺跡があり、ここから せき ふ 取り上げます。 は土器のほか石鏃・石斧・石剣な どう の そら されています り、四三基の竪穴住居跡、二〇〇 なかでも久々野町の堂之上遺跡 せきぞく もともと高山 どの石器も発見されています。 が、久々野町と 以上の土壙、集石などが発掘され たて あな 朝日村では、縄 ています。住居跡は縄文時代前期 ど こう 文前期から後期 に飛騨川に沿っ 市一帯では、主 朝日村を中心に 旧久々野町・旧 飛騨川上流域の くらいやま に分かれ、市内に位山、宮峠など たか ね の の 分 水 嶺 が あ り ま す。こ の う ち、 あさ ひ たから みや 清 見 村・荘 川 村・宮 村・久 々 野 飛騨川は、飛騨山脈の乗鞍岳︵標 かみ し ょ うか わ 町・朝 日村・高 根村、吉 城郡国府 高 三, 〇二 六m ︶南 麓・旧 高 根 村 きよ み 町・上 宝村を編入し、面積が合併 に発し西流、旧朝日村で秋 神 川・ 一之宿 ぶん すい れい 前 の 一 三 九・五 七 ㎢ か ら 二 一 七 あお や のり くら 七・六七 ㎢と非常に広大な市域と 青屋川を合わせて、旧久々野町で 長野県 御岳山 ろ なりました。これは全国市町村中 南流に転じ下呂市へ流れる木曽川 道 街 曽 木 下呂市 げ 最大で、香川県や大阪府よりも広 第一の支川です。今号では、この は全国で唯 一です。 木曽街道 渚 秋神川 胡桃島 阿多粕 号 線 本 山 号 高 国道 長淀 く、府県の面積よりも広い市町村 宮之前 木賊洞 旧朝日村 久々野 361 1 木造聖観音立像祠 西洞 旧久々野町 無数河 引下 船山 久須母 41 小坊 無数河川 秋神ダム 飛騨川 国道 万石 朝日ダム 大広 柳島 山梨 見座 辻 上ヶ見 1号 甲 国道36 青屋 立岩 小屋名 青屋川 が守護に補任され飛騨南部を中心 に支配し、飛騨北部は後醍醐天皇 おこしました。幕府は首謀者に厳 かみの やま しい処分を課す一方、村方から出 よりとき 藩主・金森頼時は突然出羽国上山 された嘆願についてそれなりの配 部の姉小路氏などを支配下に置 ました。その後、三木氏は飛騨北 が、いずれも三木氏の配下となり 城︵朝日村︶に黒川氏がいました て甲城︵朝日村︶に東藤氏、黒川 の頃、当地域には在地の領主とし 郡中央部︶まで進出しました。こ を征し、美濃国︵益 田郡から大野 京極氏の内紛に乗じてその支配地 ︵一 四 六 七 ∼ 一 四 七 七︶に お け る 騨に着任した三木氏は、応仁の乱 三五︶年に京極氏の代官として飛 支配していました。永 享七︵一四 が設けた国司であった姉小路氏が 払う仕組みでした。元伐を専ら生 貸し金・米代などを差し引いて支 た材木を定めておいた金額から前 味噌などを前貸しして、刈りだし を 確 保 す る た め に、金・米・塩・ り倒して渡場まで搬送する︶人足 は、杣と呼ばれる元伐︵立木を刈 組織がつくられました。その一つ 取林業を行い、大量伐採・搬出の ため、飛騨では最初の本格的な採 城の築城に必要な木材を調達する が成立しました。高山藩は、高山 に従い飛騨一国を安堵され高山藩 その後の関ヶ原の戦いで徳川家康 長 近 は 越 前 大 野 か ら 飛 騨 に 転 封、 天正一四︵一五八六︶年、金森 てきた飛騨の森林は、この頃、南 の中心となりました。 として記載がある︶と小坂郷がそ ︵一 六 六 四︶年 の 高 帳 に 単 独 の 郷 ことが発端で、阿多野郷︵寛 文四 こと︶に、山方の村々が反発した 木元伐休山命令︵伐木を行わない ︵一 七 七 一︶年 一〇月 の 飛 州 御 用 す。このうち明和騒動は、明和八 総称して大原騒動と呼んでいま 動・天明騒動の三件の農民一揆を し て 発 生 し た 明 和 騒 動・安 永 騒 飛騨代官・大原氏の治政に反対 ﹃岐阜県の地名﹄ ﹃久々野町史﹄ ﹃朝日村史 一∼五巻﹄ ■参考文献 終了しました。 六一︶年、元伐村の御用木生産は を繰り返し、ついに文久元︵一八 その後、元伐は休山と規模縮小 かみのやま 藩︵現山形県上山市︶に移封とな 慮 を 示 し ま し た。元 伐 に つ い て き、飛騨一国を領有しました。 業とする人々は、耕作地の少ない 方の阿多野郷・小坂郷はほとんど 金森高山藩の林政 り、以後江戸時代を通して幕府直 天 正一〇︵一五八二︶年本能寺 山間地の村に定住して、伐採する 刈 り 尽 く し、元 伐 は 北 方 の 白 川 あねこう じ 轄地となりました。 の変によって天下統一を目前にし 山に出稼ぎをしました。こうした 山・高原山まで出稼ぎするように てん まし だ さっ さ なりまさ とう どう きょう ていた織田信長が没すると、その 村を元伐村といい、阿多野郷︵朝 なっていました。幕府勘定奉行か えい 後 継 者 争 い が 表 面 化 し、翌 一 一 日 村・高 根 村・久 々 野 町 の 一 部︶ ら代官・大原彦四郎に宛てた﹁休 あ けい ちょう てんめい ご いん ばつぼく めい わ じょう うつし あん えい かん ぶん やすみ 高山藩時代から大量伐採を続け やま こくぶん じ 徒化して商家の打ちこわしなどを りました。 