賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(その三) 40~60 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(40) 戦時下、賀川最後の中国の旅 昭和18年年11⽉月以降降、賀川は特⾼高の監視下にあって、⾹香川県豊島に渡り、そこで暫らく著作と農作業 などにあたっていたことを、「戦時下の賀川・豊島で稲こぎ⼿手伝い」として取り上げ、続いて翌昭和19 年年9⽉月26⽇日付けの書簡を「三浦清⼀一牧師と啄⽊木の妹・光⼦子「神⼾戸愛隣隣館」に」として紹介した。 ところで、この26⽇日付け書簡の末尾に、賀川は「私は⼗十⽉月七⽇日頃⻄西下する予定に致して居ります」と 記していた。 横⼭山の「賀川豊彦伝」の「年年表」には「昭和19年年10⽉月20⽇日 中国に宗教使節として赴き、中国に て越年年す。昭和20年年2⽉月5⽇日 中国より帰国」とあり、「⼈人物書誌⼤大系:賀川豊彦Ⅱ」の「年年表」には 「10⽉月20⽇日 中国・中華基督教連盟の招待で、宗教使節として出発。11⽉月4⽇日 親友内⼭山完造邸に 滞在し、上海市内各教会を巡回講演」とある。 * * * * とすれば、今回取り出す2通の封書と葉葉書は、この時のものであることが分かる。 「封書」1 枚は、中国に出帆前のもの。 差出 下関市⽥田中町1006 河村⽅方 賀川豊彦 宛先 兵庫県武庫郡⻄西宮市北北⼝口⾼高⽊木町南芝871 ⼀一⻨麦保育園 武内勝 消印 昭和 19 年年 10 ⽉月 22 ⽇日 冠省省 明⽇日 朝鮮経由 上海 華中基督教連盟主催 ⼤大会及練成会に出席することになりました。 松⼭山常次郎郎⽒氏と同⾏行行であります。御祈り下さい。 外の⽅方々に申し上げませぬから、芝⼋八重、三浦先⽣生 その他 イエス団の同志、徳牧師等にご通知お願 申し上げます。お願いまで。 ⼆二六六〇四・⼀一〇・⼆二⼆二 主にありて 下関にて 賀川豊彦 ⼆二伸、愛隣隣館は当分の間、多少⾦金金が多く ⼊入りませうが、東京より⽀支出しますから、 よろしく御取り計い願上げます。⻫斉⽊木⽒氏にもよろしく。 ⼀一⽅方「葉葉書」の⽅方は、⽇日本基督教連盟発⾏行行の「神もし我らの味⽅方ならば誰か我らに敵せんや」(新約聖 書ロマ書8の31)のことばとらくだの絵の⼊入ったもので、「中華⺠民国郵政」「北北華」の切切⼿手が貼られて いるが、消印は読み取れない。 差出 北北京 北北池⼦子 駿河桜39 ⽇日本基督⻘青年年会 賀川豊彦 宛先 ⼤大⽇日本 兵庫県⻄西宮市北北⼝口 ⾼高⽊木町南芝 ⼀一⻨麦保育園 武内勝様 謹賀新年年 昨年年は⾊色々お世話になりました。本年年もよろしくお願い申し上げます。 クリスマス献⾦金金を三千円近く天津より御送付申し上げました。神⼾戸イエス団宛でした。電報留留替 でした。「三井」の借⾦金金をあれで⽀支払ひ、⼀一部分は貴君の愛隣隣館への⽴立立替に御⽀支払ひ下さい。 三浦清⼀一⽒氏を是⾮非 上海の新教会に迎へたいとのことですから、愛隣隣館のあとつぎを御⼼心配願ひ ます。私は⼆二⽉月上旬には⼀一旦帰国いたします。華⼈人が是⾮非来てくれとせがみます。毎⽇日忙しくし て閉⼝口しています。之も神ノ国運動として既に⼆二ヵ⽉月間に百数⼗十回講演しました。物価が⾼高いの で、⼀一⼨寸⾞車車に⼗十丁乗っても⼗十数円取られます。インフレと云うものは妙なものです。此のハガキ も列列⾞車車中で書いています。それほど忙しいのです。⼀一⻨麦寮寮の⼆二階の 原稿をそのままにして来ましたが、⼤大切切に保存するよう埴⽣生姉にご 依頼願います。⼀一⽉月三⽇日より蒙古に向ひます。 主において栄光を願いつつ 賀川豊彦 * * * * 敗戦間際のこの中国訪問は、賀川にとって昭和2年年暮れから始めた国内外 の「百万⼈人救霊運動」「神の国運動」の最後の旅となった。賀川は戦後、⼀一 度度も中国を訪ねることはなかった。 この書簡の中に「三浦清⼀一⽒氏を上海の新教会に迎えたいとのことですから 愛隣隣館のあとつぎを、御⼼心配願ひます」とある。賀川は、三浦清⼀一⼀一家のよ き働き場所を探していたと思われるが、しかしこれは前回ふれたように、三 浦はこの招きには応じず、神⼾戸愛隣隣館での働きを担うのである。 また、このときハルの妹・芝⼋八重は、イエス団の医師として働いていたこ とが分かるが、「イエス団の同志、徳牧師等」とあるこの「徳憲義牧師」は、 ⽶米国からいつ帰国してイエス団の牧師として活動をされていたのだろうか。 「徳牧師」は、この「お宝発⾒見見」第6回⽬目で確かめた「賀川夫妻壮⾏行行写真」 に収まっていた関⻄西学院神学部の学⽣生のひとりであり、渡⽶米して後は度度々イ エス団の活動に⾦金金品を送り届けていた⼈人である。また同⽒氏の詩集「愛は甦る」 (昭和4年年)や「⽣生命のあゆみ」(論論集)「愛の本質」(論論⽂文)が新⽣生堂か ら出ていることは、すでに紹介した事がある。「徳牧師」について何かご存知の⽅方があれば、何でもご教 ⽰示いただければ有難い。 追記 その後、徳憲義牧師についてはいくらか明らかになってきた。いずれ学びなおしてみたい御⽅方である。 ここには、『愛しつつ祈りつつー故徳憲義記念念」にある「略略歴」のみを記して置く。 明治25・3・16 ⿅鹿鹿児島奄美郡徳の島にて誕⽣生 明治45・3 沖繩中学卒業 ⼤大正 2・4 関⻄西学院神学部本科⼊入学 ⼤大正 7・3 右卒業 ⼤大正 7・4 神⼾戸イエスキリスト教会副牧師に就任 ⼤大正 8・9 ⽇日本メソヂスト⾼高松教会牧師に就任 ⼤大正12・ 波⽶米 ⼤大正14・ プリンストン⼤大学神学部⼊入学 昭和 2・5 右卒業 昭和 2・5 ロスアンゼルス⽇日本⼈人合同教会牧師に就任 昭和19・3 ⽇日本メソヂスト神⼾戸平野教会牧師に就任 昭和22・7 ⽇日本基督教団巡回教師就任 昭和24・11 広島⼥女女学院にて講演中 脳溢⾎血にて倒る 昭和25・12 ⽇日本基督教団下落落合教会創⽴立立と同時に牧師就任 昭和35・3・27 ⽜牛前5時15分 永眠 69才 「封書」末尾に賀川は「2604」という「皇紀」の年年号になっている。賀川の書簡にはまことに珍し く、これは「皇紀2600年年」(昭和15年年)の名残なのか、どれほど当時⼀一般的であったのか。因みに 私はこの年年に⽣生まれたのであるが。 (2009年年8⽉月16⽇日⿃鳥飼記す。2014年年2⽉月24⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(41) 戦時下、賀川純基・⽟玉井道⼦子結婚式御礼状 今回取り出す⼀一通の葉葉書は、未使⽤用の印刷葉葉書の上に筆書きをして活⽤用した、珍しいものである。しか も未使⽤用のこの印刷葉葉書は、ナント賀川豊彦と⽟玉井太郎郎両名からの、賀川の⻑⾧長男・賀川純基と⽟玉井道⼦子の 結婚式の御礼状である。 礼状の⽇日付は「昭和19年年8⽉月20⽇日」となっているので、筆書きの⽅方には⽇日付はなく消印も剥がされ ているので正確にはわからないが、⽂文⾯面にある「5⽉月13⽇日」は、翌年年敗戦の年年(昭和20年年) 「5⽉月13 ⽇日」であろう。 * * * * 差出 東京都世⽥田⾕谷区上北北澤2丁⽬目6の3 宛先 兵庫県⻄西宮市北北⼝口⾼高⽊木町南芝 ⼀一⻨麦保育園 武内勝様 謹啓 来る五⽉月⼗十三⽇日(⽇日)には神⼾戸イエス団の礼拝に出席致す予定に致して居りますから 左様に承知下され度度存じます 何卒電話にて吉⽥田源治郎郎⽒氏 三浦清⼀一⽒氏にも御知らせ願い度度願い上げます。⽬目下論論⽂文執筆中 の外厚⽣生省省をも応援して居りますので忙しく致しております。然し⼆二三⽇日は滞在する予定に 致しております。愛隣隣館のことも相談したいと存じます。 * * * * ところで、上記の筆書きの下の隠れた⽂文字はどうにか読み取れる活字印刷の「結婚式御礼状」の⽂文⾯面は、 次のようになっている。 謹啓 決戦下邦家の為益々御盡瘁の事と奉存候陳者 賀 川 純 基 ⽟玉 井 道 ⼦子 右両⼈人今春来徳義憲牧師御夫妻のご媒酌により婚約 中の處⼋八⽉月五⽇日午後四時東京都世⽥田⾕谷区上北北澤三丁⽬目 ⽇日本基督教団松沢教会に於て⼩小川渙三牧師司式の下に 結婚式挙⾏行行致候間此段御通知申上候年年来の御厚情を感 謝 し 向 後 ⼀一 層 御 鞭 撻 の 程 御 願 申 上 候 敬具 昭和⼗十九年年⼋八⽉月⼆二⼗十⽇日 賀 川 豊 彦 ⽟玉 井 太 郎郎 * * * * この時「結婚家庭」をスタートされたご夫妻は、ともにその御 ⽣生涯を全うしておられるが、ご⼦子息の賀川督明⽒氏はいま、持ち前 の⾮非凡な才覚を活かして、 「賀川献⾝身100年年プロジェクト」の重 要な推進役のお⼀一⼈人として活躍中である。 前回は「徳憲義牧師」についてお尋ねしたが、早速ここに純基・道⼦子ご両⼈人の「媒酌⼈人」として登場し ている。この頃、徳牧師は東京⽅方⾯面で働いておられたのであろうか。 この御礼状を⾒見見ていると、結婚家庭を築いた当事者たちではなく、両家の⼾戸主の名で差し出されている のも、今では驚きではある。当時の常識識ではあったのであるが。 (2009年年8⽉月19⽇日⿃鳥飼記す。2014年年2⽉月25⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(42) ⼤大きな焼夷爆弾が私の家の軒先に 先に何度度か、賀川が中国の旅先から武内勝に宛てて送った絵葉葉書など紹介した。豊彦にとって戦時下の 年年の旅は、戦後いちども出向く事がなかった中国の「最後の旅」となった。 昭和20年年2⽉月5⽇日に賀川は中国から戻り、東京において3⽉月10⽇日のあの「東京⼤大空襲」で絶⼤大な戦 災を受けるなか、「戦時救済委員⻑⾧長」の任を引き受けて戦災者の救援にあたった。 東京の空爆は4⽉月13・15⽇日、更更に5⽉月26⽇日と⽴立立て続けに襲い、多くのいのちを失うのであるが、 賀川は4⽉月には厚⽣生省省の「健⺠民局事務取扱」を委嘱され、6⽉月に「戦災援護」の参与としても働いていた。 この戦時下の賀川豊彦とハルの⽇日記や雑誌・著作などでの記録がどれほど残されているのかわからない が、横⼭山春⼀一⽒氏の「賀川豊彦伝」 (昭和34年年、警醒社版)には、このころの事の短い記述がある。それに よれば、 「賀川が多年年物⼼心の両⾯面から⼒力力をそそいできた神⼾戸イエス団、⼤大阪の四貫島セツルメント、⽣生野聖浄会 館、東京の本所基督教産業⻘青年年会、江東消費組合は、建物がみんな灰塵に帰し、⼈人も死んだ。 ⽇日本の70余の都会はやけ、⼆二百数⼗十万個の家屋と⼀一千万の同胞が、住宅宅と⾐衣類と仕事場を失ってしま った。戦災孤児は巷にあふれた。賀川は、教団をうごかして、戦時⽣生活活動委員会を組織し、戦災孤児、 戦時伝染病の救護に乗り出し、⾷食糧糧増産、純潔運動、親切切運動などの指導にあたった。」(408⾴頁) 関係年年表でも、わずかに「8⽉月 賀川関係の社会事業施設の殆どを、空襲爆撃で焼失」と書かれている が、 「建物がみんな灰塵に帰し、⼈人も死んだ」とされる被災状況のいちいちについては、それぞれの場所で、 写真其の他、忘れることの出来ない記録が残されている筈である。 * * * * 今回取り上げる葉葉書は、神⼾戸・⻄西宮・⼤大阪⽅方⾯面の爆撃で、神⼾戸在住(?)の芝⼋八重⼦子⽒氏の消息と吉⽥田・ ⾦金金⽥田両⽒氏の施設の被害を案じ、賀川の働く東京の実情を報告する内容である。 本⽂文に⽇日付はなく、消印を⾒見見ても20年年8⽉月とも読めなくはないが判然としない。 差出 東京都世⽥田⾕谷区上北北澤2丁⽬目603 宛先 兵庫県⻄西宮市北北⼝口⾼高⽊木町南芝781 ⼀一⻨麦寮寮 武内勝様 戦局苛烈烈極むる際益々御奮闘の断うれしく存じ上ます。此度度の爆撃で⼋八重⼦子が家を 失ったでは無いないかと⼼心配いたして居ります。旅⾏行行困難につき何卒よろしく御援 護御願い申上げます。また⼤大阪北北港、今津、吉⽥田源治郎郎⽒氏、⾦金金⽥田⽒氏の施設は如何に なりましたか? ⼼心配致して居ります。私は⼀一⽣生懸命努⼒力力いたして居ります。五⼗十 キロの⼤大きな焼夷爆弾が、私の家の軒先に落落ちましたが、幸いに消し⽌止め無事なこ とを得ました。然し、⼤大崎治郎郎⽒氏、⼩小川清澄⽒氏、その他教会員も多く家を焼失しま した。私の家及び幼稚園には⼗十数家族が這⼊入っています。千代⼦子の医学校は⻑⾧長野県 ⽩白⽥田に疎開しますので、千代⼦子はその⽅方に参ります。保険につき⾊色々⼼心配下され感 謝申し上ます。東京では濠⽣生活がめっきり植えました。御努⼒力力を祈りつつ カガワトヨヒコ * * * * 今年年(2009年年)3⽉月から神⼾戸⽂文学館において「空襲と⽂文学」展が開催された。現在も8⽉月末まで Part Ⅱとして好評開催中である。添付の写真は、昭和20年年3⽉月17⽇日の神⼾戸空襲で、元居留留地と税関⽅方⾯面が 延焼しているものである。神⼾戸でもこの年年1⽉月から128回もの空襲を受け、葺合新川を含めて焼け野原 となったが、もうひとつの活動拠点である⻑⾧長⽥田の番町は、焼夷弾の⽕火を住⺠民がひとつひとつ消し⽌止め焼失 を免れた。 その後のブログ UP の過程で、武内勝⽒氏の所蔵資料料に加えて吉⽥田源治郎郎⽒氏関連の諸資料料によって、戦時 下の様⼦子などもいくらか明らかになってきた。 (2009年年8⽉月20⽇日⿃鳥飼記す。2014年年2⽉月26⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(43) 賀川の証⾔言:キリストと「涙」と私の問答 前回では戦時下、東京における空爆の下で、神⼾戸の武内勝に宛てた賀川の⾒見見舞い状を取り上げた。 ここではその「追記」として、賀川の傑作のひとつ「⼩小説キリスト」(昭和13年年、改造社)を原作に、 ⼭山路路英世が戦後昭和22(1947)年年に脚⾊色して完成出版させた「戯曲キリスト」 (新⽇日本)の冒頭にお いて、賀川が書き残した重要な証⾔言があるので、紹介しておきたい。 これは1947年年5⽉月21⽇日の⽇日付のものであるが、いまでは余り⼈人々の眼に留留められていないものか も知れないので、戦時下と敗戦時の賀川の「魂の内側」を⾒見見る⾔言葉葉としていま、⼼心に留留めておくのも意義 深いものと思われる。 以下はその⼀一部である。 * * * * キリストと「涙」と私の問答 私「盲⽬目の⽇日本の指導者、私は監房に閉じ込められて、⽇日本の落落ちて⾏行行く将来が⼼心 配になる。」 私がそう⾔言って、独⾔言を⾔言っていると、⽬目頭の涙が⼩小さい声でささやいた。 涙「実際、⽇日本はだめですよ。すべてに⾏行行きつまっている⽇日本に希望なんて持てる もんですか。今に⾒見見ていてごらんなさい。⽇日本全体が涙の洪⽔水にしたる時がありま すから。」 涙が恐ろしい預⾔言をするので、私は⾝身ぶるいした。私は⼆二昼夜、東京渋⾕谷憲兵隊の独房に端座したまま、 横にならずに黙祷をつづけていた。するとキリストが、魂の内側から姿を現わして、私の⾁肉体を占領領し、 ⾁肉体の内側から、⽪皮ばかりになっている、私と涙に呼びかけた。 キリスト「私はあなたの霊の内側に住んでいるキリストです。あなたは救いを外側に求めてはなりません。 あなたが尋ねない先に私はあなたを尋ね、あなたが愛さないうちに私はあなたを愛しています。私はあな たを誤解のうちに守り、ゴロツキの襲撃に対しても、常に保護し、悪漢のピストル、貧⺠民窟のだらく、無 知な軍閥から守って来て上げたキリストです。あなたは外側の奇跡を信じてはなりません。私は永遠のキ リストです。病をいやし、罪⼈人をなぐさめ、亡びた国を興し、叛ける放蕩息⼦子を⺟母の許にかえす愛の⼒力力そ のものです。」 その澄み切切った声に、私は股の間に突っ込んでいた⾸首をちぢめ、1900年年前、⼗十字架の上に死んだキ リストが永遠に⼈人間の悩みを負う強き霊⼒力力である事を発⾒見見した。御光は私のうちに住むキリストよりさし 出て、抜けがらのようになった私の⽪皮を貫いて、憲兵隊の監房を照らした。それは私に取っては⽣生死を超 越した絶対なる信仰である。神の救いの⼒力力を経験した、有難い瞬間であった。 内側に住んでいてくれるキリストは、真昼でも真夜中でも私の⾏行行くところは何処にでも付いて⾏行行ってく れる。それで私は如何なる困難にも、如何なる強迫にも、⼤大胆不不敵なる⾏行行動を取ることに決定した。キリ ストが内側に住んでいるのだ。そう思う瞬間、歴史上のキリストは現実のキリストである。晴れに、くも りに、時⾬雨に、暴暴⾵風⾬雨に私は少しも恐れる必要がない。 1945年年3⽉月9⽇日以後、東京は⽕火の海と化した。その⽕火の海の中にも私は内側に住み給うキリストを 信頼して疎開することを肯じなかった。私は⽕火の海の中に取り残された最後の悩める者の中に、⼗十字架の 愛をたてねばならぬと決⼼心した。 ⽕火の⾬雨が天から降降って来た。私の隣隣保館も皆燃えてしまった。私の軒先にも数⼗十尺の⽕火柱が⽴立立った。私 は⽕火の⾬雨をさけるために逃げ廻った。然し私は太陽が出ると、また悩めるものを尋ねて徒歩で数⾥里里の道を 往復復した。栄養失調はつづいた。体重の四分の⼀一を失った。然し私は内側に住み給うキリストを信頼して、 少しも不不安は持たなかった。 キリストと共に⼗十字架に死ぬのだ。そしてキリストともに墓から甦るのだ! そんなことを⾔言いつつ、 杖にすがりつつもキリストと歩む道をふむことを決⼼心して悩める者を探して歩いた。 1945年年8⽉月15⽇日、⽇日本は完全に敗退した。終戦後、私は暗殺する者があると⾔言うので、私が栃⽊木 県の森の中に隠れた瞬間にも、⼜又キリストは付いて来てくれた。 キリストはいつも魂の内側から呼びかけていてくれる。キリストの眼は私の眼の内側から⾒見見、キリスト の⼝口は私の⼝口の内側から、そしてキリストの⽿耳は私の⽿耳の内側から聞いていてくれる。キリストは内側に 住んでいてくれる。そして私に限らず、愛の餓えている者に取っては、キリストは必ず、内側から魂の扉 を開いて⼊入っていてくれる。ただ魂の扉を開かぬものに取っては、いくら⼊入りたくても、キリストは⼊入っ て来られない。 暴暴⾵風に、疾⾵風に、滅亡に、インフレーションに、⼈人⽣生の波頭がどんなに⾼高くてもキリストは私の魂の内 側から必ず守っていてくれる。そしてキリストはまた、凡ての⽇日本⼈人を祝せんが為に今⽇日も涙を流流して我 等の為に祈っていてくれる(以下略略)。(1〜~3⾴頁) * * * * 「涙」と私とキリストと、豊彦らしい「対話」⾵風の詩的な表現で、彼の⾒見見たこと、活かされて来た事実 を、このように書き刻んだ。 ⼭山路路英世が脚⾊色した「戯曲キリスト」(新⽇日本、1947年年、335⾴頁)は、賀川豊彦の「⼩小説 キリス ト」(改造社、昭和13年年、551⾴頁)を原作としてなったものである。 今も注⽬目を浴び続ける「⼩小説 キリスト」は、最近(2014年年)ふたつ、⼿手 に取って読むことができるようになった。 ⼀一つは国際平和協会並びに賀川記念念館において刊⾏行行案内が公開され(「Think Kagawa」2014年年2⽉月8⽇日付のサイト参照)、もう⼀一つは限定復復刻版として 松沢資料料館の企画があります。参照のうえ、御⼀一読あれ! (2009年年8⽉月21⽇日⿃鳥飼記す。2014年年2⽉月27⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(44) 中村⽵竹次郎郎:武内勝先⽣生を語る ただ今このサイト(現在は http://k100.yorozubp.com/ において公開中)で、 武内祐⼀一⽒氏からお預かりしている「武内勝関係資料料」の「⽟玉⼿手箱ふたつ」をこの 場で少しずつ紹介させていただいているが、他にダンボール⼆二箱を神⼾戸イエス団 教会で預かられていて、過⽇日(2009年年8⽉月6⽇日)これの整理理のお役も引き受 けることになった。 そこには多くの雑誌類(「雲の柱」 「世界国家」 「湖畔の声」や武内⽒氏の愛読され た内村鑑三の「聖書之研究」など)が収まっていた。 その中に、次の作品が眼に留留まったので、 「武内勝」という⼈人をすぐ⾝身近に接し ている⼈人の⼤大切切な証⾔言のひとつとして、ここでそれをご紹介しておきたい。 (「雲の柱」の⽬目次には「武内勝先⽣生⼩小伝」とあるが、本⽂文のタイトルは下記のように「武内先⽣生を語る」 である。) * * * * 「雲の柱」第16巻第4号(昭和12年年4⽉月号)所収 武内 勝先⽣生を語る 中村⽵竹次郎郎 「私は若若い時、体を⼋八つ裂裂きにして此の⼀一⾝身をキリストに捧げたいと思った。唯⼗十字架の死を憧憬るる だけでは物⾜足りないので」 武内先⽣生のかく語らるる⾔言葉葉を聞いた時、私は慄慄然として先⽣生の温容を今更更の如く⾒見見守ったことだった。 温容の⾔言葉葉に相応しい先⽣生のあの顔を。 読者の誰でも、私が「慄慄然として」といふ驚愕の形容を使ふことを不不思議とせられるかも知れない。私 は読者に告げたい。事実、武内先⽣生の温顔を知ってゐる者は、此の形容の真に妥当なることに賛成して呉 れるに違いない。 それ程武内先⽣生の顔⾯面は春⾵風駘蕩である。それ程此の如き決意の表⽩白が⼈人に与へる印象は、先⽣生の持つ 温容さと或る峻烈烈な対象を為すのである。 未だに矍鑠として御健在で、神⼾戸市役所社会課の⼀一吏吏員として救貧の業に勉励せられる武内先⽣生を、⽇日 本基督教徒として持つことは我等の誇りである。 武内勝先⽣生の名は、私が想像する以上に⽇日本の朝野に広く往き亘ってゐるかも知れない。近い所では、 ⼆二⽉月の中旬の神の国新聞に先⽣生の簡単なアウトラインが出ていた。或いは基督教家庭新聞に、或いは諸種 の⼩小雑誌に先⽣生は直接間接に我々に紹介されてゐられる。然し、卓抜なる才幹に恵まれてゐられない先⽣生 の名前は「輝きを放つ」にあらずして、所謂「地味浸潤」の類である。 さりながら、天国に若若し⼈人間の真価を記載するノートの如きが備わってゐるなら、私は敢て考える。先 ⽣生の如きは特筆⼤大書さるべき位置の与えへれる⼈人である。そして天賦の器とそれに準じて信仰を以て活き 抜く⽐比率率率を正確に計る機械が天国に備ってゐるなら、実に我が武内勝先⽣生の計算表は殆ど百点に近いでだ ろう。或は満点を越すかも知れない。 ⽗父なる御神の綻びてゆく笑顔を、私は眼のあたりに眺める気がしてならない。 それ程、武内先⽣生は逆境征服した健闘の⼈人である。そして凡ての悲運を信仰を似て制御した勇者の例例に 洩れず、先⽣生も⾎血と涙の⼈人である。涙の⼈人である。 先⽣生は嘗て詠われた。 “貧しき⼈人の、友となります。 死ぬ迄も、幼き⼦子供に、御恵みを、与えてください。 ⼀一枚の⾐衣でも、悪い環境に育つ⼦子に、天の恵みを祈ります。“ 此の⼩小さい詩は数年年前、先⽣生の⽰示された⼩小さい紙⽚片に記されてゐるのを⼀一⼨寸拝⾒見見しただけなので、或い は私の記憶に間違ひがあるかも知れない。 私は此の詩を読んで事実泣かされた。今でも瞼の熱くなるのを覚えるが、此の余り上⼿手とは⾒見見へない詩 の⼀一節に、先⽣生の活ける四⼗十四年年間の貴い精神の結晶を⾒見見た感がしたからである。 率率率直に⾔言はう。武内先⽣生は、 「死線を越えて」に出て来る⽵竹⽥田なる篤実な⻘青年年のモデルである。⼜又「⼀一粒粒 の⻨麦」の主⼈人公嘉吉の後半⽣生のモデルでもある。そして私の信仰上の先⽣生である。 「体を⼋八つ裂裂きにして此の⾝身をキリストに捧げたいと思った。」 昨⽇日も今⽇日も、⼜又明⽇日も天の運⾏行行に歩調を合わせて往く如く、業務の余暇を挙げて貧者の友と成って働 かれる⼀一⾒見見平凡に感ぜられる先⽣生の肺肝かかる熾烈烈な信仰が潜められてゐる様とは思わなかった。 私は只慄慄然として頭垂れ、先⽣生の過去を追想せざるを得ない。 ⼆二宮尊徳翁は幼児から独⽴立立の気性が強かったさうであるが、武内先⽣生も⾚赤貧の中から、不不屈の魂を以奮 闘された。 ⼗十四歳の勝少年年は既に⼈人⽣生の嵐嵐を経験しなければならなかった。⽗父⽤用三⽒氏は幾多の鉱⼭山事業で失敗する し、幼い弟妹を抱えて⺟母の⾯面倒を⼀一⾝身に引き受けねばならなかった。勝少年年はさぞ悲涙に暮れて、故郷備 前の国⻑⾧長船の農村に訪れた冷冷たい逆⾵風を恨めしく思ったことであろう。 ⾏行行き暮れた⽣生計の中で⾷食を採ることを潔しとせられ無かった少年年勝は、単⾝身岡⼭山に出る覚悟を決めた。 その⾎血潮の中には名⼯工⻑⾧長船の熱塊に等しい負けじ魂が在った。明治四⼗十年年五⽉月⼆二⼗十四⽇日のことである。 寒村を跡にする少年年の眼には尽きぬ涙があった。中国⼭山脈の脚下に伸びて広がる⼋八⼗十⼾戸から成る寂しい 村の遠い外れに⽴立立った少年年は、絶命の思ひの中から朧げに我が⾝身を託する天地の霊に呼びかけたであろう。 「草鞋を履履いて私は遠い旅に上ります。⺟母と弟妹に御恵みがあります様に。」 さらば、故郷よ。 彼は握り拳で両眼の涙を拭くのであった。草鞋は梅⾬雨の泥泥⼟土に濡れて⾏行行った。 岡⼭山へ⾟辛うじて着いたが何処の世界も冷冷たかった。死の誘惑に打ち勝ってその年年中、⾷食ふ才覚をしなけ ればならなかった。彼の無類の忍耐性は徐々に⾼高められて⾏行行ったが依然糊⼝口に窮しなければならなかった。 東の⾵風の便便りに聞くと、⼤大阪は景気が良良いとのことだった。⼀一⾯面不不安な気持ちがしたが⽮矢も楯も堪らぬ 気が、運を天に任しての旅路路を急がせた。 明治四⼗十⼀一年年⼀一⽉月元旦の朝、笠笠岡発の和船は天保⼭山に着いた。内海の航路路の間中、彼は幾度度星と波に⼰己 の運命を尋ねたことだろう。幾度度冷冷たい蒲団の中から迫り来る死の予感に体を震わせたことだろう。 来て⾒見見れば流流⽯石に⼤大阪は⼤大きい街であった。元旦の朝は景気が良良かった。波⽌止場の端に降降りて⼤大阪の⼟土 の臭いを嗅いだ彼は感慨無量量だった。勇気を⾝身内に覚えると共に郷愁の涙に誘われて⾏行行った。彼は繁華な 通に⾜足を⼊入れると共に正⽉月の賑やかさに丸い眼を瞠らせて、宿を探した。 「それから⿉黍団⼦子屋を始めましてね。⽇日本⼀一と銘打ったのです。⼀一⽇日町を歩いて⼆二升の団⼦子が売れまし たよ。六六⼗十銭の総売上⾼高で⼝口銭はその半分の三⼗十銭でした。 その時のことです。今でも忘れられぬ思ひ出話ですが、⼤大阪の九条の花薗橋の上に荷物を肩にして差し 掛かったのですが、実際寒くてね、⼿手がちぎれさうでしたよ。すると前から四⼗十格好の伯⺟母さんがやって 来るのです。私の顔をジーツと視てゐましたが、何と思ったのか私の傍へつかつかと寄って来ましてね、 懐から焼き芋を取り出して私に⾷食べなさいと⾔言ってくれるのです。私はその時⾔言葉葉が出ませんでした。受 け取ってその焼き芋の暖かさで体を温めながら⾒見見知らぬ伯⺟母さんの過ぎて往く後姿を合掌して拝みました。 ホロホロ涙が出て仕⽅方がありませんでしたよ。その時私は泣きましたよ。」 武内先⽣生は今でも此の思ひ出話をせられる時泣かれるのである。そして我々も貰い泣きをするのである。 その中、⽇日本⼀一の少年年に売られる⽇日本⼀一の⿉黍団⼦子の販路路も少なくなって⾏行行った。春四⽉月の初め、九条の 宿屋の⼀一室で勝少年年は思案をした。 「そうだ。蚤取粉を売ろう。夏は暑いから蟲も出るぢゃろ。」 ⾟辛苦の中にも、楽天の気性を残してゐた少年年は、⼈人々の勧めに従って神⼾戸に⾏行行くことにした。 神⼾戸の南京⾍虫が、先⽣生を神⼾戸へ引き付けたと考えると、⼀一抹の諧謔を覚えるではないか。善良良なる精神 に恵まれた勝少年年だが、幸か不不幸か、商才に⽋欠けていた。蚤取粉屋から鯛焼屋に、ドラ焼屋に、更更にマッ チ貼りに、丸い額に思案の苦皺を浮かばせての奮闘⽣生活が始まった。さうした間に故郷から家族を迎えね ばならなかった。 神⼾戸新川貧⺠民窟での丸半ヶ年年間の⽊木賃宿⽣生活を引払って勝少年年は三町程北北の⼋八雲通りの⼆二階を借りるこ とにした。⼰己を加へて⺟母⼦子五⼈人の⾎血の滲む⽣生活が之から始まるのであった。 働き⼿手は彼独りだ。東亜エナメルへ就職した時⼀一⽇日の⽇日給⼗十⼆二銭を戴いたが、⼗十⼆二銭の銅銭を持って帰 る彼の⼼心は重く沈沈んでゐた。⺟母は腎臓で寝たり起きたりだ。弟は三⼈人あっても皆頑是ない。疲れた四肢を 鞭打って夜業に出なければならなかった。 武内先⽣生は涙ぐんで語られるのである。 「時世が変わったもんですね、あの頃は膏薬を売りに⾏行行くのに袴をわざわざ着けて提灯を持ったもので す。鞄の中に膏薬を詰めて⼩小路路から⼩小路路を廻って、 「ハー膏薬」と唸って歩いたものです。その唸り声が中々 思ふ様に出来ませんのでね。⼈人の居らないところで⼩小声で稽古したもんですよ。恥しかったから――実際 往⽣生しましたよ。通⾏行行⼈人から「こら新⽶米」と⾔言って冷冷やかされたり、 「もっとはっきり⾔言え、膏薬なら膏薬 と」と怒怒鳴られたり、いや⽬目も当てられませんでしたよ。」 五⼗十枚売る為に、少年年はどれ程苦労したか。幾度度星を⾒見見上げて泣いたことか。五⼗十枚売って終ってやっ と⼆二⼗十銭の利利だった。売れても売れなくとも帰る道すがら、彼は彼⾃自⾝身に課せられた労苦に泣いて⾏行行った。 帰宅宅すれば三つになる弟が⾷食物をねだる。⺟母の看病はしなければならず、薬代を差引いた僅かの⾦金金で⾷食 うべき運命にある⼀一家族は、お粥と芋で⼀一⽇日を済ます時が幾度度もあった。 「三つの弟に⾷食べさせるものが何も無い時は、貧乏の⾟辛さを泌泌々と感じましたよ。近所の中学⽣生の通⾏行行 姿を⾒見見ては電柱の蔭で⼈人知れない涙を流流しましたよ。何しろ三百六六⼗十五⽇日の間休みの⽇日が⼀一⽇日もありませ んでしたのでね。」 かかる苦労を経た⼈人が現在同じ時世に⽣生きて、熱烈烈な信仰を以って⽣生活と苦闘して⾏行行ってゐられる事実 を、若若き⼈人々は忘れてはならないのである。寔に活ける証明である。失望に沈沈み易易い弱き魂を叱咤する活 ける証明である。武内先⽣生の⾏行行路路には、如何なる時にも奮闘の⼆二字が流流れてゐる。涙の⽣生活の連続の中か ら⽴立立ち上がって⽣生きるだけ⽣生きて往かうとの不不断の克⼰己の記録であった。かかる⽣生活の間に在っても些か の歪曲を霊魂に齎さないで、純に眞に純に次の⽣生活を開拓拓されたことは驚嘆の他はない。 現在でもさうであるが、先⽣生と対座してゐると、絶望するな、必ず道は拓拓かれるとの励ましを受ける気 がしてならない。恐らくそれは先⽣生⾃自⾝身の苦闘とその勝利利の結晶が、先⽣生の⼼心魂に宿ってゐて、弱い魂を 無意識識の中に鞭打って下さるからであらう。 勝少年年は独⽴立立の⽣生活に憧憬れる様になった。或る⽇日の事、⼯工場主の前に出て素直に所志を披瀝した。 「⾙貝ボタンを⾃自宅宅でやらうと思ふんです。少しでも⽣生活の為に考えなければなりませんので」 ⽣生活の問題を考えるべく宿命づけられた少年年は真情を吐露露して今後の⽅方針を主⼈人に話した。 主⼈人は泣いて引留留め様とした。 「お前に去られることはわしは⼦子供に死に別れる思ひがする」 主⼈人の涙は⽌止まらなかった。それに引き連れて少年年勝も哀別の悲しみに沈沈んで⾏行行った。然し意志の強い 此の少年年は⾃自ら発⾒見見した指針の下に⽣生活を始めるべく⼯工場の⾨門を出た。 勝少年年は独特の計画に従って⾃自宅宅を⼯工場にした。必要な機械を揃へて先ず⾃自分⼀一⼈人から⾙貝ボタンの製造 に着⼿手して⾏行行った。 先⽣生の回想の物語を聞かう。 「仕事って⾯面⽩白いものです。時計を傍に置きましてね。針が動くに連れて、歌を唄ひながらボタンを作 るんですよ。どうしても⼀一時間に⼆二百個こしらえる積もりですと必ず出来ますが、時計なしですとつい能 率率率が上がりませんね。つまり⼗十五分間に五⼗十個作るわけです。朝早うから夜遅うまで働きまして、⼆二千個 はきっと製造しましたよ。仕事って⼀一⽣生懸命やれば⾯面⽩白いもんですね。」 機械も⼀一台より⼆二台へ、更更にもう⼀一台と⾔言う様に追加された。従って⾃自分⼀一⼈人では⼿手が廻らないので雇 わねばならなかった。勝少年年は⼗十七歳にして遂に⼆二⼗十名の雇⽤用者を持つ親⽅方となった訳だった。 「それから賀川先⽣生が、私の⽗父の依頼に応じて、私の宅宅へ聖書講義に来て下さいましてね。私は耶蘇教 を信ずる様になって現在に⽴立立ち⾄至りました。それからべったり此のイエス団に来る様になりました。」 武内先⽣生は温顔を更更に綻ばせてニッコリとせられた。 武内先⽣生の⻘青春はかくして⼀一回の失敗も無くして過ごされて⾏行行った。信仰を杷持してからの先⽣生の活動 は世間周知である。キリストの為に如何に⼗十字架に架からんかが先⽣生の全部であった。そして先⽣生は賀川 先⽣生を唯⼀一の師と仰いで尊敬してゐられる。 ⽗父の御神よ 我が世の旅路路 楽しかれとは 祈りまつらじ 負へる荷をさへ とりてとは いのりまつらじ 三百六六⼗十⼀一番のこの賛美歌は、武内先⽣生の為に作られた様なものである。 マーテルリンクは「蜂は暗⿊黒裡裡に働き思想は沈沈黙裡裡に働き、徳は秘密裡裡に働く」と教へて呉れてゐるが、 武内先⽣生の今⽇日の盛望こそ、徳は秘密裡裡に働くとの彼の⾔言葉葉を雄弁に物語るものである。 然し、先⽣生⾃自⾝身は常に⼰己の弱さと⼰己の不不徳とを⼈人に訴へてゐられる。賛美歌が公衆に唱はれる最中、感 極まってソーッと瞼にハンカチを当ててゐられる姿を⾒見見る時、此処にこそ弱きが故に我強しとのポーロの 不不滅の⾔言葉葉を⾝身を以って実証してくれてゐる活ける⼈人間のあることを泌泌々と感ぜさせられる次第である。 涙の⼈人である先⽣生の祈りは⼜又いつも涙に依って始められ涙に依って終わるのである。眼を真っ⾚赤にして 涙痕の跡鮮やかな両瞼に⽩白いハンカチを押し当ててゐられる姿は、私の⼤大きい霊的魅⼒力力であった。 パピニは⾔言ってゐるではないか。 「聖者にして、⾃自らを聖しと思ふもの無し」とロダンは、バーナードショーの姿を三⼗十分間に作り上げ て、ショウの特徴を遺憾なく刻んだと⾔言うが、先⽣生のこの内部に悲しみを秘めて外に出さず、弱き⼰己の中 から常に新しい世界を創造して往く。貴いこの⾄至愛の結晶の五尺⼆二⼨寸余の姿をロダンの前に三⼗十分でもい いから置かせてゐただきたいものだ。否ロダンを武内先⽣生の前に⽴立立たしたい。 ロダンは⾔言ふだろう。 「武内勝⽒氏の姿を刻む前には聖書のキリストの⼗十字架に架かる條りを全部読んでかかりたい。勝⽒氏の霊 魂の⽴立立体化は、⼗十字架への信仰なくして如何なる彫刻家も為し得ない」と。 兎に⾓角、先⽣生はまだ⽣生きてゐられる。⼼心強いことではないか。嬉しいことではないか。諸君よ、共に欣 ばう。我々の同志はまだ健在だ。そして我々⾃自⾝身が⼈人⽣生途上に逢ふ如何なる患苦も、それを共に悩み苦し んでくれる最も純粋の⼈人がゐるのだ。否、遠⽅方の⼈人はよし武内先⽣生の姿に触れることが出来なくとも、か かる⼈人が⽇日本の同じ⼟土の上に今活き今⽣生存してゐることを信じて、我々は励まされて共に元気よく⽴立立ち上 がろう。 その意味に於いて先⽣生の姿は⾔言葉葉なき激励の詩⼈人である。(了了) * * * * 「中村⽵竹次郎郎」と⾔言う⽅方については、名前さえ知らなかったが、「雲の柱」昭和14年年2⽉月号を⾒見見ると、 「武庫川の畔にて」という欄に、賀川豊彦が中村⽵竹次郎郎⽒氏について短く記していて、彼は「⼆二代⽬目クリス チャンで、帝⼤大卒の同志」であるこという。 何れ今後、この⽅方に就いてもいくらか知る事が出来るはずである。 (2009年年8⽉月24⽇日⿃鳥飼記す。2014年年2⽉月28⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料よ り(45) 「⼩小さき⼈人⽣生の完成者」武内美邦ちゃん 前回は武内所蔵資料料に残されていた賀川の個⼈人雑誌「雲の柱」の中にあった中村⽵竹次郎郎の「武内勝先⽣生を 語る」を紹介した。ここではもうひとつ「雲の柱」に掲載されていた⼤大事な書簡を取り出しておきたい。 それは、武内勝・雪夫妻のご⻑⾧長男「美邦」さんが、昭和14年年4⽉月17⽇日に満10歳と6ヶ⽉月という短 い⽣生涯を終えたとき、⽗父親の武内⽒氏が、その哀惜の思いを敬愛する「賀川春⼦子様」宛てに書簡を認め、報 告している。4⽉月22⽇日付けの⼿手紙であるが、それが「雲の柱」第18巻第6号(昭和14年年6⽉月号)の 46〜~47⾴頁)に収められていた。 まだこの場では紹介できていないが、武内勝⽒氏は、昭和2年年8⽉月1⽇日から昭和4年年6⽉月5⽇日までの2年年 間⾜足らずの重要な「⽇日記」を書き残している。あの激動の時にあって、時代の動きをはじめ仕事場のこと、 イエス団のこと、そしてご家族のことなど、毎⽇日200字程度度の短い⽇日記を記録され、それが残されてい る。 丁度度そこに、ご⻑⾧長男「美邦ちゃん」の誕⽣生の記録がある。その⽇日の⽇日記には、 「昭和3年年11⽉月7⽇日朝4時30分男児誕⽣生」 「この児が将来神様の御⽤用を務むる者となる様に、今より 神の御⼿手に委ね、神の⼦子として預かり、之を充分教育せなければならぬ。天の⽗父の御祝福豊かならん事を 祈った」 とあって、武内の喜びのことばが踊っている。その⽇日以後の⽇日記の中⾝身は、微笑ましいほどに「美邦ちゃん」 をめぐる記録で多くを占められることになる。 以来「美邦ちゃん」は、ご家族と共に「満10歳と6ヶ⽉月の⼈人⽣生」を⽣生きた。 残されている「アルバム」の中の両親と共に写されているものを、ここに添付させていただく。 ⽗父勝⽒氏にとって、ここに書き留留めた「賀川春⼦子様」宛ての書簡は、特別のものであるに違いない。 * * * * ⼩小さき⼈人⽣生の完成者 武内 勝 賀川春⼦子様 (前略略)岡⼭山の叔⺟母は去年年発病以来、天国に⼊入ることを慶び、⽣生前より私の霊魂は既に天国にあり、唯⾁肉 体のみこの世に残っていると申しまして、或る⽇日岡⼭山の佐藤牧師が⾒見見舞われて帰られる時、今⽇日はこれで お別れいたし、次回は天国でお眼にかかるかも知れませんと挨拶せられしに対し、叔⺟母は直ちに、私には 別れるということはない、既に永遠の世界に移されているので、別れるとか離離れるとかの区別がないと答 えたそうで、実に喜び勇んで昇天致しました。村の⼈人達も、教会員も、家の者も叔⺟母の勝利利の⽣生涯を感謝 いたした次第で御座います。 また、美邦は去る九⽇日叔⺟母の告別式のため家族と共に参りましたところ、その晩より急性肺炎にて四⼗十 度度の発熱となり、直ちに医師に就いて⼿手当てをいたしましたが、経過思わしからず、⼗十三⽇日岡⼭山の⼤大学病 院に⼊入院し、病院では⾄至れり尽くせりの⼿手当てを施し、看病の者も最善を尽くして下さったのですが、竟 にその効なく⼗十七⽇日午前⼗十時三⼗十分永眠致しました。 美邦は病気中随分苦しみました。肺炎の痛みに呼吸の困難に、⼀一⽇日数⼗十本の注射に耐えることは容易易で なかったと想像されました。然し私は、余にも美しい⼼心を持って天国へ参りましたことを知り、⼤大きな慰 めを感じて居ります。 ⼗十五⽇日朝、美邦は⽗父ちゃん僕はもう死ぬ様な気がすると申し、彼はその後で祈るのでした。第⼀一は⾃自分 の病気の治るように、第⼆二は世の中の貧しい⼈人達の救われるために、第三は傷痍軍⼈人の護られることを、 第四は病院へ⼊入院している患者の健康恢復復について、第五は病者のために働く看護婦の恵まれるように。 そして私に対しては⽗父ちゃん⾊色々お世話になってありがとう、今までのわがままや、悪い事をしたことを 勘弁して頂戴と、両親に向ってこの世の最後の挨拶を述べ、久仁⼦子はどこに居りますか、千恵⼦子はどうし ていますかとふたりの妹の安否を問いました。 ⼗十六六⽇日は、⽗父ちゃん僕はもうこの世の⼈人でないと申しました。暫らくして、⽗父ちゃん聖書を読んで頂戴 と要求しましたので、マタイ伝⼗十⼋八章の初めを読みました。すると僕は祈ると申しまして、⾃自分がわがま まであるから病気したと考えてそのことや、従来の悪かった⾏行行為について神様に懺悔いたしました。多分 天国へ⼊入る⼼心の準備をしたのでありましょう。 ⼗十七⽇日の朝は急に様⼦子が変わりまして、何か⼝口を動かしたかったようでありますが、聞き取れませんで した。その午前⼗十時三⼗十五分遂に⼈人⽣生⼗十年年六六ヶ⽉月の旅路路を終わり天国へ参ったのであります。 美邦の⽣生前の唯⼀一の楽しみは、毎⽇日曜⽇日の朝、村の⼦子供達を⽇日曜学校へ集めて来ることでありました。 