ヒュームと共和主義 ──『オシアナ共和国』の受容と修正から── 犬塚 元 本報告は、ヒュームの「完全な共和国」論におけるハリントンについての理解・受容・批判を明 らかにすることによって、第一に、ヒュームと共和主義との関連について、第二に、英国における共 和主義思想とその歴史的展開について、本シンポジウムの第二走者としての役割を意識しつつ、一つ の見取り図を描きだそうとするものである。この見取り図がむしろ、何らかの違和感を喚起するもの であるならば、問題提起という役割を果たしたことになろう。 1 ヒュームと共和主義の関連をめぐって ヒュームと共和主義思想の関連を明らかにするにあたっては、いくつかの方法が考えられる。第 一は、ヒューム自身が用いた 'republicanism' 概念を糸口とする方法であるが、これはヒュームの場 1 合、ほとんど手がかりとはならない 。第二は、'republic' 概念、すなわち政体論への着目である。こ れは、共和主義について、君主が存在しない政体たる共和政 (republic) を志向する政治思想として仮 定したうえで、ヒュームが共和政についていかに考えていたかを導きの糸とするアプローチである。 しかし18世紀において、英国の政治制度が時に「王のいる共和政」とも理解された──政体論のなか 2 に整理することが困難であった──ことに対応して 、共和政は、必ずしも君主の不在によって定義さ れたわけではない、伸縮性のある概念であった。ヒュームにおいてもその例外ではない3。つまり、政 体論に着目するアプローチは無効でないにせよ、いかなる意味における共和政が論じられているか個々 の文脈に細心の配慮が必要である。 第三に挙げられるのは、この三十年のあいだ最も一般的であったと考えられる方法であり、ここ において共和主義とは、現代の研究者が定式化した分析概念である。それは、18世紀の共和主義思想 について、商業や奢侈がもたらす腐敗を批判し、これに対して、古代世界に範を求めて公共精神たる 徳を対置した政治思想であると理解・定式したうえで、商業や奢侈をめぐるヒュームの認識に着目す る方法である。この解釈の枠組みは、18世紀英国における思想対立の基調を「富と徳」の二元的対立 4 とみなすものであり 、この二元的図式は一般に、近代と古代、商業と道徳、商業と政治、経済学と政 治学の対立に敷衍されて理解される。ここにおいて、商業や奢侈を擁護したヒュームは、前者の系譜 5 に位置付けられる近代派として描き出される 。 しかし、ヒュームと共和主義の関連を明らかにしようとする際にまずもって究明が必要なのは、 1 ヒュームは二回しか同概念を用いない。一つはピューリタンの政治思想を論じるなか、もう一つは ルソーを論じるなかでの用法である (History of England, 5/10, Letters, 1/367)。甥宛の有名な書簡に現れる 同概念は、編者による加筆である (Letters, 2/306)。 2 英国の制限君主政を混合政体と読み替えて共和政に準じて扱ったのは、いわゆるネオ・ハリントニ アンである。トマス・ゴードンは、アルジャノン・シドニーは 'republican' だから典拠とすべきではないとの批 判に対抗するために、英国を 'the best republick in the world, with a prince at the head of it' と描写した (Gordon and Trenchard [1720-23], 1/262)。王のいる共和政という理解については、18世紀について Venturi (1971), 63、より広い文脈で論じたものとして佐々木 (1999) を参照。18世紀において英国に描くにあたって広く 用いられたのは、'Free State' という規定を用いる方法や、'Commonwealth' の多義性を利用する方法であり、 これによって君主政か共和政かという点が曖昧にされた。なお註26も参照。 3 ヒュームは『論集』の「出版の自由」や「技芸と学問の形成・発展」などにおいて、共和政と君主 政の区分を前提にして議論を展開するが、後者においては「共和政」は「自由な政府」へと置換され、結果とし て「純粋な専制政」「文明化された君主政」「自由な政府」の三政体区分が導かれている (Essays: Rise and Progress, 115-125)。これは「原始契約」論文における、ペルシア・中国、フランス・スペイン、オランダ・英 国をそれぞれセットにした表現と対応しており (Essays: Original Contract, 470)、こうしたなかでは英国とオ ランダは同列に扱われるが、他方で、後述のように「完全な共和国」論文では、英国を共和政とは区別される意 味での君主政として描いている。 4 Hont and Ignatieff (1983). 5 ヒュームの議論を古典的共和主義に対する批判と捉える典型として Moore (1977)。 1 果たしてヒューム自身が自らの議論を共和主義批判として提示していたのか、換言すれば、自らとそ の論敵との対立を「富と徳」──商業社会擁護論と共和主義思想──の対立として定式していたか否 かという点である。端的に奢侈を正当化した「技芸の洗練」論文においてヒュームは、奢侈は「徳と 公共精神」を喪失させ自由を破壊すると主張する論者に対して、コモンウエルスマンでも共和主義者 でもなく「厳格な道徳論者(severe moralists)」との呼称を与えたうえで批判を加える (Essays: Refinement, 275)。そうした「厳格道徳の人間 (men of severe morals) は、最も無害な奢侈ですら 批判し、それを、政治的統治に付随する腐敗、無秩序、党派対立全ての原因であると表現する」 6 (269) 。ここでヒュームが批判しているのは、政治の諸問題が道徳的腐敗に由来するとみなして 「徳」の重要性を説く──つまり政治論を道徳論へと還元する──徳の政治学である。 ヒューム自身が抱いていた同時代の思想対立の見取り図、そしてヒュームと共和主義なるものと の関連を明らかにするためには、まずわれわれが「徳」と共和主義との観念連合から自由でなければ ならない。