各県別 海事産業の経済学

各県別 海事産業の経済学
(調査対象県)
熊本県、長崎県、愛媛県、広島県
富山県、新潟県、秋田県
平成 24(2012)年 6 月
公益財団法人日本海事センター
はじめに - 各県別海事産業の素描
公益財団法人日本海事センターは、日本海事財団と日本海運振興会(平成
16(2004)年に海事産業研究所を統合)を統合して、平成 19(2007)年に発足し、
海事図書館の運営のほか、海事関係団体の公益事業を支援するとともに、併せ
て IMO(国際海事機関)等での日本政府・関係団体の国際海事政策への取り組み
を支援することを中心にした企画研究業務を推進している。
平成 23(2011)年 4 月には、新しい公益法人制度のもと公益財団法人としての
認定を受け、新たな事業展開を期しているが、その一環として、日頃目にする
ことの少ない各県における海事産業の概観を一般の方々にもわかりやすい形で
とりまとめ、併せて若干の今後の展望を示唆する調査研究を行った。平成
23(2011)年度の調査対象都道府県は、熊本、長崎、愛媛、広島、富山、新潟と
秋田の 7 県である。
平成 23(2011)年は、3 月に東日本大震災という未曽有の自然災害が起こり、
海事関係企業・者にも大きな被害が出たが、他方で、その復興、復旧活動に海
事関係企業・者が果たした役割にも大きな注目が寄せられた。現今のメディア
の取材能力の貧困には目を覆うばかりであり、スキャンダルの報道をもってそ
の使命としているかのような印象があり、日常的に地道に活動する分野にはほ
とんど光があてられることがない。しかし、資源が少なく四面を海に囲まれた
日本は、多くの島嶼を有し、各地で橋梁の整備が進んでいるとはいえ、海事産
業は不可欠な生活・産業インフラである。
「海事産業」をどのように捉えるかに
定説があるわけではないが、別図の我が国海事クラスターの構成に含まれるも
のを基本に、今回の調査研究をとりまとめている。
7 県の報告を通読して頂けると、各県ごとに「海事産業」といっても、その
歴史や地勢により、その状況が当然ながら区々であり、それに対する地元、県、
市町村の対応にも大きな差があることが明らかである。企業活動などについて
は、中央・地方の行政が関与すべきでないとの意見も根強いが、長崎県や今治
市の例をみると、行政の支援も海事産業の発展にとって重要であることが理解
される。
また、報告内容も研究員の資質、能力を反映して精粗区々となっており、統
一性がとれたものとなっていないが、この点ははじめての試みとして御寛恕願
いたい。当センターとして、同様の対象に各研究員がどのように取り組むかを
見つつ、そのレベルアップを図りたいとの狙いをもったものであり、読者もそ
うした視点から各研究員の報告を楽しんで頂ければ幸いである。
平成 24(2012)年度も 7 県程度を選び、同様の調査研究を行っていく予定であ
る。平成 23(2011)年度の調査研究にご協力頂いた関係者の皆様に厚く御礼申し
上げるとともに、今回とりまとめた報告書についても今後見直し、修正を加え
ていく予定であるので、ご批判、ご意見を頂くなどよろしくご協力をお願いし
ておきたい。
平成 24(2012)年 6 月
公益財団法人日本海事センター
理事長
柴 田 耕 介
我が国海事クラスターのイメージ
卸売・小売
金融業
公務
法務
損害保険業
船級
家電
非鉄金属
商社
海運業
船舶管理業
【外洋輸送】
【沿海内水面輸送】
鉄鋼
自動車
ブローカー・
コンサルタント
水運サービス
(水運施設管理等)
水運管理(水路
情報提供等)
その他
輸出入企業
人材派遣
造船業(鋼船)
電力
大学、商船高
専等教育機関
港・ターミナル
石油
舶用工業
港湾管理
穀物
港湾輸送
船舶関連部品、
部材供給
倉庫・物流
海自
海保
海洋土木(浚
渫等)
製紙・パルプ
船舶修繕業
海洋開発
漁業、水産業
マリン
レジャー
調査研究
各県別 海事産業の経済学 - 目次 はじめに – 各県別海事産業の素描
目次
熊本県の海事産業 ………………………………………………………………… 1
はじめに - 熊本県の県勢 …………………………………………………… 1
1.水産業 ………………………………………………………………………… 5
2.造船業と舶用工業 …………………………………………………………… 7
3.港湾・外航海運業 ………………………………………………………… 10
4.内航海運業 ………………………………………………………………… 16
5.旅客船業 …………………………………………………………………… 17
6.船員数と船員教育・育成機関 …………………………………………… 21
7.官公署(国土交通省関係) ………………………………………………… 22
おわりに ……………………………………………………………………… 22
長崎県の海事産業 ………………………………………………………………
24
1.地勢等 ………………………………………………………………………
2.漁業 …………………………………………………………………………
3.造船・舶用工業 ……………………………………………………………
4.港湾・海運 …………………………………………………………………
5.船員・船員教育等 …………………………………………………………
6.官公署(国土交通省関係) …………………………………………………
24
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33
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愛媛県の海事産業 ………………………………………………………………
44
はじめに ………………………………………………………………………
1.港湾及び港湾運送事業 ……………………………………………………
2.内航海運・旅客船事業 ……………………………………………………
3.造船業、舶用工業 …………………………………………………………
4.国際都市今治 ……………………………………………………………
5.今治市の造船業 ……………………………………………………………
6.今治市の舶用工業 …………………………………………………………
7.今治市のオーナー業 ………………………………………………………
8.海事産業の発展に貢献した学校と銀行 ………………………………
9.今治市海事都市推進課の取り組みなど …………………………………
10.来島海峡海上交通センター ………………………………………………
11.官公署(国土交通省関係) …………………………………………………
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おわりに…………………………………………………………………………
55
広島県の海事産業 ………………………………………………………………
57
はじめに ………………………………………………………………………
1.広島県の産業 ………………………………………………………………
2.造船・船舶修繕 ……………………………………………………………
3.船主、海運業 ………………………………………………………………
4.旅客船、プレジャーボート(「海の駅」)、みなとオアシス…………
5.船員 …………………………………………………………………………
6.港湾 …………………………………………………………………………
7.教育機関 ……………………………………………………………………
8.曳船業、水先人、海事代理士 ………………………………………………
9.官公署(国土交通省関係) …………………………………………………
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72
75
77
77
84
86
86
富山県の海事産業 ………………………………………………………………
88
はじめに - 日本海側のほぼ中央に位置する富山県……………………… 88
1.高低差 4,000m の豊かな大地……………………………………………… 89
2.富山県のブランド ………………………………………………………… 89
3.「越中女一揆」が有名にした魚津港 ……………………………………… 90
4.日本海側拠点港に選定された伏木富山港 ……………………………… 90
5.港湾運送業者 - 港湾のプロフェッショナル …………………………… 94
6.富山の海運業………………………………………………………………… 95
7.定期コンテナ航路における伏木富山港の利用………………………… 100
8.航行安全を守る人々 …………………………………………………… 101
9.富山の造船業の今 - 新造船の建造をしなくなった造船業 ………… 103
10.伏木富山港に咲く「海の貴婦人」を支える人々 ……………………
106
11.ロシア極東地域は富山を育む - ロシア極東貿易と富山 …………… 107
12.おわりに - 万葉埠頭の灯台 …………………………………………… 108
13.官公署(国土交通省関係) ……………………………………………… 109
新潟県の海事産業 ……………………………………………………………… 112
1.県勢…………………………………………………………………………
2.港湾…………………………………………………………………………
3.港湾関係物流企業 ………………………………………………………
4.フェリー・旅客船サービス ……………………………………………
5.曳船業 ………………………………………………………………………
6.船員数と船員教育・育成機関 ……………………………………………
112
113
123
124
127
127
7.造船業と舶用工業 ………………………………………………………… 128
8.水産業 ……………………………………………………………………… 128
9.官公署(国土交通省関係) ………………………………………………… 130
秋田県の海事産業 ……………………………………………………………… 132
1.地理・歴史 …………………………………………………………………
2.気候・県民性 ………………………………………………………………
3.名産品・名物 ………………………………………………………………
4.経済状況・産業動向 ………………………………………………………
5.秋田県と諸外国との外航貿易 ……………………………………………
6.秋田港 ………………………………………………………………………
7.その他の港湾 ………………………………………………………………
8.港湾運送業 …………………………………………………………………
9.曳船業・倉庫業・水先人・海事代理士 …………………………………
10.海事関連の教育機関・船員関連 …………………………………………
11.造船業・船舶修繕業 ………………………………………………………
12.水産業 ………………………………………………………………………
13.官公署(国土交通省関係) …………………………………………………
14.まとめ ………………………………………………………………………
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執 筆 者 一 覧
熊本県の海事産業
研究員
松田琢磨
長崎県の海事産業
研究員
野村摂雄
愛媛県の海事産業
主任研究員
野田雅夫
広島県の海事産業
研究員
中村秀之
富山県の海事産業
次長
福山秀夫
新潟県の海事産業
次長
臼井潔人
秋田県の海事産業
情報課長
奈良
孝
熊本県の海事産業
はじめに – 熊本県の県勢
(1)地勢等
1)自然条件
熊本県は博多から南に 100km、鹿児島から北に 140km、長崎から東に 80km
と九州地方のほぼ中央にあり、東京からは 1,000km、ソウルから 600km の
場所に位置する。面積は 7,405km2(全国 15 位)、東京都の 4 倍弱の広さで、
かつての肥後国全域となっている。その範囲は東西 143km、南北 127km に
及ぶ。うち 62.9%(4,641km2)が森林で占められ、北、東、南と三方向を山
地が囲んでいる。北部は比較的緩やかな筑肥(ちくひ)山地で、東部から南
部にかけては 1,000 メートル級の九州山地の山々が連なり、阿蘇山(標高
1,592m)はその中にあり、火山活動によってできたカルデラは世界有数であ
る。阿蘇山を含む地域は「阿蘇くじゅう国立公園」に指定され、有名観光地
となっている。
西部は海に向けて開かれている。熊本県の海岸線総延長は全国 9 位の
1,068km に上る。海岸線は有明海、八代海(不知火海)に面し、外洋の東シ
ナ海へと続く。熊本県には 178 の島(うち有人島 18)がある。うち 120 余り
は有明海から天草地方に位置しており、多くの島と海を望む多島海景観(た
とうかいけいかん)やリアス式海岸、海食崖(かいしょくがい)、陸繁島(り
くけいとう)など変化に富んだ景観を見ることができる。天草沿岸部は珊瑚
の生息する最北限であり、熱帯魚や珊瑚類など南国ならではの特徴も見せ
ている。この地域は「雲仙天草国立公園」に指定され、観光地として名高
い。県南部には、球磨郡水上(みずかみ)村の石楠越(しゃくなんごし、標高
1,391m)と水上越(みずかみごし、標高 1,458m)を源流に、人吉盆地を通り
抜け、八代海へ注ぐ日本三大急流の一つ球磨川がある。球磨川河口の八代
地域は干拓によって発展した八代平野を中心に広がっている。八代平野か
ら南の芦北(あしきた)、水俣地域は山地が多くを占める。
2)気候
熊本県は全般的に見ると温暖で、県平均で見た年平均気温は 17.4 度(平
成 22(2010)年、全国平均 15.8 度)で全国 7 位と上位にある。ただし、気
候は地域によって大きく異なる。宇土市から山鹿市・菊池市に至る北西部
地域、県東南部の人吉地域は夏蒸し暑く、冬は寒い内陸的気候である。阿
蘇市から小国町にかけての県北東部は夏涼しく、冬の寒さが厳しい山地型
気候となっており、天草や八代、水俣地域は温暖な海洋性気候である。年
間降水量は 2,074mm(全国平均 1,847mm)で、九州山地の西側にあたること
もあり、東シナ海からの暖かく湿った空気が流れ込んで、大雨や集中豪雨
1
が発生しやすい。6~7 月の 2 ヵ月で年間降水量の約 4 割が降るため、土
砂災害や洪水が起こりやすいことでも知られる。一方で、降水量の多さは
豊かな水資源をもたらしている。熊本県では白川水源、池山水源、菊池水
源、轟水源の 4 ヵ所が、環境庁(当時)選定の「名水百選」に選ばれている。
また、「平成の名水百選」にも、水前寺江津湖湧水群、金峰山湧水群、南
阿蘇村湧水群、六嘉湧水群・浮島と 4 ヵ所が選定されている。熊本県は生
活用水を地下水に依存する比率が約 83%と、全国の約 23%に比べかなり高
い。とくに、熊本市の上水道はほぼ 100%が地下水でまかなわれている。
<図 1> 熊本県の地図
北
(出典) でじぽっとウェブサイト
3)県民性
熊本県人の県民性について、古来より一途で純粋であるという評価があ
るようだ。『熊本県の歴史』(山川出版社)は近世の熊本を訪れた旅人の日
記に記された熊本人気質として「規律・規則に厳しく堅苦しい反面、人情
の細やかなことはこのうえない」と紹介している。吉田松陰は熊本の人々
の気質を評価し、「熊府人(ゆうふじん)と議論して資益(しえき)多く気性
活発此に至ることを得たり」と述べている。一方で、理屈が多く頑固であ
るとも言われる。熊本県民も自らを「肥後もっこす」「一人一党」と言う
ことが多いようだ。もっこすは頑固一徹で無骨なことを指す。
「一人一党」
は各人が主導権を握りたがり、足を引っ張り合う気風を指す。司馬遼太郎
も著書『街道を行く』(朝日新聞社)の中で「肥後人は元来がモッコスで、
2
各県別 海事産業の経済学
平成 24(2012)年 6 月
執 筆 者 一 覧
熊本県の海事産業
研究員
松田琢磨
長崎県の海事産業
研究員
野村摂雄
愛媛県の海事産業
主任研究員 野田雅夫
広島県の海事産業
研究員
中村秀之
富山県の海事産業
次長
福山秀夫
新潟県の海事産業
次長
臼井潔人
秋田県の海事産業
情報課長
奈良 孝
公益財団法人 日本海事センター
企画研究部
一人一党で、統治者からみればじつに治めがたい集団であったらしい」と
述べている。
(2)歴史
この地域は気候が温暖で、水も豊かに存在したこともあり、早くから人々
の住んでいた形跡が見られる。平成 6(1994)年に発掘調査が行われた石の本
遺跡(熊本市)では、3 万年以前の石器群が見つかった。また、旧石器時代、
縄文時代の遺跡も多く発見されている。古墳時代には火君(ひのきみ)と呼ば
れる八代海や有明海を掌握した豪族が、近畿地方や大陸と交流を持っていた
ことも知られている。平安時代に入ると、肥後国には 14 の郡とその下に 99
の郷が設立された。このころから鎌倉時代にかけて武士団が台頭し、阿蘇氏、
菊池氏、相良氏、名和氏などの活躍が見られた。室町末期には、豊後の大友
氏、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏によって争奪戦の的となり、豊臣秀吉が
天正 15(1587)年に九州を平定するまで島津氏の勢力下におかれた。秀吉の
九州平定後、佐々成政が肥後国主(球磨地域を除く)に任命されたが、成政
は性急に検地を進めて国人が不満を募らせ、改易された。これを受けて、加
藤清正が肥後の北半国を、小西行長が球磨地域を除いた南半国と天草を治め
ることとなった。球磨地域は鎌倉時代からこの地域を治める相良氏の相良頼
房の領土となり、その後人吉藩となって明治維新まで続いた。
慶長 5(1600)年の関ヶ原の戦いで、小西行長が西軍につき処刑された後、
球磨、天草地域を除く肥後国は加藤清正の領土となった。清正は熊本城の建
築、領内では土木・治水工事を手掛け、インフラを整備した。寛永 9(1632)
年、清正の息子忠広の改易後、細川忠利(忠興・ガラシャ夫妻の息子)が肥後
に入国し、明治維新まで球磨、天草を除く肥後 54 万石が細川氏によって統
治された。忠利は剣豪宮本武蔵を熊本に招いたことでも知られている。武蔵
は熊本で「五輪書」を著し、最期を迎えている。
キリシタン大名であった小西行長が治めることとなった天草では、キリス
ト教が広くいきわたり、天正 19(1591)年にはキリシタンの最高学府コレジ
オ(天草学林(あまくさがくりん))が建設された。コレジオでは、天正遣欧使
節団が初めて日本に持ち帰ったグーテンベルク式活版印刷機で、「イソップ
物語」や「平家物語」など様々な書物が出版されたことが知られている。し
かし、行長の死後、天草は唐津藩主寺沢弘高の領土となり、慶長 18(1613)
年にはキリシタン禁教令が出された。弾圧と重税に苦しめられた農民による
一揆が、寛永 14(1637)年の天草・島原の乱であった。鎮圧後、明治維新ま
で天草は天領となった。
現在の熊本県の形になったのは明治 9(1876)年のことで、この時期熊本県
は神風連(じんぷうれん)の乱、西南戦争など不平士族の反乱の戦場となった。
西南戦争が起こった際、熊本に設立された熊本洋学校において、佐野常民(さ
のつねたみ)が博愛社を創立したことが日本赤十字社の起源となっている。
明治 20(1887)年には第五高等中学校(現在の熊本大学)が設立され、夏目漱
3
石、小泉八雲、嘉納治五郎らが教鞭をとったことで知られている。明治時代
以降、熊本市には陸軍第六師団や国の出先機関が置かれ、熊本市は九州を代
表する軍都であり、行政都市であった。大正時代までに中心地にあった軍の
施設の移転が進み、上水道の整備、市電の開業と合わせ都市基盤の整備が進
むこととなった。一方、天草地域では江戸時代から急激な人口増加が続いて
おり、多くの人々が島外で出稼ぎすることを余儀なくされた。その後、熊本
市は昭和 20(1945)年の大空襲で市街地が焼け野原となり、戦後の 2 度の大
水害を経て市街地が整備された。昭和 41(1966)年には、三角から天草諸島
の大矢野島(おおやのじま)、永浦島(ながうらじま)、池島(いけしま)、前島
(まえじま)を経て天草上島(あまくさかみしま)まで至る天草五橋(あまくさ
ごきょう)が完成するなど、熊本県下の交通網整備も進んだ。なお、1950 年
代後半以降、八代海に面する水俣地域で発生した公害の原点とも呼ばれる水
俣病は、化学品メーカーであるチッソ(現在 JNC 株式会社に分社化)が水俣湾
に流した有機水銀に汚染された廃液によって引き起こされた。
(3)経済等の動向
1)人口・経済の動向
熊本県は 14 市 23 町 8 村からなっている。熊本県の人口は 181.7 万人(平
成 22(2010)年国勢調査、以下同様)で、平成 14(2002)年以降減少が続く。
県庁所在地で平成 24(2012)年 4 月から政令指定都市に移行した熊本市が、
73.4 万人と県全体の人口の 4 割を占める。熊本市に次ぐ規模を持つのは
八代市で、人口は 13.2 万人に上るが、熊本市への集中傾向がみられる。
熊本県もほかの地方と同様人口構成が高齢化しており、65 歳以上の人々
が人口に占める割合は平成 23(2011)年に 25.7%と過去最高を記録した。
平成 21(2009)年度における熊本県の県内総生産(県内で生み出された
付加価値の合計額)は 5.4 兆円で日本全体の 1.1%、全国 25 位と中位程度
の規模となる。平成 14(2002)年から平成 19(2007)年までは、実質経済成
長率もプラスとなっていたが、世界的な景気後退を受けて、平成 20(2008)
年以降は熊本県の実質経済成長率もマイナスに転じている。
県内総生産のうち、第一次産業(農業・漁業)は 0.2 兆円、第二次産業(鉱
業、製造業、建設業)は 1.1 兆円、第三次産業(サービス業、運輸業など)
は 4.3 兆円で、それぞれ県全体の 2.8%、19.6%、80.1%を占める。第二次
産業の中では、電気機械、食料品、輸送用機械の各製造業のシェアが高く、
造船業を含む輸送用機械の総生産額は 684 億円で熊本県の県内総生産の
1.3%にのぼる。第三次産業の中ではサービス業、不動産業、卸売・小売業
が多く、次いで運輸・通信業となっており、海運業を含む運輸・通信業の
総生産額は 0.4 兆円、シェア 7.0%である。1 人当たり県民所得は 218 万円
で全国 43 位、全国平均 279 万円の 78.2%にとどまり、平成 17~19(2005
~2007)年の時期を除き減少傾向が続いている。就業人口は平成 22(2010)
年時点で、第一次産業 8.7 万人、第二次産業 16.7 万人、第三次産業 58.4
4
万人で、それぞれ県全体の 10.4%、20.1%、69.5%を占める。海運業を含む
運輸業の就業人口は 3.6 万人、シェア 4.3%となっている。
2)貿易・物流の動向
熊本県の港湾・空港からの輸出額は 217.8 億円、輸入額は 852.9 億円と
なっている(平成 23(2011)年)。ただし、熊本空港からの輸出入はほとん
どなく、ほとんどすべてが港湾からの輸出入のものである。全国に対する
シェアは、輸出が 0.03%、輸入が 0.13%と決して高くない。輸出先は韓国、
中国の 2 ヵ国がほとんどで、金属くずや再利用資材、産業機械、砂糖とい
った品目が多い。輸入相手国は米国、豪州、韓国、中国、南アフリカの順
となっており、トウモロコシ、木材チップ、化学薬品、非鉄金属、石炭な
どが多くなっている。
平成 20(2008)年の「輸出入貨物の物流動向調査」(財務省)によると、
熊本県で生産された財の輸出については、船舶を用いる場合、博多、八代、
門司、神戸、下関の各港を経由して輸出がなされる。熊本県は半導体、自
動車産業の集積がみられるが、半導体であれば関西空港や成田空港から航
空貨物で運ぶことが多く、自動車産業であれば博多港などを使うことが多
いとみられている。輸入貨物の大半は苓北(れいほく)、八代、博多の各港
を経由して輸入がなされている。
国内の貨物流動をみると、平成 21(2009)年度時点で 1,931 万トンの貨
物が熊本県から県外に送られ、2,068 万トンが県外から熊本県に入ってい
る。熊本県からの貨物の移出先としては、宮崎、福岡、大分、佐賀、鹿児
島と九州各県になる。ただし、これらの県は隣県であるため、ほとんどが
トラック・鉄道で運ばれる。海上輸送で熊本県から運ばれる貨物量は 79.8
万トン、熊本県に運ばれる貨物量は 358.8 万トンとなっている(平成 22
(2010)年度)。海上貨物による移出先として多いのは福岡、大分、山口、
神奈川、岡山の各県となる。海上貨物で移出される貨物としては、ブリジ
ストンやホンダなど大手荷主による貨物のほか、古紙や廃プラスチックな
どが多い。貨物の移入元としては福岡、鹿児島、大分、佐賀、宮崎とやは
り近隣県が大きな割合を占め、海上貨物の移入元で多いのは山口、福岡、
大分、長崎、香川となる。運ばれる貨物は石油製品、セメント、鉄鋼など
がある。
1.水産業
(1)熊本県の水産業
熊本県は水産業の盛んな県であり、水産業の就業者数は 8,722 人で全国第
8 位となっている。県内の漁港は島嶼(とうしょ)部を中心に、天草地域に 65、
八代市や水俣市などの芦北地域に 14、宇城市、熊本市など県中部から北部
に 24、合わせて 103 あり全国第 8 位である。漁船の入港船舶数は年間約 4.8
5
万隻(平成 22(2010)年港湾統計)を数え、全国第 5 位である。とくに盛んな
ものは養殖業であり、生産額は 265 億円で第 4 位と全国でも上位の生産額を
誇っている。なかでも、海苔や真珠、真鯛、クルマエビ、ふぐの全国的な産
地としても知られており、海苔、真珠ともに生産高は全国第 4 位、クルマエ
ビは全国第 3 位、真鯛とふぐは全国第 2 位である。熊本港のすぐ北側にも海
苔の養殖場が広がっており、フェリーから眺めることができる。真鯛は韓国
にも輸出され、重量ベースで漁獲高の約 3%は韓国向けとなっている。養殖
業は 1960 年代から始まり、恵まれた地形を生かし、天草上島、下島の周辺
と芦北地方を中心に広く発展してきた。ただし、近年は燃料油価格高騰や価
格低下に苦しんでおり、真珠養殖では撤退も見られるなど苦しい状況が続い
ている。養殖業以外でも寿司種のコハダ、シンコとなるコノシロは全国第 1
位で約 3 割のシェア、アサリも全国第 2 位の生産高となっている。
<図 2> Kumamoto Oyster(上)とマガキ(下)
(出典) 熊本県水産研究センターウェブサイト
(2)Kumamoto Oyster
昭和 22(1947)年頃、GHQ(連合国軍総司令部)の指令の下、宮城県と熊本
県から種ガキを米国まで輸出することになり、八代海からシアトルに輸出さ
れた種ガキはシカメガキと呼ばれる小ぶりの品種であった。このカキは米国
で好評を得て、”Kumamoto Oyster”の名で高級カキとして現地で盛んに養殖
され、ブランド化されるようになった。米国産“Kumamoto Oyster”は日本
に進出したオイスターバーでも価格の高い品種となっている。たとえば、グ
ランド・セントラル・オイスター・バー&レストランでは、平成 24(2012)
年 2 月 2 日時点で、ひとつ 550 円と 12 品目中 4 番目に高く、国産のものよ
り 100 円弱高かった。他方、熊本県のシカメガキであるが、米国で生産がで
きるようになったことに加え、輸出価格が下落し漁業者の生産意欲が減退し
6
たため、熊本県からの輸出は昭和 33(1958)年で途絶えた。しかしその後、
世界的ブランドの”Kumamoto Oyster”が熊本由来であることに着目し、平
成 18(2006)年に熊本県水産研究センターで新たに商品化の取り組みが始ま
った。平成 22 (2010)年から熊本県各地で養殖試験が実施され、
平成 23(2011)
年 3 月 14 日に初めて出荷され、平成 24(2012)年も 3 月から試験出荷が行わ
れている。
2.造船業と舶用工業
(1)熊本県の造船業・舶用工業
熊本県の製造品出荷額(従業員 4 人以上の事業所)は約 2 兆 5,209 億円(平
成 22(2010)年工業統計)
。これは日本全体の 0.9%、全国第 31 位となる。船
舶製造・修理業の製造品出荷額は 943.1 億円、舶用機関製造業の製造品出荷
額は 752.8 億円で、それぞれ県全体出荷額の 3.7%、3.0%を占める。船艇製
造・修理業の製造品出荷額は 37.9 億円である。
熊本県には造船法に基づく許可造船所が、長洲町にあるユニバーサル造船
(株)有明事業所のほか 9 社、小型船造船業法による登録造船所が 23 社、造
船法届出造船所は 19 社となっており、合計で 35 社(平成 21(2009)年、重複
除く)となっている。ユニバーサル造船(株)有明事業所を除くと、造船法に
基づく許可造船所の中で新造船の建造を行っているのは、熊本ドック(株)
(八代市)と(株)篠崎造船鉄工所(宇城市)、肥後造船(株)(上天草市)の 3 社で
ある。熊本ドック(株)はこの 3 社の中では一番大きく、従業員も 100 人を超
える。安政年間に天草で漁船の造船業として創業され、大正年間に八代に移
った経緯をもつ歴史のある造船会社である。現在はタンカーを中心に建造を
行っている。(株)篠崎造船鉄工所は従業員 29 名の造船所であり、一般貨物
船などの建造を行っている。このほか上天草市にはプレジャーボートや漁船
などを製造するヤマハ発動機(株)の子会社、ヤマハ天草製造(株)がある。東
日本大震災で多くの漁船が被災したが、政府は漁業協同組合が組合員のため
に漁船を建造する場合に、国と県が費用の 3 分の 1 ずつを補助する制度を作
り漁業を再開できるように措置をとった。これによって、ヤマハ天草製造
(株)では平成 23(2011)年度は漁船 700 隻の受注があった。平成 22(2010)年
度の生産実績が 120 隻であったのに対して 6 倍近い大きな受注があり、増産
体制をとって対応している。
舶用工業については、舶用機関製造業が 12、舟艇製造・修理業が 13(上述
したヤマハ天草製造(株)もここに含まれる)、船体ブロック製造業が 1 で、
合わせて 26 事業者がある。従業員数では 1,649 名となっている(平成 22
(2010)年工業統計、舶用機関製造業者)。舶用工業関連で大きな企業は、ユ
ニバーサル造船(株)有明事業所に隣接する日立造船(株)有明工場があり、従
業員数は 470 名となっている。日立造船(株)有明工場では、船舶のエンジン
などを製作しており、国内だけではなく、韓国など外国にも輸出を行ってい
7
る。八代市にはヤマハ発動機(株)の海洋部門子会社であるヤマハ熊本プロダ
クツ(株)があり、従業員数は 494 名となっている。ヤマハ熊本プロダクツ
(株)は船外機を製造しており、世界各国に輸出している。ただし、熊本県の
海運業者と熊本県の造船業者との間の取引は多くない。原因のひとつは造船
業者が少なく、ニーズに合った業者がいないことである。熊本県の海運業者
は内航業者であり、東北ドック鉄工(株)や(株)ヤマニシ、函館どつく(株)
など内航海運業者をターゲットとした造船所を使うことが多いとのことだ。
もう一つの原因は、熊本県の内航海運業者が船舶を運航するのが、瀬戸内、
東海地区などであることである。熊本県で造船・修繕を行うためには運航を
休んで回航する必要があり、コストが高くついてしまうということだ。
(2)ユニバーサル造船(株)有明事業所
熊本県の造船業の中で圧倒的に大きな位置を占めるのが、長洲町にあるユ
ニバーサル造船有明事業所(以下、有明事業所)である。有明海に面する形で
1.07km2 にものぼる敷地面積はユニバーサル造船の中で最大であり、商船建
造で主力の造船所となっている。
<図 3> ユニバーサル造船有明事業所
(出典) ユニバーサル造船(株)ウェブサイト
昭和 44(1969)年、日立造船(現、ユニバーサル造船(株))は、陸上機械、
造船の双方で大型工場を建設する計画を決定し、全国で 8 県 25 地点を対象
に立地調査を始めた。長洲町は有明海に面して潮の干満差が大きく、ヘドロ
地帯でもあったために調査対象のリストに入っていなかった。熊本県の別の
候補地を見た後で、調査担当者が「もっと他に良いところはないんですかね」
と言った際に、熊本県の誘致係長が長洲町を紹介し、海底のボーリング調査
で地盤には問題がないことも判り、一躍最有力候補となった。当時の寺本広
作(てらもとこうさく)熊本県知事、河端脩(かわばたおさむ)副知事の熱意も
あり、副知事自らが陣頭指揮をとり、地元漁協との調整も素早くまとめ上げ、
8
昭和 48(1973)年には 592 名の従業員で操業を開始した。従業員数は昭和 50
(1975)年に 2,836 名を数えた(陸機部門を含む)。
有明事業所の建設に前後して、有明事業所向けに造船用鋼材の荷揚げ・仕
分・保管のほか、研磨材を噴射して鋼材のスケール等の汚れを除去するショ
ットブラストなど鋼材加工を行う有明スチールセンター(株)や関連企業が
有明事業所に近い名石浜(めいしはま)工業団地に進出を開始し、資材を納入
している 7 社が荒尾市の荒尾鐵工団地に進出した。有明事業所は建設当初、
1.52 km2 の敷地に造船と陸機部門を配置、造船所は長さ 620m と 420m の 2
基のドック、700 トンの揚荷能力を持つゴライアスクレーンを建設した。
1980 年代の造船不況が起こる前にできた最後の世代に当たる造船所であり、
初めから船舶の大型化を意識しており、作業効率を上げるため大型船に特化
したレイアウトとなった。昭和 49(1974)年には竣工第一号となる VLCC(Very
Large Crude Oil Carrier)「春光丸(しゅんこうまる)」(234,200 載貨重量
トン)が完成した。その後も得意とする 30 万トン級の大型タンカーのほか、
ばら積み船、LPG 運搬船、海上石油貯蔵船などの海洋構造物、フローティン
グドックなどの建造も行われた。平成 5(1993)年には、日本で初めて、世界
でも 2 隻目のダブルハル(二重船殻構造)VLCC の AROSA(291,381 載貨重量ト
ン、現在は別の船主に売られ、船名は AMITY P に変更)を建造した。
平成 14(2002)年、日立造船(株)と日本鋼管(株)の船舶部門がユニバーサ
ル造船(株)として統合され、日立造船(株)有明事業所の造船部門がユニバー
サル造船(株)有明事業所として、陸機部門は日立造船(株)有明工場として操
業が開始されることとなった。現在の有明事業所の敷地は 1.07km2 となって
いる。従業員数は関連会社の従業員と協力・下請け会社の従業員を合わせ約
2,000 人に上る。事業所採用の従業員はほぼ全員が地元出身者とのことだ。
ユニバーサル造船(株)が営業を始めた平成 14(2002)年から平成 24(2012)
年 2 月までに、有明事業所で 68 隻、946 万総トンの船舶が建造された(IHS
Fairplay データによる)。これは同社が建造した船舶隻数の 29.4%にあたり、
総トンベースでは 49.4%に上る。有明事業所は現時点で年あたり VLCC 7.5
隻の建造能力をもっている。平成 24(2012)年 5 月には 1,200 トンの揚荷能
力を持つゴライアスクレーン 1 基が稼働を開始した。もう 1 基も 9 月中旬か
ら稼働を開始する予定となっており、建造能力は VLCC 年 8 隻まで向上する
予定である。有明造船所が得意とする VLCC やばら積み船は中国の造船業者
と競合することが多い。中国の民間造船業は近年の受注難に対して安値受注
で対応して船価の下落を招いており、VLCC の船価はリーマンショック前の
平成 19(2007)年ごろには 1 隻当たり 1.5~1.6 億ドルであったものが、現在
では 1 億ドル以下となっている。これに円高が加わり、経営を圧迫している。
これに対して、ユニバーサル造船では、コスト削減に加えて環境性能の高い
船を造って対抗することを目指している。もともと有明事業所で建造された
船舶は燃費の良さでは顧客から高い評価を得ている。しかも、平成 23(2011)
年 7 月に開催された第 62 回 IMO 海洋環境保護委員会(MEPC62)において
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導入の義務化が決まった EEDI(Energy Efficiency Design Index、エネルギ
ー効率設計指標)についても、平成 37(2025)年に導入される最終的な段階
(Phase3)の基準も現段階でクリアしているとのことだ。そのほか、最近発表
された(株)IHI マリンユナイテッドとの統合による規模の経済性の獲得や、
価格交渉力や設計力の強化を通じ、コストを下げつつプレミアムのとれる船
舶を建造していくことで将来に備えていきたいとのことである。
3.港湾・外航海運業
(1)熊本県の港
熊本県の港が現在の形になる前は、高瀬(玉名市)、川尻(熊本市)、徳淵(と
くぶち、八代市)など中国や朝鮮との海外貿易で知られた港が存在した。た
とえば、熊本県出身の民俗学者、谷川健一の『列島縦断地名逍遥』では、天
文 23(1554)年時点で、八代城に居を構えた相良氏が明と貿易するための船舶
を 16 艘保有していたとの話が紹介されている。これらの港は加藤清正が入国
した天正 16(1588)年以降、さらに整備が進められた。江戸時代には、肥後で
生産された米を大阪まで運ぶための拠点となった。肥後米は取引量が多いだ
けでなく高い品質でも知られ、世界初の現代型先物取引が始まった堂島米会
所(どうじまこめかいしょ)でも広島米、中国(周防、長門)米、筑前米と並び
価格設定のための標準米となっていた。
明治時代になると、宇土半島(宇城(うき)市)にある三角港(現在の三角西
港)の建設が進められるなど開発が進んだ。熊本県では、明治 9(1876)年に起
こった神風連(じんぷうれん)の乱や翌年の西南戦争からの復興を進めるため、
明治 13(1880)年に県会議員 78 人の連名によって、港湾修築建言書が県令(当
時の県知事)富岡敬明(とみおかけいめい)に提出された。内容は熊本市中心部
に近い百貫石(ひゃっかんせき)港を修築して、県の産業の振興を図りたいと
いうものであった。しかし、内務省の嘱託技師、オランダ人のルーエンホル
スト・ムルドルが百貫石港の調査を行った結果、遠浅であること、河川から
の土砂の流入が多く大きな船が入港できないことが理由となって、港の建設
が断念された。
現在では、いわゆる重要港湾が 3 港(熊本港、八代港、三角港)、地方港湾
が 23 港存在する。漁港も含めると熊本県の港の数は 129 になる。以下では、
熊本、八代、三角の重要港湾 3 港と苓北港(苓北発電所)について紹介してい
きたい。
(2)熊本港
熊本市近くの熊本港が使われるようになるまでには、港湾建設技術の進歩
を待たなければならなかった。熊本市近くでの新港建設に対する要望に応え、
重要港湾指定を受けて調査・設計が始まったのは昭和 49(1974)年のことで
あった。平成 5(1993)年にフェリー関連施設が完成して港の供用が始まった。
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熊本港はフェリー岸壁 2 バース、公共岸壁 6 バースと、漁船・公官庁船舶用
船だまりが供されており、現在も整備が続いている。平成 24(2012)年度に
は、コンテナ用のガントリークレーンが整備される予定となっている。平成
11((1999)年より、熊本港には定期コンテナ船が釜山との間で就航している。
韓国の高麗海運が新亜造船(現在は新亜エスビー)で建造されたコンテナ
船「SUNNY SPRUCE」(342TEU)を用いて、熊本港のほか八代港、長崎港を経由
する便を週 1 回運航している。三角海運(株)が熊本港での代理店業務を行っ
ている。熊本港では、平成 21(2009)年度以降ポートセールス協議会によっ
てコンテナ定期航路の利用促進のための助成事業が実施されている。これに
加え、平成 23(2011)年度から熊本市が追加助成を開始した。助成制度を利
用すると、熊本港を利用し一定の条件を満たす荷主に対して、新規荷主では
1TEU あたり 20,000 円、継続して利用している荷主では同 15,000 円が補助
される。そのほか、植物防疫、検査費用助成などの地域性を考慮した助成事
業もポートセールス協議会によって行われている。
平成 22(2010)年港湾統計によると、
熊本港には年間で外航商船 78 隻(13.7
万総トン)、内航商船 414 隻(21.4 万総トン)が入港している。また、後述す
るようにフェリーの定期航路があることもあり、熊本港に入港する船舶の
91.9%はフェリーの入港で 5,760 隻(642.6 万トン)となっている。平成 23
(2011)年における輸出額は 95.0 億円で全国 95 位、輸入額は 58.8 億円で全
国 115 位となっている。コンテナ取扱量は輸出が 1,507TEU、輸入が 1,855TEU
年であった。
輸出相手国を金額シェアで見ると、中国 29.5%、米国 14.4%、インド 8.6%、
ドイツ 8.0%、香港 5.8%と上位 5 ヵ国で 7 割弱を占める。中国向けには廃プ
ラスチック、農業用機械、建設・鉱山用機械などが多い。廃プラスチックは
多くが再生資材で、程度の良い原料及びその一歩手前のものがコンテナで運
ばれるとのことであった。そのほか、古紙や古着も輸出されている。米国、
ドイツ、香港向けは電気機器のシェアが高くなっている。インド向けでは電
気機器とゴム製品の輸出が多い。熊本港からのコンテナによる輸出相手国を
TEU ベースで見ると、中国が 36.8%、韓国が 28.4%、ベトナムが 13.6%、イン
ドが 10.6%のシェアとなっている。ベトナム向けのコンテナ貨物の中では衣
料品の次に木材が多くを占めている。現在、日本の木材は安くて品質が良い
とのことで、熊本県で生産されたヒノキが輸出されている。
輸入相手国を金額シェアで見ると、中国 37.3%、韓国 37.3%、タイ 9.8%と
これら 3 ヵ国で 8 割強を占める。中国から輸入される品目はあさり、トレー
ニング機器、金属製品などの輸入が多く、韓国からはエンジン、金属製品、
飼料の輸入が多い。タイからはエンジンやガラス製品の輸入が多い。輸入は
圧倒的にばら積み貨物が中心となっている。コンテナによる輸入相手国を
TEU ベースで見ると、韓国が 34.8%、中国が 29.8%、インドネシアが 14.6%
のシェアとなっている。韓国から運ばれるコンテナは機械類が半分を占める。
中国から輸入されるコンテナで最も多いのは、大連から運ばれる豆類となっ
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ている。その他、インドネシアからコンテナで運ばれる品目としては飼料が
半分以上を占める。熊本県は牧草の消費が多く、米国のポートランドから運
ばれる牧草などもコンテナで運ばれている。
(3)八代港
八代港は球磨川の河口に位置し、江戸時代からの干拓によって開かれた。
江戸時代は、球磨川を利用した内陸部からの物資輸送や海産物の集約拠点と
して発達してきた。近代港湾として変貌し始めたのは、明治時代に港湾整備
が進み、企業の進出が始まってからのことである。明治 23(1890)年の日本
セメント(現在の太平洋セメント(株))の進出が八代への企業進出の嚆矢と
なった。明治 29(1896)年には鹿児島本線が八代まで開通してからは、様々
な企業が八代に立地を行うようになり、十條製紙、東肥製紙(とうひせいし)
(いずれも現在の日本製紙(株))、興国人絹(こうこくじんけん)パルプ(現在
の(株)興人)、三楽オーシャン(現在のメルシャン(株))など大工場が相次い
で進出し、港湾の重要性が飛躍的に増大した。さらに、戦後の昭和 23 (1948)
年から内港地区の整備が始まり、港湾と河川が分離され、昭和 33 (1958)年
から外港地区の整備が開始された。昭和 41(1966)年には貿易港として開港
指定がなされ、外国との貿易に対応すべく施設の整備が進められた。平成
22(2010)年 8 月には 103 の重要港湾のなかから重点的に投資する「選択と集
中」を港湾政策にも徹底するという目的で、国土交通大臣が指定した港湾
43 港に選ばれた。
現在、八代港は内港・外港・大島の 3 地区に分かれている。国内貿易を主
に担う内港地区に岸壁が 21 バースあり、砂・砂利、セメント、金属くず、
ガラス類が取り扱われる。フェリーもここから出港している。外国貿易を主
に扱う外港地区に 9 バースが整備されており、3 万トン級の船舶が接岸でき
る。ここでは穀物、石炭、木材チップ、セメント、原木等が主に扱われてお
り、平成 19(2007)年からは 5.5 万トン級の船舶が接岸できるバースの整備
が進められている。平成 24(2012)年には岸壁が完成予定であり、順次利用
が開始されることとなっている。この外港地区には定期コンテナ船が釜山と
の間で週 2 便就航している。ひとつは熊本港にも寄港する韓国の高麗海運に
よるもので、これは現在月曜日に運航されている。もうひとつは韓国の興亜
海運がコンテナ船「NOVA」(204TEU)を用いて運航するもので、八代港のほか
三池港(福岡県)、薩摩川内(さつませんだい)港(鹿児島県)を経由する便で、
週 1 回金曜日に発着する。国内定期コンテナ船は博多や門司を経由して神戸
まで向かう瀬戸内航路が週 2 便、鈴与海運(株)によって運航されている。用
いられている船舶は今治市の山中造船(株)で建造された「第二金力丸」(499
総トン)と上天草市の天草造船(株)で建造された「しんせと」(491 総トン)
である。
大島地区には、出光興産(株)、東西オイルターミナル(株)、ジャパンオイ
ルネットワーク(株)などの石油企業やガス会社が進出している。中近東など
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から輸入された原油が水島港(岡山県)、坂出港(香川県)、大分港などの製
油所で製品化されたのちに八代港に運ばれる。八代港の油槽所からは、福岡
県南部、熊本県全域、鹿児島県北部のガソリンスタンドなどに配送される。
工業用地には、YKKAP(株)、ヤマハ熊本プロダクツ(株)などがあるほか、西
田精麦(株)、パシフィックグレーンセンター(株)、八代飼料(株)、熊本くみ
あい飼料(株)など飼料関連会社が進出し、飼料コンビナートが形成されてお
り、平成 6(1994)年には外国産食糧の輸入港の指定も受けている。
熊本港と同様八代港でも、平成 21(2009)年度以降、ポートセールス協議
会によってコンテナ定期航路の利用促進のための助成事業が実施されてい
る。これに加え、平成 23(2011)年度から八代市が追加助成を開始した。助
成制度を利用すると、八代港を利用し一定の条件を満たす荷主に対して、新
規荷主では 1TEU あたり 20,000 円、継続して利用している荷主では同 15,000
円が補助される。そのほか、八代市はコンテナ航路の新規誘致に備えて、平
成 24(2012)年度に 1,000 万円を予算計上している。
八代港には平成 23(2011)年に外航商船 394 隻(234.0 万総トン)、内航商船
3,248 隻(157.0 万総トン)が入港している。輸出額は 86.8 億円で全国 100
位、熊本港より約 10 億円少ない。輸入額は 419.6 億円で熊本県ではトップ、
全国では 70 位となっている。コンテナ取扱量は輸出が 1,367TEU、輸入が
4,635TEU であった。
輸出相手国を金額シェアで見ると、中国 28.6%、韓国 15.5%、マレーシア
14.4%、インドネシア 14.2%と 7 割強が上位 4 ヵ国で占められる。中国向け
には鉄くず、インドネシアとマレーシア向けには原動機、韓国向けには二輪
車が多い。また、これらの品目の多くがコンテナで運ばれている。コンテナ
による輸出相手国を TEU ベースで見ると、中国が 53%、マレーシアが 25%、
韓国が 12%のシェアとなっている。
輸入相手国を金額シェアで見ると、米国 23.6%、オーストラリア 20.9%、
中国 16.3%、インド 8.4%、ブラジル 8.3%と上位 5 ヵ国で約 8 割を占める。
オーストラリアから輸入される品目は石炭、大麦、木材チップ、アルミニウ
ムなどが多く、米国からは飼料用のトウモロコシの輸入が多い。インドから
は植物性油かす、南アフリカからは木材チップとアルミニウム、中国からは
石炭、植物性油かす、肥料の輸入が多くなっている。輸入は圧倒的にばら積
み貨物中心である。コンテナによる輸入相手国を TEU ベースで見ると、中国
が 45%、韓国が 42%と、両国からの輸入で 9 割近くを占めている。八代港の
一般港湾運送事業者はパシフィックグレーンセンター(株)八代支店と八代
港運(株)であるが、パシフィックグレーンセンター(株)が取り扱っているの
は穀物のみとなっている。そのほか、港湾荷役一貫業者として、(株)曙組、
(株)上組八代支店、日本通運(株)八代支店、松木運輸(株)が事業を展開して
いる。また、(有)仁徳海運が曳船事業を行っている。
(4)三角港
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明治初期、熊本県下で拠点となる港を設け、産業を発展させることは熊本
県地域の人々にとっての悲願となっていた。しかし、熊本市近くの百貫石港
では大きな船が入港できないため、その代わりに建設が進められたのが三角
港(現在の三角西港)であった。百貫石港の調査を行った内務省の嘱託技師ル
ーエンホルスト・ムルドルが設計し、明治 20(1887)年 8 月に開港した。国
費を投じて築かれた港としては、三国港(みくにこう、福井県坂井市)、野蒜
港(のびるこう、宮城県東松島市)に次いで国内 3 番めであった。明治 32
(1899)年には貿易港に指定され、すべての貨物の輸出入が行えるようになっ
た。当時、有明海と八代海の沿岸には近代的な港湾がなく、三角西港は貨物
を集荷して関東や関西、国外に送ったり、貨物を熊本県内や有明海沿岸の各
港へ送り出すハブ港の役割を果たしていた。また、三角港は三井三池炭鉱の
石炭を運び出すという課題にも応える港でもあった。三井三池炭鉱は熊本県
と福岡県の県境にあり、当時の日本において主要な鉱山であったが、近くに
ある三池港は満潮時しか船が出入りできなかった。そのため、当初は帆船を
用いて石炭を口之津港(くちのつこう、長崎県南島原市)まで運んでから汽船
に積み替えていたが、三角港が開港した後の明治 26(1893)年からは、三角
港から上海などへの輸出が行われるようになった。明治 20 年代後半には税
関の出張所、裁判所のほか、商店、宿屋、遊郭などもあり、かなりのにぎわ
いを見せていた。しかし、港まで鉄道がつながらなかったこと、三角西港で
はなく口之津港や三池港から三池炭鉱からの石炭を輸送するように三井が
方針を変えたこともあって、三角西港は 10 年程度で重要港の地位を失った。
代わって、熊本県内の国際貿易港として大きな位置を占めるようになったの
は、鉄道の開通した三角東港(現在の三角港)であった。昭和 7(1932)年から
港湾の整備が行われ、1 万トン級の船舶が停泊できる岸壁ができあがり、昭
和 26(1951)年には重要港湾に指定された。しかしながら、昭和 41(1966)年
に天草五橋が開通すると、天草方面への貨物や旅客の流通が海ではなく陸上
を経由するようになった。また、八代港の整備が進んだことも貨物の減少を
加速させた。平成元(1989)年には輸出入合計で 28.5 万トンの貨物があった
が、現在では三角港を経由して外国に輸出入がされる貨物はかなり減少して
いる。
三角港には年間、外航商船 39 隻(5.5 万総トン)、内航商船 2,845 隻(36.7
万総トン)が入港している。輸出額は 36.0 億円で全国 110 位となっており、
熊本港の 37.9%、八代港から見ても 41.4%と半分以下の規模にとどまってい
る。輸入額は 374.5 億円、全国 77 位で熊本港を大きく上回り、八代港とあ
まり変わらないが、これは統計の関係上後述する苓北港に運ばれる石炭がカ
ウントされているためである。三角港には税関や運輸支局庁舎、海上保安部
があり、熊本県で事務所を開いている海事代理士は 6 名のうち 5 名が三角港
近くに事務所を構えている。また、三角港には一般港湾運送事業者の三角海
運(株)の本社がある。
三角西港には、今も築港当時の石積埠頭(いしづみふとう)、水路、橋など
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がほぼ原形の状態で残されている。明治 35(1902)年に建築された郡役所な
どの各種建築物を含めて、その文化的遺産は高く評価され、保存的価値が再
認識されている。明治時代の港に見立てて NHK ドラマの「坂の上の雲」のロ
ケが行われたことは、往時の状態がいかほどに残されているかを示すエピソ
ードといえよう。平成 14(2002)年には国の重要文化財に指定されている。
また、世界遺産指定に向けても取り組みが進んでいる。第五高等学校の英語
教師として熊本に住んでいたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も明治 26
(1893)年、長崎からの帰りに船で三角港までやってきて、旅館「浦島屋」に
立ち寄ったことがある。このエピソードは、浦島伝説をめぐる随想である「夏
の日の夢(The dream of a summer day)」で、導入部分として描かれている。
<図 4> 石積埠頭(左)と浦島屋跡(右)
(出典) 九州地方整備局ウェブサイト
(5)苓北港(苓北発電所)
近代の熊本県の海運を巡る動きには、先述した三井三池炭鉱や天草炭田か
らの石炭の積み出しが大きく関わっていた。しかし、現在ではその様相は逆
に転じ、熊本県に船で輸入される貨物のうち、最も大きな量を占めるのが石
炭である。平成 7(1995)年の九州電力(株)苓北発電所の第 1 号機運転開始が
転機となった。苓北発電所は熊本県の電力需要の約 8 割をまかなえる大きな
火力発電所だが、発電に用いるのは海外から輸入した石炭であるため、発電
用の石炭の輸入が急増した。苓北発電所専用港の苓北港を管轄する税関であ
る三角税関における一般炭の輸入量は、平成 2(1990)年にはゼロであったが、
平成 7(1995)年以降増加を続け、平成 23(2011)年では 337 万トンに達した。
日本全国に占めるシェアも 3.3%(トン数ベース)で、税関別全国第 8 位に位
置している。
九州電力苓北発電所で使用する石炭は、主にオーストラリア、カナダ、イ
ンドネシアやロシアから運ばれる。輸送の中心となるのは、長崎県の(株)
大島造船所で建造された飯野海運(株)の Amakusa Island などバルク・キャ
リア 5 隻で、いずれも載貨重量が 8 万トンを超える船型となっている。これ
15
らの船舶は苓北発電所と松浦発電所(長崎県)のための石炭を運ぶために用
いられている。合計すると、苓北港には年間延べ約 50 隻の船舶の入港があ
るとのことだ。
<図 5> 苓北発電所(左)と AMAKUSA ISLAND(右)
(出典)左は九州電力ウェブサイト、右は V.K.Rajendran 氏
4.内航海運業
熊本県の内航海運事業者は、100 総トン以上の船舶を使用している登録事業
者が 144 社、隻数は 204 隻、100 総トン未満の船舶を使用している届出事業者
が 45 社、隻数は 39 隻となっている(平成 22(2010)年 3 月末現在)。中でも天草
地域は内航海運業者の多い地域として知られている。上天草市では海運業の事
業所が 114 あり、船舶数が 148 隻、船員数は 599 名となっている。
有明海、八代海とその周辺の港を利用した海運業の歴史は古く、熊本県でも
上天草市松島町は内航海運業者が多いことで知られる。町内の合津(あいつ)や
阿村(あむら)では、明治中期頃から有明海や八代海地域における海上輸送のた
めの船舶を繰り出していた。この地域では江戸時代のころから海運業が盛んで
あったとされる。特に、阿村地区の海運業を語るうえで欠かすことができない
のは岩尾鉄造である。同氏は岩尾海運を起業して明治 20(1887)年ごろから帆船
を入手して北九州に進出し、さらに岩尾海運はその後帆船を機帆船(きはんせ
ん)に換えて阪神地方にまで進出した。阿村地域は江戸時代から塩田があり、製
塩業が盛んであったが、明治 42(1909)年に塩が専売制に移行し、製塩業が衰退
する中で、同氏の後継者が阿村地域の人々に対して海運業への転身を勧め、講
師を村に招いて講習会を開き、航海士・機関士など海技免状の取得を促した。
昭和 10(1935 年)には、全国に先駆けて阿村船舶組合(現在の熊本県海運組合の
前身の一つ)が設立された。当時は組合に加盟している船舶は、帆船 80 隻、機
帆船 70 隻で、阿村地区は日本でも有数の船舶数を誇った。
天草地域の内航海運業者は最盛期には 300 社、400~500 隻を数えたという。
しかしながら、バブル経済の時期に大きく減少し、現在も減少傾向が続いてい
る。減少の原因は天草五橋や道路の整備に加え景気の低迷などによる貨物の減
16
少で、現在残っている内航海運業者も熊本県近辺で運航しているところはあま
りなく、瀬戸内や関西などで船舶を運航させている。財団法人九州運輸振興セ
ンターの師岡照房(もろおかてるふさ)専務理事によると「大変な仕事であり、
家族に後を継がせない船主も多い」とのことだった。内航海運業者の大半は 1
隻だけ船舶を保有する一杯船主であり、家族経営を行って貨物を輸送している。
そのこともあって、協業化やグループ化といっても合併などの方法は難しく、
親族間であっても失敗する例があるという。熊本県に関しては「一人一党の気
質もあり、難しい」と複数の方々が指摘していた。
現在、このような厳しい内航海運の現状を打開しようとする動きも見られ、
たとえば、熊本県内の海運関係会社の有志が平成 21(2009)年 5 月に「天草マリ
ン同志会」を発足させて活動を行っている。現在では、海運関係事業者 37 社、
機器メーカー、金融機関、地元市議、保険、塗料会社を含め約 60 社の参加者が
ある。発足の目的は内航海運の存続と繁栄を考え、今後の海運の発展と地域の
発展に寄与することとある。同志会のメンバーは会の活動を通じて地域内の海
運に関連した人々の間での結束を強め、情報の共有、意見交換を進めていきた
いと述べていた。内航海運は船員の高齢化が言われて久しく、60 代や 70 代の
船員も珍しくはない中、代表幹事を務める真宝海運(有)の大山章氏、事務局を
担当する雄和海運(株)の浦山秀大(うらやまひでひろ)氏など中心メンバーは
30~40 代と若い。同志会の活動は、今のところ 3 ヵ月に一度テーマを設けて講
師を招く勉強会と情報交換が主なものとなっている。また、この会を通じて出
会ったメンバー6 名の共同出資によって、平成 23(2011)年 6 月に(株)A シップ
という船舶管理会社が設立されている。
5.旅客船業
熊本県は海岸線が長く、178 の島があることもあり、旅客航路は 42(平成 22
(2010)年 3 月時点)を数える。そのうち、一定の時刻・航路で船舶を運航する一
般旅客定期航路が 19、一定の航路ではあるものの時刻が定まっていない旅客不
定期航路が 23 存在する。そのほか、海上タクシーと呼ばれる小型船舶による旅
客の運送事業者が 229 ある。
旅客船による輸送実績をみると、旅客数では平成 20(2008)年度(熊本運輸支
局管内と有明海フェリー航路の合計)で 230.1 万人であった。自動車輸送台数は
平成 21(2009)年度(熊本運輸支局管内と有明海フェリー航路の合計)で 79.8 万
台であった。輸送実績は航路数の減少に加え、高速道路料金の大幅な値下げも
手伝い、減少傾向にある。自動車輸送台数では、平成 16(2004)年度の 138.4 万
台に比べて 5 年間で 42.3%減少した。
熊本県の旅客航路は、主に天草地域、長崎県島原地域への交通・物資輸送手
段という生活の足として発達してきた。天草地域で主要なフェリー航路には、
鬼池港(おにいけこう、天草市)と口之津港を結ぶ島原鉄道(株)による航路、牛
深港(うしぶかこう、天草市)と蔵之元港(くらのもとこう、鹿児島県長島町)を
17
結ぶ三和商船(株)による航路がある。鬼池と口之津を結ぶフェリーは長崎造船
(株)(長崎県)で建造された「フェリーあまくさ」、(株)向井造船所(長崎県)で建
造された「フェリーくちのつ」の 2 隻が就航しており、1 日 13~17 往復が運航
され、主にビジネス客に利用されている。自動車輸送台数は 10.9 万台(平成 22
(2010)年度)、利用者数は 35.7 万人(平成 20(2008)年)となっている。牛深港と
蔵之元港を結ぶフェリーは、(株)藤原造船所(愛媛県)で建造された「第二天長
丸」が就航しており、1 日 10 往復が運航されている。
<表> 熊本県内で事業を営む主なフェリー、一般旅客船及び遊覧船業者
事業者
業種
隻数 合計総トン数
自動車輸送台数
利用者数
区間
有明海自動車航送船組合
フェリー
3
2,331
349,944
874,176
長洲(長洲町)→多比良(長崎県雲仙市)
九商フェリー
フェリー
2
1,545
176,527
325,449
熊本(熊本市)→島原外港(長崎県島原市)
熊本フェリー
フェリー
1
1,687
98,732
463,773
熊本(熊本市)→島原外港(長崎県島原市)
島原鉄道(株)
フェリー
2
909
121,277
357,051
鬼池(天草市)→口之津(長崎県南島原市)
牛深(天草市)→蔵之元(鹿児島県長島町)
三和商船(株)
フェリー
1
577
74,520
177,908
天長フェリー(株)
フェリー
1
330
9,682
18,190
中田(天草市)→片側(鹿児島県長島町)→中田(天草市)
安田産業汽船(株)
フェリー
1
198
7,753
30,514
富岡(苓北町)→茂木(長崎県茂木町)
共同フェリー(株)
フェリー
1
157
n.a.
