異文化の旅 チュニジアを行く1998-12 a065 チュニジア紀行6日 ケロアン アグラブ朝 ファーティマ 朝 ズィール朝 貯水池 1998 年 12 月 25 日金曜、朝 6 時半、スースのビーチリゾート 地、ポート・エル・カンタウイ のホテルで遠くに潮騒の音を聞 きながら目を覚ます。キリスト 教徒はクリスマス・イブで遅く まで盛り上がっていたから朝食 のレストランには西欧人は閑散 としている。非イスラム教かつ非キリスト教で、のんびりリゾート よりも観光に勤勉?な私たちは 8 時半に出発した。目指すはスース から西 60km 弱の Kairouan ケロアン である。 ケロアンに向かう道路はほとんど起伏のない平地を走っている。 土は茶色がかっていて 、サハラに比べるとはるかに湿っぽく見える 。 地面にへばりついている緑もしっかり根付いているし、遠くにはオ リーブの樹園地が続いている。地図を広げると道路の北には Sebkhet Kelbia、南には Sebkhet Sidi el Hani と書かれ、青色に塗られ た表示がある。同じ地図のチュニジア北端には Lac Ichker イシュケ ル湖 、チュニス近郊には Lac de Tunis チュニス湖が表示されている 。 あとで調べたら、イシュケル湖と周辺の湿地は渡り鳥の飛来地とし て世界遺産に登録され、チュニス湖にも渡り鳥が飛来するそうだ。 余談ながら、イシュケル湖の水源にダムが造られて以来、水量が減 少して塩分濃度が上がり渡り鳥が減少し始めているらしい。環境と 産業の両立を図って欲しいね。 lac =湖と使い分けられている sebkhet を調べた。確証はないが、 水の流出入のない、浅い沼のような水面を指すらしい。水の流出入 がないから塩分濃度は少し高いだろうが、野鳥が観察できるそうで 塩湖ほどでもないようだ。 Sebkhet 沼地が点在するのだから、土地 が水分を保っていて、頼りなくてもしっかりした緑地になり、オリ ーブ園の展開につながったのではないだろうか。とすれば、早くか ら人々の集積があり、村となり町がつくられただろう。事実、ポエ ニ・カルタゴもローマ・カルタゴもこの地を支配し、ビザンティン 帝国もここを治めてきた。 話が飛ぶ。預言者ムハンマド( 570?-632)に従い、共に戦ったウ マイヤ家アブー・スフヤーンの息子の一人で、当時シリア総督であ ったムアーウイアが 661 年にイスラム世界唯一の正当カリフとな り、ダマスカスを都とする ウマイヤ朝 ( 661-750)が始まる。 670 年ごろ、ウマイヤ朝の Uqba ibn Nafi ウクバ・ブン・ナーフィ ー( 622-683)が現チュニジアに侵攻してきて、この地を治めてい たビザンティン帝国軍と激しい攻防戦をくり広げ、勝利する。伝説 では、ウクバ・ブン・ナーフィーがビザンティン帝国軍に勝ったケ ロアンで地面に槍を突き立てたところ水が湧き出した。この湧水は 地下で聖地メッカに通じていると信じられ、アッラーの庇護を受け ることから、ウクバ・ブン・ナーフィーはケロアンを軍営都市= misr ミスルと定めた。おそらく、ここの土地の肥沃さが魅力だった に違いない。 672 年には Kairouan ケロアンに Maghrib マグレブ=北 西アフリカ最初のモスクを建てている。 ウクバ・ブン・ナーフィーはムアーウイア統治下の 660 年代に入 り現リビアを征服し、 670 年に現チュニジア、 680 年には現モロッ コを征服した英雄である。以来、ケロアンはリビア、チュニジア、 アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ= Maghrib マグレブの都 として繁栄を続けた。 話が変わる 。ウマイヤ朝は 、西は 711 年のイベリア半島 、東は 712 年の中央アジア・サマルカンドへの侵攻などで拡大を続けたが、ア ラブ部族の対立などを背景に反ウマイヤ朝のアッバース家に滅ぼさ れる。代わって アッバース朝 ( 750-1258)が興る。ウマイヤ朝の一 部はイベリア半島に逃れ 後ウマイヤ朝 ( 756-1031)を開く。アッバ ース朝はダマスカスなどを都とし中東に勢力基盤を置いていたの で、チュニジアあたりはアッバース朝支配下のイブラーヒム総督が 治めていた。イブラーヒムはチュニスで起きた暴動を鎮圧し、アッ バース朝に貢納する アグラブ朝 ( 800-909)を興して、ケロアンを 都とした。 話がまた飛ぶ。シリアを本拠地に、 8 世紀に興ったイスマーイー ル派=イマーム派は弾圧を避けて現チュニジア東岸のマフディーヤ - 1 - - 2 - に侵攻 、909 年にアグラブ朝を滅亡させ 、ファーティマ朝( 909-1171) を興す。 969 年、ファーティマ朝はエジプトに侵攻、 972 年に都を カイロに移す。