2013 年 4 月 5 月 Vol.124 Vol.124 1 2013.5.30 大阪市生野区鶴橋 2-15-27 TEL 06-6715-6600 FAX 06-6715-0153 編集・発行:MEHREC P・E (メーレック ピーイー) Multi-Ethnic’ Human Rights’ Education Center for Pro-existence 特定非営利活動法人 多民族共生人権教育センター 事務局長 宋 貞智 URL:http://www.taminzoku.com E-mail:info@taminzoku.com ダブルの子どもたちの人権課題―生涯に渡る重国籍の容認を 4 月より当センターの事務局員を務めています。 私はこれまで大阪人権博物館で 20 年間、学芸員 として在日コリアンなどの民族的マイノリティに かかわる調査・研究、展示公開、教育普及事業を 担ってきました。特に力を入れていたのが、学校 教育との連携事業です。年間 50 校近い学校へ出 向き、出前授業をおこなってきました。そのなか で、非常に印象深い出来事がありました。 在日コリアンが多住する地域の中学校でのこと です。授業前、教壇で準備をする私のもとへ、一 人の男子生徒が近づいてきたのです。 一見して「や んちゃ」で元気のよさそうな雰囲気です。何事か と一瞬身構えた私に彼は、開口一番「先生韓国人 やんなあ?俺もそうやねん!」。飾り気のないスト レートな言葉でした。話を進めていくうちに、彼 は「俺、重国籍やねん」と、父が韓国籍、母が日 本籍の日本人だということを語ってくれました。 私自身、日本人の妻と結婚し 2 人の子どもを持つ 保護者です。更に親近感がわき、 「うちの子と一緒 やなあ」 と伝えると嬉しそうに笑ってくれました。 けれども次の瞬間、表情が曇った彼の口から出て きた言葉に驚かされました。 「せやけど、俺、大人 になったらどちらかの国籍を選ばなあかんのや ろ?絶対にそんなこと、でけへんわ…」 。 血統主義の国籍法を持つ日本では、父母いずれ かが日本国籍を持っておれば、出生届の提出によ って自動的に日本国籍を取得することができます (1984 年以前は父親が日本国籍を持つことが条 件) 。一方で外国籍の親が、その国籍保有国で出生 手続きをおこなえば、その国の国籍を取得するこ ともできます。一人の人間が 2 つの国籍を併せ持 つ、 「重国籍」の状態になるのです。しかし日本の 国籍法は、本人が 22 歳の誕生日を迎えるまでに、 どちらかの国籍を選択することを義務付けていま す。十代前半の彼はそのことを知って悩んでいた のです。 話がかわりますが、小学校 4 年生の娘と最近こ んな会話をしました。娘「私って『ハーフ』やん なあ」。私「そうやで。けれどアッパ(お父さん) は、ハーフやなくって、ダブルって思ってるよ。 アッパの韓国・朝鮮、お母さんの日本、2 つのい いことを持ってるわけやろ?半分やなくって、2 つやで。だからダブルやねん」。娘「けども、アッ パの韓国・朝鮮と、お母さんの日本が、ギューッ と私(一人)のなかに入ってるんやろ?やっぱり ハーフやん!」。 用語の使い方をめぐる難解な議論はともかく、 心が温かくなったのを覚えています。重国籍であ ること、2 つ(それ以上の)ルーツを持つことは、 本来は娘が感じているような「あたり前」のこと であり、肯定的に受け止めることができるはずで す。それを阻害するものが差別です。重国籍者が 国籍選択をおこなうのは、どちらかの国籍を「捨 てる」ことです。たとえ象徴的な行為に過ぎない とはいえ、そのことに胸を痛める子どもがいます。 保護者の立場から言えば、子どもに酷な選択をさ せなければいけないことに胸が痛むのです。 それでも重国籍の状態は国民国家における国家 と国民の関係として異常であり、一つの国籍を選 択するべきだと考える方もおられるかもしれませ ん。しかし、現在OECD(経済協力開発機構) 加盟 34 か国のうち、移住労働者に対して生涯に わたる重国籍を例外なく認めていない国は日本だ けです。それぞれに問題を抱えているとはいえ、 多文化共生社会を前提とする法整備を整えている 国ぐにのスタンダードは、重国籍の容認であると いってよいでしょう。日本における真の多民族共 生社会を実現するための、重要課題として国籍法 の改正が望まれます。 