渡 佐 - WordPress.com

十
郷
士
文
化
Ⅱ71
佐渡
え
苓
手
l◇
漁=
感
練ご
平成十六年三月十五日梅原猛
考
鼻
日蓮は日蝕の時、自養していよよ
輝く大き日となる
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蔵図箕笹f唾、ぶよ
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燕
炉畢
4
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2008-6月
﹁第六川金川国分好サミット、佐渡﹂企
町展﹁佐渡国分寺展﹂︵佐渡博物館︶に
国分寺瓦
鷺
展示された山本半蔵の国分寺資料と
︷﹄
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蔦
靜古山本半蔵翁編限定二○○部︾峨蝿妙謹峠﹄鐵榊二○○円
f2凄ハ斑荏詮r陳序尋涙﹃一鼻fr
集
版画増の腫匠平塚運一拓本’三十一点昭和五十三年刊
佐渡国分寺古瓦拓本
土中に草むらに
一千年の生命を
つづけていた
かわらかずかず
瓦の数々
啓 年
付録佐渡国分寺岫調杳報告耆︵地図・写真︶
拓
・'ざL寺
佐 渡
郷
土 文 化
第117号
鱈
佐渡郷土文化の会
1:1
1 § 1
表紙・・:.:。⋮⋮・⋮⋮⋮梅原猛
カット:⋮⋮⋮・;。.:⋮⋮長嶋陽こ
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§
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佐渡郷土文化第二七号目次
さとる
I:1
1 I I
I ; I
口絵第二十五回日本文芸大賞新保哲氏︵相川出身︶授賞/真野宮御造営と国分寺遺跡発
見撹料﹁山本半藏日記﹂/佐波の歴史誰演会﹁直江山城守腋統と佐波﹂山本修巳/
﹁地瑞から見た佐渡の地勢﹂細川誠之輔
地名から見た佐渡の地勢︵一︶⋮
山本半蔵翁寸影I晩年の日記からl
佐渡国分寺⋮::⋮::::::⋮::::⋮:::
世阿弥の墓所l磯部欣三先生の想い出
1
1§1
’
|
llllllllIll’
佐渡の日蓮:::::::::⋮::⋮⋮⋮:::::
|渡’
3830272511
84]
1101
J
1
巳男範巳郎輔
|草’
続・抽栄堂軒過録︵来訪者人名録︶︵十一二︶
I私の家を訪ねられた人びと1
Y
修正雅修五之
正友
佐渡歌壇史余滴五
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﹁深雪会﹂僅渡支部のこと︵補道
i佐’
﹁佐渡島﹂の呼称︵三⋮::::⋮:::
1本邦人が佐渡人を見る眼I
I昌塞廼恐I
. : : : :
l﹃兵われは﹂戦地詠その−1
滋
:66::::
父をたどるの記︵六︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮
川
本修巳⋮記
修陽雄伍修青
佐渡人形芝居の歴史:::::::::
l伝来と隆礎の背栽・北村宗演I
凌択根すがも俳句会一句抄:⋮⋮⋮⋮:⋮⋮・⋮⋮:⋮⋮:
〃柿の里俳句会⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮:⋮・⋮⋮
や諦蜻州地︾︵一・↓坪:一・一・一ル・︾:叫坏︸⋮⋮●・..●●●.・・・●●●●.●
〃きんぽうげ句会︵十一月・十二月・一月・二月︶
苗︵十二月・一月・二月・三月︶:⋮⋮⋮
〃いもせ俳話会︵一月・二月・三月︶⋮⋮:⋮
︾峅野俳短クラブ︵一月・二月.三月・四月︶・
〃ときわ荘俳句クラブ︵十一月・一月︶::⋮.::.⋮:
〃待鶴荘俳句会︵二月︶・⋮⋮⋮⋮:⋮::⋮::⋮
〃
〃真野歌会詠草︵十二月。|月・二月・二一月︶
本嶋影永本井
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藤
山
山長北松山藤
54
76737272716967656464757169
776763474()37
︽群峅轆認識蓉一トユルー.一割届一ニユル泗訓犀︶:
貞心尼法要・⋮⋮⋮・・⋮::⋮⋮:⋮・⋮。:⋮
句鑑賞⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮
集後記::::⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮.:⋮:⋮
卜のことば.⋮・⋮・・:。:⋮⋮..⋮⋮⋮:⋮⋮
簡⋮⋮⋮⋮。::・・⋮:⋮⋮⋮⋮⋮.
評論家松永伍一氏の﹁山本修之助への弔文﹂
ッ人寛
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lllIlllllllllllllll
’
巳咲
幸
目
各地の俳句・短歌会
編力吾詩良俳
口絵説明
っかけがあった。
さとる
山本修巳
第二十五回日本文芸大賞新保哲氏︵相川出身︶授賞/真野宮
御造営と国分寺遺跡発見資料﹁山本半蔵日記﹂/佐渡の歴史講
演会﹁直江山城守兼続と佐渡﹂山本修巳/﹁地名から見た佐渡
の地勢﹂細山謙之輔
相川出身の新保哲氏が日本文芸振興会の日本文芸大賞︵﹁学術
文芸賞﹂︶を著書﹃仏教福祉のこころ﹂によって受賞。仏教福祉の
真髄を考察し、慈愛を語った著書。なお、新保氏は、著書多数の
ほか、ここ毎年夏に﹁日本佐渡学会﹂を佐渡で開催し、島外から
講師を招き、昨年は第九回になっている。授賞の言葉で、佐渡の
自然への感謝の心を述べた。
なお、今年の文芸大賞は新保氏も含め九部門の表彰があり、女
優の小山明子氏の授賞作﹃パパはマイナス別点︵介護うっを越え
て、夫、大島渚を支えた、年こ、石井和子氏の﹃平安の気象予報
士紫式部︵﹁源氏物語﹂に隠された天気の科学こなどの授賞作が
興味深かった。また終ってからの祝賀会で授賞作﹃実録・風林火
きたかげゆうこう
山︵﹃甲陽軍艦﹄の正しい読み方この作者北影雄幸氏と交流のき
晩年の祖父半蔵の日記をもとに倉田藤五郎氏が本誌に﹁山本半
蔵翁寸影l晩年の日記からI﹂を書いていただいた。倉田氏に
は、すでに半蔵のことを幾度となくお書きいただき、ありがたく
思っているが、今回はその人生のほぼ全貌が明らかになったよう
でうれしい。心から感謝申し上げます。
山本家十代半蔵は山本家の家史を毛筆で八巻にまとめられた
が、二十代半ば帰島した私はこの家史を原稿用紙に全部筆写し、
喜びである。
のちに﹃佐渡山本半右衛門家年代記﹄︵﹁佐渡叢書﹂七巻︶として
刊行になった。なぜ筆写したかを考えると、幼少時小児喘息の発
作に苦しむ私を、母は戦時中、温湿布のほか手当のないころ、昼
夜の看病に疲れ、また私もぐったりとすると、いつも亡き半蔵が
面影にあらわれ、母を励ましたということを何度も聴いていたか
らかもしれない。倉田氏のご執筆は、半蔵死して七十年、無上の
さんも見えた。
三月十五日、東京・原宿﹁新潟館ネスパス﹂において、首都圏
佐渡連合会の主催で、私の講演会﹁直江山城守兼続と佐渡﹂が開
催され、百人近い満員の聴衆であった。本誌の創刊のころからの
中川芳郎、岩田雅、東京新潟県人会副会長の川村敏夫︵旧畑野町︶
の各氏をはじめ、名刺の交換にいとまがなかった。また。直江兼
続の城があった与板から内藤孝輔氏等も来られた。
講演会後、近くの﹁周之家﹂で懇親会が開かれ、今度の講演の
連絡役の同級生名畑榮雄氏が、各テーブルを案内して、写真を撮
った。特に十数名の高校の同級生はなつかしかった。すでに半世
紀を経ている。また、高校教員として三年時担当の佐々木ルリ子
帰りは、会長摩尼義晴氏の車で、百万ドルの東京の夜景l湾岸
や林立する大きなピル群とレインボー・ブリッジなどのイルミ
ネーションを楽しんだ。二年先輩の摩尼氏、弟敬二と車中の三人
の会話もはずむ。わが人生最良の光芒かもしれない。
﹁地名から見た佐渡の地勢﹂は、巻頭の一文を参照されたい。
表紙は、梅原猛氏が﹁続・抽栄堂軒過録︵来訪者人名録︶﹂︵本誌
三十九頁︶にお書きになった言葉をご覧いただきたい。また、本
誌百五号の口絵と﹁梅原猛先生の佐渡﹂参照。
真野宮御造営と国分寺遺跡第25回日本文芸大賞授賞
発見資料「山本半蔵日記」新保職(相川出身)
一 一
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平成2()年3月23「’
平成訓年3月晦日
ノfからI可.部│劃佐波連合会本間厚氏・会長摩Iピ義lll'j氏識師山本修巳
東京・原術新潟館ネスパス
佐渡の歴史講演会「直江山城守兼続と佐渡」
「地名から見た佐渡の地勢」細山謙之輔
Ⅱ本分県地図新潟県﹂ゼンリンKK発行︶
細山謙之
人類をはじめ全生物は﹁水﹂なくしては生存出来ない。それゆえ
佐渡島へは民族移動といった大規模なものではなかったであろう。
であろうか。ヨーロッパでは四百年ころから民族移動が行われたが
あったに相違ない。どのような舟で、どの位の集団で渡って来たの
地名から見た佐渡の地勢︵一︶
佐渡島の生い立ち
いざなぎ.いざなみの神が、ドロドロにとけたものを湖水に落と
して出来た八つ島の一つが佐渡島であったという神話があり、ま
が割れ始めて地溝帯が形成され、それが拡大して日本海が誕生し、
一方科学的に見れば、約二千五百万年前にアジア大陸の東のへり
く佐渡に辿り着いた人々は、あらゆる困難を乗り越えて今日の佐渡
り、漁業・水産と相まって生活圏を拡大することが出来た。ともか
につれて、井戸を掘ったり引水をすることによって農耕も可能とな
先ず、水の得られる川︵河︶を目指すに相違ない。人智が発達する
約一万八千年前に今の日本列島が形成されたものである。この頃に
を作り上げたものである。その佐渡島の当時の状況を知る手だては
に、佐渡島は大昔から知られた由緒ある島であった。
た、日本書紀には、隠岐島と双子であったなどと記されてあるよう
は勿論佐渡島は誕生していたが、さまざまな地殻変動の洗礼を受け
無いものであろうか。
って、現在の日本人は他国から渡来したものとなるが、何時何処か
は、佐渡島は加茂郡と雑太郡よりなり、全体として二一町、二四二
一八三四年、徳川家斉の時代に、天保郷帳が作られたが、これに
市町村の変遷
のである。
って回答が得られるのではなかろうかと思いつき、それを試みたも
採用をしていた。従ってそれらの地名を分析し、図示することによ
当時の人々は四囲の地勢を非常に良く観察し、それを地名として
て来たと思われる。その姿は、千米級の山々を持つ大佐渡山脈と、
その東南に小佐渡山脈、そしてその問に、真野湾と両津湾を両端に
持つ国仲平野の存在によって示されている。
約五十万年前に原始人類が出現し、約三万年前に現世人が誕生し
たとされている。まさに日本列島誕生以前から人類は存在していた
ことになる。その後の研究により、日本に原始人はいなかったとさ
ら、そしてどのようにして渡来したものであろうか。住み着いた先
村の名前とともに、それぞれの石高が記されている。明治一九年
されているが、列島変動期を考えてみればもっともである。したが
で人口が増加し、社会が創られるのであるから、女子・子供連れで、
7
輔
畑野町
中佐為
丸山
打帆ヶ浦
千本
片辺
姫津
高瀬
泉
寺田
欠向
岩の平
井内
貝塚大和田
橘
8
赤玉立間柿野浦岩首
浦狄尾下柄
蚫
保和
相川町
五十浦
椿畝
窪田
辰巳
大北後高矢
︵一八八六年︶には、地方行政区画便覧が作られたが、これには幾つ
小野見
八幡町河原田
鳥越
河内
伏島花野
浦
かの町村が合併し、三郷、一八町、一○二村の名前が記載されてい
岩谷口
北川内
る。明治二二年︵一八八九︶には市町村制施行により、町村の数が
北立島
戸地
石名
には町村合併促進法が公布され、五町、二五村となったのである。
平根崎
約半数の七町、五七村となった。さらに、昭和二八年︵一九五三︶
小川
武井大野
内巻島
吉井本郷吉井
平清水当ノ平
開
のように、市一︵両津︶、町七︵相川・金井・佐和田・畑野・真野・
その後も合併が進められ、一九八六年現在での市町村の数は、次表
安養寺
金井町
岩田
羽茂・小木︶、村二︵新穂・赤泊︶となっており、それぞれに多くの
ことは、天保郷帳にある町村名の殆どは当時の地名を用いたと考え
新穂村
上新穂
潟上
佐和田町
田関
真光寿 道遊の割戸狸堀り
須川
安国寺
畑野町
松ヶ崎
三宮
村ノll
地名が記されているが、その大半はかっての町村の名である。この
黒姫
玉崎
羽吉
夷
真野町
大倉谷
金丸
真野
野内
られる。勿論当初の地名はもっと多くあったであろうが、ここでは
真更川
一九八六年に示された地名を用ることにした。
佐渡における地名
鷲崎賓ノ河原願
両津市
馬首
椿
歌見浦川平松
小松白瀬北五十里
馬場
長江
東強清水
秋津
城腰
椎泊
野城
達戸入小
西野
新大
尾須岡
者中川田
野坂
立田
八麩
瀬
松田
陣大豊
中皆
尾小町
青河
椿大新
黒
田谷町
生長
松大吉
湊
久和河内
羽二生
月布施
浦川木城野野住木崎
鹿大石北
郷
西滝国
三 分
川脇寺
多長目
田岩竹
切
須野田
浜梅津梅津羽黒
船場東宝荘河内
横山諏訪小田
野城吾潟下久知
才ノ神高野両尾
姫崎水津片野尾
野大真野立高吉和虫
上黒山下黒山笹
橋川草
保石泊
静平
新小小
赤泊村
下川茂
外山
先に述べたように、人間はじめ全生物は水無くしては生活出来な
いことから、水を求めて移動したと考えてみると、﹁水﹂に関する文
みた。川・河・沢・水・泉・井・津・浦など。その他山・谷・
字の入った地名が多いのではなかろうかという、第一感から探って
野・田・木・崎・大・小などの文字の入った地名を数えてみると次
上川茂
崎山山
徳和浜
大杉
」
ノ
東光寺
1
にも田にもかぞえ入れてある。
浦
表のようになった。この中で、例えば﹁田野浦﹂というものは、野
両津市
相川町
金井町
新穂村
津
3
稲鯨
小泊
赤岩
大泊
三シ屋
4
野
田野浦
佐和田町
1
4
羽茂町
滝平
村山
岡田
大橋
小木町
大須大
木野浦
出盛中
小木町
水
杉徳新
宿根木
大
2
1
沢細場
新田
1
2
元小木
5
、
4
1
堂釜
白木
2
1
3
石倉崎
浦和谷
地名語源辞典の序論に﹁奈良朝の初め、天明天皇の和銅六年に、
3
3
2
4
浦浦
地名はなるべく感じの良い字を使うように、そして一宇・三字など
畑野町
真野町
赤泊村
羽茂村
小木町
1
3
2
1
柳腰延
の地名はみな二字にするようにとの朝廷からの命令がでたので、地
崎
2
1
2
7
大新大
したので、むつかしい読み方や当字の地名がきわめて多くなった﹂
木
1
深大
名を意味に関係なく、感じのよい字の当て字に改め、無理に二字に
田
2
1
村浦山川
のもあるが、やはり、当時の人々の地勢に対する着眼点を重視し
1
1
1
2
瀬沢落
とあった。佐渡島の地名もこの観点から見てなるほどと思われるも
9
9
1
泉
1
野
2
2
1
2
1
2
2
1
谷
1
2
井
1
山
1
2
2
2
1
1
1
2
4
沢
河
1
川
2
3
3
2
1
1
1
2
3
1
崎叡
川
元真横三
て、分析を試みた。
別
比
三天大
沢小
春の河原
河内
野見
浦城城野
立野
高野
片野尾
柿野浦
野
野坂西野
杉野浦
真野
岩野
畑野町
青野
北田野浦
、
大野
北田野浦
田
大和田
岩田
河原田
田切須
窪田
麩田
寺田
多田
竹田
豊田
岡田
田野浦
新田
田
六頁﹀のように非常に特徴的な分布図が出来上がることがわかつ
た。すなわち、原野を切り拓いて水を引き、田畑の耕作に精魂を傾
けてきた有様が目のあたりに見えるようである。それと共に、地名
である。︵地図はゼンリンkk発行﹁新潟県﹂の中の佐渡︶
としてこれらに関連した語を織り交ぜてきた智に感動しているもの
佐渡大串章
白波や芭蕉
の見たる佐渡霞む
んる
春の月遠お流
の島を照らしけり
波音や春の月よりシテのこゑ
能舞台春の金星かがやけり
佐渡おけさ踊りし手なり畦を塗る
朧夜や世阿弥の聞きし浪の音
剥製の朱鶯と春愁分かちけり
︵﹁俳句あるふぁ﹂平成十九年八・九月号より︶
金山の鉱脈春の拡がるごと
金脈は延べ四百キロ亀泣けり
残る鴨佐渡はゐよいと屯せり
雪渓の朱鷺の舞ふ日を待つ如し
鯉のぼり大佐渡小佐渡晴れ渡り
︵﹁百烏﹂平成十九年七月号より︶
10
河
久和河内
河原田
河内
河内
/
」 野野野高
木野浦
田野浦
、
4
両津
金井
佐和田
畑野
上川茂
下川茂
三川
笹西
川川内
川
ノ
│
│
川
川
真野
赤泊
新穂
羽茂
更
川川川
川
大浦真
川
須
入小北
川
川
木
これらを地図上に示すのに、白黒でなくカラーで表すと、︿口絵
、
皆
須
相
ノ
」
干すし仁L壹証
L判
に、﹁日記にこんなことがありました﹂と報告できさうなことを拾
た。以下はだから、全く山本家の外に在って事情もよく知らぬ者の
ひ出し、書き留めてみることにしよう、さう思ふと心が軽くなっ
○はしがき
歳晩から年初にかけて、山本半蔵翁の日記を拝見する運に恵まれ
︵翁の日記は片仮名・平仮名が混じってゐるが、引用の際は皆平仮名
目に映る山本半蔵翁の寸影である。
た。翁の令孫修巳氏の恩貸による。これまでこの様な厚意を受ける
度び、お礼代りに読んだ感想を綴ってお返しするのが例になってゐ
で記す。なほ、日記中、自動車とあるのは今のバスである。バス停
る。氏はその文を悉く﹃佐渡郷士文化﹄に掲載してくれた。車が運
転できず、老いて身動きも不自由なので、拝見した資料の内容を、
は無く、手を挙げて乗り、声をかけて下りるのであった。︶
今回拝見した日記は、大正六年︵一九一七︶から昭和十二年︵一
一、日記の概略
調査や探訪で深めることができない。感想はお借りした資料につい
てだけのもので、狭く浅いことがいつも気になってゐる。今回は殊
半蔵翁の行迩と人柄から受ける感銘を、私はこれまで何度か書い
に困った 。
に及ぶ、晩年二十一年間の記録である。大正六年と七年の分は、実
九三七︶に至る二十一冊で、半蔵翁の五十三歳から七十三歳の終焉
業之日本社の﹁重要日記﹂に書かれてゐるが、大正八年からは名高
てゐる。中で一昨年冬の﹁山本半蔵翁の悌﹂一篇は、翁に対する敬
に秘めた思ひは今読返しても熱いものが甦る。この度び改めて日記
い博文館の﹁当用日記﹂に変った。定価は七十五銭、昭和三年から
慕の思ひを傾注したもので、粗雑未熟は言ふまでもないとして、内
はカバーがつき九十銭、昭和八年からは函入りであるが八十銭、以
半蔵翁が日記をいつつけ始めたかを私は知らないが、今回拝見分
を読んで、かうした思ひが再燃するものだらうか、そこに無能愚直
では、大正六年一月五日﹁午前八時、亡姉与志子刀自の忌辰に付、
後同じ値段である。
ことは父に聞いたこと以外ほとんど知らない。だから僅かのことで
墓参す﹂といふのが初めであり、昭和十二年五月三日﹁午前十一時
の言はれたことを思ひ出した。﹁自分は半蔵の段後に生れ、祖父の
も知りたいし、後のものにも伝へてやりたいと思ってゐる﹂広く世
な者のおそれが有った。何日も綣読を篇曙する中、ふと以前修巳氏
に伝へるべきか否かは別として、この家祖に連なる山本家の人々
11
’
倉
かねて
頃、長畝の羽田清次氏来訪、兼而佐渡年代記出版に係り居りし処、
が、大正六年二月十七日以降は、日記帳の﹁天候﹂と﹁温度﹂欄の
なほ、右に数へた日数は文として書かれたことのある日数である
死去、七十三歳、病名肺炎﹂とある。
る﹂とあるのが終筆である。︵五月八日の﹁豫記﹂の欄に﹁午前十時
その日その日を翁はきちんと見てゐた。
記入された日が多く、それだけの日もあるが、文にはしなくても、
二十一巻一冊借りる為に来る也、余談に時を移し、午後三時頃帰
が、書いた日は判らない。︶
に明らかな通り、その日何をしたか、何が有ったかの事実を簡潔に
日記の文章には大きな特色がある。右に引いた最初と最後の記録
日もある。
く﹂などの記事が日記の随所に見え、花の開花のことだけ書かれた
桜、八重桜咲初む﹂を初め、﹁池の燕子花咲初む﹂、﹁庭前の山茶花咲
翁は屋敷の草花を愛された。大正六年四月二十三日﹁後園の緋
より金沢小学校に於て佐渡郡教育会総会開催の旨通知あり﹂とある
記録日数。日記帳に設けられた﹁豫記﹂・﹁受信﹂欄を含め、文の
記録された日数は次の通りである。︵︶内は翁の年齢。
大正六年︵五十三︶二六六日・七年︵五十四︶二七三日︵二年間
大正十二年からはすべてペン。昭和三年に一部墨書が見える︶・九
記すだけで、その評価・批判は一切述べず、喜怒哀歓等の心情的な
はみな墨書︶・八年︵五十五︶二六八日︵ペン書きが混じって来る。
三一○日・十二年︵五十九︶三一八日・十三年︵六十︶二九九日・
記述は、大正七年四月十三日と、昭和三年十一月十六日に一篇づつ
年︵五十六︶二七五日・十年︵五十七︶二六二日・十一年︵五十八︶
十四年︵六十二二四八日・十五年︵六十二︶二八九日・昭和二年
家に於て多くの慶弔苦楽を体験しただけでなく、様々の公私の事
漢詩が記されてゐる以外、皆無と言ってよいことである。
一日・五年︵六十六︶二八三日・六年︵六十七︶二四○日・七年︵六
︵六十三︶二八七日・三年︵六十四︶二四五日・四年︵六十五︶二四
を表明するものは、それを目的とする文章詩歌が有るといふ判断が
業に関り、数多の人々と接しながら、それらについての心情や意見
記録の意図を明かされた所がある。それは大正十三年の日記帳の中
かうして心情の表明を全く封じた日記の中に、一箇所だけ、翁が
︵|︶記録の意図
二、日記の内容
その意味で、或は無味乾燥の感じを読む者は持つかもしれない。
翁には有ったのであらうか。日記にそれを述べることは無かった。
十八︶二六四日・八年︵六十九︶二四○日・九年︵七十︶二四四日・
十三︶七三日
十年︵七十二二一八日・十一年︵七十二︶一九六日・十二年︵七
最後の年、昭和十二年は五月四日以降に本文の記事のないこと
﹁五月十日、風邪に臨床、五月十六日、真野療養所修養道場で真野村
は、前記の通りであるが、令息修之助翁の撰んだ﹁静古略年譜﹂に、
教育会主催の﹁静古翁に物を聴く会﹂に病を冒して出席、約三時間
話す。翌日より床につき、再び起きることはなかった。二十六日、
成之助急遼帰省看護につくす。六月十四日、午前二時四十分ついに
12
けられたものである。﹁日記は毎日の歩みにて、自己の最も詳密な
表紙の裏面、一年の七曜表が印刷されたその余白に万年筆で書きつ
の品目の大略を記せば左の通り﹂とあって、﹁仙台名産五色筆・宇治
考品として新町山本半蔵氏より出品せる各府縣の土産物にて、今其
﹁御成婚記念に﹃懐蕾集﹄出版、山本氏蒐集し真野教育会から﹂との
名産茶の木の茶箕﹂など五十九点が列記されてゐる。同じ見開きに
記事も貼布されてゐる。これらは﹁後年の家宝である﹂の信条に相
歴史であり、後年の家宝である﹂短いがこの言葉はよほど翁の心に
和十年に至ってゐる。﹁日記は丹念に積重ねられる自分の歴史であ
適ったものであったと見え、以降毎冊の同じページに記されて、昭
当する部分と言ってよいであらう。
は累計五千三百三十九日である。どう読んで行くかには手掛りがな
道草をした。先きを急がう。日記には二十一冊、記録された日数
り、後来の児孫から見れば何にも勝る家宝である﹂それはまさしく
所に知ることにならう。
山本半蔵翁七十三年の人生の信条であったことを、私共はこの後随
る。半蔵翁の後半生二十一年間に、令息の目に映った重要事、その
中にいくつかの焦点を求めて、それをたよりに日記を読むことにし
くてはなるまい・思ひついたのは前に記した﹁静古略年譜﹂であ
であらうが、﹁佐渡重要日誌﹂といふ欄の同月同日の條が貼ってあ
う心を決めた。
よう。その他のことについては、また誰かに読んで頂けばよい。さ
例へばその一例。翁の日記にはそこここに新聞の切抜きと思はれ
る。大正六年八月八日﹁︵上略︶文政九年脩教館落成︵下略︶﹂、八月
る貼紙がある。恐らく購読されてゐた島内の新聞からのスクラップ
九日﹁明治四年、士民の散髪脱刀を許す﹂。いま史実の穿鑿は措く
る。数へると︵二人以上同伴の場合一人とする︶五十六名に上る。
﹁略年譜﹂を一瞥する時、先づ目を惹くのは来訪の客の多さであ
︵二︶来客
大正十一年の日記帳に挟まれたものに﹁按摩組合寄附﹂の見出し
べてみる。
この中、日記の記述の最も詳しい二人についてだけ来訪の模様を述
ゐたことが窺へる。
が、翁が自分の日々を日本や佐渡の歴史の中に置いて見ようとして
で、真野畑野で結成される﹁鍼灸術按摩組合の基本金として、寄附
大正九年︵一九二○︶八月二十日、鳥居龍蔵博士が、大阪毎日新
イ、鳥居龍蔵博士
を申出でたるもの左の如し﹂といふ記事に﹁︵上略︶金三円宛、小河
内鈴木海盤、新町山本半蔵、同嵐城嘉平︵下略︶﹂の切抜きがある。
また、大正十三年日記帳末尾の見開きに貼られたもの、見出しは
一歳、迎へる翁は五十六歳であった。翁が同博士に面会したのは、
南アメリカにまで足跡の及んだ学者として隠れもない。この時五十
学・民俗学の調査研究に於て、シナ全土・シベリレヤ・樺太から、
聞の本山彦一社長と同伴で来訪した。鳥居博士は、人類学・考古
﹁佐渡土産展、珍しき参考品﹂記事に、二十三日、金沢村植田旅館を
歴史﹂といふべきものであったらう。
取るに足らぬ些事ではあるが、これも翁には、﹁自己の最も詳密な
会場とした佐渡土産物展覧会で﹁最も一般人の目を引きたるは、参
13
十七日夜八時、新穂町六歓亭に於てである。どんな席であったかは
判らないが﹁同席せし人は、川上賢吉・茅原鉄蔵・後藤与作・池田
寿・羽田清次の五名也﹂とあるのを見ると、佐渡の考古学同好の士
大正十一年︵一九二二︶九月二日、作家江見水蔭が来訪した。修
口、江見水蔭
かつ
之助翁の﹁山本半右衛門家抽栄堂軒過録﹂に、﹁作家江見水蔭来訪、
す﹂とある。翁は博士の来島を事前に聞き、午後五時家を出て益田
も好古の癖ありといふ。先方の望みに任せ、所蔵の石器土器破片・
江見水蔭先生︵文士︶羽田清次・浜田校長案内にて来訪、先生は最
した﹂とある。半蔵翁のその日の日記によれば﹁午前十時、東京の
り、﹁続煙霞療養﹂を雑誌﹃太陽﹄に発表した。のち昭和七年に再遊
家で時刻を待ってゐた。翌十八日、鳥居博士を迎へて新穂小学校を
古瓦’古泉︵銭︶・佐渡鍔等を出し示す﹂途中書食の為に吉田旅館に
名は忠功、岡山縣人、硯友社の一員、佐渡の尾崎紅葉の遺跡をめぐ
会場に催された﹁石器土器類展覧会﹂を見た。﹁鳥居先生は一々詳
の集りと思はれる。﹁古墳及びアイヌ式・弥生式の石器士器類に付、
細に調査し、或は写生し、或は拓本に採り、正午頃終了﹂午後一行
帰ったが、﹁午後一時再び来訪、所蔵の相川金銀山の絵巻物・笹川
色々有益なる話を承り、全十二時頃益田氏方︵夫人実家︶へ帰り宿
は翁の案内で真野御陵に参拝し、小木に向った。羽田氏が後を追っ
治十八年尾崎紅葉等の結成した文学修業の結社である。三十年代に
この機会にと思ひ、二三の書で次のことを知った。︿硯友社は明
は自動車で小木に向った。
砂金山の絵巻物及び佐渡の古文書等を出し﹂て見せた。二時、水蔭
居先生一行、今晩新町泊りにつき宿の周旋を頼むといふ。夜八時、
自然主義運動が起ってからは、その攻撃目標にされたが、明治の文
十九日朝六時、小木町鍋屋旅館から羽田氏が翁に電話を寄せ、鳥
た。
一行は手配した松井旅館に入る。翁は直ぐに訪問し﹁本日小木附近
学の情緒的写実主義の特色が硯友社によって展開されたことは、日
に於ける調査の模様を聞き十一時頃帰宅す﹂
二十日のことは日記をそのまま写す。﹁午前八時、鳥居先生一行
約一か月佐渡に遊んだ。神経衰弱療養の為である。この時の紀行は
三︶十月、三十五歳で残したが、三十二年七月から八月にかけて、
九月から読売新聞に﹁反古裂織﹂として連載され、五年後に﹃煙霞
本近代文学の一つの道標であらう。紅葉は明治三十六年︵一九○
同所より発掘せし士器二ヶ・環六ヶ・雛・刀などの残片三ヶを写生
療養﹄と改題して春陽堂から出版された。半蔵はこの時、宿で俳句
田清次郎方浦手の古墳に案内す。先生大に喜び、此の古墳の現形と
し、其より三貫目沢の古墳へ案内し、全十一時松井旅館へ帰り、正