モンテスキューが、自らの論じた徳が「道徳的徳」あるいは「宗教的徳」と誤読されたこ 7 とをふまえて、わざわざ『法の精神』の前書きに註記を加筆したように 、18世紀において徳には多様 な含意があった。すなわち、腐敗を嘆き徳を称揚した18世紀の著述家を、全て共和主義者と解釈する ことにはほとんど意味がない。17-18世紀の英国において無視できないのは、キリスト教──特に 8 ピューリタニズム──の立場からの徳論との、緊張をはらんだ融合関係である 。ヒュームの同時代に おいて、「徳」をキリスト教的に理解したうえで「腐敗」を批判する政治論を展開した典型例として、 アングリカンの聖職者ジョン・ブラウン (1715-1766) を挙げることができるが、このブラウンなど ヒュームが「ウォーバートン派」(Letters, 1/249-250) と一括したアングリカン聖職者集団──他に ウィリアム・ウォーバートン (1698-1779)、リチャード・ハード (1720-1808) ら──こそは、キリ スト教信仰擁護の大義のもと、徹底してヒュームや理神論者を攻撃しつづけたグループであった。人 間の道徳的改善を訴え、これを政治問題の解決策とみなす徳の政治学に対するヒュームの批判は、一 9 つには、ウォーバートン派など聖職者の政治論に対するものであった可能性が高いのである 。 本報告で、ヒュームと共和主義との関連を明らかにするために採用する方法とは、イングランド 10 の共和主義思想を代表する一人であると今日において一般に理解され 、18世紀においてもそう考え られていたジェイムズ・ハリントンの思想を、ヒュームがいかに理解・受容・批判したかという点に 着目する方法である。つまり、ここでは、さしあたり共和主義とは何かという思想史解釈の枠組み・ 補助線に関する問題に厳密な回答を与えることを暫定的に棚上げにしたうえで、ハリントンの共和政 を志向した思想がいかに受容され読み替えられていったかという点から、共和主義思想の歴史的展開 を理解しようとするのである11。ここで専ら分析の対象とするのは、『オシアナ共和国』(1656) の政 6 同様の表現は『道徳原理論』にも見られる。「奢侈、すなわち、快楽や生活便宜品における洗練は、 政府におけるあらゆる腐敗の源であり、党派対立、騒乱、内乱、自由の完全な喪失の直接的原因であると長らく 考えられてきた。それ故に、奢侈は普遍的に悪徳とみなされ、あらゆる風刺家や厳格な道徳論者 (severe moralists) が非難の対象としてきた」(Morals, 2.2)。Manzer (1996), 347, n. 46 は、ヒュームが「厳格な道徳論 者」を批判する際に、共和主義者ではなく宗教家を念頭に置いていたと解釈している。 7 「この著作の最初の四巻を理解するためには、私が共和政における徳と呼んでいるものが、祖国へ の愛、すなわち平等への愛であることを理解しなければならない。それは、道徳的な徳でもキリスト教的な徳で もない。それは政治的な徳 である。・・・私は、新しい観念を得た。新しい言葉を見つけるか、古い言葉に新し い意味を与えるかしなければならなかったのである」(Montesquieu [1748], Avertissement de l'auteur). 8 17世紀について Worden (1991), 471-474, Worden (1994), さらに竹澤氏の今回の報告、18世紀 について Burtt (1992), chs. 2-3, Goldsmith (1994), esp. 207-210を参照。 9 ヒュームは「厳格な道徳論者」として誰を想定していたか決して明らかにしないが、それがウォー バートン派であったとするならば、彼が論敵の名を明らかにしなかった理由を推定するのは容易である。「簡単 にブラウン氏を論駁できることは疑いないが、このような連中と少しの論争もしまいと決意しているので、彼に 関心を払っているとは思われたくない」、「ウォーバートンやその取り巻きなどの低俗な連中と関わりになるの は恥ずべきことだ」 (Letters, 1/248-50)。Fieser (1995) によればウォーバートンがヒュームを批判すべき対象 として意識したのは 1749 年からであるが、ヒュームの「自伝」はこれに対応して、このころ「ウォーバートン 博士の罵倒」によって自分の著作が知られるようになってきたと回顧し、この時点で彼らを論争の相手にしない 決意をしたと記している (My Own Life, xxxvi-xxxvii, see also Letters, 1/186, 265-66, 310, 313-14, 2/ 244)。 10 但し、イングランド共和主義思想の歴史におけるハリントンの位置づけについては、画期とみるか 否かについて Pocock (1975), Fukuda (1997) と Peltonen (1995) とで解釈の相違があり、さらに竹澤 (2002) が示すように、同時代において果たして彼が典型であったかについても論争がある。 11 念のため付言すれば、ここで問題にしたいのは、ヒュームを共和主義者と呼ぶか否かという、いさ 2 治機構論をもとにして構想された、ヒュームの 'Idea of a Perfect Commonwealth' 論文 (1752) であ る12。共和主義と徳とを結びつける前提的想定をひとまず相対化する必要があるのは、まさにそうし た前提が、ハリントンとヒュームの関係を理解する妨げになるからである。ヒュームによる徳の政治 学に対する批判を共和主義批判と即断することによって、ヒュームの「完全な共和国」論は真剣な考 13 察に値しないと決めつけられてきたのである 。 2 オシアナ共和国と「完全な共和国」 ヒュームはまず、プラトンとトマス・モアを批判することで、自らの方法を鮮明に示している。 「人間の習俗の巨大な変革を想定する」政治制度案、つまり人間のあり方を直接的に変えることによっ て政治論を展開するアプローチ──徳の政治学と同じアプローチ──は、ここでもヒュームの採用す るところではない (PCW, 514)。ヒュームは、『オシアナ共和国』について、これとは別の系譜の政 治学とみなし「唯一価値のある共和国のモデル」とする。しかし、これに続いて『オシアナ』を検討 するヒュームは、ハリントンが強調したまさに三つの点に批判を浴びせるのである (514-516)。