横浜市立大学エクステンション講座 ヨーロッパ史における戦争と平和 第3回(10/8) 「第一次世界大戦の起源」 横浜市立大学名誉教授 松井道昭 第1章 第一次大戦の特徴 この大戦の特徴として、まず、挙げねばならないのは、開戦のいきさつが極めて複 雑で、いずれか一つの国家の特定行為が大戦をもたらしたと決めつけられないことであ る。 「起源」という場合、 「始まり」と「原因」の両方の意味があるが、これは明確に分 けて考える必要がある。 「始まり」とは物事の発端の意であって、 「きっかけ」と同じと考えてしてよい。 すなわち、サライエヴォ事件をもって「始まり」とするのは可能であり、じっさい、そ う見られているが、これだけでは、ヨーロッパ列強の全体を以後に続く激越な戦争に巻 き込む原因とはなりにくい。つまり、サライエヴォ事件は列強の協議でもって ― 即刻 会議を招集して ― 穏当に処理される可能性もあったのである。 次に、 「起源」を「原因」と定義すると、それはいろいろな視点から探究すること ができ、一つの「原因」の説明でもって「事足れり」とするにはいかない。しかも、 「原 因」を何に求めるか、どの史料に当たるかによって結論は違うし、研究者の戦争史観に よって左右されることもある。たとえば、長期の経済史の動向に求めることも可能であ るし、外交・軍事史の中、または文化思潮の流れの中に位置づけるのも可能である。 大戦後において、戦勝国側が複雑ないきさつを無視して戦敗国ドイツに一方的に開 戦責任を押しつけたことは大きな禍根を残した。ドイツ国民がこの責任押しつけに対し て懐いた不満がやがてヒトラーの運動を育てる温床ともなる。第二次世界大戦を引き起 こした中心人物がヒトラーであるのに対し、第一次大戦にこのような首謀者はいない。 大戦の第二の特徴は、この戦争が史上初の国家(国民)総力戦であったことである。 ナポレオン戦争において部分的に総力戦の様相は表われているが、規模や社会的影響度 の点では第一次大戦に遠く及ばない。19 世紀における他の戦争は一部の人々の意志に よって国民生活にさほど深刻な影響を及ばさないかたちで遂行された戦争、いわゆる 「王朝戦争」である。 1866 年の普墺戦争は俗に「七週戦争」と言われように、決着はすぐについた。ま た、普仏戦争は久々の一騎討ち戦争となったが、フランスのあっけない敗北に終わり、 動員数・被害や戦後への影響などは第一次大戦と比較にならないほど軽微で、他の列強 はむしろ、特需が生み出した俄か景気により経済的に潤うような状態だった。 一方、第一次大戦は世界の多くの国々を巻き込んだばかりでなく、一般国民の生活 に深刻な影響を与えた。前線兵士はむろん、銃後の国民も戦争に動員された。この戦争 は、国のもてる力を挙げて取り組まれた初めての総力戦であった。 また、毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器が投入されたこともその際立った特徴で あり、そのため犠牲者もそれまでの戦争とは比較できないほどに多数にのぼる。以下の 1 数値は民間人の死傷者を含む。 ドイツ……………248 万,ロシア……………375 万,フランス…………170 万, オーストリア……157 万,英連邦……………123 万,アメリカ………… 12 万, イタリア…………124 万,オスマン=トルコ…292 万 総計……1,656 万 ・同盟国側…ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア ・協商国のちに連合国側……フランス、イギリス、ロシア、イタリア、アメリカ イギリス外相グレーは 1914 年 8 月 3 日の夕暮れ時に外務省の自室で「ヨーロッパ の灯は今すべて消えようとしており、自分たちが生きている間に再び灯がともるのを見 ることはないだろう」と悲哀感に襲われた。グレーはヒトラーが権力を掌握した 1933 年秋に他界したが、彼の予想はほぼ的中したことになる。1914 年 8 月から第二次大戦 が終わる 1945 年 5 月までのおよそ 30 年間、ヨーロッパは絶えず不安定な状態におか れ、第一次大戦と第二次大戦は長期にわたる地殻変動のくり返しと見ることもできる。 第三の特徴は、開戦日をいつとするか簡単に決められないところにある。ふつうは 次の4つが挙げられる。 ① 1914 年 7 月 28 日…オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告 ② 8 月 1 日…ドイツがロシアに宣戦布告 ③ 8 月 3 日…ドイツがフランスに宣戦布告 ④ 8 月 4 日…イギリスがドイツに宣戦布告 そもそものきっかけは同年 6 月 28 日、オーストリアの皇太子夫妻がボスニアの首 都サライエヴォで、ここに本拠をおく暗殺者グループによって殺害されたことである。 セルビア政府そのものは無関係であり、このグループを処罰して陳謝したが、この事件 に対しオーストリアはセルビアを武力で打倒することで大国の体面を保とうとした。そ こにきて、ロシアが中心となってバルカン半島に散在するスラブ系諸族を大同団結させ セルビアを支援する挙に出た。すなわち、7 月 30 日に総動員令を下したため、オース トリアと同盟関係にあったドイツはこれに応え、8 月 1 日に宣戦布告を出す。一方、ロ シアはフランスと軍事同盟を結び緊密な関係にあったため、ドイツはフランスに対して も開戦することになる。イギリスは当初、中立を標榜していたが、ドイツがベルギーの 中立を侵してフランス領内に雪崩こんだため、イギリスもドイツに対し開戦する。まさ しくドミノゲームである。 このような開戦劈頭の4つの日付をめぐる経緯のなかに大戦の特徴が露出してい る。ロシアが総動員をかけたのは、戦争が局地戦に終わらずドイツが乗り出して大戦争 に発展すると判断したからである。早々と動員をかけたのはロシアの軍体制は他列強に 見劣り、臨戦態勢づくりに時間がかかるという見通しからだ。当時、動員は即、開戦を 意味しなかった。動員態勢にそぶりを見せただけで敵への脅しとなり、その戦意を挫く ことが考えられた。ロシアが動員に踏み切ったのは、ドイツがオーストリアと同盟して いたことにもとづく。イタリアもこの三国同盟の一員であったが、事実上、この三国同 盟から脱落しており、したがって、イタリアは最初、中立の立場をとる。 こうした経緯から、大戦がなぜ起こったかを知るためには、戦前の三国同盟や三国 協商のあり方を理解することがいかに重要であるかを示している。 2 第2章 大戦前史 (1)三帝同盟 大戦の遠因について歴史を遡ると、1870~71 年の普仏戦争に行きつく。