多民族共生人権教育センター 文公輝 事務局 2013 年 4 月 5 月 Vol.124 2 第5回 多民族共生人権啓発セミナー2012 講演 国際結婚を通して考える多民族共生の課題 ~子どもの教育に焦点をあてて~ 敷田佳子さん(大阪大学大学院) 「はじめに」 大阪大学大学院博士課程在学中の敷田 と 申 し ま す 。研 究 動 機 に つ い て 、日 本 に お け る 国 際 結 婚 の 現 状 に つ い て 、国 際 児 や そ の家族がどのような問題を抱えているの か に つ い て お 話 を し た 後 、あ る 国 際 児 の ケ ースについてドキュメンタリー形式でま と め た DV D を 見 て い た だ き ま す 。 私は大学在学中にオーストラリアに留 学 を し て い ま し た 。オ ー ス ト ラ リ ア 人 1 0 0 人 、 留 学 生 100 人 が 住 ん で い る イ ン タ ー ナショナルハウスという寮にいましたが、 シンガポールやマレーシアなどアジアの 学 生 が 多 く い ま し た 。彼 ら は み ん な 優 秀 で 、 英 語 も 私 よ り ず っ と 上 手 で 、彼 ら に 会 っ て 、 ま ず 、自 分 が 今 ま で 抱 い て い た ア ジ ア 諸 国 に対するイメージが大きく変わりました。 また、自分が色々なことを考えていても、 それを言葉にして表現できないことのも ど か し さ や 、言 葉 が 通 じ な い こ と で 意 地 悪 を さ れ た り と い う 、マ イ ノ リ テ ィ で あ る こ と の 苦 労 を 知 る こ と に も な り 、も し か し た ら 自 分 も 、外 国 の 方 に 対 し て 日 本 で 同 じ よ うな思いをさせているかもしれないとい うことに気づきました。 大学を卒業するとマレーシアにある日 本 の 予 備 校 の ク ア ラ ル ン プ ー ル 校 で 、子 ど も た ち の 学 習 指 導 に 当 た り ま し た 。そ こ で 、 お 父 さ ん は 日 本 人 、お 母 さ ん が 中 国 人 や マ レー人という国際児の子どもたちに出会 う 機 会 が 何 度 も あ り 、そ こ で も ま た 自 分 の 抱いていたイメージが大きく変わりまし た 。そ れ ま で 国 際 結 婚 家 庭 の 子 ど も た ち は 、 お父さんとお母さんから両方の言葉と両 方 の 文 化 を 苦 労 な く 受 け 継 ぎ 、世 界 に 羽 ば たいていくことができる人材だと思って い た の で す が 、私 が 出 会 っ た 子 ど も た ち は 非 常 に 苦 労 を し て い ま し た 。日 本 の 学 校 に 通 っ て い る 子 ど も た ち だ っ た の で 、日 本 の 基 準 で 判 断 さ れ ま す 。日 本 の 勉 強 が で き な け れ ば 、中 国 語 が で き て も マ レ ー 語 が 上 手 で も 全 く 評 価 さ れ ま せ ん し 、逆 に 教 え る 側 の ス タ ッ フ か ら は 、国 際 結 婚 は 難 し い と か 、 子どものしつけができていないとかいう 意 見 が 聞 か れ て 、ど う し た ら こ う し た 子 ど もたちを伸ばしてあげられるのかわから な い ま ま 、も や も や し た も の を 抱 え て 日 本 に 帰 っ て き ま し た 。そ し て 、国 際 結 婚 家 庭 の子どもの役に立つような研究がしたい と 、大 学 院 に 入 っ て 研 究 を 始 め た の が 動 機 です。 「国際結婚~日本とスイス」 さ て 、日 本 に お け る 国 際 結 婚 の 割 合 で す が 、 1985 年 か ら 2010 年 ま で の 厚 生 労 働 省 の 統 計 で 見 ま す と 、一 番 多 い 2 0 0 5 年 に は 17 組 に ひ と り だ と 言 わ れ て い ま し た が 、 現 在 は だ い た い 2 0 組 に 1 組 、4 ~ 6 % ぐ ら い で 推 移 し て い ま す 。ま た 、男 女 比 に 関 し て は 、男 性 が 日 本 籍 で 女 性 が 外 国 籍 と い う ケ ー ス が 、男 女 逆 の ケ ー ス よ り も ず っ と 多 く、国際結婚全体の約 8 割を占めます。 