きゅう 昭和五五年 角川書店 ﹃日本地名大辞典・岐阜県﹄ 朝日村 平成一〇年 久々野町 昭和三二年 平成元年 平凡社 ぶん 山方買請米が支給されることにな かいうけまい 坂二郷の四八ヶ村に、休山中でも は、翌九年になって、阿多野・小 ︵一 五 八 三︶年 に 羽 柴 秀 吉 が 柴 田 は、その主要な地域でした。慶 長 山一件御印状写﹂は、多年の乱伐 ごう そん たか 明和騒動と元伐休山 勝 家 を 討 ち 滅 ぼ し ま し た。こ の 一〇︵一 六〇五︶年 の 高 山 藩﹁飛 による木材の品質低下と経費節減 もと ぎり 時、飛騨を支配していた三木自綱 騨国郷村高帳﹂では、阿多野郷は を休山の理由にあげています。 かなもりながちか そま は秀吉に下らず、越中の佐々成政 大野郡に属していましたが、八年 かぶと に同調したため、天正一三︵一五 後の高山藩﹁飛騨国三郷高帳﹂で 元伐で生計をたてていた元伐村 なり 八五︶年八月、秀吉は大軍をもっ の人々にとって、休山の決定は死 しょう て成政を討伐した際、金森長近に は、益田郡小坂郷に組み込まれて 活 問 題 で し た。明 和 八︵一 七 七 わい 飛騨攻略を命じました。金森軍は います。小坂郡も元伐村が多い地 一︶年一二月、三郡村々の総集会 の 南北二手から三木氏の居城・松倉 域でしたから、この統合は森林行 が飛騨国分寺で開かれ、一部は暴 だ 城︵高山市街の西南︶に迫り、八 政上の利便を図ったものと思われ より つな 月二〇日松倉城は落城し、飛騨の ます。 げん ろく 元 禄五年︵一六九二︶年に五代 ちょう 支配は三木氏から金森氏へ移り変 わりました。 地域の歴史 飛騨国分寺 2 甲城址 朝日ダム て、ダム建設という大事業の計画 は、まさに朗報でした。昭和二三 ︵一 九 四 八︶年、朝 日 村 は 電 源 開 発受け入れのため、村長を委員長 とする日本発送電株式会社朝日ダ ム建設対策委員会を設置しまし た。委員会は、水利権問題や個々 の権益・補償などの重要事項につ い て 取 り 組 み 会 合 を 重 ね ま し た。 ま た、事 業 の 早 期 実 現 を 促 す た め、昭和二四︵一九四九︶年に高 山市長をはじめ飛騨三郡の町村長 会 長、県 議 会 議 員 六 名 に 朝 日 村 長、坂下村長︵恵那郡︶を加えた 一二名が発起人となって、朝日ダ ム建設期成同盟会が発足しまし た。翌年、同盟会は、飛騨地方の 不 況 と 失 業 者 増 加 の 現 状 を 訴 え、 ダム建設にかかる期待の大きさを 示す陳情書を、日本発送電株式会 社に送っています。 朝日・秋神ダム建設工事 昭和二六︵一九五一︶年、電力 再編成によって、日本発送電・中 部配電を含む九発電会社は解散 白川 地域の治水・利水施設 戦後の電力不足の中で、飛騨川上流の水源開発として、 朝日・秋神ダムが建造されました。二つの貯水池の完成に よって飛騨川の発電量は飛躍的に増大し、地元の朝日村に kw 用するため東上田発電所︵三万五 〇〇 ・下 呂 市︶が 建 設 さ れ、さ らに既設の発電所でも年間発電量 を大幅に増やしました。 こ の 工 事 で は、従 来 見 ら れ な か っ た 大 型 の 掘 削 機 が 導 入 さ れ、 その威力に驚きました。また国産 第 一 号 の パ ワ ー シ ャ ベ ル︵日 立 製︶が使われ、国産機器の性能が 試されました。工事用の資材輸送 3 秋神ダム も多大な経済効果をもたらしました。 し、かわって中部電力など民営の 九電力会社が発足しました。日本 発送電の電源開発計画は中部電力 が継承し、朝日ダム建設計画も受 け継がれました。 計 画 は、飛 騨 川 本 流 に 朝 日 ダ ム、支流の秋神川に秋神ダムを建 造して大規模貯水池とし、朝日ダ ム直下に朝日発電所を設置、さら に下流に東上田発電所を建設する と い う も の で し た。当 初 計 画 で は、朝 日 ダ ム 高 さ 七 二m・秋 神 ダ ム高さ五九m でしたが、貯水量を 増やすためそれぞれ高さを一二m 嵩上げしました。この両貯水池は 長さ一・七七㎞の圧力随道で連結 され、総貯水量は合計で約四千立 方メートルとなりました。工事の 正 式 着 工 は 昭 和 二 六︵一 九 五 一︶ 年一二月となっています。 朝日発電所は、朝日ダム貯水池 から一〇五m の水圧鉄管で導水し て、二万五〇〇 を発電するもの で、昭和二八︵一九五三︶年一二 月に営業運転を開始しました。そ の下流に、ダムの貯水を有効に利 kw 飛騨川上流の電源開発 朝日・秋神ダム 朝日・秋神ダム建設計画 太平洋戦後の日本では、電力需 要が大幅に増える一方で、発電能 力はなかなか増加しませんでし た。電力業界では、このような状 況を打開するために、全国の水系 で電源開発を計画しました。水量 と落差が大きい飛騨川上流部は発 電 に 適 し て い た の で、小 坂 発 電 所・瀬戸発電所など六ヶ所の施設 が稼働していました。 