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 デジタル世代のための テクノロジーアートとしての 映画/映像史サバイバル講座 ~ラスコーの洞窟からゴダールまで~ 角田 亮 ryotnd@gmail.com 目次 Part.1 映画史100余年、創造的破壊のためのレッスン はじめに わたしのプロフィール プロシューマーの時代が訪れる クリエ
イティブは二十一世紀の産業 映画は自由になりたがっている 次世代の映画
は誰が作るか 技術と技法の映画史を知る意味 テクニックとスキルの問題 アルチザンとアーティスト 新しい教科書、サバイバルハンドブック 「秘密
の知識」が教えるもの ヌーヴェルヴァーグと印象派 80年代映画ビデオ革命
が語りかけるもの フィルムからデジタルへ、無限の可能性 Part2 第1部 そして映画はゼロ年に至る 技術と技法の見えない映画史 リバースエンジニアリングの手法を使う 映像
から映画への連続性 聖と俗のまなざし 魔法の幻灯機、マジックランタン ス
ペクタクル(見世物)と万国博覧会 写真から映画へ トーマス・エジソンと
スティーブ・ジョブズ リュミエール兄弟のスマホ=シネマトグラフ テクノ
ロジー・イノベーションの臨界点 テクノロジー主体のアートの宿命​
Part2 第2部 われらが内なるハリウッド サイレント映画の美学 ビジネスとしての映画の完成 イメージコントロール
の帝国​
Part3 ヒッチコック/ウェルズ​
煉獄の中の自由あるいは生き残るためのレッスン 見えない映画のサイクル ハリウッドは夢のブラック企業か 二人の天才、変化し続けるスタイル 運命
のライバル サスペンス映画の巨匠 自由からの逃走 子どもが喜ぶ大きな機
関車 ハリウッド映画の本質を暴き出した『市民ケーン』 ハリウッドの実験
映画作家 国際自主映画作家 規格外のB級映画、『黒い罠』と『サイコ』 テクノロジーとテクニックで制約を越える 映画史上の最高のオープニングシー
ン 早すぎた未来の傑作映画 シャワーシーンの作者は誰か 新しい時代の
預言者としての映画作家 天才の晩年 Part4 七〇年代アメリカン・ニューウェーブとアーティストスタイル ソフトウェアでハードの限界を超える 見えない映画のサイクル 絢爛豪華、
テクニカラーの時代 ヨーロッパからの波 テレビ電波という波 クロサワ
ショック 世代交代、アルチザンからアーティストへ 汚しと反逆者 ニューカラー派の勃興 光と色彩で描く 完璧主義のニューヨーカー 孤高
の技術者キューブリック 自然光のパレット 堕ちたアーティスト ルーカ
スの逆襲 世界で共鳴し始めるアーティストたち Part5 ニホン映画TVビデオ史考 見えない映画のサイクル 伝説から真実へ 日本が世界に誇る撮影監督、宮川
一夫 巨匠たちとの共同作業 黒沢明 溝口健二 小津安二郎 市川崑 黒沢明
ふたたび テレビの考古学 ライブからパッケージへ テレビと日本映画 テレビマンユニオンと状況論 ENG革命 8ミリ映画ブーム 消え行く境
界線 『お葬式』以前と以後 ハイビジョンとマルチメディア Vシネからデ
ジタルビデオへ 融合するテクノロジー Part6 ジャン=リュック・ゴダール 映画ビデオ技術の宇宙誌 映画史と映画誌 見えない映画のサイクル ゴダール伝説による時代区分 ゴダールを再定義する 五〇年代、暗闇での映画作り 六〇年代、映画技術と
技法の実験 七〇年代 テレビとビデオの実験 辺境とスタジオ経営 ア
メリカ大陸への亡命 音と画の考察 あるカメラの物語と複数の映画史 九
〇年代、インターネットとデジタルの実験 映画は自由になりたがっている Part.1 映画史100余年、創造的破壊のためのレッスン はじめに この数年で映画を取り巻く環境は激変しています。すでに映画館の95%がデジタル上映化
されて、フジフイルムやコダックといった製造メーカーがフィルムの製造を中止する。特に
コダック社については、一時は倒産するという驚くニュースが飛び込んできたりしました。
この動きに対してスティーブン・スピルバーグやクエンティン・タランティーノはフィルム
で撮り続けることを宣言していますが、映画=フィルムの時代は終わろうとしています。そ
の一方でジェイムズ・キャメロンやピーター・ジャクソン、そしてジャン=リュック・ゴ
ダールは果敢にデジタルテクノロジーに挑戦しています。わたしはこの流れはある意味必然
の流れだと考えています。 「映画はテクノロジーと共に変化してきたアートだ」というのが基本的なスタンスです。
どんなに天才的な映画作家が新しいテクノロジーに不平不満を持っていたとしても、それま
でのルールは一瞬にして改変されてしまいます。だから映画のテクノロジーを知ることは、
観客にとっても鑑賞の新たな発見や手助けになり、クリエーターが自分の作品を創造する際
の手がかりにもなるはずです。このようなことをツイッターでつぶやいていたら、映画コ
ミュニティサイト・キネアティックの橋本さんから興味あるのでまとめてネットで話してみ
ないかというお誘いをいただきました。そこでこれまで長年に渡って集めてきた資料や情報
を基に映画とテクノロジーの関係を具体的な考察を交えて連続講座にしてみました。それが
一年にわたり6回に分けてUstreamで放送した「デジタルシネマ・サバイバル・ハンドブッ
ク」です。本書はこれを再編集したものです。さらにこれに日々更新される最新の情報を付
け加えています。 第1回は、映画がフィルムからデジタルに変わった理由についてを、映画だけではなく社
会状況を含め歴史の必然として位置付けます。 第2回は、デジタルになると映画はこれまでの単一のフォーマットから離れてヴィジュア
ルアートと融合していきます。これを映画と映像は別のものだからと考えずに、映画が発明
された1895年以前の時代の映像表現から見直しながら映画の未来像を考察する。さらに映
画の代名詞である「ハリウッド」についてテクノロジーとの関わりから考えていきます。一
体、映画=ハリウッドの固定観念はどこから来るのか。 第3回はハリウッドと呼ばれる世界最高の品質を保証している映画の工場で、最高の映画
作家=アーティストが仕事をすると何が起きるのか。誰でも知っているアルフレッド・ヒッ
チコックとオーソン・ウェルズというふたりの天才がほぼ同時期に監督した低予算モノクロ
映画、『黒い罠』(58)と『サイコ』(60)を取り上げて、彼らがテクノロジーを駆使し
て独創的に「映画」を更新していった様子を見ていきます。 第4回は、1970年代のハリウッド起こった名作映画の裏側に迫ります。『ゴッドファー
ザー』『ジョーズ』『スターウォーズ』など現在でも何度も話題になる映画が突然大量に出
てきました。ここには映画を変革したテクノロジーの発展がありました。 第5回はヴィデオとテレビという映画以外の映像表現が1980年代に台頭してきた理由を
取り上げます。そこには日本という電子立国と柔軟な思考を持ったクリエーターの姿があり
ました。 第6回は天才映画作家として登場して未だに留まることのないジャン=リュック・ゴダー
ルを取り上げます。彼がいかに映画/映像とテクノロジーの関係を考察しながら実践し続け
ているのかその足跡を辿ります。 ひとつお断りしておきたいのは、この講座では「誰が最初に発見してはじめたのか」はあ
まり重視していません。それよりもその新しいテクノロジーを導入して、誰も気づかなかっ
た新たな映画のスタイルをどのようにして築き上げた人々とその格闘する姿を紹介します。
誰が最初に手持ちカメラを使ったかではなく、それが映画のスタイルとして定着するために
何が必要だったのか、あるいはそれまでなぜ広まらなかったのかを考えるほうが重要なので
す。その視点が無いと新しいテクノロジーが現れるたびに、人間が振り回されるだけになっ
てしまうからです。しかもデジタルテクノロジーを使った技法は簡単に模倣されます。そし
てネットがこれだけ発展していると、昨日南アフリカの片隅で見つけられた技法が、あっと
いう間に世界中に広まり消費されて廃れていきます。最新の流行を追いかけることは大切で
すが、それに乗せられて本質を見失ってはならないと思います。デジタルのヴィジュアル
アートと映画をテクノロジーを介してつなぐことで、批評教育とはちがう新たな歴史の発見
や創作・鑑賞のヒントを得ることができると考えています。 なぜ映画のテクノロジーに興味を抱くようになったか まず、この話しているこのわたしが何者でどうしてこんなことを書くことができるのか、
を最初に説明しないとわからないと思いますので、プロフィールから説明しましょう。東京
オリンピックの前年の1963年神奈川県川崎市生まれで50歳になります。子供の頃からテレ
ビが好きでドラマにしてもアニメや特撮にしても普通に見ていました。小学校6年生のとき
に『ダーティ・ハリー』(71)を映画館じゃなくでお茶の間の小さなテレビで最初の銀行強
盗のシーンを見て、「ああこれはすごいなあ、映画ってすごい」と心底驚いて、そこから少
しずつ映画にはまっていきました。 その頃はロードショー館はたまに行きますが、その他に名画座というより二番館、三番館
という映画館のランクがありました。まず都心にロードショー館があって興行が終わってす
ぐに、そこから離れた地方の映画館、私は中央線の国立(くにたち)というところに住んで
いてその隣に立川(たちかわ)があって、今は垢抜けた街でアニメの聖地になっていますが
当時は米軍基地のある片田舎です。そこにある小さな映画館の二番館に下りてきて二本立て
になるんですよ。ロードショー一本のお金で洋画がニ本見られるわけですよ。あるいは名画
座の二本立て三本立てのプログラムを見る。三番館は二番館と同じようなプログラムをさら
に安く見られるといった感じでした。 そして15歳くらいのときに『未知との遭遇』という映画を銀座にある有楽座という映画館
で70ミリの巨大な画面で見て圧倒されました。パンフレットを何度も読み返してその映画の
監督がスティーブン・スピルバーグでそのとき29歳と知ってあまりの若さにびっくりしまし
た。それでどうやって映画監督になったのかを調べると、彼は最初8ミリ映画から入ったん
ですよね。そのあとに16ミリ、テレビムービーの『激突!』でデビューして、そのあと
『ジョーズ』、『未知との遭遇』と続く。8ミリからはじめて助監督経験のない若者が映画
監督になってすごい映画をつくったのが、自分の価値観が変わってしまうほど衝撃的でし
た。そこからバイトでお金を貯めて8ミリカメラを買って映画づくりをはじめてみた。8ミ
リはフィルムの値段と現像費を合わせると3000円くらいになってしまう。だから1本200秒
をどう撮るかをやり繰りしていくうちに、カメラをどこにおいてどう編集でつないだらよい
のかを考えていくうちに、「映画は技術とか技法で映画はできている」と少しずつ分かって
来て、ただなんとなく映画を楽しみで見るだけではなく、どのように撮られているかに気を
つけて見るようになりました。 その時には資料はほとんどなく、キネマ旬報や雑誌スクリーンを仔細に読んで映画の撮影
ルポや業界用語を探しては記憶に残していました。ハリウッドでは照明マンのことをベスト
ボーイと呼び、クレーンなどの特機係はガファーと呼ぶことを知ったのもこの辺りです。あ
とは「ヒッチコック/トリュフォー映画術」を読んでまだビデオが普及する前なので頭の中
でどんな映画なのだろうかと日々妄想したり、トリュフォー監督の『映画に愛を込めて ア
メリカの夜』からも映画作りの影響を受けました。 その後、大学で映画サークルに入るとそのサークルはマニアックな人が多かったので、ほ
とんど授業に出ずに映画を撮影するか、映画を見るか、映画について喋るかをして過ごして
いました。その時にある先輩に言われていまでも覚えているのが、「8ミリだろうが35ミリ
だろうが映画は映画だ。撮り方も基本的には同じだ。だから8ミリでもちゃんと映画を作れ
ば35ミリでも通じる」という言葉です。そうやってのちに映画監督になった人も何人かいま
す。その人たちがピンク映画やにっかつロマンポルノでデビューした撮影を手伝ったり、16
ミリ自主映画の助監督をしたりと、アマチュアながらも映画の現場で何が行われているかを
経験してきました。 そのあと何故かアニメの現場にも入りまして、コンテの切り方、どうやって仕上げるのか
を間近で見てきました。そしてテレビ制作会社でアシスタントディレクターからはじめて、
ドキュメンタリー、情報バラエティ、こども番組、博物館映像のプロデュースや演出をして
来て、たまたま文化映画35ミリの製作をするので、2年くらいロケ100日の現場の仕切りを
担当して結構な額の製作費を扱って胃がキリキリする経験をしましたが、シナリオハンティ
ングから納品・上映までひと通り全部携わりましたので、今もその辺りの知識が役になって
いますね。そういう経験をして映画について考えてきた時に最後に現れたのがアップル社の
マッキントッシュだったんです。 当時、マッキントッシュの価格が劇的に下がってビデオをパソコンで扱える機種、
Centris660AVを購入しました。CD­ROMの出始めるころですから1995年くらいですか。
QuickTimeプレーヤーの画面にすごく小さな粗い映像がカクカク動くのを見て、何が映って
いるのかよくわからなかったけれど、最初に見た瞬間に「あっ、映画はすべてこれになるん
じゃないのか!」と思いました。そこからコンピュータで映画を作るにはどうしたら良いの
か、技術はどうなっているのかずっと調べてきた。同僚やまわりの人からは「あんな、おも
ちゃじゃテレビに敵うはずない」とずっとバカにされましたね。だからいまのデジタルや
3Dに対する拒否反応を見てもまたかと思うだけです。 デジタルで映画が作れる時代になって、ここまで来るのにものすごく時間がかかったなと
いう気もします。これまで映画とテレビの両方をやってきているので、映画とテレビのアナ
ログとビデオのデジタルまで、色んなことを器用貧乏にやってきているので、映画を製作し
ていく上で技術って本当に重要だというのは実感として間違いないと思います。しかし、こ
のようなことを書いている本や情報がほとんどない、海外の書籍やネットくらいです。日本
では技術者のための技術書にしかなっていません。今は技術とアートを結ぶ線がほとんど見
つからないまま、見様見真似で現場が動いてコンテンツが次々と生まれているように思えま
す。 プロシューマーの時代が訪れる 映画がデジタルになると何が変わるかというと、これまでの映画の歴史は100余年で1
895年に始まり、サイレントからトーキーへ、スタンダードサイズの画面からワイドスク
リーンへ、テレビとビデオの登場、そしてデジタル化というところまで来ました。私は映画
のデジタル化を考える時に、二つの現象が起きていると思っています。ひとつはあまり馴染
みのない言葉かもしれませんが、「プロシューマー」(生産消費者)の登場です。プロはプ
ロデューサーで製作者、シューマーはコンシューマーで消費者のふたつを合わせた造語で
す。これまではプロだけが映画を作る側であって、アマチュアは観客としてあるいは批評家
として鑑賞する側と分かれていましたが、デジタル化の技術によって誰もが生産者になるこ
とができる。デジタル一眼レフカメラを使うと昔のハンディカムビデオの時には考えられな
いような高画質の映像が誰でも簡単に撮れる。映画のキャメラやプロの業務用ビデオカメラ
いわゆるベーカムのカメラが1000万円以上したものと同レベルの画質がデジタル一眼レフ
は十万円くらいで手に入るようになった。これを価格破壊あるいは映画製作の民主化、チー
プ革命であり、これまでのプロとアマの境界線が消えていく。 昔はプロの専用の高い機材を扱えるのがプロであった、それがアマチュアでも同じような
ことができるようになったということが色んな産業で起きています。かつて自動車は高級品
であり道路も整備されていない時代には自動車の運転手という職業がありました。彼らは運
転技術だけでなく整備士を兼ねていましたが、それが今ではオートマ車で誰でも運転できる
しJAFや整備工場もある。カーナビで道を知らなくても目的地に到着できる。そういう技術
の大衆化というのが様々な場面で起きるというのが産業の発展の特徴で、特にデジタルに
なって、カメラのハードウェアの部分だけではなくて、これまでのフィルムの部分がソフト
ウェアの技術革新で置き換えられるようになったというのも大きいです。 この「プロシューマー」は、最初にアメリカの未来学者のアルビン・トフラーが提唱しま
した。彼が書いた「富の未来」はデジタル革命だけじゃなくて、グローバル化を含めて現在
何が起きていているかそしてこれから何が起こるかについて予測している本なのでぜひお読
み下さい。アルビン・トフラーは80年代に情報化時代ということを言い出しているのです。
昔は情報がお金になるというのは考えられなかった時代が長く続いていたのですが、情報化
産業が現われるというのを「第三の波」「パワーシフト」の二冊で描きました。モノではな
く情報コンテンツを作ることで次の産業が生まれることを示唆しているのです。トフラーは
隣国、韓国のキム・テジュン大統領のために発展計画を立案して韓国はコンテンツ立国を目
指して、その成果が韓流ドラマ、K­POP、韓国映画の興隆だということを指摘しておきま
す。デジタル革命、チープ革命、コンテンツ産業はリンクしているのです。 クリエイティブは二十一世紀の産業 これは世界的な潮流で、イギリスでもクリエイティブ産業を重要な産業として位置づけ
て、コンテンツの若年教育から製作補助まで国家事業として進めています。二十世紀の自動
車産業やサービス業と同じように、国のGDP(国内総生産)に貢献する次の産業として考え
ているのです。それは今回のロンドンオリンピックの開会式と閉会式を見るとおわかりいた
だけるでしょう。特に開会式では『トレインスポッティング』で人気を得て『スラムドッ
グ・ミリオネア』でアカデミー賞を獲得したダニー・ボイルによる演出で、イギリスの映
画、音楽、演劇の世界中の誰でも知っている顔、007、モンティ・パイソン、ミスタービー
ンまで参加しました。インターネットの父まで出ていましたね、閉会式でもイギリスの音楽
産業のスターたちがこれでもかというくらい派手に登場しました。全世界にイギリスはこれ
だけのコンテンツを持っているとアピールする恰好の場になりました。映画の政策を見て
も、BFI(イギリス映画協会)は、映画製作資金の補助、クリエータ養成教育、国民が誰で
も映画を鑑賞できるネット・サービス、映画祭開催を国家レベルで進めています。その一方
では、デジタルになると製作拠点は世界中どこでも可能になります。それがロケ地誘致と税
制優遇と一体となっているために、ハリウッドでは雇用が減り、人材がイギリスやカナダ、
あるいはシンガポール、ドバイまで流れ出しているのが現状です。 映画は自由になりたがっている 映画は第七芸術と言われています。これまでの時間の芸術(音楽,詩,舞踊)と空間の芸術
(建築,彫刻,絵画)を経て、それが統合できる七番目のアートが映画になると言えます。そ
して映画がデジタル化すると何が起こるのか。ある評論家の方が語っていましたが、これま
でのすべての芸術は映画に集約されるが、これからのアートやエンタメは映画からはじまる
ことになるだろう。これは正論ではないかと思います。デジタルになりこれまでは映画とテ
レビしかなかったフォーマットがネットと融合してどこまでも表現の可能性が広がっていま
す。これは、「映画は自由になりたがっている」といえるのではないでしょうか。 映画は基本的に35ミリフィルムでした。それがデジタルになると映画だけではなくテレビ
ビデオ映像を含めてこれまでとはフォーマットが変わってきています。まず画面の解像度の
進化です。デジタルシネマは2Kまたは4Kの解像度がフォーマットとして定められていま
す。また現在の地上波デジタル放送のHDを超える、4KまたはウルトラHDというフォーマッ
トが登場してきました。すでにそれを越える8KウルトラハイビジョンがNHK技術研究所で
開発されてソチオリンピックの放送に導入されました。世界の放送規格で決められて次の東
京オリンピックの時に使われる予定。4Kも総務省が導入の前倒しを検討していますがどう
なることでしょうか。 そしてお馴染みの3D映像も画質や明るさが改善され変わりつつあります。そして48P、
HFR(ハイフレームレート)と呼ばれるコマ数を増やす方式です。映画は基本的に24コマ、
テレビは30コマ(フレーム)です。それを増やせばもっとリアルに見える、映写機を48個
まで回すのが不可能だったのが、デジタル化によってソフトウェア的に実現可能になった。
それが劇映画に導入されたのが『ホビット 思いがけない冒険』(12)です。ただテレビの
見えかたに近くなるので、映画に慣れた観客には違和感を感じることになるようですね。ド
ラマでもアメリカの場合はずっと35ミリフィルムで撮るというのが定番で映画っぽく見せる
方法。日本でも16ミリだったのがもうすべてビデオになってしまった。これも慣れの問題は
あると思いますが、『ホビット 思いがけない冒険』は48pが目立たないようにカットを短
く編集されていた。素早く動くとドリフのコントのようになってしまう。もう一つはIMAX
スクリーンが最近増えています。横長でテレビに対抗するよりも、人間の視野一杯に画面を
拡げてリアルに迫力を感じさせることができます。 音響もドルビーがアトモスフェアというより臨場感のあるシステムを開発しています。韓
国では3つのスクリーンを使って視野270度をカバーするスクリーンを使った映画が作られ
たりして、今のところはフォーマットが混在していて何がベストかという実験が進んでいて
模索状態です。 次世代の映画は誰が作るか ではデジタルの時代に現れる次のエンタメとアートはなにか。基本的には映画の次の段階
では何が起こるのだろうか。現在考えられるのはマンガ、ゲーム、CGという別分野からの
人材が参入していくことがあると思います。実際、映画監督のデヴィッド・リンチ、デ
ヴィッド・フィンチャー、ティム・バートン、ソフィア・コッポラ、ハーモニー・コリン。
彼らはアート系のエンタメが好きなそれほど映画好きではない人に聞くとだいたいこのあた
りの名前が出てくるんですよね。この人たちはいまは映画製作を主な表現の舞台にしていま
すが、リンチは元々現代アートから、フィンチャーは『スターウォーズ帝国の逆襲』特撮の
カメラマン助手からMTVでプロモーションビデオ、そしてCM、ティム・バートンは、ディ
ズニーのアニメーター養成学校カルアーツ出身で、ピクサーのジョン・ラセターと同期生
だったりします。そしてディズニー出資の短編映画『フランケン・ウィニー』でデビューし
ます。彼らは昔からのシネフィルが昂じて映画監督になった人とは違う経歴を持っている。
それ以外の周縁の映像アート的なところからやってきている人が好まれるようになってい
る。それを外れ者と見るか新しい映画の先駆者と見るか、少なくとも若者たちに支持されて
いることから新たな潮流を生み出す存在としてこれまでの映画から無視することではないと
思っています。 技術と技法の映画史を知る意味 私は「映画史は技術・技法の連続したサイクルで発展しているのでデジタル化は必然であ
る」と考えます。映画というのはアートやエンタメの中で特に機械が仲介していることが大
きな特徴です。写真もそういう部分もありますけれど、演劇、絵画、小説と比べると技術の
比重が大きい。特に技術が進むことによってそこに何らかの新しい表現が生まれてくる。表
現と技術には密接な関係がある。技術を使いこなすことがイコール技法である、クリエー
ターはその技術の限界に挑戦しながら自分のスタイルを確立していく。そしてまた新しい技
術が生まれて新たな挑戦がはじめる、そのサイクルが映画史なのです。 例えば、ゴダールの現在製作中の新作『言語よさらば 3D』を見ると、もはや彼はかつ
てのように手持ちカメラやプロ用の最新カメラ機材でもなく、アマチュアが使っているデジ
タル一眼レフカメラ、キャノン5DMarkⅡを二台並べて、近所のホームセンターで木材を
買ってきて作ったような3D用のカメラを固定する機材を作って撮影しているような恐ろし
い状況があります。これは3Dが流行っているからゴダールが真似して作っている訳では断
じてありません。これは必然的にゴダールの映画史についての思索の結論から生まれてきた
と考えています。彼は映画の技術と製作の歴史においても常に最先端を走っている人でもあ
るから、作品だけではなく映画史への考察を製作全般を含めて行なっているのです。現在編
集中のフルデジタル3D新作が果たしてどのような映画になっているのか完成が待ち遠しい
です。 テクニックとスキルの問題 「プロシューマーの、プロシューマーによる、プロシューマーのための映画」を見たり
作ったりする時代になると、これまで以上に過去の映画がどのようにできているのかを知る
ことが重要であり、それを知らないとこの先、作る続けていくことが困難になると考えてい
ます。 しかしその時に間違えやすいのは、テクニックとスキルの違いです。プロシューマー時代
以前のプロとアマが明確に分かれていた時代に、一番重要視されていたのはスキルです。
キャメラマンや照明技師になろうとしたら、重い荷物を持って怒られながらこっそりと師匠
からプロの秘伝を盗まないとならなかった。そのために学校で習ったものは、現場で使えな
い否定されて使わせてもらえない。映画だけではなく他の産業の会社でも見ることができる
徒弟制度そのままだった。だからと言ってマニュアルを熟読して、いくら機材を取り扱うス
ピードが速くなるようにスキルを磨いても、テクノロジーは日進月歩で進むので、スキルの
部分はすぐに陳腐化してしまうし、逆に新しい機械の機能に使われてしまうことになる。 アルチザンとアーティスト 機械を扱うだけの技術者ではそのスキルが卓越したものであってもアルチザンになる。
アーティストは機械の開発者の想定した性能の限界をいかに越えてその性能を引き出すか、
それが本当のテクニックだと思います。たとえば70年代のコダックのフィルムが発色が派
手で鮮やかできれいだった。しかし、映画の場合それは絵空事に見えるのでそれを嫌った撮
影監督たちはどのようにして解決したのか。『ディア・ハンター』、『天国の門』のヴィル
モズ・ジグモンドや『地獄の黙示録』のヴィットリオ・ストラーロがいかにして鮮やかさを
殺して汚しのテクニックを使ったか。デヴィッド・フィンチャーが撮影監督のダリウス・コ
ンジと組んで『セヴン』でおこなったような彩度を落とした画作りをしたのです。撮る前の
フィルムに薄く光を当てることで影の部分暗部のコントラストを弱めて、くっきりではなく
よりリアルにみえる画像を作ろうとするフラッシュングというテクニックを開発しました。
ヴィットリオ・ストラーロの撮影したベルトルッチやコッポラの映画を見ると影の部分の
ディテールの豊かさ映像がわかると思います。そのようなことはフィルムメーカーのコダッ
クも推奨しないし、普通現像所も余計な手間がかかり失敗する可能性があるからやりたがら
ないはずです。でもフィルムとカメラの技術を知り抜いたアーティストである撮影監督はそ
れをどうにか自分の表現を作り出したいと思い研究を積み重ねて新たな技法を創り出す。そ
れを知ることでより深く映画を理解することができるし、クリエーターは表現の幅を広げる
ことができる。いうなればDIYの世界でもあります。 これまで映画はハリウッドを中心とした世界共通の規格品として考えている人が多いかも
しれません。しかし料理と同じで、レストランに行って評判のメニューを食べて、おいし
かったねと言って、また次の店に行くんじゃなくて、この料理はどんな素材を使っている
か、どんな風な調理をしているか盛り付けをしているかを知り、じゃあウチで再現してみよ
うかとなることと同じだと思います。そういうプロシューマーの楽しみ方が映画でも起きて
くるのだと考えています。 新しい教科書、サバイバルハンドブック ここまで時代が新しく変わってきても、相変わらずこれをどのように調べるまたは勉強し
ようと思っても、プロとアマが分かれている時代と変わらずに、批評や映画の紹介者からの
視点では映画の現場まで入れていないから、この監督はスゴい、監督が全部やってしまうと
いった、どっかの偉い人がどこかで何かをやってしまった。新しい作家を発見してしまった
となる。だからまた新しい人が古い教科書を読んでタルコフスキーは作家だから長回しで、
スゴいんだから作家として覚えなきゃいけない、他の映画の長回しを見てもタルコフスキー
の影響があるに違いないと言うようになってしまう。もうそれは古い時代なのかなと思う。
タルコフスキーについてメイキングなどたくさんYouTubeで見られるので、そういうのを見
ると全然違う世界があるのだということがわかると思います。 ではプロシューマーの時代になったらどんな教科書があったらいいのか、それはもう教科
書ではなくて、この講座のタイトルのようなサバイバルハンドブックと思います。昔のよう
にそれを丸暗記すればどこかに答えがあってたどり着くことができるのではなく、どこにた
どり着くかわからないけれど、目の前にある難関を乗り越えるヒントや知恵が書いてある。
それをどうやって使いながら自分たちの手でどうやって生き抜くか。そのためにはありとあ
らゆるものを使おう、手が尽きてお手上げにならないようにする、一方向からだけ見るので
はなく、あらゆる方向から縦断して横断する。そういう知恵と考え方が載っている本です。 「秘密の知識」が教えるもの 東大生の必読書として少し前に話題になった、ジャレッド・ダイアモンドの「銃・病原
菌・鉄」という本があります。いままでの古い教科書的な西洋人の目線や発見による世界史
ではなくて、銃、病原菌、鉄という個別の事象やテクノロジーから世界史を読み解いていく
本なので、それに近いやり方をするのが良いのかなと思いました。映画の場合それと同じよ
うに考えてみると2000年ころにデヴィッド・ホックニーというイギリスの現代画アーティ
ストが「秘密の知識」を書いています。どういう内容の本かというと、いわゆる映画の作家
主義ではないですけれど、有名な画家たちは天才的な腕を持っていたのでリアルな絵画を書
くことができたのだという神話というか常識を、ホックニーは、いや彼らはカメラオブス
キュラというような光学機器を利用して、模写じゃないですが、レンズを通して映し出され
た輪郭線をなぞってデッサンをしてリアルで正確な画像を得ていたのではないかという説を
持ちだして絵画の批評界を巻き込んでの議論に発展した。カメラ・オブスクラの仕組みは昔
から画家たちはわかっていたのではないかと思います。それを実証するためにホックニーは
ヨーロッパで描かれてきた肖像画を何十枚もプリントアウトして歴史の古い順から左から右
へと並べました。、万里の長城になぞらえて彼はグレートウォールと名づけたのですが、古
代から見て1450年代になると、それまでやたら昔のフレスコ画の平面的な二次元的な表現
だったのが、その時期を境にやたらリアルになった。ここでたぶん、レンズを使った模写が
はじまったんだろうと推測している。 これはクリエーターならではの視点なんだと思うのです。ホックニーが言うのは、批評家
的あるいは出来上がった絵画だけを見ていると、天才的な画家が天賦の才能で技法を使って
すばらしい絵を描いたで終わるのですが、ホックニー的な見方をするとそこになんらかのテ
クノロジーや光学的な装置を使ったのではないかと、彼は絵画の歴史ではなく描き方の歴史
に興味があったからこれに気づくことができたと書いています。これが発表された当時は非
難ごうごうだったのですが、今では多少文献が出てきて実証されたりして、状況はかなり変
わって来た。もちろんフェルメールやカラバッジオもたぶん使っていたのではないかという
推測が出てきていますし、現在ではいくつかの美術館がそのような光学装置を使って画家が
描いたと説明してるビデオをネットで見ることができる。技術の欲望としては、たぶん画家
がレンズを使ってよりリアルに世界が見えて再現することが可能ならば、技法として使いた
くなるのは当たり前の世界だと思う。ただ批評家の視線からいうとそれは絵画を冒涜してい
ると考えるだろう。しかし彼らには技法の秘密がわからないし見えない世界だと思う。 ヌーヴェルヴァーグと印象派 同じように考えると、絵画と映画のヌーヴェルヴァーグという全然違う世界の話ですが、
じつはこれも似ている部分がありまして、ヌーヴェルヴァーグのほうからいいますと1950
年代の終わりにフランスで始まった映画の革命だといわれていますが、ここでヌーヴェル
ヴァーグを可能にしたというのがいくつかありまして、ひとつは軽くなったカメラ、『勝手
にしやがれ』でカメフレックスというサイレントカメラ、モーターの音が大きいので同時録
音ができずアフレコになる。あるいは暗いところでも映るようになった高感度のフィルムで
照明ライトは少なくなったし、自然光で撮れるようになったことが挙げられます。 一方絵画の印象派でも同じようなことがいえます。チューブ型の絵の具が1840年に発明
されたといわれています。それまでは顔料を調合して作っていた。画家である親方が一人い
て、その弟子たちが絵の具を調合して室内のアトリエで絵を描いた。それがチューブ式で持
ち歩けるようになったから、一人の画家が屋外に出て自然な風景や人々の姿を描けるように
なったというのがあります。これは技術の革命ですよね。もうひとつはカメラの存在です。
時代的には日本で言うと幕末から明治維新のころが、印象派の出てきた時代です。写真で本
物そっくりに写実的なものが撮れるのだから、そっくりに描いても仕方ないじゃないか。先
ほどのカメラオブスクラが写真カメラという新たなテクノロジーの出現でそれまでのスキル
が廃れてしまう。まさにイノベーションのジレンマですね。それだったら次はどのようなも
のを描くのかがその時代のアーティストのテーマとなるわけです。 そこで新しい印象派が現れてくるし、宮廷画家やサロンの画家たちが描いてきた王侯貴族
の肖像画や神話、キリスト教の世界から離れた市井の暮らしが主題になっていく時代にな
り、なにを描くからどのように描くかの時代になって、それが最終的には現代アートまで繋
がってくる。あと印象派に影響を与えたものとして日本の浮世絵があります。西洋とは違っ
たものの見方を貪欲に発見して、それを深めていくうちに新たな表現を見出してきた。これ
はヌーヴェルヴァーグの監督たちがアメリカのB級映画の監督たちの技法から学んで新たな
表現に挑戦したことと呼応していると思います。だから技術・技法から映画史を見ていくだ
けでも、ほかの芸術、今見たように印象派とヌーヴェルヴァーグが通底しているという見方
ができると思います。これがひとつの面白さだと思っています。印象派はナポレオン三世の
時代、ヌーヴェルヴァーグは第五共和制という社会的な状況が揺れ動いた時期に起きた。そ
のあたりも技術・技法と密接な関係にあることもあると言えるでしょう。 だからある時期を境に技術や技法によって表現が一気に変わってしまうということが起き
る。ただ出来上がった作品を名作と言われているから素晴らしいねと鑑賞するだけではな