そしてその外国人妻の国籍の内訳は、 1995 年 は フ ィ リ ピ ン が 一 番 多 か っ た の で す が 、そ の 後 中 国 や タ イ 、ま た ブ ラ ジ ル や ペ ル ー な ど も 増 え て い ま す 。韓 国・朝 鮮 籍 の方に関しては在日の方が多く含まれる と思いますが、内訳はわかっていません。 またここでも自分の抱いていたイメージ と は 違 い 、欧 米 の 男 性 と 日 本 人 女 性 と い う 国際結婚が多いというイメージを持って い ま し た が 、国 際 結 婚 の 中 で は そ の ケ ー ス は 少 数 で 、日 本 の 中 の 国 際 結 婚 は 、日 本 人 の男性とアジア人の女性という組み合わ せが多いということです。 次 に 、さ ま ざ ま な タ イ プ の 国 際 結 婚 と い う 話 に 入 り ま す 。大 阪 大 学 の 志 水 宏 吉 先 生 2013 年 4 月 5 月 を中心として「往還する人々の教育戦略」 というプロジェクトを 5 年ほどにわたっ て や っ て 来 て 、 2013 年 1 月 に 同 じ 名 前 の 本 を 出 し ま し た 。そ の 中 で 色 々 な タ イ プ の 国 際 結 婚 家 庭 の 教 育 に つ い て 、家 庭 へ の イ ンタビューや学校調査を通してまとめま し た 。そ の う ち 、日 本 在 住 の 国 際 結 婚 家 庭 で 、男 性 が 日 本 人 で 女 性 が ア ジ ア 人 の 家 庭 の子どもたちはほとんどが日本の公立学 校 へ 通 っ て い ま す が 、男 性 が 欧 米 人 で 女 性 が日本人の家庭の場合インターナショナ ルスクールに通わせるケースが非常に多 い で す 。イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル ス ク ー ル の 授 業 料 を 考 え ま す と 、だ い た い 年 収 1 5 0 0 万 円 以 上 な い と 、年 に 何 度 か お 父 さ ん や お 母 さんの母国に帰って過ごしたりするとい う理想のライフスタイルを送ることはで き な い と い う 語 り も あ り 、収 入 が 十 分 で な い 家 庭 の 親 御 さ ん は 、イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル ス ク ー ル に 子 ど も を 通 わ せ る の に 、血 の に じむような思いをしておられます。また、 日本ではインターナショナルスクールや その他のエスニックスクールに通ってい て 、日 本 の 高 校 な ど に 進 学 を す る 場 合 は 日 本の中学を卒業したという資格が認めら れ な か っ た り 、手 続 き が 複 雑 で あ っ た り と 、 リスクやハンデを負わなければならない 場合もあります。 一 方 、ヨ ー ロ ッ パ の 国 ス イ ス で は 、日 本 の 場合とはずいぶん違う教育方針がありま す 。ス イ ス に 住 む 日 本 人 女 性 と 欧 米 人 男 性 のカップルについて奈良教育大学の渋谷 真 樹 先 生 が 調 査 を し ま し た 。子 ど も た ち は 現 地 の 公 立 学 校 に 通 う 傍 ら 、日 本 語 の 補 習 校 と い う 塾 の よ う な と こ ろ に 通 い 、日 本 語 や 日 本 文 化 を 学 び ま す 。学 校 の 通 知 表 に は 母 語 を 評 価 す る 欄 が つ い て い て 、日 本 語 が どれくらいできるかを評価してもらえる シ ス テ ム が あ り ま す 。母 語 を し っ か り 教 え ることが子どもの学力を育てることに非 常 に 重 要 だ と 強 く 認 識 を し て い る の で 、日 本人のお母さんたちは先生から日本語を しっかり教えてくださいと言われるそう で す 。ス イ ス は 多 民 族 国 家 と し て の 歴 史 が 長く日本とは歴史的な文脈が異なるとい う こ と も あ り ま す が 、日 本 語 以 外 の 母 語 は Vol.124 3 必 要 な い と い う 、日 本 で の 一 般 的 な 考 え 方 が 正 し い の か ど う か を 、一 度 皆 さ ん に 考 え ていただけたらと思います。 