この戦争 の戦後処理において大戦の根源に当たるものが潜んでいた。単純に考えて、普仏の激突 がなかったなら、そして、たとえ激突があったとしても、その時に穏便なかたちで戦後 処理がなされていれば、第一次大戦の激戦はなかったものと思われる。大戦はバルカン 半島で発火したが、その根は仏独の長期にわたる隠然たる確執にある。フランスの怨念 はドイツがアルザス=ロレーヌを剥ぎ取ったところに始まる。 1871 年 1 月、プロイセンが中心となってドイツ統一が達成された。フランス国民 の怨恨はドイツ統一後における独仏関係に重くのしかかる。普仏戦争での勝利に、そし て統一ドイツ帝国の建設に大きな功績を残したビスマルクはアルザス=ロレーヌの併合 に反対であったが、軍事上の立場から併合を主張する(フランスから報復戦を仕かけら れた際の備えとして)軍部に押しきられてしまう。フランスの作家フランソワ・ドーデ の短篇小説「最後の授業」に、フランス国民の無念さがよく表わされている。 このようなわけで、ビスマルクは戦後を睨み、ドイツの安全を保障する国際的な条 約網をつくりあげることに専念する。ドイツ帝国の樹立後に彼がまず期待をつないだの はオーストリア皇帝とロシア皇帝とドイツ皇帝のあいだに三帝同盟(1873 年 10 月)を 結ぶことだった。 フランスの国会は次機戦争に備え「下士官法」を成立させた。普仏戦争での仏軍の 弱点を下士官に見出したのだ。フランスが陸軍の増強に強い意欲を示しているのを見た ビスマルクは新聞を操作してフランスに圧力をかける。1875 年 4 月 9 日の『ポスト』 紙は「戦争は切迫しているか」という挑戦的なタイトルでレスラーKonstantain Rößler (1820~96)の論文を掲載した。その内容は、あたかもドイツがフランスの復讐に先手 を打って「予防戦争」を真剣に考えているかのような印象を放った。 これにいち早く反応したのはイギリスで、ヴィクトリア女王自らがドイツに警告に 発し、また、ロシア皇帝アレクサンドル二世も外相ゴルチャコフを伴ってベルリンを訪 れ、ドイツを強く牽制した。ビスマルクの企図は言葉のうえでフランスを脅すだけだっ たようであるが、三帝同盟があるにもかかわらず、ロシアはイギリスと共にドイツを挟 み撃ちしてフランスを支援するそぶりを見せたのだ。こうして、三帝同盟がいかに危う いものであるかをビスマルクに示唆した。 (2)ビスマルク体制の成立と崩壊 ビスマルクは新たな安全保障体制を模索する。彼が苦心してつくりあげたのがいわ ゆるビスマルク体制である。その中心はオーストリアとの同盟(1879 年 10 月)と、こ れにイタリアを加えた三国同盟(1882 年 5 月)である。また、ルーマニアとの同盟も 3 1882 年に成立させる。さらに重要なものは、87 年 6 月にロシアとの間に結ばれたロシ ア=ドイツ再保障条約である。しかし、ロシアとオーストリアはバルカン問題をめぐっ て悪化していたため、ビスマルクは再保障条約の内容を同盟国オーストリアには秘密に しておいた。ドイツはイギリスともしばらくは良好な関係にあった。こうして、ビスマ ルク体制の完成によってフランスは完全に孤立し、対ドイツ復讐戦争を望んでもとうて いできない相談となった。かくて、ドイツの安全は保障されたかに見えた。 だが、この頃のビスマルクは新帝ヴィルヘルム二世と折り合いが悪くなり、ついに 辞職に追い込まれる(1890 年 3 月) 。その 3 日後にビスマルクの後任カブリビ首相は、 ドイツの伝統となっていた対墺和親政策と明らかに矛盾する独露再保障条約の更新を 拒否した。ここから、ロシアはドイツから離れてフランスに接近しはじめ(1892 年頃 から) 、1994 年 1 月にロシア=フランス同盟が正式に成立した。専制国家のロシアが共 和制フランスと同盟を結ぶことをドイツの政治家たちはまったく予想していなかった。 一方、イギリスは工業・貿易・海軍・植民地の4分野でドイツの挑戦を受けたと感 じはじめ、しだいにフランスとロシアに接近しはじめる。イギリスにとって対岸のフラ ンス、および中近東で南下政策を展開するロシアはそれまでは不倶戴天の敵だったが、 イギリスはそれまでの孤立政策を改め、徐々に両国との同盟を考えるようになる。かく して 1904 年 4 月に英仏協商が、そして 1907 年 8 月には英露協商がそれぞれ成立し、 ここに英・仏・露の協力体制が確立した。これはビスマルクの後継者たちが予想さえし ない、まったくの「外交革命」であり、ビスマルクのドイツ安全保障体制は完全に崩れ 去ったのである。かくて、ドイツが当てにできるのはオーストリア一国だけとなる。さ らに、フランスとの間に秘密中立条約(1902)を結んだイタリアはドイツにとって忠実 な同盟国ではなくなっていた。 (3)バルカン問題 ロシアはその伝統的政策のひとつとしてバルカン半島の北から南へ向かって勢力 を伸ばそうとつとめる。かつてこの地方を制圧していたオスマン=トルコ帝国は長い衰 退期に入っていて、 「ヨーロッパの瀕死の病人」と揶揄された。ヨーロッパ列強諸国に おける軋轢ゆえにバルカン半島は緩衝地帯としてようやく治まっている状態になって いた。さらにバルカン半島にはさまざまなスラブ系民族が雑多に居住しており、それが ロシアの南下政策に有利な状況を生み出していた。 ビスマルクがうち出したベルリン会議(1878 年)で、この方面にむけてのロシア の野心はいったん挫折し、その結果、ロシアは一時シベリアから満洲や朝鮮半島に触手 を伸ばしていく。しかし、日露戦争(1904~05)での敗北により東アジアへの道を断念 したロシアは再びバルカン南下政策に戻る。その際、スラブ民族の盟主としてのロシア は、バルカン半島の雑多なスラブ系民族を統合するという汎スラブ主義の主張を、19 世紀後半以降、一貫してロシアに都合のよいイデオロギーとして利用した。そこにきて、 衰勢一方のオスマン帝国で、現状打破をめざす青年トルコ党の革命が 1908 年に起こる と、バルカン半島をめぐる情勢は新たな局面を迎える[注] 。 [注]バルカン半島がヨーロッパに近い距離にあり、そこに諸民族が相乱れていたとこ 4 ろに事の面倒さがある。遠いアフリカや中東の地であれば、諸列強は話し合いで処 理できたのだが、隣接地域は諸国の鬩ぎあいが強く、一方がどこかを領有すると、 ライバルを脅かすものとなる。 (4)ボスニア危機 青年トルコ党の革命はオーストリアによるボスニア、ヘルツェゴビナ両州の併合 (1908)のきっかけとなった。