朝早く⾃自転⾞車車に乗り、余り熱⼼心に勧誘して廻りますので、妻が、美坊勧めるのは結構だが、無理理に引っ張 ってこなくてもいいと申しますと、⺟母ちゃん無理理からでも引っ張って来なければ誰も来ないというのでし た。そうした友達の中に、⽇日曜学校も中々いいものだと褒める者があるとそれを無上の喜びとして、⺟母ち ゃん誰それはきっと続いて来るよなどと友⼈人を⽇日曜学校へ連れて来るのを、⼩小さき彼の使命としていたよ うでした。 美邦は賀川先⽣生の孫であって、雑草の研究が好きで、⽡瓦⽊木付近に百種類ばかりあると申して居りました。 指導者の埴⽣生さんが美邦の質問を辞書によって答えたらしいです。 動物に対してもやさしいので、去年年の春⼀一⽻羽の雀の⼦子が家の中へ⾶飛び込んで来ました。それを捕まえて 逃がしたのですが、よう⾶飛ばなかったので妻に相談して、⽔水を飲ませることとし、逃がしたものをもう⼀一 度度捕えるため籠籠を伏せる拍⼦子に⾜足を折り、⼩小雀は遂に死んでしまいました。それで美邦は雀の墓を造り、 昭和⼗十三年年五⽉月廿⼀一⽇日と記した墓標を⽴立立て、その前に⾃自分が悪かった、どうぞ天国へ⾏行行って下さいとお詫 びをしているのでした。親雀は屋根の上で、⼩小雀を捜してちゅうちゅうと鳴いている、彼はそれを作⽂文に しましたが、今は私が親雀となりました。 美邦は朝洗⾯面が終わると、⽗父ちゃんお早うございますと両⼿手を畳について挨拶し、私の外からの帰りに は、廊下の板に頭をすりつけて、お帰りなさい、お疲れでしょうと迎えてくれ、時には、私の肩と腰を揉 んでくれましたが、そのために特別早起きしてくれたこともありました。本⽉月五⽇日の如き、妻と⼆二⼈人で語 り合いました、美坊はどうしてこんなに⼼心得がよいのだろうか、何か変わったことが無ければよいが・・・ と。 私は美坊のために感謝いたして居ります。彼は寿命百年年を許されたとしても、他⼈人のために祈ることを 知らず、友を神の教へに導くことが出来なければ、私においては苦痛であり不不孝であります。⼈人⽣生⼗十年年六六 ヶ⽉月必ずしも短くないと存じます。神を知りその教えを守り、神様を天の⽗父と仰ぎ且つ信頼し、永遠の⽣生 命を信じて、天国に⼊入るを得ましたら、彼も幼いなりに⼩小さき⼈人⽣生を完成したものでしょう。天の⽗父が彼 に⻑⾧長寿は給わりませんでしたが、神の国を従順に受け⼊入れる⼼心を賜りしを誠に有難く存じて居ります(昭 和⼗十四年年四⽉月廿⼆二⽇日)。 * * * * 武内御夫妻の貴重な「アルバム」が「⽟玉⼿手箱」に⼤大切切に残されていて、その中のそれぞれの写真がいつど こで撮られ、ひとりひとりの⼈人物の特定が必要であるが、まずご⼦子息の武内祐⼀一⽒氏にその確認作業をして 頂いた。 引き続いて現在、⼀一⻨麦保育園顧問の梅村貞造先⽣生に、御願いをしているところであるが、梅村先⽣生は、 この武内美邦さんとは幼馴染で親しい友達であったそうである。機会をつくって詳しくお話を聞いてみた い。 補記 この作業をすすめていく過程で、少しずつ新しいことを教えていただいてきたが、先ずはこの段 階では初出のものを少し補正を加えるだけにして、その後に新しく追加補正を⾏行行うことにする。 (2009年年8⽉月25⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月1⽇日補記) 賀川豊彦の畏友―武内勝⽒氏の所蔵資料料より(46) 賀川春⼦子「三畳敷の⾷食堂」「神は活く」 武内勝所蔵の「雲の柱」の中から、中村⽵竹次郎郎「武内勝先⽣生を語る」と武内の賀川春⼦子宛書簡「⼩小さき⼈人 ⽣生の完成者」を取り出してみた。 ここでさらに「雲の柱」に残された賀川春⼦子の短い⽂文章ふたつ「三畳敷の⾷食堂」と「神は活く」を紹介し ておきたい。いずれも⺟母親・春⼦子の眼と⼼心の伝わる名品である。 * * * * 三畳敷の⾷食堂 賀川春⼦子 私達は住居が時々変り、神⼾戸から東京、次に⻄西宮市外へ移って、再び東京に戻り、今の上北北澤に住むや うのなった。考えてみると、その何れもの家が、三畳敷で⾷食事をしてゐたことである。 先づ最初の家は⼩小説「太陽を射るもの」に出て来るやうに、主⼈人が鋸を持って床を張り、三畳敷の椅⼦子式 の⾷食堂が出来た。これは主⼈人が⽶米国に学んで帰った直後のことであった。 その頃⼤大宅宅壮⼀一⽒氏は、⾼高等学校の優秀な学⽣生であったが、⽢甘酒造りもまた優秀で私達を驚かせた。⿊黒い ⽑毛朱⼦子の⾵風呂呂敷に糀を包んで来ては、実にうまい⽢甘酒を造って貰って⾷食べたのも、その⾷食堂であった。 ⼦子供は⼆二歳の⻑⾧長男⼀一⼈人あったが主⼈人の助⼿手が幾⼈人も居たので、相当⼈人は多かったが、その狭い⾷食堂で済 ませてゐた。 三年年過ぎて関⻄西に帰り、⻄西宮市外に借家した。これが⼜又三畳敷を⾷食堂にするやうな都合になった。親友 杉⼭山元治郎郎⽒氏も移って来られ隣隣合せに住んで農⺠民福⾳音学校もそこに開校した。 ⻑⾧長男は学齢に達したので、⽡瓦⽊木村の⼩小学校に通学した。 昭和四年年であった。主⼈人が東京に出るので家族は再度度上京し、懐しい武蔵野の森に引きつけられ、上北北 澤の今の家に移って来た。 もう⼗十年年にもなって、⻑⾧長男が⼗十七、⻑⾧長⼥女女が⼗十四、次⼥女女が⼗十歳になった。 ⼦子供達の簡易易⽣生活の訓練をする意味で、幼稚園の⼆二階に住み、階下の⼀一間しかない畳の部屋を⾷食堂にし た。それが⼜又三畳敷である。 発育盛りの⼦子供達は、肩幅も広く背も⾼高くなり三畳敷は⼀一杯である。 狭い部屋で、味噌汁を⾷食べて満⾜足出来る⼦子供なら、いつ親に別れることがあっても、社会⽣生活の荒い波 も乗り切切れるからと、病⾝身の主⼈人は考へてゐる。 我家の⾮非常時は昔からで、今に始まったのではない。主⼈人は数⼗十年年来散髪は下⼿手な私ので⾟辛抱してゐる ので、⼦子供達も私にさせてゐる。 ⻑⾧長男は⾃自転⾞車車で中学校に通学し、⻑⾧長⼥女女は畑道を歩いて⼥女女学校の⼀一年年に学んでいる。 かうして⻑⾧長い間送って来た簡素の⽣生活は、苦しいものでは決してない。このうち無駄のない喜びを味ひ、 かつ感謝をさへ持てるものである。 (「雲の柱」第17巻第11号:昭和13年年11⽉月号) * * * * 神は活く 賀川春⼦子 星は移り、年年は変って、神⼾戸市葺合に救済事業を開始して早や三⼗十年年になり、之を回顧して、ひたすら 神の恵を感謝する。 貧⺠民窟の病⼈人の多いことは実に驚く計りで、正確に診察すると殆んどが病者である位、それが重いのは、 脳梅毒で頭の⼀一部が腐れて落落ちて居る者や、結核で⼀一家全滅の家、癩癩病で顔がくづれ、⿐鼻の無い梅毒患者、 癲癇で⼩小路路に倒れる若若者、髪振り乱して叫ぶ⼥女女と云うやうな、右を⾒見見ても左を⾒見見ても悲愴極まる状態であ った。 その当時、私達の住居、それはその中の借家で、茲で篤志な医者を迎へて、無料料診療療を始めてこの救済 に当てた。之が現今では診療療所の建物を持ち、四⼈人の献⾝身的な医師を与へられて仕事を続けて居る。これ も感謝である。 古⽊木で建てた、三畳敷⻑⾧長屋は⾬雨がもる、軒が歪む、⼈人が住むには余りに粗末に過ぎた。今は市が建てた アパートに或者は移り、住宅宅問題の⼀一部はこれで解決された。 救霊運動は最も⼒力力を注いで今⽇日まで継続してゐる。 免囚保護事業も、幼稚園も加わった。この隣隣保事業は⼤大阪にも伸 び、更更に東京にも仕事は殖へた。 その間理理解ある同志の援助と、神の恩寵を沁々と感じ、神活き給うの念念を深くされて居る。私共は絶え ずエリヤの如く、⿃鳥に⾷食物を運ばれ、尽きざる油壷を天より賜ひて、三⼗十年年の救済事業が続けられて居る。 (「雲の柱」第18巻第12号:昭和14年年12⽉月号) * * * * 予定より少々刊⾏行行が遅れているといわれる「賀川ハル史料料集」(緑陰書房)は既に店頭にあるかも知れな いが、そこにはこれらの⼩小品ももちろん収められているはずである。 補記 上記「賀川ハル史料料集」は「賀川献⾝身100年年記念念」の年年(2009年年)に全3巻が刊⾏行行され、 ハルのこの⼆二つの記事も雑誌掲載のままをスキャンして収められている。参考までにそのひとつをここに 加えて置く。 なお、家族5⼈人で撮られた写真は「賀川豊彦写真集」 にあるもので周知のものであるが、雑誌記事とは違う もので、「朝⾷食前の家庭礼拝」と説明書きされている。 上北北沢の家であろうか。 (2009年年8⽉月27⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月2 ⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(47) ⽶米国の旅 HOPI INDIANS 広く知られているように、1940(昭和15)年年8⽉月25⽇日(⽇日)松沢教会における説教「エレミヤ哀 歌に学ぶ」を終えた後、賀川豊彦は渋⾕谷憲兵隊に拘束され、9⽉月には巣鴨拘置所に留留置された。 松岡洋介らの尽⼒力力で賀川は、9⽉月13⽇日釈放され、神⼾戸から「ブジシャクホウサレマシタ ココロヨリ ゴコウイカンシャモウシアゲマス コンヤタツヨロシク カガワトヨヒコ」と打電している。 10⽉月、賀川の個⼈人雑誌「雲の柱」は発⾏行行停⽌止処分、直ちに廃刊となり、豊彦は⾹香川県豊島に隠遁して著 述活動に専念念する、という事態を迎えた。 しかし豊彦は翌年年(昭和16年年)4⽉月5⽇日、 「キリスト教平和使節団」の⼀一員として渡⽶米、アトランティッ ク、シカゴ、ニューヨークなどでの会議に出席、アメリカ各地を113⽇日間、⼀一⽇日平均3回の⽇日⽶米親善講 演会を開催して、8⽉月17⽇日に帰国するのである(詳細な経過は「⼈人物書誌⼤大系:賀川豊彦Ⅱ」630⾴頁〜~6 37⾴頁参照)。 なお、この「キリスト教平和使節団」の働きについては、横⼭山春⼀一著「賀川豊彦伝」(警醒社版)の「平和の 灯を消すな」 (396⾴頁〜~404⾴頁)の項でも、賀川⾃自ら書き残したこの時の「アメリカ遍路路記」を引⽤用しな がら、太平洋戦争開始直前の差し迫った状況が記されている。 * * * * 今回の絵葉葉書は、その「平和使節団」のときのものである。 差出は消印から⾒見見て、1941年年(昭和 16 年年)5⽉月7⽇日、SANT LOUIS 宛先は兵庫県⻄西宮北北⼝口⾼高⽊木 武内勝様 ⽂文⾯面は 留留守中、⾊色々お世話に なります。感謝します。 ⽶米国も主戦論論者が多く 仲々困難です。何処 も同じです。 祈って下さい。ロサンゼルス のイエスの友は実に親切切で 感謝しました。 皆様に宜しく 賀川豊彦 * * * * カラーの絵葉葉書は、アメリカ⼤大陸陸最古の先住⺠民として知られる「HOPI INDIANS」。 「HOPI」は「平和の ⺠民」の意でマヤ⽂文明の末裔とされる。 賀川がここを訪ねたかどうか、またアメリカ先住⺠民族について彼はどう⾒見見ていたのかなどは、未確認で ある。 豊彦はこの旅の途上で53歳の誕⽣生⽇日を迎え、次の詩を残した。 * * * * 五⼗十三年年の誕⽣生⽇日 ユタの砂漠に 五⼗十三年年の誕⽣生⽇日を迎えぬ 汽⾞車車の旅 今⽇日もまた 彷徨の 野⼈人に 恩寵のみ 數數へられて 尊し ⼀一九四⼀一、七、⼀一〇 汽⾞車車中にて ユニオンパシフィック * * * * この詩は、⽇日独書院から昭和18年年に刊⾏行行された賀川の詩集「天空と国 ⼟土を縫合せて」に収められている(223⾴頁〜~224⾴頁)。詩集の表紙の装 丁と「雲柱」の墨絵は署名にもあるように「トヨヒコ」のものである。 (2009年年8⽉月29⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月 3 ⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(4 8) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(1) 昭和2年年8⽉月1⽇日〜~昭和4年年6⽉月5⽇日 この「武内勝⽇日記」は、使⽤用済みの A4版帳簿(「負傷者疾病共済原簿」 「毎⽉月の⼊入⾦金金簿」 「疾病負傷統計」 など貴重な資料料)を活⽤用したもので、昭和⼆二年年⼋八⽉月から書き始め、昭和四年年六六⽉月五⽇日まで⽋欠かさず記され ている。 何故武内はこの⽇日記をこの時に書き始めたのか分からない。これまで の⽇日記もあるはずであるが、戦前のものはこれだけが残され、これが武 内の最も古い⽇日記である。 ところで、武内が歩みを共にした賀川の「露露の⽣生命」 「溢恩記」などの 「⽇日記」は1991年年に「賀川豊彦初期史料料集」(1905年年〜~1914年年) として緑陰書房から出版され、ハルの「⽇日記」なども最近「賀川ハル資 料料集」として同じ出版社より活字化された。 武内の書き残したものの中で⼀一番纏まったものは、今回紹介しようと している2冊の「⽇日記」である。 1冊は、昭和2年年から4年年のもので「⽇日記」とも何とも書かれていないが、便便宜上ここでは「武内勝⽇日 記 A」としておく。そしてもう1冊は、賀川没年年の翌年年となる昭和36年年度度⼀一年年分の「⽇日誌」である。こ れも便便宜上「武内勝⽇日記 B」としておく。 武内が戦後の「⼿手帳」に書き残している断⽚片的なメモ類と「武内勝⽇日記 A・B」とは、「神⼾戸イエス団」の歴 史的経過をたどる上での貴重な基礎資料料となるものである。その他の「武内勝所蔵関係資料料」をあわせて 整理理しておくことは、新しい賀川記念念館(ミュージアム)のスタートに向けた下準備としても有益であろ う。 武内勝のご⼦子息・武内祐⼀一⽒氏からは所蔵資料料の全てについて公開することを許諾諾委任されているが、武 内は「⽇日記」までも後に公開されるなど思いも依らぬことであろうし、私は当初「武内勝⽇日記」の所在を 関係者に御知らせするに留留め、限定した閲読とすべきではないかと考えてきた。 しかし、賀川豊彦・ハル夫妻の「⽇日記」類が公開されたいま、「武内勝⽇日記」も基本的に同じ扱いをするこ とが許されるのではないかと考えるようになった。ただし、ここはインターネット上での公開である。作 業をすすめながらの判断となるが、時として「仮名」とする必要が⽣生じる場合があるかも知れないが、原⽂文 のままを打ち出して進めていく。 原⽂文は、判読の困難な箇所も少なくないが、極⼒力力読み解いてみたい。間違いも⽣生じるので、次の機会に 補正を加えていく事にする。その点、刊⾏行行物ではないこの⼿手法の便便利利さがある。 ノートの空⽩白を利利⽤用したこの⽇日記は、ペンで書かれていて、縦書きで句句読点もなく改⾏行行もほとんどない。 何分分量量が多くなるので、先ずは三ヶ⽉月ごとに纏めて公開してみたい。 適切切なコメントなど加えれば⾯面⽩白くなるが、ともかく今回は「武内勝⽇日記」を、私⾃自⾝身が⼀一読すること に主眼をおいて作業に取り掛かりたい。 こ の サ イ ト ご 覧 頂 い た ⽅方 で 、 掲 載 の 仕 ⽅方 な ど で ご 意 ⾒見見 な ど お 聞 か せ て い た だ け れ ば 有 難 い 。 (torigai@ruby.plala.or.jp) * * * * 第⼀一回 昭和弐年年⼋八⽉月〜~九⽉月 ⼋八⽉月⼀一⽇日 晴 ⽉月 ⾺馬⿅鹿鹿者の多きことを考えて、⾃自らがより善くなる為めに、⼀一層努⼒力力せなければならぬとつくづく思わされ た。⾃自分の様な先天的に⼈人に勝れ得ざる者が、⼈人より賢くなることは困難中の困難だが、⼈人が次第に⾺馬⿅鹿鹿 になって⾏行行くから⽌止むを得ない。今⽇日も川崎の失業者の為めに、求⼈人開拓拓に廻った。然し何んのえものも なかった。 ⼋八⽉月⼆二⽇日 晴 ⽕火 井上増吉⽒氏から無事上陸陸したことの通知があった。川崎造船所に於いては、更更に社員五百名を解雇すると のことである。 ⼗十年年経てば⼀一昔とやら、全く其感がある。⼤大正六六、七年年頃に在っては、誰某は裸裸⼀一貫から成⾦金金になったと よく噂を聞かされた。労働者ですら、⾦金金時計⾦金金指輪輪を持っていた。⾦金金銭の洪⽔水で誰も彼も浮いていた。然 し今⽇日では、鈴鈴⽊木が閉鎖し、⼗十五、近江、村井等の銀⾏行行は休業したまま、何時開業するか⾒見見込みが⽴立立たな いらしい。川崎は三千の失業者を出し、オヨネさんも松⽅方さんも、⽴立立派なお家を債権者に渡して、⼩小さな 家に移った。神⼾戸の巨頭も倒れて終った。 ⼋八⽉月三⽇日 晴 ⽔水 祈祷会 堀井君のガラテヤ書の講義があり、⾃自分の意⾒見見を述べて祈りに⼊入った。イエス団が、世界に誇り 得る精神を以って活動すべきを考え、また然かあらしめ給はんことを祈った。 ⼋八⽉月四⽇日 晴 ⽊木 井本⽒氏(仮名)の怠けに就いて⼜又問題が起こった。真⾯面⽬目に働きさえすれば善いものを困った男である。 彼にも⼜又辞職を勧告せなければならぬことになった。 ⼋八⽉月五⽇日 ⾦金金 晴 ゼネバの軍縮会議は決裂裂して終った。⽮矢張り頼りない会議である。権威ある会議の開かるるのは何時の頃 であるやら、⾒見見当も想像もつかない。川崎の失業者の其の後の報道は嘘ばかりである。 ⼋八⽉月六六⽇日 ⼟土 晴 万有科学体系第五巻を読了了した。今年年程知識識を吸収したことはない。これは体系の読書の賜物である。 ⼋八⽉月七⽇日 ⽇日 晴 礼拝後、⻄西宮の関⻄西イエスの友会の修養会に出席した。夜、賀川先⽣生の説教があった。朝三時に⽬目を覚ま し、夜⼗十⼀一時迄聞くばかり。⽿耳のみの仕事で随分疲労した。然し、時に神の⼦子供は相集いて研究し、祈る ことは、各⾃自に取って有益なることである。 ⼋八⽉月⼋八⽇日 ⽉月 晴 毎⽇日読んでいるに係わらず、読書欲が湧いて湧いて壓へることが出来ない。科学もよし、歴史もよし、哲 学もよし、⼼心理理学もよし、宗教もよし、読んで読んで、読み抜きたい。 ⼋八⽉月九⽇日 ⽕火 晴 吾国には失業者は年年々増加し、⼈人⼝口は国に溢れ、経済は⾏行行き詰まり、結局は何うなることかと、百年年後の ことを考えて、誠に憂慮に堪えない。⽇日本をしてあやまたざらしめるために、幾分なりと尽くすところあ り度度いものである。 ⼋八⽉月⼗十⽇日 ⽔水 曇 夜 ⾬雨 祈祷会の席で、ガラテヤ三章を回読して、信仰の内容を説明した。毎年年⾏行行事の、⼦子供のため明⽯石往きに就 いて協議した。本年年は⾦金金がないので、中⽌止しなければならないかも知れないと思っていたが、和⽥田⽒氏の⾦金金 弐拾拾円寄付の申し込みがあり、⼀一同⾮非常なる励ましを受けた。⽒氏は直し屋を職業としているが、現在に於 いて直し屋程軽蔑されている階級はない。然し、かかる外⾯面に於いては最もいやしむ可き⼈人と考えられて いる⽒氏と同じ⼼心を以って、主に奉仕の出来ることを感謝する。岸部⽒氏や渡辺⽒氏の如く、病⾝身にも係わらず、 家の貧しいために、無理理から⼯工場に出勤し、休憩時間を利利⽤用し、洋服を売り、その利利益を献⾦金金する様な兄 弟達と、信仰を同じうし、⼜又同労の出来る光栄を感謝する。 ⼋八⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 細⽥田のお⺟母さんが、今⽇日限りで互恵会を暇取って近江の義男兄の元に住むことになった。随分⻑⾧長い間御苦 労様であった。此の上、従来の様な⼼心配をかけてはならない。細⽥田の為めに、神に御礼を述べねばならな い。堀井君の訪問があった。 ⼋八⽉月⼗十⼆二⽇日 ⾦金金 晴 冬の働きに⽐比較すると三分の⼀一仕事もしていない。⼀一年年の間、僅かに⼋八⽉月⼀一杯が少し暇なのであろう。⼜又 九⽉月から多忙になる。⼀一年年中の⾻骨休めの⼋八⽉月と思えば有難くもなる。然しこれでも、普通の⼈人の倍は働い ていると思う。 ⼋八⽉月⼗十四⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教に献⾝身の祝福に就いて語り、消費組合に於いて道徳の法則に就いて述べた。⼦子供の明⽯石⾏行行きは、 ⼩小⼈人⼋八⼗十⼆二名、⼤大⼈人⼆二⼗十名、計百⼆二名であった。⼦子供は終⽣生忘れ得ない印象を受けるであろう。⾦金金のない 事を⼼心配していたが、余る程与えられた。有難いことである。 ⼋八⽉月⼗十五⽇日 ⽉月 晴 知識識欲が燃えておさえきれない。全国中等学校野球優勝試合で、甲⼦子園グランドは⼤大変な⼈人気である。遊 ぶことにかけては誠に熱⼼心なものである。この競技は、⽇日本に於いては当分廃らないであろう。 ⼋八⽉月⼗十六六⽇日 ⽕火 晴 三越呉服店で開催中のブラジル事情展を観に⾏行行った。⽇日本はブラジル移⺠民に成功しなければならぬ。吾国 の如く、僅かに六六百万町歩の耕地に三⼗十万の農夫が居るのでは、⾏行行き詰まりは免れまい。本多君と同伴で、 四⼗十銭の寿司と⼆二⼗十銭のクリームを、同君の御馳⾛走になった。 ⼋八⽉月⼗十七⽇日 ⽔水 晴 堀井君のガラテヤ書説明があり、祈祷会終わって⻄西⽠瓜会で解散した。明けても暮れても変わらざる吾が願 いは、同胞の救はれんことであり、此の世の聖国とせられんことである。 ⼋八⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽊木 晴 神⼾戸市の屋外労働者、殊に⽇日雇労働者の賃⾦金金が⼀一般に低下していることが知れた。社会政策位では追い付 かなくなる。 ⼋八⽉月⼗十九⽇日 ⾦金金 晴 平凡なる⼀一⽇日であった。広陵陵中学が松本商業に四対三で勝ったと⾔言うので、⻄西⽠瓜の御馳⾛走になった。岸部 兄が賀川服の件で訪問があった。 ⼋八⽉月廿⽇日 ⼟土 ⼀一時⾬雨 ホーマーのイリアッドを読んだ。彼も⼈人⽣生に⽬目的と法則とのあることを⽰示している。それ故に此の書が貴 く、今⽇日迄捨てられないのであろう。全国中等学校第⼗十三回優勝戦で⾼高松商業が⼤大勝した。阪神地⽅方でこ れ程⼈人気を集めるものは他にない。実に⾯面⽩白い現象である。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教に、キリストの我が来たりしは義⼈人を招かん為に⾮非ず、罪ある者招かんが為めであるとの、悔い 改めに関して述べた。夜は、ヤコブ書三章の⽣生ける信仰と死せる信仰とに就いて説明した。ユキ⼦子が牧野 の転宅宅のお⼿手伝いに往った。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽉月 晴 伝票整理理と読書とが今⽇日の仕事であった。ユキ⼦子が不不在で、お隣隣の親切切に依り、湯と⼣夕⾷食の御馳⾛走になっ た。 ⼋八⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽕火 晴 ダンテの下巻を読んだが解り難い書であった。更更に改めて読むことにしよう。 ⼋八⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽔水 晴 祈祷会に出席し、堀井兄のガラテヤ書講述があった。河⽥田兄が健康回復復して⼜又イエス団に返って来た。松 本兄が未だ病床に在って、歩⾏行行さえ不不⾃自由であると聞いて気の毒で堪えぬ。 ⼋八⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽊木 晴 駆逐艦蕨が衝突沈沈没して百何⼗十名かの⽣生命を犠牲にした。国家の為とは只実に気の毒なことである。失業 所の騒ぎではない。演習に於いてさえこの通り、戦争に在っては尚更更なりである。ああ戦いのことを学ば ざるの時は遠きことにや。 ⼋八⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⾦金金 晴 戦争と平和を読了了。デカメロン下巻を読んで詰まらないことだけがよく分かった。かかる書物が著さるる 時代の、如何に堕落落していたかと⾔言うことと、其の結果は滅亡あるのみとのことがはっきり解った。知れ 切切った当然なことが、⼀一層はっきり知れただけで、朝早くから起きて、祈祷を献げて読むにはあまり勿体 なすぐる。河⽥田⽒氏解雇の通知があった。⼜又⼼心配が⼀一つ増えた。 ⼋八⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⼟土 晴 偉いと⾔言う⾃自信は、書物を読んだのみでは与えられない。書物を通して⼈人が偉くなると⾔言うのは、負傷に 対する薬程の効果しかないことをつくづく感ずる。今⽇日は忙しくよく働いた。河⽥田、佐藤の為に、彼らを 失業より救うために祈ろう。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教 ⽇日本の救いに就いて絶叫した。終⽇日家に在って祈る。教会に出席した。⽇日中⼆二百⾴頁読書した。 ⼋八⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽉月 晴 デカメロン下巻を読了了した。別に得ることない無益な書であることが解った。詰まらないということを知 る為に、毎朝午前五時前から起床し、夜は⼗十時迄熱⼼心になって読むことは、実に⼤大きな損失である。 ⼋八⽉月三⼗十⽇日 ⽕火 晴 普通選挙の問題で、県市は⼤大変な活動である。我々の同志の⾏行行政⻑⾧長蔵⽒氏も候補に⽴立立つことに決定した。殊 に彼を応援せんとする。共鳴者は⼀一⼈人⾦金金壱円也の運動資⾦金金を集めている。理理想選挙で愉快であるが、⽇日本 全国の⽴立立場から批評すると、普選になっても⽴立立候補者に余り変化がない以上、多くの⼈人達の期待する程の ものではあるまい。労働保険組合規約変更更に就いて、平和楼に於いて理理事会が開催され、⾃自分も出席した。 ⼋八⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 祈祷会に出席して、偉い⼈人に就いて所感を述べた。パウロを中⼼心としてであった。源⽒氏物語の上巻を読了了 した。今より九百年年前の、王を中⼼心として其の周囲の貴族⽅方の⼈人⽣生は、⼀一⾔言にして恋愛であったと⾔言える。 九百年年後の今⽇日も余り変わるところがないように思われる。 九⽉月⼀一⽇日 ⽊木 晴 急に寒い位冷冷える。これも不不順である。⻑⾧長続きはすまいが、全⾝身に緊張を覚える。関東震災四周年年である。 あの時の⼼心持で⼤大いに真⾯面⽬目になれと道徳家が説く。守る⼈人の少ないのは誠に遺憾である。三郎郎君が⻑⾧長年年 振りで吾家の⼀一⼈人となった。君が此の家に在って、神とキリストを知る事の出来る様に。 九⽉月⼆二⽇日 ⾦金金 晴 ⼆二百⼗十⽇日も無事であった。これで⽇日本の農家は⼤大いに意を強くしているであろう。農夫の喜びは吾等の喜 びである。我等同胞六六⼗十万⼈人は、天候に就いて神に感謝せねばならぬ。 九⽉月三⽇日 ⼟土 晴 此程冷冷える気候でもあるまいに、何んだか⼗十⽉月頃の気分が出る程涼しくある。シェークスピアの物語を読 んだ。有名な書だけあって⽢甘く書けていると思い⼜又⾯面⽩白く読んだ。神⼾戸市に奉職して今⽇日で満七周年年であ る。過ぎて⾒見見れば早いが、待てば余り短い年年⽉月でもない。七年年の間には随分多くの経験をした。然し凡て を感謝している。損も得も喜びも悲しみも、⼀一切切合財感謝である。 九⽉月四⽇日 ⽇日 晴 罪の赦しに対する⾃自分の思考する所を述べて礼拝説教に代えた。夜は、賀川先⽣生が⽀支那の話をせられた。 ⽀支那の未開は今更更知れたことでもないが、事情を聞けば聞く程、野蛮の程度度がよく知れて驚く。⽀支那の救 いは未だ遠い様に思われる。⼋八⼗十⼈人の宣教師も⼀一億五千万円の投資も、⽀支那を救うには余りに微⼒力力すぎる であろう。フランス⾰革命を百⾴頁読んだ。 九⽉月五⽇日 ⽉月 晴 ⾃自殺を計画したが⽮矢張り救われたくなったとて、⼀一⾝身上の相談に来た⻘青年年がいる。弱き⻘青年年の多いのには 困る。⼭山⼝口⽒氏の訪問があったが、彼の問題も依然として解がつかなかったのに閉⼝口する。 九⽉月六六⽇日 ⽕火 ⾬雨 本年年の夏になって、今⽇日程多量量に降降⾬雨のあったのは初めてである。これで神⼾戸も⽔水飢饉の⼼心配は消えるで あろう。⼆二百⼗十⽇日の⾵風はなかったが、何んだか⾺馬⿅鹿鹿に冷冷えすぎて、⼗十⽉月の気候の様である。⾬雨のためか涼 しいためか、コウロギが⾺馬⿅鹿鹿に善く鳴く。彼の鳴き声は、彼が神に対する賛美歌なのであろう。美しい極 みであり、幸せなことである。第⼆二回労働統計調査員打合せ会に出席した。 九⽉月七⽇日 ⽔水 曇⾬雨 祈祷会の席で、我が国の移⺠民に関して所感を述べた。⽇日本⼈人は狭い島国に多数に住んで居て、経済上に⾏行行 き詰って凡てのものを殺しつつある。成⻑⾧長すべき筈の者も成⻑⾧長せず、唯⽣生存することだけが困難中の困難 の状態である。⽇日本に居て⽣生きられなくば、ブラジルに往って⽣生きよ。⽇日本で延びられなくても、海外に 出て延びよ。⽇日本⼈人は、⽇日本に於いて現在以上に発展せずとも、移⺠民して向上せよ。 九⽉月⼋八⽇日 ⽊木 晴後⾬雨 七⼋八⽉月は⾬雨量量が少ないとて⼼心配したが、九⽉月に⼊入ってからはよく降降る様になった。なくてならぬものはや はり与えられる。昨夜、⼆二⼗十四名の労働者を新潟県に紹介したが、今⽇日は紹介所は稀に静かであった。 九⽉月九⽇日 ⾦金金 ⾬雨後晴 岸部、前⽥田の両⽒氏が、賀川服売捌の打合せの為に来訪された。岸部⽒氏の如きは、実に類のない献⾝身的の⻘青 年年である。かかる⻘青年年を友として与えられしを感謝す。 九⽉月⼗十⽇日 ⼟土 晴 急に暑くなった。⼟土曜が⼜又来た。然し九⽉月である。暑いのが当然である。今少し暑くなければ⽶米が充分実 らない。そう考えれば、暑さは不不平でなく感謝である。内親王殿下が御⽣生まれ遊された。 九⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽇日 晴 イエスの理理想と題して神の国を述べた。神⼾戸消費組合で主の祈りに就いて説明した。夜は新しく⽣生まれる ことを話した。 直し屋さんの和⽥田⽒氏が、毎⽉月三円の献⾦金金せらるることを約束せられた。意外に思った。こんな友を持つ嬉 しさを神に感謝する。ボバリー夫⼈人を読んで、詰まらない書物であることだけが解った。⽂文学の貴い処な ど⾃自分には少しも解らなかった。 九⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽉月 晴 堀井君の訪問あり。松本君の近況を聞かされて、君の為に⼤大いに同情した。イエス団の⻘青年年達の為に、更更 に善き奉仕をせねばならぬことを痛切切に感ずる。 九⽉月⼗十三⽇日 ⽕火 晴曇混天 春のめざめを読んだ。⽂文学物は例例に依って例例の如く、得る処なき書である。或いは⾃自分に吸収⼒力力が無いた めかも知れない。何れにしても、得ることなき事に於いては、何等の変わるところがない。昭和三年年度度の 予算の打合せ会が談話室で開かれた。熊本県に⼤大津波が襲来して、壱千百余名の死傷者を出したと号外は 報へている。 九⽉月⼗十四⽇日 ⽔水 曇 祈祷会で、岸部兄が⼯工場内で信仰の勝利利を証した。⾃自分の⼯工場の係技師が転任になるので、その送別会を 開く為に、⼀一⼈人の会費が三円位で酒を⽤用いると⾔言う条件であったので、兄はそれに反対して、先輩の意志 に反省省せしめ、遂に兄が勝利利を得たと⾔言うのであった。彼は勇敢なる痛快な⻘青年年である。⾃自分は⾃自分の思 う通りにならずとも、神の思召しは必ず成ると、現在ならずとも将来何時かは必ず成る、と述べた。 九⽉月⼗十五⽇日 ⽊木 曇 失業者の訪問は、次ぎから次へつきない。今⽇日はマヤス先⽣生からも紹介があった。失業ほど⾟辛い経験は少 ないであろう。お気の毒に堪えないが、何ともすることが出来ない。⽇日本の失業問題の解決は、⽮矢張り移 ⺠民に待つより他に⽅方法がなかろう。⼥女女の⼀一⽣生を読了了した。 九⽉月⼗十六六⽇日 ⾦金金 曇 ⻄西部の⽋欠員が補充されることになった。友⼈人の失業を思うて、毎⽇日注意しているが、紹介先がなくて困る。 暴暴⾵風あり津波あり洪⽔水あっても、⼈人間は良良⼼心に⽬目醒めない。不不景気で経済的に⾏行行き詰れば、しほれて終い、 失業すれば悲観して、⾃自殺しなければ世を呪うのみで、良良⼼心に省省みることを知らぬ。失業より貧乏より天 災より国⺠民を救うの途あることも知らず、防⽌止の途も講ぜず、成り⾏行行きに任せて泣いてばかりいる⾺馬⿅鹿鹿者 どもである。ああ天の⽗父より正義の旋⾵風を送り、罪悪を⼀一掃する聖霊の津波を与え、此の世をして聖化せ しめ給え。 九⽉月⼗十七⽇日 ⼟土 曇 県会議員選挙で⽇日本全国を通じて⼤大騒ぎである。⽇日本に於いては最初の普選であるだけに、うろたえ⽅方も 容易易でないのも無理理であるまい。⾃自分にも⽣生まれて初めて選挙権を与えられたのである。普選になった事 に依って、⽇日本の政治が少しでも正しくなり、公平になり、貧しき⼈人達のことが省省みられ、政治道徳が⾼高 くなり、⽇日本国⺠民の幸福が計られる様にならなければならない。 九⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽇日 ⾬雨後晴 礼拝説教に苦難の賜物と題して述べた。⼈人は苦難に会う事に依って悟りも得進歩もする。植物に於ける太 陽の如く、我々に苦難はなくてはならぬものである。夜、主の名を呼ぶ者は救ると話した。集会出席者は ⼆二⼗十五名程であった。 九⽉月⼗十九⽇日 ⽉月 曇少し⾬雨 普通選挙、依然として盛んなる運動である。今度度の選挙の結果が何うなることやら、実によき試練である。 特に無産者代表が何程当選するかが⾒見見物である。労働者は⾮非常なる期待をもっている。 九⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽕火 曇 昭和弐年年度度下半期に於ける⼤大阪逓信局⼈人夫供給の件で、打合せの為⼤大阪へ出張した。経理理課⻑⾧長ともあろう ものが、失業問題について余り無頓着であるのに驚いた。⽮矢張り失業問題は、失業の経験のある⼈人でなけ れば理理解がない。富める者が貧しき⼈人達のために省省みる事の出来ないのも同⼀一の理理由に依るものであろう。 九⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 久しぶりの好晴で、如何にも秋の気分が味わわされた。今⽇日は仁川に往った。延べ弐万⼈人の仕事を探して であった。稲の穂は皆咲き揃った。今⼗十四五⽇日も経てば新⽶米として我々を養って呉れるのである。有難い ことである。蒔かず刈らず何等の労する事もなかったのに、思わず感謝の念念に溢れた。ススキ、ロハギ、 オミナエシ等道端の草花が嬉しい気分にして呉れた。祈祷会に出席して、聖霊について述べた。 九⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽊木 曇 川崎造船所が三千五百⼈人を解雇したので、紹介所は之がために、採⽤用した臨臨時雇⼗十⼆二⼈人の御⽤用済みに際し ての送別会を開いた。中央講堂で⼣夕⾷食を共にした。 九⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⾦金金 晴 朝⽇日館の招待に依って運動奨励の活動写真を観た。⼈人体の健康の必要とその訓練の必要とを今更更の如くに 教えられた。殊に学⽣生、少年年達の為に最も有益なる写真であると思った。 九⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⼟土 晴 東部労働紹介所の職員⼀一同が、六六甲越の有⾺馬⾏行行きの遠⾜足をした。実に愉快であった。何時⼭山に登っても、 且て悔いた事がない。六六甲の禿⼭山もススキによって綺麗麗に飾られていて、まるで花の⼭山の様であった。⾃自 分の接する⾃自然にして、六六甲程私を楽しませるものはない。 九⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽇日 曇 朝、汝等の正義は学者パリサイの⼈人達に必ず勝れなければ天国に⼊入れない、との主の教えに就いて述べた。 霊にも⾁肉にもその通りである。精神病者が役に⽴立立たないと同様に⾁肉の病⼈人も何の働きも出来ない。少し動 いたからとて熱が出たり、寒いと⾔言っては⾵風邪を引き、暑いと⾔言っては痩せ、少しばかりものを⾔言っても 直ぐ疲労する。こんなことではなんの仕事も出来ない。キリストは⼀一度度も病気したことがない。いっぺん の熱の出たことも⾵風邪引きも、聖書には記事がない。夜、賀川先⽣生の説教があった。パウロの改⼼心美談と 題してであった。集会者は三⼗十五⼈人もあった。イエス団の集会にしてはこれで多数である。阪本勝を選挙 して置いた。 九⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽉月 曇 昨今の選挙噂は何処にも花が咲いている。候補者は⼼心配でならないであろう。誰が出て誰が落落ちるか知れ ないが、落落ちた者は⾺馬⿅鹿鹿を⾒見見たと泌泌みじみ感ずることであろうが、候補者に⽴立立つ者は少しチョウシ者でな いと出来ない芸出の様にも思われる。 九⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽕火 ⾬雨 神⼾戸市より⽴立立候補した阪本⽒氏は、最⾼高点で当選した。労働者も喜んで居るであろう。時代も変わりつつあ る。全国が神⼾戸の様には⽢甘く⾏行行かないであろう。然し、県会に貧乏⼈人の代表者を出すことの出来るのは、 貧しき者にとっては幸福なことでなければならない。 九⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽔水 ⾬雨 祈祷会に於いて、エスの⼗十字架の救いを述べた。集まれる者は⼩小数で、祈る者も少なかった。何となく物 ⾜足りなく感じた。でも、⽇日本の救いの為に時を⽤用い、⼜又神に祈ることの出来るのは、⾃自分にとっても国に とっても感謝でなければならぬ。 九⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽊木 ⾬雨 ⻑⾧長船から尚志が死亡したと通知して来た。彼は可哀想な者であった。先天的に⾺馬⿅鹿鹿者で、旅から旅を続け て遂に死亡して終った。彼が死んで困る者は天下に誰⼀一⼈人もないが、死せる彼⾃自⾝身が可哀想でならない。 九⽉月三⼗十⽇日 ⾦金金 晴 久しぶりで晴れて如何にも秋らしい感じがする。岸部兄が結婚するらしい。彼の兄弟のために祈らなくて はならぬ。兄をしてあやまらしめてはならぬ。兄が⼀一層恵まれたる⽣生活をする為に。⼤大阪の四貫島セツル メントの献堂式の祝辞をせよと命ぜられているので、今⽇日は特にセツルメントの事に就いて考えた。此の 仕事は、全く奉仕の働きであって、⼥女女中奉公に似ている。 * * * * 以上「第⼀一回」は⼆二ヶ⽉月分であるが、結構この作業は時を要するものである。読み間違いも気になるが、 直に⽇日記をこうして閲読の出来ることの幸いを覚えさせたれた。 ただ今、「賀川豊彦献⾝身100年年記念念事業」のひとつとして武内勝⼝口述・村⼭山盛嗣編「賀川豊彦とそのボ ランティア」(1973年年刊)の「新版」準備の最終段階であるが、この書物は1956年年に10回にわたっ て⼝口述されたものである。 ところがこの数年年後、求めに応じて再度度10回分の⼝口述が試みられており、何とその録⾳音テープが最近 発⾒見見され、先⽇日(2009年年8⽉月28⽇日)の準備作業の会議において聴くことができたのである。⼀一同、武 内の澄んだ声、ゆっくりとした確かな語り⼝口に驚いた。 「新版」は本年年11⽉月末、神⼾戸新聞総合出版センターから出るが、この度度発⾒見見された⼝口述テープのお宝も、 じっくりとお聴きしてみたい。楽しみな事である。 (既に紹介済ですが、現在神⼾戸の賀川記念念館の HP では、 武内の10回講演を聴取できる。2014年年3⽉月4⽇日補記) ともあれ、次回(第⼆二回:「昭和弐年年⼗十⽉月〜~⼗十⼆二⽉月」まで三か⽉月分)の準備に取り掛かりたい。 (2009年年9⽉月1⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月4⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(49) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(2) 昭和2年年8⽉月1⽇日〜~昭和4年年6⽉月5⽇日 前回の続きである。賀川の筆跡も読み下す事は容易易ではない。特に⽇日記は他⼈人に読まれることを予想せ ず、その⽇日その⽇日の⽇日録で、作業は中々進まない。 しかし、武内の⾔言葉葉は⽣生きており、その息遣いが伝わってくる。 今回は、内容に関連する写真を、2枚⼊入れておく。 1枚は、武内勝が妻ユキ⼦子(正しくは「雪」であるが、⽇日記では「ユキ⼦子」となっている。これは「賀川ハ ル」を豊彦が「春⼦子」と記すのと同じである)と武内の故郷・岡 ⼭山の⻑⾧長船を訪ねるくだりに関連して、「武内勝・雪夫妻の写真」。 そして1枚は、イエス団恒例例の「古着市」の写真である。(いず れも「賀川豊彦写真集」より) では、早速「武内勝⽇日記 A」第2回⽬目で、「昭和2年年10⽉月から12⽉月末まで」の3か⽉月分である。 * * * * 第⼆二回 昭和弐年年⼗十⽉月〜~⼗十⼆二⽉月 ⼗十⽉月⼀一⽇日 ⼟土 晴 四貫島セツルメントの献堂式に出席して、イエス団を代表し祝辞を述べた。建築、設備合わせて壱万⼆二千 円を要したと⾔言う会館は⼩小さい⽊木造だが、綺麗麗でカッチリしている。敷地が狭くて空き地のないのは残念念 である。イエス団は神⼾戸で始まり東京に延び⼤大阪に栄える。幹の本家本元が⼀一番貧弱なものとなっている。 然し、神⼾戸イエス団から、最も美しい⼼心と、敬虔で真⾯面⽬目な愛に富んでよく奉仕する⻘青年年を産むことは、 不不可能でもあるまい。⽴立立派な建物を神⼾戸の地に建てずとも、⼈人の⼼心の中には建つであろう。それが失敗し ても、⾃自分の⼼心中に建つだけは⼀一番確実である。 ⼗十⽉月⼆二⽇日 ⽇日 曇 愛に就いて語って礼拝説教をした。夜は、霊魂の⾃自由⾃自在と題して述べた。昼は全くの安息で眠って終っ た。何だか少し疲労を覚える。 ⼗十⽉月三⽇日 ⽉月 晴⼩小⾬雨 佐藤君を失業から救済する為に祈り求めた。遂に与えられた。保険組合の事務員になることが出来る。兄 の為に感謝する。⼤大久保君も⽇日給⼀一円⼋八⼗十銭で嘗ては東京で就業の経験のある仕事だとして⼤大変喜んでい る。⽵竹⽥田のミッチンも⾷食堂で働いて満⾜足している。残るは河⽥田兄である。何うしたら得られるか、兄のた めに更更に祈り求めよう。 遊佐さんが煙草を吸う様になっている。現在事務室でそれを観たと中央所⻑⾧長は話した。尚続けて最近は酒 をも飲むと聞いた。実際飲むらしいと誠に意外で不不思議でならない。変われば変わるものである。嘗ては 聖フランシスに共鳴して乞⾷食に感⼼心していた⼈人が、フランシス程の禁欲が実⾏行行不不可能であるとも、酒や煙 草位の節制は容易易に断⾏行行していたにも係わらず、何としたことであろう。煙草を吸ったからとて地獄に落落 つるとも思わないが、信仰のどこかにゆるみが出来ていることだけは間違いはないであろう。何だかなさ けなく思われる。 ⼗十⽉月四⽇日 ⽕火 晴 上ヶ原浄⽔水場に⼈人夫供給打合せに往って、帰りを六六甲⼭山⼤大師から甲陽園に下りて帰った。実に美しい⼭山で あった。何度度往っても楽しい、登⼭山の遊びは。 ⼗十⽉月五⽇日 ⽔水 曇 静かな祈祷会であった。井上君は⽇日本に帰りたいとの⼿手紙を寄越した。折⾓角渡⽶米して半年年も経たざる今⽇日、 帰朝とは何事であるか。然しアメリカに往って⾒見見て、アメリカが詰まらない処で、アメリカが⼈人間を偉く するところでない事を知ったら、それだけが⼀一つの智であろう。それだけを学びに渡⽶米したとすれば、そ のために消費される時間と⾦金金とは勿体ない。余り⾼高価でありすぎた。 ⼗十⽉月六六⽇日 ⽊木 晴 第⼆二回労働統計調査で、朝から晩まで会社⼯工場を訪問した。今頃こんな調査をして、その統計に依って労 働者の利利益を計画すると政府が⾔言う。統計なくして解りきっていることすら、然も貧乏⼈人や労働者の為に は何の調査を⾏行行なわずして、知れきっていることをすら実⾏行行しないお政府が、かかる⾯面倒なる調査の結果 を待たなくては実施の出来ない問題は、何時の事、実現するのだか知れたものでない。⼼心細い次第である。 ⼗十⽉月七⽇日 ⾦金金 晴 ⽶米国在留留のある⼈人から⾃自分宛に送⾦金金したのが到着したから受け取りに来いと、住友銀⾏行行から通知があった。 岸部君が⾦金金の祈りをしていたのが与えられたのである。受くるより与うるの幸せは⾔言わずもがな、無い時 に恵まれるのも⼜又幸せで感謝である。渡辺姉が永眠した。池⽥田診療療所に往って弔って、夢野で最後の告別 をした。 ⼗十⽉月⼋八⽇日 ⼟土 ⾬雨 ⾬雨にぬれつつ労働統計調査にかけ廻った。⼣夕⽅方の晴れた空は美しかった。⼀一⽇日の労はすっかり癒された。 ⼗十⽉月九⽇日 ⽇日 晴 ⾺馬太伝⼗十七章の説明をした。聞いた者に何物を与えたかは解らぬが、⾃自分が語って⾃自分に教えた。善き朝 であった。消費組合では⾺馬可⼀一章の講義をした。これ⼜又⾃自分に有益であった。組合の従業員達には解し難 かったと思われた。夜の集いにはテサロニケ前五章を述べた。教会に⼗十年年を越えて出⼊入りする⼭山科と⼋八敷 との、おばあさんめあてに話したのであった。 これで今⽇日は三度度説教した。然も⼀一回も準備していなかった。⾃自分の無責任を恥ずかしく思う。 ⼗十⽉月⼗十⽇日 ⽉月 晴 河⽥田君と⼤大久保君との職業を⾒見見付けたいと毎⽇日⼼心掛けてはいるが、⽮矢張り⾒見見付からない。内⽥田君(仮名)、 中藤君(仮名)との⼆二⼈人は⽣生理理的に⽋欠点を持つ病⼈人である。気の毒でならない。 ⼗十⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽕火 曇 労働者伝道の成功は如何にすべきかと⾊色々と考える。貧⺠民窟の救済は何うすれば善いか。貧しい⼈人達のた めにも、労働者の為にも、何の役にも⽴立立たないことを恥じる。⼗十年年前から準備していたら、今少し間に合 ったものをと、繰り返しては我が⾝身を責めて⾒見見る。 ⼗十⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽔水 晴 藪下兄が神経衰弱であり、徳広姉が⼀一ヵ年年病床にあると聞いて、お気の毒に堪えなかった。徳憲義兄から 四⼗十⼆二円三⼗十三銭送⾦金金された。イエス団の⻘青年年は皆感謝した。静かな祈祷会であった。 ⼗十⽉月⼗十三⽇日 ⽊木 晴 井上君のお⽗父さんは⾎血圧⼆二百五⼗十もあって、医師より絶対安静を命ぜられている。もう⽼老老年年ではあるし、 或いは⻑⾧長く保たないかも知れない。彼も悲観して⾔言う。もう増さんの帰るまでは⽣生きられない。ああわし が悪かった、余り酒を呑み過ぎたのであると、⾃自分の⾮非を悔いている。⼈人間には良良⼼心がある。今良良⼼心に責 められている。 ⼗十⽉月⼗十四⽇日 ⾦金金 晴 神⼾戸市電気局の課⻑⾧長級の馘⾸首から、市役所内の吏吏員淘汰をも合わせて⾏行行なうこととなった。殊に⼼心配して いるのは⽼老老級である。今⽇日から⼜又科学の書が読める。感謝である。 ⼗十⽉月⼗十五⽇日 ⼟土 晴 市吏吏員淘汰⼋八⼗十名に及ぶと⾔言う。⾃自分も何時かは同じ運命に置かるるかと思えば何だかなさけなくなる。 ⼈人に仕えるは善きことであるが、⼈人に使わるるは名誉ではない。仕える事と使はるることの間には深い溝 がある。今になってこのことがはっきり解った。⾃自分も市に使わるるが儘に、何時までも⽢甘んじてはなら ない。本当に⼈人と社会に仕えるの途を講じなければならぬ。 ⼗十⽉月⼗十六六⽇日 ⽇日 晴 師に勝る業と題してヨハネ⼗十四章の説明をした。市⽴立立職業紹介所の遠⾜足で、約⼆二⼗十名の職員が仁川から甲 ⼭山へ、甲⼭山から甲陽園へと、天然の最も美しい⼭山のフモトを廻った。夜は、化⾝身論論に就いて述べた。 ⼗十⽉月⼗十七⽇日 ⽉月 晴 お隣隣の家族と同伴で、須磨の⼭山へ茸狩に登った。持って帰ったのは、⻩黄シメジとナメタケ三本とであった。 然し、登⼭山は何時試みても実に痛快である。特に秋の登⼭山は愉快である。明治⼤大帝を読んで、⼤大帝の偉⼤大 を教えられた。その偉⼤大なるは常に⼈人の語る所であるが、今⽇日程ハッキリ知ったのは⽣生まれて初めてであ った。学ばなくてはならぬ点を教えられた。 ⼗十⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽕火 晴 市吏吏員淘汰、壱百五⼗十名に及び、⾸首の残って居る者も、余りの移動に驚いている。噂に噂を呼び、残留留者 迄が戦々恐々として居た。現代に於いては、失職程無産者として強圧されるものはない。今後は⼀一時に多 数の失業者を出さないために、⽼老老朽⼜又は不不品⾏行行なる者は、平常より⽬目⽴立立たない様に解職され度度いものであ る。市⾃自ら失業者を出し、⼜又市⾃自ら之を救う可く、職業紹介所は活動する。川崎造船所の失業者を紹介す る為に、市は⼤大活動した。市吏吏員の就職の為には如何にするのであるか。 ⼗十⽉月⼗十九⽇日 ⽔水 晴 毎⽇日淘汰の噂が話題になる。職業紹介所からも三名の失業者を出した。其の中、⽊木藤⽒氏は殊に気の毒であ る。祈祷会に出席して、完全き者となる点に付いて所感を述べた。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽊木 晴 市吏吏員淘汰も⼀一先ず整理理がついたらしい。無理理な淘汰をしたものである。本庁に於いて、九⼗十⼆二名の馘⾸首 は、余りに乱暴暴過ぎる。実際、馘⾸首せなけらばならぬ程の⽼老老朽者や無能者が、それ程多数居ったものとす れば、九⼗十⼆二名もの多数に及ぶ迄もなく、必要に従って辞職せしむれば善いのである。七年年も⼋八年年も勤続 して居た者が、そう急に役に⽴立立たなくなる理理由がないではないか。⼜又間に合わないものを、何故今⽇日迄淘 汰せずして放任して置いたか。何う考えても正当なる馘⾸首でなく、私情に依って整理理したものが随分ある ようである。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴 増俸⾦金金五円也、⼀一年年に五円、⼗十年年に五⼗十円だ。五⼗十円も増額しない内に、俺も⽼老老朽⼜又は無能と呼ばるるの ではないであろうか。オオ俺は死に⾄至る迄、聖き⼼心を以って、主の為めに凡てを献げよう。市役所など何 時迄も頼りにする処でないであろう。時を知る事と準備する事とに特に注意を要する。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⼟土 晴 ⽔水野脩吉兄から、井上君のお⽗父さんの⾒見見舞いにとて⾦金金五円送付があった。兄は実に感⼼心な⻘青年年である。失 業救済事業の打合せがあった。名称を変更更して臨臨時⼟土⽊木事業としては如何と提出した。何うした事か、昨 ⽇日今⽇日少し疲労したらしくある。 ⼗十⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽇日 晴 ヨハネ伝⼗十三章、イエスが弟⼦子の⾜足を洗ひ給ひし記事を、洗⾜足の模範と題して述べた。夜は、吉⽥田源治郎郎 先⽣生の接⽊木せる者とのローマ書⼗十⼀一章の説明があった。 ⼗十⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽉月 晴 伝票整理理が⼀一⽇日の仕事であった。神⼾戸市吏吏員淘汰に対する⾮非難が多い。事務能率率率を増進する為には、馘⾸首 して解雇⼿手当を出すよりも、⼿手当てを奨励⾦金金として、勤勉に忠実によく働き、特別の技能のある者には、 特別⼿手当を⽀支給する様にした⽅方が、能率率率は上がると思う。何時⾸首が⾶飛ぶかも知れないと思うと、真剣にな って働く事が出来ない。持っている能⼒力力までが減退する故に、今度度の整理理に依って、事務能率率率を⾼高める為 ではなくて、引き下げた事になる。 ⼗十⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽕火 晴 河⽥田⽒氏は労働が出来ないという。仕事はなく⾝身体は弱く気の毒である。其の上妻君までが病⾝身では尚更更で ある。保育所の⼯工藤さんが失職したことも同情に堪えない。 ⼗十⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽔水 晴 保険組合の事務打合せを平和楼で開催した。⾃自分も出席して⼗十時解散であった。 ⼗十⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽊木 晴 ⾼高⽥田光夫(仮名)を⽔水道課で労働さすことにした。彼⼀一⼈人を救済すること、他の者百⼈人を救済する以上に苦 ⼼心がいる。世には厄介なる者がつきないものである。⼤大阪に出張した。⼤大阪地⽅方職業紹介所事務局管内の 所⻑⾧長会議に出席した。議事は、例例によって例例の如しである。⼥女女⼯工の紹介に関する打合せがあったが、異異論論 百出で纏まりはつかなかった。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⾦金金 晴 今⽉月分の伝票も殆ど整理理が出来た。⽔水野君から、井坂君(仮名)と内⽥田幸⼦子(仮名)との関係について、妙な 問い合わせが来た。誤解に違いないが、余りひど過ぎる様である。 ⼗十⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⼟土 少し⾬雨 ユキ⼦子を連れて岡⼭山⾏行行きとなった。尚志を弔う弔わんがためである。代々憶るゝことの出来ない、愛のお ばや妹や弟、初枝など、皆が元気で感謝であった。 ⼗十⽉月三⼗十⽇日 ⽇日 晴 ⽇日曜⽇日の朝は、必ず礼拝説教をするに定っているが、今⽇日だけは説教に関しては何も考えず、静かで頭が 休んだ。尚志の頭髪を墓場に埋めたこの地は、我が先祖より我が⼦子まで葬ってある。つきない感に打たれ て、涙ながらの祈りを献げた。 ⼗十⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽉月 晴 ⾺馬場さんの勧めに依って、茸狩に往った。茶茶籠籠に殆ど⼀一杯あった。松茸は⼀一本もなかったが、シメジを⾒見見 付けるのも、松茸を⾒見見つけるのも同⼀一の楽しみであった。無花果と柿と梨梨とが、毎⽇日いやと思う程喰えて、 寿司の御馳⾛走をウンとして呉れた。思わざるご馳⾛走であった。 ⼗十⼀一⽉月⼀一⽇日 ⽕火 臥⿓龍龍松を⾒見見に往った。⻑⾧長さ東⻄西⼆二百五⼗十尺、南北北 尺の、⽇日本唯⼀一の⽴立立派な松である。五銭の観覧料料は⾼高 くない。天候はよし、⽥田は⻩黄⾦金金の敷き詰めた様で美しい。ユキ⼦子と⼆二⼈人で歩くと、皆から注⽬目される。⽥田 舎には、ブラブラと夫婦伴れで遊んでいる者がないから、⽬目⽴立立つのであろう。村中を通るには、少し遠慮 がいる。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⽇日 ⽔水 晴 ⾃自然の美と果実とすしとの御馳⾛走になって、⼜又⻑⾧長船を後に残して去った。今より⼆二⼗十三年年前、此の地を去 る時、何処に落落ち着いて何うして⽣生活するかの⾒見見当もつかず、前途不不安極まる中に、岡⼭山⽬目指してワラジ 履履で、後ろを振り返り振り返り、出て⾏行行ったのであった。誠に今昔の念念に堪えぬものがある。岡⼭山後楽園 を⾒見見物して帰神した。ユキ⼦子はなばから先は全く知らない旅だと喜んだ。 ⼗十⼀一⽉月三⽇日 ⽊木 晴 明治節、⼗十⼀一⽉月三⽇日を祭⽇日として休むことは⼗十七年年⽬目である。幼い時から楽しみに馴れた祝⽇日であって、 なつかしさのある休⽇日である。科学を少しく読んだのみで、知らぬ間に⼀一⽇日は過ぎた。 ⼗十⼀一⽉月四⽇日 ⾦金金 ⾬雨 久しぶりの⾬雨でよく降降った。善き⾬雨である。⾬雨は農家に必要であって、都会に住む者には無⽤用なものの様 に思うが、⾬雨が降降るので、屋根の塵と道路路のホコリと、下⽔水の不不浄物とを⼀一掃して呉れる。都会の清潔は 降降⾬雨によって保たれる。これを若若しも、労⼒力力に依ってするとしたら⼤大変なことであろう。 ⼗十⼀一⽉月五⽇日 ⼟土 ⾬雨後曇 昨⽇日以来、葺合新川の貧⺠民救済問題を考え続けている。若若し⾃自分の考えが間違わなければ、少年年の為の善 い遊び場と職業教育と、お神さん連中の共済会の設⽴立立とである。之に依って、新川を幾分でも救済し得る と信ずる。 ⼗十⼀一⽉月六六⽇日 ⽇日 晴 ヨハネ⼗十⼆二章に就いて述べた。夜、賀川先⽣生の講演あり、題を犯罪とその救済として述べられた。集会出 席者、四⼗十三名にして何時に⾒見見ない寄りであった。(節制なき者に幸福なし)。書棚を造るのが今⽇日の仕事 であった。 ⼗十⼀一⽉月七⽇日 ⽉月 晴 失業救済事業に関する打合せがあり、午後六六時半まで中央に残った。河⽥田⽒氏の職業の決定しないのが、何 より気の毒でならない。神⼾戸新聞⼣夕刊を読んで、湊川管内に於ける⼊入質者中、⼀一円以下の者が弐千数百点 あると知って、公設質屋の必要を今更更の様に感じた。 ⼗十⼀一⽉月⼋八⽇日 ⽕火 晴 東部労働紹介所新築の基礎⼯工事が出来た。年年内には移転の運びに⾄至るであろう。⾃自分の仕事が⾏行行なわれる のは、此の建物の出来る為であり、建物が便便利利を与えて呉れるかと思うと、建物も⼜又貴い器である。 ⼗十⼀一⽉月九⽇日 ⽔水 晴 コロサイ書四章を読んで所感を述べたが、⾮非常に苦しかった。祈祷会であるから信者のみの会合と思って いたのに、未信者や求道者が加わっていたので、急に気分を変えたことが失敗であった。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⽇日 ⽊木 晴 毎⽇日読書しつつあるも、夏の予定より少しく遅れた。夜は⻑⾧長くなった。⼤大いに読んでみよう。読書欲の為 に、凡ての⽅方⾯面がお留留守になる様な気がする。⼦子供ではなし勉強ばかりも出来ない。事業がある。冬季の 救済事業がある。教会の仕事がある。友⼈人の⾝身の上相談がある。然しどれも皆勉強であって、⼈人の研究し た著書を読むに劣劣るとは考えられない。読書以上でなければならない職務にも忠実に、読書にも勉む様に、 健康も保つ様に⼼心掛けなければならぬ。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴 井筒増吉⽒氏(仮名)の武末町⼦子姉(仮名)との関係に就いて、困った問い合わせを受けた。⽔水野⽒氏の書⾯面に依 ると、誤解でなくして真実であったらしい。井筒⽒氏(仮名)の失敗である。ああ困った。岸部⽒氏の訪問があ り。兄の結婚も愈々確実となり、昨⽇日遂に結納⾦金金と聖書⼀一冊とを、仲介者を通じて先⽅方に発送したとのこ とである。兄の結婚を祝し、それに依って、⼀一家族の救いに⼤大いに助けとなり、⼒力力となり得る様に祈ろう。 中⼭山⼰己吉君も⽯石⾕谷姉と結婚するから、その式に関してよろしく頼むとの依頼を受けた。芽出度度い⽇日である。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⼆二⽇日 ⼟土 晴 宿直で独り静かに床に就いた。明けても暮れても気になるものは、⼈人の霊の救いである。内の救いである。 ⼗十⼀一⽉月⼗十三⽇日 ⽇日 晴 ルカ⼗十七章に就いて述べ、夜はガラテヤ五章に関して述べた。出席者は、何うした訳か多くなりつつある。 ⼤大⾕谷君(仮名)が興奮して狂態を演じた。彼は精神上に余程異異常を持っている。 ⼗十⼀一⽉月⼗十四⽇日 ⽉月 晴 何だか少しく疲労している様である。⼤大いに健康に注意を要する。病気に罹罹らぬ様にする事が⼤大切切である。 ⼗十⼀一⽉月⼗十五⽇日 ⽕火 晴 冬季失業救済事業案は原案通り可決した。之に依って毎⽇日千五百⼈人平均の⽇日傭労働者が就業だけは出来る。 ⾃自分等も意を強くする。多忙ではあるが、満⾜足である。夜、堀井、中塚の兄弟達が訪問された。堀井⽒氏と は、信仰に関し、伝道に関し、新川の救済事業に就いて、互いに語って有益だと思った。⼈人に⾃自分の思っ た通りを語って、⼜又⾃自分の⼼心を強くする。 万有科斎六六巻を読んだ。第⼀一巻より第六六巻迄読んで、⼤大変に賢くなった。有益なる書物であった。六六⼗十円 は少しもおしくない。 ⼗十⼀一⽉月⼗十六六⽇日 ⽔水 晴 祈祷会出席者が増えた。何うした訳であるか知れない。然し、我等の同志の増加する事は善いことである。 ルカ⼗十⼋八章に就いて述べた。⼤大⾕谷君(仮名)が謝した。⾃自分が悪かったので皆様に御⼼心配をかけて本当に済 まなかったと。⾃自分⾃自らのやっている⾏行行為が解らなくて、⼈人が誤解しているとのみ考える近視には困る。 ⼗十⼀一⽉月⼗十七⽇日 ⽊木 晴 失業救済事業で忙しくなる。来年年の四⽉月⼀一杯の仕事は、⾃自分でし遂げられない程ある。仕事がなくって困 っている⼈人もあるに。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⼋八⽇日 ⾦金金 晴 臨臨時雇員三⼗十⼆二名採⽤用に就いて、球算と国語との試験が⾏行行なわれる事になった。⾃自分が若若し此の試験を受 くるのであったら、落落第の⼝口であろう。⾃自分に此の資格なくして、皆の者を指揮監督するのである。世の 中もおかしなものである。 ⼗十⼀一⽉月⼗十九⽇日 ⼟土 晴 岸部兄弟の結婚が⼗十⼆二⽉月六六⽇日に、中⼭山君のそれが⼗十⼆二⽉月の⼗十四⽇日にそれぞれ決定した。兄弟の上に、新し い家庭の上に、天の豊かなる祝福がある様に祈る。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽇日 晴 今⽇日は特別なる好晴であった。朝は⾺馬太伝五章、夜は使徒⾏行行伝⼗十七章に就いて述べた。何うした訳か夜の 集まりが盛んになって来た。四⼗十名を越えている。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽉月 曇後⾬雨 誓⽂文払いで、商⼈人は売るに忙しく消費者は買うに忙しい様である。元町筋の盛昌は素晴らしいものである。 客は、買わなければ損か恥の様に⼼心得ているらしく、店の⽅方では、売らなければ潰れて終いそうに⾒見見える。 誓⽂文払いに何の関係もない⾃自分が、⼈人の事が気になるのもおかしい。伊藤運作君が久しぶりに訪問した。 本⽉月⼆二⼗十六六⽇日には、サントス丸で南⽶米ブラジルに移⺠民する。彼の成功を祈る。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽕火 晴 宗教改⾰革史を読んで有益なる勉強をした。もっと早くから学ばなかった事を恥ずる。ルーテルやカルビン の偉⼤大を今更更の如く思わされた。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽔水 晴 祈祷会、洗礼に就いて述べた。出席者が多くなるのが不不思議でならぬ。新しき求道者の為に、特別に伝道 に注意しなければならぬ。責任感を増される。兄弟の求めに励まされて起つのである。⾃自分の⾜足らざるを 悔いる。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽊木 晴 職業紹介委員会に出席。今⽇日から失業救済、臨臨時に⼟土⽊木事業に救済される労働者登録開始である。受け付 けて驚いた。⼆二千三百四⼗十九⼈人の申し込み者があった。去年年五⽇日間に申し込んだ数を当年年は⼀一⽇日で受け付 けた。当年年の不不況の深刻さと、⼀一つは救済事業の何であるかを労働者が充分に知ったからであろう。何に しても、之だけ多数の⼈人達が失業状態にあることは、由々しき社会問題である。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⾦金金 晴 徳⽒氏から送⾦金金があった。⾦金金四⼗十⼆二円六六⼗十七銭也。イエス団の維持費を補う筈の賀川服が売れない為に⼼心配 していたが、かかる助⼒力力を受ける事に依って、⼤大いに荷が軽くなった。感謝の⾄至りである。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⼟土 晴 井上君が⽗父の扶養費を六六⼗十円送⾦金金した。⽶米国で説教して謝礼を貰ったとの事である。神の⾔言葉葉を語って歩 けば⾦金金が集まる。何だか興⾏行行師の感がある。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽇日 晴 ⾺馬太伝六六章の講義を述べて礼拝説教とし、夜はコリント前⼆二章を述べて伝道説教とした。夜の集会は四⼗十 名が普通となった。他の教会の反対である。失業救済事業の登録者数は、四千六六百⼗十⼋八名となった。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 ⾺馬⿅鹿鹿に暖かい⼀一⽇日であった。まるで五⽉月の気候である。教会の責任を益々重く感ずる。伝道の為に⼤大いに 尽くさなくてはならぬ。主よ、我を遣わし⽤用い給え。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽕火 曇 急に寒くなったが之が普通であろう。⽇日々寒さが増すは当然である。不不思議そうに⾔言うことが、不不思議で ある。保険組合の理理事会で平和楼に招待されたが中⽌止して、貧⺠民窟の為に、古着の⼀一枚も貰った⽅方が結構 と思い、宣教師を訪問に出掛け、留留守を喰った。 ⼗十⼀一⽉月三⼗十⽇日 ⽔水 晴 失業者救済事業起⼯工準備で、無茶茶苦茶茶に多忙となった。祈祷会の出席者も増加して来た。唯に数が増えた だけではなく、真剣に祈った。全員が⾚赤誠コメての祈りは、会そのものを通して、⼤大いなる能⼒力力を与える。 ⼗十⼆二⽉月⼀一⽇日 ⽊木 晴 今⽇日も前⽇日の通りに多忙であった。笠笠松⽒氏が訪問した。⼤大和に於いて、求道者⼆二⼗十数名ある故に、説教し に来て呉れとの事である。⾃自分の如き者にも、道を求めて来る者がある。誠に不不思議なる事である。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⽇日 ⾦金金 曇後⾬雨 ⾼高⽊木(仮名)、三井(仮名)の両⽒氏に説教した。それは彼等⼆二⼈人が、平素の品⾏行行が悪い為に負債があって、友 ⼈人や家族の者等が迷惑しているからである。⾼高⽊木(仮名)⽒氏は禁酒を誓い、三井(仮名)⽒氏⼜又真⾯面⽬目になると のことであった。⻘青年年をしてあやまたしめるものは酒と⾊色とである。ユキ⼦子の式服が出来た。⾃自分の為に は少しも必要でないものを、友の為に結婚式や葬式をなさしめられるので、⽌止むを得ず作ったのである。 妙なことがあるものである。滅多に⽤用いない。然も多額の費⽤用を要する⾐衣服を、⼈人の為に作って置かなけ ればならぬとは。 ⼗十⼆二⽉月三⽇日 ⼟土 晴 ⼭山本治郎郎(仮名)⽒氏の⼀一件がまだに⽚片付かない。彼も誠意なき⼈人である。彼の為に苦しめられ、損害を被っ ていることは⼩小事でない。⼈人の罪を引き受けて、始末をつけるとは、⾻骨の折れる仕事である。わけても信 仰なき⼈人の為にすることが⼀一層の苦痛である。 ⼗十⼆二⽉月四⽇日 ⽇日 晴 ⾺馬太伝七章の講義を以って礼拝説教に代え、夜は、使徒⾏行行伝⼋八章の聖霊に就いて述べた。⼗十⼆二⽉月に限り、 神⼾戸消費組合の定期集会を⼀一週繰り上げて、イエスの降降誕を話した。 ⼗十⼆二⽉月五⽇日 ⽉月 晴 救済事業未だに起⼯工せず。労働者は毎⽇日待ち焦がれて居る。彼等に⽣生活の安定を与える事が必ずしも困難 でない。然し、その必要を理理解させる⼈人の多きは、誠に遺憾千万である。渡辺助役は、職業紹介所無⽤用論論 を主張せるとか、困ったものである。 ⼗十⼆二⽉月六六⽇日 ⽕火 晴 岸部勘次郎郎兄の結婚式に出席して、イエス団を代表して祝辞を述べた。兄がクリスチャンの中稀に⾒見見る奉 仕者であること、兄弟は今に⾄至るまで童貞の純潔を護って来た事を述べ、彼の信仰の確実なる事を証し、 尚新婦の親と兄弟とに従い仕えんとする勇気を褒め、最後に伝道館とイエス団との結婚式の感があること を述べた。彼の新しき家庭に神の祝福豊かならん事を祈った。 ⼗十⼆二⽉月七⽇日 ⽔水 曇 最早我⽣生けるに⾮非ず、キリスト我に有りて⽣生くるなりとのガラテヤ⼆二章を説明した。クリスマス祝賀の為 め、古着市と餅搗きと集会と、そして楽しい労である。⻘青年年諸君が、我が家の毎年年の⾏行行事の遊びを、今よ り期待して喜んでいる。我が家に遊ぶことは、芝居、活動写真に勝る快楽を与えるものと⾒見見える。 ⼗十⼆二⽉月⼋八⽇日 ⽊木 晴 東部労働紹介所に新築が殆ど落落成した。新しい事務所を与えらるる事は、事務の能率率率を⾼高める為に効果が ある。気持ちも善い。せめてイエス団にも、紹介所位の建物が欲しいものであると思う。 ⼗十⼆二⽉月九⽇日 ⾦金金 晴 向う側に電話交換局が新設される。須磨の為には喜ばざるを得ない。然し、⾃自分⼀一ヶ⼈人に於いては迷惑で ある。太陽の光線をさえぎられるだけでも、何処かに移転しなければならぬかも知れない。渡辺姉に服薬 せしめられたものが間違っていたので、三郎郎君依然沈沈んでいる。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⽇日 ⼟土 晴 コリント前書⼗十章を説明し、夜はロマ書六六章の終わりを説明した。新しい兄姉から献⾦金金四円を頂いた。終 ⽇日家にあったが何をもしなかった。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽇日(⽉月が消される) 晴 何をなすともなく忙しさの内に暮れにけり。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽉月(⽕火が消される) 晴 酒呑んでグダまく男を相⼿手に⼀一⽇日短かりき。 ⼗十⼆二⽉月⼗十三⽇日 ⽕火(⽔水とだぶり) 晴 中⼭山⼰己吉、⽯石⾕谷静栄、両名の結婚の媒介者となって⽴立立った。式場熊内教会、賀川先⽣生の司式で、本⼈人も親 族の者も会衆者も皆満⾜足であった。新しき家庭を潔め、主に従って⽣生涯を正しくおくり、神と⼈人との為に 栄を現すものとならんことを祈る。 ⼗十⼆二⽉月⼗十四⽇日 ⽔水(⽊木とだぶり) ⼩小⾬雨 ⻄西部に於いて不不正事件あるとの質問に驚いたが、何事もなかりしは幸福であった。 ⼗十⼆二⽉月⼗十五⽇日 ⽊木(⾦金金が消される)晴 昨⽇日の不不正事件と質問されし問題は、⽴立立派に解決がついた。紹介所に何等の⽋欠点も不不正もないものを、⼀一 主事の邪推からであった事が明⽩白となって痛快であった。⼈人を疑って⼈人に迷惑をかけたよりはよかった。 ⾃自分が忍べば事は⾜足る。 ⼗十⼆二⽉月⼗十六六⽇日 ⾦金金 晴 物語り⽇日本史を読んで、維新時代の豪傑の偉⼤大を羨ましく思う。今の世にその⼈人の無きを悲しむ。 ⼗十⼆二⽉月⼗十七⽇日 ⼟土 晴 堀井⽒氏の訪問があった。読書は出来なかったが、友と語るは楽しみである。信仰の友と語り得るの幸いを 感謝する。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽇日 晴 洗礼式あり。受洗者六六名和⽥田伝五郎郎、中川義彦、⾼高⽐比良良⾦金金蔵、中⼭山⼰己吉、橋本⼆二⼀一、⽯石野静江。賀川先⽣生 の司式で簡単なる説教があった。⻑⾧長⽥田診療療所建築の打合せ後、摩耶登⼭山に続き⽇日直と、家に帰る時間なく、 夜の集会に出席して、⼗十字架の精神を述べた。罪の許しと愛と奉仕とに就いて語った。 ⼗十⼆二⽉月⼗十九⽇日 ⽉月 晴 湊川河川⼯工事着⼿手愈々多忙になった。⼆二千⼈人の失業の救済のためである。多忙と労苦とは喜んで忍ぶ。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽕火 晴 中川兄が川崎造船所から解雇せられた。失業者が⼜又⼀一名増加した。お気の毒でならぬ。佐藤兄が病気で度度々 喀⾎血する。困ったことである。昨⽇日は⼭山⼝口⽒氏が、今晩は松⽥田⽒氏と中川⽒氏とが、その前は⽇日曜で、その前は 堀井君が来た。読書はさっぱり出来ない。読みたいと⾔言う⼼心は⼭山あれど、⼆二つなき⾝身を如何せん。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 ⽊木⽴立立君の結婚を祝し電報した。祈祷会にイエスの光を受け⼊入れと述べた。ヨハネ⼀一章。献⾦金金が多く集まる は感謝である。 賞与⾦金金百⼗十九円也受領領。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽊木 曇後⼩小⾬雨 イエス団の年年中⾏行行事の古着市⼤大成功であった。寄付を受けた数三⼗十三点を超え、売上代⾦金金九⼗十四円五⼗十銭、 其の他に三⼗十円位の品があり、実に感謝である。普通の⼈人の不不⽤用品となりたるものを、貧⺠民窟では喜んで、 狂気せんばかりに我を先にと争いつつ、代⾦金金まで払うのである。恵んだ者も恵まれた者も喜び、その間に あって奉仕した者は尚更更感謝である。これで正⽉月餅の分配が出来る。貧しい⼈人達が喜んで呉れる。彼等の 喜びは⼜又我が喜びである。此の市の為に奉仕した⽅方々に、⼼心より厚き敬意を表す。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⾦金金 ⼩小⾬雨 物語り⽇日本史を読んで、明治初年年の様⼦子が眼前に⾒見見るが如くによく解った。⽮矢張り読書しなければいけな い。中川⽒氏の就業の為めに考える。⼜又祈る。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⼟土 曇朝⼩小雪 ⼩小児のクリスマス祝賀会であった。約三百名の⼦子供の為めの集会で盛会、楽しくあった。閉会後、数⼈人の 感謝を以って散会した。(塚⽥田⽒氏のお話あり) ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽇日 曇 主の降降誕祝賀第⼆二⽇日⽬目で、成⼈人の為であった。朝は⾃自分が、夜は先⽣生の話があった。福引があって⼀一同喜 んだ。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽉月 晴 毎⽇日忙しく、遊ぶ暇もなければ、考える時もない。こんな多忙では⾝身が保てない程である。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽕火 晴 東部労働紹介所の移転で、早朝よりウンと労働した。最後に古い家の掃除をした。⾃自分がせずとも、⼈人夫 を雇ってあるからしなくても善い様なものであるが、⻑⾧長年年間、此の家あるが故に働く事が出来たのである。 思えば、⾃自分にとっては⼤大切切な家であった。此の家を掃除せずして捨てることは出来ない。夜、移転祝い で⼣夕⾷食を共にし、楽しく⾯面⽩白く遊んだ。今より後、此の家で働くのである。⼤大事に清潔にし、有益に⽤用い なければならない。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽔水 晴 ⼩小⾬雨 今年年最後の祈祷会であった。 各⾃自⼀一ヵ年年の思い出を述べ、感謝と祈祷を献げて、後明⽇日の餅搗きの準備のため、⽶米洗いをして、⼗十⼀一時 散会した。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽊木 晴 ⼩小雪 今⽇日は愈々餅搗きである。⼀一⽯石六六⽃斗の餅を、新川の貧しい⼈人達に分配せんが為に、⻘青年年男⼥女女が相集うて、 喜びの中に搗いたよき奉仕である。皆の奉仕振りを観ていると、恰もイエス団のお祭りの様である。然し 愉快なる奉仕である。餅搗きは景気が好い。勇が善い。 ⼗十⼆二⽉月三⼗十⽇日 ⾦金金 晴 来年年の事業を予想しつつある⾃自分個⼈人にとっては、当年年は特に読書の出来た年年であった。⽣生まれて三⼗十六六 年年⽬目、本年年程よく読んだ事はなかった。来年年もウンと読み度度くある。 ⼗十⼆二⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⼟土 晴 今⽇日も尚仕事の忙しい事は幸せである。遊ぶ事を以って楽しみとする⼈人の多い時に、働く事の喜べるは、 ⼤大いなる感謝である。今年年程、⾦金金融界の動揺した事はあるまい。⼜又失業者を集団的に多数を出した事もあ るまい。本年年なし得なかった事業と勉強とを、迎える新しき年年には達成せしめねばならぬ。 * * * * 厳しい時代の中、働き盛りで意欲満々、36歳の武内勝の「⽇日録」である。 次回から昭和3年年分、4回に分けて収めることができれば、と思う。加えたいコメントもあるが、 「武内 ⽇日記」のみで進める。 (2009年年9⽉月5⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月5⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(50) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(3) 昭和2年年8⽉月〜~昭和4年年6⽉月 ここまで昭和2年年を2回に分けてお届けし、今回からは昭和3年年分を4回に分け、お⽬目通し頂く。 今回の写真は、昭和2年年に開始された「⽇日本農⺠民福⾳音学校」第1回の写真である。武内⽇日記に触れられ ているように、武内も賀川豊彦や杉⼭山元治郎郎らとともに講義を担って「職業紹介事業」を講じているようで ある。 * * * * 昭和三年年⼀一⽉月〜~3⽉月 ⼀一⽉月⼀一⽇日 ⽇日 晴 エペソ四章を読む。明治・⼤大正・昭和と時代の進むに従って、⽇日本は嘗て経験しなかった事を、体験しつ つある。明治維新は、古きを去って⼤大いに新しくなる為に、⼤大正は権利利の平等を中⼼心に、それぞれ⼤大いな る貢献をした。そうして昭和の年年に於いては、⼼心を新しくして、良良⼼心に⽬目覚め、神の国運動の盛んになら ん事である。夜は、新春にあたり各⾃自の希望、所感を述べて、感謝の中に閉会した。今⽇日、中川、⼭山内、 ⼭山根、川合の訪問客があった。 ⼀一⽉月⼆二⽇日 ⽉月 ⼩小⾬雨後晴 イエス団の⻘青年年男⼥女女⼆二⼗十⼀一名が、六六甲登⼭山を決⾏行行した。⼭山の中腹以上は降降雪に及び、樹⽊木に雪が積もり、 ⽩白花の咲き埖へるが如き観あり。美しくって美しくって例例え様がなく、⼈人間の眼球に斯くも美しく映ずる ことの不不思議と、⾃自然の美とを合わせて考えつつ、神の御⼿手の業の巧妙に感じつつ、頂上の峰を東へ東へ と進み、茶茶店にて昼⾷食を済まし、ゴルフ場付近に⾄至り、氷池の上を滑滑り、⼜又芝⼭山をソリに依って滑滑るなど、 ⼆二時間ばかり喜戯夢中にして時間の経過するを覚えず、三時⼗十分前に下⼭山し、我が家に帰りしは六六時なり き。 ⼀一⽉月三⽇日 ⽕火 晴 イエス団の⻘青年年が集まり、夜⼗十時迄、偕に⼩小児の如くなりて遊び、笑って笑って笑い労れて、今⽇日の⼀一⽇日 は終わった。 ⼀一⽉月四⽇日 ⽔水 晴 年年中無休の紹介所も、正⽉月三が⽇日ばかりは休⽇日なるも、今⽇日より⼜又出勤である。僕には休⽇日らしい休⽇日は、 年年中⼀一⽇日もない。⽇日曜⽇日の休みは教会に出勤し、正⽉月の休みや祭⽇日の休みには、⻘青年年達の遊び友達となり、 本当の休⽇日なるものは結局⼀一⽇日もない訳である。 ⼀一⽉月五⽇日 ⽊木 晴 今⽇日も⼀一⽇日働いた。⼟土⽊木課の不不正なる⾏行行為にも驚く。本当に正しい道を歩む者はあまりないものだ。義⼈人 ⼀一⼈人もないと、パーロの⾔言葉葉を今更更の如く思い出す。夜、松⼭山君の訪問あり。クリスマス会計の計算をし た。 ⼀一⽉月六六⽇日 ⾦金金 晴 第⼆二号線に於いては、賃⾦金金⽀支払伝票の乱発をやって、労働者に無茶茶苦茶茶に⽀支払った。其の上、数名の者が 労働者を⾷食い物にしての不不正⾏行行為があるが、⾃自分の正しい態度度に恐れて乱発を廃⽌止したが、収⼊入が無くな ったからと⾼高⽊木の如く乱暴暴するには呆れて終う。 ⼀一⽉月七⽇日 ⼟土 晴 第⼆二号線の解決がつかない。然し、不不正は不不正として取り扱い、既に欺かれて⽀支払いたる分に対しては、 伝票発⾏行行者及びその主任者が弁償するのほか道があるまい。責任者の市河⽒氏には同情するが、不不正を承認 する訳には⾏行行かない。⾃自分が此の問題を公にすることを、⼟土⽊木課員は勿論論の事、労働者迄が⾃自分を憎んで いる様である。正しき事の為には、⼈人に憎まるるも⽌止むを得ない。 ⼀一⽉月⼋八⽇日 ⽇日 晴 市河⽒氏は遂に弁償した。三百五⼗十九円六六⼗十銭の現⾦金金を出した。賀川先⽣生、杉⼭山元治郎郎先⽣生、其の他宣教師、 中学校教師等の出席者があって、説教は杉⼭山⽒氏が担当せられ、賀川先⽣生は選挙準備及び之が実⾏行行⽅方法に関 して意⾒見見を述べられた。 ⼀一⽉月九⽇日 ⽉月 ⾬雨 去る六六⽇日、神⼾戸⼜又新⽇日報に、猫の⽬目と称する者より、失業救済事業に関し、奇怪なる噂と題する投書があ り、之の弁明書を⾃自分が草稿することになった。 ⼜又去年年⼗十⼆二⽉月以来の、伝票に就ける正しからざる点の報告書をも提出せなければならなくなった。書くに は幾等でも書くが、⾃自分としては書く事は不不得⼿手であって、斯かる事件位に筆取ること苦しい様では仕⽅方 がない。今より⼤大いに勉強して、ペンを取る事に不不⾃自由なき様にしたいものである。 ⼀一⽉月⼗十⽇日 ⽕火 ⾬雨 昨⼣夕も午後九時迄、本⽇日も午後九時迄居残った。働いても働いても、⼈人が増しても⾃自分の仕事は依然とし てつかえている。⼈人に代わって貰う事の出来ない仕事がある。⾃自分の⽣生存している理理由もここにあるか。 ⼀一⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 今晩の祈祷会で祈らなかった者は唯⼀一⼈人だけであった。本当の祈り会のように感じた。⼗十⼆二年年⾎血の道を病 みし娘の癒されし記事を読み、信仰の単純と美とを説いた。平川、河⽥田両⽒氏の失業より救われん事と松本、 佐藤両兄の健康に快復復せん事を祈った。 ⼀一⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽊木 晴 社会課⻑⾧長、⼟土⽊木課⻑⾧長、⽔水⾕谷書記の三名と⾃自分とが、失業救済に纏わる重要事項に関して協議した。来年年、 失業救済事業を開始する時は、賃⾦金金の⽀支払いには会計課直接に出張⽀支払いをしたら、⼿手数の重複がなく、 我々も安⼼心して紹介事業に従事出来る。然し、⾃自分がやって⾯面倒な事は、⼈人がやっても⽮矢張り同様であれ ば、責任回避をするよりも、勇ましく苦労を忍耐することとするか。アメリカより徳憲義兄は、⾦金金壱万円 也を援助して呉れた。厚く感謝す。 ⼀一⽉月⼗十三⽇日 ⾦金金 晴 仕事ばかりに気をとられて、頭を空にする事を損失と思う。我が⼼心に神あり。神を崇めて、聖旨を想うは、 ⾃自分の最も楽しみとする処である。惜しい事に、忙殺されて疲労しきった。 ⼀一⽉月⼗十四⽇日 ⼟土 晴 イザヤ書を読み、イザヤの偉⼤大に、今更更の如く教えられた。彼は、実に偉⼤大なる者である。彼は、神を中 ⼼心に世界を観ている。⼈人類の堕落落、貧者の苦痛、国の滅亡、⼀一切切神を信ぜぬからであるという。凡ての過 ちを、神より離離れし為であると教える。⼜又神を信じて、本当に⼈人も国も栄えるのであると。⽽而して⼈人の、 神に⼼心に服従せんことを主張す。何という偉⼤大なことであろう。 ⼀一⽉月⼗十五⽇日 ⽇日 晴 朝の礼拝説教に、イザヤ書に関する所感を述べた。夜は、新受洗者六六名を歓迎し、尚久しぶりの懇親会を 催す。ただし、会費⾦金金⼗十銭也を各⾃自⽀支弁し、楽しき親睦を計って、九時三⼗十分閉会した。⽇日曜⽇日の休業を 廃し、出勤して⼗十⼆二⽉月中の⽉月報を作るために働いた。昨夜の雪で、⼭山が⽩白く⾒見見える。 ⼀一⽉月⼗十六六⽇日 ⽉月 晴 今⽇日やっとの事で、⼗十⼆二⽉月中の⽉月報が出来た。⽶米国在住の井上⽒氏から書⾯面が来た。帰朝は来年年⼋八⽉月頃にな るであろうと⾔言い、古着を盛んに集めて⽇日本に送る準備をしつつあると⾔言う。井上⽒氏は渡⽶米してイエス団 を助けて呉れた。 ⼀一⽉月⼗十七⽇日 ⽕火 曇 余り多忙すぎて、考えるの暇も、⼿手紙を書く時もない。不不思議に書く事もない。 ⼀一⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽔水 ⾬雨 祈祷会 教会に於いて友と共に考え、⼜又語り祈る事は、何としも幸いな事である。他の場合、何処に於け る会合よりも、⽮矢張り神聖であり真⾯面⽬目であり得る。 ⼀一⽉月⼗十九⽇日 ⽊木 曇 仕事に追い回されてヘトヘトに労れ、読書の出来ないのが残念念だ。春先から夏にかけてウンと読むとしよ う。出来ない時に無理理にやる必要もなかろう。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⽇日 ⾦金金 晴 ⾼高⼭山君(仮名)が初めて恋の物語をした。失恋とまでは⾏行行かずとも成功覚束ない。気の毒である。然し相 ⼿手の娘とは既に⾃自由に、本⼈人同⼠士は結婚の約束までしていると⾔言う。親が反対で承知しないという事だが、 何とか⽢甘く解決を与えなければ、彼は仕事も⼿手につかないと語った。然も涙ながらの告⽩白であった。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⼟土 晴 明治太平記を読むは楽しみである。物を知る事に依って我は育つのである。狭い国の事柄も、歴史を通し てよく解って来ると、深い様である。知識識を得る毎に、狭い処が広くなり、浅い処も深くなる。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教 レプタ⼆二枚信仰と題して述べ、夜は、イエスに⼀一切切を棄て、服従したる者は、此の世に於いて も百倍を受く、と述べしも、思う様に語り得ずして不不快であった。集会後、平川⽒氏の送別会を催した。七 ⽇日前には歓迎し、今⽇日は送別す。⼈人⽣生⼀一⼨寸先は闇とは間違いない。 昼、五⼈人の⻘青年年の訪問を受けた。 ⼀一⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽉月 ⾬雨 平井光雄⽒氏、朝鮮より来り我が家の客となる。お互い健康にして相会せるは喜ばしい。議会解散後、第⼀一 回の普選なりと社会は緊張している。今度度の選挙で⼀一番興味のあるのは無産党である。都会では割合に⼈人 気があるが、地⽅方に於いては何うだか知れない。折⾓角幸運に成功するとも三⼗十を超えず、少なくとも⼗十五 名は出すであろう。 ⼀一⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽕火 晴 ⽇日本に理理想政治が施⾏行行されるか否かは、此の選挙にある。後⽇日悔いを残さぬ様に、国⺠民は⼤大いに覚醒し、 嘗て⾏行行なわれし如く、情実関係、買収等の不不正⼿手段に依らず、⼤大いに正々堂々と真の理理想選挙を⾏行行なうべ し。 ⼀一⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽔水 晴 午前六六時三⼗十分、杉⼭山君の訪問あり。徳広兄の奥さんの永眠を報知せられた。誠にお気の毒に堪えない。 病床にあられた事はよく承知していたものの、⾒見見舞いにも⾏行行かないで申し訳ない事をした。兄の為に祈る。 夜、納棺式に出席した。兄を初め遺族の⽅方々に気の毒で涙が流流れて⽌止まらなかった。 ⼀一⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽊木 晴 徳広⽒氏の葬式に参加し、イエス団を代表して弔辞を述べた。思う様に述べ得なかった。 ⼀一⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⾦金金 ⾬雨 神⼾戸消費組合の総代会に出席した。昭和三年年度度の利利益⾦金金六六千円を超過した。これで神⼾戸消費組合の基礎も 確実となった。組合員も毎年年百名内外の加⼊入者がある。従業員全体に感謝す。此の組合が、英国のそれの 如く著しい発展を遂げ、社会改造の⼀一助とならんことを。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⼟土 曇 忙しいのみの⼀一⽇日であった。 ⼀一⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽇日 晴 汝等互いに相愛せよ、とのイエスの教訓を説明した。昼は眠って頭脳を休めた。夜の集会に於いては、イ エスを知る事を以って凡てに勝るとの、パーロの書簡を説明した。太⿎鼓を買うことにした。之を⽤用いて伝 道の⼀一助とせんがためである。 ⼀一⽉月三⼗十⽇日 ⽉月 晴 普選問題で新聞記事は満載である。講演会も毎夜である。此の選挙を通して、⽇日本の政治が少しでも明る くなる様に、天の⽗父に祈らざるを得ない。 ⼀一⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽕火 遠来の客・平井光雄⽒氏が今朝我が家を去られた。彼の健康と向上との為に祈る。 ⼆二⽉月⼀一⽇日 ⽔水 晴 祈祷会に出席して、岸部・堀井両兄から、死と復復活に関する感話を聞いた。⾃自分も⼜又死に対する感話を述 べた。今⼣夕⼜又、⽇日本の救いのために祈った。 ⼆二⽉月⼆二⽇日 ⽊木 晴 好晴、三四⽉月頃の気候である。空を仰ぎ観て、⾒見見渡す限りが晴れ、太陽の熱熱くして、⼭山のかすむは何と ⾔言う好き⽇日であろう。何だか此の好き⽇日を、祝い歌わざらざるを得なくさせられる。救世軍少将アンゾロ フ司令令官の歓迎演説会に出席し、有益なる話を聞いた。或⼥女女⼠士官は、らい病⼈人に奉仕する事九年年にして、 遂に我が⾝身も感染するところとなり、医師の治療療宣敷を得て、犯されし病も全快する⾒見見込みが⽴立立った時、 ⼠士官は上官に問うた。私の健康が快復復しても、⽮矢張り此処に置いて、従前通りの働きをさして下さるかと。 上官は答えて、折⾓角癒された⾝身であるから、⼜又病気してはならない。故に転任させると、⼥女女⼠士官は此の答 えを聞いて⾔言った。私は、健康回復復して此の⼈人に奉仕が出来なくなるのであれば、私は此の病気のままで 置いて、現状通りの働きを継続させて下さいと。ああ此の⼥女女⼠士官こそ、イエスの愛を実⾏行行しているのであ る。誉むべきかな、⼥女女⼠士官。偉⼤大なるかな、イエスの愛。 ⼆二⽉月三⽇日 ⾦金金 好晴 聖書之研究⼀一⽉月号、ボーイズ・ビー・アンビシッャスを読んで、⼤大いに教えられた。⾃自分は既に壮年年であ る。然し⼤大望⼼心を以って、将来善き奉仕をしたいのである。 ⼆二⽉月四⽇日 ⼟土 晴 ⾃自分の如き者でも、天の⽗父は何時⼤大命降降下あって、主の業を⾏行行なう⼤大いなる者として、⽤用いられるかも知 れない。ぼんやりしていては相済まぬ。何時でも御⽤用に⽴立立ち得るだけの準備をして置かねばならぬ。⼀一⽇日 のいと⼩小さき仕事も⼜又、其の⼼心掛けで⼤大事と同様忠実に真剣に、働かなくてはならぬとつくづく感じた。 ⼆二⽉月五⽇日 ⽇日 晴 テサロニケ前書の説明をして、礼拝説教に替え、夜は、ヨハネ第⼀一書の、神の⼦子の顕るるは、悪魔の仕業 を壊たんが為なり、の聖句句を講義した。 ⼆二⽉月六六⽇日 ⽉月 ⾬雨 杉⽥田、広⽊木、杉⼭山の諸⽒氏の訪問があった。来客のあるは⽌止むを得ないが、読書の出来ないのは残念念である。 然し、独り読書する以上に、来客の為となれば是も善事をなしたので、悔いるには及ばない。 ⼆二⽉月七⽇日 ⽕火 晴 ⽇日本物語全史の第⼆二回配本を読んだ。⽇日本に住んで居て⽇日本を知らなかったが、第⼀一第⼆二巻を読んで少し は解った。⽮矢張り書物は読まなくてはならぬ。 ⼆二⽉月⼋八⽇日 ⽔水 晴 岸部兄が、再び主の再臨臨説を述べ、堀井兄、主の救いに関して所感を語り、⾃自分は、岸部兄の説に⾃自分の 信仰を語って祈った。特に選挙に就いて祈った。 ⼆二⽉月九⽇日 ⽊木 晴 仕事が⽇日に⽚片付いて捗るのが愉快である。数⽇日間は読書も割りに進む。感謝である。 ⼆二⽉月⼗十⽇日 ⾦金金 曇 ⾃自分の如き者が、神と⼈人との為に奉仕するの⼠士気を抱くは、全く不不思議で仕⽅方がない。無知であり無学で あり、無⼒力力で裸裸である。何が⾃自分に出来るか、将来を考えても不不安である。然るに何物の故であるか、⼤大 いにやれやれと、絶えず我中⼼心にささやくものがある。これキリストの愛の励ましであろう。我は、我に 絶望して、キリストに服従しよう。 ⼆二⽉月⼗十⼀一⽇日 ⼟土 雪 ⼤大雪である。新聞は三センチも積もった書いている。今より⼆二⼗十⼆二年年前、丁度度⼆二⽉月⼗十⼀一⽇日に⼤大雪が降降った。 それ以来、今⽇日程の積雪を⾒見見る事がなかった。⼆二⼗十⼆二年年前、窪⽥田の⼯工場に通勤していた時、下駄の緒が切切 れてハダシで歩いた事を追想した。⾼高⼭山君(仮名)の恋愛問題で、近江の⼤大溝迄旅⾏行行したが、先⽅方不不在で 要領領を得ず帰神した。⾼高⼭山君(仮名)の結婚問題は、困難中の困難である。 ⼆二⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽇日 曇 昨⽇日の降降雪が未だ消えない。⼭山の美は特別である。⼀一銭も要せざるに、⼀一夜にして⼭山全部を真っ⽩白に、花 化粧し給うた神の御⼿手は⼤大きい。キリストの愛に就いて説き、礼拝説教とした。夜は、魂の改造と題して 述べた。 ⼆二⽉月⼗十三⽇日 ⽉月 ⾬雨 聖書之研究は、何と⾔言っても信仰の深き真理理を教える。⽇日本になくてはならぬ最善の誌である。⾃自分がこ れに依って教えられた点は、実に⼤大きいものである。先⽣生の此の世に存在せられし間に、⼀一度度は謝礼に往 かなければ済まない。実に恩⼈人である。 ⼆二⽉月⼗十四⽇日 ⽕火 曇 選挙の競争で、労働者は余程仕事が増えた。ポスターを貼り付けして廻るだけでも、実に多数の⼈人夫を要 する。印刷所に紙屋は⼤大繁盛である。然しビラの貼り⽅方は無茶茶苦茶茶で、都市の美観は⼤大いに損している。 ⼆二⽉月⼗十五⽇日 ⽔水 晴 ⽶米国では、⼀一ヵ年年に七億五⼗十万ドルの菓⼦子を喰い、⼆二⼗十五億⼆二千五百万ドルの⽩白粉を使⽤用すると⾔言う。物 資には不不⾜足はない。天然の産物を粗末に乱⽤用し過ぎるのだ。祈祷会に出席した。何だか気抜けのした集会 であった。但し之は、⾃自分に何等の準備もなかったからであって、⼈人が悪いのではない。通俗世界全史を 読んだ(⼗十四巻)。知る事は⽮矢張り愉快なことである。書のよく読める時、⼼心の中に満⾜足がある。 ⼆二⽉月⼗十六六⽇日 ⽊木 晴 少年年の職業指導に就いて、⾊色々と学んだ。少年年に適当なる職業に就かしめて成⼈人したる後、アンコウの如 き労働者となる者の、⽇日本に⼀一⼈人もなくなることを切切に祈る。⼀一定の職なき不不塾者が仕事ないかとて迷っ ている。技能あるものさえ失業に機会が多いのに、無職者の業に就けざるは当然である。⽇日雇者の多くは、 仕事があるも働けない者ばかりだ。 ⼆二⽉月⼗十七⽇日 ⾦金金 晴 ペスタローチの教育を読んで有益なる事を学んだ。若若し⾃自分に⼦子供が与えられるなら、彼の説に従って教 育したいものである。 ⼆二⽉月⼗十⼋八⽇日 ⼟土 晴 選挙演説場は、官憲が出張監視して、あらん限りの圧迫を加え、⼲干渉甚だしき為、却って無警察の状態に ある。警察の不不在が却って安全の如くである。 ⼆二⽉月⼗十九⽇日 ⽇日 晴 種蒔きの例例の説明を以って、礼拝説教に替えた。昼は⼀一⽇日家にあって、庭に雛を作る事と湯場の⽚片づけで 忙しい程であった。詩の百三編を述べた。寒い⽇日であった。政友勝つか⺠民政勝つか、無産党何名出るか、 昨今の⽇日本の問題はこれで持ちっきりである。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽉月 晴 ⽣生まれて最初の衆議院選挙投票に往った。河上丈太郎郎⽒氏に⼀一票を投じて置いた。之が⽇日本に於ける第⼀一回 の普選であって、⾃自分の⼜又第⼀一回の選挙権⾏行行使である。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽕火 晴 今⽇日は開票⽇日であって、誰が勝って誰が負けるかが、⽇日本の⼤大問題となっている。神⼾戸に於いては、野⽥田、 砂⽥田、藤原、河上、中井の順で当選した。河上⽒氏は評判程の数は勝ち得なかった。然し最初の出陣であれ ば、⼤大成功である。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽔水 晴 杉⼭山、吉⽥田、加藤の諸⽒氏が落落選した。残念念なことをした。次の選挙まで待つほかはない。政府は、無産党 は五名だと予想していたが既に六六名になっている。 ⼆二⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽊木 晴 無産党、遂には⼋八名となった。然し⾃自分の期待の半数である。この理理由は、⼀一つは各無産党間に協定が⽢甘 く出来なかったことである。⼜又⼀一つは、善き⼈人物がなかった点であろう。今⼀一つは、無産者が⽬目覚めてい ないからである。以上の理理由が最⼤大なるもので、其の次が官憲の圧迫及び⼲干渉であったであろう。 ⼆二⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⾦金金 晴 政友⼆二百⼗十九名、⺠民政⼆二百⼗十七名、無産⼋八名、⾰革新に実同各四名、⼗十⼋八名中⽴立立である。政府当局者の期待 は裏裏切切られた。ロスアンゼルスから四⼗十三円六六⼗十銭の援助⾦金金送付があった。有難く頂戴する。好意を感謝 する。 ⼆二⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⼟土 晴 思想全集第四⼗十九巻を読了了した。⼜又もう⼀一度度繰り返して読みたい。次は、種の起源を読むであろう。⼀一冊 を読むに⼀一週間を要する。何でも去年年の読書以上に読みたいものである。 ⼆二⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽇日 晴 善き好晴である。凡ての物が、皆天を仰いで歌っている様な感じがする。全く春になった。朝は、神の⼦子 の⾃自覚と題してヨハネ⼗十章を読んで説教した。夜は、賀川先⽣生久しぶりで説教せられた。⼆二時間午睡して ⼀一週間の疲労を癒した。 ⼆二⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽉月 晴 ⼭山はかすみ、海は静か。空は晴、⿃鳥歌う、全く春になって終った。⾃自分の将来を夢⾒見見て、⼀一⼤大伝道せなけ ればならぬと、⼼心密かに決するものがある。然し、今三四年年は、落落ち着いて現在の仕事と読書とを続けて ⾏行行くであろう。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽕火 晴 蝶や蜂が存在することに依って、植物の花が美しくなったと⾔言う。奇妙なことであろう。花を以って地球 を装飾することの出来るのは、全く蝶や蜂のお陰であるとは、ああ此の世に、意味なくして存在するもの は⼀一つもないであろう。 ⼆二⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽔水 ⾬雨 祈祷会に出席しなくてならぬものは、神必ず与え給うとの約束に就いて述べた。朝の多読がたたってか少 し頭が重い。 三⽉月⼀一⽇日 ⽊木 曇 不不思議で不不思議で仕⽅方がない。凡てのものが皆不不思議である。私の眼の⽟玉に天が現る。⼭山も野も皆現る。 観えることが不不思議である。私の⽿耳に⾳音が聞こえる。⾵風の⾳音が、汽笛の⾳音が、⼯工場の⾳音が、⼈人の声が、或 いは⾼高く、或いは低く、何という不不思議であろう。私は物が⾔言える。⼿手が動く。⾜足が⾃自由に動く。何とい う不不思議であろう。そう考えている、その事が不不思議でならない。 三⽉月⼆二⽇日 ⾦金金 晴 政友は再び議会解散を辞せずと⾔言う。⺠民政は不不信任案提出して、現内閣を倒してみせると⾔言う。何うなる 事か知れないが、⽇日本の政治上の⼤大問題となっている。 三⽉月三⽇日 ⼟土 晴 桃の節句句である。雛⼈人形⼀一つもないが、⽢甘酒⼀一杯呑んで、之を祝いの印とした。誠に簡単極まる節句句であ る。 三⽉月四⽇日 ⽇日 晴 神の聖旨を⾏行行なう事に関して述べた。今⽇日より鶏七⽻羽を我が家の家族として迎えた。鶏舎を建てるに終⽇日 費やした。お陰で⽣生まれて初めての⾦金金網も編んで⾒見見た。夜、賀川先⽣生の説教があり、⼗十年年後には⼤大変化が あり、その時はイエス団からも⼤大⼈人物が出ると予⾔言した。⾃自分も、労働者伝道に就いては⼤大いに責任のあ る事を感ずる。 三⽉月五⽇日 ⽉月 ⼩小⾬雨後晴 将来、⼤大いに伝道すべしと⼼心底静かにささやくものがある。何を為すも、神の栄光を顕さんが為ではある が、特に伝道の使命の重且つ⼤大なるを痛感す。 三⽉月六六⽇日 ⽕火 晴 何年年⽬目かに、⽗父が紹介所を訪れて来れた。⽗父は当年年六六⼗十四歳なるも、⾝身体頗る強健にして、⼀一切切病気せず、 少々不不摂⽣生するも、尚健康失わずと、⼜又彼が灸治の道に熱⼼心なるにも驚く。今は、紀州新宮に居住すると ⾔言い、尚⼜又紀州に赴くとの事。当地に来る主たる⽬目的は、⾃自分の健康を気遣ったが為であると⾔言う。ああ ⽮矢張り親なるかな、誰か⾃自分の健康を⼼心配して、神⼾戸まで⾒見見舞うものだ。 三⽉月七⽇日 ⽔水 晴 祈祷会の出席者が⼆二⼗十⼆二名もあった。神⼾戸市内の教会で、祈祷会に⼆二⼗十名も出席する教会は、他には唯⼀一 箇所もあるまい。イエス団の祈り会は、神⼾戸の為に祈る宮の様である。⼈人もし渇かば我に来りて飲め、と の主エスの⾔言葉葉に就いて述べた。去年年今⽇日の⼣夕⽅方、⻄西宮の賀川先⽣生宅宅に於ける冬季農⺠民学校へ、職業紹介 に関する講座に出掛けた時に、⼤大激震があった。奥丹丹の激震となったのである。満⼀一ヵ年年の記念念⽇日である。 三⽉月⼋八⽇日 ⽊木 晴 ジャンジャク・ルソーのエミイルを読み、ルソーの教育に対する如何に注意深い、⼜又理理性に富める男であ ったかを、深く思わされる。久宮内内親王逝去さる。 三⽉月九⽇日 ⾦金金 ⼩小⾬雨後曇 宇都宮では、愈々南⽶米⾏行行き決⾏行行との事である。兄と⼀一家族の為に祈る。どうぞ彼を保護し⼜又祝福し給えと。 三⽉月⼗十⽇日 ⼟土 ⾬雨 失業者救済事業の従事⼈人夫淘汰で、三百五⼗十⼈人馘⾸首をつくることになっていたが、⾬雨天の為に中⽌止した。 就業さす時は嬉しいが、解雇する時は⾟辛い。気の毒である。失業と同時に飢えにせまる⼈人達の事を考える と、誠に同情に堪えない。 三⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽇日 晴 今⽇日も⼜又三度度の説教をした。これに依って、神の聖旨が幾分でも伝わって居たら感謝である。 三⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽉月 晴 失業救済事業使⽤用の⼈人夫三百五⼗十名を愈々断った。気の毒であったが仕⽅方がなかった。働くに職がなけれ ば⾦金金が儲からず、⾦金金がなければ喰えず、喰わなければ餓死のほかはない。天の⽗父はこの⼈人達をどうして下 さるかと⼼心配でならぬ。 ⻑⾧長船からおばが来た。おば上神は⼗十年年⽬目位の久し振りである。当年年六六⼗十歳と⾔言えば、もう⼆二度度とは来神は 出来まい。出来る限りの親切切を尽くして置き度度い。⽗父とおばと⼆二⼈人が来客となったので、⾃自分の何より好 きな読書も皆⽬目となった。 三⽉月⼗十三⽇日 ⽕火 晴 ⾃自動⾞車車で阪神国道を経て⼤大阪に往った。⼤大阪逓信局へ神⼾戸電話局供給⼈人夫の件に就いての打合せの為であ った。阪神国道を⾃自動⾞車車で⾶飛ばすだけで、随分愉快なものである。京橋労働紹介所へも⽴立立ち寄った。失業 救済事業の様⼦子を聞いたが、全く無意味な仕事をしている。何等の⽬目的も理理想もなくして、唯単に失業者 が押しかけたから⼀一時逃れの応急策をとったに過ぎない。今後、救済事業を⾏行行なう時は、是⾮非とも申込者 の失業または⽣生計状態を本当に調査して、その上で真に失業の為に窮している⼈人のみを就業させなければ ならぬ。 三⽉月⼗十四⽇日 ⽔水 晴 頭痛の為、祈祷会⽋欠席す。教会の集まりに参加せざるは、⼀一ヵ年年に⼀一度度か⼆二度度位である。それも不不在の為 か特に⽌止むを得ざる事情あるときのみである。今晩の⽋欠席もまた⽌止むを得ない。 三⽉月⼗十五⽇日 ⽊木 晴 毎⽇日おばの話を聞くことが仕事である。⾃自分の好きな読書は中⽌止となった。然し、おばの物語を通じて、 読書に依って得る以上に、何事かを得るのである。そうしてそれが無益でない。 三⽉月⼗十六六⽇日 ⾦金金 晴 愈々春の気分が出て来た。もうすっかり陽光が変わった。太陽の暖かさを通して神の愛を味わい、草⽊木の 新芽を観ては新しい希望に輝き、⼩小⿃鳥の歌声を聞き⼜又は蝶の舞うのを観ては、神を讃美することを覚えさ したいものである。⼈人間の頑なな⼼心も、春を通じて神の愛に帰って来る様にと祈らざるを得ない。 三⽉月⼗十七⽇日 ⼟土 晴 おばを案内して、奈奈良良に旅⾏行行した。天候がよかったのと、奈奈良良が美しいのと、⿅鹿鹿の多いので、すっかり気 に⼊入り感謝に充ちた。此の⽼老老⼈人を喜ばしめるために、最善を尽くそう。 三⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽇日 晴 朝・夜、⼆二回説教した。夜は、三⼗十⼋八名の出席であった。鶏舎の修繕をして全⽇日を費やした。 三⽉月⼗十九⽇日 ⽉月 晴 政友勝つか⺠民政勝つか、⼆二⼤大政党の戦いばかりが新聞紙を賑わしている。どちらが天下を取るも差したる 事はないであろう。我等の問題は、依然として良良⼼心であり神であり神の国である。此の世の者は此の世の 事を、神のものは神の国の問題を問題とするが当然で、敢えて不不思議ではないかも知れぬ。 三⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽕火 晴 ⻄西宮の農⺠民福⾳音学校に往って、職業に関する事柄を話した。 ⼈人は誰でも職業を持たなければならぬ事、職業は社会より分担せられたる務めである。⼜又其の職業は、個 ⼈人個⼈人に於いて得⼿手と不不得⼿手とがあるから、得⼿手の仕事を選ばなくてはならぬ。⼜又⼈人は⾃自分単独で⽣生活で きないのであるから、職業を選ぶに当たっても、⾃自分のみの利利益を考えないで、世を益して⼈人の為になる 業を選択しなければならない。然して各⾃自は、各⾃自の職業を通して社会に貢献し得るのであるとの意を述 べた。おばも⽗父も、賀川先⽣生を訪問して帰った。 三⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴⼀一時少し⾬雨 ⾼高⼭山兄(仮名)の恋愛問題で、近江の⼤大溝まで兄と同⾏行行して、先⽅方に出来る限りの交渉をしたが、娘を呉 れるとは⾔言わない。否、返って絶対に嫁にはやらぬと強く断られた。乗⾞車車九時間も中々疲れる。 三⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽊木 晴後曇 おばが帰国した。何⼗十年年⽬目であったか知れないが、ブラブラと遊び半分の旅⾏行行をした。然し、健康を害し ているので気の毒であるが、殆ど⽣生涯を通じての犠牲の⽣生活を続けたおばに対する報いには、未だ不不⾜足過 ぎるけれども、おばは充分感謝している。ああ、おばは不不幸な⼈人だと思ったが、あれが本当の幸福なる⼈人 である。恵まれたる⼈人である。貧乏と困難とを通して、⽗父の御愛を悟り味わっている。 三⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⾦金金 晴 ロスアンゼルスの徳⽒氏から、古着を⼗十三箱送付したとの通知が来た。⽶米国から⽇日本に輸⼊入する品は種々あ るであろうが、古着を輸⼊入したのは此の度度が最初であろう。兎に⾓角、御親切切を謝さなくては済まぬ。集め る世話から、荷造り・発送、中々の⾻骨折りである。其の厚意と労とに対し⼤大いに感謝する。かくして我々 の奉仕を、遠く⽶米国から我同胞が援助して呉れることにより、我等の精神は⼀一層熱くなる。 三⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⼟土 晴 愈々古着が到着した。何⼗十⼈人分かの⼈人達を喜ばせ得る。若若し⾦金金額にして相当な額に達するなら、⼦子供の為 に使⽤用したいものである。 三⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽇日 曇 信仰に関して述べた。信ずる事は⼒力力であり⽣生命である。信ぜは奇跡も⾏行行なわるる。荒野に⽔水を湧かしめ、 砂漠にマナを降降らせ、⼤大海にも⼤大路路を開かせ給う。主は葺合新川を、恵みに依って養う事は、易易々たる事 である。貧⺠民が救われ、前科者が赦され、病⼈人が医やされる事を信じよう。夜、賀川先⽣生の説教があった。 貪ることを⽌止めない限り、社会問題は永遠に解決つかないとの意を述べられた。 三⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽉月 ⼩小⾬雨 私は裸裸⼀一貫で満⾜足する。神の栄光を崇めさして頂く⼼心を有つだけでも、⼤大仕合せ者である。神の御愛を感 ずるの感覚のあることが、私には有難くて仕⽅方がない。例例え今死ぬるとも、天然の業なる⼭山と海とを知り、 昼は太陽の光を、夜は⽉月と星との輝きを、観せて貰っただけでも、私には⼤大いなる感謝である。 三⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽕火 晴 宇都宮⽶米⼀一兄から南⽶米ブラジルに⾏行行くと⾔言う。私は兄に呈すべき⾔言葉葉を知らない。 三⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽔水 晴 ローマ書⼗十⼆二章を説明して祈祷会を始めた。中村兄が⼤大阪⾼高等学校に⼗十四番で⼊入学した。イエス団は⻘青年年 の団体である。将来主の為に、⼤大いなる栄を顕すに⾜足る者とならなければならない。 三⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽊木 晴 余りに多忙で、疲労しきって読書が出来なくなった。⼆二三⽇日静養するとよいと思うが、休⽇日は得られない。 休んで癒すのでなく、働いて働いて働き癒すのである。否、我のみが独り働くのではなくして、⽗父が偕に 在って働き給うが故に、我も⼜又働くを得るのである。 三⽉月三⼗十⽇日 ⾦金金 曇⼩小⾬雨 失業救済事業に従事したる紹介所側の事務員と保険組合の係員⼀一同が、平和楼に招待して、⼣夕⾷食の御馳⾛走 があった。其の席上で、⽊木村社会課⻑⾧長は、武内君の度度胸には敬服すると、⼜又官庁より雇いに来たがやらな かった等と、豪い褒めて呉れた。⾃自分は聞いて、独り不不思議に思った。⾃自分程、臆病な気の弱い者が、何 うして⼈人の⽬目に強く⾒見見えるのかと。これは私ではないであろう。主エスが、我に勝って主が働き給うとき、 当⼈人の私は弱くとも、主に在って誰⼈人よりも強くあるのであろう。 三⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⼟土 晴 失業救済事業は、今⽇日で愈々解散となった。⻄西川⼯工事のみは完了了していないにも拘らず、⼯工事中⽌止とは如 何にも奇異異なことであるが、兎に⾓角解散した。気の毒なのは労働者諸君である。彼等七百名の者は、明⽇日 から⽣生活に苦しまなければならぬ。失業は実に彼等の死活問題である。彼等の為に祈る。 * * * * ⼨寸暇を⽤用いて、この作業を継続する。この⽇日録に武内勝の「個⼈人性」「対⼈人性」 「社会性」の表⽩白が⾒見見事に 滲み出ている。では、次回へ。 (2009年年9⽉月7⽇日⿃鳥飼記す。2014 年年 3 ⽉月 6 ⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(51) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(4) 昭和3年年8⽉月〜~昭和4年年6⽉月 武内の⽇日記に「⿊黒⽥田四郎郎牧師」が登場してくる。昭和3年年6⽉月に書き起こされた⿊黒⽥田の「神の国運動⽇日誌」 は良良く知られているが、ここには「賀川豊彦写真集」にある「神の国運動」のスナップ写真を⼊入れておく。 ⿊黒⽥田は左から3⼈人⽬目。 * * * * 昭和三年年四⽉月〜~六六⽉月 四⽉月⼀一⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教 職業と信仰と題して述べた。夜は、神に就いて説いた。伝道に⼤大いに責任を感ずる。午後、妻 と同伴で、須磨寺と須磨海岸とを散歩した。寺には桜のつぼみが⼈人の注意をひいている。海は穏やかで、 広々と実に快感を与える。海岸での遊びは、夏の海よりも春の海が楽しみ易易い。 四⽉月⼆二⽇日 ⽉月 曇 ⾼高本⽒氏(仮名)が三百円の負債が出来て進退窮まっている。辞職でもしなければ解決がつかないから、何 んとかして救済して呉れと依頼してきた。彼も放浪浪⼈人であって、幾度度失敗したか知れない。もう彼が亡く なるままに放任して置けば彼は全く破滅する。妻あり親ある⾝身でありながら、全く始末悪い男である。特 に悪いことは嘘を⾔言うこと、酒と⼥女女とである。これが彼を滅ぼすのである。彼の救済は、三百円の⾦金金のみ にあらずして、嘘と酒と⼥女女から救済しなければならぬ。彼の救いの為に務めよう。組合本部に於いてさえ ⾃自決させよと⾔言っているものを。 四⽉月三⽇日 ⽕火 晴⾬雨 疲労の結果、眠くって堪らず、朝より半⽇日床に就き、休養に努め、午後も保養に費やした。 四⽉月四⽇日 ⽔水 曇 ヨハネ⼗十三章と⼗十七章を読んで祈祷会をはじめ、⼼心ゆくばかり互いに祈りあった。 四⽉月五⽇日 ⽊木 晴 ⾼高本⽒氏(仮名)の⼀一⾝身上に関する重⼤大なる問題に就いて解決をつけた。之で⼀一⼈人を救済することが出来た。 ⼀一⼈人の救済の為にも随分の労を要する。 四⽉月六六⽇日 ⾦金金 晴 上ヶ原⼯工営所に於いて、供給⼈人夫六六⼗十名が、ストライキを起こして就業しないから、早く解決する様にと の通知を受け、早速上ヶ原に⾃自動⾞車車でかけつけうまく解決した。労働者も皆満⾜足して働く事になった。然 しその理理由は、⽇日給⼗十銭を増額し⼀一⼈人⼀一円五⼗十五銭となったからである。失業救済事業の残⼯工事を明後⽇日 から開始する事になった。今⽇日の⼀一⽇日も多忙であった。もうすっかり疲れて終った。 四⽉月七⽇日 ⼟土 晴 堀井⽒氏の訪問があった。時に友⼈人の⼼心情に接する事は快楽である。我等の地上に於いて経験する最上の楽 しみである。殊に善き友、信仰を同じゅうする友を得る事は、何たる御恵みであろうか。 四⽉月⼋八⽇日 ⽇日 晴 今⽇日から失業救済事業の繰り延べ⼯工事に着⼿手した。使⽤用⼈人員壱百⼆二⼗十三名に休職申し込み者は五百を超過 している。⽇日本の失業者は⽇日に⽇日に増加して⾏行行き、その救済名案はなく、憐憐れむべき状態にある。 四⽉月九⽇日 ⽉月 曇 ⻄西部に於いてのみでも七百名を数えた。此れ等の多数が全部アブレルので、何たる惨憺であろうか。彼等 は本当に飢えに迫っている。世には富んで喰い余り、贅を尽くせる者もあるものを。 四⽉月⼗十⽇日 ⽕火 ⾬雨 宇都宮の⼀一家族が南⽶米ブラジル⾏行行の為めに神⼾戸に来た。兄が南⽶米に往って成功するか何うかは知れないが、 ⽇日本に居っても兄に適当なる仕事はない。⽮矢張り移⺠民が適当しているのかも知れない。 四⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 河川埋め⽴立立て⼯工事残事業に就業すべく、五百名以上に抽選を⾏行行なった。使⽤用数僅かに⼋八⼗十名である。⼋八⼗十 名の就職⼝口に対して、五百名以上が集会するのである。何という不不景気であろう。何とかしなければ⼀一⼤大 社会騒動が勃発する。古中実三郎郎という前科数犯の男が⾦金金壱円也を送付して来た。⼜又彼は改⼼心して信仰の 道に光明を⾒見見ていると喜んでいる。彼に⼀一円を貸したのは何年年かの前であった。彼は⾔言った。私はピス健 以上の悪党に活き社会をびっくりさしてやる。それで死ねば本望だと。そのとき彼に反省省を促して⾦金金壱円 を恵んだのであった。それが今は、真⾯面⽬目になって居り、信仰の⽣生活にありと告⽩白し、⼜又借⾦金金を返すなど、 やはり世の中には不不思議なことがある。天の⽗父は彼をも捨て給わないのであろう。 四⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽊木 晴 宇都宮⽒氏が、南⽶米渡航の為め来神し、今⽇日は我が家の客となった。⼦子供五⼈人を同伴での渡⽶米である。容易易 なことではない。然し⽒氏は、⽇日本に居るよりブラジルで⽣生活する⽅方が好適であろう。唯⼦子供の教育のみが 案じられる。⽇日本の将来は、南⽶米に延⻑⾧長し移⺠民するのほか、⽇日本の⼈人⼝口問題は解決法がないであろう。宇 都宮の⼀一家と須磨寺と海岸を散歩した。これが此の世の最後の別れであるかも知れない。兄の祝福を祈る。 四⽉月⼗十三⽇日 ⾦金金 晴 ⼋八⼈人の客を迎えて家の内は⼀一杯である。⼦子供を育てる事の⼤大事業を、今更更教えられた。 四⽉月⼗十四⽇日 ⼟土 晴 救済事業での多忙も忘れられる程になった。⽇日雇労働者の将来に就いて考えて⾒見見よう。唯にパンの途をの みの解決でなく、本当の救済に関する実際問題を。 四⽉月⼗十五⽇日 ⽇日 晴 全き救いの題に依り述べた。夜は、杉⼭山元治郎郎先⽣生の信仰に関する説教があった。桜観の⾒見見物客の多いの にも驚く。須磨も会下⼭山も⻘青⾕谷も⼈人の波である。飲んで騒いで、倒れなきゃ承知せぬ連中も困ったもので ある。 四⽉月⼗十六六⽇日 ⽉月 晴 広⽥田のツツジを観た。実に美しく咲いていた。桜も美しいがツツジも美しい。新芽も美しい。近くにある ものが美しい。遠くにあるものも⼜又美しい。はっきり観えるのが美しい。かすみのかかるのも美しい。野 より⼭山を仰いで美しい。野を⾒見見おろして美しい。岸部、杉⼭山両兄が訪問せられた。岸部⼀一家のために祈る。 杉⼭山の前途の為に祈る。 四⽉月⼗十七⽇日 ⽕火 晴 宇都宮兄の南⽶米渡航から、⾊色々なる⽇日本の⼈人⼝口問題を考えさせられる。⽇日本はどうせ何処かに移⺠民しなけ れば、現状維持の保たれない国⺠民である。現在の国状では、職業紹介より以上の問題である。平和楼で組 合の理理事会開催され出席した。 四⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽔水 晴 近江から細⽥田のお⺟母さんが、朝鮮から愛ちゃんが、宇都宮⼀一家族の南⽶米ブラジル移⺠民渡航の為め送別しよ うと来神した。 地上に於いても⼜又会う⽇日があるかも知れないが、或いは最後であるかも知れない。⼀一家族全部にはそうで なくとも、其の中の誰かには最後とならんとも限らない。兄弟の為に祈る。家は今⽇日から賑やかである。 静かなる祈祷会であった。 四⽉月⼗十九⽇日 ⽊木 晴 宇都宮⽒氏を移⺠民客所に訪問した。送別に地球儀を贈った。収容所に宿泊している同胞を⾒見見て⼆二つの感が起 きた。