「なぜアジア人女性が多いのか」 さ て 、な ぜ 日 本 で の 国 際 結 婚 に は ア ジ ア 人 女性が多いのかといいますと、ひとつは 「 ハ イ パ ガ ミ ー 現 象 」の 影 響 が あ る と 思 わ れ ま す 。「 ハ イ パ ガ ミ ー 」 と い う の は 「 上 昇 婚 」と 呼 ば れ る も の で 、社 会 学 で は 、女 性は現在の生活よりも高い水準の生活を 望むため自分の父親と同じかそれ以上の 階層の男性を選ぶ傾向があると言われて い ま す 。日 本 と ア ジ ア の 国 々 で は 、や は り 経 済 格 差 が あ り ま す の で 、日 本 人 と 結 婚 す る方が上昇婚になりやすいということで アジアからの結婚移住女性が多くなって い る と 考 え ら れ て い ま す が 、日 本 に 来 る 女 性がみな母国で貧しかったかというとそ う で は あ り ま せ ん 。裕 福 で 学 歴 も あ る け れ ども自国では仕事がないので日本に来た り 、一 度 海 外 に 行 っ て 経 験 を 積 み た い と い う野望や好奇心が強かったりする女性が 多いです。 も う ひ と つ 、ア ジ ア 人 女 性 と 日 本 人 男 性 の国際結婚を促進した重要な事例の一つ と し て 、 1985 年 に 山 形 県 朝 日 村 ( 現 鶴 岡 市 )で フ ィ リ ピ ン 女 性 と 日 本 人 男 性 の 結 婚 を 自 治 体 が 取 り 持 っ た と い う「 農 村 の 花 嫁 」 が あ げ ら れ ま す 。 そ の 時 は 10 組 前 後 の カ ッ プ ル が で き 、当 初 は 農 村 に お け る 男 性の結婚難を食い止める善策だとメディ ア で も 取 り 上 げ ら れ ま し た が が 、そ の 後 の 報道は人身売買ではないかという批判に が ら っ と 変 わ り 、自 治 体 が か か わ る 国 際 結 婚 は な く な り 、民 間 の あ っ せ ん 業 者 が 出 て く る よ う に な り ま し た 。こ れ ら の 農 村 の 花 4 Vol.124 嫁 に 求 め ら れ る の は 、日 本 人 の 嫁 、母 と し ての即戦力です。フィリピンから来たり、 中 国 か ら 来 た り し て 、言 葉 も ま ま な ら な い の に 、結 婚 し て 来 日 す る と す ぐ 、農 作 業 の 手 伝 い か ら 家 事 、育 児 を こ な さ な い と い け ま せ ん 。ご 主 人 や お 姑 さ ん が 理 解 の あ る 方 の場合は生き生きと日本での暮らしをさ れ て い る 場 合 も あ り ま す が 、多 く は 日 本 社 会に同化していくことを暗黙の了解とし て 暮 ら す こ と を 余 儀 な く さ れ て い ま す 。自 分の母語を子どもに伝えることすら嫌が ら れ る 場 合 が 多 く 、ま た 、ほ と ん ど が 家 庭 の 主 婦 で す か ら 、マ マ 友 ぐ ら い は で き て も 、 新しい人間関係を作るのは非常に困難で、 狭い世界で孤独な生活をしている場合が 多いです。 「外国人の母を持つ子どもたち」 子 ど も が 大 き く な っ て 、学 校 に 通 う よ う に な る と 、ま た 新 た な 困 難 が 生 ま れ ま す 。子 どもが持ち帰るプリントが読めなかった り 、先 生 と 込 み 入 っ た 会 話 が で き な か っ た り 、日 本 の 学 校 の シ ス テ ム や 地 域 の 学 校 の 評 判 な ど が わ か ら な い 場 合 は 、進 路 に 関 し ての相談を親子でできないということが 起 こ り ま す 。子 ど も た ち は 、学 校 で は 母 親 が 外 国 人 で あ る た め に か ら か わ れ た り 、そ の国自体のイメージで偏見を持たれたり、 と い う こ と が あ る の で 、日 本 人 と 見 た 目 が 変わらない子どもの中には母親が外国人 で あ る こ と を 隠 し て い る 子 も い ま す 。ま た 、 家 庭 内 で は 、お 姑 さ ん な ど が 外 国 人 の 嫁 の 悪 口 を 言 っ た り 、出 身 国 の こ と を 悪 く 言 っ たりするのを子どもが聞くことがありま すが、子どもたち にも半分はお母さんの血が入っているの に 、目 の 前 で そ の 悪 口 を 聞 く と い う こ と が どれほど子どもの心を傷つけるか想像し ていただけると思います。 