同じく両州の併合を狙っていたセルビアはオーストリア の措置に甚だ不満であり、ロシアに支援を求めた。ところが、汎スラブ主義の盟主であ るロシアは日露戦争の敗北の痛手から十分に回復しておらず、セルビア支援体制を組め なかった。つまり、オーストリアの背後に控えるドイツと決戦をしてまでセルビアを支 援できず、しばらくセルビア支援を断念せざるをえなかったのだ。ロシアは、オースト リアのセルビア併合政策を断固支持するというドイツ首相ビューローの威嚇的声明 (1909 年 3 月)を前にして事実的に屈服した。こうして、ロシアはセルビアを宥め、 オーストリアによる二州併合を承服させた。 ロシアのこの穏忍自重の態度はセルビアに大きな不満の種を残すことになった。か くて、1912 年と 13 年の二度にわたるバルカン戦争ののちにサライエヴォ事件が勃発す るのである。バルカン半島支配をめぐり、ロシアの南下政策とオーストリアの東進政策 が真っ向から交差したことが戦争の発火点になった。オーストリアの東進政策はしばし ば汎ゲルマン主義の名で呼ばれるが、これを汎スラブ主義と同列において論じるには無 理がある。というのは、汎ゲルマン主義は民族的な色合いはなく、単に政治的・経済的 な野心を隠すだけの呼び名であったからだ[注] 。 [注]セルビアの外国資本の4分の3はフランスが占めていたことを忘れてはならない。 フランスはロシアに多くの資本投下を進めていたが、ロシアと近親関係にあるセル ビアに対しても利害関係を維持していた。セルビアの敵オーストリアと親しいドイ ツはこの地では嫌われていた。 (5)英独対立の急展開 インドのカルカッタ、エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウンを結ぶ支配圏 を狙うイギリスの「3C 政策」と、ベルリン、ビザンティン、バグダードに勢力を張ろ うとするドイツの「3B 政策」の対立は、1890 年代に入ってドイツの工業と貿易がイ ギリスの優越した地位を脅かしたことに端を発している[注] 。 [注]この時期は一等国、二等国というランクに各国は神経質になっていたことを忘れ てはならない。それは日清・日露戦争当時の日本だけではないのだ。社会ダーウィ ニズムの影響とみてよかろう。 英独の対立がもっと鮮明なかたちであらわれるのは、両国の建艦競争においてであ る。ドイツの東アジア巡洋分艦隊司令官から 1897 年に海軍大臣に昇進したティルピッ ツは 1900 年に、ドイツ海軍の飛躍的な発展強化をめざす建艦法案を国会に提出する。 それまで見るべき海軍を保有していなかったドイツは、この建艦計画にもとづいて海軍 を充実させれば、英仏に次ぐ世界第三位の海軍国に躍進するはずだった。 5 しかし、ティルピッツ構想は海戦でイギリス艦隊を撃破することで海上覇権を奪取 することを直接の目標とするものではなく、イギリスの海上覇権の一角を崩すところに 定められている。ティルピッツ法案は「危険艦隊構想 Riskogedanke」という独特の構 想にもとづいていた。それはこうだ。もしティルピッツ艦隊が英艦隊と激突すれば、独 艦隊は敗れるだろう。しかし、その反面、ドイツ艦隊と刺し違えて生き残ったイギリス 艦隊だけで全世界支配を維持するのは困難になるだろう、そこに「3B 政策」遂行の余 地が生じる ― というもの。荒唐無稽な理論とはいえ、この海軍増強政策は英独対立を 煽り、イギリスが従来の「光栄ある孤立」政策を放棄して、フランスやロシア、そして 東洋の日本と同盟政策に転換する直接のきっかけとなった。 第4章 大戦の勃発 (1)サライエヴォ事件と「七月危機」 オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナントは皇妃ソフィーを伴って陸軍大 演習視察のためボスニアを訪れ、 その足で 6 月 28 日にその首都サライエヴォに入った。 そこで難に遭うのである。フランツ・フェルディナントとはどういう人物だったのか。 オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリザベートの間に生まれた皇子はルド ルフ(1858~89)ただ一人であった。この皇子は 1889 年にウィーンの森の別荘で謎の 死を遂げた。彼以外に皇太子候補者はおらず、皇帝の弟たちも早逝したため、皇位継承 権が皇帝の弟の子(つまり皇帝の甥)フランツ・フェルディナントにまわってきた。 だが、彼はセルビア人の間で特に疎まれていた。オーストリア皇族がセルビア人か ら憎まれていたのはボスニア危機のいきさつからも理解できるが、フランツ・フェルデ ィナントの懐くオーストリア帝国の三元化構想がとくにセルビア人の神経を逆なでし たのである。三元化とはオーストリア帝国をオーストリア、ハンガリー、そしてチェコ に分けるというもの。南スラブ諸族は三元化の一つハンガリーの支配下に入り、ハンガ リーの南スラブ諸族への抑圧強化が見込まれる結果、南スラブ諸族の団結にひびが入る。 それまではハンガリーと同格でオーストリア人(ドイツ系)の支配下に入っていたのが、 格下に置かれることに屈辱を感じたのだ。 セルビアの参謀本部情報部長ディミトリエビッチ大佐は「黒手組」という暗殺団を 組織し、フェルディナントを倒すためガヴリロ・プリンチップ(Gavrilo Princip, 1893 ~1918)を首謀者とする数名の暗殺団を 6 月 28 日に配置した。サライエヴォの街路で 皇太子夫妻を運ぶオープンカーを爆弾が襲ったが、ことごとく失敗し、皇太子夫妻は一 旦は難を逃れたものの、最後にプリンチップが放った銃弾が夫妻の命を奪った。 オーストリア政府はこの機会にセルビアを打倒して汎スラブ主義を根絶やしにし ようと考えた。そのためには、まずもって同盟国ドイツの支持が欠かせない。こうして ウィーンとベルリンを往復する代表団の動きが活発となる。ドイツの首相ベートマン= ホルヴェークは 7 月 5 日、ベルリンでオーストリア使節団長ホヨスに「白紙委任状」を 与えた。この時のベートマン=ホルヴェークは対英戦争はともかく、仏・露との戦争は 6 避けられないと計算していたようである。 オーストリア政府は、当時はまだ、セルビア政府が暗殺事件に関与していた事実を 証明する証拠が見つからなかったにもかかわらず、セルビア政府に 7 月 24 日、同政府 に最後通牒を突きつけ、28 日に宣戦布告を発令する。おそらくオーストリア政府はこ れが大戦争の引き金になるとまでは考えず、セルビア政府は全面屈服するものと考えて いたようだ。しかし、それまでの諸国間の矛盾・軋轢の生み出した感情が一挙に噴き出 し、この後、数日のうちにヨーロッパ全列強を巻き込む大戦争に発展していく。 (2)シュリーフェン計画 露仏同盟が樹立した結果、ドイツは戦争が起こればドイツはロシアとフランスに挟 まれた戦闘を余儀なくされることは覚悟していた。高齢を理由に引退した大モルトケの 後を継いだシュリーフェンは 1906 年までドイツ陸軍の参謀総長をつとめ、二正面作戦 を念頭に置いたプラン(シュリーフェン計画)を策定する。この構想は政治や外交面ま でも計算に入れた熟慮の所産である。熟慮とはこうだ。 (1)英軍は陸軍が弱体であり、大軍を即座に投入してくるはずがない。 (2)独軍は対仏戦のため中立国ベルギーを突破せざるをえないが、デンマーク、スウ ェーデン、スイスは中立国として尊重すれば、英軍も中立国を侵すことはないゆえ、 英軍は海からドイツに侵入できない。オランダも独軍の侵入を受ける計画であった が、これは英・蘭が結びつく可能性があり、修正案では除かれた。 (3)ロシア陸軍は、数こそ多いが動員と戦時体制づくりに時間がかかるため、即座に ドイツへの侵入はできないだろう。当面は守備に重点をおいて攻勢を防げばよい。 (4)開戦と同時にドイツ陸軍の 8 分の 7 の兵力をもってフランス軍を 6 週間で叩いて 壊滅させた後に、今度は東方に反転してロシア軍に当たるというものだった。フラ ンスを屈服させるまで、東部戦線でドイツ軍はもてる 8 分の1の兵力でロシア軍の 西進を食い止めておく。 しかし、この計画には致命的な欠陥があった。すなわち、あくまで短期決戦を前提 にしており、戦いが長期化した場合、どうするかの計算がなかった。結果から考えて、 西部に8分の7の兵力を投入していれば、西部戦線が膠着化しなかったことは十分に考 えられよう。兵力を抜いたため膠着化したのだ。つまり、執拗な国民性をもつイギリス 人が簡単に引き退がるとは思えない。また、長期化とともに戦争が徐々に王朝戦争から 国民戦争に、そしてしまいには総力戦の要素を強めるとともに、民衆一般が戦線にくり 出された結果、簡単に戦争を終えるのが難しくなったのである。 シュリーフェンは 1913 年に「必ず戦争になる、絶対に西部戦線の右翼を強化せよ」 という遺言を残して亡くなった。ところが、後任の参謀総長小モルトケ(大モルトケの 甥、1848~1916)は右翼だけに兵力を集中させるこの計画に不安を懐き、右翼からか なりの兵力を割いてそれを左翼にまわした。その結果、西部戦線の南のほう(マルヌ戦 線)は強化されたが、北のほう(英仏海峡に沿った戦線)はそのぶんだけ弱体になった。 しかも、開戦直後に北部フランスに雪崩込むにあたって、右翼からなけなしの兵力2個 軍団分を東部戦線にまわしてしまう。それは、ロシア軍の進撃の速度が予想を超したも 7 ので、雪崩を打って東プロイセンに攻め込んできたからだ。ドイツ軍の強さの秘訣は電 撃戦にあったが、結局のところ、シュリーフェン計画の二度にわたる改悪により西も東 も戦線膠着に陥り、戦争の長期化を招いてしまう。 1914 年の 9 月 6~12 日のマルヌの戦いで、それまでのドイツ軍の破竹の勢いが食 い止められた。そのわけは、西部戦線で兵力が弱まった結果、最右翼の第一軍(小モル トケにより抜き取られ、兵力が弱体化した部分)と中央の第二軍の間に、戦線維持に致 命的となる 50 キロメートルもの間隙が生じたからである。ここでルクセンブルクにあ ったドイツ軍参謀本部の総長代理のヘンチュ(Richard Hentsch, 1869~1918)が独断 で進撃停止を命令した。停止どころか、せっかく築いた前線も後退させてしまう。 一方、兵力を割いて東部戦線を強化したはずだが、ここでも一進一退の膠着状態に なった。それは当初の予定どおりともいえるが、最初の東プロイセン侵入に仰天するこ となく、限られた 8 分の 1 の兵力でもって敵の釘づけ防御戦に徹すればよかったのだ。 ヘンチュ中佐の警告に驚いたドイツ第二軍は急いで9月9日に偵察機を飛ばし 50 キロメートルに及ぶ間隙の実情を査察した。偵察機はイギリスの大陸派遣軍がこの間隙 の中央突破しようしているとの情報をもたらした。かくて第一軍と第二軍はヘンチュの 進言どおり退却を始める(マルヌの奇蹟) 。しかし、イギリス軍の進出は中央突破を意 図したものではなく、抵抗のまったくない間隙に偶然入り込んだにすぎなかった。戦争 にはこうした偶然的な要素は介入するものであり、あまり綿密な計画にこだわると、と んでもない窮地に自ら嵌ってしまう。 「戦術よりも戦略の骨格をしっかりさせたほうが よい」とはまさにこのことを言う。 マルヌの戦いは大戦全体の動向を決定した最も重要な戦闘だった。この時の英仏軍 の反撃によって、シュリーフェン計画にもとづく西部戦線の早期締結は望めなくなくな った。かくて持久戦ということになると、人口や物量の点で勝る連合国側が有利となる。 海が開かれているため、資源の随時の補給は可能であった。そこにきて、ドイツが潜水 艦による無差別攻撃で中立国商船を沈めたことによりアメリカの参戦を誘う。これによ って戦線膠着の均衡が崩れ、結局、同盟国側がジリジリと退歩していく。 これ以後も多くの戦闘がおこなわれたが、マルヌの戦い以上に戦局を左右する戦闘 はなかった。マルヌの戦いの直前の 1914 年 8 月末、東部戦線でドイツ第八軍がロシア 軍に大勝した(タンネンベルクの戦い) 。この戦闘は第八軍司令官ヒンデンブルク元帥 を国民的英雄にまつりあげる結果をもたらしたが、大戦全体における戦局転換を促す性 格のものではなかった。 (3)主攻防戦と新兵器の登場 4年3か月という長期に及ぶ戦闘は数々のエピソードを残していく。しかし、これ に深入りするのがわれわれの目的ではない。マルヌの戦い以外に、将来の戦闘のあり方 に影響を与える3つの戦いだけを述べるにとどめたい。 一つはヴェルダン攻防戦(1916 年 2~12 月)である。これは仏独が死闘を演じ、 同盟国軍と連合国軍の合計で 70 万を超す死者を排出した戦いとなった。ペタン元帥率 いる仏軍はヴェルダン要塞の死守に成功した。もう一つの戦いは、ほぼ同じ時期に北フ 8 ランスで戦われたソンムの戦いである。ここでは仏軍よりも英軍が中心となって独軍と 死闘を演じ、三者ともに甚大な死傷者を排出した。三つめはロシア軍が独・墺軍に対し 最後の大攻勢をかけた戦い(1916 年 6 月~9 月)である。これをブルシーロフ攻勢と呼 ぶ。この戦いは連合国側に味方してルーマニアの参戦を促したのと同時に、ヴェルダン への独軍の圧力を減じる役割を果たした。この戦いで力尽きたロシアは退勢一方となり、 翌年春の戦線離脱を余儀なくされる(ブレストリトフスク条約) 。