昭和二二︵一九四七︶年、中部 地方の電力界の中核であった日本 発 送 電 株 式 会 社︵後 の 中 部 電 力︶ は、開 発 の 具 体 的 な 計 画 の 段 階 で、地 形 的 に 最 適 な 朝 日 村 地 内 二ヶ所に、下流九ヶ所の発電所の 渇水期の発電量確保を目的とする 貯水ダムの建設計画を進めまし た。こ の た め、村 内 黒 川 地 先 に、 日本発送電株式会社朝日調査事務 所を設け、ダム建設のための調査 を開始しました。 一方、戦争で疲弊していた朝日 村をはじめとする飛騨地域にとっ 朝日貯水池 には、久々野駅からダム工事現場 さく どう まで約一六㎞の区間で索道︵ロー プウェイ︶が使われました。索道 は飛騨川に沿って二本の架線施設 が設けられ、工事期間中は、滑車 の音が絶え間なく響いたそうで す。 朝日・秋神ダムに続いて久々野 発電所が建設されました。朝日村 浅井に堰堤を築き、この水を久々 こ ぼう 野町小坊に建設した久々野発電所 ずい どう まで約一一・七㎞を隧道で導水す る も の で、昭 和 三 七︵一 九 六 二︶ 年操業開始しました。この隧道に こ たに よって、黒川・甲・小谷などの地 区で地下水が隧道に引かれて、谷 水や簡易水道の水源が涸れたり少 なくなる支障が生じたため、会社 側の補償で、それぞれの施設毎に 久々野ダム 改善処置がなされました。 路拡幅・付帯施設の整備などの折 衝を重ねて獲得し、地域内の交通 の利便性が向上しました。 ダムの存在は、村の財政にも大 きな潤いをもたらしました。村の 自主財源である地方税の固定資産 税の中に、工場など規模の大きい 事業所に課せられる大規模償却資 産税があります。昭和三〇年度に は、ダ ム 施 設 の 資 産 税 が 二, 〇八 一万五千円にのぼり、固定資産税 の九〇%を占めました。朝日村は 三〇年度から三年間、地方交付税 の不交付団体となっていました。 貯水池に水没した地区 地域に大きな便益をもたらした ダム建設でしたが、一方で貯水池 に水没する地区の住民にとって は、住み慣れた先祖伝来の地から 立ち退く苦渋の決断を強いるもの お ぜ が でした。当初の計画では、小瀬ヶ ほら 洞 地区までが水没の対象でした が、貯水量を増すためダムの高さ きびゆう を高くする計画変更によって黍生 だに 谷地区まで範囲が及ぶことになり ました。これには、両地区の住民 は勿論、上流部の人々も衝撃を受 け、秋神地域全体で反対運動が展 開 さ れ ま し た。朝 日 村 は、村 始 まって以来の大きな問題に対して 慎重に施策を練って取り組み、中 部電力との折衝も粘り強く行った 結果、水没地区の人々の理解を得 て、事業の完成を見ました。 転出者は一八六名で、その多く がこれまで同様の営農生活を希望 し、高 山 市 と そ の 周 辺 地 域 の ほ か、恵 那 郡 な ど に 移 転 し ま し た。 村 で は 昭 和 六 三︵一 九 八 八︶年、 転出者の望郷の心のよりどころと して、ダム湖のほとりに﹁ふるさ と の 森﹂記 念 公 園 を 造 園 し ま し た。 ■参考文献 ﹃朝日村史 第四巻﹄朝日村 平成一〇年 地域の治水・利水施設 4 ダム建設の恩恵 朝日村は朝日・秋神ダムの建設 から、様々な形で大きな恩恵を受 けました。工事には五〇〇人ほど の作業員が関わり、黒川と寺附に バラック建ての宿舎が建並び、中 には一家で移住してきた家族もあ りました。ここに地元の雑貨商が 店を出し、飲食店や歓楽街ができ るなどダム工事繁華街が出現しま した。さらに映画館やパチンコ店 まで営業するようになり、工事特 需に沸きました。 ダ ム 建 設 で は 多 く の 場 合、国 道・県道などの付け替えや現有道 路の機能回復が補償されます。朝 日村ではこの補償の枠を超えた道 久々野発電所 「ふるさとの森」記念公園 過去の しょう ちょく ンスなどが流れ出しました。 二三日午前零時、吉田川の仮橋 とその上流の宮ケ瀬橋が流失、吉 田川を挟んだ両岸の交通は断たれ ました。 また、水防巡視用に供した吊り 提灯から出火し、豪雨のなか、吉 田川左岸側の北町消防団は火事を 見守るほかなく、倒壊した民家二 軒と八幡郵便局が全焼しました。 ②裏山の崩壊 乙姫川周辺の人びとは、慈恩禅 寺や島谷小学校に難を逃れていま した。二三日午前五時頃、轟音と ともに慈恩禅寺の裏山が長さ約二 し 〇〇m あまり崩壊し、山門と勅使 もん 門 だ け を 残 し て、 本 堂、 坊 経 堂、 ろう 鐘楼など付近一帯が約九m も土砂 に埋没してしまいました。 寺に避難していた数十名のう ち、寺の小僧二人を含む二六名が 生き埋めとなりました。生き埋め は、二歳∼一三歳までの子供をは じめ、母親と女児など、母親と子 供たちが主でした。寺に女子供を 避難させ、男たちは吉田川や乙姫 川での警戒・救援活動に出ていた 木曽三川下流域の豪雨災害 ︵ 二︶ ちょう しょう 瀬橋下流に架かっていた仮橋が流 される寸前となり、二二日の午後 から再び豪雨になりました。