く、これはどのようにして作られているのか、それを可能にした理由を探り、流れを見るこ
とは重要だと思います。そこに注目することで逆に作家の苦悩や才能を知ることができる。
それをトレースすることによって後世のクリエーターやプロシューマーは過去の作家たちと
対話することができると思います。 80年代映画ビデオ革命が語りかけるもの ヌーヴェル・ヴァーグはあまりにも神格化・伝説化されているので、ここでは1980年代
ニューウェーブと勝手に名づけた違う例を見ていきたいと思います。さて次にあげる6作品
の共通項はなんでしょうか。黒澤明の『影武者』(80)、フランシス・コッポラの『ワン・
フロム・ザ・ハート』、ゴダールの『パッション』、サム・ライミの『死霊のはらわた』、
コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』、ピータージャクソンの『バッド・テイスト』。
『バッドテイスト』は87年ですが、製作に四年かけていますので80年代中頃までの作品た
ちです。この段階において何を見たらよいか、ひとつは映画に対するビデオの存在あるいは
8ミリとか16ミリの小型映画によって映画の作り方のパターンが変わってきたと見えてく
ると思います。 まず『影武者』というよりは、戦国時代の武将、武田信玄を演じるはずの主演の勝新太郎
が降板したという事件を取り上げたいと思います。勝新太郎は黒澤明の作品に出ることを喜
んでいたのですが、自分の演技を見るためにビデオカメラを入れようとして、それが黒澤明
と衝突して降板するという事件が起きました。これはある意味のフレームは誰のものか演技
は誰のものかを考えていくことに繋がります。黒澤明は監督はふたりいらない。カメラは現
場に2台要らないという考えがあって、一方の勝新は自分のために演技を見たいし、独裁を
崩そうという稚気もあったのではないか。いまは現場に録画用カメラどころかモニターが
あって、監督以外の誰でもリアルタイムでカメラに写っているものを見ることができる。皮
肉なことに一方で黒沢は撮影した時にOKかダメかは、カメラが止まったあとに後ろを振り
返ってスタッフの顔を見るとすぐにわかるんだよなと発言していることだ。 コッポラの場合は、前作の『地獄の黙示録』はフィリピンでロケを行って現場がコント
ロールしきれずに何度も中断したり破産したりした。もうロケはいやだから今度は全部スタ
ジオの中でやるとラスベガスのストリップ(通り)をそのまま再現してしまった。これも別
の意味でちょっと困ったなという映画なんですが。彼はサンフランシスコの自分のスタジ
オ、アメリカンゾートロープで製作をする。そのときに彼が全部コントロールしようとして
ビデオを導入するんですよね。最初は撮影もビデオでやりたかったのですが、画質的に無理
があったのでそれはあきらめた。しかしカメラの映像は自分のモニタルームで全部みるとい
うことをはじめました。テレビのサブ(副調整室)と同じですね。この現場には実はゴダー
ルがいました。スタジオの背景のスクリーンプロセス用のスライドを作っていたらしい。よ
く考えてみると『パッション』もあるスタジオで艶やかな絵画の世界をテレビクルーが撮影
するという『ワン・フロム・ザ・ハート』と似たような同じような話です。実は『パッショ
ン』の撮影監督もコッポラやベルトルッチと組んでいたヴィットリオストラーロがおこなう
という話もあった。そのとき『パッションのためのシナリオ』という紙に書くのではなくビ
デオでシナリオをつくることを試みで、何カットか『ワン・フロム・ザ・ハート』のセット
の片隅で撮影クルーを使って撮影している。70年代ゴダール自身、ビデオを使ってテレビ番
組や映画製作の実験を行っている。だからゴダールとコッポラの二人が同じようなことをや
るというのは何の不思議もないわけです。21世紀になって製作されるコッポラの作品はかつ
てのようなハリウッド大作ではなく実験映画的だと言われますが、元々がそういう志向だっ
たわけです。ちなみに『地獄の黙示録』は、最初16ミリでヴェトナムの現地でドキュメンタ
リーとして低予算で撮る予定だった。その企画を考えたのがジョージ・ルーカス。「ビデ
オ」という技術を軸にして見るとコッポラとゴダールは近しい同世代人ということが分かり
さらにルーカスまで新たな視点から見ることができるでしょう。 『パッションのためのシナリオ』はフランスの助成金を受けるためにシナリオを提出しな
いといけない、これが映画を作るのにおかしいではないかと言って映像で作ることにした。
ビデオが現れて映像製作が変わってきた。これが80年代初頭に起きている。じつはこれと
同じことがアメリカでも起きている。サム・ライミが『死霊のはらわた』と『ブラッド・シ
ンプル』です。サム・ライミは『死霊のはらわた』でデビューする前に30分の短編『Within Woods』を8ミリで撮って評判になったので35ミリで撮った。サム・ライミの『死霊のはら
わた』の編集を手伝っていたコーエン兄弟は何をしたかというと、35ミリで3分間の『ブ
ラッド・シンプル』の予告編を作った。存在しない映画の予告編です。このフィルムと映写
機を持って二人はお金持ちのところを回って製作資金を集めた。ゴダールと同じでシナリオ
の文字ではなく、映像で映画に近いもの、いわばプロトタイプを作ってしまった。インディ
ペンデントのやり方も変わってきている。プロとアマの境界線がビデオや小型映画によっ
て、映像によるプレゼンの時代がやってきたといえる。今となってはみんなやっているから
大したアイディアとは思われないが、最初にやった人は画期的です。小型映画やビデオでは
劇映画は作れない。実験映画やニュース、ドキュメンタリーにしか使われないと言われてい
たものをえいやと使ってしまった。同じようにニュージーランドのピーター・ジャクソンも
4年間をかけて、休みのたびにインディーズSFホラー映画をほぼひとりで作ってしまった。
ニュージーランドには映画産業すらなかったが、彼がこの映画を持って世界中の映画祭を
回って認められて何十年後に、再びニュージーランドで『ロード・オブ・ザ・リング』シ
リーズを撮影する。故郷に映画産業まで作ってしまった。しかし予算のスケールが違うだけ
でやっていることは同じという。自主映画の経験が活きている。 同様に日本でもPFFと8ミリブームが重なって新しい世代の映画人が現れる。PFFは世界
でも珍しい応募資格が8ミリでも可能というものだった。いまはビデオが出てきて変わった
が、昔は海外の映画コンテストの参加資格は16ミリか35ミリだった。石井そうごが日活に
呼ばれて『高校大パニック』をリメイクした。現場では撮影所のプロと学生のアマの壁が
あって揉めた。まだプロシューマーの時代ではなかったということ。いまはもっとゆるいで
しょう。そのあと90年代はレンタルビデオ店で映画を学んだクエンティン・タランティーノ
や16ミリで撮った映画を仮編集したVHSビデオがハリウッドで話題になってデビューしたロ
バート・ロドリゲスの時代がやってくる。 同じようなことが同時多発に起こっていることが理解できると思います。これは今までの
映画史では誰も指摘していないと思います。ビデオや小型映画を技術として積極的に使い、
シナリオや予告編を映像にする「技法」を自らの手で駆使することで、これまでの映画の製
作までの手続きや慣習の見えない壁を乗り越えてしまった。技術のフェイズが60年代のヌー
ヴェルヴァーグ、70年代のアメリカンニューシネマとこの80年代の流れと変化しながら発
展していることがわかる。次々と新しい時代に相応しい技術・技法に適応したクリエーター
が現れてくる。その意味において今はデジタル一眼レフカメラが普及しています。そのこと
によって何が起きてきたかというと映画らしい映像が撮れるということと、フィルムと違っ
て撮影時間の制約がなくなりいくらでも廻すことができる。だからいまドキュメンタリー的
な長回しが多い映画が増えてきているとおもう。これが将来フィクションとノンフィクショ
ンが融合するのかそれとも別のベクトル、それこそアニメ、ゲームなどデジタルな形で新た
な表現が生まれてくるのかはわかりません。ただしどちらにせよ、その技術を使いこなし新
しい技法にして普及させることができない限り、表現のレベルはいつまでも立ち止まったま
までしょう。 フィルムからデジタルへ、無限の可能性 ここに35ミリのフィルムがあります。35ミリはフィルムの横幅であり、両側にフィルムを
動かすための穴、パーフォレーションが4つずつ付いています。これは1893年にフィルム
メーカーのコダック社と決めた規格です。フィルム映画ではこのフォーマットは100年以上
変わっていませんでした。 しかし 2002年に『スターウォーズ』のエピソード1〜3でデジタルカメラとデジタル上映
が導入されてから本格的なデジタルの時代がやってきました。現時点でフィルムとデジタル
がどちらが優れているかの議論はナンセンスでしょう。そもそもアナログとデジタルで比較
することは難しく、しかもフィルムは1世紀も先行する歴史がすでにあるのですから。しか
しデジタルはまだまだ進化する余地があることは確かです。それがどのような形になるのか
は誰にもわかりません。現在のスマートフォンはHD画質のムービーを簡単に撮影、編集、
アップロードして公開することが可能です。手のひらに映画製作機材と映画館が乗っている
状態なのです。これこそが映画史119年の総決算といっても良いのではないでしょうか。こ
れからの時代の「映画」とはなにか。当然これまでとは定義が変わるはずです。わたしはそ
れを考えるときに、映画の技術と技法の歴史を遡ることでヒントを探すことができるのでは
ないかと考えています。 最後に、映画監督のロバート・ロドリゲスは「10分間映画監督講座」と称したミニ映画
学校を開いたとっきのエピソードをご紹介します。授業の冒頭で集まった若者たちに向かっ
て「みんなは映画監督になりたいか?」と大声で問いかけます。皆がそうですと答えると即
座にその声を打ち消すように「いや、ちがう、君たちはもうすでに映画監督なんだ!」とロ
ドリゲスは叫びます。彼はジョージ・ルーカスが長年開発に時間をかけて『スターウォーズ
エピソード1』で初めて映画撮影に使ったソニーのデジタルシネマカメラを、そのあとす
ぐに自作の『レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード』でも採用して自らカメラを担い
で撮影しているフットワークの軽さを持っています。そうだから最早映画はカメラを持てば
プロと同じ画質で誰でも撮れるし、映画監督になることができる時代なのです。そのことに
気づいたテクノロジーと遊ぶ次の世代が映画を大きく変えていくはずです。 Part.2 第1部 そして映画はゼロ年に至る 技術と技法の見えない映画史 第2回は二本立てです。まず前半では、映画はリュミエール兄弟が作った1895年に始まる
と言われますが、そこに至るまで映画というのはどのようにして生まれたのかを探っていき
ます。後半は映画の誕生から現在の映画の中心であるハリウッド映画と言うのはどのように
して成立して来たのかを技術・技法の方面から見ていこうと思っています。 先日、『マトリックス』主演男優のキアヌ・リーブスが製作したドキュメンタリー映画
『サイド・バイ・サイド』を見に行きました。この作品はフィルムからデジタルへの移行で
何が起きているのかを簡潔にまとめていますが、1年単位で情報が更新されてこの映画で描
かれていることでさえ古びてしまっていることに驚きます。ピータージャクソン監督の『ホ
ビット』で使われた48コマで上映されるHFR(ハイ・フレーム・レイト)のことなど一切
触れていません。映画の観客やクリエーターは次々と現われる新しいアトラクションに乗り
込んで喜んでいるだけで良いのでしょうか。それはテクノロジーに振り回されて刺激を与え
られているだけではないでしょうか。 映画のデジタル化によって飛躍的に今まで見たことのない映像表現が現われるようになり
ました。しかしこれらは突然現れたわけではありません。実はフィルムからデジタルという
のは映画というメディア特性において必然的に起きたと言えるでしょう。既存の映画批評で
は物語やテーマや作家性あるいは表象的な記号の分析が重視されて、見えないテクノロジー
の部分への洞察が欠けてしまう傾向があるので、すぐにそれは見世物だと考えてしまうので
邪道だとなるのだと思います。しかし技術(テクノロジー)の制約やそれを乗り越えた自由
さが映画独自の技法(テクニック)につながり、それが作家性(スタイル)と関係している
ことは確かです。 リバース・エンジニアリングの手法を使う それでは、映画の技術・技法をどのように見て行ったら良いのか。機材のカタログを熟読
したり技術者に尋ねるのは、余りに専門的でクリエーター寄りの視点になってしまうかと思
います。観客としてあるいはプロシューマーとして映画についてより深く知りたいと思った
ときに、技術・技法まで知ろうとするとマニアック過ぎるではないかと考えてしまうかもし
れません。そのときに考えついたのが、製造業のものづくりの現場で使われている「リバー
ス・エンジニアリング」という創造的批評が役に立つのではないでしょうか。 例えば、カメラメーカーが新しいカメラを開発するときに、ライバル社が優れた製品を出
したとします。そのときにカメラメーカーの技術者たちは、ライバルメーカーの新製品を
買ってきて分解します。バラバラにしながらそのカメラがどういう風にしてできているかを
調べます。その過程でどこが優れているのかその理由を分析・批評する。工程を完成から遡
ることによって、その製品がどのような技術や材料を使いどのようなコンセプトで製品化さ
れたかを知ることができるのです。この手法がリバース・エンジニアリングです。わかりや
すく言うと分解して再び自分なりに組み立てていく作業になります。リバース・エンジニア
リングを映画にも応用できると思います。映画館で作品を見て、ただ面白いなあと受け身で
みたり名作だと圧倒されるだけではなく、見ながらその作品そのシーンがどのようにして成
り立っているかそこにどのような技術や技法が使われているんだろうかを1つ1つ遡って見
ていくことで、映画の深い鑑賞やまたは映画を作る時の参考にできると思います。それはま
たメディア・リテラシーの考え方にもつながると思います。映像の製作者の意図を見抜くと
きに、いったいどのような技術や技法が使われているかを知ることで騙されず鑑賞眼を高め
る。そのときに必要なのが映画の技術・技法の歴史なのです。 映像から映画への連続性 さてここからが本題です。わたしは日本では「映画史」と「映像史」が分断されてバラバ
ラになってるように見えます。「映画史」はリュミエール兄弟から始まって映画館で見る作
品の歴史として現在まで続いていると思います。一方で映像史はそれ以前の絵画、写真、演
劇等のいわゆるイメージからイメージが動き出して映画になっていく時代、またはビデオか
ら始まりデジタル化に向かう時代として映画史とは区別されているように思えます。それは
本当はビジュアル・アートの進化というよりは多様化といったほうがいいかもしれません。
しかし現状を見ると本や学校の授業では映像史と映画史は、同じヴィジュアルを使ったアー
トのはずなのに区別されていると思います。それでも映画がフィルムで製作されていた時代
にはまだ正当化できる意味合いがあったと思います。しかし全てがデジタルに向かうときに
映画史と映像史を分けて考える必要があるのでしょうか。 最近の若い人と話すと映画を専門に学んでいるより、映像、グラフィックデザイン、アニ
メーション、web制作、ゲーム、写真を撮っていることに興味がある人たちの方が、デジタ
ル化を含む新しい映像に関する感性が良くエッジが利いて好奇心が旺盛です。それは自分自
身が現在世界の どこにいるかに関してかなり感度が高いと言う言い方もできると思いま
す。しかし残念ながら彼らは映画に対する基本的な古典的な知識が足りなかったりします。
このギャップは何なんだろうかと常々考えていますが、彼らには感性にプラスして映画史を
知って空白を埋めていく作業が必要なのかなと思っています。 逆に言えば映画の人は既に評価ができ上がった映画史にあぐらをかくのではなく、映画以
外のもっと新しいデザインやテクノロジーに対して感性を磨いてほしいと思っています。今
は時代の転換期なので既存のものと新しいものが混沌としている、授業で教える方も既存の
知識が通用しなくなっている、まあ基本的に大学の授業はいつの時代も反面教師でしか無い
ですが。そこの最新の部分は自分で切り拓かないとならない。だから今回は映画や映像の歴
史を作品や評価が定まったコンテンツとして考えるのではなく、敢えてマテリアル(製品)
として捉えて映像史と映画史をつなげていく作業をしてみたいと思います。 聖と俗のまなざし ここからちょっと歴史っぽい話になっていくるんですが、実際に映像の歴史に関しては恵
比寿の東京都写真美術館が充実した常設展をやっています。まあこれが京橋にあるフィル
ム・センターの展示と一緒にならないところが縦割り行政の弊害と言いましょうか…。 まず最初がフランスにあるラスコーの洞窟とインドネシアの影絵ワヤンです。そして古代
から中世に時代が進むと、ここではステンドグラスを挙げますが、ガラス製作の技術、教会
建築の技術も含めて進化していくと、どのようにイメージを観衆に対して提示していったの
かを見たいと思います。ラスコーの壁画であれば昨日何があった、こんな動物がいたよとい
う記録またはドキュメンタリーの延長。それを身近な人たちと暗がりの中で火を囲んでみ
る、これは世界最古のホームシアターではないかと思います!それがワヤンでは神様との会
話、民族の神話と歴史を数多くの人たちに伝えるためのストーリーを伴った複合的なメディ
アとしての役割に技術とともに変わっていったと思います。そこには当然として当時の聖な
る眼差しと俗的なまなざしの問題が常に内包されている。古代の小さな共同体の中で伝える
ためのメディアから、中世の宗教的な権威を伴うより広範に伝えるための教化のためのメ
ディア機能、ようするに文字が読めない人々にどのようにして聖書の言葉を伝えるのか、そ
れには暗い教会の中で聖なる光を通したステンドグラスに描かれたカラフルな絵物語の効果
は大きかったのではないでしょうか。この光が作り出した影を見る仕組み自体は映画とすで
に変わらないのではという気もします。文字が読めない民衆に対して見世物というと語弊が
あるのですが、絢爛豪華なスペクタクルと神秘を与え感じさせる手段だったと思います。そ
れは同時にある種のプロパガンダでありまた物語的な機能も果たしていたのではないでしょ
うか。そしてガラスはそのままレンズへとつながっていきます。 魔法の幻灯機、マジックランタン 中世の終わり頃になるとマジックランタンという幻灯機が現われます。マジックランタン
の前に前回のデヴィッド・ホックニーが「秘密の知識」で指摘したように、カメラ・オブス
キュラという暗い部屋に小さな穴を開けて外からの光が投射されると映像を結ぶという原理
を用いて絵を描いたことが知られている。それがこの時代になるとレンズに近いものが登場
してより鮮明な映像を得ることができるようになった。それはガリレオやケプラーの天体観
測の記録に使われた天体望遠鏡が存在したことでわかっている。ここで遅れた来たルネッサ
ンス人と呼ばれるキルヒャーというドイツの僧侶が登場します。当時の知識人なんですが、
この時代の荒俣宏みたいな存在かもしれません。彼が色々と記録を残しているのでマジック
ランタンが使われていたことが分かっています。マジックランタンは前面にレンズが付いて
後ろに光を当てる、当時は電気が無いから炎の光ですね。そしてランプの排熱のために煙突
が付いていた。だから映写機の原型とも言える形をしていることがわかります。レンズと光
源の間にスライドを挟んで白い壁に映写してそこに何枚のものスライドを巧みに交換しなが
ら説明することで物語を語ることができた。二枚重ねて動くようにしたアニメーションの原
理を使った手法やオーヴァーラップの手法などの複雑な動きがとられていたこともわかって
います。こうしてテクノロジーの高度化することで、光と影の戯れで物語を語る技法が進化
していきます。 キルヒャーは1646年に著書「光と影の大いなる術」で「幻影は悪魔を上映することに
よって神を無視する者どもを正道に連れ戻すすぐれた手段である」と書いている。これを教
会のプロパガンダというのか教育的というのかは別として、マジックランタンは自動車教習
所で交通違反をした人に見せるビデオのような役割を果していたのではないでしょうか。そ
の一方で他の資料では、マジックランタンを背負って街々を歩いて、お屋敷に人を集めては
上映をした興行師がいた記録が残っている。それが17世紀、日本で言うと江戸時代の初期
ですね。日本でも江戸時代の中期にはオランダを通してマジックランタンは入ってきて改良
され「江戸写し絵」言われて上映が行われていました。 ここからさらに100〜150年経った頃、ファンタスマゴリアと名付けられた見世物が登場
します。これはマジックランタンを使ったお化け屋敷です。パリの使われていない教会の修
道院の地下に潜って行くと、舞台装置がセッティングされていて観客の入った空間にお化け
が現われては消える仕組みをつくり、マジックランタンを載せた台に車輪が付いていて動か
すと影絵が大きくなったり小さくなったりする、まさに特殊効果かマジックの世界。または
複数のレンズを付けて切り替えることでお化けが消えては離れたところに現われることがで
きる仕掛けを作ったりしています。しかもこのファンタスマゴリアに登場してくるのが18
世紀末のフランス革命の騒乱の時代の有名人たち。マリー・アントワネットがギロチンにか
けられるとか、ドキュメンタリーとダークファンタジーとしてのフィクションが交錯する危
うい見世物として成立していました。 スペクタクル(見世物)と万国博覧会 ​
暗闇の中の怪しい見世物は、突如科学の視点によって世界の神秘を探る道具へと変化しま
す。1851年にロンドン万国博覧会が最初の万博として開催されます。この頃世界ではなに
が起きたか、これ以前の時代と何が違うかというと産業革命ですね。工業化によってさきほ
どのマジックランタンを担いて細々と興行する時代から、電気や蒸気による動力で工業製品
が大量生産され、都市で人々が娯楽を大量消費することが可能になった時代に変わった。こ
の時の万博会場、クリスタルパレス、水晶宮と呼ばれる建物はロンドンのハイドパークに作
られました。これは産業革命で大量生産された鉄とガラスで作られている横560メートル奥
行きが130メートルの巨大なプレハブ建築の温室といってよいでしょう。その内部に当時の
イギリスをはじめ植民地のアフリカやインドから運んできた、西洋人にとっては不思議な別
世界の様々なものを集めて展示している。それを観客が自由に歩いて見ていく。中世までは
スライドに描かれた珍しい映像をレンズを通してマジックランタンで映して見るだけだった
のに、ここでは全面ガラス張りという大きなレンズの内側に世界の姿を全部入れてしまうと
いう現象が起きるわけです。万博などでお馴染みの大型展示映像で世界の不思議や科学の驚
異を見る仕組みはこの延長線にあるといえます。それまでの娯楽かそれとも宗教的な教育か
から、この時代に科学と啓蒙というもうひとつの流れが現れたといっても良いのではないか
と思います。しかし実質的には植民地主義が正当化されているためにアフリカから人間を連
れてきて人間動物園的な展示したりする時代でもあったので、植民地主義の視点の偽善性も
考慮しなければならない。その偏った視線は映画に引き継がれていると思います。もうひと
つ大事なことは工業化によって都市で働くようになった人たちが余裕を持って余暇を消費す
ることができる時代になり新たな大衆としての観客を生み出したことでしょう。 写真から映画へ さらに世界を知りたい未知のものを手軽に見てみたいという欲望はテクノロジーの進化を
後押しします。ここまで来ると映画の発明へ向かうのは必然的だといえるのではないでしょ
うか。技術的な進化の裏側にはこのような動機が隠されているのだと思います。景色や人物
をありのままに描写することができる「写真」が1827年に誕生します。これまで絵画しか
無かったものが時間を止めてそれをじっくりと観察できる手段を人間が手にいれることがで
きたのです。 この写真を映画に近づけたのが、エドワード・マイブリッジの連続写真。アメリカのカリ
フォルニア州に鉄道で莫大な富を築いてカリフォルニア州知事やスタンフォード大学の創設
者になったリーランド・スタンフォードという人がいました。彼が友達と、馬は走っている
ときに同時に四本の足が宙に浮いているか、それとも一本は地に着いているかを賭けて答え
を知りたがった。1878年にそれを検証するために12台のカメラを並べて順番にシャッター
を切ることによって馬の足の動きを確認することに成功したのがマイブリッジです。これは
マトリックスでやった撮影方法のタイムパレットと原理は 同じです。この連続写真をつな
げるとパラパラ漫画のアニメーションになります。この実験が行われたところはカルフォル
ニアのパルアルトというところです。ここは現在アップルコンピューターの本社のあるとこ
ろです。技術のイノベーションが100年以上の間隔を置いて再び生まれてきたというのも不
思議な因縁ですね。人間の目では判別できない動きを分解して記録する。それを再び連続し
て並べていくことで時間を引き伸ばして単一の画面に表示できるようになりました。ちなみ
に馬は四本足を同時に宙に浮かせていました。 しかしこの仕組みでは何十台のカメラを1カ所に並べるという手間はかかるためあまり実
用的ではない。そのため次にエティエンヌ=ジュール・マレーが登場するわけです。彼が
1882年に発明した写真銃は丸いカートリッジ部分にフィルムが入っていて1秒間に12コマ撮
影できます。それを1枚1枚並べていくと連続写真が出来上がります。1台のカメラで動きを
捉えるところまで技術は発展しました。 ここまでくると写真に連続して捉えた動きをどのようにして再び動かすかと言う段階にく
ると思います。そのための上映機器のゾートロープとプラキシノスコープが発明されます。
ゾートロープは円筒形の内側にある連続写真を回転させて、それを縦長のスリットを通して
のぞき込むことで静止画が動いているように見える仕組みで、現在のフィルム映写機の原理
と同じです。これを改良したプラキシノスコープは動く映像を一旦鏡に映してその映像をさ
らに映写機のレンズを通してスクリーンに投射した。ゾートロープは覗きこむひとりや数人
しか映像を見ることができなかったものが、プラキシノスコープでは動く映像を多くの観客
に見せることが可能になった。我々の知っている映画上映に近い形になっていった。プラキ
シノスコープをつくったエミール・レノーは、テアトル・オプティークという形で動く絵を
商業化、興業にします。1888年ということで、プラキシノスコープを水平に回る輪にリボ
ン状のフィルムみたいなものを掛けます。リボンにはひとコマずつ絵が書かれていて動かす
とパラパラ漫画のように連続した動いた絵になる。さらにここには二台の映写機が使われて
いて、アニメのセル画のように前景の人物と背景を別々の映写機を使って合成して一つの画
面にしている。一つのリボンが10数分の物語になっていて、カラーで音楽に合わせて、あ
る場面では行ったり来たりして動きに変化を与えたりして上映した。動く絵にストーリーが
導入されました。 トーマス・エジソンとスティーブ・ジョブズ この技術開発の流れを完成させていくのが、アメリカの発明王トーマス・エジソンです。
エジソンは謂わば100年前のスティーブ・ジョブズみたいな人で、彼自身が設計してiPhone
を作ったわけじゃなく、コンセプトを出してエンジニアたちが生み出しました。同じように
エジソンもメロンパークの魔術師という発明王の姿を自己宣伝していた部分があるととも
に、新発明した製品を世に普及させる優れたあるいは強引な実業家としての面を持っていま
した。 さて映画の誕生に欠かせないふたりの人物が登場します。ひとりはフィルムのコダック社
を創業したジョージ・イーストマン。もう一人はエジソンの下で働いていたエンジニアの
ウィリアム・ディクソンです。このふたりがフィルムの規格フォーマット、35ミリフィル
ムの幅、両側に4つの穴(パーフォレーション)を付けるということを決めました。ある意
味これで映画は世界共通の言語になったわけです。そしてエジソンは映画の特許を取りま
す。これがリュミエール兄弟のパリでの上映会の1年前です。この時発明されたカメラはキ
ネトグラフといいます。寸劇を撮影していますが、これは当時流行していた、ミュージック
ホールという演芸場で行われていた短い見世物です、左側にみえるのがエジソンの有名な蓄
音機、これで同時に録音します。サイレント映画の時代の前にもうトーキーはできていたの
です。バイオリンの演奏に合わせて男同士がダンスをしているフッテージがありまして、こ
のとき同時に録音した蝋管が発見されて画とシンクロ編集されてトーキーとして再公開され
ました。これがトーキーというか映画と音の実験のための映像です。映画を美学的な目線だ
けで考えるとサイレント映画は素晴らしい、サイレント映画は映画独自の美学である。確か
に素晴らしいんですが、その一方で技術者や興行主たちははじめから台詞や音楽がある映画
を最初からつくりたかった。いくら監督や作家がサイレントを作って映画を芸術的に高める
ために悪戦苦闘しようが残念ながら関係ないんです。映画というテクノロジーを使った商業
的なアートの宿命なのです。 エジソンは映画はどちらかというと蓄音機を売るためのものでしかなかった。当初は映画
を大勢で鑑賞するものだとは考えなかった。ひとりひとりが映像を覗きこむ方式である意味
自宅で鑑賞するビデオやDVDを見るのと同じように考えた。このための機械がキネトス
コープで、1分ほどのフッテージがエンドレスで流れる仕組みになっています。このときに
映像を鮮明にするために1秒間に46コマ、チラツキを無くすためにシャッタースピードを
1/1000にしています。キネトスコープは最新の技術と言われる『ホビット』のHFRとほぼ
同じ48コマなのです。そのために映画がエジソンに回帰しているということもできるかも
しれません。 では映画はなぜ24コマになったかというと、人間が連続して画面が動いているように見
えるには16コマくらいで充分です。だからサイレント映画は16コマ程度です。今の映写機
は24コマで動くために、サイレント映画を上映すると動きが速くなってみえるだけでサイ
レント映画がヘンな動きをしているわけではありません。それがトーキーになると、映画の
音はフィルムの脇にサウンドトラックが付いて同時に流れていきます。このとき16コマだ
と音質が良くないために、レコードと同じ5キロヘルツの周波数にするためにスピードを上
げて24コマにしました。フィルムの速度の24コマは画の問題ではなく音の問題だったので
す。 リュミエール兄弟のスマホ=シネマトグラフ キネトスコープは一時期人気を得ましたが飽きられるのも早かった。そして1895年に
リュミエール兄弟が登場します。彼らが12月28日にパリで映画を上映されたのが映画史の
はじまりだと云われていますが、実はそれよりも前にドイツで同じような上映会が開かれて
いたという記録もあります。リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフは、キネトグラフ
を改良したもので、撮影カメラになると同時に映写機にもなることもできた。加えてネガを
プリントして焼き回しする1台で3役の機能を持っていた。映画史的にいうとリュミエール
が映画なるもの、この時も1分程度のフッテージですが、『列車の到着』や自分たちの工場
から人が出て行く風景を撮影して、ここからが映画のはじまりだということも可能ですが、
もう少しエジソン的なものがあったことを、デジタルの時代になって改めて考察することも
面白いのかなと感じています。 テクノロジー・イノベーションの臨界点 もう一度振り返ると1800年ころにはじまった産業革命以降、約100年間のあいだでいまま
で人類の歴史に存在していなかった人類の夢であった動く画である映画が誕生する。面白い
ことにある一つの原理が技術に関して発見されて、その原理を使った機器が発明されると、
一気に開発合戦が爆発的に進んでいく。フィルムで撮影して映写機で上映するのはエジソン
とリュミエールだけではなく欧米各国で同時並行的に研究開発が進められていることがわ
かっている。 動く画=映画というものを生み出す側の欲望は留まることを知らない。トーキー以外にも
技術、例えばカラーフィルムにしてもリュミーエル兄弟をはじめとして研究されていて、先
日もイギリスのアーカイブから発見されてデジタル復元されている。これもカラーフィルム
が発明されて現在のような形になって受け入れられるまで、光を2色分解して合成するなど
様々な手法が採られていることがわかります。結局は上映プリント一本ずつに直接色を載せ
た方法が一番普及した。初期のフィクション映画を数多く製作した、ジョルジュ・メリエス
はその作業のための専用工房を持っていて何十人の女性たちが色付け作業に従事した。 3Dの映像を見るために専用メガネの左右に赤と青のフィルムを張る「ステレオスコー
プ」の原理は映画誕生以前の写真の時代からわかっていました。ただ映画で3Dが実用化さ
れるまでは技術開発のため時間がかかるわけです。あるいは70ミリという大型映像をご存
知かもしれませんが、これもリュミーエル兄弟が発明して1900年のパリ万博で25☓15メー
トルの大型スクリーン映像「フォトラマ」で使われていた。ある意味フィルム映画のフォー
マットは映画の誕生とともにほぼ出尽くしているといっても良いかと思います。そしてデジ
タル化の波が来るまで100年以上ほとんど変わらなかったといえます。 デジタルシネマの場合もフィルム映画の発展と同じことが起こっています。映画のデジタ
ル化はある日突然起きたわけではない。そこに至るまでの試行錯誤があってこの数年それが
爆発的な技術の進化と完成度による実用化がはじまったといえます。かつてのハリウッドの
豪華絢爛なクラシックカラー映画を撮るためのカメラや照明機材は巨大でした。しかし今は
高性能になり小型軽量でリモートコントロールで操作できるようなった。そこにはコン
ピューター制御や電子部品が組み込まれるようになったからです。 デジタル革命が本格的になったのはこの十年くらいです。スターウォーズの新三部作から
です。『スターウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(99)からデジタル上映が導
入され、『スターウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(02)で全編デジタル撮影が行
われました。ひとつの原理が見つかりそれが普及していくことで、ゲームのルールがすべて
変わってしまうことは産業やビジネスにおいて普通のことです。音楽も演奏ホールのオーケ