⼀一つは、之等の⼈人達が南⽶米の地に第⼆二の⽇日本を創設するかと思えば、敬意を表せざるを得ず、また 祝福せざるを得ない。然し⼜又⼀一つには、⽇日本は此の⼈人達を安住せしめるに⾜足りないかと思えば、気の毒で ならず情けなくなる。 四⽉月⼆二⼗十⽇日 ⾦金金 ⾬雨 議会解散か否かは⽇日本の⼤大問題の如く、新聞は筆を揃えて⼤大書する。何うなったとて、別に善政も⾏行行なわ れないものを、政友勝っても⺠民政勝っても、五⼗十歩百歩ではあるまいか。 四⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⼟土 晴 伏⾒見見町に公⽤用で出張し、午後宇都宮を突堤に⾒見見送った。今⽇日のたぷらす丸には、九百余名の移⺠民を乗せて いる。これだけの⼈人達が、百年年後には何万⼈人に増加するか知れない。⼈人の増加も恐ろしいものだ。宇都宮 兄も房⼦子姉も⼦子供等も泣いていた。⾒見見送りの者も泣かされた。特に房⼦子姉と道世とは泣き通していた。⾒見見 送りの⼈人達には、義男兄に敏⼦子ちゃんに牧野御夫婦に本多、中⼭山、⾼高⽐比良良、堀井、杉⼭山、佐藤姉、広⽊木、 ⼩小⼭山⽒氏等であった。夜、我が家に帰って⼣夕⾷食を共にした。宇都宮の為に涙ながらに祈った。 四⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽇日 ⾬雨暴暴⾵風 コリント後書六六章に就いて説明した。夜は、⾺馬太伝⼗十⼀一章の説教をした。中央所⻑⾧長宅宅に招待を受け、折の 御馳⾛走になった。 四⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽉月 曇 ⼤大倉喜⼋八郎郎が逝ったと新聞は伝えている。彼の⼈人相は賀川先⽣生によく似ている。⽮矢張り性格の何処かに共 通なる点がある様に思われる。⼤大倉が実業に⽣生命を打ち込める如く、賀川先⽣生は神の国運動に⽣生命を献げ る。⽅方⾯面は異異なるも、意気と熱と奮闘振りにはよく似たるものがある。若若し賀川先⽣生が実業家となってい たら、成⾦金金になる⼈人であったであろう。然し賀川先⽣生は、⼤大倉と三菱菱と三井と合わせても、尚成し能はざ る⼤大事業を⾏行行ないつつある。 四⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽕火 曇 ⽇日傭労働者を保護し救済する為には、単に労働紹介のみの事業に終わってはならない。⼀一⼤大計画を⽴立立て、 政府当局を動かし、救済資⾦金金を下付させなくては、冬季に限られたる失業救済事業では徹底しない。少な くとも神⼾戸市在住の⽇日傭労働者は、残らず救済し得るの⽅方法を講じなくてはならぬ。 四⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽔水 曇 クリスチャンに悲観なしとの題で、信仰の⽴立立場より、凡ゆる⽅方⾯面に亘り楽観説を述べた。凡ての事、善意 に解釈すべしと、⾃自分に恵まれ居る信仰の物語をした。本当に神と偕に在って、失望も悲観もない、神に 依って得たる希望は、此の世の何ものも之を奪い得ない。神の愛に浸っていて⾜足らざるものはない。凡て が感謝である。 四⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽊木 曇 細⽥田のお⺟母さんが近江に帰り、愛ちゃんも⼜又お⺟母さんに同⾏行行した。あと⼤大阪に⼀一泊するかも知れない。細 ⽥田に⼀一家の内に、漸次信仰が喰い⼊入って、皆が福⾳音に近づきつつある。有難い仕合せである。今⽇日、神⼾戸 市職業委員会が市会第三議員室で開催になり出席した。 四⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⾦金金 晴 来客の為め暫らく読書を中⽌止していたが、客は皆去って終った。これからウンと読書することにしよう。 読書の楽しみがないと淋淋しい。何だかもの⾜足りない。 四⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⼟土 晴 まとまりのつかない仕事ばかりで不不愉快である。然し、⾯面倒臭い仕事を⽚片付けて⾏行行く処に、⾃自分の使命が ある。⾃自分の使命が果たせ得れば、⽮矢張り愉快である。 四⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽇日 晴 天⻑⾧長節 ⾺馬太伝五章に依り、幸福に就いて述べた。夜は、使徒⾏行行伝三章に依り、救済の徹底と題して述べた。昼は、 神⼾戸市職業紹介所により就職したる者の内、三年年以上同⼀一雇い主に雇⽤用された者の表彰式が、神⼾戸商⼯工会 議所で開催された。六六⼗十六六名が選奨状、内⼗十⼀一名は賞品迄貰った。出席者の中には市⻑⾧長、助役、課⻑⾧長、中 央事務局⻑⾧長代理理、⼤大阪地⽅方事務局⻑⾧長、知事代理理、市会議⻑⾧長、商⼯工会議所会頭代理理、其の他で中々盛会であ った。紹介所宣伝の為に⼀一番効果があろう。 四⽉月三⼗十⽇日 ⽉月 曇 ⽇日傭労働問題に関する⼤大阪事務局官内の打合せ会が、事務局に於いて開催になり、神⼾戸より中央職業紹介 所⻑⾧長と⾃自分が出席した。⽇日本の労働問題、其の中失業の部分はどうにも良良き解決の⽅方法がない。健康にも 失業にも、保険を付するより以上の途は、現在の所考え得られない。 五⽉月⼀一⽇日 ⽕火 ⾬雨 今⽇日はメーデーであるが、⾬雨天の為めに之に参加する者が少ないであろう。⽇日本の労働祭は、最初に於い て余り振るわなかったが、⼆二三回⽬目には可也盛んになったものを、官憲の弾圧と雇い主側の排斥とに依っ て、漸次下⽕火となった観がある。神⼾戸には特に著しいものがある。メーデーに参加した職⼯工は解雇すると は、何たる乱暴暴であろうか。 五⽉月⼆二⽇日 ⽔水 晴 淋淋しい祈祷会であった。然し、⼼心残りなく、遠慮なく祈れる会で嬉しかった。岸部君が脱会した。続いて 渡辺君も来ないであろう。何処に居ても、信仰を以って神に従っている事なれば、吾等は祝福の他に途は 知らない。 五⽉月三⽇日 ⽊木 晴 ⽵竹本、⽊木次の両名を解雇する事となった。誠にお気の毒なる事である。何等の失策もないものを、馘⾸首と は余りにひど過ぎる。失業は正に死活の問題である。 五⽉月四⽇日 ⾦金金 晴 最近は毎⽇日失業問題を考える。之を救済するの名案がない。困ったものである。名案があっても、之を実 ⾏行行しない今に於いて、対策を講ずるに⾮非ざれば、⽇日本にも⾰革命を観るの惨事が⽣生ずるであろう。⽇日本を失 業から救済する為に、更更に考え祈ろう。 五⽉月五⽇日 ⼟土 晴 ⻭歯科医に往って⻭歯の治療療を受けた。⻭歯も⼤大切切にすれば終⽣生役に⽴立立つ。放任して置けば⼆二三年年にして、⻭歯が ⻭歯の使命を全うし得れなくなる。今保護するは⾃自分の義務である。⾦金金のあるなしに係わらず治療療を受けよ う。 五⽉月六六⽇日 ⽇日 晴 ⾺馬太伝五章の幸福に就いて、⼀一週前の⽇日曜礼拝の続きを述べた。佐藤兄の宅宅を訪問して、昼と夜と⼆二⾷食を 御馳⾛走になった。夜の集会には、神になし能わざる所なしと題して話した。今朝の礼拝には、イエス団で 奉仕をしたいとて、⼀一⼈人の婦⼈人が出席した。⽮矢張り篤志家があるものである。 五⽉月七⽇日 ⽉月 晴 議会は再停会までして、鈴鈴⽊木喜三郎郎内務⼤大⾂臣⼀一⼈人を犠牲にして、どうにか切切り抜けた。政友会は実に卑劣劣 極まるものであった。⽥田中総理理の死際の悪いのにも呆れるが、⺠民政党の気⼒力力も抜けている。無産党も期待 する程の事はなかった。今少し⾺馬⼒力力があるかと思っていたものを、⼀一番いまいましいのは明政である。野 党らしくもあり与党らしくもあり、何れにも反対の様でもあり、実に不不鮮明極まるものである。兎に⾓角、 五⼗十五議会は終わった。普選第⼀一回の議会も無意味に過ぎた。⽇日本が⽀支那出兵して⼀一合戦開始している。 ⽇日本は⽇日本⼈人の在⽀支那⼈人である故に、其の⽣生命と財産とを保護する為めでると⾔言う。何故であるにもせよ、 貴き⽣生命と財産とを失いつつあるは事実らしい。世界は依然として平和を知らない。 中井の愛ちゃんが、近江から帰って来た。 五⽉月⼋八⽇日 ⽕火 ⾬雨 河川⼯工事に働く労働者中百⼆二⼗十名を馘⾸首する事になった。⽇日慵労働者程、気の毒な⽣生活者はない。⾃自分は かかる⼈人達の為に使命を負う可きであろう。 五⽉月九⽇日 ⽔水 曇 最近の集会は少しく減員した。然しそれだけ落落ち着いた集会が出来る。今晩の祈祷会に於いて、佐藤君の 祈りが特に⽿耳に残った。貧乏も病気も失敗も、困難も苦痛も⼀一切切が之皆最善であると、彼は善き信仰を恵 まれている。イエス団には本当の信者が絶えない。感謝である。杉⼭山兄が東京より帰っての報告に、本所 の教会には、宗教がなくなって主義者の集会と化していて、従来禁酒禁煙の⻘青年年が、今では皆飲酒吸煙家 となって、キリストを信ずるの信仰は失せていると、何という情けない事であろう。第三師団に動員令令が 降降下になった。その出兵数⼀一万五千名で、経費⼀一千百万円であると、遂に真の戦争に化しつつある様であ る。⽀支那⼈人の⽇日本⼈人に対する国際観念念は、⽇日々増して悪化していると新聞は報道している。⽇日⽀支の衝突と ⽇日本が出兵したからで、⾏行行かなければ事件は起こらなかったのと違うか。⼜又済南の在留留邦⼈人をして、⻘青島 にでも避難せしめることも、あながち不不可能でもなかったかの如く思惟される。 ⽇日⽀支平和のために祈る。 五⽉月⼗十⽇日 ⽊木 曇 共済に関して半⽇日研究した。現在の貧を救う為には、先ず第⼀一に、相愛協⼒力力の精神のもとに共済するので なくてはならぬ。将来は、共済しない国⺠民は滅亡あるのみであろう。互いに相愛する国のみが栄ゆるので ある。其の点に於いて、我が国⺠民は⼀一⼤大奮発しなければならぬ。戦争には強いが、内側に於いて助け合い が出来ない様では、不不安で仕⽅方がない。 五⽉月⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 ⾬雨 纏まった仕事は何も出来なかった。佐藤兄が今⽇日から東部詰めの勤務となった。⽗父が⼤大阪より訪問に来て 呉れた。妻の健康を気遣ってである。⾬雨天に拘らず御苦労様である。親ならでは出来ない親切切である。 五⽉月⼗十⼆二⽇日 ⼟土 晴 晴暇を⼀一⽇日貰って、春季清潔法に依る⼤大掃除をした。掃除は汚い仕事であるが、⽚片付いた後は、何とも⾔言 えぬ好い⼼心地がする。⽮矢張り⼈人間は、清潔に住むべき者である。⽗父は⼤大阪に帰った。愛ちゃんは明朝、朝 鮮に向かって出発する予定である。之で我が家の客も当分の間はなくなる。⼜又静かに読書をするであろう。 ⽇日⽀支の衝突も、⽇日本が済南を占領領したので、在留留邦⼈人⼆二千名の保護が出来ると新聞は報じている。これで 多分落落ち着くのであろう。之以上には問題は起こるまい。 五⽉月⼗十三⽇日 ⽇日 ⾬雨後晴 昨⽇日から急激に暑くなった。真夏の様である。礼拝説教に賀川先⽣生出席せられ、ピリピ書の精神と題して 述べられ、有益なる集会であった。夜は、天の⽗父の如く全たかれと述べたが、思う様に語り得ず、不不快で 堪らなかった。 五⽉月⼗十四⽇日 ⽉月 晴 ⻭歯の治療療も今⽇日で終わった。⾦金金の無い中から尚拾拾円余りを消費した。⼈人に完全と奨励して、⾃自らも⼜又完全 になるの⼤大責任を強く感ずる。⾃自分の⽋欠点を補い、少しでも⽗父の御⽤用に役に⽴立立つものとならなければ、⽗父 に対して相済まない。⽶米国の徳さんから送⾦金金があった。感謝である。 五⽉月⼗十五⽇日 ⽕火 晴 ⼤大事業を為すの才能なきを思い、国に対しても相済まなく思われて仕⽅方がない。⼈人⽣生僅かに五⼗十年年でお終 いなら、⾃自分の如き何事もなすの間もない程、先が近くなっている様に思われる。唯、最善を尽くして進 もう。 五⽉月⼗十六六⽇日 ⽔水 晴 平川兄の来訪ありたり。ルカ⼗十章の終わりを説明して、なくて叫ぶまじきものは唯⼀一つであって、我には 凡てに於いて、選択と判断との必要を述べた。 五⽉月⼗十七⽇日 ⽊木 晴 京津⽅方⾯面は益々危険になりつつありと、従って我が軍隊を更更に警備に当らしむ可く、各国も之を希望し、 我が政府も其の計画らしい。茲数⽇日の中には、⼜又⼜又⼀一⼆二ヶ師団を派遣するに⾄至るかも知れない。⼤大阪砲兵 ⼯工廠は、旋盤⼯工五百名を募集しているが、応募者僅かに九名には驚いた。技術⼯工には、余り失業者のない ものだと⾔言う事がよく解った。 五⽉月⼗十⼋八⽇日 ⾦金金 晴 将来に於いて、⼤大思想を実現すべく⼤大望⼼心を抱かなくてはならぬ事を、三⼗十七歳にしてしみじみと感ずる。 今⼗十年年前に、此の事に気がついていたら。 五⽉月⼗十九⽇日 ⼟土 晴 今⽇日も無頼漢に五⼗十銭借された。勿論論返しては呉れない。困った⼈人間のあることよ。歴史を読みつつ、地 球儀を回して世界を知るは、楽しい事である。此の書を読んで、欧州を初めて知ったのである。 五⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽇日 晴 朝⼣夕⼆二回説教した。集会者に変わりはない。三⼗十名位である。⾃自分に取っては年年中無休である。紹介所の 休⽇日は⽇日曜⽇日の他はなく、否⽇日曜⽇日にさえ出勤する事もしましばであるのに、タマの休⽇日は⼆二回の説教が 仕事になっている。故に本当に体の休まる⽇日がない。働きと思えば休みが欲しいが、楽しみと思えば、働 く事が既に慰安である。 五⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽉月 晴 内相は望⽉月逓相が、逓相には久原⽒氏が、それぞれ役割が内定した様である。⽥田中内閣に⼤大きなひびが⼊入り つつある。野党の倒閣運動を待つ迄もなく、⾃自滅に⾛走りつつある様である。 五⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽕火 晴 久し振りで⻘青年年会で活動写真を観に往った。妻と杉⽥田君同伴で、写真は天国の⼈人と⾔言うのであった。⽇日本 の作としては最も優秀なものであろう。映画が⼈人を引き付ける筈である。中々⽢甘いものだ。⼈人をして料料⾦金金 まで⽀支払わせて、多くの引き付くるからには、何処かに善いものがある訳である。⾃自分等の神の国運動に 考え合わせて、今更更ながら⾃自分の不不甲斐なさに情けなくなった。⼤大いに奮発しなければ相済むまい(⼊入場 券は組合で頂いたもの)。 五⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽔水 晴 ルカ伝⼗十⼀一章を述べて祈祷会に⼊入った。眠気たっぷりの祈り会で不不快であった。 五⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽊木 晴 世界歴史⼗十六六巻を読んだ。⾃自分如き無学者にも、欧州の事情、各国⺠民性等が少し解った。⾝身は神⼾戸に在っ ても、嘗て観ない欧州迄が⽬目に⾒見見える様である。 五⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⾦金金 晴 健康、信⽤用、保険に関する協議会を林林⽥田職業紹介所で開催した。かかる保険制度度を、⼀一紹介所の⼒力力で施⾏行行 する等実に困難なことである。宜しく国家が其の任に当たる可き性質のものである。 五⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⼟土 晴(⼀一時⼩小⾬雨) ⽗父の訪問があり⼀一泊した。何だか少しく疲労した。読書が過ぎるのかも知れない。 五⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽇日 晴朝⾬雨 ピリピ書2章を講義して礼拝説教に替え、夜はローマ書⼗十章を述べて、いちごを⼀一同が⾷食して散じた。 五⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 ⾸首相攻撃甚だしい。内閣始まって以来、⽥田中総理理程評判の悪い⼈人は嘗てなかったであろう。⽇日本に善き偉 ⼤大なる政治家は居ないものであるか。 五⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽕火 晴 井上増吉兄が、愈々ニューヨークを六六⽉月⼋八⽇日出発して、ロンドンに向かうとの通信があった。渡⽶米の際に は、借⾦金金してやっと旅費を調達し得た⽒氏が、渡⽶米後講演に次ぐ講演で、其の謝礼に依って負債を返済して、 其の上養⽗父の⽣生活費を送⾦金金し、更更に欧州を視察して帰朝する程の旅費を整えしめる。⽶米国は⽮矢張り、⾦金金の 多く沸いてる国と思われる。然し、彼に多くの援助を与えた最も⼤大きな原因は、賀川豊彦の弟⼦子であり、 賀川豊彦先⽣生の有名になった新川部落落より⽣生まれ出て、⼜又先⽣生と共に其の事業の同労者であったとの理理由 で、彼を助けた徳憲義⽒氏の功であろう。何にしても、賀川豊彦の名は⼤大いなるものである。 五⽉月三⼗十⽇日 ⽔水 晴 ⾺馬太伝⼗十章の初めを説いて祈祷会を営んだ。河川⼯工事で⼜又解雇することになった。残るは僅か百⼆二⼗十名で ある。 苺を⼀一同⾷食って別れた。 五⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 早稲⽥田出版の世界全央⼗十七巻を全部通読した。エンサイクロペディアを読んで、難解の多いのが、⾃自分の 無学であると⾔言うことを、⼀一層はっきりと⾃自覚せしめて呉れる。 六六⽉月⼀一⽇日 ⾦金金 ⾬雨 ⽀支那出兵も⼀一先ず落落ち着くらしい。武器を持っての平和の保障は危険であり不不安であって信⽤用が出来ない。 軍備ある国に住むは爆弾とともに在るが如く、軍備なき処に住むは猛獣とともに居るが如きものであろう。 六六⽉月⼆二⽇日 ⼟土 曇 ⿊黒⽥田四郎郎牧師が灘教会を去って、賀川先⽣生を応援することになった。海員組合員側の主張する、最低賃⾦金金 の制定要求は何うなるものか、実に興味ある問題である。資本家等よ、⽇日本の為にその要求を⼊入れよ。 六六⽉月三⽇日 ⽇日 曇 コリント後書五章、キリストの愛我等に迫れりとの記事に関して述べた。夜は、賀川先⽣生の神は愛である とキリストが教えたと⾔言う⼩小説教があった。先⽣生の説教としては詰まらなかった。⿊黒⽥田四郎郎牧師が朝⼣夕⼆二 回とも出席した。今後は出来る限り神⼾戸に来て働くとの事であった。 六六⽉月四⽇日 ⽉月 曇 張作霖⽒氏、奉天⼊入城の際、何者かが鉄道に爆弾の装置をなし、⽒氏の列列⾞車車を爆破した。幸いにして⽒氏は負傷 のみで、⽣生命は助かっているらしい。⽀支那⼈人のする事は訳が解らないが、張⽒氏も奉天でやられるとは、全 く意外であったであろう。 六六⽉月五⽇日 ⽕火 曇 会員組合員側の要求は、可及的互譲に努めたるも遂に決裂裂となった。之で各港に停泊中の汽船は、パッタ リ⽌止まる事となる。⽇日本の労働運動も次第に⼤大仕掛けとなる。⽇日本の社会改造も容易易でなかろうが、根本 的改造案を⽴立立てなければ、将来不不安に堪えない問題が数多く積もっている。⽇日本の救いに就いて、終⽇日⼤大 きな夢を⾒見見ていた。昨⽇日まで⽥田中⾸首相に関する記事に賑わっていた新聞も、今⽇日は張作霖の爆撃と海員組 合の問題とに代わっている。⽥田中の攻撃の要がなくなったからではなくて、⾸首相に関する問題は国⺠民がい やになっているからである。 六六⽉月六六⽇日 ⽔水 曇 神の国の実現に就いての所感を述べた。海員組合の労働争議、最低賃⾦金金制定は多分労働者が勝利利となるで あろう。普通の場合は、資本家の勝利利となっているが、今度度ばかりは労働者が勝つ様に思われる。 六六⽉月七⽇日 ⽊木 曇 張作霖は死亡したりとの噂もあったが、事実は⽣生きているらしくあるが、彼の⽣生死に係わらず在留留邦⼈人の 保護の為めには、更更に⽇日本は出兵するに⾄至るであろう。海員組合の件では、労働者の結束を疑っていたが、 其の反対に資本家側の結束が敗れて、既に組合の要求を⼊入れて解決つけるものがままあらわれている。殊 に川崎汽船では、五⽇日に増俸の辞令令を出したから⾯面⽩白い。今⽇日は宇都宮の⼀一⾏行行が南⽶米ブラジルに到着した であろう。宇都宮の⾝身上に、若若し万⼀一、病死する様な事があったら何うなるかと思えば⼼心配であるが、信 仰に依って、⽗父に凡てを委ね奉って⼼心を安んずる。 六六⽉月⼋八⽇日 ⾦金金 晴 ⽥田中⾸首相は、宇都宮に開催の政友会⽀支部⼤大会に出席の為め上野駅に出て、岡村新吾と⾔言う⻘青年年兇漢に襲わ れたが、警戒厳重にして巡査が負傷したのみで、⾸首相には何等の危害も加え得なかった。⽀支那では張作霖 の爆破があり、⽇日本では総理理に此の珍事があった。殺害計画を計画するものの⾮非なるは勿論論であるが、被 害者たらんとした者も⼤大いに要がある様に思われる。 六六⽉月九⽇日 ⼟土 晴 海員組合の最低賃⾦金金制は遂に勝利利であった。要求全部を⼊入れられたのではないが、兎に⾓角⼤大部分は⼊入れら れたのである。 表⾯面は労使双⽅方の互譲に依り、⽇日本に嘗て⾒見見ない労働問題を解決つけたと⾔言われているが、事実は労働者 の勝ちであった。斯く解決のついた事は、⽇日本の為に誠に慶賀に堪えない。 六六⽉月⼗十⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教は、⿊黒⽥田牧師が天上の誠実と題する説教があり、夜は堀井と⾃自分が述べ、⾃自分はキリストに依る ⾃自由と題して語った。 六六⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽉月 晴 天気予報は、毎⽇日⾬雨模様、若若しくは⼩小⾬雨と報じているが、其の実⾬雨は降降らないで、⻘青天⽩白⽇日と真夏の如く 暑さを増やした。エンサクロペディアの社会学を読んだ。 六六⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽕火 晴 ⽇日本にも救貧法が来議会に提出されることとなるらしい。貧⺠民にとっては結構なことである。乞⾷食はせず とも喰わして貰える時代が来る。⾒見見⽅方に依っては、結構でなくて堕落落である。但し新川は⼤大いに助かる。 六六⽉月⼗十三⽇日 ⽔水 ⾬雨 久し振りに⼤大⾬雨が降降った。地の表⾯面が洗濯された。屋根も道路路も溝も野も畑も⽊木も草も凡てが美しくなっ た。皆が⼤大変な満⾜足である様に⾒見見える。祈祷会に出席して、新川の為の有益なる事業のなる為に考え祈っ た。⻑⾧長尾兄のお⽗父さんが去る六六⽇日永眠された。花料料を集めた。寄った⾦金金は三円であった。 六六⽉月⼗十四⽇日 ⽊木 曇⼩小⾬雨 久邇宮殿下が、台湾で不不逞鮮⼈人に襲われたが御無事であったとの号外が出た。 ⽥田中⾸首相を殺害せんとした狂漢が現れて驚かしたが、またぞろと誰しも意外にあきれているだろう。物騒 千万の世である。⾚赤井⽒氏(仮名)が、酒を呑みつつ、熱を挙げて⼈人を攻撃するやら、⾃自慢するやらで、午 前⼀一時迄眠らせなかった。⾮非常識識な男である。 六六⽉月⼗十五⽇日 ⾦金金 曇 愈々梅⾬雨らしい気候になって終った。⼀一ヶ⽉月計りは此の状態が継続するであろう。特に健康に注意すべき である。⽥田中⾸首相は、⾃自分を殺害せんとした岡村真吉に対して、その家族の貧困なるに同情を寄し、⾦金金壱 千円也を贈呈したと⾔言う。キリストの⾔言う、汝の敵を愛せよとの教訓の如く、実に善い処を出した。彼の 為す事は、万事が味噌であると我も⼈人も噂していたが、此の⼀一点ばかりは⼤大出来である。 六六⽉月⼗十六六⽇日 ⼟土 晴 ⻑⾧長船のおばからの便便りに、横⼭山加代様の中⾵風の由を通知してあった。もう⼋八⼗十を超ゆる⽼老老⼈人である。⾃自分 の家族の者を除けば、彼の⼈人程僕を愛して呉れた者はない。勿論論、幼少の頃ではあるが、⼈人に愛せられた 記憶は、実に嬉しいものである。横⼭山さん程、家族の者の為に犠牲になって、苦労する⼈人は余り沢⼭山はな いであろう。然し実に神の如き⼼心を持たなくては出来ない愛の奉仕であった。神を知らざる神の⼈人である。 六六⽉月⼗十七⽇日 ⽇日 晴 貧⺠民救済法に就いて述べた。夜は賀川先⽣生の説教で、キリスト者の真実と題してエペソ六六章の説明があっ た。集まれる者は約四⼗十名であった。 六六⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 酒癖の悪い井坂⽒氏(仮名)に対して、東部での居住を断った。彼も酒さえ飲まなければ善い男で、仕事に は充分役に⽴立立つものを思えば、余計なことを覚えて苦労している。河⽥田⽒氏と朝鮮⼈人⾦金金さんとが職業上の問 題から来訪された。 六六⽉月⼗十九⽇日 ⽕火 曇 徳⽒氏から六六⼗十七円七銭の献⾦金金があった。之に依って、経済的にどれ程助けられているか知れない。 六六⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽔水 ⾬雨 久し振りで頭痛がする。何が原因であるか解らないが、別に熱もなく⾵風邪引きでもないようだし、⼆二⽇日間 通じのなかった為であるか。静かなる祈祷会であった。 六六⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽊木 ⼩小⾬雨 ⼤大⼯工仕事が終⽇日の労働であった。折⾓角の休⽇日をウンと働いた。然し⾻骨の折り甲斐がある。家が広くなって 湯に⼊入るには便便利利になった。これ程便便利利になるものを、何故もっと早くから⼯工事しなかったかと、⾃自分で も不不思議に思える。⾚赤ん坊を湯に⼊入れる為の準備であった。⽔水野脩吉師から、井上のお⽗父さんの養料料とし て、⾦金金拾拾円也送付して来た。 六六⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⾦金金 晴 ⾚赤坂離離宮に怪漢が侵⼊入したとの号外が出た。次から次へと変わり者が現れる。時候の故であるか、思想の 故であるか、何れにしても珍しい現象である。トルストイの我等何を為す可きかを読んで昔に若若返り、⼤大 いに反省省し、考えさせられた。彼は真⾯面⽬目であった。真の⼈人であった。 六六⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⼟土 晴 梅⾬雨がすっかり晴れたかの感があるが、未だ梅⾬雨のあく訳はない。賞与⾦金金が出た。⽉月俸⼀一カ⽉月分、⾦金金⼋八⼗十 五円也であった。神⼾戸市の昭和三年年度度の予算が⽴立立ち難く、遂に給料料を減じたと聞いていて、少ないのは皆 承知しているであろう。 六六⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽇日 ⾬雨 ⿊黒⽥田牧師の説教がある。⼣夕は、賀川先⽣生の説教があった。今⽇日も⼤大⼯工仕事をした。家の内が整理理された。 凡ゆるものが整理理されなければならぬ。⼈人の⼼心から、家庭に社会に、皆整理理されなければならぬ。 六六⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽉月 晴⼀一時⼩小⾬雨 堀井⽒氏の訪問があって、⼗十時まで⾊色々と思い出話を交わした。⽒氏は数⽇日中に北北条に向かって出発し、夏季 休暇の間、農村伝道を試むる事になった。彼は真⾯面⽬目な⻘青年年であるが、⽮矢張り若若いだけに迷っている。 六六⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽕火 ⾬雨 今年年の梅⾬雨は、⾬雨量量が余り多過ぎる様に思われる。くちなしの花が⽩白く美しく咲いて、特に⾼高い善い⾹香り を放っている。 草の花も沢⼭山咲いた。トマトも五つ六六つ果になりかけた。ダリヤが延びすぎでもう六六尺を超えた。何処の ダリヤでも、六六尺もある丈の⾼高いものを⾒見見た事がない。花になるか何うか解らないが、松の樹と競争で丈 ⽐比べをやるつもりらしい。スミレやイチゴは、下の⽅方で⼩小さくなって、如何にも失意のどん底にあるが如 くであった。 六六⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽔水 ⾬雨 世と⼈人類の救いの為に、繰り返し繰り返し祈る。世の堕落落が繰り返す限り、⼈人の罪が絶えぬ限り、我が祈 りは⽌止まないと所感を述べた。広⽊木⽒氏の⽗父上が永眠された。 六六⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽊木 ⾬雨 ⻄西部の労働紹介所の新築案に就いて、社会課へ打合せに往った。或いは好都合に運ぶかも知れない。広⽊木 ⽒氏の葬式に往った。 六六⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⾦金金 ⾬雨 世界思想全集のトルストイを読んで、⼤大いに確信を与えられた。彼は⽮矢張り偉⼈人である。彼程真摯になり たいものである。 六六⽉月三⼗十⽇日 ⼟土 ⾬雨曇 少し頭痛する。どうした訳か知れなかったが、静かに眠れば、薬⼀一服も無⽤用である。三⼗十分計り眠ってよ くなった。眠りは唯⼀一の医者である。丁度度半年年経過した。⼤大きな間違いもなく神の御恵みの内に護られた 六六ヶ⽉月を感謝す。去年年程は読書も進まなかったが、読書の為に最⼤大努⼒力力をしたことだけは相違がない。天 の⽗父の⼦子として、もっと役に⽴立立ちたい計りに、⼀一⽣生懸命になって本ばかり読むが、これがどうぞ間違いの ないように、⽬目的に叶うことの出来るように。 * * * * 2009年年の「オフィシャルサイト」掲載の時は、句句読点も段落落もない原⽂文にいくらか読みやすくする ために少し⼯工夫をしてみたが、今回の連載では原⽂文に戻してみた。やはり原⽂文のままのの⽅方が、良良いよう に思える。 (2009年年9⽉月9⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月7⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(52) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(5) 昭和3年年8⽉月〜~昭和4年年6⽉月 この時期、「武内勝⽇日記」に「井上増吉」というお⽅方が度度々登場する。ここで⽣生まれ育った⽅方で、未⾒見見の ものであるが『貧⺠民詩歌史論論(貧⺠民詩訳論論)』第1巻(⼋八光社、⼤大正13年年)、 『貧⺠民窟詩集 おゝ嵐嵐に進む ⼈人間の群れよ』(警醒社、昭和5年年)といった作品が残されている。(追記:上掲『史論論』のコピーと井上 著『貧⺠民窟詩集・⽇日輪輪は再び昇る』(警醒社、⼤大正 15 年年)を⼊入⼿手済み) ここには、井上増吉がロンドンから武内勝宛に差し出した絵葉葉書を1通添付しておく。井上のこの⻑⾧長期 間にわたる視察旅⾏行行の旅先(アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリヤ)から送られた武内宛の 絵葉葉書は、今回の「⽟玉⼿手箱」に現在6通保存されている。 * * * * 昭和三年年七⽉月〜~九⽉月 七⽉月⼀一⽇日 ⽇日 晴 朝は、煩悶を何うするかと題して、⾺馬太伝六六章の終わりを説明し、 夜は、賀川先⽣生、道場破りとの題でお話があった。裏裏にガラスの屋 根を作る可く、⼤大⼯工⼯工事をして⾒見見たが、失敗であった。然し、体だ けは充分疲労した。でも経験にはなった。⼀一つかしこくなった。何 も勉強じゃ。 七⽉月⼆二⽇日 ⽉月 曇⼀一時晴 保険組合の広崎(仮名)、光本(仮名)の両⽒氏が事務上の不不都合で責任問題が起こり、本部から解決に関す る相談を受けた。結局、両⽒氏は辞職する他に途なきものと思う。夜は、杉⽥田⽒氏の来訪あり、同⼀一の件で相 談があったが、⽅方法は⼀一つしかない。気の毒ではあるが、職に⽌止まることは不不可能であろう。両⽒氏を救う 為には、少なからず努⼒力力してきたものを、凡ての労も無駄であった。広崎⽒氏(仮名)の救いの為には、三 百三⼗十円の⾦金金融もしているものを、彼等の⼼心の新たになる迄、何仕事をさすも同様の結果を⾒見見るの他はな かろう。⼼心の病とは⾔言うものの困ったものである。 七⽉月三⽇日 ⽕火 曇⼀一時晴 井上君から書⾯面が来た。ニューヨークを発ってロンドンに往く、書物を七⼗十冊買って発送したとある。隣隣 の家主さんの御親切切で、ユキ⼦子は⼭山桃を取りに参加した。果樹を⾃自分の⼿手にとって⾷食うの楽しみは、幼少 も今も変わりはない。唯、少年年時代には許されて、今は許されぬだけである。 七⽉月四⽇日 ⽔水 晴 神⼾戸労働保険組合の事務員広崎(仮名)、光本(仮名)の両⽒氏に、辞職を勧告した。両⼈人とも之を承諾諾した。 然し、今より失業者となって、今後何うして⽣生活するであろうか。労働も出来ないし、技術はなく、信⽤用 して呉れる友はひとりもない⼆二⼈人である。誠に気の毒でならぬ。⼈人を採⽤用する際は、充分に選考して、採 ⽤用した以上は、滅多に解雇しない事である。殊に今後は、⼈人に辞職の勧告等、⼀一切切すまい。失業をさすこ とは、監獄にやる以上に、本⼈人に苦痛を与える。まるで⼈人を殺すことである。ああ、再び此の残酷を繰り 返してはならぬ。 七⽉月五⽇日 ⽊木 晴 梅⾬雨はすっかり晴れたらしい。⽇日に⽇日に暑さが増して来る。今⽇日は⼟土⽊木課の池⽥田技⼿手より、深⽥田⽒氏(仮名) をして余儀なく辞職せしめなけらばならぬ相談を受けた。旅⾏行行中の本⼈人は、横須賀より帰神した。直ぐに 辞職を勧告した。昨⽇日は⼆二⼈人に、今⽇日は⼀一⼈人に、殊に昨⽇日の⼣夕⽅方、⾃自分は再び⼈人に辞職を勧めない決⼼心を したものを、今⽇日にそれを実⾏行行せねばならぬとは、何と⾔言う⽭矛盾であろう。我をして之を⾏行行なわしめるも のは誰か。彼も暫らく沈沈思の後、遂に辞職を決⼼心した。 七⽉月六六⽇日 ⾦金金 晴 遂に、紹介所内で働く事務員五⼈人が、五⽉月以降降に解雇される訳である。⼀一⼈人ひとりの⾏行行く末を考え、借⾦金金 の整理理をしていかなければならぬ。⾃自分の仕事も⼜又苦しい。失業以上の苦痛を感ずる。 七⽉月七⽇日 ⼟土 晴 ⽇日本で嘗て試みられなかった防空戦が、⼤大阪で五、六六、七と三⽇日間開催になった。世界は依然として戦い の事を学ぶ。イザヤの予⾔言はたがわぬ。世界に本当の平和を来たらしむるものは、神の⼦子である。全⼈人類 の頭が、神の前にかがむ時迄、継続される殺⼈人罪であろう。この⼈人と⾦金金とを以って、善き道路路が出来る。 失業者の救済が出来る。貧しき者を救い得る。⼈人の霊魂を罪より救うことが出来る。斯うして有効に使え ば、随分有効に使えるものを。 七⽉月⼋八⽇日 ⽇日 晴 朝は⿊黒⽥田、夜は賀川の両先⽣生よりの説教があった。賀川先⽣生の説く所は、⽮矢張り違っている。普通牧師の 説教ではない。本当に真理理を伝える⼈人である。⼜又新⽇日報社の⾶飛⾏行行機が、初⾶飛⾏行行に失敗して、帆船のマスト に引っ掛けて、滅茶茶苦茶茶に破壊した。⾶飛⾏行行機の壊されたのは、之が⾒見見始めである。 七⽉月九⽇日 ⽉月 晴 昨⼣夕の桃か刺刺⾝身が中毒して、酷い下痢痢をした。夜は眠られず、昼は⾷食物を摂らず、仕事は多く、全くフラ フラになって終った。このフラフラの⼀一⽇日中に、⻄西部労働紹介所新築の案は確定した。⾝身体はフラフラで も仕事は確かであった。帰宅宅して聞けば、中毒者は家が皆であり、お隣隣も同様であったと聞いて、中毒の 原因が⿂魚にあった事が解った。⿂魚は新しいものであり、喰った量量も普通であって、この罪が我になくて、 ⿂魚そのものにあったのである。 七⽉月⼗十⽇日 ⽕火 晴 今⽇日⼀一⽇日、請暇を貰って静養した。中毒した⿂魚を喰った量量は僅かであったが、害された度度は⼤大であった。 少量量の毒が、五尺に余る体を、時にはなやまし、時には⽣生命さえ奪うかと思えば、恐ろしいものである。 過去に於いても、⾷食物に注意する事は、普通⼈人の数倍であると思っているが、それでも⽮矢張り失敗がある。 更更に注意を要するのである。 七⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 罪の性質にも⾊色々の⾒見見⽅方があるであろうが、その⼀一つは、秘密にする事である。今ひとつは、之が報いを 望まない事である。我々が善事を為す場合に、出来る限り⼈人に知られぬ様に努むること、⼜又之を⾏行行なった 労に対する報酬を望まない事である。祈祷会の出席に⼤大差なかった。 七⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽊木 晴 岡⼭山から海⽼老老を送付して来た。それに替えてコーヒーと紅茶茶を買って呉れと注⽂文して来た。⽇日本の⽥田舎も 変わった。⽇日本茶茶で済まず、洋茶茶を⽤用うる様になった。⼗十年年の間に、凡ゆる⽅方⾯面に亘って贅沢になった。 もう⽇日本も、⽇日露露戦争当時、否明治維新時代の、真剣と勤勉には帰り得ないであろう。 七⽉月⼗十三⽇日 ⾦金金 晴 すっかり真夏になった。九⼗十度度に余る暑さである。多数の労働者の汗と油の労苦を思って、せめてその健 在を祈らざるを得ない。 七⽉月⼗十四⽇日 ⼟土 晴 昨夜の保険組合の理理事会に出席はしなかったが、理理事者の意⾒見見だけは今⽇日聞くことが出来た。そうして広 崎⽒氏(仮名)の辞職⼿手当ては⾦金金三百円と決定した。思ったより⾦金金額は少なかったが⽌止むを得まい。⾃自業⾃自 得である。同情に堪えないが救済⽅方法がない。 七⽉月⼗十五⽇日 ⽇日 晴 朝は、テサロニケ前書五章を、夜は、コリント後書六六章を説明した。会衆の数に変化はないが、⼀一⼈人は須 磨から、⼀一⼈人は御影から、説教を聞きに来た⻘青年年のあることを知って、説教する者のその責任の重かつ⼤大 なるを思わされた。今⽇日は⼗十⼀一⼈人の来客があった。佐藤親⼦子三⼈人と⾼高⽐比良良、河合、中川、⼭山根と三郎郎君の 友⼈人三⼈人とであった。簡単なすしの御馳⾛走を提供した。 七⽉月⼗十六六⽇日 ⽉月 晴 中塚君が来訪した。信仰談を続けて、彼が信仰に復復活する事を、真⼼心と熱⼼心とをこめて、⼤大いに奨励した。 T、⾦金金の両⽒氏が訪れて、⼀一婦⼈人を中⼼心とした問題に就いて相談があった。続けて浅⽥田光⼦子姉が、職業上の相 談で来た。その次に、杉⽥田君が広崎(仮名)、光本(仮名)両⽒氏の⾝身上に関する件で相談に⾒見見えた。どの件 も⼗十分や⼆二⼗十分に解決のつかぬものばかりであった。終⽇日働いて帰って、また夜之だけの仕事があるとは、 何という多忙であろう。然し、どれも放任して置く事の出来ぬ問題ばかりである。そうして相当の解決が ついた。悔い改めに、誤解に、結婚に、離離縁に、負傷の整理理に、就職に、よく働けた事を感謝す。 七⽉月⼗十七⽇日 ⽕火 晴 ⽵竹⽥田姉の仕事、河⽥田兄の就職、広崎(仮名)、光本(仮名)両⽒氏の退職⼿手当、⽉月給に依る負債の整理理で終⽇日 かかった。夜は⽵竹⽥田、杉⽥田の両⼈人の来訪あり、相変わらず⼈人事の問題に係わる事であった。関係したくな いが、関係せなければことが済まない。 七⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽔水 ⾬雨後曇 午後三時頃より頭痛を覚え、帰宅宅当時は⼀一層甚だしく、それが為祈祷会に出席せず。 七⽉月⼗十九⽇日 ⽊木 ⾬雨 前⽇日来、引き続き頭痛のため、⼀一⽇日の請暇を得て休養することとしたが、午前より三⼗十⼋八度度⼋八分の体温に て、その原因を知るに苦しみたるが、頭痛と熱とはずっと継続して、午後は三⼗十九度度に達し、⼣夕⽅方芝医師 の診断を受け、扁桃腺と病名がつき安⼼心した。夜は殆ど平熱に帰した。 七⽉月⼆二⼗十⽇日 ⾦金金 ⾬雨 苦痛は感じたるも、前⽇日の故にかフラフラして起床不不⾃自由にして、⼜又休養とした。 七⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⼟土 ⾬雨 今⽇日も尚常態に復復せず休養す。