安定 性と永続性とを志向するオシアナ共和国は、共和国内部での政治対立を避けるための「平等な共和国」 案であった。ハリントンが、この共和国の最も基本的な法であると強調したのは、農地法 (Oceana, 100-14) と輪番制 (114-18) であり、彼はこの二つの基本法を前提にしたうえで、二院制の立法機構 を中核にすえた混合政体を構想している (118-73)。ヒュームが批判するのは、まさに、輪番制、農地 法、二院制のありかたの三点であった。ヒュームのこの両義的な態度こそ解釈されるべきである。批 判にもかかわらず、なぜオシアナを高く評価したのか、なぜオシアナを自らの案の土台にしたのか。 まず第三の批判点から検討しよう。 ハリントンは、二人の少女によるケーキの分割という有名な比喩──平等に分けるためには切る 人と選ぶ人をわけよ──をもちいて、「民衆的な政府」の立法過程において討議と決議を区分する必 要性を主張し、それぞれの権限を元老院と民会とに分け与えた (Oceana, 22-25)。この区分こそは、 ハリントンが 二院制を必要とみなした理由であり、彼によれば、「罪なき人間から構成されていない にもかかわらず」こうした優れた政治機構を維持したヴェネツィアが永続性を誇ったのとは反対に 14 、ローマ共和政はこの区分をないがしろにしたため崩壊した (29, 74, 154-155)。しかしオシアナの 二院制についてヒュームのみるところ、元老院が法案を討議して、その後に民会に提案してその決議 にゆだねることは、立法手続きそのものを開始する裁量が元老院に存在することと同義であり、つま りはオシアナは混合政体のプランでありながらも実は元老院の支配する政体である (PCW, 515516)。 ところが、ヒュームが批判したのはあくまでオシアナにおける二院制の制度化のありかたであり、 二院制立法機構そのものやそれを中核にした混合政体そのものについてはハリントンの構想を継承し ているのである。一院制の民衆議会からなる共和国は、混乱と党派対立に陥りやすい──ヒュームは この問題意識をハリントンと共有し、政治機構論による解決そのものの正しさを承認する。「全ての さか不毛な論点ではない。仮にハリントンの思想を共和主義思想と規定し、ヒュームがハリントンの影響を受け ていたとしても、それは、共和主義思想の歴史的変遷のひとつの物語として理解されるべきである。(マルクス主 義についてと同じように) 共和主義思想の系譜・歴史的展開を探る作業は、共和主義者を列挙する作業と同じで はない。 12 ハリントンがヒュームに与えた影響としてはそのほかに、よく知られているように、歴史認識にお けるそれがある。しかしながら強調されるべきは、権力バランスは所有バランスに従うという歴史変動論におけ る影響ではなく (ハリントンにおいて政体変動論であったこの所説は、混合政体の均衡論へと修正されたうえで 18世紀においては極めて一般に人口に膾炙していた)、'civil society' ではありえないとする封建国制の理解にお ける影響である。この点について犬塚 (2002c)。 13 「完全な共和国」論に関するこれまでの主要な解釈とその難点について犬塚 (2002b)。壽里 (2002) は「完全な共和国」論を単なる風刺とみなす解釈を批判する。 14 「経験に従えば、ヴェネツィアこそが、われわれがそこにいくつかの欠陥を見いだしているにもか かわらず、[政治制度の] 構成のなかに解体の原因を見いだしえない唯一の共和国である。それゆえに、千年もの 歴史を背負いながらも、今日、ヴェネツィアが (罪なき人間から構成されていないにもかからず)、生まれたとき と同じように若く、新鮮で、衰退やその兆候から免れた国内の諸要因をそなえていることをわれわれは見るの だ。・・・正しく構築された共和国は、その国内の諸要因にもとづいて、世界と同じように、不死もしくは長命 でありうる」 (Oceana, 218)。 3 自由な政府は、少数者と多数者の、別言すれば、元老院と民衆 [民会] という二つの会議から構成され ねばならない。ハリントンがいうように、元老院がなければ民衆は知恵を欠き、元老院は民衆がなけ 15 れば誠実さを欠くであろう」(PCW, 522-523, cf. Oceana, 22-25) 。ヒュームの見るところ、ハリン トンは、問題の所在を正確に捉えているとともに、二院制という政治機構の構築によって問題を解決 しよう──利己的たらざるをえない人間を共存させるために、ケーキの切る人と選ぶ人を分けるがご とく、政治機構の巧みな整備で対処しよう──とする点で正しかった。しかし、ハリントンは適切な 二院制を提示することに失敗した。それは、討議と決議の区分にこだわったからであった。ハリント ンが認識したように民衆を民会に多数集めて討議させることは、無秩序を生むだけであるが、しかし だからといって、討議と決議を区別して民衆から前者を奪うことは誤りである。「民衆が討議すれば 全ては混乱し、討論しなければ決議できるのみで元老院が勝手に振る舞う」──民衆が討議してもし なくても不具合が生じるようにみえるが、このアポリアは「全くもって簡単に解決できる」(PCW, 16 523)。ここでヒュームは、共和国が州の連合として構成されていることに着目した 。混合政体の民 主政的部分たる民会の構成においてヒュームはハリントンのモデルから外れ、民会を中央に一元化す るのでなく、百の州議会に分割する──法案の賛否を州議会ごとに討議・決議させ、各州の賛否を積 17 算して最終決議とする──ことで、民衆が安全に討議を行うことを可能とする政治機構とした 。つ まり、ヒュームは、二院制政治機構そのものをハリントンから引き継ぎつつも、オシアナの二院制の 18 難点を、さらなる政治機構の工夫で修正しようとしたのである 。 他方で、オシアナに対するヒュームの第一・第二の批判──輪番制は能力の違いを捨象してしま う、農地法は実現不可能である──は、オシアナが国内の党派対立の発生をその根元から廃絶するた めの、つまり党派対立の生じようのない「平等な共和国」を目指していることを批判するものであっ た。ここには二人の、党派対立についての認識の相違が反映している。