n.a.
天草フェリーライン
フェリー
1
132
n.a.
n.a.
天草観光汽船
旅客船
2
78
n.a.
n.a.
与一ヶ浦(上天草市)→本渡(天草市)→小屋川内(上天草市)
(有)湯島商船
旅客船
4
72
n.a.
n.a.
江樋戸(上天草市)→湯島(上天草市)
(有)木本観光
旅客船
3
64
n.a.
n.a.
龍ヶ岳(上天草市)→御所浦(天草市)→本渡(天草市)
栄汽船(株)
旅客船
2
58
n.a.
n.a.
本渡(天草市)→御所浦(天草市)→棚底(上天草市)
棚底(上天草市)→与一ヶ浦(上天草市)→御所浦(天草市)
大道(上天草市)→与一ヶ浦(上天草市)→御所浦(天草市)
合津(上天草市)→八代(八代市)
棚底(上天草市)→八代(八代市)
本渡(天草市)→御所浦(天草市)→大道(上天草市)
マリノステーション シークルーズ
旅客船、遊覧船
2
38
n.a.
n.a.
三角(宇城市)→本渡(天草市)
山畑運輸(有)
旅客船
1
19
n.a.
n.a.
三角(宇城市)→御所浦(天草市)→棚底(上天草市)
パールライン観光
遊覧船
3
57
n.a.
n.a.
松島(上天草市)出港
イルカクラブ
遊覧船
1
19
n.a.
n.a.
前島(上天草市)出港
桝永辰義
遊覧船
1
5トン未満
n.a.
n.a.
柳(上天草市)出港
佐藤興治
遊覧船
1
5トン未満
n.a.
n.a.
三角(宇城市)出港
佐々木安春
連絡船
1
5トン未満
n.a.
n.a.
牛深(天草市)→天附(天草市)
宇城市
連絡船
1
5トン未満
n.a.
n.a.
三角(宇城市)→野崎(宇城市)
(注)自動車輸送台数、利用者数は平成 20(2008)年のデータ。ただし、有明海自
動車航送船組合については平成 22(2010)年度のデータ
(出典) 熊本旅客船協会「くまもと船ナビ」、平成 20(2008)年熊本県観光統計参
考資料
天草地域の航路は、昭和 41(1966)年の天草五橋開通以降橋の建設や道路整備
が進んで陸路への移行が進むことで、役割が小さくなる傾向が続いている。平
成 18(2006)年 8 月に牛深・水俣間、平成 19(2007)年 5 月に本渡・水俣間の航路
が廃止された。平成 21(2009)年 3 月には熊本フェリー(株)が運行していた本渡
・熊本間の高速旅客船「マリンビュー」 が運航を休止している。最近でも平成
23(2011)年 11 月に松島フェリー(株)が合津・八代間航路の運航を休止し、平成
18
24(2012)年 2 月には破産手続きに入った1。
熊本県の旅客船によって運ばれる旅客、自動車のうち約 70%は島原地域との
航路である有明海フェリー航路によるものとなっている。有明海フェリー航路
のうち、長洲港と長崎県の多比良港(たいらこう、雲仙市)を結ぶ航路(有明フ
ェリー)は有明海自動車航送船組合が運営している。林兼造船(当時、現在は福
岡造船(株)長崎工場)で建造された「第八有明丸」「第十有明丸」「サンライズ」
の 3 隻の船舶が就航しており、1 日 19 往復運航されている。平成 24(2012)年 4
月には前畑造船(株)(佐世保市)によって建造された新造船「有明みらい」が「第
八有明丸」と入れ替わって就航している。有明海自動車航送船組合は、昭和 31
(1956)年 9 月、熊本県、長崎県によって一部事務組合2として設立され、昭和
33(1958)年 4 月に有明フェリーの運航を開始した。ピーク時の昭和 63(1988)年
度には 84.5 万台の自動車が運ばれていたが、平成 2(1990)年に長崎自動車道が
九州自動車道とつながったこと、平成 5 (1993)年に熊本港の供用が始まり、熊
本・島原外港間の航路が整備されたこともあって、その後自動車輸送実績は減
少を続け、平成 22(2010)年度には 35.0 万台まで減少した。利用者数も減少傾
向であり、平成 22(2010)年度利用者は 87.4 万人で、平成 19(2007)年度に比べ
23.2 万人の減少となっている。ただし、現在でも有明フェリーは通勤通学など
の手段として多く利用されていることは変わっていない。熊本県側の港である
長洲港は、乗降客数だけでなく国内貨物取扱量も有明フェリーによる自動車輸
送量が含まれるために、熊本県の港湾の中でトップとなっている。
有明海フェリー航路のもう一つの航路である熊本・島原外港間の航路は、九
商フェリー(株)と熊本フェリー(株)が運航を行っている。熊本港開設と同時に
九州商船(株)が熊本・島原外港間航路を就航させたが、平成 14(2002)年 8 月に
は同社の子会社、九商フェリー(株)が航路を譲り受けて現在の形になった。現
在では(株)神田造船所(広島県)で建造された「フェリーくまもと」
「フェリーあ
そ」の 2 隻が就航しており、1 日 10 往復が運航されている。自動車輸送台数は
15.6 万台(平成 22(2010)年度)、利用者数は 32.5 万人(平成 20(2008)年)とな
っている。所要時間が 60 分と同じ航路を走る熊本フェリー(株)よりも所要時間
が長く、自動車を運ぶための航送料が低く設定されていることもあり、自動車
の中でもトラックの割合が高くなっている。
九商フェリー(株)と同じ航路を運航する熊本フェリー(株)は、九州産業交通
ホールディングス(株)が 60%を出資する九州産交グループ3の企業であり、熊本
港の開港を機に平成 3(1991)年 12 月に設立された。平成 9(1997)年に熊本・本
1
ただし、平成 24(2012)年 4 月時点で、合津・八代間航路は天草フェリーライ
ン(有)が運航を続けており、定期航路は残っている。
2
一部事務組合は地方自治法 284 条 2 項に基づいて複数の普通地方公共団体が行
政サービスの一部を共同で行うことを目的として設置する組織である。
3
九州産交グループは平成 15(2003)年に産業再生機構の支援を受けているが、
熊本フェリー(株)は産業再生機構の支援対象とはなっていない。
19
渡間の旅客航路、翌年には熊本・島原航路の運航が開始された。熊本フェリー
(株)は高速カーフェリー「オーシャンアロー」の就航による高速運航の実現、
船旅ならではの快適さを楽しんでもらうための工夫、適切な運賃設定という 3
つのコンセプトのもと、短距離航路において高頻度の運送を行って効率的に船
舶を利用するとともに、重量が軽く運賃負担力の大きい顧客への絞り込みを図
り、
「日本で唯一成功した高速カーフェリーの事例」となっている。オーシャン
アローは、(株)IHI と東京大学の宮田秀明教授(日本が 1995 年アメリカズ・カ
ップに挑戦した際のテクニカル・ディレクター)が開発した、細長い船体を 2
つ横に並べることで抵抗を減らし、高速化を実現した SSTH(超細長双胴船)を採
用している。これによってスピードの向上を実現すると同時に湾内での引き波
を抑え、熊本港近くで行われている海苔養殖など漁業への影響を抑えることを
目指した。また、どこから見てもオーシャンアローとわかる船を造るためデザ
インを重視し、初代ホンダシティのデザインでも知られるカーデザイナー田中
徹(たなかてつ)氏へ発注を行った。快適さについても、オーストラリア製のイ
ンテリアを導入した内装とし、オープンデッキを設けたほか、自動販売機を置
かず、カフェを充実させて対面販売を行うなど雰囲気作りにも気を配っている。
運賃も高速道路と比較したうえで、少し安くなるように設定がなされてきた。
<図 6> オーシャンアロー(左)と有明みらい(右)
(出典) 左は熊本フェリー(株)ウェブサイト、右は有明海自動車航送船組合
ウェブサイト
オーシャンアローは 1 日 6~7 往復運航されており、熊本港と島原外港との間
の自動車輸送台数は 11.8 万台(平成 22(2010)年度)、利用者数は 46.4 万人(平
成 20(2008)年)となっている。同じ航路を走る九商フェリー(株)に比べ所要時
間は半分の 30 分となっている。自動車の中ではバスの割合が高く、九商フェリ
ー(株)との差別化が成功している。また、海外からの利用者も多い。九州旅客
船協会連合会の副会長でもある井手雅夫取締役は、
「オーシャンアローは日本で
最も貸し切りバスによる利用の多いカーフェリーであり、台湾や韓国、中国な
どから日本にやって来る外国人の 1%程度が熊本フェリー(株)を使っている計
算になる」とコメントしている。
有明海フェリー航路は、観光をはじめ、ビジネスや地域住民の生活を支える
ルートとして欠かせない存在となっているものの、近年は景気の悪化と人口減、
20
高齢化に伴って旅客、貨物輸送に対する需要減、燃油価格の高騰による輸送コ
スト上昇などで経営環境は厳しい。さらに、平成 21(2009)年 3 月から平成 23
(2011)年 6 月まで続いた高速道路料金上限 1,000 円という休日割引の衝撃は大
きかったという。たとえば、有明フェリーは平成 21(2009)年度自動車輸送台数
で 14.0%(5.7 万台)、旅客者数で 11.7%(7.0 万人)の大幅な減少に見舞われた。
このような背景の下で、有明海フェリー航路の活性化を図るため、平成 21
(2009)年 12 月、熊本、長崎の両県などの周辺自治体、フェリー3 社、観光協会
などによって「有明海フェリー航路活性化協議会」が設立された。協議会では
有明海フェリー航路を利用する宿泊客に「キャッシュバックキャンペーン」を
行ったり、毎年 11 月の第 4 日曜日を「有明海の日」として体験乗船会などイベ
ントを催したり、航路活性化に取り組んできている。また、平成 23(2011)年の
九州新幹線全通を好機ととらえて、熊本・島原外港間のフェリーを利用したシ
ャトルバス「シーガル」の運行が開始されるなど、熊本から島原・雲仙を通じ
て長崎へと至る「横軸」へ、関西や中国地方からの集客を図る動きもある。航
路活性化の取り組みは三和商船(株)が運航するフェリー航路でもなされている。
九州新幹線の全通に合わせて、天草方面からの航路に接続して出水駅(鹿児島県
出水市)と蔵之元港を結ぶシャトルバス「出水駅~蔵之元港シャトルバス」が新
設され、九州新幹線全通後はシャトルバスの利用者数が増加している。
6.船員数と船員教育・育成機関
熊本県で雇用されている船員は 1,210 名(予備船員 95 名を含む。平成 21
(2009)年で、その内訳は一般船舶 900 名、漁船 133 名、その他船舶が 125 名で
ある。先述したように天草地域は船員が多い。熊本県海運組合によると、熊本
県の内航海運業者の陸上職員は、ほとんどが地元出身者、船員も半分以上は地
元出身者とのことである。また、旅客船の船員も多いとみられる。たとえば、
有明フェリーを運営する有明海自動車航送船組合では、船員 33 名のうち 15 名
は熊本県の出身(ほかは長崎県出身)であり、熊本フェリー(株)の場合は、原則
として自宅から通える熊本の人を採用しているとのことだ。
熊本県で船員を目指す場合、比較的近い熊本県立苓洋(れいよう)高等学校海
洋開発科や長崎県南島原市にある口之津海上技術学校へ進むことが多い。苓洋
高等学校海洋開発科には生徒数が 69 名おり、上天草市に住む生徒数は 14 名と
なっている。海運業に就職した生徒数は平成 20~23(2008~2011)年の間に 25
名おり、毎年 4~8 名が海運業に就職している。口之津海上技術学校については
生徒 63 名中 8 名が上天草市に住む生徒であるとのことである。また、三角西港
の一角には、宇城市が運営する全国で唯一の公立海事教育機関、九州海技学院
がある。ここでは一定以上の乗船履歴がある人々に対する 3~6 級海技士免状取
得のための講習や船舶免許証などの更新講習が行われている。内航船員、特に
若手船員の不足は内航海運で喫緊の課題である。熊本県の内航海運業者はほと
んどが資本金 1,000 万円以下の小規模業者であり、育成のためのコストを負担
21
できないため、即戦力でないと雇うことが難しいとのことだ。
7.官公署(国土交通省関係)
熊本県には国土交通省九州運輸局熊本運輸支局があり、海運関係は三角庁舎
(三角港湾合同庁舎内)にて業務が行われている。運輸支局では管轄区域内の船
員手帳の交付関係事務、旅客船航路事業・内航海運業関係事務、港湾運送事業
関係事務、船舶の登録・検査関係事務などを行っている。また、海上保安庁の
組織として、熊本海上保安部(三角港湾合同庁舎内)のほか、天草海上保安署(天
草市)及び八代分室(八代市)があり、ひごかぜ、くまかぜ、あそぎり、なつかぜ
の 4 隻の巡視艇と監視取締艇へらくれすを用いて、不法操業を行う外国漁船の
取締り、密輸・密航船など不審船に対する監視取締りや、港内の秩序維持にあ
たっている。
おわりに
熊本県は有明海、八代海と東シナ海に面し、多くの島と長い海岸線を有して
おり、海が身近にある地域である。現在、熊本県の海事産業を鳥瞰すると、ユ
ニバーサル造船(株)有明事業所の活動と、養殖を中心とした水産業が目立つ程
度である。海外との貿易額も全国レベルでみると決して多い方ではなく、外航
海運の荷動きで最も量が多いのは発電のための石炭輸入である。伝統的に天草
地方を中心として内航海運業が盛んであり、船員も数多く輩出しているが、現
在は瀬戸内や関西などでの事業展開が中心となっている。数多くの旅客船航路
も経営環境は厳しい。
しかしながら、本文でも述べたとおり、今後の展開に向けた動きも見られて
いる。水産業では Kumamoto Oyster の商品化やトラフグ、マダイ、ブリの養殖
を対象として「適正養殖業者認証制度」を全国に先駆けて行うなどの試みが行
われている。造船業ではユニバーサル造船(株)がコスト削減に加え、もともと
評判の高い環境性能を高めるための経営努力を続けられている。また、熊本と
八代の両港を中心に、利用促進措置やポートセールスが行われるなど、行政に
よる海事産業の促進に向けた動きがある。内航海運でも若い人々を中心に情報
交換や勉強を行う「天草マリン同志会」が設立され、参加者の間で船舶管理会
社が設立されるといった新しい動きがある。フェリー業界では「有明海フェリ
ー航路活性化協議会」が設立されるなど、キャンペーンやイベントを通じた航
路活性化や関西や中国地方からの集客を目指している。
22
【熊本県海事産業データ】
人口、面積、人口 1,817,410 人、7405.84km2、245 人/km2
密度
(平成 22 年(2010)年国勢調査)
851 千人(労働力調査、平成 23(2011)年第 4 四半期(10~12
就業者数
月平均)結果)
第一次産業:10.4%
産 業 別 就 業 者 割 第二次産業:20.1%
合
第三次産業:69.5%
(平成 22(2010)年国勢調査)
県内総生産
5,366,136 百万円 (平成 21(2009)年)
港湾
26 港(うち重要港湾 3 港)
漁港
103 港
港湾運送事業者
11 事業者
普通倉庫 67 事業者、1~3 類倉庫(危険品倉庫、野積み倉庫
倉庫事業者
等以外の倉庫)の面積 258,000 ㎡、冷蔵倉庫 27 事業者、冷
蔵室の有効面積 180,000 ㎡
内航海運事業者
139 事業者(登録事業者:運航 20 事業者、貸渡 119 事業者)
旅客船事業者
25 事業者 36 航路(定期旅客航路)
35 事業者(造船法許可造船所、小型船造船業法による登録
造船事業者
造船所、造船法届出造船所の合計)
26 事業者(舶用機関製造業 12、舟艇製造・修理業 13、船体
舶用事業者
ブロック製造業 1、平成 22 年工業統計)
6人
海事代理士
水先人
3 人(島原海湾水先区水先人会)
漁業世帯数
8,772
(注)出典の明示のないものは、国土交通省九州運輸局「九州の物流 2011 年版デ
ータブック」、事業者団体公表統計等による。
23
長崎県の海事産業
1.地勢等
(1)自然条件
「長崎港の山々は美しい。とくに外洋から畳(たたな)づく山々に囲まれた
細長い港内を奥深く入ってゆくときの景観は稀な美しさといっていい。幕末、
この港に入ったオランダの海軍士官ファン・カッテンディーケも、
「実際長崎入港の際、眼前に展開する景色ほど美しいものは、またと
この世界にあるまいと断言しても、あながち過褒ではあるまい」
(『長崎海軍伝習所の日々』東洋文庫・水田信利訳)。
と書いている。」
(司馬遼太郎『「街道をゆく(28)耽羅(たんら)紀行』
(朝日新
聞社)。
このような長崎港を持つ長崎県は、本土の最西端、九州西北部に位置する。
東側を佐賀県と接し、有明海を隔てて福岡県及び熊本県と接している。東京
へは直線距離にして 967km、飛行機では約 2 時間、列車では博多までの新幹
線とそこから特急を乗り継いでおよそ 7 時間。他方、上海やソウルには飛行
機で 1 時間半。
県の面積は 4,105km2(全国 37 位)で、その範囲は東西 213km、南北 307km
にも及ぶ。海岸線総延長は、北海道(4,410km。北方四島分の 1,348km を含む)
に次いで全国 2 位の長さ(4,202km)を誇る。これは、県土の 45.5%(1,864km2)
が島であり、その数が 594 にものぼり、また、長崎県が島嶼と半島(北松浦
半島、島原半島、長崎半島及び西彼杵(にしそのぎ)半島とで構成され、複雑
な海岸線を有するからである。県内には 13 市 8 町(平成 22(2010)年 3 月末
現在)あるが、海に面していないのは波佐見町(東彼杵郡)ただひとつである。
県下 594 の島のうち有人島が 73 を数える(全国 1 位)。長崎県の総人口
(1,426,779 人、平成 22(2010)年国勢調査)のうち、約 12.6%(179,952 人。
同調査に基づく速報値)が島に居住している。そのうち、五島列島は長崎港
の西 100km に位置し、129 の島々で構成され、長崎県の島として最も人口が
多い(約 6.3 万人)。平安時代には遣唐使船の寄泊地となって大陸との交流
拠点として栄えた。県北の日本海に浮かぶ対馬島は、県内で最も大きい島
で(全国では 4 番目)、約 3.4 万人が住んでいる。対馬島は国境の島として
大和朝廷の頃から防人が置かれ、今も陸・海・空の自衛隊基地が置かれて
いる。対馬島からは釜山の建物などが肉眼でも見えるほど近く(直線距離
49.5km)、島の北西部にある佐須奈(さすな)港は、朝鮮半島から日本へ向か
う船の最初の寄港地であった。対馬島の南東に位置する壱岐島には、約 3
万人が住む。壱岐島は、大和朝廷が新羅に派遣した遣新羅使の航路にあっ
て、天候待ちや食料調達の場であった。今では遣新羅使の墓(雪連宅満(ゆ
きのむらじやかまろ)の墓)にその歴史がうかがえる。このように長崎県に
24
は、古くから中国、朝鮮半島との交流の窓口となった島々が存在する。西
洋との交流については後述する。
(2)気候
長崎県の気候は、暖流(対馬海流)の影響を強く受け、全般的に温暖である。
年平均気温は 17.4 度(平成 24(2012)年 2 月公表の 2009 年のデータ。全国平
均 15.6 度)、年間降水量は 1,901mm(全国平均 1,551mm)。そのためか、人の
性格も陽気でのびのびしていると言われる。
梅雨期にはしばしば大雨が降る。諫早豪雨(昭和 32(1957)年)、長崎豪雨(昭
和 57(1982)年)などの歴史的な豪雨のほか、諫早では平成 11(1999)年 7 月に
も 1 時間に 100 ミリを超す集中豪雨が発生し、死者が出るなど甚大な被害に
見舞われている。平成 15(2003)年には県中央部での大雨により死傷者 2 名、
平成 17(2005)年の大雨では人的被害はなかったものの、五島市(当時福江市)
で日降水量が 432.5mm となってそれまでの記録を更新した。他方、長崎県で
はしばしば給水制限を要するほどの渇水が起こる。これは、貯水能力の低い
狭い平坦地の周りに、山岳丘陵が起伏している急峻な地形のためである。長
崎県を訪れたことのある方は、急な坂の多いことに強い印象を持つに違いな
い。
(3)西洋文明との窓口・近代造船業の始まり
長崎県は中国大陸との交流の窓口であったとともに、西洋との交流にお
いても最前線であった。天文 19(1550)年にポルトガル船が平戸に入港したの
を皮切りに、オランダ船、英国船が訪れて貿易を行うようになった。日本初
のヨーロッパ公式訪問団である「天正遣欧少年使節」は、天正 10(1582)年に
長崎から出航した。寛永 16(1639)年に幕府がポルトガルとの貿易を禁止して
鎖国の時代になると、出島(長崎)が西洋との唯一の貿易港となり、西洋文明
の玄関口となった。竹内宏氏は、「長崎が半島にあり、まわりが山々に囲ま
れ、他地域との交通の便に決して恵まれていないことが、鎖国時代にここを
海外貿易の拠点と定める要因となったに違いない。」と述べている(『各県別
路地裏の経済学 IV』
(中央公論社、平成元(1989)年)。文政 6(1823)年に出島
の商館医として来航したシーボルトは、鳴滝塾において講義し、日本全国の
俊英が西洋医学を学んだ。
戦国末期から安土桃山期にかけては、西洋諸国との接触も活発化し、外国
船の見聞を通じて日本の造船技術に大きな刺激が与えられたが、寛永
15(1637)年の大船建造禁止令(嘉永 6(1853)年に廃止)によって、大型船の建
造に制限が加えられることとなった。この鎖国体制の始まりによって、中国
船やオランダ船の来訪はあったものの、日本の造船業は「世界の造船界から
隔絶して、独自の道を歩むよりほかはなくなった」と金子榮一編『現代日本
産業発達史 IX 造船』(交詢社、昭和 39(1964)年)のなかの「近代造船業の生
誕」で小林宗三郎が強調されている。しかし、安政 2(1855)年には長崎海軍
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伝習所が設置され、また、安政 4(1857)年には小出力の舶用機関の製造や、
船の小修理を行う長崎鎔鐵(ようてつ)所(長崎製鉄所)が建設されたことに
より、長崎が西欧の近代造船技術を学ぶ場となった。長崎海軍伝習所では、
オランダから贈呈された木造蒸気帆船「スンビン号」
(後の「観光丸」)を練
習船として用い、航海・砲術・測量等を学ぶとともに、造船学も教授課目と
されていた。この長崎鎔鐵所が現在の三菱重工業(株)長崎造船所(後述)の起
源であり、近代日本の造船業の始まりとされている。
<図 1> 万延元年(1860)年の長崎製鉄所
(出典) 三菱重工業(株)長崎造船所
2.漁業
(1)漁業の規模
長崎県の平成 21(2009)年度の経済(平成 24(2012)年 1 月公表)について
みると、県内総生産は全体で 4 兆 3,201 億円(前年度比 0.4%減)となり、水
産業(408 億円)を含む第一次産業が 1,112 億円(構成比 2.6%)、第二次産業
が 8,523 億円(同 20.0%)、第三次産業が 3 兆 4,577 億円(同 80.0%)である。
長崎県では多様な沿岸漁業や沖合・遠洋漁業が盛んであり、例えばアジ
類(平成 21(2009)年)52,617 トン、全国シェア 27.4%)、イカ類(同 6,338 ト
ン、全国シェア 15.4%)、クロマグロ(同 4,522 トン、全国シェア 26.1%)、
タイ類(同 3,707 トン、全国シェア 14.3%)、サバ類(同 90,944 トン、全国
シェア 19.3%)などは生産量が全国 1 位である。養殖業においては、フグ類
(同 2,936 トン、全国シェア 62.7%)、ブリ類(同 2,090 トン、全国シェア
37.2%)が生産量全国 1 位(平成 21(2009)年)を誇る。真珠(平成 21(2009)
年 6,436kg、全国シェア 30.2%)は愛媛県(8,163kg、全国シェア 38.3%)に次
いで 2 位である。平成 20(2008)年 11 月 1 日現在の漁業センサスによれば、
経営体数 8,849、漁業就業者 17,466 人(全国 221,908 人の 7.9%を占め、こ
26
ちらも全国 2 位)、保有漁船 13,839 隻(うち動力船 8,909 隻)となっている。
なお、世界の漁法を変えることとなった魚群探知機を世界で初めて実用化
した古野電気は、昭和 13(1938)年に口之津町(南島原市)で創業し(本社は昭
和 23(1948)年から長崎市、昭和 39(1964)年から兵庫県西宮市)、今では世
界で船舶レーダーのシェア 40%を占めている。
(2)日本一の漁港数
長崎県の周辺海域は、九州西方を北上する対馬暖流、済州島方面からの黄
海冷水、九州からの沿岸水など異なる水系が流入していることのほか、海
域内に数多くの天然礁が点在していることから好漁場が形成されている。
そして、多くの島々、半島、湾、入り江などが天然の良港を形成している
ことに、水産業の発達が支えられてきた。県内の漁港は、島嶼部を中心に、
対馬地域に 53、壱岐地域に 17、佐世保市や平戸市などの県北地域に 79、長
崎市や諫早市、島原市など県南地域に 61、五島地域に 76 あり、総計 286
は日本一多い。そして、漁船の年間入港数は 263,919 隻(6,282,286 総トン)。
(『長崎県統計年鑑』(平成 22(2010)年)、第 57 版)より)を数え、北海道
(270,808 隻、5,109,513 総トン)に次いで全国 2 位である。
長崎県、特に離島部にとっては、水産業の従事者が就業人口の 12.4%(平
成 22(2010)年度『長崎県水産白書』
)を占めるなど水産業は地域経済を支え
る主要産業である。また、漁業の盛衰はそれだけにとどまらず、漁業資材、
造船業、水産加工業、流通などの関連産業にも大きな影響を与えている。
このため、漁業関係者は、漁業資源の開発・保全や流通の改善により漁業
の発展を模索している。西彼杵半島の南に平成元(1989)年に開港した新長
崎漁港(長崎漁港三重地区。従来の長崎漁港(長崎漁港長崎地区)とあわせて
「長崎漁港」と呼ばれる)では、国際海洋総合研究ゾーンを設けて海洋環境
の保全や漁業の管理に関する研究等を行う機関を集積させている。すでに、
独立行政法人水産総合研究センター西海区水産研究所、長崎県総合水産試
験場及び長崎大学水産学部付属環東シナ海環境資源教育研究センターがこ
のゾーンで活動している。
3.造船・舶用工業
(1)造船・舶用工業等
長崎県の製造品出荷額(従業員 10 人以上の事業所)は約 1 兆 6,266 億円(平
成 21(2009)年)工業統計。平成 23(2011)年 4 月公表)。これは日本全体の 0.6%
で、都道府県別では第 42 位となる。そんな中にあって特筆すべきは造船・
舶用工業である。造船関連の製造品出荷額は、品目別で県内一位の 4,023 億
円にのぼる。
長崎県には造船所が 62 社(平成 21(2009)年。休止中の 14 社を除く)あり、
タンカー・客船などの大型船から内航船・漁船などの小型船まで建造されて
27
いる。とりわけ鋼製貨物船の新造(20 総トン以上の動力船、約 1,618 億円)
や鋼製油槽船の新造(同、約 1,199 億円)は愛媛県、広島県と全国 1 位を競
う。以下、その代表として三菱重工業(株)長崎造船所と佐世保重工業(株)佐
世保造船所について若干触れる。
(2)三菱重工業(株)長崎造船所
三菱重工業(株)長崎造船所(長崎市)は、遡れば安政 4(1857)年に徳川幕府
が艦船修理工場として長崎鎔鐵所(万延元(1860)年に長崎製鐵所に改称)を
長崎港西岸(飽の浦(あくのうら))に設立したことに始まる。明治維新(明治
元(1868)年)とともに明治政府は長崎製鉄所を管理下に置き、翌年「小菅修
船場(通称:そろばんドック)」を買収し、付属工場とした。
「小菅修船場」は、
薩摩藩が英国貿易商トーマス・グラバーと共同出資し、長崎の商人(山田宗
次郎、若松屋善助など)の名義で、長崎港の入り口近くの小菅浦に明治元
(1868)年に建設された日本初の洋式ドックである。長崎製鉄所は、明治
12(1879)年に当時東洋最大のドック(立神船渠(たてがみせんきょ)、約
129.5m)を完成させた後、明治 17(1884)年に三菱の経営となり(長崎造船所に
改称)、明治 20(1887)年に三菱に払い下げられた。長崎造船所は積極的な設
備投資により、明治 28(1905)年には東洋一の造船所となり、また、日本造船
界の先駆者として、その建造船の多くが日本造船史に輝いている。なお、明
治 37(1904)年に所長の社宅として造船所敷地内に建てられた「占勝閣」は、
翌年に東伏見宮依仁親王殿下が宿泊され、当閣が風光景勝を占めるとの意か
ら、「占勝閣」と命名されたという。
長崎造船所が建造した初めての鉄製汽船「夕顔丸」(明治 20(1887)年)竣工、
206 総トン)は、日本で初めて軟鋼製ボイラーを装備し、貨客船として 75 年
間も活躍した。明治後期の「天洋丸」(明治 41(1908)年竣工、13,454 総トン)
は、燃料に初めて重油を使用した日本初のタービン搭載の豪華客船である。
大正期には、造船所として初めてガントリークレーンを設置し、
「霧島」
(大
正 4(1915)年竣工、27,500 排水トン)、「日向」(大正 7(1918 年)、31,260 排
水トン)など大型戦艦を建造した。昭和の戦前期には、日本の商船建造高の
5 割前後を長崎造船所が占めるに至り、また、
「太平洋の女王」と称された貨
客船「浅間丸」(昭和 4(1929)年竣工、16,947 総トン)を建造している。昭
和 17(1942)年に竣工した戦艦「武蔵」(69,100 排水トン)は、世界最大の 46cm
主砲を 9 門搭載するなど艦艇建造の技術の頂点に立つものと評された。戦後
に操業を再開すると、輸出タンカーを中心に建造し、昭和 31(1956)年には新
造船進水量が 24.2 万総トンに達し、世界首位に躍り出た。昭和後期は、造
船構造不況やプラザ合意(昭和 60(1985)年)により進んだ円高の影響を受け
ながらも、世界初の洋上石油備蓄貯蔵船の建造や LNG 船の連続建造など数々
の実績を残している。平成に入ってからは、大型客船として「クリスタル・
ハーモニー」
(平成 2(1990 年)竣工、48,621 総トン)、
「飛鳥」(平成 3(1991)
年竣工、28,717 総トン)、
「ダイヤモンド・プリンセス」
(平成 16(2004)年竣
28
工、115,875 総トン)、「サファイア・プリンセス」(平成 16(2004)年竣工、
115,875 総トン)、国内初の大型メンブレンタイプ LNG 船である「プテリ・イ
ンタン・サツ」(平成 14(2002)年竣工、137,489m3)、国内最大・最速の大型
フェリー「はまなす」(平成 16(2004)年竣工、16,810 純トン)、海底 7 千メ
ートルまで掘削する地球深部探査船「ちきゅう」(平成 17(2005)年竣工、
57,087 純トン)など特色ある船舶を建造している。
<図 2> 1,000 メートルのドックを有する香焼(こうやぎ)工場
(出典) 三菱重工業(株)長崎造船所
長崎造船所によれば、これら実績を積み上げてきた最大の理由は、他に先
駆けて「一番船」(新設計の船舶)に取り組んできた造船技術者の挑戦欲、そ
れが結実した技術力にあるという。同所は新設計船や新規案件に取り組むの
に十分な設計開発陣容を整えている。台頭してきた中国の造船所との競争や、
昨今の急激な円高で、日本の造船業は厳しい状況にさらされているが、三菱
重工業(株)は生産体制を再編し、長崎造船所と下関造船所(山口県)とに商
船の建造を集約するとともに、その技術力を活かすべく高付加価値船(大型
客船、液化天然ガス運搬船など)や環境に優しい省エネ設計へのシフトを打
ち出している。平成 23(2011)年 11 月には、12.5 万総トン、3,250 人乗りの
大型客船を 2 隻受注し、長崎造船所で平成 27(2015)年春と平成 28(2016)年
春にそれぞれ引き渡す予定である。(株)長崎経済研究所は、その客船建造の
経済波及効果は年間 381 億円、工期全体で 1,524 億円と試算している。
(3)佐世保重工業(株)佐世保造船所
佐世保重工業(株)は、佐世保鎮守府の直轄組織として明治 36(1903)年に
設置された佐世保海軍工廠を起源とする。終戦後、佐世保市及び経済界がそ
の民間転用を求めて運動した結果、GHQ の許可を得て、昭和 21(1946)年に三
井造船と占部造船とが海軍工廠の船舶部門を継承して「佐世保船舶工業株式
会社」(Sasebo Senpaku Kougyou)を創立した。昭和 36(1961)年に「佐世保
重工業株式会社」(Sasebo Heavy Industries)に社名を変更してからも、佐
世保船舶工業株式会社の英文称号の頭文字をとった「SSK」は、その通称と
して愛用されている。
当初の SSK は苦しい状況が続いた。その最大の要因は、米軍にも提供さ
れていたドッグや岸壁をその都度許可を得て、また、国からの借り受け施
29
設を対価を払って使用しなければならなかったことにある。こうした生産
活動の制約は、昭和 36(1961)年以降に実現する施設の払い下げによって順
次解消されてきた。「修繕の SSK」と言われながらも、新造船建造に向けた
研究を行っていた佐世保造船所は、昭和 28(1953)年に初めてタンカー「永
邦丸」(昭和 29(1954)年竣工、684 総トン)を建造した。
昭和 33(1958)年に竣工した「ATLANTIC FAITH」(15,564 総トン)は、SSK
が建造した初めての外国籍船であり、日本で最初の大型ロイド級鉱石兼用
タンカーとして知られる。また、昭和 32(1957)年には、クウェートからタ
ンカー「KAZIMAH」(昭和 34(1959)年竣工、29,155 総トン)を受注したが、
これは全額現金前払いであったことに加え、初めて中近東の船主から発注
を得たことで、日本の造船界にとって前代未聞の快挙と言われた
(「KAZIMAH」はクウェートで好評を博したため、その後昭和 56(1981)年ま
でに 56,000 重量トン~209,000 重量トンのタンカー8 隻を建造し、クウェ
ートに送り出している)。SSK は、商船に限らず自衛隊の艦艇も建造してお
り、駆潜艇「はつかり」
(昭和 35(1960)年竣工、420 排水トン)を皮切りに、
海上自衛隊の初めての輸送艦「あつみ」
(昭和 47(1972)年竣工、1,450 排水
トン)、同じく初めての試験艦「くりはま」(昭和 55(1980)年竣工、950 排
水トン。試験艦とは、艦船搭載装備の海上試験に従事する艦艇)などを建
造した。また、海上保安庁の船艇として、大型巡視船「もとぶ」(昭和 53(1978)
年竣工、965.3 総トン)、浮標の敷設・回収を行う設標船「ほくと」(昭和
54(1979)年竣工、619 総トン)などを建造した。
昭和 37(1962)年に竣工した「日章丸」(139,000 載貨重量トン)は、当時
世界最大のタンカーで、国内はもとより世界で SSK の技術の高さが評判と
なった。昭和 42(1967)年からは、21 万載貨重量トンの VLCC の連続建造を
行い、昭和 48(1973)年までに、3 ヵ月に 1 隻というペースで同型船を 22 隻
建造し、タンカー建造能力の高さを示した。平成 2(1990)年竣工の VLCC「筑
波山丸」(259,998 載貨重量トン)は、最大 5%の省エネ効果を有する Sasebo
Stern FIN(プロペラへの水流を整流するフィン)など造船所が社内で研究・
開発を進めてきたシステムを駆使して建造した省エネ・省人化船であった。
ケープサイズバルカー「ALEXANDRA P」
(平成 21(2009)年竣工、180,000 載
貨重量トン)は、SSK の新しい設計及び建造基準への取り組みが評価され、
「シップ・オブ・ザ・イヤー2009」を受賞した。
平成に入ってからの SSK は、
「世界一の修繕ヤード」となることを事業の
柱のひとつとし、大型改造船や大規模ダメージ船を受け入れてきた。平成 7
(1995)年には、VLCC「SUMIDAGAWA」(260,000 載貨重量トン)の大規模な修繕
工事を 38 日間という短期でこなしたことで、国内外に佐世保造船所の実力
を改めて示し、その後の大型修繕工事の連続受注を呼び込んだ。最近では、
後述するように、長崎県全体の大きな期待を背負っている長崎・上海航路
に就航する旅客船「OCEAN ROSE」の改造を一部手がけたこともニュースと
なった。もとより、地の利を活かし、自衛隊艦船や米軍艦船の修繕工事に
30
は多くの実績がある。特に、経験したことのないような規模・期間の工事
であっても、
「米軍などの基地が所在する佐世保の造船所としての使命」を
意識してこなしてきたことに対する信頼は厚い。
<図 3>「シップ・オブ・ザ・イヤー2009」に輝いた「ALEXANDRA P」
(出典) 佐世保重工業(株)佐世保造船所
三菱重工業(株)、佐世保重工業(株)を含め 19 の造船会社と 1 の団体(社団
法人日本中小型造船工業会)は、一般社団法人日本造船工業会を設立し、日
本の造船業の発展を目指しているが、平成 23(2011)年 6 月に、その第 33 代
会長に就任した(株)IHI 代表取締役会長の釜和明氏は長崎県出身である。
(4)中小造船業・舶用工業
そのほか県内には、中手の(株)大島造船所(西海市)をはじめ、(株)井筒造
船所(長崎市)、伊藤鉄工造船(株)(佐世保市)、(株)沖新船舶工業(佐世保市)、
島原ドック協業組合(長崎市)、新長ドック(株)(長崎市)、長崎造船(株)(長
崎市)、(有)中里造船所(佐世保市)、平戸鉄工造船(株)(平戸市)、前畑造船
(株)(佐世保市)、(株)渡辺造船所(長崎市)などの中小造船所がある((株)大
島造船所以外の造船所の特色は、後述の「船力」によれば下表のとおり)。
長崎県の中小造船所は、それぞれが独自の造船技術を有し、曳船、漁船
から客船、貨物船までを扱っている。特に、(株)大島造船所(昭和 48(1973)
年設立)はバルクキャリアー(ばら積み貨物船 = バルカー)に特化して建
造を続けてきており、南浩史社長も「世界のバルカーの供給基地」と自負
されている。大島造船所は、今後、県内大島工場をマザーヤード、研究開
発及び生産技術開発拠点とし、ベトナム南部(カムラン市)に新たな工場を
建設することで、為替変動にも対処しうる成長戦略を描いている。
また、佐世保市内の造船関連企業 7 社(前畑造船(株)、協和機工(株)、(株)
エス・イー・エー創研、流体テクノ(有)、(株)イーゼル、(有)セイコウ、
31
親和船舶工業(有))は、互いに連携を深めようと平成 23(2011)年に「佐世
保マリンネットワーク」(理事長:松尾晃(株)エス・イー・エー創研会長)
を発足させ、世界初の防災・観光用多目的水陸両用車の開発を進めており、
佐世保の技術力を発信するものとして注目されている。
<表> 造船 10 社の特色
社名(所在)
井筒造船所
(長崎市)
伊藤鉄工造船
(佐世保市)
沖新船舶工業
(佐世保市)
島原ドック協業組合
(長崎市)
新長ドック
(長崎市)
長崎造船
(長崎市)
中里造船所
(佐世保市)
平戸鉄工造船
(平戸市)
前畑造船
(佐世保市)
特色
農林水産省大臣許可指定漁業の漁船の建造ができる
設備と長年の漁船建造ノウハウがある。
オリジナル中・小曳船は全国一のブランドを誇る。
軽合金製船舶の建造技術を誇る造船所。
エンジンの仕上げ技術と確実な納期により、客船、貨
物船の修理を行う。
幅が広いフローティングドックの強みを活かした高
い作業効率と技術が自慢である。
ISO9001、ISO14001 の認証を取得し、船舶の品質の向
上並びに環境に配慮した船造りを行っている。
エンジンのオーバーホールを含めた修理技術、FRP 補
修技術には定評がある。
JG サービスステーション認定が保証する旋網漁船、港
湾建設作業船の高い修繕工事技術を有する。
ユーザーの用途に応じた省エネの電気推進船の企画
から建造まで一手に行う環境に貢献する造船所。
中小型船舶から 5000GT 級の造船、船尾改造・船体延
渡辺造船所
長改造工事、特殊ニーズ製品の開発・製造・販売を行
(長崎市)
う。
(出典)長崎県産業労働部『船力』
(5)長崎県の積極的な支援
長崎県の中小造船業の更なる発展に向け、行政も積極的な支援を展開し
ている。その例をいくつか紹介すると、長崎県産業労働部は、「長崎は今、
船力に満ち溢れている」として、小冊子『船力』(「戦力」にかけて「せん
りょく」と読む)を平成 23(2011)年に発行し、関係各方面に配布した(同冊
子は長崎県のホームページ ttp://www.pref.nagasaki.jp/shoukou/zousen/
pdf/02.pdf よりダウンロード可)。これは県内中小造船・舶用工業の受注機
会を増やすことを狙ったものであるが、長崎県が造船・舶用工業だけをと
りあげた初めての企業マップである。同冊子は、造船 10 社、溶接・製缶・
32
加工を行うもの 19 社、電気・機械・プラント 14 社、艤装・その他 9 社に
ついて、設備、実績に加え技術の強みも掲載している。また、長崎県は平成
22(2010)年に県内の長崎総合科学大学と造船技術者の人材育成の連携に関
する協定を結んでいる。同協定は、造船業を支える人材育成のために、造船
業の人材ニーズを大学のカリキュラムに反映させたり、在職者の技術向上研
修を大学で行ったりすることなどを狙いとしている。このほか、上述の三菱
重工業(株)長崎造船所による新規客船受注を契機として、県は、造船関連技
能・技術者育成に関し必要な技能・技術の習得を支援する予定である。ちな
みに、長崎総合科学大学は、学科として船舶工学科を有する全国唯一の大学
である。同大学は、昭和 17(1942)年に「川南高等造船学校」として創立さ
れたのを皮切りに、長崎造船短期大学(昭和 25(1950)年創立)、長崎造船大
学(昭和 40(1965)年創立)と発展し、昭和 53(1978)年に現在の名前に改称し
ている。同学科は、檜垣造船(株)、中谷造船(株)、四国ドック(株)、向島造
機(株)、(株)新来島どっく、佐伯重工業(株)及びツネイシホールディングス
(株)の 7 社と造船奨学制度を設けている。
(6)「造船クラスター」
以上のように長崎県には、大手中小の造船業・舶用工業を中心に関連する
企業・教育機関が集積し、いわゆる海事クラスター(海事産業群)の大きな核
として「造船クラスター」とも呼ぶべきものが存在する。特に、このクラス
ターに関する県の取組みは、県内海事産業の受注機会拡大のための広報を支
援することから人材育成にまで及んでおり、画期的なものと言えよう。「造
船クラスター」という呼称が使われるようになっている背景には、”造船技
術は船舶を建造し続けてこそ維持・向上しうる”という明確な意識が見て取
れる。
4.港湾・海運
(1)10km に 1 つの港
長崎県には、いわゆる重要港湾が 5 港(本土に長崎港及び佐世保港、離島
に厳原港、郷ノ浦港及び福江港)、地方港湾が 77 港(本土 44 港、離島 33 港)
存在する。漁港も含めると長崎県には 390 の港があり、海岸線のほぼ 10km
に 1 つ港が存在する計算となる。歴史的に見れば、長崎県の人流・物流、さ
らには文化の交流を支えてきたインフラとして港湾がいちばんに挙げられ
る。現在ではその多くの役割を道路が担うことになっているが、九州新幹線
西九州ルート(平成 34(2022)年頃開通予定)への期待も大きい。
(2)長崎港
長崎県に最初に来航したポルトガル船は、天文 19(1550)年に平戸に入港
し、貿易活動を始めたが、永禄 4(1561)年に発生した平戸商人とポルトガル
33
人との衝突事件(宮ノ前事件)を機にポルトガル側は平戸から退去。以後、ポ
ルトガル船の来航は、横瀬浦(西海市)、福田(長崎市)、口之津(南島原市)
へと移り、元亀 2(1571)年より長崎港に落ち着いた。長崎港には南蛮船が毎
年来港することとなり、内外の商館・店舗が建てられ賑わいを見せた。寛永
13(1636 年)にはポルトガル人(後にオランダ人)の居留地として海面埋め立
てにより出島が完成した。出島は安政 6(1859 年)に他の 4 港(横浜港、神戸
港、函館港及び新潟港)が日米通商条約によって開港されるまで、鎖国時代
唯一の西洋への窓口であった。この時代に初めて長崎の地を踏んだ坂本龍馬
は、慶応元(1865)年に長崎で亀山社中を結成し、海運業を興している。
長崎港には、年間外航商船 239 隻(1,814,862 総トン)及び内航商船 13,710
隻(7,058,084 総トン)が入港している(『長崎県統計年鑑』
(平成 22 (2010)
年、第 57 版)。以下、貨物についても同様)。内航商船の約 83%(11,329 隻)
は 500 総トン未満の小型船舶である。輸出入貨物は 513,989 トン(輸出
207,265 トン、輸入 306,724 トン)で、輸入が輸出の約 1.5 倍ある。主たる
取扱貨物は、輸出については金属機械工業品(165,507 トン、全輸出の 79.9%)
及び化学工業品(34,455 トン、同 16.6%)、輸入は LNG・LPG(223,198 トン、
全輸入の 72.8%)及び金属機械工業品(41,456 トン、同 13.5%)。
移出入貨物は 1,761,742 トン(移出 269,817 トン、移入 1,491,925 トン)
あり、圧倒的に移入が多い。主たる取扱貨物は、移出は日用雑貨等(112,945
トン、全移出の 41.9%)、化学工業品(88,726 トン、同 32.9%)及び鉱産品
(39,033 トン、同 14.5%)。移入は重油・石油製品など化学工業品(978,487
トン、全移入の 65.6%)、金属機械工業品(352,806 トン、同 23.6%)及び鉱産
品(153,934 トン、同 10.3%)である。
長崎港の港湾運送は、一般港湾運送事業者として長崎港湾運輸(株)、日
本通運(株)長崎支店及び山九(株)長崎事業所の 3 社、港湾荷役一貫業者とし
て後藤運輸(株)、タカラ長運送(株)及び九州商船(株)の 3 社、沿岸荷役専業
者として富士港湾(株)、長崎倉庫(株)及び(株)富川兄弟商会の 3 社、はしけ
専業者として崎永海運(株)及び(有)中一運輸工業所の 2 社が事業を展開して
いる。とりわけ長崎港湾運輸(株)、日本通運(株)長崎支店、後藤運輸(株)、
タカラ長運(株)及び長崎倉庫(株)の 5 社は、長崎市と長崎商工会議所とが組
織する「長崎港活性化センター」(平成 10(1998)設立)の会員として、今後の
長崎港の発展に向けた活動を行っている。
また、これら港湾運送事業者、長崎港活性化センター、九州地方整備局長
崎港湾・空港整備事務所、長崎県などは「長崎港物流戦略検討会議」(座長:
森隆行 流通科学大学教授)において長崎港の新たな国際物流のあり方を議
論し、平成 24(2012 年)3 月に「長崎港における新たな物流モデルの構築に向
けた提言書」をとりまとめ、