夜に 入って濁流の激しさはさらに増 し、各家は吊り提灯を軒先に出し て警戒出動する人びとの往来に便 宜を与えました。 一九日∼二三日までの降雨量 は、八幡の年間降雨量の三分の一 にも相当する約九四〇㎜ で、二二 日午前一〇時∼二三時一〇分まで には六二〇㎜ でした。 ①崩壊直前 二二日午後一二時頃から雨はさ らに激しくなり、吉田川に注ぐ右 こ だ ら がわ いんなき 支川の小駄良川と左支川の犬啼川 おと ひめ や乙姫川も水嵩を増しました。慈 とう ど やま 恩禅寺は東殿山からの濁流が流れ る乙姫川の右岸側にありました。 流木が乙姫川の乙姫橋に架か り、橋で堰上げられた濁水が氾濫 し、乙姫川左岸側の新町や今町裏 さい 手の石垣はほとんど崩壊し、最勝 じ 寺大門通りの幅約一・五m の石畳 もすべて流されました。一方、乙 姫川右岸の町内一帯は、深いとこ ろで床上七〇㎝ に達し、家からタ 郡上八幡、大垣・高須輪中を 沈めた明治期の豪雨 一、明治二六︵一八九三︶年 八月に郡上八幡を襲った豪雨 木曽三川での豪雨災害の一例と して、明治年代に上流域の郡上八 幡 と 下 流 域 の 大 垣・高 須 輪 中 を 襲った豪雨について紹介します。 第三編 明治二六︵一八九三︶年八月一 六日夜、九州南東方沖へ接近した 低気圧は、岐阜県に一七日朝から 一九日に豪雨、一九日に雷雨をも たらしました。 さらに、翌一九日の朝、九州南 部に発生した低気圧が、日本海沿 岸に雨を降らせ、特に郡上地方は 激甚を極めました。 ︵一︶郡 上 八 幡 の 慈 恩 禅 寺 裏 山 の 崩壊 じ おんぜん じ けい 郡上八幡の慈恩禅寺は、慶長一 一︵一六〇六︶年、八幡城主遠藤 よしたか はんざん 慶隆が京都妙心寺の半山禅師を迎 えて創建した寺です。 明治二六︵一八九三︶年八月は 一六日まで雨が降らず、一七日頃 から降り始めた雨は一転して止ま ず、連日降り続けました。二一日 の午後四時頃には、吉田川の宮ケ きゅう 歴史記録 のでしょう。五人の父親が家族全 員を亡くしました。 赤土で全身土まみれとなった遺 体は、二五日までに腐乱が進んだ 状態で掘り出されました。 ︵二︶豪 雨 と 共 に 流 失・出 現 し た 石造物 いんなき ①犬啼水神 旧庁舎前の駐車場内に祀ってあ る男女一対の﹁犬啼水神﹂は二度 も地中から見つかった不思議な水 神です。 ぶん 文 久元︵一八六一︶年、東町の 郷士古田栄左衛門は貯えていた天 ゆき 然氷を病に臥した六代藩主青山幸 しげ 哉の奥方に献上し、奥方の病を完 治させました。 古田は、熱病の治療に用いる氷 をつくる水田を犬啼谷で造ってい 5 生き埋めになった人々の捜索 (『写真で見る続郡上百年』より) 災害を学ぶ 郡上市八幡町島谷の慈恩禅寺 流失後に架けられたと考えられる明治42年の 宮ヶ瀬橋(刎橋)。(『郡上』より) る最中に、土中から一対の男女神 を見つけ、水神として祀っていま した。この水神が、慈恩禅寺を埋 没させた集中豪雨による山崩れで 流失しました。 それから七〇年近く経た昭和三 七︵一九六二︶年、犬啼谷を水源 とする八幡町の上水道工事の最中 に、一対の水神が再び土砂から現 れたのです。 ②常盤電気地蔵尊 八 幡 町 役 場 分 室 横 に、 ﹁常 盤 電 ぶん 気地蔵尊﹂が祀ってあります。文 か 化 七︵一八一〇︶年、常盤町に住 んでいた佐藤将監が、水死者の供 養と水難除けのために地蔵尊を建 立し、吉田川の学校橋下流の将監 淵の岩上に奉られていました。こ の地蔵尊も犬啼水神と同様、吉田 川の大洪水で行方不明となりまし た。 八幡水力電気合資会社が常盤町 に発電所を建設していた明治四〇 ︵一 九〇七︶年 頃、以 前 の 安 置 場 所から約三〇m 下流の川底から地 蔵尊が現れました。すぐさま現在 地 に 奉 り、そ の 日 を 例 祭 日 と し て、毎年救命と水難除けの祈願が 七月二五日前後に行われていま す。 二、大垣輪中と高須輪中を沈 めた明治二九︵一八九六︶年 の豪雨 明治二九︵一八九六︶年は全国 的に雨の多い年で、日本の各地で 洪水による被害が発生しました。 木曽三川流域では、①七月一九 日には前線による大雨、②八月三 〇日には台風による大出水、③九 月 八 日 ∼ 一 一 日 に か け て の 降 雨、 と 三 度 も 大 洪 水 が 発 生 し て お り、 中でも、七月と九月の降雨が木曽 三川下流域に甚大な被害を及ぼし ました。 ︵一︶七月と九月の降雨と被害 ①七月の降雨 七月一九日の朝、九州南方沖に 接近した低気圧は各地に大雨を降 らせ、岐阜地方では一九日夜半よ り降雨は連続し、二〇日、二一日 は豪雨となりました。二二日に各 河 川 と も に 大 出 水 を 見 る に 至 り、 木曽・長良・揖斐川、その他大小 の諸川はことごとく氾濫し、堤防 は至るところで決壊して各輪中に 氾濫しました。 