ハリントンは、党派対立をう みだす諸原因を制度的に除去しようとしたが、ヒュームは党派対立に関してはそのような対処が可能 だとは考えていなかった。ヒュームのみるところ、人間はそもそも本性からして党派的に対立しがち 19 な存在であり 、混合的な政治機構を備える「自由な政府」においては党派対立はなおさら避けがた く20、「われわれの混合政府」である英国国制においても事情は同様である21。しかしながら、ハリン 15 J. S. ミルが二院制議会の必要性に懐疑的であったことはよく知られているが (Mill [1861], ch. 13)、彼は二院制の原理をむしろ、立法専門委員会と議会との関係──より一般に、少数の知的エリートと多数の 代表者との関係──として読み替えていた。「委員会は彼らのおこなう法案作成において知性の要素を体現する だけであり、議会が意志の要素を代表するであろう」。ミルはこの議論のなか、英国に立法専門委員会を導入す るために、既存の貴族院を活用すべきと論じている (279-281 (ch. 5))。 16 オシアナにおいても、「完全な共和国」においても、最小の集団単位である教区から、上位の集団 に代表を送るための選挙が段階的に積み重ねられて、最終的に二院制立法機構の議員が選出される (さらにその うちの元老院から諸政務官が選出される) メカニズムは共通している。ヒュームは共和国のこうした重層構造を 連邦制と読み替えるとともに、これを、二院制立法機構のなかに組み込んだのである。ヒュームが自らの案をオ ランダになぞらえたことはよく知られているが (PCW, 526)、モンテスキューやフェデラリストと同様に、 ヒュームにとっても連邦制や連邦共和国は近代世界の産物ではなく、むしろ古代世界にその観察素材をみいだせ るものであった (Essays: Rise and Progress, 119-121, Essays: Populousness, 401, 421, cf. Montesquieu [1748], 9.1-9.3, Madison, Hamilton and Jay [1787-1788], No. 9, Chinard (1940))。したがって、<連邦制を 採用することで近代の共和政はサイズをめぐる難点を克服した>という言明が正しいにせよ、<古代世界を観察 の素材にしながら>という修飾節が付随する。なお、共和国の規模という点に関連して代表制についても触れて おくべきであろう。すでにオシアナにおいて代表制が採用されているのだが、ハリントンは代表制について正面 から論じようとはしない (ハリントンはローマ民会を代表制議会と解釈する。ヒュームやモンテスキューの理解 と対比せよ)。代表制は、立憲主義などと同様に、中世等族国家の産物であって機能転換したうえで近代世界に継 承されたと理解されるのが一般的であるが (「代議政体なき代表制度」を論じたミルはこうした歴史理解である。 Mill [1861], 263, 265-266)、共和主義思想がいかに代表制の観念を受容したかは今後の研究が待たれる点である。 17 「民衆を多くの別々の集団に分割せよ。そうすれば、彼らは安全に討議するだろうし、全ての不具 合は阻止されるであろう」(PCW, 522-523)。 18 ヒュームはこれとは別に、立法過程において元老院の拒否権を乗り越えるための諸規定も加えてい る (PCW, 517, 520)。 19 「人間は、人的な要因に基づく党派へと分裂していく傾向を備えており、実質的な要因にもとづく 対立がわずかでも明らかになると人的な要因に基づく党派対立が生み出されるが」、たとえ対立の原因とされた 実質的な要因がなくなろうとも「その違いが消滅した後でさえ政党対立は続いていく」(Essays: Parties, 5658)。 20 「貴族と民衆のような二つの階層が、政府において別個の権力を持っており、それが厳密に均衡す るように設計されていない場合には、各々は自然と別個の利害に従って行動するであろう。人間本性に植え込ま 4 トンとは対照的に、党派対立は必ずしも不具合ばかりをもたらすのではない、ヒュームはそう考える のである。「コートとカントリの両政党の対立は、それ以後続いているが、これは、しばしば統治の 全面的崩壊の脅威をもたらしたが、統治の永続的な生命と活力の真の原因である」(History of England, 5/556)。ここには、党派対立に対するヒュームの両義的な態度が明確である。党派対立が、 敵対者の生命や財産を奪うような形態、あるいは政治社会そのものを破壊する形態のものへと変貌し 22 ないのであれば、対立のもつ動態性は積極的に評価することができる 。すなわち、「政党の区分全 てを除去することは、自由な政府においては、不可能であるであろうし、おそらくは望ましくないで あろう」(Essays: Coalition, 493-494)。したがって、ヒュームにとって課題は、党派対立が、古代世 界や一世紀前のイングランドに見られたように、残虐な対立へと転化して内乱を招来し政治社会その ものを破壊することを避けることである。 この「完全な共和国」論において、そのための政治機構論からのアプローチが「競争者の会議 (the court of competitors)」の制度構想であり、ここにおいてヒュームはハリントンから決定的に離 反した。これは、党派対立を政治機構そのもののなかに組み込み体制内化することを通じて、その破 壊性を除去すると同時に、対立という契機のもつ利点を活用するための構想であった。州議会で行わ れる元老院議員の選挙において、1/3 以上の得票を得ながらも次点で落選した州議会議員は (さらに 元老院で弾劾され失職した元老院議員は)、その一年の任期中、一切の公職につくことはできないが、 共和国中央において「競争者の会議」を構成する (PCW, 519)。ヒュームは、中央の元老院と地方の 州との間に生じうる対立、あるいは元老院内部の党派対立を排除して、政治対立の分断線を元老院と 「競争者の会議」との間に移す形で、対立に制度的表現を与えようとしている。その会議は、会計検 査する権限と、元老院に対して弾劾を提起する権限をもち、ここに対立と競争のもつ均衡と監視とい 23 う利点が活用される (519) 。