「長崎方式」(官民が連携した先駆的な国際高速
船物流)の実現に向けての取り組みを提言している。なお、長崎港には、長
崎県にとっての唯一の定期コンテナ船が釜山との間で平成 11(1999)年より
就航している。韓国の高麗海運がフルコンテナ船「SUNNY SPRUCE」(342TEU)
34
を用いて、熊本港、八代港を経由して長崎港に週 1 便を運航している。船社
は採算ラインとして 1 航海当たり 50 個の確保を求めているとされるため、
他港に流れている地元貨物の誘致などが求められている。
<図 4> 長崎港小ヶ倉柳外貿ふ頭
(出典)長崎港活性化センター
また、長崎港には、国際観光船専用のバースとして「松が枝国際観光船埠
頭」
(昭和 60(1985)年供用開始)があり、外航クルーズ客船の寄港数が多い。
平成 18(2006)年には 52 隻が来航し、日本一に輝いた。このため、長崎港は
国土交通省により「外航クルーズ(定点クルーズ)」機能及び佐世保港とと
もに「国際定期旅客」機能が評価され「日本海側拠点港」として選定されて
いる。長崎県は更に客船の受け入れ体制を強化するため、現在の 360m の岸
壁を 1,000m 程度に延ばすことも検討している。
長崎港では、中国との旅客航路開設にも熱心に取り組んでいる。大正 12
(1923)年に上海航路が開設され、およそ一昼夜(26 時間)で上海に行けること
となったため、「下駄を履いて上海へ」と言われるほど長崎市民にとって上
海が身近な存在となるとともに、中国からの旅行客を含め、長崎港はいっそ
う賑わった。日中戦争下、2 隻の連絡船(長崎丸、上海丸)の沈没などにより
昭和 18(1943)年に途絶えた上海航路は、平成 6(1994)年に上海国際フェリー
が就航し、いったんは復活した(平成 9 年廃止)。そして今、3 度、上海航路
の定着に向け、県を挙げて取り組んでいる。平成 23(2011)年 11 月に HTB ク
ルーズにより長崎・上海間で「OCEAN ROSE」(パナマ籍、全長約 193m、約 30,000
総トン)の試験運航が始まり、平成 24(2012)年 2 月に正式就航した。同年 4
月以降、週 1 便が運航される予定である。なお、同年は長崎県と上海市との
友好交流関係樹立 15 周年、平成 24(2012)年は日中国交正常化 40 周年である
35
とともに、長崎・福建友好県省締結 30 周年という長崎と中国との交流の節
目でもある。
観光船として、やまさ海運(株)、(有)高島海上交通、
(株)ユニバーサル
ワーカーズ、(株)シーマン商会及び馬場広徳(ひろのり)氏(個人事業主)の 5
事業者が軍艦島のクルーズを運航し、人気を博している。軍艦島は、長崎
港から南西約 19km の海上に浮かぶ端島(はしま)の通称である。その姿が船
艦「土佐」に似ていることから軍艦島と呼ばれているが、明治 23(1890)年
から昭和 49(1974)年まで、主として八幡製鉄所に向け製鉄用原料炭を供給
していたことで知られる。また、港内の観光船の新たな目玉としては、坂
本龍馬ゆかりの復元帆船「観光丸」(ハウステンボス(株)所有)の長崎クル
ーズが平成 24(2012)年 4 月 7 日から就航している。その運航を担うやまさ
海運(株)は、観光の活性化とともに乗船客に広く長崎の歴史を学んでもら
うことを狙いとして、船上では三菱重工業(株)長崎造船所や小菅修船場跡
など長崎の歴史・海事文化を紹介している。
<図 5> 平成 24(2012)年 4 月から就航している「観光丸」
(出典)やまさ海運(株)
そのほか、長崎港には、2 つのマリーナ(長崎サンセットマリーナ、長崎
出島ハーバー。計 334 隻収容)があり、いずれも「海の駅」として登録され
ている。なお、長崎漁港では、年間 879 隻(平成 21(2009)年)の漁船が活動
している。
長崎水先人区には 3 名の水先人が所属し、長崎の水先人は、年間 353 隻の
水先実績(平成 22(2010)年度)がある。
(3)佐世保港
36
長崎県で長崎市(約 44 万人)に次いで人口の多い佐世保市(約 26 万人)
にある佐世保港は、軍港として名高い。明治 22(1889)年に第 3 海軍区佐世
保鎮守府が開庁し、西日本地域の防衛及び東アジアへの進出の拠点として整
備された。佐世保港が軍港として選ばれたのは、外海へ通じる港口が約 1km
と狭く、わざわざ防波堤を構築する必要がなかったこと、周囲を山々に囲ま
れ深い入り江を持つこと、朝霧の発生が軍艦を隠す役割を果たすことなどが
理由として指摘されている。佐世保港は太平洋戦争の終戦によって軍港とし
ての役割を終えるに見えたが、今でも商港機能の中心である佐世保港区の約
8 割が米軍の施設(制限)水域となっており、軍港の性格は引き継いでいる。
日本の海上自衛隊も佐世保地方隊を昭和 28(1953)年に創設して以来、西海
の護りの第一線部隊として、北は山口県から南は沖縄県に至る広大な海域の
防衛警備を行っている。陸上自衛隊は、昭和 30(1955)年に相浦(あいのうら)
駐屯地を開設し、第 3 教育団等を置いている。
佐世保港には、年間外航商船 71 隻(640,733 総トン)、内航商船 18,699 隻
(3,616,283 総トン)、漁船 4,537 隻が入港している(『佐世保港港湾統計年報』
平成 22(2010)年)。以下、貨物についても同様)。内航商船はその約 66%
(16,866 隻)が 500 総トン未満の小型船舶である。輸出入貨物は 279,796 トン
(輸出 37,597 トン、輸入は 242,199 トン)。輸入の主たるものは、飼料とし
てのトウモロコシなど農水産品(140,223 トン、全輸入の 57.9%)及び燃料用
石炭など鉱産品(68,703 トン、同 28.4%)。輸出は、全輸出の 95.0%が金属機
械工業品(35,719 トン)である。移出入は 2,565,596 トン(移出 739,396 トン、
移入 1,826,200 トン)で、主たる移入貨物は、石油製品などの化学工業品
(784,779 トン、全移入の 43.0%)
、鉱産品(234,699 トン、同 12.9%)及び金属
機械工業品(356,966 トン、同 19.5%)。移出貨物は、金属機械工業品(243,419
トン、全移出の 32.9%)、製造食品など軽工業品(43,356 トン、同 5.9%)及び
日用雑貨など特殊品(45,619 トン、同 6.2%)。
佐世保港の港湾運送は、一般港湾運送事業者として佐世保港湾運輸(株)及
び日本通運(株)佐世保支店の 2 社、船内荷役業者として佐世保海運(株)、沿
岸荷役専業者として(株)九商コーポレーション、西九州倉庫(株)及び吉田海
運(株)の 3 社が事業を行っている。
なお、先にも触れたが、佐世保港は長崎港とともに平成 23(2011)年に「国
際定期旅客機能」において「日本海側拠点港」に選定されている。佐世保港
の港湾管理者である佐世保市は、「東アジアへ向けた九州サブ・ゲートウェ
イ構想」を掲げ、その玄関口としての港湾整備を進めている。例えば、佐世
保駅に近い三浦地区において国際航路開設のための港岸壁や泊地などの整
備を行っており、釜山との国際航路の開設を目指している。ちなみに、佐世
保市は、九十九島を擁する西海(さいかい)国立公園(昭和 30(1955)年指定)、
ハウステンボス(平成 4(1992)年開業)、西海パールシーリゾート(平成
6(1994)年開業)などの豊富な観光資源を有している。
37
<図 6> 佐世保港前畑地区
(出典) 佐世保市港湾部
佐世保水先区には 4 名の水先人が所属し、佐世保の水先人は年間 856 隻の
水先実績(平成 22(2010)年度)がある。その過半が佐世保造船所関係の船舶
である。
(4)厳原港、郷ノ浦港、福江港
古くは中国大陸や朝鮮半島との交易港として知られる厳原(いづはら)港
は、対馬島(人口 34,726 人。平成 21(2009)年 10 月 1 日現在)の南東に位置し、
昭和 26(1951)年に重要港湾に指定されて整備が進められてきた。年間の入港
船舶は、外航商船 476 隻、内航商船 2,433 隻、漁船 41,428 隻で、それら外
航商船のすべて及び内航商船の約 67%(1,634 隻)は 500 総トン未満の小型船
舶である(『長崎県統計年鑑』(平成 22(2010)年、第 57 版)。以下、貨物につ
いても同様)。輸出入(676 トン)はすべてが農水産品である(ヌタウナギを主
とする輸出 211 トン、アナゴを主とする輸入 441 トン)。移出入(178,025 ト
ン)のうち、移出(43,980 トン)は、福岡県・博多港への上質な建設資材とし
ての砂利・砂など鉱産品(24,924 トン)を主とする。移入(134,045 トン)は、
博多港や壱岐島・芦辺港からの砂利・砂など鉱産品(35,560 トン)、博多港か
らの産業機械など金属機械工業品(25,231 トン)や、山口県・岩国港からの石
油製品など化学工業品(22,409 トン)を主としている。厳原港には、九州郵船
(株)が郷ノ浦港等を経由して博多港までのフェリー(日 2 便)及びジェットフ
ォイル(日 2 便)を運航している。外国航路として、釜山との間を約 2 時間で
結ぶ定期航路(週 4 便)が発着しており、年間 79,707 人(平成 20(2008)年)が
利用している。
郷ノ浦港は、壱岐島(人口 29,516 人。平成 21(2009)年 10 月 1 日現在)の南
38
西部に位置し、古くは九州本土を始め、本州や朝鮮、中国方面と盛んな交易
が行われていた。昭和 34(1959)年に重要港湾に指定された郷ノ浦港は、郷
ノ浦港の前面に浮かぶ大島、長島、原島への物資の輸送拠点となっている。
年間、外航商船 1 隻、内航商船 4,400 隻、漁船 21,921 隻が入港する(『長崎
県統計年鑑』(平成 22(2010)年、第 57 版)。以下、貨物についても同様)。
内航商船の約 72%(3,173 隻)は 500 総トン未満の小型船舶である。移出入貨
物が 425,301 トンあり、その約半分の移出貨物(206,017 トン)のほとんど
(92.3%)は、建設資材としての海砂などの鉱産品(190,186 トン)で、長崎県
内(74,960 トン)のほか、山口県(60,592 トン)や大阪府(11,200 トン)の諸港
に運ばれている。主たる移入貨物(219,284 トン)は、佐賀県・唐津港ほかか
らの砂利・砂や山口県内諸港からの石灰石など鉱産品 145,808 トン、福岡
県・苅田(かんだ)港ほかからのセメントや山口県・岩国港ほかからの石油製
品など化学工業品 41,412 トンである。郷ノ浦港では、平成 16(2004)年に旅
客船埠頭が完成すると、同年には「飛鳥」(28,717 総トン)が、平成 23(2011)
年には「飛鳥 II」(50,142 総トン)ほか 5 隻の大型客船が入港し、観光港と
しても注目を集めている。また、郷ノ浦港は上述の厳原港から博多港までの
航路の経由港であり、また、壱岐市内の離島(原島、長島及び大島)を結ぶフ
ェリー(日 4 便)を壱岐市が運航している。
福江港は、五島列島(人口 63,321 人。平成 21(2009)年 10 月 1 日現在)の
福江島東岸に位置する。五島列島は、福江島を中心とした 11 島(福江島の
他に、奈留島(なるしま)、前島、久賀島、蕨小島、椛島(かばしま)、赤島、
黄島(おうしま)、島山島及び嵯峨島)で構成される五島市と、中通島(なかど
おりじま)を中心とした 7 島(中通島の他に、頭ヶ島(かしらがじま)、桐の
小島、若松島、日島、有福島(ありふくじま)及び漁生浦島(りょうぜがうら
しま))で構成される新上五島町とから成る。福江港は、昭和 26(1951)年に
重要港湾に指定されてから整備が進められてきた。年間 10,232 隻の内航商
船が入港するが、その約 80%(8,276 隻)が 500 総トン未満の船舶であり、ま
た、漁船は年間 8,496 隻入港している(『長崎県統計年鑑』(平成 22(2010)
年、第 57 版)。以下、貨物についても同様)。海上出入貨物は、移出が 40,387
トン、移入が 164,916 トンある。移出貨物では、岡山県内諸港へのろう石な
ど鉱産品 32,200 トン、移入貨物では長崎港からの製造食品や日用品等の軽
工業品・雑工業品 85,686 トンが主たるものである。福江港では、野母商船
(株)が五島列島内を経由して博多港までのフェリー(日 1 便)を、九州商船
(株)が長崎港との間でジェットフォイル(日 4 便)及びフェリー(日 3 便)をそ
れぞれ運航している。野母商船(株)が運航している「太古」(平成 4(1992)
年竣工、旅客定員 350 名、1,272 総トン)は、五島列島にとっての人流・物
流を支えているのはもちろん、世界遺産登録を目指している列島内の 50 も
のカトリック教会群への観光客の足としての役割も有している。
(5)内航・貨物
39
長崎県の内航海運事業者は 103(内航運送事業者としての登録事業者 32、
内航船舶貸渡業者としての登録事業者 71。国土交通省九州運輸局『九州の
物流』2011 年版より)あり(全国登録事業者 2,301 の約 4.5%)、86 隻(44,908
総トン)の船舶が使用されている。県内内航海運の特徴として、本土と離島
間の物資輸送に従事する事業者が多いことが挙げられる。そこでは島の小さ
い港にあわせて 199 トンなどの小型船舶が多く使用されている。
(6)内航・旅客
すでに触れた通り、長崎県には有人島が 73 もあり、約 18 万人が島で生活
しているため、海上交通が発達している。目下、県内には 43 航路が開設さ
れているが、そのうち 36 航路は離島航路であり、野母商船(株)、九州郵船(株)
など 29 の事業者(6 市 1 町を含む)が運航している。離島航路は、通勤・通学・
生活必需品の輸送など離島住民の生活や、観光客の足として離島経済の振興
に欠かせないものである。しかしながら、離島は人口減や住民の高齢化によ
って利用客が減少しているために、離島航路を運航する事業者には厳しい状
況にある。このため、36 航路のうち 25 航路は国や県・市などが補助を行っ
ている。
ちなみに野母商船(株)は、大正 5(1916)年に創業。県内旅客事業者の代表
格であるが、同社の代表取締役社長は、社団法人日本旅客船協会(昭和
26(1951)年設立)の会長職を 2 度にわたって務めるなど(村木信一郎氏が昭
和 55(1980)年から昭和 61(1986)年まで、村木文郎氏が平成 18(2006)年から
平成 23(2011)年まで)、旅客航路事業の改善や国内海上交通・観光の振興を
目的とした同協会の全国規模の活動にも精力を注いでいることで知られる。
県内 43 航路のうち 7 航路は本土間の航路である。長崎県は複雑な海岸線
を有するために、海上交通は依然として利便性が高い。大村湾観光汽船(有)
が運航する長与(ながよ)港(西彼杵郡長与町)~長崎空港、安田産業汽船(株)
が運航するハウステンボス~長崎空港、瀬川汽船(株)が運航する佐世保港~
横瀬港(西海市西海町)、九商フェリー(株)及び熊本フェリー(株)が運航する
島原港~熊本港の航路などはその例である。
5.船員・船員教育等
(1)船員数
九州運輸局長崎運輸支局の管内で雇用されている船員(壱岐市及び対馬市
については九州運輸局の管轄であるため、ここには含まれない)は、3,615
名(予備員を含む。家族船員(72 名)は含まない。平成 22(2010)年 10 月 1 日
現在)で、その内訳は汽船 1,042 名、漁船 1,978 名、官公庁船等 595 名であ
る。
(2)船員教育
40
南島原市にある口之津(くちのつ)海上技術学校は、独立行政法人海技教育
機構の下で全国に 4 つある海上技術学校(他は国立小樽海上技術学校、国立
館山海上技術学校、国立唐津海上技術学校)の 1 つである。同校は、昭和 29
(1954)年に航海科・機関科(ともに修業年限 1 年)を備える海員学校として設
置された。今では、本科(修業年限 3 年)において高等普通教育及び専門教育
を行うとともに、卒業後に進学できる乗船実習科(6 ヵ月)も備える。遠くは
群馬県からの入学者もあり、また、平成 4(1992)年からは女子生徒も受け入
れている。
(3)長崎帆船まつり
江戸時代の長崎は、行事が 1 年の間ほとんど絶え間なく行われていたとい
う。今でも長崎県では数多くのお祭り・イベントが開催されている。代表的
なものとして、「長崎くんち」、「長崎ハタ揚げ大会」(長崎では凧を「ハタ」
と呼ぶ)、「長崎ランタンフェスティバル」、「長崎ペーロン選手権大会」、
「YOSAKOI させぼ祭り」などがある。長崎県民は、温暖な気候、異国人との
交流の歴史などを背景に、前述の通り陽気でのびのびとして社交的と言われ
ているが、それがお祭り・イベントを開催し、楽しむ姿にも示されている。
その中で特に海事に関しては、平成 9(1997)年以来、町が港とともに発展
してきた歴史を踏まえ、「長崎帆船まつり」が開催されている。
<図 7>「長崎帆船まつり」での海王丸
(データ)帆船海王丸クラブ
「長崎帆船まつり」は、平成 12(2000)年からは毎年開催されており、平成
23(2011)年までに 13 回を数えた(平成 22(2010)年は「海フェスタながさき
~海の祭典 2010 長崎・五島列島~」と併せて開催)。累計集客数は 200 万人
41
を超え、統計がある過去 9 回の経済波及効果は 1 回当たり平均 10 億円を上
回っており、地域の活性化、観光の振興に果たしている役割は大きい。「長
崎帆船まつり」では、日本丸(航海訓練所所有)や海王丸(海技教育財団所有)
の国内帆船のみならず、ナジェジュダ(ロシア)やヨーロッパ(オランダ)など
海外の帆船も集結し、多いときに 10 隻もの帆船が一堂に会する様は観る者
を圧倒した。
6.官公署(国土交通省関係)
長崎県には、国土交通省九州運輸局長崎運輸支局(長崎港湾合同庁舎内)と同
支局佐世保海事事務所(佐世保港湾合同庁舎内)とがあり、管轄区域内の船員手
帳の交付関係事務、旅客船航路事業・内航海運業関係事務、港湾運送事業関係
事務、船舶の登録・検査関係事務などを行っている。また、海上保安庁の組織
として、長崎海上保安部(長崎港湾合同庁舎内)、佐世保海上保安部(佐世保港
湾合同庁舎内)及び対馬海上保安部(対馬市厳原町)のほか、比田勝(ひたかつ)
海上保安署(対馬市)、壱岐海上保安署(壱岐市)、平戸海上保安署(平戸市)及び
五島海上保安署(五島市)があり、不法操業を行う外国漁船の取締り、密輸・密
航船など不審船に対する監視取締りや、港内の秩序維持にあたっている。
42
【長崎県海事産業データ】
人口、面積、人口 1,426,779 人、4095.22km2、348.40 人/km2
密度
(平成 22(2010)年国勢調査)
671 千人(労働力調査、平成 23(2011)年 第 3 四半期(7~9
就業者数
月平均)結果)
第一次産業: 8.9% (農業 6.6%、漁業 2.2%など)
第二次産業:22.1% (製造業 11.5%、建設業 10.0%など)
産業別就業者割
第三次産業:69.0% (卸売・小売業 17.3%、医療・福祉 13.6%、
合
サービス業 11.4%など)
(就業構造基本調査、平成 19(2007)年 10 月 1 日現在)
4,320,061 百万円(平成 21(2009)年)推計値。長崎県県民
県内総生産
生活部統計課 平成 24(2012)年 1 月 26 日公表)
104 港(うち重要港湾 5 港。九州地方整備局長崎港湾・空港
港湾
整備事務所 HP より。)
漁港
286 港 (出所同上)
港湾運送事業者
19 事業者*
50 事業者 (普通倉庫 28 事業者、冷蔵倉庫 22 事業者)*
主たる品目は、農水産品(平成 20(2008)年度)実績 166 ト
倉庫事業者
ン)、冷凍水産品(同 72 トン)、畜産物(同 23 トン)、金属(同
21 トン)
内航海運事業者
103 事業者(登録事業者:運航 32 事業者、貸渡 71 事業者)*
32 事業者 43 航路(平成 24(2012)年 2 月 1 日時点。長崎県
旅客船事業者
港湾部提供情報より)
62 事業者(休止中の 14 を含まず。平成 24(2012)年 3 月時
造船事業者
点。長崎県提供情報による)
185 事業者(平成 24(2012)年 3 月時点。長崎県提供情報に
舶用事業者
よる)
3,615 名(壱岐市・対馬市を含まない。平成 22(2010)年 10
就業船員数
月 1 日時点。九州運輸局長崎支局提供情報による)
8 人(長崎地区 5 人、佐世保地区 3 人。平成 24(2012)年 3
海事代理士
月 5 日時点。日本海事代理士会公表情報より)
7 人(長崎水先区 3 人、佐世保水先区 4 人)(日本水先人連合
水先人
会提供資料より)
8,534(平成 20(2008)年 11 月 1 日時点。『長崎県統計年鑑』
漁業世帯数
(平成 22(2010)年 第 57 版)
*国土交通省九州運輸局『九州の物流 2011 年版データブック』より。
43
愛媛県の海事産業
はじめに
愛媛県は四国の北西に位置し、北側は瀬戸内海に南西部は宇和海に接してい
る。沿岸部が平野となっている以外は、西日本で最も高い石鎚山(1,982m)や四
国カルストなど山地、高原が多く、森林が県土の 71%を占める。人口は約 143
万人(全国 26 位)、面積は 5,678km2(全国 25 位)、工業統計による製造品出荷
額 は 3 兆 7,392 億円(全国 25 位)といずれも平均的な規模である。
愛媛県は律令体制下の伊予国と重なっており、県名は古事記にある記述「伊
予国は愛比売と謂ひ」から取られた。もっとも、その愛比売の意味は、織物に
優れた女性だという説と四国の中の長女だという説などがあり判然としない。
司馬遼太郎氏は『街道をゆく 南伊予・西土佐の道』(朝日新聞社)で「愛比売」
はいい女という意味であるとし、
「いい女」などという行政区の名称は、世界中
にないのではないか」と賛辞を述べている。
さて、愛媛の地は江戸時代には松山藩、今治藩、西条藩、宇和島藩、小松藩、
大洲藩、新谷藩、吉田藩の 8 藩に分かれて統治されていた。そして、明治 4
(1871)年の廃藩置県で 8 藩は 8 県になったが、すぐに合併されて北半分が松山
県に、南半分が宇和島県になった。更に、翌明治 5(1872)年に松山県は石鉄県
に、宇和島県は神山県に改名された。司馬氏は先に挙げた著書で、この県名を
「額に『馬鹿』と烙印をおされたような県名」とし、戊辰戦争で朝敵とされた
松山藩の人々が「幕末からうけつづけてきたいろんな屈辱の中で、この『石鉄』
はもっともひどかったにちがいない」と述べている。もっとも愛媛の人々にと
っては不幸中の幸いと言うべきか、この石鉄県と神山県の時期は1年余りで終
了し、明治 6(1873)年には両県の合併により愛媛県が誕生した。
上記のように江戸時代に藩が分かれていたこともあり、愛媛県の中でも経済
や文化の発展あるいは人々の考え方などは地域によって随分異なるようだ。現
在、地元テレビの天気予報を見ると、愛媛県は東予、中予、南予に 3 区分され
ているが、この 3 つの区分の地域性に関して面白い小話がある。
「東予の人は金
があれば商売を始め、2 倍、3 倍に増やそうとする。中予の人は金は貯蓄して利
息で生活し、俳句などの趣味に生きる。南予の人は散財する」。
現在の各地域における産業は、東予では製紙業(四国中央市)、非鉄金属業・
化学工業(新居浜市・西条市)、造船業・海運業・タオル製造業(今治市)などが
盛んで、中予は古くからの文化の街で商業・サービス業(松山市)の地として発
展しており、南予では農林水産業が基幹産業となっている。
特産品として、工業製品では、タオル、さらし包装紙、障子紙・書道用紙、
祝儀用品、食卓塩、果実缶詰、農林水産品ではいよかん、キウイフルーツ、裸
麦、マダイ(養殖)、真珠母貝があり、これらの生産では愛媛県がすべて全国 1
位となっていることも注目に値する。
44
1.港湾及び港湾運送事業
愛媛県は、200 余りの島々を含めて海岸線が全国 5 位の長さであり、したが
って港湾の数も 51 港(うち重要港湾 6 港)で全国 5 位、漁港の数も 195 港で全国
3 位と多く、入港船舶数も 246,172 隻で全国 4 位となっており、この港湾・漁
港を中心にした海事産業が、愛媛経済の発展と豊かな暮らしの確保に大きな役
割を果たしている。まずは、愛媛県内の主要港湾の状況に触れる。
四国運輸局が発表している船舶積み揚げ量で、県内最大なのが新居浜港。新
居浜港近辺はかつては小さな漁村だったが、元禄 3(1690)年に別子銅山が発見
され、翌年から住友家による採掘が始まると、銅や関連物資の輸送で港が栄え
ることとなった。明治以降は住友系企業が相次いで立地し、工業港としての地
位を確立した。現在の船舶積み揚げ量は年間 660 万トンで、住友金属鉱山
(株)(別子事業所)、住友化学(株)(愛媛工場)、住友共同電力(株)といったグル
ープ企業関連の石炭、金属鉱、その他鉱産品の取り扱いが多く、港湾運送事業
者としては、森実運輸(株)、住鉱物流(株)、浜栄港運(株)など 9 事業者が事業
を展開している。ちなみに、現在、港湾法に基づく港務局が港湾管理者を務め
るのはこの新居浜港のみである。
船舶積み揚げ量で新居浜港に次ぐのが松山港。万葉集に詠まれた「熟田津(に
ぎたつ)」は現松山港の一部である三津浜と考えられており、古代より海上交通
の拠点とされていた。松山は県都であり、文化、商業、観光の町であるという
こともあって、工業関連の取扱い貨物は少ない。船舶積み揚げ量は平成 22
(2010)年度の実績で約 220 万トンだが、その 6 割はコンテナによるものである。
港湾運送事業者としては、日本通運(株)松山支店、関西運送(株)など 8 事業者
が事業を展開している。
次いで今治港。来島海峡近辺は海賊の根拠地だった中世以来、港街として発
展していたが、慶長 5(1600)年に藤堂高虎が関ヶ原の戦いでの軍功で今治藩主
となり、城下町今治を建設、その北側に舟入船頭町を作って今治港としての歴
史がスタートした。明治以降の商工業の発展で数多くの船舶が寄港するように
なり、大正 11(1922)年には四国で最初に外国貿易船の出入港が許される開港と
なって以後港湾の規模も大きくなった。船舶積み揚げ量は平成 22(2010)年度
の実績で約 110 万トンだが、その半分はコンテナによるもの、他には鉄鋼など
を取り扱っている。港湾運送事業者としては、日本通運(株)今治支店、今治商
運(株)など 5 事業者が事業を展開している。
他に港湾運送事業法が適用されないため船舶積み揚げ量は発表されないもの
の、取扱い貨物量の多い港として三島川之江港がある。ここは、大王製紙(株)
など製紙業の専用港となっており、製紙原料の木材チップと火力発電用の石炭、
それに紙・パルプ類が取扱い貨物の大宗を占める。製品を中心としてコンテナ
化が進んでいることもあり、同港は平成 22(2010)年に外貿コンテナ取扱個数が
37,000TEU となり、33,000TEU の高松港を抜いて四国一となった。ちなみに松山
港は 26,000TEU、今治港は 17,000TEU である。
45
2.内航海運・旅客船事業
内航海運についてみると、愛媛には内航海運(貸し渡し専業を含む)の登録事
業者(総トン数百トン以上又は長さ 30 メートル以上の船舶による内航海運業を
営む者)が 296、届け出事業者(総トン数百トン未満の船舶であって長さ 30 メー
トル未満のものによる内航海運業を営む者)が 24、合計 325 事業者が事業を展
開している。これは四国全体(565 事業者)の 58%であり、我が国全体(3,408 事
業者)の 10%となる。また、使用船舶の隻数は 477 隻で、四国全体(818 隻)の 58%、
我が国全体(5,469 隻)の 9%を占める。
内航海運事業者の多くは、一杯船主と呼ばれる船舶を一隻しか持たない小規
模事業者である。景気低迷で運賃・用船料が低い水準にとどまっており、厳し
い事業環境が続いているが、二酸化炭素排出等の環境面を考えると、自動車輸
送から内航等へのモーダルシフトは引き続き進めていくべき課題であり、内航
海運事業者に対する期待は大きい。なお、後述する今治の船舶オーナーは、ほ
とんどが内航海運業から発展していったことも愛媛の海事産業を理解する上で
重要である。
旅客船事業については、26 社 29 航路があり、就航船腹量はフェリーボート
26、客船 27、貨客船 2、高速艇 13 の計 68 隻である。輸送実績は平成 22(2010)
年度実績で 3,728,020 人、850,194 台。半分以上の約 234 万人が愛媛県と他県
を結ぶ航路のものであり、九州航路が 128 万人、中国地方との航路が 79 万人と
なっている。
愛媛県と広島県を結ぶ南北航路は、本州と四国の経済的、社会的、文化的交
流という意味で重要な役割を果たしてきた。明治 23(1890)年に松山に本社を置
く石崎汽船(株)が三津浜、宇品航路を開設したのが初めとされ、以後様々な業
者が参入して運賃競争やスピード競争が繰り広げられた。石崎汽船(株)は明治
6(1873)年に石崎平八郎が「石崎回漕店」として創業したが、創業者一家はもと
もと松山藩御用の廻船問屋であった。時代が下り、蒸気機関からディーゼル機
関へ、更に水中翼船、高速船、スーパージェットと変遷し、現在松山と広島を
直通便 68 分で結んでいる。同社は、現在上記スーパージェットとフェリーによ
る松山~広島航路(呉経由あり)のみの運航となっている。本四連絡橋が開通し、
昭和 63(1988)年に松山~三原航路が、平成 11(1999)年に松山~尾道航路が廃止
された結果である。
新居浜・東予~神戸・大阪間の関西航路を運航しているのが、四国開発フェ
リー(株)(オレンジフェリー)。四国開発フェリー(株)は親会社が船舶オーナー
として有名な瀬野汽船(株)で、昭和 45(1970)年に設立された。
愛媛県と九州を結ぶ九州航路では、八幡浜~臼杵間の航路を四国開発フェリ
ー(株)の子会社である九四オレンジフェリー(株)と宇和島運輸(株)が、八幡浜
~別府の航路を宇和島運輸(株)が開設している。宇和島運輸(株)は、明治
17(1884)年に設立された大阪商船の運賃等に不満を持った宇和島の経済人が同
年に設立したもので、翌年に宇和島~大阪間の運航を開始した。以後、本州、
46
四国、九州を結ぶ航路や四国内の運航を行っていたが、現在は八幡浜~臼杵と
八幡浜~別府の運航である。
3.造船業、舶用工業
次に、造船業と舶用工業に注目してみたい。愛媛県内には 47 の造船事業者が
あり、57 の事業所がある。許可造船所(造船法に規定される一定規模以上の船
舶の建造を行う造船所)だけで見れば、四国管内に 58 ある事業所のうち半数以
上の 35 が愛媛県に所在している。また、舶用工業についても四国全体の 92 事
業所のうち約半分の 44 事業所が愛媛県に所在し、更に従業員ベースで見ると、
四国全体の 3,764 人のうち、愛媛が 2,782 人と 74%弱を占めている。
この造船業について、平成 23(2011)年 10 月に(株)いよぎん地域経済研究セ
ンターが外航海運業とあわせて興味深いレポートを発表した。それによると、
今治市には 17 の造船事業者、21 の工場が所在し、平成 22(2010)年度には 94
隻を建造したが、これは日本全体の 16.3%にあたり、また同市には約 60 の外航
海運事業者があり、約 900 隻の外航船舶を保有するが、これは日本全体の約3
割にあたるとしている。人口が 17 万人弱しかいない今治市の事業者が日本の新
造船の 16%を作り、外航船の3割を所有しているという事実には、今治に縁の
ない方は驚かれるだろう。
4.国際都市今治
JR 今治駅や今治城近辺が、明治 22(1889)年に今治町としてスタートして以来、
同町は周辺町村を合併して次第に大きくなり、平成 17(2005)年に越智郡の 11
町村と合併して現在の今治市となった。冒頭に、愛媛県は江戸時代8藩体制だ
ったと書いたが、旧今治町は今治藩、旧越智郡波方町は松山藩である。今治市
の中心、JR 今治駅から今治港に向かう大通りがある。そこを歩いてみると、銀
行や保険会社、証券会社などの金融機関がひしめいているのに気づく。この通
り以外にも金融機関はかなりあり、実際、地元の識者に聞いてみると、船のオ
ーナーや彼らが所有する会社が駅近辺に所在して、大金を動かしているので、
ここの金融機関の資金取扱量はかなり多いという。しかし、識者は「今治駅近
辺は寂しくなった。昔、タオル生産が盛んだったころは活気があった。タオル
産業は裾野が広く、多数の雇用を生み出した。それで、駅前の通りには大丸や
高島屋といった百貨店があった」と言う。
竹内宏氏の『各県別 路地裏の経済学』(中央公論社)によると、今治では男性
が海上で働いたため陸上には膨大な女性の労働力が残っており、それを利用し
て綿織物業が発展していたところ、大正時代に大阪からタオルの生産機械が持
ち込まれたのがきっかけとなって、今治はタオルの一大産地に転換したそうだ。
平成の初めには年間5万トンを生産するまでになったが、近年では安価な中国
産に押され年間1万トン程度にとどまっている。高級品としての地位は保って
47
いるものの、規模としては縮小を余儀なくされている。代わりに成長して規模
が大きくなったのは船のオーナー業だ。しかし、オーナー業は産業としての広
がりに乏しく、タオル産業並みの活気をもたらさなかった。それで百貨店が撤
退し、代わって金融機関が立地するようになったということだ。
その今治では、外国人が用船や造船発注の商談に訪れたり、海事関係の国際
セミナーなどが開催されることが多い。平成 23(2011)年には、近年便宜置籍国
として存在感を高めているマーシャルアイランドの海事局が今治駅近くに事務
所を設置した。また欧州の船社がオーナーなどを集めてゴルフコンペを開いた
という話も聞く。今治は海事の世界では国際都市として世界的に名を知られる
存在になっている。
5.今治市の造船業
波止浜(はしはま)地区に代表されるように波が穏やかで深い入り江は、高潮
などの被害を受けにくいため造船業の適地となる。また、日照時間が長く温暖
少雨という気候も屋外作業が多い造船業に適している。このような自然的条件
の他に、古来より塩、年貢米、瓦製造用の泥、石、石炭、漆器、陶器など運ぶ
ものに事欠かなかったという社会・経済的条件、更には愛媛全体で山地が多く
陸上交通が不便で海上交通に頼らざるを得なかったということも、今治の造船
業の発達を促した。
現在今治には、造船事業者が 17 あり、21 の工場で船舶が建造されている。
造船所が立地しているのは、波止浜地区(今治造船(株)、(株)新来島どっく、檜
垣造船(株)、浅川造船(株)等)と伯方(はかた)島(伯方造船(株)、村上秀造船(株)
等)等の離島で、他には大西町に(株)新来島どっく大西工場がある。これらの造
船所で平成 22(2010)年には 94 隻、139 万トンの船舶が建造された。売り上げに
ついて言えば、平成 12(2000)年から平成 22(2010)年の 10 年で 2,000 億円から
3,400 億円へと大きく増加している。
現在、日本の造船所で建造量 1 位(総トンベース)を誇るのが今治造船グルー
プである。今治造船(株)は、明治 34(1901)年に前身の会社が波止浜で創業し、
昭和 17(1942)年に今治市、越智郡一円の造船所が統合され、今治造船株式会社
が設立された。現在の会長である檜垣俊幸氏(5 男 6 女に恵まれた父、正一氏の
三男にあたる)は、14 歳で第 1 期生として今治造船に入社し、まず軍の上陸用
舟艇を作っている。
敗戦を迎え、戦後の混乱の中で、運ぶものも燃料もなくなり、造船所の大半
がつぶれていった。今治造船も同様に仕事がなく、従業員の多くが離散したた
め先の見通しが立たなくなり、昭和 29(1954)年に休業の事態に陥ったが、檜垣
ファミリーと愛媛汽船(株)の赤尾柳吉社長、岡田恭平氏の共同出資により、新
生今治造船(株)をスタートさせた。以後この檜垣ファミリーが今治造船(株)を
大きく発展させることとなった。
昭和 31(1956)年には早速鋼船第一船である第一富士丸を建造し、昭和 41
48
(1966)年には人気商品となる IS-6 型近海船シリーズの第一船である第一山久
丸を建造した。この IS-6 型というのは、今治シップ 6,000 DWT(載貨重量トン)
という意味で、木材運搬を中心とする近海船市場で大活躍した。当時、内航船
については船腹が過剰になっており、愛媛県内の海運業者は運航コストが低廉
で高収入が期待できる近海船への進出を図っていた。今治造船(株)は、同種船
型の大量建造により船価を低減させ、県内海運業者のニーズに応えた。
1970 年代になると、今度は近海船が船腹過剰になり、今治造船(株)も外航大
型船を目指すようになった。波止浜は場所が手狭で大型船の建造に適していな
いので、同社は昭和 45(1970)年に香川県丸亀市に大型船が建造可能な工場を建
設することとし、工事に着手した。同工場では早速昭和 49(1974)年に大手海運
会社から受注した大型タンカーを建造している。
昭和 48(1973)年のオイルショック以降、深刻な造船不況が到来し、多くの造
船所が倒産の憂き目にあった。しかし、この不況期に他社がリストラをしてい
るなか、近辺の造船所をグループ入
りさせるなど、むしろ業容を拡大し、<図表 1>檜垣俊幸会長作の汽船「今治丸」
それが結果的に今日の隆盛につなが
った。ちなみに、今治造船(株)では
今日に至るまでリストラというもの
をやったことがないという。
平成 7(1995)年には西条市に建設
したブロック工場も稼働し、工場で
ブロックを一括建造し、グループ内
のドックや船台でこれを組み立てる
という分業方式が本格的にスタート
した。
平成 12(2000)年には西条市に大型ドックが完成し、現在は、ハンディサイズ
の船舶を今治で、ハンディサイズから大型パナマックス(9.5 万載貨重量トン)
や自動車運搬船を丸亀で、ケープサイズと VLCC を西条で建造している。系列会
社としては、幸陽船渠(株)、岩城造船(株)、あいえす造船(株)、(株)新笠戸ド
ック、しまなみ造船(株)があり、平成 22(2010)年には、グループ全体で 101 隻、
460 万トンの船舶を建造している。
今治造船(株)の方に成長の秘密を聞いてみると、檜垣俊幸会長の個人的資質
と能力によるところが大きいという。
「会長は船が好きで、昔から兄弟力を合わ
せて船造りに勤しんでおり、また会長が設計する船は性能がいいと評判だ。」と
の説明を受けた。なお、会長は最近、自身が昭和 20 年代に設計、建造した木造
貨物船を忠実に復元したモデルシップ「今治丸」を製作し、披露会で評判を集
めたという。
(株)新来島どっくも前身の波止浜船渠が明治 35(1902)年に創立されていて
歴史は古い。戦後、昭和 24(1949)年に来島船渠として再スタートし、昭和 31
(1956)年に鋼船第一船を送り出した。今治造船(株)とほぼ同じタイミングであ
49
る。後の小型船ブームの先駆けとなったが、ブームを起こしたという点では来
島船渠が最初に採用した月賦販売の役割が大きい。船主には資金調達力がなか
ったため、造船所が地元金融機関の協力を得て、船主に対して建造代金の月賦
払いを認めたもので、この方式は来島船渠で始められたのち、他の造船所でも
採用されるようになり、愛媛の造船が発展した理由とも言われている。ちなみ
に、この月賦方式は、今治市桜井の商人田坂善四郎が、福岡の「丸善田坂商店」
で桜井漆器を販売するにあたり採用したのが我が国初と言われている。船舶の
月賦販売を始めた頃の来島船渠社長は、シベリア抑留を経験し、帰国後来島船
渠を中心に巨大企業グループを作り上げ、さらに後には「再建王」とも言われ
るようになる坪内寿夫氏であった。田坂氏、坪内氏とも冒頭に触れた東予の商
人的性格を示す好例と言えるだろう。さて、来島船渠は坪内社長のもとで、昭
和 38(1963)年に波止浜が手狭なことから、近隣の大西に工場を建設し、更には
昭和 41(1966)年に社名を来島どっくに変更し、川崎重工との技術提携も行い、
船舶の大型化に対応しつつ規模の拡大も図った。しかし、昭和 61(1986)年には
人件費高騰、円高等による造船不況で経営危機が表面化し、負債と不良資産を
別会社に切り離し、坪内氏の個人財産を使って処理する一方、残りの資産で造
船業を継続することとし、(株)新来島どっくとして再スタートを切ることとな
った。現在、新来島どっくグループは、波止浜、大西の他にも広島、徳島、豊
橋等に造船所を有し、コンテナ船、タンカー、一般貨物船、自動車運搬船、L
PG船等多様な船を建造している。
波止浜湾に立地する檜垣造船(株)は、
<図表 2> 檜垣造船の作業風景
昭和 26(1951)年に木造船の建造及び修
理をする会社としてスタートし、今日で
は 14,000 トン以下の船舶の製造では国
内トップクラスの造船会社となっている。
同社は船台に最適な船舶を建造し、建造
船は近海貨物船及びケミカル船等多種多
様である。「当社は、14,000 トン以下の
船舶で日本一を目指します」と会社の方
は言う。なお、平成 20(2008)年に近代設
備を装備したブロック制作場及び艤装岸
壁を備えた波方工場が稼働した。今、日本全国で技術の継承が課題になってい
るが、造船の現場でもテキストなどでは伝えることができない高度な技能をど
う伝えていくかが課題になっているようだ。この点について、檜垣造船では若
手社員を積極的に採用し、熟練工が若手に指導するようにして対応しているそ
うだ。
6.今治市の舶用工業
船舶に搭載するエンジン(ディーゼル機関等)、航海用機器、荷役機械などを
50
製造・供給する舶用工業も、今治で造船業とともに発展し、今日重要な産業と
なっている。今治には 26 の舶用事業者があり、関連産業を含めると 160 ほどの
事業所があると言われている。代表的な企業として、船舶用電気機器をはじめ
とした製品の製造、船内配線工事(電気艤装工事)を行う渦潮電機(株)、船舶用
エアコン等の製造を行う潮冷熱(株)、船舶用潤滑油を製造する村上石油(株)が
ある。
渦潮電機(株)は、昭和 21(1946)年漁船を対象とする蓄電池の販売・充電を行
う会社として創業した。以後電気機器関係の製品・サービスを高度化・多様化
させ、今日では今治の他にも、丸亀、西条、三原らに工場を展開させ、更に大
連やシンガポール、ハノイに海外子会社を設け、外国の造船会社ともビジネス
を行うなど業容は拡大している。主配電盤を年間 250 隻以上に供給し、電線使
用量は 700 万メートルを超えて世界一だそうだ。同社は、自動車運搬船、冷凍
船を得意としているというが、会社の方によると、同社の業務はゼネコン的で
あるという。その意味は、渦潮電機(株)が船舶内で必要とされる機器をすべて
作るのではなく、自社が作っていないもの、例えばモーターなどは更に別会社
に発注し、渦潮電機(株)の社員が造船所に入り込んで自社で生産したものと合
わせ、総合的に機器備え付けの指揮を行うということであり、実際、渦潮電機
(株)の社員の多くは造船所構内で働いている。
7.今治市のオーナー業
さて、今治には 60 の外航船舶のオーナーがあり、約 900 隻の外航船舶を保有
している。今治は、藤原純友の乱で知られる海賊、能島・来島・因島に根拠地
を置いた村上水軍でも有名なとおり古来海運が盛んで、人々の間には造船術、
航海術等のノウハウが伝授されてきた。先に述べた通り、運ぶ貨物にも事欠か
ず内航海運を営む者が多かった。たとえば、昭和 42(1967)年には県内の内航船
主数は 1,051 事業者であった。そうしたなか、1960 年代後半に、自らは運航せ
ずにオペレーターに貸す形態(オーナー業)で近海船に進出する者が現れた。東
予の人々は商機に敏感であるようで、経済成長とともに近海船の需要が高まる
と、内航船主たちは次々に近海船に進出した。その後、近海船市場が飽和して
くると一部のオーナーが遠洋船に進出し、以後今治の「外航オーナー業」が発
展していくこととなった。
ここでオーナー業のビジネスモデルをおおまかに説明すると、①金融機関か
ら資金を借りて、造船所に船舶建造を発注する、②運航会社(オペレーター)と
用船契約を結び、船舶を貸し渡すかわりに用船料を得る、③オペレーターから
得た用船料、船舶の売船で得た金で金融機関からの借りた金を返済する、④売
船益を活用して、新規の船舶建造を発注する、ということになる。実際には、
商社が主導権を握っていたり、オペレーターが造船所に発注してから、オーナ
ーに売却したりするケースもあるなど、バリエーションは様々で、またオーナ
ーが船舶管理や船員の配乗を直接行うかどうかについてもまちまちである。さ
51
て、今治のオーナーで大規模なのは瀬野汽船(株)(波方発祥)、日鮮海運(株)(伯
方)、洞雲汽船(株)(波方)、正栄汽船(株)(今治市小浦町)で、これらの会社を含
めた今治の外航オーナー業の年間の用船料収入は 3,800 億円という。
今治駅前に本社を構える春山(しゅんざん)海運(株)に話を聞いてみた。同社
は昭和 47(1972)年の創業で、当初は内航輸送と貸し渡し業(オーナー業)で始め
たが、今はオーナー業のみで、8,000 個積みコンテナ船、23 万トンバルカーな
ど 30 隻以上を保有している。同社が外航船に進出したのは平成 7(1995)年と最
近のことだが、同社の今岡社長の一族は生粋の海運一家で、今治のオーナー事
情には大変詳しい。今岡社長は今治のオーナー業について、強さの秘密は外航
への進出の早さだと言う。1960 年代後半に近海船に進出して以降、今治のオー
ナーはオペレーターに貸すというビジネスモデルで外航船に積極的に進出した。
経済成長を謳歌することもできたが、反面、オイルショックやプラザ合意以降
の円高も経験し、その経験の中で、生き残ったオーナーたちは相場の怖さを知
り、船舶の建造段階から大変手堅い計画を立てる。例えば、昨今は円高が進み、
1 ドル 100 円であれば 100 億円受け取れる用船料収入が 1 ドル 70 円で 70 億円
になってしまい、他の地方の新規参入オーナーの間では銀行への資金返済が苦
しくなり「リスケ」が広がっているが、今治ではリスケの話は聞かないという。
今治のオーナーは船舶建造の時から自己資金を厚めにしたり、想定為替レート
も厳しめに見積もって建造計画を立てているということだろう。
さて、今治の外航船といっても、船舶の国籍は日本にない。パナマ、リベリ
ア、バハマなどが便宜置籍国として知られているが、実質的なオーナーが日本
人、日本の企業の場合、パナマを選ぶことが多い。この点について、今岡社長