ストラを聴きに行く時代から、やがてラジオの生中継で演奏を自宅で聴き、それがレコード
になりCDへと変わっていく。ミュージシャンもクラッシックからポピュラー、電子楽器、
サンプリングへと技術とともに多様に変化していく。それと全く同じことがようやく映画で
もはじまったのです。 同時にアマチュアとプロの壁が崩れていきます。高機能な機材が誰でも手軽に扱えるよう
になるのです。世界初のデジタル撮影をした『スターウォーズ エピソード2/クローンの攻
撃』で使われたカメラはソニー・シネアルタです。HD1080p24pfsテープ収録という性能
は、10年後の現在、デジタル一眼レフカメラの方が性能が上で遥かに安価です。これがデ
ジタル革命の本質なのです。 これまでの映画史はリュミーエル兄弟とメリエスの映画からはじまり、サイレント映画へ
と発展していったと云われていますが、デジタルの時代を迎えると、そこから考えるべきな
のか、もっと映画以前の映像と動画から始めたほうが良いのではないか。それだけではなく
テレビやビデオアートまで含めて考えないと、クリエーターやプロデューサーそして観客は
あたらしい映画の体験に対応できないのではないかと思います。現在わたしたちはそれくら
い激動の時代の真ん中にいるのだと思います。 そうやって改めて映画の誕生と現在のデジタル革命の二つの時代を俯瞰視すると、トーマ
ス・エジソンとスティーブ・ジョブズを同じ位置に置くことができると思うのです。映画と
音楽をエジソンがビジネスとして生み出したのと同じことを、ジョブズが行ない映画、映
像、音楽に革命を呼び起こしたといえるでしょう。逆に言うとエジソンが行ってきたことを
もう一度よく見ていくと、ジョブズが何を行ってきたか、そしてどこに向かおうとしていた
かがわかります。彼は「テクノロジーとリベラルアーツが出会うため」の製品づくりをして
来ました。それを考えるとテクノロジーと映画またはアートがどのように変化していくのか
を楽しみながら考えることができるようになると思います。 テクノロジー主体のアートの宿命 そして同時にフィルム映画はロストテクノロジーになるのだろうかという問題がありま
す。残念ながらいままで書いてきたことはデジタルになったら知らなくてもよい知識です。
なぜなら撮影のためのカメラもフィルムも既に製造が中止されてしまうのですから。フィル
ムはナマモノなので賞味期限があります。品質保証を確保することも大変です。しかもデジ
タルとの価格競争に勝てるという問題もあります。そして現像所の現像ラインを確保して作
業のための技術者が必要です。多くの現像所は規模を縮小しています。音楽や写真といった
先行例を見てもデジタルからアナログに戻る選択肢は産業レベルでは考えられないでしょ
う。ですからこれからはフィルムを知らなくても映画はつくれます。 いまはまだ議論の多くは、デジタルはいかにフィルム映画に近づけるかどうかという視点
が強調されがちですが、そこからいかにに離れてこれからの時代の映画美学あるいはエン
ターテインメントとしての面白さを作り出すか。そのためには映画以前の映像、フィルム映
画、デジタル映画のイメージのアートの歴史をどのように繋げるかが大切になると思いま
す。 1995年の映画誕生100年の記念にリュミーエルの映画財団が世界の映画監督に昔のシネマ
トグラフのカメラを使ってオムニバス映画「リュミエールの仲間たち」を作りました。果た
して1分間の映像で何ができるのかが問われました。そのなかでデヴィッド・リンチは、普
段通りに悪夢のシュルレアリズム的な作品を見事につくりました。よく考えると彼は16ミ
リの実験映画からハリウッド大作、テレビドラマ『ツインピークス』、フラッシュアニメま
であらゆるフォーマットに挑戦しています。だから固定概念に囚われず、アーティストとし
て技術を使いこなしながらも映画作家の本質を失うことがなかったのだろ思います。そこか
ら導かれる結論は、わたしたちはカメラを持った瞬間にみなアーティストになっています、
そのことに自覚的になることでしょう。 第2部 われらが内なるハリウッド サイレント映画の美学 次は映画史の区分で行くとサイレント映画の時代となり、続いてトーキーの時代になるわ
けですが、もちろんサイレント映画は映画美学的にはとても大切な時代で、まさに映画独自
の表現技法が確立していく過程なのです。サイレント映画の何がすごいかというと、映画は
時間と空間をコントロールするところに最大の特長があるアートです。それを抽象的に表現
できるのがサイレント映画なのです。トーキーになると喋るために台詞は途中で切れない。
だから台詞をアタマからオワリまで喋る長さの時間はリアルタイムになります。そして聞こ
えない距離で会話することもなくなる。一番大きいのは役者の顔を中心に撮影するようにな
り、カメラアングルの選択が狭められて不自由になる。サイレント映画はシナリオに書かれ
た台詞劇を再現することではなく映画独自のリズムを生み出すことができました。観客はサ
イレント映画しか知らない時はそれで良かったのですが、一度トーキーを知ってしまうとな
んだこの映画は声が聞けないじゃないかとなってしまう。実はトーキーになったときも映画
館の興行側はサイレントに慣れた観客がトーキーを受け入れなかったらどうしようと悩んで
いた。その隙に弱小の映画会社のワーナー・ブラザースがトーキー映画を製作して大儲けし
てメジャーの映画会社にのしあがったという歴史があります。観客はまったくトーキーを否
定せずむしろ積極的に受け入れたのです。便利になることを目的とした技術の進化は決して
後戻りすることはない例です。 ここでは「我らが内なるハリウッド」というテーマで映画の技術と技法の面から見ていき
ます。なぜハリウッドなのか?みなさんが映画というものを考えるときに何を思い浮かべる
か映画の基準とはなにかを考えていくとハリウッド映画になると思います。最新で最高の映
画、作家性があったり、アニメ、ドキュメンタリーを含めて、基準となるもので、映画とは
何かを考えるときに現われてくる最大公約数が「ハリウッド映画」になることに異論はない
でしょう。それが世界中の観客の意識に埋め込まれているし、クリエーターにも埋め込まれ
ている。どんなに現代アートに傾倒していてとしても、いざ映画をつくろうとすると、ハリ
ウッド映画の呪縛からは抜け出すことは困難です。それをどう否定しようと取り入れようと
しても基準点としてのハリウッド映画のポジションは揺らぐことはありません。 ビジネスとしての映画の完成 ではハリウッド映画のどこが素晴らしくどこが限界なのか、これをリバースエンジニアリ
ングの手法を使って考察していきたいと思います。ハリウッドというのは世界的に見ても特
異な場所であって、100年以上続くソフト製造産業の集約地の総称です。自動車、鉄鋼、航
空機、あるいは軍需産業と並んでアメリカの重要な産業の一つです。映画も最終的には映画
ネガ、プリントあるいはDCP(デジタル・シネマ・パッケージ)という形のある製品にな
るのですが、本質は夢を売っているサービス業と製造業を合わせた特異な産業と言って良い
かもしれません。 ハリウッドを特別な場所にしているふたつの要因があります。ひとつは技術=テクノロ
ジーです。アカデミー賞というのは映画芸術科学アカデミーが映画業界のスタッフが互いに
スタッフの技術を見てどの作品が素晴らしいか、また映画の芸樹と科学に発展に寄与したか
を向けて発表する内輪向けの表彰式なのですね。ハリウッドその一方でビジネスの面も持っ
ている。その相反する本音と建前をどのように融合させているかを考える必要があると思い
ます。 ハリウッドはどのように成立したか、これはデジタル化の話と重なってくる部分もあるの
ですが、フランスの映画の始祖のひとりジョルジュ・メリエスがいます。彼は映画を見世物
として確立して一時は専用の撮影所や現像所、カラー染色のための工房まで抱えていたが、
晩年は没落して鉄道駅のなかのおもちゃ屋の店番をしていた。彼の名誉のために言っておき
ますが、アンリ・ラングロワやジョルジュ・フランジュの支援で映画人の養老院に入ること
ができました。ではなぜメリエスは没落してしまったのか。ここに最初から映画の芸術とビ
ジネスの本質的な問題が隠されています。メリエスは作家としての自負を持って自分のアト
リエで映画を作り続けていた。映画を製作することはプリントを作り、それを観客に見せる
ことでお金をもらうシステムです。初期の映画は製作者がプリントを作ったら興行主側に
売ってしまうわけです。そうするといくら観客が入ろうと製作者は儲からなくなる。興行主
は一本一本正値で買うよりは、中間の業者を入れて自分の興業が終わったプリントを売っ
て、別の中古のプリントを買えば安くたくさんの映画を見せることに気づいた。これが配給
業のはじまりですね。だから映画をつくるメリエスはリスクを負担するがそれ以上の収入は
入ってこない。特にこれがフランスではなくアメリカになるとやられ放題。勝手に編集され
てまったく別の映画にされてしまったりする。これが後年メリエスが没落した原因のひとつ
です。映画史的にはおなじようなファンタジー映画を作っていて観客に飽きられたと言われ
ていますが。その様子を見ていたフランスのパテ社が、ビジネスとして映画のレンタル商法
を発明しました。たとえばメリエスが作った10本の映画をパテ社が買って、そこから興行
主に映画を貸し出す。売るとこれまで通りに興行主の所有となって好きに改変されたり勝手
に転売されてしまう。重要なのは販売せずにレンタルすることで映画の権利を譲渡しないこ
とができることです。このレンタル商法こそが映画産業を支えてきたすべての源と言ってい
いでしょう。実はこれがハリウッドが成立するための原動力にもなっている訳です。 さきほどのエジソンはフィルムのコダック社と組んで特許で自分たちの仲間、エジソント
ラストといいますが、彼らしか映画をつくれない、あるいは彼らの許可がないとつくれない
ようにしました。これもまた映画の特性と弱点です。ようするに映画は複製芸術です。しか
も初期の映画の原理は単純で確立されています。そこに技術の優劣はほとんどありません。
同じ機械を使ってつくればすぐに大量のホンモノと変わらないニセモノが大量にコピーでき
るわけです。モノであれば、原料を仕入れて原価計算をして組立作業をして売り出し、売上
から経費を差し引いたものが利益となる。しかし映画はひとつ作ってコピーすれば、経費が
かからずに同じものがつくれる。それを阻止するために、エジソンは彼の作ったカメラや映
写機、そしてコダック社のフィルムを独占販売したわけです。 それに対抗した一儲けしようとした東欧からやってきた移民たちは、特許をかいくぐって
作ったカメラやフランスから機材やフィルムを輸入して映画をつくりだした。ネットの時代
ではこれと同じことが起きているわけです。マイクロソフトとグーグルやアップルやサムソ
ンの訴訟合戦はこれと同じですね。映画をつくったのはエジソンなので彼の映画機材はまあ
正統なので、それに対抗したグループが逃げるように映画の拠点を西に移動した。これがハ
リウッドのはじまりです。映画はそれくらいアンダーグラウンドないかがわしいビジネス
だったわけです。だからいまのフェイスブックやマイクロソフトのやっていることには日本
人には考えられないことですが、すでにハリウッド対エジソンという前例があるわけです。 イメージコントロールの帝国 ハリウッドはどのように映画を商品として売るのか。圧倒的なイメージの帝国として世界
に君臨するまでの経緯を紐解いていこうとおもいます。カリフォルニアにハリウッドが西誕
生して、それまでの見世物としての短い映像から長編映画へと進化したきっかけが、D・W
・グリフィス監督の『國民の創生』です。KKKが主役というか正義の味方として描かれてい
るので評価が分かれる部分もあるのですが、現在の映画の形を築き上げたことは事実です。
2時間を越える長編映画で、この映画のために作曲されたスコア、特別料金とすべてが破格
の扱いで行われましたがこれが大成功した。 グリフィスはここに至るまでの5年間で400本以上の映画を撮ってきました。ほとんどが
短編でこの間に様々な映画の手法を実験してきます。そして少しずつ映画の長さを伸ばして
いきます。これは要するに単純なアクション主体の映像から、ストーリー展開を伴う現在の
映画の形へと向かう必然だと言えるでしょう。それまでの前身の動きを捉えるロングショッ
トから、顔の感情を捉えるクロースアップの導入、結末に向けての盛り上げるクロスカッ
ティングの手法と、映画の文法が複雑に洗練されていきます。しかし映画の父と呼ばれるグ
リフィスの評価をどのように考えるかは難しいところです。グリフィスと同時期に世界中で
映画人たちが映画の文法を模索していました。実際に個性的な映画が特にヨーロッパから生
まれてきていました。しかし第一次世界大戦が勃発したためにヨーロッパは広範囲で戦場と
なり映画の文法の模索も止まりました。グリフィスがひとりで映画の文法を作り上げたとい
うよりは同時多発的に進んできた映画の研究を統合した人と言ったほうが良いかと思いま
す。それだけでもスゴイことです。後発者はゼロからのスタートではなく、グリフィスから
はじめれば良いのですから。 そしてグリフィスを中心としたハリウッド映画の語り口は世界中に影響を与えました。そ
の特長は、一直線な物語、ハッピーエンド、感情移入、倫理観、一言で云えば明快さです。
それを発展させたのがハリウッドの強力なスタジオシステムであり、これがハリウッドとい
う夢の工場の正体なのです。映画を芸術性の高い工業製品として考える場合、映画館へ定期
的に新作を提供するためには、ベルトコンベアに載って製造されて行く品質保証された規格
製品が遅れずに出荷されることが必須になります。工業化以前の工房で職人がコツコツと作
り上げるのではなく、巨大な工場で品質と生産の管理=コントロールが映画製作のスタイル
となったのです。 この時最も効率のよい方法は自動車の製造ラインと同じ分業制度です。職能ごとに専門性
をもって部品を組み立てて順番に仕事を進める。その際にもっとも責任と権力を持つのは監
督ではなくプロデューサーになる。なぜならば最終的に完成するのは製品であって作品では
ないからだ。そのために工程管理と品質管理が必要になる。映画人たちは毎朝、自宅から映
画スタジオという夢の工場に出勤して、9時から5時まで働く毎日を繰り返していた。シナ
リオは脚本家を集めた建物があってシナリオライターは自分のデスクのタイプライターで執
筆する。そしてプロデューサーが納得するまで何回でも書き直しその度シナリオライターも
交代する。監督もスターも脇役も技術者もみんな各映画会社の社員なので各部署で担当の仕
事をしていた。 万全の準備をしても、コントロールできないのが撮影製作期間です。ロケの最中に起こる
アクシデント、天気の不良、現場のトラブルや怪我は予測できない。そのため撮影はすべて
撮影所の中で行われるようにした。屋外のセットも撮影所の中に建てることで最高の人工的
な高品質を保った製品を作ることができた。これはまさに万国博覧会の延長にあります。世
界の珍しいものヨーロッパのパリやロンドン、またはアジアの風景やジャングルまでを一つ
の場所に集めて再現してしまう。それが見世物になっていくのは必然の流れでしょう。 撮影もマスターショットという考え方があって、まずシーンの全体を撮る。それからレン
ズを変えてあらゆる角度から撮影する。役者はそのために同じことを何度も繰り返すことに
なる。映画のルールと言われるイマジナリーラインを厳格に守ることは、物語を効率的に語
り、観客が混乱しない話法とともに、撮影のときに照明の切り替えの手間を省くことで時間
を節約して効率的に行なう手法だったといえる。 撮影したOKテイクの素材は編集者に渡される。監督は文字通り現場監督であり、最終編
集権はプロデューサーにあった。だから個性的な監督であってもプロデューサーの一言で映
画から降板されるし、重役を集めて試写をして追加カットが必要ならば別の監督が撮って、
編集者がシーンに挿入する。これについて監督は手出しができない。すべては規格内の製品
を作ることが最優先される。ここで映画とは、演出ではなく時間をコントロールした者が作
者になることが明らかにされる。これが「映画とは最新技術を使った芸術性の高い商品であ
る」という現在も変わらないハリウッドのスタイルを守るプロデューサーシステムの正体な
のです。 しかしその生産ラインの中で個性的な作品を生み出そうとした人々は名前が映画史に残っ
ています。残念ながらそれは一部でありほとんどがシステムのなかで大量生産されていまし
た。次にこの強大なシステムと戦い続けたふたりの映画作家の足跡を辿り彼らが制約の中で
どのようにサバイバルしたかをみていきます。 Part.3 ヒッチコック/ウェルズ​
煉獄の中の自由あるいは生き残るためのレッスン ここからはさらに具体的な各論に落としていきたいと思っています。そこで今回選んだ
テーマが映画に興味のある人は100%ご存知のふたりです。アルフレッド・ヒッチコック
とオーソン・ウェルズの顔や体型は映画ファンでなくともご存知でしょう。しかし映画監督
のしての本当の姿を知っているのでしょうか。いままでの作家主義あるいはハリウッド映画
の著名な監督ではなく、もうちょっと違う見かたをしたらどのように見えてくるのだろう
か。前回のハリウッドについてからの話を敷衍してくるのが今回のテーマです。「煉獄の中
の自由、あるいは生き残るためのレッスン」ということで、煉獄はハリウッドのスタジオ・
システムを指しています。そのなかで二人の映画監督、映画作家がどのような生存戦略を重
ねてきたところを見ていくことによって、もう一度技術と技法の映画史とは何かを考えてい
きたいと思っています。 見えない映画のサイクル 映画を作家主義あるいはフィルム映画だけと考えてしまうと、どうしてもフィルムVSデ
ジタルと対立して考えてしまいがちですが、美学的な関心や問題がありますが、もっとざっ
くりと映画をメディアとして考えていくとフィルムからデジタルへの移行は映画の必然だと
言えます。映画をビジネスや産業から見るとより安く高度な技術へと進むのはメディアとし
ての宿命だと思っています。ではそこから映画をどうやって読み直すか。そのときに頼りに
なるのは、どのように見たら良いのだろうか。 私は「映画の見えないサイクル」があると考えています。映画は映像作家が主導して映画
の芸術は進歩するという考え方は違うのかなと思っています。どちらかというとまずは観客
や興行師、あるいは映画のカメラなどの機械の開発者たちが、どうやったら儲かるのあるい
は観客のもっと珍しいもの面白いもの変わったものが見たいなという欲望を技術が形にして
いく。分かりやすい例で言えば3Dやデジタル化、またはトーキーになって音が出てドル
ビーサラウンドになる、あるいはモノクロがカラーになる。それが全部それまでに作られた
美学を壊す可能性をはらんでいるという問題がありますが、映画史のはじめから常に繰り返
し起こっている現象だと思います。 その技術・テクノロジーをスタイル、あるいはテクニックに変えていくのがクリエータた
ち、監督であり映像作家、そこに撮影監督やセットを作るデザイナー、あるいは役者、彼ら
が協力して協働で作り上げて最終的に結実してくるものが作品であると思っています。残念
ながら作品ができたからといって映像作家がそのままずっと芸術や娯楽を主導していくかと
いうとそうにはならない。どうしても観客のほうが飽きてもっと面白いものを珍しいものを
見たがり、また新たな欲望が起きてそれに対して興行師がこれは儲かるだろうと、技術者が
新しくこういう技術を開発したから、ということが繰り返されていくのが映画史の技術・技
法のサイクルだと思っています。 このサイクルをじっくり見ることによって、フィルムからデジタルへの変化の必然がわ
かったり、次は何が起こるだろうか、それに対してクリエーターは何を見ていくのだろうか
が分かってくる。今までの批評はいわゆる映っているもの、作品を見て分かれば良い、作っ
ている業界人たちはプロデューサーがいて現場で作っているので批評は関係ないと分断され
ていたと思います。それがデジタル化によってデジタル一眼レフのカメラが数千万円する
35ミリのフィルム映画カメラとほぼ同等な解像度を持っている。というと怒る方もいらっ
しゃいますが現実としてはそういうことが起こっている。こういう時代になってしまった。
作り手と観客の距離が近づいてきた。いわゆるプロシューマーの時代プロデュース+コン
シューマーという形であれば、全体の部分を知る必要があるし、それを知っているほうが作
品の見かたがもっと深まると思っています。 ハリウッドは夢のブラック企業か そして今回は、ハリウッドというものを夢の工場と考えるのか地獄の煉獄という風に見て
いるかという問題です。ハリウッドは形を変えながらも100年続いている世界最大の映像
ソフト産業の拠点です。形の無いものをこれだけ世界に広げて莫大な利益を上げるような産
業にできたのか、その秘密を見ていきます。作家の作品ではなくて、芸術的な商品としての
映画というものを作り出すのは何か、それはコントロール=制限する事によってスタイルと
いう様式美を生み出す、いわゆるハリウッドのスタジオシステム、製作の過程での効率化と
品質管理のためのスタジオシステムもありますし、完成した作品のパッケージの品質保証と
してのハリウッドがある。ようするに世界でどこでも通用する平準化された商品ですよね。
今で言えばアップルのiPhoneやiPadとかと同じです。しかし映画は最終的には人がつくる
もので、いくらお金を注ぎ込んだところで優秀な技術を持った人がいないとできないことは
確かです。 二人の天才、変化し続けるスタイル みなさんの頭の中には「これがハリウッドスタイルだ」というイメージがあるとは思いま
す。しかしそれがイコール、すべて面白い映画かというと、万人向けの工業製品という部分
が一番大きいので、個性ある映画を見言い出すことは難しいでしょう。そこのなかで敢えて
作家として活躍して良い商品を作りながら同時に作家の映画を作っていく人物をもしあげる
としたら誰になるかというと、この二人、アルフレッド・ヒッチコックとオーソン・ウェル
ズなるでしょう。 ここで作家をどういう風に考えて定義するか。ただ作品を実験的に作り上げる人なのか、
それとも常に標準以上の面白い作品を作り上げるのか、果たしてどちらが作家なのかという
問題ですが、それはどちらも正解だと思います。かつて、ヒッチコックは殺人事件のサスペ
ンス映画しか撮れないただの職人じゃないかという言い方をされていました。未だにウェル
ズも第一作の『市民ケーン』を越える映画を作れなかったという言い方もされています。 職人と作家はどう違うのでしょうか。いわゆる職人はテクニシャンとなるのですが、今あ
る技術を最大に使って最上のものを作り出すのが職人。作家は、そこで要求どおりの最高の
水準で作ったものすらぶち壊してしまってさらに先に進もうとするのが本当の作家だと思い
ます。映画批評的な言葉では、スタイルのある人が作家という言い方もしますが、毎回映画
祭に出品するたびに、前の作品と似たようなスタイルの映画を作っているが、それこそが作
家のスタイルだと賞賛されることを度々見るのですが、わたしはそれは違うのかなと思って
います。作家の一貫したスタイルという批評の言葉がありますが、それは批評する側にとっ
ては非常に楽な言葉なのですね。以前の作品と比べて答えを出すためにはスタイルが同じほ
うが言葉にしやすい。まったく違うスタイルだとどのように比較して批評していいかわから
なくなるから。しかしあなたがもし本物のクリエータだったら、それを壊す、今までの自分
が作り上げた世界に満足できなくなるのは当然の考え方だと思うのです。絵画だとピカソを
見ると彼が歩みの中で作り上げては壊してまた新たな領域に踏み出していることがわかると
思います。 話はさらに脱線するのですが、陶芸家で加藤唐九郎というスキャンダラスな事件を起こし
たりして毀誉褒貶が激しかった方がいまして、亡くなったあとに開かれた展覧会を見に行っ
た事がありました。陶芸は一度に何十個も作り上げて、それを窯に入れて焼くがその中で一
個良いものがあればよくてほかは全部壊してしまうような世界で、それが自分の思い通りに
なるかどうかは、一番最後の最後は土の性質や窯の温度による火の状態という偶然に任せる
しかない世界です。でもそこでできたものが自分の作品だと受け入れていく。彼の作品を古
い年代順に見ると、素人目に見ても一番良いものを作り上げた途端に、全然違う実験的なも
のをつくる。いままで作り上げたものを全否定する。そしてまた新たなものを作ろうと試行
錯誤をはじめるというのが作家の本来の姿だと思います。 もうひとつ指摘するとスタイルというのは本来外側から来るものではないと思います。例
えば長回しをするとか、ある特定の色を使っているとかを作家性、スタイルというけれど、
本当のスタイルというのはその人の内側から出てくるものであって、自分の外側から形にす
るためスタイルらしきものをつくるために持ってくる長回しにしてみました、退屈にしてみ
ました、台詞を棒読みにしてみました。というのは違う世界だと思います。どうしても批評
の言葉から入ってしまうと語りやすさから映画を読み解こうとして分類しがちですが、もっ
と創作に寄り添って考察してみると違うことが見えてくると思います。それをハリウッドで
実現・実践したのがこの二人です。実現だけだと成功、ハッピーエンドですが、実験も含め
ての世界ですから実践が正しい言い方だと思います。 運命のライバル この二人運命のライバルという言い方をしましたが、この二人をライバルと考えている人
はそれほど多くないかと思います。二人とも孤高の唯一無二な特別な作家と思われているの
で、二人を並べて見ることはないと思います。これも何十年前に見た映画雑誌の記事で、
「ヒッチコックが描くのは普通の人の異常な感情であり、ウェルズが描くのは異常な人の普
通の感情だ」と書かれているのを読みましてそれがずっとアタマに残っています。 ヒッチコックはあなたの横にいるにこやかな隣人が実は殺人鬼であるのではないかという
ようなことを考える。一方のウェルズの場合はまったく逆で、尊大で誰にも理解されないよ
うな権力者が実は繊細な内面を持っている傷つきやすい人間だったりする。じゃあこのふた
つってなんだろうと突き詰めて考えると対照的な人間像ですよね。それを象徴するのがこの
ふたりにたどり着きますです。「切り裂きジャック」と「ハワードヒューズ」です。切り裂
きジャックはイギリスのビクトリア期の末期に現れた娼婦ばかりを狙った謎の連続殺人鬼。
未だ持って正体は不明で当時のロンドン市民を恐怖のどん底に陥らせた伝説的な人物です。
ハワードヒューズは、大金持ちの変人の発明家で、映画会社のRKOを一時所有していたし
映画監督もしている。マーティン・スコセッシの『アビエーター』(04)の主人公です
ね。この切り裂きジャックとハワード・ヒューズの二人をモデルにした映画をヒッチコック
とウェルズのふたりとも監督しています。それは『下宿人』(26)と『市民ケーン』(41
)です。『下宿人』はイギリス時代のサイレント映画、『市民ケーン』は直接のモデルは新
聞王のランドルフ・ハーストですが、ヒューズの姿も含まれています。『オーソン・ウェル
ズのフェイク』(75)にもハワード・ヒューズは声だけの登場として描かれているが、こ
れは偽ドキュメンタリーのトリックになっている。面白いことにヒッチコックとウェルズは
何度もこの二人の人物像を変奏しながら繰り返して映画の中で描いている。 サスペンス映画の巨匠 簡単にヒッチコックの経歴を紹介します。1899年にイギリスロンドンに生まれました。
電信会社の広告デザイナーを経て映画界に入り『下宿人』を撮り、その後『暗殺者の家』(
34)『三十九夜』(35)『バルカン超特急』(38)と続けてイギリスの映画界のトップ監
督に躍り出る。その実績を買われてハリウッドに招かれる。 彼はハリウッドのプロデューサー・システムの強固さに驚いた。イギリスのトップ監督が
ハリウッドでは、プロデューサーの下の単なる職人テクニシャンということがわかった。デ
ビッド・O・セルズニックはハリウッドの中でも一匹狼のプロデューサーなので、映画会社
の社員プロデューサーとはちょっとちがう。彼は自分で企画を立ててスタッフキャストを契
約して映画会社に売るような本当のプロデューサーです。ヒッチコックはMGMなどの大手
の映画会社ではなくセルズニックと7年契約をした。セルズニックはやたら細かい指示を出
すメモ魔で有名でそれをまとめた本も出ています。セルズニックが『レベッカ』(40)の
一年前に作っていたのが、『風と共に去りぬ』(39)というアカデミー作品賞をはじめ9部
門を受賞した作品です。そのときも2年間かけて製作したのですが、最初の監督はジョー
ジ・キューカーで、彼が一年間準備とリハーサルをして撮影に入ろうとしたらいきなり監督
がビクター・フレミングに交代させられた。またある部分セットを作った有名なウィリア
ム・キャメロン・メンジースが演出していて最終的には7人の監督がいたという。要するに
すべてがシステムになっている。プロデューサーがコントロールしているために誰でも監督
交代できるようになっていて、最終的なクオリティ・コントロールはプロデューサーが握っ
ている。だからこれはセルズニックが撮った映画だといわれる。 では自らも映画を完璧にコントロールしたかったヒッチコックはどういうサバイバルをし
たのかというと、セルズニックに編集されないように撮る。セルズニックが全部コントロー
ルするためには撮影を編集するための素材撮りの作業にすることが必要だから、プロデュー
サーの権限で私が後で好きなように編集できるようにありとあらゆるアングルからたくさん
の演技のパターンを撮れというのが基本的な考え方だった。一説によると『レベッカ』の撮
影が始まったときにヒッチコックが現場でよーいスタートの掛け声をかけようとしたら、セ
ルズニックの秘書が来てセルズニックさんが来ないとそれはできませんと言われたというエ
ピソードがある。ヒッチコックは自分にしか編集できないように必要最低限のカット数を撮
影して、しかもパズルのようにばらばらにして撮影をした。このようにして自分の作品を守
ろうとした。ハリウッドの場合はフィルムは素材なのでいくら回してもスケジュールが余程
延びない限りは問題はない。だから複数のキャメラで何度も回す。カットではなくセット
アップという言い方でシーン丸ごとをあらゆる角度から撮影する。日本の場合は、いかに少
なく回すか自慢になっていて、カチンコを何コマで入れるかとか、回しすぎると始末書を監
督が書かされたとかの細かい職人芸世界になってしまった。 ヒッチコックの戦略では、面白いことに自由を守るために、自分のできることを制限=コ
ントロールしていくことで自分の作品世界を生み出している。この時期の作品の面白さは制
約の中の自由という言い方もあるし、必然性が生んだスタイルという言い方もあると思いま
す。それが成し遂げられた作品というのは『レベッカ』『汚名』(46)等々の作品の中に
現れていると思います。このあたりの作品はパブリックドメンなので簡単に視聴することが
できます。 自由からの逃走 いわゆる悪名高きハリウッドの7年契約が終わると、ヒッチコックは自由になります。自
分でプロデュースして、演出をすることで作品の完全なコントロール権を手にするようにな
る。そして作られた最初の作品が『ロープ』(48)です。しかしこのときヒッチコックは
ようやく手に入れた自由でこれまでのセルズニックの下で作品をつくっていた自分を、全否
定するような手法の実験を行ったのです。これは最初のカラー作品でもあります。前編ほぼ
ワンシーンワンカットで撮影するというとんでもない手法をおこなうのです。これまでセル
ズニックに編集させないためにカットを細かく積み重ねていたのに、自分がプロデューサー
になった途端に、それまでに作り上げた美学スタイルを壊して正反対にカットを割らずに一
本の作品を撮るという新しいことに挑戦することにした。それを作家の中の必然性と見るの
か、ヒッチコック自身のダークな性質とみるのかは意見が分かれると思います。 舞台は演劇の舞台と同じような一つの部屋のセットです。ヒッチコックの後方にある大き
な箱はテクニカラー・カメラです。簡単に説明すると、フィルムを四本同時にセットして
RGBという光の三原色にプリズムで分解して記録します。それを現像で調整してきれいな
テクニカラーのプリントを作る。クラッシック映画の鮮やかなカラー映像はこのテクニカ
ラーで作られました。そうなるとカメラが大きくなるわけです。カメラだけではなく、カメ
ラの回るモーターの音が大きいので、それを防音するブリンプと言う装置で囲うのです。だ
から四角い箱のブリンプの中にカメラ入っているのです。これをあわせると1.5トンあると
ヒッチコックが言っています。当時のマイクの性能の問題があるので、役者が動いてもオ
ン・オフにならないように何本もたくさん配置したそうです。このように今と比べて技術の
限界がありましたが、その限界の中で最大限の効果を上げて表現にするにはどうしたらよい
のかということをヒッチコックは考えました。それが『ロープ』という映画だと思います。 『ロープ』のアイディアは珍しかったので興行的には大成功しました。ヒッチコックは有
頂天になって続いて『山羊座のもとに』(49)でこの手法をさらに発展させる。より複雑
な動きのワンシーンワンカットを行った。『ロープ』の場合は原作の演劇を映画にしたもの
で演劇空間にカメラが入り込んで撮影したから基本的にひとつのセットなので客席の側にカ
メラを配置すればよかった。しかしこの作品では通常の映画のセットなので、大きなテクニ
カラーカメラを縦横無尽に動かそうとすると無理がある。ヒッチコックは表現技術の限界を
越えたがる人なので『ロープ』でできなかったことをしようとする。そこでどうしたかとい
うと、撮影監督を行ったジャック・カーディフが書いているのですが、外から数人の人が
やってきて細長いテーブルに全員が座る。そのときカメラが外からやって来てテーブルの上
をなめるように横移動する。このようなクレーンの動きをすると当然人がカメラにぶつかっ
て邪魔になる。そこでカメラが近づくと同時に、自動的に座った人はテーブルの上の自分の
皿を持って椅子ごとひっくり返る装置を作った。このようなわけの分からないセットを作っ
たのでほとんどカメラの外側はどたばた喜劇だったという。そこまで徹底的にやると映画の
技術のための技術になってしまう。フレームの中では普通に見えるが、フレームの外ではス
タッフとキャストがバタバタして混乱の状態が起きている。そうなると役者もなにをやって
いるのかわからない状態になる。普通にカットを割ればなんてことはないのだけど、それを
違う形で挑戦していこうという衝動だけで作ってしまった。役者は目の前でカメラが動くた
びにセットや人が消えていくので、主演女優の印グリッド・バーグマンは半狂乱になったと
いう。そこでヒッチコックはひとこと「イングリッド、たかが映画じゃないか」という有名
な言葉を述べた。これを本気で言っているのか、それとも揶揄としていっているのか、彼女
