アルメニア・ワインの歴史

アルメニア・ワインの歴史
古来よりアルメニアはワイン作りで有名で、その伝統は今日まで保たれています。そのことはヘロ
ドやストラボンといった哲学者の著作からも知ることができます。紀元前400年、クスノフォン率
いるギリシャ軍がナイリ(アルメニアの最も古い名前の一つ)の地を通ったとき、彼らはアルメニア
人の家で深い退避壕の中で特別なカラス(素焼きの瓶、壺)に保管されていたワインやビールでもて
なされました。ビールの入った瓶には葦が入れてあり、われわれの祖先にとって塩入れとして役立っ
たのは興味深いことです。19-20世紀にかけて、学者のピャトロフスキーによって発掘されて、
考古学上、紀元前9世紀にはアルメニアはワイン製造国であったという事実が確認されました。テイ
シェバイニ要塞に480のカラス瓶のあるワインの保存倉庫を考古学者が発見しました。そこには3
7万リットルのワインの製造スペースがあったと考えられています。アルメニアの最古の集落(入植
地)の一つであるカミール・ブルー(そこでは1000年前の生活の最初の特性が発見された)とエ
レボウニ(現在のエレヴァン領土の要塞都市で2800年前に作られ、2700年前にアルメニアの
首都となった)の発掘で、200のカラス瓶がある10個のワイン倉庫が発見されました。アルメニ
アの祖先、世界最古の国家の一つであるウラルツの住人はワインの発展にかかわってきたのです。歴
史家の証明するところでは、この世界最古の国家の一つでは、ワイン製造と果物栽培の発展に特別な
注意を払ってきたのです。歴史的なデータにはしばしばワインとビールの製造技術が示されているこ
とが認められます。ソビエト連邦時代には、アルメニアのワイン製造は栄光の絶頂を迎えます。
(訳者注:Karas と呼ばれるものの写真が下記に示されている。素焼きにされた瓶あるいは壺の
ように見えるので、そのように訳した。)
1940年から1985年までのワイン製造は9倍に、ブランデーは17倍に増加しました。19
60年から86年にはスパークリングワインの出荷は10倍になりました。80年代はアルメニアで
は年間平均21万トンのぶどうから1400万から1500万デカリットルのワインが生産されまし
た。200万デカリットルはブランデーの製造に使われました。残りはワインになりました。食品分
野でのアルメニアの収入の37,4%はワイン製造に必要でした。80年代には全ソビエトで生産さ
れるブランデーの25%をアルメニアが供給しました。ワインの3%(強いワインの5-6%)はア
ルメニアが占めました。生産された4分の3は主にロシアに輸出されました。その当時を通じて、ア
ルメニアのワイン製造は「アララト・トラスト」に集中していました。マキシム・ゴーリキーはそこ
を訪れた際、「アララト・トラストを去ることよりも、アララト山に登るほうが易しい」と言いまし
た。ここの峡谷には、ワイン製造の博物館があります。そこには数世紀にわたる3000種類以上の
ワインのコレクションがあります。世界中で、フランス、イタリア、そしてアルメニアだけに同様の
ワイン倉庫があるだけです。多くの農民が3000年も昔に、ぶどうを加工し、特別な建物に保管し
た事実を忘れてはなりません。ワイン工場には、ワインの材料はオークの樽に蓄えられました。しか
し多くの村では先祖たちの伝統が今でも用いられています。カラス瓶がワインの保管に用いられてい
るのです。そのピンク色がかった構造のために、アルメニアのオークはワインにバニラ、チョコレー
ト、ドライフルーツの自然な味が加えられるのを可能にしたのです。アルメニアのぶどうとアルメニ
ア・オークの樽はアルメニアワインに独特の香りを与えました。この独特のコンビネーションは世界
の他のどの国でも再現することはできません。
(訳者注:デカリットルは10リットルなので、1400万デカリットルは1億4千万リットルと
考えられる。)
ワイン製造の伝統は長い年月の間注意深く保たれてきたのです。同時に製造は絶えず改善され、品
質の管理は堅実なものとなってきたのです。
今ではアルメニアのワイン生産者によるワインの品質は、味と香りで専門家たちを驚かせています。
なおアルメニアワイン製造の新しいステージは建設的な変化を見せています。
ワインをたたえます。そのグラスは人々を人類の起源と祖先の英知にに立ち戻らせます。
KARAS