から面白いことを聞いた。パナマの船籍登録には大量割引があり、船を多く登
録すればするほど登録料等が安くなるというのだ。ちなみに、先に触れたマー
シャルアイランド海事局は今治事務所を拠点に、船主への営業活動を始めてお
り、便宜置籍国間の競争が今治の地で展開されている。
さて、今治オーナーの一般的な強さについては先ほど触れたが、別の識者に
聞くと、日本では平成 12(2000)年以降、オーナー業が成長するための追い風が
吹いたということだ。まず、平成 12(2000)年前後に、財務・会計上の理由によ
る運航会社のオフバランス化の動きがあり、オーナー起用のニーズが高まった。
格付け対策には有利子負債を削減することが重要で、運航会社が船舶を自己所
有するより用船する方を選択するようになったわけである。この時、低金利が
続いていた上に、船価も低迷していたので、船主サイドとしてもニーズに応え
ることが容易な状況であった。さらに、他国通貨と比べて相対的に低い金利の
円資金で船舶を建造することは抜群の競争力を持ったから、海外の運航会社も
日本のオーナーを頼ることとなった。次が、平成 16(2004)年以降の海運好況で、
世界的に船舶の建造、就航ブームとなり、日本のオーナーに船を持ってくれと
いう依頼が増えた。このころは銀行も貸出先不足に悩んでいたという事情もあ
って、新規にオーナーへの融資を始める金融機関もいくつか出てきた。すると
金融機関同士の競争となり、融資条件がオーナー側に有利なものとなっていっ
52
た。このように日本のオーナーに追い風が吹く中で、今治のオーナーは更に先
を進むようになった。もっとも、現時点(平成 24(2012)年春)では、オーナー業
の状況は全般的に言えば厳しい。オーナー業の業績を大きく左右する 4 つの要
因がある。用船料が決まる海運市況、為替、金利、それに船員、潤滑油などの
船舶経費だ。これらの多くが現在オーナー業にとって逆風だ。
8.海事産業の発展に貢献した学校と銀行
今治の海事史を語る上においては、弓削(ゆげ)商船高等専門学校を欠かすこ
とができない。同校がある弓削島は古来より製塩が盛んで、平安期には後白河
法皇の荘園として、後には東寺の荘園として塩を献上していた。この塩輸送や
漁業のために、島民の間には造船術や航海術が受け継がれ、明治期には多くの
船員を輩出し、「日本のマルタ島」とも呼ばれた。そうした中、明治 34(1901)
年に弓削村・岩城村で作られた組合により弓削海員学校が設立された。同校は
後に県立、国立そして独立行政法人と組織形態が変わるが、今日までに多くの
人材を関係業界に送り込んでいる。先に触れた坪内寿夫氏もその一人だ。もう
一つ、地元の熱意で昭和 43(1968)年に栗島海員学校波方分校として設立された
国立波方海上技術短期大学校が波方地区にあり、こちらも関係業界に多数の人
材を供給している。
また、今治の海事産業の発展に関して言えば、銀行の果たしている役割も強
調しなければならない。先に触れた(株)いよぎん地域経済研究センターの調査
では、愛媛県内主要金融機関の総貸出金残高のうち、今治所在企業への貸付の
割合は約3分の1となっているが、その約8割は造船・海運関連ということだ。
銀行の関与は融資だけではない。例えば、(株)伊予銀行は 1980 年代にいち早く
ロンドンに事務所を作り、世界の市況情報を入手してオーナーなどの顧客に情
報提供していた。(株)伊予銀行は、現在 4,000 億円程度を海事産業に貸し出し
ているそうだ。また同行は、オーナーには地元の造船所に発注するよう勧めて
いるという。こうした地元密着の姿勢も今治の海事産業の発達に貢献している
だろう。なお、愛媛県の有力地方銀行としては(株)伊予銀行の他に(株)愛媛銀
行があるが、関係者に聞くと融資の基本スタイルに若干相違があるらしい。(株)
伊予銀行では、一船一行主義が基本で、他の銀行と協調融資することはないら
しい。一方、(株)愛媛銀行は協調融資も積極的に行っているようだ。
9.今治市海事都市推進課の取り組みなど
海事都市としてのますますの発展を目指して活動しているのが今治市役所だ。
今治市は産業部の中に「海事都市推進課」を設置し、次世代の人材育成、海事
クラスターの構築、海事文化の振興等のための活動を行っている。今治市では、
造船と舶用工業だけでも 1 万人を超える人が働いており、また税収の高いウエ
イトを造船、海運関係からというから、海事都市推進課の活動は真剣だ。
53
同課の実績の一つに造船所のスペースの拡張のための埋め立てがある。10 年
ぐらい前から世界的に船舶の大型化が進み、そうした世界的な傾向に今治でも
対応していく必要があったが、波止浜等の今治の造船の地は場所が狭くて大型
船舶を建造するのが難しかった。大きい船を作るためには、埋立てをして作業
スペースを広げる必要があるが、瀬戸内環境保全特別措置法は、埋め立ての免
許については、「瀬戸内海の特殊性につき十分配慮しなければならない」(同法
第 13 条)と枠をはめている。そこで、今治市役所が汗をかいて、埋立て権者で
ある県と折衝、その協力を得て、市が埋め立て免許を受け、造成してから造船
所に売却するというスキームを作った。このスキームのもとでの埋め立てのお
かげで、各造船所の作業スペースは一定程度拡張することができた。また、同
課は、パビリオン方式による展示やシンポジウム、セミナーの開催、帆船「日
本丸」の一般公開、工場・新造船見学会等を内容とする国際海事展「バリシッ
プ」の開催を積極的に支援している。平成 23(2011)年 5 月に行われた「バリシ
ップ 2011」には 9 の国と地域から 216 社が出展し、延べ 5 万人以上の参加者を
集めた。更に、同市では、造船技能者の高齢化に対応するため、平成 17(2005)
年に四国運輸局の協力も得て、今治市の造船関連企業と共同して、
「今治地域造
船技術センター」を設置した。同センターは現場での技術向上を目指した様々
な訓練を行っており、これまでに累計 900 名以上の研修生を送り出している。
10.来島海峡海上交通センター
伊予北端の来島海峡は、鳴門海峡、関門海峡とともに日本 3 大急潮流と言わ
れている。潮流は速く、時には 10 ノット(時速 19km)にも達することがあり、
加えて小島の影響により流向もしばしば変わり、全国的にも有数の海の難所と
される。このことが、海の難所を熟知した海賊が来島海峡近辺で勢力を持つに
至った原因でもあると考えられるが、それはさておき、海上保安庁は船舶の安
全航行のために、ここに情報提供と航行管制を行う海上交通センターを設置し
ている。ちなみに、海上交通安全法は船舶が来島海峡を航行する場合に、
「順潮
の場合は来島海峡中水道を、逆潮の場合は来島海峡西水道を航行すること」と
し、潮流の流向によって通航する経路を切り替えることを定めている。潮流に
よって右側通行にしたり、左側通行にしたりするわけで、同センターが管制信
号板や船舶無線などにより、船舶に対し通行経路の表示や指示を行っており、
船舶の安全な通航を確保するために当センターが果たしている役割は大きい。
なお、こうした切り替え方式を採っているのは世界中で来島海峡だけである。
11.官公署(国土交通省関係)
愛媛県の造船、海上運送など海事関係の行政は、国土交通省四国運輸局(香川
県高松市)及びその出先機関である愛媛運輸支局(松山市)、今治海事事務所(今
治市)、宇和島海事事務所(宇和島市)が担当している。また、港湾の整備や開発
54
については、国土交通省四国地方整備局(高松市)及びその出先機関である松山
空港・港湾事務所(松山市)が担当している。更に、海上交通の安全の確保、海
上の治安の維持、海難の救助、海洋環境の保全等については、海上保安庁第六
管区海上保安本部(広島市)が担当し、同本部のもとに、松山海上保安部(松山市)、
今治海上保安部(今治市)、今治海上保安部三島川之江分室(四国中央市)、新居
浜海上保安署(新居浜市)、宇和島海上保安部(宇和島市) 及び先述した来島海峡
海上交通センター(今治市)が置かれている。
おわりに
愛媛県の海事産業を様々な文献や現地の人々の話をもとに鳥瞰してみた。海
で生きること、海とともに生きることが、愛媛の人たちにとっての宿命とも言
えるものであったのだろうが、その歴史と伝統を生かし、新たな海事産業の発
展とそこで働く人々の活気ある姿に触れられたことは筆者にとっても大変印象
深い経験であった。また、海運業が造船業、舶用工業などとともに、それらが
集積していることのメリットを生かして相互に刺激しあいながら、より大きな
発展を遂げていることも興味深い。更には、これら狭義の海事産業を支える地
方銀行((株)伊予銀行と(株)愛媛銀行)の役割や今治市の取り組みのように地元
の産業を後押しする行政の動きも見逃せない。地元の方々から聞いた現下の海
事産業にとっての大きな問題は円高と相続税ということだ。円高はさておき、
事業継承の面で相続税の問題は大きな課題だろう。
最後になったが、愛媛県は県外で活躍した海事関係者を輩出している。松山
出身の秋山真之は海軍参謀として日露戦争に臨み、日本海海戦の勝利に貢献、
戦勝の立役者となった。宇和郡河内村(現宇和島市吉田町)出身の山下亀三郎は、
東京で山下汽船を設立し、第一次対戦勃発による海運好況で大成功を収めた。
松山出身の勝田銀次郎は、神戸で貿易業を営んだのち、勝田汽船を設立し、山
下同様、第一次対戦勃発による海運好況で巨利を得、後に神戸市長となった。
なお、現在、今治造船(株)社長の檜垣幸人氏は(社)日本造船工業会の副会長を、
檜垣造船(株)社長の檜垣清隆氏は(社)日本中小型造船工業会の会長を、渦潮電
機(株)会長の小田 道人司氏は(社)日本船舶電装協会の会長を、今治ヤンマー
(株)会長の冠 信也氏は(社)日本舶用機関整備協会の会長を務めておられるが、
これらの方々は皆今治の出身である。
55
愛媛県海事産業データ集
人口、面積 1,421,042 人、5,678.18 ㎞2、250.26 人/㎞2
人口密度
[平成 24(2012)年 2 月 1 日現在の推計人口注1]
就業者数
665 千人[労働力調査、平成 23(2011)年第 3 四半期(7~9 月平均)
結果]
産 業 別 就 業 第一次産業 8.3%(農業 7.1%、漁業 1.1%など)
者割合
第二次産業 25.7%(製造業 16.0%、建設業 9.7%)
第三次産業 63.6%(卸売・小売業 17.4%、サービス業 11.2%、医療・
福祉 11.0%など)
[就業構造基本調査、平成 19(2007)年 10 月 1 日現在]
県内総生産 4 兆 6,320 億円(名目)
[平成 21(2009)年度県民経済計算]
港湾
漁港
港湾運送事業者
倉庫事業者
51 港(うち重要港湾 6 港)
195 港
24 事業者(指定 4 港における事業者)
普通倉庫 93 事業者、1~3 類倉庫(危険品倉庫、野積み倉庫等以
外の倉庫)の面積 338,622 ㎡、普通倉庫の入庫量は年間約 90 万ト
ン、主な品目は化学工業品、紙・パルプ、合成樹脂である。
冷蔵倉庫 27 事業者、冷蔵室の有効面積 388,765 ㎡、冷蔵倉庫の
入庫量は年間約 11 万トン、主な品目は冷凍水産物、塩干水産物
である。
内航海運事業者 325 事業者、使用船舶は 477 隻、449,228 トン
旅 客 船 事 業 26 事業者 29 航路、就航船舶は計 68 隻(フェリーボート 26、客船
者
27、貨客船 2、高速艇 13)。輸送実績は平成 22(2010)年度実績で
3,728,020 人、850,194 台。
造船事業者 47 事業者、55 工場
舶用事業者 44 事業者
船員
海事代理士
雇用船員 3585 人、家族船員 100 人、予備船員 822 人
65 人(登録)
水先人
140 人(内海水先区水先人会)
漁 業 経 営 体 5712(全国 4 位) [農林水産省 平成 18(2006)年]
数
(注 1)平成 22(2010)年国勢調査における愛媛県人口をもとに、その後の住民基
本台帳の出生、死亡、転入、転出の移動を増減して算出。
(注 2)出典の明示のないものは、四国運輸局の平成 23(2011)年のデータに基づ
く
56
広島県の海事産業
はじめに
(1)広島県の地勢
広島県は、中国地方の南側、山陽地方のほぼ中央にある。広島県の面積は
約 8,500 平方キロメートルで全都道府県中 11 位だが、北に中国山地があり、
平野が少なく可住地面積では全都道府県中 21 位となる。瀬戸内海に面した
狭小な平野部にほぼ全ての主要都市があり、広島県に属する瀬戸内海の島は
大小約 140 にも及ぶ。
広島県は、北は中国山地、南は瀬戸内海の先にある四国山地に挟まれ、夏・
冬の季節風の影響を受けにくいため、降雨量、降雪量が少なく、晴天の日が
多い(瀬戸内海気候)。統計でみると、広島県全体の年間降水量は約 1,530
ミリで全都道府県中 24 位となっているが、瀬戸内海沿岸部は 1,100 ミリ前
後でさらに年間降水量が少ない。年間平均気温では、中国山地周辺が約 11℃
であるのに対して、瀬戸内海沿岸部は約 16℃と比較的温暖となっている。
竹内宏は、広島をその著書『各県別 路地裏の経済学Ⅰ』
(中央公論社、昭
和 61(1986)年)の中で、
「広島県は気候が温暖であるし、海は穏やかな内海
であり、山はなだらかで優しげだ。その景色を若山牧水は『山ねむる、山の
麓に海ねむる』と歌った。」と記している1。
<図表 1> 広島県地図
(出典) 中国運輸局
1
この若山牧水の歌は、実は広島県の景色を歌ったものではなく、岩波文庫版
の伊藤一彦編『若山牧水歌集』(平成 16(2004)年)では、安房の渚で詠んだ歌
として紹介されている。
57
(2)瀬戸内海と広島県の歴史
瀬戸内海は、古くから、魚介類や塩などの海産の利益を沿岸地域にもたら
した。また、海産の利益に加えて、瀬戸内海は奈良、京都の都と九州、遠く
は朝鮮、中国といった西方との交通の要所であり、沿岸地域は瀬戸内海の海
上交通の発展からも多くの利益を享受した。
12 世紀になると、広島県の世界遺産となっている宮島の厳島神社が平清
盛によって整備された。厳島神社は推古天皇の時代の 6 世紀末に創建された
ものだが、久安 2(1146)年に清盛が安芸守に任ぜられると、清盛の夢枕に老
僧が立ち、
「厳島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」と述べ
たことから、清盛が厳島神社を深く信仰し、現在の形に整備されたという。
清盛は日宋貿易を重視したことで知られ、厳島神社も宋から渡来する人々に
我が国の文化水準を示す意味があったとも言われる。
鎌倉、室町、南北朝時代には、瀬戸内海の海上交通が一層盛んになるが、
それにともない、海賊も隆盛し、特に南北朝時代には瀬戸内海の制海権を握
る存在となって遣明船の警固なども行った。この海賊の流れを継ぐのが、陶
晴賢(すえはるかた)との厳島の合戦(弘治元(1555)年で毛利元就の下で活躍
する小早川水軍であり、第一次木津川口の戦い(天正 4(1576)年)で毛利輝
元に加勢して織田信長の水軍を破る因島(いんのしま)村上水軍(広島県尾道
市)や能島(のしま)村上水軍(愛媛県今治市)である。
現在の広島市は、毛利輝元の居城として天正 19(1591)年に太田川の中州
に築かれた広島城の城下町であった。毛利元就の最盛時には、安芸・備後を
本拠地とし、山陽・山陰の多くを領し、中央の織田信長とも対峙したが、輝
元の時に関ヶ原で反徳川方についたため長門、周防(山口県の一部)に閉じ込
められた。その後、広島城は江戸時代には広島藩 42 万石の藩主浅野家の居
城となった。一方、広島県東部の中心である福山市は、福山城の城下町であ
ったが、この城は元和 5(1619)年に安芸・備後の両国を治めていた福島正則
が改易となった後、水野勝成が備後東南部と備中西南部の 10 万石を与えら
れて築いたものである。
江戸時代、九州諸藩の大名や朝鮮通信使は、江戸へのルートとして瀬戸内
海を利用して大阪に入るのが常であった。また、瀬戸内海は北前船の航路と
しても重要な役割を果たした。これらの海上交通の発展とともに、鞆(とも)、
尾道、瀬戸田、忠海(ただのうみ)、御手洗、三ノ瀬、鹿老渡(かろうと)など、
多くの港が潮待ち、風待ちの港として栄えた。例えば、鞆の浦では、福禅寺
の客殿について、正徳元(1711)年通信正使の趙泰億(ジョテオク)が客殿か
らの眺めを「日東第一形勝(にっとうだいいちけいしょう)」と称賛し、延享
5(1748)年の正使であった洪啓禧(ホンゲヒ)が、その客殿を対潮楼と名付
けたとしてよく知られ、鞆の福禅寺境内は朝鮮通信使遺跡として国の史跡に
指定されている。海上交通の発展とともに造船業も発展した。7 世紀から 9
世紀にかけて、遣唐使船を建造したと言われる呉市の倉橋島は、元禄期には
瀬戸内海西部の有数の造船地であった。倉橋島では廻船や漁船だけでなく、
58
諸藩の軍船の建造も行っていた。
明治時代になると、広島県は、陸軍の軍事都市として広島が、海軍の軍事
都市として呉が発展し、電気の供給、鉄道の開通など、近代的インフラが早
期に整備された。第二次世界大戦前の広島県は「一つは軍事県であり、もう
一つは移民県である。」という 2 つの顔をもつと言われる所以である(『広島
県の歴史』(山川出版社、平成 11(1999)年)。
1.広島県の産業
(1)概観
広島県の産業は、第二次世界大戦と原爆によって大きなダメージを受けた
が、終戦後は呉海軍工廠などの軍需関連施設の民需転換などが進み、1950
年代は、鉄鋼業や造船業等の重化学工業やマツダ(株)の前身で三輪トラック
を製造していた東洋工業(株)が広島県の産業をリードした。1960 年代に入
ると、東洋工業(株)が四輪自動車の生産でさらに大きく発展したほか、山口
県岩国市に隣接する広島県大竹市に三井石油化学工業(株)が進出し、1960
年代には日本鋼管(株)が福山市に工場を建設した。第二次オイルショック以
降は、重化学工業の発展が低調になるが、1980 年代には電気機械の工場立
地が進み、1990 年代以降はエレクトロニクスや情報通信産業の集積が進ん
でいる。
1)製造業
広島県は、平成 21(2009)年の工業統計・産業編データ(平成 23(2011)
年 4 月 4 日公表)における「製造品出荷額等」が、中国・四国・九州地方
で 6 年連続 1 位(ちなみに、全国では平成 20(2008)年、平成 21(2009)年と
もに 10 位)で、中国・四国・九州地方で抜きん出た「ものづくり県」であ
る。広島県の製造品出荷額等の構成比を全国と比較すると、輸送用機械(全
国 17.8%、広島県 26.8%)、鉄鋼(全国 6.1%、広島県 15.6%)、生産用機械(全
国 4.5%、広島県 7.3%)が重要な産業となっていることがわかる。輸送用
機械の中では、マツダ(株)などの自動車が 74%と圧倒的な割合を占めるが、
呉にある(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドを筆頭として、常
石造船(株)、内海造船(株)、尾道造船(株)などが製造する船舶がそれに次
ぐ。
2)商業
広島県は「ものづくり県」として知られるが、これに加えて、中国・四
国地方の中心として大きな商圏ともなっている。広島県の人口は約 280
万人で、全都道府県中 12 位、中国地方ではトップの県である。また、平
成 21(2009)年の商業統計の都道府県・市区町村別統計表によれば、広島
県は卸売業の年間商品販売額が 8 兆 7,534 億円で全都道府県中 8 位、小売
59
業の年間商品販売額が 3 兆 1,150 億円で全都道府県中 11 位となっており、
いずれも中国、四国地方ではトップである。なお、これらの数字を九州ト
ップの福岡県と比較してみると、福岡県の人口は約 510 万人で全都道府県
中 9 位、卸売業の年間商品販売額が 16 兆 7,702 億円で全都道府県中 4 位、
小売業の年間商品販売額が 5 兆 3,561 億円で全都道府県中 9 位である。福
岡県は広島県よりも商圏として大きいが、経済産業省がまとめる平成
21(2009)年の「我が国の商業」に基づき就業者一人当たりに換算すると、
小売業年間商品販売額が、広島県で約 1,625 万円/人、福岡県で 1,628 万
円/人、卸売業年間商品販売額が広島県で 9,910 万円/人、福岡県で 1 億
93 万円/人とほぼ互角である。
3)広島県の特産品
農水産物の特産品としては、牡蠣、クロダイ・ヘダイ、レモン、ネーブ
ルオレンジが全国シェア第 1 位であるほか、はっさく、タチウオ、デコポ
ンなどが知られている。ちなみに、様々な要因で牡蠣が死滅しかかった際
に、広島の牡蠣の種苗が仙台、フランスやアメリカ西海岸にも渡っている。
農水産物以外では、仁方のやすり、熊野の筆、府中の家具、広島の針、
福山の琴、備後絣(びんごがすり)や備後畳表、松永の下駄といった伝統的
な特産品がある。また、工業製品の特産品としては、工業用スポンジ製品、
破砕機、研削砥石、天井走行クレーン、アルミニウム・同合金ダイカスト、
バレーボール・サッカーボール等のスポーツ用具、印刷機械、鋼製貨物船、
圧延機械などがある。食品等ではソースが全国シェア 1 位である。
(2)造船・海運概観
平成 21(2009)年工業統計・品目編(平成 23(2011)年 3 月 31 日発表)を見
ると、出荷額で、広島県は「鋼製貨物船の新造」のシェア 21.2%で 1 位、
「鋼
製油送船の新造」の全国シェア 17.2%で 2 位、
「鋼製国内船舶の改造・修理」
のシェア 21.4%で 1 位、「鋼製外国船舶の改造・修理」のシェア 45.4%で 1
位となっている。さらに、広島県は造船業を支える舶用工業、すなわち、船
舶に搭載する航海用機器、荷役機械などの製造が盛んで、造船業を支える産
業の集積地でもある。工業統計・都道府県別産業細分類別統計表を見ると、
同県は舶用工業製品の生産額で全国シェア約 5%を占め 6 位となっている。
また、古くから海上交通の要所として栄えた広島県は、今でも水運業が盛ん
であり、最新の産業連関表(平成 17(2005)年)で見ると、水運業の生産額が
2,261 億円で全都道府県中 8 位となっている。
2.造船・船舶修繕
(1)造船業
広島県の沿岸部は瀬戸内海気候で造船業に適していると言われ、歴史的に
60
も木造船に始まる造船業の伝統がある。例えば、倉橋島の造船業は江戸時代、
特に元禄期に入って大きな繁栄を見た。同島の船大工らは仕事がなくなると
藩内外に出稼ぎに出て、一部はそのまま移住して現在の大分県や長崎県など
の各地で造船業を担った。また、潮待ちのための港として発展した町やその
周辺(たとえば、尾道、因島、瀬戸田、大崎上島(木江)など)に発展した船舶
の修理業や造船業が 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、一部は鋼船の建造
へと発展しつつ、第一次世界大戦中の造船ブームによって繁栄した。また、
広島の近代造船業の発展が軍需によったという側面も大きい。広島市には、
明治 21(1888)年それまでの広島鎮台に代わり全国の陸軍 6 大軍事拠点の 1
つとして第 5 師団司令部が置かれ、日清戦争時には天皇陛下を迎えて大本営
となり、日露戦争時には戦地への派兵の拠点であった。また、呉市には、日
清戦争前の明治 22(1889)年に海軍の全国 5 海軍区のうちの第 2 海軍区の鎮
守府が置かれ、日露戦争前の明治 36(1903)年に呉海軍工廠となった。呉鎮
守府が設置された理由は、「帝国海軍第一ノ製造所ヲ設ケ、将来益々其規模
ヲ拡張シ兵器艦船ヲ造出」することにあったとされる。我が国では、日露戦
争においてバルチック艦隊を撃破したことを受けて、大型艦艇の建造の重要
性が認識されるようになり、呉海軍工廠は大型艦船の造船所となって発展し
た。呉海軍工廠で建造された著名な艦艇としては、戦艦大和をはじめ、戦艦
長門や空母赤城がある。これらの建造や兵器の製造によって培われた技術も、
広島県の造船業、舶用工業等の能力向上・発展に大きく寄与することとなっ
た。呉市の人口は、鎮守府が置かれた明治 22(1889)年頃には約 1 万人ほど
であったが、昭和 18(1943)年には約 40 万人となった。なお、一定規模以上
の船舶の建造を行う造船所として、41 事業者が広島県に所在している。
1)(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド 呉工場
(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドは、嘉永 6(1853)年に江
戸幕府が隅田川河口の石川島に創設した石川島造船所に起源を有する(明
治 26(1893)年には、(株)東京石川島造船所と社名を変更。初代社長は渋
沢栄一)。呉工場の起源は呉海軍工廠にさかのぼる。呉海軍工廠は、第二
次世界大戦後我が国の再軍備への警戒感から当初閉鎖されることとなっ
ていたが、GHQ はこの方針を一時的に棚上げして、工廠を非財閥系の(株)
播磨造船所に無償貸与して、沈没艦艇の撤去、解体や商船修理にあたらせ
た。その後、この艦艇の撤去・解体作業が終了すると、世界情勢の変化を
受けて GHQ の方針転換があり、呉海軍工廠の主な設備は、昭和 26(1951)
年 以 降 ラ ド ウ ィ ッ ク (Daniel K. Ludwig) が 社 長 を 務 め る 海 運 会 社
National Bulk Carrier(NBC)の自社船建造のための造船所として、10 年
間の期限付きで有償貸与された(以下 NBC 呉という)。なお、残された設備
は引き続き(株)播磨造船所に委ねられたが、昭和 29(1954)年に設立され
た(株)呉造船所が設立と同時に同設備を引き継いだ。
NBC 呉は後の石川島播磨重工業の社長である真藤恒(しんとうひさし)
61
技師長の下、昭和 27(1952)年には当時世界最大となるタンカー「 Petro
Kure」を、昭和 34(1959)年には世界で初めて 10 万トンを超えた「Universe
Apollo」を建造した。NBC 呉は溶接ブロック建造法を全面的に採用すると
ともに、船殻工事に生産設計(基本設計と機能設計に基づいて、船体の各
部ごとに必要な部材の形や加工方法などを図面に描く作業。この図面をも
とに現場で加工や組み立てを行う)を導入、ブロック艤装、ユニット艤装
を促進するなどして高い生産性を発揮し、我が国造船業界をリードした。
我が国は昭和 30(1955)年には英国を凌駕して、世界一の船舶輸出大国と
なっている。
<図表 2> Globtik Tokyo
(出典)(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド
昭和 35(1960)年には、(株)東京石川島造船所から昭和 20(1945)年に社
名を変更した石川島重工業(株)と(株)播磨造船所が合併して石川島播磨
重工業(株)(略称:IHI)が発足しているが(社長は土光敏夫)、この時、NBC
呉の真藤氏は IHI の船舶事業部の最高責任者(常務取締役)として迎えら
れた。一方、NBC 呉は、海運市況の悪化を受けて、昭和 37(1962)年に NBC
から(株)呉造船所に従業員ともども委譲された。その後、(株)呉造船所は、
昭和 43 (1968)年に IHI に吸収合併された。IHI 呉工場は 40 万重量トンド
ックと 80 万重量トンドックを建設して、ULCC と呼ばれる 30 万トンを超
えるタンカー、日石丸(37 万 DWT(載貨重量トン)。昭和 46(1971)年竣工)、
Globitik Tokyo (48 万 DWT。昭和 48(1973)年)を建造するなど、世界最大
のタンカー建造の記録を塗り替えていった。
現在、IHI 呉工場は、平成 14(2002)年 10 月に、IHI の船舶海洋・艦艇
部門と住友重機械工業(株)の艦艇部門が統合して誕生した(株)アイ・エ
イチ・アイ マリンユナイテッドの商船建造部門の主力工場となっている。
造船の中心となる昭和地区には、造船ドック 2、修理ドック 1、桟橋 3 が
あり、年間 11 隻、80 万総トン強の建造能力がある。200 トン吊、300 ト
62
ン吊のジブクレーン、4 電極 FCB、20 電極ライン・ウェルダーといった設
備を有し、狭い敷地内を効率的に利用して建造を行っている。
<図表 3> 呉工場の様子
(出典)筆者撮影
リーマンショック後の船腹過剰や極度の円高で苦境に立たされている
造船業であるが、同社は、ホエール・バック・バウ(波が船体に直接当た
らないように、左右に受け流すことで、波から受ける抵抗を大きく低減す
る船首。クジラの背中を見立てて設計された。)などの省エネ技術や LNG
燃料船などの省エネ船の開発、国際的なネットワークを利用して船舶の改
造・修理等を行う船舶ライフサイクル事業、海洋浮体設備の建設などによ
り、収益を確保していこうとしている。
<図表 4> ホエール・バック・バウを採用した船型
(出典)(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド
平成 24(2012)年 1 月 30 日、(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイ
テッドは、世界的な大競争の中での事業継続と更なる成長を目指し、ユ
ニバーサル造船(株)との間で経営統合(合併)に関する基本合意書を締結
した。なお、呉海軍工廠の歴史の資料館として「大和ミュージアム」が
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開設されている。
2)常石造船(株)
常石造船(株)は、戦後、民間の独立系造船会社として大きな発展を遂げ
た(現在、持ち株会社であるツネイシホールディングス(株)のグループ企
業)。同社は、備後地域の福山市沼隈町常石を拠点としている。
常石造船(株)の創業者は神原勝太郎で、明治 36(1903)年に海運業を興
し(現在の神原汽船(株))、その後、大正 6(1917)年に造船業を始めた(創
業当時は、塩浜造船所。昭和 17(1942)年に改組して常石造船(株)を設立。
)。
神原汽船(株)は機帆船による石炭の国内輸送で成功し、これにより造船業
も拡大して、常石造船(株)は昭和 33(1958)年に初めて鋼船を竣工した。
常石造船(株)は創業者から始まる剛毅な経営と国際的な視野で発展を
遂げてきた。歴代の社長は、農林業、観光、レジャーなど幅広い分野で事
業展開を行い、加えて、ラバウルでの造船所開設、パプアニューギニアの
開発、ウルグアイへの進出など積極的な海外進出を試みてきた。このうち、
平成 6(1994)年のフィリピンのセブ島におけるツネイシヘビーインダス
トリーズの設立が功を奏し、現在の発展の基礎となっている。
<図表 5> 常石の造船所
(出典) 筆者撮影
神原家 4 代目の神原勝成前社長は、平成 10(1998)年に 29 歳で会社を引
き継ぎ、「社員のために事業の安定と発展を追求する」という企業理念の
もとに、経営の合理化を進めつつ、造船業の発展に尽力した。勝成前社長
は、平成 15(2003)年に中国浙江省舟山群島の秀山島に、現地法人「常石
集団(舟山)船業発展有限公司」及び「常石集団(舟山)大型船体有限公
司」を設立した。
常石造船(株)では、舟山で建造した居住区ブロックやセブで作られた加
工部材を常石に運び、常石のドックで建造工事を行うという日比中 3 ヵ国
の国際的な造船協業体制を確立させている。また、舟山とセブの造船所も、
64
今では 5 万トン級~18 万トン級のばら積み貨物船等を連続建造しており、
常石造船(株)の船舶建造は協業体制を維持しつつ、常石工場(広島県)で年
間 12 隻(約 52 万総トン。平成 23(2011)年実績値)、多度津工場(香川県)
で年間 7 隻(約 42 万総トン。同年実績値)、フィリピンのツネイシヘビー
インダストリーズ(セブ島)で年間 18 隻(約 89 万総トン。同年実績値)、そ
して、中国の舟山(秀山島)で年間 20 隻(約 86 万総トン。同年実績値)
の建造能力を有するようになった(4 つの拠点で年間 57 隻。269 万 1,400
総トン。同年実績値)。さらに、パナマ運河を満載状態で通航し得る最大
船型を海運業界ではパナマックスと呼ぶが、常石造船(株)は船の全長を長
くすることで、パナマ運河を通航し得るサイズで従来の 7 万トン級であっ
た積載重量を 8 万 2,000 トンまで増加させた。この船型はボーキサイトの
積み出し港として有名なギニア(西アフリカ)のカムサール港に入港でき
る最大船型であることから、「カムサマックス」と命名された。カムサマ
ックスは、世界の船主からの受注を獲得し、平成 23(2011)年 2 月に 100
隻の建造実績を達成、今ではパナマックスの標準船型となっている。また、
ハンディマックスのバルカーとしては、最大限の積載能力を持ちつつ低コ
スト、低燃費を実現した TESS(Tsuneishi Economical Standard Ship)シ
リーズを標準船型として連続建造ができるようにしており、TESS シリー
ズのバルカーは、平成 24(2012)年 1 月現在で 300 隻の建造実績を有して
いる。常石造船(株)は、現在、将来に向けてカムサマックスの 10 分の 1
の模型船「常翔丸」を作り、瀬戸内海でデータを収集して燃費効率の改善
につなげるための開発を行っている。
<図表 6> 建造中のカムサマックス
(出典) 筆者撮影
常石造船(株)は「町づくり」にまで踏み込む覚悟をもって海外進出して
いるといわれる。これは「造船業が生きるためには地域そのものの振興が
必要」という発想に基づいてのことである。実際、常石グループは、国内
において沼隈町の弥勒(みろく)の里開発、運営や地域の文化活動への協賛
65
などを行ってきた。この発想が海外拠点の建設にも活かされており、常石
造船(株)は、
「セブでも舟山でも 100 年生きる」という精神で、たとえば、
フィリピンのセブにおいては、小学校、高校の建設、中国では技術学校の
設立や、大学への寄付講座などを実施している。なお、持株会社であるツ
ネイシホールディングス(株)社長は、平成 24(2011)年 1 月 1 日に神原勝
成前社長から伏見泰治会長兼社長にバトンタッチしている。
3)本瓦造船ほかの造船業
広島県のその他の主な造船所は以下のとおり。
<図表 7> 広島県のその他の主な造船所
福山市
ほんがわら
本 瓦 造船(株)
昭和 24(1949)年に創業。小型特殊船舶(タンカー、ケミカ
(日本中小型造船工業会会員)
ルタンカー)を得意とする。499GT の船舶を年間 6~12 隻建
造。従業員数は約 70 名で協力会社を含めると約 120 名。
尾道市
尾道造船(株)
昭和 18(1943)年に創業。本社は神戸にあるが、工場は尾道
(日本造船工業会会員)、(日本
にある。10 万 GT の船舶を建造でき、タンカー、バルカー、
中小型造船工業会賛助会員)
コンテナ船などを建造している。従業員数は約 500 名で、
協力会社を含めると約 1,500 名。
ないかい
内海造船(株)
昭和 47(1972)年に瀬戸田造船(株)(尾道市瀬戸田)と田熊造
(日本造船工業会会員)
船(株)(尾道市因島)が合併して設立。瀬戸田造船(株)は昭
(日本中小型造船工業会賛助会
和 19(1944)年創業で、田熊造船(株)はその前身の因島田熊
員)
船渠(株)が昭和 10(1935)年に創業。両社とも元々日立造船
(株)の系列会社となっていたことから合併し、内海造船
(株)となり、現在は、日立造船(株)の因島工場の一部を引
き継いでいる。コンテナ船、バルカー、プロダクトタンカ
ー、自動車運搬船などを建造している。年間建造隻数は 10
~12 隻。従業員数は約 1,000 名で協力会社を含めると約
1,600 名。
三原市
こうよう
幸陽船渠(株)
昭和 24(1949)年に創業。現在は愛媛県今治市の今治造船グ
(日本造船工業会会員)
ループに属する。800 トン吊(3 基)と 200 トン吊(2 基)ゴラ
(日本中小型造船工業会賛助会
イアスクレーン(goliath crane)を有する造船所で、コンテ
員)
ナ船、バルカー、タンカーを建造。10 万 GT 程度の船舶を建
造できる。従業員数は約 450 名で、協力会社を含めると約
2,000 名。
豊田郡大崎上島
小池造船海運(株)
昭和 35(1960)年に創業。内航船の建造、修繕から内航船の
船主業も行う。エアクッション船を開発し、広島県のオン
リーワン・ナンバーワン企業に選定されている。従業員数
は約 100 名で、協力会社を含めると約 150 名
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(株)佐々木造船
昭和 6(1931)年に創業。1 万 GT 未満の船舶を主に建造して
(日本中小型造船工業会会員)
いる。ケミカルタンカー(12,000DWT 等)、LPG 船(12,000CBM
等)、LNG 船(5,000CBM 等)を得意とする。従業員数は約 50
名で、協力会社も含めて約 200 名。
(株)松浦造船所
昭和 10(1935)年に創業。内航船、近海船を建造。内航船の
建造実績は 300 隻以上。従業員数は約 40 名で、協力会社を
含めると約 60 名。
東広島市
しんくるしま
(株)新来島広島どっく
東京千代田区に本社を有し、愛媛県今治市に総合事務所を
*(株)新来島どっくが日本造
有する(株)新来島どっくのグループ会社。ステンレス製ケ
船工業会会員、日本中小型造船
ミカルタンカーを専門に建造。従業員数は約 80 名で、協力
工業会賛助会員となっている
会社を含めると約 250 名。
呉市
(株)神田造船所
昭和 12(1937)年に旧海軍指定工場の神田造船鉄工所として
(日本中小型造船工業会会員)
創業。バルカー、自動車運搬船、フェリーや艦艇などを建
造している。クルーザーでグッドデザイン賞を受賞したこ
ともある。ディーゼル機関で動くメインのプロペラの後方
に、電動式のポッド型推進装置によって逆方向に回転する
プロペラを配置して二重反転効果を生み出す「タンデムハ
イブリット方式による二重反転プロペラ」などを採用して
国内最大(21,500DWT)のスーパーエコシップを建造した。
従業員数は約 450 名で、協力会社を含めると約 1,100 名。
神田健二社長は(社)中小造船工業会副会長を務める。
け
ご
や
警固屋船渠(株)
昭和 16(1941)年呉市で水野組(現在の五洋建設(株))の関連
(日本中小型造船工業会会員)
会社の水野造船所として創業。五洋建設(株)のグループ会
社。内航船、近海船、作業船などを建造している。従業員
数は約 60 名で、協力会社を含めると約 300 名。
江田島市
中谷造船(株)
明治 9(1876)年に創業。ケミカルタンカーやバルカーなどの
(日本中小型造船工業会会員)
内航船、近海船を建造。電気推進船の開発で知られ、JR 宮
島口から JR 宮島を結ぶ宮島航路に就航している電気推進小
型旅客船「みやじま丸」を建造し、平成 18(2006)年に小型
船部門のシップ・オブ・ザ・イヤーを獲得した。従業員数
は約 120 名で、協力会社を含めると約 150 名。中谷敏義会
長は(社)中小造船工業会副会長を務める。
(出典)各種ホームページ及び関係団体のヒアリング等に基づき筆者作成
(2)船舶修繕業
船舶修繕業に特化したサービスを提供し、修繕の高度な技術で業績をあげ
ている会社をいくつか紹介する。
1)(株)三和ドック
(株)三和ドックは、内航船・近海船の修繕で国内シェア 1 位の企業であ
る。創業は昭和 36(1961)年で、尾道市因島の重井町にある。年間の修繕
67
隻数は 300 隻から 400 隻で、売上高は 50 億円~60 億円となっている。現
在の従業員数は約 400 名。船舶修繕業は、船価の大きな波に翻弄されやす
い造船業とは異なり、継続的な需要が見込める安定的な産業であることか
ら、敢えて造船業には手を出さず、船舶修繕業に特化してきた。同社は修
繕に特殊な技術や経験を要するケミカル船やガス船を得意として、業績を
伸ばし成功している。
同社の寺西勇社長は、バブル景気の時、造船業界の人材不足を実感しは
じ、人がいなくなれば将来はないという危機感を持ったという。そこで、
同社長は、いざとなればなんとかなるという人材に対する見方を改めて、
「優秀な人材はもっとも貴重な財産」と位置付け、優秀な人材を確保する
ため、地方の中小企業という枠を壊し、「世界一を目指す」経営を推し進
めるようになったという。まず、同社長は 3K(きつい、汚い、危険)のイ
メージを払拭し、「明るく希望のもてる会社」とするため、工場内のトイ
レから社員の独身寮、修繕される船舶に乗る船員のための宿泊施設などを
改善するとともに、ドックの拡張と、全長 300m にも及ぶ艤装桟橋の建設
を行った。なお、寺西社長は(社)中小造船工業会の副会長を務めている。
2)ユニバーサル造船(株)因島工場ほかの船舶修繕業
ユニバーサル造船(株)因島工場(JFE グループの事業会社)が、引き継い
だ形となる旧日立造船因島工場は元々新造船の工場であったが、事業再編
を経て今は大型船の修繕のみを行っている。年間修繕隻数は約 80 隻。補給
艦や掃海艇といった艦艇や、大型自動車運搬船、LPG 船などの修理に定評
がある。また、尾道市向島町にある向島ドック(株)は、大型船の修繕が可
能で、年間修繕隻数は約 400 隻。従業員数は約 170 名で平均年齢が約 35
歳と若い。同社は内航海運業の抱える課題の解決に貢献するべく、内航用
電気推進船「はいぱーえこ」(498G/T)の開発にコア企業として参画した。
愛媛県今治市の(株)新来島どっくのグループ会社である(株)新来島宇品
どっく(広島市南区の金輪町)は、船舶ブロックの建造とともに船舶修繕業
を事業の中心に据えている。年間修繕隻数は約 150 隻。
(3)舶用工業など
舶用工業はエンジンやプロペラなど船舶機器を製造する産業のことで、我
が国の舶用工業会社の中には、その会社がないと船舶の建造に支障をきたす
ような世界でその名を知られた企業がある。昨今では、韓国や中国の造船所
が目覚ましい発展を遂げているが、これらの造船所も我が国の船舶用機器メ
ーカーからの機器の供給なしには船舶の建造はできないと言われている。
(社)中国舶用工業会の会員 143 社のうち、111 社が広島県に所在し、その
うち 35 社が広島・呉支部、37 社が尾道支部、28 社が福山支部、11 社が因
島・木江支部に所属している。平成 21(2009)年の工業統計・都道府県別産
業細分類別統計表(平成 23(2011)年 3 月 31 日公表)によれば、広島県の舶
68
用機関製造業の事業所数は全都道府県中 2 位で、生産高は 6 位、船体ブロッ
クの事業所数は 1 位、生産高は 2 位となっている。
1)(株)シンコー
タンカー用のポンプ・タービンで世界シェア 85%という(株)シンコー
は、筒井留三が昭和 13(1938)年にポンプ・高圧弁類の鋳造メーカーの新
興金属工業所として創業した。昭和 18(1943)年に(株)新興金属工業所が
設立された後、先代社長の筒井数三が昭和 22(1947)年に取締役工場長と
なり、昭和 23(1948)年に三井造船(株)が受注した捕鯨船について、機関
室に燃料油を送るポンプを受注したことを手始めに、1950 年代半ばには
船舶用ポンプで国内トップの企業となった。この成功は、それまで船舶
に設置して海上で行っていた船舶用ポンプの試験を割安に陸上で行える
ようにし、性能不良を極端に減らしたことにあったという。また、同時
期に、原油タンカーで使用される大型カーゴポンプ(陸揚げ用ポンプ)と
その羽根車を回転させる蒸気タービンをセットで製造、販売するように
なり、一層大きな成功をおさめた。昭和 39(1964)年に早くもニューヨー
ク、ロンドンに営業所を設けて国際展開を図っている。1970 年代半ばの
造船不況の折には、LNG 陸上移送用ポンプを開発して、陸上の産業にも
進出し業績を改善した。数三氏は平成 19(2007)年 8 月に退任し、現在、
筒井幹治氏が社長となっている。従業員 1 人当たりの売上額が 5,000 万
円以上と言われる超優良企業として知られる。従業員数は約 600 名。な
お、筒井幹治社長は(社)日本舶用工業会の副会長を務めている。
2)中国塗料(株)
中国塗料(株)は船舶用塗料では世界第 3 位である。国内のシェアは約
60%。製品は、商船だけでなく、漁船、ヨットなどの塗料から、コンテナ
の内面、橋梁、プラスチック製品の塗料まで及んでいる。船底塗料につ
いては、1980 年代に有機すず化合物(TBT)塗料の環境問題が取り沙汰さ
れ、平成 13(2001)年には国際条約が採択されて(平成 20(2008)年 9 月に
発効)、世界的に使用が規制されたが、我が国の船舶塗料業界は世界に先
駆けて TBT 塗料の使用・製造を自粛し、新塗料の開発を行ったことで世
界的に飛躍した。従業員数は約 400 名。ちなみに、ノルウェーのヨート
ン/NKM コーティングス(NKM コーティングスは、BASF コーティングスジ
ャパン(旧日本油脂 BASF コーティングス)と関西ペイントの船舶塗料事
業の合弁会社)、英国のインターナショナルペイントが、それぞれ世界シ
ェア第 1 位、第 2 位である。
3)その他の舶用工業
①常石鉄工(株)ほかの舶用工業
常石鉄工(株)ほかの舶用工業を以下のとおりまとめた。
69
<図表 8> 常石鉄工(株)ほかの舶用工業
福山市
船舶用の軸の加工、舵、プロペラ等の仕上げ加工を行う。ツ
常石鉄工(株)
ネイシホールディングス(株)のグループ企業。舶用軸の加工
数量では国内トップクラス。
ふかえ
深江特殊鋼(株)
鋼材の加工を幅広く行う。日刊工業新聞の中堅・中小企業優
秀経営者顕彰において優秀創業者賞を受賞し、日経新聞にも
取り上げられるなど備後地域で功績の光る会社である。
(株)マンセイ
救命艇ダビットを製造。南極観測船「しらせ」にも採用され
(有)ヤナセ鉄工
ウィンチやハッチカバーを製造。中国や韓国に工場を有し、
た。
ヤナセ・マリン所有のプッシャー・バージで我が国に輸送し
ている。
府中市
旭・スチール工業(株)
船舶用の防火扉(小型引戸)を製造。広島県のオンリーワン・
ナンバーワン企業に選定されている。
(株)備後バルブ製造所
船舶用のバルブを製造。70 年以上の歴史を有する老舗。
尾道市
(株)寺本鉄工所
デッキクレーンポスト、滑車、船舶用金物などを製造。
(株)ナカタ・マックコーポ
船舶タンクの内部を塗装。国内トップのシェアを持ち、広島
レーション
県のオンリーワン・ナンバーワン企業に選定されている。昨
今は外航船主業にも進出している。
きょういずみ
むかいしま
(株) 京 泉 工業( 向 島 )