はこんな撮影は耐えられないと思ったのだろう、当時は非常識な撮影と思われていたが、こ
れはいまグリーンバックで役者が演技する時代ではもはや普通のことになっていると思う。
映画の本質にかかわる問題でもある。本当の映画のリアルとはなんだろうか。 余談ですが、この極度に人工的なこの作品でイングリッド・バーグマンはハリウッド映画
女優のキャリアを終えるて、イタリアに渡り映画監督ロベルト・ロッセリーニと結婚して、
彼のもとでハリウッド映画とは正反対のドキュメンタリー的なネオレアリズムの作品に出演
するようになる。 ヒッチコックはワンシーン・ワンカットを突き詰めた結果ふたたびモンタージュに戻って
くるわけです。戻ってきてまた次のレベルに行くわけです。それが1950年代の今も残って
いるヒッチコック映画の黄金期である、『裏窓』(54)、『めまい』(58)、『北北西に
進路をとれ』(59)です。作品的な質、プラスして興行的な質も押さえてある意味ハリ
ウッドの頂点に立ったといえるかもしれません。 またこの時期は新しく開発されたビスタ
ビジョンカメラを使っています。通常の35ミリフィルムを横走りすることでフィルムの面
積を広くして画質をあげることができる仕組みです。これも美学と技術とプロデューサーと
しての観客の欲望に答えるショーマンシップがうまく組み合わされていた時代だったといえ
るでしょう。ここまでがヒッチコックがサイコを撮るまでの技術と技法についての流れで
す。 子どもが喜ぶ大きな機関車 では、オーソン・ウェルズとはどういう人なのか。ウェルズのキャリアは、いわゆるワン
ダーボーイと呼ばれる早熟の天才で二十代の前半から演劇ラジオ、天才と呼ばれていてブ
ロードウェイでやられた「ヴードゥーマクベス」と呼ばれているシェークスピアをヴー
ドゥー教、いわゆるカリブ海の土俗の宗教として舞台をカリブ海の部族で起きているように
変更したというのが、黒人たちをブロードウェイに出演させる口実として作られた。あるい
はシェークスピアの「ブルータスお前もか」の「ジュリアス・シーザー」をナチス風の制服
を着させて上演した。非常に象徴的な照明で、レニ・リーフェンシュタールの「民族の意
思」のナチスの党大会のような照明をして劇をやった。と破天荒な上演でブロードウェイで
評価を得た。一方ではラジオという新しいメディアで、ハロウィンの夜にH・G・ウェルズ
原作のSFの「火星人襲来」をセミドキュメンタリー風の演出をして全米をパニックに陥れ
た。ラジオドラマを作り上げたリアルにした。高度なテクニックによりみんなを驚かせた結
果、騙されたと非難轟々になってしまった。 その実績を引っさげてハリウッドに来て、RKOという弱小の映画会社で製作に関する全
権委任の自由を得て映画界に入った。これは7年契約に縛られたヒッチコックとは正反対の
待遇ですね。 そして最初に撮ろうとしたのが、『地獄の黙示録』と同じ原作ジョゼフコンラッドの短編、
「闇の奥」。これをI=Eyeという全編を一人称カメラ(POV)で、カメラが主人公の船員
の目となってアフリカのコンゴ川を遡る、それをそのまま映像化しようというとんでもない
常識外れのアイディアだった。脚本やセットのスケッチ、ミニチュアモデルが完成したが途
中で中止された。いまでは『REC』シリーズなどのホラーやシューティング、あるいは小
型のアクションカメラHeroなどで撮影できるようになったが、似たコンセプトで撮られ
たレイモンド・チャンドラー原作の『湖中の女』(47)は、ハードボイルドなので一人称
カメラで描かれた作品だったが評価は高くない。 ハリウッド映画の本質を暴き出した『市民ケーン』 『闇の奥』の代わりに製作されたのが『市民ケーン』(41)。いわゆる映画史上のベス
トワンと言われますが、豪華絢爛なハリウッド大作映画ではなく、意外と低予算だというこ
とがわかっています。実にスケジュールと予算を守った慎ましい製作現場でした。そのため
にありとあらゆる映画のテクニックを駆使して作られています。合成特撮のマットペイン
ティングなど今でいうVFXが、一説には全体の50%以上のカットになにかしらのエフェク
トのためのテクニックが使われているといわれています。あるいは極端なアングルでセット
を簡略化したり、光と影で画面作りやパンフォーカスというか、これは間違った日本語で
ディープフォーカスという被写界深度をつかった画面全体のピントを合わせて奥行きのある
画面を作るテクニックを駆使しています。そのためにはたくさんライトを当てて、アイリス
を絞る、画面がゆがむくらいの広角レンズを使用する。それだけでは無理なカットは二重合
成してピントを合わせる。そこまでいかなくても最新型のキャメラとレンズ(ファーストス
ピードレンズという暗いところにも強いレンズ)を導入してディープフォーカスを利用して
いる。スタジオのコンクリートの床に穴を掘ってそこにカメラを据えてローアングルにして
天井を造った。スタジオでは天井が無く照明を吊るすのは暗黙の了解だったがそれを破っ
た。 自らが伝説となりハワード・ヒューズ的な予算を考えない破天荒な人物と思われるが、実
はカメラアングルやレンズのサイズまで指定できるテクニシャンだった。しかしその技術を
具体的に達成できるためにはキャメラマンの存在が必要だった。グレッグ・トーランドはハ
リウッド最高のカメラマンで実は『市民ケーン』の実験はすでに先行してジョン・フォード
やウィリアム・ワイラーの作品で行われていた。だからその集大成が『市民ケーン』なの
だ。グレッグトーランドは自らウェルズを訪ねて「もしカメラマンが決まっていなかったら
わたしにやらせて欲しい。賃金は業界の最低規定でよいといった。」驚いたウェルズはなぜ
ハリウッドで最高のキャメラマンがここまでするのですかと聞くとトーランドは「新人とや
ると常識外れのことが起きるから」と笑ったという。撮影に入ってもウェルズは演劇時代の
癖で照明を自分で決めていたが、ある日トーランドがウェルズに知られないようにこっそり
と直しているところを見てそれ以後はすべて彼に任せたという。クレジットを監督とトーラ
ンドが分け合ったのはその最大の敬意だろう。トーランドはのちに業界紙に、将来的には映
画は3Dになりカメラはポケットに入れて持ち運べるものになるだろうと語っている。いま
ではどちらも実現しているし慧眼だといえよう。トーランドは技師を越えたアーティストだ
と言って良いだろう。またウェルズは音の使い方でも、ハリウッド映画とは違ってラジオの
音響効果を駆使して映画の画面に奥行きを与えている。 ハリウッドの実験映画作家 次の『アンバーソン家の人々』(42)ではヒッチコックの『ロープ』の前に10分間の長
回しを行っている。部屋を越えて大きなカメラが移動するときに壁の下にキャスターを付け
てカメラを通して部屋のセットでのカット割りの概念を崩した。また冬の寒さを表すために
吐く息を白くするために冷凍倉庫にセットを作った。これもリアリズムより観客を驚かせる
稚気のような気がします。 『ストレンジャー』はビデオ化の時にナチス追跡と副題がついている通り、ヒッチコック
の『汚名』と同じようなテーマ、ナチスの残党と平和な世界という闇を描いている。 『マクベス』(48)は低予算で作られた舞台のヴードゥ・マクベスの映画版。リパブ
リック社というマイナーな撮影所で製作された。ウェルズは低予算をどのようにテクニック
とテクノロジーで実験して乗り越えたのか。シェイクスピアが生きていた頃の古語の英語
ウェールズ語で全編を会話するので台詞によるNGを無くすために、撮影前に台詞を録音し
て撮影するときに流して役者はそれに合わせて唇を動かす口パク、プレスコといいますがこ
れを採用した。そのためにものすごいスピードで撮影ができた。実際に23日間で一日に○
カット撮影できた。演劇とラジオという映画とは違う異業種出身ならではのアイディアで、
最低の条件をひっくり返して自分の作家性を貫いた。ちなみにこの作品のカメラマンのジョ
ン・L・ラッセルは『サイコ』を担当して、『黒い罠』のオペレーターとしてノンクレジッ
トで協力している。完成した『マクベス』は演劇のように、前奏曲プロローグ音楽が十分
間、幕が上がる前に黒味のまま流される予定だったが、公開時はカットされてしまった。 国際自主映画作家 予算とスケジュールを守る職人監督として面白い映画を撮っても、時間のコントロールを
支配する秘法を暴きハリウッドの暗黙の掟に触れて真実を追求した者は、ハリウッドから仕
事を干されてしまいヨーロッパへと向かい亡命作家になります。これは後の赤狩りで左翼映
画監督のジョゼフ・ロージーらが出国するより少し前の時期だったりします。彼のヨーロッ
パの仕事で印象深いのはご存知のところでは『第三の男』(49)のハリー・ライムです。
面白いことにこの映画のアメリカ側のプロデューサーがセルズニックなのです。ヒッチコッ
クが『ロープ』から自由を得てハリウッドの頂点を目指し始めた頃にウェルズはすべての自
由を剥奪されてまったく反対の道を歩むことになります。その次の『ミスター・アーカディ
ン』(55)はメキシコ、『オセロ』(52)はモロッコの外国資本で製作されていて国際自
主映画作家と呼んでも良いでしょう。『オセロ』のときは衣装が間に合わなくて、シーンを
サウナ風呂に切り替えて衣装を使わなかったり、ウェルズが他のハリウッド映画に出演した
際に使った高価な衣装を出演シーンが終わったあと持ち帰って自分の映画で使ったり、ホテ
ル代が払えずに出演者が軟禁されたり、窓から逃げ出すのは日常茶飯事と映画を撮るために
涙ぐましい努力をしていた。 規格外のB級映画、『黒い罠』と『サイコ』 そして1950年代の終わりは若者文化とテレビの影響を受けてハリウッド映画は揺れて
いた。『黒い罠』(58)と『サイコ』(60)の重要性はいわゆるAランクの映画作家が予
算と日程に厳しい不自由な制約があるB級映画を撮った。それによってフィルムノワールと
いうジャンルを終わらせ、一方でより過激なスプラッター、あるいはショッカー映画という
それまでのホラー、怪奇映画とは違ったリアルな表現方法を観客の前に見せて、観客の映画
に対する意識を永久に変えてしまった。さらに言えば、それまでのハリウッド映画の持って
いた神話性をを破壊してしまったといえるでしょう。間違ってはいけないのは、それをウェ
ルズとヒッチコックしかやらなかったのか、また最初にやったのは彼らだったのかというこ
とです。作家主義の発見で考えるとそのように言いたくなる誘惑に駆られますが真相は違い
ます。無名な映画の製作者が悪条件の中でやるのであれば、リアルな表現として血が流れる
とか手持ちカメラを多用することは行われていたはずです。しかし彼らが行った表現が確実
にハリウッドおよび映画史にインパクトを与えていることが重要なのです。映画界の製作条
件の変化、技術やカメラの性能が上がったことで同じようなことを考える人、まあ人間の考
えることはそれほど変わらないのでそういうことがおきます。映画の35ミリ24コマの
フォーマット自体は世界共通なので偶然に発見することも可能でしょう。それをスタイルま
で昇華してまとめ上げたのがこの二人の天才作家の力ということは大きいのだと思います。 この二つの作品においてさらに画期的だったのが、ヘイズコードと呼ばれる検閲に、わか
りやすくいうとハリウッド映画では夫婦でもダブルベッドで寝るシーンは写さないという
セックス、バイオレンス、ドラッグに関する自主検閲を巧みにあからさまに破壊したので
す。それは何に繋がるかというと、観客の知性に訴える現代的なものにどのようにアプロー
チしていくか、それこそが観客の欲望に訴える、実際同時期にテレビがあるわけで、ドラマ
だけではなくニュースで起こっていること、あるいはサブカルチャー、音楽、文学を含む、
現実への挑戦であり、観客を目覚めさせ挑発する。まさに現実に対する表現者としての態度
を示すわけです。それは一方でハリウッドの豪華絢爛な偽善を暴き、映画会社の重役たちの
現状へ安穏とした姿をどうやって脅かすことができるかの賭けでもあった。ひとつ間違えば
自分たちの世界を破壊してしまうか永久追放になるわけですからね。 テクノロジーとテクニックで制約を越える 『黒い罠』と『サイコ』の類似点。製作条件が予算100万ドル、撮影日数は変わらな
い。上映時間もほぼ同じ。しかし正反対なのは『黒い罠』はほとんどロケ。ロケでリアルに
見せたいというのとスタジオで撮影していると撮影所の重役たちがスパイを送ってきて進行
状況をチェックして口を出そうとする。それを避けるための二つの理由があったのです。 一方のヒッチコックの『サイコ』はほとんどがセット撮影、舞台のモーテルもユニバーサル
スタジオに建てられた。クルマのシーンもスクリーンプロセスを利用している。『サイコ』
の撮影は50年代のヒッチコックの黄金期を支えたロバート・バークスではなく、30分の
テレビ番組「ヒッチコック劇場」で何本も早撮り撮影をしたジョン・L・ラッセルです。こ
の早撮りを先ほど話したウェルズの『マクベス』ですでに行っていたことも興味深いです。
『黒い罠』で使われたカメラはミッチェルとカメフレックスです。ポイントとなるのはレン
ズサイズが30ミリあるいは17ミリ。ミッチェルカメラはハリウッドの業界ご用達のカメ
ラ。先ほどの『ロープ』などで使われたテクニカラーからコダカラーへの転換が起きていま
す。それまでの3本のネガから1本のネガへコストダウンを計ることができるし、カメラも
テクニカラー専用ではなくサイレント時代からの旧型カメラでも対応できるようになったの
です。話が逸れましたが、なぜミッチェルカメラなのか、ここでハリウッドの産業の面が現
れてきます。映画というコンテンツにハリウッドの品質保証が必要なわけです。世界中どこ
に出してもおかしくない完成品であることが、作家や芸術作品であるが必須なのです。それ
を保障するのがカメラの安定性です。そこで事故があってはならないのです。今はビデオカ
メラですが、フィルムはワンカットごとにゴミが入ってフィルムに傷がついていないかを点
検し、また現像所でもミスにより事故が起きないかを知る必要があるのです。それらがきち
んと成立することが映画産業としては重要なことです。ハリウッドで忘れがちな側面です。
機材の信頼性・安定性が最も重要な映画製作の条件なのです。しかしその一方でハリウッド
は最先端テクノロジーを駆使して観客を驚かせることも特徴として行っているのです。『黒
い罠』ではユニバーサルの撮影部門のトップのラッセル・メティが付きます。彼はダグラ
ス・サークの50年代の傑作メロドラマを撮影しています。管理職の肩書きがあってもこの
時代のカメラマンは映画の初期から携わっている強兵ばかりなので、メティもウェルズの冒
険に喜んでついて来ます。 映画製作をを工業製品のものづくりとして考えていただければよいと思いますが、ミシン
とか工場にあるNC旋盤とかのデカくてゴツくて壊れないのが一番の条件だったわけです。
いまもカメラのコンシュマー用とプロ用で一番違うのは機能よりも耐久性といっても過言で
はありません。プロが使うものですから取り扱いが難しい巨大なテクニカラー・カメラもい
いんです。それが基本的な考え方です。逆に言うとそれを扱えるのが高度な技術者=テクニ
シャンであり、職人だったというのがオールド・ハリウッドの見えない肝だったわけです。 一方のカメフレックスはフランス製のカメラです。小型なので○分しかフィルムを装てん
できません。ゴダールの『勝手にしやがれ』で全編にわたって使われたカメラです。ニュー
ス用に使われていたカメラで劇映画を撮った。しかしそれよりも前にこの作品で、ウェルズ
がハリウッドのメジャー作品の中で効果的に表現として使った。それがエレバーターのシー
ンです。カメラがエレベーターの中に入り込み1階から2階まで上がるのを1カットで捉え
ています。それまでも16ミリやアイモのような小型カメラを使った例はたくさんありま
す。例えばロバート・ロッセン監督の『ボディアンドソウル』(47)では、撮影監督の
ジェームズ・ワン・ホウがボクシングのリングに上がりローラースケートを履いて手持ちカ
メラで撮影しています。 ウェルズは国際自主映画作家としてヨーロッパ、アフリカを転々としながら映画を製作す
る過程で、製作資金が乏しく撮影条件にぜいたくはいえないから、彼の映画はほとんどがア
フレコです。ラジオのテクニックで複雑なエコーをかけたりマイクの位置を工夫して距離、
芯を外して角度を変えて音質を変えたりフェーダーでは無くマイクを動かして音をわざと歪
ませたバロック的な空間を生み出しています。 小型のカメフレックスの使用だけではなくレンズのサイズを18.5ミリという超広角レンズ
で遠近感が誇張されます。誇張された空間が作られるのと同時に、フレームから人が切れる
NGが無くなるから、演技者も自由にできるし、カメラもより複雑な動きに挑戦することが
できるメリットがある。sのために製作時間を節約することができる。普通ならばカメラが
入れないような狭いところに入りそのアングルから撮影できるために非現実的な画の世界を
作り出すことができる。これは一歩間違うと観客にカメラを意識させ過ぎるが、スタイルま
で昇華できたのはウェルズのセンスとハリウッドの優秀なスタッフの職人技だろう。 映画史上の最高のオープニングシーン これがもっとも分かるのが、映画史上最高と呼ばれている冒頭の3分20秒の長回しだ。
『黒い罠』はメキシコとアメリカの国境を挟んだ地区で起こる犯罪をメキシコとアメリカの
捜査官が一緒になって捜査するというミステリー映画で、オープニングカットではメキシコ
の国境とアメリカの国境までクルマが走り国境を超えた途端に仕掛けられた時限爆弾が炸裂
する事件が起こるまでをワンカットで撮影している。ウェルズは本当はメキシコの国境まで
行って撮影したかったが、撮影所の重役側が目の届かないところに行ったら何をするかわか
らないと懸念したので、ハリウッド近辺をロケハンして見つけたのが、撮影所から西へ車で
30分のところにあるヴェニスという地区です。ヴェニスビーチはサンタモニカビーチと並
んで海岸沿いのリゾートの街です。アーチがある建物が特徴的なエキゾチックな風変わりな
建物が並んでいます。ここは20世紀の初めに不動産デヴェロッパーがイタリアのベニスを
模して作った街です。だからヴェニス風のアーチがあり、運河もあります。日本でいうと長
崎オランダ村のような人工的に作られた街でしょうか。オープンした当時は休日に人が集ま
り大変な賑わいでしたが、すぐに飽きられてしまってこの頃には寂れていました。もっと後
の80年代にはカラーギャングの抗争が行われる地区としてデニスホッパー監督の『カラー
ズ 天使の消えた街』(88)の舞台にもなりました。ウェルズはそんな俗っぽい街をまっ
たく違う映画の舞台に変えてしまった。映画監督のサミュエル・フラーは『黒い罠』が大好
きで「わたしがもし映画批評をするならこの映画について話す」と言っています。また「わ
たしはこの国境の町を良く知っているが彼はそれを見事に捉えている」というあたりはヴェ
ニスビーチについて知るとあれと思いますがプロの監督であるフラーが騙されるほどのリア
リティを感じさせることができた証拠ではないでしょうか。 撮影準備風景の写真を見るとカメラを載せるクレーンにはゴムのタイヤがついておりガ
ファーと呼ばれる特機専用のスタッフがこれを動かします。この重たい機械を手動で完璧な
タイミングで監督の狙い通りに動かす。しかも複雑で途轍もなく長い距離の動きです。ウェ
ルズはハリウッドの特機のスタッフの力は世界一だと絶賛しています。組合の規定でクレ
ジットには出ていませんが、カメラの操作は『マクベス』の時の撮影監督ジョン・L・ラッ
セルが担当したと彼は語っています。これはまた矛盾していますがハリウッドを追放された
ウェルズの世界を再現できるのはハリウッドしかないことを表していると思います。 グーグルマップでロケ地を特定して見ると実は300メートルくらいしか移動していないこ
とがわかります。今だともっと長距離を移動している長回しの映画はたくさんあるでしょ
う。実はカメラのフレームの後ろと右側はビーチなので、もうこの時点でカメラを向けられ
る方向は決まってしまう。ヒッチコックの『ロープ』のように長回ししているのだから、こ
れはカット割をすればよいのではという意見もある。しかしこの場合、何の変哲も無い場所
をエモーショナルな異次元の空間と奇妙で非現実的な物語に入るためにはそれなりの世界観
を出す必要があります。予算的な制約もある悪条件の中、これを普通に撮ったら安っぽいた
だ近所でロケした映画にしかならないかもしれません。それを避けるために観客の度肝を抜
くようなトリッキーな仕掛けを考え出したのです。時限爆弾の超クロースアップから大ロン
グショットで街並みが見渡せるところまでワンカットなのでカメラの動きもリアルに人やク
ルマの動きを追うのではなく、瞬間瞬間で時間と空間を伸び縮みっせている。その作られた
フレームの中に人々が飛び込んでくる。カメラが後退すると同時にものすごい勢いでエキス
トラが画面を横切る。さながら舞台の幕が開くと登場人物たちで舞台が満杯になるかのよう
だ。これは最近のデジタルシネマカメラとスティディカムを使ったドキュメンタリーのよう
な長回しとはまったく違い計算されつくした動きだ。ウェルズの『偉大なるアンバーソン家
の人々』ヒッチコックの『ロープ』で真似て、『山羊座の下で』で失敗して止めた長回しを
完成の域まで持ってきている。長回しのカメラ移動でモンタージュをするのではなく、カメ
ラの中でスター時のシーンが完成してそれをパノラマ舞台のように動かしている。シアター
の効果を駆使していることにヒッチコックは驚いたのではないだろうか。カメラが人物の動
きを追うのではなく舞台の中の人物たちの動きはカメラによって制御される。リアリズムで
はなく振り付けされた動き、突然に人物が90度曲がったり不可解なルートを歩くが、カメ
ラから見ると自然な動きに見えるトリック。リアルと非現実性が交互に現れる仕掛けだ。さ
らに非現実的な雰囲気を出すために撮影時間が、夜なのにほのかに地平線が明るい夜明け寸
前という時間帯が選ばれている。 早すぎた未来の傑作映画 ほかにも9分くらいの長回しのシーンがあります。ここでは狭い部屋の中でカットは3つ
に分かれているのですが、なんと12人が出入りする複雑なカメラの動きです。これもカッ
トを割ったらよいのだけど割っていないために非常に圧迫感があります。 また現在では普通に車の中にカメラを置いて撮影ができますが、大きなミッチェルカメラ
は車内に設置できないので、通常はスタジオに撮影用のクルマを置いて背景に映像を映すス
クリーンプロセスの方法をとります。これなら女優の髪型も崩れないしライティングもコン
トロールできる。通行止めにする必要も無いし、余計な騒音を気にせずにきれいに録音がで
きる。カメフレックスに18ミリレンズを付けオープンカーのボンネットに固定して、ス
ピードを出して狭いヴェニスの裏通りをすり抜けると異様な迫力が出る。実際ににせりふを
喋りながら運転したので主役のチャールトン・へストンは怖かったと語っている。ここでは
リアリズムでハリウッド流の定番を壊していくわけです。地図を見ると本当に狭い地区の範
囲で巧みにロケをしている自主映画ですね。 またひとつの画面で手前ではチャールトン・へストンが部屋から電話をかけて、奥でオー
ソンウェルズが歩いている。これもワンカットで撮影する。普通はカットを割って目線でつ
なぐのが通常のハリウッドスタイルというか、シナリオでもそのように書かれるはず。しか
しこのように撮ることである意味リアルに描写してシナリオの慣習を破ることができる。 予算内にスケジュールを守って撮影を終えたので、ユニバーサル映画の重役たちは喜んで
ウェルズと新たに3本の映画を作る5年契約を結ぼうとした。しかし試写を見て愕然とす
る。そうですよね。非常に保守的な映画を作ってきた者たちに痛烈なしっぺ返しですから。
「あなたたちは古い」と宣言しているようなものですね。現代アートでは批評的創造は当た
り前の行為ですが、映画はここでも芸術的な価値の高い商品かどうかが問われたわけです。
ハリウッド映画を壊そうとしていたわけではなく自分がヨーロッパでやってきたことを応用
して世界最高級のハリウッドの技術を存分に駆使して斬新な映画を作ったと思っていたで
しょう。しかしそれがハリウッドの暗黙のタブーに触れてしまったのです。『市民ケーン』
の悲劇が再び起こったのです。 そのために両者は決裂してウェルズは編集権を失い、勝手に追加撮影と再編集されて公開
されてしまった。数年前に一度だけ試写を見ることが許されたウェルズが書いた53箇所の
変更指示のメモが発見されて、それに基づき『地獄の黙示録』の編集者ウォルター・マーチ
が再編集した版が作られた。それによるとポピュラー音楽が使われ、ヘンリー・マンシーニ
のテーマ曲がなくなるなど、非常に緊迫した現代的な作品に仕上がっている。 普通に期限内に仕上げた規格品が欲しかったのに、芸術作品ができてしまった。結果とし
て重役たちはバカにされたような感覚を持ったと思う。それによって映画をズタズタにされ
てしまった。シナリオに書かれていても演出では書かれていないことが起こった。これまで
通りのハリウッド映画ならばこんなことは起きなかったはずで重役が喜んだだろう。クラッ
シック音楽の演奏が指揮者によって変わるように映画は監督の力で技術を知りスタッフ・
キャストの技術者を使いこなす総合芸術ということが逆説的に証明されてしまった。 シャワーシーンの作者は誰か 『サイコ』は、『黒い罠』と似たような製作予算です。後々までたくさんの映画や小説な
どポップカルチャーへ影響を与えています。。例えば『悪魔のいけにえ』や『羊たちの沈
黙』が挙げることができるだろう。『サイコ』も『黒い罠』と同じユニバーサル映画社で撮
影されている。カメラオペレーターだけでなく、ヒロインのジャネット・リーが両方の作品
でとんでもないひどい目に遭わされる。セットデザイナーが同じだったためかモーテルの
セットが似ている。アンソニー・パーキンズのマザコンのモーテル管理人が出てくるが『黒
い罠』でもデニス・ウェーバーが同じようなキャラクターで出てくる。彼はスピルバーグの
デビュー作の『激突!』の主演だけど、テレビムービーでは『警部マックロード』の主演。
『黒い罠』のときもテレビの若手人気俳優だったが乞われて脇役で出演した。 ヒッチコックが『黒い罠』を意識していたことは間違いない。『サイコ』のオープニング
ショットはアリゾナ州・フェニックスの街の外からあるホテルの一室までワンカットで撮影
したいと言っていた。『黒い罠』のオープニングを超えるために、これをしのぐ3キロに及
ぶカットを撮るとインタビューで明言している。 有名なシャワーシーンがありますが、いったい誰がこのシーンを監督したかという話があ
ります。ソウル・バスという映画のいろんなオープニングタイトルを作っている有名なグラ
フィックデザイナーでずっとヒッチコックと組んでいて、この『サイコ』のタイトルも作っ
ていますが、彼がビジュアル・コンサルタントという肩書きで参加しています。このシャ
ワーシーンの絵コンテを彼が書いています。そしてこの絵コンテ通りに撮影されています
し、バス自身がこのシーンを監督したと喋っていたりするので話が混乱しています。 しかしほぼ定説としては絵コンテはバスだが実際に現場で監督したのはヒッチコックだと
なっています。なぜ完ぺき主義者のヒッチコックが他人に絵コンテを作らせて自分は監督に
徹したのか、が問題だと思います。一般的にヒッチコック映画は細かく切り刻まれて編集さ
れている印象がありますが、実はヒッチコックはテレビみたいな台詞での編集はせずにワン
カットが長いのです。無意味にカット割をしていない。そこがまた通常の製品としてのハリ
ウッド映画とは違う。理由がないとテンポでカット割をすることはない。機械的にルールだ
からといって雰囲気で決まりきった編集をしない。ただこのシャワーシーンというのはビ
ジュアルショックなんですよね。これまでのハリウッド映画なら、バスルームの外から撮っ
て悲鳴だけでカメラは部屋の中に入らないと思えます。だからこのシーンをわざわざ細かく
視覚的な衝撃を与えるように撮る必要はない。極端な話、ストーリー上の必然性はない。こ
のシーンでこんなにカットを割る必然性はない。これはそれまでのヒッチコックの映画スタ
イルの美学に反するわけです。だからたぶんヒッチコックはこのような絵コンテを書けな
い。映画とミュージックビデオの編集が違うようなものでしょうか。だから別の分野の人に
書いてもらってその通りに現場で監督して編集者に渡したのが真相だと思います。ある意味
これは映画から逸脱してミュージックビデオやCMのカット割りであり、良くも悪くも現代
風なシーンであると言えるでしょう。 またホラーというインパクトやショックだけの驚かしなので、映画と映像の時代はここら
辺で分かれるのではないか。その裏には若者文化や刺激の強さへの対応だと思われる。だか
ら逆説的ににオープニングタイトルを担当していたソウル・バスだからこういうカット割が
できたのではないかと思います。 ヒッチコックの場合はこのシャワーシーンにはもうひとつの目論見がありまして、それは
先ほどのヘイズコードという検閲がトイレを描写してはいけないというルールがありまし
て、それをシャワーシーンの強烈さのドサクサにまぎれて破っている。シャワーを浴びるバ
スルームはプライベートな空間なので見知らぬ人が突然入ってくることはありえないことで
す。純朴なアメリカ人を驚かしそのタブーを破ったことにヨーロッパ人であるイギリス人の
意気地があったと思います。 こうして『黒い罠』と『サイコ』でいろんなものが壊れていった。これが古典的なハリ
ウッドの崩壊の序曲だったと思いますが、B級映画がこれまでの良心的で安全で誰でも楽し
めるハリウッド映画、スタジオシステムで作られた工業製品を壊した。じつはこのシーンで
も『黒い罠』と同じく狭いバスルームのセットの中で撮影するためにカメフレックが一部で
使われているといいます。 『サイコ』のジャネット・リーが逃亡する車のシーンは、スクリーンプロセスを使った人
工的なシーンだが、豪雨のワイパーや対向車のライトなどを完全にコントロールしてサスペ
ンスを作り上げている。これは『黒い罠』の屋外ロケの車の撮影へのヒッチコックなりの反
歌だと思うのは考え過ぎだろうか。 新しい時代の預言者としての映画作家 この時代を改めて俯瞰で見てみます。58年に『黒い罠』、60年『サイコ』でその間の
1959年には何が起きたのでしょうか。映画史的に重要なのは『勝手にしやがれ』(59)、
そしてもう一方では『リオ・ブラボー』(59)のような爛熟した西部劇が現れます。『リ
オ・ブラボー』は西部劇映画の古典という位置づけですが、じつはこの映画は監督兼プロ
デューサーのハワード・ホークスが1本の映画と言うより、切り売りすればテレビ向けのシ
リーズになるといってアリゾナの映画村のようなところで作られた節約された映画なので
す。そういう時代の狭間の映画なのです。60年に入るとイタリアのミケランジェロ・アン
トニオーニの『情事』、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』のようなヨーロッパから新
しいアート映画が誕生します。これまでのハリウッド娯楽映画とは違った流れが現れてきま
した。その意味では『黒い罠』と『サイコ』はアメリカで最初にヨーロッパスタイルに対抗
できたモダンな映画といえるでしょう。 そして60年代、ふたりはどこに向かっていくのでしょうか。彼らの次の作品は『鳥』(
63)と『審判』(62)です。ウェルズは再びハリウッドを追放されてヨーロッパへ向かい
ます。フランツ・カフカの不条理小説の「審判」を『サイコ』のアンソニー・パーキンスが
主演のヨーゼフ・Kを演じています。『審判』も『黒い罠』と同様にほとんどがロケセット
です。屋外のシーンは当時の社会主義国家、東欧のユーゴスラビアで撮影されて、それ以外
の巨大な曲がりくねった表現主義的な異様なセットは実は廃墟を利用したセットなのです。
場所はパリの中心部にある使われなくなった鉄道駅オルセーの広大な施設です。これも『黒
い罠』でヴェニスをメキシコの国境の町に変身させたのに似ています。このオルセー駅は現
在は改装されて印象派のコレクションで有名なオルセー美術館になっていますがこの当時は
まったくの廃墟でした。これを利用して不可思議な不条理な世界の舞台にしたのです。 一方のヒッチコックの『鳥』も非常に終末論的で不条理なストーリーです。興味深いこと
にこの二本の作品の63年にケネディ大統領暗殺という大事件が起こっています。61年には
キューバ危機があって核戦争の恐怖が実際にありまして、これが影響を与えているといえる
でしょう。ケネディ暗殺もアマチュア撮った8ミリ映画のサブルーダーフィルムと呼ばれる
映像が残されている。日本でも最初のアメリカからの衛星中継の映像がこの悲劇のニュース
だった。小型映画とテレビが世界を記録・発信する時代の幕開けの象徴だったとも技術の映
画映像史の観点からも見てとれるでしょう。黙示録の記録の時代の幕開けです。 天才の晩年 さらにヒッチコックは『マーニー』(64)、『引き裂かれたカーテン』(66)、『ト
パーズ』(69)、『フレンジー』(72)というどんどん世界を広げる一方で、個人的な世
界に引きこもるようになってきました。『引き裂かれたカーテン』は東西冷戦を背景にした
スパイスリラーですが、ヒッチコックはここでも技術的な実験を行っています。これまでの
ハリウッド方式の照明がたっぷり当たった色鮮やかなカラー映像から、間接光を利用した照
明を使った自然なライティングに変えています。これはヨーロッパ方式という流行に則って
います。 そして○年には未完の『カレイドスコープフレンジー』という作品があります。連続レイ
プ殺人鬼の話のなのですが、過激で直裁的な表現のシナリオだったと言われています。スチ
ルと短いテストフィルムがありますが、ここでも自然光を使いヌード表現を使っています。
この時期フランソワ・トリューフォーと映画術のインタビューを受けていますが、ヌーヴェ
ル・ヴァーグの旗手トリュフォーにもシナリオを見せたそうだが、全員がこの映画の製作に
反対したという。しかしこの67年に、ミケランジェロ・アントニオーニが、ハリウッドの
MGMの資本でイギリスで製作した『欲望』(67)が実質的にヘイズコードを終わらせた
といわれています。これはスゥインギー・ロンドンの放埓な若者たちの姿と殺人事件を組み
合わせた奇妙な映画ですが、カンヌ、ベルリン、ヴェネチアの三大映画祭で受賞している。
ヒッチコックは悔しかったと思います。ヒッチ・ザ・リッチというほど富を持っていた彼に
とって欲しかったのは名誉だったわけですから。実際にヒッチコックが名誉ある作家として
認められるまでにはまだ時間がかかります。『カレイドスコープフレンジー』は、ヒッチ
コックが故郷ロンドンで製作した『フレンジー』になってその生々しい描写など設定の一部
が残されています。スランプだったヒッチコックが復活したのではなく、50年代にハリ
ウッドで頂点を極めて60年代『サイコ』で自らの安住の地であるハリウッドを崩壊に導
き、最先端のヨーロッパスタイルを貪欲に取り入れて自分のスタイルに洗練させようとし続