すなわちヒュームは、党派対立の発生防止ではなくその存在を前提とし たうえでの飼い慣らしと活用とをめざし、それを政治機構の工夫によって達成しようとしたのである。 ヒュームがオシアナ共和国案を「完全な共和国」案の出発点としたのは、オシアナこそが、「民 衆的な政府」における問題──内部の党派対立と混乱──を的確に捉え、さらに、そうした問題に対 して政治機構論によって解答を試みたものだったからである。ヒュームにとってハリントンは、巧み な政治機構の整備を通じて、利己的たらざるをえない人間が共存する方法を模索した先達であった。 ヒュームはハリントンを、徳の政治学を論じた人物としては捉えていない。ハリントンに対する批判 は、彼が徳を掲げたからではなく、オシアナの具体的機構設計──その二院制のあり方や農地法や輪 番制──の妥当性に対する疑念ゆえであった。ヒュームが「完全な共和国」論文において前提にして いた二つの議論の系譜とは、「富と徳」──商業社会論と徳の政治学たる共和主義思想──ではなく れた利己性の程度を考えるならば、そうならないことをまともに期待することはできない。そこで、このような 政党対立を防ぐためには、立法者の絶大な手腕が必要だということになる。多くの学者は、そのような秘訣は万 能薬や永久運動のように、理論において人間を楽しませるが、実行にはおそらくは移しえないとの意見である」 (Essays: Parties, 59, cf. 55-56, History of England, 6/153, Letters, 2/306-307)。 21 「われわれの国制のまさに本性のなかに内包されている、原理に基づく政党対立が存在する。この 政党は、適切にも、コート政党、カントリ政党と呼ばれている」(Essays: Parties GB, 65, see also History of England, 6/375-376)。 22 ヒュームは、彼が批判的に描くイングランドの 17 世紀史においてすら、党派対立のもつ効用を見 いだそうとしている。確かに、スチュアート朝における対立は「あまりに暴力的」であり、ヒュームが容認しう る種類の党派対立ではなかったが、「あまりに安定して不変の政府は、ほとんど自由でないのと同じように、あ る人の判断によれば、もう一つの大きな欠陥を伴っている。そうした政府は人間の活動的な諸力を弱め、勇気や 創意や才能を抑圧し、民衆の中にひろく無気力を生み出す」(History of England, 6/530-531)。党派対立その ものの効用を論じるにあたって、18世紀英国で広く引証されたのは、マキアヴェッリの『リヴィウス論』におけ るローマ解釈──共和政ローマでは貴族と平民が対立していたからこそ自由と栄光 (版図拡大) がもたらされた─ ─である。オシアナの中心テーマのひとつは、このマキアヴェッリのローマ解釈に対する批判であったが (Oceana, 33, 37-38, 149-163)、18世紀においてハリントンの後継を自認する人々 (ネオ・ハリントニアン) です らこのマキアヴェッリの解釈をひろく受容していた (犬塚 (2002a))。ヒュームはマキアヴェッリの『リヴィウス 論』を「確実に、偉大な判断力と天才の作品」と評価している (Essays: Balance of Power, 634)。なお、ミル が「対立の機能」を積極的に活用しようとしていたことも指摘しておきたい (Mill [1861], 291, 315)。 23 「英国の政府を中心的に支えているのは、利害の対立である。しかし、利害の対立は、基本的には 役に立つものではあるが、終わりなき党派対立をも生み出してしまう。ここで示したプランにおいては、利害の 対立はいかなる害悪も生み出すことなく、良い側面を全ての発揮する。競争者 [の会議] は元老院をコントロール する権力はもたない。彼らはただ、告発し、民衆に訴えかける権力をもっているだけである」(PCW, 525)。 5 24 、人間の変革をまず目指す徳の政治学と、政治機構の整備を方法とする政治機構論の政治学の二つ であり、ヒュームは自らの構想を後者の系譜の延長線上に位置付けたのである。そして、こうした政 治機構論の政治学は、「完全な共和国」論にとどまらず、ヒュームが政治を論じる際に依拠した主要 25 なツールであった 。 3 共和主義を理解するための一つの視座 モンテスキューが「君主政」の卓越性を論証するために用いたのは、「専制政」との対比におい てはヨーロッパ対アジアという地域論的対比であり、「共和政」との対比においては近代対古代とい う時代論的対比であった。すなわち、モンテスキューは「君主政」を称揚するために、近代ヨーロッ パ世界においては「共和政」を維持するための社会的条件はないと主張した。そして、人間の精神た る「原理」──「政体を動かす人間の情念」(Montesquieu [1748], 3.1) ──に焦点をあてて政体論 を展開する彼は、共和政の原理を「徳」と規定することによってこの主張の論拠とした。「徳」とは 公共に対する自己犠牲の精神であり、その維持のためには固有の社会的条件──政治社会のサイズが 小さく、所有が平等で、奢侈が禁止されること──が必要である、よって近代世界では無理である、 というのである (4.6-4.7, 5.5-5.6, 8.16)。モンテスキューのこの定式は、そののちの、共和政や共和 主義についての理解に大きな影響を及ぼすものであったが、今日なすべきは彼の定義を鵜呑みにする ことではなく、彼の定義・解釈を歴史的に適切に位置付け、その定義の特色・意味を明らかにするこ とである。 そもそも、モンテスキューが共和政の条件とみなしたものの多くは、ハリントンにとってはそう ではなかった。「拡大する共和国」でありさらに商業も推進するオシアナは、閉鎖的な小さき共和国 24 「完全な共和国」論には、商業と徳、あるいは商業と政治の関連という問題設定が全く欠けている。 「完全な共和国」の執行機関のなかには「交易委員会」が存在するが、これはオシアナからのそのままの継承で ある (PCW, 518-519, Oceana, 122-123, 125-130)。そもそもハリントンが反商業的であるという想定自体が疑 わしい (cf. Oceana, 102-114)。 