全く梅⾬雨の様な降降⾬雨で、⼗十七⽇日夜以来、引き続きよく降降るものである。之 で今年年は、去年年悩んだ⽔水飢饉はないで済むだろう。中川君が愈々伊予の松⼭山、捺染会社の技師補助として 往く事に決定した。 七⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽇日 ⼩小⾬雨後晴 礼拝出席したが、後藤君が代理理を務めて呉れた。夜も後藤君と森君とが⾃自分の代理理に述べられたので、今 ⽇日の役⽬目は全く友に依って補われた。中川君が三時半出発した。松⼭山に向かったのである。 七⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽉月 曇 今⽇日は五⽇日⽬目で出勤した。頭痛があって常態ではないが、仕事は出来た。⽮矢張り働く事が⼀一番よい。カタ ビラセミの鳴き声を聞いた。毎年年暑さで汗の中で聞くものを、今年年は天候不不順の為に、涼しい時に暑そう な声を聞く。 七⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽕火 曇 ⻄西部の岡⼭山⽒氏の件で、河野⽒氏より相談があった。よくもまあ、これだけ引き続き問題があるものである。 少しずつ読書が楽しめる。 七⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽔水 晴 ⿊黒⽥田牧師より修養会の状況を報告して貰った。⽀支那の問題は如何になり⾏行行くかを知らないが、実に厄介千 万なことであるらしい。哲学と教育学とを読んだ。哲学は学問の最⾼高なるものの様に思われる。三⼗十七歳 にして、之だけのことしか⾔言えないかと思うと、⾃自分の無学が益々恥ずかしくなる。読書して発⾒見見するも のは、我の無知である。然し、読んで幾等かづつの修養にはなっているであろう。 七⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽊木 晴 天候も快復復したらしい。愈々暑くなるわい。マルクスの資本論論を読み始めた。何だか無駄な、同様な事ば かり沢⼭山繰り返してある。よく理理解出来るか何うかは不不明であるが、⼋八⽉月⼀一杯には資本論論全部を読了了した いものである。今⽇日は多読の不不要を知った。本当に読まなくてはならぬ書は少ない。有害なる書物も決し て少なくない。 七⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⾦金金 晴 仕事のみは出来るが、依然として頭痛が⽌止まない。読書も仕事も不不快で困る。弱い⼈人達に同情する為には 善い経験である。 七⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⼟土 晴 ⾝身体の健康に就いて、今更更の如く悟った。⼤大いに健康の為に努⼒力力しよう。 七⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽇日 晴 隠れたる⼗十字架という題で、⿊黒⽥田牧師の礼拝説教があった。夜は、同⽒氏のヨハネ四章の説明があった。三 郎郎君が朝鮮に向かって出発した。さぞ満⾜足であろう。 七⽉月三⼗十⽇日 ⽉月 晴 仕事は多く、働く時は少しまあ⼀一⽣生懸命になって、働けるだけを働く。河⽥田君、失業の為に⾊色々と⼼心配す るが、何分適当なる仕事がないので、如何とも出来ない。気の毒の極みである。 七⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽕火 ⾬雨 ⼩小⾬雨ではあるが、今年年は降降⾬雨の量量が多い。⽔水の飢饉はないであろうが、⽶米作の点が⼼心配になる。⼋八⽉月には、 充分照って貰わなければならぬ。⼈人間とは勝⼿手なものである。 ⼋八⽉月⼀一⽇日 ⽔水 ⼩小⾬雨 ジョン・ウエスレーの⽇日誌を訳しつつある⿊黒⽥田牧師は、ウエスレーは⼀一⽇日平均⼗十三哩を⾺馬で旅⾏行行し、⼀一週 に⼗十五回の説教をしたと語られた。⾃自分も所感を述べた。恵まれたる祈祷会であった。床次⽵竹⼆二郎郎⺠民政党 顧問は脱党した。新に党を樹⽴立立する為だと⾔言う。⽥田中⾸首相及び政友会は満⾜足であろう。それに反して、浜 ⼝口ライオンは不不満に堪えざるものがあろう。分離離したり合流流したり、何をしている事か訳が解らぬ。 ⼋八⽉月⼆二⽇日 ⽊木 曇 松本君から書⾯面を貰って泣いた。⾚赤誠こめて返書を出した。 ⼋八⽉月三⽇日 ⾦金金 ⾬雨 仕事が多いので思う程に読めない。マルクスの資本論論は、⼋八⼗十⾴頁読んだのが今⽇日の⽇日課であった。 ⼋八⽉月四⽇日 ⼟土 ⾬雨 今年年の⼋八⽉月程、天候の悪い⼋八⽉月は記憶にない。稲作の為に善き天候を祈る。 ⼋八⽉月五⽇日 ⽇日 ⾬雨 朝、⿊黒⽥田先⽣生の礼拝説教あり。⼣夕に賀川先⽣生の説教があった。朝は⼗十五六六⼈人、夜は⼆二⼗十五六六名であった。 共に集会者は少なかった。 ⼋八⽉月六六⽇日 ⽉月 曇 久し振りに、妙法寺川尻の海の博覧会を観に⾏行行った。遊ぶことは滅多にないが、松⽥田君が来訪したのと、 ユキ⼦子が軽業を⽣生まれて⼀一度度も観た事がないと⾔言うので⼊入場した。軽業を観ると、熟練の偉⼤大をつくづく と感⼼心せしめられる。実に妙を得ている。⼀一つ違えば、⽣生命を失わなければならない。誠に危機にあって ⾃自由⾃自在である。彼等は、綱渡りにも、マリ乗りにも曲⾺馬にも、ブランコにもハシゴの上でも、竿の上で も常に中⼼心を失わない。これさえ間違わなければ、危険に⾒見見えても安全の様である。我々⼈人⽣生も⼜又、神中 ⼼心の⽣生活さえすれば-と思った。信仰の熟練に依れば、奇跡も⾏行行なえるが当然の様に考えられる。 ⼋八⽉月七⽇日 ⽕火 晴 マルクスの資本論論を⼀一巻だけ読んだ。全巻を⼋八⽉月中に読む事は難しくなった。⻄西部紹介所は愈々改築を決 定し、社会、営繕両課⻑⾧長及び⾃自分も加わって実地視察をやった。⾃自分の務めも解ける⽇日が近づいた。職業 紹介所に依れば、紹介所には専任の所⻑⾧長がいなければならぬ筈のものを、⻑⾧長年年⾃自分が兼務していたのであ る。六六⼤大都市、何処にも例例がなかったのである。 ⼋八⽉月⼋八⽇日 ⽔水 晴曇 神の恩寵に就いて述べた。出席者の数は四五名減少していた。床次さんが新党樹⽴立立の計画も、余り振るわ ないと⾒見見えて、傘下に集まる者は僅かに⼆二⼗十名位らしい。団体交渉権も得られないらしい。彼も総理理にな らずに終わるであろう。 ⼋八⽉月九⽇日 ⽊木 晴曇 兵庫県の野球予選⼤大会は今⽇日で終わった。優勝者は甲陽中学であった。三対四で⼆二中は負けた。指定席券 を買う為に、七⽇日の夜から神⼾戸市局の前に集まり、徹夜で待つ者が約⼆二千⼈人あった。何と⾔言う熱⼼心であろ う。何と⾔言う愚であろう。喧嘩までやって警察署の御厄介になったとは沙汰の限りである。それが⼤大阪で も京都でも神⼾戸と同様であったと⾔言う。尚更更である。 ⼋八⽉月⼗十⽇日 ⾦金金 半曇半晴 毎⽇日似た気狂天候の様である。笠笠松⽒氏が来訪した。刷⼦子時代からの知友で、今尚関係ある者に、中⽥田君と 笠笠岡君とがある。⼀一度度知り合いになった関係も、全然失せるものでないらしい。三郎郎君が朝鮮から帰った。 然しその⾜足で近江に⾏行行った。 ⼋八⽉月⼗十⼀一⽇日 ⼟土 晴 井上増吉⽒氏から通信があった。今暫らくロンドンに滞在すると。兄が帰朝すれば何をなすであろうか。新 川の産んだ井上を、⼀一⼈人だけでも偉くしたいものである。 ⼋八⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽇日 晴 イエス団の年年中⾏行行事である、⼦子供の為の明⽯石⾏行行遠⾜足を決⾏行行した。総員百七⼗十名位であった。今年年は杉⼭山君 がいて呉れて、経費全部を貰って呉れたので、⾃自分の責任はなくなった。杉⼭山君の様に、⼈人に⾦金金を出さす 事も容易易な仕事でない。殊に⾃自分に取っては不不可能なる⼀一事である。 ⼋八⽉月⼗十三⽇日 ⽉月 晴 三郎郎君が近江から帰り、敏ちゃんが同道して我が家の客となった。夜、海岸に散歩に出掛けた。来客のあ るとき、読書の出来ないのは⽌止むを得ない。⾃自分の頭も休息を得て善いであろう。そうでもなければ、⾃自 分の遊ぶ時は絶えてない。 ⼋八⽉月⼗十四⽇日 ⽕火 晴 今⽇日は堀井君の訪問があった。⽥田舎伝道を継続するや否やの問題であった。相談を受けても急に返答の仕 ⽅方がない。よく祈り考えて⾒見見よう。今晩もまた夜の読書は中⽌止になった。今夜も⼜又⽌止むを得ない事である。 ⼋八⽉月⼗十五⽇日 ⽔水 晴 淋淋しい祈祷会であったが、⼼心持の善い祈り会であった。久し振りに堀井さんの感話を聞いた。昭和三年年度度 の失業救済事業に関する打合せ会を開いた。年年中⾏行行事になって⽌止める訳にも⾏行行くまい。⼜又実施すれば確か に労働者の利利益にはなる。 ⼋八⽉月⼗十六六⽇日 ⽊木 晴 ⼩小島謙太郎郎⽒氏が来訪せられた。⼆二⼈人の友⼈人と(⼆二⼈人とも学校教師)同伴で約三時間、四⽅方⼭山話をした。其 の談話中、失業者の救済、貧⺠民窟改善等に関して、⾃自分の専⾨門をも述べた。最後に祈りあって別れた。本 当に互いに祈り合うことの出来る友程、貴い友はない。学問があるかないかではない。地位が⾼高いか低い かでもない。貧富の如何でもない。真実の友であり、神の前に於いて全く兄弟として、共に祈り得ること である。世界全集思想⼗十七回配本を読了了した。 ⼋八⽉月⼗十七⽇日 ⾦金金 晴後曇 家の客であった敏⼦子が近江に帰った。中⾥里里愛⼦子殿(仮名)から職業を問い合わせて来た。⾃自分⾃自⾝身がやり 度度いと。結婚して居り、夫が健在で働いているのであるから、其の夫を援けて、夫をして偉くすべく務め てこそ、⾃自分も偉くなるのである。朝鮮と内地に別居しては、相互いに如何に好い職業を持つとも、それ は幸福でない。⼜又夫⼈人の道でない。よく悟してやり度度い。⼦子供がないから迷うのかも知れない。 ⼋八⽉月⼗十⼋八⽇日 ⼟土 ⾬雨 ⾬雨量量の多い夏である。今年年の夏程、よく⾬雨の降降ることは珍しい。今⽉月は、七⽉月分の清算を済ました仕事の、 早く⽚片付く事は嬉しいことである。暑い時にも拘らず、充分働ける事は感謝すべきことである。 ⼋八⽉月⼗十九⽇日 ⽇日 ⾬雨 ⽗父の神の恩寵と題して述べた。夜も⾃自分が、レプタ⼆二枚、信仰に就いて語った。今⽇日も⾬雨は終⽇日降降り通し た。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽉月 曇 井上君から写真を送付して来た。写真で観たロンドンは美しくある。然し其の美は建築である。本当に救 われたいと⾔言う⻘青年年の訪問客があったが、⾃自分不不在の為に⾯面会出来なかった。若若し許されるなら、⼀一週に ⼀一度度、此の家を求道者の為に使い度度い。⼀一⼈人の霊を神に捧げるかも知れない。若若し多くの罪⼈人をして救い に⾄至らしむ事が出来れば、これに過ぎる喜びはない。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽕火 晴 電話局勤務の⻘青年年が救われ度度いとて、キリストの福⾳音を聞きに来た。⼀一時間余り、天の⽗父なる神に関して 述べて置いた。かかる⻘青年年の要求なれば、喜んで応ずるのである。斯くの如き主の御⽤用に益々⽤用いられん ことが、我が⼼心の奥底より、願うて⽌止まざる処である。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽔水 晴 全国中等学校野球試合に、松本商業が優勝した。キリストの我は道なり誠なりとの⾔言葉葉に就いて語り、⼼心 ⾏行行く祈祷会を営み得た。 ⼋八⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽊木 晴 天理理研究会⻑⾧長⼤大⻄西以下百九⼗十名が、不不敬により起訴された、との号外が出た。神秘主義か迷妄主義かは知 らないが、厄介な⼈人達が現れて来る。五万の信徒を持ち、労働者には無報酬で働かせ、⾦金金持ちからは搾取 し、⼰己は喉をしのぐ⽣生活をしているとか。然も、天理理教開祖おみき婆さんの⼆二代⽬目とか。狂気も甚だしい。 困ったものである。今⽇日も⼜又⼀一⻘青年年が求道して来訪した。⾃自分に取っては、こんな⼤大きな喜びはない。天 に於いても喜び給うのであろう。⽗父なる御神が。 ⼋八⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⾦金金 晴 南⽶米ブラジルの宇都宮から、渡⽶米第⼀一回の通信があった。彼は希望に輝き元気に充ちている。アブラハム の如くに、多くの者の信仰の祖となるの覚悟のあることは、誠に慶賀に堪えぬ。家族の者の健康も、⼦子供 等の教育も、凡て信仰に依って⽢甘く⾏行行くであろう。彼の⼼心の変わらざる為にも祈ろう。⽇日本は南⽶米に延び て栄ゆるの他に、将来の発展策はなかろう。移殖⺠民の為にも祈らなくてはならぬ。 ⼋八⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⼟土 晴 ⾼高⽐比良良⾦金金蔵君が神⼾戸消費組合を辞職することになった。彼は全く甦った。救われている。彼は何うかして、 今少し凡ての⽅方⾯面に引き延ばしてやらなくてはならぬ。それは⼜又⾃自分の責任でもある。今夜⼜又、⾦金金丸兄弟 と隣隣の家主さんに福⾳音を述べておいた。 ⼋八⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽇日 晴 武庫川の松林林の中で屋外礼拝を⾏行行なった。汝等は世の光なりに就いて、⾃自分の所感を述べた。⾃自分は、最 初⾃自らを助くるために、次に⾃自分の周囲を、更更に社会を明るくする為に、イエスの⾔言葉葉通り、世の光とな るの確信を持つに⾄至った、と実験談を語り、夜は成功と題して述べた。武庫川同⾏行行者は⼆二⼗十⼀一名で、夜は 賀川先⽣生宅宅で昼⾷食の御馳⾛走になった。杉⼭山兄の栄を感謝す。 ⼋八⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽉月 晴 朝⽇日新聞社経営の旅客⾶飛⾏行行は、今⽇日第⼀一⽇日の初⾶飛⾏行行であった。朝⽇日は⽇日本で最初の⾶飛⾏行行機を⾶飛ばした⾶飛⾏行行 界の功労者であったが、続いて郵便便⾶飛⾏行行、欧州⾶飛⾏行行と、更更に今⽇日の如く旅客の輸送迄可能となった。⾦金金丸 君が今夜も訪れた。⼜又語り祈った。 ⼋八⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽕火 晴 阪急電⾞車車、市内乗り⼊入れ問題に関し、市会で重⼤大問題となった。阪急会社上⽥田専務より⿊黒瀬市⻑⾧長に対し、 市が阪急乗り⼊入れを認むる時は、⾦金金五拾拾萬円也を市に、現⾦金金にて寄付すると申し出た。市会は、五拾拾萬円 に依って承諾諾する様なことは四⽅方やあるまい。 ⼋八⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽔水 曇⼩小⾬雨 最も淋淋しい祈祷会であった。祈れる者は河⽥田君と⾃自分のみであった。河合君が病気と聞く。彼の健康の為 に祈る。妙な天気である。暴暴⾵風が⾒見見舞うそうな荒れ模様である。 ⼋八⽉月三⼗十⽇日 ⽊木 ⾬雨⾵風 ⼤大暴暴⾵風でもないが、⽇日頃にない強い⾵風である。新聞に依れば九州、四国、中国は暴暴⾵風の為めに、かなり被 害があるらしい事を報じている。聖霊の⾵風が⽇日本を吹き捲る時に、⽇日本は新しくなるであろう。吹けよ、 聖霊の⾵風である。 ⼋八⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴 今⽇日はすっかり晴れた。昨⽇日の嵐嵐は嘘の如くである。⼈人⽣生の嵐嵐、荒波も⼜又、斯くの如く起こり、⼜又去るが 常である。物事万事、悲観も楽観もない。かかる世界が我が国であり世である。来れ嵐嵐、来れ平穏、我等 に於いては何事かあらん。 九⽉月⼀一⽇日 ⼟土 晴 関東震災五周年年である。今⽇日正午を期し、各会社、⼯工場の汽笛は⼀一⻫斉に鳴らされ、神社仏閣に於いては黙 祷を捧げ、⼀一般には質素簡単なる⾷食事を以って満⾜足し、平素のゆるみきった精神に、強き刺刺激を与えた事 であろう。 九⽉月⼆二⽇日 ⽇日 晴後曇 朝、⿊黒⽥田先⽣生の礼拝説教あり、全能の神との題で述べられ、⼣夕べも同⽒氏に依って、⼆二⾥里里⾏行行けと⾔言う説教が あった。会衆に変わりなし。植⽊木の⼿手⼊入れと鶏舎の掃除とが、今⽇日の仕事であった。時々は筋⾁肉を動かさ ないと、安息の何であるかを忘れる。 九⽉月三⽇日 ⽉月 晴 職員の⼀一⼈人、上野⽒氏が県病院に⼊入院した為、久し振り宿直することになった。訪問客があって何も出来な かった。 九⽉月四⽇日 ⽕火 晴 宇都宮に書⾯面を書いた事と、デカルトの感情論論を読んだことが、勤務外の仕事であった。 九⽉月五⽇日 ⽔水 晴 社会課の⼤大原松事⽒氏が退職する事になった。⽒氏は⼤大正七年年、⽶米騒動後、神⼾戸市が公設⾷食堂を設けた時より、 主任として就任し、本年年九⽉月で丁度度満⼗十年年に達した。本年年六六⼗十五歳の⽼老老⼈人である。よく健康にして活動し 得た⾃自分も、何時かは六六⼗十五歳に達し、⼜又現在の職をも辞する時がある筈である。出来る限り⻑⾧長命で、出 来る限り健康で、死に⾄至るまで職務に忠実でありたい。⿊黒⽥田先⽣生の感話があり、後祈って散じた。 九⽉月六六⽇日 ⽊木 曇後⾬雨 ⾬雨の宿直であった。⾺馬太伝と⾺馬可とを読んだ。先のは⼀一時間四⼗十分で、あとのは⼀一時間で読める事を、今 ⽇日始めて経験した。 九⽉月七⽇日 ⾦金金 晴 前科⼀一犯の壮年年が来訪し、就職について相談を受けた。彼に天の⽗父とキリストを紹介して帰した。職は握 らなかったが、内に於いては何者かを得た事と思う。兎に⾓角、前科ある者の就職位、困った気の毒は少な いであろう。前科者をば、前科あるが故に就職させないとすれば、むしろ監獄より出さない⽅方が、彼等の 為である。社会は前科者に対する考え⽅方を⼀一変しなければならぬ。犯罪を少なくし、犯罪者を善導する為 には、⽣生理理的にもあれ⼼心理理的にもあれ、何処かに⽋欠点の多い刑余者に対して、彼等に失業せざる様、危機 の置かざる可く、社会は務めなくてはならぬ。然るに事実は全く之に反対ではないか。 九⽉月⼋八⽇日 ⼟土 晴 ⺠民政党の中から不不平分⼦子四名を除名した。これで後は結束が固いか何うか、それが問題である。寄者は別 者であって、去年年憲本合併したが本年年は分裂裂である。⼗十年年後には何んなことになるやら、政⺠民共に現在の 如き勢⼒力力を維持しているか否かは、頗る疑問である。井上君が裸裸体の絵を送付して来た。フランスやドイ ツでは、裸裸体姿は曲線美が⼤大変に美しいと讃美していると⾔言う。之を絵で⾒見見るより実物で観るは更更に美し いのであろう。それ故に、裸裸体⼥女女は増加して⾏行行く。これに戯れる男も増加する。その結果、⾃自然に不不品⾏行行 になり、遂に堕落落して⾏行行く。美しい⾐衣を着た⼈人間よりも、裸裸体の⼈人間が美しく観えるかも知れない。しか し、そうした事を多くの⼈人々をして堕落落せしむる危険物なれば、之を⼀一般的に観せるは間違っている。 九⽉月九⽇日 ⽇日 晴 朝、⿊黒⽥田牧師の礼拝説教があり、夜は⾃自分が述べた。⿊黒⽥田師は、礼拝の態度度と題して、⾃自分は、神の愛に 就いて、それぞれ語った。神は⼈人を愛する為に、最⼤大努⼒力力を尽くし給うた。吾⼀一⼈人を救うにも、太平洋に 陸陸地創るよりも、空に太陽を今⼀一つ増すよりも、より以上の努⼒力力を以って、我に臨臨み給う。彼は実に、独 ⼦子給う程に吾等を愛し給う。神⼾戸消費組合に於いては、⾺馬可伝⼋八章の説明をした。 九⽉月⼗十⽇日 ⽉月 晴 今⽇日はトルストイの百年年祭で、ロシアに於いては⼤大騒ぎをし、彼を祭ると⾔言う。彼は実に、⼗十九世紀の⽣生 める最⼤大⼈人物であった。⾃自分の如きも、トルストイに依って、どんなに真剣に考えさせられたか知れない。 彼の故に死まで決しさせられた。賀川先⽣生は、⾃自分をして⼩小さきトルストイの⼦子よと呼んだ。⼩小さいにせ よ⼤大きいにせよ、我が内に居る事だけは変わりない。彼が吾が中に住む事は光栄である。 九⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽕火 曇 ⼆二百⼗十⽇日も無事であった。これで⽇日本の農⺠民全部が安⼼心した。国⺠民全部が喜ぶことである。それだけでは ⾜足りない。国⺠民こぞって神に感謝しなければならぬ。 九⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽔水 ⾬雨 林林間学校⽣生徒の⼿手になる図画や作⽂文の展覧会に併せて、その⺟母親達を招待し、キリスト教を説き、神を信 ず可きを勧めた。⿊黒⽥田先⽣生は、⽇日曜学校に来る可く、⾃自分は何うしたら幸福になれるのかと題して述べた。 九⽉月⼗十三⽇日 ⽊木 晴 ⽇日本歴史を読んで⾯面⽩白く思う。⾃自分の事を学んでいる様である。井上君がロンドンから書物を⼗十五包み送 付して来た。英国に在住して勉強出来ないから、書物に依ってゆっくり学ぶ考えであろう。細⽥田のお⺟母さ ん、熱病との便便りがあり、ユキ⼦子と三郎郎君とは⼼心配している。まだ天国に逝かれる等⽑毛頭考えられない。 ⽗父が久し振りで⾒見見舞いに来て、あんまを取って帰られた。済まない事である。 九⽉月⼗十四⽇日 ⾦金金 晴 野⽥田君から厳粛なる書⾯面を貰った。トルストイ百年年祭に当たって、彼は⼀一⽇日の仕事を終わって後に、先ず トルストイに関する所感を書き、後祈って床に就いたと書いてある。彼は真⾯面⽬目なる⻘青年年だ。何者かにな るの可能性が充分ある。 九⽉月⼗十五⽇日 ⼟土 晴 ⽇日本の国⺠民に、神を信ずるの⼤大思想の起こらん事を願い、また考えた。神を信じ、神に仕えるの道を知ら ざる国⺠民には、何の善き事も出来ざるを思う。 九⽉月⼗十六六⽇日 ⽇日 晴 朝、⿊黒⽥田牧師の詩の⼆二⼗十三編に就いての解説があった。夜は、賀川先⽣生のイエスの奇跡に関しての説教が あった。先⽣生⽈曰く、イエスは多くの奇跡を⾏行行なったが、その中富める者に対しての奇跡は唯の⼆二回のみで あった。その他は全部、貧乏⼈人の為であった。貧乏⼈人が病気して、殊に癩癩病や中⾵風の如き⼈人達は、奇跡を 信ずるより福⾳音はなかったと。実にその通りである。かかる⼈人達が、イエスに奇跡を願う事も、それを信 ずる事も当然であろう。愛ちゃんが、本⽉月の末頃には来神したいと通知して来た。 九⽉月⼗十七⽇日 ⽉月 晴 光本君(仮名)の救済問題で⾊色々と質問を受け、⼀一晩の読書を棒に振った。⼈人を善くするの相談の為には、 どんな犠牲でも払わなくてはならぬ。善志は、昨⽇日東京に向かって出発すると⾔言っていたが、何うしたか しらん。中野⾳音松の家内が昨⽇日永眠した。藤原芳夫(仮名)の郷⾥里里から、実⼦子の品吉の住所は不不明だと回 答して来た。藤原(仮名)も不不憫なものであるが⾃自業⾃自得だ。今⽇日かくある可き原因を、彼は既に作って いたからである。 九⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽕火 晴⼀一時曇 残暑、夏と何等変わりがない。⽣生⽥田祭礼には、セルの⾐衣を着る時であるに、ユタカ⼀一枚で未だ暑い。六六⼤大 都市の⽇日傭労働者の賃⾦金金を調べて、何れも余りに低過ぎるに驚いた。彼等の⽣生活を⾼高め、彼等の統制を計 らなければ、⽇日本は彼等の存在故に⽂文化しない。 九⽉月⼗十九⽇日 ⽔水 晴⼀一時曇 堀井君が北北条の町から帰って来た。兄弟は将来何を為す可きかに就いて、真⾯面⽬目に考え祈っている。彼の 為に善き仕事が与えられ、意義ある⽣生涯を全うすることの出来る様に、彼の為に祈る。松本君が健康を回 復復しつつあり、今では熱は去り、終⽇日談話するも疲労せざる程度度までに元気になったとは、兄の為に感謝 に堪えない。兄の為に、イエス団の祈祷会で誰かが祈らなかった事は、⼀一度度もなかったであろう。 九⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽊木 晴⼀一時曇 堀井君の来訪があり、⼆二時間ばかり語り合った。信仰ある⼈人間と語る事は⼀一⾔言も愉快であり、数時間も楽 しくある。⽇日本の神代記を読んで、⽇日本の国が余程よく解った気がする。 九⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴⼀一時⾬雨 少しも涼しくならない。却って暑い。何時涼しくなるとも予測が出来ない。住宅宅問題を考えて⾒見見た。都会 ⽣生活の⼀一番の重荷は、家賃の負担にある。ブル階級は兎も⾓角、吾々無産者に取っては、借家賃の低下の⼯工 夫をしなければならぬ。 九⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⼟土 晴 平川君から、電報で⼆二⼗十三⽇日⽴立立つと報知して来た。九州に居っても適当なる職業が⾒見見つからなかったので あろう。失業の機会は益々多くなり、就業の機会は次第に減じて⾏行行く傾向がある。職業の定まるか否かは、 実に⼈人⽣生最⼤大の問題である。 九⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽇日 晴 朝、⿊黒⽥田先⽣生より活けるキリストとの題で説教あり、夜は、賀川先⽣生よりペテロ伝の教訓としての説教が あった。何と⾔言っても、賀川先⽣生は善い説教をする。ペテロは七回も⼤大きな失敗をしたが、然し失敗毎に 賢くなって、終いには⼤大きな説教者となったと。我等も⼜又彼に学ばなければならぬ。主キリストは失敗し たペテロを愛し給うた。 九⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽉月 藤原倦川職業紹介所⻑⾧長は辞職した。中央所⻑⾧長に対する不不満からである。荒瀬去り藤原⼜又去る。惜しい事で あるが、中央所⻑⾧長に⾜足らざるものがある。善く働き得る⼈人物を失うのは、彼の責任である。両⼈人とも神⼾戸 が嫌で去ったのではない。中央所⻑⾧長と意⾒見見に合わざる点があり、態度度に於いて全然⼀一致しないのである。 迷信深き⼈人と⼆二時間も語り合ったが、物事の解らない⼈人と来ては、全く仕⽅方のないものである。 九⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽕火 ⾬雨 急に冷冷えて来た。昨⽇日迄の暑さはすっかり忘れて、シャツ⼀一枚では寒くて仕事が出来なくなった。⽮矢張り 時である。時は争われぬものである。神⼾戸消費組合の守屋主事は辞職した。あの位置の座するの⼈人は恐ら くないであろう。組合⻑⾧長が存在する限り困難な事である。然し、現組合⻑⾧長をして動かすことは不不可能であ る。若若し福井組合⻑⾧長が去る時は、林林彦⼀一⽒氏が再び帰るの運びに⾄至るかも知れない。同⽒氏を除いては、何⼈人 も円満には治まるまい。中川君が九州から上がって来た。電気局の仕事が⽢甘く⾏行行けば善いが、彼の為にも 祈る。 九⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽔水 晴曇 昨⽇日は⼀一層よく冷冷える。もう涼しさを通り超えた。真当の秋の候になる。秋の⾃自然に接したいものである。 ⾺馬太伝⼗十三章に関する所感を述べて祈った。堀井君が学校の休暇中出席しなかったが、今⽇日初めて参会し た。垂⽔水から泉なる⼈人が、基督教の集会を開いているから説教をしてくれと、依頼に来訪された。⾃自分に は何の名論論もないことを告げたが、それでも結構との事故に、⼗十⽉月⼗十四⽇日の⽇日曜⽇日の夜の説教を引き受け た。無牧の教会を作って伝道するとは感⼼心な⼈人である。⽔水野脩吉⽒氏から⼆二⼗十円送⾦金金して来た。 九⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽊木 晴 職業指導の講話を聞き、後川⻄西⾶飛⾏行行機製作所⼯工場を視察した。余り有益とも思わなかった。もっと感⼼心し たのは、楠⼩小学校を視て、⾃自分が通学した時代と⽐比較して著しき相違のある事に驚いた。実に進歩したも のである。唯、疑問を抱いたのは、⼥女女⽣生徒の服装の野蛮化しているが如く⾒見見え、⼜又思える点であった。体 育、運動のためには申し分のないことであろう。然し何う考えて感⼼心しない。 九⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⾦金金 晴 今⽇日も引き続き講習会に出席し、⼼心理理学の⽴立立場から論論じた職業指導に関する講話を聞き、午後は⽣生⽷糸検査 所と税関とを視察した。其の中、検査所の設備なり⽣生⽷糸の検査⽅方法を観て実に驚いた。⼀一年年に七億円の輸 出をする国産品であるにしても、これ程までに⾯面倒な⼿手数をかける⼿手間を以って、何か他に為す可き善き ⼤大切切な事業のあるものをと、つくづく感じた。少し綺麗麗な着物を始末すれば、こんな⼿手間の要らぬものを と思う。 九⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⼟土 曇⼩小⾬雨 急に冷冷えて寒い程である。今晩の⽉月⾒見見は、曇天で何も⾒見見えなかった。伝票整理理でよく働いた。秩⽗父宮殿下 ご成婚も、芽出度度く式を済ませ給い、秋のお祝いの⼀一つが済んだ。⼭山⼝口⽒氏の就業の件で相談を受けた。失 業して⼀一年年半になるに、未だ就業出来ない。世は依然として不不景気である。 九⽉月三⼗十⽇日 ⽇日 晴 朝の礼拝に、信仰の充実を、⼣夕べに、我の改造を述べて、⼆二度度とも⾃自分が説教した。何だか思う様に話し 難くあった。 * * * * ⼀一度度しかお会いすることのなかった武内勝⽒氏であるが、お出会いしてすぐ武内⽒氏は忽然とそのご⽣生涯を 閉じられた。私の初仕事がそのご葬儀であったこともあるが、「武内勝」というお⽅方には、何か特別のおも いが残り、奥様やご⼦子息に「書き残されている筈の⽇日記を、機会があれば⼀一度度ぜひ読ませて頂けないか」 とお伝えしてきた。 お別れしてから⻑⾧長い歳⽉月を経て、不不思議な事に本年年(2009 年年)春、43年年ぶりにしてこれの閲読を許さ れた。しかも、ご⼦子息・武内祐⼀一⽒氏のお許しを得て、このような場所で公開させてもらい、⼼心ある⽅方々と ご⼀一緒に、こうして閲読できることは、本当に有難いことである。私も「⼀一⽇日⼀一歩」この作業を続けていき たい。 ということで、あれから 5 年年が過ぎ、こうして補正を加えながら再掲できることも嬉しくて・・・。 (2009年年9⽉月11⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月8⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(53) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(6) 昭和2年年8⽉月〜~昭和4年年6⽉月 今回の写真は、イエス団の建物であるが、賀川の神⼾戸在住時代は⼆二階を書斎にしていたという。多分、 武内⽇日記の書かれた昭和に⼊入っても、この建物だったのであろう。 ところで、本サイト第8回で、1926(昭和元)年年発⾏行行の「⼤大阪イエス団教会教会報第1号」を紹介した 折、何も歴史的な経過も知らない、何ともたどたどしいコメントを添えていた。 実は今回(2009 年年)、四貫島友隣隣館館⻑⾧長でガーデン天使園⻑⾧長の⼩小川佐和⼦子⽒氏から「四貫島セツルメント 創⽴立立80周年年」の記念念誌「輝け、命」など、貴重な資料料をどっさりと寄贈を受けた。 いまわくわくしながら読み始めているが、この記念念誌の「年年表」を⾒見見ていると、「1925(⼤大正14)年年、 ⼤大阪四貫島で吉⽥田源治郎郎を中⼼心にセツルメント事業を開始、1927(昭和2)年年、四貫島セツルメント内 に⼤大阪イエス団教会設⽴立立、吉⽥田源治郎郎牧師就任」と記されていた。知らない事が、ひとつひとつ⾒見見えてく るのは、嬉しいものである。 (さらにその後、ご縁があって「KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界を訪ねて」の⻑⾧長期連載で、四 貫島セツルメントなどの詳しい歴史を学ぶことになるが、それらも追ってここで補筆再掲していく予定で ある。) * * * * 昭和三年年⼗十⽉月から⼗十⼆二⽉月 ⼗十⽉月⼀一⽇日 ⽉月 晴 忙しい⼀一⽇日であった。 ⼗十⽉月⼆二⽇日 ⽕火 晴 千狩り⽔水源地に出張し、⼗十⼆二⽉月起⼯工の拡張⼯工事供給⼈人夫、打合せの⽤用事のため⼀一⽇日を費やした。往復復⾃自動 ⾞車車。道場駅より⽔水源地地図は、トロッコ⽔水源地をばモーターボートにて、実に痛快なる乗⼼心地であった。 トロに乗るは、⽣生まれて初めてであった。⼜又、天然のオシ⿃鳥を⾒見見たるも、⽣生まれて初めてである。栗栗が無 数になって居り、早きは紅葉葉せるもあり、松茸の⾹香り⾼高くして、⿐鼻をウゴメカス場所もあり。帰り、⼟土産 には⼤大きな栗栗を買った。天気は好し、何という楽しい⼀一⽇日であった。若若し公⽤用でなくして、⼀一⽇日の遊覧の 為なれば、之程⾯面⽩白く、⾃自由には⼗十円の教材も不不可能である。殊に感謝すべきは、稲の⾊色つきよく稔って いる事である。 ⼗十⽉月三⽇日 ⽔水 ⼩小⾬雨 杉⼭山兄が、迷っていると告⽩白し、⾃自分はそれに関する意⾒見見を述べた。T さんは、家賃⼆二⼗十四円五⼗十銭の家 を借りて、独⽴立立することになった。⻑⾧長い間の居候を感謝した。⾼高⽐比良良君は⾵風邪で床に就き、⼭山内兄も病気 で⽋欠席す。河合君は回復復して出席した。富⼠士野から、未だ⽣生まれぬ児のために⾐衣類を送って呉れた。 ⼗十⽉月四⽇日 ⽊木 曇 僕の様な貧乏⼈人でも、⼈人から⾒見見て⾦金金持ちに⾒見見える事もあるらしく、⾦金金をかせと依頼して来るもの、種が切切 れない。⼩小は⼗十銭から⼤大は何⼗十円であるが、兎に⾓角、相談を受けるだけは、⾦金金持ちに⾒見見えるからに相違な い。貸せという⼈人はあるが、貸すという者はない。 ⼗十⽉月五⽇日 ⾦金金 曇 久原、野村の両家の息⼦子が、⾃自動⾞車車にて阪急電⾞車車に衝突し、⼆二⼈人とも死亡した。⼗十七と⼗十⼋八の⻘青年年を、お 気の毒であるは⾔言うまでもないが、通学するに⾃自動⾞車車は何んなものかと考えさせられる。⼜又、⼀一⽅方に於い て考える事は、路路地には番⼈人を必ず置かなくてはならぬ。殺して騒いで間に合うが、番⼈人を置けば安全な ものを、⼀一⽂文惜しみ百失いだ。汽⾞車車や電⾞車車は恐ろしい殺⼈人機である。とても⻁虎や獅⼦子の⽐比ではない。 ⼗十⽉月六六⽇日 ⼟土 曇 政府は来年年度度の予算を⽴立立てている。予算は年年々膨張するばかりだ。⼀一年年⼀一年年と負債額は増して⾏行行く。此の 借⾦金金の負担者の責任や重且つ⼤大なり。 ⼗十⽉月 7 ⽇日 ⽇日 ⾬雨 朝の説教は、永遠の我が家、夜は、魂の整頓と題して述べた。⼤大下君(仮名)は今憂えて居ります。今晩 の集会に、先⽣生の前に出られぬとて、⼀一封の書置きしてあった。彼は実に気の毒な⻘青年年である。多分⼜又、 性の問題で悩んでいるだろう。 ⼗十⽉月⼋八⽇日 ⽉月 ⾬雨 今⽇日で九⽉月分の伝票整理理を終わった。延べ⼀一万数千⼈人分の賃⾦金金⽀支払いである。此の始末をするは⾯面倒であ り、つまらない⼿手数潰しのようである。詰まらない仕事と⾔言えばそれまでだが、⼀一万数千⼈人の⽣生活の保障 であって、それに依って、多数の⽣生命が⽀支えられる仕事であるとすれば、⾺馬⿅鹿鹿にもならぬ。 ⼗十⽉月九⽇日 ⽕火 晴 近江から、義男兄に⼥女女児の恵まれた通知があり、早速喜び状を出して置いた。安産の有無を承知したかっ た。 ⼗十⽉月⼗十⽇日 ⽔水 晴 ⿊黒⽥田師の九州より帰り⼟土産話があり、祈祷会は三名の祈りがあったのみで、何だか物⾜足りなく感じた。⽮矢 張り祈祷会には、皆が祈らなくてはいかぬ。 ⼗十⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 近江の産が難産であった事と聞き、敏ちゃんは病気している由、我々は健康の為にも、よく祈らなくては ならぬ。 ⼗十⽉月⼗十⼆二⽇日 ⾦金金 晴 中学の校⻑⾧長の未亡⼈人が、⼆二⼗十⼋八歳になる息⼦子が病気で困っているが、救いの⽅方法はないかと相談があった。 財産があって、遊んで喰っている贅沢病気である。貧乏で⽣生活に追われて、苦難に会っている⼈人は随分あ るが、⾦金金持ちにも天罰によるこらしめがある。 ⼗十⽉月⼗十三⽇日 ⼟土 晴 好天気が毎⽇日続く。良良き秋⽇日和である。果実が果実店の先に賑わう事は、何も珍しくはないが、之を豊か に恵み給うた御⽗父に、感謝しなければならぬ。松茸も⼋八百屋の店に並べてある。百匁九⼗十銭である。去年年 に⽐比較して三倍の⾼高値である。 ⼗十⽉月⼗十四⽇日 ⽇日 晴 朝は⿊黒⽥田牧師の説教あり、⼣夕は賀川先⽣生の説教であった。⾃自分は消費組合と垂⽔水の集会に出て述べた。組 合では信仰に就いて、垂⽔水では⼼心の整理理に就いて。垂⽔水でご夫婦に会った。久し振りであった。帰りにダ リヤの花を⼟土産に貰った。夫⼈人は病気で⻑⾧長い間患っているが、⼼心は花程美しい⼈人だと思った。 ⼗十⽉月⼗十五⽇日 ⽉月 晴 ⽇日に五時間ずつの読書をするは、余に無理理過ぎる。朝の五時より六六時三⼗十分迄、⼣夕は六六時より⼗十時迄。然 し、茲⼆二三年年は特別に読書したいものである。 ⼗十⽉月⼗十六六⽇日 ⽕火 晴 上ヶ原浄⽔水池に、賃⾦金金⽀支払いのため出張した。去年年の今⽉月今⽇日に、上ヶ原に往った。満⼀一ヵ年年である。⽉月 ⽇日のたつは早いもので、今半年年すれば、⽇日本⼀一の浄⽔水場が出来上がる。 ⼗十⽉月⼗十七⽇日 ⽔水 晴 信仰の⼒力力を述べたが、晩の務めである河相、堀井両⽒氏の所感が述べられた。出席者⼗十七名。祈る者は少な かったが、恵まれた集会であった。 ⼗十⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽊木 芳夫が上神すると通知して来た。何か出来るなら働き度度いと、誠に感謝に堪えない。彼は、遠の昔に此の 世の⼈人でなくなると思っていたものを、何かの仕事が務まる程に、健康を恵まれるとは有難い事である。 僕が⾯面倒を⾒見見ていたら殺していたであろう。富⼠士野とおばに世話になったから、助かったのである。 ⼗十⽉月⼗十九⽇日 ⾦金金 ⽇日本の歴史を知るは当然の事である。それを今⽇日まで学ばずに居た無責任を悔ゆけれども、⽇日々知りつつ ある。⽇日々学ぶことが出来て感謝である。過去は⽌止むを得ない。未来は希望がある。愛ちゃんが朝鮮から 来るという。何事があるか知らないが、来る者をば喜んで迎えよう。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⽇日 ⼟土 晴 政府が来議会に提出する筈の、労働者扶助法案に就いて研究した。労働者の業務上に於ける災害の場合、 雇主はその傷害に対して全責任を負えとの法⽂文では、事実実⾏行行不不可能な事が度度々あると思う。第⼀一、雇⽤用 者が無資⼒力力であった場合何うするか。現在では無資⼒力力で労働者を使⽤用しているものは随分あるが、かかる 者に法の適⽤用を受けさす事は不不可能である故に、之に替うる健康保険法を以ってすべきである。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽇日 晴 朝⼣夕とも⾃自分が説教した。昼は、六六七⼈人の友⼈人と鉄男⼭山に登り、松茸⼀一本⾒見見付けた。たった⼀一本の茸が、 どれ程の楽しみを与えて呉れたか知れない。七百年年の昔、義経が平家と戦うて勝ち、真実が敦盛の⾸首を切切 りたる事ども思い起こして、向かいに淡路路島を眺めつつ、友と語りながら昼⾷食の弁当を開くも、楽しみで あった。