『 遥 か な る 空 の 下 で 』 と い う DV D を 見 て く だ さ い 。こ れ は お 母 さ ん が 日 本 人 と 再 婚したことをきっかけに日本に来ること になったフィリピン人の女の子を中心と し た ド キ ュ メ ン タ リ ー で す 。子 ど も だ っ た 時 期 を 乗 り 越 え 、多 文 化 共 生 教 育 が 盛 ん な 大阪府立長吉高校に通って高校生活を楽 しんでいるのが収められています。 2013 年 4 月 5 月 DV D の 中 の ヘ イ ゼ リ ン の よ う に 連 れ 子 の 場 合 は 、新 し い 家 族 と の 問 題 や 、周 り に 友 達 が い な い 中 で 、日 本 や 日 本 の 学 校 へ 適 応 す る こ と の 問 題 が あ り ま す 。そ れ を 乗 り 越 え る と 、今 度 は 母 語 を 忘 れ て 、母 親 と コ ミュニケーションが取り辛くなる問題も 出 て き ま す 。大 変 大 き な ス ト レ ス の 中 で も 明 る く 楽 し く す ご し て 、ハ ッ ピ ー エ ン ド と い う 風 に DV D は 終 わ っ て い ま す が 、彼 女 をサポートしていた人から聞いたところ で は 、同 志 社 大 学 に 進 学 後 、大 学 を 中 退 し て 音 信 不 通 に な っ て い る と の こ と で す 。彼 女の抱えているものがいかに大きなもの か と い う の が 想 像 で き ま す が 、ま た 、長 吉 高校のようにサポートのしっかりした学 校 の 中 で 守 ら れ て い た 生 活 が 、進 学 や 就 職 を 機 に 、厳 し い 外 の 世 界 に 直 面 し て 、あ か ら さ ま な 差 別 を 受 け た り 、仕 事 の 出 来 を 厳 し く 指 摘 さ れ た り す る と い う こ と は 、国 際 結婚家庭の子どもにはよく聞かれる問題 です。 「さいごに」 国 際 結 婚 を し て 、政 治・経 済 的 に 日 本 よ り 弱 い 国 か ら 来 た 女 性 た ち は 、必 ず し も 自 分たちの国で貧しく恵まれない生活をし て き た 人 々 で は あ り ま せ ん 。今 の 夫 と 暮 ら す よ り 豊 か だ っ た り 、夫 よ り も 学 歴 が 高 か っ た り す る 場 合 も 少 な く あ り ま せ ん 。し か し 、日 本 で 彼 女 た ち が 孤 立 し や す い 立 場 に あ る こ と は 事 実 で す 。そ れ は 、彼 女 た ち が 「 外 国 人 」で あ り な お か つ「 女 性 」で あ る た め で す 。た と え 母 国 で キ ャ リ ア が あ っ て も 、日 本 で 仕 事 に 就 く の が 難 し い 彼 女 た ち は「 主 婦 」で あ る こ と が 多 く 、日 常 的 に も 、 法的にも夫に頼らざるを得ない孤立した 構 造 の 中 で 生 活 し て い ま す 。外 国 で 生 活 す る の は 大 変 な こ と で す 。子 育 て を す る の は も っ と 大 変 で す 。子 ど も た ち も 母 親 の し ん ど さ の 片 端 を 背 負 っ て 生 き て い ま す 。み な さ ん や 、み な さ ん の 子 ど も は 、そ う い っ た 人たちのしんどさを理解しようとしてい ま す か ? も し 今 日 、少 し で も 外 国 人 妻 / 母 やその子どもたちに対する皆さんの理解 が 深 ま っ た と し た ら 、そ れ が 多 文 化 共 生 へ の大切な一歩につながっていくと信じて います。 2013 年 4 月 5 月 Vol.124 5 6 2013 年 4 月 5 月 Vol.124 2012 多民族共生人権啓発リーダー育成合宿研修会 京都市内フィールドワーク 「八坂神社」 祇園祭と渡来人の信仰、犬神人の役割 「清水寺」アテルイ・モレの碑、坂者が果たした役割 川端富蔵さん( (公財)世界人権問題研究センターボランティアガイド) ●バスの中にて 「平安京について」 今から行きます、八坂神社と清水寺は平安京が開かれ るときに一番ゆかりのあった場所ですので、まずは平安 京について少しお話をしたいと思います。 