マグレブの統治は、ベルベル人でファーティマ朝の 軍人ブルッギーン・イブン・ズィーリーに任された。ズィール家は 支配体制を安定させ、息子の代に独立を宣言、ケロアンを都とした ズィール朝 ( 983-1148)を興す。ところが 1051 年ごろから宗教対 立を背景にしてファーティマ朝によるアラブ遊牧民ベドウィン badawi の攻撃が始まり、ズィール朝は都をマフディーヤに移し、 その後、衰退する。放置されたケロアンはベドウィンに侵略、破壊 されるが、マグレブ最古のグラン・モスクや旧市街メディナが当時 の様子をいまに伝えていることから世界遺産に登録されている。 ついでながら、その当時、モロッコ、スペインを ムッワヒド朝 ( 1130-1269)が支配していていて、ズィール朝滅亡後のチュニジ アあたりはムッワヒド朝の総督が治めていたが、アブー・ザカリー ヤー総督がチュニスを都とする ハフス朝 ( 1229-1574)を興す。紆 余曲折の末 、北アフリカは オスマン帝国( 1299-1922)が席巻する 。 チュニジアはオスマン帝国下の ムラード朝 ( 1613-1705)、続いて フ セイン朝 ( 1705-1958)が治めた。フセイン朝については a057 で触 れたようにチュニスのメディナを拠点に治めていたが、やがてフラ ンスが侵出し、 フランス保護領 ( 1881-1945)となる。まさに栄枯 盛衰の歴史である。なお。年代や支配者は資料によって異なる。そ もそもイスラム世界もベルベル人も文字で記録するより口承を得意 としたし、勢力が錯綜していて特定しにくいこともあるようだ。大 筋の流れが理解できれば良しとしたい。 10 時少し前に Kairouan ケロアン の観光局に着いた。シキブさん は建物の屋上に上がるように伝 え、観光局に入っていった。屋 上に上がると、実にきれいな円 形のアグラブ朝の貯水池 Bassin des Aglabites が見える(写真 )。 満々とたたえられた水は空の雲 を写し、わずかなさざ波で雲が 小刻みにふるえている。砂漠に 住む人にとって、この豊かな水があることで安堵できるはずだ。写 真向こう側の円形は沈殿池で、直径 37m と小さい。瓦礫層、砂礫 導層が設けられていて、導水された水の汚れを落とす。写真手前が 貯水池で、直径は 129m ほど、深さ 5m ほどあり、およそ 65300 ㎥ を溜めることができるそうだ。 もともと住んでいた遊牧民ベルベル人は深井戸を掘って水をまか なっていた。 670 年代に侵攻してきたウクバ・ブン・ナーフィーが ビザンティン帝国軍を打ち負かし、槍を突き立てたところ水が湧き 出したのは伝説からは地下水が豊富だったと想像できる。しかし、 軍営都市としてケロアンが成長し、さらにアグラブ朝( 800-909) の都として発展すれば地下水ではまかないきれない。アグラブ朝は 860 年から 862 年にかけて( 6 代マフマドの治世 856-863 か ?)、ケロ ア ン か ら お よ そ 40km の Cherchira 山 ( 地 図 に は ケ ロ ア ン 西 方 に 1000m 前後の山が点在する)から水を引き、 15 ?の貯水池を建造 した。 Bassin des Aglabites の名前はアグラブ朝に由来する。 15 の貯水池に平均 5 万㎥とすると計 75 万㎥、東京では一人 1 年 でおよそ 80 ㎥の水を使うので東京の 9400 人× 1 年分の水量に相当 する。豊かな水を背景にイスラム勢力はケロアンを拠点に現アルジ ェリア~現モロッコに進撃し、 711 年にはイベリア半島まで勢力下 に置いた。現在は 2 つの貯水池が残っているそうだ。水道橋で引い たとすれば古代ローマの技術を応用したアーチ橋であろうが、遠望 しても水道橋は見えない。とすると、西アジア~北アフリカに広ま った地下水路=フォガラ foggara =カナート qanat であろうか。 シキブさんによると 、 「 住まいや公共施設では雨水を地下に溜め 、 中庭などの井戸でくみ上げて、洗濯や掃除に使う、飲用水は山やオ アシスの湧水をラクダやロバに背負わせたタンクや山羊の革袋に入 れて売りに来るのでその水を買ってカメに溜めて使う、水は神の恵 みと考えられている、地方では湧水や深く掘った井戸から女・子ど もが水を運んだ 、家庭にはシャワーかバスタブがあり体を洗うが 、1 週に 1 回以上はハンマーム hammam(アラビア語)=ハマム hamam (トルコ語)=公衆浴場に出かけ 1 時間以上くつろぐ」そうだ。 水とのつきあいにも異文化がうかがえる 。( 98112 現地、 2014.1 記) - 3 - - 4 -
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