けた。 一方のウェルズは、74年に『フェイク』を撮るまでいくつもの未完のプロジェクトを抱
えている。『フェイク』はこれまでのどの映画にも似ていない作品です。ドキュメンタリー
というかモキュメンタリー、ウェルズはただ座ってほかの人が撮影した編集台でフィルムを
つないでいるだけ。この作品ではB級映画どころかゼロ予算映画で自分で撮らなくても映画
はできることを実験して証明していきます。極端に言うと誰でも映画は作れるという過激な
試みですね。この頃ウェルズは元々得意だった音の使用をさらに音と画を分離独立させなが
ら映画を作る作業に取り掛かります。実はこの時期にゴダールもソニマージュという自分の
スタジオで映画の画と音の実験しながら製作を進めているんですね。彼のヴィデオエッセー
は、ウェルズの映画エッセー『フィルミング・オセロ』や『フィルミング・トライアル』に
ヒントを得ているのではないかと思います。 ウェルズのフィルモグラフィーはここで終わるのですが、85年に亡くなるまで彼は前進
を止めません。『ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・ウインド』では『サイコ』のシャワー
シーン以上の細切れな映像の断片の編集術を見せています。最後にどこまで到達したからと
いうと映画を変えたと言われるワンダーボーイはビデオにたどり着きます。ビデオを使って
「リア王」のテストフッテージをビデオ撮りしてモノクロフィルムにキネコしています。残
念なことにこのフィルムは行方不明です。そして亡くなる直前には現在もテレビ番組の撮影
に使われるソニーの一体型ビデオカメラ通称ベータカムを使って、何台も並べて大学で授業
を撮影しようとしていた。この時代に映画人で真剣にビデオに取り組んだ人は少ない。ウェ
ルズはこんな言葉を残しています。「映画カメラは安直な機械だ。大切なのはポエジー
だ」。 偉大な映画人が作り出した技術と技法はデジタル一眼レフで自在に再現できます。いやそ
れ以上に彼らが壊した制約と新たに築き上げたの自由と選択肢が私たちに与えられた自由な
のです。そしてそれは私たちの手に委ねられている。 Part.4 七〇年代アメリカン・ニューウェーブとアーティストスタイル ソフトウェアでハードの限界を超える 今まで、アメリカン・ニュー・シネマを定義するときに、これまでにはないバイオレンス
表現や時代の検閲などハリウッド的なものを乗り越えて新しい映画が出て来たと言われてい
ますが、実はそれを可能にしてきた新しい技術とそれを操る人たちがあらわれてこれまで映
画を別の次元に進化させたたことに注目していきたいと思います、 最初に紹介するこの映画は『天国の日々』(78)です。夕方の淡い光の中をシルエット
の人影が佇む。これはすべて自然光で撮影されています。カメラマンのネストール・アルメ
ンドロスはスペイン生まれでキューバに移住して映画を学びました。フェデル・カストロの
政治体制に反対してフランスに渡りフランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールのカメ
ラマンになった人です。監督は『地獄の逃避行』(73)、『シン・レッド・ライン』(98
)、『ツリー・オブ・ライフ』(11)など独自の映像美で映画をつくり出すテレンス・マ
リック監督の作品です。これまで見てきたようにハリウッド映画では、世界に通じる工業製
品としての作品が作られてきました。しかし、それを超える作家性が求められるようになっ
て来ました。その変化をテクノロジーとクリエータが生み出したテクニックから見ていきま
す。 今デジタル時代の激変が起きていまして、実は今日の講座の2日くらい前にデジタルシネ
マ周りでもいろんなことが起きています。「マジックランタン・ファームウェア」という
キャノンのデジタル一眼レフカメラを、ファームウェア、要するにマイクロソフト・ウィン
ドウズでいうアップデートみたいなことで独自のソフトウェアのプログラムを走らせること
でハードの性能を引き出すいわばハッキングの作業を、世界中のデジタルシネマ好きなアマ
チュアエンジニアたちが集まってネットで意見交換しながら開発しているコミュニティがあ
ります。それが現在メーカーのキャノンが公式に出しているファームウェアよりもはるかに
性能が良いプログラムをつくっています。公式には出力が H264、Mpeg4という圧縮された
映像しか出せないのを、マジックランタンファームウェアではRAWデータというものすご
くでかいデータでデータ圧縮のロスが無いから最もきれいな映像を取り出せるようにした。
データの量が多いから細部まで再現されてポストプロダクションでクリエーターの望むよう
に加工することができます。そのようなことがメーカーの思惑を越えて一般の人たちが新し
い技術を使って表現を革新する時代に来ているのです。 昔のハリウッドという一部の専門家しかカメラを弄れないとか調整できない時代が、今は
こういう形で民主化されて一般の有志が集まってキャノンというメーカーの限界を越えてさ
らに映像表現を広げていってマジックランタン・ファームウェアをインターネット経由でダ
ウンロードすれば、世界中の同じカメラを持っている人たちが100万円クラスのプロユース
のカメラと同等の機能を手に入れることが30万円のデジタル一眼レフでできてしまう。下
手すると現在デジタルシネマでインディーズ作品として映画館にかかっている映画よりも、
高画質のものができてしまう、そういう状況が今起きています。 70年代のアメリカ映画で起きたことも同じようにハードの限界を人やアイディアといっ
たソフトウェアの革新性で超えようとした時代だと考えています。 見えない映画のサイクル 今フィルムからデジタルへ移るというのは、技術を介したアートである映像(映画)メ
ディアの必然と言っても良いでしょう。技術が発達していくと、光学的レンズの問題とか
フィルム感度、再現力がどんどん良くなってきて表現力が上がっていく、それによって映画
の形も変わっていくのも必然だと思います。それが「見えない映画のサイクル」です。今、
多くの人に見えているのが、映画館で公開される最終的な作品の姿です。その作品を見て批
評が生まれ作品の評価が映画史に定義付けられて広まっていきます。一方の作り手の、クリ
エーターと呼ばれる人たちは技術や技法や現場を知っています。逆に言うと現場を知ってい
るから、美学的な言葉を連ねた批評に対して「何も知らないで言ってやがる!」という言い
方になってしまう。しかしいまの時代は小型カメラでそれまで難しかった技術が誰でも使え
るようになってきている。それを「プロシューマー」という言い方をします。「プロ」はプ
ロデュースで生産、「シューマー」はコンシューマーで消費者です。日本語では生産消費者
という言い方をします。作り手でもあり、同時に観客・批評家でもある人、その両方ができ
る人たちがこれからの時代の主流になるだろうという考え方です。 それはテクノロジーが進んで来ているからできるようになった。テクノロジーの進化も、
観客、メーカーの技術者、映画に出資して儲けようとするプロデューサー(興行主)が、こ
ういうものを見たい、こんなものを作りたい、こういう映画で驚かせたら儲かるだろうとい
う「欲望」からスタートしている。作品だけを見て批評するのも美学的に面白く考察も大切
ですが、今の時代、映画が誰でも作れる民主化された時代に、もう少し幅を広げて映画を見
て行くと面白く新たな発見、より深い見方、創造ができるのではないかというのがこの講座
の主張です。それは映画史百余年で何度も繰り返されている、ほかのアート史とは違う映画
史独自の必然と考えています。 絢爛豪華、テクニカラーの時代 まずこれまでの普通のハリウッド映画とは何だったのかを簡単に見ていきましょう。それ
は「テクニカラーの時代」です。いわゆるクラッシック・ハリウッドの黄金時代、わかりや
すく言うと『オズの魔法使い』(39)『風と共に去りぬ』(39)『雨に唄えば』(52)と
いう豪華絢爛な映画を作っているときのハリウッドのスタジオで撮られる映画、最高峰の技
術を使って作られたカラー映画です。それを支えたのがテクニカラーなのです。皆さんが思
い浮かべる普通のカラー映画フィルムというと、撮影用のネガフィルムか今の劇場上映用の
プリントフィルムを考えますよね。今はヴィデオとデジタルが主流だからそれもわかりにく
いでしょうか。そもそも映画も映像も、突き詰めると光と色をどのように扱うかという問題
に行き着きます。それをどのような解決方法を見出したかを知ることはフィルム、デジタル
を問わず有効だと思います。 テクニカラー方式では撮影に3本の白黒フィルムが必要です。なぜ3本なのでしょうか。
まず撮影の時にレンズから入ってくる光をプリズムを使って赤緑青(RGB)の三色に分解
します。そうするとそれぞれの色に反応した3本の白黒ネガが出来上がります。それを再び
合成することで色鮮やかなカラープリントを作るのです。しかしカラーの仕上がりは美しい
がカメラ、撮影、現像だけではなく、照明、セット、衣装、メイクもテクニカラー仕様にす
る必要があるので手間とコストがかかる。 ジョン・フォードの初のカラー作品の西部劇『黄色いリボン』もテクニカラーで撮影され
ています。このときのカメラマンのウィンストン・C・ホークはカリフォルニア工科大学を
卒業して化学者としてテクニカラー社で三色分解システムの開発を進めその業績でアカデ
ミー賞技術賞を受賞していたテクニカラーの専門家だった。ジョン・フォードはロケが好き
で砂漠のモニュメント・バレーに出かけてが、条件が整わないからとなかなかホークはカメ
ラを回さなかった。象徴的なのはいまにも雨が降りそうな悪天候の中、騎兵隊の列がカメラ
に向かってくるシーンだった。フォードが回せという指示を出すのにホークは抵抗する。そ
れでもフォードは回せと怒鳴るので、ホークはテクニカラーカメラに適した条件ではないの
に撮影無理矢理撮らされた報告書に書いて良いなら撮るといって回した。敵のネイティブア
メリカンの捜索に失敗して戻ってくる騎兵隊の遠くの地平線に1条の稲妻が映る名シーンと
なり、ホークは1949年のアカデミー賞撮影賞(カラー部門)を受賞した。これはクリエー
ターとエンジニアの最大のちがいだと思います。悪条件でも最高の技術を超えた詩情を撮れ
ると確信したクリエーターがジョン・フォードという監督がいたことは重要だと思います。 1949年にコダック社がいまのイーストマンカラー方式、一本のネガでカラー写真が撮
影できる方法を開発したために、サイレント時代のカメラが再び使用できるようになるなど
コストダウンができるようになった。同じ頃にテクニカラーの特許の期限が切れて独自技術
を公開した影響もあって、テクニカラーは次第に廃れて行きます。「悪貨は良貨を駆逐す
る」ということわざがありますが、性能が多少劣っている技術であっても、コストや便利さ
というそれを補うメリットがあれば新しい製品が普及していきます。ビジネス用語では「イ
ノベーションのジレンマ」といわれている現象です。フィルムからデジタルへの移行もこれ
とまったく同じ現象でしょう。 ちなみにビデオカメラでもテクニカラーの三色分解と同じ考え方の3CCD方式が使われ
ている。これはレンズを通った光をプリズムで分解してRGBの3つの受光センサーが感知し
てデータを合成して記録する方式だ。現在のビデオカメラの主流はCMOSセンサー方式で
す。これは1枚の大きなセンサーにRGBそれぞれの細かいセンサーが埋め込まれていま
す。これは映画の発明者のリュミエール兄弟が1893年に考案したカラー写真のオートク
ローム方式に似ています。オートクロームも写真に赤と緑に感光するデンプンの細かい粒子
を敷き詰めて撮影したあとに合成してカラーにします。CMOSが普及したのは大量生産が可
能になって価格が下がったためです。これをイノベーションのジレンマでしょう。 これもちょっと余談ですが、現在デジタルになって過去のフィルムやDCPのデジタル
データをどうやって保存するかが問題となっています。◯年にアカデミー技術賞を受賞した
フジフィルムが開発したエターナルフィルムを使った保存方式は、テクニカラー技術の反対
の方式で、カラーフィルムを三色に分解して三本の白黒ネガに分けてそれぞれを保管しま
す。この方法は、ジョージ・ルーカスは『スターウォーズ エピソード4新たな希望』(
76)を保管するときに既に使われて、そのネガから◯年後に高品質のDVDが作成されまし
た。 ヨーロッパからの波 製作の技術が確立して手間のかかる大型の工場の工作機械を扱うサイレント時代からのベ
テランばかりで業界が高齢化していく。ハリウッドは昔からコネ社会で新しい外からの血が
入らない。ユニバーサル映画の創設者のカール・レムリは息子に会社を譲った。 極端な例
は別としても、どの有力者と繋がっているかでものごとが決まる閉鎖的なファミリービジネ
ス的な不思議な社会です 大きなテクニカラーカメラだと外に持って遠くにロケに出るよりも、プリズムの調整など
細かい作業を正確に行うためには、スタジオの中で撮影したほうが、予算やスケジュールも
わかりやすく効率的で、専門的な多くの助手やスタッフがいて職能別に組合の規定があって
分業している。ハリウッドは撮影監督と実際にカメラを回すオペレーターは作業の担当が明
確に分かれています。実際の現場ではあいまいだったりします。逆に撮影監督をやらなくて
も名前だけ出す場合もあります。そうなっていくとどんどんルーティーン化して、ハリウッ
ド内でしか通用しない絵空事になってくわけです。車の撮影はスクリーンプロセスが用意さ
れている。ニューヨークのセントラルステーションも撮影所のなかにセットをつくりたくさ
んのエキストラを呼んで撮影をする。世界の現実と乖離して行く。 そのときに世界にインパクトを与えたのがヨーロッパの波です。1950年代の終りのフラ
ンスで起こった助監督経験がない新人監督たちが大勢登場したヌーヴェル・ヴァーグ運動。
手持ちカメラ、間接照明、ジャンプカット、…。ひと言でいうと素人っぽさが受けた。 アメリカ人でイギリスで活躍したTV出身のディレクター、リチャード・レスターが
『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(64)『ヘルプ!4人はアイドル』(65)の
ビートルズ主演のアイドル映画でポップな映像を駆使した映画を監督。既存のルールから外
れたモンタージュを多用した映像は、いまだにミュージックビデオに影響を与えています。 ハリウッドの絢爛豪華だがモラル表現の自主検閲に抑圧されているとはちがい、リアルな
世界、特に性や政治や社会問題に対するハリウッド映画の明快さとは独特の表現をスウェー
デンのイングマール・ベルイマン、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリ
コ・フェリーニ、ピエロ・パウロ・パゾリーニ。現実の世界と繋がったアート志向の映画の
作り手たちの手法とそれに熱狂した観客の若者パワーがハリウッド映画を古くさいものにし
てしまったのです。 テレビ電波という波 一方のテレビという電波の波も映画に衝撃を与えています。今までの映像メディアは映画
しかなかったけれど、そこに新しいテレビという映像メディアあるいはビジネスモデルが出
現して支持を得ている。映画側からいうとライヴァルの出現ですが、テレビの側からいうと
新しい可能性の出現です。これは現在のテレビとインターネットの関係性に近い気がしま
す。 ハリウッドのきれいな35ミリで、美しいメイキャップを整えた美男美女を人工的な撮影
スタジオでスケジュールどおりに撮影するのではなく、アメリカの反対側の戦場の真実を1
6ミリの小型カメラで自分ひとりでフィルムを装てんしてフォーカスをあわせて撮影しない
とならない。テレビという発表の場がなければ個人のアマチュア映像ですが、そこに配信で
きるプラットフォームができたことで、本当の意味でメディアあるいは産業の可能性が一気
に広がった。ちなみに東京の五反田にある映画フィルムの現像所のIMAGICA、当時は
東洋現像所と呼ばれていましたが、ここでベトナムから送られてきたニュース用16ミリ
フィルムを現像してアメリカに送っていたそうです。 ここで重要なことは、新しいメディアが出現したことで新たな人材が養成される場所が生
まれたということです。日本ではテレビが出現したときに、映画人たちは電気紙芝居と揶揄
していました。日活アクション映画のスターだった石原裕次郎は、日本テレビで連続刑事ド
ラマ「太陽にほえろ」を石原プロで撮影するとき、初日にセットで16ミリカメラをみて
「なんだこのテケテケカメラは」といったという。自分のプロダクションの製作だから多少
の照れはあったかもしれないが、映画人のテレビへの認識はそんなものだった象徴的な出来
事だろう。 アメリカのテレビでも状況は変わらず、毎週の放送にあわせて粗製乱造になろうが次々と
製作しなければならない。そんな現場で鍛えられたのが、ロバート・アルトマン、ウィリア
ム・フリードキン、シドニー・ルメットなどの世代です。そもそもテレビがなかったのだか
ら誰もテレビ番組の作り方を知らない。最初はB級映画の製作プロダクションが請け負って
いたが、そのうちにハリウッド映画以外の教育映画や産業映画あるいはラジオや演劇といっ
た別分野から人材が入ってきます。これはサイレント映画の初期に通じることなのが起きて
いるのだと思います。 一方でハリウッド映画はそれに対抗するために戦略を練ってテレビに奪われて激減した観
客を取り戻そうとします。まず劇場ではテレビでは味わえない体験の3D、ワイドスクリー
ンです。1950年代後半から60年代にかけてハリウッドはテレビに対抗して大作主義を打ち
出します。海底の小さなブラウン管では見ることができない巨大なスクリーンにスターたち
の競演で観客に満足してもらうことを考えます。こうなるとある程度、素材は決まってしま
う。戦争映画、大型ミュージカル、聖書の物語を含む歴史劇です。その一方で製作費の削減
のために、スタジオ撮影もハリウッドから人件費の安いイギリスやスペインに移って行く。
ランナウェイプロダクション方式がはじまります。それは以下の作品群を見ても明らかで
す。『八十日間世界一周』(56)『ウェストサイド物語』(61)『サウンドオブミュー
ジック』(65)『アラビアのロレンス』(62)『史上最大の作戦』(62)『大脱走』(63
)『十戒』(56)『ベン・ハー』(59)『クレオパトラ』(63)。 ワイドスクリーンは、サイレント時代のフランスで作られた『ナポレオン』のときにクライ
マックスで、3つのスクリーンに三台の映写機で同時に上映するポリヴィジョン方式が採用
されました。近年では世界中でサイレント映画の特集上映が盛んで、この『ナポレオン』も
当時のポリヴィジョン上映が再現されています。横幅35ミリのフィルムというカンバスを
横に広げるという無理難題を解決するために様々な技術が開発されました。シネマスコープ
方式は、元は第一次世界大戦時にフランスで開発されました。それが○年後にハリウッドで
実用化されたのです。シネマスコープは被写体の映像が縦長に写る特殊なレンズ(アナモ
フィックスレンズ)を使い、映像を縦長に圧縮して記録して、上映時には逆に横長に伸ばし
て見せるレンズをつけてワイドスクリーンに映す方式です。映画監督のフリッツ・ラングは
「ワイドスクリーンはヘビと葬列を撮るにはちょうどよい」と皮肉を言っています。この他
にもシネラマは三台のカメラで同時に26コマ撮影して、上映の時も三台の映写機で同時に
映し出すことでワイドスクリーンにする。またトッドAO方式は70ミリフィルムを用いて
30コマで撮影、6チャンネルマルチサウンドで上映されました。またパナヴィジョンは、35
ミリフィルムをスチル写真カメラのように横に走らせることで、画面サイズの面積を広げて
画質を上げようとしました。これはヒッチコックの50年代の作品が有名です。やがてフィ
ルムの解像度が上がるようになると、アナモフィックスレンズを使わずに縮小した横長サイ
ズの画面で撮影・上映される現在の映画の形が定着するようになります。 同じ頃3Dも流行しました。3Dはすでに1922年に『愛の力』という作品が作られたという
記録が残っていますが、現在は行方不明です。1952〜53年の突発的なブームでは『アマゾ
ンの半魚人』、『肉の蝋人形館』などの見世物的な映画で使われます。ヒッチコックも『ダ
イアルMを回せ』に挑戦しています。しかし2台の映写機を同時に1コマもズレないように
シンクロさせることは当時の技術では難しかったために3Dは廃れていきます。しかし技術
革新は止まることがなくその後70年代80年代に『ジョーズ3D』、『13日の金曜日3D
』、『悪魔の棲む家3D』と細々と続けられて、2000年代の再登場を待つことになります。 しかしこの当時は、ハリウッドが持つすべてのハードとソフトの技術を駆使してコント
ロールの帝国の没落を止めようとしていました。 クロサワショック ここでそんなハリウッドにトドメを刺したのが極東の小国、日本から現れた黒沢明の『用
心棒』です。この映画が世界に与えた影響は計り知れないほど大きいと思います。ヨーロッ
パからの芸術映画が世界に与えたショックとはべつに、この痛快娯楽時代劇の元ネタは、ダ
シール・ハメットの『血の収穫』のハードボイルド小説ですから完結明瞭なまさにアメリカ
的なストーリーです。この練りあげられたフォーマットを、ハリウッドの西部劇が作りた
かったイタリア人監督のセルジオ・レオーネがうまくパクッてスペインにセットを作り、テ
レビの西部劇「ローハイド」でスターになった若手俳優のクリント・イーストウッドを呼ん
で来て「名無し」のキャラクターを与えた。それがマカロニウェスタンを生み出し世界中に
大ブームを起こして、アメリカの本家の西部劇を古くさいものにしてしまった。 世界的にワイドスクリーン方式が普及していてマカロニウェスタンもワイド画面ですが、
通常は4perfを使っているが、2perf分の縮小横長画面なのです。35ミリフィルムを使っ
て、70ミリのタテヨコ比を生み出す節約方法。これはテクニスコープと呼ばれるフォー
マットなのです。しかしこれだと70ミリの1/4の解像度ですから、大画面で上映すると
画質が粗く落ちるわけです。でも当時の観客はきれいで豪華、しかし絵空事のハリウッド映
画には飽きていました。実際大御所のジョンフォードの西部劇も不評だったそうです。マカ
ロニウェスタンはリアルで残酷、血みどろだったので、テレビのニュースと同じ。だからテ
クニスコープのリアルさが受け入れられたのです。もうひとつ忘れてはならないのが、当時
は検閲のせいで撃つ側と撃たれる側を同じ一つのカットに入れて撃たれる瞬間を描くことは
ご法度だった。引き金を引くと次のカットでは撃たれるリアクションにしなければならな
かった。その約束事を壊したことでよりリアルな表現が行えるようになった。こうして世界
の映画でハリウッド的な映画美学が崩壊して新しい表現の時代を迎えることになった。その
役割を担った画期的な作品が『用心棒』だったことは特記しておきたいと思います。 世代交代、アルチザンからアーティストへ 大きな言い方をしてしまうとハリウッドという業界人だけで映画を作る時代は終わりを迎
えたと思います。ハリウッドの中にいる人、要するに昨日も明日もテクニカラーの大きなカ
メラを準備して操作することによって、私は映画人であり業界人である時代はもう終わろう
としているわけです。そんなきれいなだけの職人技に観客が飽きてしまって、次の映画の欲
望を観客あるいはプロデューサーが抱えているわけです。しかしその新しい時代に対応でき
る人材がどこにいるのか。それはもちろんハリウッドの外にしかいないわけです。例えば大
学の映画学科出身ならば、スコセッシ、デパルマ、コッポラ、ルーカス。あるいはテレビと
いうメシアが生まれたときにテレビCMも生まれます。そういうものを作る監督、カメラマ
ン、俳優が現れてきます。彼らが映画をつくるためにどこにたどり着いたかというと、ロ
ジャー・コーマンのところですね。多くのB級映画プロダクションの中で、ハリウッドの外
側にいて、新しい観客の欲望を捉えたプロデューサーなのです。その実態は安く早く作らせ
るために、ハリウッドの外の新人を使ったともいえるでしょうが、そこにしかデビューの
チャンスはなかった。それは現在ハリウッド映画の主流になっているロン・ハワード、ジェ
イムズ・キャメロンまで繋がる人脈です。彼らは撮影所の中の徒弟制度ではなく、低予算の
制約の中で映画作りのすべてを自らの手で実地で学んできた世代なのです。一般的にアメリ
カンニューシネマは『イージー・ライダー』(69)にはじまって『スター・ウォーズ』(
76)に終わるといわれています。反権力や暴力性のある映画だけではなくて、もっとバラ
エティにとんだ作品が作られていることがわかると思います。これらはメジャー作品として
出てきた区分ですが、実際に作ってきた監督やスタッフ、キャストはロジャー・コーマンの
ところで修行を積んでいるわけです。 特に技術のほうから見ると、ここに携わっている。カメラマンや技術スタッフはかなりの
部分で重なったりしているわけです。まるでヌーヴェル・ヴァーグのときのように仲間が集
まった。それぞれの個性は別々だが、新しい時代にふさわしい人材が集結して助け合った。 ハリウッドのぬるま湯の毎日定時に出社して、決められた仕事をこなすのではなく、例え
ばテレビ番組を3日間で撮影しなければならない。そんな過酷な環境で鍛えられて映画作り
を知る。あるいは最新のポータブルなカメラがあれば表現の幅がひろがり、高感度フィルム
が使えればライト機材が減る。無許可隠しカメラで大胆な撮影ができる。そういう人材や機
材が現れたことでアメリカンニューシネマという今までにない新しい冒険的な流れがハリ
ウッドから現れたように見えた。 これまでの業界の職業の中で腕を振るう人であるアルチザンから、アーティストへ。ひと
り一人が独立した技術を持って個性とスタイルのあるアーティストになったというのが、7
0年代映画の特筆すべき変化です。要するに匿名集団であったハリウッドのなかの人という
形から個人の名前とスタイルが結びつけて考えられるようになった。これはヨーロッパから
現れた作家主義と同じことがほぼ十年遅れでアメリカで始まったといえると思います。 では今までのハリウッド映画のいかに映画をコントロールするかという部分からもっと派
手で、自分のスタイルに、コントロールから自由なパフォーマンスの表出に変わったことが
大きいでしょう。実は最初のほうで説明したヒッチコックやウェルズがやったことは十年前
の先取りあるいはヨーロッパの波より先にやってしまったことが今ようやくぐるりとひと回
転して追いついて花開いたといえると思います。 汚しと反逆者 アメリカンニューシネマの作品をもう少し細かく見て行きたいと思います。70年代と
いってもコッポラ、スコセッシ、ルーカス、スピルバーグの名前は何度も出てきた飽きてい
ると思うので、ここでは敢えてあまり出てこない監督の名前をあげようと思います。ひとり
はロバート・アルトマン。彼の名前は知っているが好きな監督はといわれてすぐには出てこ
ない渋い、そしてアメリカンニューシネマに与えた影響はかなり大きな重要な監督です。 ロバート・アルトマンは元々ハリウッドの外側にいました。第二次世界大戦の戦場から
帰ってきて地元で産業映画や教育映画を作っていました。そのあとにテレビに移って、60
年代に「コンバット」で高い評価を得ると、ハリウッドから声がかかりました。そこで作ら
れたのが『M★A★S★H』(70)です。朝鮮戦争を舞台にした戦争病院のコメディです
が、明らかにベトナム戦争を意識している。これがカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得し
たことでハリウッドのメインストリームに入ってくる。 70年代前半に『ギャンブラー』(71)、『イメージ』(72)、『ロング・グッドバ
イ』(73)を撮ります。この三作の撮影監督がヴィルモス・ジグモンドです。彼は70年
代だけでなく映画史全体の中でも重要な現役のカメラマンです。彼は当時社会主義国家だっ
たハンガリー生まれです。大学で撮影技術を学んでいたのですが、そのころ68年にハンガ
リー動乱が起きて、西側に行こうと盟友のラズロ・コヴァックスと一緒にアメリカに行きま
す。ラズロコ・ヴァックスも『イージー・ライダー』の撮影をしています。ゴダールの映画
で何度かその名前が出てきます。彼らはニューヨークにたどり着くが共産主義の国からきた
外国人であるがために映画のユニオンに入れないから仕事もない。だから町の写真屋で現像
の仕事をしてチャンスを探していた。そしてロジャーコーマンのところやべつのB級映画製
作プロダクションに行って低予算映画の撮影をしてアメリカのシステムに馴染んでいった。 そうして既存のハリウッドに対して反逆的で実験的な映画を撮ろうとするロバート・アル
トマンと出会って作られたのが『ギャンブラー』、『ロング・グッドバイ』です。開拓時代
の西部を舞台にした『ギャンブラー』のほうは非常に実験的な映像を意欲的に作っていきま
す。それこそ今はビデオもフィルムも高感度になって来て暗い室内でもライトをほとんど使
わなくて、極端な話ロウソクの光だけで照明できます。要するに西部劇の開拓時代だから電
気の無いのは当たり前ですが、ハリウッド映画では約束事としてライトを当ててそれっぽい
照明をつくるのに、それをわざとリアルに撮る。でもこんなことを普通のハリウッドの撮影
スタジオで行ったら、これは商品として成立しないからNGですが、この時代はそれが新し
いアーティストとして、こういう個性的なことができることを主張することで、アルトマン
の力もあったでしょうが、『M★A★S★H』でカンヌ映画祭グランプリを獲った、実現し
てしまった。そこには機材あるいはフィルムがどういう風に使えるかとか現像所にどういう
指示を出して共同作業をするか、過去に自分が体験しているからできる。だからハリウッド
の中で育った人には自分でカメラを操作して証明を決めて現像がどこまでわかっているかわ
からない時代だった。 そこまでできるのは外側で自分で興味を持って自分のスタイルを作って広げて行ったこと
が大きいと思います。これはロウソクの光だけでは映らないので、いわゆる増感現像です
ね。デジタルだとISO感度ゲインを上げる、暗くても写るがざらざらな画になる。普通は
メーカーが推奨や保障する使用の限界を超えてザラザラなんだけどそれがリアルだというよ
うなことを納得させる、あるいは観客が納得してしまう。観客が求めているのはキレイキレ
イなハリウッドではなくもっと汚なくしても良いからリアルなものを見たい、これまでのハ
リウッド映画では見ることができなかった光景、シーンを求めていた。それに対応できる大
胆な技術をもったカメラマンが出てきたということです。 もうひとつ、ジグモンドは撮影にフィルターとフラッシングという技術を多用する。通常
のフィルムでは記念写真のようにくっきりと色鮮やかな発色になるのがうそ臭く感じてしま
う。まあそれは開発メーカー側からいうと当たり前のことですけど、これまでと同じ画一的
で均質なハリウッドの商品ならば良いですが、自分のスタイルを作るアーティストには耐え
られない。そうするとどうやって汚すのか、どこまで破壊して自分の表現の可能性を広げら
れるのか、ただ汚いだけだと実験映画になるので汚しの美学をどうやって生み出すかが彼の
やり方になるわけです。 フラッシングというのは『アラビアのロレンス』を撮影したカメラマン、フレディ・ヤン
グがシドニー・ルメットの『The Deadly Affair』(66未)のときに発明したテクニックで
す。これはもともと映画ではなくスチル写真のテクニックだったそうです。ルメットはこの
成果を「色彩のないカラー」と呼びました。これは普通撮影は写す前に少しでも光が当てら
れるとかぶりといって感光するので駄目になって使えない。だからブラックボックスや暗室
を使ってフィルムチェンジを行う。フラッシングは撮影前に一度薄く光をフィルムに当て
る。そして巻き戻して撮影をする。そうするとフィルムから鮮やかさが無くなり、くっきり
としたコントラストが無くなり、逆に暗部のディテールが現れるようになる。きれいなハリ
ウッド映画ではなく抑えた渋い色調が出る。ジグモンドはフラッシングだけではなくたくさ
んのフィルターを使い、自分の好みの光と影や色調の世界を作る。フォグフィルターで、ス
モークを炊いたように見せてコントラストをやわらげて影の部分が潰れることを防ぐ。 彼はそれだけではなく、新しく開発されたパナヴィジョンカメラを使い、スピルバーグの
劇場用映画デビュー作の『続・激突!カージャック』を撮影した。これはパナヴィジョンと
いうアメリカのメーカーが開発した小型軽量で同時録音できる(モーター音が外に漏れな
い)カメラを、かつてのヌーヴェル・ヴァーグが手持ちカメラで行ったことを遅れてはじめ
たわけで、それを大胆に使おうとしたのがアルトマンやスピルバーグのような新しく登場し
た人たちです。彼らの要求に応えることができた技術者がジグモンドです。基本的にハリ
ウッドでは同録は現在も重視されていません。それはスタジオの防音設備がきちんとした中
で採ればいいし、採らなかったらアフレコで何度も繰り返して録音すればよい。観客は良い
映画、美しい映画を見に来ているので、リアルな聴きづらい発音より明確な音を好む。その
驕りが技術の進化を遅らせた部分もあるかと思います。だから撮影所の外にカメラが出て撮
影するとカメラを軽くする必要があるが、反対に防音のためにブリンプ機能を強固な構造に
しなければならないというジレンマにぶちあたる。車の中にカメラが入ると何人もの助手は
乗れない、撮影所に据え付けられた撮影用の車に役者を乗せて背景をスクリーンプロセスで
合成したほうが安全できれいだ。 アーティスト気質のカメラマンたちは監督の求めに応じてスタイルを変えることもでき
た。それは様々な機材やフィルムについて知り抜いているからだろう。実際に『未知との遭
遇』(77)のときジグモンドが次の作品のために抜けたために、ラズロ・コヴァックスが
追加撮影を引き継いだが、まったく違いはわからなかった。その後ジグモンドは『ディア・
ハンター』(78)でアカデミー撮影賞を受賞しますが、そのときもベトナムは当時の
ニュースフィルム風に仕上げています。 ニューカラー派の勃興 ここでちょっと脱線しますがこれはスチル写真の話になりますが、「ニューカラー派」と
いう流れがあり、1976年にアメリカ近代美術館MOMAで、写真家のウィリアム・エルグ
ストンの写真展が行われました。これはアメリカの近代美術館でははじめて行われたカラー
写真による展覧会でした。これは何を意味するかというと、芸術写真は白黒でなければ認め
られなかった不文律を壊したわけですね。このときも賛否両論だったらしいですが、身の回
りのありきたりの風景のカラー写真を芸術として認められる時代がやってきた。これも70
年代半ばという意味で映画同様に象徴的だと思います。この頃のコダックの写真は発色は先
程書いたように記念写真のように派手だった。このときにエルングストンが使ったテクニッ