そして、その半年後 にロシア革命が起こる。 まず、ヴェルダン攻防戦。西部戦線は 1914 年 9 月のマルヌの戦いののち戦線が膠 着して 1 年半が経過。フランスは消耗の極致に達していると早合点したドイツ軍は、こ こで決戦を挑むべく攻撃目標をパリに絞る。その進撃の一大障害となっていたヴェルダ ン要塞の攻略をめざした。最初、ドイツが優勢となった局面もあったが、峡谷沿いの各 所に張り巡らされた洞窟要塞に籠って戦う仏軍を撃破することはできなかった。洞窟の 中にまで鉄道線が引き込まれ、ここへの物資補給と兵員輸送が自由自在におこなわれて いたのだ[注] 。このヴェルダン攻略の失敗が大戦の帰趨を決めることになった。 [注]鉄道を使っての軍事輸送は普仏戦争でおこなわれたが、第一次大戦では後方から 前線に向かっての輸送はうまく運んだが、自動車がないため鉄道駅から先は馬車に 拠らざるをえず、結局はのろい前進に結果した。 ソンムの戦いはフランス北西部のソンム川沿いで展開された激戦で、この戦線を突 破すべく英仏がしかけた戦いだが、二月に始まっていたヴェルダン要塞攻略の気勢をそ ぐ役割を果たした以外、戦線突破につながらなかった。 (4)新兵器の登場 この戦いでは毒ガス、飛行船、飛行機、戦車、潜水艦が初登場した。初めて毒ガス を使ったのはドイツ側でベルギーのイープルの戦いでイギリス軍めがけて投入した(イ ペリット弾、1915 年 4 月) 。効果的に見えたが、ガスは風向きに左右されるわけで、そ うなると自軍に被害が出た。その後、敵味方双方がガスマスクを入手するにつれ、その 結果は歩兵への負担を増大させ、それゆえ、進撃の速度を一段と弛める方向に作用した。 つまり、攻撃側は前進するや否や、敵によるガス攻撃を防ぐためにガスマスクをつけな ければならない、とは、以前にはだれも考えなかった。戦線膠着もここに原因がある。 また、翌 16 年 9 月、イギリス軍は同年 1 月から試作を始めていた戦車 18 台を戦場 に送り込んだ。仏軍は 17 年、独軍は 18 年になって戦車を投入した。戦車の投入に驚愕 した独軍は忽ち浮足立ったが、この戦車は故障しがちであり、溝に嵌るとなかなか脱出 できないという代もので、しかも速度がのろいのが欠点だった。心理的効果以外にそれ ほど活躍しなかった。戦車の効用は歩兵を背後に隠しながら前進できるのと、鉄条網な どの障害物を排除できる点にあった。 飛行機は主に敵情査察のために使われたが、敵機と遭遇した場合、時ならぬ空中戦 となったが、それは操縦士どうし(複数の搭乗員は乗せられない)の拳銃での撃ちあい やレンガや工具の投げあいに終始。木製の飛行機は軽すぎて爆弾をあまり運べなかった。 イギリス本土爆撃は 1915 年、飛行船ツェッペリン号によっておこなわれた。飛行 9 船は図体が大きく、かなり多量の爆弾を積載できたが、その図体の大きいことが敵によ る砲撃の恰好の標的となり、ほとんどが撃ち落とされた。やがて、爆撃機と交代する。 イギリス人はそれまで直に戦争を経験したことがなかった。世論は敵パイロットに対す る報復やその公開処刑さえも要求した。夜には全国に灯火管制がおこなわれ、侵入機が 一機でも見えると、仕事は一斉休業となった。その実害は後世に照らすと微々たるもの だった。 戦争の全体を通じて空襲で命を落としたイギリス人の数は 1,100 人ほどだった。 ドイツはほかにも新しい工夫を凝らしたが、その策は自国にとって極めて危険なも のとなった。U ボートつまり潜水艦である。それもまた、その有用性が予見されていた のではない。ドイツとイギリスの提督たちのどちらも潜水艦を主力艦隊の補助艦として、 あるいは偵察用として、あるいは敵艦の進路を妨害する船と理解していた。彼らは、潜 水艦が商船に対して使用されるとは思いもしなかった。生まれたばかりの U ボートは航 行距離が短かった。特にドーヴァー海峡が封鎖され、スコットランドの北を回らなくて はならなくなると、イギリス諸島の封鎖を続行することができなくなった。海上の戦艦 と違い、U ボートは予め警告を発したり、沈めようとする船の船員や乗客を移動させた りができなかった。これがドイツの蛮行に対する強い非難の声を生み出し、不幸にもド イツに政治的効果をもたらすことになった。ドイツ最大の一撃は、定期船「ルシタニア 号」を撃沈したことである。これによって無実のアメリカ人乗客百人が溺死した。これ でもってアメリカ世論は激昂し、アメリカを連合国側に加担しての参戦に誘い込んだ。 このように、戦争の最中に軍事技術が発展をするのも第一次大戦の特徴といえる。 (5)秘密外交の所産 第一次大戦を最後に姿を消すのは秘密条約である。諸政府間に秘密裡に結ばれて、 自国民および他国に知らされない条約を秘密条約という。歴史的にみると、諸国間の外 交を国民の前に明らかにしなければならないということは一般的に考えられていなか った。外交が君主間の取引であった時代から、やがて政治家・官僚・外務省などの手に 移っても同じだった。その秘密外交を駆使したのがビスマルクである。1879 年の独墺 同盟が最初だが、この同盟は 1887 年に公表された。1882 年の三国同盟、1887 年の独 露間の再保障条約も秘密条約であった。1892~94 年の露仏同盟の成立も秘密にされた。 秘密条約が多く結ばれて、その公表が国際政治のうえで重要な意味をもったのは第 一次大戦中、特にイギリスの戦勝後の領土拡大のために多くの秘密条約を結び、諸国・ 諸民族を自己の陣営に誘い、連合国の結束を固めようとした。秘密条約の主なものとし ては英・仏・露間のコンスタンティノープル協定(1915 年 3 月) 、英・仏・露・伊間の ロンドン協定(1915 年 4 月) 、英・仏・露間のサイクス・ピコ協定(1915 年 5 月) 、英・ 仏・伊間のサン・ジャン・ドモーリエンヌ協定(1917 年 4 月)がある。これらによっ てトルコ帝国は英・仏・露・伊の間で分割されることになる。 秘密外交で現在まで影を落としているのは中東の分割である。要するに、アラブ人 とユダヤ人の双方から加勢を得ようとした協商国側がどちらにも良い顔を向け、矛盾す る約束をおこなったのである。一つは、アラブ人のオスマン帝国からの独立を支持する フサイン=マクマホン協定(1916 年 3 月)であり、もう一つはユダヤ人の戦争協力と取 10 りつけるためのバルフォア宣言(1917 年 11 月)である。 大戦勃発当初、同盟国側で戦っていたのはドイツとオーストリアの2国だけだった。 それから 3 か月後にオスマン帝国がこれに加わる。