たいこう
(株)大晃産業(向島)
アンカーチェーンストッパー、オイルタイトハッチ等を製造。
船舶の居住区の扉や厨房家具の板金を製造。国内トップのシ
ェアを有する。非常用電気モジュールなども手掛け、排熱回
収型サイレンサーや熱回収型バラスト水処理装置など新たな
開発に挑む。
(株)ハリソン産業因島
小型熱交換器、電気式加熱機、熱媒式加熱機などを製造。
三原市
(株)共立機械製作所
げんてい
舷梯装置、舶用窓・ドア、水密滑戸などのアルミ製の船舶用
機器を製造。日本国内トップのシェア(70%)。舷梯装置で広
島県のオンリーワン・ナンバーワン企業に選定されている。
呉市
さん こ う で ん き
三工電機(株)
船舶用分電盤を製造。製造台数で国内トップのシェア(65%)。
広島県のオンリーワン・ナンバーワン企業に選定されている。
(株)芝岡産業
ハッチカバー、鋼板製フェアリーダーローラー、オイルタイ
トハッチなどを製造。
(株)寺岡
船体ブロックの建造、アスベスト、産業廃棄物処理などを行
う。シップリサイクル条約が採択されたのを受けて行われて
いる船舶解体のパイロット事業に参画。
70
広島市
(株)ミカサ
船舶及びポンプに使用される水中軸受、船舶用プロペラ軸防
食用ゴム巻等を製造。バレーボール及びビーチバレーボール
の唯一の国際試合公認球も作っており、広島県のオンリーワ
ン・ナンバーワン企業に選定されている。
江田島市
(株)第一内燃機
舵軸と舵の重量を支えるラダーキャリアを製造。世界のトッ
プメーカーとして知られ、広島県のオンリーワン・ナンバー
ワン企業に選定されている。
(出典)各種ホームページ及び関係団体のヒアリング等に基づき筆者作成
②協同組合方式で舶用工業の集積を生かす試み
尾道市の因島には、産業集積を生かすべく因島鉄工業団地協同組合
が昭和 39(1964)年に設立されており、各組合員の共同受注、共同購入、
共同施設(130 トンクレーン共同作業場、100 トンクレーン共同作業場、
共同加工センター等)の運営管理などを行っている。組合員は、ポン
ツーンタイプのハッチカバーで、生産量日本一のイワキテック(株)を
はじめ、(株)因島加工センター、因島精機(株)、因島鉄工(株)、圓光
産業(株)、(株)岡本製作所、片山工業(株)、新松浦産業(株)、日昇無
線(株)、因の島ガス(株)、(株)フロンティア、(有)松本鉄工所、(有)
宮地製作所の計 13 社となっている。この組合全体で国内トップクラ
スの生産高と言われる船体ブロックの建造のほか、ハッチカバーの製
作、溶融亜鉛メッキ、舶用機械などの製造を行っている。また、刀工
の鍛冶で知られる福山市の鞆では、鞆船舶金物工業協同組合が、鞆金
属工業協同組合、鞆伸鉄団地協同組合と鞆鉄鋼協同組合連合会を構成
し、鉄鋼団地の共同事業や運営を行っている。連合会の理事長は、小
型特殊船(ケミカルタンカーなど)の建造で有名な本瓦造船(株)の本
瓦誠志(ほんがわらせいし)社長が務めている。
(4)造船、船舶修繕、舶用工業などの技能教育
中国運輸局管内の造船会社を会員とする中国地区造船協議会は、(株)
アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドなどと協力し、会員各社の造船
技術者の初級・中級の研修、中小造船業の若手技術者の勉強会、船舶検査
関係規則や国際海事機関関連の新基準の勉強会などを行っているほか、地
域の学生、先生を招待した造船所や工場の見学会などを実施している。
尾道市因島には元々日立造船(株)の造船所があり、技能研修などを行っ
ていたが、日立造船が新造船から撤退すると、技能研修が行われなくなっ
た。このため、(株)三和ドックの寺西社長が同じ因島にある日立造船(株)
のグループ会社(株)アイメックス湊啓治(みなとけいじ)社長らと構想し、
平成 11(1999)年に設立されたのが因島技術センターである。行政と地域
が一丸となって取り組むこの人材育成の因島モデルは、今では今治、大分、
71
神奈川、長崎、相生に広がっている。因島技術センターは受講者を市内、
県内に限らず、全国から受け入れ、各事業者の施設を利用して実践的な研
修を行っている(現在は、日立造船(株)因島工場、内海造船(株)、(株)ア
イメックス、(株)三和ドックなどが研修場所を提供している)。
3.船主、海運業
(1)船主、内航海運業
広島県は、現在も船主や海運業者が多い。内航船主の多い島としては倉橋
島が有名で、かつて砂利船保有数で日本一であった似島(にのしま)や上蒲刈
島(かみかまかりじま)、下蒲刈島なども船主の多い島として知られる。中国
運輸局の『運輸要覧』平成 23(2011)年版によれば、内航海運(貸渡し専業を
含む)の登録事業者(総トン数百トン以上又は長さ 30m 以上の船舶による内
航海運業者を営む者)が 326、届出事業者(総トン数百トン未満の船舶であっ
て長さ 30m 未満のものによる内航海運業を営む者)が 323、合計 649 事業者
が事業を展開している。これは、中国地方全体(1,034 事業者)の約 63%であ
り、我が国全体の約 19%を占める。また、使用船舶の隻数は 673 隻で、中国
地方全体(1,152 隻)の 58%、我が国全体(5,469 隻)の 12%を占める。ちなみに、
「経済センサス(2009)」(平成 21 年)によれば、広島県において内航海運業
を主たる事業とする事業者の数は 2232で、全都道府県中 1 位である。
(2)外航船主
1)内航船主から外航船主へ
広島の船主は愛媛の船主よりもおっとりしていると言われ、その分、広
島の内航船主が外航船の船主業に進出するのが遅れたとの説もあるが、平
成 2(1990)年以降、内航から外航船主への道を広げた「喜望峰の会」につ
いて紹介する。
喜望峰の会は川鉄物流(株)(現在の JFE 物流(株))の仕事をしていた下蒲
刈島出身の内航船主仲間が、外航のケープサイズのオーナーとなるべく、
平成 2(1990)年に船田海運(株)の船田孝敏社長を中心に勉強会を始めた。
これが喜望峰の会の始まりである。喜望峰の会と名付けたのは日商岩井
(株)(現在の双日(株))の担当者で、会のメンバーは船田海運(株)、菅原汽
船(株)、栄福海運(株)、吉屋海運(株)、馬場海運(株)、河菜海運(株)で、
今ではいずれも外航船のオーナーとなっている。喜望峰の会の幹事は、現
在、菅原汽船(株)の菅原博文社長が務める。喜望峰の会は、当初今治の外
航船主などを講師として招き、年3回の勉強会を行っていたが、現在は 300
人以上が出席するようになったことから、呉市内のホテルなどで年 1 回開
2
「経済センサス」の内航海運業には貸渡し業は含まれない。また、
「経済セン
サス」の数字には、主たる事業が内航海運業ではない事業者は含まれない。
72
催している。
喜望峰の会のメンバーである河菜海運(株)の河菜春文社長から話を聞く
ことができた。河菜社長は高校卒業後内航船の船員、船長となり、もとも
とはガット船での石の運搬が生業であった。昭和 54(1979)年に(有)河菜海
運を創業し、人の縁で旧川鉄物流(株)(現在の JFE 物流(株))の仕事にも参
加。その流れで喜望峰の会のメンバーとなった。河菜社長は船員不足と高
齢化など内航事業の限界を感じ、平成 10(1998)年に会社を株式会社化した
上で、外航船主業に進出。現在は内航船4隻、外航船6隻のオーナーであ
る。同社長は、本社を呉に移した今でも下蒲刈島の小学生を進水式に招待
したり、同島の蘭島閣(らんとうかく)美術館に NHK 交響楽団のメンバーを
月1回招聘し、ギャラリーコンサートの会の会長をするなどユニークな活
動も行っているとのことである。
2)中国総業(株)ほかの外航船主
中国総業(株)ほかの主な外航船主を以下のとおりまとめた。
<図表 9> 中国総業(株)ほかの主な外航船主
福山市
備後共同汽船(株)のグループ会社。外航船の船主業のほか、船舶管
中国総業(株)
理などを行っている。
昭和 36(1961)年に創業。外航船 5 隻程度を保有。藤井肇社長は中国
藤光汽船(有)
海運組合連合会の会長を務める。
備後共同汽船(株)
昭和 31(1956)年に創業。大型作業船を入れて 15 隻程度を所有。
尾道市
昭和 36(1961)年に、海産物問屋から内航海運業に参入。昭和 44(1969)
(株)安保商店
年に外航海運に進出し、所有船舶はケミカルタンカー、LPG 船で 20
隻を超える。
明治期の創業だが、昭和 32(1957)年に外航海運業に参入。パナマッ
佐藤汽船(株)
クス・バルカーを中心に 20 隻を超える外航船を所有。佐藤忠男代表
取締役会長が尾道商工会議所の名誉会頭も務める。
ひさふく
久福汽船(株)
三谷海運(株)
昭和 32(1957)年に創業。タンカーを中心に 8 隻、実質的に保有して
いる。
昭和 48(1973)年に創業。外航・内航のケミカルタンカーなどを所有
する。
昭和 32(1957)年に内航海運会社として法人化。昭和 42(1967)年に外
山丸汽船(株)
航海運業に参入。バルカー、プロダクトタンカー、LPG 船、コンテナ
船といった多様な船舶を所有。桑田文隆代表取締役が尾道商工会議
所副会頭を務める。
73
東広島市
進徳海運(株)
昭和 33(1958)年に創業。ケミカルタンカー、プロダクトタンカーを
8 隻、実質的に保有している。
呉市
(株)共和産商
昭和 59(1984)年に創業。2 万 DWT のバルカーを中心に 15 隻超の船舶
を所有。中には砕氷仕様のプロダクトタンカーや LPG 船もある。
昭和 49(1974)年に東洋汽船(株)として創業。昭和 64(1989)年にリベ
ラ(株)に社名を変更。現在は外航船 3 隻を所有。用船や中古船売買
リベラ(株)
の仲介業も行う。平成 17(2005)年に東日本フェリー(株)、東日本観
光サービス(株)、東日本輸送(株)、九越フェリー(株)を吸収合併し
ており、現在は、グループ会社であるブルーオーシャン(株)が国内
フェリー事業を行っている。
(出典)各種ホームページ及び関係団体のヒアリング等に基づき筆者作成
(3)外航海運業
「経済センサス(2009)」(平成 21(2009)年)によれば、広島県内には外
航海運業の事業所数が 6 ヵ所ある。主な会社としては、ツネイシホールディ
ングス(株)のグループ企業である神原汽船(株)、リベラ(株)のグループ企業
である東洋汽船(株)、土運船業界大手の備後共同汽船(株)や、船舶タンク内
塗装で業績を上げ、外航海運業も手掛ける(株)ナカタ・マックコーポレーシ
ョンなどがある。ここでは、ツネイシグループの神原汽船(株)について紹介
する。
神原汽船(株)は、その前身として常石造船の創業者でもある神原勝太郎が
明治 36(1903)年に創業し、昭和 18(1943)年に瀬戸内海船舶(株)を設立した。
昭和 23(1948)年に本社を現在の沼隈から東京に移し、神原汽船(株)と社名
を変えて、保有船舶を木造船から徐々に鋼船に転換していった(なお、平成
7(1995)年に本社を広島県福山市沼隈町に戻している)。神原汽船(株)は、筑
豊の石炭の海上輸送から外航不定期船の運航、日中コンテナ船サービスの運
航へと業容を拡大している。不定期船部門では、ハンディマックス、スモー
ルハンディを中心に、太平洋水域の貨物輸送を行っているほか、多くの貨物
船、自動車専用船のオーナーでもある。
コンテナ船部門では、平成 6(1994)年に日中間の定期コンテナ航路を開設
した後、平成 15(2003)年には上海に独資の現地法人を、平成 17(2005)年に
は大連、青島に支店を、厦門、天津、寧波、南京に連絡事務所を設立してい
る。神原汽船(株)の日中定期航路は、<図表 10>のとおりで、瀬戸内海沿
岸、九州、日本海沿岸、北海道の諸港と中国を結ぶ様々なサービスを提供し
ている。現在、国内 4 位のコンテナ船のオペレーターであり、タイの
RCL(Regional Container Lines)と幅広く提携している。
74
<図表 10> 神原汽船(株)の定期コンテナ航路
瀬戸内・九州(上海)
日本海・北海道(天津/大連/青島)
T/S
※
船舶:Osg Argosy(585TEU)、Magna(556TEU)
①天津(日)→大連(火)→青島(水)→舞鶴(土)→新潟(月)→富山(火)
船舶:Muse(556TEU)
上海(火)→福山(金)→水島(金)→広島(土)→大分(日)→上海(火)
小樽
→金沢(水)→天津(日)
※①天津(日) 大連(火) 青島(水)⇒①富山(火)/②富山(木)⇒②小樽(土)
※②小樽(土)⇒②富山(月)/①富山(火)⇒①天津(日) 大連(火) 青島(水)
瀬戸内・九州(寧波/上海)
日本海・北海道(上海)
船舶:Resurgence(920TEU)、Resolution(855TEU)、Reliance(855TEU)
船舶:Trident(907TEU)、Contrail Sky(907TEU)
寧波(金)→上海(土)→伊万里(月)→福山(火)→水島(火)→広島(水)→志布志(木)
→天津(火)→大連(木)→青島(金)
上海(金)→境港(月)→金沢(火)→新潟(水)→富山(木)→小樽(土)→富山(月)
→金沢(火)→上海(金)
瀬戸内・九州(天津/大連/青島)
・RCL-KAMBARA強調サービス
東南アジア各地から上海経由にて本船に接続サービス
・フィーダーサービス
長江流域・華南地区など
船舶:Resurgence(920TEU)、Resolution(855TEU)、Reliance(855TEU)
天津(火)→大連(木)→青島(金)→福山(月)→水島(月)→広島(火)→志布志(水)
→寧波(金)→上海(土)
(出典) 神原汽船(株)
4.旅客船、プレジャーボート(「海の駅」)、みなとオアシス
(1)旅客船
広島県旅客船協会によれば、県内の旅客船事業者数は 53 で、我が国全体
(968 事業者)の 5.5%を占める。また、同協会によれば、一般旅客定期航路事
業者は 42 社で、航路数は 51 航路。事業者数で我が国全体(424 事業者)の 12.5%、
航路数で我が国全体(571 航路)の 8.9%を占める。
国土交通省総合政策局の「港湾統計」(平成 21(2009)年)によれば、広島県
の船舶乗降客数の全国シェアは 20%前後で、中国地方全体の 81%を占めている。
「港湾取扱貨物量等の現況」(平成 21(2009)年)によれば、船舶乗降人員で
の順位は、厳島神社参拝に使われる厳島港が国内 1 位となっているほか、広
島港が 4 位、江田島小用(こよう)港が 7 位となっている。広島港には宇品地
区に旅客ターミナルがあり、江田島、似島、宮島、愛媛の松山などと結ぶ 7
つの航路があるほか、(株)瀬戸内海汽船の瀬戸内海クルーズの拠点ともなっ
ている。江田島小用港には約 3 万人が暮らす江田島と島民の生活圏である広
島や呉とをつなぐ航路がある。「港湾統計」(平成 21(2009)年)の入港船舶隻
数(旅客船に限らない)の順位を見ると、土生(はぶ)港が国内 1 位、広島港が
7 位、尾道糸崎港が 9 位、厳島港が 10 位となっており、土生港が高い順位と
なっている。土生港は因島の南部にある港で、愛媛県の今治、生名(いきな)
島、岩城島、大島、佐島、弓削島、広島県の三原、左木(さき)島、生口(いく
ち)島とを結ぶ芸予諸島島民の生活航路の中心となっている。尾道糸崎港は、
尾道市、三原市糸崎町、福山市松永地区にまたがる港湾で、向島(むかいしま)、
因島、生口島、佐木島、小佐木島とを結ぶ航路を有する。旅客船事業は、島
嶼部(とうしょぶ)の人口減少や、橋の建設、高速道路・有料道路の値下げな
どにより、ここ 3 年間で 3 航路が廃止されるなど厳しい状況に立たされてい
る。なお、橋が架かっていない離島への航路については、国の離島航路補助
金制度があるが、広島県内の対象航路は 7 航路で、その内訳は、民営航路 2(走
島(はしりじま)(走島汽船(有))及び百島(備後商船(株))、第三セクター航路
75
2(斎島(いつきしま)(斎島汽船(株))及び阿多田島(あたたしま)(阿多田島汽
船(有))、公営航路 3(契島(ちぎりしま)大崎上島町)、三角島(みかどしま)(呉
市)、細島(尾道市))となっている。
広島県では「海の道」構想を掲げて、瀬戸内海に面する各県に働きかけ、
瀬戸内海の魅力の向上に取り組み、瀬戸内海クルーズなど瀬戸内海に関連す
る観光関連産業の発展を図っている。
瀬戸内海汽船(株)の仁田一郎社長に話を聞くことができた。瀬戸内海汽船
(株)は、昭和 20(1945)年創業で、現在は広島港~呉港~松山観光港を結ぶウ
ォータジェット推進高速船「スーパージェット」などを、松山市の(株)石崎
汽船と共同運航している。広島港と江田島市三高港を結ぶ航路でフェリーを
運航する江田島汽船(株)や、広島港と江田島小用港や厳島港、呉港と江田島
小用港を結ぶ航路で高速船やフェリーを運航する瀬戸内シーライン(株)など
は瀬戸内海汽船(株)のグループ会社である。瀬戸内海汽船(株)では、瀬戸内
海全体をひとつのテーマパークとして位置づけ、旅客船事業だけでなく総合
的に事業を進めている。実際、旅客船事業やクルーズ船「銀河」によるクル
ーズ事業だけでなく、温泉旅館「道後舘」(松山)、愛媛県の物産を紹介・販
売する「えひめでぃあ」(広島)、「せとうち茶屋」(大三島(愛媛県))、「すい
ぐん丸」(生口島)などを経営している。また、瀬戸内海汽船(株)は広島県の
「海の道」構想に合わせて様々な社会実験に参画し、瀬戸内海における人の
移動を促進している。瀬戸内海汽船(株)も導入している中国旅客船協会連合
会と中国運輸局が共同企画した「せとうちサイクルーズ PASS」は、自転車を
持ち込んで乗船するサイクリストを対象とした割引制度で、サイクリングが
流行している今日好評を博している。このほか瀬戸内海汽船(株)では、えひ
め結婚支援センターお見合い事業「愛結び」の会員を対象とした割引(えひめ
婚活応援切符)や、広島県と愛媛県のスポーツ交流を促進するための割引も実
施している。
(2)プレジャーボートと「海の駅」
静穏な瀬戸内海に面する広島県は海洋レジャーに適していることなどか
ら、プレジャーボートの所有隻数は 16,441 隻で、我が国全体(197,018 隻)
の約 8%を占め(国土交通省・水産庁「平成 22(2010)年度プレジャーボー
ト全国実態調査結果概要」(平成 23(2011)年 8 月より))全国 1 位となって
いる。
<図表 11> 広島県内の海の駅
うつみ海の駅
おのみち海の駅
おおさきかみじま海の駅
ゆたか海の駅
やすうら海の駅
かまがり海の駅
くれ海の駅
くらはし海の駅
ひろしま海の駅
のうみ海の駅
おおがき海の駅
ひろしま・かんおん海の駅
よしじま海の駅
ひろしま・いつかいち海の駅
さかいがはま海の駅
(出典)「海の駅」ホームページより作成
76
「海から、誰でも、いつでも、気軽に、安心して立ち寄り、利用でき、憩
える」船舶係留施設である「海の駅」は、広島県が発祥の地であり、全国
135 ヵ所、中国地方 19 ヵ所のうち、広島県内で 15 ヵ所が登録されている(平
成 24(2012)年 3 月 1 日現在)。
(3)みなとオアシス
沿海部に立地する工場、港湾は、一般の人々が海に出る場所を制限してお
り、県民が海に親しみにくくなっている要因とも言われている。そこで、広
島県の各地域では、港を地域住民に開放し、港の施設や設備を地域の交流の
拠点とするため「みなとオアシス」の整備、登録を積極的に行っている。
「み
なとオアシス」正式登録港は 3 港(尾道、瀬戸田、忠海(ただのうみ))、仮
登録港は 6 港(三原、竹原、蒲刈、江田島、坂町、広島)となっている。
5.船員
広島県内の事業者に雇用されている船員は、職員 2,726 名、部員 806 名(家族
船員は含まれない)(平成 22(2010)年 10 月 1 日現在)となっている。
6.港湾
広島県には国際拠点港湾が 1 港、重要港湾が 3 港、地方港湾が 40 港ある。こ
れらの港湾には公共バース(岸壁)に加えて、マツダ(株)、JFE スチール(株)、
三菱重工業(株)、日新製鋼(株)などの大企業が保有する専用のバース(岸壁)が
ある。また、漁港については、第一種漁港が 27 港、第二種漁港が 18 港、第三
種漁港が 1 港となっている。
(1)広島港
国際拠点港湾広島港の起源となる宇品港の築港は、最初の広島県県令千田
貞暁(せんださだあき)が、地元の反対を押し切って強行したもので、同港は
明治 17(1884)年起工、明治 22(1889)年に完成した。この工事は多額の予算
超過を引き起こし、千田は処分を受けたが、日清戦争において大本営が広島
におかれた折、この近代港が陸軍師団の派兵に貢献したことで再評価を受け
た。千田がこの築港にこだわったのは、広島に大分から海路で着任した際、
沖で和船に乗り換えたり、遠浅の海が満ちるのを待たされたりと、広島の港
のあまりの不便さに驚き、近代化の必要性を痛感したからだと言われている。
1)コンテナターミナルと定期航路
広島港の国際コンテナターミナルは、宇品港のさらに沖合を埋め立てた
出島地区と江戸時代にその大部分を干拓された海田(かいた)地区にある。
出島コンテナターミナルは、アウトリーチ 45m、40.6 トン吊のガントリー
77
クレーン 2 基とアウトリーチ 23.5m、30.5 トン吊のガントリークレーン 1
基を備え、水深 14m で延長 330m のバースと水深 7.5m で延長 150m のバー
スが直線上に並んでいる。
<図表 12> 出島地区の国際コンテナターミナル
(出典) 広島県庁
海田コンテナターミナルは、30.5 トン吊のガントリークレーン 2 基、
水深 7.5m で延長 260m のバースがあるほか、一般貨物専用のバースとし
て、水深 7.5m、延長 390m のバースと水深 5.5m で延長 720m のバースが
ある。海田町にはマツダ(株)関連の工場が多く、海田コンテナターミナ
ルのコンテナ貨物としては、自動車部品の取扱が多い。広島港のコンテ
ナ取扱個数は、17 万 5 千 TEU で国内 10 位となっている。
<図表 13> 広島港:国際定期航路 (( )内は船舶代理店)
韓国航路 9 便/週
興亜海運(山九)、汎洲海運(中国シッピングエージェンシィズ)、カメリアライン(ヒロクラ)、
南星海運(シーゲート・コーポレーション)、長錦商船(日本通運)、KMTC(ヒロクラ)
中国航路週 6 便/週
神原汽船(マロックス)、民生輸船(シーゲート・コーポレーション)
台湾・東南アジア(フィリピンを除く)航路 2 便/週
陽明海運(シーゲート・コーポレーション)(香港での積替えにより東南アジア各港まで輸送)、
ワンハイラインズ(日本通運)(ベトナムのハイフォンに寄港)
台湾・マニラ航路 1 便/週
日本郵船・愛媛オーシャンライン(ヒロクラ・マロックス)
北米航路 1 便/月
イースタン・カーライナー(中国シッピングエージェンシィズ)
(出典) 広島県土木局港湾振興課提供資料
78
広島港発着の定期航路は<図表 13>及び<図表 14>のとおりである。
国際定期航路は<図表 13>のとおり、韓国 9 便/週、中国 6 便/週、台湾・
東南アジア 2 便/週、台湾・マニラ 1 便/週、北米 1 便/月となっている。
但し、北米航路は多目的貨物船によるサービスである。
国内定期航路では、フィーダーとしての阪神航路(神戸、大阪に直行)
4 便/週のほか、千葉航路 3 便/週、神戸航路(途中寄港あり)3 便/週となっ
ている。但し、千葉航路はロールオン船によるサービスである。
<図表 14> 広島港:国内定期航路の海運企業
阪神航路(フィーダー)4 便/週
千葉航路 3 便/週
神戸航路 3 便/週
マロックス
山九・井本商運
(神戸、大阪にのみ寄港)
マロックス・井本商運
(出典) 広島県土木局港湾振興課提供資料
2)宇品外貿地区ほか
宇品外貿地区は、自動車や穀物を扱うほか、大型客船が寄港する。また、
宇品外貿地区の東にはマツダ(株)の専用バース、出島地区の国際コンテナ
ターミナルの西には、三菱重工業(株)広島製作所の専用バースなどがある。
廿日市(はつかいち)地区は、広島ガス(株)の LNG のほか、輸入木材を扱っ
ている。五日市地区は自動車、建設機械などを扱っている。
<図表 15> 広島港
五日市地区
廿日市地区
海田地区
出島地区
(出典) 広島県庁
79
宇品外貿地区
3)広島港の取扱貨物
広島県作成の平成 23(2011)年版「広島港案内」
(データは平成 21(2009)
年のもの)によれば、広島港の輸出貨物は 259 万 2 千トン、輸入貨物は
166 万 9 千トン、移出貨物は 355 万 2 千トン、移入貨物は 354 万トンとな
っている。その内訳を見ると、同港の輸出貨物の 1 位は自動車で 76%(196
万 2 千トン)を占め、2 位が自動車部品で 10%(24 万 6 千トン)、3 位が金
属製品で 7%(19 万トン)、輸入貨物の 1 位は LNG で 50%(82 万 7 千トン)、
2 位がその他日用品で 11%(18 万 2 千トン)、3 位が自動車部品で 6%(10
万 6 千トン)となっている。移出貨物の 1 位は自動車で 42%(147 万 7 千ト
ン)、2 位は自動車部品で 6%(21 万 5 千トン)、3 位は紙・パルプで 2%(5
万 9 千トン)、移入貨物の 1 位はセメントで 13%(45 万トン)、2 位は自動
車で 10%(35 万 7 千トン)、3 位は石油製品で 8%(28 万 5 千トン)となっ
ている。広島港の輸出・移出貨物のほとんどがマツダ(株)に関連したもの
であり、同港は自動車の輸出港として国内 6 位、移出港として国内 8 位、
自動車部品の輸出港として国内 10 位となっている。
広島市にある船舶代理店(株)ヒロクラの池澤正樹社長に話を聞くこと
ができた。同社長よれば、
「もの作りの集積地として知られる広島ですが、
自動車関連製品や航空部品、舶用機器などの工業製品以外にも、例えばス
ナック菓子のカルビー(株)やパンの(株)タカキベーカリー、ゆかりで知ら
れる三島食品(株)、日本一のソースメーカーであるオタフクソース(株)
など広島発の食品メーカーが全国ブランドとして活躍されているのも頼
もしく、原材料の輸入や製品の輸出でお手伝い出来る事を期待していると
ころです。」とのことであった。
広島港において、船舶代理店業、通関業、倉庫業を行う会社では、マ
ツダ(株)の物流系グループ企業で、広島に本社のあるマロックス(株)、日
本郵船系の(株)ヒロクラ、商船三井系の(株)中国シッピングエージェンシ
ィズ、川崎汽船系の(株)シーゲート・コーポレーションがあるほか、全国
規模の日本通運(株)広島支店、山九(株)広島支店がある。また、中国運輸
局「運輸要覧」平成 23(2011)年版によると、広島港の港湾運送事業者は
20 社。広島港振興協会「広島港案内 2011-2012」によれば、通関業を行う
会社は 9 社、船舶代理店業者は 7 社、倉庫業者は 21 社となっている。
(2)福山港
1)JFE スチール(株)と国際バルク戦略港湾
福山港の場合、なんといっても JFE スチール(株)西日本製鉄所の存在が
大きい。JFE スチール(株)は、川崎製鉄(株)と日本鋼管(株)が平成
15(2003)年に統合してできた会社で、粗鋼生産量で国内 2 位となっている。
広島県土木局港湾企画整備課の資料(平成 22 (2010)年実績)によれば、
福山港の輸出貨物は 241 万 9 千トン、輸入貨物は 2,650 万 4 千トン、移出
貨物は 663 万 3 千トン、移入貨物は 374 万 6 千トンとなっている。その内
80
訳をみると、同港の輸出貨物の 1 位は鋼材で 69%(166 万 1 千トン)を占め、
2 位が非金属鉱物で 22%(54 万 3 千トン)、3 位がその他製造工業品で 2%(4
万 3 千トン)、輸入貨物の 1 位は鉄鉱石で 60%(1,587 万 4 千トン)、2 位
が石炭で 36%(950 万 3 千トン)、3 位がコークスで 2%(約 45 万 9 千トン)
となっている。移出貨物の 1 位は石炭で 36%(239 万 7 千トン)、2 位は鋼
材で 18%(121 万 2 千トン)、3 位は砂利・砂で 18%(117 万 2 千トン)、移入
貨物の 1 位は石灰石で 60%(170 万 6 千トン)、2 位は砂利・砂で 24%(68 万
9 千トン)、3 位はコークスで 15%(41 万 4 千トン)となっている。「港湾
取扱貨物量等の現況」(平成 21(2009)年)によると、トン数ベースで福山
港は鋼材の輸出港として国内 1 位、石炭と鉄鉱石の輸入港として国内 1
位、石灰石の国内からの移入港として国内 8 位となっている。輸出入・移
出入のすべてで、主要貨物は製鉄関連であり、直接の関連までは調べられ
なかったが、明治以前中国山地一帯が砂鉄の産地として発展したことに思
いが及ぶ。
福山港は水島港(岡山県)とともに、一つの港湾として国際バルク戦略港
湾に認定されているが、今後の機能強化に向けては、航路の水深不足の課
題がある。喫水の浅い瀬戸内マックスと呼ばれるバルカーでも、鉄鉱石を
満載すると福山港への航路の航行に問題が出ることから、現在は積載量を
約 85%に制限して水深不足に対応している。
2)アパレル産業を支えるコンテナターミナル
コンテナについては、福山港は港湾別外貿コンテナ取扱個数で国内 17
位(8 万 1,005 TEU)となっている(平成 22(2010)年)
。後背地に備後絣の
伝統を持つアパレル産業が多くあることや家具等で知られる府中市があ
ることが福山港発展の一因となっている。例えば、紳士服の青山商事(株)、
ジーンズ素材のカイハラ(株)、ワーキングウェアの(株)自重堂(じちょう
どう)、(株)ジーベック(XEBEC)などが福山市に本社を置いている。
福山港のコンテナ航路の開設は平成 8(1996)年で、平成 17(2005)年 3
月に箕沖(みのおき)地区の福山港国際コンテナターミナルが供用開始と
なり、平成 23(2011)年 3 月には同地区に 2 つ目のバースも完成した。現
在は 2 バース、2 ガントリークレーン(30.5 トン吊、アウトリーチ 31m)
が利用可能。コンテナターミナルの整備促進に当たっては、ツネイシグル
ープと地元の物流企業で日本通運グループに属する備後通運(株)の役割
が大きかったと言われている。福山港コンテナターミナルの隣には、ツネ
イシグループの神原ロジスティックス(株)の福山物流センターがあり、保
管だけではなく、流通加工、アソート(仕分け)等のサービス提供を行って
いる。なお、中国運輸局「運輸要覧」平成 23(2011)年版によると、福山
港の港湾運送事業者は備後通運(株)など 14 社。広島県東部港湾振興協会
「福山港案内 2011-2012」によれば、通関業を行う会社は、神原ロジステ
ィックス(株)、備後通運(株)、福山通運(株)など 10 社、船舶代理店は神
81
原ロジスティックス(株)、JFE 物流(株)、備後通運(株)、福山通運(株)な
ど 9 社、倉庫業者は神原ロジスティックス(株)、備後通運(株)、福山通運
(株)など 12 社となっている(尾道糸崎港と共通の数字)。
福山港発着の国際定期航路は、<図表 16>のとおり、中国航路 6 便/
週、韓国航路 4 便/週となっている。
<図表 16> 福山港:国際定期航路 ((
)内は船舶代理店)
中国航路 6 便/週
韓国航路週 4 便/週
神原汽船 (神原ロジスティックス))
興亜海運(福山通運)
民生輸船 (備後通運)
KMTC(備後通運))
(出典) 広島県土木局港湾振興課提供資料
(3)呉港
呉市産業部港湾振興課がまとめた統計(平成 22(2010)年実績)によれば、
輸出貨物は 51 万 5 千トン、輸入貨物は 603 万 6 千トン、移出貨物は 568 万
トン、移入貨物は 449 万 1 千トンとなっている。その内訳をみると、同港の
輸出貨物の 1 位は非金属鉱物で 82%(34 万 5 千トン)、2 位が鋼材で 10%(4 万
5 千トン)を占め、3 位が金属くずで 6%(2 万 4 千トン)、輸入貨物の 1 位は鉄
鉱石で 72%(542 万 7 千トン)、2 位は原木で 11%(79 万 9 千トン)、3 位は木材
チップで 9%(70 万 1 千トン)となっている。移出貨物の 1 位は鋼材で 63%(394
万 5 千トン)、2 位が非金属鉱物で 20%(119 万 1 千トン)、3 位が製材で約 6%(37
万トン)、移入貨物の 1 位はコークスで 24%(114 万トン)、2 位が鋼材で 21%(98
万トン)、3 位が石灰石で 20%(92 万 8 千トン)となっている。呉市には、日
新製鋼(株)、(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッドの工場があり、
呉港はこれら企業の関連貨物の取り扱いが多いことがわかる。「港湾取扱貨
物量等の現況」
(平成 21(2009)年)によると、トン数ベースで、呉港は鉄鋼・
鋼材の国内移出では国内 3 位となっている。なお、呉港外貿取扱貨物の 99%
は専用バースで行われており、内貿貨物についても 80%以上が専用バースの
取り扱いとなっている。呉港内の地区別の状況を略記する。
呉港区川原石地区には、釜山との間に天敬海運(株)(船舶代理店は堀口海
運(株))のセミコンテナ船が発着する航路が週 1 便ある。呉港区宝町地区に
は、那覇との間に南日本汽船(株)(本社は浦添市)(船舶代理店は白洋産業
(株)(本社は大阪市))の国内定期コンテナ船が発着する。中央桟橋ターミナ
ルには、江田島小用港や愛媛県の松山観光港への航路がある。昭和町地区
には専用バースがあるほか、海上自衛隊の基地港としての役割もある。広
港区広地区は、原木の取り扱いが多い。仁方地区はやすり生産高日本一の
工業団地に隣接する。中国運輸局「運輸要覧」(平成 23(2011)年版)による
と、呉港の港湾運送事業者は、(株)シーゲート・コーポレーション、山陽
海運(株)、堀口海運(株)など 10 社。呉市港湾部「PORT OF KURE」に記載さ
れている定期航路船舶代理店は、堀口海運(株)、白洋産業(株)の 2 社とな
82
っている。神戸通関業協会広島県呉地区所属の通関業者は 8 社、倉庫協会
所属の呉市所在の倉庫業者は 1 社となっている。山陽海運(株)は、原木輸
入の大手である中国木材(株)とともに、グラブバケット方式を開発、導入
して平成 15(2003)年から原木荷役の機械化を実現した。なお、海上自衛隊
の活動や歴史についての資料館として、呉市に「てつのくじら館」が開設
されている。
(4)尾道糸崎港、大竹港ほか
1)尾道糸崎港
尾道糸崎港の取扱貨物量とその内訳は<図表 17>のとおりとなってい
る。<図表 17>に見られるとおり、輸入貨物量の 1 位、移出貨物量の 3
位が原木で、それぞれ 37.7 万トン、8.4 万トンあり、同港は日本屈指の
木材港として知られている。同港の機織(はたおり)(松永)地区では原木を
海上に投下し、海面の貯木場で筏組を行う原木荷役作業が行われており、
本船荷役を加藤海運(株)、(有)歌港組(うたこうぐみ)などが行い、水面の
荷役を山陽海運(株)などが行っている。輸入木材の 9 割以上がアメリカ、
ニュージーランドからのもので、これらは、下駄などの製造で有名な福山
市松永や、家具で有名な府中市などで加工される。同港の港湾運送事業者
等の数は<図表 18>のとおり。
<図表 17> 尾道糸崎港:取扱貨物量とその内訳
輸出貨物量
2 万 3 千トン
輸入貨物量
39 万 2 千トン
1 位:米
1 万 2 千トン(50%)
1 位:原木
2 位:鋼材
7,800 トン(33.8%)
2 位:非金属鉱物 9,000 トン(2%)
3 位:鉄道車両
2,700 トン(12%)
3 位:米
5,000 トン(1%)
移入貨物量
93 万 4 千トン
移出貨物量
67 万 5 千トン
37 万 7 千トン(96%)
1 位:水
34 万 7 千トン(51%)
1 位:鋼材
27 万 9 千トン(30%)
2 位:鋼材
9 万 6 千トン(14%)
2 位:セメント
17 万 2 千トン(19%)
3 位:原木
8 万 4 千トン(13%)
3 位:トウモロコシ
15 万 3 千ト
ン(16%)
(出典) 広島県東部港湾振興協会『尾道糸崎港案内 2011-2012』より作
成(平成 21(2009)年実績)
<図表 18> 尾道糸崎港:港湾運送事業者ほかの数
1.港湾運送事業者(中国運輸局「運輸要覧」より)
19 社
2.通関業
14 社
3.船舶代理店業
10 社
4.倉庫業
18 社
(出典) 2~4 は広島県東部港湾振興協会。
『尾道糸崎港案内 2011-2012』より作成
83
2)大竹港ほか
大竹港の取扱貨物量とその内訳は、<図表 19>のとおりとなっている。
同港は大竹市にある三菱レイヨン(株)、(株)ダイセル化学工業などの化学
産業の関連貨物の取扱量が多く、<図表 19>に見られるとおり、輸入貨
物、移出貨物、移入貨物の 1 位、輸入貨物の 2 位が化学薬品で、それぞれ
2.4 万トン、19.7 万トン、69.0 万トン、19.7 万トンである。また、輸入
貨物の 1 位が石炭で 30.0 万トンとなっているが、これらの化学産業関連
企業は自家発電用の発電設備を有しており、発電設備用の石炭も輸入して
いる。なお、大竹港の外航定期航路としては、釜山に 2 便/週(長錦商船(代
理店は山九岩国支店(株))、南星海運(代理店は日本通運(株)大竹支店)が
あり、国内定期航路については、神戸に 2 便/週(井本商運(株)(代理店は
日本通運(株)大竹支店)がある。
<図表 19> 大竹港:取扱貨物量とその内訳
輸出貨物量
1 位:化学薬品
6 万 2 千トン
輸入貨物量
2 万 4 千トン(39%)
2 位:その他化学工業製品
1 万 9 千トン(30%)
1 位:石炭
30 万 0 千トン(76%)
2 位:化学薬品
19 万 7 千トン(23%)
3 位:文房具・運動・娯楽用品
3 位:紙・パルプ 1 万 5 千トン(25%)
移出貨物量
30 万 3 千トン
37 万 7 千トン
2 千トン(1%)
移入貨物量
89 万 0 千トン
1 位:化学薬品
19 万 7 千トン(65%)
1 位:化学薬品
69 万 0 千トン(78%)
2 位:廃棄物
3 万 0 千トン(10%)
2 位:石炭
5 万 3 千トン(6%)
3 位:重油
4 万 7 千トン(5%)
3 位:その他化学工業品
2 万 1 千トン(7%)
(出典 )広島県土木局港湾企画整備課提供資料(平成 22(2010)年実績)
より作成
竹原市には、J-Power(電源開発(株))の火力発電所があり、専用の揚炭
バースがある。
<図表 20> 竹原港:取扱貨物量
輸出貨物量
1 万 9 千トン
輸入貨物量
206 万 2 千トン
移出貨物量
255 万 3 千トン
移入貨物量
304 万 5 千トン
(出典) 広島県土木局港湾企画整備課提供資料(平成 22(2010)年実
績)より作成
7.教育機関
(1)広島大学
84
広島大学には造船を学ぶ学部として工学部があり、その中には第 4 類(建
設・環境系)に輸送機器環境工学プログラムがある。大学院には、輸送・環
境システム専攻の下に海上輸送システム研究室や輸送・環境システム総合工
学研究室などがあり、造船に関係する研究を行うことができる。また、これ
らの研究室では、地元の造船業界との産学共同研究も盛んに行われている。
<図表 21> 広島大学の試験水槽
共同研究に使われる東
広島キャンパスにある
全長 100m、幅 10m の試
験水槽
(出典) 広島大学試験水槽ホームページ
(2)海上保安大学校
海上保安大学校は海上保安庁の幹部職員を養成する中核的な教育機関で、
1 学年は約 70 名。昭和 26(1951)年 4 月に海上保安庁の教育機関として設置
され、当初、東京深川の越中島に置かれたが、当時の池田勇人大蔵大臣が、
江田島の海軍兵学校への思いから呉移転を強く要請したと言われ、昭和
27(1952)年 4 月に現在の場所に移転した。
(3)国立広島商船高等専門学校
広島商船高専は広島県豊田郡大崎上島にある。同校は明治 31 (1898)年に
芸陽海員学校として創立された。同校は中学卒業後の 5 年間(商船学科は 5
年半)の早期一貫教育を行う高等教育機関で、商船学科(航海コース 20 名/
学年、機関コース 20 名/学年)、電子制御工学科(40 名/学年)及び流通情報
工学科(40 名/学年)の 3 学科で構成されている。1 学年は 120 名。商船学科
の場合は、卒業後は大手外航海運会社やフェリー会社に就職するなどし、求
人倍率は 10 倍を超え、就職希望者の就職率は 100%である。卒業生の約 20%
が、大学卒業相当となる(学士号を取得できる)同校の海事システム工学専
攻、産業システム工学専攻に進むか、もしくは、神戸大学、東京海洋大学、
広島大学などに編入学している。
(4)内航事業者による独自の船員育成の取り組み
中国地方の内航海運業界団体である中国地方海運組合連合会(広島市に所
在)の青年部会を中心に、自社船を利用して 6 級海技士資格を有する船員を
短期に養成する制度の導入を要望し、実現している。民間完結型 6 級海技士
(航海)養成課程と呼ばれ、(一財)尾道海技学院が母体となって設立された尾
道の日本海洋技術専門学校が平成 22(2010)年から同課程を開始している。
この社船実習に協力している広島県の会社としては、日徳汽船(株)(広島市)、
85
(株)SEA WAY(広島市)、たをの海運(株)(広島市)がある。なお、広島市にあ
る HKG 広島海技学院((一社)広島海技学院)も社船実習の協力先を求めて活
動中である。
8.曳船業、水先人、海事代理士
広島県の曳船業者は 18 社。川崎汽船(株)のグループ企業で船舶代理店業を行
っている(株)シーゲート・コーポレーションは、昭和 31(1956)年に設立された
内外運輸(株)(広島市)と昭和 37(1962)年に設立された新東運輸(株)(北九州
市)が平成 15(2003)年に合併してできた企業で、船舶代理店業のほか、瀬戸内
海地域では港湾運送、艀運送、倉庫業、曳船業などの港湾運送に関係する事業
を総合的に展開している。(株)ヒロクラ、(株)中国シッピングエージェンシィ
ズなどの船舶代理店業と較べて、幅広い事業分野を持っている。広島県に本社
のある曳船業者としては、このほか、江田島海運(株)や JFE グループの(株)福
山ポートサービスなどがある。広島県の曳船業の特色としては、造船業や船舶
修繕業が盛んなことから、船舶のドックへの出入りの際の曳船業務もビジネス
になっていることである。
広島県沿岸の海域は内海水先区となっているが、内海水先区は瀬戸内海全域
をカバーするもので、兵庫県、岡山県、広島県、山口県、香川県、愛媛県、福
岡県、大分県が業務の対象となる。なお、内海水先区の水先人会には 138 名が
会員となっており、広島市には広島連絡事務所がある。
海事代理士は、広島市などに 7 名、尾道市・福山市などに 14 名、呉市に 5
名となっている。
9.官公署(国土交通省関係)
広島市に国土交通省中国運輸局があるほか、広島運輸支局、呉海事事務所、
尾道海事事務所、因島海事事務所がある。また、港湾の整備や開発については、
広島市に中国地方整備局があるほか、広島港湾空港整備事務所(広島市)、広島
港湾空港技術事務所(広島市)がある。
海上保安庁については、広島市に海上保安庁第六管区海上保安本部があるほ
か、同本部の下に広島海上保安部、呉海上保安部、呉海上保安部木江分室、尾
道海上保安部、福山海上保安部、第六管区情報通信管理センター(広島市)及び
広島航空基地がある。加えて、同県には海上自衛隊呉地方隊があり、呉地方総
監部(呉市)が設置されている。また、海上自衛隊第一術科学校、海上自衛隊
幹部候補生学校が江田島市にある。
86
【広島県海事産業データ】
1.人口、面積、人口 2,855,515 人、8,479.03 ㎢ 4095.22km2、697.28 人/km2
密度
(平成 24(2012 年)1 月 1 日現在の推計人口*)
1,393 千人[労働力調査、平成 23(2011)年第 3 四半期
2.就業者数
(7~9 月平均)結果]
第一次産業:3.7%(農業 3.4%、漁業 0.3%など)
第二次産業:28.1%(製造業 18.7%、建設業 8.9%など)
3.産業別就業者割合 第三次産業:68.3%(卸売・小売業 17.3%、医療・福祉
10.1%、サービス業 13.1%など)[就業構造基本調査、
平成 19(2007)年 10 月 1 日現在)]
10,815,045 百万円(名目)
4.県内総生産
[平成 21(2009)年県民経済計算]
43 港(うち国際拠点港湾 1 港、重要港湾 3 港)
5.港湾
[国土交通省港湾局 港湾管理者一覧]
6.漁港
46 港 [水産庁 漁港一覧]
7.港湾運送事業者
63 事業者
184 事業者(普通倉庫 148 事業者、冷蔵倉庫 36 事業者)
1~3 類倉庫(野積倉庫、貯蔵槽倉庫、危険品倉庫以外
8.倉庫事業者
の普通倉庫)の面積 741.3 千㎡、入庫高は 2,694.4 千ト
ン。冷蔵倉庫の倉庫容積は 513.7 ㎡で入庫高は 226.3
千トン。
326 事業者(登録事業者:運送 71 事業者、貸渡 255 事業
9.内航海運事業者
者)、所有船舶 485 隻(243,715.27 トン)、用船船舶 188
隻(127,302.87 トン)
53 事業者(一般旅客定期航路 42 事業者、51 航路)
10.旅客船事業者
[広島県旅客船協会]
11.船員
職員 2,726 名、部員 806 名(家族船員を除く)
94 事業者、造船工場数 101(許可造船所 48、登録造船
12.造船事業者
所 53)
111 事業者 [中国舶用工業会資料より]
13.舶用事業者
14.海事代理士
15.水先人
16.漁業世帯数
26 人
[日本海事代理士会]
138 人(内海水先区水先人会(平成 24(2012)年)3 月 2 日
現在) [内海水先区水先人会]
2,943 [漁業センサス 2008]
*平成 22(2010)年国勢調査における広島県人口をもとに、その後の住民基本台
帳の出生、死亡、転入、転出の移動を増減して算出。
(出典)(7~9、11 及び 12 は、国土交通省中国運輸局『運輸要覧』及び同局提
供のデータに基づく。
87
富山県の海事産業
はじめに - 日本海側のほぼ中央に位置する富山県
「逆さ地図」<図表 1>というものがある。
<図表 1> 環日本海諸国図(通称「逆さ地図」)
(出典)富山県庁 HP
この地図は富山県が作成した地図(の一部)を転載したものである
(平 6 総使第 76 号)
この地図は、富山県土木部企画用地課企画調整係が平成 6(1994)年に作成し