紀元前後から6 世紀ころまで戦争の多かった朝鮮半島 からいろんな人が日本にやってきました。そのうち、八 坂造(やさかのみやつこ)という一族は朝鮮半島の中ほ どにある牛頭山(ごずさん)という山の神様である「牛 頭天王(ごずてんのう) 」と一緒に日本に来て、京都の祇 園社 (今の八坂神社) の神様になったと言われています。 この八坂というのは八つの坂という意味ではなく、たく さんの坂という意味です。また、秦氏という一族が来ま したが、その中で、秦河勝(はたのかわかつ)という人 は603年に聖徳太子の援助をもらって広隆寺というお寺 を建てたと言われています。秦都理(はたのとり)は松 尾神社の、秦伊呂具(はたのいろぐ)は伏見稲荷の創建 にそれぞれかかわりました。東北の蝦夷と戦い、清水寺 を建てたことで知られる坂上田村麻呂も朝鮮半島にルー ツを持つと言われています。この人は今の奈良県高市郡 高取町の辺りにいた東漢氏(やまとのあやうじ)という 一族です。都を平城京から長岡京へ、そして平安京に遷 したのは桓武天皇ですが、この桓武天皇のお母さんが高 野新笠(たかののにいかさ)という人で、この方も百済 から来た一族の一人です。また、桓武天皇が即位したと きに出した祝詞の中には、高野新笠が百済の武寧王の外 戚であるということが公文書として残っています。 さて、平城京で天皇が入れ替わり、仏教の僧たちが力 を持ち始めたり、政権争いが起きたりして、色々なしが らみを断ち切るために、桓武天皇がまず長岡京へ遷都し ますが、今で言う建設大臣のような地位にあった藤原種 継(ふじわらのたねつぐ)という人が暗殺をされます。 誰が暗殺をしたのかはわかっていませんが、大伴氏であ るとか、桓武天皇の弟の早良親王がかかわっているとか 言われ、早良親王は淡路島に流罪となりました。ところ が淡路島に流される途中に無実を訴えるハンストをして 死んでしまいます。その後、桓武天皇の一家に色々な災 難がふりかかりましたので、これを鎮めるために早良親 王に祟道天皇という名前を送って追尊したり、神社を建 てたりしましたが、ついには都を遷そうということにな りました。京都は、もともと未開の地であった嵐山あた りに秦氏が早くから入って開墾し、水脈を整え、農作を 成功させて財力を蓄えていましたし、牛頭天王という神 様の里でもありました。風水の関係からも最良の場所と いうことで、この場所に平安京を造るに至りました。 「祇園祭」 早良親王や菅原道真など、色々な人が政争に巻き込ま れたりして非業の死を遂げています。そうした怨霊の祟 りと考えられていた疫病の流行を止め、再び起こらない ようにすることが、天皇の大きな使命のひとつでした。 平安京に都を遷して 100 年もすると人口が 20 万人ほ どに膨れました。京都の鴨川は普段は水が少なく穏やか ですが、雨が降ると急にあふれますので、京の町中が水 浸しとなり、 非常に不衛生な状態になりました。 重ねて、 暑い季節に起こりますので、疫病が流行するという具合 です。貞観 5 年(863)に平安京で疫病が流行したとき には当時の天皇が大変苦慮して、怨霊を鎮めるための御 霊会を開きました。しかしその後も貞観 11 年(869)に 2011 年の東北で起きたような、大きな津波と地震があり 疫病も流行したため、牛頭天王を祀ったのが祇園祭の由 来とされています。その時に大きな力を貸したのが祇園 社です。 ●八坂神社にて 「疫神社」 南楼門から入ってすぐのところに小さな祠があります。 ここには蘇民将来(そみんしょうらい)の説話が書かれ ています。どのような内容かと言いますと、牛頭天王がみ すぼらしい老人の格好をして、非常に裕福な巨旦将来(こ たんしょうらい)の家を訪ね、一夜の宿を求めますが、見 た目のみすぼらしさに断られてしまいます。次に巨旦将来 の兄である蘇民将来の家を訪ね、同じように一夜の宿を求 めると、快く受け入れてくれました。弟とは違って貧しい ながらもできる限りのもてなしをした蘇民将来に、牛頭天 王は疫病から逃れることのできる茅の輪を授け、その後流 行した疫病によって、弟の巨旦将来は亡くなり、蘇民将 来は無事に過ごしたという話です。ですから祇園祭で 2013 年 4 月 5 月 粽を買いますと、そこに「蘇民将来子孫也」と書いてあ ります。