オスマン帝国が参戦に踏み切るにあ たって、ダーダネルス海峡に入り込んでオスマン帝国に圧力を加えたドイツの巡洋戦艦 ゲーベンス号と軽巡洋艦ブレスラウ号が大きな役割を果たしている。 オスマン帝国以上に各国の注目を浴びたのはイタリアである。イタリアはもともと 三国同盟の一員であり、大戦勃発と同時に同盟国の一員として参戦してもよかった。イ タリアがすぐに参戦しなかったのは、協商側(後の連合国側)はイタリアに対して領土 的拡大(南チロル、ダルマチア、イストリア、軍港バロナ)を参戦の代償として与える 約束(1915 年 4 月のロンドン密約)をしていたからだ。かくて、イタリアは同年 5 月、 協商国側に加わって参戦した。しかし、イタリアは奇妙なことに対オーストリアには宣 戦布告は出したものの、ドイツに対しては 1 年 3 か月後の 16 年 8 月末になってようや く布告を出す。オーストリア軍は弱体であるにもかかわらず、北部イタリアで戦線膠着 状態のまま北上することができない。北上どころか、17 年 7 月末にカポレットの戦い でドイツ軍の増援を受けたオーストリア軍に大敗を喫してしまう。 反対に、同盟国側に味方して参戦したブルガリアも事情は似ている。ブルガリアは、 第二次バルカン戦争(1913 年)によりセルビアに奪われたマケドニアを奪い返す執念 に燃えていた。協商国側、特にロシアはセルビアを説得してマケドニアをブルガリアに 与えよと説得したが、セルビアはこれを渋る。その結果、同盟国側のほうがマケドニア を与えると約束した。こうしてブルガリアが参戦するのである。 隣国どうしはしばしば離反し、逆の行動をとりがちである。ブルガリアの隣国ルー マニがその典型である。ルーマニアはもともと対ロシアとの関係で同盟国側に加わって いたが、大戦勃発当初は中立を維持した。そこで、同盟国側と協商国側の秘密外交によ る誘い込みが始まる。ルーマニアはこの“エサ”を比較検討したうえで協商国側に加わ って参戦した。その決心のきっかけとなったのはロシア軍のブルシーロフ攻勢が当初、 大きな勝利をおさめたことだった。このように、イタリア、ブルガリア、ルーマニアを めぐる各国の駆け引きは大戦中の秘密外交の典型的な所産となった。 このような古い外交に対して、1917 年のロシア十月革命の後、ソヴィエト政権は 外務省の保管庫からいくつかの秘密条約を発見し、直ちに公表した。これらの秘密条約 は戦勝の際の領土分割に関するもので、その暴露は関係諸国・諸民族に大きな衝撃を与 えた。ソヴィエト政権はきっぱり秘密外交を廃止すると声明した。第一次大戦後の米大 統領ウィルソンが発表した「和平十四か条」は秘密外交を廃止すべきことを謳った。か くて国際連盟規約に外交協定の連盟への登録を命じた。だが、この後も実際には秘密外 交は止むことなく、 1922 年のラッパロ条約や1939 年の独ソ不可侵条約も秘密にされた。 第6章 パリ講和会議 大戦直前と最中の各国の政治動向について述べねばならないが、その時間的余裕は 11 ない。そこで、戦争の終結と講和に移ろう。 1918 年 3 月、ドイツ軍は西部戦線で最後の大攻勢を開始したが、途中で力尽き、7 月にイギリス、フランス、アメリカの連合軍の反撃が開始されると、ドイツ側は敗北必 至の形勢となった。9 月末にはまずブルガリアが脱落し、10 月にオスマン帝国とオース トリアが脱落する。ドイツは 10 月 12 日に「ウィルソン十四か条」を受諾する旨をアメ リカに通告。11 月 3 日にキール軍港に暴動が発生し、ドイツ革命が引き起こされる。革 命の嵐の中で皇帝ヴィルヘルム二世は中立国オランダに亡命する。かくて、社会民主党 のエーベルト臨時政権の名のもとに 11 月 11 日、ドイツは休戦協定に調印し、ここに第 一次大戦は幕を閉じた。 講和会議はパリのヴェルサイユ宮でウィルソン大統領の主宰のもとに 1919 年 1 月 から 6 月まで開かれた。講和会議が半年も続いたところに、各国の主張が錯綜したこと があらわれている。じっさい、半年でも片づかなかった。1919 年 6 月のヴェルサイユで 採択された基本決議は連合国とドイツの間に結ばれた講和条約であり、戦後処理は個別 におこなわれたところに特徴がある。16 年 9 月は対オーストリアに対するサン=ジェル マン条約、同年 11 月の対ブルガリアのヌイイ条約、翌 20 年の対トルコに対するセーヴ ル条約に分けられる。これらを総称して「ヴェルサイユ体制」と呼ぶ。 ヴェルサイユ条約は「ウィルソン十四か条」が基礎となるはずだったが、戦後の安 全保障を訝り、ドイツに過酷な主張を譲らないフランスの主張が基調となり、英はそれ に引きずられたため、戦後の平和維持をめざすウィルソンの和平構想は頓挫する。 こうしてドイツに対する過酷な講和条約ができあがり、ドイツの代表団はヴェルサ イユに呼びつけられ、一切の抗弁なしに調印を迫られた。イタリアは戦勝国の一員では あったが、連戦連敗で勝利に貢献するところが少なかったため、ロンドン密約の約束の 全部にありつけなかった。イタリアの講和条約への不満がムッソリーニのファシズム運 動に結果する。イタリア以上に強烈なドイツ国民の不満はその 10 年後に発生した世界 恐慌でピークに達する。それはドイツ経済を直撃し、ナチス=ヒトラーの台頭を導いた。 この条約によってドイツは海外植民地をすべて失い、アルザス=ロレーヌをフラン スに返還し、ヨーロッパにおいて領土を削減された。また、第一次大戦の開始における 戦争責任を断定され、連合国の損害に対して空前絶後の賠償金の支払いを課された。軍 備は厳しく制限され、ライン川左岸は非武装地帯として 15 年間連合国側の保障占領の 状態に置かれることになった。ザール地方は 15 年間国際連盟の管理下に置かれ、その 後、住民投票により帰属を決めることになった。 パリ講和会議が専ら連合国の利害によって一方的に運営され、この条約によってド イツへの圧迫も厳しかったことから、ドイツ人はこれを「Diktat(命令) 」と呼んで、 大いに恨んだ。これがナチスの利用するところとなったのは周知のとおりだ。1920 年代 から 30 年代初頭にかけてライン地帯から連合国が徹兵し、賠償金額も大幅に軽減され るなど、事実上、ヴェルサイユ条約はなし崩し的に修正されていたが、ナチス政権が 35 年にヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、翌 36 年にラインラントの非武装地帯 を武装化するに及んで事実上、本条約は消滅した。 東ヨーロッパについてはウィルソンの提唱した民族自決主義にもとづいて新国家 12 の創設と国境の画定がなされるはずだった。オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、 チェコ=スロヴァキアが独立。ポーランドも独立し、セルビアはユーゴスラビアに再編 されたほか、東ヨーロッパとバルカン半島の国境に大きな改定がなされた。ドイツとオ ーストリアの合邦は禁止された。 ヴェルサイユ条約は国際連盟と一体的な連関においてとりまとめられている。国際 連盟は本来、普遍的な国際機関であるはずだったが、アメリカの上院がヴェルサイユ条 約を批准せず、また、アメリカが国際連盟に加盟しなかったため、同連盟は事実上、英・ 仏の利害の擁護者的な性格を帯びる。それにとどまらず、ドイツ国民に対し抑圧的性格 が強く、復讐主義なニュアンスのナショナリズムを培養するところとなった。 また、ヴェルサイユ条約が定めた東ヨーロッパにおける群小国の成立は、ドイツへ の包囲網と同時にソヴィエト=ロシアに対する緩衝国的な色合いが強く、元々の和平の ための精神=民族自決主義の原則に反し、後における紛糾の原因ともなった。 第7章 大戦の原因論 大戦がヨーロッパに深刻な後遺症をもたらしのはまちがいない。その後遺症が第二 次大戦の原因をなしたこともほとんど疑問の余地がない。 しかし、第一次大戦の原因は何であったか? という問いについてははっきりしな い。たしかに、ヴェルサイユ条約の第 231 条(戦責条項)で、一方的に「ドイツに戦争 責任あり」と決めつけており、それゆえにドイツは 1,320 億マルクという天文学的数値 の賠償を強制された。 もう一つの疑問は、各国政府に戦争への懸念はあったにしても、開戦に踏み切る際 の躊躇である。そのことが開戦時期のバラバラ状態に連なったのだが、さらに、どの国 も戦争の長期化を予測していなかったという不思議さもある。おそらく 7 月 23 日に最 後通牒をセルビアに突きつけたオーストリア=ハンガリーでさえ、この恫喝によって相 手を屈服させることを望んでいたにすぎなかった。同じ躊躇はドイツ皇帝ヴィルヘルム 二世にも見られる。従弟のニコライ二世の統べるロシアとの戦争を回避し、その一方で 対仏戦争を回避する努力を最後まで続けている。それにもかかわらず、いったん始まっ た戦争について仲裁者も現われず、どの国も歯止めをかけられなかった。これをどう見 るかの疑問が残る。おそらく始まった戦争に火を注ぐ、政府外の何かの力が働いたとし か考えようがない。 おおざっぱにいうと、連合国側はけしかけられた戦争に対し応戦を余儀なくされ、 その開戦責任を同盟国側とりわけドイツに負わせようとした。しかも、こうした論議は 戦争が始まってから、もっと正確にいうと、戦争末期から、あるいは休戦協定から始ま ってからといえる。一方、戦争責任を押しつけられたドイツ側はこれに反論するため、 膨大な外交文書『グローセ・ポリティーク』40 巻を根拠に研究にとりかかった。キール 大学のオットー・ベッカー(1885~1946)が代表的な歴史学者である。 それと並んで、イギリスやアメリカの歴史家で大戦原因論の研究を手がけた人々の 13 中からもドイツだけに責任を負わせるのは正しくないとする、いわゆる「修正主義者」 と言われる一群の歴史家が現われた。アメリカのフェイ(1876~1969) 『世界大戦の起 源』 (1928)やイギリスのグーチ(1873~1927) 『ヨーロッパ外交新史料』 (1927)らが その代表格である。戦争終結から 10 年前後も経過しているところに着目したい。 ところが、第二次大戦後はしばらく、あまりに強烈であった第二次大戦の論議に目 を奪われ、第一次大戦の戦争についてドイツ側に戦争責任を押しつけるような議論は影 を潜めていた。しかし、1961 年にハンブルク大学のフリッツ・フィッシャーが『世界強 国への道』という著書を発表するに及んで、風向きが変わっていく。それはフィッシャ ーが発見した新史料にもとづく議論であり、ドイツ側の侵略性を跡づけたのである。彼 は、1914 年 9 月 9 日にベートマン・ホルヴェーク首相が作成した「九月綱領」といわれ る計画においてドイツの好戦性や侵略性は見られる、とした。しかも、その好戦性はワ イマール共和国や第二次大戦の外交方針のなかにも一貫して流れている、とした。これ はドイツの内側からの告発であったが、その波紋は国際的な広がりを見せ、いわゆる「フ ィッシャー論争」として長く学界の主題となった。ベートマン・ホルヴェークは穏健な 政治家という定説があったため、彼に対する真正面からの攻撃は衝撃を与えたのである。 むろん、ベートマン・ホルヴェークへの弁護論も現われたが、研究者の関心を大戦前史 から大戦そのものへ移動させたという意味でも論争そのものは有意義ではあった。 結局は原因を求める際にどこに焦点を当てるかによって、論議は変わっていく。た とえば、外交文書に視野を限定すれば、政府・国家間の矛盾の衝突局面しかわからず、 各国元首や外交官の能力や責任しか問題になりようがない。しかし、視野を拡大し、た とえば経済史の分野から出来事に迫れば社会の変貌ぶりが明らかになり、それが必然的 に引きずる大きなうねりのような流れが明らかになり、既存体制の大転換を迫る要素が 浮き出るであろう。 また、社会史に視野を転じれば、それまで受動的態度に終始した民衆動向や彼らを 教導したマスコミのあり方が問われるようになるであろう。戦争が一国家における上層 の利害関係の解決手段であることをやめ、社会の下層までも動員をかける総力戦となる と、なおさら、その結果は重大なものとなる。特に 19 世紀から 20 世紀にかけてはナシ ョナリズムが猛威を振るった時代である。 「戦争熱」という不定形の戦争文化にも光を 当ててみる必要性があるだろう。 最後に、未来のへ影をこの戦争に認めることができる。戦争目的としての民族自決 主義に象徴されるように一つは国民主義があった。この思想は大戦の直前および最中に 徐々に人種純血主義に変わる傾向を見せた。明らかにダーウィニズムの影響である。つ まり、人種の優劣主義が頭をもたげ、その基礎に似非科学的な説明が用いられるように なる。それが民衆のショービニズムと結びつくと、勝利絶対主義への願望から独裁者を 待望するようになる。戦争の最中にどの国でも政権担当者が独裁者になりはじめた。 消耗戦のため、どの国も長期の戦争に耐えがたくなり、戦争の早期終結論の希望も 起こる。早くも 1916 年末にドイツに休戦論がもちあがっている。それにもかかわらず、 いったん始まった戦争は自律性を帯び、制御装置が故障した自動車のようにブレーキが かからなくなる。