クがダイ・トランスファー・プロセスです。これは簡単に言うと映画のテクニカラー方式と
同じなんですね。1本の撮影した写真ネガをフィルターで3つの色に分解して3本のネガに
分離して、色味を細かく調整して再び1枚の写真に仕上げる。映画のテクニカラーは撮影の
ときに3本のフィルムを使って色を分解する。贅沢なもので、ダイトランスファーも手間と
お金がかかるし、カメラやフィルムの性能やラボの技術が上がってデジタルになりパソコン
で調整できるので廃れて行きました。 光と色彩で描く 70年代の重要な撮影監督として、イタリア人のヴィットリオ・ストラーロがいます。彼
はベルナルド・ベルトルッチと長年コンビを組んで名作を何本も撮ってきました。なかでも
74年に撮影した『暗殺の森』はヴィルモス・ジグモンドも絶賛した作品です。光と影、カ
ラーの寒色と暖色の大胆な使い分け、未来派とファシズム建築の幾何学と美学を批評的に再
現しました。このアーティストスタイルを持った撮影監督は監督と撮影前に映像のヴィジョ
ンを共有するために「ルック」という言葉をよく使います。それは作品の雰囲気を表すため
に主に絵画を用いてリファレンス(参照)にすることです。ストラーロとベルトルッチの場
合、『暗殺のオペラ』はベルギーのシュルレアリズムの画家、ルネ・マグリットの「光の帝
国」を、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』では、タイトルバックにも使われていますが、フ
ランシス・ベーコン。そういう言葉では説明しきれないイメージを共有するために使いま
す。70年代のアメリカ映画はリアルであると共に独自のルックを持った作品がたくさん現
れてきます。それまでの多くのハリウッド映画のような安全な規格品とは異なる方向性で
す。その後ストラーロはアーティストスタイルにこだわるコッポラに招かれて、『地獄の黙
示録』、『ワン・フロム・ザ・ハート』を担当して、そのあとに『レッズ』でアカデミー撮
影賞を撮った。そして実績がこれだけあったのに外国人という理由で拒絶されていたアメリ
カ撮影監督協会にようやく加入できた。だから彼が担当するメインタイトルの撮影監督で
は、ASC、ISCの表記を見ることができる。 ストラーロは、フラッシングを発展させて、撮影前だけではなく、現像の際にも使ってい
る。そのシステムを全部含めてローマのテクニカラー社の現像所と一緒に81年に「EN
R」という技術を開発した。ちなみに『地獄の黙示録』のフィリピンロケのときもフィルム
はローマに空輸されてストラーロに信頼する技術者(カラータイマーまたはタイミングと呼
ぶ)によって現像された。ENRの手法は、いわゆる銀残しまたはブリーチバイパスと言わ
れる、鮮やかなコントラストの強いカラーの彩度を落とした映像を作り出す現像の技術で
す。デヴィッド・フィンチャーの『セヴン』や『ゲーム』とかああいうダークな脱色した淀
んだカラーの画面がブリーチバイパスの効果です。もう使うことがない技術ですが、フィル
ムには銀が含まれています。その銀が色を感光するしないの部分があって、現像するときに
通常は銀を洗い流すのですが、それをわざと残すことによって彩度の低い、カラーと白黒の
中間のような沈んだトーンの映像にすることができます。現在はデジタルでこれをシミュ
レートして似たトーンを生み出します。この技術を最初に生み出したのは日本の撮影監督宮
川一夫と東京現像所が市川昆の『おとうと』のために大正時代のレトロな雰囲気を出すため
に開発しました。そのような世界トップクラスの撮影監督、宮川一夫の仕事については次回
取り上げます。 完璧主義のニューヨーカー もうひとり、アーティストとしてゴードン・ウィリスを紹介します。彼はコッポラの
『ゴッドファーザー』(72)やウディ・アレンのニューヨークを舞台とした『アニーホー
ル』(77)『マンハッタン』(79)の撮影監督を務めました。彼もCMからキャリアをは
じめた人です。『ゴッドファーザー』をよく見ると、室内では真上から証明を当てていて、
マーロン・ブランド演じるドン・コルレオーネの目が影になって見えない。スターの顔が見
えないというのはハリウッド映画ではありえないことですが、このスタイルを通すことがで
きたのも彼の美学が支持されたのだと思います。『ゴッドファーザーPart2』(74)は奇し
くもテクニカラー方式の最後の作品になりました。この作品を最後にアメリカではテクニカ
ラーで作られる映画はなくなりました。ハリウッド神話がという一つの時代が終わったとい
えるでしょう。他説ではロマン・ポランスキーの『チャイナタウン』(74)が最後のテク
ニカラー作品という話もあります。これもまたテクニカラー方式、1本のフィルムを現像の
段階で3色に分解してそれを再び1本にしてプリントする。さきほどのスチルカメラのダイ
トランスファー方式と同じです。 ウィリスに戻ると『大統領の陰謀』(76)はロバートレッドフォードとダスティン・ホ
フマンの二人の主演のスター映画ですが、これはノンフィクションが原作なのでリアルな
ルックが求められた。特に新聞社が舞台なのでワンフロアをすべて蛍光灯の照明で行った。
当時は蛍光灯の光は緑がかった色になってしまうのをフィルターで補正していたが、このと
きは広いフロアのすべての蛍光灯にフィルターを張って対応したという。技術力があるから
監督のビジョンを明確にしてプラス自分の美学を加味して斬新な映像化をすることができた
のだと思います。。個人的にアレンの『インテリア』(78)が好きなので、低予算のミニ
マルな作品ですがほとんど照明のタッチだけですべての画面が構成されており細部が凝って
いて充実した映画体験ができます。 孤高の技術者キューブリック 70年代、アメリカンニューシネマの流れとはちょっとちがいそれよりも前の世代である
スタンリーキューブリックは、スチルカメラマン出身で技術の実験が大好きな人です。左右
対称の構図を決めて独立独歩でスキャンダラスは映画の実験を進めてきた。これがある意味
70年代になってアメリカ映画が追いついてきたといえますが、キューブリックはその前に
ハリウッドを見限ってイギリスに移住しているんでけれどね。キューブリックが映画を1本
監督すると、関連した技術書が倍くらい分厚くなるというジョークがあるくらい技術マニア
でした。 キューブリックといえばじゃないですが、スティディカム 。『シャイニング』(80)や
『フルメタルジャケット』(87)で使われたのが有名でしょう。ステディーカムの技術は
映画史の中で突然現れました。これこそが70年代以降の映画の形を製作的美学的にかえて
しまった革命であったといえるでしょう。ステディカム自体には『ウディーガスリーわが心
のふるさと』(75)から使われた。このカメラマンはハスケス・ウェクスラーは、ジョー
ジ・ルーカスのヒット作『アメリカングラフィティ』(73)やドキュメンタリー風の劇映
画『アメリカを斬る』(69)で有名です。スティディカムはその後『ロッキー』(75)の
夜明けのトレーニングのシーンそして『シャイニング』と続きます。この頃は発明者でエン
ジニアのギャレット・ブラウン自身がスティディカムオペレーターとして操作していまし
た。スティディカムとはどういうものなのか。 簡単に言うとヤジロベーの原理に近いものです。カメラとカメラの下につけられた重りが
バランスが釣り合っていれば手ブレが相殺される単純な仕組みでできている。動力も電気も
使わない。ただカメラとカメラと同じだけの重り必要なので倍の重さがありますだから、体
力が必要です。カメラのファインダーも覗くことができないその代わりにモニターを見なが
らカメラを移動させる技術が必要です。普通レールやクレーンを使えない場所や設置する時
間が要らなくなって手持ちカメラに見えないから制作部演出部から予算と時間の節約につな
がることが重宝されてきた。カメラを意識してしまう手持ちのブレみたいなことがなくなっ
た。まさにハイブリットな画期的な表現だと思います。これ以降、手持ちカメラとスティ
ディカムは区別されつかわれています。スティディカムは、三脚を外した手持ちカメラの弱
点を解消して、大掛かりのクレーンでしかできなかったタテ軸のコントロールに成功した。 キューブリックがドルビーサウンドの実験を行っていたことはあまり知られていないで
しょう。それは『時計じかけのオレンジ』(71)のときに使われました。映画の音は、
1929年に『ジャズシンガー』で使われたトーキーのヴァイターフォン方式からはじまりま
す。この方式では上映に合わせて音の入ったレコードから音が流されます。フィルムが古く
なり短くなると音と画がずれてしまう欠陥を持っていました。しかし当時の観客は熱狂して
トーキーを支持しました。やがてフィルムのパーフォレーションの脇に光学方式で録音され
てプリントにサウンドトラックが焼き付けられるようになり、ズレの問題は無くなりまし
た。今では信じられないと思われますが、ドルビーサウンドが現れるまで映画の音響はモノ
ラル方式でした。何本かの超大作ではマルチサウンド方式と称して、一部の劇場では左右中
央にスピーカーを設置してステレオ音響を演出しています。映画では現在も不文律として何
人も同時に喋ることがありません。先ほどから破壊の先駆者として登場するロバート・アル
トマンは映画の音の再創造に着手します。それはワイヤレス・マイクとマルチトラックで
す。アルトマンは役者に自然な動きをさせるためにワイヤレスマイクを取り付けます。また
同時に話してもマルチトラックに録音すればダビング時に調整できます。このようにして最
新技術を使って、これまでの業界のタブーである限界を越えていきました。これにより観客
はよりリアルな見たことのない映画の世界に引きこまれていきます。 ドルビーは当初ノイズリダクション(NR)システムとして音質を上げるために開発され
た。それがその当時のハイファイサウンドを聞くステレオコンポの普及と伴って、映画にも
進出した。『スター誕生』(76)ではじめて全編にわたってドルビーシステムが採用され
た。決定的だったのは77年から78年にかけての『スターウォーズ』と『未知との遭
遇』。どちらもジョン・ウィリアムズ作曲ですね。そして一気に映画館に普及した。その後
ルーカスはTHXという映画館の音響認定基準を作り、映画館のサウンドの向上の普及を図っ
た。その後、ドルビー・デジタル5.1チャンネル、ドルビー・サラウンド7.1チャンネル、
3Dサウンドのドルビー・アトモスへ進化している。 また『2001年宇宙の旅』(68)は現在のSFXの元祖です。この映画に特撮スタッ
フとして参加したダグラス・トランブルは『未知との遭遇』に、彼のもとで働いていたス
タッフは『スターウォーズ』に参加してSFX技術が大進化を遂げて行った。 『バリーリンドン』は18世紀の室内を再現するためにロウソクの明るさだけで撮影し
た。そのためにNASAが宇宙空間で宇宙飛行士が撮影できるようにツァイスに特注した絞
りの開放値がf0.7という人間の目より明るいレンズを借りて映画カメラに取り付けられるよ
うに改造した。 自然光のパレット リアルなルック、カメラマンと監督たちが追求したものリアルに見えるためにはどういう
ふうなテクニックを使ったらいいかをメインに考えていくと、別の優秀なカメラマンのネス
トール・アルメンドロスという人がいます。彼はフランスでエリック・ロメールやフランソ
ワ・トリュフォーと組んで作品を撮ってきました。テクニックを使ってリアルに見せるよ
り、リアルなものまま素朴に自然光をメインに大切にしてカメラを据える。どのように自然
の光を捉えようかと言う事を徹底的に追求した人でした。 それは美しいドキュメンタリーといいましょうか。ここでも技術で限界を超える挑戦が行
われました。そしてストラーロと同じようにひとりのハリウッドの監督がアメリカに彼を呼
びます。テレンス・マリックです。『天国の日々 』は20世紀初頭のアメリカ中部を舞台と
しており、そこには電気もない、ほとんど全編自然光で撮る。あるいはろうそくではありま
せんが夜間のランタンの火の光だけで撮影しています。 マジックアワーと最近よく聞かれるようになった言葉ありますが、日没の太陽が地平線よ
り下がっているかまだ空が少し明るい時間帯、日本語だと黄昏あるいは彼は誰になります。
まるで印象派のモネが描いた絵画のような光と影になります。要するに夜が訪れるまでの短
い時間、どこから光が来ているのかわからないとても柔らかい光なります。このマジックア
ワーの撮影を多用して、他には無い映像を作りあげました。また『クレーマークレーマー』
(79)はニューヨークを舞台としたシリアスなドラマですが、この場合でも自然光やオ
フィスの蛍光灯を多く使っています。同じニューヨークの風景を先程のゴードンウィリスと
は違った光の捉え方ということは比べてみると面白いと思います。 もう1人ニューヨーク出身の重要な監督としてマーティンスコセッシをあげます。彼は
『タクシードライバー』(76)ではゴードンウィリスの助手として仕事をしてきたマイケ
ルチャップマンと組みます。また80年代になるとスコセッシは、ドイツのファスビンダー
のカメラマンだったミヒャエル・バルハウスと組んで『アフター・アワーズ』(85)以降
何本か撮ります。これもまたニューヨークのルックを各撮影監督がどのように描いているか
を知ることができる面白い比較となるでしょう。このような形で様々なアーティスト・スタ
イルが現れて、アメリカにもヨーロッパの映画美学の流れが入ってきてハリウッド映画のを
リアルなルックに変えていきました。印象派の画家たちがアトリエから外に出て風景を切り
取り次第に自らの内面を投影するようになった絵画の歴史をなぞることが、映画史でも起き
たと言えるかもしれません。それをハリウッドの最新・最高の技術と資金力で世界に通じる
商品にして行った。これが70年代の技術から見たアメリカニューシネマの革命の正体だと
言えるでしょう。 堕ちたアーティスト 面白いことにハリウッドに行くとそれまで反逆児だったはずのアーティストたちがハリ
ウッドに飲まれてしまう現象がおきます。『イージー・ライダー』でせっかく自然光で全部
できる美学と技法をつくったのだけど、『ニューヨーク・ニューヨーク』では撮影監督のラ
ズロ・コバックが、全編凝りに凝りまくって、屋外もセットを組んで昔のハリウッドのスタ
ジオ撮影を完璧に再現をした。しかしこの映画3時間以上あって大コケしてしまった。誰も
完璧な古典的なハリウッド映画見たくなかったのにスコセッシが本当に撮りたかったのは、
ニューシネマではなくてオールドハリウッド映画だったことがよくわかります。コバックス
の名誉のために言うと、その後『ゴーストバスターズ』など他のハリウッドメジャー映画で
はきめ細かいライティングによる美しいハリウッドとヨーロッパスタイルを融合した映像を
生み出しています。 またコッポラとストラーロのコンビも『地獄の黙示録』をフィリピンでロケをしていくう
ちにどんどん予算が肥大化してしまいだれも映画をコントロールできなくなりコッポラ破産
してしまった。しかし彼は『ワン・フロム・ザ・ハート』を正反対に完全にスタジオ撮影で
行った。これはスコセッシにも似た衝動だったのでしょうが、これも成功しているとは言い
難い作品です。 あるいはマイケル・チミノとヴィルモス・ジグモンドの『ディア・ハンター』のコンビが
再び組んだ『天国の門』(80)ではリアリズムを追求して本当に撮影のために街を1つ作っ
てしまった。鉄道を敷設して博物館から蒸気機関車を運んで走らせた。撮影も完璧に時間を
かけて凝りまくって好き放題作った。しかしこれも3時間以上の大作映画になってしまっ
て、興行的には大失敗をしてしまって、グリフィスやチャップリンが創設したハリウッドの
名門ユナイテッドアーチストを潰してしまうことになった。これがある意味アメリカン
ニューシネマの終わりといわれています。なぜハリウッドから自由になろうとした人たち
が、ハリウッドの大作を作って駄目になる現象が70年代の終わり起きたことは象徴的で
す。しかしこれを逃れられた人が1人だけいます。それはジョージルーカスです。 ルーカスの逆襲 実は彼だけがハリウッドに飲み込まれないで最後まで生き抜いた男です。コッポラにして
もスコセッシにしてもハリウッドに最終的にはハリウッドに収まったのですが、ルーカスを
ハリウッドの監督と呼ぶのは間違いでしょう。ルーカスはハリウッドの撮影所では映画を
撮っていません。基本的にはロケあるいは撮影はイギリス、VFXはサンフランシスコを拠点
にしています。しかし一方でルーカスが『スターウォーズ』を作って古典的なハリウッドを
復活させたと言われています。しかし彼自身は実験映画出身です。学生時代にドキュメンタ
リーを作って来ています。彼の指導教官ハスケス・ウェクスラーは『ヴァージニアウルフな
んかこわくない』の撮影でアカデミー賞を獲っています。しかしその映像はそこまでのハリ
ウッド的なものとは全く異なっているのです。そして彼の友人である監督アーヴィン・カー
シュナーもドキュメンタリー出身で、ルーカスを指導しています。ご存知のように彼は『帝
国の逆襲』の監督です。またウェクスラーは『アメリカングラフィティ』の撮影を担当して
います。今までハリウッドから門前払いをされていた資質を持っていた人たちが、ハリウッ
ド映画を立て直したという皮肉な現象があると思います。それが決定的になったは、『帝国
の逆襲』でハリウッドの業界ルールに対して宣戦布告をして完全勝利を収める象徴的な出来
事がありました。監督協会のルールでは監督のクレジッをアバンタイトルの最後に出さない
とならないのをルーカスはエンドクレジットの最初にしたのです。このときに揉めてルーカ
スは監督協会を脱退した。しかしのちに復帰している。これまでのハリウッドの既存の組合
よりひとりの作家の力が強くなったといえるでしょう。彼は特撮技術のマエストロとしてプ
ロデュースして技術をコントロールできる。60年代にハリウッドに入れなかったアウトサ
イダーたちが新しいハリウッドを乗っ取った。完全勝利をしたといえるでしょう。『スター
ウォーズ』は低予算のSF映画としてハリウッドの誰も期待していなかった作品。イギリス
のスタジオで撮られたから、脇役はイギリスの俳優が多い。これは60年代のスペインで
撮ったランナウェイ方式に似て、あるいはイギリスに自主的に亡命したキューブリックの姿
勢にも似ています。しかし実際にハリウッドに凱旋したのはルーカスとクリント・イースト
ウッドだけだ。 世界で共鳴し始めるアーティストたち アメリカンニューシネマの成功によって80年代に入りアメリカとヨーロッパの作品レベ
ルが同じになったと言えるでしょう。今は忘れ去られているのですが70年代の終わりにコ
ダック社の上映プリント用フィルムがテクニカラーに比べて色が落ちてしまうという退色の
問題が発覚してスコセッシを中心に世界中の映画監督や映画関係者を巻き込んで署名運動が
起こり大騒ぎになったことがあります。最終的にコダック社が新しい退色しにくい新しい
フィルムを開発することによって収まったのですが、このときスコセッシは、マイケル
チャップマンと相談して『レイジング・ブル』(80)を白黒で撮影しました。フランソ
ワ・トリュフォーはネストール・アルメンドロスと組んでコダックより退色しにくいと言わ
れたフジフィルムを選んで『終電車』(80)を撮影してフランスのアカデミー賞と言われ
るセザール賞を獲得しました。技術とアーティストスタイルが一緒に成熟したことで、世界
の映画作家が連帯して共鳴し合う時代となったわけです。ここでもメーカーの思惑の限界を
超えてアーティストたちが自分の世界を作る工夫をすることが起きているといえます。 では最後になりますが80年代映画はどこに行くのでしょうか。撮影現場にビデオモニ
ターが導入してきたという変化があります。 70年代の絵画のルックからビデオモニター見
ながらリアルタイムで考えることができるようになります。そのことによって製作のスタイ
ルが変わっていきます。それまでは撮影監督しか分からなかったファインダーの中の世界を
全員が共有できるようになったのです。そしてフィルムの感度があがったことにより、技法
を使ってリアルにつくらなくともそのまま写ってしまうようになるのです。そこに工夫して
いたアーティストスタイルが技術によって民主化される現象が起きたと言ってもいいでしょ
う。スティディカムの多用による複雑な移動撮影が映像空間を自由自在に広げていきます。
同時フィルム感度が上がって少ない照明でも写ることになります。それは逆に言うと自由度
がありすぎてコントロールが非常に難しくなったともいえます。現在のデジタルの時代にな
り新たな自由をどのようにして獲得するのかという問題と課題が再び現れてきた。 そして80年代の新しいリアルはPart.1で書いたエンタメ志向のインディーズ映画が世界中
で登場するニューウェーブが起こります。そしてもう一方では日本から始まっていたと思い
ます。それは多くの日本映画の巨匠と組んだカメラマン宮川一夫の話から始められるでしょ
うハイビジョン技術一体型ビデオにより映画の新しい可能性を追求する時代が始まったので
す。 Part.5 ニホン映画TVビデオ史考 見えない映画のサイクル 今回は日本映画テレビ/ビデオ史考というかたちのちょっと変わった切り口で映画の技術
と技法を見て行きたいと思います。なぜこれをやろうとしたか、実は80年代の映画史にお
いて日本というキープレイヤーといいますか日本という存在はかなり大きかったんではない
かと思っています。 それはビデオカメラの製造のほとんどが日本のメーカーが占めていることを見てもお分か
りになると思いますが、それだけではなくて日本ならではの技法がどのようにして生まれて
きたかということを見て行きたいと思います。前半部分は撮影監督の宮川一夫の足跡を彼と
組んだ巨匠と言われる監督たちの作風と比べて一体何が起きてきたかを見ていきたいと思い
ます。後半はビデオテレビそしてデジタルつながる流れを見ていきたいと思います。 前回までのあらすじですがこの講座をやろうとした動機です,今までの映画の歴史におい
てこれまではフィルムの時代がこの数年ものすごい勢いで、デジタルに変わっていく。これ
は映画というメディアの必然性にある、それはメカニカルな仕組みを使ったメディア・アー
トまたは産業において変化することは必然である。ですからこれまでのフィルムからデジタ
ルに変わることは必然であるというのが前提です。そしてもう一つは1980年代以降あるい
はヌーヴェル・ヴァーグの作家主義以降といってもいいですが、監督というのは作者であっ
て個性があってスタイルある映画が素晴らしいというような流れがあったのですが、それは
映画というものが職人芸の世界であってものすごく複雑な製作過程を経て外から見るとブ
ラックボックスになっていた。そのなかでいちばんわかりやすい部分が作家のスタイルと言
う訳なのでそこを重視して批評するという流れがあります。それがデジタルの時代になって
誰でも使える機材で誰でも使える時代になって作品を観客あるいは批評家の目線で見るだけ
ではなくその前のプロセス過程に注目することができるようになった。映画のスタイルがど
のような技術によって生まれてくるのかを知ることが必要になると思っています。 これまでの作品を見るだけの批評ではなく逆にプロデューサーや監督の業界の人間から見
る映画史でもなく自らも見て自らも作るクリエイターになる時代、これをプロシューマーの
時代と言ってます。プロデューサー+コンシューマーで生産消費者と言う言い方をしていま
す。それを技術テクノロジーと技法テクニックから見ていきたいと思います。 フィルムからデジタルに変わったことでそれまでの機械的なハードウェアの 複雑さから
柔軟性のあるソフトウェアの方向で変わっていくことで映画を再定義する必要があるのでは
ないかと考えています。それを考察するためのとっかかりとしての技術と技法の映画史から
見直していきたいと思います。 伝説から真実へ 簡単に日本の映画史を振り返っていきたいと思います。伝説から真実の流れを見ていくに
あたって、まず日本の映画の父である牧野省三と日本初の映画スター尾上松之助目玉の松っ
ちゃんがいます。牧野省三が言った言葉に「一ヌケ、二スジ、三ドウサ」、あるいは、「一
スジ、二ヌケ、三ドウサ」と言う言葉があります。これはどちらが正しいかという話があり
ますがどちらも正しいというのが真実のようです。 どっちが正しいかということではなくていちばん最初には一抜け、2 筋、なんですよねそ
れがイチスジ、ニヌケに変わった。要するに抜けというのはフィルムがクリアにどれだけ映
るか。その当時は材質が良くなく、また技術力がないのでそれを写すこと自体が映画の価
値、それが技術が進むことでちゃんと映ることは当たり前で、今はiPhoneで撮影をしても
映るか映らないかの心配をしている人もいないいと思います。しかし映画の初期においては
大問題だったので、重要なのは抜けであって、スジやドウサこれは演技は二の次だったとい
う時代でした。しかし当たり前に写るようになると、ストーリーのほうが重視されてきま
す。 日本が世界に誇る撮影監督、宮川一夫 そこで日本映画の技術と技法の歴史を見るときに宮川一夫キャメラマンという補助線を聞
きたいと思います。何故か日本では撮影監督のことを「カメラマン」ではなく「キャメラマ
ン」と呼びます。まぁ映画自体も特にテレビなどと比べる時には「本編」と言う言い方をし
ます。宮川一夫以外にも世界に誇るキャメラマンたくさんいます。今回多くの巨匠、溝口健
二、黒澤明、小津安二郎、彼ら等の協同作業を見ていくことで、日本映画の技術の変遷がよ
くわかると思います。宮川一夫は京都の生まれ。戦前に京都の日活撮影所に入社して12年
間助手として過ごした。その当時の抜けはカメラマンの技術力ですから秘伝なわけです。だ
から助手にも見せないし教えることもない。これは他のキャメラマンの証言ですが、撮影の
明るさを決める露出をいくつに合わせたかを助手に知らせることもなかったという。知られ
たら自分の仕事が減るという理由のセコい考え方だったと思います。またピント送りも役者
の動きを見ながら修行だと多くのカメラマンを語っています。 宮川一夫の時代いわゆる映画撮影所があってキャメラマンも社員で毎日仕事がある。撮影
所内に現像所が設けられスタジオで撮影されたフィルムがそこで現像されます。宮川一夫は
そこで現像の技術を学びました。だからプリントにして上映しなくてもネガフィルムを見る
だけで撮影が成功しているかどうか判断することができたのです。そのような修行を積んで
カメラマンになっていったわけです。 日本の場合、海外の撮影監督システムとはちょっと違います。イギリスの場合撮影監督ラ
イティングディレクターと呼ばれています。構図を決めて カメラを操作するのはカメラオ
ペレーター。撮影監督は光に対する責任をとります。日本の場合は撮影部と照明部が別れて
います。これは一説によると照明を決めるのか映画製作のなかでいちばん時間がかかるパー
トですから予算が気になるプロデューサーが照明部と直接話をすることで映画を コント
ロールしようとした。先ほど話したようにきれいなヌケた映像を撮れるキャメラマンの権限
には逆らえなかったから照明にどれだけ時間がかかるかわからない。そこで自分の権限で動
かせる照明部を独立させた。これが照明部の始まりです。大映の照明部のチームだった岡本
健一は宮川一夫と組んで溝口健二の作品を撮っていますが、このひとの技術は海外撮影監督
システムとのちがいで評価されず、照明について宮川一夫の評価が高すぎるともいえると思
います。そうやって作り上げられた映像は日本的な部分、ハリウッドのカリフォルニアの陽
光とはちがうやわらかい光による画調、あるいはアジア的な湿度を感じる画。スモークを丁
寧に炊いて遠近感を感じさせて画面に深みを与える。あるいは白と黒の中間色であるグレイ
のトーンをどのように生かすのか。それによって独自の美学を生み出したひとです。ここか
ら黒沢明、溝口健二、小津安二郎、市川昆という日本映画の巨匠との仕事を見ていきます。 巨匠たちとの共同作業 黒沢明 『羅生門』(50)は、パブリックドメインになっているのでYouTubeなどで見ることができ
ます。黒沢明は東宝の監督でしたが労働組合の問題に巻き込まれてこの時代は松竹や新東宝
などの他社で撮っていました。カメラが自由自在にダイナミックに動いていたり、森の中で
ぎらぎらした太陽の光による直射日光と木々が作り出す葉の陰のコントラストを巧みに混ぜ
合わせて暑さを表現している。ロケなので森の奥までライトを運べるわけもなく、それでコ
ントラストが強い画面をつくるためにたくさんの鏡を運んできて、反射に反射を重ねて森の
奥まで光を届けたという話が残っています。一方で羅生門の陰鬱な止まない雨のシーンで
は、スモークを炊いたり雨水に墨汁を加えて雨が写るようにした。これは黒沢明流のデフォ
レメされたリアリズムというと矛盾していますが、強い雨が降るとか風が舞うとか、その後
の作品の基調となった表現がここで生み出されたといっても良いかと思います。これが世界
でも受け入れられて日本映画初のヴェネチア映画祭グランプリを獲得しました。 溝口健二 その後、宮川一夫は溝口健二とコンビを組むようになります。『雨月物語』(53)、『近松
物語』(54)、『山椒大夫』(54)など1950年代の溝口の円熟期は年1~2本のペースのス
ピードで今では名作と呼ばれる作品を発表している。溝口健二のリアリズムはドキュメンタ
リーに近い役者の生の動きを重視した演出と言えるでしょう。戦前の作品から、欲望にまみ
れた巷の人たちの姿を長回しで捉えていく。大阪弁で喋った映画や芸道ものと呼ばれる芸事
の世界を描いたもの戦後のよろめきものというかエロチックな不倫の物語などを監督してい
る。宮川一夫がドキュメンタリー的というかリアリズムを幻想的かつリアルなファンタジー
の世界にまで高めたといえるのではないでしょうか。溝口の役者の動きを最大限に生かした
カメラワーク、この場合特にワンシーンワンカットのクレーン撮影ですが、動きながら構図
を生み出しては崩していく。まさに王朝を描いた日本画絵巻物の世界をつくりだすわけで
す。ひとつひとつの構図は考え抜かれた美しさを持っていて、ただクレーンと人物の動きを
あわせて構図の中で芝居をしてカメラが追っていくのではなく、厳密な動きとタイミングが
静と動の移り変わる瞬間を何度もワンカットの中で作り出している。逸話ではクレーンと役
者の動きを決め手から森のセットを作って木を並べたと言われています。現実を切り取るの
ではなく生み出す、しかしさりげなくリアルに見えるようにする。クレーンはよくシーンの
最初や最後にダイナミックに象徴的な動きで使われることが多いのですが、溝口健二と宮川
一夫の場合は、カメラの存在を強調するのではなく控えめな動きであることは指摘したいと
思います。宮川の美的感覚と溝口のリアリズムが長回しの中でドキュメンタリーとして生成
していったと言えるでしょう。 小津安二郎 次は小津安二郎とのコンビです。小津安二郎は松竹と言う会社でほとんどの作品を撮って
きます。カメラマンは厚田雄春とずっとコンビを組んでいます。厚田はカメラマンではなく
カメラ番だと言っています。これは小津自身がカメラを覗いて構図を決めて芝居を見るため
に厚田は照明の指示を担当していました。『浮草』(59)は、大映の女優を松竹が借りたの
で、そのバーターとして小津が京都に出向いて大映のスタッフで監督した作品です。大映と
いう会社は社長の永田雅一が技術や機材に関するお金はケチらなかったのでスタッフの技術
力の凄さから業界では「技術の大映」と呼ばれていました。巨匠小津安二郎が来京したか
ら、スタッフに撮影は宮川一夫、照明は岡本健一となるのは当然のことです。松竹で監督し
た映画が多いために、『浮草』は小津映画としては異質ではないかという人もいますが、わ
たしはこの映画は、小津がやりたかったこと彼が持っている本質を技術スタッフが丹念に汲
み取り、その表現を最高水準まで引き上げたと思っています。逆に言えば松竹時代では叶え
られなかった小津の世界が花開いているといえるでしょう。小津の最高傑作は『浮草』では
ないかと思っています。セットとロケのカラー撮影や陰影の表現、セットの素晴らしさは松
竹とはぜんぜん違うと思います。いつもの小津映画は平面的な印象がありますが、『浮草』
はより立体的になっています。小津が好きな正面から捉えた構図を活かしながらも、わずか
にカメラの角度をつけなています。そして照明の陰影の豊かな表現によって、小津調の堅い
表情からより心理的な感情を引き出すことに成功している。登場人物たちの持つエロチシズ
ムが溢れ出してくる。単純に色気といっても良いですが。若尾文子と川口浩というカップル
も、松竹時代の他の若いカップルに比べて色欲がストレートに現れている。有名な小津の映
画はローアングルで俯瞰が無いが、『浮草』ではワンカット俯瞰がある。俯瞰の撮り方にし
ても小津のローアングルに近づけようとして水平よりちょっとカメラを下に向けたくらいの
角度で上から見下ろす俯瞰の映像とは明らかに違う。 これがカメラマンの主張と巨匠のより良い作品をつくるための目に見えない戦い、あるい
はコラボレーションなのです。これは先ほどの溝口健二との仕事と同じです。 だからすべてを監督ひとりの功績にしてしまう作家主義的な見方はナンセンスな訳です。カ
メラマンをはじめとする技術スタッフの控えめな自己主張を鑑みることが大切なのです。 市川崑 大映という会社はいろんな監督が来て、市川崑も宮川一夫とたくさんコンビを組んでいま
す。市川崑は大変グラフィカルなデザインに富んだ画面作りをする人です。そのためにいろ
んな技術の実験をする人でもあります。『おとうと』(60)と言う映画があります。大正時代
の話ですが、ここで宮川は現像所と一緒に「銀残し」という手法を開発をします。これはセ
ピアっぽい映像なんですが、簡単に茶色(マゼンタ)のフィルターをかけて色をつけるので
はなくて、現像の化学処理でカラーと白黒の中間の色の彩度を落とした映像を作り出す技術
なのです。生フィルムの中には銀が含まれており現像の段階で化学反応を起こすことで色を
作り出すことができます。普通は現像の段階で銀を洗い落としますが、「銀残し」では敢え
てその銀を残すことで色の発色を抑えます。現在ではデヴィッド・フィンチャーの映画の画
面、特に『セヴン』(95)やスピルバーグの『プライベート・ライアン』(98)を思い出
して貰えれば、古い写真のようにカラーなのに色が感じられない映像に気が付くと思いま
す。それが「銀残し」、英語ではブリーチ・バイパス(漂白工程を飛び越す)わけです。こ
の手法を開発して今ではデジタルで再現できるので、世界中のサスペンス調の映画で使われ
ている技法になっています。そしてここが重要なのですが、『東京オリンピック』(65)とい
う映画があります。1964年に開催された東洋初のオリンピックを記録として残そうとし
た、しかし監督の市川崑は美しくスポーツの魅力を映画で伝えたいとおもった。それは芸術
か記録かという時の政府の文部大臣を巻き込んだ論争を起こした。ここで宮川一夫も参加す
るのですが、彼はカメラマンというよりは撮影を統括する人。要するに競技を捉えようとし