岐阜県の被害区域は一市二五郡 の八二八ヶ町村に及び、輪中堤防 で決壊しなかったのはわずかに加 納・森 部・牧 の 三 輪 中 だ け で し た。被害は死者四九人、流失家屋 九一九戸、崩壊家屋四, 〇六四戸、 床 上 浸 水 一 一,二 二〇戸 に 及 び、 炊出し救助を受けた人は一九万人 に達していました。 ②九月の洪水 七月洪水の被害がまだ復旧して いない八月三〇日に、暴風雨が尾 張地方を襲い、家屋崩壊三,九九 九戸、半壊二,八九四戸の被害を 与えたのも束の間、九月四日に新 たに低気圧が対馬海峡西水道に発 生し、五日に瀬戸内海に副低気圧 が現われ、各地方とも引き続き大 雨となりました。 岐阜地方では、九月六日午前よ り降り始めた雨は、午後に至り激 しい豪雨となり、七日まで豪雨が 断続しました。 一〇日まで停滞していた低気圧 は、一〇日同夜、紀伊西部に上陸 しました。岐阜地方では一一日夜 半∼一二日明け方にわたって烈し い風雨となり、被害は−層大きく なりました。 飛騨、郡上、恵那地方の洪水被 害は小さかったのですが、西濃地 方は七月の洪水の復旧前であった ため、被害は一層激化して、堤防 は各所で切れ、死者五八人、流失 家 屋 三,七 三 八 戸、崩 壊 家 屋 五, 三 七 七 戸、堤 防 の 決 壊 二,二 四 五ヶ所、炊出しを受けた人は二七 万人に達しました。 ︵二︶大垣輪中の決壊 大垣輪中は、七月二一日の夕方 に破堤しました。破堤地は、福束 大橋西端の揖斐川右岸・水門川排 水 機 場︵大 垣 市 横 曽 根︶か ら 約 一・七㎞上流の今福町の揖斐川右 岸 で、約 五〇間︵約 九〇m ︶が 崩 れ 始 め、つ い に 長 さ 一〇〇余 間 ︵約 一 八〇m ︶に わ た っ て 堤 防 が 破堤し、濁流が大垣輪中を襲いま し た。な お、今 福 で の 破 堤 時 間 は、一八時から一九時五〇分と記 録毎に異なっていますが、二一日 の 夕 刻、揖 斐 川 左 岸 の 高 須・福 束・結輪中等とほぼ同じ頃に破堤 しました。 さらに九月八日午前八時、揖斐 川・杭瀬川・相川・牧田川の四川 の濁水が大垣輪中に流れ込み、水 位は七月水害の時より一・一m も 高く、深い所では地面から四・二 m も浸水し、二階の上まで達しま した。今でも大垣城の石垣に、こ の時の浸水深が示されています。 ﹁今 福 堤 防 決 壊 の 碑﹂が 破 堤 口 に建てられ、この地点が七月と九 月の二回にわたって破堤し、文化 一二︵一八一五︶年にも破堤した ことが記されています。 み よ ①金森吉次郎による乙澪切り 乙澪切りは、輪中内に浸水した 内水を排除する手法であり、排水 機場が無い時代には破堤によって 輪中内に滞留した濁水を排水させ るため、非常手段として輪中の低 位部堤防を意図的に開削しまし た。 揖斐川がやや減水し、水門川の 逆水留め門扉も開いたので、七月 歴史記録 6 今福堤防決壊の碑 犬啼水神 八幡町役場分室横の「常盤電気地蔵尊」 二三日午前一時頃から金森吉次郎 らは、大垣輪中最南端の﹁横曽根﹂ 地先の堤防の乙澪切りに着手しま した。この乙澪切りで、輪中内の 濁 水 は 一 挙 に 揖 斐 川 へ 流 れ 出 し、 八, 〇〇〇戸 の 家 屋 と 四〇, 〇〇〇 人 の 命 を 救 う こ と と な り ま し た。 な お、九 月 に も 乙 澪 切 り が ﹁横 曽 根﹂地先で行なわれました。 一方、長島輪中でも、七月二一 日に小島地先︵現大倉団地の東半 分の地︶の堤防が決壊し、長島輪 中が洪水で沈んだため、入水箇所 の反対側の大島堤を切り破って排 水を行っています。 ︵三︶高須輪中の状況 元岐阜県海西下石津郡長の山下 中二が当時の状況を詳しく記録し ています。 表は、山下による水害記を時系 列で取りまとめたものです。同表 より、早くも七月二一日の午後に は多芸輪中堤、一色地内 の堤防、勝賀梶池と鯰池 の堤防が破堤していまし た。八月八日頃には、破 みお 堤地の分水工事︵澪合わ せ︶に取り掛かりました が、三〇日には再び破堤 地︵澪︶が 再 度 決 壊 し、 高須輪中は浸水したた め、高須町の一部では舟 で行き来していました。 九月二日頃から再び決 壊口の工事に取り掛かり ましたが、六日には台風 が来襲して、高須町全域 が 三 度 も 浸 水 し ま し た。 九日には多度村の柚井堤 防と下石津郡の堤防が破 堤し、太田輪中では床上 浸水二〇〇余戸となって いました。 このように、連続した 三度の出水で、高須輪中 は壊滅的な被害を蒙りま した。なおこれらの出水 のため、高須町日新小学 校は休校と再校を繰り返しました が、被災後の生徒数激減で学級の 編成替えが行われました。 七月と九月の災害による被害を 木曽川流域に限って記すと、死者 二〇六人、負傷者五三二人、家畜 流亡四,五二一匹、流失崩壊家屋 一 二,六 七 五 軒、破 損・浸 水 五 八,六九七軒、耕地流亡二,三五 四 町 五 反︵約 二 三 ㎢︶ 、堤 防 破 堤 八 四,九 二〇ヶ 所、橋 梁 流 失 四, 七九六ヶ所等におよび、甚大な被 害となりました。 ︵四︶決壊守護神 明治二九︵一八九六︶年九月八 日 に、長 さ 七〇間 余︵約 一 三〇 m ︶にわたって決壊した多芸島地 内の杭瀬川左岸堤防に、決壊守護 神 が 祀 ら れ て い ま す。大 垣 輪 中 は、この破堤で濁流の海と化しま した。 その後、再び水災に見舞われな いようにと、決壊箇所近くに小祠 を祀りました。当初、小祠は木造 でしたが、風雨による傷みも加わ り、昭 和 三 〇︵一九五五︶年に 石碑に建て替えられました。石碑 の裏には、当時の氾濫の様子が記 されています。 例祭は決壊のあった九月八日 平田公園の明治29年洪水の 洪水標識 ■参考文献 歴史記録 で、神前に供え物をして、屋形を 立 て 提 灯 を 点 し、ま た 支 柱 を 立 て、両側に紅提灯を二五個ぐらい とも ずつ点しています。 なお、明治二九︵一八九六︶年 の洪水は、明治改修工事で土地を 無くした農民達を完膚なきまで痛 めつけ、故郷を捨てて遠く移住す る決意を迫った洪水でした。 木曽三川 そ ―の治水と利水 ― 国土開発調査会 昭和五八年 郡上八幡町史下巻 郡上八幡町 昭和三六年 岐阜県治水史下巻 岐阜県 昭和五六年 新修大垣市史通史編 大垣市 昭和四三年 山下中二 長島町誌下巻 長島町 昭和五三年 明治二九年高須輪中及び付近大風水害記 大垣市史輪中編 大垣市 平成二〇年 7 決壊守護神 木曽三川下流域︵長島輪中など︶における 輪中に関するいくつかの提案 は自然堤防を利用して耕作地を守る と現在の海岸線寄りのかなり奥で止 えられるものの遺跡の分布から見る 代初期において完成に近づいていっ 水によるものから進み始め、江戸時 靖 輪 中 が い つ 形 成 さ れ た の か は、 ための河川等の水の流入を防いでき 長島輪中の郷 館長 諸戸 種々の説があるものの定まったもの たものと考えられる。 期には大垣あたりの治水が実施され けては頻繁に地震や水害等が起こ しかし慶長年間から慶安年間にか けいあん まっていたらしい。文献からは奈良 この段階において大規模な集落形 ていたようであるし、長島に限って り、長 島 で の 輪 中 の 形 成 に つ い て ちょう た。 ば、木曽三川の土砂が堆積したこと 成が行われ、集約的な農業生産が行 言えば﹁明 月記﹂や﹁東 鑑﹂には荘 は、各大字に集約される産土神の成 その前後に島状の陸地が形成され 進現象が終わったのちには土地 場合によっては、縄文期の海 はまるかはわからない。 し、時代的にはどの時代に当て をあてはめることができない てもこれらの生産地が輪中かどうか 堤防や集落・共同体の側面から考え なくなり、輪中形成の根本的要素の 定義そのものを精査しなければなら 的な意味合いでの輪中の形成が進ん 震以前にも陸地の形成若しくは初現 てしまっている。このため、天正地 で木曽三川の流路そのものが変わっ が内陸部にまで進攻し、翌年の洪水 数メートル沈降したことで、海岸線 れは天正期の地震により濃尾平野が たということには、間違いない。こ なくとも江戸時代初期には形成され 輪中という側面の土地形成は、少 コール新田開発であり、田畑を開発 こ の 場 合 の 集 落 は、土 地 開 発 イ 同時に、集落が形成される。 に関しても、土地形成が完了すると のと考えられるが、これ以降の輪中 時代以前にも輪中は成立していたも が成立したことになる。なお、この は慶安年間となり、この時代に輪中 多いため、一通りの土地形成の完成 三︵一六五〇︶年︶とされることが 立年代が慶安年間︵ほとんどが慶安 あずま かがみ によって丘陵台地の麓に扇状地がで われてきたことは間違いないが、輪 園が開発されている。 ることによって、輪中が形成されて 形成が始まっており、比較的早 でいた地域においても、いったん水 するためのものであるから、当然輪 めい げつ き き、そ の 先 に 半 島 状 の 堆 積 が 始 ま 中が形成されたかどうかは、輪中の いくが、これらの土地形成において い時代から開発が進んでいった 没し、再び土地形成が行われていっ 中内に集落は存在せず、集落は地形 しょう ものと考えられる。その後の弥 たものと考えられる。その時間の経 てん 堤防が人為的に作られたか、もしく 生 期 に お い て は 広 大 な 農 耕 地、 上最も高いところであり、水田とし 研究資料 緯が、天正一四︵一五八六︶年の洪 うぶすなかみ る。 けい は な い。土 地 形 成 の 上 か ら 述 べ れ 1956年(昭和31年)2月13日生ま れ。 関西大学文学部史学科卒業後、三重 県教職員。 平成2年から長島町(当時)の輪中 の郷の建設に関わり、平成5年、輪 中の郷完成とともに輪中の郷職員。 平成19年より現職(館長) 著書:三重県史(輪中に関して)、木 曽川は語る(共著)。その他雑誌等で の著作。 論文:昭和前期の木曽三川下流域 (土木史学会) 8 諸戸 靖 特に水田地帯が形成されたと考 現在の長島輪中 になる。