を案内して背合蝦夷塚に到る。同所古墳を調査し終り、更に大須飯
午過ぎ、川上・羽田両氏の案内にて鳥居先生拙宅へ立寄り、国分寺
﹁旅画師﹂、﹁電光石火﹂、﹁炭焼の煙﹂等の小説のほか、﹃自己中心明
の短冊五枚を書いてもらった。江見水蔭は硯友社の同人であった。
治文壇史﹄の著作や編集活動がある。﹀佐渡に来遊した大正十一年
ほござっこり
古瓦八種を拓本に採り、又蝦夷嶋奇観二巻を見、全三時半頃当家を
に於ける考古学の夜明けの有様が偲ばれる記録の様に思はれる。
辞し、夷へ向て出発す﹂この道に全く盲目な私にも、九十年前佐渡
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は、紅葉段後十九年であるが、亡き盟友の遺跡を訪ね、自分の紀行
山本家で水蔭は﹁自分は最も好古の癖がある﹂と言って、希望し
を﹃続煙霞療養﹄と名付けた所に、その人柄が察しられる。
て半蔵翁苦心の蒐集物を見せてもらった。修之助翁が書いてゐる通
日記に書かれてゐるこの時の旅の模様は次の通りである。
り、水蔭は十年後の昭和七年再び来島し山本家を訪ねた。半蔵翁の
六月五日、午後三時来宅、新町大神宮の相撲場を見、田町の十王
堂の紅葉の句碑の前で記念撮影をした。
六日、午前八時、水蔭は自動車で赤泊に向った。︵夜、柏崎の人が
水蔭を訪ねて来たが留守で面会できず︶
十三日、午前八時、﹁長々当家に滞在し厄介になりしことを厚く
せたのだといふ。︵﹃佐渡百話﹄︶この話を水蔭にしたのである。
礼を陳べ、家内一同に挨拶あり、自動車にて河原田に向け出発す
修之助翁はこの時のことをなほ二つ書いて居られる。その一、山
る。
本家の﹃軒過録﹄に、最初の署名のあるのは昭和七年の江見水蔭で
ある。﹁宿帳の意味﹂だったといふ。平成十四年復刻されたものの
最初に﹁昭和七年六月五日、東京市外品川町二五二、水蔭江見忠功
ちまき
六十四才﹂とある。その二、六月五日は端午の節句なので夫人が
佐渡この書名で出版した。その時、印刷の挨拶状を葉書で出した
昭和八年正月、江見水蔭は﹃水蔭行脚全集﹄の第一篇を﹃佐渡へ
糘を出したのを、珍しいと言って写生した。
校で﹁児童の為に講演あり﹂四時∼六時揮毫、夜八時過、小学校で
が、半蔵・修之助連名で宛てたものが残って居り、﹁佐渡へ佐渡へ、
十日、十時、水蔭は自動車で小木から来た。午後一時、真野小学
教育会・青年会主催で.般向き趣味の講演︵題は﹁相撲道﹂︶をし
お蔭にて七百売切れ、三百部再版出来﹂と朱書されてゐる。
半に帰る。﹁是は故人尾崎紅葉の同町野呂松人形を見た昔を偲び、
八時、田町の浪よけ地蔵の宵祭に案内し、野呂松人形を見物し九時
十二日、午後二時半、水蔭は相川より帰って四時∼六時揮毫、夜
の中学校︵現高校︶職員よりの懇望なり﹂とあり、演題は﹁日野資
行はれた。﹁本年は建武中興より六百年に付き、記念講演をせよと
昭和九年七月三日、阿佛坊妙宣寺で営まれた日野資朝卿法要に於て
半蔵翁が行った講演のことが日記に何か所か記されてゐる。一は
イ、講演
︵三︶、顕彰活動
た。聴衆二百五六十名といふ﹂九時半帰って山本家に宿泊。
十一日、水蔭に従って河原田に中山徳太郎氏を訪問、相川に向
態々相川より新町へ引返したるなり﹂、﹁野呂松人形を見た昔﹂とい
この日校長以下生徒四百人が参拝した。
朝卿の佐渡に於ける御事蹟﹂であった。佐渡中学校︵佐高︶では、
ひ、水蔭は高田屋に泊る。
ふのは、明治三十六年紅葉が来島した七月三十日、紅葉を案内して
り夏の月﹂と即興で句を作った。昭和五年新町の有志が碑を建てよ
に配祀、祭典・法要・建碑等が行はれたが、卿の子孫宗族の委託も
資朝卿の事蹟の顕彰については、明治十七年の贈位に伴ひ真野宮
のた
見物に行ったことを言ふ。その帰途紅葉は﹁野呂松がのそりと出た
うといふことで、直接聞いて記憶してゐるからと、半蔵翁に揮毫さ
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長女︶として、岳父のこの事業推進の手足となって働き、佐渡に於
の山本藤八郎である。半蔵翁は藤八郎の女婿︵夫人登世子は藤八郎
あって、その後佐渡に於ける慰霊顕彰推進の中心となる者は、新町
が、この時どこの村へ行っても必ず﹁新穂の本間黙斎先生の行いを
実斎先生は島内を巡って﹁人間の行うべき道﹂について講演をした
と思はれる。﹃佐渡百話﹄にはこの題で一話があり、﹁奉行所の藤木
の深さ、特に﹁佐渡の近江聖人﹂と呼ばれた徳行の高潔さにあった
手本にすればまちがいない﹂と言ったということである。これは山
ける資朝卿の事蹟を熟知してゐたのである。
本桂先生︵訓斎、悌二郎の父︶からわし︵半蔵︶が直接聞いた話で
日記によると、翁はこの日自動車で竹田川まで行き、そこからは
歩いて世尊寺に立寄り、ここで羽織袴をつけて妙宣寺に向ってゐ
口、建碑・撰文・揮毫
ある﹂と話されてゐる。
半蔵翁の顕彰活動で逸し得ないのは、建碑とその撰文や揮毫のこ
る。藤八郎は年毎の祭祀に於て日野家宗族の代拝をすることを託さ
年十一月病残し、後嗣藤佐久も翌々年に渡して、代拝のことと羽織
﹁静古文稿﹂には、十六篇人を表彰する文が載ってゐる。書かれた
とである。年譜にも何か所か書かれてゐるが、﹃静古遺藁﹄所収の
れ、その為日野家の定紋のある羽織を贈られてゐたが、明治三十一
のはこれである。
は半蔵に伝へられた。世尊寺で羽織袴をつけたと日記に書いてある
日の日記に﹁午前七時より吉岡の鶴間笛畝翁寿砺を認め始めへ午後
人は、地元真野村の人はもとより加茂村梅津の人、金泉村姫津の人
五時過ぎ認め終る。字数二百五十四字、自分撰文也﹂とある一篇を
いま一つ翁が心をこめたのは、本間黙斎先生についての講演二回
坊︶に参列、式後墓参を済ませ、同会長磯辺龍次氏より講演を乞は
要約しよう。筆を執るまでに次のことがあった。大正七年七月二十
した人もあり、また村の木こりもある。ここには、大正八年八月八
れ、﹁本間黙斎先生の遺徳に就て﹂話した﹂とある。また、昭和十年
四日﹁夜八時頃、小嶋屋にて吉岡の鶴間笛畝氏寿砺碑建設に付打合
があり、身分は衆議院議員・町村長もあれば、軍人として戦陣に段
八月十七日には次の様に記されてゐる。﹁本日新穂小学校に於て新
あり、︵中略︶撰文及び揮毫を自分に嘱せられ、全十二時頃帰宅す﹂、
である。日記昭和三年六月二十九日に﹁午後一時、かねて新穂村教
穂教育会総会開催につき講演を依頼され、午前十一時半自動車にて
同九月十六日﹁午前九時、吉岡の鶴間笛畝翁を訪ふ。撰文につき履
育会より招待されて居る先哲本間黙斎先生の百年忌法要︵新穂乗光
ことにつき講演をなし、全六時閉会﹂この講演は羽田清次氏の速記
行く。午後四時より開会、﹁本間黙斎先生の経営する華雨村舎﹂の
歴問合せの為、十二時帰宅﹂
台に立ったが、特に笛を一噌派の名主嶋田麿佐記に学んだ。麿佐記
茂治通称を兵蔵といふ。父仁兵衛翁に散楽を学んで七歳の頃から舞
半蔵翁の書いた文は次の通りである。﹁鶴間翁は吉岡の人で名は
されたものが﹃佐渡百話﹄に﹁箪雨村舎と佐渡文教の淵源﹂の題で
子温と黙斎とが従兄弟で、一緒に京都の那波魯堂に学んだことにも
収録されてゐる。黙斎先生に対する半蔵翁の敬愛は、山本家六代の
由る様である。しかし、最も大きな理由は言ふまでもなくその学問
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は加賀の人で笛を以て前田侯に仕へたのであるが、事情が有って来
応ずるのはその為である。堀氏は中興の名門であり、あの左山先生
筆者は平成十四年二月、﹃佐渡郷士文化﹄に﹁澳北覚え書き︵七︶﹂
の曾孫が修太郎翁で、その姉玄子が本問芳太郎氏の母である﹂
一噌派の包太郎に二年学んで蒲奥を究めたが、傍ら狂言師鷺権之丞
島してゐた。鶴間翁は向上を求めてやまず、明治十八年東京に出で
の父金城翁が長畝の出であり、堀家の子孫が新穂に伝はること灰間
したが、確認することはできなかった。今図らずも﹁紀恩碑﹂を読
を寄せ、その中で堀左山・菅岳の遺文のことを書いた。その時両名
み、左山翁の玄孫が本間芳太郎氏、半蔵翁の親しい友人であること
に就いて学び、帰郷して多くの弟子に教へた。翁は真率な人である
妙で、一たび座に就いて吹奏するや、﹁清韻瞭暁、石ヲ裂キ雲ヲ穿
を知ったのは一つの悦びである。本間芳太郎翁の名は、大正六年三
が、またユーモアを解しよく人を笑はせる。だがその笛の演奏は絶
て翁の還暦を祝福し、ここに碑を建てるのである﹂
月三十日を初見として日記の中に五十六回現れ、親交のほどが察し
シ﹂に至るのである。今年翁は年六十に達した。門人や知友が議っ
私は笛を知らず能を知らず狂言を知らない。ただ佐渡の鷺流狂言
られる。修巳氏の談話では、芳太郎氏は半蔵翁を常に﹁兄ちゃん﹂
穂本間芳太郎氏より依頼の碑文の用紙も持参﹂とあるのは、共にこ
為﹂とあり、十二年二月八日﹁午前十一時、北方河原作一氏来訪、新
太郎氏来訪、二三十分話し帰らる﹁兼而依頼の碑文のこと問合せの
半蔵日記の昭和十一年二月八日の條に﹁午後四時頃新穂の本間芳
あん
は、山口と共に全国にただ二か所だけ伝はるものであると聞き、殊
と呼んで兄事したといふ。
て中学校に奉職した者として、些か明治の先人のことを述べてこれ
に中学生有志の中にこれを学ぶ者の有ることを聞いてゐるので、曾
を応援したいと思ひ、半蔵翁の日記の文をお借りした。
を頼んだ者は新穂の人本間芳太郎氏である。文は長くない。主旨は
の碑文のことであらう。しかし、日記に半蔵翁がこの碑文を揮毫し
﹁静古文稿﹂に載る碑文の最後に﹁紀恩碑﹂がある。撰文と揮毫
かうである。﹁本間氏は医師であり新穂に開業するが、ここに至っ
月三日以降絶え、翁は六月十四日長逝された。碑文が書かれ、碑が
たことは書かれてゐない。昭和十二年は半蔵翁の殿年で、日記は五
建てられたものかどうか案じられたが、修巳氏に教へられてこの一
たのは一に叔父堀修太郎翁のお蔭である。自分は十七歳で父を喪ひ
せてくれた。自分は﹁勤学励精﹂して﹁医ヲ以テ家ヲ興シ﹂少しは
家運も衰へて貧しかった。修太郎翁はこれに学資を給し医学を学ば
湖畔渡辺彰謹書﹂とある。翁は病で筆が執れず、代って渡辺氏に書
の文字は翁でなく、末尾に﹁昭和十一歳次丙子秋、静古山本充撰、
いてもらったのであらう。︵筆者﹁筆執ると日記に見えず碑を訪へ
月三十日、新穂に現地を訪ね、碑を確認することができた。但し碑
お願ひする。自分︵半蔵︶はこの一語に感じた。いま人文は進み学
ば筆異なれり力尽きしか﹂︶
人に知られる様になった。自分はその恩義を忘れることができな
術は開ける世であるが、それとは逆に﹁道徳ハ即チ頽然トシテ地二
い。そこで碑を建てて翁を伝へたいのである。どうか撰文と揮毫を
墜チ、義二違上恩二背ク者浩々皆是レナリ﹂喜んで本間氏の求めに
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碩学を顕彰すると共に、郷士の芸能の由来や庶民の抱き続けた報恩
山本半蔵翁は、日野資朝卿の様な英傑、本間黙斎翁の様な高徳の
莫レ客路知己無シト、到ル処花迎へ柳送ルノ春﹂︵直江津より京都
方面の旅。二日ノ行程三百里、車窓ノ風景眸二入リテ新シ、言う
5、大正十四年六十一歳、五月十七日、長女松井久子の納骨の為、
への車中︶
身延山に向ふ。久子は町内の松井源内氏に嫁いでゐたが、大正十年
の尊ぶべきものを伝へようとし続けて巳まれなかった。私はそこに
の誠まで、記し顕し刻み留めることに努められた。つまり、人の世
翁の、人として生きることへの信と愛を感ずるのである。
子、兼て病気危篤の所死亡致す。享年三十歳﹂とある。実家で父に
四月二十九日病残した。日記に﹁午後六時二十五分、長女松井久
看取られて段したのである。四年たって翁は身延山に納骨しようと
﹁静古略年譜﹂によると、半蔵翁は七十三年の生涯に、海を越え
︵四︶、 旅
る旅を七回行ってゐる様である。この中四回はこの日記のつけられ
する。
治七年に還幸された順徳天皇の神霊に詣でたのである。﹁大正十四
納骨後脚を延ばして摂津︵大阪府︶の水無瀬神宮に参拝した。明
る以前のものであるが、幸ひにそれぞれ旅中の作︵漢詩︶が﹁静古
1、明治十九年二十二歳、三月三十日∼四月二十七日、越後に旅
記録が遣ってゐる。また、この旅中の作と思はれる詩が四首﹁静古
年六月二日、摂津国三嶋郡嶋本村大字広瀬、水無瀬宮参拝﹂といふ
槙詩集﹂に遣ってゐるので後の旅の日記と合せて紹介する。
﹁予、二十余日之遊、未グー峻坂二逢ハズ、詩ノ所謂ル、周道砥ノ如
没し、乗船の十二人は全員溺死した。半蔵は一月二日から新潟・内
前五時二十分、修之助同伴奥州見物より東京へ出る積りにて、貸切
水戸・伊豆方面旅行、二十七日帰宅﹂とある。五月六日の日記に﹁午
6、昭和十年七十一歳、年譜に﹁五月六日二男修之助と共に松島.
である。
行四人︵源内・全母・全長男︶無事帰宅致す﹂と書かれてゐるだけ
穏にて全十二時頃夷港へ着き、其より自動車にて午後一時半頃、一
十三日に﹁午前七時、新潟古川旅館出発、全八時同港抜錨、海上平
櫻詩集下﹂に録されてゐるが、日記は五月十四日以後空白で、六月
す。漢文の日記﹁北越遊記﹂がある。その末に近い四月二十四日
ク、其ノ直グナルコト矢ノ如キ者、此ノ行二於テ亦云う﹂
アタタカ
2、明治二十二年二十五歳、四月八日∼︵不明︶母ケイと共に関
西・東京に旅する。﹁今朝母ヲ奉ジテ覇途二上ル、四野風喧ク碧草
シキクナラ
イナ
舗ク、聞説ク京城春色早シト、嵐山ノ花候吾ヲ待ツヤ無ヤ﹂
3、明治二十五年二十八歳、﹁十二月三十一日夜十時、両津発度津
野・巻・与板に泊ったが、神経衰弱となり、新潟に引返し、親類の
詳細記しある︶﹂とあり、また二十七日には﹁午前八時五十分、汽車
自動車にて夷へ向け出発する。︵今日より以後のことは探勝遊草に
丸、風浪強く暁方ようやく新潟着。同時に出港した第二度津丸は沈
ず﹂︵略年譜要約︶
は急行にて発車︵上野駅︶午後四時二十分新潟へ着﹂とある。日記
迎えを受けて帰宅した。これ以来船に乗ることを嫌い、旅行を好ま
4、明治三十八年四十一歳、五月十二日∼六月六日、東京・京都
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は空白だがこの旅は楽しいものであったと見え、翁は十六首の漢詩
ある。︵漢文︶﹁此ノ間到ル処詩ヲ得、而レドモ皆途上ノ率作、豈留
を作った。これにつき父子のやりとりが﹁探勝遊草其この首めに
かうした島外の旅行とは異なる島内の調査探訪の旅のことが、
イ、昭和六年六十七歳、三月七日∼九日、羽茂村大崎地方の史料
﹁年譜﹂に三か所記されてゐる。次の通りである。
探訪。日記を読むと、大崎の中川・藤井等の家の屏風、また集った
シパラ
ムルニ足ラン乎、然ルー修ノ曰ク、数旬ノ吟調、豈巧拙ヲ以テ之ヲ
滝平を含む好事家の持参した書幅を見、座談会もした。
嶋湾・中尊寺金色堂・厳美渓・勿来関吐・西山荘・藤田東湖墓・筑
蓮華峯寺住職青柳秀雄師を訪ひ﹂、十七日﹁午前九時、同寺を辞し、
木町小比叡山蓮華峯寺滞在。日記十二日﹁午後一時、乗合自動車で
ハ、昭和十一年七十二歳、九月十二∼十七日、史料探訪の為、小
の史料探訪。︵後述︶
ロ、昭和十年七十一歳、十月二十六日∼十一月五日、松ヶ崎方面
覆醤︵ほど紙として醤油がめの蓋となる︶二附センヤト、姑ク留メ
テ其ノ請ヒニ応ズルト云う﹂
波山・潮来・修善寺・函根などで、史蹟もあり名勝もあった。中で
訪ねた所を詩で見ると、白虎隊の墓・観世寺黒塚・林子平墓・松
最も心を惹かれたのは金色堂であったと見え、令息が﹁ついでに十
十時半帰宅した﹂ことしか記録はない。
ロの記事、十月二十六日﹁午後四時半、畑野より松ヶ崎行き自動
和田湖まで足を延ばしてはどうですか﹂と言っても、﹁いや平泉の
車で六時着、人に迎へられて、兼て頼み置たる下宿本間吉右エ門方
キュウ
金色堂を見ればよい﹂と言ってゐたといふ。︵﹃静古遣藁﹄所収﹁父
へ案内され、是より同家に宿す﹂、ここに十一月五日まで滞在する
日記に記されてゐる。﹁住職中浜諦純師の厚意で、檀徒惣代榎龍太
ショウ
7、昭和十一年七十二歳、四月八日∼二十六日、修之助と共に北
郎︵松ヶ崎村長︶・榎五郎左エ門両氏を集め、特に秘佛の毘沙門天の
のであるが、滞在中丸山の平泉寺を訪ねたことだけが十一月一日の
の思い出﹂︶その金色堂の詩を記す。﹁来リ訪フ平泉金色堂、榛光
イタ
︵赤みがかった漆の光︶燦然巧彫ノ肱︵化粧︶、憐ム可シ三代栄華ノ
陸・関西方面旅行。四月八日の日記に、﹁午前七時、大和・吉野山の
し、午後四時半頃寺を辞し﹂た。帰途川内の西龍寺を訪ねた。
開扉をなせり、其外寺宝拝観、寺の縁起を聴きて筆記等に時を移
夢、風物蒸條客膓を傷ム﹂
観桜かたがた北陸・関西地方漫遊に、修之助同伴にて出発する﹂と
の首に﹁岐岨ヲ経ル﹂とあるので、木曽の一首を記す。﹁山雨全ク晴
ったものに、真野宮と国分寺がある。
は言ふまでもないが、これらと共に翁が熱い眼を注いで変られなか
等、様々な公職を務められた。誠心誠意その職責を遂行されたこと
山本半蔵翁は新町町長︵三十三歳︶・真野村教育会長︵六十二歳︶
︵五︶、真野宮御造営と国分寺遺蹟調査
あり、二十七日﹁午前八時、氏神新町太神宮へ参拝︵道中無事帰国
のお礼参り︶一立山の墓参を済し︵下略︶﹂と書いてゐるが、道中の
レテ晩照明ルシ、愛シ看ル新樹翠陰清シ、路ハ碧澗迂回スル処ヲ過
キソ
記録はない。﹁探勝遊草其二﹂に漢詩十六首が遣ってゐる。﹁遊草﹂
ギ、尽日只聴ク流水ノ声﹂
19
イ、真野宮御造営事務所長
漸くその効も挙った。
⑥大正五年︵一九一六︶地均し工事完成︵郡内青年会・中等学校
手した。︵五年七月、皇太子殿下︵昭和天皇︶佐渡行啓の際、御参
半蔵翁の真野宮に対する崇敬を、私は先きに﹁民草の懐ひ﹂︵﹃佐
年︵一八七四︶六月の順徳天皇神霊御還幸と、それに伴ふ同九年
拝、金百円を御寄附︶
生徒・真野小学校児童等の労力奉仕があった︶建築用材の準備に着
︵一八七六︶六月の真野宮創建に触れただけであった。真野宮の作
九二○︶六月落成した。社殿・幣殿・拝殿・御門・瑞垣︵東・西・
⑥大正六年︵一九一七︶六月より新社殿造営に着手し、九年︵一
渡郷士文化﹂平成十二年二月号︶で書いた。しかしその時は明治七
った﹁佐渡之国真野宮略記﹂に﹁後、大正六年︵一九一七︶境内拡
北︶等である。︵事務所ニテ支挑ヒタル費用ハ五万九千六百○八円
張工事を起工し、九年︵一九二○︶七月二十日に現在の新殿遷宮式
を挙げた﹂とある。半蔵翁が最も深く真野宮に関ったのはこの時で
余ナレドモ、此他縣庁ニテ支出セルモノハ詳ナラズ、凡ソ三、四円
で示すと、大正六年七十四日、七年七十三日、八年五十二日、九年
日記の中に真野宮御造営に関する翁の動静の記されたものを日数
解る。
この様な経過と見比べて半蔵翁の日記を読むと、翁の関りがよく
ナルベシ︶大正九年七月二十日遷宮式を執行した。
ある。五十三歳であった。
新社殿御造営の経過を、岩木拡翁が大正十四年に作られた﹁真野
宮に関する調査報告﹂によって略記しよう。
①明治三十年︵一八九七︶七月、真野川の洪水で真野宮の社殿が
た。崇敬の有志は協議して、宮殿の位置を移して改築し、規模も拡
二十八日、計二百二十七日である。要点と思はれることだけ拾って
損壊し、これに対し宮内省より宮殿保存費︵二百円︶が下賜せられ
張して社格昇位も請願することにした。
り、続いて三十七八年の戦役となって、改築のことも停頓するほか
始り、四月七日﹁午前八時半、真野宮建築用材取調べに出張し、午
宮建築用材管理委員を嘱託せらる﹂と墨書してある。やがて活動が
年二月十一日の日記に﹁本日真野宮建築委員長足達儀国殿より、同
半蔵翁は初め、建築用材管理委員として御造営に関った。大正六
書留めよう。
なかった 。
が満場一致で議決された。しかし当時はロシアとの間に葛藤があ
②明治三十五年︵一九○二︶二月、貴族院に於て社殿改築のこと
③明治四十一年︵一九○八︶、佐渡郡長初め有志が財団法人順徳
るが、その間の四月六日、﹁午前十一時、吉田旅館に於て真野宮建築
後七時帰宅す︵此日人夫十人雇入︶﹂等の記事が六月まで何日かあ
委員会を開く。出席者足達儀国・真木山孟治・臼杵平吉・中山五兵
天皇御遺跡保存会を設け、資金募集に着手したが、予定の資金︵五
衛・嵐城嘉平氏と拙者の六名、午後一時本殿御造営ケ所に付き実地
万円︶は得られなかった。
教育会長等が発起人となり、真野宮御造営資金募集主意書を発し、
④大正元年︵一九一二︶新潟縣知事・縣下十六郡長・三市長・縣
20
踏査し︵略︶其より御陵参拝﹂とある。後日の委員会に高野宏策氏
日記に次の様に書かれてゐる。大正六年八月二十五日﹁午前八時、
方面寄附金募集打合せの為なり﹂、同年十一月二十九日﹁午前九時、
十三日﹁午後六時頃真木山孟治氏来る。明後日頃上京に付き、東京
真木山孟治氏郡外寄附金募集に付、出国の途次立寄る﹂、七年十月
けて事を進めた。委員長は佐渡郡長足達儀国氏である。半蔵翁のこ
氏は真野宮御造営の寄附金募集の為上京す﹂、八年一月九日﹁午後
在京の高野宏策・真木山孟治両氏より二十五日出の封書到来す、両
真野宮は縣社で、社殿御造営は縣の事業であり、縣は委員会を設
の名が見 え る 。
とが後まはしになるが、ついでに日記に見える御造営関係者のこと
中、刈部撰次に替る︶・棟梁間嶋杢太郎・副棟梁後藤勘一郎・加藤新
御造営の実務を担当した人として、現場の工事監督鈴木三蔵︵途
列席してゐる。
委員会には中川虎之助氏︵郡書記︶・小田幹治氏︵事務所書記︶が
告﹂募金の手は北海道にも伸びる。
二時吉田旅館に於て委員会、真木山氏出京中寄附金募集の模様報
を書留めてみよう。︵当年の記録が有れば一目瞭然であらうがそれ
が手に入らない。翁の日記から判ることだけである︶
足達郡長は大正八年七月、愛媛縣上浮穴郡長に転任、七月十九日
午後三時、吉田屋で真野宮御造営委員会︵以下﹁委員会﹂と記す︶の
後、七時小嶋屋で送別会が行はれた。後任は福原粂治氏である。
用材に最も深く関ったのは臼杵平吉氏だったようで、用材の探索、
右エ門・木挽頭馬場巳之助・石工頭高橋岩太郎・銅工頭寺田善造・人
明記されてはゐないが、委員には担当する部門があったらしい。
山主との交渉、伐採、運搬等を担当せられたことが読取れる。用材
夫頭若林金太郎・芳吉音吉等の名も書かれてゐる。
山本半蔵翁はどの様に働いたのか。大正六年六月二十五日﹁午前
は、吉岡・畑野・羽茂、やがて加茂村和木の山からも伐り出された。
十時郡書記中川虎之助氏来訪、用件今回真野宮御造営事務所設置に
運搬に当った人に山本丹治といふ名が現れたのには驚いた。加茂小
学校の前に家があり、﹁山丹﹂と呼ばれてゐた。少年の頃、名前と顔
云ふ、右色々辞退致せしも強て嘱託せられ止むを得ず一時受けるこ
付き、所長を嘱託致し度、内々郡長の使命を受け態々依頼に来たと
所長嘱託書到達す﹂かうして半蔵翁は真野宮御造営事務所長となっ
とに取極める﹂、六月二十八日﹁足達委員長より、真野宮御造営事務
を知ったが、かういふ仕事をする人だとは半蔵翁の日記で知った。
る一人である。
臼杵氏は大字真野の人で、御造営に関する記事に最も多く名の見え
次に真木山孟治氏と高野宏策氏。真木山氏は真野宮の宮司であ
て新社殿御造営についての事務の一切を取仕切った。委員長の指示
事務所には書記小田氏が一人ゐた様である。翁はこの人を指揮し
た。︵以下﹁事務所長﹂と記す︶
を受け、委員や工事現場からの相談に応じ、建設業務の推進を図
の調達であった。上記岩木翁の﹁調査報告﹂の③・伽の記事からも
る。社殿新築について最も苦労のあったのは、言ふまでもなく経費
を伸ばす。両氏はその実務に当り、海を越えて各方面に折衝した。
察しられるであらう。委員会は、島外、更には縣外にまで募金の手
21
挽き・石工から人夫までの給料・賃金の支佛ひ、それらがすべて半
であった。材木・石材等の機材や用具の購入と精算、監督・大工・木
る。就中翁が最も頼りにされたのは、御造営に関る経理一切の処理
は思はれる。
に、何の街ひも偽りもない、敬み深い翁の佛が惨んでゐる様に私に
十回ほどかうした記事が見える。一見何も変った所のないこの文字
営事務所﹂︵敬語︶の文字、そのほかは何もない。日記四冊に凡そ五
す。此日の参列者は御造営委員踵︵祭主︶を始め委員三糸.棟梁・
のⅡを迎へた。日記を写さう。﹁崎、午前十時真野宮上棟祭に参列
だが、かうして足掛け四年、大正九年七月二十日、真野宮は遷宮
一足少b
蔵翁に任された。
記大正六年九月三十Ⅱ﹁午後一時堺務所へ出張、九月中の工事人
剛棟梁・監督・人夫頭・銅工・石工等拾余人、福原委員長玉串を捧
精算と支佛ひはおよそ半月乃至一月ごとになされた様である。日
夫・大工・木挽き及び安達茂市請負高の内、小山の日給・鈴木の電
会場に於て宴を設け臨席す、夜八時より御遷座式に参列す︵下略ご
げ、次に参列者惣代山本半職玉串を体ぐ、企十一時終了、直ちに直
とあって、記事の上部に、中央の社殿を﹁真野宮御遷宮記念・大正
報料取替へ等支佛ひ六時帰る﹂、大正八年四月二日﹁午後一時事務
その度びごとの支挑ひ金額はⅡ記には記されてゐない・しかしか
九年七月﹂の文字で囲んだ円い紫のスタンプが捺してある。翁の感
所へ、三凡分の大工其他の賃金・木炭代等支佛ひ五時帰宅﹂
﹁事務所ニテ支挑ヒタル費用ハ五万九千六百○八円余﹂といふ金額
うした停滞ない精確な執務の積上げが、岩木翁の一調査報告﹂⑥の
翌二十一日、奉祝祭が行はれた。主催は書いてないが縣と思は
激が察しられる。
れ、高官や特別来賓の前で、中山五兵衛・高野宏策・山本半職の三
半蔵翁の執務は事務所でのデスクワiクだけではなかった。真野
になるのである。
川の洪水による決潰現場の復旧一L事見分や、臼杵氏と共に山に人っ
委員に太川縣知事より感状が贈られた。
帳紳・図面・備品等を受取り、これで三年三ヶ月の真野宮御造営実
十月五日午後四時、真木山宮司と立会ひで事務所小出書記から、
二十二日にも奉祝祭、﹁来賓は真野村人だけ也﹂と日記にある。
ママ
て川材の伐採に立会ふこともあった。大正八年六月十六日﹁午前八
間伐、午後一時帰る、午後は雨の為休む﹂
時悴︵半之助︶と人足を連れ、浜中山へ参り、臼杵平吉氏指導にて
こんな記事もある。大正八年七月十一日﹁午前七時客馬車にて両
口、﹁佐渡国分寺阯﹂
﹁佐渡国分寺古瓦拓本集﹄は、半蔵翁の段後四十年を経た昭和五
務所長の務めを終った。
十三年︵一九七八︶六月十四日の命日に、後嗣修之助翁が先考を編
へ着く﹂、羽生は両津橋より東海岸八粁余である。
日記を読んで気付くのは、大正六年五月四日﹁午後二時真野宮御
者として版行されたものである。その﹁あとがき﹂に﹁父の生涯で
津へ向け出発す︵羽生海浜にある真野宮御手水石見分の為︶十時夷
る。必ず書いてあるのは、出勤と帰宅の時刻、それに﹁真野宮御造
造営事務所へ出張、全七時帰宅する﹂の様な記事の多いことであ
乙乙
可、
最も記念すべき仕事は、佐渡国分寺阯の礎石発見であった﹂と書か
次郎︶、午前七箇、午後四箇掘当てる。本間周敬氏の他、田辺誉太
この発掘調査の結果は翁と岩木拡翁とによって整理報告され、
する。午後三時本間氏参加、五時頃帰宅。
十月十九日、午前八時人足二人を連れ出掛ける。講堂阯全部発見
かけ、﹁講堂阯と認める六つ﹂を発見する。五時頃帰る。
十月十八日、午後二時頃、本間氏と共に人足一人をつれ捜索に出
午後十二箇を掘当てる。午後四時本間氏が来る。五時半帰る。
十月四日、午前八時人足四人︵氏名略︶四回め発掘、午前十六箇、
郎・金子万象氏が参加、五時半頃帰る。
︵一︶半蔵翁は、若い頃明治二十年代から、﹁物云はい石や古瓦な
れてゐる。この文から、翁と国分寺阯との関係がわかる。
ど﹂を収集する趣味があった。︵二︶大正末から昭和初年、全国に国
分寺研究が盛んになって来た。︵三︶大正十三年︵一九二四︶六十
歳、新潟縣史蹟名勝天然記念物調査委員を嘱託されてゐたが、同十
五年福島縣史蹟調査委員小此木忠七郎氏の来訪を受け、佐渡国分寺
礎石発掘の手掛りを得たらしい。︵日記十月九日﹁午後五時頃小此
ますま
木翁真野山陵参拝後一時吉田旅館へ就き、それより来訪あり、国分
一輯﹄に掲載された。いま﹃佐渡国分寺古瓦拓本集﹄に収録されて
﹁佐渡国分寺阯﹂の題で﹃新潟縣史蹟名勝天然記念物調査報告書第