たもので、環日本海交流拠点づくりを国内に PR するとともに、中国、ロシア等
の対岸諸国に対し日本の重心が富山県にあることを強調するために、大陸から
日本を見るという観点をもって作成された。国土地理院の承認を受けており、
正式な世界地図であり、富山県民会館富山県刊行物センターで販売されている。
これを見ると、まず、日本海がまるで湖のようにみえる。もし東京首都圏を目
指して日本と貿易をするなら、目指す上陸地は富山・新潟エリアにあるのでは
という感覚になるのではないだろうか。釜山や博多・北九州は東シナ海から日
本海への入り口に位置するように見える。東行の海上輸送ルートとしては、釜
山や博多・北九州を通過して日本海に入り、日本海沿岸の港で積み下ろしをし
た後、津軽海峡を抜け出し、太平洋に出るルートが合理的であると思える。地
図を逆さにすることで、大陸に近い日本海沿岸の地域を中心に日本の海上ルー
トを構築すべきと感じるのは私だけだろうか。このことは、普段我々が太平洋
側から見た発想しかしていないことを痛感させられる。一般的には、巨大コン
テナ船のマザーポートは太平洋側になければならないと思われているが、日本
88
海側視点による発想もきちんと位置付ける時期に来ているのではなかろうか。
1.高低差 4,000m の豊かな大地
富山市観光協会の観光ガイドに「深海 1,000m から 3,000m 級の立山連峰まで」
というキャッチフレーズがある。富山県の地理的状況を端的に表現した言葉で
ある。富山湾は日本海側最大の外洋性湾で、海底は急勾配であり、「藍瓶(アイ
ガメ)」と呼ばれる海底谷(かいていこく)が発達し 1,000m の深淵となっており、
大型船舶の入港には非常に適した地形となっている。海岸線の延長は 147.1 ㎞
であり、その海岸線に 16 の漁港(東から宮崎、入善、黒部、石田、経田、滑川、
高月、水橋、四方、新湊、氷見、阿尾、薮田、宇波、大境、女良))と 1 つの地
方港湾(魚津港)と 1 つの特定重要港湾(伏木富山港)とが配置されており、東か
ら黒部川、片貝川、早月川、成願寺川、神通川、庄川、小矢部川などの急流が
富山湾に注いでいる。一方、海抜 2,000m 以上の山が、大汝山(3,015m)、雄山
(3,003m)、富士の折立(2,999m)など 30 以上を数える。大汝山・雄山・富士の折
立の 3 つを立山本峰と呼んでいる。これらの海と山に囲まれた富山平野は、環
境省の名水百選及び平成の名水百選に指定された立山連峰の 8 ヵ所の豊富な水
などに潤され、水から生まれる豊富で安価な電力に誘われて多くの企業が集ま
り、今や日本海側随一の工業集積地となっている。ところで、富山平野は呉羽
丘陵で 2 分される。呉羽の「呉」を取って、東を呉東、西を呉西と分けている。
富山市・魚津市は呉東、高岡市は呉西と呼ばれ、呉東は関東文化圏で、呉西は
関西文化圏である。方言や商売のやり方や習慣が違っているという。富山市と
魚津市は富山藩に属し、高岡市は加賀藩に属していた。
2.富山湾のブランド
富山の寿司屋に入ると、
「地物にぎり」がある。寒ブリ、シロエビ、アオリイ
カ、バイ貝、サヨリ、シマダイ、メジマグロ、香箱蟹(ズワイガニの雌)など次々
に富山湾のネタが出てくる。これ程地物がたくさん出せるのは、漁場と漁港が
近く海産物の新鮮さが保てるからである。深海 1,000m の富山湾は、多くの海産
物を育む豊かな漁場なのである。ブリ、シロエビ、ホタルイカの 3 つは富山湾
の 3 大ブランドである。ブリは「富山湾の王者」、シロエビは「富山湾の宝石」、
ホタルイカは「富山湾の神秘」と呼ばれている。ブリは富山沿岸全般が、シロエ
ビは新湊から東へ岩瀬、水橋(岩瀬と滑川の間)にかけての地区が、ホタルイカ
は新湊から東へ滑川、魚津にかけての地区が漁場である。平成 21(2009)年の富
山県全体の漁獲量は 46,944 トン、うち、ブリ類は 1,690 トン、エビ類は 739
トン、イカ類は 4,559 トン。海水漁船総数は 1,097 隻(うち動力船 1,019 隻、無
動力船 78 隻)で、5 トン未満の小型動力船が 788 隻で 77%を占めている。全体の
漁業就業者数は 1,568 人で減少傾向にある。16 漁港の中でも特に有名な漁港は
氷見漁港であり、「氷見鰤」「氷見鰯」は全国にその名を知られている。氷見漁
89
港は、水揚げ漁獲量約 15,000 トン、漁獲金額 60 億円前後。
3.「越中女一揆」が有名にした魚津港
大正 7(1918))7 月魚津港の名を全国に知らしめる「米騒動」のきっかけとなる
事件が発生した。魚津港にある北海道向け米の積み出し倉庫前に漁師の主婦ら
数十人が積出し阻止を叫んで集まり、町内の米穀商宅に押しかけ、米移出は阻
止された。これが新聞に「越中女一揆」として報道された。
魚津港は当時から東岩瀬港と肩を並べるほどの重要港であった。富山港の東
部海岸のほぼ中央に位置し、海上は穏やかで水深に富み、海陸の連絡が比較的
便利なことから約 400 年以前から航路が開かれた。昭和 27(1952)年 7 月地方港
湾となり、港湾整備が進められた。現在は、北地区と南地区から構成されてお
り、新川地域の海上輸送拠点施設として、北地区南半分に沿岸漁業船、北半分
に貨物運搬船及び北洋漁船が接岸できるようになっていて、埠頭拡張工事、物
流機能強化、漁業の効率化を図るための整備(荷捌き施設・海の駅蜃気楼等の建
設)が行われている。
入港船舶数は平成 22(2010)年で商船 48 隻(9,552 総トン)、漁船その他 11,810
隻(165,608 総トン)、合計 11,858 隻(175,160 総トン)であり、
減少傾向にある。
移出量は 28,800 トン、移入量は 4,226 トンである。主な取扱貨物は、移出が砂・
砂利 28,800 トン、移入は水産品 4,226 トンである。平成 19(2007)年 5 月には、
国土交通省北陸地方整備局がみなと地域の振興のため、魅力を全国に発信して
港街づくりを支援する港として登録する「みなとオアシス」の 1 つに認定された。
4.日本海側拠点港に選定された伏木富山港
伏木富山港は、伏木港・富山新港・富山港の 3 つの港から構成されている。
平成 23(2011)年 11 月政府は日本海側港湾の強化を図るため、日本海側拠点港
を選定したが、伏木富山港は国際海上コンテナ、国際フェリー・国際 RO/RO 船、
外航クルーズの「日本海側拠点港」として選定され、さらに、その他の機能の強
化を図ることが望まれる「総合的拠点港」としても選定された。現在、伏木港は
伏木富山港伏木地区、富山新港は伏木富山港新湊地区、富山港は伏木富山港富
山地区と呼ばれている。富山県土木部港湾課作成の平成 23(2011)年版伏木富山
港パンフレット「PORT OF FUSHIKI-TOYAMA 2011」に掲載された伏木富山港港湾
計画図<図表 2>から分かる通り、西から伏木地区(高岡市)・新湊地区(射水
市)・富山地区(富山市)の順になる。
(1)伏木富山港伏木地区 - 万葉港から日本海側拠点港へ
高岡市の港町伏木に万葉埠頭という埠頭がある。その名前は、奈良時代天
平 18(746)年越中国守大伴家持が、伏木に赴任してきたことに由来する。そ
れが現在の伏木港へと発展し、伏木 富山港の伏木地区となった 。平成
90
18(2006)年に、万葉埠頭において伏木外港多目的国際ターミナルが供用開始
され、世界一周クルーズで有名な飛鳥Ⅱなど豪華客船が入港する時にも利用
された<図表 3>。また、平成 24(2012)年中に、ロイヤル・カリビアン・イ
ンターナショナル(RCI)の豪華客船レジェンド・オブ・ザ・シーズ(7 万総ト
ン)が初寄港する予定だが、1300 年前の家持には、そんななことになろうと
は思いもよらなかったであろう。ところで、元来の伏木港は小矢部川の内側
に造られた内港であったが、河口での土砂の堆積、船舶の大型化、危険物取
扱施設と市街地の分離などに対応するため、小矢部川の外側、外海に面して
外港が建設された。外港の取扱貨物を円滑に輸送するため、外港から国道
415 号線まで臨港道路伏木万葉 1 号線が建設された。その 1 号線には伏木万
葉大橋が架かる。さらに万葉 2 号線、万葉 3 号線が整備中である。誠に万葉
尽くしである。
<図表 2> 伏木富山港港湾計画図
(出典)富山県土木部港湾課「PORT OF FUSHIKI-TOYAMA 2011」
<図表 3> 万葉埠頭に寄港する飛鳥 II
(出典) 伏木港海運振興会「PORT OF FUSHIKI 2011」平成 23(2011)年 6 月
91
(2)伏木富山港新湊地区 - 干潟から日本海側拠点港へ
伏木富山港の新湊地区は、富山新港とも呼ばれ昭和 43(1968)年 4 月に開
港した。富山という言葉が頭についているが、射水(いみず)市にある。ここ
には放生津潟(ほうじょうづがた)という干潟があった。この干潟を掘り込ん
で開発されたのが富山新港である。この掘り込みで、もともと陸続きであっ
た砂州が分断された。以前はこの砂州上を富山地方鉄道射水線が走っていた。
現在、この鉄道に変わる両岸の交通手段として、通称「越の潟フェリー」と
呼ばれる富山県営渡船フェリーが、市民の足として無料で運航されている。
フェリーは両岸を結ぶ新湊大橋が平成 24(2012)年秋に開通すると廃止され
る予定である。港の中心部には、コンテナターミナルや北陸電力(株)富山新
港火力発電所向けの石炭埠頭や中越パルプ(株)向けの木材・チップを取り扱
う埠頭がある。
<図表 4> 建設中の新湊大橋とコンテナターミナル及び海王丸
(出典)筆者撮影
(3)伏木富山港富山地区 - 廻船問屋の街から日本海側拠点港へ
神通川のほとりにある東岩瀬町には、国指定重要文化財「北前船廻船問
屋 森家」がある。このあたりはもともと東岩瀬港と呼ばれていた。江戸時
代初期~後期には加賀藩の米を大阪へ運ぶ港として栄え、幕末から明治に
かけて北前船交易が盛んになった。森家には北前船の模型が飾られ
<図表 5>、全盛だったころを彷彿とさせる。北前船交易では、松前藩よ
り魚肥を移入し、越中平野の米、藁工品を移出していた。東岩瀬港は昭和
14(1939)年伏木東岩瀬港として開港場の指定を受けたが、昭和 15(1940)
年東岩瀬町の富山市編入により、昭和 18(1943)年に富山港と改称され、
昭和 26(1951)年伏木富山港として伏木港と共に再出発した。現在は伏木
富山港富山地区と呼ばれている。
92
<図表 5>北前船回船問屋 森家の北前船模型と森家玄関
(出典)筆者撮影
(4)伏木富山港の「港勢」
伏木富山港の「港勢」について見てみよう。富山県土木部港湾課及び国土交
通省北陸信越運輸局富山運輸支局の資料によると、伏木、新湊、富山 3 地区
に水深 10m 以上の大型岸壁が 19 ある。伏木地区と新湊地区に多目的国際タ
ーミナルがあり、伏木地区のターミナルは、延長 280m、水深 14m である。
新湊地区のターミナルは延長 333m、水深 14m である。コンテナ船が 2 隻同
時に接岸・荷役可能である。伏木地区には、3 万トン級船舶が 1 隻、1 万 5
千トン級船舶が 1 隻、5 千トン級船舶が 1 隻係留できる岸壁が整備されてい
る。新湊地区には約 100 社が臨海工業地帯を形成しており、5 万トン級船舶
が 2 隻、3 万トン級船舶が 1 隻、1 万 5 千トン級船舶が 9 隻係留できるほか、
水平引込式クレーン 2 基、ガントリークレーン 3 基、水面貯木場などを有し
ている。富山地区には、1 万 5 千トン級船舶が 4 隻、1 万トン級船舶が 1 隻
係留できる岸壁のほか、沖合には 28 万トン級タンカーが係留できるシーバ
ースがある。
入港船舶数は、平成 22(2010)年 2,116 隻、うち外航 1,175 隻(本州日本海
側最多)、内航 942 隻。入港外航船舶のうち、国籍を見ると、平成 22(2010)
年でロシア船籍 76 隻、中国船籍 4 隻、韓国船籍 155 隻、日本船籍 3 隻、そ
の他 937 隻である。韓国籍の船舶のほか、ロシア船籍もかなり多い。韓国貿
易とロシア貿易が盛んであることを反映している。その他の 973 隻の内訳を
見ると、パナマ船籍 204 隻、バハマ船籍 161 隻、キプロス船籍 70 隻、リベ
リア船籍 36 隻などであり、便宜置籍船の石炭船、タンカー、チップ船、ば
積み船などの不定期船がたくさん入港していることがわかる。
輸出入品目を見ると、平成 22(2010)年の輸出トン数は 1,111,118 トン。
第 1 位は中古自動車を含む完成自動車で 53.4%に上る。これはすべてロシア
向けである。次に、金属くず 13.3%、染料、塗料、合成樹脂その他化学工業
品が 11.2%である。金属くずや化学工業品は韓国や中国へ輸出される。輸入
トン数は 3,448,252 トン。第 1 位は木材・チップ 31.2%で豪州、ベトナム、
米国、カナダなどからの輸入。第 2 位が石炭 25.2%でインドネシアと豪州な
93
どからの輸入。原木・製材(北洋材)6.2%はロシアからで、ロシア政府が 2007
年から木材加工産業保護育成を図るため原木輸出税を引き上げたため激減
したが、現在はロシア側で製材したものを輸入する形に変わってきている。
中古自動車の輸出は、もともと原木輸送の船の採算改善のための「帰り荷」
としての役割もあって増加したものだったが、これも平成 21(2009)年 1 月
からロシア側の輸入中古車関税引き上げの影響を受け減少している。現在、
ロシア貿易(輸出入)に関しては、伏木富山港は川崎港に次いで国内第 2 位で
ある。
国内の移出は 20.9 万トンである。うち、取り合わせ品(引越荷物、郵便
物、鉄道便荷物、小口混載貨物等)8.3 万トン(39.7%)、石油製品 4.4 万トン
(21.1%)などが主な貨物である。移入は 210.9 万トン。石油製品 102.3 万ト
ン(48.5%)、重油 42.2 万トン(20.0%)が主流を占める。
平成 22(2010)年のコンテナ取扱量は、過去最大の 69,023TEU(本州日本海
側で新潟に次いで第 2 位)。その内訳をみると、輸出は 30,696TEU、輸入は
33,570TEU と輸出入はほぼ拮抗している。
5.港湾運送業者 - 港湾のプロフェッショナル
港湾には必ず港湾運送のプロフェッショナルがいる。船積貨物の積下し、艀
及び筏による運送、上屋・倉庫・荷捌き場への搬出・保管などを行う人々であ
る。これらのプロの手助けが無い限り港湾は機能しない。彼らはまた、船舶代
理店業、集貨代理店、貨物の通関業、更には内航海運や物流業をやる人々もい
る。伏木富山港には 4 つの有力港運業者がいる。伏木海陸運送(株)(FKK と略す
る)、富山港湾運送(株)、日本通運(株)富山港支店、(株)丸共組である。(株)
丸共組は 2011 年 7 月伏木海陸グループの一員となった。FKK は伏木地区に本社
を構え、富山港湾運送(株)は富山地区に本社を、日通富山港支店は富山地区に
拠点を構えている。FKK は昭和 19(1944)年伏木港湾運送と日通伏木支店が合併
して設立された会社である。富山港湾運送(株)は昭和 23(1948)年設立された会
社である。FKK は伏木地区の港運業を行い、富山港湾運送(株)と日本通運(株)
富山支店は富山地区の港運業を行い、3 社共同で富山新港荷役管理運営組合を
設立し、新湊地区の港運業を行っている。つまり、新湊地区は伏木地区と富山
地区の 3 社が共同で管理する新しい港なのであるが、平成 24(2012)年 4 月 1 日
以降は、富山新港荷役管理運営組合は公共バースのみを管理する組織となり、
コンテナターミナルを含む多目的国際ターミナルは、伏木富山港湾運送事業協
同組合が管理することになっている。
FKK は平成 23(2011)年 6 月期で資本金 18 億 5,050 万円、従業員数約 300 名、
グループ全体で 541 名、売上高 10,540 百万円、経常利益 496 百万円の東証 2
部上場の会社である。ウラジオストク、大連、上海に事務所を構えており、特
に、ロシアとは物流・観光面での積極的事業展開を行っており関係が深い。創
業家の橘慶一郎は、社長・高岡市の市長を経て、自民党の国会議員となってい
94
る。業容は幅広く、チップ専用船、石炭専用船、輸入アルミ、輸入北洋材、ば
ら積み貨物、コンテナ船、外航 RO/RO 船等の荷役及び船舶代理店業、トラック
輸送、JR コンテナ輸送、内航船業務、タグ業務なども行っている。グループ会
社の FKK エアサービスは、飛鳥Ⅱや平成 24(2012)年に寄港するレジェンド・オ
ブ・ザ・シーズの旅行代理店業務を行う。伏木海陸運送のパンフレットの表紙
は、逆さ地図をモチーフとしており、ロシア極東地域との交易への意気込みが
感じられる。
<図表 6> 伏木海陸運送(株)のパンフレットの表紙
富山港湾運送(株)は、平成 23(2011)年 9 月期で資本金 2 億 2,500 万円、従業
員約 130 名、売上高 4,200 百万円の会社であり、日本コークス工業(株)、住友
商事(株)、三菱レイヨン(株)、JFE 物流(株)、田島木材(株)、富山中央木材(株)、
豊富産業(株)等を取引先に持っている。主力の港湾部門では、日本通運(株)富
山港支店と共同で、富山地区で港運業を行っている。それ以外に、海運部門、
コンテナ部門、ケミカル部門、トラック輸送部門、建設土木資材販売部門など
をもっている。海運部門では 499G/T 型内航船を 5 隻保有し内航海運業も行って
おり、富山石川内航海運組合の会長も務めている。
日本通運(株)富山港支店は、昭和 17(1942)年当時の東岩瀬港に設立された。
現在従業員 84 名。主な業務は、富山港で在来不定期船の港湾運送事業及び船舶
代理店業務を行っており、韓国・中国向けのスクラップ輸出、肥料原料の輸入・
移入、ロシア向けの中古車輸出などを取り扱っている。新湊地区(富山新港)で
は、在来不定期船の鋼材の移入等、高麗海運のコンテナ船代理店業務や海上コ
ンテナの通関業・倉庫作業・配送業務などを行っている。同支店ではロシア航
路・釜山トランシップ航路に大いに期待している。
6.富山の海運業
(1)内航海運 - 富山自前の内航定期航路は存在せず
冬の日本海はよく荒れる。それでも地元の熱意に打たれて配船していると
いう船会社は結構多い。日本船社、外国船社に関係なく、また、内航船社、
95
外航船社に関係なくそういう声を聞いた。心豊かで粘り強い県民性がここで
も発揮され、多くの海運会社を呼び込み、船社との関係を深化させている。
しかしながら、外からの誘致は得意であるが、富山自前の企業作りには必ず
しも成功しているとは言えない。それは内航海運業や造船業についても言え
る。
富山県内には富山県の内航海運会社による定期的な運航航路がない。全国
海運組合連合会所属の富山石川内航海運組合という団体があるが、そこに属
する内航海運会社は、富山港湾運送(株)、新川内航海運協業組合、魚津海陸
運輸倉庫(株)、谷内港湾建設(株)、石川内航海運(有)、協立商運(有)の 6
社。富山港湾運送は 499G/T 型の船を 5 隻所有し、主に富山港を含む日本全
国(沿海区域)の航海に当たらせている。新川内航海運協業組合はガット船を
1隻持ち、砂利や石材を運んでいる。谷内港湾建設(株)は海洋土木工事用の
台船を数隻保有している。残り 3 社は貨物取扱業務を行っているだけで、船
舶を所有していない。富山石川内航海運組合は終戦直後に日本海機帆船協同
組合として結成され、昭和 35(1955)年頃、石川奥能登鉄道建設工事に伴い、
石材輸送が本格化したが、その後、木船から鋼船に切替わり、船腹過剰と船
腹不足の需給の波に耐え切れず、内航海運業者が次々に転業・廃業に追い込
まれる中で、建て直しのために機帆 船組合を発展的に解消して 、昭和
40(1960)年 5 月に富山石川内航海運組合として再出発した。現在、富山港湾
運送社長が理事長に就任している。
<図表 7> 富山県の旅客航路事業
富
山
(出典) 国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局
『海事レポート(富山県版) 伏木富山港~発展する環日本海の
国際拠点~』平成 20(2008)年版
次に、旅客航路事業であるが、これは、観光船業で現在7社が営業中であ
る。<図表 7>には 8 社掲載されているが、(有)シーサイド観光船は平成
22(2010)年 10 月 25 日解散した。7 社とは、魚津市の(株)蜃気楼観光、富山
96
市の富山観光遊覧船(株)、黒部湖の(株)関電アメニックス(本社は大阪)の黒
部湖遊覧船、射水市の(株)新湊観光船、高岡市の伏木港湾交通(株)、氷見市
の富山湾観光船(株)、砺波市の庄川遊覧船(株)である。乗船客数は、平成
19(2008)年度輸送実績で 30 万 4 千人、ピーク時は昭和 60(1985)年度の 53
万 3 千人であった。
県内内航海運企業を育成することに成功しなかった富山県ではあるが、誘
致に成功した伏木富山港に寄港する県外の内航海運会社には、三池海運(株)、
近海郵船物流(株)、(株)榎本回漕店、日鉄物流(株)、JFE 物流(株)などがあ
る。そのうち、三池海運と近海郵船物流にヒヤリングできた。
三池海運(株)は福岡県大牟田市に所在する内航海運会社。昭和 24(1949)
年 10 月 1 日創立。現在資本金 3,000 万円、陸上従業員 10 名、運航船舶 5
隻全てが定期用船(4 隻が 400 トン台、1 隻が約 200 トンの小型船)である。
海外から輸入したオイルコークスを伏木富山港から熊本県の八代港に輸送
するのがメインの仕事であるが、他にも、ベトナムや豪州から輸入した石炭
を伏木富山港から石巻港へ輸送したり、産業廃棄物(汚泥)を伏木富山港から
青森港や宇部港へ輸送したりしている。これらの仕事は FKK から引き受けた
ビジネスである。三池海運(株)は、元来大牟田にあった三井鉱山(株)の石炭
輸送から始まった会社であるが、その後石炭輸送から撤退し、コークス輸送
を行うようになった。FKK は九州という遠方から来た内航海運会社を大事に
し、三池海運(株)もその期待に応えることで、お互いの信頼関係に基づくビ
ジネスが継続している。
近海郵船物流(株)は日本郵船グループの会社である。苫小牧から富山へ
ジャガイモなどの農産物を輸送し、富山から苫小牧へは農薬、肥料、米、ア
ルミを RO/RO 船によって輸送している。通常は敦賀と苫小牧を週 6 便直接結
ぶが、8 月~10 月の 3 ヵ月間だけ伏木富山港に数回追加寄港する。伏木富山
港に進出した理由は地元行政及び港運会社の要請からだという。伏木富山港
にとっても、日本海の荒波に耐えうる大型船を持つ近海郵船物流は魅力的で
ある。船はとかち(9,858G/T)、ほくと(8,608G/T)、つるが(8,608G/T)の 3
隻である。
(2)外航海運 - 日本海沿岸港と露・中・韓・東南アを結ぶ
1)定期コンテナ航路と定期 RO/RO 船サービス
伏木富山港の定期コンテナ航路は、5 航路、11 船社、月 46 便体制で運
航されている。ロシア極東航路 1 船社月 2 便、韓国航路 4 船社月 20 便、
韓国・東南アジア航路 1 船社月 4 便、中国航路 1 船社月 8 便、中国・韓国
航路 4 船社月 12 便である(平成 23(2011)年 12 月 20 日現在)。
まず、ロシア極東航路についてであるが、トランスロシア・エージェン
シー・ジャパン(株)にインタビューすることができた。この会社はロシア
航路における日本代理店である。(株)商船三井、FESCO、東海運(株)が出
資する。サービスとしては、JTSL(Japan Trans-Siberian Line)というロ
97
シア極東沿岸(ボストーチヌイ、ウラジオストク)までのコンテナ貨物の輸
送サービス、FESCO RO/RO SERVICE という RO/RO 船による日本からロシア
極東地区(ウラジオストク揚げ)への車両輸送サービス、FESCO THROUGH
SERVICE という日本からボストーチヌイまたはウラジオストクを経由し
てロシア内陸までのコンテナ貨物の海陸一貫輸送サービスを提供してい
る。
<図表 8> 伏木富山港の定期コンテナ 5 航路
(出典)国際拠点港伏木富山港ポートセールス事業推進協議会 HP
<図表 9>
新湊地区に搬入される中古車と FESCO の RO/RO 船
(出典)筆者撮影
1980 年代のシベリア・ランドブリッジ・サービス(SLB)は、欧州全域
までコンテナ輸送サービスを行ったが、当時富山からたくさんの貨物が
運ばれていた。ファスナー、アルミ建材、化学品、薬品、電極などが主
な貨物であった。現在は、SLB のヨーロッパまでのサービスは行われて
おらず、荷動きは減少したが、平成 22(2010)年 7 月から、伏木富山港は
ロシア定期コンテナ航路の輸出においてラストポートとなることによっ
て、トランジットタイムを 6 日程度短くすることができ、ボストーチヌ
イには 2 日後、ウラジオストクには 3~4 日後の到着となり、荷主には有
98
利な条件となったため貨物の増加が期待されている。現在、コンテナ貨
ではオートーパーツや建機のパーツなどが多い。また、RO/RO サービス
では中古車の輸出が多く、年間 9,000~10,000 台が輸出される。このう
ち 40%程度が伏木富山港から出ている。
中国・韓国航路については、南星海運ジャパン(株)にインタビューで
きた。南星海運は韓国船社である。平成 18(2006)年~平成 19(2007)年こ
ろ FKK より寄港を要請された時、南星海運は、伏木富山港が当時年間取
扱量 5 万 TEU と日本海側港湾としては貨物の多い地域であったこと、コ
ンテナ需給の輸出入バランスが 50:50 で均衡が取れていること、潜在的
貨物の増加が見込めること、FKK のバックアップが期待できることなど
の理由で、伏木富山港への配船を決断し、富山県の企業が多く進出して
いる大連へ、釜山トランシップ(積み替え)ではなく、釜山経由の延航便
を投入し安定運航を提供した。また、1980 年代後半以降、日本政府が各
地方にコンテナターミナル整備を推進する過程で、日本海側フィーダー
サービスを積極的に展開してシェア拡大を図ることに成功した。
同社は富山県民の県民性に十分に期待している。富山県民は関西人に
似ており、貯蓄率が高く、努力家であり、教育熱も高いとのことである。
5 年ほど前、ある精密機械大手が輸出する際に、スチール梱包という CAD
を使用する高度な梱包方式を採用する必要があったが、富山にはスチー
ル梱包ができる設備が無く、その梱包ができなかった。だが、FKK に依
頼すると、わずか 4 ヶ月後にはスチール梱包を受託できる体制となって
いた。ここまで問題解決に優れた地方港はないとのことである。
韓国航路については、NYK コンテナライン(株)(NCL)をヒヤリングする
ことができた。NCL は日本郵船(NYK)グループであり、NYK コンテナ船部
門の日本総代理店という位置づけである。NYK は全世界でコンテナ定期
航路を運営しているが、アジア航路については、平成 22(2010)年 11 月
に東京船舶(株)から事業譲渡を受け運営を引き継いでいる。NCL の主な
業務は集荷代理店であり、NYK 定航の本社機能はシンガポールにあるが、
日本海航路については主に NCL で航路運営なども行っている。伏木富山
港へは、釜山~富山~苫小牧~新潟~釜山というローテーションを 1 隻
でカバーするウィークリーサービスを提供している。従って、輸出の場
合は釜山港にて母船にトランシップされ、輸入はその逆のパターンとな
る。輸出入ともに東南アジア出し入れの貨物が多い。主な製品は、ファ
スナー、アルミ製品(建材)、繊維・織物などである。伏木富山港に寄港
した理由は、アジア向け貨物を名古屋港から出していた富山在住の荷主
から、ドレージコスト(陸送費用)削減、CO2 削減のため富山港に寄港して
欲しいという要望があったことによる。NCL は伏木富山港が日本海側拠
点港に認定されたことにより、港湾の使い勝手の改善と太平洋側震災時
のバックアップとしての役割に注目している。
中国航路については、神原汽船(株)にヒヤリングすることができた。神
99
原汽船(株)は広島のツネイシホールディングス(株)の海運事業部門で、日
本~中国を結ぶ定期船航路を運営する。平成 6(1994)年当時日中航路と言
えば、日本の主要港が中心であり、地方の荷主は高い国内輸送料金を支払
い主要港から貨物を引っ張っていた。神原汽船は「地方の発展と地域の活
性化」のため、あえて日本の主要港を外し、中国の主要港と日本の地方港
をダイレクトに結ぶことにより、荷主へのトータルコスト削減をテーマに
スタートした。
平成 7(1995)年に上海~境港~新潟~苫小牧航路を開設後、富山の行
政関係者から強い寄港要請を受け、追加寄港を決定した。伏木富山港は、
華東便(上海便)、華北便(大連・青島便)の国内トランシップ拠点として
も重要な位置付けにある。上海便(上海~境港~金沢~新潟~富山新港~
小樽~富山新港~上海)の特徴として、上海向け富山輸出のトランジット
タイム短縮という荷主の要望に応えるため、このような運航を行ってい
る。また、天津・大連・青島便(天津~大連~青島~舞鶴~新潟~富山新
港~金沢~天津~大連~青島)では、冬季の荒天による遅延を防ぐため、
上海便のように小樽に寄港することを取止め、富山新港~小樽間は別の
船でトランシップすることにより、天津・大連・青島便のスケジュール
に余裕をもたせ安定化を図っている。輸出品は、ファスナー・アルミ建
材、輸入品は雑貨などである。中国航路における戦略は、上海をハブと
した日本の地方と世界を結ぶ広域サービスの構築であるが、
「地方の発展
と地域活性化」に加えて、CO₂排出削減など「環境に配慮するサービスを
通じて社会に貢献する」ことを目指しているという。
2)不定期船輸送
石炭輸送について簡単に触れたい。石炭輸送は北陸電力(株)向けに主要
邦船社が輸送しており、6 割が豪州炭、3 割がインドネシア炭である。北
陸電力(株)は、富山新港火力発電所の 1 号機と 2 号機が昭和 59(1984)年
に運転開始して以来、敦賀火力 1 号機(平成 3(1991)年)、2 号機(平成
12(2000)年)、七尾大田火力 1 号機(平成 7(1995)年)、2 号機(平成 10(1998)
年)と次々と火力発電所を建設、稼動させた。昭和 59(1984)年の石炭の受
入開始以降、現在までで受入量が既に 1 億トンに達している。内訳は富山
新港が 733 隻(2,600 万トン)で 26%、敦賀港が 562 隻(約 3,800 万トン)で
38%、七尾港が 544 隻(約 3,600 万トン)で 36%である。平成 23(2011)年 3
月 11 日の東日本大震災による福島原発の事故以降、LNG 輸入が注目され
る中、北陸電力(株)は平成 27(2015)年度に LNG 火力 1 号機を着工し、平
成 30(2018)年に運転開始する予定という。
7.定期コンテナ航路における伏木富山港の利用
これまでコンテナ航路の航路事情を詳細に見てきたが、船社は伏木富山港
100
をリードタイムの短縮、ドレージコストの削減や CO2 排出削減のために利用し
ている。これは荷主の要望である。荷主の代表として、YKK(株)黒部事業所をヒ
ヤリングした。YKK(株)といえば世界 71 ヵ国に進出するファスナーのグローバ
ルメーカーである。一方、FKK といえば高岡市を拠点とする万葉の伝統を受け
継ぐ港湾運送業者である。規模は違うが両社とも富山を代表する企業である。
そして、FKK、富山港湾運送(株)、日本通運(株)富山支店などの伏木富山港の港
運業者は、YKK(株)などの荷主とはコンテナ貨物を取り扱うという協調関係にあ
る。
YKK(株)は、日本における生産拠点を富山県黒部市に集約しており、そこには
グループ会社の YKK AP(株)を合わせると約 6,000 人の人たちが働いている。初
代社長田忠雄は魚津市の出身で、昭和 9(1934)年ファスナー加工販売会社を東
京で創業。昭和 20(1945)年東京で大空襲により工場焼失後、魚津に戻りファス
ナー会社を再興。昭和 30(1955)年黒部事務所の工場が竣工し、昭和 36(1961)
年にはアルミ建材の生産販売を開始した。本社は東京にあり、平成 23(2011)年
3 月末で資本金 119 億 92 百万円、従業員 3,276 人、連結従業員 3 万 8,000 人で
ある。現在 YKK ファスナーの日本での完成品生産量は 1 割弱しかないが、日本
から海外各国のグループ会社へ部材や製造機械を供給している。伏木富山港の
利用については、過去 YKK(株)は韓国向けと旧ソ連向け輸出で伏木富山港を利
用していたが、ソ連解体後はロシア向けが減少。代わって 2000 年以降、中国の
台頭により YKK グループの上海、大連、深圳工場の増産となり、伏木富山港新
湊地区(富山新港)の整備、中国航路サービスの充実と相まって、伏木富山港利
用も増えてきた。現在、韓国、中国向けを中心として可能な限り伏木富山港を
利用しているとのことである。輸出港の割合は、伏木富山港 60%、名古屋港 35%、
その他 5%である。輸入港は、伏木富山港 80%、名古屋港 20%である。将来的に
は、太平洋側の国際コンテナ戦略港湾と日本海側拠点港の役割分担と集約化を
見ながら、使い分けをしてゆくことになるだろうとのことだが、同社は伏木富
山港と戦略港湾あるいは他拠点港間のコンテナ国内輸送の便宜・連結が図られ
ることを期待している。これは多くの定期コンテナ航路の荷主に共通する見方
だと推察される。県土木部港湾課によると、富山の財界の陳情の内容として、
日本海側拠点港としてのコンテナターミナルを含めた更なる港湾施設の整備、
関連道路、鉄道などの輸送網の整備が挙がっている。行政側の伏木富山港利用
促進政策を見てみると、富山県商工労働部立地通商課による、「伏木富山港利用
拡大支援事業」として、荷主企業奨励金や船社助成金、さらに、伏木富山港等(港
湾、インターチェンジ、鉄道貨物駅等)の周辺 5km の区域内の物流機能の高度化
に資する施設の立地助成金などの制度がある。
8.航行安全を守る人々
(1)海の安全ガイド - 水先人(パイロット)
海の安全を守る人々はたくさんいる。その中でも荒波を超えてきた本船
101
を安全に離着岸させる人々がいる。その人々をパイロット、日本語で水先
人という。安全な航路をガイドする人々である。
伏木富山港には 3 人のパイロットがおり、伏木水先人区水先人会に属し
ている。全員船員資格 1 級の方である。パイロットの基地は伏木地区の小矢
部川の内港にある。取扱隻数は次のとおりである。
伏木地区
平成 20(2008)年
42
平成 21(2009)年
31
平成 22(2010)年
21
新湊地区
294
188
249
富山地区
99
5
4
合計
435
224
274
航路数は、富山港域内に伏木航路、新湊航路、富山航路と 3 航路あり、こ
れらの航路周辺を漁業者の定置網が囲む格好になっている。航路は南北に走
っており、定置網が航路間の東西移動の際の要注意事項になっている。安全
航行の観点から、新湊航路に沿って定置網のブイにレーダー反射材を取り付
けてあるが、これは漁業者との協力関係から生まれたことだそうだ。また、
日本海はよく荒れるので、パイロットボート(水先艇)が沖に出ることができ
ないため、水先業務が延期されることがよくある。そのほか水先業務上注意
すべき事としては、伏木航路から伏木外港(万葉埠頭)に向かう時に 90 度
以上の変針の問題がある。
(2)海の安全サポーター - タグボート
平成 9(1997)年 1 月 2 日未明、島根県隠岐島沖の日本海でナホトカ号重油
流出事故が発生した。その時に富山県のタグ会社北陸海事(株)(昭和 44
(1969)年 6 月設立、資本金 1,000 万円、従業員 10 名、船員 6 名)のタグボー
トが出動し活躍した。タグボートは小さいが力強い船として安全対策に利用
される。曳船・艀や浮体構築物の曳航・警戒・防災・消防などである。曳船
は、パイロットの指示に基づき曳航作業・離着岸作業を行う。富山湾は冬場
波が荒く、タグの重要性は論を待たない。伏木富山港には 4 隻のタグボート
が配備されている。北陸海事(株)の長田丸(179 トン、3,600 馬力)、富山県
富山新港管理局の県営引船の日本丸(189 トン、3,100 馬力)、らいちょう
(165 トン、2,600 馬力)、FKK の射水丸(166 トン、1,300 馬力)の 4 隻である。
新湊地区(富山新港)の富山新港火力発電所の埠頭にタグ基地が設置されて
おり、富山地区や伏木地区にもここから出動する。パイロットが呼ばれない
場合でもタグボートが呼ばれることはよくある。使用されるのは安全のため
だけではない。客船などの入出港の際にタグが備えている高出力消防ポンプ
により歓迎放水を行うこともある。ところで、北陸海事(株)の長田丸という
船は、実は愛媛県の内海曳船(株)という瀬戸内海のタグ会社からの傭船であ
る。瀬戸内海のタグボートが、日本海側に派遣される例は他のタグボート会
社でもよくあるという。長田丸は、日常点検は新潟造船(株)などの近県の造
102
船所を使い、本格的点検の時期になると、瀬戸内海まで航行して行くそうで
ある。なお、北陸海事(株)は FKK グループ企業である。
9.富山の造船業の今 - 新造船の建造をしなくなった造船業
富山には新造船建造の大きな造船所が無いのが現状である。20 数年ほど前の
造船不況時に撤退や廃業が相次ぎ、現在の富山の造船所は、船舶の検査・保守・
修理のみの状況になっている。かつて造船大手であった新日本海重工業(株)と
創業 180 年の老舗(株)吉村造船所にヒヤリングが出来た。
(1)新日本海重工業(株)
昭和 15(1940)年 10 月日本海船渠工業(株)という会社が、現在の富山地区
で造船業を開始した。昭和 26(1951)年社名を日本海重工業(株)と変更し、
三井造船系の会社として新造船を行っていた。しかし、昭和 62(1987)年造
船業界再編に伴い新日本海重工業(株)と社名変更するとともに、造船業から
撤退し、日本海重工業(株)より船舶修繕工事に関する営業を全面的に譲受し
た。現在の新日本海重工業(株)は、資本金 3 億 1 千万円、従業員 122 名。事
業内容は、産業機械・環境機械設備・鉄鋼構造物の設計、製作、据付及び船
舶の修理である。造船業撤退前は、造船関係が 9 割、陸上重機が 1 割程度で
あったが、現在は船舶修繕関係が 1 割、陸上重機が 9 割を占めている。
<図表 10> 海王丸の上架修繕工事
(注)修繕用ドックは、110.2m x 21.8m = 5,700G/T の設備を使用して
いる。ドックの左側には巨大な工場がある。
(出典)新日本海重工業(株)HP
同社は新湊地区に係船されている海王丸を定期的に検査や修理をして
おり、海王丸二世も検査・修理した。現在は、県のタグボート 2 隻のうち
103
日本丸(189 トン、3,100 馬力)や市の消防艇などの修理などを行っていて、
年 4~5 隻程度の修理しかしていない。この会社をヒヤリングした際工場
見学をしたが、2 つの中規模と大規模なドライドックがあり、その中規模
なドライドックで海王丸の検査・修理がなされたとのことであった(<図
表 10>)。そのそばには製造した重機を積みだすプライベートバースがあ
り、巨大な重機製作工場があった。かつての新造船を行っていた時代を偲
ばせるものであった。
(2)(株)吉村造船所
伏木地区の小矢部川沿いに創業 180 年という(株)吉村造船所がある。同
社の佐伯社長は、平成 22(2010)年に国土交通省の海事功労賞を受賞して
いるが、佐伯社長の話により富山の造船事情がかなり明らかになった。先
に述べた通り、富山で大きな造船所としては、かつて三井造船系の日本海
重工業(株)があったが、同社の造船業撤退や他の中小の造船所の撤退・廃
業などで、現在は佐伯社長が会長をしている富山県造船造機組合に加入し
ている 6~7 社程度の小さな造船所が残っているにすぎない。親子でやっ
ているところもあり、どの造船所も小型船舶の検査・保守・修理が主な仕
事である。漁船などの新造船に関しては、全国の造船事情を熟知している
日東製網(株)が仲介役となり、全国の造船所を紹介して造っており、富山
の造船所では造ってはいない。
<図表 11>
(株)吉村造船所のドック
(ドック主要部)
(出典)筆者撮影
(ドック前面)
さて、吉村造船所であるが、天保 4(1833)年の創業で、初代は吉村松三
郎と言った。創業当初は木船を中心に和船を建造した。明治期になると、
西洋型帆船を建造、続いて動力船(10 トン)を建造し、大正期には、鉄鋼
部門を創設し鋼船を建造、商船学校の練習船や伏木港・東岩瀬港の曳船や
艀も手掛け、吉村造船所の名を高めた。昭和期~平成期になると、パイロ
ット船、給水用ボート、作業船、遊覧船を新造したが、造船不況と共に、
104
新造船の依頼はなくなり、検査や修理が中心となっていった。現在は新
湊地区の新港開港に依り分断された放生津潟の両岸を結ぶ県営渡船 2 隻、
国土交通省の測量船、新湊の観光船、庄川遊覧船、FKK のタグボート射水
丸、県所有のタグボートらいちょうなどの検査・保守・整備を行っている。
また、官公庁の船と民間漁船の定期検査も手掛けており、地元の漁業者か
らは頼られる存在になっている。次世代を育てるのが佐伯社長たちの課題
となっている。
その他の造船所としては、(有)甲谷造船所 FRP、(有)曽根造船所、番匠
FRP 造船、(有)ミナトヤ造型、毛利造船所、山口造船所、(有)渡辺造船、
野上造船所などがある。
(3)富山の造船業の今 - 庄川遊覧船㈱の新造船の例
富山の観光船業に於ける造船事情を反映した例として、庄川遊覧船(株)
の遊覧船「クルーズ庄川」を巡る同社と(株)吉村造船所、広島県尾道市の
ツネイシクラフト&ファシリティーズ(株)(平成 22(2010)年 12 月 1 日設
立、資本金 300 万円、従業員 44 名)の事例を紹介したい。
伏木地区には小矢部川の隣に庄川という川が流れており、この川の上
流に位置する砺波市の山間部に小牧ダムという 1930 年に建設された古い
ダムがある。このダムは平成 14(2002)年国の登録有形文化財に指定され
ている。そのダム湖にある船着場から船で 30 分ほど乗ると、船でしか行
けないことで有名な温泉宿大牧温泉がある。その遊覧船を管理運営するの
が庄川遊覧船(株)であるが、大牧温泉とともにトナミ運輸グループに属し
ている。庄川遊覧船(株)はもともと関西電力が運営する発電所のメンテナ
ンスをする作業員が乗船したり、地元や山奥の人たちのための足でもあっ
た。関西電力から庄川遊覧船(株)に移管されてからは、観光事業が本格的
に展開され、観光客も急増している。30 分程度の遊覧乗船客数の推移を
みると、関電時代の平成 19(2007)年度 251 名程度であったものが、庄川
遊覧船(株)に移管直後の平成 20(2008)年度 1,248 名、平成 21(2009)年
度)12,767 名、平成 22(2011)年度 8,810 名と増加した。この会社の遊覧船
の検査・保守・修理作業を長年にわたり請け負っているのが(株)吉村造船
所である。同社は海から離れた場所での検査・保守・修理のために、ダム
湖の船着場内に 1 スリップウェイのドックを確保している(<図表 12>)。
平成 22(2010)年頃、庄川遊覧船(株)では保有船 3 隻のうちの 1 隻(昭和
54(1979)年建造)の代替船建造をすることになったが、伏木富山港に寄港
する神原汽船(株)の東京事務所を介して、神原汽船(株)が属する常石造船
グループ会社で広島県尾道市にあるツネイシクラフト&ファシリティー
ズ(株)を紹介された。こうして新造船の船体は尾道で建造された。船体は
本体フロート部分 2 つ、1 階部分、2 階デッキ部分の 4 つに切り分けられ、
トラックで庄川遊覧船船着場まで輸送されたあと、ツネイシクラフト&フ
ァシリティーズ(株)の従業員により、前述<図表 12>のスリップウェイ
105
上でドッキングされ(<図表 13>)、吉村造船所の従業員により下架作業
が行われ無事進水した。船は平成 23(2011)年 9 月から就航した。総トン
数 19 トン、長さ 17.6m、幅 4.6m、喫水 1.55m の双胴船で、旅客定員 94
名、船員 2 名。庄川遊覧船(株)の在籍船員数は 5 名で、女性船員が 1 名い
る。ちなみに、この女性船員は地元の富山高等専門学校(旧富山商船高専)
の出身である。
<図表 12> 吉村造船所の小牧船着場のドック
(出典)筆者撮影
<図表 13> クルーズ庄川」の船着場でのドッキング作業と完成写真
(注)左側の写真は岸壁に到着した船の本体を吊り上げているシーン。本体
右下の岸壁柵の右側に、(株)吉村造船所のスリップウェイがある。
2 枚目の写真は船の完成写真。
(出典)庄川遊覧船(株)HP
10.伏木富山港に咲く「海の貴婦人」を支える人々
「海の貴婦人」と呼ばれる初代帆船「海王丸」が係留されている海王丸パーク
が伏木富山港新湊地区の西側埋立地にある。この海王丸パークは北東アジア地
106
域の平和と発展のために、県民と環日本海地域の人々による環日本海文化交流
の拠点づくりを目標とする「日本海ミュージアム構想」の中で、初代海王丸を中
心に位置付け、人と海とが触れあえる体験パークとして設けられた施設である。
平成 4(1992)年 7 月に開園したが、平成 22(2010)年度来園者数は 737,800 人、
うち海王丸乗船者数は 52,491 人、累計乗船者数は 1,526,072 人を数える。海王
丸がなぜ富山にあるのか。海王丸の誘致に応募したのは、当時の大阪港と富山
新港であった。富山と大阪が 4 年半ごとに交互に係留する計画であったが、平
成 6(1995)年 3 月に大阪港が撤退して、富山新港で恒久係留されることになっ
た。
<図 14> 海王丸の総帆展帆
(出典) 国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局『海事レポート(富山県
版)伏木富山港~発展する環日本海の国際拠点~」』
さて、この海王丸は商船学校の生徒に訓練を行う航海訓練所の大型練習帆船
として、昭和 5(1930)年姉妹帆船日本丸と共に、神戸の川崎造船所で建造され
た。地球約 50 週(106 万海里)を航海し、延べ 11,000 名余りの船員を育て、平
成元(1989)年海王丸二世の竣工に伴い、59 年に及ぶ練習船としての使命を終え
た。新湊に係留された海王丸は現在も青少年を育てている。毎年 10 回「海の貴
婦人」をお披露目する「総帆展帆」(全部展帆できた場合、帆の数は 29 枚)(<図表
14>)が開催されるが、毎回約 80 名のボランティアが参加する。実は、この海