そのため、集落は狭く長い 輪中堤防の天井部分に立地すること ての土地利用が不可能な場所である る。 中が存在していたものと考えられ れ、室町期には一〇輪中以上の小輪 年代のことであり、この あることから、一六五〇 元和年中という記述が 島輪中における輪中の形成を表して 長 嶋 古 今 図 考 記︵図 一︶は、長 ところに、列状に形成されていく。 それぞれの中央部の線が入っている と 殿 名 で 一 輪 中 を 形 成 し て い る が、 形成しており、又木で一輪中、押付 また、西外面と松ヶ島で一輪中を ぶ線は堤防であり、中堤 の小島・高座・平方を結 中となっている。図 二 複合輪中化され、長島輪 時点において長島輪中は も おり、現在の大字程度の小輪中から のは、開発時期の違いからと考えら として長島輪中の上郷と にし ど 数個の大字が集まった複合輪中が合 れる。 にあてはめて を現在の集落 なる。この図 ていることに 集落が立地し く、堤防上に むのではな 南部輪中においては集落を堤防が囲 図 に お い て も 確 認 す る こ と が で き、 これらの七輪中に関しては現在の地 は室町期にまでさかのぼると考えら れ以前の形成となり、場合によって 中で数個の大字が集まったものはそ たのは、元和六年以前であり、その あることから、長島が七輪中となっ 体での一輪中が完成したとの記述が わり、桑名藩松平家によって長島全 に長島藩主が菅沼家から松平家に代 り、正確には元 和六︵一六二〇︶年 慶長年間から元和年間のものであ つまり、この図は江戸時代の初期 い。むしろ長十郎新田付近から揖斐 続堤であったかどうかは定かではな 長島輪中が懸け回しの堤防による連 る。 や排水も分けられてい 組織としても実際の取水 で積み上げられ、共同体 け回し堤防と同じ高さま この堤防は長島輪中の駆 村︶に 隔 て ら れ て い る。 下 郷︵後 の 楠 村 と 長 島 との め 計 で 七 輪 中 と し て 図 化 さ れ て い る。 み る と 西 川、 れる。実際に、これらの集落からは 川に向かって排水していたことは確 げん な 中 川、小 島、 山茶碗等の出土が見られ、室町期の かであり、現在の長島の排水系統も 図 二は、上記の長嶋古今図考記 に書かれているもので、 縦横の流れ所を築き留め長嶋一曲 輪になさしめたまう とあり、長島全体を一輪中に築き 留めたときの図である。 長島輪中の取水はこの場所から行わ ことができるが、昭和四〇年代まで がめぐらされていることを見て取る 実際に新所から上郷全体に用水路 しんしょ 統で行われていたと考えられる。 とから、取水と排水も同じような系 しかし、この時点での 間々、高 座等 集落跡である可能性は非常に高いの ほとんどその時の姿を伝えているこ こう ざ の旧楠村の集 である。 立地している ことになる が、それぞれ は独立した輪 中を形成して いたと考えら − 研究資料 れており、上郷の排水も平方の北と 千 倉 の 間 か ら 行 わ れ て い た。 ︵現 在 の 排 水 機 場 も ほ ぼ 同 じ 場 所 に あ る︶ 江戸時代中期に書かれた長島細布に よれば、 当村西新田というは。答えて、寛 永二丑年開発する也。前には起畑河 田にして堤なし。然るに同年枚方村 農夫開発し西新田と号する也。定勝 君兼領の後、堤をこわすなり。 とあり、平方村の西には堤防が築 かれなかったと考えられる。 9 図−2 − − 落は堤防上に 図−1 図3 八開地区遺跡分布図 れる。 の右突き当りが揖斐川堤防と考えら 上郷と下郷を分ける中堤である。そ 方、左右に延びている線が、上記の は図の右側が揖斐川である。図の下 中央部に位置し、この時代において れた平方村絵図である。長島輪中の 図 三は、明治時代の初めに描か が作られている。 ている。その集落の隣には再び堀田 で神社を中心とした集落が形成され 作られている。そして、堀田を挟ん られ、大量の水を必要としない畑が 然堤防上に数件の家が連続して建て 順に見ていくと、揖斐川に面した自 かは判明しないが、平方村は西から てこの集落ではほとんどの家に水屋 通り抜けるようになっていた。そし 放して、増水した川水が家屋の中を この時には、家屋の戸をすべて開け に な る と 家 屋 へ の 浸 水 が 始 ま る が、 を食い止めていたが、遊水池が満水 部分が遊水地となり、家屋への浸水 る。揖斐川の水位が上昇すると堀田 舟がつながれていた。そして、浸水 どこの家にも舟があり、玄関先には 移 動 の 手 段 と し て も 使 わ れ た た め、 た。このため舟が運搬ばかりでなく 屋敷から直接舟で行くことができ われ、場合によっては揖斐川までも とから、屋敷と田へは舟が移動で使 その地域全域の高低差がなかったこ 集落形成順から考えると、図の中 時には水屋の大きな木は、貴重な舟 央部の集落が揖斐川の自然堤防上に 因みに家屋を川水が通り抜ける このようなことから、明治改修以 が あ り、家 屋 が 浸 水 し て い る 間 は、 この図からは、江戸期にはすでに 形成されることで、東の堀田が作ら 為、家 屋 の 周 り に は 屋 敷 林 が あ り、 前の長島輪中の平方村には揖斐川に をつなぎとめる働きもしたために舟 堀田が形成されていること、また意 れる。