25 ヒュームは、この「完全な共和国」論文後半において、英国を自らの示した「完全な共和国」モデ ルに近づけ「制限君主政の最も完全なモデル」にするための提案を行っている (PCW, 526-527)。それは、君主 を廃する提案ではなかったが、貴族院改革によって、英国の三元的混合国制を可能な限り元老院・民会の二院制 モデルに近づけようとしたものであった。たしかにヒュームは君主という不確定要素が存在する君主政は共和政 に比べて劣ると考えていたが (Essays: Parliament, 46, PCW, 526-27)、以上の議論が示すのは、ヒュームが、 二院制の政治機構に焦点を合わせることによって、「完全な共和国」と英国の「制限君主政」とを同一の地平で 連続的に論じていたことである。 ヒュームが政治機構論の政治学の手法を主として用いるのは、英国の混合政体の分析においてである。「議 会の独立」論文は、何をもって、継承すべき政治学の伝統的な議論とみなすかという点から議論が開始される。 人間の善性を決して議論の出発点としてはならないとする政治機構論の政治学こそが、ヒュームが継承しようと する政治学の伝統である。「政治学者たちは、次の点を格率として確立してきた。すなわち、いかなる種類であ れ統治の制度を設計する際、そして、国制における抑制とコントロールを定めようとする際には、個々の人間に ついては、悪人として想定すべきである。つまり、全ての活動において、私的な利益以外の目的を持たない存在 として想定すべきである。このような個々人の私的な利益を通じて、われわれは彼らを統治しなければならない のである。そして、人間が飽くなき欲望と野心をもつ存在であるにもかかわらず、われわれはこの私的な利益を 手段として用いることによって、彼らを、公共善と協調するようにしなければならない ──これが政治学者が格 率としてきた点である。彼らによれば、この格率に従わないのならば、いかなる国制の利点を誇ることも無意味 であり、結局は、統治者の善意を除いては自由や所有に保障を欠く──つまりは全くの保障を欠く──ことにな るのである」(Essays: Parliament, 42)。ヒュームは、特に混合政体に限定して、同様の観点を繰り返す。「政治 権力が複数の会議や階層に分配されるような政府案について、実際のものであれ空想のものであれ、これを検討 し吟味する場合は、それぞれの会議や階層の個別的利益を考察すべきである。権力の巧みな分割によって、こう した個別的利益が、その作用において必然的に公共の利益と一致するにちがいないならば、われわれは、その政 府を賢明で幸福なものと見なすことができる。反対に、個別的利益が制限されず、公共の利益に向けられること がなければ、そのような政府からは、党派対立、無秩序、暴政しか期待することはできない」(43)。 ここで、ヒュームの政治学全体における政治機構論の政治学の位置づけについて、ごく簡単に触れておくべ きであろう。『イングランド史』における歴史叙述は、第一段階として、権力の一元化によって生命・財産の保 障を達成したヨーロッパ絶対君主政 (「文明化された君主政」) の確立、第二段階として、権力の分割によって civil liberty (国制の自由) を達成した混合政体の確立を描き出すものであったが (この二段階は「統治の起源」論 文に明瞭に示された authority と liberty の二元論に対応している) 、この二段階の歴史図式に対応する形で、彼 は、自然法学の議論と、混合政体論・政治機構論の議論とを接合しているのである。換言するならば、自然法学 との関連のみにおいてヒュームの政治学を理解するならば、混合政体についての彼の議論を説明することができ ない。以上について犬塚 (2002c) で論証したが、このうち『イングランド史』の解釈については犬塚 (2002d) で もごく簡単に示唆した。 6 ではない。なるほど、党派対立を避けるがためオシアナは輪番制・農地法を備えた「平等な共和国」 であったが、オシアナを発展させたヒュームの「完全な共和国」においてはこの平等性すらも共和国 の必要条件ではなくなった。すなわち、「完全な共和国」案は、モンテスキューが共和政に必要とし た条件をことごとく乗り越えているのである。人間の精神たる「原理」に着目するモンテスキューと、 「原理」には全く関心を寄せず政治機構に着目するヒュームは、ほぼ同時期に対極に位置する共和政 26 理解を示したのである 。 以上のような、一方でモンテスキュー、他方でハリントンやヒュームにみられる、徳か政治機構 かという強調点の異なる二つの共和政理解を、もし仮に──ヒューム自身の議論の見取り図からは離 れて──共和主義思想の二つの相異なる現れ方・歴史的展開であると理解するとすれば、ここにおい て指摘されるべきは、両者が共通に議論の素材とした政治経験・政治社会の存在である。それこそロー 27 マ共和政であった 。すなわち、(少なくとも18世紀に至るまで) 共和政をいかに理解するかという問 題は、ローマ共和政やその歴史をいかに理解するかという問題と不可分であったのである。奢侈を正 当化しようとするヒュームは、「技芸の洗練」論文において、奢侈のある社会こそが恒常的な公共精 神を陶冶できるとの──すなわち奢侈と公共精神喪失との連関を切断する──原理的な主張に加えて 28 (Essays: Refinement, 274-275) 、ローマ史解釈に踏み込み、奢侈こそが徳を失わせ共和政崩壊を招 いたという「厳格な道徳論者」の解釈の反駁をおこなう。ローマを滅ぼしたのは、奢侈ではなく「悪 しく形作られた政府」であるというのがヒュームの解釈であり、ハリントンと同様に、ヒュームにとっ てローマ共和政は不完全な政治機構の失敗を学ぶことができる事例であった (Essays: Refinement, 29 275-276) 。ヒュームも指摘するように (Essays: Balance of Power, 335, Morals, A Dialogue, 333)、18世紀英国では、自らの政治社会を共和政ローマになぞらえ、ローマ史解釈を通じて自国の政 30 治を論じることが広く行われていた 。奢侈論にせよ「完全な共和国」論にせよヒュームの議論は、 同時代に広くみられた解釈とは別様のローマ史解釈のうえに成り立っていたのである。 