王丸は、「生きた」船である。維持するために、船員が常駐している。航海訓練
所から紹介を受け海王丸財団が雇用している 4 名(船長及び業務技師 3 名)と県
港湾課から派遣された 7 名(一等、二等航海士及び技術員 5 名)の合計 11 名が働
いている。
11.ロシア極東地域は富山を育む - ロシア極東貿易と富山
107
富山における国際海運による物流は、これまで見てきたとおり、ロシア定期
コンテナ航路・RO/RO 船航路と釜山トランシップによる韓国・中国・東南アジ
アとのコンテナ航路並びに石炭・石油・チップ・ばら積み貨物などの不定期船
輸送であった。今後、富山が最大の期待をかけている交易は、ロシア極東地域
との交易であり、富山~ロシア極東間航路である。ウラジオストク商業港、ボ
ストーチヌイ港はその最重要港湾である。一方で、最近話題になるのは、日本
海への出口を持たない中国東北地方の黒龍江省や吉林省が新潟県などと推進す
る「黒龍江省・吉林省~ロシアのザルビノ・北朝鮮の羅津(ラジン)~日本海沿岸
港」間を結ぶ日本海横断航路である。だが、富山のこの航路への関心は薄いよう
である。そこで、富山や伏木富山港の役割を北東アジア物流または環日本海物
流においてどう捕らえるかが、海事経済研究の重要な課題となるだろう。こう
いう問題意識を持ち、富山大学極東地域研究センターを訪問した。同センター
によると、まず、伏木富山港はロシアの定期コンテナ航路、RO/RO 船航路の展
開を最重要交易と位置付けるべきという。それは富山のこれまでの歴史が、ロ
シア極東地域との交易と深くかかわりを持ってきたからだ。北洋材貿易では、
富山に木材関連のクラスターができる程の活況を呈していた。その帰り荷とし
ての中古車輸出も発展していた。富山の工業集積を背景にしたシベリア・ラン
ド・ブリッジサービスも開花した。平成 3(1991)年のソ連解体以降、環日本海
交流ブームが到来したとき、富山はいち早くロシア沿海地方知事を招き友好提
携を実現し、伏木富山港とウラジオストク商業港との間に航路を開き、定期貨
客船を就航させた。富山は他の日本海沿岸自治体より、対ロシア貿易では先頭
を切っていた。ロシアとの民間交流も盛んで、ロシア人が立山にホテルを購入
し経営するなどロシアと深い関係も出来つつある。
「富山は極東ロシアや中国東
北地方の一部を見るのではなく、極東地域全体における中ロの貿易関係を大き
く捉えて、資源関係だけではなく、農業、林業などを含め、中国への投資がロ
シアへの投資となることも念頭に置きながら交易を進めることが必要である。
それが、富山及び伏木富山港の最終的な利益となるはず。」との考えである。
現在、ロシア貿易は、ロシア側の動きが富山県の予想に反し、自国の製材業者
の保護、自国の新車保護を名目に、関税をかける動きに出たりしたため低調で
あるが、これも次第に緩和してゆく傾向が見えており、ロシア定期コンテナ航
路の伏木富山港ラストポート化による航路の優位性確保も併せて、今後は貨物
の増加が期待できるところにきていると言えるだろう。現在、富山の財界人や
ロシアにゆかりのある地元の方は、ロシアとの交流の会として、「富山ウラジオ
ストク会」というものを組織し、ロシアとの交流を深めながら、交流拡大の機会
が熟するのを待っている。この会はウラジオストク国立経済サービス大学構内
に日本庭園を造園した。庭園の名前を「富山ウラジオ友好庭園」という。
12.おわりに - 万葉埠頭の灯台
伏木は古い港町である。万葉埠頭の防波堤の突端に灯台が立っている(<図表
108
15>)。この灯台は、明治期に伏木港の近代化に尽くした廻船問屋の藤井能三が
設立した日本海側初の洋式灯台「伏木燈明台」をイメージして造られた灯台で
ある。能三は北前船交易が中心だった伏木港を近代的汽船が出入りする近代港
へ発展させようと努力した。明治 8(1875)年海運界で絶大な力を持っていた三
菱会社社長岩崎弥太郎に頼み、同社の汽船を伏木港に回航させた。その際の条
件の一つに灯台建設があった。能三は工費を負担し、明治 10(1877)年小矢部川
河口の伏木港左岸に高さ 12m の六角形の木造灯台を建てた。現在の灯台は高さ
約 8m、夜は緑の発光ダイオードが点滅して約 1km 先まで照らし港に入る船の道
標となっている。
<図表 15>伏木外港万葉埠頭東防波堤灯台
(出典)YAHOO ブログ
能三は伏木港に航路が開かれた後、明治 14(1881)年に三菱に対抗するために、
地元船問屋と「北陸通船会社」を共同設立した。やはり富山の自前の海運会社を
設立することが、伏木港の発展に役立つと考えたようだ。彼は現在のロシア航
路のような航路をウラジオストクとの間に開設し、シベリア鉄道経由でヨーロ
ッパまで貨物輸送することや、対岸諸国との貿易が伏木港の近代的発展に役立
つと考えた。能三は持てる富を伏木港整備に費やしただけでなく、富山県内初
の小学校を設立したり、女子教育にも力を入れた。現在、能三が開いた伏木小
学校には、彼の業績を示す年表や図表、銅像を並べた学習室がある。平成
23(2011)年 4 月 20 日の能三の命日には、伏木で「藤井能三の遺徳をしのぶ顕彰
祭」が開かれた。県土木部港湾課によると、能三は富山県の偉人として子供た
ちの教育の場でも影響を与え続けているということだった。伏木港(伏木富山港
伏木地区)は、今や日本海側拠点港伏木富山港を代表する港として能三が思いも
よらないほどの発展を見せている。
13. 官公署(国土交通省関係)
国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局の本庁舎(富山市)、伏木庁舎(高岡市)
などがあり、海上輸送の活用によるモーダルシフトの推進などを行っており、
109
県港湾局また、海上保安庁の組織として、伏木海上保安部(高岡市)があり、不
法操業を行う外国漁船の取締り、密輸・密航船など不審船に対する監視取締り
や、港内の秩序維持にあたっている。
110
【富山県海事産業データ】
人口、面積、人口 1,088,409 人、4247.61km2、256.2 人/km2
密度
(平成 23(2011)年 10 月 1 日現在 富山県人口移動調査)
578 千人(労働力調査、平成 23(2011)年 第 3 四半期(7~9
就業者数
月平均)結果)
第一次産業: 8.9% (農業 6.6%、漁業 2.2%など)
第二次産業:22.1% (製造業 11.5%、建設業 10.0%など)
産業別就業者割
第三次産業:69.0%(卸売・小売業 17.3%、医療・福祉 13.6%、
合
サービス業 11.4%など)
(就業構造基本調査、平成 19(2007)年 10 月 1 日現在)
4,096,576 百万円(平成 21(2009)年)
。富山県ホームペー
県内総生産
ジ「経済情報ライブラリー県民経済計算」より
2 港(国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局「海事レポー
港湾
ト(平成 20(2008)年 8 月)」より)
漁港
16 港(出典同上)
4 事業者:「国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局「富山
港湾運送事業者
県運輸概況平成 23(2011)年度版」より
82 事業者 (一類~三類倉庫 69、野積み倉庫 5(3)、貯蔵そ
う倉庫 1(1)、危険品倉庫 3(2)、冷蔵倉庫 10):( )内は一
類~二類倉庫との兼業者数で内数)。主たる入庫品目は、
倉庫事業者
農水産品(平成 21(2009)年度末)実績 53,896 トン)、化学工
業品(同 156,631 トン)、紙・パルプ(同 166,452 トン)、金
属(同 108,866 トン):「国土交通省北陸信越運輸局富山運
輸支局「富山県運輸概況平成 23(2011)年度版」より
2 事業者(国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局「富山県
内航海運事業者
運輸概況平成 23(2011)年度版」より)
8 事業者 22 航路(平成 22 年度):国土交通省北陸信越運輸
旅客船事業者
局富山運輸支局「富山県運輸概況平成 23 年度版」より
11 事業者(国土交通省北陸信越運輸局富山運輸支局「富山
造船事業者
県運輸概況平成 23(2011)年度版」より)
1 事業者(平成 24 年 Google 電話帳ナビの掲載情報による)
舶用事業者
海事代理士
606 名(平成 22(2010)年 10 月 1 日現在:国土交通省北陸信
越運輸局富山運輸支局「富山県運輸概況平成 23 年度版」
より)
2 人(平成 23 年 6 月 1 日現在)日本海事代理士会 HP より)
水先人
3 人(平成 24 年 12 月伏木水先区水先人会提供情報による)
漁業世帯数
384(平成 20(2008)年 11 月 1 日現在。「富山県 HP 統計情報
ライブラリー」より)
就業船員数
111
新潟県の海事産業
1.県勢
新潟県は本州のほぼ中央に位置し、日本海に沿って北東・南西方向に延びる
細長い地形で、総面積は 12,583.8 ㎢と全国 5 位の県土を有している。県境には
本州の脊梁(せきりょう)をなす標高 2,000m 以上の山脈が連なり、信濃川や阿賀
野川といった数多くの河川が日本海に注ぎ、新潟平野、柏崎平野、高田平野な
どの穀倉地帯が広がっている。また、海岸線は本州側で 331.0km と長く、日本
海に浮かぶ本州最大の島である佐渡(280.6km)と粟島(23.1km)を合計した
634.6km は全国で 21 位、本州の日本海に面した府県では、山口県、兵庫県、青
森県に次いで 4 位となっている。
県境の山々と砂浜が延々と続く海岸線により、スキー場の数(73 ヵ所。新潟
県勢要覧 2011)と海水浴場の数(65 ヵ所。同)がともに全国 3 位と重要な観光資
源となっているが、港湾から見ると、新潟県は天然の良港に恵まれているとは
言い難く、昭和 44(1969)年に新潟東港(掘り込み式港湾)が開港するまで新潟県
最大の港湾施設であった新潟西港は、信濃川の河口にあるため水深が浅く、西
港の長い歴史は信濃川が運んでくる土砂と日本海の波浪との戦いでもあった。
新潟西港は、古くから米の船積みをはじめ、諸物資の集散や旅客の往来で賑
わい、寛永 12(1672)年河村瑞賢が北前船の西回り航路の寄港地に指定したこと
から大きく発展した。安政 5(1858)年日米修好通商条約で開港 5 港の一つに指
定されたが、実際の開港は水深不足や北越戊辰戦争などの影響で遅れ、明治元
(1869)年にようやく開港、貿易が開始された。明治期は、外国貿易は振るわな
かったものの、北洋サケ・マス漁船などの遠洋漁業の基地として栄えた。
昭和 4(1929)年に満州航路が開設され、昭和 6(1931)年に上越本線が全通し、
首都圏と直結した新潟西港は対岸貿易の拠点港として重要な位置を占めるよう
になった。第二次世界大戦開戦前の時点では、日満航路が週 5 日就航、東京か
ら満州国までの最短ルートとして利用された。現在も北東アジア諸国との関係
が強く、韓国、中国、ロシアの各国領事館が新潟市に設置されている。また、
新潟県は関越、北陸、上信越、磐越、日本海東北の 5 本の高速道路が伸び、鉄
道網も整備されている。
新潟自慢と言えば、コシヒカリと清酒、そして新潟美人となるが、米の産出
額(1,509 億円:平成 21(2009)年)、米菓(1,681 億円:同)と切餅・包装餅(327 億
円:同)の出荷量がそれぞれ全国トップで、他に全国 1 位のものは、石油ストー
ブ(438 億円:同)、金属洋食器(89 億円:同)、ニット製セーター(216 億円:同)な
どがある。また、淡麗辛口を特長とする日本酒の出荷額(465 億円:同)は全国 3
位につけている。
新潟美人であるが、新潟芸妓(にいがたげいぎ)を新潟美人と呼んだのが始ま
りと言われている。新潟芸妓の起こりは、昭和 9(1934)年発行の新潟市史によ
112
れば、江戸時代天保年間(1830 年~1843 年)に入って、唄や踊りの芸でお座敷に
出る女性が職業として確立したと言われている。信濃川と阿賀野川を利用して
遠くは会津(福島県)まで物資を輸送できる舟運網を持ち、北前船で栄えた新潟
市(新潟湊)は商人や港で働く人々で賑わい、最盛期には 400 人を超える新潟芸
妓が活躍した。新潟市には、現在も老舗料亭として格式を誇る行形亭(いきなり
や)と鍋茶屋の 2 つの有名料亭がある。芸妓の踊りと唄、三味線の諸芸が揃った
料亭文化が今も続いている地域は、今では京都、金沢、東京と新潟のみと言わ
れている。
2.港湾
新潟県には、国際拠点港湾である新潟港(新潟市の西港区と、北蒲原郡聖籠町
にまたがる東港区に分かれている)をはじめとして、直江津港(上越市)、両津港
及び小木港(ともに佐渡市)の重要港湾 3 港、岩船港(村上市)、寺泊港(長岡市)、
柏崎港(上越市)、姫川港(糸魚川市)、赤泊港及び二見港(ともに佐渡市)の地方
港湾 6 港を合わせて 10 の主要港がある。
<図表 1> 新潟県の港湾
(出典)新潟県庁ホームページ
(1)新潟港
平成 22(2010)年における新潟港からの輸出量は 112 万トンであるが、輸
入量は輸出量の 10 倍以上の 1,302 万トンに上る。品目別にみると、輸出で
は、1 位が北越紀州製紙(株)の紙製品・パルプの 24.1%、2 位が古紙、ペッ
113
トボトルなどの再利用資材(12.5%)、3 位が中古自動車(10.8%)、4 位が化学
工業品(染料、塗料、合成樹脂など)の 8.3%、5 位が金属くず(7.1%)の構成と
なっている。輸入品目では、LNG(液化天然ガス)が 54.4%と 1 位を占め、2
位が木材チップの 18.1%、3 位が地元の有力ホームセンターである(株)コメ
リ等が輸入している家具その他(4.1%)となっている。
平成 22(2010)年の内航貨物取扱実績は、移出が 623 トンで移入が 854 万
トンとなっており、移出貨物では佐渡汽船(株)と新日本海フェリー(株)によ
るフェリー貨物が 86.0%を占め、次いで原油が 4.1%となっている。移入貨物
でもフェリー貨物が 51.8%と過半数を占め、石油製品(27.3%)が 2 位、3 位に
セメント(7.8%)が続いている。
<図表 2> 新潟西港と東港周辺マップ
(出典)新潟市役所ホームページ
1)コンテナターミナル
国際拠点港湾に指定されている新潟港では、現在 2 つの港区から構成さ
れている。西港は国内旅客と貨物を取り扱い、東港は工業港として開発さ
れたが、本州日本海側では最大のコンテナターミナルを擁している。ガン
トリークレーンを備えた最初のコンテナターミナルが、西埠頭に昭和 59
(1984)年に 1 バース(西 1 号:長さ 130m X 水深 7.5m)が建設された。平成
7(1995)年には 2 基めのガントリークレーンが設置され、コンテナバース
が 2 本となった(西 2 号:180m X 10m)。平成 8(1996)年 9 月にはスーパー
ガントリークレーンを備えた 3 号岸壁(350m X 12m)が供用された。
コンテナターミナルの整備が進む一方、コンテナ航路も増加している。
114
最初のコンテナ航路は、昭和 55(1980)年に寄港を開始したトランス・シ
ベリア・コンテナ・サービスであり、ナホトカの隣にあるボストーチヌイ
港と新潟東港を結ぶ定期航路となった。平成 24(2012)年 4 月時点で、釜
山、上海、大連を中心に、週 10 便の定期コンテナ航路が寄港している。
週 10 便の内訳は、釜山航路が 4 便、中国・釜山航路が 4 便、中国航路が
2 便である。加えて、ザルビノ(ロシア)と新潟東港を結ぶ日本海横断航路
が、平成 23(2011)年 8 月から月に 2 度の頻度で就航している。吉林省長
春市出しの貨物は大連経由 9 日間かかって日本に運ばれていたが、ザルビ
ノから日本海横断航路を使うと 4 日間で輸入されると見込まれている。運
航船社は、新潟東港とナホトカの間を不定期で運航している飯野港運(京
都府)で、サービスに投入される貨物船の積載能力は 60TEU、車両 90 台と
なっている。
新潟東港のコンテナ取扱本数(空コンテナを含む)は、平成 22(2010)年
に約 16 万 3 千 TEU と本州日本海側ではトップ(伏木富山港は 6 万 4 千 TEU)、
全国でも 12 位に位置している。平成 23(2011)年は前年比 21%増の 20 万 5
千 TEU と過去最高を記録した。東日本大震災で被災した東北諸港のコンテ
ナ取扱機能を一部代替したことで 3 月以降貨物が急増、初めて 20 万 TEU
の大台を超えた。平成 23(2011)年 11 月に、国土交通省により国際海上コ
ンテナ輸送の日本海側拠点港の一つとして選定されている。
<図表 3> 新潟東港コンテナターミナル施設
(出典)(株)新潟国際貿易ターミナルホームページ
寄港隻数とコンテナ取扱本数の増加により滞船(沖待ち)が大きな問
題となっている。滞船隻数は平成 16(2004)年の 34 隻(最高 25 時間待ち)
から平成 22(2010)年には 100 隻(最高 61 時間待ち)と年々悪化してきた。
その対策として、平成 21(2009)年度から平成 24(2012)年度に、77 億円
をかけて西埠頭 4 号岸壁(350m x 12m)を整備中であり、平成 23(2011)年
115
5 月 20 日に東日本大震災後の貨物急増に対処するため、バース延長部分
の約半分(120m)の先行供用が開始され、コンテナ船 3 隻による同時荷役
が可能となった。また、ヤードに隣接する木材埠頭の一部にコンテナを
蔵置するなどの対策が講じられている。しかしながら、コンテナヤード
後背地に拡張の余地がなく、抜本的な対策として、西 1 号岸壁側の掘込
部分の埋め立てが検討されている。さらに、コンテナターミナルの競争
力向上を目指して、ターミナル運営会社(新潟国際貿易ターミナル)の民
営化が検討されている。現在は第三セクター方式で運営されており、資
本金(1,636,800 千円)の約 45%が新潟県、13%が 4 市 1 町、6%が銀行(日本
政策投資銀行)、残りの 37%が民間出資(39 社)で構成されている。
集荷対策のひとつとしてフリータイム(輸入コンテナ無料蔵置期間)の
延長が慣習化し、これがヤード混雑に拍車をかけ、寄港船社の費用増加
にもなっている。フリータイム規定の厳格な運用も一つの解決策である。
また、2011 年の冬に大雪のためターミナルが 4 日間にわたって閉鎖され
るというトラブルが発生した。普段は雪の少ない海岸部で、一晩に 50cm
以上の積雪があったためである。しかしながら、ターミナル運営関係者
の間で除雪費用の負担で折り合いがつかず、長期のターミナル封鎖にな
ったとの見方も強い。ロシアの貨物船沈没などの事件もあったが、想定
外の事件への危機管理態勢の構築が求められたと言えよう。
<図表 4> 新潟東港コンテナ取扱本数推移
(出典)新潟県交通政策局資料、日本海事新聞
2)新潟東港のエネルギー港湾機能
新潟東港の港湾工事は昭和 38(1963)年に着工し、昭和 44 (1969)年に開
港式が行われた。その後も工事は順調であったが、工場誘致は低調に推移
した。昭和 50 (1975)年石油の安定供給をはかるため、石油備蓄法が制定
された。新潟東港も備蓄基地の一つに決まり、昭和 52(1977)年に新潟石
油共同備蓄(株)が設立され、中央水路出入口を挟んだ東西海岸の埋立地
116
60.4 万㎡(東京ドーム 13 個に相当)に昭和 54(1979)年に備蓄基地が完成し
た。原油タンクは 17 基で、151 万キロリットルを備蓄できる。因みに、
2011 年 10 月末現在で国内には 200 日分の石油備蓄があるが、151 万キロ
リットルはそのうちの 3.7 日分に相当する。
LNG(液化天然ガス)の輸入計画も進められ、昭和 53(1978)年に日本海
エルエヌジー(株)が設立され、昭和 58(1983)年 9 月に、インドネシア(ア
ルン)産 LNG を積載した越後丸(67,219 載貨重量トン)が第 1 船として入港
した。LNG 受入基地の規模は全国第 6 位で、輸入された LNG は 9 割が東北
電力(株)の東新潟火力発電所(聖籠町)と新潟火力発電所(新潟市東区)に
供給されている。また、石油資源開発(株)の南東北との間を結ぶパイプラ
インやタンクローリー、貨物鉄道により、東北地方の消費地にもガスが供
給されている。平成 23(2011)年 6 月時点で、LNG 船受け入れ隻数 1,622
隻、累積受入量 9,055 万トンとなっている。平成 23(2011) 年 11 月に、
国土交通省により直江津港とともに日本海側拠点港の LNG 部門に選定さ
れた
<図表 5> 新潟東港の石油備蓄基地と LNG 受入施設
(出典)新潟石油共同備蓄(株)ホームページ
3)新潟東港を活用している地元企業
新潟東港を活用している地元の大手荷主 2 社の物流戦略を紹介する。
①北越紀州製紙(株)
本社:東京都中央区日本橋本石町 3-2-2
新潟工場:新潟市東区榎町 57
北越紀州製紙(株)は、平成 23(2011)年 4 月に紀州製紙(株)と合併し誕
生した。製紙業界では、王子製紙(株)と日本製紙グループの大手 2 社が
輸出から撤退ないし縮小しているが、北越紀州製紙(株)は逆に輸出拡大
117
に動いている。同社は新潟工場で平成 21(2009)年に世界最大級の抄紙機
を稼働させ、内需の減少を輸出で補って工場の稼働率を維持したほうが
製造コストの削減につながり、国内の競争力強化にも有利であると判断
したことによる。
因みに、新潟工場からの輸出量(紙製品とパルプ)は年々増加しており、
平成 18 (2006)年 2,000TEU だった輸出量は、平成 19(2007)年 4,000TEU、
平成 20(2008)年には 6,000TEU に拡大し、平成 21(2009)年の輸出量はリ
ーマンショックにより輸出が急減したにも関わらず 9,419 TEU であった。
これらの貨物は従前陸送して京浜港経由輸出していたが、平成 18 (2006)
年から台湾とシンガポール向けを新潟港にシフトし、平成 22(2010)年に
は香港、韓国、台湾、東南アジア、米国、豪州向けを含め、新潟港の利
用率は 77%となっている。
②(株)コメリ
本社:新潟市南区清水 4501-1
コメリは、DIY 用品や園芸用品を核商品として、ホームセンターとハ
ード&グリーンと呼ぶ小型店舗(敷地面積:1,000 平方メートル)を沖縄
を除く全国に展開している。店舗数は平成 23(2011)年末時点で 1,076
店舗(うちハード&グリーンが 906 店舗)であり、ホームセンター業界で
は、DCM ホールディングス(傘下にカーマ、ダイキ、ホーマックを持つ
持ち株会社)、ニトリに次いで業界第 3 位であるが、同社は 15 年以上前
から自社ブランド(PB)商品を開発、直輸入を開始している。同社の 2009
年の PB 商品の仕入れのうち輸入品が 50%を占め、商品調達ソースの 80%
を中国が占めている。平成 21(2009)年度の輸入量は 16,000TEU で、半
数を新潟港経由で輸入している。
<図表 6> (株)コメリの流通センター配置図
(出典)(株)コメリホームページ
118
同社は、新潟、郡山(福島県)、高崎(群馬県)、福井、三重、岡山、花
巻(岩手県)、大牟田(福岡県)の 8 ヵ所に流通センター(DC)を設置、海外
からの輸入品を直接物流センターに搬入し、各センターが管轄エリアの
店舗に対して商品を供給する体制をとっている。センター間の横持ちは
極力行わないようにしている。すなわち新潟、花巻、郡山、高崎の 4DC
向けには新潟港、福井 DC 向けには富山伏木港、三重 DC へは四日市港、
岡山 DC には水島港、大牟田 DC 向けには博多港と伊万里港を利用し、京
浜港の利用は、地方港に直接寄港しない欧米からの木材輸入や緊急輸入
が必要な場合に限定して、地方港を活用した物流戦略を展開していくこ
とを方針としている。
(2)直江津港
直江津港は、新潟県西南部の高田平野の中央を流れる関川が日本海に注ぐ
河口に隣接し(港は河口にあったが、昭和 35(1960)年に分離)、奈良時代か
ら越後国府の要港として栄えてきた。上杉謙信が春日山城に居城していた頃
には上杉家の厚い保護を受け、米、塩鮭、越後上布(高級麻織物)等を、京阪
地方や遠く北海道、九州まで積み出していた。明治 21(1888)年に、直江津
を起点とする信越線が長野方面へ開通したことから、大正時代にかけて長野
方面への物資の流通が盛んになった。このため、直江津港の港湾管理者は新
潟県であるが、長野県立地企業が同港を多く利用していることから、長野県
では同港整備のため交付金を支出している。
<図表 7> 直江津港コンテナ取扱い本数推移
(出典)直江津港湾協会
直江津港には、岸壁延長 170m、水深 10m のコンテナターミナルがあり、
平成 11 (1999)年にガントリークレーン 1 基(アウトリーチ 31m)が設置され
た。コンテナ航路は、平成 7(1995)年 10 月に釜山航路が開設され、平成 10
119
(1998)年に丹東・大連航路が開始された。現在は釜山航路が週 2 便、釜山・
中国航路が週 2 便寄港している。平成 22(2011)年の取扱本数は 2 万 6 千
TEU(前年比 12.8%の増加)であった。直江津港が取扱いコンテナ貨物は、平
成 22 (2010)年の実績によれば、輸出コンテナ(6,909TEU)のうち化学工業品
が 64.3%を占め、次に金属くずが 7.7%、再利用資材(古紙、ペットボトルな
ど)が 6.5%となっている。輸入コンテナ(12,148TEU)では、化学工業品が
36.7%、その他農産物(きのこ栽培用にとうもろこしの穂を粉砕したものな
ど)が 27.1%、産業機械が 5.1%などとなっている。
直江津のエネルギー港湾機能としては、平成 11(1999)年に荒浜埠頭地区
において本格的な埋め立て工事が開始された。平成 19(2007)年 5 月に中部
電力(株)が国内最大級の LNG 火力発電所の建設を開始し、平成 23(2011)年
10 月には、試験運転用のインドネシア産 LNG を積載した専用船が初入港し
た。また、平成 21(2009)年 7 月には国際石油開発帝石(株)による LNG 受入
基地が着工され、豪州とインドネシアからの LNG を受け入れるべく、平成
26(2014)年の操業開始を目指して工事が進められている。このような状況を
踏まえ、直江津港は平成 23(2011)年 11 月に、国土交通省より新潟港ととも
に日本海側拠点港の LNG 部門に選定された。
(3)その他の港湾
1)岩船港 (村上市)
岩船港は県北唯一の地方港湾で、村上市・岩船郡及び山形県小国地方
を後背地として、県北部における物流拠点・地方産業発展の基礎及び広
域観光レクレーションの結節点としての役割を持っている。日本海に浮
かぶ粟島との間にフェリー1 隻と高速船 1 隻が就航し、粟島の生活や観
光の拠点としても大きな役割を果たしている。港湾施設としては、平成
7(1995)年に水深 7.5m の耐震構造岸壁が、平成 11(1999)年に水深 5.5m
の岸壁が完成、セメント・硫酸基地も稼働している。
2)寺泊港 (長岡市)
寺泊港は、江戸時代には大阪や北海道を結ぶ北前航路の寄港地として
賑わった。明治時代に入ると、鉄道輸送が主力ととなり、寺泊港の利用
は減少したが、明治 40(1907)年に「越佐(越後-佐渡)航路の要地」、「遠
洋漁業の要地」として位置づけられたことから、港湾改修工事に着手し、
近代港湾への第一歩を踏み出した。昭和 27(1952)年に地方港に指定され、
昭和 48 (1973)年に赤泊港との間に定期航路が開設され、平成 17(2005)
年からは赤泊港とを 1 時間で結ぶ高速船あいびすが就航している。また、
近くの信濃川大河津(おおこうづ)分水から放出される大量の砂のために、
港の東側に広大な砂浜が形成され、海水浴シーズンには大勢の海水浴客
が同港を訪れている。
120
3)柏崎港 (上越市)
古くから天然の地形を生かした商・漁港として利用されてきたが、大
正 11 (1922)年から昭和 2(1927)年にかけて、
防波堤 140m と防砂堤 81.8m
が完成し、現在の柏崎港の基礎が築かれた。昭和 46(1971)年国際貿易
港として開港されてからは、中越地方の木材・セメントの供給拠点とし
て発展してきた。現在は冬の強い波浪を遮る西防波堤(2,280m)の内側に
4 つの埠頭と 7 つの岸壁を備えている。大型船舶が接岸できる中浜埠
頭・東埠頭は貨物船用であり、中央埠頭近辺は漁船などの小型船舶の係
留に利用されている。また、旅客埠頭である西埠頭からは遊覧船やイル
カウォッチングの船が発着している。もっとも大きな岸壁は中浜埠頭 2
号岸壁(長さ 185m X 水深 10m)と同 3 号岸壁(長さ 190m X 水深 11m)で、
12,000 トンの貨物船まで対応でき、大型客船も来港している。柏崎港
の輸出貨物は、韓国と中国向けの鉄スクラップ(平成 19 年:47 千トン)
やロシア向け中古車(同:3 千トン)などがあり、輸入貨物は中国からの
コークス(同:14 千トン)や韓国からのアスファルト(同:3 千トン)など
である。
4)姫川港 (糸魚川市)
姫川港は新潟県の西南端に位置し、一級河川姫川河口の右側に隣接す
る地方港湾である。周辺地域で産出される良質な石灰石を利用したセメ
ント工業とともに発展してきた。昭和 40(1965)年に港湾整備に着手し、
昭和 48(1973)年の西埠頭 2 号岸壁完成により開港が宣言された。その
後セメントの積み出しや石炭の揚げ荷のために岸壁はフル稼働の状態
になったために、1 万トンの貨物船が接岸できるよう西埠頭の水深を
10m に掘り下げ(既設水深は 5.5m~7.5m)、さらに耐震性を高めた岸壁
(西埠頭 1 号耐震岸壁)に改良して、平成 14(2002)年から供用を開始し
ている。
姫川港は、平成 15(2003)年にリサイクルポート(総合静脈物流拠点
港)として指定されている。同港の後背地にはセメント製造工場が 2 社
立地しており、スラグ・カラミ(鉄や銅を作るときに発生する鉱滓)、石
炭灰(石炭火力発電所の燃えかす)、排煙脱硫石膏(火力発電所の煙にな
かに含まれる硫黄分を吸着した石膏)など他地域で発生する廃棄物をセ
メント副原料として、姫川港経由で引き受けている。
(注)リサイクルポートとは、広域的なリサイクル施設の立地に対応した
静脈物流ネットワークの拠点となる港湾であり、港湾管理者の申請
により国が指定し、拠点作りを支援するもの。
5)佐渡の諸港(佐渡市)
①両津港
121
両津港は、佐渡の東北に深く入り込んだ両津湾の最奥部に位置し、
古くは夷港と呼ばれ商・漁港として栄えた。安政 5(1854)年に締結
された日米修好通商条約により明治元(1868)年に新潟港が開港し
た際には、同港の緊急避難などのための補助港となり、昭和
26(1951)年に重要港湾に指定されている。新潟-両津間は、昭和
44(1969)年にカーフェリー、昭和 55(1980)年には日本で最初の高速
旅客船であるジェットフォイルが就航し、夏のピーク時には一日当
たりカーフェリーが 7 往復、ジェットフォイルが 11 往復している
(平成 24(2012)年 8 月の時刻表による)。平成 22(2010)年の取扱い
実績は、船舶乗降人員が 135 万人、航送自動車が 12 万台、移出入
貨物が 304 万トンとなっている。
②小木港
小木港は佐渡島の南端に位置し、江戸時代には佐渡金山の金銀輸
送により繁栄し、寛文 10(1672)年には河村瑞賢によって西回り航路
の寄港地になるなど活況を呈した。昭和 49(1974)年に重要港湾の指
定を受け、昭和 60(1985)年に旅客ターミナルが完成、平成 5(1993)
年にはカーフェリーの大型に対応した埠頭(北埠頭 2 号岸壁:水深
7.5m)の供用が開始するなど、佐渡の南の玄関口として整備が進め
られた。一方、平成 10 (1998)年に小木港と合併した羽茂地区(旧羽
茂港)は、明治時代から味噌産業が発達し、同港の取扱貨物量は一
時期新潟、両津、直江津に次いで新潟県下 4 位を占めるなど、地場
産業を支える港湾として栄えてきた。近年羽茂地区では、砂、砂利、
石材、セメントなどを取り扱う物流機能の強化が進められている。
平成 22(2010)年の取扱い実績は、船舶乗降人員が 16 万人、移出入
貨物が 39 万トンとなっている
③赤泊港
赤泊港は佐渡島の南岸に位置し、佐渡金山の隆盛に伴い天領とし
て佐渡奉行渡来港となるほか、北前船や松前稼ぎ商人の地域として栄
えてきた。平成 17(2005)年 6 月から高速船あいびすが、赤泊-寺泊間
を運航している。
④二見港
二見港は佐渡の南西部に深く入り込んだ真野湾の北西部に位置し、
古くから船舶の避難港として利用されてきた。明治初期からは、海
軍の貯炭場として、また、佐渡金山の金鉱石の積出港としても利用
されてきた。平成 11(1999)年には 5,000 トン級の岸壁が完成し、佐
渡北部のセメント基地、砂・砂利などの受け入れ港として利用され
ている。また、平成 4(1992)年 6 月から港内に建設された相川火力
122
発電所(重油焚き)が運転を開始し、重油受け入れ基地としての役割
も担っている。
3.港湾関係物流企業
(1)船舶代理店、港湾運送業
新潟東港に寄港するコンテナ船の代理店を引き受けているのは、(株)リン
コーコーポレーション(資本金:19 億 5,000 万円)、日本通運(株)新潟海運支
店(同 701 億 7,500 万円)、富士運輸(株)(同:3,000 万円)、丸肥運送倉庫
(株)(同:3,000 万円)、新潟東洋埠頭(株)(同:2,000 万円)の社で、そのうち
(株)リンコーコーポレーション、日本通運(株)新潟海運支店と富士運輸(株)
の 3 社が港湾運送業者としてコンテナターミナルの荷役作業を行っている。
直江津港に寄港しているコンテナ船社は全て韓国企業で、日本通運(株)
直江津支店、直江津海陸運送(株)(資本金:7,500 万円)、直江津シーサービ
ス(株)(同:1,000 万円)が代理店となっている。
(株)リンコーコーポレーションは地元を代表する物流企業であり、明治
38 (1905)年に設立され、昭和 36(1961)年に東証 2 部に上場している。新潟
東港と西港を主要拠点として、船舶代理店業、港湾運送業に加えて、倉庫業、
通関業、フォワーディング事業や航空貨物など幅広い物流サービスを提供し
ている。また、不動産事業や保険代理店も引き受けているが、新潟市内(ANA
クラウンプラザホテル)と佐渡(ホテル大佐渡)で 2 つのホテルを経営し、新
潟臨港病院を運営する医療法人新潟臨港保健会も保有している。川崎汽船が
24.21%の株式を所有している。
(2)インランド・デポ
三条・燕地域(輸出:機械,洋食器/輸入:機械部品)と隣接する長岡地域(輸
出:機械/輸入:雑工業品,機械)は輸出入貨物の集積地であり、貿易振興のた
めに平成 5(1993)年に三条・燕地域に内陸保税蔵置場(インランド・デポ)が
開設された。この内陸保税蔵置場が認可された時に、地元の中越運送(株)(資
本金:4 億 8,750 万円)と新潟運輸(株)(同:8 億 1,000 万円)の陸運業者 2 社が、
日本通運(株)とともに保税蔵置場として認可され、両社ともに通関業務を開
始している。中越運送は平成 10(1998)年に韓国釜山港と新潟港の間で国際
輸送業務を開始し、中国では 12 社の地場物流企業と提携、さらに平成 14
(2002)年に上海事務所を開設、平成 21(2009)年には広州に駐在員を派遣し
ている。現在の取扱い貨物は中国が中心であるが、韓国のほかにも台湾、香
港、ベトナム、タイ、インドネシアへとフォワーディングのネットワークを
拡大している。
新潟県には、三条・燕インランド・デポの他に、長岡市から 11km 離れた
見附市にインランド・デポが設置されている。インランド・デポの設備は(株)
新潟国際貿易ターミナルによって整備され、商船三井ロジスティクス(株)
(本社:東京都)が平成 19(2007)年に運営事業者として選定され、同社新潟営
123
業所として海上・航空貨物のドアツードア輸送、輸出入通関(海上、航空)、
保管・仕分け・梱包などの業務を行っている。
4.フェリー・旅客船サービス
(1)新潟西港の旅客サービス
新潟県本土と佐渡島を結ぶ佐渡汽船(株)の 3 航路のうち、最も利用者数・
取扱貨物量が多いのが新潟~両津間の両津航路であり、新潟西港から発着し
ている。また、県内のみならず富山県の他に埼玉県、群馬県などを後背地と
した北海道向け長距離フェリーの拠点港として利用されており、新日本海フ
ェリー(本社:大阪市)が、新潟~小樽航路と新潟~秋田~苫小牧航路(週 1
便は敦賀まで延航)でそれぞれ週 6 便のサービスを行っている。平成 21
(2009)年の輸送実績は、乗降人員が 11.9 万人、航送車両が 12.8 万台となっ
ている。
北朝鮮への帰還事業が昭和 34(1959)年から昭和 59(1984)年にかけて行わ
れたこともあり、北朝鮮・元山から貨客船「万景峰号」が入港していた。現
在は平成 18(2006)年 7 月 5 日に適用された特定船舶入港禁止法により、入
港禁止措置が執られている。
<図表 8> 新潟西港
(出典)新潟県庁ホームページ
(2)佐渡汽船(株)
佐渡汽船(株)は、本土と佐渡島を結び、旅客・自動車・貨物の輸送を行う
定期航路事業を営んでいる。同社は昭和 7(1932)年佐渡航路で競合していた
商船会社 3 社を、経営安定の見地から新潟県の資本参加のもと統合して設立
された。当初から半官半民で設立された日本初の第三セクターである。現在
も新潟県が 39.15%出資している。
佐渡汽船(株)は、現在両津航路(新潟~両津)、小木航路(直江津~小木)、
両泊航路(寺泊~赤泊)の 3 航路を運航し、カーフェリー3 隻、ジェットフォ
124
イル(水中翼船)3 隻と 1 隻の高速船を就航させている。両津航路は同社の基
幹航路であり、3 航路のなかで唯一黒字を計上している。同航路のルートは
佐渡島の南東部を通っているため、島影により海が荒れる冬場でも高波の影
響が少なく、ジェットフォイルが欠航してもカーフェリーは余程の高波でな
い限り運航できるケースが多い。一方、小木航路と両泊航路は慢性的な赤字
に苦しんでいる。小木航路は両津航路より観光客需要が少なく、両泊航路は
就航している高速船は冬場などの悪天候時の欠航率が高く、収支を悪化させ
ている。佐渡汽船の利用客は、平成 2(1990)年に 300 万人を超えたが、近年
は減少が続き、平成 23(2010)年には 163 万人まで減少している。
<図表 9> 佐渡汽船航路網及び就航船
●新潟-両津航路
船名
建造年 総トン数 旅客定員 速 度
(トン)
(人) (ノット)
カーフェリー
おけさ丸
1993
5,373
1,705 23.4
おおさど丸
1988
5,373
1,705 22.6
ジェットフォイル ぎんが
1986
260 47.0
つばさ
1989
260 47.0
すいせい
1991
260 47.0
●直江津-小木航路
カーフェリー
こがね丸
1995
4,258
1,133 21.7
●寺泊-赤泊航路
高速船
あいびす
2005
263
216 25.0
(就航船)
(出典)佐渡汽船ホームページ
<図表 10> 佐渡汽船発着合計人員推移
(出典)佐渡汽船ホームページより作成
(3)粟島汽船(株)
粟島汽船(株)(資本金:6,500 万円)は昭和 28(1953)年に創立され、新潟県
北唯一の地方港湾である岩船港(村上市)と粟島港(粟島浦村)の間で、フェリ
ー1隻と高速船 1 隻を運航している。フェリーは 1 日 1 便(所要時間 90 分)、
高速船は 1 日 3 便(所要時間 55 分)が基本であるが、気象・海象が厳しい 11
月中旬から翌 3 月末までは高速船の運航は休止されている。
平成 23(2011)年 4 月に就航した高速船“awaline きらら”は、日本海側
125
では初の双胴船で、貨物スペースの確保や横揺れの軽減に優れた設計となっ
ている。定員は 170 人、速力は時速 42.6km。ツネイシクラフト&ファシリ
ティーズ(株)の建造である。
粟島は日本海に浮かぶ周囲 23km、面積は 9.9 平方 km の小さな島で、岩船
港と粟島港は 35km 離れている。人口は平成 21(2009)年 3 月時点で約 360 人。
漁業など農林水産業及び民宿・旅館などの観光業が基幹産業であり、5 月か
ら 10 月にかけての海水浴、釣り、キャンプなどの海洋系レジャーが主な観
光資源となっており、この期間に各種イベントを企画して観光客誘致に力を
入れている。
<図表 11> 粟島汽船“awaline きらら”
(出典)粟島汽船ホームページ
(3)クルーズ客船
大型客船の寄港隻数の差は、後背地の観光地としての魅力の差とも言える
が、地元の客船誘致に対する熱意も大きな意味を持っている。地元の熱意が
実を結んだ例としては、石川県輪島市が挙げられる。輪島市では海と陸を一
体的に整備し、文化・観光の交流拠点として魅力あるまちづくりを行う「輪
島港マリンタウンプロジェクト」を進めており、平成 22(2010)年 5 月に海
の玄関口となる水深 7.5m の大型旅客船岸壁の供用が開始され、供用開始を
契機として、にっぽん丸が寄港している。平成 23(2011)年においても、ふ
じ丸(23,235 トン、600 人、6.6m)、ぱしふぃっくびいなす(26,518 トン、696
名、6.5m)等が寄港している。入港した大型客船の乗船客が高価な輪島塗を
買い付け、その売れ方に地元の関係者が驚いたとの話もある。また、輪島塗
の商店主が岸壁にタクシーを並べ、乗船客を自分の店に無料送迎したとか。
大型客船寄港の経済波及効果の一場面である。
平成 23(2011)年 11 月に選定された日本海側拠点港には、外航クルーズの
拠点港として、「金沢港」、「小樽港・伏木富山港・舞鶴港」、「境港」が選ば
れている。客船寄港実績をみると、金沢港には平成 23(2011)年に飛鳥Ⅱ
(50,142 総トン、乗客定員 872 名、喫水 7.8m)、にっぽん丸(21,903 総トン、
126
532 名、6.5m)、ぱしふぃっくびいなす、ORION Ⅱ(4,077 総トン、100 名、
4.5m)など 4 隻が寄港している。一方、新潟港(西港)に寄港したのは飛鳥Ⅱ
のみであったが、地元では日本海側総合拠点港に選定されたことを契機に、
大型客船誘致運動に力を入れ始めている。現在大阪市が所有している航海練
習船あこがれ(362 トン、50 人)が、平成 24(2012)年 5 月 8 日から 17 日にか
けて新潟港に寄港した。あこがれは、小学 4 年生以上ならば誰でも乗船でき
る日本で唯一の帆船で、全長 52m、帆の高さは甲板から 30m あり、万延元
(1860)年に日本籍船として初めて太平洋を横断した咸臨丸とほぼ同じ大き
さで、基本的には大阪南港を母港に運航しているが、国内外の各種イベント
にも参加している。
5.曳船業
新潟県の主要港の曳船サービスは、日本海曳船(株)が一元的に提供している。
同社は昭和 42(1967)年 10 月に設立され、翌年 7 月に港湾管理者の新潟県から
曳船業務の運営移管を受け、新潟港を皮切りに昭和 48(1973)年 4 月から直江津
港、同年 9 月から姫川港と順次業務を拡大し、平成 6(1994)年には石川県七尾
市に合弁(出資比率:30%)で北陸曳船(株)を設立、七尾港に入港する石炭運搬船
や LP ガス運搬船の曳船を担当するなど日本海側で最大の曳船事業者に成長し
ている。
新潟港においては、昭和 58(1983)年 9 月の初入港以来、LNG 船の曳船業務を
担当しており、今までに 1,600 隻以上の LNG 船にサービスを提供している。LNG
船の接・離岸には 4,000 馬力のタグボート 2 隻が必要なことから、同社の売上
の 40%が LNG 船関連業務によるとのことである。
同社は、4,000 馬力の新鋭大型曳船 3 隻を含む 11 隻のタグボート船隊を擁し
ている。メーカーは全て後述する新潟造船(株)であり、新潟県の造船業の発展
にも大いに貢献している。
(参考)
曳船サービスは、船舶の大型化や危険品輸送の増加により、主要業務である
接・離岸作業に加えて、LOA(船舶の長さ)200m 以上の大型船や危険物(LNG/ LPG))
積載船 の進路警戒作業、危険物積載船の荷役中の警戒業務、ドライドックや擬
装岸壁における作業船機能、サルベージ及び遭難船曳航などの機能を担い、船
や港湾の安全を確保する重要な役割を果たしている。
6.船員数と船員教育・育成機関
平成 22 年 10 月 1 日時点の新潟県内の船員数は、予備船員を含めて 762 人と
なっている。船種別では、旅客船の船員がいちばん多く 215 人、漁船が 114 人、
貨物船が 54 人、その他 132 人となっている。新潟県はかつて船員を希望する若
127
者が多く、船員育成機関として村上船員学校があったが、同校は昭和 62(1987)
年に廃止された。現在新潟県立海洋高等学校(糸魚川市能生)において、海洋科
学科(1 学級 35 人)、海洋工学科(同 35 人)が開設されている。卒業生の平成 22
(2010)年度の海事関係(食品系も含む)への進路状況をみると、水産・海洋・食
品系 4 年制大学に 4 人、海上技術短期大学校・水産大学校などの専修各種学校
に 2 人(進学合計 36 人)、就職では 47 人のうち 13 人が海事関係に就職している。
7.造船業と舶用工業
小型船建造を得意としてきた新潟造船(株)と、県内に主力工場があり舶用デ
ィーゼルエンジンやタグボート用推進装置を製造している新潟原動機(株)は、
もともと「新潟鐡工所」の事業部門であった。新潟鐡工所の前身は、明治 28
(1895)年に開設された「日本石油付属新潟鐡工所」で、明治 21(1888)年に新潟
県刈羽郡石地村(現:柏崎市西山町石地)に設立された日本石油(現在の JX 日鉱
日石エネルギー(株))の石油掘削や石油精製のための機械製造を行うために設
立された。明治 41(1908)年には、94 トンの鉄鋼帆走船であるが日本初のタンカ
ー宝国丸を建造した。その後新潟鐡工所は明治 43(1910)年には日本石油から分
離・独立し、大正 6(1917)年に本社を東京に移し、大正 8(1919)年には国内初の
産業用ディーゼルエンジンを開発、昭和 24(1949)年に東京証券取引所第一部に
上場している。エンジンやガスタービン、石油化学プラントの開発等を主力に
総合機械メーカーとして成長したが、主力工場は新潟県内に置き、関連会社も