ゐる。それによると、翁の発掘により、七重塔・金堂・回廊・南大
寺瓦及び石器類を出し示す。偶ま本間酒川氏来り、談益す酌にて
の許可を得るなど、発掘のため奔走する。︵五︶昭和二年︵一九二
昭和三年昭和天皇御即位の大典に当り、翁は地方賜餓の光栄を受
門・新堂︵講堂か僧坊かは不明とされてゐる︶等の阯が確認された。
夜八時頃迄話し帰らる﹂とある︶︵四︶早速縣庁へ行き、国分寺住職
七︶九月十一日から六日間、毎日弁当持参で礎石発見に努めた。本
と、これは多年の史蹟調査の功労によるものとされてゐるが、この
け、佐渡支庁でその光栄に浴した。修之助翁は﹁聞くところによる
間周敬・原田広作氏等の協力を得、この時の人夫の費用は全部翁が
発掘は断続的に行はれた。日記を追はう。
負担したと言はれる。
国分寺阯発見が大きな原因であったということである﹂と書いて居
渡支庁に於て恭くも地方賜撰の光栄を受け、︵同伴者四名と︶自動
られる。十一月十六日の日記がある。﹁午前九時、御大典に付き佐
九月十一日、﹁午前八時、国分寺の塔阯の従礎石捜索の為、人足一
九月二十日﹁午前八時、人足︵山田治作︶一人をつれ、国分寺の
し、直に登庁、全十時より饗撰を賜り、正午より寿司嘉櫻上に於て
車にて出発︵中略︶自分だけ一丁目寿司嘉にて礼服着用の仕度致
人をつれ同地へ参る﹂
金堂遺蹟の礎石を捜索に参る﹂、午前四筒、午後二箇を掘当て、前日
大祝賀会を催し、午後四時閉会︵同伴者は︶帰村せり、自分は高田
の分共十二筒の木標、ほか塔の従礎三筒に木標を建てた。午過ぎに
は原田・本間両氏が参加し、午後五時頃帰宅、夜七時松井屋で両氏
共二金蓋ヲ術ンデ佳辰ヲ祝ス、至仁ノ聖徳乾坤大ナリ、賜撰ノ殊恩
フク
屋旅館に一泊する。即ち詩有り、︵書下す︶﹁社穫ノ臣将草葬ノ臣、
九月二十六日、午前八時半頃三回めの発掘、人足は一人︵本間元
と晩餐﹂
23
野人二及 ブ ﹂
庇護養育によって成人する。明治十七年七月、半蔵︵二十歳︶の結
である。笹井氏留以子は沢根から迎へた半蔵の後添ひである。大正
十三年に残した。﹁墓誌﹂は死者の略歴等を石に刻み、棺と共に墓
婚を見届けて残した。半蔵にとって忘れようとしても忘れ得ぬ祖父
中に埋めるものである。地上にある碑とは違ふ。半蔵翁は祖父雪亭
初め﹁日記の概略﹂の項で述べた通り、翁の日記は事実を記載す
がこの詩をここに書留めて、全身の感激をつつまず表明したことで
翁の五十年祭に当り、墓誌を作って祭典の前日墓に埋めたのである。
るだけで、心情的な記述は一切無いのが特色である。唯一つの例外
あった。
今回日記と共に拝見したものの中で、胸に留ったのは﹃佐渡国分
記して来た。最後に一つだけ記しておきたいことがある。
以上、﹁静古略年譜﹂に導かれて山本半蔵翁の日記につき印象を
︵六︶、 家 祭 ・ 後 嗣
前稿﹁山本半蔵翁の悌﹂に﹁一、家祖を祭る﹂の項を設け、﹁明治
二十一年四月二十三日、二十四歳の山本半蔵は家祖山本清九郎の二
そして﹁半蔵には、我が身の家族たる人々への愛だけでなく、遠く
四日、父の命日に、不肖山本修之助﹂﹁不肖﹂の二字は文字も小さく
寺古瓦拓本集﹄の﹁あとがき﹂の署名である。﹁昭和五十三年六月十
百年祭を斎行し、自ら祭文を作って神前に額いた﹂ことを記した。
が感得される﹂と述べた。今回日記を拝見しても、最初の記事︵大
読んだ時である。今、本を取出して見るに﹁例言﹂の末に﹁昭和三
﹁不肖山本修之助﹂の署名に初めて遭ったのは、﹃佐渡碑文集﹄を
書かれてゐる。はっとした。
家祖を承け、永く児孫に及ぶ祖孫一体の思ひが常に胸に在ったこと
正六年一月五日︶が亡き姉の命日に墓参することから始まる如く、
ので、僅かに一つ、昭和八年︵六十九歳︶七月二十六日の記事だけ
至る所に忌辰・墓参等の記事があり、これを見過すことはできない
十二年六月十四日、先考二十年祭の忌日に、不肖修之助しるす﹂と
その時は気付かなかったが、例言には、この本は先考の蒐集が本体
ある。この本は和綴ぢで、印刷も活版でなくガリ版文字であった。
を拾ふ。
﹁午前十一時より故山本子温翁百年祭︵取り越し︶、故山本雪亭翁
であると記されてゐて、和綴ぢ、ガリ版等も先考の本の元の姿のま
五十年祭︵正当︶、故笹井氏留以子十年祭︵正当︶を執行する。参列
者家族三人・親族山本五平・全成之助・笹井卯之八・松井源内︵八
次に同様の署名を見たのは、平成四年四月十四日、修之助翁に
まを伝へようとする配慮に由るものと察しられる。
一同墓参、其より直会の宴を設け午後五時頃解散︵下略︶︵雪亭翁の
名氏名略す︶外に出入りの者六人にて、斎主佐々木乙吉氏、祭式後
がすべて編者のペン書きで、活字でないことに気付いたが、それを
十四日、父の四十年の忌日に、不肖修之助しるす﹂とあった。遺文
﹃静古遣藁﹄を頂いた時である。﹁後記﹂の末に﹁昭和五十一年六月
子温翁は山本家六代、天保八年に残した人である。雪亭翁は第八
墓誌は昨日午後墓所へ埋め置く︶﹂
代半右エ門である。明治四年七歳で父を喪った半蔵翁は、この人の
24
へざるを得なかった。修之助翁はなぜ先考の遺稿の前に、父に似ず
もとめたのだが、﹁あとがき﹂の、三度めに見た署名は、さすがに考
署名と結ぶことには、考へが及ばなかった。﹃古瓦拓本集﹄は今回
る。この思慕と祈りがあって、令息は﹃佐渡碑文集﹄を父の﹃佐渡
を垂れ、己が人生の誤りないことを祈ることばである様に思へて来
人生の全体に相対し、静かに呼びかけてゐる思慕、また瞑目して頭
今回半蔵翁の日記や遺文を読みながら最も愉しかったのは前掲
写し、そのままに印刷した。
一探勝遊草其どの前書きであった。父は言ふ。﹁皆途上でにはかに
先哲碑文集﹄の姿に作り、また﹃静古遣藁﹄を全文自分の文字で筆
も画もできなければだめだと言っていた。即ち文化人の資格は、生
作った詩だ。書き留めるほどのものではないさ﹂子は答へる。﹁し
はあるまい。﹃静古遣藁﹄の﹁後記﹂に、﹁︵父は︶平生文人は詩も書
活の中に高い藝術性がなければならないというのだろう﹂と書いて
無能な身であると記すのであらうか。それは決して儀礼的な謙遜で
居られるが、その様な文人としての資質に於て及ばない﹂といふ意
反古にはできませんよ﹂、﹁ま、それもさうか﹂昭和十年の旅から七
かし、こんな楽しい旅中のものです。できは別ではありませんか。
ハナハ
味ではあるまい。現に広田耕南氏などは﹁次︵男︶修之助、家ヲ継
ではなくて、今回半蔵翁の日記の内容と行文に接し、令息の追憶を
十三年、父子両翁の会話が耳によみがへるのは、後学の悦びであっ
ギ、風流文雅酷ダ父に肖ル﹂と言ってゐる。しかし、かうした論議
た。︵平成二十年正月廿九日夜︶
山本修巳
建立の詔は出されたが、各国で直ちに着手されたわけではなく、
揺の心を鎮め、平安をもたらそうとするものであった。
最勝王経に基づき、中央集権の強化と仏教の布教によって国民の動
よって僧寺と尼寺の二寺が建てられた。天皇の意図するところは、
国分寺は天平十三年︵七四一︶の聖武天皇の詔︵みことのり︶に
盛況であった。こうした機会に国分寺について書くことにした。
■■■■■■■■■■■■■
読み返してゐると、修之助翁が﹁不肖﹂と言ってゐるのは、先考の
佐渡国分寺
平成十九年十月二十七日︵士︶、佐渡市教育委員会の主催で、﹁第
幡館﹂で開催された。
六回全国国分寺サミット・イン・佐渡﹂が、﹁国際佐渡観光ホテル八
佐渡博物館では、十月一日から十一月十八日まで、﹁佐渡国分寺
資料展﹂を開催し、国分寺跡発見の頃の資料や発掘された国分寺瓦、
鎌倉時代十三世紀後半の十二神将像︵瑠璃堂に安置︶が展示され、
25
■■■■■■ロ■■■■■■■
佐渡の岡分寺は、天平宝字八年︵七六四︶頃に完成したのではない
の順で、現在見られるような礎石が発見された。翌三年八月の荻野
教示を受け、第一回発伽調査をし、金堂、廻廊、諦堂、南大門、塔
仲三郎や新潟県史蹟調査委員斎藤秀平の再調査があって、昭和四年
事により、軒丸瓦や軒平瓦、平瓦が保存箱数百鮪も収集され、その
その後、昭和二十七年の調査を経て、昭和四十七、八年の整伽工
文部省史跡保存地として正式に認められた。
国分寺は、国家の保護のもとに栄えるが、律令体制の衰退ととも
いた瑠璃堂、現在保袴している収臓庫がある。右側には石積みの上
国分寺跡の礎石発見の端緒については、本誌に倉山藤五郎氏が
︵﹁佐渡ジャーナル﹂第十二号平成二十年一月十口︶
﹁山本半職翁寸影l晩年の日記からl﹂の中で﹁佐渡国分寺阯﹂と
ムリ
かと思われている。それは、その年佐渡国分寺に、落慶を祝うため
に﹁最勝王経﹂と﹁法華経﹂各一部が納められた記録があるからで
ある。尼寺については、承和十一年︵八四四︶ころに建てられたと
に、その勢力を失った。佐渡の国分寺は、正安三年︵一三○一︶雷
中には絵瓦、文字瓦も兄つかり珍らしいものとしてそれらも佐渡市
思われるが、場所は諸説があって確定できない・
火によって七敢塔を失い、享徐二年︵一五二九︶の火災によって寺
教育委員会に保管されている。
に白壁作りの塀があり、入母屋作りの本堂は江戸時代の再述で、庫
茅葺きの仁王門を入ると護摩堂、銃楼、薬師如来座像を安置して
随一の広さをもつ・
れ、旧国分寺跡および杉・松・桃などの古木林があって、島内寺塊
現在の佐渡国分寺は、昭和四十七、八年に史跡公園として惟備さ
堂や宝物旧記をも焼いた。
本尊薬師如来重要文化財
本尊薬師如来は延喜五年︵九○五︶からさほどさかのぼらぬ時期
が、今は収蔵庫にある。桧の一本作り、漆箔で、高さ約一・三六メー
裡、蔵などがあり、約千二百年の歳月を経ても、国分寺は、佐渡の
から延長五年︵九二七︶の間の作とされ、瑠璃堂に納められていた
トル、台座上に紡伽跣座し、方手に施無畏印を結び、左掌の上に薬
現在、島内四国八十八所めぐりの第一番札所である。
大寺たる面目を保っている。
壺を載せている。肩や胸の豊かな肉附には量感と迫力がある。
史跡佐渡国分寺跡発見と国指定
近代になって佐渡国分寺跡は、大正十五年︵一九二六︶五月十九
◆◆
の国分寺に隣接する松林を調査し、礎石らしいものを発見したのが
父︶が真野新町の本間周敬、相川町の原田贋作とともに、そのころ
して書かれている。
日、新潟県史跡調査委員であった真野新町の山本半蔵︵筆者の祖
端緒となった。その後、昭和二年九月に内務省嘱託荻野仲三郎等の
ハ ハ
それも、その怒りの対象がかの高名な歌人馬場あき子先生の発言に
いたが、たった一度だけお怒りになられたことがあったのである。
l磯部欣三先生の想い出
平成十九年九月三十日、佐渡市、ホテル八幡館において、磯部欣
世阿弥の墓所
島雅範
三先生を偲ぶ会が開催された。開会とともに会場の照明が落とさ
エピソードを話題にした。スピーチ用のマイクは主賓席に近接して
向けられたものであったので、私にとっても印象深かったその時の
立てられていたので、寂聴先生がよくお聞き下さっている様子がう
れ、瀬戸内寂聴著小説﹁秘花﹂の序章の朗読が流れ、磯部先生の想
偲ぶ会会長山本仁氏の献花と挨拶、遺族代表小森文子様の献花と
い出のアルバムがスクリーンに映し出された。
く、自ら加藤広文氏の席までおいでになられて、私の話の一部始終
かがえた。だが、寂聴先生には難聴がある。スピーチ終了後程な
を確認なされたとのことであった。そのことを加藤氏から教えら
挨拶の間に、寂聴先生と作家津村節子先生の献花と挨拶があった。
が﹃世阿弥はそんなにつらくはなかった﹂とつぶやいたことが著書
寂聴先生は世阿弥の取材で来島した思い出を振り返り、﹁磯部さん
れ、﹁いい話だったよ﹂と言われて、私はうれしかった。
つ理解できないところがあった。その疑問は長い間心の隅に引っか
たのであるが、私には磯部先生が何故そんなに怒られたのかいま一
そのエピソードはこの日の六年前、馬場先生の講演会の際に起っ
﹃秘花﹄の中心の考えになった﹂と語り、磯部さんに出会わなかった
ことになる昭和三十七年秋には、まだ幼児であったお二人である。
女を連れて参列された。佐渡へはじめて渡り磯部先生とお会いする
ってきた。長期間の疑問を解決すべく、その日の出来ごとを振り返
かっていたのであるが、このスピーチを機になお一層強いものとな
ら、この小説の完成はなかったと述べられた。津村先生は長男、長
今日の偲ぶ会に先立って、二人を佐渡金山跡に建てられている自身
り、その日の磯部先生に想いを寄せて、改めて先生を偲ぶよすがと
の著作﹁海鳴﹂の文学碑の前へ連れてゆき、自分が死んだら、ここ
が佐渡における母の墓所だと思えIと伝えたことを語り、﹁磯部
したい。
た。私は、磯部先生、当時の相川町長弾正佼一氏、相川町議会議長
佐渡能楽の里において、歌人馬場あき子先生の講演会が開催され
﹁偲ぶ会﹂の丁度六年前にさかのぼる平成十三年九月二十五日、
先生、本当に有難とうございました﹂と涙ぐまれた。
の交流は都合十五年に及ぶが、その問に一度、先生が大層お怒りに
私は発起人の依頼をうけて短かいスピーチをした。磯部先生と私
なられたことがあった。怒りというものを知らない先生だと思って
27
寺
北見亀男氏と四人同乗して会場に向い、その講演を拝聴した。この
日は講演会に先立って、鷲崎・鶯山荘において、まひる野同人久保
続いて質疑応答に入ったとき、一人の高齢な男性が立って質問に
り、感動的な佐渡讃歌であった。ここまではよかった。
弾正氏をともなって控室に馬場先生をお訪ねした。先生は日報馬場
いた。弾正町長は新潟日報紙歌壇の常連の入賞者である。開演前、
あった縁をもって馬場先生にはかねてより若干の面識をいただいて
のであった。私は母が馬場あき子門下生であり、かりんの会会員で
た。内容は佐渡の世阿弥ではなく、﹁世阿弥の佐渡﹂というべきも
歌碑建立記念講演会であった。演題名は﹁佐渡と世阿弥﹂であっ
考えたがっているようだが、反対に、佐渡で死んだのだと主張する
思えばよい。大体、佐渡の人々は世阿弥は許されて京都へ帰ったと
らにも確証というものがないのだから。人それぞれ思いたいように
よ淳フなものであった。﹁それはどっちでもよいことでしょう。どち
険しいものが走ったように見えた。やや間隔をおいて、返答は次の
関係のない的外れな質問だな、と感じた。馬場先生の表情に一瞬、
ったのでしょうか﹂と。私はとっさに、これは講演の内容とは直接
及んだ。﹁ところで世阿弥は佐渡で死んだのでしょうか、生きて帰
歌壇への投稿者弾正佼一の名前をよく覚えて下さっており、﹁あな
になったらどうですか﹂
がよい。何なら︵ここに居る︶皆さんで佐渡に世阿弥の墓をお建て
田フミエ氏施主の馬場あき子世阿弥歌碑の除幕式があり、講演会は
せた。そのような経緯があったので、私はその日の出来ごとを今も
た町長さんだったの、いつもいい歌を作るのね﹂と弾正氏を感激さ
難い違和感を覚えた人も居たことであろう。磯部先生もきっとそう
この発言には確かにトゲを刺すような響きが感じられた。名状し
講演の要旨をまとめると、世阿弥のほとんどの伝書は失意のとき
るのである。
感じたに違いない。それが帰路の車中での怒りにつながることにな
はっきりと記憶にとどめている。
︵女時という︶に書かれたものである。失意・不如意の時代にあって
しかし私は、馬場先生は決して間違ったことを言っている訳では
めどき
も、じっと耐えて向上を目指しているところに世阿弥の本来的人間
像がある。世阿弥は偉大である。間違いなく偉大であり、素晴し
して。いや、文学者はこういう発想をするものかと、むしろ感心し
ないと思った。歴史学者ではないのだから。言い回しはともかくと
こがね
い。しかし、失意の流人老世阿弥を受容し、静證な心境の晩年を送
達しも﹄を披露して結びとされたのであった。歌碑建立をうけてご
でも良いのではありませんか﹂、﹁講演の内容に即した質問がでると
具体的なポイントを把握しえぬまま、﹁文学者の発言としてはあれ
さんには失望した。納得がゆかない﹂と。私は磯部先生のお怒りの
帰路の車中、発車程なく磯部先生が口火を切った。﹁今日の馬場
て聞いていた。質疑応答は結局この一件だけであった。
らせ、金島書をして﹁金の島ぞ妙なる﹂と言わしめた佐渡もまた素
晴しい’となろうか。そして最後に、この日歌碑に刻まれたご自
気分も高揚されておられたか、佐渡の聴衆に向けてリップサーピス
ふか
身の歌、﹃金北山夕かすむまで見てあれば世阿弥老いゆきし佐渡は
も意識なされたのか、歌人・馬場あき子の面目躍如たる名講演であ
28
ろう人が乱暴なことを言う﹂と、しきりに﹁乱暴だ﹂という言葉を
良かったのでしょうね﹂と応じていたが、﹁馬場あき子さんともあ
ついに、﹁秘花﹂に目を通されることはなかったのであるが、もし生
花﹂のなかでは、世阿弥は佐渡で息を引きとっている。磯部先生は
最後のフレーズに向けられていたのではないだろうか、との推論に
このように考えてゆくと、磯部先生の怒りの中心は、馬場発言の
きておられたら、このところはどうお読みになられるのであろうか。
磯部先生は何故お怒りになられたのであろうか。馬場発言のどこ
いうこの文言に。きっとそうに違いない。そうだ、磯部先生は、佐
到達する。﹁佐渡に世阿弥の墓をお建てになったらどうですか﹂と
の一件はそれで終ったまま、後日談に及ぶようなことはなかった。
くり返して、お怒りはなかなかおさまることがなかった。ただ、こ
に怒りを向けられたのであろうか。講演の本体に問題はない。質疑
渡に世阿弥の墓所をお造りになりたかったに相違ない。世阿弥佐渡
応答にあったことは明白である。そこで、馬場発言の順を追って、
私なりに分析をすすめてみたい。
た。だが、そのことを発願することは、﹁誠に恐れ多い﹂と断念なさ
状の碑だけではすませたくないある密かな想いが胸中に存在してい
れた。そこをいとも無造作に言及されてショックを隠し切れなかっ
佐渡で死んだのか京へ帰還したのかは結果不明なのであるから、
怒る訳にはゆかない。﹁人それぞれ思いたいように思えばよい﹂も
するようになった。推測が過ぎるであろうか。だが、そう推測する
た。怒りに見えた言葉はショックの言葉であったl私はそう理解
﹁どっちでもよい﹂という言葉に不満は残っても、だからと言って
いはしないであろう。﹁佐渡の人々は世阿弥が許されて京都へ帰っ
となってはもう遅い。しかし、どのように問われても、自身の心の
どうして生前にはっきりと尋ねておかなかったのであろうか。今
と積年の疑念が氷解してゆく。
基本的に同列である。ただ、多数の研究者は決してそのような物言
たと考えたがっているようだ﹂は、考えたがっているかどうかは別
弥はやはり許されて京の禅竹のもとへ帰ったのでしょうね﹂と常々
したか、ハッハッハ﹂と逃げを打たれるのが落であったに相違ない。
内をたやすく開陳するような先生ではない。﹁そんなことがありま
として、考えていること自体は否定できない。磯部先生も、﹁世阿
言っておられた。ただどこか残念そうな言い方ではあった。﹁反対
もし、天国でこの文章をお読み下さったら、﹁寺島さん、l勝手な
に、佐渡で死んだのだと主張するがよい﹂はなかなか厳しい言葉で
ある。磯部先生は、﹁そんなこと言われたって馬場さん、今更そん
推測は困りますよ﹂と、それこそお怒りになられるであろうか。
還してのち京都で亡くなったとしても、それは生物学的終息の意で
目の祥月命日がもう過ぎてしまった。先生と続けた相川町歴史散歩
は、直接お会いすることが多い充実して楽しい日々であった。二巡
磯部先生との十五年のうち、私が相川町へ移住した最後の五年間
な、無理ですよ﹂と、心中で強く反論していたに違いない。怒りの
あり、世阿弥の魂の終焉地は佐渡であると考えたいので、責任のな
がなつかしく想い出される。
原因の一端はここにあるのかも知れない。しかし私は、世阿弥は帰
い素人の立場から馬場側に軍配を挙げたい気持ちがする。小説﹁秘
29
内村鑑三がごg四国“且言9コの叩の﹄を発表したのは、日清戦争の
の脇には石塔や石碑が建ち、鯵蒼とした竹林に覆われ、時折積もっ
やら勇ましい太鼓に合わせ、お経を高唱しているのが聞こえた。堂
故郷が雪に覆われる頃、村はずれの堂に大人たちが集まり、なに
L・・誌
最中であった。世界に向け、﹁日本人の心﹂を伝えようとしたもの
日蓮の教えは知らなくとも、日蓮は絶えず身近にあった。
た雪が前触れもなくバサリとその重しで落ちる音がした。
である。﹃代表的日本人﹄と改題し、逆輸入のように邦訳され出版
内村が代表的日本人としたのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、
されたのは日露戦争開戦間もなくのことであった。
中江藤樹、日蓮上人である。とりわけ、キリスト者の内村が、日蓮
から消されていた。北を知ろうとすることは、オドロオドロしい闇
北は﹁二・二六事件﹂の首謀者として処刑され、北の記憶は故郷
佐渡が生んだ革命思想家に北一輝がいる。
内村は、日蓮を﹁論争は上品でない、全体の調子は狂気の如くで
をどのように見たのか興味のそそられる所である。
ある。彼は碓かに不均衡の性格であった、ただ一方向にのみ余りに
を覗き見るようなものだった。
日蓮が宗教家として大成するに至る佐渡での配流の日々とは、
あった。
思議な無気味さで見ていたようだ。北一輝は熱心な法華経信者でも
私は北を、あの高揚する法華の太鼓の音に併せ登場してくる不可
先鋭であった﹂としながらも、﹁時代と環境が彼の上に記したる多
して最も勇敢なる日本人﹂であると評価した。
くのものを剥ぎ取れば﹂﹁人間として最も正直なる人間、日本人と
私は、佐渡の産まれである。
どのようなものだったのか。当時の佐渡はどんな時代だったのか。
子供の頃より、佐渡に配流された貴人の悲しい物語、順徳院、日
蓮、日野資朝などにまつわる史実、伝聞を多く聞かされ育った。と
可能な限り日蓮が印した後を歩きながら、私は日蓮を偲んでみた。
鎌倉幕府評定所に於いて、日蓮は﹁貞永式目﹂第十二条悪口の答
***
りわけ日蓮が配流されたと思われる塚原は、距離も近かっただけに
を遣り込めた痛快さを英雄讃として聞いて育った。
三昧堂での受難の日々に同情し、﹁塚原問答﹂で完膚なきまで他宗
30
北西の風が吹き荒れる初冬の日本海は、白い牙を剥き岨え狂って
十月二十七日乗船。底うねりの残る海面を心細い小船に揺られ、
いた。海鳥が岩場に隠れ、嵐をやり過ごし凪を待つように、日蓮は
による萌犯で、遥か佐渡への配流とされた。
同二十八日、佐渡の国津・松ヶ崎に着いた。Ⅱ蓮が佐捜を目指し船
船待ちを余儀なくされた。
連︵しげつら︶が相模国・依智︵えち︶に構える館に暫し留め置か
出した十月二十七日は、後年、順徳院の墓所を訪ね恢慨の一詩を賦
文永八年︵’二七一年︶九月十二日のことである。
れ、佐渡に向け発ったのは十月十日であった。﹁暗殺﹂の危険に晒
龍ノロの法難を逃れ、身柄は、佐渡の守護代・本間六郎左衛門重
されながら、三国街道を十二日かけて歩き通し、同月二十一日、越
した吉田松陰が安政の大獄で刑死した日に当り、東條軍閥に挑んだ
ろう。砂浜を上がった罪人僧は、物見高い子供たちや、それを遠巻
国津が侭かれていた当時の松ヶ崎集蕗には数十粁の戸数はあった
英雄受難の忘れ難い﹁一日﹂である。
明快な主張を掲げ、強烈な個性を発散し、信念を貫き駆け抜けた
中野正剛も自刃して果てた日でもある。
後の国・寺泊の津に着いた。
当時、越後から佐渡に渡る官船は、ほとんど寺泊から船出した。
の彼方に隠れていた。それだけ無気味だった。
晴れた日には、間近に見える佐渡の島影も、鉛色の雲に覆われ混濁
畢嘩将
きに恐る恐る好奇の視線を投げ掛ける烏人の前を歩き、役人に促さ
れ﹁大けやき﹂の老木の前に至った。松ヶ崎は今でも、﹁僻﹂の人木
夕闇が迫っていたのではないだろうか。遠流の第一夜、何を食し
が村内に幾本も数えられる。
し、粗莚を被った日蓮に聞こえるものは、竹林から聞こえる竹の触
たのか。老木の空洞をねぐらに与えられ、端然と夕べの訓経に没入
れ合う乾いた熱きと、風に騒ぐ笹の頼りない静寂だけであった。
耳を澄ませば潮騒が開こえたはずである。故郷・安房小湊の父母
に抱かれた幼い日を夢に見て、|夜が明けた。
日蓮が着いた松ヶ崎の隣村・多剛︵おおた︶に上がった世阿弥も
時を経て、同じく佐渡に流された貴人に世阿弥がいる。
31
平塚運一
日蓮聖人画像
日蓮と同じ道を辿り配所に向かったと思われる。それを世阿弥は次
のように記した。
﹁いそ枕して、明くれば、山路をわけ登りて、笠借りと云ふ峠に
つきて駒を休めたり。ここは、都にても聞きし名どころなれば﹃山
ず、
四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆることなし﹂
一間四面なる堂の仏もなし、上はいたま︵板間︶あは︵合は︶
﹁十一月一日に、六郎左衛門が家のうしろ、塚原と申す山野の中
一﹂、
’
︵日蓮﹃種種御振舞御書﹄︶
ポッリと建つ侘しい堂が住処とされた。
はいかてか紅葉しぬらん﹄と、夏山楓のわくらはまでも、心あるさ
まに思ひ染めてき・そのまま山路をおりたれば、長谷︵はせ︶と申
元筑波大学教授・田中圭一氏は私が高校三年生時の担任であり、
たと言う。
れば、塚原の所在地は現在の畑野・目黒町、熊野神社の辺りであっ
昭和四十六年に出版された﹃日蓮と佐渡﹄︵編集・田中圭一︶に拠
どうも後世の後知恵だったようだ。
味堂が、佐渡の人たちは、日蓮受難のお堂と疑わず思っていたが、
山並みは峻厳な威容を見せていた。新穂にある塚原山・根本寺の三
初冬の残雪は斑のように国仲平野を覆い、白銀に煙った大佐渡の
︵世阿弥﹃金島集﹄︶
て、観世音の霊地わたらせ給ふ。故郷にても、ききし名佛にてわた
らせ給へぱ、ねんごろに礼拝して﹂
﹁紅東山︵もみじやま︶﹂と呼ばれる錦織りなす、佐渡の観光名所
をまるで楽しむかのように、馬に揺られ通り過ぎた老芸術家・世阿
弥の風韻が漂ってくる。
七十歳を越えた世阿弥が急峻な峠を越えるのに﹁馬﹂の便が図ら
れたのは理解できるが、日蓮は果たしてどうだったろう。徒歩であ
調査のため四名の研究者と共に佐渡に残された日蓮所縁の土地土地
日本史を教えておられた。私が卒業したのは四十四年。その頃は、
を訪ね、授業の傍ら踏査研究を続けて居られたらしい。そして発表
ったと考えるのが順当であるまいか。
日蓮が小倉︵おぐら︶の峠を越えたのは初冬である。無惨に散り
されたのがこの労作である。
執筆者の一人に、私が高校一年時の担任・山本修巳先生の名も見
骨の折れる道中だったと思われる。
佐渡の国府は現在の畑野・下畑︵しもぱた︶にあったらしい。本
司馬遼太郎の﹃街道をゆく﹄第十巻﹁佐渡のみち﹂に詳しく紹介さ
える。山本氏の岳父は故山本修之助翁。佐渡学の泰斗にして俳人。
敷かれた落ち葉を踏み、緩んだ岨道を、谷底に転げ落ちないよう気
間重連の屋敷に着いた日蓮は、汗と俟に塗れた旅装を解き、草鮭を
れている。翁は順徳院の御陵守でもあった。
脱いだ。客人としてのもてなしがあるはずもなく、稲藁の詰まった
納屋にでも入ったのだろうか。
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日蓮研究の第一人者・紀野一義先生の著作﹃日蓮・立正安国論ほ
か﹄︵中央公論社刊︶にも、田中先生たちに案内され同所に立った模
かわ︵代︶らんとせし﹂阿仏坊・千日尼の夫婦だった。
たとすれば、夜陰に紛れ、阿仏は米びつを背負い沢を越えたのだろ
い沢をわずかに隔てて建っている。阿仏坊夫婦の旧居がそこにあっ
現在、阿仏の孫・日満が開基とされる妙満寺が、熊野神社から浅
塚原とは﹁洛陽の蓮台野のように死人を捨てるところ﹂であった
様が描かれ、日蓮受難の配所と同調されている。
ようだ。佐渡では﹁塚﹂は古墳や墓を指す。今、熊野神社のある高
う。現在その沢は小さな田圃になっている。
﹁庭には雪つもりて人もかよはず堂にはあらき風より外はをとづ
みは、当時は松に覆われた林であったのではあるまいか。
るるものなし﹂茅屋だったが、罪人への突き刺す視線はいつも注が
最近でこそ﹁松くい虫﹂の被害により、松は枯れ佐渡からほとん
ど姿を消したが、私が子供の頃の佐渡の風景は、到るところ豊かな
れており、誰言うともない謹誇で、阿仏は在所を離れることを余儀
佐渡は﹁本間﹂苗字の多い土地である。佐渡﹁本間家﹂の祖.