たらたくさんのカメラマンとカメラ機材が必要になる。映画全体のトーンをどのように統一
するか劇映画だけじゃなくて、ニュースカメラマンなど多くの人が撮影してフィルムを持っ
てくるわけです。それを現像から仕上げまでの監修をしたと言ってもよいでしょう。実はこ
の1965年にNHK放送技術研究所でハイビジョンの実験が開始されたことは重要なポイント
です。 黒沢明ふたたび 宮川一夫の話に戻ると、彼はこのあと黒沢明と再び組みます。東京オリンピックの時の映
画の監督も黒澤明は打診を受けていたが、予算の関係で自分の思うようには作れないという
ことで辞退している。そして『羅生門』以降、世界のクロサワとなった彼と『用心棒』(61)
で再び組んだ。この時、彼は黒沢のホームグランドの東宝撮影所にカメラマンとして呼ばれ
ている。しかし今回不思議なことが起こりました。宮川一夫はメインのカメラを担当して彼
の画を作り出しますが、Bカメはこちらも長らく東宝で黒沢明と組んできた斎藤孝雄が担当
しました。黒沢明は『七人の侍』(54)からずっと複数カメラを採用していた。特に望遠
レンズを使って遠方から動きや表情を狙うようになっていた。今回も◯◯ミリの超望遠レン
ズを使ったゲリラ的な画面をたくさん撮ってきた。このドキュメンタリーのような予想でき
ない役者の動きを斎藤孝雄の撮影助手だった木村大作が困難なピント送りを担当していた。
完成した『用心棒』の半分以上の映像が斎藤孝雄が撮影したパートだと言われている。
1950年から1961年までに映画のスタイルが変わっていった。そのときに宮川一夫は自分の
世界とスタイルを確立させる方向へカメラマンという技術者として進んだが、黒沢明は自分
の世界に止まらずに時代とともにより過激なリアリズムを追求しながら突き進んだことが指
摘できるでしょう。それが痛快娯楽劇を生み出し、後に『荒野の用心棒』に盗作されてマカ
ロニ・ウェスタンブームのきっかけになったのだと思うのです。そして15年後に再び『影
武者』(80)で組もうとするのですが、最初に主演に選ばれた勝新太郎と黒沢明は衝突し
ます。勝新太郎は自分の演技をビデオでリハーサルを撮影しようとするが黒沢はそれを許し
ません。君の演技を監督するのはわたしだと。勝新太郎も自分で監督をしていたのでこれは
納得がいかなかったのだと思います。そしてふたちは衝突して勝新太郎は降板します。宮川
一夫は勝新太郎と大映時代から親しかったのでふたりの間を取り持つことが期待されていた
が、彼も倒れて降板してしまった。そのあとを引き継いだのが斎藤孝雄と上田正治でした。 宮川一夫はその後劇映画以外にもCMやハイビジョンの実用化に向けての開発にも参加し
ています。世界でもトップクラスの撮影監督が劇映画だけに拘ることなく、最新映像のハイ
ビジョンの実験まで参加する。技術の大元から理解して自分の手で考えて実践してきたから
こそ、その映像の未来を信じて参加する好奇心を失わずにいたのだと思います。単なるカメ
ラを使える技術者、技師ではない、真のクリエーターなのでしょう。カメラは役者を写すた
めにあるのですが、その一方で実は小津の本質を見抜いているという考え方もあるのではな
いでしょうか。 テレビの考古学 映画の歴史の話をしているのでテレビは関係ないのではないかと思われるかもしれません
が、デジタルの時代になると映画とテレビあるいはビデオが融合されるのです。だからこれ
までの映画の延長だけで考えようとすると無理が出てくる。折角テレビとヴィデオの歴史が
あるのにフィルムの映画史だけを使おうとするととても貧しい未来しか見えてこない。です
からテレビの考古学として開発の歴史と日本のテレビとビデオの流れを技術を中心に振り
返っていきたいと思います。 ウラジミール・ツヴォルキンというロシア系ユダヤ人がアメリカに移住してRCA社でテ
レビジョンの開発をします。アイコノスコープと呼ばれる真空管を使ったテレビシステムが
1933年に開発しました。41年にはNBC社がアメリカでテレビの本放送を開始しました。こ
のNBC社はRCA社が作った会社です。電気機器製造会社がテレビ局を作ったのです。日本
では浜松高専の高柳健次郎博士がテレビの伝導実験に成功した。東京の虎ノ門の愛宕山にあ
りますNHKの放送博物館に展示してあります。イロハのイの字ですね。ナチスドイツの時
代のベルリン・オリンピックでもテレビの実験放送が行われていた記録があります。テレビ
はオリンピックと相性がいいんですね。テレビの本放送がNHKで始まったのが1953年で
す。アメリカの10数年遅れというものすごいスピードでテレビは始まりました。 アナログ時代のテレビシステムにはいくつかあって、NTSCはアメリカ、カナダ、メキシ
コ、南米、日本。1秒間に30コマ。PAL、SECAM、ヨーロッパ、アフリカ、ロシアです。
これは25コマという違いがあった。DVDのリージョンコードのこの名残ですね。こうやっ
て規格が複数あるのは冷戦時代の名残り、ようするにテレビは映画と違って国家の管理体制
の下にあった免許事業だということです。特に娯楽を提供するより、ニュースやプロパガン
ダを国民に伝える役割として作られた性質があります。 余談ですが、じゃあテレビの前はこの役割を果たしていたのは何だったのか。いまは劇映
画に対してドキュメンタリー映画という位置づけがありますが、以前はニュース映画または
教育映画でした。そしてテレビの役割は、新聞、ラジオ、そしてニュース映画が果たしてい
ました。テレビニュースの前にはニュース映画というものがあって、ニュース映画専門館と
いう映画館が存在して何本もニュースを短編映画で流していた時代があります。これで国内
や海外の情報を知ったのです。日本でこの最初は日露戦争のときだと言われています。新聞
各社はニュース映画の会社を持っていました。第二次世界大戦のときに日本映画社に統合さ
れてプロパガンダの国策ニュースを作るようになった時代がありました。こういう流れが
あってテレビの主流はニュース報道、教育部門であって、バラエティやドラマの娯楽ではな
い。テレビ局が誕生するときに当たり前ですが、いままで存在しなかったのだから誰もノウ
ハウを持っていない。インターネットが突然90年代に現れたときと同じですね。だからテ
レビ局には映画会社と新聞社とラジオ局が参加しています。 ライブからパッケージへ テレビはテレビジョン、遠くのビジョンを見る役割があります。ですから生放送、生中継
がメインでした。ですから編集ができない。それが次第に磁気テープを使った録画編集機能
を持つようになっていく。最初に作られたビデオ録画機はテープの幅が2インチだった。昔
のコンピュータのような巨大な機械の中でテープが回っていた。カセットではなくオープン
リールです。それが1インチになる。これを作っていたのがRCA社やAMPEX社というアメ
リカの会社でした。そこで何が問題かというと機材が重たいので機動性がない。テープを編
集するときにフィルムのように画が映っていないのでどうするかというと、磁気帯にあるズ
レを顕微鏡で見てハサミで切って繋げる。そんな時代がありました。 初期のドラマは生でいろんな失敗のエピソードは聞きますが、それが少しずつ洗練されて
きました。有名なのはTBSが製作したドラマ「私は貝になりたい」(58)橋本忍脚本、フラン
キー堺主演です。史実は違う来のですが。1時間の中盤までがVTRで最後が生放送にした番
組でした。映画から一段低く見られていたテレビをどうにかしてもっと評価されたい、あた
らしいものを作りたいと思い作られたものでした。 一方では映画のノウハウを利用できないかと思い作られたドラマもあります。「月光仮
面」(58~59)は非常に予算が無かった。一本作るのに15万円しか無かった。だから16ミ
リで撮影するしか無かった。アメリカはテレビ番組も映画と同じで35ミリで撮りますが日
本は16ミリです。フィルムは素材なのでたくさん回すことができるが、日本はどれくらい
余計に回さないかが映画人の誇りみたいな感覚があった。カチンコも助監督は2コマか3コ
マでカチンと打ってサッと引っ込めるとか訳の分からない技が重宝された。アメリカだと撮
影助手が持ってダラダラと回している。文化の違いですねえ。話は戻って月光仮面の撮影に
フィルモというバッテリーの代わりにゼンマイでネジを巻いて28秒しか回らない音が大き
いサイレントカメラを使うしかなかった。だからその制約の中で短いカットをどんどん撮っ
ていくしかない。役者も映画会社はテレビに出さない。なぜなら商売敵だから。そこで独自
のタレントを探すことになる。月光仮面の主演、大瀬康一は東映の大部屋出身だった。要す
るに脇役やエキストラだった。そして監督の船床定男も東映で助監督をして人員整理でテレ
ビに回されて月光仮面ではじめて監督になった経歴をもっていた。当時の映画人はテレビを
電気紙芝居と揶揄していた。予算が無いので映画のロケ場所もスタッフの自宅。プロデュー
サーも未経験の宣弘社という広告代理店の人。まさにいまのインディーズ映画と変わらない
体勢で作られていた。そして映画のノウハウを持っていたが活躍する場がなかった者たちが
誓約があるが逆手に取ってテレビというあたらしい場を得てあたらしいスタイルを生み出し
て視聴者に受けた。続いて同じ主演、監督コンビで作った「隠密剣士」も大ヒットする。隠
密剣士は東映で映画化されて船床定男が監督した。そんな逆転現象がわずか数年で起きた。
パイオニアたちが劣悪な条件でそれを逆手に取りながら、既存のメディアにチープだと言わ
れながらもあたらしいメディアで開花したというのはこれからの参考になるのではないで
しょうか。 テレビと日本映画 映画は1963年に日本人が1年間に平均で11本見るほどの盛況でした。映画のカラー化は
ずっとアメリカのコダック社のフィルムを使ってきたのですが、国産のフジフィルムが総天
然色で『カルメン故郷に帰る』(51)やあるいは小西六のコニカラーで『緑はるかに』(55)が
生まれました。土井ミッチェルと呼ばれる国産の映画カメラが作られて独立プロで活躍し
た。 テレビに対抗してワイド画面も映画会社はすぐに対応してきました。東映スコープ、東宝
スコープ、日活スコープ、大映ではスーパーテクニラマという名前で『釈迦』(61)が70ミリ
テクニカラーで作られて、フィルムはロンドンで現像されるという豪華な製作現場でした。
この時のカメラはキューブリックが『スパルタカス』(60)を撮影したときの中古のヴィスタ
ヴィジョンカメラでした。他の会社がスコープ方式で作られたのに対して、技術の大映は地
番画質の良いが予算がかかるヴィスタヴィジョン方式を選びました。そういう会社もあった
ことは覚えておいて下さい。一方で東映の『飢餓海峡』(65)はニュース映画風な効果を出す
ためにわざと荒れた画にするために敢えて16ミリで撮影して35ミリに引き伸ばす、ブロー
アップというのですが、さらに画面を粗くする方式で製作された。 テレビマンユニオンと状況論 テレビマンユニオンといういまも「世界ふしぎ発見」や「オーケストラがやってきた」な
どのテレビ番組を作り、是枝裕和監督を輩出した日本で最初のテレビ番組制作会社がありま
す。1960年代に入ってテレビの文化も熟成してきたのですが、やはり国家の統制があり自
由度が少なかった。そこにベトナム戦争報道に対する不満があって、TBS社員を中心にTV
局の枠組みにはまらない会社をつくろうとして立ち上げたのがテレビマンユニオンです。 ここでテレビと映画映像をつなぐキーパーソンが三人現れてきます。面白いことに三人共
テレビマンユニオンと深い関係があります。実相寺昭雄、萩本欽一、伊丹十三です。彼らが
テレビを変革して、テレビと映画の境界線を越えて、現在の日本の映画と映像表現に多大な
影響を与えていると考えられます。萩本欽一はテレビマンユニオンの創設時からの株主。当
時コメディアンとして人気絶頂の彼がテレビ制作会社という裏方の仕事に投資した先見の明
があったひとだとおもいます。彼も忙しいなかで実験映画を監督したりするが、出演者だけ
では消耗品となり限界を感じて演出やプロデュースの裏方に入ってテレビを研究していった
時期です。伊丹十三は、その頃俳優であったりデザイナー、執筆業とマルチな活躍をしてい
ました。テレビが映画とは違った自由なメディアということに気づいて遠くにいきたいで、
究極のグルメものやドキュメンタリーのやらせ問題を自らが演じてその先入観を壊すラジカ
ルな作品を自らレポーターと演出として入っていきます。ドキュメンタリードラマという
ジャンルを開拓していきます。実装時昭雄はTBS社員だったが、歌謡ショーで美空ひばり
の超クロースアップで撮ったり、魚眼レンズで撮るなど常識を超えた中継演出をやって物議
をかもし出したために円谷プロに出向させられて、「ウルトラマンシリーズ」に参加する。
そこで実相寺流のドラマ演出が開眼する。彼はクラッシック音楽に造詣が深く、「オーケス
トラがやってきた」の演出、ハイビジョンドラマの「風の盆」(83)、火曜サスペンスで
は全編セット撮影の「青い沼の女」(86)など最新技術を駆使して実験的な映像を造っ
た。それと同時にATGで映画製作に参加した。 彼らのようにテレビ局から出て行った人たちが改革をする流れと同時に、テレビ局が映画
を製作するという今では普通に考えられる現象が、以前なら電気紙芝居と揶揄されていたテ
レビが映画撮影所に乗り込む時代になりました。フジテレビが五社英雄の『御用金』(69)。
『三匹の侍』(63~69)という時代劇を演出して大ヒットしました。これは映画会社専属の俳
優ではなく、フリーの丹波哲郎、軽演劇の長門勇、俳優座の平幹二朗を使ったテレビ番組。
この頃になるとテレビ番組を映画にする企画が増えてきますが、テレビ局がオリジナル企画
を出すのは珍しい、そして映画の助監督経験もないフジテレビのディレクターであった五社
が単身で乗り込む。。そして時代劇の総本山技術の大映京都撮影所に乗り込みます。勝新太
郎が主演で、予算を潤沢に使って発泡スチロールではなく本物の石を使ったりして意地を見
せます。ここで月光仮面のときとはまったくの逆転現象が起きます。ここまでわずか●年の
間の出来事です。 ENG革命 そして70年代に入るとテレビに大事件が起きます。ENG(エレクトリック・ニュー
ス・ギャザリング)です。これは「カメラをひとりで担いで取材をすること」。外に出て取
材するためには、カメラと映像を記録するためのVTRが必要です。映画ならば、フィルム
をカメラに装てんすれば手持ちカメラでひとりで歩けるが、ビデオは大きなVTRを一緒に
持ち運ばなければならなかった。ここでソニーがベータマックス方式、いわゆる3/4インチ
の40分?収録できるテープのカセット方式の通称弁当箱で軽量で持ち運べるVTRを開発
します。技術的にいうと1インチのオープンリールのテープより画質が下がるが、機動力が
あるので圧倒的な現場の支持があっていきなり75年から普及します。75年というのは昭
和天皇がアメリカを訪問した年です。そのとき日本からテレビのニュース取材のスタッフが
同行しましたが、そのまでニュース取材は16ミリで撮影していた。当時のニュースを見る
と映像が短く、音もシンクロしていないことにびっくりすると思います。それが日本のテレ
ビニュースの現状だった。しかしアメリカではすでにENG方式の取材が定着していたの
で、16ミリフィルムの現像を引き受けてくれる現像所がない。面白いことになにかイベン
トがあるときに技術の変革というか交代があるのが面白いですね。 それをニュースではなくテレビならではの映像表現にしたのが、75年にはじまった萩本
欽一の欽ドンです。ENGをつかってスタジオから外に出て隠し撮り的に素人いじりをする
バラエティ番組をつくったことで画期的だったわけです。彼はその前に起こった連合赤軍の
浅間山荘事件を見て、何も起こらないのにみんなテレビを見ているこれこそがテレビだと宣
言するするのです。そこから導かれたのがENG方式だったのです。なにかを準備してそれ
を撮影するのではなく、そこで何が起きるかはだれにもわからない刻々と変わる状況を捉え
ることにテレビメディアあるいは映画ではない映像メディアの本質を捉えたのだと思いま
す。当時はハプニングや状況論というような言い方もありましたが、それをテレビでおこ
なった。表にでるニュース、ドキュメンタリーと室内の演芸、またはラジオのトークを融合
させたバラエティという分野を生み出した。これを可能にしたのがENGの技術だというの
はあまり知られていないと思います。彼はもうひとつテレビに新しい技術を導入しました。
翌年の76年に始まった欽どこでワイヤレスマイクを採用したのです。それまでは音が悪い
からとハンドマイクを胸からぶら下げていました。これは彼がニューヨークにいったときに
ブロードウェイ演劇を見て採用を決めたといわれています。現在では普通の採用されている
が、誰かが率先して現場で使わないと技術革新は起きない実例だと思います。技術担当者が
いくらこれは良いからといっても現場がどのように使うかを考えて成功させないと技術は古
いまま留まるということです。そして収録テープが小さくなり機材の軽量化と共にバラエ
ティは進化していきました。 8ミリ映画ブーム 70年代後半に起きた8ミリ映画ブームがあります。これは「PFFぴあフィルムフェス
ティバル」と今は言われていますが、その当時は「ぴあオフシアターフィルムフェスティバ
ル」でした。このオフシアターというのが、重要です。なんどもいっているように映画業界
はメジャーの映画会社とその直営映画館で形成されていて、そこに外部から入り込むことは
ほとんどできなかった。だから8ミリあるいは当時は16ミリを含めて小型映画というまあ
アマチュア映画の別名といっても良いでしょう。これをメジャーとは別にオフシアター=映
画館ではないという位置づけに置いた。そこからはじまったといえるでしょう。世界的に見
ても新人映画作家が参加できるコンテストの条件は35ミリか最低でも16ミリが必須だっ
た。それを8ミリまで広げた映画祭は珍しい。8ミリはおもちゃ映画ごっこだった。しかし
70年代後半に、同時録音ができる8ミリカメラ、編集機、映写機が現れた。そこで高校
生、大学生が作り出すムーブメントが起きた。これはアメリカンニューシネマの影響。若い
彼らが16ミリ映画を作ってハリウッドで映画を撮った事実。あるいは日本のテレビ番組に
映画監督が流れ込んできておもしろい番組を作っていた影響もある。石井そうごの『高校大
パニック』(76)は8ミリで作られて、2年後に、にっかつがリメイクして石井を監督に呼ん
だ。しかし現場にはもうひとり澤田幸弘というベテランがいて、プロのスタッフは言うこと
を聞いてくれず石井はなにもできなかったという話がある。まだこのときはプロとアマの境
界線は崩れていなかった。 消え行く境界線 TBSのディレクター久世光彦はバラエティ・ドラマ「時間ですよ」や「ムー一族」を演
出していたが、スキャンダルを起こしてTBSを辞めた。そのあと東映京都撮影所で『夢一
族ザ・らいばる』(79)を監督する。山下耕作監督は『戒厳令の夜』(80)という五木寛之の小
説を独立プロで作った。このときの撮影が東の宮島、西の宮川といわれたくらい有名な、宮
島義勇という伝説的な撮影監督。バリバリの共産党員で東宝争議でも活躍した。その後追放
されなかったのは宮島がいなくなると日本の撮影技術が10年遅れるからだといわれたほど
の技術力があるひと。このときは海外シーンが多いので、予算がないから16ミリで撮ろう
として、当時新しく開発されたフォーマット、スーパー16を世界ではじめて商業映画につ
かった。これはあとでブローアップして35ミリにするのですが、これを現像所と一緒に実
用化の研究をした。 そして鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(80)がシネマプラセットという移動式球形
ドームシアターで上映されて大きな話題を呼んで、第一回日本アカデミー賞を受賞します。
まあこれは『影武者』の黒澤明が辞退したからなんですが。 映画が激しく変化していった時代に、テレビあるいはVTRも変化します。ENGの3/4
インチテープがさらに小さくなって81年に1/2ベータカムが登場します。家庭用で使われ
るベータはこれと同じものです。ただし業務用の方が回転速度が速いのでデータが多く収録
できるから画質がよくなる。販売戦略でベータはVHSに敗退しますが、じつは品質がよく
プロの間で使われていたのです。 取材クルーが簡便化できることで、報道と芸能(ドラマ、演芸)にもうひとつ、生活情報部
局が創設される。日本独自のバラエティの進化、フォーマットができあがっていったことが
上げられます。日本人とビデオの親和性があったのかなと思っています。同時期にアダルト
ビデオ、『ドキュメンタリー・ザ・オナニー』が82年に公開されています。佐々木忠とい
う日本映画の外側からやってきたひとが、ただオナニーを長回しでVTRで撮影されてそれ
をフィルムに起こす(キネコと呼ばれる作業)するだけの作品をつくってヒットさせます。
日活ロマンポルノが低予算の中でいかに工夫して作家性のある映画をつくろうかとしている
反対側で、ただ女性の姿を撮るだけの映画が作られた。観客の求めるものが作りものより
も、事実を求めた時代に変化していったといえるかもしれません。それを可能にしたのは新
しい技術と人の登場ではないでしょうか。それに対抗してでもないのですが、映画側からの
アプローチとしてはロマンX方式というキネコ映画が作られましたが、過激さと低予算が裏
目に出たのか話題にはなりませんでした。『箱の中の女・処女いけにえ』(85)を封切りのと
き見に行きましたが目が疲れました。ホラー映画ブームもありバイオレンスも強調していま
した。AVが日活ロマンポルノを駆逐したという俗説がありますが、実際は日活は過去の作
品をVTRにしてホテルに卸し販売して利益を上げていたので競合はしなかったのが真相で
す。 『お葬式』以前と以後 次に現れた大きな変化は伊丹十三映画の登場です。『お葬式』(84)以前と以後で日本映画
は大きく変わったといってよいと思います。お葬式はインディーズ映画でありながら映画の
人では発想ができない方法で革新をした。時代はバブル期を迎え、日本人は豊かになり、情
報に敏感になっていた。そこにテレビ的な手法のノウハウと状況を見せる独特の感覚を映画
に取り入れてヒット作を生み出した。 いまは普通ですがテレビモニターで撮影してスタッフキャストがその画面を見る。それは
日本では伊丹十三がはじめた。カメラのファインダーの中はカメラマンのものというのが映
画界の慣習だった。それを信じてラッシュまで待つのが普通だった。アメリカではコメディ
俳優兼監督のジェリールイスが監督デビュー作の『底抜けてんやわんや』(60)でこれを
はじめた。しかしまだ巨大なVTRだったのでそのたびに撮影がストップした。これは兼任
だからいえること。日本では映画の前にCMでモニターで確認することが起きている。CM
だと現場スタッフの力が弱い。クライアントが優位だから合理的に進められることになる。
痛みのように映画界の常識に囚われない人が現れることですべてを習慣を変えてしまうこと
が起きるのも面白い現象だと思う。 この時期に映画よりも面白くなったテレビの情報番組の企画・手法や採り入れて伊丹の映
画は観客に大いに受けた。映画撮影所から離れたインディペンデントのヒット作を出す映画
作家が日本に登場したのだ。その頃RCA社がアメリカ国内でのテレビの生産を中止して倒
産してしまう。日本のAV家電の攻勢のためだといわれています。日本ではビデオデッキの
普及率が50%を越えて映画を個人が所有していつでもどこでも見ることができる時代が
やって来ました。 ハイビジョンとマルチメディア アナログハイビジョンMUSE方式とよばれるものがありました。日本の国策として進め
て世界の次世代テレビの規格を握る戦略でした。しかし冷戦時代に国家が管轄するテレビで
は一国がそれを統一するのは非常に難しい。それでハリウッドにこれが次のフィルムの要ら
ない映画になると売り込んだ。これもまた反対が起きる。その当時このMUSE方式を越え
る高画質・高品質は存在しなかった。しかし欧米は政治的にこれを見送った。結局次世代の
デジタルシネマの規格のDCIが決まったのはそれから2007年、放送規格は各国入り乱れ
て、逆にデジタル放送に乗り遅れた日本は年米の数カ国の市場しか取れない。しかも決まっ
た瞬間にそのテレビモニターは韓国と中国製になる。 実相寺昭雄は『帝都物語』(88)でハイビジョン合成をおこなった。かれはやわらかい発想
の持ち主なので、CM、Vシネ、AVまで映像メディアに幅広く着手した。日本の場合クリ
エーターがいろんな分野に手を出すと器用貧乏と言われて評価されないという困った現象が
あります。同様に大林信彦も16ミリ個人映画、CM、ハイビジョン合成、16ミリブロー
アップ、8ミリと使っています。 ソニー、松下という日本の家電メーカーがハリウッドに進出する。 日本映画界は、Vシネマという新しい鉱脈を発見します。映画館にはかけずにビデオ店に
卸す60~70分の映画を作る。これがVシネマです。Vシネマは東映の登録商標なので正
式には「東映Vシネマ」。最初の『クライムハンター 怒りの銃弾』(88)。しかしこれが
ヒットすると各社Vシネをはじめます。これも最初は35ミリで予算があったものが、次第
に16ミリ、ビデオ撮影と予算が縮小していきます。しかしこの中から次世代の日本映画監
督たちを輩出した面で重要な動きだったといえます。 89年にスイートホーム事件が起きます。伊丹十三は黒沢清を売り出すために、劇場興行
では回収できないが、ビデオ化で回収できるとして『スイートホーム』(89)の企画にゴーを
出した。同時にメディアミックスとして現在は世界的なテレビゲームに成長したバイオハ
ザードのもとになったチームが、同名のゲームを開発した。そしてビデオ化権をめぐる著作
権使用料の支払いをめぐる裁判が起きた。最終的には伊丹側の勝訴となりましたが、監督協
会が黒沢側についた。どちらにせよビジネスか芸術かをめぐる大変後味の悪い終わり方をし
た事件だった。 Vシネからデジタルビデオへ 90年代にデジタル化の波が訪れます。岩井俊二の『if もしも~打ち上げ花火、下から見
るか? 横から見るか?』(93)がVTRで撮られたフジテレビのドラマでしたが、これが日本
映画監督協会の新人賞を受賞する。一本も映画を撮らない映画監督が新人賞を獲る現象が起
きた。これは会長だった大島渚の英断と言われています。今活躍している是枝監督はテレビ
マンユニオンの社員。ドキュメンタリー番組を獲ってきた。第一作の『幻の光』(95)の
スタッフは実相寺昭雄と多く組んだカメラマン、照明マン、美術スタッフです。暗い実相寺
テイストの画面が見られますが、その後誰も知らないから山崎裕というドキュメンタリーテ
レビ番組出身のカメラマンと組んで、映画よりテレビドキュメンタリーの感覚で作品を作り
続けていると思います。このあたりでかなり映画とテレビの境界線はなくなっている。 96年にはソニーVX­1000という世界初のデジタルビデオカメラが登場します。同時に
ノンリニア編集がテレビ、映画を問わず現場に入ってきます。TVシリーズ「エヴァンゲリ
オン」の庵野英明が彼は市川昆や実相寺昭雄に影響を受けていますが、『ラブアンドポッ
プ』(98)で全編VX­2000で撮影をしています。 2002年に35ミリカメラに匹敵するデジタルシネマカメラがソニーからシネアルタ、松下
からバリカムと発表されます。この流れの中で日本映画が成熟して現れたジャンルがJホ
ラーです。 リングの呪いのビデオというコンセプトは斬新で、それを監督した中田秀男は『箱の中の
女』で助監督について、日活撮影所を舞台に『女優霊』(96)を撮りました。これはWOWW
OWが自社制作の短編オムニバスの一本として企画されたものです。アメリカではモキュメ
ンタリーの『ブレアウィッチプロジェクト』(99)がネットとVTRの融合の新しい映画とし
て評判をとりますが、日本ではそれがオリジナルビデオや深夜のテレビ番組に向い新たな才
能が現れてきます。清水崇史はオリジナルビデオ「呪怨」(99)でデビューして、その才能は
ネットで評判になり、サムライミの目に留まってハリウッド映画『THE JUON 呪怨』(04)
を撮り、全米興行収入2週続けて1位を獲得する。ここまでわずか●年の出来事です。 融合するテクノロジー ここで言い切ってしまおう、映画とビデオ/テレビはデジタルで融合を遂げた。美学的な
面で両者がまだかけ離れているという人もいるが、それが解決するのは技術の進化との齟齬
であり時間の問題だと思っています。またこれだけ技術の進化が激しいとデジタルしか知ら
ない、アナログビデオがスタートだ、8ミリだなるわけです。これらは単なる機械に過ぎま
せん。映画を発想するときに、モニターを覗いてその世界で考えるのか、それともそれをス
クリーンに投射することを考えるのかで画面構成、撮影、照明、演出、編集、ダビングとす
べてが変わってきます。現在は宮川一夫のように10数年の下積みの徒弟制度は必要ありま
せん。撮れば必ず写りますから。しかし写したいイメージ、誰かがどこかですでに作ったも
のではない、を生み出そうとするならばもっと柔軟に深く精密に技術を知り、技法をコント
ロールする術を身に付けることです。デジタル化によりそれができる時代です。 それを現在実際に行っているのが、ジャン=リュック・ゴダールです。 Part.6 ジャン=リュック・ゴダール 映画ビデオ技術の宇宙誌 映画史と映画誌 今回のタイトルですが、「ジャン=リュック・ゴダール映画技術・技法の宇宙誌」という
ようなタイトルにいたしました。実はこの最後の宇宙誌の誌なんですけど、私たちが現在用
いる「史」を使ったヒストリーは、誰がどの時代に何を行ったかを時系列順に並べる定量的
な意味合いが大きいと思っています。しかし「誌」を使っていた時代もあった。自然史博物
館は、本来自然誌博物館であり、百科全書的な広い分野の自然科学を網羅していた。 ゴダール自身が映画史に(S)という複数の映画史の意味を込めているのは、定まった歴
史として語る映画史を回避しようとしているからではないかと思っています。いろんな人が
見るといろんな考え方があり各人各人がYouTubeにアクセスしてそれが映画史というもの
になっていく。どのようなコンテンツをどのように選択したことで歴史が生まれてくるかと
いうことをゴダールはすでにやっていたんではないか、という意図もあってこういうタイト
ルをつけました。 しかも彼は映画だけではなく、テレビ、とビデオも同時に考察している。映像と映画の境
界を簡単に乗り越えているのです。ありとあらゆる可能性を思考し実験することで、彼は映
画とは何かを常に自問しているのです。 見えない映画のサイクル この番組では毎回前回までのあらすじを出しているんですが、去年あたりから映画館のデ
ジタル化、フィルムが無くなっていくという現象が起きましてちょっとした騒ぎになってい
ました。実は映画製作においてデジタル化というのはデジタルビデオカメラで撮って、映画
館でプロジェクター上映するというのは十年以上前からはじまっていました。こういうよう
な現象というのは映画史においてサイレントからトーキー、ワイドスクリーン、カラー化と
いうように何回も来ているような現象は映画メディア、メディアアートあるいはメディアエ
ンターテインメントにおいて必然なのです。だから映画史を見るときにメディアの技術の必
然性ということを蔑ろにしてはいけないのではないか、というのがこの講座の基本的な考え
方です。 図の一番左の欲望というのは、観客がこういうのが見たいね、あるいはプロデューサーが
こういう映画をやったらヒットするのではないか、あるいは技術者がこんな新しい技術がで
きたからぜひ世に出そうといった欲望が生まれて、それを実際の技術として現場に落として
いく、あるいは現場の技術者が技法としてスタイルとしてこういう風な映画ができます、と
いう風に最終的にフィルムまたはデジタルのパッケージになったものが一番右の作品という
ことで、大体今批評で見られるのは一番右の作品ですね。作品を監督が作って、作家主義で
できただけの批評になってしまうのですが、いやいやそれが出来る段階までに左の三つの欲
望・技術・技法という見えない前の段階があるのではないか。そこまで注目していかないと
作品論や作家論は語れないのではないか。ということがひとつありまして、一番右の作品に
ついては批評家が語る、それ以外は、業界人またはクリエーターの人しか言えない、という
のがこれまでの映画状況だったのですが、今回デジタル化によって、作り手と見る側がすご
く近くなってしまった。いわゆるプロシューマーという言い方がありますが、プロダクト、
プロデュース、生み出す人と、コンシューマー、消費者をあわせて生産消費者という言い方
もあるのですが、これが二十一世紀のアートやエンターテインメント人々の生活において主
流になっていくであろうといわれています。わかりやすく言ってしまえば、ニコ生の歌って
みよう踊ってみようなどはわかりやすい例ですね。 そういうわけでデジタル化によってこういうプロシューマー的な現象が起きてきたと思わ
れているのですが、それを五十年前からやっている人がいるんです。それはもうお分かりか
と思いますが、ジャン=リュック・ゴダールです。それをもう一度一緒に振り返ってみたと
思います。 ゴダール伝説による時代区分 ゴダールについて書かれた本や雑誌を見ると大体こういう風に書かれています。スイスの
銀行家の家に生まれ、パリのソルボンヌ大学に在籍して、映画館ではアメリカのB級映画を
見て映画を学んだ。五十九年に『勝手にしやがれ』で天才監督現るとデビューして、六十年
代はヌーヴァル・ヴァーグと女優であり妻であったアンナ・カリーナと愛の時代と未だ持っ
てポップ、若い人が見てもわかりやすい楽しい青春映画をたくさん撮っている。いわゆるス
トーリーがわかりやすい時代。 そして六十八年のフランスの五月革命という政治運動を経て、七十年代には商業映画と決
別して、プロデューサーが出資して映画館で上映する商業作品とは決別していわゆる映画界
から消えてしまった。八十年代は政治からそこから戻ってきて『パッション』、『カルメン
という名の女』などを作ってふたたび映画界に復帰したといわれています。そのあと九十年
代はテレビ番組、複数の映画史と呼ばれるテレビシリーズを十年間にわたって製作している
という印象。その頃になってくるともうゴダールは巨匠であるから何でも良いんじゃないで
すかというような、一応新作やるんだからわからなくても見なきゃいけないという風な扱い
になっているんではと思います。六十年代は今も見て面白い面白いとみんな言って、タラン
ティーノが『はなればなれに』が大好きで自分のプロダクションに『Bande à part』の名前
をつけたり、多くのクリエーターたちがオマージュや言及していますが、それ以降について
は神格化はされるが細かく言及したのは聞いたことがない。難しい批評はたまに見ますけれ
ど、それ以上の言葉はあまり聞いたことがないのではないかというのが私の印象です。 ゴダールを再定義する ゴダールを映画批評的な見かたをするのではなくて、映画に対する実験をしたり新しいこ