歴史家に課せられた禁欲をここでしばし脱ぎ去ることが許されるならば、こうしてみてみると、 初期近代ヨーロッパにおける共和主義思想の多様な展開を理解するにあたって、<共和政ローマに学 ぼうとする思想群>として緩やかに (非排他的・非包括的に) 規定を与えることで、この政治思想の一 側面を浮き彫りにしうるとは言えないであろうか。英国において共和政を論じるにあたって、必ずし も君主がいる政体かいない政体かという論点が重視されなかった──つまり王のいる共和政を論じる ことが可能であった──のは、一つには、共和政ローマが範例の地位を占め、その政治制度がポリビ オス以来、コンスル・元老院・民会という君主政的部分・貴族政的部分・民主政的部分からなる混合 26 モンテスキューの共和政定義の歴史的位置を理解するためには、1762年のルソーによる批判も参照 すべきである。モンテスキューは主権と政府を区別しなかったため共和政と民主政を混同しており、民主政を特 色づける徳によって共和政を定義するのは誤りである、というのがルソーの主張である。人民全体が人民全体に 対して制定する法が支配する国家に対して、ルソーは「共和政」の名を与える。つまり、政府の形態がたとえ「君 主政」であろうとも、法の支配する国家であるならば「そのときには、君主政そのものが共和政である」 (Rousseau [1762], 2.6, 3.1, 3.4)。 27 リヴィウス、マキアヴェッリ、ハリントンを検討する福田 (2002) は、共和政ローマが政治学史に 残した二つの遺産 imperium と provocatio のうち、前者に関心を寄せて、ordini を通じて imperium を支える とする発想方法を採る議論の系譜を共和主義と規定する。これは、本稿が政治機構論の政治学と呼ぶものと近似 する。 28 もし「富と徳」という枠組みを仮に用いるとすれば、ヒュームにとって自らの議論はいわば「富も 徳も」もしくは「富こそ徳へ」と呼びうるものであった。この議論に見られるように、ヒュームは徳論・道徳論 を無視したわけではない。ヒュームが批判するのは、政治論を徳論・道徳論に専ら還元してしまう発想方法であっ た (次註も参照)。 29 ハリントンはローマを「不平等な共和国」と解釈した (Oceana, 33, 154-55)。確かにローマの崩壊 過程では「奢侈」が広まったが、これは政治制度の「不平等」がもたらしたものである (43, 61)。ヒュームは、 ローマ共和政では不完全な制度化ゆえに混合政体が崩壊し、そののちに「代表制なき民主政」に陥ったと捉えて いる (Essays: Politics a Science, 16, 24-26, Essays: Customs, 370-373, History of England, 5/573)。 ヒュームによれば、ローマ共和政が優れた政治機構を維持するあいだはそれゆえに公共精神が陶冶されていたの であり (Essays: Politics a Science, 25-26)、ここにおいてヒュームは徳論・道徳論を政治機構論のなかに組み込 んで議論を組み立てている。 30 道徳的腐敗を崩壊原因とみなすローマ史解釈は、例えばボリングブルックやエドワード・モンタ ギューが展開している。18世紀英国におけるローマ史解釈ならびに研究文献について犬塚 (2002a), (2002c) を参 照。 7 政体と理解されてきたため、共和政のなかに君主という契機を取り込む余地があったからではないか。 もちろん、共和政を論じるにあたって引照された歴史素材はローマ共和政に限られない31。しか しながら敢えてローマに焦点を合わせることによって、共和主義思想の歴史的展開あるいは思想家毎 の相違を明らかにすることができるのである。例えば、古代イスラエルをもローマ共和政と同列にモ 32 デルとみなしたハリントンと 、『旧約聖書』のヘブライ史を歴史書とみなすことを拒否しイスラエ ルを決して政治を論じる素材とはしなかったヒュームとの異同はここにおいて明らかである33。 そして何よりも、ローマ共和政の範例的地位に焦点を合わせることによってこそ、18世紀後半か ら19世紀にかけて生じたと考えられる政治思想・社会思想の質的・方法的転換を浮き彫りにできるの である。共和主義が civic humanism ともパラフレーズしうるものであるとすれば、その時代に生じ たのは、初期近代の共和主義が前提としてきた人文主義的方法・意識の転換であり変質であり、これ は共和主義思想そのものの新たな展開を導いた。範例が共和政ローマからギリシア──スパルタでは 34 なく民主政アテナイ──へと移行していったのはその一例であろう 。例えば、『代議政体論』にお いて J. S. ミルは、人々の徳を陶冶しうる政治機構の必要性を説いて政治参加の意義を強調するが35、 そのなかで彼が引照するのはアテナイの政治経験であった (Mill [1861], 253-256 (ch. 3), see also 36 327-329, 412-413) 。ミルにおいては、共和政ではなく民主政こそが論ずべきテーマとなり、ハリ ントンもヒュームも──'popular government' を論じたにもかかわらず──さほど強調しなかった 37 政治参加とその効用という契機が非常に強調されるに至ったのである 。 思想史学における共和主義思想の発掘は、リベラリズム批判と連動してきた。このなかで、不幸 して、議論が公と私の二元論を援用して整理され、共和主義思想は私的関心への埋没を批判する議論 として、例えば「国民の道徳」論 (あるいは、civic nationalism 論や、「社会の形成に主体的に参画 する『公共』の精神、道徳心、自律心の涵養」を掲げる中教審の教育基本法改訂答申(2003 年 3 月)) などネオ・ナショナリズムと呼びうる主張のなかでも援用され主張されてきた38。公共精神そのもの 31 重要なのはスパルタとヴェネツィアである。前者の解釈史について Rawson (1969)、後者について は Fink (1945), ch. 2, Wootton (1994) などを参照。 32 旧約聖書やローマ共和政に依拠することで、共和主義は家父長制との接点を持っていた。さしあた り Oceana, 23-24, 80, Montesquieu [1748], 5.7 を参照。 