その形成が終わると、新たに 流木等が当たらないようになってお 対しての連続堤はなく、また、石垣 水屋で避難生活を送っていた。 図的に揖斐川堤防が一部しか描かれ 西に自然堤防ができることによっ り、冬季には防風林の役割も果たし を積んだ家もほとんど存在しなかっ くしていき、長島輪中の中ではわず 然堤防を突き崩して宅地の面積を広 を受けることがなくなったため、自 よって、揖斐川の川水の直接の影響 西の列状の集落が形成されることに われたことにより大きな木が植えら ていた。特に水屋には多くの土が使 め、この屋敷林は大切に守られてき ほとんどの農機具も自家製であるた と も 日 常 生 活 に お い て 重 要 で あ り、 なお、当時は薪や柴を確保するこ ︵西 洋 治 水︶が 行 わ れ る こ と で、連 川が分流されると同時に、近代治水 この後、明治改修によって木曽三 習慣もなかったといえる。 なく、軒先や水屋に舟をあげておく う概念もなかったため、避難場所も た。また、浸水時に避難をするとい つなぎの木とも呼ばれていた。 ていないのか、あるいはなかったの て、列状の集落が形成され、その間 ていた。 図−3 に堀田が作られた。中央部の集落は かにしかない列ではなく、面に広が れており、この木から得られた薪は いり る集落形成が進んでいった。 ことは、揖斐川からすべての屋敷に ためには、この地域においては、石 このように屋敷林を形成していく 防に関しての概念も変わり、現在の ることで、輪中そのものの概念や堤 ことができるような樋門や樋管とな 続堤が形成され、圦が水圧に耐える 水路が続いていることにある。つま 垣ではなく、ほとんどが土盛りであ ような堤防によって住空間と河川と 正月などの慶事に使われた。 り、直接他地域から、舟で運搬移動 り、土砂の採取は揖斐川からの私的 の仕切りが作られて、浸水する水防 しかし、この図の最も特筆すべき ができたということである。 な浚渫によって賄われてきたのであ 明治時代になっても連続堤ではな た。 から堤を守る水防へと変わっていっ 集落の周りが堀田であったことや る。 く、輪中内の水路の水位と揖斐川の 水位が同じであるということにな 研究資料 10 − ︵高山市朝日町︶ 美女と惣左衛門 『KISSO』Vol.93 平成27年1月発行 村はずれに惣左衛門という腕のいい猟師が 住んでおりました。 sendouhi@dream.ocn.ne.jp あ る 朝、池 の ほ と り で 獲 物 を 待 ち か ま え て い る と、霧 の 中 か ら 眼 も さ め ん ば か りの美女が姿を現しました。 美 女 は﹁私 は 村 の 人 と 初 め て お 会 い し ました。これも何かの縁でしょう。﹂とい い、二 人 は 夫 婦 と な り ま し た。こ の 時、 女 は、自 分 の こ と は、誰 に も 話 さ な い よ う惣左衛門に約束させました。 や が て、二 人 の 間 に 子 供 が 生 ま れ、年 を 重 ねていきましたが、女はいっこうに老いることがなく、美しい容 姿 に 変 化 が あ り ま せ ん。い っ ぽ う、惣 左 衛 門 は 齢 を と る ほ ど に、 これまでの出来事を人に知ってもらいたいと思うようになってき ました。 日増しに膨らむ思いをこらえきれず、ある日とうとう、一部始 終を村人に話してしまいました。その夜のこと、惣左衛門が家に 戻ると、女は大蛇の姿になって子供とともに池に身を投じました。 すると、池の水がいっきに溢れて洪水となって村のほうへ流れ だしました。惣左衛門が必死で水をくいとめようと思った瞬間、 その姿は大きな蛙の形の岩に変じて濁流に呑まれていきました。 洪 水 が 流 れ 込 ん だ 川 の 底 に は、今 も 蛙 の 形 を し た 大 き な 岩 が どっしりと座っているそうです。 歴史記録は、前号より「木曽三川下 流域の豪雨災害」について、2回に渡 り連載しました。 なお、この資料は、創刊号からの全 てが木曽川下流河川事務所ホームペー ジよりダウンロードできます。 表紙写真 上 「秋神貯水池」(ダム堤体側から上流を望む) 旧朝日村の中央を横断する国道 361 号を東に進み 秋神トンネルを抜けると、右手に秋神ダムの貯水池が 広がります。写真の奥の建物は中電の管理所で敷地内 に「ふるさとの森」記念公園が整備されています。 下 「飛騨川」(旧久々野町小屋名) 朝日・秋神ダムが出来たことで、下流の飛騨川は水 量が減り、風景はもとより、人々の暮らしと川の関わ りもずいぶん変わったと云われています。
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