消極論を唱えた戦争指導者は民衆的ショービニズムに染まった暗殺者 14 の犠牲になった。これほど暗殺が横行した時代もまた珍しい。 交戦国の双方がへとへとになるほど疲弊しながら戦いが終結するやいなや、勝った 側は敗者に対する報復的な処置をなす。報復は報復を呼び、次の戦争まで僅か 20 年の 休養しか与えなかった。 終章 第一次大戦の歴史的位置づけ 第二次大戦は第一次大戦なくしてありえなかったと評されるほどに、両者は密接に 関連している。それは、両大戦において敵・味方の配置構成が大差ないところに見られ る。そのために、前者が生み出したものが何であったかを検討してみることにし、まず 国際体制の枠組みから見ていこう[注] 。 [注]木村靖二『第一次世界大戦』 (ちくま新書。2014 年)がいちばん簡潔にまとめて いる。以下は同著に倣ったものである。 第一に、第一次大戦はヨーロッパ列強が世界を支配していた国際関係を対等な国家 から成るものに転換した。それが国際連盟であることは周知のとおりだ。連盟規約に 長々と述べられているのは、このような惨劇を二度と繰り返さないための取り決める必 要からである。大戦後の体制は「ヴェルサイユ体制」と呼ばれるが、それは国際連盟に 体現される体制である。つまり、それまでのヨーロッパ中心主義から多元的世界への転 換が始まったことを意味する。異次元の国家ソ連の加盟という事実に象徴される。アメ リカは国際連盟そのものには加盟しなかったが、その産婆役と乳母の役割は果たした。 第二に、国際社会の構成単位が帝国から国民国家に移行したことが挙げられる。こ れは民族自決権が国際社会の基本原理と認められた結果である。大戦はロシア、オース トリア、オスマン=トルコの3大多民族国家を解体し、多くの新興の国民国家を出現さ せた。民族自決権は当面はヨーロッパに限定されていたが、植民地や従属地域の民族運 動を刺激するものでもあった。 この民族自決権が最も影響したのは大英帝国であり、それまでは自治領というかた ちで帝国に組み込まれていたものが、それぞれ自立性を強めていく。 敗戦国とされたドイツの例にみられるように、民族主義が軍事力と結びつくと絶大 な力となることを実証した。これは第二次世界大戦=総力戦の予行演習となるものだっ た。さらに、オスマン=トルコの解体時に生じたアルメニア人追放に示されるように、 国民国家をめざす時に、異民族排除指向が大虐殺を生み出す力となる実例ともなった。 既存の国民国家も大戦の経験により、その統合力を高めた事実も忘れてはならない。 老大国フランスではそれまでの言語不統一により、軍事指揮に支障があったといわれる が、国語の統一化によって一挙にそれが解消されたといわれる。大戦での膨大な数の戦 死者は国民に同じ共同体に属しているという意識を育んだ。大戦記念日や記念碑、慰霊 塔の存在はこの意識・伝統を民衆次元にまで植えつけることになった。 そして、忘れてはならないのは、民族自決権にもとづく国民国家が以後、国際的に 15 普遍化し、安定した存在になったことである。それは、その時に誕生した諸国家と国境 線が基本的に現在でも継続している事実に示される。一方、列強によって無理やり国境 線を引かれた地域(非ヨーロッパだが)では今でも葛藤・紛争を続けている。そうした 地域にはもともと国境という概念が欠如していたことも作用しているが。 第三に、大戦は国民国家に二つの内容を与えた。その一つは政治への国民参加であ る。大戦下の国家総力戦の動員により国民各層に強制的に国家への奉仕が求められるよ うになると、 「義務の平等と権利の不平等」という問題意識をひろげ、現実への不満が 大衆の間にひろまる。兵役・労役・納税などは平等に課されるのに対し、選挙権が不平 等である。こうした不満がロシア、オーストリア、ドイツで革命として爆発した。これ が戦後における国民参加型国家、大衆参加型の国家への移行を促し、ドイツやイタリア での全体主義国家を誕生させる下地となったのは歴史の皮肉といえよう。 これに関連し、大戦が与えたもう一つの性格は、民主化と連動することによって国 家の福祉化ないしは社会国家化である。前者の代表格はイギリス、後者はドイツである。 国民を動員する以上、国家は動員された者の家族の負担を軽減し、たとえば、出征兵士 の家族や戦死者遺族の生活を保証しなければならない。食糧配給制も国家による消費統 制だが、家賃の凍結などは最初こそ一時的処置であったが、やがて制度化されるように なる。国民の側も恩恵ではなく、権利として国家の保護や補償を求めるようになる。そ れを法的に体系化して示したのがワイマール憲法であった。現在の視点からみればいか にも不完全であっても、それはやはり福祉国家への一歩である。 第四に、大戦はそれまでの近代文明の先導者としてのヨーロッパの地位を押し下げ た。人権、自由主義、民主主義、平等、進歩の道を約束してきたヨーロッパという発信 地が大殺戮と大破壊の舞台となったという事実だけでも、ヨーロッパの威信を揺るがせ、 その信用を失わせるに十分だった。これは翻ってヨーロッパの近代や歴史への懐疑を招 き寄せ、非ヨーロッパ社会において、ヨーロッパ近代文明を版型として崇める方式をと りやめる方向に作用した。 戦争を戦いぬいたヨーロッパ人においても、それまで自由主義と民主主義の推進役 を果たしてきた青年層が大量に戦死し(戦死者の 7 割が 20~24 歳の青年) 、特にエリー ト層ほど戦死率は高かった。大戦後の社会でこのエリート予備軍の減少により、新しい エリート層の活力が失われ、代わって新たに大衆的指導者が台頭するにいたった。 第五に、戦争がもたらした負の遺産。つまり、不幸の結果は次の不幸の原因となっ ていく。第一次大戦は、戦敗国はむろん、戦勝国にも多くの慚愧の念を残し、それが次 の報復戦ないしは決着戦を用意した。ここで注視しなければならないのは、戦後におい て報復戦を唱えた者は復員兵ではなく、焼け跡世代に属する青年層である。復員兵は、 ちょうど第二次大戦後のわが国日本においてそうであったように、むしろ平和希求に走 る者が多かった。報復を唱える者は第一次大戦時に年少であった者で、多感な彼らは戦 後の扇動活動に踊らされ、進んでナチ突撃隊に加盟するのである。 また、大戦という巨大な暴力装置を経験した国民は事の決着を暴力でつけようとす る風潮に呑み込まれる。国内の政敵や反体制派を暴力でたじろがせ、国際紛争でも軍事 手段による決着をつけようとする思考を高めた。 (c)Michiaki Matsui 2015 16
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