とを考えていくクリエーターとして見る。一つ一つの作品ではさまざまな要素を集めてコ
ラージュとして一本の映画を作ってしまう。九十分の枠の中で男がいて女がいて拳銃があっ
てクルマが走る、何か事件が起こるという形式を少しずつ崩していく。逆に言うとひとつの
作品ですべては完成しなくても良い。その作品は何かをやるための実験の過程である。画家
であればデッサンの途中であるかもしれないが、時間が来たからそこで終わる、だから三作
とか四作を作ってそこで実験が完成したところで作品ができるというような形に、七十年代
以降変わってきたという風に思っています。 あるいはゴダールの表現があまりにも突飛でなんだかよくわからない。これはファッショ
ンデザイナーのファッションショーに出てくるような服が非常に奇抜であったとしても、そ
の人の個性でなにかを本質または尖った部分を使っているものをむき出しのまま出している
ものが、何年かするとやわらかくデザイン表現が解釈されてそれが街に現れて着られる流行
になる、そんな感じに近いのかもしれない。 あるいはピカソを見るとわかるのですが、いろんなものを引用していきながら新たな表現
を作っていく。まさにそういうような人なのだからわからないのも当然ということもあると
思っています。 五〇年代、暗闇での映画作り 何を実験するか、映画の実験とは何か、映画の実験と実験映画は似て非なるものなので
す。それを解いていきます。ゴダールが映画を撮る前の一九五〇年代に上映による映画作り
という言い方をしていますが、フランスのシネマテークを作ったアンリ・ラングロワがい
て、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、クロード・シャブロルはシネマテー
クで映画を浴びるほど見て映画を作り出したヌーヴェル・ヴァーグの原点といわれています
が、ゴダールはそのなかでも一本の映画を見るというより彼は断片的に映画を見るといわれ
ています。だから十分見たら、別の映画館でまた十分見る。気に入ったら何度でも見直す。
これはいまYouTubeで見る我々の見方と大して変わらないような気もします。自分の中で
どんどんつなげていくようなやりかたは九〇年代に彼自身が映画史を作るときにやった手法
と似ている。あるいはその前に「ゴダール映画史」という本が出ています。これはカナダの
モントリオール大学に行ったときの映画講義をまとめたものです。映画のワンリールだいた
い十分流してその次に自分の映画を交互に流す。例えばF・W・ムルナウの『ノスフェラ
トゥ』の次にゴダールの『アルファヴィル』を流すとかいう形で映画史を考えていこう。と
いう試みをしているのですが、それが一九五〇年代、自分自身が映画を撮る前にすでに映画
史に対する言及と考察を行っている。そういうことを一貫して五十年間やっている。映画を
撮る前に自分で映画を見て作ってしまう。それがゴダールの五〇年代に起きていたといえる
と思います。 余談ですが、カイエ・デュ・シネマという映画雑誌があるのですが、そこの売り物、映画
は五〇年代に世界的にもブームでしたが、音楽や絵画のハイカルチャーに比べるとローカル
チャーで、逆に映画を文化的に語るというのは頭おかしいんじゃないかといわれていた時代
なのを、もうちょっとハイカルチャーのカウンターとして映画を位置づけたいと考えていた
彼らは、ゴッホやルノワールを出してきて対抗させようとする意識があった。だから今現在
比べるのはどうなのかなというのはあるが、いまでいうサブカルチャー、カウンターカル
チャー的な考え方をいち早く取り入れたということと、もうひとつはカイエがほかの雑誌と
比べて特徴的だったというのは、その当時最新式だったテープレコーダーを使ったロングイ
ンタビューをしたというのがある。当時だからオープンリールでかなり大きなものであった
と思うのですが、ヒッチコックやフリッツ・ラングにインタビューをしていまもインタ
ビュー集で残っていますけれど、批評ではなくて作家の生の言葉を載せる、そのために最新
のテクノロジーのテープレコーダーを使う。ある意味ドキュメンタリー的なことを早くも
やっている。新しいカルチャー、ヌーヴェル・ヴァーグが生まれる前段階の雑誌においても
このような試みがあったといえるでしょう。 六〇年代、映画技術と技法の実験 六〇年代にゴダールがデビューしますが、「六〇年代ゴダール」という分厚い本がありま
して、ゴダールの神話的を徹底的に資料を解析してどういうふうに映画の一本一本が製作さ
れた過程を読み解いて、どういう風にお金が集められ、スタッフ・キャストが集められ、現
場ではどういう機材を使って何日で撮影して興行成績がどうだったかを全部細かく検証し
て、改めてゴダールのすごさを表している本です。ゴダールはたくさん映画を見ていたが、
現場の助監督の経験はありません。六〇年代の初頭に黒沢明がパリに来てヌーヴェル・
ヴァーグに出会って日本に帰ってきて、彼の助監督たちと座談会をやってときに、「いやあ
向こうだと評論家が映画を撮るんだよ」と彼に付いた中平康とか一緒にみんな首をかしげて
いたという記事がありました。徒弟制度的な部分で巨匠がいて、助監督が付いて修行をして
デビューする日本映画業界の慣習からは外れたことなので理解できないことだろうし、それ
は世界的に見ても同じだったのではないでしょうか。 六〇年代のゴダールの技術について見て行きたいと思います。『気狂いピエロ』の写真の
天井の近くにあるフォトフラッド、アイランプと呼ばれる写真撮影用の安価なライトをたく
さんつけて天井にバウンズ(反射)させて間接照明をして全体に拡散した光で影を出さない
撮影をする。この当時の業界的には1キロの大きなライトで直接照明をするのが普通です
が、ゴダールと組んだ撮影監督のラウル・クタールは報道写真出身なので映画業界の慣習を
越えて、高感度フィルムを使ったり、ラボと組んで長時間露光を行いこれまでの映画よりも
少ない光を使いながら、リアルというかナチュラルな光を作る試みをしています。これはド
キュメンタリーやスチルカメラ出身のカメラマンだから考え付いたルック、画面作りが出来
たのだと思っています。 もうひとつ面白いのはゴダールは作品によって使うカメラを変えていたりしています。ス
ターのブリジット・バルドーがでているような大予算の『軽蔑』(63)だとハリウッドが
使っているミッチェルカメラという大型のカメラを使っています。逆に予算の無い『カラビ
ニエ』(63)でとドイツのアリフレックスの同時録音が出来ない小型のカメラを使ったり
しています。ミッチェルは同時録音するためにぶりんぷと言う音が漏れないためのカヴァー
をしているのですが、人が喋るようなシンクロが必要なカットはミッチェルカメラで撮っ
て、細かいインサート的なショットはカメフレックスという小型のカメラを使って撮る。
ミッチェルで全部撮ると重いからカメラポジションを移動するのに時間がかかるので、次の
カットをセッティングする間に別のカメフレックスで撮るようなことをしています。これは
本にも具体的に書いてあるのが『中国女』の電車の中のシーンです。アンヌ・ヴィアゼムス
キーと哲学者が喋るシーンなんですが、主な会話のショットはミッチェルで撮りながら、手
のアップなどの細かいインサートはカメフレックスで撮っていく。こうしてゴダールは製作
時間の節約や自分のスタイルをつくる方法が、画家じゃないですが、大きな部分と筆を換え
て細かい部分を塗るタッチを変えるなど、映画製作全体の実験を繰り返しながら自分のスタ
イルを深めていったと言える。 また『気狂いピエロ』では、マカロニウェスタンで多用された、テク二スコープという新
しいワイドスクリーンフォーマットを使った。通常のワイドスクリーンサイズは4perfだ
が、テクニスコープは2perfという半分の解像度のためにざらざらの荒れた画面を生み出し
た。 現代社会の黙示録『ウィークエンド』(67)では、太陽光がある屋外で高感度のイース
トマンカラーフィルムを使い、NDフィルターを重ね、撮影の時はカメラマンがファイン
ダーを覗いても暗くてわからないほどだったという。そのネガを増感現像してコントラスト
が強い鮮やかな色調を得た。 ゴダールが今受けているのは画面のデザインを大胆に映画に入れている部分があると思い
ます。あるいは原色の使い方というのが今までの映画には無いようなポップあるいはフラッ
トな表現を入れてきたのは大きいなと思います。同時にいわゆるジャンプカット編集、今は
もうテレビCMとかでは普通になってしまったのですが、つながっていない滑らかでないよ
うな編集をするのは素人だと言われていただけども、それよりもリアルなあるいははっと言
わせるような編集をしていくというようなことまでひとりで作り上げてしまった。逆に言え
ば、ジャンプカットのようなテレビの撮り方はその当時テレビがあったわけで誰もがやって
いたのではあるが、劇映画全編で行い、それを美学まで持ってきたということがゴダールの
一番の特徴なんだと思います。あるいは同時録音ということにこだわる部分、インタビュー
相手の耳にイヤホンをつけてゴダールがトランシーバーでインタビューの質問をささやいて
役者はこれをセリフとして喋るなどをしました。 ゴダール自身は映画のプロを自認していた、プロというのをどう取るかにもよりますが、
ある意味最高の機材を使いこなして、その予算やプロダクションの規模に合わせてそのとお
りに最高に撮っていくのをプロ、あるいは彼なりの作家というふうに考えていたのではない
か。ハリウッドのニコラス・レイでも誰でもいいんですが、そういう部分で自分もハリウッ
ドへ行ったらそういう風に撮れるんではないか、というような考え方、あるいはハリウッド
標準の大型カメラのミッチェルを見事に使いこなす、あるいは使いこなしたいという願望が
あったりするのもゴダールのアンビバレンツなところもあるんですが、ひとつの特徴だと
思っています。 ちなみに六〇年代ゴダールはトップ監督である意味のファッションリーダーでもあったわ
けですね。だからゴダールはその当時の最高のアメ車のスポーツカーなんかに乗っていた。
今だけを見ているとそういう風な感じには思えないのですが、当時のロックスターと同じく
ポップカルチャーのアイコンでもあったといえます。 さて、『ウイークエンド』のあと五月革命を経てゴダールが商業映画に決別をしたといわ
れていますが、ジガベルトフ集団という政治的な映画を作る集団のときの作品が『東風』
(69)。イタリアで16ミリで作られた西部劇といわれているが、これはマカロニ・ウェ
スタン。時代的にもそういう時代であって政治的なものもちょっと含みながら、血まみれな
感じがまさにマカロニ・ウェスタンだと思っています。ある意味、ゴダール自身もマカロ
ニ・ウェスタン・ブームという世界的な潮流に巻き込まれていたのではないか、アメリカ映
画の西部劇を政治的な方向から物語で語ろうとするとそういうスタイルになったのではない
かなと思ったりしています。 七〇年代 テレビとビデオの実験 七〇年代はゴダールにおいて非常に空白の時期といわれがちなんですが、わたしからする
と七〇年代のゴダールをどう理解するかによって八〇年代、九〇年代、現在の二十一世紀に
つながるゴダールの姿が見えてくると思っています。実はゴダールは七〇年代も全然映画作
りを止めていないんですね。映画作りというか映像作りを。いわゆる六〇年代的な映画作り
はしていません。ゴダールはそれ以外の六〇年代的なものを否定しながら新しい映画とはな
にかというような実験を進めています。ひとつはテレビとヴィデオ。16ミリで『東風』や
シネトラクトと呼ばれる政治ビラ、プロパガンダ的な左翼的な短い10分から15分のアジビ
ラというか作品を作っていく。16ミリで撮ると撮影して、現像して編集して映写機を持っ
て上映する。だったらどうしたらよいか。ゴダールはもっと簡便でビデオという方法で特権
化した一部の映画人にすべてコントロールされた状況を避けることができるのではないかと
ビデオを導入しようと考えたと思われます。 一方でテレビというものに非常に魅力を感じたわけです。テレビというものを映画人が真
剣に使おうとしたのは、彼の師匠でもあるイタリアのネオレアリズモのロベルト・ロッセ
リーニまたはジャン・ルノワールが晩年になってテレビ番組をたくさん作っているのです
ね。ロッセリーニはテレビは娯楽ではなくて啓蒙ができる非常に教育的な映画、ソクラテス
であったり、ルイ14世やジャン・ジャック・ルソーの話の偉人の伝記的なテレビ番組を何
本か作っています。ゴダールがテレビに魅力を感じたのは、多少政治的な部分もあるのです
が、映画では映画館に集まった何十人の人にしかわからないのですが、テレビというものが
あればいっぺんにお茶の間に何万人の人に見せることができる。いままでの映画ではない
もっと直接的なシステムがなにか出来るのではないかと思ったことがあると思います。また
は怪しげなプロデューサーではなく、国家が加担する放送局ならば自由な表現で創作できる
と考えたのだろうと思います。しかしゴダールはテレビ番組をヨーロッパ各国の放送局、イ
ギリス・チャンネル4では『ブリティッシュ・サウンズ』、ドイツZDFでは『プラウダ』、
イタリアRAI『イタリアにおける闘争』からの依頼で作ったが、結局三本とも納品できず、
テレビでは放送されず、すべてが映画になってしまったという皮肉な現象がある。 辺境とスタジオ経営 テレビと関連しますが、彼が作品でビデオを使おうというのは『中国女』のときに自己批
判みたいなことをカメラの前で喋るシーンでは、そのときからビデオを使おうというアイ
ディアはありました。ゴダールのひとつの特徴として画面の上にテキストを置く、これはビ
デオとその前の16ミリ撮影の政治ビラ、シネトラクトのときにすでに導入されている。そ
れをビデオと含めて洗練させていくという方法がある。ひとつはビデオあるいはその映画の
壁を超えて新たなる表現のスタイルを生み出し始めている。これがひとつの70年代のゴ
ダールの特徴だといえると思います。 そして技法だけではなく映画の製作に対する実験もゴダールは一貫として行っている。そ
れをやかりやすくいうと、それまで60年代は映画都市であるといわれるパリを中心として
パリの映画、パリとどこかの映画を作っていたんですが、いきなりスイスのグルノーブルに
移動してしかもそこでビデオ機材が揃ったスタジオを作ります。彼が第二の『勝手にしやが
れ』と言うキャッチフレーズの全然違う映画の『パート2』(75)、それをつくろうとし
たときに、ゴダールは製作費の中に映画の実験の費用も入れているんですね。ゴダールの評
論の中にあるんですけども、「私は長い間、いわゆる伝統的な回路のなかでは映画もフィク
ションもつくらず、むしろ探求と呼ばれていることをしてきました。映画とテレビの分野に
は、自動車や製薬などの産業とは違い、探求のための機関というものがありません。百億フ
ランの総売上高をあげる大きい映画製作会社が、予算の三パーセントなり四パーセントなり
二〇パーセントなりを探求に当てるということをしていないのです。それでも、私は探求し
ようと努めてきました。私にはそうする必要があったからです…。」というような発言をし
ています。というような形で『パート2』を含め、これは無事に放映されたのですが、フラ
ンスのテレビ局ANTE2から依頼があった『6×2』(76)あるいは『二人の子どもフラン
ス漫遊記』(77ー78)のテレビシリーズなどをここで作ってきました。そのあと七七年
には独立したばかりのアフリカの小国モザンビークのテレビ局の開局を手伝うという企画が
あって国民の映画の創生をやろうとしたが立ち消えになったりしています。 ゴダール映画の撮影カメラマンには六〇年代ラウル・クタールというという人がいて、七
〇年代、この辺の作品については、ジャック・リベット、マルグリット・デュラスなどの撮
影を行ったウイリアム・リュプチャンスキーが撮影したと言われているのですが、じつはそ
の前にジェラール・マルタンという人がいて、この人はジガ・ベルトフ集団に参加してゴ
ダールのスタジオの手伝いをしていたのですが、彼が初めにビデオカメラを持ってきてゴ
ダールに見せた。ジェラール・マルタン自身はフランスの映画組合には参加していなかった
ので、名義としてはリュップチャンスキーになっていたりするので、ここからこれまでの映
画の美学から切れている新たなるテレビ、ビデオの試みを始めたといえるでしょう。 アメリカ大陸への亡命 YouTubeに上がったスタジオで編集卓に座るゴダールの姿を見ると最初はモニタや6ミ
リテープの音声再生機などアナログの機材があったがどんどん更新されていることがわか
る。真偽は定かではないが新作映画の製作に入る前にこれらをすべて捨てたのは、デジタル
に向かって後戻りしない決意ではないか。彼がやろうとしたことは、自分の家の中にハリ
ウッドを作ろうとしたというか自分の家とスタジオを一緒にしたアトリエを作った映画作家
というのは世界中にいないと思っています。それを最初から志向してすべてを自分でやる作
家をはじめた唯一の人だなと思っていたのですが、実はもうひとりいました。 七〇年代、ゴダールは政治的な映画あるいはテレビ、ビデオ技術を進めるのと同時にアメ
リカに渡ります。六〇年代に憧れていたアメリカに移ります。アメリカでやったことは大き
くいってふたつです。ひとつは「ゴダール映画史」の講義。五〇年代ゴダールが通っていた
シネマテークのアンリ・ラングロワがモントリオールで映画史の講義をやろうというのが
あったのですが、亡くなってしまってある意味ヒマでお金のなかったゴダールが代わりに行
くことになりました。それを収録して構成したのが「ゴダール映画史」です。これはぜひ読
んでいただきたい。これがのちのビデオ作品の『映画史』に繋がります。と同時にもうひと
つ七〇年代前半に政治的ドキュメンタリーを撮ろうというアメリカでのダイレクトシネマと
いうドキュメンタリーの流れがありまして、中心人物のリチャード・リーコックとゴダール
が組んでニューヨークで『ワンアメリカンムービー(1AM)というのを撮影しましたが、
途中で決裂してゴダールが編集しないままリーコックが『1PM』という洒落っぽい題名に
して仕上げた。あとジェファーソン・エアプレーンのミュージックビデオの撮影にも参加し
ていますが、リーコックはやたらズームを使う素人じみたカメラワークだったと酷評してい
ます。 しかしアメリカ滞在で一番大きいのは、フランシス・フォード・コッポラのアメリカン・
ゾートロープというサンフランシスコに作ったスタジオがあります。そこにゴダールは近づ
いていきます。そのとき作ろうとした『ストーリー』という題名の絵コンテというか絵がつ
いたシナリオ企画書ですね。これは当時人気があったロバート・デ・ニーロとダイアン・
キートンをフィーチャーして映画を作りたいと思っていろいろと企画を出します。コッポラ
が作ったアメリカン・ゾートロープにはジョージ・ルーカスやドイツのヴィム・ヴェンダー
ス、ハンス・ユルゲン・ジーバーベルグなどいろんなヨーロッパのアート系の監督を呼んで
きていろんな試みをやっていました。実際ここでゴダールはコッポラの『ワン・フロム・
ザ・ハート』の手伝いをしています。『ワン・フロム・ザ・ハート』はゾートロープのスタ
ジオの中にラスベガスの町並みのセットを再現してしまって、最初は全部ビデオで撮ろうと
した。それが出来ないのでビデオカメラを付けてテレビのスタジオ撮影のような形で映画を
作ろうとした。それはある意味ゴダールがスイスの自宅スタジオでやろうとしたことと同
じ。ゴダールとコッポラはこの時点で同じ地平を目指していた。これもゴダールの言葉があ
るのですが、「コッポラとぼくの唯一の共通点はーーたとえ方向は逆でもーー、彼は自分の
スタジオを、みんながやってきてスパゲッティを食べたり映画について議論したりシナリオ
を差し出したりする家のようなものにしようとし、ぼくの方は自分の家を小さなスタジオに
しようとしたというところにある。でもこの二人の試みは、ほぼ同じ時に挫折してしまった
わけだ。」 残念ながら今のわれわれの時代と違ってたとえビデオであろうが機材は高い。編集もアナ
ログで大変だった。発表の場もキネコでフィルムにするかあるいはテレビ局に持っていく
か、しかもテレビ局は放送するしないを決めることができる。というような不自由な条件で
あり、コッポラにしてもいろいろとやりすぎてしまって、それはハリウッド的ではないわけ
ですよね、コッポラはある意味、大いなるインディーズなわけですが、それも『地獄の黙示
録』で破産したりを繰り返しながら、ふたりは同じ時期に似た様な志向をしていたといえ
る。これはビデオとか政治的なものを抜きにしたら、ビデオを含めた映画製作においてアメ
リカとヨーロッパが偶然にしてもつながってしまったという映画史の中では大きな転換点と
いうかクロスした時代かなと思っています。コッポラとゴダールが失敗したとさきほど言い
ましたが、これを引き継いで成功させた人がいます。それはジョージ・ルーカスです。ルー
カスがルーカススタジオを作り、ILMという特撮工房を作ってルーカスのスカイウォーカー
ランチという牧場はゴダールとコッポラの夢破れたあとを成功させて最高の記事やスタッフ
を集めてデジタルまで進んで最終的にはディズニーに売り払ったところまで行き着いた。そ
れはゴダールとコッポラの挫折があったからだと言えるでしょう。 アメリカとゴダールについて大切なことがもうひとつあります。ブライアン・デ・パルマ
の『フューリー』。これはあまり知られていない映画ですが、ゴダール映画史的にいうと大
変重要な作品です。ゴダールはこの頃ですかね「ゴダール映画史」でも言及していますが、
サイレント映画とは何かとか、どうすればまた映画は面白くなるかをずっと探求していて実
験的に考えていたのが、映画はずっと二十四コマで来ていた。それを変えればなにかが起き
るのではないかとずっと考えていて、そこに『フューリー』はスローモーションを多用した
シーンがいくつかあって、ゴダールはそれにショックを受ける。その後にゴダールはスロー
モーションをどう使うかを追求し始める。それが始まったのが『勝手に逃げろ人生』という
七八年の作品です。自転車の走りをスローモーションでコマ数を変えたりして。スローモー
ションを入れるのはその後の特にビデオの作品、『映画史』などを見ると随所にスローモー
ションやコマ数を変えて動かすシーンがあるのですが、ここから始まっているといっていい
でしょう。アメリカとの付き合いというのが七〇年代において、それまでの五〇年代六〇年
代のハリウッドB級映画とかとの距離とは違ったリアルに彼がアメリカに行って彼自身が変
わった彼の映画の手法が変わった時期ということが言えると思います。 音と画の考察 そしてゴダールはさらに別の考察を進めていきます。それがソニマージュというスタジオ
を、パートナーとしてのアンヌマリーミエヴィルとソン=音、イマージュ=画の考察を試み
をする。『パッションのためのシナリオ』というビデオ作品ですね。『勝手に逃げろ人生』
(79)『パッション』(82)『ゴダールのマリア』(84)の三本はフランスの政府に
よる助成金が出るのですが、そのときにシナリオを提出して助成金をもらえるか審査を受け
る。ゴダールはそれはおかしいのではないか、なんで映画で画と音で作るのに、文字で見せ
ないといけないのか、彼はビデオでシナリオを作る。その前が『ストーリー』のシナリオに
なる。それをさらに進めて、映画監督が映画を撮るのになぜ文字を書かないとならないのか
という異議申し立てではじめた。というのが七〇年代後半から八〇年代最初におけるゴダー
ルの新たな試みです。ビデオを含めて映画の製作の方法をテクノロジーでどう変えていく
か、あるいは(定められた)音と画という問題をどう解決していくか。普通は音と画はシン
クロして当たり前の世界なんですが、それをどうずらしていくかあるいはサイレントにする
ことで何が起きるのか。これは六〇年代からやっていますが、それを明確に意識的に考察を
進めている時代です。これまで非商業映画の時代と呼ばれていた七〇年代ゴダールですが、
その裏にはビデオを中心として、ビデオとテレビ、ビデオとアメリカ、ビデオとシナリオと
いう映画の製作の方法、映画の作品だけではなく、映画をどう作るか、ゴダールがよく言う
「愛と労働」という言い方を映画に対して言いますが、そのモチーフを具体的に映画で考察
していた時代だと思います。ゴダールは『勝手に逃げろ人生』からふたたび35ミリのカ
ラーフィルムを使ってスターの出る劇場用映画に復活したと言われています。しかしここで
ゴダールは先に進んでいます。ある意味、七〇年代後半で商業映画に戻ったということは、
七〇年代の試みが挫折したと言えると思います。ビデオで映画を作るのには時期尚早だっ
た。(それを政治的挫折と一緒にされている)。それはコッポラなどを見ても感じたのだろ
う。そこでゴダールはなにをしたかというと、ビデオの良さは自分で使って自分の映像を作
れることだということで、カメラを作ってしまう。 あるカメラの物語と複数の映画史 16ミリ、あるいはビデオカメラみたいな35ミリのカメラが欲しいといってカメラの開
発に向かいます。フランスにAATONという会社がありまして、ゴダールが住んでいたグル
ノーブルにあって社長がジャン・ピエール・ブビアラ。この人は16ミリのカメラを作って
いたのですが、ゴダールと長い話し合いをして35ミリの本当のミニミニのカメラを作っ
た。残念ながらこれもゴダールは使い切れなくて、ラウールクタールやほかの撮影スタッフ
に預けたままにしてカメラの開発は挫折した。ゴダール大全集に「あるカメラの物語」とし
て収録されている。カメラの技術者とクリエーターの光学に対する知識とか思いがなぜうま
くいかないのか、非常に端的にわかる対話です。これを見ても単純にゴダールは商業映画に
戻ったのではないことが理解できる。『カルメンという名の女』(83)でもアトン35=
8の後継機種が一部で使われている。結果的にはうまくいっていない。 その一方でビデオを使ったテレビドラマ『映画というささやかな商売の栄華と衰退』(
86)では、ビデオカメラの電源コードが届く範囲で撮影をするような制約を自らに課して
作品をつくる実験的な態度を取り続ける。 次に九〇年代ゴダールは映画史に向かう。ここにおいて五〇年代からのシネマテークで見
て作られた映画史、あるいはモントリオールで行われたフィルムを交互にかける映画史、そ
して七〇年代のビデオ、書物ではなくビデオによるシナリオ執筆、これが全部合わさってひ
とつの大きな流れとしてゴダールの映画史として結実していく。1995年が映画百年だった
からの思い付きではない。あとカナル・プラスという映画専門衛星チャンネルの開設。ここ
で彼がやってきた技術を結集させて新たなる彼なりのスタイルを生み出したということを指
摘したいと思います。映画史の裏には彼自身の技術の映画製作史、テレビシリーズとして映
像とは何かという問いかけまで全部入っている。だから六〇年代の映画を見たあとに映画史
を見ても同じ人が作ったとは思えないでしょう。七〇年代の流れがあってここまでたどり着
いたと初めて理解できると思う。単なるビデオソフトがあって、製作状況が整ったから作っ
たのではなくて、その彼自身の技術技法の考察と実践を全部含めた結果である。と同時に
YouTubeと同じことをすでに行っている。しかも著作権の問題を笑い飛ばし、自分の作品
に自分の過去の映画を引用したら訴えられるのかと述べている。このときに映画史をという
過去を振り返るとともに未来の映像史まで予見している。七〇年代納品されなかったテレビ
番組があったことが九〇年代に実った、あきらめないことは大事だなという教訓とクリエー
ターの大切な資質だと思います。 九〇年代、インターネットとデジタルの実験 九〇年代、このあたりは技術・技法とはちょっと関係ないのですが、ゴダールはある意味
の内省化していく時代でもあるので、六〇年代的な映画作品というのもがもっと分断されて
きて、映像作品、映画エッセー的なものへと変化していく。それもYouTube的、デジタ
ル、ネット映像的であればある。ゴダールの出身階級であるブルジョア、ハイカルチャーの
素養が内側にあってそれを発展させることによって、自分の映画の志向も自覚的に変わって
きた。ヨーロッパ文化を支える三つの考え方。キリスト教、ローマ法、ギリシャ哲学、が必
ずあるのですが、それまでのアメリカに対する考え方がヨーロッパ人としての考えに深く刻
みつけてきた時代だと思います。映画を特権的に見るよりは、カルチャーとして、自分自身
が映画史の一部であるという考え方にかなり深く入ってきている。あるいはドイツについて
あるいはロシアについてのエッセイなどを作り出しているあたりも、このあたりと繋がって
きているのではないかと考えられます。 インターネット、デジタルの時代として、『ゴダール・ソシアリズム』(10)において
『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段とユーチューブの猫の100万回再生された映像が
同列に並ぶ。あるいは『ゴダール・ソシアリズム』は劇場公開前にネットで公開された。こ
れはフランスの映画興業界では、劇場公開の半年後にしかネットでは流せないルールが定め
られたいるために、敢えて劇場公開前にネットで公開されたことを見ても、ゴダールは常に
疑問を投げかけて最先端を進んでいることが理解できるでしょう。もはやビデオとかテレビ
とかネットとか映画とか映像とかどうでもよいというところまで来てしまっている。 次の作品『言語よさらば』を予言すると、この作品を始める前にゴダールが行方不明に
なった事件があって、スタジオの機材を全部売り払ってしまった。あれだけ金と時間をかけ
て作り上げたスタジオを無くしたということは、これをパソコン上で全部出来ることがわ
かったはずです。これまで50年近く積み上げてきたものを一気に捨ててしまった、このす
ごさはなんだろうか。だってこの歳になった映画の生きる伝説に映画を作ってくださいとい
う人がいて35ミリフィルムでいくらでも取れるし誰も反対しないでしょう。それをやらな
いでその先に進もうとする人はなんだろうという驚き。しかも驚いたのは3D。ゴダールは
実は新しいもの好きもありますが、要するに3Dでやると何が起きるかというと世界の興行
成績ナンバーワンの『アバター』と戦うことになる。ジェイムズ・キャメロンとゴダールが
同じ地平で戦う。しかもキャメロンは最高級の機材と技術を使って、CGバリバリでやるん
だけど、ゴダールが使うのはいわゆるコンシューマー用の3Dカメラとキャノンのデジタル
一眼レフ、5Dマーク2、パナソニック、フジとソニー、GoProタイプの小型ウェアラブ
ル・アクションカメラというアマゾンで買えるカメラを使っています、もうひとつキャメロ
ンと同じ位置に立ってということと、これを使うことによってデジイチを使うクリエーター
の位置にも下りてきていることなんですよ。それが非常に重要だと思うのです。そのときに
なにを考え何をするか同じ機材を使っている。ゴダールが映画の技術や機材について何を
やってきたかの流れを見ていると新作を3Dコンシューマーカメラで撮影することが必然で
あったことがお分かりいただけるでしょう。ぼくの予感だとこれは劇場公開しないのではな
いか。全部ネットでしか配信しないのではないのかなと思うし、これが成功した3Dになる
保証はない。やったけれど失敗する可能性のほうが高いのではないかと考えています。でも
ゴダールはめげずに先に進んで何作か後に完成させていくはずです。連作してひとつの作品
になる。その変化の過程がひとつひとつの作品と思う。これは画家の連作と同じことだと思
います。 映画は自由になりたがっている 映画は自由になりたがっている。その最先端にゴダールがいる。クリエーターは大変だけ
れど、見ているほうは面白い。ゴダールは止まらない。ゴダールによって映画の技術・技法
史は更新されている。同時に彼自身がプロシューマーでもある。 これまで6回にわたってお送りしてきました、デジタルシネマ・サバイバル・ハンドブッ
クは今回で終了です。簡単に振り返ると、いかにして映画は映画になったか、ハリウッドは
どのようにして成立したか、そのなかで作家として生き延びるかでヒッチコックとウェルズ
を見て、職人技術の世界だった映画はさらに技術によってアーティストスタイルが現れた七
〇年代のニューシネマの時代、あるいはビデオやテレビ技術の開発の中心となった日本から
映画史を見直す、それをトータルで体現して今も現役で走り続けるゴダール、という流れを
見てきました。 今回サイレント映画がうまく紹介できなかったのですが、一八九五年に映画が発明され
て、一九二九年までの短い間でものすごい勢いで映画ができてしまって、サイレント映画自
体が映画本来のスタイルだともいわれています。なせこういった形で発展したかというの
は、ちょっとずつ解明していきたいです。ひとつの手がかりとしてはサイレント映画を映画
の枠組みだけで語るのではなく、その当時の芸術運動、アヴァンギャルド、ロシア構成主
義、未来派、シュルレアリズム、バウハウスなどと一緒に比較する。エイゼンシュテインも
映画ではなく演劇から出てきた人なのです。 アニメとドキュメンタリーもポストフィルム時代になってきてアニメとドキュメンタリー
が増えた。ある意味個人でできる。劇映画的ではなくできるものがものすごくひろがってい
るなと思う。ゴダールがカメラを開発したり、スタジオを作ったのと同じようなことが何十
年か遅れて一台のデジタル一眼レフカメラと一台のインターネットに繋がったパソコンがあ
ればできるようになった。これ自体が本当の作家主義の時代ではないかと思います。ゴダー
ルについては作家といっていいと思います。これまでのフィルム時代からの劇映画の製作ス
タイルとはちがう形のコントロールができる時代になってきていると思うのです。別にス
タッフとのコラボレーションを否定しているわけではないですが、個人で突き詰められる。
だれでもここにカメラを置きたいと思って撮れる。これが本当の作家主義だと思えるので
す。そのためには技術と技法の映画史の観点から、プロセスを知ることで新たな創作を生み
出すことができるのではと思います。 ゴダールは映画の次あるいは先を見据えています。映画史以降の作品はすでにヴィジュア
ルアート、ビデオインスタレーションを体現していると思えるのでです。『ゴダール・ソシ
アリズム』はまさにそう思います。それを慣習的に映画と分類する必然性すらないのではと
思います。第七芸術と呼ばれるこれまでのアートをすべて含む映画を考察してさらに、技
術・技法を駆使してメディアとしての映画の考え方を入れながら、次の新たなるゲームやデ
ジタル表現を含むなんだかわからないけど生まれてくると思います。ゴダールが五〇年代に
はじめた映画を見て自分の映画を作りはじめのと同じことがYouTubeによっていろいろで
きます。そこからソーシャルに展開して次のアートが誕生するでしょう。 ここまで来るとゴダールをもはや映画から解放すべきだと思うのです。最後の映画の巨匠
ではなくデジタル時代の映像アートの先駆者として位置づけることが大切だと思えます。