た。
治させていた。鎌倉以降は守護代が派遣され、地頭が分割し統治し
﹁遙任﹂であり、直接任地に下向することなく名代を以って代理統
平野は豊穣な穀倉地帯である。都や、幕府に性まう国司や守護は
奈良時代、佐渡の真野には国分寺が置かれ、国府があった。国仲
る﹄つか◎
日蓮が配流された鎌倉時代、佐渡はどんな心象風景にあったのだ
ならむ﹂
﹁我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船と
の時期に為したものである。
圧倒されるほど壮大な気概に溢れた、日蓮潭身の﹃開目抄﹄はこ
阿仏もまた﹁法難﹂に遭った。
なくされ、金井・新保に移された。
松林が広がり、裏山には竹林が繁茂していたものである。
どこでも集落外れの海岸端や、林の尽きる辺りに塔婆が立ち墓地
が侘しく佇んであった。一帯は昼尚暗く、訪れる者とてない寂しい
場所であり、親は子供にそこに近寄ることを厳しく禁じた。
て、
、夜
夜を
を明
明冬かし日を暮らす。夜は雪・霞・雷
﹁敷皮しき、蓑
蓑を
を着て
い。
。昼
昼は
は日
日の
の光
光も
も↑
ささず、心細い住居である﹂
電の絶え間がない
ここで日一蓮は翌春まで過ごした。
十世紀の初めにできた﹁延喜式﹂によれば、流人には﹁一日一升
の米と一勺の塩があてがわれ、翌春からは耕すべき士地と籾があて
がわれ﹂自活が求められたようだ。
百姓仕事をしたことのない罪人には、それは﹁死ね﹂と同義だっ
た。
日蓮を助けたのは﹁人め︵目︶ををそ︵恐︶れて夜中に食をを
く︵送︶り或る時は国にせめ︵責︶をもはぱか︵憧︶らず身にも
33
である。その一族が佐渡に根を張り地頭となった。日蓮を受け入れ
本間能久が佐渡守護代となったのは、承久の変︵一二一三年︶の後
は、忠成王にはなかった。承久の変の影響が消えていなかったので
声が高かったが、幕府の許可なく即位はできなかった。幕府の意向
が順徳院の皇子・忠成王であった。宮中では圧別的に忠成王を推す
︵順徳院御製︶
絶望、悲哀を率直に詠われている。
は﹂
﹁おもひきや雲のはてまで流れきて真野の入江にくちはてんと
十六歳で﹁眠るが如く御気絶ゆ﹂︵平戸記︶て、落命された。
益﹂と仰せられ自ら食を絶ち、同年九月十二日、在島二十一年、四
隠れになっておられた。都に帰る望みを絶たれた順徳院は﹁存命無
順徳院を溺愛した父宮・後鳥羽上皇は三年前、恨みを残し既に御
政を行うことを警戒した幕府は断固拒否したのだった。
順徳院の皇子が即位されたとすれば、院は上皇として帰京し、院
ある。
た本間重連も、その一族である。
順徳院が佐渡・真野の恋ヶ浦の海岸に着いたのは承久三年夏のこ
一年間を草深い異郷で、わずかに随身した官位の低い武士や官女と
とである。二十五歳の春秋に富んだ御年であらせられた。爾来二十
共に詩歌を友とし、念仏を唱えるだけの幽閉生活を送った。
順徳院は佐渡で三人のお子を設けられた。
第一皇女慶子姫︵在島四年目に当る一二二五年御降誕︶
第二皇女忠子姫︵同十一年目の一二三二年御降誕︶
唯、順徳院には、父の庇護を失くし塩風に晒され生きて行かねば
皇子千歳宮︵同十六年目の一二三七年御降誕︶
それぞれ、別の地頭に預けられ御養育された。
父の手ほどきを受けたのだろうか、乙女の優しさの匂う歌を残
︵忠子姫御製︶
﹁春の日の長木の里は隣よりとなりをかけて梅が香ぞする﹂
された。
第二皇女忠子姫は父宮に遅れること七年、十八歳の花盛りに莞去
ならない皇子たちの苦難は見えていなかったのだろうか。
賢所にあった通い婚・母系社会の伝統に因ったのか、罪人への厳
しい監視の故だろうか、同じ屋根の下で暮らすことはなかったよう
順徳院にとって、隠岐に流された父宮・後鳥羽院からの便りや、
だ。
都から届く薫り高い文以外、心慰めるもののない寂蓼の中で、幼い
宮たちのご成育を見守ることは、遙けき鄙で見つけた、生きる張り
仁治三年︵一二四二年︶、十二歳の四条天皇が急な病で崩御され、
であり、心和ませる慰めであったろう。
皇統が絶えた。この時、皇位継承者の候補は二名であり、その一人
34
後にこの近在で金、銀が発見され﹁西三川鉱山﹂として股賑を極
になり﹁相川金山﹂の噴矢となった。
めることになる。当地を流れる狭い河川・西三川は砂金掬いで有名
し、茶毘に付された。
皇子千歳宮も、その五年後、十八歳の若さで莞去された。
﹁鳴呼、暴ナル哉北条氏。鳴呼、逆ナル哉北条氏。北条以前ニ北
﹃彦成王ノ墓ヲ訪フ記﹄を授業の作文として提出した。
後年、佐渡に産まれた北一輝は、佐渡中学二年︵十六歳︶の析、
順徳院は真野御陵に葬られ、忠子姫は現在の佐和田・二宮︵にく
う︶に、そして千歳宮は畑野・三宮︵さんぐう︶に葬られた。六十
二歳の長命で崩じた慶子姫は畑野・一宮︵いつくう︶に葬られてい
やいだ王朝絵巻とは無線であった。そして養育地の近くに墓所が設
シテ洋々ダル碧海ノ孤島二童︵かく︶シ、恨ヲ呑テ九京︵泉力︶ノ
条ナク、北条以後ニ北条ナシ。荷︵いやしくも︶一天万乗ノ皇帝ヲ
島に産まれ、島で育った宮たちは一度も都に上ることもなく、華
る。
けられ、一宮、二宮、三宮と、御降誕の順に、墓所には論︵おくり
︵松本健一著﹃若き北一輝﹄︶
日蓮が配流され島へ渡航して来たのは、皇子・千歳宮莞去十七年
らぬ関心が窺われる。
少年・北輝次の烈々たる尊王心と郷土に印された歴史への並々な
人タラシム﹂
な︶とも云える地名が付けられた。同地には墓所と共に郷社がその
後建てられてある。一宮神社、二宮神社、三宮神社がそれである。
皇室を尊崇した島人の素朴で純な思いが伝わってくるようだ。
順徳院が配流の前、都で設けた皇子・彦成王が、父を慕い佐渡ま
で尋ね渡って来たのはこの頃のことである。しかし、父・順徳院は
その頃、第一皇女・慶子姫や彦成王は御存命であらせられ、慶子
後のことである。
あった。幼くして別れた皇子には、父の姿は現身として朧気にも浮
居られたと推測される。
姫は日蓮の配所・塚原から程遠からぬ地頭・本間次郎兵衛の屋敷に
彦成王にとって父の悲運は、その後のわが身の不運を為す原因で
既に亡く、再会は叶わなかった。
歌であったろう。
誕生した。とすれば、ほぼ同時代に生きた日蓮が、順徳院の動静
日蓮はその翌年承久四年、釈尊寂滅一日後に当たる二月十六日に
あった。
一二年︶による、後鳥羽上皇、順徳天皇遠島事件に見る世の乱れに
日蓮が宗門に入り一宗を興すに至った切掛けは、承久の変︵一二
かんでこなかった。偲ぶ緑となったのは父が遺した移しい御製の短
皇子は父の菩提を四十余年の長きに亘って弔い、その生涯を佐渡
で終えた 。
彦成王は真野御陵から隔たった真野・西三川近在の地頭にでも預
けられていたのだろうか。それに程近い笹川・山中に静かに葬られ
﹁法名院塚﹂と呼ばれている。
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ている。︵青野季吉著﹃佐渡﹄によれば、出典は﹃佐渡大観﹄に拠る︶
洞窟にて一夜を明かす。この時、近在の老婆が一椀の粥を上人に恵
︵まうら︶に避難のため着岸。長い年月に侵食され隆起してできた
三月十二日、松ヶ崎より乗船するも、風浪に流され、赤泊・真浦
から届いた。
文永十一年︵一二七四年︶三月八日、待ちに待った赦免状が鎌倉
を、誰かにお聞きし、切ない魂塊をお慰めするために、祈りを捧げ院所縁・忠子姫の墓所こそは、日蓮も額づいたと私は思いたい。
たと考えても不自然ではない。
日蓮に帰依し、生活の支援を行った阿仏坊は、順徳院が佐渡に渡
真偽のほどは、今となっては確かむくくもないが、例えそれが偽
らせ給うた折、供奉された遠藤左衛尉為盛その人であると伝えられ
りの創作であったにしても、順徳院と日蓮を結びつけたい島人の祈
んだとの伝えが残されている。
乎とした雄々しさは、端俔すべからざるものがあった。
睦まで書き送り励ましてもいる。尋常なことではない。日蓮の断断
鎌倉に残る弟子たちの師を思うが故の妥協を求める声に対し、叱
たすら法華経の真理を尋ね、信心に生きた。
王が如き心は﹂怯むことは無かった。行学︵修行と学問︶専一、ひ
先の見通しとてない絶望的な日々の明け暮れにも、日蓮の﹁獅子
ぬ強さは、どこから生まれたのかと呆然とするばかりである。
簡に依って、日蓮在島の日々を偲ぶことは出来るが、日蓮の変わら
日蓮が書き残した﹃開目抄﹄や一谷での﹃観心本尊紗﹄移しい書
二年五ケ月に亘つた日蓮法難の日々はかくして終わった。
翌朝、寺泊を目指した船は、風に流され柏崎に着た。
りの故と理解はできる。
広大な国仲平野は満々と水が湛えられた時、それは湖かと見え
る。塚原から望めば、その対岸に位置する、石田郷一谷︵いちのさ
文永九年四月七日のことである。
わ︶の近藤清久の館近くに日蓮は移された。
﹁預かりたる名主等は公と云い、私と云い父母の敵よりも宿世の
敵よりも悪げにありしに﹂
辛い日は続いていた。
しかし、ここでも日蓮は、念仏教の信者にして日蓮に帰依はしな
私は、古に変わらぬ佐渡の風土の中に生きている。
時は春、小高い松林の頂に立ち、早苗の植わった水田が朝の陽光
かったものの﹁一谷入道﹂の情けを受け、露命を繋いだ。
に映える様を見晴かし、小佐渡の山並みから昇りゆく日輪に向か
世阿弥が歩いた古刹。
日蓮が﹁法華経﹂を朗謂した山野。
順徳院が嘆き悲しみ世を傍んだ、あの山や谷。
第二皇女忠子姫の墓所が、当時も今の位置に安置されていたとす
い、東方九拝﹁法華経﹂を読経するのが日課だった。
れば、日蓮の配所から歩いてわずか十分ほどの距離であった。順徳
36
存へて家歴調べる余寒かな山本修巳
俳句鑑賞藤井青咲
︵佐渡市住吉﹁月刊日本﹂平成十六年六月号︶
生きる勇気が気力が涌き上がって来る。
る法華経が聞こえてくるようだ。
梢を騒がせ吹き渡る早春の風に和し、懐かしい日蓮の音吐朗々た
日蓮は天に選ばれ、天に鍛えられ、そして自らに克った。
空乏にし、行いには其の為す稗を払乱す﹂
の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を飢えしめ、其の身を
孟子日く﹁天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ずまず其
ここに、日蓮の、法華経の真髄がある。
河原に斬首された父・日野資朝が一子・阿新丸の仇を討たんと竹に、貧しい者たちに限りない優しさを抱き続けた。
林に隠れた孝心。
佐渡の島べをうち見つるかも﹂
﹁たらちねの母が形見と朝夕に佐
と対岸より詠った良寛母堂の生地。
春の訪れを告げる鴬の声に驚いた吉田松陰が辿った道。
﹁人傑地霊﹂という言葉がある。
︵中野正剛著﹃西郷隆盛﹄︶
﹁英雄の出づる所地勢よしと云ひ、英傑は環境を象徴して現はる
る﹂
荒々しい桜島の噴煙と錦江湾の優美さが西郷を生み、波涛寄する
太平洋の彼方に維新の夜明けを観た土佐・桂浜の龍馬。貴人配流の
悲しい定めに涙した少年は、日蓮の荒々しさを受け継ぎ北一輝とな
偉大なる先人の歩みだけでなく、名は残さなくともこの大地に
った。
黙々と生きた先人たちの魂を偲ぶとき、私は故郷に印された歴史が
英雄を偉大たらしめたのは、名も無き庶民の為した無私の奉仕が
こよなくいとおしい。そして日本の素晴らしさを再認識する。
︵ながらえる︶は、この世に長く生きること。余生とも言う.
たが、何代にもわたった正しい家歴を調べることに、生甲斐を
武田の武将山本勘助にゆかりのある家柄。厳父もそうであっ
あったれぱこそである。
日蓮に米を運んだ阿仏夫妻、一谷入道、真浦の老婆。
節。
感じているようだ。春とは言え、火桶の欲しい寒さの残る季
日蓮は生涯、その真心に感謝し祈りを捧げた。日蓮の書簡の一大
特徴は、その優しさに満ち溢れていることである。他宗に村しては
︵せんだら.卑しい職業︶の家に生まれし日蓮は父母への感謝と共
戦闘的で排他的な言辞を為した日蓮ではあるが、貧窮下賎・栴陀羅
37
平成十五年
ゞ十
和子氏来訪。﹁遅桜の日に﹂と署名の上に書かれた。
て﹂の講演を依頼した新潟良寛会の辻美佐夫氏が来泊。辻氏
四月五日翌日の佐渡良寛会の講師に、良寛の﹁手毬につい
訪。家蔵の伊能忠敬書簡などの調査のため。
三月十九日千葉県佐原市の伊能忠敬記念館の米谷博氏来
指導する打ちあわせのため。
本一郎の実弟山本悌二郎の像などを案内。
一郎墓前祭を行われ、このたび夫君と来られた。真野宮の山
訪。園子さんは、先年ご両親や娘さんと来島され、祖父山本
八月二十一日アナウンサー小島一慶氏、夫人園子さんと来
驚かれ、本誌一○五号に一文を寄せられた。
祖父半蔵収集の明治初期の相川郵便局スタンプの高額切手に
五月二十日燕市在住の切手収集、研究家古澤欣二氏来訪。
五月七日伊能忠敬研究会渡部健三氏来訪。家蔵の忠敬の書
は旧両津市羽二生出身、私と高校同級生。
九月三日名古屋市の俳人栗田やすし氏一行の佐渡吟行句会
二月十七日宮城教育大学附属中学校角鹿哲弥氏来訪。毎
四月七日多摩美術大学教授西谷成憲氏来訪。創立者の両津
に書かれた。
湊出身北吟吉の資料収集のため。
を案内する。栗田氏のほか、下山幸重、山下善久、中山敏彦、
簡など調査のため。なお渡部氏は﹁新穂町生れ﹂と署名の横
四月九日秋の﹁俳文学会全国大会﹂が佐渡で開催される下
上杉和雄、磯野多喜男、加藤元通、栗田せつ子、上杉美保子、
一日五、六人の生徒を真野・畑野・新穂・金井などの史跡を
見に立教大学教授加藤定彦氏来訪。署名の横に﹁海底と天を
武長脩行氏。私も一緒にホテルに宿泊、句会に参加した。な
年、佐渡で生徒の自主学習をしていて、私も講師となって、
行き来や春の航﹂の俳句を書かれる。時化の海であった。
お栗田氏は、明治期の俳人河東碧梧桐の研究者で、二度も碧
かわひがしへきごとう
四月二十九日全佐渡お花見俳句大会の講師として俳人西村
38
とで来訪。しかし午後の日程が多く、署名録は夜書きたいと
陵へ・昼食は長浜荘、私の家に廃寺の移築された家というこ
お持ちになった。翌朝八幡館で手渡される。﹁日蓮は日蝕の
お見せし、真野宮文学散歩道の碧梧桐句碑を案内した。
九月二十八日尾崎紅葉の孫杉山浩一氏、夫人郁子さんを小
日梅原猛﹂と書かれ、次頁に﹁梅原ふさ/岩水久美/峠を
時、自養していよよ輝く大き日となる平成十六年三月十五
梧桐が来島されていることに驚かれた。碧梧桐の家蔵の軸を
木に出迎え、紅葉句碑などを案内する。
越えると真野湾と大佐渡の山脈がまぶしかった佐渡の光景
十月十一日能楽師川上忠志氏来訪。旧金井町泉出身。
十二月十一日翌年三月、佐渡が一島一市になるのを機に
三原嘉幸﹂と佼成出版社員が書いている。この日の最初は実
メラマンである。次頁に﹁佐渡の案内に感謝申し上げます
相寺で住職佐渡友恵隆氏は、大浬藥図をかけて、そこに普通
が極った三月十五日鍔山英次﹂とある。夫人と秘書とカ
ム﹁株式会社チョコレート﹂一行が来訪。鈴木敏朗、宇野博
﹁JR東日本﹂の新幹線の車内誌﹁トランベール﹂が三月号で
子、川上剛史、原映子、増田幸弘、加藤庸二の各氏来訪。私
はいないが猫がいるいることを説明された。そこから根本寺
佐渡の芸能﹁鬼太鼓・能楽・人形芝居﹂を特集する取材チー
は、芸能の多い背景や私の家の本陣の歴史、鬼太鼓などにつ
し終っても誰もいない。売店はまだ閉っているが、三月の暖
ンビニで買うことになって、私が梅原氏を根本寺境内を案内
かい日ざしのもと、木のベンチで二人で座っていると、梅原
に行った。予定は、松ヶ崎取材で離島ということでお昼をコ
史などを取材、蔵の中にいる私を撮影、大きく新聞に掲載さ
氏が、私の持っていた署名録を所望されたので渡すと、湧き
いて取材される。
れた。
十二月二十二日毎日新聞記者作田総輝氏来訪。私の家の歴
十二月二十四日白根市の凧博物館の田村和雄、遠藤勝美氏
﹁平成十六年/三月十六日/山本の大人と共に/実相寺に詣
出す想に追いつかないように、つぎつぎと筆ペンを走らせた。
ラを見て/法華経の光/あふれてヒゲとなる/いずこへとヒ
よ/二乘作仏われ/語らんとニアンと泣き﹂/﹁ヒゲマンダ
却のため来訪。
平成 十 六 年
三月十五日梅原猛氏一行来訪。あとで﹃日本の霊性l越
来訪。凧博物館に貸し出していた﹁佐渡の凧﹂二十種ほど返
後・佐渡を歩くl﹄︵佼正出版社︶にまとめられる日蓮遺跡
ゲのばさん/と僧悩む﹂/﹁中に弥陀下に伝教/われ上に、
る﹂/﹁大ねはん図を見て/猫も来て釈迦を/弔うめでたさ
の案内に小木港に出迎える。真浦から赤泊の山越えで真野御
39
上行菩薩、/となりて、前代末/間の大真理語らん﹂/﹁天
られる。﹁緑の日に﹂とある。
四月二十九日全佐渡お花見俳句大会講師今瀬剛一氏立ち寄
選び、﹁芸能﹂部門の担当になったので、実際は九月十五日の
七月二十八日今年、佐渡観光の振興のため﹁佐渡百選﹂を
と聞け/地も聴け﹂/﹁われの大音声/梅原猛﹂昭和の初め
から﹁軒過録﹂︵来訪者芳名録︶に、こんな長く書いた人はい
久知八幡宮と赤泊大椋神社の祭礼に全国から募集をするの
ない。しかも屋外で。コンビニで買った昼食は、山越えの途
けやき
中、静かな﹁紅葉山﹂でとった。午後松ヶ崎お樺、本行寺を
で、タレント松尾貴史氏が下見に来られ、同行したが、途中
立ち寄られた。署名録を宿所八幡館にお持ちになり﹁荒海を
大きさに驚かれた。
出版された﹃日本の霊性l越後・佐渡を歩く﹄で、梅原氏
取材して、両津港で別れる。
八月二日作家佐野眞一氏、司馬遼太郎﹁街道をゆく﹂佐渡
ありません﹂︵本誌百五号表紙︶と書かれた。私の家の蘇鉄の
い出した。車が新穂を通った時、石碑もあるので梅原氏の住
編取材のため、出版社の光成三生、染谷學の各氏と来訪。
流れ越したる北蘇鐵﹂と書き、下に蘇鉄の絵に﹁ワサビでは
む京都で活躍したこの地出身の土田麦倦・杏村のことを申し
って、父修之助もよく﹁佐渡の生き字引﹂と言われたのを思
あげると、すでにご存知で、親密感をもたれていたが、著書
九月五日畑野出身芥川賞候補になった小説も発表した中川
は﹁佐渡の生き字引といってよい山本修巳氏の案内﹂でとあ
にも書かれた。
芳郎氏来訪。﹁昨日、台風で荒れし円山澳北の墓を参る﹂とあ
に生かされて﹂の講話があった。辻氏は、小学校六年の教科書に
の辻美佐夫氏︵高校同級生旧両津市羽二生出身︶の﹁良寛さん
私が焼香する写真が載せられて恐縮した。この日新潟良寛会理事
デ︵︾0
四月七日私は留守であったが、私の家を見たいと、元静岡
ガス社長・元静岡市教育委員長秋山努氏、ほか七名来訪。
良寛・貞心尼法要山本修巳
寒日和良寛貞心供養の日
父が亡くなって気づいたことは、家蔵のものに良寛に関わるもの
あった良寛さんの姿が﹁良寛﹂へのきっかけであったと言われた。
なお、瑞光寺には良寛を愛した会津八一の位牌や墓があった。
が多いのに驚いている。何がきっかけであったのであろうか。
二月十一日、新潟良寛会主催で新潟市瑞光寺で、良寛一七八回
日であるが現在の暦では二月十日に、十一日の貞心尼と一日ちが
忌、貞心尼一三六回忌が行われた。良寛は旧暦では一月六日の忌
いの忌日。﹁にいがた良寛会﹂会報には、佐渡良寛会会長として
40
本誌一○六号から二三号にかけて、五回にわたって掲載した標
題の﹁深雪会佐渡支部のこと﹂で取り上げたメンバーのうち、支部
。.墜貝
此﹂丑
あるのを手がかりに、いろいろな人の手を煩わせて、佐和田地区に
そこで、協力を得た梅津在住の萩原光之氏が何人もの地縁血縁者
ついて探してもらったが、遂にわからずじまいに終ったのだった。
に当ってくれた結果、現在高橋家は東京に移住しているとのこと
のリーダーでありながら調査が及ばず経歴不明で心残りのままに一
応稿を閉じた高橋かをること高橋運平、およびほとんど手がかりの
で、子孫の居所をつきとめてくださった。
る。それぞれの写真の裏には湖畔の筆で注記があり、一葉には﹁新
十九歳であった。運平は当時佐渡の三羽烏といわれた秀才で、死
○しかし運平は明治四十一年三月十五日、肺炎を患い急死した。二
○長じて浜梅津の高橋信吉家のイッ︵十九歳︶と結婚した。
れなかった字鷺野の高橋家の養子に貰われた。
○高橋運平は字浜梅津の渡辺弥左衛門家に生まれたが、嗣子に恵ま
ころ、大要つぎのような回答を得た。
早速、東京中野の運平の遺子にあたる長女の方に手紙を出したと
上上シ坐上上上上
なかった中村秀水︵ゆきを・ゆきえ︶、また今まで知らなかった白井
規一︵きよし︶の三人について、ある程度の事情が判明したので、
ここに補足する次第である。
その端緒は渡辺湖畔の遺品を保管されている渡辺和一郎氏から、
潟みゆき会同人﹂﹁明治三十四年一月撮影﹂の日付と、写っている人
最近発見したという別掲二葉の写真の貸与を受けたことにはじま
物の本名・雅号・出身地の一覧表が付されている。別の一葉は﹁深
大活玄立居士。
亡したのは相川小学校長在任中で、単身赴任中であった。法名は
○運平とイッの間には子がなかったので、イッはその後芳太郎を婿
雪会佐渡支部会員﹂﹁明治三十七年撮影﹂とあって日付はないが、同
にはない支部会員の顔が見られる。この二葉のうち、前者の裏書面
で、長女も婿を迎えて高橋家を嗣いだ。
に迎えて再婚したが、二人の間には女子しか生まれなかったの
年一月三十日の支部発会式当日のものと思われ、新潟で撮った写真
の注記に﹁高橋運平・かをる・佐渡郡梅津村﹂の一条があった。実
○高橋家は長女の婿の仕事の都合で、昭和二十六年に東京中野区に
は、これまで明治三十七年三月発行の﹁わかな舟﹂二三号の﹁佐渡
支部発会式﹂の記事の後尾に付した名簿に﹁河原田・高橋かをる﹂と
41
)
明治三十七年撮影
深雪会佐渡支部会員
渡辺林平
湖畔
白雪郎
っている。
転居した・鶯野の高橋家は現在別人の所有にな
︵運平の遺子にあたる方は運平とは血の繋がり
で、単に﹁長女﹂と記した︶
がないので、尖端を出さないでほしいとのこと
連平の勤め先であったという相川小学校に間合
せたところ、明治四十年三月三十一日付で﹁相川
る氏の寓居﹂と、同誌二十三号の﹁河腺田・高棚
マ一、
いる由であった。また、﹁わかな舟﹂十九号の﹁佐
山田稲城尋常小学校訓導兼璋﹂という辞令の記録が残って
三十六郎
林儀作渡支部創立協議会﹂の記事﹁鍛冶町なる高橋かほ
北星郎
た当時は、梅津から国仲への通勤は不叫能だか
深山廉次かをる﹂の記事から、交通機関が馬車しかなかつ
会した結果、つぎのような記録があることを教え
・明治十三年七月二十六日出生︵高橘丈八養子︶
秀水・ゆきをられた。
中村判二
高楴運平ら、学校近くに下宿していたはずだと推測して、
かをる相川校の前任は河原田小学校ではなかろうかと照
蔵佃俊子
免許取得
野百合・同三十一年十二月十九日尋常小学校准教員
樋山美代子
六年三月卒業
乱れ髪・同三十二年四月新潟師範学校入学同三十
校訓導
・同三十六年三月三十一日河原旧高等小学
42
遺族からの回答と、両小学校に残る記録の内容はほぼ一致する
・同四十一年三月三十一日相川尋常高等小学校訓導兼︵校︶長
治四十一年旧六月十一日病没、栄法寺に葬る。心孝院判譽治導
野の青年子女に敬慕され、早逝を惜しまれた教育家である。明
自宅へ毎晩夜学に通った。木炭画、水彩画を善くし、新穂、畑
が、相川小学校への赴任が、相川小学校では明治四十年三月三十一
り、大工であった。
賢能居士。因みに覚平は湯治場の井戸竪樋に棟梁覚平の文字あ
上上坐シL
日、河原田小学校では四十一年三月三十一日と、一年のくいちがい
卜坐歩L
がある。遺族のいう死亡年月の四十一年三月十五日は過去帳による
白井規一
秀才、新潟師範卒、広島高等師範で、地理、歴史を修め、大垣
明治十四年九月十二日、清吉郎二男、白井文一の弟、幼時より
なお、勤め先の校名が﹁河原田高等小学校﹂と﹁相川尋常高等小
中学校教諭の時﹁小原鉄心伝﹂の著あり、その後朝鮮京城中学
と思われるので、数え年の風習の年齢とも一致する相川小学校の記
学校﹂と差違があるのは、学制の最初の頃は尋常小学校と高等小学
をはじめ、各地中学校長として勤続、元山師範学校長にて退
録が正しいことになろう。
校はそれぞれ修業年限四年の、別個の学校であったのが、明治四十
の写真に顔の見える佐渡出身の高橋運平︵かをる︶・中村判二︵秀
これらをつきあわせると、明治三十四年一月撮影の﹁みゆき会﹂
朝鮮陶器の蒐集家としても知られた。
職、東京に引揚、玉川大学、成城大学の史学の講義をもった。
もうひとつは上段左から二人目で高橋かをると隣り合っていて、佐