含め、造船や鉄道車両、各種産業機械の製造などを行ってきた。しかしながら、
平成 13(2001)年 11 月に経営が破綻し、各事業は他社に譲渡された。造船部門
は平成 15(2003)年に三井造船(株)の 100%出資を受け、
新たに新潟造船が発足し、
エンジン部門は(株)IHI(旧石川島播磨重工業)の出資により新潟原動機(株)が
同じく平成 15 (2003)年に設立された。他に独立した企業としては、LNG や原油
を船から貯蔵タンクまでつなぐ流体荷役運搬設備でトップシェアを持つニイガ
タ・ローディング・システムズ(株)等がある。
新潟造船(株)の主力である新潟工場は、明治 38(1905)年に信濃川河口に建設
されており、多種多様の漁船、旅客フェリー、作業船、実習船、タグボートな
どを建造している。工場の敷地は 11 万 1,000 ㎡(東京ドームの 2.4 倍)で、2 本
のドックを有し、1 号ドック(長さ 125m X 幅 25m X 深さ 10.5m)は新造船と修繕
船、2 号ドック(135m X 17.5m X 7.7m)は修繕船専用であり、2 号ドック北側に
ある船台では 500 トン未満のアルミ船の新造及び修繕を行っている。小型船を
得意とする同社であるが、2005 年頃からケミカルタンカーやバンカータンカー
などの商船の建造を開始し、平成 22(2010)年 6 月には載貨重量トンが 1 万 1,500
トンのケミカルタンカーが竣工している。
8.水産業
128
新潟県は佐渡島と粟島を含め 634.6km の長大な海岸線と約 7,305 ㎡の大陸棚
を有し、その沖合には大小の天然礁が点在している。それらの天然礁は、北上
する対馬暖流と南下するリマン海流系の冷水が複雑に混ざり合うことで好漁場
を形成している。漁獲されている主な魚介類は、マグロ、ブリ、鮭、サバ、ア
ジなどの回遊魚類、カレイ、ヒラメ、ニギス、マダイ、ホッケなどの底魚類、
ベニズワイガニやホッコクアカエビなどの甲殻類、ミズダコ、スルメイカなど
の軟体類、アワビ、サザエ、ワカメ、モズクなどの海藻貝類と、その種類は極
めて豊富である。
漁獲高の推移をみると、平成 19(2007)年は約 37,200 トン、平成 20(2008)年
34,300 トン、平成 21(2009)35,900 トンと平成 21 年は前年より若干増加したが、
漁獲量は漸減傾向にあるといえる。魚介類別では、平成 20(2008)年の統計によ
れば、多いものから、マグロ類が 2,300 トン、ベニズワイガニが 2,200 トン、
アジ類が 2,100 トン、ブリ類が 2,000 トン等となっている。なお、県内所属の
漁船による漁獲量では、カツオ類が 1 位(平成 20(2008)年で 13,200 トン)だが、
ほとんどが県外で漁獲されているため、上記の統計数値には含まれていない。
新潟県の漁港は長大な沿岸に大小 64 港の漁港が点在している。漁港は利用漁
船数や利用形態などにより第 1 種より第 4 種に区分されており、第 3 種漁港(そ
の利用範囲が全国的なもの)は両津漁港(佐渡市)と能生漁港(糸魚川市)の 2 港
のみで、第 1 種漁港(その利用範囲が地元の漁船を主とするもの)47 港、第 2 種
漁港(その範囲が第 1 種漁港より広く、第 3 種より低いもの)が 13 港、第 4 種(離
島その他辺地にあって、漁場の開発または漁船の避難上特に必要なもの)2 港と
いった構成となっている。県では漁港・漁村振興に力を入れており、
「ふれあい
市」などの直売所の設置やさかな祭りなどのイベントの開催を推進している。
直売所の売上額は平成 18(2006)年の 1.5 億円から平成 22(2010)年には 2.0 億円
に増加しており、各種イベントへの参加者も平成 21(2009)年度の 38,750 人か
ら平成 22(2010)年度には 55,700 人に増加している。
漁業就労者は、昭和 63(1988)年の 5,355 人から平成 20(2008)年には 3,211
人と 20 年間で 2,000 人以上減少し、60 歳以上の高齢者が占める割合も、昭和
63(1988)年の 35.1%から平成 20(2008)年には 65.4%と高齢化が進行している。
漁船(海水動力漁船)登録隻数も同様で、平成 16(2004)年の 6,095 隻から平成
20(2008)年には 5,359 隻と減少傾向にある。
県では、コシヒカリに続いて、平成 18(2006)年から水産物のブランド化に取
り組んでおり、
「佐渡寒ブリ」、
「ヤナギカレイ」、
「南蛮エビ」の 3 魚種のブラン
ド確立を目指している。佐渡寒ブリは 11 月中旬から 12 月にかけて佐渡の両津
湾に仕掛けた定置網で獲れるブリを言い、佐渡での水揚げがブリの季節の到来
を告げる風物詩になっている。カレイ類にとって、信濃川などの大河が運ぶ砂
が流れ込む新潟の海底は絶好の生息地となっており、ヤナギカレイはその体型
が柳の葉を連想させることから名づけられたものである。また、新潟ではホッ
コクアカエビを南蛮エビと呼んでいる。殻の赤い色を南蛮(赤唐辛子)に見立て
たものである。
129
他の名産としては村上市の鮭が挙げられる。村上市の鮭は平安時代には記録
に残されており、江戸時代に世界初の自然ふ化増殖に成功し、明治時代には、
日本で初めて人工増殖技術を取り入れている。同市を流れる三面川(みおもてが
わ)における鮭の漁獲量は、平成 22(2010)年で 45,300 尾と県内の他の河川を圧
倒している。同市には日本で初の鮭の資料館である「イヨボヤ会館」があり、
市内には鮭料理を看板とする老舗の割烹や鮭製品を販売する有名店が何軒も営
業している。なお、「イヨ」も「ボヤ」も村上地方の方言では鮭の意味で、「イ
ヨボヤ」は鮭を「魚の中の魚」として大事にしてきたことを表している。
<図表 12> 村上市の鮭製品を販売する老舗商店
(暖簾に鮭と書かれている)
(出典)味匠㐂っ川ホームページ
9.官公署(国土交通省関係)
新潟県には国土交通省北陸信越運輸局(本局:新潟美咲合同庁舎 2 号館)があ
り、運輸支局が新潟市、長野市、富山市と金沢市に設置されている。本局海事
部では、離島航路の維持・振興策、海上旅客輸送・内航輸送事業、造船・舶用
工業活性化策、船員関係、船舶の登録・検査関係業務など幅広い業務を担当し
ている。また、北陸地方整備局(新潟美咲合同庁舎 1 号館)は、新潟、富山、石
川、福井、長野の 5 県における港湾・空港・海岸の整備、利用、保全を担当し
ている。
海上保安庁第 9 管区海上保安本部(新潟美咲合同庁舎 2 号館)は、新潟県、富
山県、石川県の総延長約 1,280km の沿岸とその沖合海域の日本海を管轄してい
る。新潟県内では、新潟海上保安部(新潟市中央区竜が島)、佐渡海上保安署(佐
渡市両津)、上越海上保安署(上越市港町)、第 9 管区情報管理センター(新潟美
咲合同庁舎 2 号館)、新潟空港基地(新潟市松浜町)が設置され、管轄海域の安全
と治安の維持を担っている。
130
【新潟県海事産業データ】
人口、面積、人口 2,374 千人、12,583.81km2、188.7 人/km2
密度
(平成 22(2010)年 10 月 1 日時点)
1,130 千人(労働力調査、平成 24(2012)年 第 1 四半期(1
就業者数
~3 月平均)結果)
産 業 別 就 業 者 割 第一次産業:7.5%。第二次産業:31.1%。第三次産業:60.7%
合
(平成 17(2005)年 10 月 1 日現在)
県内総生産(名目) 8 兆 6,983 億円 (平成 20(2008)年度)
10 港(うち国際拠点港湾が新潟港、重要港湾が直江津港、
港湾
両津港及び小木港の 3 港。地方港湾が 6 港)
64 港 (第一種:47 港、第二種:13 港、第三種:2 港、
漁港
第 4 種:2 港)
新潟県庁「新潟の漁港・漁村の歴史」2010 年 11 月発表
港湾運送事業者* 新潟港:11 事業者、両津港:2 事業者、直江津港:4 事業者
126 事業者 (普通倉庫 96 事業者、冷蔵倉庫 29 事業者、水
倉庫事業者*
面倉庫 1 事業者)
海上:5 事業者。12 隻。5,857 総トン。
(うち船舶の貸渡しをする事業者は 2)
内航海運事業者*
河川:4 事業者。4 隻。265 総トン。
(平成 22(2010)年 3 月 31 日現在)
旅客船事業者*
離島連絡:2 事業者。海浜:6 事業者。河川・湖沼:7 事業者。
造船法による許可または届出:7 事業者。小型鋼船造船業:8
造船事業者*
事業者。木船造船業:11 事業者。木船修繕業:1 事業者
合計:762 人(うち予備船員 99 人)。
(詳細)旅客船:215 人(うち予備船員 64 人)
貨物船: 54 人
就業船員数
漁 船:114 人(うち予備船員 18 人)
その他:136 人(うち予備船員 10 人)
官庁船:243 人(うち予備船員 7 人)
(平成 22(2010)年 10 月 1 日現在)
4 人(新潟市:2 人、長岡市:1 人、佐渡市:1 人)
海事代理士
((社)日本海事代理士会ホームページより)
5 人。水先実績:新潟水先区 564 隻、直江津港 75 隻、
水先人*
姫川港 75 隻。
3,211 人(平成 20(2008)年時点)
漁業就業者数
(注)*印の統計数値は平成 22(2010)年 3 月 31 日現在。
(出典)新潟県庁『新潟県統計年鑑 2011』 平成 24(2012)年 3 月 26 日発表。
国土交通省北陸信越運輸局 平成 22(2010)年度『北陸信越交通・運輸統
計年鑑』。
131
秋田県の海事産業
1.地理・歴史
秋田県は東北地方の北西部に位置し、風光明媚な男鹿(おが)半島を中央にし
て、北端の青森県境から南端の山形県境に至る海岸線の全長は約 263km である。
東京のほぼ真北約 450km にあり、北京、マドリード、ニューヨークなどとほぼ
同じ北緯 40 度付近に位置している。面
<図 1> 秋田県の地図
積は東京の約 5.3 倍に相当する 11,636
km2 と全国で 6 番目の面積(低平地 27%、
山地 44%、その他 29%で構成)であり、
森林が全体の7割強(70.5%)を占める
緑豊かな県である。
秋田県は 13 市 6 郡 9 町 3 村からなり、
秋田市は秋田県のほぼ中央部に位置し、
東に霊峰太平山を擁する出羽山地、西
に夕日の美しい日本海が広がる緑豊か
な都市である。人口は約 33 万人で秋田
県の人口の約 3 割、県内総生産の 3 分
の 1 を占め、県内及び北東北の拠点中
核都市である。
秋田県が管理する港湾は、重要港湾
が 3 港(秋田港、船川港、能代港)と地
方港湾としては 2 港(戸賀港、本荘港)
の合計 5 港ある。また、漁港は八郎潟
残存湖の東面にある八郎湖漁港を除き、
日本海の海岸線に面して 22 港が点在
している。
秋田が歴史上にあらわれたのは、和
銅 5(712)年に出羽国が置かれたのが
(出典)マピオン
最初といわれている。関ヶ原の戦い後
の慶長 7(1602)年には、佐竹義宣が常陸(今の茨城県)から出羽(秋田県)に国替
えを命ぜられ久保田城を築いた。明治維新後の明治 4(1871)年の廃藩置県によ
り秋田県となった。秋田の歴史を紐解くと、縄文時代から大陸との交流があっ
たことがわかる。代表的なのは渤海使の来航である。
2.気候・県民性
気候区分は日本海側気候に分類される。12 月から 3 月前半までは強い北西の
132
風が吹き、深い降雪と厳しい寒さに見舞われ、内陸部の降雪量は 2m 近くに達す
る。県全域のおよそ 90%の地域が特別豪雪地帯に指定されている。
宮城音弥氏は、
『日本人の性格』(東選選書)の中で、秋田の県民性として“鈍
い・向こう見ず・情熱的・忍耐強い・豪放”をあげており、祖父江孝男氏は『県
民性』(中公新書)で、
“秋田人は秋田犬によく似ているといわれる。ものごとに
なかなか決断つかず、したがってとりかかるまで大変だが、いったん重い腰を
あげると粘りぬく”と書いている。
司馬遼太郎氏は『街道をゆく 29 秋田県散歩 飛騨紀行』(朝日新聞社)で、江
戸時代の秋田藩を“ひとつには、名だたる米作地であること。ついで日本有数
の杉の産地である。
(略)その上、この藩は鉱山国だった。銀山が中心で、他に
金や鉛も産出した。
「米、木材、金銀」といえば、江戸時代の第一級の富で、幸
運な藩だったといえる。”と紹介し、県民性の背景を指摘している。このように
東北随一の豊かな地域であった歴史的経緯から、県民性はよく言えば「おおら
か」である反面、競争意識、チャレンジ精神が希薄であるといわれ、安定志向
が強いと指摘される。そして、「秋田のええふりこぎ」(いい格好したがり)と
のたとえが示すように、享楽的、見栄っ張りで浪費家が多い土地柄ともいわれ
る。これは人口 10 万人当たりの理髪・美容院の軒数が日本一、あるいは新車保
有率は高いランクにありながら、貯蓄率において全国で最低クラスといったデ
ータから窺い知れる。
3.名産品・名物
秋田の名産品・名物などを簡単に紹介する。秋田県の米の収穫量は 48.9 万ト
ンと全国 3 位(平成 22(2010)年度)で、品種別では「あきたこまち」(81.2%)、
「ひ
とめぼれ」(10.2%)などとなっている。秋田の清酒は全国的に有名であり、銘柄
では「高清水」、
「新政」、
「爛漫」、
「両関」、
「太平山」などがある。平成 21(2009)
年で県内に 40 の酒造メーカーがあり、経済産業省「工業統計」での主要産地別
清酒出荷量シェアでは、兵庫県、京都府、新潟県、愛知県に次ぐ全国 5 位とな
っている。また、秋田杉の産品もある。
秋田の名産品で全国 1 位のシェアをもつものとしては、じゅんさい(平成
20(2008)年:シェア 54%)、ハタハタ(平成 21(2009)年:27%)、漆器製家具(同
年:22%)、固定コンデンサ(同年:18%)、集成材(同年:同 12%)などがある。
また、秋田渥美工業(株)
(横手市)の「可変バルブの生産高」、DOWA セミコン
ダクター秋田(株)(秋田市)の「高純度ガリウムの生産高」は世界一のシェアを
持つ。日本一のシェアを持つものとしては、秋田市の秋田製錬(株)の「電気亜
鉛の生産高」、能代市の庄内鉄工(株)の「極薄スライス単板の生産高」などがあ
る。近年、輸出の伸びの大きいものとしては、秋田米、清酒、後述するが、電
子部品・デバイスなどがある。
なお、秋田といえば「秋田美人」で、京美人、博多美人と並び、「日本三大
美人」と称され、歌手の藤あや子は「食彩あきた応援大使」に、女優の加藤夏
133
希、タレントの佐々木希は「あきた美の国大使」に任命されている。
4.経済状況・産業動向
秋田県の人口は、平成 24(2012)年 1 月現在 109.8 万人(全国 38 位)と昭和
57(1982)年以降減少が続いており、東北 6 県で最下位となっている。
秋田県の平成 21(2009)年度の県内総生産(名目)(県内で生み出された付加価
値の合計額)は、3 兆 6,972 億円(全国 36 位)と日本全体の 0.78%の規模となって
いる。県内の実質経済成長率は、平成 13(2001)年度から平成 19(2007)年度まで
前年度比 7 年連続でプラス成長となった。平成 20(2008)年度は世界的な景気後
退を受けて対前年度比 4.5%減、平成 21(2009)年度は同 0.1%減と、2 年連続でマ
イナス成長となったものの、平成 22(2010)年度は 0.7%増と平成 19(2007)年以
来 3 年ぶりに増加に転じた。
平成 23(2011)年度は、平成 23(2011)年 3 月の東日本大震災が県内経済にマイ
ナスの影響を及ぼした。その一方で、東日本大震災で被災した太平洋側港湾の
代替港として秋田港のコンテナ取扱量が急増した。また、県内の港が自衛隊、
消防、警察などの救援活動に利用されたほか、発電所向け石炭・石油、仮設住
宅向け製材などの輸送基地となった。輸出を含む県外需要を示す財貨・サービ
スの移出の成長率は 0.7%増となる見込みであるが、内需の弱さから、平成
23(2011)年度の県内の実質経済成長率は 0.6%増にとどまる見込みである(秋田
魁新聞より)。
産業動向(平成 21(2009)年度名目)をみると、第 1 次産業(農業・林業・水産
業)は 1,098.2 億円(県全体のシェアは 2.9%)、第 2 次産業(鉱業、製造業、建
設業)は 8,011.6 億円(同 21.1%)、第 3 次産業(サービス業、運輸業など)は 2
兆 8,797.2 億円(同 76.0%)と第 3 次産業が 4 分の 3 強を占める。
一人当たり県民所得は 235.6 万円(全国 38 位)で日本全国の 266.0 万円の
88.6%にとどまる。しかしながら、秋田には昔から「秋田の着倒れ、食い倒れ」
という言葉があり、秋田の人は「贅沢」つまり消費性向が高いといわれている。
持ち家住宅率が全国 1 位、一人当たりの居住室の畳数は富山に次いで全国 2 位、
一住宅あたりの延べ面積が、富山、福井に次いで全国 3 位といった数値からも
そのことが窺える。
平成 22(2010)年時点での就業人口をみると、全体 50.3 万人で、第 1 次産業
就業者数は 5.0 万人、第 2 次産業就業者数は 12.5 万人、第 3 次産業就業者数は
32.9 万人で、それぞれ県全体の 9.9%、24.7%、65.3%を占める。海運業を含む運
輸業・通信業の就業人口は 2.1 万人。秋田県のリーディング産業は、かつての
農業、林業・木材産業、鉱業等から、電子部品・デバイス、輸送機械などの加
工組立型製造業やサービス業にシフトしてきている。
5.秋田と諸外国との外航貿易
134
平成 22(2010)年の秋田県内 5 港の輸出入貨物取扱量の合計は 495.5 万トン
(輸出 30.0 万トン、輸入 465.6 万トン)。トンベースでの輸出輸入比率は輸出
6%に対して輸入 94%となっており、輸入は輸出の 15.5 倍である。輸入の品目別
では、1 位が石炭(302.3 万トン)、2 位が木材チップ(54.7 万トン)、3 位が製材・
原木(38.7 万トン)、4 位が金属鉱(35.4 万トン)で、上位 4 品目の合計が輸入全
体の 92.6%を占める。輸入元ではオーストラリアが 204.2 万トンと輸入全体の
43.9%を占める。輸出の品目別では、1 位が紙・パルプ(8.0 万トン)、2 位が金
属くず(5.7 万トン)、3 位が窯業品(4.9 万トン)、4 位が非金属鉱物(4.7 万トン)、
5 位が再利用資材(1.6 万トン)で、上位 5 品目の合計が輸出全体の 83.3%を占め
る。輸出先では韓国が 17.2 万トンと輸出全体の 53.2%を占める。
<表 1> 平成 22 年:秋田県の主要港湾貨物取扱量
輸出品目
紙・パルプ
金属くず
窯業品
非金属鉱物
再利用資材
その他
輸入品目
石炭
木材チップ
金属鉱
製材
原木
その他
(単位:㌧、シェア:%)
299,856
100.0
80,090
26.7
79,914
(99.8)
176
(0.2)
56,540
18.9
24,720
(43.7)
17,720
(31.3)
2,300
(4.1)
11,800
(20.9)
49,392
16.5
49,392
(100.0)
47,411
15.8
27,010
(57.0)
11,566
(24.4)
8,835
(18.6)
16,206
5.4
16,206
(100.0)
50,217
16.7
合 計
品目計
(韓国)
(中国)
品目計
(中国)
(韓国)
(台湾)
(その他)
品目計
(韓国)
品目計
(フィリピン)
(台湾)
(韓国)
品目計
(韓国)
品目計
合 計
品目計
(オーストラリア)
(インドネシア)
(カナダ)
(その他)
品目計
(オーストラリア)
(エルサルバドル)
(南アフリカ)
(その他)
品目計
(チリ)
(アメリカ)
(メキシコ)
(その他)
品目計
(韓国)
(ロシア)
(中国)
品目計
(マレーシア)
(ロシア)
(ソロモン諸島)
(その他)
品目計
(出典)秋田県:港湾統計年報
135
4,655,582
100.0
3,022,712
64.9
1,670,034
(55.2)
1,198,778
(39.7)
78,404
(2.6)
75,496
(2.5)
547,440
11.8
372,276
(68.0)
90,915
(16.6)
40,979
(7.5)
43,270
(7.9)
353,531
7.6
122,841
(34.7)
88,621
(25.1)
61,181
(17.3)
80,888
(22.9)
249,070
5.3
140,768
(56.5)
108,257
(43.5)
45
(0.0)
137,784
3.0
60,546
(43.9)
56,361
(40.9)
7,877
(5.7)
13,000
(9.4)
345,045
7.4
( )内の数値は国・地域のシェア
また、平成 22(2010)年の秋田港、能代港など 5 港の入港船舶隻数の合計は 4,423
隻(外航 555 隻、内航 3,868 隻)と、平成 19(2007)年から平成 21(2009)年まで
の 3 年は漸減傾向にあったものの、外航、内航船舶ともに増加したことにより
4 年ぶりに増加した。また、入港船舶総トン数の合計も入港船舶数と同様の傾
向をたどり、4 年ぶりの増加となる 1,891 万トンであった(秋田県:港湾統計年
報、平成 22(2010)年)。
ここで、秋田県の国際化という観点から、空の国際定期便を紹介する。平成
13(2001)年 10 月から秋田・ソウル国際定期便が、秋田空港とソウル(仁川空港)
間で月・木・土の 3 往復/週が運航されており、平成 23(2011)年 10 月に就航 10
周年を迎え、この 10 年で約 32 万人が利用した。平成 22(2010)年は、秋田で韓
国ドラマ「IRIS(アイリス)」のロケが行われたこともあり、ロケ地巡りをす
る韓国からの観光客増で、搭乗数は対前年 28.5%増の 40,463 人と過去最高とな
った。そのうち、韓国人搭乗者数は 23,370 人(シェア 57.8%)、搭乗率は同 8.6
ポイント増の 72.4%であった。しかしながら、平成 23(2011)年は東日本大震災
の影響により、対前年比 19.4%減の 32,596 人と前年より 7,867 人減少となり、
搭乗率は同 6.0 ポイント減の 66.4%となった。
6.秋田港
秋田港には、平成 22(2010)年に外航商船
423 隻(3,514.9 千総トン)、内航商船 1,215
隻(2,391.7 千総トン)、内航フェリー503
隻(10,243.1 千総トン)、漁船 353 隻(8,880
総トン)ほか、合計で 2,691 隻(16,259.2
千総トン)が入港している(秋田県:港湾
統計年報 平成 22(2010)年、以下、貨物に
ついても同様)。
港湾取扱貨物量は 7,319.6 千トンであり、
そのうち輸出入貨物は 1,844.8 千トン(輸
出 247.3 千トン、輸入は 1,597.5 千トン)。
輸出の主要品目は、全輸出の 32.4%が紙・
パルプ(80.1 千トン)であり、21.4%が金属
くず(52.9 千トン)、19.2%が非金属鉱物
(47.4 千トン)。輸入の主要品目は、全輸入
の 34.3%が木材チップ(547.4 千トン)、
22.1%が金属鉱(353.5 千トン)、8.8%が製材
(出典)国土交通省 東北地方
(140.9 千トン)などとなっている。移出入貨
整備局秋田港湾事務所 HP
物は 5,474.8 千トン(移出 1,706.2 千トン、移
入 3,768.5 千トン)で、主たる移出貨物は、
全移出の 75.5%が「フェリー貨物」(1,288.4 千トン)、12.0%が化学薬品(204.2
<図 2>
秋田の港
136
千トン)。主たる移入貨物は、全移入の 37.7%が石油製品(1,419.7 千トン)、31.9%
が「フェリー貨物」(1,203.6 千トン)。
係留施設として、外港 1 号岸壁(最大係船能力:50,000DWT(載貨重量トン)、
水深:13m、長さ:270m)、外港 2 号岸壁(40,000DWT、水深:13m、長さ:260m)
ほか大小 26 のバースが整備されている。周辺には、東北電力(株)秋田火力発電
所、秋田製錬(株)などのエネルギー、非鉄金属企業や日本大昭和板紙(株)秋田
工場、秋田プライウッド(株)、新秋木工業(株)などの木材関連企業が立地し、
取扱貨物の特徴が見いだせる。
秋田港の歴史は古く、昔は「土崎港」と呼ばれていた。斉明天皇紀 4(658 年)
年、阿部比羅夫が越国から 180 艘の水軍を率いて蝦夷征伐のため、鍔田の浦(あ
きたのうら:現在の秋田港周辺)に着いたと『日本書紀』にある。その後、秋
田杉や米など秋田地方の特産品の移出港として、また北前船が往来する港とし
て栄えた。昭和 26(1951)年に重要港湾に指定され、近代港湾としての秋田港の
本格的な整備は、昭和 40(1965)年に秋田湾地区新産業都市の指定を受けてから
である。平成 7(1995)年に韓国定期コンテナ航路が開設され、平成 11(1999)年
には、新日本海フェリー(株)が敦賀~新潟~秋田~苫小牧航路を開設した。
(1)国際定期コンテナ航路
<図 3> 秋田港国際コンテナ取扱実績(実入り)の推移(1995~2011 年)
(TEU)
50,000
45,000
40,000
輸出
輸入
35,000
30,000
25,000
20,000
15,000
10,000
5,000
0
1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011
年
輸出
輸入
総計
対前年伸び率(%)
1995
206
140
346
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
2010
2011
1,778 3,404
2,966 4,249 4,988 4,713 5,817 5,975 6,178 6,048 6,537 8,594 9,869
9,018 12,133 16,377
4,935 7,467
6,577 11,513 13,668 15,848 17,220 18,452 19,961 21,149 24,830 22,981 20,859 17,569 22,430 29,566
6,713 10,871
9,543 15,762 18,656 20,561 23,037 24,427 26,139 27,197 31,367 31,575 30,728 26,587 34,563 45,943
1,840.2
61.9 ▲ 12.2
65.2
18.4
10.2
12.0
6.0
7.0
4.0
15.3
0.7 ▲ 2.7 ▲ 13.5
30.0
32.9
(出典)秋田県庁「秋田県の貿易について」などをもとに作成
国際定期コンテナ航路としては、秋田港と釜山港を結ぶ興亜海運(1 便/
週)、高麗海運(1 便/週)、南星海運(2 便/週)、長錦商船(1 便/週)の
4 社・5 便/週に加えて、秋田港と釜山・青島・大連航路は興亜海運と高麗海
運(協調配船)で 1 便/週のサービスがある。ある韓国船社によれば、秋田港
の地理的条件はよく、韓国・中国からの輸入貨物では、原木、製材、加工材
137
などの木材類の貨物が多く、韓国・中国への電子部品・機械部品の供給が今
後も期待できるとしている。
秋田港の国際コンテナ取扱実績(実入り)の推移は<図 3>のとおりで、平
成 8(1996)年は 6,713TEU(TEU=20 フィートコンテナ換算)だったものの、
平成 23(2011)年は 65,943TEU と平成 8(1996)年比で 6.8 倍以上に達した。ま
た、秋田港における主要コンテナ品目(トンベース)は<表 2>のとおり。コ
ンテナ取扱量の規模は、東北では仙台塩釜港に次いで 2 位、日本海側では新
潟港、伏木富山港に次いで 3 位に位置している。平成 23(2011)年 11 月には、
国土交通省による「日本海側拠点港・国際海上コンテナ」の 1 つに選定され
た。平成 24(2012)年 4 月 に は 、外港 2 号岸壁(水深 13m、長さ 260m)に横
13 列対応の 2 号ガントリークレーン 1 基を新たに設置した。
近年中国との貿易量が急速に拡大し、我が国の最大の貿易相手国は米国か
ら中国に代わり、秋田港の貨物取扱量も順調に増加している。また、ロシア
沿海州も、アジア太平洋との経済関係強化を目指す姿勢を明確にしており、
港湾、道路などのインフラ整備を図り、貿易機能強化を推進していることか
ら、ロシアとの貿易にも期待が高まっている。そこで、秋田港の優位性を高
める柱として推進されているのがシーアンドレール構想である。同構想は
<表 2> 秋田港における主要コンテナ取扱貨物 (2010 年)
品目名
総計
農水産品
(豆類)
林産品
(製材)
鉱産品
(石材)
金属機械工業品
(非鉄金属)
(自動車部品)
化学工業品
(石油製品)
(化学薬品)
(染料・塗料・合成樹脂他)
軽工業品
(紙・パルプ)
(製造食品)
雑工業品
(ゴム製品)
(木製品)
特殊品
(再利用資材)
その他
合計
シェア
390,578
6,851
(5,490)
150,294
(142,838)
6,353
(3,581)
28,984
(9,500)
(11,239)
43,362
(6,160)
(18,398)
(9,675)
86,413
(81,206)
(3,878)
44,559
(8,196)
(30,707)
23,760
(18,646)
2
1.8
(81.6)
38.5
(95.0)
1.6
(56.4)
7.4
(32.8)
(38.8)
11.1
(14.2)
(42.4)
(22.3)
22.1
(94.0)
(4.5)
11.4
(18.4)
(68.9)
6.1
(78.5)
輸出
143,611
601
(218)
2,159
(2,025)
1,491
(90)
21,319
(8,333)
(11,012)
13,027
(5,863)
(575)
(5,982)
80,564
(80,090)
(120)
6,300
(5,665)
(439)
18,150
(16,206)
0
シェア
0.4
(36.3)
1.5
(93.8)
1.0
(6.0)
14.8
(39.1)
(51.7)
9.1
(45.0)
(4.4)
(45.9)
56.1
(99.4)
(0.1)
4.4
(89.9)
(7.0)
12.6
(89.3)
単位:トン
輸入
246,967
6,250
(5,272)
148,135
(140,813)
4,862
(3,491)
7,665
(1,167)
(227)
30,335
(297)
(17,823)
(3,693)
5,849
(1,116)
(3,758)
38,259
(2,531)
(30,268)
5,610
(2,440)
2
シェア
2.5
(84.4)
60.0
(95.1)
2.0
(71.8)
3.1
(15.2)
(3.0)
12.3
(1.0)
(58.8)
(12.2)
2.4
(19.1)
(64.3)
15.5
(6.6)
(79.1)
2.3
(43.5)
( )品目内の数量、シェア
(出典)秋田県:港湾統計年報
138
同港をゲートウェイとする国際海上コンテナ貨物のシーアンドレール輸送
体系を構築するものである。具体的には、同港の港湾施設と鉄道が近接して
いる利点を生かし、同港とロシアのシベリア鉄道を利用して自動車部品など
を輸出する壮大な構想で、ロシア航路の開設を目指している。
秋田県では、平成 22(2010)年度から 4 年間における県政運営指針“ふる
さと秋田元気創造プラン”で、シーアンドレール構想の推進による物流ネッ
トワークの構築を目指すとしており、構想推進協議会(事務局:秋田商工会
議所)、構想インフラ整備検討会(同:秋田県港湾航空課)、構想ポートセー
ルス対策検討会(同:秋田県流通貿易課)、構想推進方策検討会(同:国土交
通省秋田港湾事務所)など官民一体、オール秋田で同構想の実現に向けて取
り組んでいる。しかしながら、キーとなるのは、ロシアの鉄道輸送の安定性
と運賃レベルであろう。
<図 4> 鉄道と海上輸送の所要日数比較
(出典)秋田市商工部港湾貿易振興課 HP
(2)国内フェリー
国内フェリー航路としては、本社が大阪市にある新日本海フェリー
(株)(昭和 44(1969)年設立)が、「フェリー しらかば」(全長:195.4m、総
トン数:20,563 トン、航海速力:22.7 ノット、旅客定員:926 名、車両積
載台数:266 台)、「フェリー あざれあ」(全長:195.4m、総トン数:20,564
トン、航海速力:22.7 ノット、旅客定員:926 名、車両積載台数:266 台)
の 2 隻で“新潟~秋田~苫小牧東港”、“敦賀~新潟~秋田~苫小牧東港”
を運航している。
横手市の「JA おものがわ」では、「平成の北前船」の活動の一環として、
12 年目を迎える平成 23(2011)年に、同フェリーを活用し関西方面へのスイ
139
カの出荷を始めており、県産農
作物輸送手段としてその動向 <図 5> 秋田ポートタワー・セリオ
が注目される。
ン:平成 6(1994)年 4 月オープンした秋
平成 17(2005)年の港湾貨物
田港に立つタワー。全高 143.6m。
量などの値を基に、付加価値
モデル及び産業連関モデルを
用いて、経済効果を三次波及
効果まで推計した調査がある。
その結果、秋田港利用による
秋田市への経済効果は、同市
総生産額の 37%(4,620 億円)
相当の効果、秋田市への雇用
効果は同市従業員数の 40%相
当の効果となっており、それ
ぞれ非常に高い数値となって
いる(「秋田県の港湾の経済効
果」:国土交通省東北地方整備
局秋田港湾事務所。以下、「秋
田港湾事務所資料」という)。
(出典)ポートタワー・セリオン提供
秋田港では、毎年 7 月の最
終土・日に開催される「海の
祭典」で海上保安庁の巡視船の体験航海、男鹿海洋高校の遠洋実習船「船
川丸」の一般公開などでにぎわいをみせる。(社)日本港湾協会発行の情報
誌「港湾」において、船川港が“ポート・オブ・ザ・イヤー2011”に選ば
れ、能代港も秋田港ともに特別賞を受賞した。東日本大震災で被災した太
平洋側港湾に代わって、緊急物資の供給や県内立地産業の原料・製品輸送
を行い、被災地域の復旧・復興に貢献したことが受賞理由である。
7.その他の港湾
(1)能代港
能代(のしろ)港には、平成 22(2010)年に外航商船 102 隻(1,919.5 千総ト
ン)、内航商船 182 隻(262.8 千総トン)など、合計で 287 隻(2,182.5 千総トン)
が入港している(秋田県:港湾統計年報、平成 22(2010)年、以下、貨物につ
いても同様)。港湾取扱貨物量は 3,418.2 千トンであり、そのうち輸出入貨物
は 3,058.5 千トン(輸出 52.4 千トン、輸入 3,006 千トン)。輸出の主要品目は、
全輸出の 93.0%が窯業品(48.8 千トン)であり、7.0%が金属くず(3.7 千トン)。
輸入の主要品目は、全輸入の 96.7%が石炭(2,907.7 千トン)で、2.2%の製材
(65.4 千トン)などとなっている。移出入貨物は 359.7 千トン(移出 162.3 千
トン、移入 197.3 千トン)で、主たる移出貨物は、全移出の 84.5%が窯業品
140
(137.1 千トン)で 11.2%が砂利・砂(18.2 千トン)。主たる移入貨物は、全
移入の 57.6%が砂利・砂(113.6 千トン)、29.3%が石灰石(57.9 千トン:同
29.3%)。係留施設として、大森岸壁(最大係船能力:40,000DWT、水深:13m、
延長:260m)など 5 バースと専用バースがある。
能代港は米代川河口に位置し、能代市をはじめとする背後地域は鉱産品、
林産品に富んでいる。昭和 56(1981)年に重要港湾に指定され、東北電力(株)
能代石炭火力発電所がある。また、平成 18(2006)年に国土交通省港湾局に
より、総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)に指定された。平成 23(2011)
年の国土交通省による日本海側拠点港の選定では、拠点化形成促進港(リサ
イクル貨物)に指定された。能代港利用による能代市への経済波及効果は、
同市総生産額の 38%(763 億円)相当で、雇用効果は同市従業員数の 28%相当
となっている(秋田港湾事務所資料による)。
(2)船川港 -“ポート・オブ・ザ・イヤー 2011”
船川港には、平成 22(2010)年に外航商船 29 隻(69.9 千総トン)、内航商船
227 隻(348.9 千総トン)、漁船 261 隻(14 千総トン)など、合計で 545 隻(443.9
千総トン)が入港している(秋田県:港湾統計年報、平成 22(2010)年、以下、
貨物についても同様)。
港湾取扱貨物量は 335.2 千トンであり、そのうち輸出入貨物は 52.1 千ト
ン(輸出 71 トン、輸入は 52.0 千トン)。輸入の主要品目は、全輸入の 82.0%
が ロシアからの製材(42.7 千トン)、13.0%が原木(6.8 千トン)などである。
移出入貨物は 283.1 千トン(移出 151.1 千トン、移入 131.9 千トン)で、主
たる移出貨物は、全移出の 75.7%が原油(114.4 千トン)、13.0%が化学薬品
(19.7 千トン)。主たる移入貨物は、全移入の 34.5%が廃土砂(45.6 千トン)、
22.6%が石灰石(29.8 千トン)、22.4%が石油製品(29.5 千トン)。
船川港に隣接する施設としては、石油安定供給を図ることを目的に、日本
で 6 番目となる石油備蓄基地がある。備蓄能力は約 450 万キロリットルで、
日本で 10 ヵ所ある国家備蓄基地(製品換算 4,773 万キロリットル、116 日分)
のうち約 9.4%を占め、国内石油消費量の約 10 日分を備蓄している。
男鹿市にある船川港は、男鹿半島南部に位置し、古くから「風待ち港・避
難港」として利用されてきた。船川港利用による男鹿市への経済波及効果は、
同市総生産額の 42%(362 億円)相当で、男鹿市への雇用効果は同市従業員数
の 42%相当という推計結果であった(秋田港湾事務所資料による)。
先にも述べたように、船川港は“ポート・オブ・ザ・イヤー2011”に選ば
れているが、平成 23(2011)年の築港 100 周年を契機に、客船、復元北前船の
寄港誘致などの各種イベント、港を活用した観光振興と賑わいの場づくりに
注力し、工業的性格の強い港からの脱皮に成功したことに加え、東日本大震
災に際して被災地域への海上輸送の窓口として復旧・復興に大きく貢献し、
「みなとの元気」を高めたことが受賞理由とされている。
141
8.港湾運送業
秋田港、船川港及び能代港の 3 港をすべてカバーする秋田海陸運送(株)は、
船川港及び秋田港の回漕業者 8 社の総意により秋田港湾運送(株)として昭和
17(1942)年に設立された。その歴史は、男鹿が生んだ英傑といわれる中川重春
の創立した船川とウラジオストック間に定期航路を開設した中川汽船にさかの
ぼる。現在の資本金は 1 億円で、従業員が 170 名。主な事業内容は、港湾運送
事業、倉庫業、国際コンテナ貨物集荷代理店業、貨物自動車運送事業などであ
る。主な荷主は、DOWA ホールディングス(株)、新秋木工業(株)、全農、日本大
昭和板紙(株)、秋田製錬(株)、三菱マテリアル(株)、秋田プライウッド(株)、
コープケミカル(株)、農林水産省などである。今後の事業展開する上で、同社
は日本で初めて中国から融雪剤を輸入したという経緯もあり、最重要地域は中
国と位置付けているようだ。また、秋田港の 8 割の海上貨物を取り扱っている
という実績もあり、県内外からの評価が高い。東日本大震災の際、同社は被災
した東北の太平洋側港湾の代替港としての秋田港において、被災地域向けの生
活・救援物資輸送など復旧・復興に尽力した。同社の売上の比率は、港湾運送
業は 36%、倉庫業が 18%、貨物運送業が 14%などとなっている。
秋田港及び能代港をカバーする能代運輸(株)は、昭和 25(1950)年の創立。現
在の資本金は 5 千万円で、従業員が 250 名。主な事業内容は、湾運送事業、貨
物自動車運送事業、産業廃棄物収集運搬業、倉庫業などである。主な荷主は、
東北電力(株)、東北発電工業(株)、東北ポートサービス(株)、丸紅(株)、ジャ
パン建材(株)、ハイテクウッド(株)、ニプロ(株)、太平洋セメント(株)、全農、
東北農政局などである。同社の特徴は、秋田杉の集荷・管理・物流等を一貫作
業としての事業展開を行っていることである。港湾運送業などの海事関連の売
上は全体の約 25%を占める。また、秋田港のみをカバーする日本通運(株)秋田
港支店がある。
9.曳船業・倉庫業・水先人・海事代理士
曳船業としては、秋田海陸運送(株)のグループ会社である秋田曳船(株)、東
北ポートサービス(株)、酒田曳船(株)などがある。
倉庫業では、秋田県倉庫協会が昭和 24(1949)年に設立され、秋田海陸運送
(株)、能代運輸(株)、横手運送(株)、本荘運輸倉庫(株)などの県内企業に加え、
全国規模で事業展開している日本通運(株)、全農物流(株)の秋田支店など 22
事業者で組織されている。
秋田船川水先区水先人会の所属パイロットは 3 名で、年間の水先隻数は 205
隻となっている。海事代理士では、日本海事代理士会東北支部の会員登録者は
2 名となっている。
142
10.海事関連の教育機関・船員関連
海事教育機関としては、水産系の秋田県立男鹿海洋高校がある。同校は、平
成 16(2004)年に秋田県立海洋技術高校(前身は船川水産高校)と普通科の秋田
県立男鹿高校が統合し、県内唯一の海洋科学科と海洋環境科をもつ高等学校で
ある。実習船は遠洋実習船の「船川丸」(定員:35 名、488 トン)、沿岸実習船
「眞山丸」(19 トン)の 2 隻を有する。主な就職先は、(株)新日本海サービス、
東京水産工業(株)、住友マリンエンジニアリング(株)、秋田プライウッド(株)、
海上保安庁、自衛隊などとなっている。
平成 22(2010)年 10 月1日現在、秋田運輸支局管内で雇用されている船員は
214 名で、内訳は汽船6名、漁船 157 名、その他 51 名となっている。ちなみに
東北運輸局管内では 5,776 名で、内訳は汽船 372 名、漁船 4,429 名、その他 975
名となっており、県別の内訳は、宮城県(2,482 名)、青森県(1,535 名)、福島県
(720 名)、岩手県(619 名)に次ぐ 5 番目で、山形県が 206 名となっている。
11.造船業・船舶修繕業
造船業・船舶修繕業の分野では唯一秋田造船鉄工(株)があり、同社の創立は
昭和 13(1938)年。資本金は 2 千万円、従業員が 20 名。設備は建造船台 200G/T、
修理船台 499G/T 各1台を有する。
12.水産業
秋田県の平成 20(2008)年の海面漁業・養殖業の漁獲量は 11,809 トン(全国 37
位:全国シェア 0.2%)で、魚種別ではハタハタ(2,938 トン)、ホッケ(818 トン)、
マアジ(760 トン)、カニ類(698 トン)、マダラ(649 トン)と続く。漁業の就
業世帯数は 4,450 で全国 35 位。漁業経営体は 966 と全国 31 位(全国シェア 0.8%)、
漁船数 1,334 隻と全国 32 位(同 0.7%)、海面漁業生産額は 4,267 百万円と全国
38 位(同 0.3%)となっている。
13.官公署(国土交通省関係)
秋田市に国土交通省東北運輸局秋田運輸支局、国土交通省東北地方整備局・
秋田港湾事務所があるほか、第二管区海上保安部の秋田海上保安部がある。同
保安部では、巡視船「でわ」、「しんざん」、「すぎかぜ」が配備され、また、37
基の灯台を保守・管理している
14.まとめ
米、秋田杉、金銀などを扱う北前船の寄港地として栄えた秋田県の海事産業
143
の輝きを現在感じることは難しい。海に面しているとはいえ、水産業の全国シ
ェアも全国 30 位程度である。こうした状況が、韓国、中国、ロシアとの貿易拡
大への期待に繋がっていると思われるが、フェリーや内航海運の活用にもっと
注目されてよいのではないか。一旦重い腰を上げると粘り抜くと言われる秋田
の県民性が海事産業の発展とどう結びつくかが興味深い。
144
【秋田県海事産業データ】
1,097,626 人(全国 38 位)、1万 1,636km2、
人口、面積、人口密度
94.3 人/km2 (平成 24(2012 年)1月現在)
就業者数
50.3 千人(平成 22(2010)年)
第 1 次産業:9.9%
第 2 次産業:24.7%
産業別就業者割合
第 3 次産業:65.3%
(平成 22(2010)年)
県内総生産
3 兆 6,972 億円(平成 21(2009)年)全国 36 位
港湾
5 港(うち重要港湾 3 港)
漁港
22 港
港湾運送事業者
3 事業者
倉庫事業者
22 事業者
内航海運事業者
5 事業者
船舶貸渡業者
1 事業者
フェリー事業者
1 事業者 2 航路、就航船舶は 2 隻。
平成 22(2010)年の輸送実績は
移出:26,226 人、トラック・乗用車等 21,179 台。
移入:49,775 人、トラック・乗用車等 24,668 台。
造船・修繕・舶用事業者 1 事業者:造船生産額 21 百万円(平成 21(2009)年)
船員数
214 名。
内訳は汽船6名、漁船 157 名、その他 51 名。
海事代理士
2 人(日本海事代理士会東北支部登録)
水先人
入港船舶数・総トン
3 人(秋田船川水先区水先人会所属)
外航(商船, その他):555 隻、5,506 千総トン
内航(商船、自航船、漁船、その他):
3,868 隻, 13,405 千総トン
合計:4,423 隻、18,910 千総トン(平成 22(2010)年)
産業別生産所得額
船舶・同修理 151 百万円
(全国 43 位)
水運
14,465 百万円 (全国 29 位)
漁業世帯数
4,450 世帯 (全国 35 位)
水揚げ量
126 百トン(内水面漁業・養殖業含む)(全国 38 位)
(出典)各種公表資料、HP 等を参考に作成
145
各県別 海事産業の経済学
平成 24(2012)年 6 月
発行
住所
TEL
FAX
E-mail
URL
公益財団法人 日本海事センター 企画研究部
〒102-0083 東京都千代田区麹町 4-5 海事センタービル 4F
03(3263)9421
03(3264)5565
planning-research@jpmac.or.jp
http://www.jpmac.or.jp