33 Essays: Populousness, 422, 426。ボリングブルックも『旧約聖書』を歴史書として扱うことを批 判している (Bolingbroke [1752], 1/83-116)。cf. Mill [1861], 235-236, Kidd (1999), chs. 2-3. 34 ジョン・ミルトンなど一部の例外を除き、アテナイは紀元前から18世紀にいたるまで一貫して批判 の対象であり、ヴィンケルマンやジョージ・グロートに至ってようやく評価が転換した (Roberts (1994))。高田 (1996) も指摘するように、日本がヨーロッパの学問に本格的に接触したのはすでにローマよりもギリシアが高く 評価されるに至った時代であり、殊に、ギリシアに傾倒したドイツ哲学 (例えばヘーゲルやニーチェもそうであ る) が盛んに受容されたことが、日本における古代理解を大きく規定していることには自覚的であるべきである。 35 ハリントンやヒュームと比したときミルが「徳」の重要性をより強調していることは明らかだが、 ミルもまた、徳論をあくまで政治機構論を通じて論じていることには注意すべきである。ミルによれば、よき政 府の第一の構成要素は「共同体を構成する人間の徳と知性」であるから、「いかなる政治機構についても第一に 問われるべきは、それが共同体のメンバーのなかにどのくらい、種々の望ましい道徳的・知的資質を陶冶できる かである」(なお第二に問われるべきは、既存のリソース──その中心は知的エリートの知性・徳──をいかに最 大限活用できるかである)。こうした基準に照らしたとき代議政体こそが「理想的に最善の政体」であるというの がミルの主張である (Mill [1861], 226-230, 237 (ch. 2)。人間の資質と政治機構の関連については 298, 326, 340, 353 も参照)。こうした議論に先立って彼は、古代の政治学を次のように理解・要約している。「古代人の 理解した政治学は、次のような点のなかにこそ全く存在した。人間やその産物は衰退するのが自然の傾向である が、しかしながら、巧みに (virtuously) 管理されたよき制度によって、無限の時間にわたってこの傾向に対抗す ることが可能である」(223-224, cp. 269)。 36 ミルのアテナイ理解について 小田川 (2003), 2, 16。 37 ポコックが共和主義を定式するにあたっては、アリストテレスに大きく依拠し、vita activa こそ善 き生を構成するとのテーゼを組み込んでいるが (Pocock (1975), ch. 3)、古代を一括りにしてギリシアとローマ を混淆させるこのような定式が、共和主義の歴史的展開を理解するにあたって妥当かどうかは検討の余地がある。 共和主義思想において一貫して、政治参加こそ善き生を構成するとの視点が共有されていたとは、未だ論証され ていないからである。また、一部の政治階層に公共精神たる「徳」が必要であるとの議論と、民衆一般に公共精 神が必要であるとの議論は区別されねばならない。 38 そもそも、公と私──公共精神とそれを欠いた私的情念・利益──が単純に二分されるものではな いという点こそ、これまでの共和主義研究がもたらした知見だったのではなかろうか。私的な動機付けと公的な 行動とを媒介するものとしての賞賛・名誉・名声は、ヨーロッパ初期近代思想史に頻出するテーマである。「全 ての人は、自分に利があると思われるものを追う。よき規律のもとで育った人で、次のことを理解した人 ──す 8 (あるいは政治参加そのもの) はいかなる志向性ももちうるのであって、いかなる文脈でいかに制度化 するかという議論を欠いたまま公共精神そのもの自体の重要性を説く議論は危うい。 そうした時代情況のなかで共和主義に関心を注ぐのであれば、<今ようやく>以上に<今さら> なぜ共和主義かという問いにも答えうるべきである。なるほど、共和主義なるものは、多様な構成要 素をうちに含むアモルフな思想潮流であるかもしれない。しかし、そのような共和主義思想の歴史的 展開ないしその思想的ポテンシャルを理解するにあたって必要なのは、リベラリズムたらざるものを、 曖昧なまま「シヴィック的」なるものとして一括して事足れりとすることではない。今日において現 代的意義も見据えながら共和主義を考えようとする際には、共和主義思想のメルクマールとみなされ てきた種々のものを注意深く区別しながら観察・考察することが必要ではないか。そうすることによっ てこそ初めて、共和主義思想のなかに、公共精神や徳といった道具立てに依拠することなく政治や社 会を論じようとした議論の系譜もが存在したことが明らかになるのである。 引用文献 引用に際して特に註記しない限り、数字のみはページを、/の前後の数字は巻・ページを、.の前後の数字は章・ 節を示す。 Hume, David Essays History of England Letters My Own Life Morals PCW Harrington, James Oceana ed. 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Wootton, Republicanism, Liberty, and Commercial Society, 1649-1776, Stanford. 附記 これは、日本イギリス哲学会第27回研究大会におけるシンポジウム「イギリスにおける共和主義の諸相」 (2003年03月28日) での報告原稿であり、東京大学社会科学研究所 Discussion Papers Series, J-123 (2003.3) (http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/discussion/) との形式で公表されたものである。 (いぬづか・はじめ hume@mac.com) はこの問題に立ち入らず、ただ 18 世紀においてシドニーが 'republican' と理解された事例があることを指摘す るに止める (註2参照)。 10
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