水︶・白井規一︵きよし︶の三人は、ともに新潟師範学校の同窓で、
新潟で撮ったみゆき会の集合写真︵四四頁︶からわかったことの
年から尋常科六年、高等科二年の同一校に統合されたからである。
下から二段目の右から三人目の白井規一︵きよし︶は中村と同村の
渡支部集会に名前の出ている中村秀水の本名が判二であることと、
﹁みゆき会﹂に加盟したのは在学中であったことがわかる。
三年生まれの高橋は一年先輩になる。高橋家に伝わる﹁佐渡の三羽
中村と白井の二人は明治十四年に新穂村潟上に生まれて同年、十
潟上生まれで佐渡出身のみゆき会員がもう一人新しく見つかったこ
中村判二
烏﹂は同時期に新潟師範学校に進んだ三人の秀才ということであっ
とである。この二人は﹃潟上郷土誌﹄につぎのように記されている。
中村政吉︵覚平︶の長男として生れ、新潟師範学校卒、畑野小
は一年後れて畑野高等小学校に赴任した。高橋のその後については
たが、高橋と中村は佐渡に帰り、高橋は河原田高等小学校に、中村
三人のうち、白井は更に広島高等師範に進んで、終生佐渡を離れ
たのだろう。
後身の如きものにて会員は三、四十名あり、当時大字から月額
前述したが、現在畑野小学校に残る中村の経歴は次のようになって
長に推され、青少年の学修に努めた。第二誠心会は、洗心会の
学校に奉職、明治三十年、白井規一と共に第二誠心会を創り会
︵後斎藤︶菊池諭次郎︵後白井︶池田ミサ︵後磯部︶等は中村の
五十銭の補助あり、会の経費は会員の会費に依ったが、菊池豊
43
明治三十四年一川搬影
玉薙
伊藤宗太
北魚沼郡
南茄原郡口祁村
目黒栄松
鉄城
古志郡石津村
佐藤美平
愛英
川瀬一郎
北洲原郡新発田町
越郎
14
新潟みゆき会同人
大江忠夫
南魚沼郡六日町
錦城
閨環
中蒲原郡茅城島村北浦原郡分田村
梼川真平たfを
中魚沼郡下垂
日此規一
佐渡那潟
きよし
田中稔久
四方田
西蒲原郡峯岡村
小泉熊男
英哀
北茄原郡新発川町
倉烏篤治郎
竹馬童
佐渡郡相川町九原賢明
山川穀城
花作
北蒲原郡新発川町に鮮村磯町
床、『
清水精二
耕月
芙蓉
丸田文平庭山龍助
二三男
西浦原郡峯岡村
斎藤文雄
怒猪
南湘原郡上条村
加藤文治
蓮片
岩船郡村上町
狙藤錘太郎
鮭川
西蒲原郡
大鳥音八
三千里
東頚裁郡下保倉村刈羽郡北條村
東頚城郡沖見村
令此長松
翠渓
→11ザォー、1J・、
一別蒲亜r
佐渡郡梅津村
かをる
佐渡郡鴻上村
中村判二
秀水
北禰原郡竹俣村
築井国守
くにもり
北蒲原郡新発田町
近藤亟孝
赤色烟
1 J
いる。
治三十一年﹁尋常小学校准教員免許取得﹂とあった。
であろうか。さきに挙げた高橋運平の履歴にも、師範入学前年の明
メン﹂という目的であったが、学校の設置や教員の給料は町村の負
明治五年の学制頒布は﹁邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシ
むら
・明治十四年七月十四日出生
・同三十七年三月二十七日畑野高等小学校訓導
しかし、明治十年代に入るとほとんどの村に学校ができ、同十九年
担であったため、当初は学校のない村も多く、就学率も低かった。
・同三十六年度新潟県立新潟師範学校卒業
・同四十一年四月十四日病気休職
そのため、教員の不足が生じ、同二十三年の改正小学校令によ
児童数が増加した。
には尋常科就学を義務とする勅令が発せられたこともあって、就学
・同四十一年七月九日死亡退職
三羽烏のうちの二羽であった高橋と中村は奇しくも同じ明治四十
一年三月と七月に相ついで天折したのであった。また、潟上の中村
ル者ヲ准教員トシ其他ノ者ヲ正教員トス﹂として、教員の不足を補
り、﹁小学校ノ教員中小学校ノ教科目ヲ補助教授シ又ハー時教授ス
家はその後断絶したというが、これも高橋家が現在梅津にはなくな
っていることと共通しているのは不思議な縁である。中村の死因は
子は一五歳以上で身体健全、品行方正の者とし、免許状の有効年限
スルコトヲ要﹂し、准教員の検定出願資格を男子は一七歳以上、女
うことにした。ただし、﹁小学校教員免許状ヲ得ルニハ検査二合格
中村は﹃潟上郷土誌﹄に﹁明治三十年、白井規一と共に第二誠心
た。
詳らでないが、結核ではないかと思われる。数え年二十八歳であっ
会を創り会長に推され、青少年の学修に努めた、云々﹂とあるが、
をその府県に限り七か年以内と規定した。
高橋が准教員免許を取得したのは一九歳、中村や白井が潟上の子
これは師範学校へ入学の三年も前の十七歳の時にあたる。明治五
年、新政府による学制が頒布され、日本中にあまねく近代的教育の
ば、検定合格は年齢制限に到達した一七歳の時ということになり、
女の学修を扶けた明治三十年が准教員免許を取得してからとすれ
高橋を含めた三人がいかに秀才であったかが窺われ、あらためて
普及が図られたが、このころはまだ教育水準は低く、初期には四年
学校が設けられていたし、簡易課程にさえも行けない子どももい
﹁佐渡の三羽烏﹂説が諾える。勿論、三人とも准教員に甘んずるこ
制の尋常小学校へ進めない子どもたちのために、三年制の簡易科小
た。また、四年制の義務教育であった尋常小学校は卒業しても、高
作品を発表し、佐渡支部結成にあたっては幹事に推された主要会員
会﹂での活動には大きな差がある。高橋が﹁わかな舟﹂に数多くの
このように、高橋運平と中村判二との共通点は多いが、﹁みゆき
となく、正教員を目指して師範学校に進んだのであろう。
会﹂は潟上集落の学習団体であったのであろう。まだ十代の中村や
る青年有志の組織が各地に誕生していた。﹁第二誠心会﹂や﹁洗心
等小学校へは進めない子どもたちが多く、それらの子女に学習させ
白井が教員をつとめたのはすでに准教員の資格を取得していたから
45
年四月︶につぎの五首が載るだけで、佐渡支部集会への出席も三十
◎會員小川紫欄、白井きよしの両君は今回廣島縣高等師範へ入學
であったのに対し、中村の作品は﹁わかな舟﹂四八号︵明治三十九
七年一月の発会の折の一回だけである。
上上上L
の為め来月を以て出發の豫定に有之、右の為め一時両君とも退會
上L坐上上LL出土L坐LL上上上上上あ上坐上上
せられ候へ共入學中忠實なる本誌の購諸たるべきことを約せられ
上上上上あL歩お上配L歩上ふしお上上上LLL上LLLLLL
候と同時に成業を待って更に大いに本會の為めに壷力すべしとの
別れ路中村ゆきを
の情特に深甚を覺え候へ共其學業の為めには固より餘義なき次第
事に有之、予輩は會員中殊に有力なりし両君に對し其退會を借む
きよ
美しう御堂をめぐる朝風に並木ゆすれて人ほの見えぬ
は、本誌二三号に、その時点で知り得た資料によって大略つぎの
深雪会佐渡支部発会に集まったその主要メンバーの消息について
に候へぱ且らく両君と手を分ち切に前途の成業を祈るべく候。
星姫が櫛の御袖のしづくなり淨き繪皿に受けよといひぬ
じゅもん
わかれ路は山茶花寒きうす時雨あ上いたましの御肩のやせや
すさまじの呪文の聲や雪のせて山おろしする大瀧津瀬に
得耐んや暫し手綱をゆるうして秋を別れに泣かしめたまへ
なお、はじめ秀水と号していた中村はのちに改号したらしく、佐
Lと上
よしき
林平︵湖畔︶・林儀作︵三十六郎︶の四人だけになり、三十九年には
要メンバーは高橋運平︵かをる︶・中村判二︵秀水・ゆきを︶・渡辺
このように整理してみると、明治三十七年以後も佐渡に残った主
・林儀作︵三十六郎︶韓国に赴き︵明・羽︶のち北海道に移った。
もに長谷川の郷里亀田へ去った。︵明.w︶
・樋山美代子︵乱れ髪︶佐渡毎日新聞記者長谷川涛外と結婚、と
芳賀直政に嫁いだ。︵明・訂以後︶
・蔵田俊子︵野百合︶新潟師範学校に進み、後相川裁判所判事の
・深山廉次︵北星郎︶北海道へ下った。︵明.w︶
に去った。︵明・説︶
いなき
ように記して、いったん稿を閉じた。
ふLL
渡支部発会集会の記事に﹁中村ゆきえ君は即ち昔の秀水君﹂とあ
・山田稲城︵白雪郎︶兄の穀城︵花作︶のもとに身を寄せて新潟
坐上上
る。しかし、その他に右のようにゆきを、また別にゆきゑとも記さ
三羽烏のもう一人、﹃潟上郷土誌﹄が述べるように、師範学校卒業
れて、いずれが正しいか決し難い。
後は新潟県を去った白井規一の﹁わかな舟﹂に載る消息は創刊号
︵明治三十五年四月︶の作品五首と、第一二号の山田花作主宰の﹁編
輯だより﹂︵同三十六年三月︶である。
狹霧集白井きよし
霜に吹く胡茄の音さゆ宵を一人ゑぞのとりでに冬の月みる
朗詠の詩の聲かすか風ゆるし五條わたりの春の夜の月
林も去った。その外に佐渡支部発会後に深雪会に入会記録の残る玉
橋に侍る一人の秋とおぽしめせ柳のこぼれ水に音なき
亡き人に受けし袷のやれを縫ふ秋さむいかな五百里の旅
あや
彩に笑むさだめの明日はありや今よらむ袖なきたそがれの旅
46
五人がいることになるが、活動の記録はない。
置とみ子・庵原みどり葉・郷沢北雪・岩野鈴子・谷シン︵退会︶の
しかも、前述のとおり、明治四十一年に高橋運平と中村判二の相
ユ|')|〃
つぐ死亡により、深雪会佐渡支部は瓦解したと考えられる。このこ
無
ろ、浪漫主義を標袴する明星派は、新しく勃興してきた自然主義に
圧されていて、明星系の深雪会も退潮を余儀なくされていた。﹁わ
高橋らの他界の後、佐渡支部同人中、﹁わかな舟﹂に一番多くの作
かな舟﹂も明治四十一年九月の第七十七号をもって終刊を迎えた。
品を発表していた渡辺林平︵湖畔︶が一人残されたことになるが、
すでに﹁明星﹂に参加していて、主宰の与謝野寛夫妻と親交のあっ
た湖畔は、いったん休刊して大正期に復刊した第二次﹁明星﹂にも
参加し、佐渡に住みつづけて生涯孤高の道を歩んだことは広く知ら
長らく胸につかえていた深雪会佐渡支部の全容をほぼ浮かび上が
〃)_i"
U
れている 。
一
らせるきっかけとなる写真を提供してくださった渡辺和一郎氏、中
ク
心の人物であった高橋運平︵かをる︶の遺族を探してくれた萩原光
謝意を表する次第である。︵了︶
之氏、﹃潟上郷土誌﹄を検索していただいた佐山香代子氏に深甚の
﹁山本修之助への弔文﹂︵平成五年︶
47
詩人・評論家三月に逝去された松永伍一氏の
交友が深かった。
松永伍一氏は、名著﹃日本の子守唄﹄や﹁世阿弥﹂の論考も
ある。平成二十年三月三日死去。とりわけ前主宰山本修之助と
分|〃9
﹁佐渡島﹂の呼称二1
佐渡島はかって、﹁佐渡国﹂﹁佐渡の島﹂、あるいは単に﹁佐渡﹂と
1本邦人が佐渡人を見る眼I
本邦人は、﹁佐渡が島﹂や﹁島に住む人﹂にどのような感情を持
ったのはなぜであろうか。本邦人の﹁島﹂や﹁島民﹂に対する認識
呼ばれていた。しかし、本邦人が、サドガシマと呼称するようにな
伊藤正一
ち、サドガシマ呼称はどのような意味を持っていたのであろうか。
本邦人が、佐渡の島や佐渡に住む人を、どのように見ていたかを
が、関わっていたのではなかろうか。
佐渡人は、島名に﹁が﹂の挟まることを、珍しくないと思ってい
る節がある。日本の島の名に、﹁が︵か、け、ケ︶﹂や﹁の︵ノ、之︶﹂
を挟む島は、どのくらいあるのであろうか。﹃日本の島ガイド
佐渡出身の萩野由之東京大学教授が、明治二七︵一八九四︶年刊
示すいくつかの例を挙げてみたい。︵︶内は著者注。
行﹃北漠雑誌﹄第八六、八七号﹁雑録﹂に寄稿した﹁佐渡人に対す
日本の有人島はおよそ四五○島。そのうち、﹁が﹂と﹁の﹂を挟む
の餌胃巨シロシ望︵日本離島センター一九九八年刊︶で調べてみた。
のは、有人島の七パーセント強の三○数島。﹁が﹂を挟むのは五島
﹁類聚三代格︵平安時代の法令集︶、元慶四︵八八二年八月七日、
る他邦人の批評﹂の一部を抜粋してみよう。
太政官符日、佐渡國解︵國解は、国司が太政官など上役に提出する
その五島は、人口七○○○○人、面積八五五平方伽の佐渡島、人
で、有人島の一パーセント強に過ぎない。
口四○○○○人弱、面積四五○平方伽の種子島︵鹿児島県︶、人口二
たるものは義心禮譲あり、下等のものは好曲識阿、或は密訴を企
人物邊鄙の氣質温和ならすといへとも、太平の化行はれて、重立ち
﹁石野廣通︵一七八一∼一七八七年の佐渡奉行︶の佐渡事略曰く、
へとも善としかたし﹂
て伸びやかなることなし、心愚痴にして極て頑なり、武勇は強とい
﹁足利の末の、人國記日、佐渡當國の風俗は越後に似て氣狭くし
公文書︶稻、此國本夷狄之地、人心強暴、動忘禮儀、常好殺傷﹂
ロ、面積一平方舳強の友ケ島︵和歌山県︶と、面積○・○三平方伽
○○人強、面積六平方伽の青ヶ島︵東京都︶、そして、人口ほぼゼ
の成ケ島︵兵庫県︶である。
面積の狭い無人島は、日本に四○○島弱。﹁が﹂を挟む島は○・八
パーセントの三島。沖小島︵オコガシマ︶、虻ケ島︵富山県︶、嫁ケ
日本では、﹁が﹂を挟む島名呼称は、とても稀である。
島︵島根県宍道湖内︶である。
48
て、または妬猜の心あり、色欲深く、物に心をとどめす、業に精し
﹁藤田東湖︵幕末の儒学者、徳川斉昭を補佐し天保の改革を推進︶
からす、士を掘り石を拾ひて、利を得んことをおもふ﹂
の見聞随筆日、佐渡は人の長け五尺に満たず皆短小にて、切り揃へ
たるやうなり、牛馬も微弱にして、重きを載せ遠きに行く事あたは
佐渡に限らず、離島、辺地、職種の人に対して当時は、知的にも
本邦人が、島人を蔑む理由は何であろうか。佐渡を例に考えて見
肉体的にも程度の低い人々であると蔑んでいたとする資料は多い。
日本海にある佐渡島は、航海中の異邦人や異文化の人が立ち寄り、
﹂︲︷︾ハノO
次のような意の言上があったという。﹁佐渡の島の北に位置する御
﹃日本書紀﹄によれば、欽明天皇の四︵五五四︶年に越の国から
住み着く機会が多くなる。
油滑、壷く江戸の雛形にて、江戸の外に佐渡にまさる國なしと自負
名部の碕に、みしはせびと︵粛愼人︶が渡来し、船にのってとどま
ず、試に是れを越後等へ移す時は強健に愛す、街衡の繁華、商責の
る時は、人物氣質の相違あるへけれとも。内地人是れを見れば、一
り、春夏魚をとって食べものにあてているようだ。佐渡の島人はみ
し、人物皆鼻先利口にして、少しも寛裕の氣象なし、其仲間にて見
様に見ゆる也、依て思ふに、海外異朝の人より。日本の人を見る時
しはせびとを鬼魅といって近づかないようにしている﹂。
田中圭一による﹃歴史紀行②佐渡﹄︵原書房︵一九八八︶︶の﹁﹁鬼﹂
おに
は。恐らくは我佐渡人を見るか如くならん。熊澤の説に万里の鴫に
は狐を生せすとは、誠に然ることなりと、川路︵一八四○年に佐渡
国には﹁いやひこ﹂という国つ神︵地方王権︶がいるが、佐渡には
古代の夢﹂に、﹁能登国には﹁いするぎひこ︵石動彦︶﹂が、越後の
として残されていくという記紀の原則からすれば、佐渡の神は﹁蝦
佐渡彦も金北彦も居ないのである。服属した王の名前だけが国つ神
﹁伊藤東涯︵江戸中期の儒学者︶の孟管録曰く、先人講學時、無
奉行となった川路聖謨︶話されたり、﹂
國不至、唯飛騨佐渡壹岐三州人不至、其士風可知也、︵諸国に文学が
粛愼人のような異文化を持ついわゆる鬼魅が棲む島として、都人に
おに
佐渡島には﹁蝦夷塚﹂があり、大和朝廷に服従しない蝦夷が住み
まいか。﹂とある。
夷﹂として大和朝廷に武力でうちほろばされてしまったのではある
勃興するのに、佐渡のほか三國は辺土で未開であるという意︶﹂
﹁江村北海︵安永・天明期の京都の代表的詩人︶の日本詩史日、従
陸奥傍北海而西、則有出羽、有越後、二州亦廣大、而其藝業未有取
徴、佐渡固亡論耳︵佐渡に文学が振るわない︶﹂
﹁橘窓自語︵有職故実家の橋本経亮の著書︶日、佐渡國の婦人は、
どと蔑称し、ときに﹁鬼﹂と呼ばれており﹂とあり、佐渡島は古く
﹁大和朝廷に服従しない人々を、﹁熊襲﹂﹁隼人﹂﹁士蜘蛛﹂﹁蝦夷﹂な
笠間良彦著﹃鬼ともののけの文化史﹄︵遊子館︵二○○五︶︶に、
浸透していたのであろう。
し、郷里の人々にこのような寄稿をしたのは、島外から佐渡人を見
萩野は、これら本邦人の論に対して一部反論をされている。しか
手習をせす、物よむ事を知らず、﹂
たとき、気付いて欲しい要因があったのであろう。
49
から﹁鬼が島﹂であった。
サドガシマは、鬼が島や流人の島との繋がりで、本邦人にとっ
おに
て、一種の差別、あるいは蔑称の意を含んでいたと思われる。
﹃和名抄﹄にも、﹁隠は、本質的には鉱山の坑穴のこと﹂とあり、
貞観︵平安の後、八五九∼八七六︶の大晦日に、宮中で悪鬼を払
い疫病を除く追傑儀式の祭文に﹁穣く悪き疫鬼の所々にかくりしぬ
ごぜ
室町時代の説話を基にした説経節に﹁さんしよう太夫﹂がある。
デ︵︾O
古くから金銀産出で知られた佐渡は、ここでも、﹁オニの島﹂であ
島列島の福江島︶、南は土左、北は佐渡よりをちの所をなむ、たちえ
ぶるをば、千里の外、四方の堺、東は陸奥、西は遠値嘉︵長崎県五
やみの鬼の住所と定め賜ひて、︵以下略︶﹂とある。この祭文は陰陽
説経節はやがて、浄瑠璃として人気を博し、瞥女も語るなど、日本
出るが、母が売られた先は﹁ゑぞヶ島﹂であり、﹁佐渡ヶ島﹂ではな
各地に知られていった。当初の説話には、越後の直居︵直江津︶は
師もよく用い、佐渡は鬼が島としての地位を定着させる。
吉田東伍の﹃増補大日本地名辞典第五巻︵平成元年増補九刷︶﹄
かった。しかし、語り手による脚色もあり、﹁ゑぞヶ島﹂は﹁佐渡ヶ
も、﹁諸国に追傑の俗習に、多く鬼を佐渡が島へ逐ふと説く、遠流罪
の配所と相混同して、佐渡をかく思惟せるごとし。﹂と記し、﹁常陸
島﹂となる。
らぺ唄︵一九九九こに、﹁粟島では佐渡が島︵さンどがすイま︶へ
鳥追いといえば、安藤潔編、粟島浦村教育委員会刊﹃越後粟島わ
追燃先であり、人買いが住み、売買された奴脾が働く島として、﹁佐
夷が島﹂﹁蛭が島﹂﹁喜界が島﹂﹁女護が島﹂等々である。鬼が住み、
﹁が﹂を挟む島名の比率が高い。たとえば、﹁鬼が島﹂を筆頭に、﹁蝦
御伽噺や物語で、異形の人、文化、習俗の島、蔑視する島には、
の国︵茨城県の大部分︶の鳥追い歌に、烏を佐渡が島に追っている﹂
追い、新潟県のほか、岩手、秋田、山形、宮城、福島、茨城、群馬
渡の国﹂や、﹁佐渡の島﹂呼称は上品過ぎる。﹁鬼が島﹂に繋がる﹁サ
とも記す。
などを主に、東北地方と関東北部で歌われる。害鳥を追ったり流す
ドガシ亘こそ聞き手の欲求を充たしたであろう。
敬意の対象に用い、﹁が﹂は心理的距離の小さい対象、転じて軽侮な
連体助詞の﹁の﹂と﹁が﹂について、奈良・平安時代の﹁の﹂は
先は、おおかたは佐渡が島だが、そのほか、遠島、蝦夷が島、鬼が
島︵隠岐の島か?︶へ流す﹂としているところがおもしろい。﹂とあ
学二九巻七号﹄の青木伶子の論文、一九六八年﹃国語学七五集﹄の
島、流し島なども歌われ、また当の佐渡が島の烏追い唄では﹁沖の
る。また五泉市では﹁烏の中でにくいものはすずめからす/
尻を切ってかしらきって/鬼が島へおってやろ/鬼が島にせ
東郷吉男の論文︶があるらしい。私はこの報文を直接読む機会が無
佐渡人は、自らの住む佐渡島の呼称についてどのように思ってい
どの対象に用いられたという二つの報文︵一九五二年﹃国語と国文
きがなか/佐渡が島へおってやろ﹂とか、出羽国では﹁鎌倉の鳥
かったので、今回はこの議論に踏み込めない。
/佐渡が島近くぱ/鬼が島へ追てやれ﹂と歌うという。
追は/頭切って塩付けて/塩俵へうちこんで/佐渡が島へ追てやれ
50
新潟県知事は佐渡に島司を置こうとし、佐渡人はそれに反対し、
じ島司論は畢寛好事心より出でし閑人論のみ︵後略︶・﹂
観光目的で、自らの住む島を﹁サドガシマ﹂と呼称されても、越
司論﹂を知っておられるであろうか。
佐渡に島を付けることに不快感を表している。現在の佐渡人は﹁島
るのであろうか。
しかし、本心は違う。
﹁島司﹂は、﹃島叱二○六﹄︵日本離島センター︵二○○六︶︶の、
後人から﹁佐渡狢﹂といわれるように、佐渡人はこれを許容する。
﹁サドガシマ﹂呼称に、佐渡人が本心を吐露した事例を示したい。
菅田正昭による﹁鬼が島と鬼界島の間で﹂が参考になる。必要部分
﹁明治二二年に市制や町村制という法律が施行された。しかし、
を要約引用してみよう。
朝日新聞の山田悦且両津通信局員が、佐渡に着任した頃を著述し
ンの島佐渡﹄︶﹂がある。その﹁カギをかけない島﹂の項に、次の
た﹁佐渡への片道切符︵一九八八年原書房刊﹃歴史紀行②謎とロマ
鹿児島県下の多くの離島である。これらの島には市町村制を施行せ
含む全域、日本海の隠岐國や対馬國の他、小笠原島や伊豆七島や、
例外的にこれを施行しない地域があった。それは、沖縄県の離島を
﹁着いてすぐ心掛けたのは、﹁佐渡﹂とは言わず﹁佐渡ヶ島﹂と呼
ような記述をしている。
ぼうとしたこと。佐渡は反対にすれば﹁ドサ﹂。つまり﹁ドサ回り﹂
ず、県知事が直接任命する島司によって施政する。
﹁島司云々といふこと近日俄に八釜しくなりしは吾債の頗る可笑
っていたことになる。出典は思い出せないが、当時、東京府在住の
できない。﹂と判断されたらしい。佐渡国もその民度の低い島に入
ベルが低く進歩もなく民度も低い。市町村制を行ってもそれに対応
要するに、﹁多くの島喚の島民は、明治国家の為政者から、文化レ
低フスヘキノ必要アルヲ以テ・・・云々・﹂
律スルコト能サルニ依り︵中略︶他ノ島喚二対シテハ梢其ノ程度ヲ
人文発達ノ程度各島喚ノ問自ラ径庭アリテ勢上同一制度ノ下二之ヲ
島填ノ町村二対シ新ダニ自治ノ制度ヲ施行スルノ必要アルモ其ノ
趣意書は、次のように記されている。
大臣に宛てた趣意書﹁秘甲第四二号﹂によって推測が可能である。
島司や島庁を置く理由は明らかではないが、内務大臣から桂総理
に通じると思ったからだ。翌日から島内を回った。ある役所で﹁佐
渡ヶ島は実に美しい﹂と言ったとたん、﹁ここは佐渡。島を付ける
もん
と鬼ヶ島に聞こえるから、やめて。﹂とピシャリ。叱られた。﹂
山田の文章は、自称、いずれ佐渡を去る﹁旅の者﹂が、佐渡に馴
次に、佐渡人が、自分の住む﹁佐渡﹂に島を付けることを好まな
染む前に佐渡で感じたことを書いている。
かったと思われる例を挙げる。
﹃北澳雑誌第百三号明治二八︵一八九五︶年八月十日発行﹄のト
しく存ずる所なりナルホド本縣知事の此の事に熱心なるは事實なれ
佐渡出身者が、島喚市町村制に佐渡が含まれないよう、政府関係者
ップ記事に、﹁島司及警備隊﹂がある。その一部を抜粋する。
に島臓を以てす佐渡國を改めて佐渡島と稻するの外何の得喪もあら
ども︵中略︶其れ然り郡長に代ふるに島司を以てし郡役所に代ふる
51
本邦人はこのように、佐渡をはじめ日本の離島に住む島民に差別
に根回しするなど、大変な努力を払われたらしい。
意識を持っていた。
﹃月刊歴史手帳通巻一四一号﹄︵一九八五︶の磯部欣三著﹁大工・
島と鉱山、賎民は深く結びつき、本邦人は、佐渡島民を、人買い
ろいろな意味で卑賎視されていた。﹂とある。
やそれに買われた人、流人、各地から流れ込んだ鉱山労働者、唐丸
このような佐渡を語るに、佐渡出身の青野季吉著﹃新風土記叢書
籠で運ばれた無宿人等々の子孫と思うことになる。
3佐渡﹄︵小山書店︵一九四二︶︶は外せない。この著書の出だし
穿子の生活史﹂には、﹁地方の一般の人たちは、坑内稼動者をならず
者・浮浪者、または前科者と考えていた節がある。日本の社会の低
は、次のように始まる。以下、長い引用を、お許し頂きたい。
はあ佐渡が島ですかとちつと表情を愛へるのが普通である。私は、
﹁お生國はどちらですか、と問われて、佐渡ですと答へると、は
所得階層に、鉱山稼ぎが多かったのも事実である︵中略︶。︵佐渡
わしかった︵中略︶。労働者のことを﹁ナンバタ﹂と呼んで、蔑視
は、その表情がほぐれてからの質問が面倒なので、新潟縣ですと逃
東京へ来てから、生國問答でこの経験をしないことはない。近年
の︶島の人たちが、鉱山の労働者をみる目は、近年まできわめてけ
し、乱暴者や朕なしの代名詞とした。﹂とある。私も、中学生時代
げておく場合が多い。これは絶海の孤島と云った観念の悪戯である
︵一九六○年頃︶に、荒い口調で反抗したり庇理屈をいうと、明治生
た、孤島的な感じを與へるのも、たしかに手傅ってゐる。じつさい
のは、言うまでもない。それに佐渡が島と云う表現がはるばるとし
今の人で、佐渡を絶海の孤島などと考えてゐる者はあるまいが、そ
まれの祖父から、﹁ナンバタみたいなことを言うな﹂と叱られた記
佐渡観光の先駆者の眼科医川辺時三は、自ら出版した佐渡観光の
こが古い観念といふものの、不意打なのである。︵中略︶そして佐
憶がある 。
け、イメージアップを図ろうと述べている。確かに﹁蓬莱島﹂は、