これが牛頭天王を祇園祭で祀る所以です。また 神様は鳴り物や光物が好きで、祇園祭で鉾を立てて鐘や 笛を鳴らしますとそこに神様が乗っかると考えられてい ます。程ないところで鉾をさっとたたむと、神様は行き 場を失ってそこへとどまるということですから、祇園祭 では自分の町内に入るとさっさと鉾を片付けるのです。 「本殿」 12 月 31 日には「おけら参り」が行われます。縄に火 をつけてもらって、その火でお雑煮を食べると 1 年間無 事に過ごせると言われていますが、その縄の火をこの本 殿でもらいます。また、ここは舞妓さんや芸能人の方が 来て豆まきをするところでもあります。 建物を見ていただくと、大変な装飾をしてあります。 現在の本殿は江戸幕府4 代将軍の徳川家綱が日光東照宮 を建てた大工さんたちに頼んで寄進したものですので、 日光東照宮とよく似た装飾になっています。建て方は祇 園造というもので、両方がふさがっていて、正面からし か神様を拝めないようになっています。 「忠盛灯籠」 平清盛由来の「忠盛灯籠」です。なぜ清盛発祥かと言 いますと、白河法皇が祇園女御のもとへ通う時には清盛 の父である平忠盛がお供をしていました。ある日、行く 道で小さな光が跳ね回るのを見て、白河法皇は「魔物だ から討て」と命じます。しかし忠盛がその光に近づいて 正体を確かめると、お坊さんがこの灯籠に火を点そうと しているだけでした。そのことを法皇に報告をすると、 「胆力がある」と感心をして、自分が寵愛していた祇園 女御を忠盛に譲り、そしてできた子が清盛だと言われて います。 「力水」 平安京を造るときに、安倍晴明のような陰陽師がいた のか、風水的に方角を見て色々と配置をしています。平 安京は東西南北をそれぞれ青龍、白虎、朱雀、玄武とい Vol.124 7 う霊獣が守っているとされていて、この湧水は御所から 見て東の方角にあるため、 青龍が棲むと言われています。 本殿の地下 90 メートルから汲み上げられているそうで す。 「犬神人」 祇園祭は疫病などを予防するためのお祭りで、疫病が 流行りやすい夏を迎えるまでに、町をきれいにして、神 様をきちんと呼べるように準備をします。中世には祇園 社に仕えた 「犬神人 (いぬじにん) 」 と呼ばれる人たちが、 祇園社の境内を掃除したり、祇園祭の際に神輿を先導し たりしていました。この犬神人は普段は弓弦などを作っ ていました。 中世の祇園社は延暦寺の配下にあったので、 南都北嶺で争いが起こると、比叡山から僧兵が降りてき て、祇園社に保管してある武器庫から武器を持って御所 などに押しかけました。そのために犬神人は常に武器の 保全管理をしていましたが、 のちに平和な時代が来ると、 玩具としての武器、魔よけとして武器を作るように変わ っていったということです。彼らは穢れを清める人々と して、動物の死骸を処理する人たちと同じように、差別 の対象としても見られていたようです。 ●清水寺にて 「鹿間塚」 坂上田村麻呂が懐妊した奥さんの薬として鹿を求めて 山を駆け巡っていたところ、音羽の滝で修業をしていた 奈良の興福寺のお坊さんと出会い、殺生の罪を説かれた ことで奥さんと共に帰依して清水寺を建てるに至ったの ですが、その時に殺した鹿を埋めた塚だと言われていま す。 「梵鐘」 応仁の乱で清水寺が焼け、勧進僧が復興のためのお金 を集めることを請け負いました。願阿上人という人がお 金を集めて、梵鐘を作り、平和の鐘として復興の礎にし たということです。何百年もの間に金属疲労が進んだた め、2008 年に門前町の人たちが同じ形、同じ音色の鐘を 奉納しました。 「本堂」 本堂は桓武天皇が坂上田村麻呂に与えた長岡京の紫宸 殿を移築したものと言われていますが、現在の本堂は寛 永 10 年(1633)に徳川家光の寄進によって再建されま した。 清水寺は千手観音を祀っています。奈良の興福寺の僧 である延鎮上人がこの地で修業をしていた行叡居士と出 会い、渡された霊木で千手観音を彫って奉納したのが始 まりといわれています。当時、仏教と政治との関わりを 絶つために、奈良のお寺を京都に持ってくることはでき ませんでしたが、坂上田村麻呂には、東北を平定したと 8 Vol.124 いう大きな功績があったために、延暦 24 年(805)に土 地を賜り、弘仁元年(810)に嵯峨天皇の承認を得て、 奈良の興福寺と同じ法相宗の寺院となりました。千手観 音には 42 本の手があります。