機関紙﹃磯打つ波﹄︵一九二六刊︶で、佐渡を﹁蓬莱の島﹂と位置付
の孤島を、ちらと思ひうかべ、ところもあろうにその島に生まれた
渡と云へぱ、ははあ佐渡が島ですかと、咄瑳に荒波にもまれる絶海
おに
仙人が住む宝の島である。しかし、宝の島は、鉱山と繋がる。坑道
る︵中略︶。佐渡には、周邊に欄があるかとか、野球をやると球が
てすり
といふ目の前の人間に、目ばたき一つした上で表情を改めるのであ
には鬼魅が住み、鉱山労働者が関わる。蓬莱島佐渡は、本邦人に、
鬼や賎民の島のイメージを植えつける側面もあった。
海へ飛びはしないかとか、ランニングで何時間で廻れるとか︵中
沖浦和光編﹃佐渡の風土と被差別民l歴史・芸能・信仰・金銀山
を辿るl﹄︵二○○七年現代書館︶の編者が著す﹁佐渡の風土と被差
を見て、これは微塵も冗談の氣配など交へないで、見たところ別に
略︶中に一人、佐渡だと云う私の答へを聞くと、しげしげと私の顔
かな
建つてゐないぢやないかと、燭語した。これには私は呆れ返って言
別民﹂の﹁佐渡の﹁非人﹂身分について﹂の項で、﹁儒教的な﹁農本
子と呼ばれた採鉱夫は、身分は平人︵平民︶であったとしても、い
﹄﹄
主義﹂思想が主流だった近世では、﹁山師﹂などの鉱山経営者や、金
52
のであらう︵後略︶・﹂
葉も出なかった。彼は、佐渡人をアイヌの一族くらゐに心得てゐた
一九七五年廣田貞吉著刊の﹃佐渡と佐渡人﹄に、﹁私の佐中時代な
佐渡人は未だに、前述した藤田東湖が評価した世界にいるのであ
ような位置にあるのだろうか。﹂とおっしゃる。
﹁佐渡から来ましたというと補助金が貰えない。悔しいけれど、サ
中央官庁へ陳情に行った旧佐渡郡の市町村の首長や職員から、
る﹄ワか。
ねば意気の揚がらぬ時代であった。悲壮感があったのであろう。﹂
話は何度かお聞きした。
ドガシマから参りましたというと、結果が良い。﹂という。こんな
どは、弁論大会になるとよく弁士が﹁絶海の孤島佐渡が島﹂と叫ば
と記述している。若き中学生は、敢えて﹁佐渡が島﹂を叫び、サド
称やむなしとする者もいる。しかし多くは、必要に応じてサドシ
今の佐渡人に、サドガシマ呼称の経緯を説明すると、サドシマ呼
と差別のなかにある。
﹁佐渡が島﹂や﹁佐渡人﹂は、今もなお本邦人にとっては、偏見
﹁流人の子孫ですか﹂と真面目に問われたと憤る女子大生もいる。
また、二○○六年の就職活動の面接で佐渡出身と答えたところ、
ガシマと呼称する寂しさを意気軒昂と向学心に転化させている。島
民は、自らが差別された者であると感じていたのである。
二○○七年に、佐渡島に住む人々の、サドガシマ呼称に対する感
想を何人かにお聞きした。
佐渡島外の新潟県人は、比較的サドガシマ呼称に違和感は持たな
渡人と接触する機会の少なかった方は、﹁佐渡﹂はともかく﹁佐渡が
マ、サドガシマ、サドノシマ、サドトウなどを、好きに使えば良い
い。しかし、新潟県外の方で、佐渡島を見る機会が無かったり、佐
島﹂に勤務せよといわれると、はるばると左遷された気になるらし
今後、サドガシマ呼称でなければならないとする者は、自らがサ
ではないかということに落着する。
る論議を展開すべきである。それは、可能な限り﹁佐渡﹂に﹁島﹂を
ドガシマ呼称しか知らないからという話とは別の、少し説得力のあ
せている 。
い。しかし、いずれ﹁旅の者﹂だから去るという気楽さを持ち合わ
一方、県外の方が佐渡人と結婚し、以後、佐渡に住むことになる
今回、文章中に﹁佐渡狢﹂ということばを用いた。インターネッ
い。
付けることさえ好まなかった佐渡人先達も、納得するものでありた
と、サドガシマの﹁ガ﹂がとても厭だという。まさに孤島へ流され
たようで、つくづく寂しくなるらしい。帰省して友達と話すとき
また、佐渡島の呼称についてお話をお聞きするなかで島外の方が
って﹁佐渡狢﹂ではない。
トで引くと﹁団三郎狢﹂などが出てくる。これは﹁佐渡の狢﹂であ
は、サドトウヘ嫁ぎましたと話し、幾分自らを癒すという。
から、文化レベルが高いと自慢される。しかし、どこがどの程度、
山本修之助著︵一九八八︶﹃佐渡の狢の話﹄を読まれたい。
漏らすのは、﹁お会いする佐渡の人はなぜか、佐渡は天領であった
どこと比較して高いと思っているのだろう。島外出身の私は、どの
53
﹁佐渡狢﹂とは、主に越後人が佐渡人を指すことばで、一言でい
の呼称を、サドガシマに統一すべきだとする論議と同様、これらも
﹁佐渡の狢﹂の意に取って代わるのであろうか。佐渡人自ら佐渡島
時の流れとすれば、悲しい限りである。︵佐渡市沢根町︶
54
えば﹁佐渡人は小利口だ﹂ということである。佐渡人への一種の蔑
視と警戒感を示す言葉である。いずれ﹁佐渡狢﹂の意は誰も知らず、
父をたどるの記︵六︶
l﹃兵われは﹄戦地詠その−1
かし結局一首もカットせず﹁全作網羅した﹂のであった。すると今
あたりから、日中戦争や大平洋戦争の本を手当り次第読んで来て、
て頂いた。私はこの時本当の意味を理解していなかった。昨年の夏
きっと島田修二氏がカットせずに全作網羅したことを正解だったと
は亡き歌人島田修二氏は電話でこのことに触れ、正解だったと言っ
う気持ちは前からあった。今やっとその機が熟して来たようである。
言った真意はここにあったのだと気付いたのである。全作無修正、
うなものにもこの言葉は載っていた。父の﹃兵われは﹄第一部戦地
早いもので﹃兵われは﹄を出してからはや六年が過ぎた。当時歌
カットしないから歴史の証言になるということである。もし仮りに
これが故意にカットされたり、作品に修正が施されたりしていたら
と決めて、印刷所の短歌新聞社々長石黒清介さんに申し上げた。電
話の向うの石黒さんは暫く考えておられたが、﹁落伍兵なあ、一寸
そんな時に、早坂隆著﹃兵隊万葉集﹄︵幻冬舎新書二○○七年七
たと思っている。
月刊︶に出会った。日中戦争から大平洋戦争までを跡付けて当時の
真実の証言にはなり得ないのである。私はこのことを非常によかっ
今当時を思い起して最も心を悩ましていたことは、戦地詠よりも
兵隊が詠んだ短歌一八○首を紹介した本だが、そこに藤川忠治の歌
だった。
とまではいかなくともややそのことを賛美したかに見える作品が多
寧ろ第二部戦中篇の大平洋戦争が始まってからの作品に、戦争躯歌
どうかなあ、兵われははどうだ﹂ということで割と簡単に決ったの
集名をどうしようか兄弟達とも相談して最終的に﹁落伍兵われは﹂
詠三百余首について、いずれこの連載で取り上げさせて頂こうとい
少とも入っていて、どうしようか、カットしようかとも考えた。し
滋
︿盧溝橋から七十年﹀この言葉に意識的に出会ったのは、昨年
川
の夏を過ぎて秋に入ってからである。何か朝日新聞の特集記事のよ
藤
っても、戦後に学んだ知識によって、自分の体験が曲げられて語っ
もこ首引用されている。早坂氏はまえがきで、戦争を語り継ぐと言
として意を強うされることで、且つ感謝に堪へないのでありま
突撃に超人的な勇猛果敢ぶりを発揮してゐられることは、国民
く、尊い同胞の犠牲者の前に瞑目合掌しないではゐられませ
す。ただ吾々は勝報に痛快味を感ずるといふやうな心持でな
私のゐる町内でも、ぽつJ1出征される方があります。国防
のとすることをこそ切にねがってゐるのであります。
ん。代償のない生命、その身命の尊い犠牲を、真に活かしたも
てしまう方も結構いる。そんな中でこれらの短歌は当時の人々の率
﹃兵われは﹄発刊前後のエピソードは幾つもあるが、思い出した
直な思いが込められている貴重な戦史資料だと述べておられる。
都度書くことにして、今一つだけ終りに紹介してみたいことがある。
婦人会に属してゐる愚妻から見送りに出てもらってゐますが、
皆さんから頂いた沢山のお祝いの言葉の中に、時々次の歌が引き
しげる
出されてくることがあった。
ったやうですが、けふ来たたよりには今度十六名ばかり召集さ
このごろ連日のことです。私の郷村では早く五名の応召者があ
するなり或ひは電報にても行を盛にしたいと思ひます。出征者
致しません。唯応召された方は早速通知下されたく、直接歓送
誠を尽されてゐるので、雑誌として特別の計画は唯今のところ
銃後のこと大切でありますが、各地に於て出征者に対して熱
備をしておかねばなりません。︵中略︶
れた由、私も軍籍にあるので、いつ召集されてもよいやうに準
お父さん支那には雪がふりますかと末つ児滋の葉書届きい
当時私は末っ児で、弟の浩は昭和十六年生れ。もっと戦争のスリ
滋はもうお乳はのまぬと幼な子の葉書をみれば発ちし日おもほゆ
ル満点の歌があるのにこんな所を見てもらっても私は少しも嬉しく
はなかった。しかし昨年、︿盧溝橋から七十年﹀、私も今年七十五歳
になる。これから書こうとすることは何と私が四、五歳頃の話なの
だと・・・⋮。
歌、皇軍慰問の歌等を作られることは大いに宜しいことであり
を見送る歌、ラジオ新聞等に依る皇軍の武威奮戦をうたへる
ますが、真に誠意のこもった全身的のものでなくぱ、見苦しい
ということで父が、昭和十二年七月七日の盧溝橋事件後、同年九
から見ていくことにする。標題は﹁編輯室より忠治﹂、終りに︵二八
ゐべきであります。儀礼的に慰問の歌を作ったり、視聴をあつ
と思ひます。作歌者の理想的状態は、作歌に全心をうちこんで
月十七日応召する直前の﹁歌と評論﹂昭和十二年九月号の編集後記
日夜記︶とあり八月二十八日夜書かれたものであることがわかる。
国民として各その与へられた部署に最善をつくし平静を失は
と云ふやうな態度は避けたいと思ひます。
めると云ふやうな、多少とも不純の心持から事変の歌をつくる
ママ
末尾二頁中の一頁余が使われていて、ここではその半分程を引用す
う︵︾O
︵前略︶北支事変はいよ﹄∼拡大し、ラジオや新聞は連日、皇
軍の涙ぐましい力戦苦闘を報じます。わが海陸両軍が、空襲に
55
ないことが、今日の場合も極めて必要であるやうに、作歌に於
り﹂が続く。
ここで︿忠治﹀の文が終ると、すぐ︿小金﹀として次の﹁編輯室便
発、一たん御帰郷の上十七日入隊、即日荻洲部隊気付添田部隊
藤川先生には今回突如応召、去る︵九月l同性︶十三日上野駅
ても平生の信念に従ふくきであります。︵後略︶
続く昭和十二年十月号の﹁編輯室便り忠治﹂では、︵九月二十三日夜
吉川隊所属となり、目下原地に待機中の由、未だ書信往復の便
記︶とあって、以下のようになっている。
急に応召され︵九月l筆者注︶十七日○○隊に入隊、二三日中
合はすことが出来ました。
なく気をもんで居たのでありますが、前掲の御消息だけは間に
何分にも日時をきられた御出発の為、御通知も差上げ兼ねて
ては実に想像外の大きな試練であります。唯自分の全力を傾け
て職責を尽したく念じてゐる次第です。出発にあたり一々御挨
の諸兄姉の、中には態々千葉あたりから馳せつけられた方など
ゐたのでありますが、当夜は恩師久松先生をはじめ、雑誌関係
に征途にのぼる筈。平素身体を動かすことの乏しい自分にとっ
申し上げます。
事誠に感謝にたへません。厚くお礼申し上げます。
もあり、あはた宜しい中にも何かと行を盛んにして頂けました
拶も申し上げられず、ここに誌上より社内外の知友に御知らせ
雑誌の方は、小生不在にても十分継続出来ることと確信しま
さて召集直前、直後の編集後記をやや長い引用によって見て来た。
このあとは帰還後昭和十四年新年号まで忠治の編集後記は一年二ヶ
る次第であります。
すが、同人社友諸兄姉の絶大なる御支持御協力を切にお願ひす
雑誌編輯は坂本君︵名は小金l同性︶を主任とし他の在京同
けとなる。
一方忠治の文章は、昭和十二年十一月号から巻頭の﹁戦地通信﹂
月間ない。替って留守を預かる藤川︿静枝﹀、坂本︿小金﹀のものだ
となって翌昭和十三年六月号まで八回が連載されることになる。今
人より、補佐助力して戴き、円滑に進めてもらふことに願って
ふやうに、精しく坂本君らに話しておきましたから、安心して
回はその中最初の昭和十二年十一月号の﹁戦地通信第一報﹂を紹
あります。選歌等については大体従来の方針に従ひやってもら
りで、多分月一回は小生宅に集って編輯事務をとることになり
原稿を送って戴きたいものです。原稿その他の送り先は従前通
ま上ですが、本明日中には上陸のこと上存じます。けさ甲板に
二十八日神戸より乗船、唯今上海近くにゐます。舟は停った
のせ、そのすぐ下に、
巻頭一頁目の右上に原隊出発前に撮ったという軍服姿の顔写真を
介する。
会計の方は愚妻に申しつけて、事務をやらせます。小生留守
ませ渥フ。
中、生活の方も大きな打撃をうけますので、会費の納入等は極
力励行下さるやう、同人費社費怠納の諸君も此際は格別の心添
へをたまはるやう、お願ひ申しあげます。
56
雑誌のこと何分よろしく願ひます。︵十月二日︶
治掲載作二十二首中の一首目。なお、この歌は﹁短歌研究﹂昭和十
る。また﹃支那事変歌集戦地篇﹄︵昭和十三年十二月改造社刊︶忠
様の一首、ここでは﹁戦地通信﹂の文章の最後に〃偶感一首〃とし
さてこのようにして昭和十二年十一月号は終り、十二月号にも同
が﹁土雲﹂になっていて、原作は土襄だったのかも知れない。
三年六月号に﹁出征譜﹂として載せられた二十六首中では﹁砂嚢﹂
出て軍艦より飛行機のとぶのをながめました。健康先づ平常、
という文 と 、
○○は上海に到着、上陸した附近一帯には日本兵の外は殆んど
人影も見えない有様で、家屋は見るかげもなく崩壊し、或はな
ま生しい弾痕の跡を残し激戦のあったことをしのばせます。
唯今○○工場にゐますが、十人位づつの炊事で裏の畠から南瓜
があり、続いて昭和十三年新年号の陣中一首として、
つつがなく生きてかへらばわが生命なきものとして道にささげむ
いのち
や茄子、豆などとって来てはおつゆにして食べてゐます。○○
背嚢のいりくみ品はなげすてて歩みなづめり落伍兵われは
て、
を立ってから風呂を浴びませんので、けふは体をふいたり、洗
せた三首である。
がある。何れも歌集﹃兵われは﹄第一頁目の﹁陣中一首﹂として載
︵中略︶
濯もせねばならないと思ってゐます。
以上陣中一首としての歌は、一首であってもそれぞれが重い一首
ひん
最近、当地にも友軍が続々と上陸したやうでありますから、近
く猛攻撃にうつることでせう。いまだ支那兵の姿はみません
く述べる余裕がない。
何故かなれば、これから最後の掲出歌として、一首ではなくまと
として存在するわけであるが、今はそれ等についてこれ以上くわし
まった数が発表された最初のものである﹁歌と評論﹂昭和十三年五
ことは心配いりません。︵十月六日︶
という文と、日付を違えて二つの文に分かれている。上海上陸が十
月号の﹁上海へ﹂十四首をのせて、ひとまず今回の終りとしたいか
が、昨日便衣隊が一名捕へられたことを聞きました。こちらの
の状況を日本に知らせたのである。歌一首を添えて。
らである。
月二日、四、五日間上海のゴム靴工場に宿営したらしいのでその間
陸戦隊の死守したりけむ散兵壕の砂嚢に小さき草萌え出でぬ
安徽省の重要都市畔埠に入りて一ヶ月半、功績調査事務のひ
上海へ
まびまに歌を案ずる心やうやう萌しはじめぬ。推敲不足の儘
の巻頭歌である。陸戦隊、散兵壕と二つも軍隊用語が出てくるが何
これが日本へ送られて来た最初の歌である。﹃兵われは﹄三百余首
れも広辞苑に出ているのでここでは述べない。﹃昭和萬葉集﹄巻四、
を左に、三月三十一日夜
むせっぽくいきるる宵は船底の厩舎に下りて寝る兵のあり
うまやおい
四十頁にこの歌は載せられていて、砂嚢が脚注として﹁敵弾の遮蔽
と射撃の銃座をかねて壕のふちに積んだ、土砂を入れた布袋﹂とあ
57
もと
︵衛兵司令となりて、二首︶
にご
あがき
ねむ
兵ら皆しづかになれり船底の馬の足掻をききつつ睡る
揚子江近づきたらしひろびろと濁れる海に飛ぶ鳥もなし
佐渡に人形芝居が伝えられると、すでに、宝生流能楽が広まって
かしら
祭の余興として演じられた。
58
衛兵所の上甲板に爽涼をよろこびあへり星ぞらの下
いでい
揚子江近くなりたればコレラ菌をおそれて甲板に出づるなといふ
き
仮眠すと外套は著つれしくしくに上甲板を吹く風さむし
おしなが
濁り波しぶきをあぐる甲板に出入る兵ら手を消毒す
︵この項つづく︶
︵﹃兵われは﹄︿上海へ﹀全十四首︶
盛の背景・北村宗演l
あろう。須田五郎左衛門が京都から持ち帰った人形は、現在の﹁広
︵一六六一∼一六七二であるのでこの第一節は明らかな間違いで
この二説のうち、野呂松勘兵衛が活躍していたのは寛文のころ
山本修巳
のぞ
ねながらに船底にあがく馬の見ゆくさきにほひもいまは馴れつつ
いくよ
コレラ菌押流されて海に入るとゆゆしきものを意識す今は
せんしつ
ケピンをりかさ
貨物積む場所が兵らの船室なり折重なりて幾夜ねにける
双眼鏡覗ける兵は爆破せる建物が見ゆと歓声をあぐ
よは
○歩﹄一﹄
床がへりうちがたく兵のこみあへる船室にのこる昼のいきれの
夜半すぎてやや涼気立つ船室にあたまならべて兵らねむれり
唖ヱヰ
上海や近づきけらし船房にうちなげかひて遺書はしたたむ
二■
佐渡で人形芝居が始まったのはいつかということは、文献にな
い。伝承は二説ある。
j
一、寛保のころ︵一七四一∼一七四三︶
く
江戸の野呂松勘兵衛が佐渡に住んで、野呂松人形を始めたという
この座の乳人頭は享保雛と思われるとしており、佐渡への伝来は、
栄座﹂︵新穂瓜生屋︶の人形といわれ、人形研究家斎藤清二郎氏は、
j
一、享保のころ︵一七一六∼一七三五︶
く
青木村八王子︵旧新穂村︶の須田五郎左衛門が、近くの新穂潟上、
首や衣装は手作りという簡便な娯楽性からか、多くの神社や堂の
いたこともあってか、語り手一人、遣い手三人、舞台も腰幕一枚、
そのころとされている。
本間能太夫が能太夫の故をもって、集会などでいつも上座に座る
夫の称号を得て、人形一組を購い帰り広めたのが始まりという説。
のを羨み、上方へ行き、落ちぶれた公卿から浄瑠璃を教わり、太
めのとがしら
説。
のろま
吟
江戸中期以降の祭礼の催し物の記録には、目黒町の明和六年︵一
て、のろま人形︵米馬人形︶ともいわれ、遣い手が人形のかげにか
わかる。その幕間狂言にのろま人形が登場して、説経人形を含め
ふうたひ物にあわせてつかふ﹂とあって、説経人形であったことが
くれ、姿を見せないようにして遣っていたこと、神社の祭の余興
よれま
には、いつも人形芝居が登場している。そしてこの人形一座は地元
七六九︶から幕末慶応元年︵一八六五︶まで、約百年間の祭の余興
にあったのではなく、旧金井町新保から頼んでいた。寛政五年︵一
で、語りに近松門左衛門の作品もあったと思われる。
人形の使い方は、衣裳の裾から左手を突っこんで胴串を握り、右
笹竹を立て、上手幕内に太夫の座がある。
中で二匹の虎が三日月に向かって吠えている図柄。この幕の両端に
に応じて使えるようになっている。模様は﹁藪越しの虎﹂、竹藪の
腰幕の高さは約一・二メートル、巾は七メートルあるが、会場の広さ
たい。
この古い説経人形の形をそのまま残している﹁広栄座﹂の例を見
七九三︶の記録から、人形遣いは一晩宿りで、昼、夕食のほか、翌
日の朝と昼の食事代が記してあるから、午後と夜の二回、そして翌
日の午前にも人形を遣ったと思われる。娯楽の少ない当時は、一応
興行は終わっても、人形好きの有志がお金を出しあって、祭の当日
これは、佐渡の国中地方のことであるが、南部の腰細には、天明
くになか
や翌日にも一幕とか二幕を多く人形を楽しんだこともあった。
元年︵一七八二の記録にも残っている。
手は右袖に差しこんで所作をする﹁突っ込み式﹂。幕が高いので差
金山の盛んであった時代の佐渡は、娯楽に背を向けて、一生懸命
働くことが求められたことは、石野広通佐渡奉行の天明二年︵一七
しあげてつかうようになる。
あい
昔の人形芝居の一興行は五幕で、説経を三幕つかうと、合狂言の
②のろま人形
が快く、子供たちの夢の実現という面で人気があったと思われる。
スーパーマンが合戦で活躍するのはわかりやすく、人形の斬りあい
が、﹁三庄太夫﹂などもよく演じられたといわれる。金平という
金平人形で﹁熊野合戦﹂、﹁浜松合戦﹂、﹁太田合戦﹂などが多かった
きんびら
語り本と演目は、広栄座には四十種ほどあり、合戦を中心にした
形の首を胴串につくりつけ、首が前後に動かない人形である。
かしら
人形の衣裳は、男は襟を合わせない丸襟。女人形は合わせ襟。人
八二︶の﹃佐渡事略﹄でもわかる。正月の萬才、春駒、夏の盆踊り
い期間に人形座が多く広まった背景があるように思われる。村の有
しか楽しみのなかった人々にとって、祭の人形は最高の娯楽で、短
産者には、能楽をたしなむ者もあった。
きんびら
㈹説経人形︵説経高幕人形・金平人形︶
江戸時代の説経人形を知る文献として、文政十三年︵一八三○︶
その図を見ると一人遣いで、人形遣いの下半身は幕にかくし、舞
の蔵田茂樹の﹃鄙の手振﹄がある。
台の上方に水引幕らしいものを掲げ、見物人は立って見ている。五
月十五日、相川の塩釜神社の祭に、境内に仮屋を建て、﹁説経とかい
59
幕、その上に一文字幕、奥の御殿には襖四枚、その上下に水引き幕
九十センチメートルに、舞台の奥に上段を飾った。腰幕の上には引き
現在も演じられている﹁のろま人形﹂︵広栄座︶は、のろまな木之
を張り、左右に割り幕を張り、襖は表は金襖か松の絵、裏は障子、
﹁のろま﹂が一幕、つづいて説経一幕となる。
助が中心で、下の長、仏師、お花が登場し、﹁生地蔵﹂、﹁そば畑﹂、
動しない人形を差すなどの工夫をした。
襖の前には、遣い手は三人なので、四個ほどの差し込みをつけ、活
しもちよう
﹁五輪仏﹂など、演目のあらすじはあるが、いずれも、遣い手の方言
松門左衛門の美しい義理人情の世界に引かれて、次第に高幕人形か
また、太夫も盲人ではなくなり、演目が増え、合戦物よりは、近
な動きができるようになった。
自由に動かし、右手を右袖に入れて遣う差し込み式に変り、立体的
左手を差し込んで胴串を握り、サグリという糸を指に巻いて首を
かしら
り、右手を右袖に入れてつかう突っ込み式を、着物の背をさいて、
人形のあやつり方も、高幕では裾から左手を差し込み胴串を握
のセリフにあわせて遣う人形で、アドリブが入る。最後は、間の抜
けた木之助が失敗して、男子のシンボルを出して小便をするところ
江戸時代に、佐渡にどのくらい説経人形・のろま人形の人形座が
で幕。
あったかは詳しくはわからないが、十座ほどは記録にある。
③文弥人形︵文弥御殿人形︶
江戸時代、神社や堂の祭に説経人形やのろま人形が遣われていた
現在もよく演じられる文弥人形の台本には、﹁信田妻﹂、﹁山椒太
ら御殿人形に、明治時代を通して、変わっていった。
夫﹂、﹁ひらがな盛衰記﹂、﹁孕常盤﹂、﹁出世景清﹂、﹁義経千本桜﹂、こ
文弥節は、佐渡に入った時期や人物についてはわからない。しか
ころ、家々では、盲人の座語りで文弥節が語られていた。
し、そのころ盲人は、京都の職屋敷に官金を納めて職検校の認可を
谷嗽軍記﹂などがある。
文弥節は、浄瑠璃の流派で、岡本文弥によって語り始められ、延
側文弥節について
ふたぱ
受け、盲官を取得した。そうした盲人によって、江戸時代中期以
その文弥節は説経節と共に人形芝居に登場することになる。明治
降、すでに文弥節は語られていたと思われている。
宝年中︵一六七○∼一六八○︶に大阪で流行し、その曲風は、哀腕
ときわのいち
三年、沢根の文弥語りの盲人伊藤常盤一と、小木の人形遣い大崎屋
県︶、薩摩︵鹿児島県︶などにも残っているが、佐渡は、説経人形が
柔軟な語り方で、泣き節と称えられていた。文弥節は、加賀︵石川
大崎屋松之助︵羽茂大崎に生まれる、本名川上松之助︶は、始め
の方が説経節より音楽的に耳に快いこと、盲人の方が一般的に音感
あったにもかかわらず、文弥節が喜ばれた。理由としては、文弥節
策がなくなり、盲人の暮らしに変化をもたらしたと思われる。
説経高幕人形の遣い手の名人であったが、上方見物に行き、高幕人
松之助と提携したのである。江戸時代の盲人に盲官を与える保護政
形を御殿形式に改良した。腰幕を高幕より三十センチメートル低く
60
がすぐれていること、近松門左衛門の作品が多かったこと、人形芝
中川閑楽太夫は、年間百回をこえる舞台を経験したと言っている。
その当時、人形芝居は最高の娯楽であったことは、旧相川町関の
演じられていたと思われる。
人の集まる大師講や神明講、えびす講などに演じることは容易であ
こうした熱心な、目のこえた観客を迎える中で、太夫も、遣い手も
居は堂や神社の祭に限られるが、盲人の語りであれば、そのころの
った。盲人の方も農閑期や講などに招かれた家は定宿となり、挨拶
他にも文弥語りはいたが、静賀が、伊藤常盤一の弟子であったこと
村村次︵芸名岡本文寿︶、藤井政治郎︵芸名岡本文司︶が上京した。
京を依頼され、文弥語りの深山静賀︵芸名岡本文弥・盲人︶、弟子松
明治の末年、文部省の意向で佐渡郡長あてに文弥節を語る者の上
技能の向上をはかっていった。
深かった。
は欠かさず、その家の香典帳には名前が残っているなどつながりは
なお、江戸時代に佐渡で﹁文弥﹂という呼称が使われていたこと
岡本文弥と佐渡の文弥節について、研究者の間では、古浄瑠璃の
のことによって、すでに滅びてしまったと思われていた文弥節が、
が、正しい系譜で、すぐれていると思われたからかもしれない。こ
は﹁阿波一の画像の賛﹂などで証明できる。
一種といえるが、必ずしも延宝のころの文弥の流れをくむものとは
音楽学校で演じられ、高野辰之博士などによって、広く全国に紹介
いいきれないというのが通説である。しかし、佐渡では古くから文
弥節とよんでいたので、文弥節以外のものを何故文弥節とよぶのか
されることになった。
また、佐渡の人形芝居がはじめて上京したのは昭和五年で﹁民俗
という疑問がある。近藤忠義氏︵法政大学教授︶は、﹁佐渡の文弥節
人形浄瑠璃﹂︵﹁棚壯佐渡﹂山本修之助編︶のなかで、岡本文弥の
ほか二名で、一層広く佐渡の文弥人形が知られることになった。
芸術の会﹂の招きで、文弥節の中川閑楽太夫、人形遣いは一度照造
た、人形を頼まれることも少なくなり、昭和十六年の太平洋戦争が
しかし、そのころから次第に徴集兵で入営する遣い手もあり、ま
いつたく
せている﹂と述べる学者もいる。
古浄瑠璃の性格の一面を、余り甚しく崩すことなく、佐渡に定着さ
⑤明治時代から現代まで
う日は、朝っからお祭のように嬉しかった。﹂︵柵壯佐渡山本修
んはっきりしていて、いちばん楽しい。お宮さんに人形があるとい
は、﹁人形の記憶が幼・少年時代のいろいろな記憶のなかで、いちば
は、雲間幸雄太夫の広栄座、文弥人形は、太夫が中川閑楽・北村宗
人形が﹁佐渡の人形芝居﹂として出演した。説経人形・のろま人形
民俗芸能の部に、新潟県代表として、説経人形・のろま人形・文弥
戦後、復興した人形芝居は、昭和二十八年文部省主催の芸術祭の
始まって、すっかり人形芝居は休止状態になった。
之助編︶とあり、子供には合戦が面白く、おどけた人形も登場して
演、遣い手は、一度照造・相馬秀蔵・浜田守太郎・東後壮治・葛原
明治時代の人形芝居について、佐渡出身の文芸評論家青野季吉
いるので、そのころは、説経・のろま・文弥の各人形が、並行して
61
五兵衛のベストメンバーである。
昭和二・三十年代は、戦前を懐しむ人も多く、神社・堂などで人
宗演は集落の役職にもつき、警防団長、漁業組合、森林組合の理
らず独得の味がある。
いう不運にあったが、新築し、辺地で農地の少ない集落の中で田圃
事、農業組合長、水道組長と活動した。大正十五年には家屋全焼と
も山林もふやし、四男一女を育てた。
形芝居が復活のきざしがあり、佐渡人形芝居保存会、佐渡人形芝居
形芝居は﹁重要無形民俗文化財﹂として国の認定を受けることにな
振興会が結成された。そして、昭和五十二年五月十七日、佐渡の人
ていたこと、節を正確に語ったこと、三味線の擬さばきがあざやか
ばち
佐渡の文弥界の至宝とされた宗演の特徴は、古い語りぶりを伝え
なことがあげられる。おそらく初代池田宗玄︵盲人でない最初の太
った。
その後、現在は、昭和二十八年の東京公演のころのメンバーは鬼
葉、ノリ、役節、カンドメまで何度やっても寸分違わないように安
弟子の梶原宗楽太夫は、﹁北村太夫さんのように序語り、愁嘆、言
もしれない。
夫︶を師匠に選び、遠方まで修業に行った宗演の心意気にあるのか
籍に入られたが、島内十二座の人たちが、人形芝居の灯を守ってい
う︵︾O
北村宗演
日、佐渡市矢柄、父平三、母トメの三男三吉として生まれる。北の
の文部省主催の芸術祭の出演をはじめ、数々の公演をし、多くのテ
定した語り方をした太夫は他にない﹂と言っている。昭和二十八年
佐渡を代表する文弥節の太夫北村宗演は、明治三十一年四月十五
大佐渡山系が海に落ちる小さな集落である。宗演は親に縁薄く、三
彰。昭和四十七年、東京国立劇場民俗芸能﹁古浄瑠璃系人形と特殊
この活躍に対して、昭和四十二年、新潟県文化財保護功労者の表
て発揮してもらえる太夫として活躍した。
レビ・ラジオをはじめ、来島の研究者にも、文弥節の神髄を安定し
歳で母を、十四歳で父に死別している。長兄が死去し、次兄は他家
を継いでいたので、三吉が北村家を継ぐ。
もともと宗演の生まれた矢柄には、説経高幕人形︵矢柄人形繁栄
な一人遣い﹂に出演。勲五等瑞宝章を授与された。昭和四十九年五
座︶があって、明治四十年ころに文弥人形になったと思われる。そ
うした人形好きの集落の中で、座元の三嶋などのすすめで、潟上の
だいさんじゅう
初代池田宗玄太夫に十九歳の冬弟子入りして二ヶ月ほど宿りこみで
碑が地元に建てられた。
月、七十七歳にて死去。翌五十年八月、君健男新潟県知事筆の顕彰
の文弥節の太夫等に綿々と今に引き継がれている。︵終︶
力は、北村宗演から弟子の梶原太夫に、さらに、現在活躍する佐渡
古浄瑠璃の単調な、そして余韻搦搦と深く心にしみる味わいの魅
習ったが、その後も農休みに修業に行き、二年半で﹁大三重﹂︵天
入川の岡本文楽太夫につき、学んだ。
にゅうがわ
皇などの登場する節︶を習って卒業したが、さらに近くの旧相川町
宗演の語りの中で、﹁序語り﹂︵語り出し︶、﹁ノリ﹂︵荒向きの節︶
は殊にすぐれ、三口返し︵愁嘆にかかる節︶も荒い声音にもかかわ
62
今年二月、﹁佐渡の文弥節北村宗演の世界﹂として、東京の㈱フ
た。なお、このことについて中村氏は﹁佐渡郷士文化﹂六十号に執
戦の場﹂である。私のこの文は、その解説に書いたものを転載し
︵佐和田町在住︶が、北村宗演の語りを録音したもので、山椒太夫l
オンテック社からCD︵二五二○円︶が発売された。故中村敏郎氏
によるものである。
筆されている。今度の企画は本誌会員有田精一氏︵佐和田町出身︶
予定ですので、もし原典︵上杉家史料等々︶で、これは読むべき
録l魂のさけび﹂︶を六月中に脱稿し、七月からスタートさせる
直江兼続につきましては、今、執筆中の原稿︵﹁BC級戦犯語
﹁鳴子曳き︵母子対面・鳥追ひ︶﹂、ひらがな盛衰記l﹁義仲館・巴奮
寺回心側北影雄幸
過日は貴重なお話をお聞かせいただき誠に有難うございました。
です。
しかしそれにつけても不思議なご縁ですね。
だという本がありましたら、書名等を御教示いただければ幸い
山本勘助がらみの本が賞をとったため、勘助ゆかりの大兄とお
しかもこの度は、早々と﹁佐渡郷士文化﹂、﹃佐渡山本半右衛門
御礼申し上げます。
家年代記﹄、﹃佐渡の旧家と文化性﹄をご送付いただき、重ねて
小包は昨夕拝受したのですが、まず付菱の部分を読んで一気に
ってゆく。
近づきが出来、さらにそれが上杉方の直江兼続の本へとつなが
本当に人生は不思議なものですが、不思議であればこそ、小生と
引きこまれ、ついで﹃佐渡郷士文化﹄の面白さに、ほとんど徹夜
しかしご先祖様の十蔵さんには驚かされました。現在、山本勘
ております。
致しましてはなおのこと、こういうご縁を大切にしたいと思っ
でし た 。
助に関しましては﹃山本道鬼入道百目録﹄を底本と致しまして、
て、現代人の精神の荒廃に歯止めをかけるのは武士道だという
小生は武士道精神の啓蒙・普及をライフ・ワークとしておりまし
勘助の武士道を五百枚程にまとめてあるのですが、折を見て﹁勘
助実弟十蔵の事蹟﹂といったような見出しで、書き足してみよう
堅い信念がありますので、大兄には今後とも、宜しくご指導、ご
かとも思っています。
﹃佐渡郷土文化﹄につきましては、敬服するばかりです。佐渡と
教示のほど、お願い申し上げる次第です。
受賞作﹁実録・風林火山﹃甲陽軍艦﹄の正しい読み方﹂︶
︵きたかげゆうこう作家日本文芸大賞・歴史文芸賞受賞
四月十一日山本修巳様
いう限定された地域で、よくこれだけの見出しが立てられ、しか
も百一六号も続いているということで、まったく感服致しまし
る証でありましょう。
た。大兄が佐渡を愛し、佐渡の歴史や文化、伝統に通暁されてい
63
真野俳句会
貝和尚貝にも酔ひて浬藥寺若林うた子
お浬藥を見し昂ぶりのまだ覚めず
内陣に垂るる天蓋春障子小田昭郎
茅屋を嚇す烏とも梅白し
参道を横切る猫や仔を唾へ
夜桜や八反ぼんぽり川に沿ふ滝口たづ
子供等と桜ウオーク空青し
飼い犬の頭をなでて進級児中野晴代
身一杯落花をあびて森を去る
朝市は小さき社交場春キャベツ若林うた子
鬼太鼓の春打ちならし島開
白魚漁の入札の触れ廻りけり
買物へ歩巾小さく雪の道中野晴代
新菖の不動明王春障子
木々芽ぶく廃校今日は投票所樫ヶ平友子
暮れなずむ空に浮びて紫木蓮島倉アシ子
大寺の 鋼 の 氷 柱 き ら ら な す 小 田 昭 郎
浬藥絵図声を聞かんと見入りけり
春挨拭けば能面唇ゆるび滝口たづ
隣人は留守がち桃の花咲けり
木の芽張る笑みをたたへし水子佛
もう出たか貰うてうれし蕗のたう
安らかに北を枕に寝釈迦かな島倉アシ子
春愁やわれも後期高齢者
花冷や舌戦すんで島しづか小田昭郎
浬藥図の中にわが入る隙もなし藤井青咲
島形に 相 川 の 灯 や 冴 返 る 若 林 う た 子
はらはらと花の舞ふがに春の雪
平成二十年二月十五日
五階より潮目の見えて春浅し
金子テル
混藥図に嘆きの雨となりにけり金子テル
真野体育館
三寒は家でじっくり四温まつ
八重椿風を相手に踊りけり
葱種を蒔いて大空見上げけり小沢みよし
冴返る音なき朝の救急車樫ヶ平友子
島育ちまたもへりゆく卒業期金子稔
ものの芽に目を覚ませよと雨の降る
初音聞く老人ホームに人訪へば樫ヶ平友子
うららかや一三−ス嬉しい朱鷺誕生
雛飾りしみじみ母を想ひけり金子テル
佐渡ヶ島三寒四温ときに雨
二もとの梅の遅速を愛しめり滝口恵倫
若者に関心うすき建国日
はがれ
病手套脱がせて握手春隣滝口たづ
すみずみまで手入れの届き浬桑寺
寒林や眠り続ける墓四基
くち
冬キャベツみな啄れたる不覚
床の間の大きろうそく彼岸寺
さみだるる雨音流れる浬藥かな右近ふみ子
なり
子鼠のちちよと啼けり夜半の雪
鶴折ればみな鋭角や今朝の冬滝口恵倫
長谷寺の春の縁日文弥かな右近ふみ子
木の葉髪結ひて菩提の寺参り
雨粒を乗せて樺の枯落葉井藤ミチ
きんぽうげ句会十一月例会
諸葛菜風にゆれてる畑道若林千絵子
剪定や樹液流るる音を聞く
平成二十年四月十八日
真野体育館
真野俳句会
かなしめば見ゆるかなしみ浬藥像滝口恵倫
おだやかに木々の芽ぶきや薄氷
真野俳句会
平成二十年三月十四日
1浬薬句会l
本堂の障子明りや不動尊中野晴代
64
湖の小さな桟橋初しぐれ
サンプルのやうな風紋沼小春神蔵ひさし
一里塚塚の形に銀杏散る中川民子
枯蟷螂三角顔の振り向ける
着ぶくれていよよ頑固となりにけり
雪掻いてみんなと道をつなぎけり水上千代
いくつもの想ひ出残し寒に逝く
二輪めを待つ黄梅の日々なりし本間いつ子
苔山を浮き立たせたる霜だたみ
黄梅の三輪となり友呼びぬ
幾つもの夢をたずさへ年迎ふ井藤ミチ
波尖る湖まむかひに路地の冬
二三羽のよそへ移りし鴨の陣神蔵ひさし
父の忌らしくニン月の雪降れり
千枚の蔓巻き込む雪煙中川民子
荒れ狂う波に一撃鯛起し
寒暁の鼻息おどる牛舎かな長部憲忠
きんぽうげ句会一月例会
雲切れて冬日一気にさし込めり若林玲子
日溜りの中へつぎつぎトンボくる
小包に添へし一葉や柿紅葉長部憲忠
平成の男の子手折らぬゐのこづち
彩なして沈黙の樹々今朝の冬本間いつ子
本堂に年始の読経ひびきをり
着ぷくれて歩む吾が影さまおかし
狛犬の呼吸の緩む神の留守水上千代
庭先の齊も白き粥にのる本間いつ子
玄関に大きな声の海苔売女若林玲子
木守柿民話の中に出て来たり
島人のだんだん無口暮の秋
ななかまど燃ゆる実房に力あり中川民子
轟音の岩間を抜ける寒の波
いもせ俳話会一月例会
漱石忌辞書を片手に引き過ごす
たらひ舟礁離れぬなまこ漁村田英明
源三郎自刃の岬波の華中川紀元
いくり
連山を浮かばせてゐる初霞長部憲忠
雪雫ぽたぽた日差し強まりし
先頭の入れ替りつつ鴨の列若林玲子
蜘蛛の囲も蜘蛛もそのまま雪囲い
きんぽうげ句会十二月例会
きのふけふふくらみてをり福寿草
二度三度弾みて庭に笹子鳴く中川民子
神蔵ひさし
又三郎来てをり小さな雪吊りに
廃校の窓百千や雪起し
水溜まる車道に映る時雨虹
保科ひろし
決断のする時の来て初句会
白菜の日を巻き込みて締りけり
重労働なくて勤労感謝の日
一村の準備万端風囲い長部憲忠
学童の傘で突き行く初氷
大根を干してこの峡捨てられず水上千代
八木澤清子
黄落の一夜のかさを掻き集む
日に幾度かかる冬虹波の音
軒積みの竹をはみだす霜の花神蔵ひさし
大鍋におでん煮て発つ遍路旅
神の留守かみなり様は大威張り渡辺一子
きんぽうげ句会二月例会
水餅の水替へふたり暮しかな
本間いつ子
寒梅の雫飛ばして行きにけり井藤ミチ
輝ける蓋の波や冬の月
半月の光彩冴へて湾凪ぎし
葉牡丹の渦きりきりと日の暮るる
濁りたる海面に冬日矢を放つ若林玲子
65
花枇杷やたらひの縦の納屋に古り
大漁のいなだの刺身飽きもせで山田みさを
巌を打つ怒涛に隠ぷ雪女
佐渡産のみかんも並び市始め中川紀元一
烏賊秋刀魚吊るす餅花海府蜑
スズムシソウ︵扉カット︶
﹃009■1006口’’60.1100■UI601UI00DII000Ⅱ10000000.1100.119000008.1190,1000・’196口Ⅱ0990■1800H16Dol0001型
一スズムシソウの名は、鈴虫草と書くと一
朱の鳥居はだれ雪積む一の宮保科ひろし一分かるように、唇弁の形と色あいがスズ一
しの
里いもを囲ふ丸背に陽の温み渡辺幸枝
泥靴の軒に並びて夕時雨
雪雲を割きたる初日涛に照る八木澤清子一ところで、スズムシソウと名の付く植一
息災を妻と分け合ふ七日粥一ムシの羽根に似ているからである。
柚子風呂にひと日使ひし身を沈む
いのこづち付いて純毛だと威張る
初春の一息正し鐘を撞く
冬の雲 ち ぎ れ て 尖 る 竹 の 先 金 子 節 子
病窓に機嫌いかがと冬日射す
小春日 に 猫 の 軒 と 歳 時 記 と 白 井 正 江
城趾に城の電飾冬満月
一たのは、三年前、全くの偶然であった。一
山田みさを一ちらをスズムシバナといい、ラン科のも一
一のをスズムシランと呼ぶ場合がある。一
一物は、キッネノマゴ科にもあるので、こ−
故里に山茶花咲けど父母は亡し
水澄める五十鈴の川面老二人影山タケ
思ひ出し想ひ出すごと除夜の鐘
批愛でし瓶に一輪かへり花白井正江一野にあるスズムシソウに最初に出合っ一
雪晴間朱をかがやかせ大鳥居
初詣清め柄杓の柄の白き渡辺一子一その時、まだ開花しておらず、ラン科一
秋風や 気 合 の 入 り し 野 球 場 渡 辺 威 人
初秋の札所の寺の燭ゆるる
島民に虫供養荒れ亥の子荒れ楠美苑緒
植えたキビ雨を求めてやせ細り
畑作も 首 を う な だ れ 雨 願 ふ 本 間 一 徳
すいつちよの声もさわさわ網戸かな
暖房もこまめに消して今を生き
初霜や畑の畝を際立たせ影山タケ一予定通り出掛けたところ、影も形も無一
この年の旗とつかふ柚子湯かな
突風に裸木勇む力瘤渡辺幸枝一たら、スズムシソゥだと思うから、自分一
とうどやの短冊の和紙色とりどり
たたみ雛すこしほつれて絵双六金子節子一後再び見に来ようと、デジカメで撮って一
一植物であるのは間違いないので、一週間一
波の穂の揺るるに任せゆりかもめ土田一郎
血糖値下げむと柚子湯南無阿弥陀
一義兄は、今度は翌日早速新潟発一便の船一
一て帰っていった。いつまでもいい花の島一
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大群の鴉が沖へしける前本間一徳一でありたいものですね。︵長嶋陽二︶一
青竹のはねる音するどんど焚き
集落の人の集ひしどんどの火土田一郎一で来て、いい状態の写真が撮れたといつ一
突風の加茂湖に乱れ鴨の陣
梢鳴る民宿の宴冬の雁渡辺威人一らず、昨年ようやく開花株を見つけた。一
一くなっていた。一昨年も探したが見つか一
一も写真を撮りに行きたいと言ってきた。一
一帰った。夜、早速、義兄にメールを送っ一
大根に 言 葉 掛 け て は 抜 く 女 羽 柴 雪 彦
物言はずして南天の御辞儀の実
いもせ俳話会二月例会
落城の伝説守る注連の馬村田英明
66
大しけの流れ藻畑へ二車三車
角巻を纏えば年月後もどり
ばんと頬叩いて起動寒の朝渡辺幸枝﹁’’11!!︲!!i;!︲!!︲!!,!,!!!.!i⋮︲
ノイバラ︵目次カット︶
御歳暮の煎餅に干支の陶ねずみ楠美苑緒
初鏡七十路雛おののいて影山タヶーノイバラ︵ノバラ︶と言えば、シュー一
一ベルトが作曲した﹃わらべはみたりの一
一かおるゆめみるはなくれないもゆる一
豊漁の牡蛎の水上げ加茂湖畔士田一郎一やさしのばら﹄が、口ずさまれる。一
冬晴や地蔵詣りの蝋たち
民宿の窓より展け大枯野渡辺威人一なかのぱらあしたののべにきよらに一
暖冬で余寒に凍るものも無し
春炬燵櫓が知っている秘密
負けぬやう種無し熟柿すすり合ふ
絶妙や裏返さるる時雨傘羽柴雪彦
いもせ俳話会三月例会
とうどやを見て門松も終りけり
配られし門松貼りて資源保護
一欧州での野ばらは、芳香のするあかい一
小雪ぞら青年を野送る老婆たち本間一徳一色の花であったことであろう。
一ノイバラは、山野や河岸、道端などに一
転がりし冬至南瓜に蹟きい
山眠る裾に小佐渡の灯を散らし村田英明
寒涛の穂が育てけり海苔の岩中川紀元
初詣雪彦の里神の里
真向に事故の原発初日の出楠美苑緒一自生する鰊いっぱいの落葉性の小低木で一
舞ひ絡む落葉武蔵はただ歩く羽柴雪彦一芳香のある白い花を数多くつける。蜜は一
一ある。ツルバラのように細く長く伸び、一
チョコに似た岩ありバレンタインデー・
寒明けの大空すこし伸びてをり保科ひろし
椎の実の弾丸こどもの頃が好き
一で品種改良にも大いに役立ち、また接ぎ一
木毎一この他、耐寒性もあり丈夫だということ一
一ないが花粉が多いので、花粉を食べるハー
ーナムグリやミツバチなどが多く集まる。一
一握り齢に足らぬ豆を打つ
春待の一つの岩に鵜と鴎渡辺一子
冬ざれや滝づたづたと落ちにけり
土木夫の顔火照らせて大焚火
陶器市師走の町を鮮やかに石川富子一ところで、手を引っ掻いたりするノイー
平成十九年十二月白水会一木の台木としても利用されている。
風垣の越ゆる海風千の風
葉の色の惨む五葉の氷柱かな山田みさを
新春や子年生れの父と猫と
炬燵寝のほほへの目覚め猫が鼻白井正江
寒木瓜の蕾日和見して太る八木澤清子
今日よりは平成とのみ日記出づ
土大根呉れると辛翁一輪車本間ミサ一帥州卿附耽州州湖乃孵岬刑一珈揃“一
冬至柚子三シ四シ浮かべ一人の湯
PII000I000Ⅱ0600Ⅱ00011︲0010001008100■0Ⅱ090100611001000II00I100II00I10IIO9II00II00L
猫の耳立つ十二月の忙はしさに須藤たえ一釧州剛鰄唾Ⅷ鯏乢餓岫舳稲棚剛帆駅釧一
ーバラの鰊は表皮の変形したものであると一
沖よりの風ひりひりと寒士用
猫の尾の地に着きさうで春の泥金子節子
﹁かもめ﹂と云ふバス停に降る日暮雪
67
卿起し島北端の魚まつり平岩静
葬終へて見上げる梢に寒鴉
姉と書く位牌の上に散る枯葉斎須ヒサエ
大婆と呼ばれて弾むお年玉斎須ヒサエ
飼犬の多くて春の坂の町
本棚に春陽射しけり一人かな斎藤しずえ
追僻寺赤鬼斧を振りかざす
須弥壇に米積まれある追傑寺
白妙の大佐渡揺する鴨の群
雲を突く鉄塔の東解けはじむ
春雷や暮れ初めし山浮き立たす
平岩静
山城やえ
遠く住む孫を偲びて雛飾る石川富子
平成二十年三月白水会
木毎
善き事も憂きことも皆雪の下
今年また軍歌となりぬ年忘れ
藁苞を突き出る蕾冬薔薇
油絵の荒波白き初暦平岩静
くっきりと靴跡伸びる初詣山城やえ
鉱山町の海は大荒れ石蕗の花
能ぱな し 酒 と 聞 き ゐ る 雪 館 中 川 紀 元
雪催ひ塔の鴉にの向き変ふる山城やえ
大鍋の火のとろとろと去年今年
木毎
尾根に陽の当りながらも片時雨
木毎
啓蟄や島の巨木の写真展
嶬穴を出て石拳をはじめをり池野よしえ
彼岸供華少し早目に買ひ置ける
激痛に姉く我見て炬燵猫須藤たえ
亡き母の手編のショール暖かし
春場所を力んで夫とテレビ見る石川富子
平成二十年二月白水会
石川富子
夜をかけて止まぬ吹雪に消えぬ漁火
寄す波を押し戻し降る雪時雨岩城昭男
お行儀の手手から零る雛あられ
春鮪を庭に置きゆく漁師かな斎藤しずえ
バス停に小さき鏡風光る斎藤しずえ
手手つなぎ園児等が行く雛町屋中川紀元
本間ミサ
牡蛎鍋やひとりの夕餉言貧し
春雪を背に隣家の猫来る
凍空に錆し半鐘忘れられ岩城昭男
牡蛎舟のさざ波立てて小桟橋須藤たえ
袖口に吹かい寒風寺参り
霧氷散るテレビの中の北海道
池野よしえ
平成二十年一月白水会
寒明けや朱鷺色の空広広と
ダム落つる川輝きて初茜
初雀一弦の琴段々と
里山にチェンソーひびく二日はや
喰虫をのがれ蕊立つ松低し
米蔵も着物の蔵も鏡餅
寒の入り急かず急がず身重猫本間ミサ
海苔売り女信号待ちにつと寄れり
茅木揺らす女人太鼓に鬼挑む
就職の決まりし孫や春うらら
主なき猫の溜り場春日さす斎須ヒサエ
本間ミサ
寒日射しどの家も夜着を干しゐたり
立春から何度目数え今朝も雪
隣家の崩す音する春吹雪中川紀元
恋猫の啼き声激し過疎の村
浬藥図や念仏婆の声揃ふ斎須ヒサエ
とよ
初羅の手締の響む芹の上
海彦の 散 ら す 雄 叫 び 波 の 華 中 川 紀 元
鵜が翔ちて乱れし海面冬の凪
随港に紡やう漁船の松飾り岩城昭男
68
お彼岸のにはか花屋の賑はへる平岩静︹秀逸︺高齢者と呼ぱるる齢実南天佐々木キヨ子
あかし
生きている証の賀状心込め徳泉とき嶋田寿美子
筆書きの読点しかと春便りとんと打つ卒寿の婆の晦日蕎麦羽根洋子奥佐渡に転勤の子や雪しまく羽根洋子
畦焼きをくっきり濡らす雨の脚山城やえ寒雷の一喝妻と目を合はす本間凌山裸木の三峯山や朱鳥居本間凌山
腰反らすことのしばしば畑打女小説本左右に並べ寝正月加藤文子とうらややまづ尻あぶりしてをりぬ
畑野俳短クラブ一月例会鏡餅納屋に機械に神棚に野口美代子餅搗を待ちゐる子等や杵の音谷川郁子
山本修巳選真言を繰し七日の堂祭伊藤ひで子介護得て迎ふ新年杖太し加藤文子
本間凌山着ぶくれて娘に手をとられ老いの旅畑野俳短クラブ二月例会
やま
銀山眠るむかし千軒今七軒金子秋三
冬天に歴史を語る狸掘り計良非児
廃坑に力ある色冬桜三井松五郎
老鍛冶の深々と押す初輔加藤比呂
風紋は風の落書き冬の波加藤ミョシ小雪降る金で栄えし町眠る渡辺岩夫
葱抱いて自動扉をおおまたに梶田チズ初夢は朱鷺の羽榑く佐渡の空本間日吉
昼霞居眠り誘う山路かな宇佐見万作冬座敷父が自慢の如来像本間博
目ん玉の底に残りしすけと汁稲葉小夜子辻地蔵雪をいだいて風に立つ野田みのる
車椅子押して余寒に母卒寿安藤卓也春めくや欄干橋に湖の風名畑宗八
漆黒の佐渡海峡の吹雪かな伊藤正一年玉を解せぬ孫に手渡せり野崎東
凍星や曲低くしてティータイム青木田鶴子初恋は神のいたずら冬桜佐々木半七
沢根すがも俳句会一句抄
一■■●■甲︽■■︽■■▲■・■■■一■、﹄■■一■■﹄■■一■、■■﹄■g■■■g■■﹄■9−■■一■■︽■■一■■一■■︽■g・■■■■■■■■﹄■■一■■﹄■■一■■一■8−■■二■■二■5−■■・■■■■一■■凸■p一■■︽■甲︽■甲■甲竺■■
鯛光る釣道具屋のクリスマス伊藤ひで子おだやかに何時ものやうに初句会渡辺敏雄︹特選︺
新春や京より届く和三盆野口美代子本間公山本修巳選
文覚の縁りの梵字滝洞るる
願ひ込め早朝に妙るごまめかな佐々木キョ子晩酌の一合五勺熱燗で今井敏夫
︹特選︺︹佳作︺心待ちしてゐる賀状数の減り徳泉とき
一一
69
やはらかき手作り豆腐春の雪羽根洋子
大旦落款朱き水墨画加藤文子
淡雪の墨絵めくなり峡の里本間凌山
︹秀逸︺
大漁旗並ぶ艀の獅荷かな本間凌山
着ぶくれて雪かく姿猫に似て徳泉とき
狭庭隅白き帽子の藪柑子野口美代子
加藤文子
働きて働きて老ゆ女正月
独り居の一合ちょっと生姜酒渡辺敏雄
嫁よりの少し派手目の冬帽子佐々木キヨ子
深く吸ふ空の青さや冬晴間佐々木キヨ子
冬虹や明日を語る農夫をり
嶋田寿美子
本間公
畑野俳短クラブ三月例会
山本修巳選