合掌している 2 本は本当 の手で、残りの 40 本の手のそれぞれに 25 の観音力があ るとされていて、合計で 1000 になります。また、薬師 如来には日光菩薩と月光菩薩という脇侍がいますが、こ ちらは坂上田村麻呂が東北に行くということで、勝軍地 蔵菩薩と敵勝毘沙門天が脇侍しています。この仏様が田 村麻呂と一緒に東北へ行き、 援護したと言われています。 清水の舞台は139本のケヤキを組み合わせて骨組みを 作っています。樹齢はだいたい 400 年ほどのものだそう で、樹齢の 2 倍はもつと言われているので、800 年は大 丈夫ということですが、あと 400 年もすると改修をしな いといけないですので、今からそのための木材を植樹し て準備をしているそうです。舞台の隅にある擬宝珠(ぎ ぼし)は 300 年前の工芸品です。今の技術でもなかなか 作れないものだそうですが、それほど貴重なものも、こ こでは実際に触ることができます。 「阿弖流為・母礼之碑」 アテルイとモレは蝦夷と呼ばれていた当時の東北の 人々の指導者です。阿弖流為や母礼という漢字は大和の 人が当てました。当時大和の国が周辺の国々を平定して いくと、その国々は、貢物をもって天皇にあいさつに訪 れ、それに対して天皇もそれに見合うものを授けてお互 いが合意をするのですが、東北からは一向にあいさつに やって来ませんでした。ついには派兵をしますが、東北 までの道のりは非常に遠いので、 途中で食料が切れては、 まともに戦えずに帰ってくるというようなことを何度か 繰り返したあと、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍 として再び東北へ派兵しました。朝廷が東北にこだわっ た理由の一つが馬です。当時の奈良や京都には牛はいた けれども馬はいませんでしたので、どうしても彼らの所 有する馬が欲しかったのです。 田村麻呂は兵隊を連れて、 鍬や鋤を持って東北へ向かい、到着すると辺りを耕して 畑を作り、 自給自足を始めます。 蝦夷とよばれていた人々 は半猟半農の生活でしたので、それを見て農耕に関心を 示し、田村麻呂が農耕技術を教えるのでどうか大和に来 てくれと頼んだところ承諾したと言われています。30 年 あまりも大和と東北の争いが続いていましたので、年を 取ったアテルイとモレも、いい加減争いはやめて部族の 平和を考えようということで大和へ向かいましたが、野 生のオオカミのような部族だと信じ込んでいた人々によ って、河内の国で殺されてしまいました。朝廷を中心に 歴史を見ると、蝦夷は朝廷の威光にひれ伏した人々とい うことになりますが、見方を変えると、アテルイやモレ 2013 年 4 月 5 月 は朝廷の侵略に抵抗し非業の死を遂げた人物ということ にもなります。こうした歴史の見方の変化を承けて、二 人を顕彰するため 1994 年に「阿弖流為・母礼之碑」が 田村麻呂との縁の深いこの場所に建立されました。 「坂者」 平安時代には仏の教えが衰退するという末法思想が流 布していました。この末法が始まるとされたのが永承 7 年(1152)です。末法の時代に人々を守るということで、 急に観音信仰が盛んになりました。紫式部や清少納言も 牛車を連ねて参詣しました。お金のない人も、老若男女 が清水寺へ参詣にやって来ました。当時は清水の舞台の ところで夜中もお経をあげていて、何日も泊りがけでや ってきます。そうすると、途中で行き倒れる人や、病気 になる人が出てきますので、そういう人たちのお世話を したのが 「坂者 (さかのもの) 」 と言われる人たちでした。 清水寺に参詣に来た人がそのまま居ついて坂者に仲間入 りする場合もありました。清掃をしたり、物乞いをした りが日常の仕事で、特権的なものに、葬送権がありまし た。これは祇園社の犬神人も同じで、当時はある一定の 場所まで亡くなった人を運んでくると、そこから先は、 犬神人や坂者と言われる人が葬送を請け負って、墓場ま で連れて行きます。亡くなった人が身に着けているもの などをもらったり、手数料をもらったりして生業にして いました。これは身分の高低に関係ありませんので、大 きな家でお葬式が出ると大変大きな収入になりましたが、 死の穢れに携わる人々ということで、差別の対象にもな りました ※耳塚、豊国神社に関しましては聞き取りができません でしたので、掲載しておりません。ご了承ください。
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