︹特選︺
春めきて黒猫走る鈴の音
赤鯉の一匹目覚め春うらら
野口美代子
笹鳴を背戸の薮より拾ひけり羽根洋子
春一番減反増えし回覧板嶋田寿美子
︹秀逸︺
日脚伸ぶ手足の軽き庭手入渡辺敏雄
電話口雛の歌のたどたどし佐々木キヨ子
着ぷくれて鰈を狙ふ太公望今井敏夫
お茶粥をたらふく食べし春の風邪嶋田寿美子
庭に来し小鳥の羽根に春の色本間凌山
ほおじるの枝渡る声手を止める吉原美枝子
畑野俳短クラブ四月例会
山本修巳選
︹特選︺
桜散り子亀むくむくいでにけり今井敏夫
銀鯉の尾鰭で散らす花筏加藤文子
ひとひらを添へて送りし庭桜谷川郁子
と
外に出でよ大きく黄ろきおぼろ月伊藤ひで子
水仙のあふるるばかり辻佛佐々木キヨ子
︹佳作︺
杖忘るるほどに癒ゆるや春ショール
雪女吹き飛ばされてしまひけり加藤文子
加藤文子
艶やかに枝交し合ふ八重桜羽根洋子
満開の桜古木や母癒えよ渡辺敏雄
水仙や朱きジャージの辻地蔵加藤文子
︹秀逸︺
雑炊の湯気を通して夫の顔本間公
堂守りの畳拭きをり寒椿本間公
雨戸繰る木々それぞれに雪の花徳泉とき
梅咲くやいそいそ小雀来てゐたり羽根洋子
柿谷池のかたかご咲ける水の音本間凌山
目の前の瞬時明かるく白木蓮徳泉とき
真つ新 の 雪 に 一 筋 猫 の 跡 吉 原 美 枝 子
幾重にも光の弾む春の海渡辺敏雄
︹佳作︺
杉の秀へ寒満月の射しにけり羽根洋子 春耕の土の香りや農始め谷川郁子
早春の空を占めたる大檸本間凌山
着ぶくれを笑はれながら厨かな野口美代子
雪の積む古刹の塔の暮れしかな谷川郁子
本間公
惚の芽や手折りてはづむ里の道本間公
︹佳作︺
落椿寄せてたゆたふ小倉川佐々木キヨ子
薄氷杖でつつきて朝の道伊藤ひで子
ハウス守り苗焼くまいぞ温度見る嶋田寿美子
何事も始める勇気こぶし咲く嶋田寿美子
せな
臘梅や今日も欠航昼くらし
蕗の墓石垣積まれ家建ちぬ伊藤ひで子
寒便り古希の祝と菓子届く
谷川郁子
ひさびさの冬晴背に社まで渡辺敏雄
鬼は外 闇 に 声 投 ぐ 升 の 豆 伊 藤 ひ で 子
啓蟄の虫に届くや百万遍佐々木キョ子
佐々木キヨ子
身をちぢめ寒九の真言繰りにけり
70
水たまりうめて鬼待つ春祭伊藤ひで子暮早し老人とぽと坂登る粕谷誠司相寄りし女神男神の山紅葉
税率の元にもどるも春愁渡辺敏雄青空に紅葉彩る谷景色選者吟佐山香代子
常よりも鴉さはがし啄木忌伊藤ひで子晩秋や女生徒散歩の笑ひ声菊枯れて焚かれて尚も漂ふ香
ゆすら梅小さき花の吹雪かな今井敏夫豊作の朱鷺住む島に帰り来て山村マサ
選挙日や花満開の投票所野口美代子刈り終へし田圃にどっと群雀
落椿風に田の面を流れゆく
吉原美枝子母の忌や灯台の灯も秋深む安西恵美子白々と八つ手の花の雪の中
ときわ荘俳句クラブ一月句会
春祭済めば田仕事競ひをり
野口美代子雨上り庭は落葉の絨毯に佐藤スギ
幸せは鴬の声目覚ましに徳泉とき楽しみの葡萄狩りにも行けずして北下し肌にしみるや路地の裏和泉政次
校庭のブロンズ像や花吹雪佐々木キョ子山門の奥の地蔵に曼珠沙華波の華操み合ひながら空に舞ふ山田典夫
柿食べてしぶみの残る里の秋鈴木玲子初釜や和楽静かに奏でをり
斎藤スヱ子
.ときわ荘俳句.クラブ十一月句会風立ちて落葉の舞ふや荘の庭元旦の廊下に琴の音の流る粕谷誠司
寒満月一期一会のごと仰ぐ
葉牡丹の若葉啄む誰ならん名畑亘雨だれの静かなりけり冬日和
誘はれて辛寿過ぎての葡萄狩山田典夫菊の花見ても食べてもほのぼのと
紅葉山越へし世阿弥や長谷寺和泉政次紅葉の茶会に右往左往して中川律子路地裏の垣の山茶花咲きそめし佐藤スギ
歌い手に贈る花束菊の花錠剤をのんで眺める山紅葉志苫ユキふるさとの窓に展けし初山河
八方に陣立てよるし野焼きかな白石英夫
さながらに夜盗面して山火追ふ
−9II0901l0000000006IO00000II08090018090090909000901909llllI1IIII111lIII11l11111III0111011001000011111111I1IIIII1I111IIIIIIIII0
柿の里俳句会
ずわいがに雪に拠れば動きけり伊藤正一義民村当時のままや戻り寒中原雅司
雪しまき山も岬もなかりけり金子末雄寒葵妻と二人の月日かな山本修巳
竹林の竹が竹打つ北風のなか妻留守の一人支度や春吹雪
手造りの一丁豆腐春立ちぬ雪の降る棟上式となりにけり
着ぶくれて汽船待つ間の長藻そば酒井充春風や巨大レーダー空を占め藤井青咲
水演や古稀には古稀の知恵ありぬ春の朱鶯レーダー基地を真向ひに
71
恒例の箱根マラソン炬燵中
重ね着ていよいよ齢九十歳中川吉次
海上の吹雪く雪間に陽のさして
草に黒き帯なす服部志保子
喪の家を訪ふ道の土手は末枯れたるあわだち
本堂の葺替へ終へて菩提寺の青磁の瓦秋陽に
光る中川アイ
年賀状姉の手書きの雪椿山村マサ
暖房も介護もぬくし荘の中
くらし
紅葉の著き山里おちこちに煙昇れり落ち葉焚
選者吟佐山香代子
年明けに笑顔で聞きし友の愚痴
手をかざす巫女に青磁の陶火鉢
初釜や凛とまはしぬ織部碗安西恵美子
母恋ふる七輪の炭足しながら
航海の二日途絶へて流人めく
少年の吾子が鍬形とりし楢おのれの朽ち葉に
冬の畷に石塚多恵子
日の束が雲間より射し明るめり動くものなき
於真野公民館
平成二十年一月八日
真野歌会一月詠草
霜月の尽酒井友二
ひと夜さの嵐に黄葉の散り敷きて庭面明るき
本間裕子
鏡餅ふ っ く ら ま る い 二 段 腹 鈴 木 玲 子
初日の出願ひこめたる子年運
平成十九年十二月十一日
真野歌会十二月詠草
於真野公民館
滑空の羽をひろげて湖に入る白烏のまとふ冬
の夕映え石塚多恵子
冬ざれの境内にはなやぎ漂へり茶会会場の今
柿に縁ありたる我か幼き日柿生に育ち就職は
日の菩提寺志和操 羽茂佐々木栄子
き間すき間に景山悦子 実を乗せてたつ伊藤節子
放棄せし柿畑に赤く実の熟れぬ茂る雑木のす
黒雲の空を仰ぎて三つほど柚子もぐあひだ遠
き雷伊藤節子
年賀状年々減りてメール増え名畑亘
初詣願ひし後は出店前
選者吟佐山香代子
銅鑪の音や初日に向ひ出航し
燃え尽きしどんどの襖の大注連縄
待鶴荘俳句会二月句会
大寒の凍りつくよな外の景高木アキ子
玄関に見事に活けし猫柳
道端に頭出してる蕗の薑
剪定せし松葉のやにが池の面に描く虹色の模
と来たる真野の入江に真後静恵
けあらしはゆらゆら昇る今朝こそは見らるる
節分の 神 事 の 後 の 福 袋 銅 テ ル
おだやかに今年も過ぎて忘年会杉崎ヨウ子
真後静恵
リュームを上ぐ高野昌子
裕次郎フアンにありし耳遠き母にテレビのボ
見るは嬉しき
男の孫が働くトョタ自動車の社名をテレビに
正月に帰省の人ら足早に家路を急ぐ船を降り
来て志和操
訪問の歌や踊の師走かな
秋風の道を行きつつ友の死を悲しと思ふ淋し
亡き母の歳まで生きて年迎ふ福田春枝 様広がる高野昌子
と思ふ竹本喜美子
痛む足こらへながらの歌留多会
冬凪や蛸釣り眺め父偲ぶ土屋美津江
72
六度目の子歳明けたりこの後も心豊かに生き
菩提寺の屋根より下ろされし鬼瓦本堂を仰ぐ
雪合戦のごとく男孫が投げ合ひて大方の豆は
立ち枯れの葦原鳴らす風寒く湖の岸辺に鴨ら
まりの余韻優しき竹本喜美子
通夜終へて語らひ尽きぬ午前三時ふるさとな
はは
ひま
真後静恵
雪の庭に木の影しるし如月の吹雪の隙をしば
み空に月なし
佐渡の冬何時までつづく月齢は新聞に見るの
恢復の兆しか長く病む姑の部屋より歌声低く
んと思ふ竹本喜美子 座敷に撒かる高野昌子 洩 れ く る 志 和 操
スタンドは近くにあれど隣町に六円安き灯油
師割れしまま中川アイ
を 買 ひ ぬ 服 部 志 保 子 動かず服部志保子 しさす陽に高野昌子
秀麗の富士くっきりと現わるる多摩武蔵野の
予報には雪降るという旅立ちの朝晴れ上がり
東つる夜の門に並びて亡骸となりて帰れる義
芹洗ふ指先しびる七草の粥煮ると立つ朝の厨
に竹本喜美子
目覚めたるあかつきの空に皓々と月冴えわた
心の軽き
本間裕子
正月三日
本間裕子
掃き寄する落ち葉に混じる空蝉はもろく崩れ
平成二十年三月十一日
薄紅の蕾のあたまが脹める椿が被くきさらぎ
持田良枝
湖に映る雪嶺を崩しつつ鴨の幾羽が寄り合ひ
てゆく
わが船の行く手あかるむ雲を透く弥生の朝の
淡き日差しに酒井友二
金井短歌教室一月詠草
平成二十年一月十二日
於常盤館
んと寂しき
精根を農に込めたる叔父のいう今年の米価な
渡辺威人
電話しつつ頬のほころぶ﹁どういたしまして﹂
蜜蜂がひとつまつはるやはらかき冬陽に白き
し楽しむ佐々木栄子 や つ で の 花 に 中 川 ア イ
待ち待ちし春の女神の訪れにまる一日の陽ざ
と四歳の孫のことばに臼杵昭子
のいつもの場所に伊藤節子
今月の星座のぺIジ立ち読みす雑誌コーナー
石に当たりし水は石塚多恵子
つまづきて気を取りなほすさまに行く岸辺の
於真野公民館
真野歌会三月詠草
夜の航の二等船室に横たはるそちこちの人寝
息たて初む酒井友二 の 雪 本 間 裕 子
つ 箒 の 先 に 酒 井 友 二 り寒さ身にしむ持田良枝 兄を出迎ふ服部志保子
平成二十年二月十二日
真野歌会二月詠草
於真野公民館
荘厳の歌会始の長く引く披講の語尾の半音が
落つ石塚多恵子
雪罪罪とひねもす止まず命日の母の墓処にゆ
きかね暮るる伊藤節子
佐々木栄子
降りこめる雪かと出でたる縁側に鉢の白梅さ
はに散り敷く
真後静恵
日本語の通じぬ乙女とベランダに救急車の音
にび色の雲の切れ間に耀へる日ざし春めく一
月の尽志和操
共に聞きおり
73
やはらかにほのか黄の差す水仙の蕾いたはり
紅葉光る安芸の宮島厳島神社に潮の香ほのか
漂ふ内田千枝子
極月を待つ伊藤節子
お供えを冬は休らふ農機具の小屋に供えて豊
作祈る荒井正子
ゆく年の湯船に思ふわれよりも若き知りびと
むたり
六人逝きしを酒井友二
金井短歌教室二月詠草
平成二十年二月九日
於中央図書館
土に消えゆく
酒井トシヱ
ちらちらと舞ひ来る雪は薄陽さす如月の庭の
新雪を踏みて出でたる庭先に朝の光の反射ま
荒井正子
束の間を青空現れてまた吹雪く二月のひと日
を曲がりて竹本喜美子
闇深くふとたぢろぎぬ三更の夜の路地裏の角
げたる医師は鈴木良晴
一年後に来いと云ふのみ飛蚊症の病名我に告
んだよと嫁は指さす渡辺威人
ぼんやりと我を見つむるみどり児にぢいちや
於中央図書館
平成二十年三月八日
金井短歌教室三月詠草
のか明るむ酒井友二
紛るるを拒むか闇の海はるかつながる空はほ
世界に浸る
夫として歌謡番組をともに視て今宵は演歌の
ねが
灯明を点けて七草を斎ひつつ吾ら家族の達者
いは
ぶしき後藤恒雄
を希ふ土屋弘治
正月の出で湯につかり眼をつむる去年の忙し
救急車のサイレンに覚めて入ごとにあらずと
さ憶い返して渡辺威人
思ふ時雨るる夜半を内田千枝子
零戦の操縦士たりし友逝きい軍人気質生涯抱
きて鈴木良晴
酒井トシヱ
年ごとに娘が送り来るシクラメン今朝はやや
零れたるもののささやく雪の上の南天の実と
し義兄をはげましながら
服部志保子
医師看護師におろおろ細るヘリ搬送の決まり
とひとすぢ続く
佐藤瑞枝
ごみをだしに出でたる庭の積む雪に烏の足あ
陽 は 春 の こ と ぶ れ 伊 藤 節 子 暮れ近づきぬ内田千枝子
降る雪の止みたる午後のしばらくを柔らかき
たびに生れくる風は持田良枝
道端の枯れ草を起こすダンプカーの過ぎゆく
木の実が雪に落ちたり佐藤瑞枝
ブロッコリーを採ると触れたる葉陰より赤き
山茶花の紅石塚多恵子
賑はふ竹本喜美子
退勤の車の灯りつらなりて島の夕暮れしばし
鈴木良晴
濃きピンクがとどく
石塚多恵子
思へど
干柿を防鳥ネットに覆ひたり餌なき冬の烏を
佐藤瑞枝
長男が生まれましたと書き添へて五人の子の
載る賀状が届く
林道のかたへに枯るる萱草に錆つく農機があ
また捨てらる服部志保子
く
湯の宿の廊下の角の中庭に水琴窟は冬の鯵吐
白菊は色槌せたれど咲き続く力しぼるか葵降
入海に日は照り注ぐ海峡を越えくる高速船を
迎へて持田良枝
るなか後藤恒雄
たつき
雛む手に今も残れる大小の傷は生活を支へし
土屋弘治
いささかの幸せならむ六度目の子歳を夫と迎
しるし
へたる今朝竹本喜美子
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る音
酒井友二鴬の初音を聞きぬ待ちゐたる春の三月明るき
伊藤節子道に鈴木良晴
聖護院大根を掘る手に伝ふ白き肌への蝉割るつつゆく
置き去りの猫の安否をまづ問ひて佐渡恋ひし金井短歌教室四月詠草御旅所の石にもたれて鳴き交す鴬の声を比べ
とふ岨の電話服部志保子平成十九年十月十四日て間けり持田良枝
民音
館に混じりて呼ぱふ声のして転びし
魚屋の桶に生かさるる大飽心残れど烏賊刺於
を金
テ井
レ公
ビの
買ふ土屋弘治射手の児を探しあぐねつ六年に一度めぐり来母が床に腹這ふ佐藤瑞枝
あれこれと手を拡げすぎ忙しきに虻蜂取らずる祭りの組に渡辺威人下校の児らが魚を捕ると屯して立つ川岸に孫
になるを恐るる荒井正子住民の自決は軍の強ひしとふ沖縄ノートの裁も混じれり
士屋弘治
貝殻を拾ひて遊ぶ幼らの弾ける声が風に乗りきに拍手伊藤節子待ちゐたる風のなき午後今日こそと山の棚田
石塚多恵子黄の濃きと純白に咲く水仙の花を競はす庭の
来る持田良枝遊びゐし娘の顔浮かべ遠き日に編みし小さきの畔焼きをなす荒井正子
雪解けてあらはとなれる青菜みな鵯につっかセーターを解く
賑はひは昔語りにゑびす講の幟人なき町には黄のクロッカス内田千枝子枯れ葦の穂叢光れり堤防の上に弥生の陽のと
れ筋のみ残る後藤恒雄図書館の小さき花壇にあはき香を漂はせ咲く夕映え後藤恒雄
雪囲ひ解きし狭庭の広さかな
白梅のその日その日の陽を含み山田垂竿
ためく
石塚多恵子水仙は明るく咲けり棟瓦落ちて朽ちゆく廃家どまりて酒井友二
如月の陽は淡けれど里川の水はいきいき光りの庭に服部志保子
”●■F■U■p︽■5●UQg■p︽■守由■︾■■■?▲■■▲■守白ワ●■”▲■■■U一■U■■●U■U一■ワ合U△■・日■■■■U白▼由り■UQD凸U︽■で■甲■ワー■▼一■守白■︽■U二■■■■一■U■■pGU■■■■■■一■U︽■・■。■U■■■
新雪俳句会
宙を航く貨物船なりし霜ぐもり
日溜りを啄む雀春近し畠山美緒享保雛細目かが
やく鉱山町屋中川紀元
カーゴー
陽を追うて畦埋めゆくや犬ふぐり
針山を仕立て直せり針供養上西道子歯科台の眉目かげりし春の雷神蔵ひさし
雪間草キャッチボールの親子かな
耕すや息づく土の濃き匂ひ
日を弾く白木蓮の芽の力かな烏また鳴きに戻り来浬梁かな
日脚伸ぶ地蔵の影を日時計に山口高子春渚女一心貝拾ふ猪股凡生
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相川歌会十二月詠草
平成十九年十二月二十一日
於﹁海の家﹂
初雪に波風強き相川湾秋遠のきて冬近し今
小宮山安子
田中次英
間伐と枝打ち終へし杉林風は悠々吹き抜けて
ゆく
年越し蕎麦百キロを打つモーターは吃りを上
釣る鰺に交じりて解といなだ釣る鯛の大物さ
亡き夫の干支の子を書く湯呑茶碗に新たなる
軒下に切干大根干されたる後の山の根雪が光
る田中義和
孫として年越蕎麦をうたんとて粉を求めて帰
すがに釣れず佐藤香代子
福島徹夫
紅白の番組果てて除夜の鐘聞きつつ二年参り
に祈る井坂照
省を待てり濱辺ムッ子 年の朝茶供へぬ石川和子
く
五年後は金婚式と新春のこたつに妻としみじ
み語る田中次英
丼に鮭のはららご溢れ居て大年祝ふ車座に着
平二十年一月十八日
相川歌会一月詠草
於ホテル万長
振袖を袴に挟み初春のクイーンを競ふ百人一
首木村秋子
父母もまじり双六カルタせしはらから彼岸の
佐藤香代子
ゆらゆらと白鳥の影写しゐて冬の加茂湖の凪
応援に行く
初詣で済ましし人ら青年団の元旦マラソンの
る午後の窓辺に北見亀男
いつのまに海風雪に変りをりこたつに覚めた
いづこに集ふ林京子
餅米を持ちて菓子屋に餅搗を頼む夫病む正月
明るし
相川歌会二月詠草
福島徹夫
平成二十年二月十五日
於﹁海の家﹂
店先の節分の豆にカリカリと歳の数ほど噛み
身にしみて寒き朝朝のら猫が玄関前に餌を欲
りて来る小宮山安子
ほ
水平に射す初日光海よりの淑気はこびて座敷
かげ
産士の宮居の杜の朝明けに年のはじめの薄雪
間近小宮山安子 を踏む酒井友二
餅搗きの音も聞えぬ歳の暮れ静かな里にも正
げて耳を聾する林京子
はたち
月はくる田中義和
送れり
故里の味を詰めたる小包を娘は二十歳の孫に
石川和子
冬海の荒き波音歌と聞き湯槽につかる宵の一
朝けより蒸したる米に餅つきし父母の顔あの
杵の音山本軍次
時井坂照
餅を搗く当ては無ければせめてもと袴紙吊る
歳晩の部屋荻野豊
濱辺ムッ子
手づくりの凧引きずりて走りゆく一途の顔が
ぎて明るし
山本軍次 たくなりぬ林京子
夜もすがら恋猫の鳴く人通り絶えたる街の裏
の小路に山本軍次
状も夢かうつつに荻野豊
メ一三ルに年の暮れより伏せり居て元旦の賀
寒風を衝く
暮れの掃除予定立つれど老いの身の思ふにま
雪降るは常より早しといふを聞き窓を眺むる
かせず日に日に延ばす木村秋子
一茶 忌 の 今 朝 北 見 亀 男
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吾が裡の煩悩の鬼打つべしと節分の豆丹念に節分の宵に食ふべき歳の数の豆をこたつの上ガラス戸を開けて見上ぐる山の田の畔に咲き
妙る濱辺ムッ子に並ぶる田中次英たる福寿草見ゆ田中義和
海鳴りと岬の松のざわめきが雪をまた呼ぶ大立春の陽ざしおだしくあぢさゐの鎧ふあまた早春の日脚も伸びて鉢梅の綻び初めしに風は
寒なかば北見亀男の角芽を包む酒井友二身を切る荻野豊
んじよ
回収車の音近づくにごみ袋を抱へて駆けぬ吹塩秋刀魚突つきて飯ぱ倉
いっぱいのめしを食ひ
やまだし
雪の中を佐藤香代子
相川
に
歌会
き
三月
山
詠草仕事のひる北見亀男
豆まきの声の聞えぬわが町も鬼は打たるるテ平成二十年三月二十一日温泉の広間に飾る園児らの紙雛人形は老いら
レピの中に石川和於
子大
和平
ます佐藤香代子
年あけて既に如月北山は雪をかづけど空は明早春を雪舞ひ散りて風強く寒さ厳しき一日過頬を刺す風の寒きに耳押さへ浜歩きゆく春ま
るむ井坂照ぎぬ小宮山安子だ遠し木村秋子
︾︸
立春といへども寒く着膨れて早く春来と童謡雪を突き葉先のとがる水仙の若芽は示す如月淡雪の庭に舞ひ来て春間近か日ごとに空も明
歌ふ木村秋子の春井坂照るくなりぬ田中次英
過ぎゆく
荻野豊なして林京子つ春定まらず濱辺ムッ子
厄払ひの声の幻聴節分の夜の東て付ける街を早春の高枝に止まる鵯は尾羽根振るはす扇と地球規模の温暖化ゆゑかこの年も行きつ戻り
節分の鬼暇あらぱ遊びゆけ妻と二人の家淋し卒業式を終へて下校の子等の顔吾にもありし故ありて去りゆく歌の友惜しむ受話器に残る
きに田中義和遠き日の顔山本軍次爽やかな声福島徹夫
3&3g383g383g3g3g383g3目3g3g3g3風3目3g3風393良3良3g3g3R3g3風393良
山本修巳に從光氏が新潟在勤になって、父の承光、母今年の一月二十五日は、父の満十五年目に
編集後記ご来島はなかったが、昭和六十三年七月三日新雪のちちははの墓所仰ぎけり
昨年十二月、日野資朝卿宗族会の柳原從光の式子、そのころ皇太子妃と週刊誌で取りああたる。夜の二時頃急に寒む気がして、昼に
氏が亡くなられた。柳原家は日野資朝が明治げられた長女留美子の各氏と参列。また、先発熱し、診察では気管支炎症と言われ、自ら
十七年に御贈位以来、妙宣寺の資朝墓所の建年は日野家宗族会の資朝忌参拝旅行に参加さ喘息の発作を懸念し、自宅二階から墓所のあ
立をはじめ、佐渡との関わりを深められてきれ、佐渡との絆を強められた方であった。たりを仰ぎ、妻に参ってもらった。
た。しかし、戦後は七月三日の日野資朝忌のその日の午後、新穂北方の母の実家河原文
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蔵氏が亡くなられたと新潟から知らせがあっ
エさんを通して、﹁新潟日報﹂歌壇選者馬場
高校長内川洋氏から依頼を受け、久保田フミ
じている。
くに新居を建てた。わが家の時代の潮流を感
三月は年度変わり、九年間勤めた新潟県文
た。百二歳であった。文蔵氏は旧相川町小田
あき子氏に作詞をお願いしたが、完成した校
ルを退任させていただいた。そして、長年、
化財保護指導委員、いわゆる文化財パトロー
から入婿し、新穂や行谷の小学校などに勤め
歌が入学式で唱われたという連絡をいただい
父がつとめ、羽茂の藤井三好氏にお願いした
られた。戦後、農地解放にあって経済的に困
の校歌作詞者が父と交流が深かった歌人木俣
から引き継ぐことになった。また金井の﹁伝
新潟県文化財保護連盟の佐渡の理事を藤井氏
た。お役に立ててよかったと思う。両津高校
二月には、佐渡高校の八十周年の時の校長
修氏で、著名な歌人から歌人へとバトンタッ
難なわが家は何かとお世話になった。
で、現在の校舎新築に関わった八幡の本間嘉
チされたことは感慨深い。
週間に一度、九十分授業をすることになった。
統文化と環境福祉の専門学校﹂に七月まで一
晴氏が亡くなられた。大きな時代の転換期
順徳帝見たる都の春満月修巳
新潟県立女子短期大学にも一度出講する。実
で、私は教員として勤めたが、大変な時代で
あった。ほかに、本間氏は佐渡博物館の創設
京三条河原菜の花明りかな
全国俳句大会で京都﹁平安会館﹂に宿泊し
本修巳
郵便番号九五二’○三一八
振替新潟○○六八○’四I茎一三七
電話︵○二五九︶五五’二七○○
新潟県佐渡市真野新町三五四
発行所佐渡郷土文化の会
新潟市中央区和合町二丁目四’一四
印刷所株式会社第一印刷所
癖槻藷山
頒価一二○○円送料一八○円
灘弄澪醒弄謂調︵年一一一回発行︶
佐渡郷土文化第二七号
次号原稿締切六月末日
力はないが、努力したい。
にもっとも力を注ぎ、館長にもなられた。
四月二十日、俳誌﹁鶴﹂創刊七五○号記念
乙女椿一輪のみの金福寺
春の縁眠れる猫と詩仙堂
また、三月三日、詩人・評論家松永伍一氏
が七十七歳で、三月三十日には、芥川賞受賞
た。京都御苑の上の春満月が美しく、佐渡か
しみfもと
作家で、俳誌﹁日矢﹂を主宰していた清水基
吉氏が八十九歳で逝去された。お二人とも交
ら二十年間、京都を思いつづけた順徳帝の昔
よし
関係を深められ、来訪された。
を偲んだ。
友のきっかけは私であったが、父修之助との
四月には、文弥太夫梶原宗楽氏が亡くなら
木々芽吹く公園近き新居かな修巳
桜鯛の刺身の膳の新居かな
ぞれの方々のご冥福を心からお祈りします。
れた。大臣表彰を受けた名人であった。それ
四月、いわゆる中高一貫校が両津高校の校
三月末、長男修司が新潟市の信楽園病院近
新築の祓の塩や春うらら
春の新居幼児の歩行気あい入る
十三人︶でスタートした。その校歌を前両津
舎を利用して二学級︵男子二十九人、女子五
78
fonlec株式会社フォンテック
TEL03画3393−0183UR
3Lhttp:"www.fontec.co.jpe-mailinfo@fontec.c◎.'P
.
、
ふ
患
露
鍵
…お話と独唱診"w弾
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・新保啓「わが友乱詩人高野喜久雄j
〈●後藤丹作曲「うた」他”
ソプラノ■丸山正子ピアノ:関谷直美=j
弾●
癖麺識
…混声合唱国「コーロ・ソフィア」?鶴ゞ
高田三目
綴震花」&?□
高田三自
(1.いまわたしがほしい
指揮:鈴木茂明ピアノ
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…合同演奏屋地域の皆さんと「コーロ・ソフィア」
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指揮:鈴木茂明ピアノ:池田悦子〃
高野喜久雄/佐渡市新穂長畝出身
鈩国
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3:00開場/13:30開演
上越文化会館大ホール
●
車徒歩5分〉全席自由1,500円
<信越線春日山駅下 車
学生’、000円(当日1,700円)
■後援上越市/上越市教育委員会/新潟県立農
高田農業高校卒業
ヨ農業高校卒業生 会/JCV・上越ケーブルビジョン/新潟日報卜越支社
上越タイムス/上越よみうり/高麗文イI
化協会
;
会
■主催蓮の花コンサート実行委員会((止越
越市
市本
本町5-5-9
91F高田文化協会内TELO25-525-2205)