ユキ⼦子が登⼭山したるも不不思議であった。今度度こそは元気だから、従って⼦子供も丈夫に発育してい るのであろう。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽉月 晴 ⼗十⽉月分の伝票の整理理にかかった。⼜又忙しくなる。藤原⽒氏去り賀来⽒氏も秋⽥田に往く。旧き者は僅かである。 ⼗十⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽕火 曇⼩小⾬雨 井上増吉⽒氏より⼩小荷物⼆二個送付して来た。⽒氏はもう満州近くに帰っているのであろう。我と友と社会とを 欺いて、上⼿手に世渡りするよりも、欺かざる⽣生活をする為に、慎まなくてはならぬ。 ⼗十⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽔水 ⾬雨 出席者数に変わりなく、杉⼭山兄の司会に依り、同兄の感話に次いで、堀井君の感話があり、祈祷会は終わ った。 ⼗十⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽊木 曇 芳夫が昨夜、⾺馬場⽒氏の宅宅まで来て居ると、電話で通知して来た。満五年年の病気であった。よく神⼾戸まで出 掛け得るの程度度に迄、健康を恵まれたものである。神の御恵みを感謝し、併せて、おばと妹の多⼤大なる労 を感謝す。患う者も⾟辛いが、看病⼈人も飽きが来易易い。共に疲労するであろうものを、よくも今⽇日まで継続 されたものだ。本年年度度の失業救済事業が、⼤大体に於いて助役室に於いて決定した。これで本年年も、労働者 の仕事が余程多くなる。⾃自分の仕事も忙しくなる。 ⼗十⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⾦金金 晴 昨夜から、故郷の話を⾊色々と少なからず聞いた。⼗十三歳にして⻑⾧長船を後にして、郷⾥里里を去った⾃自分にも、 郷⾥里里の様⼦子を聞くは楽しみである。野や⼭山や神社、寺、⽥田に川に、⿂魚に⼩小⿃鳥に、考え出せばつきぬ事であ る。天国に於いて、此の世の事を斯くの如くに思い出す事も、何時かはあるであろう。近地姉の就職が決 定した。 ⼗十⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⼟土 晴 失業救済事業の打合せを、中央の⼆二階で開いた。やっと⽅方針だけは⾒見見当がついた。⼀一年年の経つのも早いも のである。これで⽇日本に於いてこの事業を試みる事、第四回である。職業教育が出来ていないばかりに、 此の種の事業に依る救済問題が起こるのである。今後の⻘青年年を、凡て職業教育を授けて置きたいものであ る。 ⼗十⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽇日 晴 朝の説教に、勝ち得て余る⽣生涯と題して述べ、夜は再⽣生に就いて語った。出席者に別に変わりはないが、 ⼀一家族揃っての出席は、如何にも楽しい様に⾒見見受けられた。昼、湯殿と庭の⽚片付け修理理、たきつけ割り等 が仕事であった。⼀一⽇日中働いてよく疲れた。昨⽇日からの来客、道世は今⽇日帰阪した。 ⼗十⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽉月 曇 井上増吉⽒氏が、⼗十⼀一⽉月六六⽇日に帰朝するとの通知を寄越した。⼀一年年半にして⽶米国より欧州に廻って来る⽒氏は、 ⾯面⽩白い旅⾏行行をしたであろう。何か学ぶ点があったか何うだか、帰って⾒見見ねば解らないが、出て⾏行行った時と 何んの変化もないであろう。彼は活動を⾒見見る様な⼼心持で、世界を⼀一周したのであると思う。 ⼗十⽉月三⼗十⽇日 ⽕火 晴 失業救済事業の追加予算に就いて、渡辺助役と三⽊木庶務課⻑⾧長が書類に捺印しないと拒絶された為に、社会 課⻑⾧長は終⽇日、殊に夜まで残ってやっとの事、書類を完全に作った。これにこりて、明年年からは社会事業を 施⾏行行しないと⾔言う。 ⼗十⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 藤原湊川紹介所⻑⾧長と中央紹介所の賀来書記とが退職に当たり、両⽒氏の為に送別会を開催した。参加する者 三⼗十七名で、市に社会課が設けられて以来の盛会であった。両⽒氏を神⼾戸市から失う事は、誠に遺憾千万で あると、課⻑⾧長は別れの辞を述べた。 ⼗十⼀一⽉月⼀一⽇日 ⽊木 晴 昨夜の送別会に於いて、⾃自分は真っ先に帰って、残りの⼈人々がどの程度度まで騒ぎ且つ飲んだかを知らなか ったが、伊東と井上と⾼高⽊木と三⼈人が喧嘩をしたと⾔言う。紹介所の柄が段々悪くなって⾏行行く。品性の下等に は驚く。僅かばかりの俸給を貰って、⽣生活に苦しみながら、なお酒を飲んでは借⾦金金を増し、借⾦金金しては利利 息を払い、借⾦金金の無い⼈人が少なくて、ある⼈人が多いのに⼜又驚く。社会を救うと称して、⾃自らを救い得ざる ⼈人々である。井上君から、⽗父元気かとの電報があった。元気の旨返電して置いた。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⽇日 ⾦金金 曇後⾬雨 誓⽂文払いで、市中は⼈人出の多い事、電灯は御⼤大典の為に⾄至るところに奉祝の意を表して、点灯されつつあ る。何だか、⼗十⼀一⽉月の⽉月は働く⽉月でないが如く、⼈人々の気分が浮かれ調⼦子になっている様に思われる。 ⼗十⼀一⽉月三⽇日 ⼟土 晴 明治節で休⽇日である。⼗十⼀一⽉月三⽇日の休⽇日は懐かしみ深い⽇日である。明治⼤大帝の天⻑⾧長節を祝う為に、学校で 式をなし、後にはみかんやおせんを貰って喜んだ嬉しさを、今尚記憶している。半⽇日かかってソファーの 修繕をした。 ⼗十⼀一⽉月四⽇日 ⽇日 晴 朝はイエスの使命、⼣夕は貧乏の幸福と題して宣べた。説教に⼒力力を⼊入れて、⾃自分⾃自ら愉快に感ずる。⼒力力を尽 くす事は、⼈人の為のみならず⾃自分の為である。以後⼀一層の努⼒力力をするの必要を、切切に感じた。 ⼗十⼀一⽉月五⽇日 ⽉月 晴 秋の好晴、⾔言い得ぬ喜びである。かかる⽇日に、空を眺め、⻘青天井を⾒見見ているだけで、感謝に溢れる。⾃自分 の如き貧乏⼈人に、⾦金金を貸せとの相談が尽きない。⾃自分に不不⾃自由を忍びながら、⼈人にだけは好感を以って⾦金金 を貸すことの⾟辛さよ。⼈人知れぬ⾦金金融して都合している事も解らず、貸せと⾔言う⼈人もつきぬものかは。 ⼗十⼀一⽉月六六⽇日 ⽕火 晴 井上増吉兄が、欧州より帰朝した。兄を迎えんが為め(第四突堤は横着の加茂丸)、朝六六時前出発した。兄 は元気であった。夜、イエス団で歓迎会を開いた。兄より視察の感想談があった。⼟土産として、エジプト の織物よりなる画と、印度度産の菓⼦子器と、エルサレム製の絵葉葉書とを貰った。兄の⽗父に対する責任が、全 部終わった様に感ずる。 ⼗十⼀一⽉月七⽇日 ⽔水 ⼩小⾬雨 ユキ⼦子は、昨夜⼗十時頃より軽い陣痛を覚え、今朝四時三⼗十分男児を分娩した。予定より⼀一ヶ⽉月早産であっ たが、⼦子は元気である。⺟母体も安産であるし健在で、何より結構である。今度度の児こそ丈夫に育てたいも のである。男児を恵まれしを感謝し、この児が将来、神様の御⽤用を務むる者となる様に、今より神の御⼿手 に委ね、神の⼦子として預かり、之を充分教育せなければならぬ。天の⽗父の御祝福、豊かならん事を祈った。 ⼗十⼀一⽉月⼋八⽇日 ⽊木 曇⼩小⾬雨 前⽇日の睡眠不不⾜足と過労の疲れか、⾝身体中が少々痛む。今⽇日も昨⽇日に劣劣らずよく働いた。洗濯物の⼲干し場も 作った。これで、もつきの百枚でも⼀一度度に⼲干せる。⾬雨が降降っても安⼼心出来る。本多姉が朝早く来訪され、 祝いを述べて帰られ、更更に後より刺刺⾝身とかまぼことを持って来て下さった。夜、杉⽥田君と芝さんとの来訪 があり、芝さんは⽩白モスをお祝いに恵まれた。世は御⼤大典で、上を下への⼤大騒動であるにも拘らず、我が 家に於いては、家事のみに多忙を極めて居る。平井の愛ちゃんは九⽇日の夜、細⽥田のお⺟母さんは九⽇日の朝、 同⽇日に我が家の⼈人となる事になった。 ⼗十⼀一⽉月九⽇日 ⾦金金 晴 平井の⼆二⼈人と細⽥田のお⺟母さんとが、久し振りで此の家の⼈人となり、お⺟母さんは当分の間の⼿手伝いを、愛ち ゃんは暫らくの間、神⼾戸に在住する事になった。之で安⼼心して仕事に⾏行行ける。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⽇日 ⼟土 晴 今⽇日は御⼤大典、国家こぞって祝意を表し、謹んで休業している。⾃自分も⼜又その⼀一⼈人である。我が皇室の上 に、天の豊かなる祝福あらん事を祈り奉る。此の国に神の光が輝き、暗きに在る⺠民が⼀一⼈人も残らず、神の 御恩寵を感謝するに⾄至る事の出来る様に。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽇日 晴 朝も晩も井上君に説教して貰った。世は昨⽇日も今⽇日も⼤大騒ぎである。祝意を表さんが為には、不不真⾯面⽬目極 まるものが多くある。然し、責める事も出来ない。あれが最上と⼼心得ているのであるから⽌止むを得ない。 今⽇日は、⾚赤ん坊の名を考えた。その名を美邦と付けた。此の世を少しでも善化し、義が⾏行行なわれ、公平が 重んじられ、闇をして明るくするために、理理想の神の国を創らんが為め、彼が少しでも国家に善き奉公を なし、我が愛する此の国⼟土を美しき邦となす。その名が、彼の⽣生涯を通じての予⾔言であり得る様に、彼が 成⻑⾧長するに従って、この親の⾚赤誠を理理解し、⾃自覚して、彼の名に相応しき者となる様、その為に彼の⽣生涯 を、神のお前に献げ奉る事の出来る様に、⽗父なる神に祈り奉る。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽉月 晴 梢を東⼭山病院に訪問して、意外にも彼が丸々と肥満し、元気な顔付をして、⽇日頃に少しも変わらざるは、 誠に驚いた。チブス患者にして、これ程丈夫な病⼈人があるかと思わされた。然し感謝である。数⽇日中に退 院出来るであろう。 ⼗十⼀一⽉月⼗十三⽇日 ⽕火 晴 毎⽇日、⽇日々⾚赤ん坊の顔を⾒見見る事が楽しみである。神の賜うものにして、此れ程⼤大なるものはない。児と何 物とも交換する事が出来ない。⼭山なす宝も、名も位も、この⾚赤ん坊に換えることが出来ない。これは我が ものであって、神のものである。この⾚赤ん坊を、如何に⽴立立派に育てるかが、神の私に任じ給うた御命令令で ある。実に⼤大いなる使命である。此の⼤大任を果たさずして、私は死ぬことは出来ない。 ⼗十⼀一⽉月⼗十四⽇日 ⽔水 曇 梢の⾒見見舞いに、初枝が岡⼭山からかけつけて来た。兄弟の対⾯面、実に六六年年振りであったと⾔言う。彼等⼆二⼈人は 不不憫なものである。せめて⼆二⼈人の娘が幸せに、神の救いに預かり、善き⼦子孫を残し⾏行行く事の出来る様に、 彼等の為め本当に祈らなくてはならぬ。殊に梢の為に祈らなくてはならぬ。彼の品性は地の底にあり、向 上すべき何物も備えざるが故にである。祈祷会に出席して、堀井兄と⾃自分とが感話を述べ、⼀一同祈りあっ た。敏ちゃんが、訪問に⼤大阪から来て呉れた。 ⼗十⼀一⽉月⼗十五⽇日 ⽊木 ⾬雨 失業救済事業の打合せをなし、本年年度度施⾏行行さるべき事業の⼤大勢を決定した。帰宅宅して、美邦が三⼗十九度度の 発熱ありたりと聞いて驚いた。彼の為に、絶えず祈ってやらなければならぬ事を教えられた。⾃自分にもっ と祈りがなければ駄⽬目だと教えられた。唯に⾚赤ん坊のためのみではない。物事万事がそうでなくてはなら ぬ。 ⼗十⼀一⽉月⼗十六六⽇日 ⾦金金 曇 御⼤大典奉祝の為に、熱⼼心過ぎてか不不謹慎でか、⾵風紀紊乱実に甚だしきものがある。余りに無智である。⼀一 ⽇日家に在って、⾚赤ん坊の顔を⾒見見詰めた。先に、益恵と喜与⼦子とを失いし代わりに、美邦を与えられた様な ⼼心持がする。美邦の容姿が、先のそれによく似ている。 ⼗十⼀一⽉月⼗十七⽇日 ⼟土 曇⼀一時晴 ⽇日本の国より偉⼤大なる⼈人物を産まなくてはならぬ。現代の如く、⾦金金の事ばかり考えて守銭奴になっていて は、⼈人物は⽣生まれない。新しき意気をつくり、⼤大⼈人物を出すの空気をつくらなくてはならぬ。⾃自分も、余 りに詰まらない世にとらわれていては駄⽬目である。 ⼗十⼀一⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽇日 曇 朝⼣夕共に⿊黒⽥田⽒氏の説教あり。朝に於いては、賀川先⽣生の伝道旅⾏行行の報告があった。サッポロは全国何処に も例例のない伝道の容易易なる処であると⾔言う。その理理由は、クラーク先⽣生の感化が、今尚残っていると思わ れる。⼀一⼈人の信者の感化も、実に驚く可き⼒力力がある。先⽣生は、⽇日本の存在する限り忘れられない貢献をせ られたのである。名のみを知るクラーク先⽣生に敬意を表する。広元のおばさんが、東京浅草で路路傍説教し ているのを聞いて改⼼心し信者となり、後に⽶米国の⼤大学に在って、⽇日本に帰って浅草で伝道してみたいと⾔言 うの⻘青年年のある事を、今井姉は⽶米国に居て発⾒見見したと聞く。神は、伝道の愚を以って⼈人を救うをよしとし 給うとは、此の事を⾔言うのであろう。 ⼗十⼀一⽉月⼗十九⽇日 ⽉月 ⾬雨 美邦は、此の世に出て来て、沢⼭山という程ではないが、必要以上の着物を祝って貰った。野の百合は如何 にして育つかを思えと、誠にその通りである。彼が神の御旨に適わざる⽣生活をいとなまざる限り、彼の⽣生 活の保証を、天の⽗父は為し給うであろう。⾚赤ん坊にして既に余りあり、いわんや彼が働く時に於いておや である。古い写真帳を出して、先に天国に帰りし喜与⼦子の姿を⾒見見て、美那がよく似ている事を知った。美 那は喜与⼦子以上に、此の世に⻑⾧長く留留まり、⼆二⼈人の姉のすべき仕事をも、合わせて⾏行行なう者となって呉れる であろう。彼の顔を⾒見見ていると、嬉しくて仕事も⼿手につかない。好きでならぬ読書も余儀なく中⽌止となら ざるを得ない。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽕火 曇 美那の健康に就いて、富⼠士野が種々と注意し、⼼心配もしてくれる。彼も僕が児を思うが如く思うのであろ う。僕の⽋欠点を数え、⾜足らざるなきを期しつつ、何かと注意して呉れる。⼀一⼈人を⽴立立派に育てるは、⼩小さき 世界を⼀一つ造るが如く努⼒力力がいる。何はともあれ、⼦子を養育する位、楽しみな事はない。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽔水 晴 井上、堀井、⾃自分と三⼈人が感話を述べた。⾃自分の述べたる処は、神の保護と期待とに就いてである。⾃自分 が⼦子供に対してもつ愛より以上のものを以って、⽗父は我等に対し給う。此の愛が、我等の上にあって、我 等は感謝、⾝身に溢れるのである。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽊木 晴 細⽥田のお⺟母さんと愛ちゃんとが、本⽉月の九⽇日から⼿手伝って今⽇日まで助けて頂いたが、⼆二⼈人とも近江に帰る 事になった。美那を此の世に迎えんが為に、かくも遠くから出張して貰った。彼が為には、親以外の者ま でが、如何に労する事であろうか。吾々が⽣生まれた時もかくありしかと、⾃自分の出⽣生に就いても有難く思 う。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⾦金金 晴 杉⼭山君が来訪あって、東京の⽊木⽴立立君が辞職したと⾔言い、⼜又⾃自分には⽊木⽴立立君の後任を務むるよう、賀川先⽣生 から命令令があるが、⾃自分が⾏行行くとも、如何とも才はなく、唯恥をかきに往くに過ぎないが故に、⾃自分は上 京したくないと語った。東京の産業⻘青年年会は、六六千円の借⾦金金をしてどうにも⾸首の廻らぬと⾔言う。何うにか して、⽴立立ち⾏行行くようしたいものである。⽅方⾯面委員分会⻑⾧長を訪問した。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⼟土 晴 神⼾戸労働保険組合の嘱託医懇談会を平和楼に於いて開き、⼆二⼗十名が出席して協議事項だけは協議したが、 何の決議も定まらなかった。但し、組合そのものを理理解する為には、絶好の機会であったであろう。事業 は、規約や組織ばかりでは成績は上がらない。殊に、保険組合事業は医業である。その医師が、凡てをよ く理理解し、好感を以って援助して呉れなければ成功しない。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽇日 朝は⿊黒⽥田師の説教あり、⼣夕は⾃自分が述べた。何だか⾃自分ながら気抜けの感じがして頼り少なく思った。説 教には充分準備して語らなければならぬと思いつつ、常に怠っている。多忙な⾝身であり、尚且つ美那が出 ⽣生後は、家の内に客あり、⽤用事が増し、⼀一層説教の準備の出来ざる事を遺憾とす。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽉月 曇 聖上の御⼤大典が終わり、本⽇日京都を去らせられ給う。本⽉月は、⽇日本国⺠民全体が祝意を表し奉り、陛下の御 健康と御光栄と、昭和の聖世いやが上にも向上発展し、⽇日本の国に幸多からん事を、真実こめて思考し、 ⼜又祈るの⽉月であった。⽇日本の国はうるわしい国である。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽕火 ⾺馬場のおばさんが病気に罹罹り、初枝がその看護に⾏行行かなければならないらしい。病⼈人の看護の出来る者は、 何処に於いても仕事の多い事である。⼈人の喜ぶ且つ為になる奉仕である。⼈人の病苦を少しでも忍び易易く、 ⼜又⼀一⽇日も早く癒えんが為の仕事である。⼀一看護婦といえば、いやらしい職業婦⼈人の如く世間は⾔言う。然し、 その仕事は尊敬すべき業務である。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽔水 晴 ⾼高⼭山君(仮名)が、⼀一度度出て来ると⼀一⾔言残して、家出した儘帰宅宅しないと聞く。其の後何処に居るか、何等 の⼿手掛かりもなく、探す⽬目当てもないと⾔言う。彼が何処に往ったかは知らないが、多分神⼾戸には居ないで あろう。彼は神様の為には、無給で喜んで働く意思を有する。彼の⾷食う保証をすれば、彼は此の地に留留ま って、貧⺠民窟で奉仕するのであったであろう。然し、彼の⽣生活保証は、⽬目下のイエス団では不不可能である。 ⼜又彼に再び消費組合で労働する事を勧めた事も、彼の不不満⾜足であったであろう。まあ去った者は如何とも する事が出来ないが、彼が如何なる地に在るも、⽗父なる御神とも在し給うて、彼を導き守り給わん事を祈 る。⾦金金井(仮名)、太⽥田(仮名)、⾼高⼭山(仮名)の事を思うて、涙ながらに祈った。彼等を思うと泣けて堪らなく なる。 ⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽊木 曇 ⼤大阪地⽅方職業紹介事務局管内事務打合会を⼤大阪中ノ島公会堂で開催、⾃自分も市の命により、出張参会する 事になった。職業紹介の事務上には重⼤大なる問題なるとも、⽇日夜考える⼈人⽣生問題に⽐比較して、いと⼩小さき ものの如く思う。 ⼗十⼀一⽉月三⼗十⽇日 ⾦金金 晴 今⽇日も⼜又⼤大阪に出張した。⽇日本の教育⽅方針の過たれる⼀一点は、職業教育であると思う。然し、現在の資本 家に適合したる職業教育を施して、之を資本家に屈従せしめる事も、⼤大いに考慮するの必要ありと思う。 ⼗十⼆二⽉月⼀一⽇日 ⼟土 晴 春⽇日野紹介所に於いて、伊藤貞⾏行行⽒氏の招待を受け、⼣夕飯の饗応に預かった。唯⼀一度度社会課⻑⾧長に紹介したる 事に依り、彼が市に奉職する事となった。その事に就いて感謝の意を表し、御馳⾛走して呉れたのである。 ⼈人の世話になりたる思いを覚えての厚意である。⾃自分は、誰に対しても、かかる事の礼の⽋欠けたる者たる 事を思う。平井の愛ちゃんが近江より来たり、⼜又我が家の客となった。彼が夫婦間に於ける凡ての問題が 融和され、円満なる家庭を作り得ん事を望む。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⽇日 ⽇日 曇後⼩小⾬雨 朝拝に於いてキリストの⼗十字架の誇りを説いた。集まる者、僅かに⾃自分を合わせて七名であった。オルガ ンをひくものなく、出席者も少なく淋淋しい集会であった。然し、⾃自分に於いては有益なる集会であった。 ⼣夕拝は、⼩小さき群れよ恐るな、との聖⾔言葉葉の説明をし、之⼜又⾃自分に⾃自分が教えたのである。神の国は神の ⼦子達を通して現れると述べて、世をして神の国と為すには、⼤大なる建築物よりも、神⼾戸第⼀一の⻑⾧長者よりも、 知事よりも市⻑⾧長よりも、我等に⼤大なる責任のある事を語った。 ⼗十⼆二⽉月三⽇日 ⽉月 ⾬雨 東京の松村君からの便便りに依れば、藪下兄に⼥女女児が恵まれたとの事である。実に不不思議である。遠くの昔 に此の世の⼈人でなくなっていると思われる⼈人に、⼆二⼈人迄も⼦子供を恵まれるとは、藪下兄の⼈人格が夫⼈人をし て活かしめているのであろう。何はともあれ、⼤大いに兄の為に感謝す。貧しき⼈人達に対しての年年末の奉仕 に就いて、杉⼭山兄が相談に来訪された。少しでも多く、より善き御奉仕をしたいものである。美那の体重 ⼋八百⼆二⼗十匁あり、⽣生後⼆二⼗十六六⽇日にして壱百⼋八⼗十匁肥った事が解った。之で彼は、早産児の普通以上の成績 を納めている。神に感謝す。 ⼗十⼆二⽉月四⽇日 ⽕火 晴 ⽇日⽐比⽣生清⼋八兄が、クリスマスの⼿手伝いに上神しようかと問い合わせて来た。彼の為にもイエス団の為にも 善い事である。⼈人は神の聖旨を学ぶ為に、奉仕しなくてはならぬ。これなくして、本当の⽗父の⼼心は解らな い。美那の内祝いの印の為に、何か餅でも搗いてはとも考え、平井の愛ちゃんと⼤大丸迄観に⾏行行った。⾷食料料 品部の美しくて割合に安価であるには驚いた。資本家は⾦金金儲けのためには、何んな事をもするものである。 労働者に此の知識識はない。 ⼗十⼆二⽉月五⽇日 ⽔水 晴 ⽇日⽐比⽣生⽒氏に、⾄至急上神するように⼿手紙を書いた。クリスマスを⽬目の前にして、古着市に、祝賀の贈り物、 正⽉月餅の分配等に関した、奉仕に就いて祈った。祈り会らしい会であった。美那の内祝いの印ばかりの菓 ⼦子を、きねやに注⽂文した。都合五⼗十⼀一の数を作る事にした。菓⼦子代⾦金金五⼗十三円也とは、貧乏⽣生活者には少 なからぬ負担であるが、彼のために⽌止むを得ない。 ⼗十⼆二⽉月六六⽇日 ⽊木 林林⽥田紹介所の加藤⽒氏に、キリスト教を述べて置いた。何かの⽷糸⼝口になってキリストを求めるに⾄至らば幸い である。美那の便便の状態が少しく不不消化の様に思われる。此の⼀一点が⼼心配でならぬ。彼の為めに勉強が出 来なくなり、夜充分眠る事が出来ない。然し、これが親の務めである。我が親が、かくして⾃自分をも養育 せられたのである。物も⼒力力も⼼心も皆、彼のために打ち込んで、まだ⾜足らなく思うとは、親⼼心とは何という 有難い事であろう。天の⽗父が、我等の為に今尚その通りで在し給う。 ⼗十⼆二⽉月七⽇日 ⾦金金 晴 御⼤大典は済むし、第五⼗十六六議会は近くなって来るし、政界が動き出した。⼀一番態度度の曖昧なのが床次⽒氏で ある。対⽀支問題で愈々⽀支那に乗り出す事になった。⽀支那に往って何うする考えであろう。来議会は、⽥田中 政友会の御⼤大と相提携して、同⼀一歩調をとるのであろう。こうなれば、来議会も無事でもないかも知れな いが、切切り抜けだけは間違いなかろう。ライオン⼤大将とんと運が廻らない。政友の天下でも⺠民政の天下で も、⼤大差はないだろうが、政友会が⽮矢張り根強い何物かを握っていると⾒見見える。それは地⽅方に於いてであ る。⽇日⽐比⽣生⽒氏が応援に来て呉れた。 ⼗十⼆二⽉月⼋八⽇日 ⼟土 晴 今⽇日から⽇日⽐比⽣生⽒氏が、イエス団の⼗十⼆二⽉月中の仕事を助けて呉れる事になった。杉⼭山⽒氏も⽚片腕出来た訳であ る。昨⽇日から今⽇日とで、美那の名披露露⽬目の内祝い菓⼦子も配って済んだ。彼の成⻑⾧長が、何よりの楽しみであ る。井上増吉⽒氏も、⼗十⼀一⽉月⼆二⼗十四⽇日からの旅⾏行行を終えて帰神した。 ⼗十⼆二⽉月九⽇日 ⽇日 曇後⾬雨 朝⼣夕ともに井上増吉の説教であった。徳広⽒氏が、井上⽒氏の説教は講談だと⾔言ったが、やはりそうだとつく づく思わされた。御⼾戸の教会の牧師は、⼋八ヵ年年勤めて今度度⾸首になった。⼦子供は五⼈人あり、⼿手当てもろくに 与えずに失業せしめた。然も、別に取り上げる程の⽋欠点もなかったと⾔言う。その代わりとして或る教会で 六六ヵ年年働いている。牧師を給料料の点で引き⼊入れると聞く。先に神⼾戸教会の⽶米沢牧師は⼗十⼋八ヵ年年牧会した。 その⽺羊から追い出された牧師の悲哀をしみじみと感じた。⾃自分の牧師にならざりしを感謝す。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⽇日 ⽉月 ⼩小⾬雨後晴 失業救済事業、愈々本⽇日から着⼿手となった。本年年度度施⾏行行の事業は⼩小規模なりと雖も、今⽇日から起⼯工する事 は、当分⽇日庸労働者をして⽣生活の保証となることである。⽇日本の失業者救済事業は、単なる⼟土⽊木⼯工事の百 万円千万円で救済出来るものとは根本から違う。⽇日本は将来移⺠民するであろう。それも⼀一案である。然し、 現在の如く多産でろくに教育もせず、⽣生活の保証もしないでいる事は、何よりの危険である。何うしても 産児の制限に依り、より良良い⼦子供をよりよく教育し、彼等の時代の為に、その⽣生活の安定を計って置かね ばならぬ。愛ちゃんは、今⽇日岡⼭山に向かって出発した。来神以来三⼗十⼆二⽇日にして去った。内地に帰るの必 要なきものを、気まぐれで遊びに来て、無駄な時間と⾦金金とを消費した。然し、朝鮮に在って平井を愛する の⼤大切切なるを悟って帰るは、彼の為に有益なる教訓である。それだけを悟りに、神⼾戸迄遙かに出て来たと しても価値少なくないかもしれない。美那の体重⼋八百九⼗十⼆二匁、彼は⽇日々に肥りつつある。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽕火 晴 美那の為に毎⽇日の読書が中⽌止になった。⼜又近々に読める様、時間の繰り合わせをしなければならぬ。彼に 対して⾃自分の為す可き義務が多くある。そうしてその中、⾃自分をして全からしめるの努⼒力力は、最も⼤大切切な る事である。彼への最⼤大の遺物は、⾃自分の⼈人格である。此の義務を怠っては、彼に対して相済まぬ。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽔水 ⾬雨 今⽇日の祈祷会は、堀井、井上の両兄が感話を述べ、⾃自分は⼀一⾔言も語らなかった。全く珍しい事である。唯、 祈った時には、⼈人の⼼心を知り、神が兄弟達の⼼心に如何に働き給うかを知る為に、沈沈黙して聞く事が⾃自分の 務めである。⼈人に語るばかりではいけない。時には⼈人に聞かなくてはならぬ。美那の体重九百⼗十匁。 ⼗十⼆二⽉月⼗十三⽇日 ⽊木 晴 初枝が岡⼭山に帰った。彼の結婚の為に祝福してやらねばならぬ。彼の兄弟は梢⼀一⼈人で、その⼀一⼈人が不不良良な 娘である事を考えると、彼等の⼆二⼈人が可哀想になる。せめて⼀一⼈人をでも幸せにしてやり度度いものである。 梢は電報で⾦金金を直ぐ送れと⾔言って来た。何円いるのか、何うして必要なのかさっぱり要領領が解らない。 ⼗十⼆二⽉月⼗十四⽇日 ⾦金金 晴 井上増吉⽒氏の職業に就いて、⻑⾧長い間⼼心配していたが、課⻑⾧長と相談の結果、社会課に於いて勤務すべく採⽤用 の了了解を得た。これで⼀一つ荷が卸せる。感謝である。⽊木村課⻑⾧長が、此の相談を容易易に承諾諾された事を嬉し く思う。不不採⽤用に決定していた⼭山⼝口源⼆二⽒氏も⼜又採⽤用する事になった事を結構と思う。 ⼗十⼆二⽉月⼗十五⽇日 ⼟土 ⾬雨 紹介所員⼀一同(東部)が忘年年会を開いた。⾃自分も⽌止むを得ず仲間に加わって御馳⾛走になった。此の催しの 為に家の鶏が犠牲となった。 ⼗十⼆二⽉月⼗十六六⽇日 ⽇日 晴 朝拝⼣夕拝ともに、井上君に述べて貰った。⼣夕拝に井上君が語った内に、⼾戸梶鶴⼦子なる看護婦を職業とする ⼈人が、去年年イエス団の集会に三度度出席し、⾃自分の説教を聞いて感ずる処あり、以後教会に出席はせざりし も、⾃自分の⼿手に⼊入って来る⼀一銭と⼆二銭との銅貨をば、悉く集め置き、之を年年末に⾏行行なうクリスマス祝賀に、 正⽉月の餅との費⽤用に献げるとて、⼩小さくはあるが、紙⽸缶に⼀一杯寄付された。本⼈人もその⾦金金額が幾等なるや 之を知らずと⾔言う。貰って後に計算の結果、五円七⼗十三銭五厘ある事が解った。誠に奇特なる婦⼈人である。 ⾃自分は何んな話をしたか全く覚えていない。然し、⼾戸梶姉の此の美しい厚意は、⾃自分の⽣生存の限り忘れ得 ない。レプタ⼆二枚と⼀一時に献げる事も感⼼心であるが、銅貨と雖も之を⼀一ヵ年年間集める努⼒力力は容易易でない。 ⼀一時に感じて⼀一時に多くを献げるより以上に尊い⼼心掛けである。鶏舎を壊し、乾燥室を造る為に終⽇日働い た。浜⼝口⺠民政総裁が⼋八千代座で演説した。 ⼗十⼆二⽉月⼗十七⽇日 ⽉月 晴 今⽇日⼀一⽇日請暇を貰って、昨⽇日からやりかけた残りの仕事を⽚片付けた。腕も腰も痛むが、時には労働もいい ものである。宇都宮から書⾯面が来た。豚が五つに、鶏が⼆二⼗十五になって、⼦子供等は蛍狩りで夢中だと喜ん で居る。喰う⼼心配はなく、⼈人間がのんびりする事であろう。 ⼗十⼆二⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽕火 晴 ⼦子供が為に凡ての調⼦子がくるって来た。⼀一番困っているのは妻で、オムツの洗濯だけでも余程仕事が増え たというが、⼦子供⼀一⼈人を育てるは容易易でない。然し、これを育てる事に依って、⼦子に対する愛情を学び、 親の愛が解る。何と⼈人⽣生は奇妙なものである。 ⼗十⼆二⽉月⼗十九⽇日 ⽔水 晴 堀井兄と⾃自分とが感想を述べて、祈祷会を開いた。⼈人⽣生の短きをつくづくと感ずる。何の事業も為さずし て終わるかも知れない。恥ずかしい事ではあるが、如何とも⽅方法がない。せめて潔い⼼心だけでも維持した いものである。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽊木 晴 雪が降降り、道路路に蒔かれた⽔水が氷っている。クリスマスが近づいて来ると、定った様に寒くなる。冬に寒 いので何の不不思議もないが、余りに冷冷えると、まんざら無関⼼心でもいられないものである。杉⽥田君が来て 三宅宅君の⼼心配をしている。杉⽥田君はよくも三宅宅の世話をしたものである。⾁肉親の家族の者もなし得ない⾯面 倒を⾒見見ている。感⼼心な男だ。富⼠士野の⼿手紙に依れば、初枝は結婚する事になるらしい。彼が⽣生涯を主に献 げ、主⼈人の伝道を助ける事の出来る様祈ろう。富⼠士野もよく初枝の世話をして呉れる。喜んで、初枝の為 に借⾦金金するとは、よく決⼼心して呉れた。富⼠士野にも偉い点がある。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴 美那の体重、壱貫拾拾五匁、⽣生後四⼗十五⽇日。⼗十⼆二⽉月には必ず賞与⾦金金を頂く。今年年も⼜又貰った。⾦金金九⼗十六六円也。 俸給の他に貰った⾦金金である。感謝して受く可きである。但し年年々賞与⾦金金を減じて⾏行行く。去年年と⽐比較すると 五⼗十円は少ない。去年年より給料料を多く受くる事、⾦金金四円也。賞与⾦金金を減じられると、差し引き収⼊入は年年々 少なくなって⾏行行くのである。之なら給料料を増して貰わぬ⽅方が却っていいのであろう。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⼟土 晴 本年年の暮れも⼜又クリスマス気分になった。古着市に、餅の分配、⼦子供の為の祝賀、何だか忙しい気がする。 町に出て、⾄至るところのショーウインドーにクリスマスツリーを樹て、サンタクロースのお爺さんを吊り 下げ、ケーキを置き、何だか教会の店開きの様である。キリストの降降誕祝⽇日も、商⼈人に利利⽤用さるる事甚だ しい。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽇日 晴 富⼠士野から美那の為に、ジバンと玩具とを送付して呉れた。美那の眼も、少しは⾒見見える様になったらしい。 ⾊色のついたものには、特によく眼をつけて来る。朝は、井上君がクリスマス礼拝の意味で説教し、夜は、 古着市⼊入場券の請求者が酒を呑んでやって来て、⼤大声で怒怒鳴るので、説教が中⽌止になった。其の後、⼗十⼀一 時まで古着の整理理をした。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽉月 ⾬雨 新労農党の創⽴立立⼤大会は、内務⼤大⾂臣の訓令令に依り、解散を命ぜられた。五⼗十六六議会は⼆二⼗十四⽇日を以って召集 された。床次⽵竹次郎郎⽒氏は、⽀支那より帰朝した。⽒氏は多分政府案賛成で、此の議会は先ず安全と思はる。古 着市を催す。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽕火 晴 ⼦子供のためのクリスマス祝賀会を催し、約三百の⼦子供を招待した。貧⺠民窟では、少年年も⽼老老年年も、クリスマ スの何であるかが次第に解りつつある様である。クリスマスの祝いは⼀一般化して来た。善く利利⽤用するか、 悪く利利⽤用するかが問題である。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽔水 晴 成年年のための祝賀で、出席者は四⼗十五六六名であった。我等の内に、主キリストのいましたもうを思うて、 嬉しかった。宇都宮に⼿手紙を送って置いた。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽊木 晴後曇 新川のクリスマスのお祝いだけは済んだ。本年年の会計は、杉⼭山⽒氏が責任者となり、古着を貰い集める事か ら市まで、⼦子供等のためにも、⼀一から⼗十まで重い責任を果たして呉れて、御苦労様であった。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⾦金金 晴後曇 昭和四年年の年年賀状を書く為に、⼆二晩を費やした。⽂文字を書くは下⼿手であるが、真⼼心だけはとめて書いたつ もりである。床敷きに光線を⼊入れる可く、縁の根家を抜き、鴨居の上の壁を取り、ガラスの窓を⼊入れたの で、暗い室が明るくなった。何だか気が晴れた様である。⾃自分の⼼心にも⼜又、窓を設けて、光を導かねばな らぬ。 ⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⼟土 晴後⾬雨 今⽇日は体全部がだるくて仕⽅方がない。何だか疲れが出たのであるらしい感じがする。 ⼗十⼆二⽉月三⼗十⽇日 ⽇日 晴少⾬雨 朝⼣夕とも⾃自分が説教した。朝拝は、⼀一ヵ年年の所感述べ、⼣夕拝には、宝の発⾒見見に就いて語った。我が内に、 我が家庭に、我が住む社会に、我の⽣生涯に、常に喜びを発⾒見見するの必要を説き、内に隠れたる此の喜びを 発⾒見見すべき事を⾼高調した。富⼠士野が来神した。⽤用件は初枝の結婚に関してであった。話は順調に進むもの と信ずる。 ⼗十⼆二⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽉月 晴少⾬雨 ⼤大阪に⾏行行き、灘を訪問した。芳夫に⾯面会をしたかったが不不在であったので、⽌止むを得ず引き返して、阪急 の終点で、偶然にもばったり出会った。帰宅宅後、話は万事解決した。夜、⼤大丸に買い物に⾏行行き、初枝に結 婚祝い・銘仙⼀一反を買った。 * * * * 昨⽇日(2009 年年 9 ⽉月 13 ⽇日)午後、兵庫県中央労働センター⼤大ホールで、⾦金金沢の川柳柳歌⼈人・鶴彬の短い⽣生 涯を映し出したドキュメンタリー映画「鶴彬こころの奇跡」を観た。この「武内勝⽇日記」の時代と重なる 作品でもあり、強い印象を残した。 (2009年年9⽉月14⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月9⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(54) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(7) 昭和2年年8⽉月〜~昭和4年年6⽉月 前に「雲の柱」に掲載された「⼩小さき⼈人⽣生の完成者」と題する、武内勝の賀川春⼦子宛に書き送られた「美 邦ちやんの追悼書簡」を収めた。前回から「武内勝⽇日記」に綴られている、ご⼦子息・美邦ちゃんの誕⽣生とそ の養育の⽇日々に⽴立立ち会う、⽗父親としての熱愛ぶりは、何とも切切ないものがある。 今回は、武内勝所蔵アルバムのなかから、美邦ちゃんとは幼馴染で「⼀一⻨麦保育園時代」 「⽡瓦⽊木尋常⾼高等⼩小 学校」も共に学び、親しい友達だったと語られる、現⼀一⻨麦保育園顧問の梅村貞造先⽣生が、美邦ちゃんと共 に収まっている写真が残されていたので、その1枚をここに添付したい。 梅村先⽣生には、このたび武内所蔵アルバムの写真すべてにわたって、撮影場所と時、そして⼈人物の特定 の御願いをしていて、その作業を終えられた資料料⼀一式をご返送いただき、本⽇日ただいまそれを眺めている ところである。 ご返送いただいた中に、梅村先⽣生がお書きになった2008年年4⽉月8⽇日付けの⽟玉稿「⼀一⻨麦と私―武内美邦 (よしくに)君のこと」という、⼤大変貴重な⼿手記のコピー3枚なども添えられていた。 そしてお⼿手紙には「何と⾔言っても武内美邦君と⼀一緒に写っている⼩小学校四年年⽣生の時の写真に出会えたこ とは感激でした」とあって、 「これは間違いなく⽡瓦⽊木⼩小学校の四年年⽣生の時のクラス写真です。美邦君と梅村 は同じクラスで、共に写真に写っています。担任は、師範学校卒業したての奥道正先⽣生。昭和14年年3⽉月 ごろ?」とコメントして頂いている。添付の写真が、それである。 これら諸資料料は、間もなく完成する新しい賀川記念念館に開設される「賀川ミュージアム」に整理理・保存し て活⽤用される予定で、この作業もその下準備である。 * * * * 昭和四年年⼀一⽉月〜~三⽉月 ⼀一⽉月⼀一⽇日 ⽕火 晴 昭和三年年を感謝の中に送り、四年年を希望を以って迎えし事を感謝す。本年年も⼜又最善を尽くして、神様に御 奉公しなければならぬ。我が⽣生命のある限り、善き奉仕を続けたいものである。殊に年年を取るとも、愈々 よりよき仕事の出来る為に、準備としての勉強を、熱⼼心にやりたいものである。イエス団の⻘青年年とお正⽉月 の雑煮を祝った。今年年の正⽉月には、⼥女女⼿手がないのでどうかと思っていたが、美容院の⼆二⼈人の娘さんと、芝 のお⺟母さんが、早くから準備せられたので、何の苦もなく御馳⾛走になれた。 ⼀一⽉月⼆二⽇日 ⽔水 晴⼩小雪 富⼠士野が帰岡した。奈奈良良県⾼高⽥田町堀江要次郎郎⽒氏⽅方で開催の、イエスの友会第⼆二回福⾳音学校に出席した。イ エス団⼆二⼗十年年史を述べよとの命令令で、それを語ったが、準備がないので充分話せなかった。とても寒い⽇日 である。深い印象を残す為に結構である。集席者数約百三⼗十名、中々盛んであった。之に依って、農⺠民の 間に主の道が伝わる事は、何より⼤大切切なことである。 ⼀一⽉月三⽇日 ⽊木 晴⼩小雪 酷い寒さである。夜中眠れなかった。神⼾戸も寒いのであろうが、奈奈良良は特別に寒い様に思われた。福⾳音学 校中途で、正午帰宅宅した。今年年の正⽉月は、杉⽥田君唯⼀一⼈人のお客で、実に淋淋しい正⽉月であった。美邦の誕⽣生 が、イエス団の⻘青年年達への御馳⾛走に迄影響した。 ⼀一⽉月四⽇日 ⾦金金 晴⼩小雪 寒さが続く。もう少しは暖かくてよい筈である。同僚僚の⼩小⾼高⽒氏(仮名)の病気に就いて、⾊色々相談を受けた。 余り⻑⾧長くは働けないであろう。⽒氏は、⻑⾧長年年市に奉職して貯めた⾦金金で株券を買い、皆失敗して終ったと⾔言う。 何と⾔言う⾺馬⿅鹿鹿らしいことであろう。経済界の様⼦子が解りもしない癖に株券を買うなんて、本当に愚かなこ とをしたものである。⽒氏が健康失っているのは、全く⾦金金の⼼心配からであろう。愚かなる者よと、主は呼び 給うであろう。此の途を取って、多くの⼈人が失敗したのである。三郎郎君帰宅宅。 ⼀一⽉月五⽇日 ⼟土 晴 労働紹介員と保険組合の職員と、都合⼗十⼈人が六六甲に登⼭山した。何時も正⽉月三が⽇日の中に登⼭山するのである が、本年年は奈奈良良⾏行行きの為め延期となった。毎年年の登⼭山⼝口は南からであるに、本年年は有⾺馬電鉄を利利⽤用して、 六六甲北北⼝口から登り、南に越えて帰った。頂上では、雪の芝⼭山を亜釦引板に乗ってすべった。実に愉快で堪 らない。⼜又登って遊び度度くある。 ⼀一⽉月六六⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教を井上⽒氏が述べ、夜は賀川先⽣生司式に依り、⼩小⼭山威郎郎君と⽇日⽐比⽣生清⼋八君とが受洗した。先⽣生は、 簡単にテサロニケの終わりに就いて語り、残りの時間で、⾃自分が親⼼心と題して語った。先⽣生は⼜又、雲の柱 に六六⼗十⾴頁ばかり書けと⾔言われる。⼀一昨年年も同様の勧告があったにも拘らず書かなかったが、今年年は書いて みようと思う。 ⼀一⽉月七⽇日 ⽉月 晴 雲の柱に書く可く、イエス団の昔を追想するが、仕事が多忙でとても書けそうもない。然し、努⼒力力して書 く事にしよう。⾃自分としては、嘗て原稿なるものを書いたことがないので、何となく気後れがして仕⽅方が ない。 ⼀一⽉月⼋八⽇日 ⽕火 晴 美邦が段々と美しく可愛くなる。⾁肉付がよくなり、⽪皮膚の⾊色がよくなり、頭脳が益々発達し、⽬目がしっか りとはっきりして来る。⾒見見れば⾒見見るほど、可愛くなる。彼の為によく勉強しよう。彼を善く教育する為に、 最善を尽くさなければ済まない。天の⽗父は、⼈人間を⽴立立派にお創りになったと思う。眼の位置といい、⿐鼻の それといい、⼝口にしても⽿耳にしても、現在の位置を変更更して他に譲る処がない。ああ奇しきかな、妙なる かな。 ⼀一⽉月九⽇日 ⽔水 晴 祈祷会に出掛けた処へ、義男兄が来訪され、教会を⽋欠席して懇談した。茂兄の就職も近く決定しそうであ るし、皆が元気である事を聞いて感謝である。唯、お⺟母さん姉さんの間が円満にないことが遺憾である。 ⼀一⽉月⼗十⽇日 ⽊木 晴 井上増吉兄の仕事が決定して、今⽇日から採⽤用になった。これで兄の為に安⼼心した。⽇日給弐円五⼗十銭也であ る。市としてはよく給料料を出して呉れた。之で彼に嫁の⼼心配が残るだけである。 ⼀一⽉月⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴 職業紹介委員会に出席した。問題は失業救済事業に使役した⼈人夫の解雇⽅方法であった。その結果は、扶養 者の少なくないものから順次解雇する事となった。中⼭山陽⼦子の葬式を営んだ。⽣生後⼆二⼗十⽇日にして此の世に サヨウナラした⼀一ヶ⽉月の早産児であって、寒さが死の原因となったのであろう。おしい事をした。中⼭山兄 のために祈った。聖霊、彼を慰め給はん事を。 ⼀一⽉月⼗十⼆二⽇日 ⼟土 晴 四五⽇日暖かくなった。春の様である。今に⼜又、寒気は増すのであろう。何にしても善き⽇日は有難く結構で ある。気候の如何に依って、⼈人は⻑⾧長命もすれば短命にもなる。殊に⾝身体の弱いものに於いては、最もヒド イ⼈人が会う毎に、天気のよしあしを挨拶にする筈である。何でもない⾔言葉葉の中に、深い意味がある。 ⼀一⽉月⼗十三⽇日 ⽇日 晴 朝は井上⽒氏が述べ、⼣夕は⾃自分が述べた。三ヶ⽉月ぶりで、神⼾戸消費組合で説教した。 ⼀一⽉月⼗十四⽇日 ⽉月 ⾬雨後晴 神⼾戸市内の基督教会員の親睦会が、会費⼀一円也で、⼤大丸⾷食堂で開催になり、かかる席上に嘗て⼀一度度も出席 したことのない⾃自分が、井上⽒氏の勧めに依り参会した。別に何の感じも起こらなかった。 ⼀一⽉月⼗十五⽇日 ⽕火 晴 海員液済会病院に養⽣生中の、絹井喜⼀一郎郎⽒氏を⾒見見舞うた。⽒氏は余名薄くある様に⾒見見受けられた。気の毒であ る。聖書之研究を読んで、⽮矢張り内村先⽣生は偉いと思うた。 ⼀一⽉月⼗十六六⽇日 ⽔水 晴 佐藤兄の宅宅で⼣夕飯の御馳⾛走になり、引き続いて祈祷会を開いた。家庭集会であった。⻑⾧長く開いた事のない 集会であった。美容術の若若い婦⼈人が⼆二⼈人連れで、常に何かと世話をして呉れるのも妙である。マリヤは善 き⽅方を選んだ。然しマルタもあって、⼤大いに助けらるるを感謝する。 ⼀一⽉月⼗十七⽇日 ⽊木 晴 床次⽒氏の態度度はさっぱり煮え切切らない。国⺠民の何の期待も出来ない⼈人の様に思はるる。⽇日本に善き政治家 が⽣生まれないが、国⺠民全体が政治教育に乏しいからである。今少し訓練さるるならば、もっと善き政治家 が出るであろうに。 ⼀一⽉月⼗十⼋八⽇日 ⾦金金 晴 須磨発午前五時⼆二⼗十⼋八分で、岡⼭山⾏行行きの旅であった。⽤用は初枝結婚式に列列席する為であった。彼は、伝道 者⼭山崎千年年鶴と夫婦になった。初枝に取っては、分に余る善き⼈人である。彼の⽗父が、今⽇日尚⽣生存して居れ ば、⼭山崎君に嫁する事は不不可能であったであろう。両親はさぞ満⾜足する事であろう。墓場に報告に⾏行行かな ければなるまい。⽥田舎は、何時迄も変わらない処である。若若し変わるとすれば、それは発展にでなくして、 漸次寂れていくのである。 ⼀一⽉月⼗十九⽇日 ⼟土 晴 妹の産婆の仕事の多忙なのに驚いた。彼は殆ど夜寝ないと⾔言う。何と⾔言う仕事ぶりであろうか。彼は仕事 に忠実である。忠実なればこそ、今⽇日程の仕事があるのである。彼が過去に於いて真⾯面⽬目に働いた何より の賜物であり証拠である。何はともあれ、彼が社会の御⽤用を、より多く務むるの幸福を感謝する。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽇日 晴 帰神したが、少しく頭痛がするので教会を⽋欠席した。帰る途中、⾞車車中⾊色々考えた。武⽥田五郎郎兵衛⽒氏の初枝 に対する祝辞の内に、お美祢さんはもうキリスト教を中⽌止するかと幾度度思わされたか知れなかった、あれ 程の試みは耐えないだろうと思われたにも拘らず、またしても頭を上げ、その苦闘の中に、善き神の証⾔言 者を出し、ここに⼜又聖職者の妻に献げる⼀一⼈人を出した、と誠に名誉この上なき祝辞である。おばも、かか る⾔言葉葉を聞いて喜びに充ち、感謝に溢れたであろう。尚その余命を、誠に恩寵につつまれつつ、神の国に 迎えられるのであろう。彼は⼈人より⾒見見て苦労多き、気の毒な⼈人であった。然し、神様の⽅方から⾒見見て、実に 感謝の⼈人であった。彼の幸福は、神も⽕火も⽔水も之を奪う事が出来ない。ああ、おばのために感謝す。美邦 が、下痢痢の⽌止まずして、尚且つ便便の⾊色が悪いと聞いて⼼心配した。彼の病気は、⾃自分の病気以上に⼼心配でな らぬ。彼の笑顔は、平和楼の御馳⾛走に勝り、彼の肥満は百万円に勝る。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽉月 晴 河相君と⼭山内君と本多君との訪問があった。⽤用件は、消費組合の洗濯部の設置に就いてであった。河相・ ⼭山内の両兄は、今より洗濯屋となる訳である。彼の職業の為に祈る。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽕火 晴 海員液済会病院⼊入院の絹井喜⼀一郎郎⽒氏は、腹膜のために⽣生命絶望と医者から診断された。気の毒である。彼 の為に祈る。彼は、神⼾戸に来て以来、キリストの救いを知った。それ以外の事は凡て、彼には不不利利益であ った。然し、信仰を恵まれて天国に⾄至るは、物資に富んで地獄に⾏行行くに優る。 ⼀一⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽔水 晴 祈祷会に於いて、絹井⽒氏の為に祈った。美邦が少しく腸を害し、消化不不良良の便便をするには、かなり⼼心配す る。我が⾝身の病気に罹罹るよりも、⼦子供のそれが遙かに⼼心痛である。 ⼀一⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽊木 晴 村松浅四郎郎⽒氏の招待に依り、⼣夕飯の御馳⾛走になった。⽒氏の事業は、⽒氏の⼀一代限りであるかもしれない。⽒氏 ならでは出来ない仕事であって、神より特に命ぜられたる任務であろう。帰途、同伴の友にイエスの勝利利 を説いて、⽒氏の救いの実証を語った。キリストは⽮矢張り、極悪⼈人の救い主で在し給う。ハレルヤ ⼀一⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⾦金金 晴 絹井喜⼀一郎郎⽒氏を液済会病院に訪問した。兄弟は、刻々として天国に近づきつつある様に⾒見見える。兄弟は此 の世に⻑⾧長く残るよりも、神の国に⼊入る事が、⽗父の御旨であったのであろう。主は必ず御旨をなし給う。 ⼀一⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⼟土 後⾬雨 美邦の病気が、依然として⼼心配でならぬ。彼に若若し死が臨臨んだらと思う。その時、私は何うする。親を送 る以上に、⼦子を葬るは悲痛である。万⼀一彼が召さるるとなれば、それは⼜又、何ゆえに彼は召されるのであ るか。⽗父なる御神の御旨を知り度度い。主よ、願わくば、彼を健康に育つ事を許し給え。神⼾戸消費組合の総 代会で海員倶楽部に出席した。神⼾戸の組合は、益々栄えて⾏行行く。感謝である。 ⼀一⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽇日 晴 朝は⾃自分が、夜は賀川先⽣生が述べられた。集会に変わりはなかった。古着市の追加をやった。⻘青年年諸兄の 労を感謝す。 ⼀一⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 絹井兄の病気が益々重くなった。今⽇日は⼭山⼝口の兄さんの⽅方へ、危篤の電報を打って置いた。もう今⽇日明朝 が危機であろう。彼の為に祈る。 ⼀一⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽕火 晴 絹井君は午後四時三⼗十分永眠した。⼗十時には病院より教会に移送し、⼗十⼀一時に納棺式を⾏行行い、夜徹を⼗十⼀一 ⼈人の⻘青年年が守った。彼の最近は、物質的には誠に気の毒であった。極度度の貧乏と戦った。病気と失業と貧 乏と三つを⼀一度度に引き受けた。遂に倒れた。然し彼は、イエスの救いを信じて居た。物質には恵まれなか ったが、霊には却って富んでいたであろう。 ⼀一⽉月三⼗十⽇日 ⽔水 晴 故絹井喜⼀一郎郎の葬儀を執⾏行行した。⾃自分が司会して、賀川先⽣生が説教した。之で彼は満⾜足しているであろう。 ⼭山⼝口からも、⻑⾧長男の兄さんの奥さんと、次の兄さんと⼆二⼈人が、式に参列列になった。彼は春⽇日野⽕火葬場に於 いて、⼀一等にて⽕火葬になった。イエス団始まって嘗て例例のない事である。彼はラザロの如く死して恵まれ ている(葬礼代三⼗十六六円也)。 ⼀一⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 絹井喜⼀一郎郎妻の⾝身の振り⽅方に就いて相談を受け、協議の結果、神⼾戸孤児院にお世話になる事になった。絹 井⽒氏の葬儀料料⾦金金九⼗十七円也は、⼭山⼝口の兄さん達が⽀支払う事となった。⾹香料料⼆二⼗十円余と保険組合の給付⾦金金は、 全部細君に渡す事になった。之で少しく安⼼心した。吾妻学校講堂に於いて、貧⺠民慰安のため活動写真を写 した。家なき⼦子と題するもので良良い写真であった。⼊入場者約千⼆二三百名、何れも皆喜んでいた。僅かに四 ⼗十円で之程多数の者に満⾜足を与うるは、実に易易々たる事である。 ⼆二⽉月⼀一⽇日 ⾦金金 晴 喜⼀一郎郎⽒氏の夜徹で少しく⾵風邪を引き、⼜又後の始末や思案で少々気分が悪く、ゆっくり⼀一⽇日休めば回復復する ものを。 ⼆二⽉月⼆二⽇日 ⼟土 晴 貴衆両院ともに政府は⼈人気を失いつつある。全く無能呼ばわりせられつつあるが、それでもどうにか議会 だけは通過するのではないであろうか。政治家とは政権かじりつき屋である。⼀一度度喰らいついたら最後、 だにの如くである。然し、時は必ず裁くであろう。 ⼆二⽉月三⽇日 ⽇日 晴 朝は井上君が罪に就いて述べ、夜は賀川先⽣生が神の摂理理に関して話された。最後に、本年年はイエス団の新 築をしたいとの話であった。全く同感で、家なくしては仕事が出来ない。新川にイエス団を設けて⼆二⼗十年年 である。もう会館を設けても善い時分である。神様は適当に導き給うであろう。 ⼆二⽉月四⽇日 ⽉月 晴 河⽥田清治⽒氏より、イエス団に献⾦金金弐壱拾拾円を送付して来た。弟喜⼀一郎郎⽒氏の世話で幾らかの犠牲を覚悟して いたものを、却って寄付された。これを以ってイエス団の建築基⾦金金に充てる事にしたい。 ⼆二⽉月五⽇日 ⽕火 晴 最近、強盗の増加した事実は、例例のないことである。殊に、説教強盗なんか嘗て聞いたことのないもので ある。⼜又、襲う家も、従来のものとはその質を異異にしていて、婦⼈人名⼠士や紳⼠士を⽬目がけている。誠に危険 な世の中になりつつある。時は⽂文明を誇り、その取締りの警察と来ては、世界⼀一を誇る⽇日本の、その⼜又⼀一 番の都の東京や⼤大阪に於いてである。東京の⻘青年年団七万⼈人は、之が防衛に当たるとは、何という⽪皮⾁肉なの であろう。 ⼆二⽉月六六⽇日 ⽔水 晴 イエス団の親睦会である。⼣夕⾷食を偕に御馳⾛走になった。⽜牛⾁肉のすき焼きで、⻘青年年諸君、⼤大いに意を得た事 である。時は議会中である。⺠民政党は、総括的不不信任案を上程すると⾔言う。どんなことになることやらさ っぱり解らない。⽇日⽀支の交渉は、⽢甘く運びつつあると⾔言うが、⽇日本の外交は確かに失敗であった。⽀支那の 国⺠民政府を認めない等、考えていた事が間違っている。孫⽂文は失せても、三⺠民主義は⽀支那を⽀支配する。之 が政府を認めない訳には断じてゆかないと思う。 ⼆二⽉月七⽇日 ⽊木 晴 今⽇日は美那の誕⽣生より三ヶ⽉月である。最近余り肥らなかったが、ずっと確りして来た。⼦子を育つるは楽し みであると⾔言うが、成程と思わされる。美邦の顔を⾒見見るは、何よりの慰めである。美邦の教育の⼤大切切なる を思うては、毎⽇日読書する。⾚赤ん坊は、卵卵より分娩までに⼗十億倍し、出世後は丈において三倍、体重が⼆二 ⼗十倍、筋⾁肉が四⼗十倍、⼤大脳が三倍に過ぎないと⾔言う。体内⽣生活が僅かに九ヶ⽉月で、体外約五⼗十年年であるが、 その成⻑⾧長の割から⾔言えば、体内の期間が遙かに⻑⾧長かったことになる。 ⼆二⽉月⼋八⽇日 ⾦金金 晴 五⼗十年年来ない⽔水飢饉だと⾔言う。表⽇日本全体が、⽔水に乏しくて甚だしい。処に於いては、バケツ⼀一杯の⽔水が ⼀一銭で売買され、九州の或る地⽅方では、湯屋が休業し、徳⼭山では軍艦への給⽔水不不能となったと、新聞は報 じている。夏の⽔水不不⾜足はよく聞くが、冬の不不⾜足は余り聞かざる処である。 ⼆二⽉月九⽇日 ⼟土 晴 ⺠民政党は、内閣の総括的不不信任案を上程すると⾔言う。⽥田中総理理は国⺠民全体から信⽤用されて居らない。⽇日本 国⺠民は、凡て不不信任であると⾔言うも過⾔言ではあるまい。然し、採決では政友会が多数占めて居り、床次新 党が政府の味⽅方である以上、不不信任案は通過しないに定まっている。敏⼦子が渡辺清春⽒氏を紹介し、同伴で 来訪し、家の客となった。初対⾯面での印象では、極めて穏やかで善い⼈人の様である。⻘青年年ではあるが、⼥女女 性的なほどやさしい。 ⼆二⽉月⼗十⽇日 ⽇日 晴 朝の説教は、⼗十字架の精神と題して述べた。夜は、⿊黒⽥田⽒氏の救いの意義に就いての説明があった。朝鮮か ら平井⽒氏が来訪し、急に三名の客で、家の中は⼤大変な賑やかさである。客に対し、御馳⾛走の意味で鶏を⼀一 ⽻羽料料理理した。 ⼆二⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽉月 晴 紀元節で、⽇日曜⽇日以外の休みで何だか⼼心から休息し得る。不不信任案は遂に否決になった。予想通りであっ て、敢えて不不思議とも思わないが、浜⼝口⺠民政党総裁は、国⺠民の⾔言わんとする意を述べた不不信任案は否決に なっても、議論論に於いては、政府側は常に圧倒され勝ちである。渡辺⽒氏及び敏⼦子を鉄拐⼭山に案内した。⼆二 ⼈人は近江に向かって帰った。岸部⽒氏と近地⽒氏と両名から、美那に対するお祝品を貰った。 ⼆二⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽕火 晴⼀一時雪 久し振りで、紀元節の御下賜⾦金金の分配にあずかった。イエス団は、何年年間も忘れられていたが、本年年は何 を考えたか分配せられた。ロスアンゼルスに帰る⾼高橋を通じて、お⼟土産物の書物⼆二⼗十円を、イエスの友会 の⼈人達に送付した。 ⼆二⽉月⼗十三⽇日 ⽔水 晴 千狩り⽔水源地に出張し、供給⼈人夫に関する打合せをなし、終⽇日を費やした。ユキ⼦子が病み且つ美邦の世話 で疲労しきっているので、⽌止むを得ず祈祷会を⽋欠席した。毎年年紀元節前後は寒いのであるが、今年年は⼀一層 寒い様に思われる。平井⽒氏は平城より⼩小樽に転勤になるため、午後⼋八時三⼗十⼋八分の列列⾞車車で出発した。 ⼆二⽉月⼗十四⽇日 ⽊木 晴 美邦の⽣生後百⽇日である。体重⼀一貫三百三⼗十匁に達した。⼀一⽉月は消化不不良良で余り発育しなかったが、健康回 復復してグングン⼤大きくなりだした。この調⼦子で育てたいものである。今⽇日まで、⽗父なる御神の恵みと守り に依り⽣生育した事を、⼼心から感謝を献げ奉る。何うにかして、彼を⽴立立派なものに教育しなけらばならぬと の⼀一念念が、⼼心から⼨寸時も去らない。唯々彼の親であるのみでなくして、実に善き親たらん事を望む。 ⼆二⽉月⼗十五⽇日 ⾦金金 晴 絹井喜⼀一郎郎⽒氏の妻君の置き場に困ったが、神⼾戸孤児院に定ったので感謝する。⼦子供講座四冊を読んで、実 に有益であった事を嬉しく思う。 ⼆二⽉月⼗十六六⽇日 ⼟土 晴 ⾃自分の将来を、繰り返しては考えて⾒見見る。何うした仕事をするかと、今更更の如くにそれを感ずる。伝道を ウンとやりたくもあり、⼜又不不安にも思う。では、現在の職に終⽣生を打ち込むや否やに就いても、何だか決 ⼼心しかねる或るものがある。⽗父なる御神の導きを祈ろう。 ⼆二⽉月⼗十七⽇日 ⽇日 晴 礼拝説教を井上⽒氏に述べて貰った。⽇日中は、湯殿の清潔と、煙突とボイラーの清掃をし、夜は⾃自分が説教 した。 ⼆二⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 絹井定⼦子は、神⼾戸孤児院へは⾏行行かないと⾔言う。何か働いて⾃自活の道を⽴立立てると⾔言う。彼が病気するのが⽬目 の前に⾒見見ゆる様であって、何だか不不安でならぬ。 ⼆二⽉月⼗十九⽇日 ⽕火 晴 聖書之研究を読んで、⼤大いに考えさせられた。如何にもして、伝道しなければならぬ事を、痛切切に感じた。 或る確信を得た。よし⼀一層の努⼒力力を以って、神の国の事業のため、死を決して働かなくてはならぬ。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽔水 晴 少数の集会であったが、静かなる落落ち着いた祈り会であった。誠に祈り会らしい祈り会であった。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 求⼈人者懇談会を、神⼾戸商⼯工会議所に於いて開き、⾃自分も出席した。詰まらない会合だと思った。夜は、保 険組合の打ち合わせ会に出席した。毎晩、美邦を湯に⼊入れるのであるが、今⽇日ばかりは⾃自分が不不在のため に、ユキ⼦子が⼊入浴さした。宝塚の歌劇場で、道具⽅方をピストルで狙撃した男があった。劇場外でも⼆二⼈人を 撃ち、⼀一⼈人は福来博⼠士の奥さんであった。⼆二名は重症で、⼀一名は死亡し、⾃自分もまたピストルで⾃自殺した。 それが、古⽊木⽶米三郎郎(仮名)であった。実に驚いた。彼が⼆二年年半前に僕を訪れて、ピス健以上の犯罪に依り、 世をしてアアと⾔言わせ、⼰己の名を天下に残したい、と語っていたものを、⾃自分は漸くなだめ、反省省を促し て、暫しは真⾯面⽬目になっていたものを、何と⾔言う気狂いかたであろう。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⾦金金 晴 全く春の陽気になって仕舞った。もう寒いとは思えなくなった。然し、今⼀一度度寒さが訪れるであろう。こ んなに暖かいと、植物は時を忘れて芽を出し、花を咲かせるかも知れない。今⽇日も⼜又昨⽇日に引き続き、求 ⼈人者懇談会が催うされるので出席した。余り善い会合でもなかったが、昨⽇日よりは勝っている。 ⼆二⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⼟土 晴 明⽇日の説教の準備をしなければならぬと、⼟土曜⽇日毎に思いつつ、準備の出来た事がない。何かの⽤用事に妨 げられるのである。別に説教にならなくとも、⾃自分の⽣生涯を通じて、それが⼀一つの説教となれば沢⼭山であ る。 ⼆二⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽇日 晴 朝は⿊黒⽥田⽒氏が、夜は⾃自分が説教した。朝⼣夕ともに普通より出席者が多かった。⽇日中は、庭の⽚片付けと、⾵風 呂呂釜のたきつけを割るのに⼀一⾻骨折りであった。 ⼆二⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽉月 晴 貴族院では、決議案が⼆二⼗十三票の⼤大差で通過した。今⽇日は委譲問題で⼜又騒がしい。⽥田中の⾸首相も御⼼心配な ことであろう。国⺠民からは信⽤用を失い、新聞は筆を揃えて攻撃し、貴衆両院とも反対者を多数に持つ。こ れ程嫌われても、尚政権にはかじりついていたいものかしらん。神⼾戸の市会も⼟土曜⽇日から始まり、百五⼗十 万円の予算超過で、増税せなければならぬとは、市⻑⾧長も説明する迄に随分苦⼼心したのであろう。議員は何 う考えるか、何う決議するか知らないが、本年年は可決するであろう。ロスアンゼルスから、三⼗十⼆二円⼋八⼗十 七銭送⾦金金して来た。これで⼀一ヶ⽉月間は助かる。 ⼆二⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽕火 晴 平井⽒氏が、昨⽇日から我が家の客となった。北北海道⾏行行きは中⽌止になるらしい。美邦の笑顔は、神の栄えであ る。その寝顔は、天使の如くである。眠っても醒めても、彼の姿は神聖である。彼に依って、聖い神を⽰示 される。⾃自分が彼に教えるよりも、彼に依って知る事が遙かに多いであろう。 ⼆二⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽔水 曇 故絹井喜⼀一郎郎兄弟の追悼会を開いた。彼は、此の世の仕事は、何をさしても不不調法であった。従って、⾦金金 儲けは下⼿手で、貧乏で悩み通した。其の上、病気に襲われて、貧と病とに遂に倒れた。誠に気の毒な⼀一⽣生 であった。然し彼は、罪を悔い改むるには⼿手際よく⽴立立派に成功した。⽇日頃からの⼤大酒をも、ただ⼀一発で之 を廃酒した。此の世の⽣生活に不不向きであっただけ、彼は天国に⼊入るには適当した性格を持っていた。第⼀一 彼は、欲がなさ過ぎたが、之は天国に⼊入る何等の障害ともならない。兄弟は、此の世に失敗して、神の国 に成功したのであると述べた。 ⼆二⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽊木 ⾬雨 久し振りの⾬雨である。余りに⻑⾧長い間降降⾬雨がなかったので、野菜物は何倍もの暴暴騰をしている。ネギ⼀一本が ⼀一銭もしている。⼜又建物は乾燥しきって、到る所に⼤大⽕火が起こりつつある。誠に喜ばしい降降⾬雨である。 三⽉月⼀一⽇日 ⾦金金 曇⼩小⾬雨 よく流流⾏行行した強盗も陰をひそめた。第⼀一の説教強盗も逮捕されたし、⼀一先ず安⼼心の域に達した。ピストル と剣とを以って⾦金金を奪わんとする強盗は取り締まりも出来ようが、陸陸軍と海軍とを以って世界の弱い国々 を、或いは圧迫し、或いは脅威するものをば、容易易に取り締まり難い。然れども、武⼒力力に依りて⽴立立つもの の帰する処は、強盗と同⼀一の運命にあるには⾮非ざるや。 三⽉月⼆二⽇日 ⼟土 晴 昨⽇日から奈奈良良の⽔水取りとか、今⽇日から⼜又急に寒くなった。今暫らく寒いのであろう。今⽇日は宵節句句である が、余り寒いので、桃の節句句の感は⼀一つも興らない。 三⽉月三⽇日 ⽇日 晴 朝の説教は⿊黒⽥田⽒氏が、夜の説教は井上⽒氏が述べた。今⽇日の休⽇日も、庭先の掃除から湯釜のたきつけを割る 事など、終⽇日仕事はきつかった。然し、働く事が⼤大いなる休息である。 ⼆二⽉月四⽇日 ⽉月 曇 宗教法案は終に握り潰しとなるらしい。法律律は元来宗教から⽣生まれたものである。それが⼜又、宗教を取り 締まる⽅方の出来る事は、何という⽭矛盾したことであろう。之も、迷信を以って宗教として宣伝するものが あるが故に、かかる法案を提出するに⾄至ったのであろう。兎に⾓角、此の法案が握り潰しとなった事は、現 在の宗教に取っては幸せであった。 三⽉月五⽇日 ⽕火 曇 今⽇日は事務員の犯罪⾏行行為を発⾒見見した。困った事をするものである。僅かの⾦金金銭に⽬目が暮れて、遂に罪⼈人と なる。何と情けない事であろう。此の始末をつける事が、⼜又⼀一問題である。 三⽉月六六⽇日 ⽔水 晴 ⼭山本宣治代議⼠士が、⿊黒⽥田久保⼆二なる暴暴漢に刺刺殺された。思想から来た反動であろうが、無茶茶な事をするも のである。狂⽝犬にかまれた様な⾺馬⿅鹿鹿らしさである。⼭山本⽒氏に対しては、誠に気の毒千万である。世には⿊黒 ⽥田の如き⼈人物が、他にもどれ程多数にあるかも知れない。何と⾔言う暗い世界であろう。升崎先⽣生の経験談 があった。先⽣生は主エスの⼈人である。彼こそ真にエスの弟⼦子であろう。先⽣生の信仰と実⾏行行とは泣かされた。 朝⽅方に、殺⼈人⻤⿁鬼の⿊黒⽥田に関する新聞を読み、⼣夕には、主エスに依って新しく⽣生ける恵まれたる奇跡を⾒見見た。 明るかる可き朝、暗い⼼心持ちになり、暗き夜は、明るい⼼心持ちを与えられた。美邦の体重、⼀一貫四百三⼗十 匁に達した。感謝である。 三⽉月七⽇日 ⽊木 晴 ⽇日中は真の春になった。⼭山の⽅方には、⼀一⾯面かすみがかかった。⽊木も草も甦る。貧乏⼈人にも春は訪れるか。 貧⺠民の失業者にも、前科者にも、⼀一度度春を恵ませ、新しい希望を与えさせ給へ。 三⽉月⼋八⽇日 ⾦金金 晴 労働者扶助法案が委員会で可決した。⽇日本の⽇日傭労働者を保護する法律律が出来る事は結構であるが、今少 し不不徹底である。神⼾戸の労働保険をして模範的なものとし、之に依る善き貢献をしたいものである。 三⽉月九⽇日 ⼟土 晴 美邦の養育、此の世にこんな楽しみものは、⼜又とあるまい。彼は⽇日々成⻑⾧長して⾏行行く。彼の為に、⾃自分⾃自ら が⼤大いに成⻑⾧長しなければ、彼に対する我の責任が果たされない。 三⽉月⼗十⽇日 ⽇日 晴 朝は⾃自分が、ローマ書四章の幸福に就いて述べ、夜は井上⽒氏が、偉⼈人と死に関して話した。朝⼣夕共、別に 変わりはなかった。この頃珍しく、毎⽇日曜⽇日の礼拝に⽋欠かさず出席する⼈人で、県⽴立立⼯工業教授がある。先⽣生 は久保⽥田と聞くが、何か感ずる処あって、吾が群れに来ているのであろう。今⽇日の休⽇日も、消費組合で奉 仕に関する説教をし、午後は庭の⽊木の植え替えで労働した。 三⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽉月 曇少し⾬雨 四⽉月上旬には、ユキ⼦子と美邦とを同道しで、岡⼭山⾏行行きの予定であったが、都合あって中⽌止した。若若し許さ れるなれば、秋に往っても善いであろう。春⽇日野紹介所で、各所の予算分割に就いて協議した。 三⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽕火 晴 吉本(仮名)が、通称勇に凶器を以って顔⾯面に負傷させられた。何れ原因は博突からであろう。時節柄でも あろうが、三宮署から巡査刑事が⼋八⼈人も出張しての取調べはものものしかった。井上のおっさんの⾝身上に 関して、植⽥田のおばさんから相談を受けた。おばさんは、⽮矢張り親切切で善い点がある。貧しい無知なので あるが、親切切がある。其の点、僕よりは偉い⼈人である。 三⽉月⼗十三⽇日 ⽔水 晴 少数六六⼈人が集まって、祈祷会を開いた。誠に静かなる祈り会であった。⼈人が少ないだけ、それだけ⼼心が散 らなくて、⼼心ゆく祈りが出来る。平川兄が、岡⼭山へ職を求めに出発した。兄にも適当な職業がなくて気の 毒である。 三⽉月⼗十四⽇日 ⽊木 晴 美邦が⾵風邪を引いて少し熱が出た。彼に⾵風邪を引かせない様にと、余程注意していたのであったが、未だ 注意が⾜足りなかった。可哀想な事をした。美邦に対して相済まない。以後⼤大いに注意しよう。 三⽉月⼗十五⽇日 ⾦金金 晴 美邦の⾵風邪が⼼心配で堪らぬ。ユキ⼦子は⼼心配して迷っている。吸⼊入器を買って来て之を試み、芝さんに診察 して貰った。⼤大した事はなさそうであるが、近所にハシカが流流⾏行行していて、これに犯されているものが多 数にあるので、何だか不不安である。彼を保護するに、我努⼒力力のみでは⾜足りない。⽗父のお助けを祈り求めた。 三⽉月⼗十六六⽇日 ⼟土 晴 ⼭山本代議⼠士の葬儀に当たり、その弔辞を述ぶる者をして、或いは中⽌止を命じ、または検束した。酷い葬式 もあったものである。政府の総予算案は、貴族院を通過した。⽥田中⾸首相⼤大いに得意がっている。俺は正し い道、良良⼼心に恥じざる⾏行行動を取っていると誇っているが、世間では彼は不不死⾝身だと⾔言う。美邦が病気は余 程安全の域に達した。感謝しなければならぬ。 三⽉月⼗十七⽇日 ⽇日 晴 朝は井上⽒氏が、夜は⾃自分が説教した。出席者に変わりなし。終⽇日、庭の⼿手⼊入れをして疲労した。 三⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 職業紹介所各所予算分割の為め、⽊木村社会課⻑⾧長を訪問し、課⻑⾧長の意⾒見見を伺わんと各所⻑⾧長協議し、課⻑⾧長宅宅を 訪れたけれども、不不在にして要領領を得ず帰宅宅す。市に奉職する事⼋八年年六六ヶ⽉月、その間社会課⻑⾧長⾃自宅宅を訪問 したる事、今回の他に⼀一回もなし。 三⽉月⼗十九⽇日 ⽕火 晴⼩小⾬雨 朝鮮より社会事業視察の為に⼗十⼆二⼈人、団体を組織して来神し、⾃自分は此れ等の⼈人達を案内すべく、紹介所、 移⺠民収容所、共同宿泊所、葺合新川の貧⺠民窟等案内した。視察団⽈曰く、⼤大阪、京都、東京、横浜等各地を 歴訪したれども、神⼾戸程優待したるところなしとて、⼀一同満⾜足し、感謝の辞を述べた。 三⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽔水 晴 今議会提案中の労働扶助法案に就いて、神⼾戸労働保険組合本部に於いて、三時間に渡り研究した。 三⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 美邦の⾵風邪全快したれば、久し振りにて⼊入浴せしめ、且つ体重を計りたるところ、⼀一貫五百三⼗十匁あり。 ⼗十五⽇日間に百匁の増があり、病中にも拘らず、よく太りたるを感謝す。茂⽒氏の訪問ありたり。 三⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⾦金金 晴 福岡県⽅方⾯面委員の労働紹介所視察ありたり。⾼高⼭山君(仮名)、病気に罹罹り、病床より使いを寄越し、是⾮非⼀一 度度来訪して呉れとの事なれば、午後四時五⼗十分訪問す。君は頭脳を犯され、全くの精神病者となり居れり。 視⼒力力は全然失い、⾷食欲なく、唯⽔水と煙草とのみを要求す。彼の病原は、余りに急激に勉強しようと努⼒力力し たる為めならん。彼の快復復の為に祈る。 三⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⼟土 晴 先⽇日中から来客、敏⼦子殿に平井の御夫婦、三郎郎君、何れも本⽇日、近江に向かって出発した。 三⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽇日 朝は、最近の所感と題して⾃自分が述べ、夜は、⾵風邪引きで気分悪しき故に⽋欠席す。井上増吉⽒氏の説教があ った筈である。気分の勝れぬにも拘らず、終⽇日美邦の守役を務めて、妻の⾝身体に少しく休息を与えた。 三⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽉月 曇 秀吉や信⻑⾧長などの歴史を読んで楽しむ。彼等が戦争をした代わりに、⼆二宮先⽣生の如く、農業にあれだけの ⼼心⾎血を注いで呉れて居たら、⽇日本の農⺠民は今⽇日程困らずに済んだものを。 三⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⽕火 曇⾬雨 帝国第五⼗十四議会は、昨⽇日を以って終わった。⽥田中⾸首相は、全⾝身傷病だらけだの、不不死⿃鳥だの無能だのと、 議会でも新聞雑誌でも、皆が⼝口を揃えて悪⼝口を⾔言われながら、不不信任案も否決になり、貴族院での決議案 にも、何等悔ゆる処がなかったか、依然として総理理⼤大⾂臣としておさまっている。総理理⼤大⾂臣といえば、⾮非常 なる名誉の如く考えられるが、⽥田中⼤大⾂臣の如く悪く⾔言われるのは、恥辱でなくして何んぞ。⺠民政党も倒閣 運動には随分努⼒力力した様であるが、その効果は⾒見見えなかった。然し、政府案の重要事項は衆議院で通過し たのみで、貴族院では引っかかっているのだから、浜⼝口総裁も幾らか⼼心慰むる処があるだろう。 三⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽔水 ⾬雨後曇 ⽇日⽀支交渉は三ヶ⽉月にわたってもめ続けていたが、今度度こそは愈々調印の運びとなり、⽇日⽀支の親善が計られ ると⾔言う。⽇日本が譲歩したからであるが、悪い事をする為ではなく、互いの親善を計らんが為には、少し は損も忍ばなくては調和が取れまい。少数の祈祷会であった。河相、堀井の両兄が所感を述べた。 三⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽊木 曇 ⽇日⽀支間に正式の調印が終わった。済南事件は、⽀支那のみが責任を負うべきであるまい。⽇日本が出兵したか らあの不不幸を⾒見見たと、多くの⼈人々は解しているではないか。それを何時まででも同じ事を繰り返して、責 任を⽀支那に負わせようとするのは、⽇日本が無理理である。五⽉月下旬には、⽀支那在留留の⽇日本兵を撤兵すると⾔言 う。そうするのが当然である。徳さんから、六六⼗十六六円六六⼗十六六銭送⾦金金して来た。感謝である。 三⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⾦金金 晴 ⾃自分は、此の仕事の為には⽣生命を捧げるも可なりと、決⼼心する程の職業を持たない。現在の職業も、何時 までこれを継続すべきであるかが、はっきりしない。⾃自分の将来も余り⻑⾧長くはない。⼤大奮闘しなくてはな らぬが、何の⽅方⾯面にして善いかが明瞭でない。よく考え、よく祈らなくてはならない。 三⽉月三⼗十⽇日 ⼟土 曇 野に⼭山に春が来た。枯れ⽊木、枯れ草も、⻘青芽を出しつつある。早きは花咲き、⻘青葉葉出盛る。かすみかかり、 ⿃鳥唄う春にも、⼈人の⼼心は依然暗く、新しき希望もなく、喜びもない。何故、⼈人間に春が来ないか。罪に死 せる⼈人よ、枯れ草甦る。此の春に、汝ばかりは眠り居るぞ。 三⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⽇日 曇後⾬雨 朝は井上⽒氏が、夜は⾃自分が復復活に就いて述べた。復復活の朝も、美坊はウンウンウンと繰り返しつつ、三拍 ⼦子で以って、独り礼拝す。⽯石炭⼀一千五⼗十⽄斤を買い⼊入れた。之で⼀一年年⾵風呂呂が沸く。 * * * * 「武内勝⽇日記 A」は、愈々次回で終わる。初めにも記したように、戦前の⽇日記はこれのみであるが、よく もこれが残されていたものだと、書き写しながら感慨深いものがある。 (2009年年9⽉月16⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月10⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(55) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 A」(8) 昭和2年年8⽉月〜~昭和4年年6⽉月 賀川豊彦献⾝身100年年記念念事業のひとつとして、武内勝⼝口述「賀川豊彦とそのボランティア」(1973 年年)の「新版」が本年年(2009年年)11⽉月末に、神⼾戸新聞総合出版センターから刊⾏行行される。 この⼝口述の中にも、勝の⽗父「武内⽤用三」のことが述べられているが、賀川豊彦にこの⽗父が⽬目を留留めるこ とがなかったら、勝のところを賀川も訪ねることもなかったかもしれない。 今回の⽇日記にも、武内のところへの⽗父の来訪のことが書かれている。 残されていた武内勝所蔵アルバムの中に、⽗父の写真と思われるものがあっ た。添付のものが多分、「⽗父・⽤用三と勝」ではないかと思われる。 * * * * 昭和四年年四⽉月〜~六六⽉月 四⽉月⼀一⽇日 ⽉月 晴 昭和四年年も四分の⼀一は過ぎ去った。失業救済事業も⼀一先ず⽚片付いた。寺川、 後藤、胸永の⾸首を継ぎ得たは仕合せであった。⼀一⼈人の職を⾒見見つけるは容易易でない。 四⽉月⼆二⽇日 ⽕火 晴 本年年度度から、⼟土⽊木課⼈人夫賃⾦金金⼀一⽇日⼀一銭を、電気局のそれを五銭と増額し得たは、労働者の為に結構であっ た。彼等の賃⾦金金を⼀一銭値上げするは、⾃自分の給料料五円値上げよりも、より以上に嬉しかった。⼭山内君、職 業問題で相談に来訪された。君の如く、職業で選ぶものは、どれ程多数にあるかも知れない。 四⽉月三⽇日 ⽔水 晴 今⽇日は祭⽇日であるが、失業救済事業報告を作るため出勤した。余り多忙で何も出来ない。殊に読書の時間 が少なくなった。⾃自分に於いては、読むことよりも、働く事の⽅方が神の聖旨なのであろう。 四⽉月四⽇日 ⽊木 晴 好い天候になった。何んなに喜んでいいであろうか。天地ともに喜びに充ち満ちている。此の世界さなが ら天国の様である。若若し社会問題を考える事なくして、天を仰ぎ、⼭山を眺め、⿃鳥のさえずる声を聞いてい れば、此の世に何処が悪いのかと⾔言いたくなる。何はともあれ、如何なる悪魔も、伸び上がる草⽊木の新芽 を⽌止むる事は不不可能であろう。晴れ渡る美しい空を汚す事も出来ないであろう。ああ、私の⽣生きる世界は、 ⽮矢張り悪魔の世界でない。電気局の朽⽊木主事より電話があり、先⽇日供給⼈人夫賃⾦金金⼀一⼈人百の単価、⾦金金⼀一円三 ⼗十五銭と約束したが、局⻑⾧長が承知しないから、⽮矢張り⼀一円三⼗十銭にしろと申し込んできた。⾃自分は⼜又、局 に出かけて経理理課⻑⾧長に交渉し、課⻑⾧長は更更に局⻑⾧長に相談した。その間、⾃自分は祈った。局⻑⾧長が五銭の値上げ を承諾諾いたします様にと。神様、貧しい者を憐憐れむ意味に於きまして、労働賃⾦金金五銭の値上げを何うぞ局 ⻑⾧長が承諾諾いたします様にと。暫らくして、課⻑⾧長は局⻑⾧長室より帰って来た。そうして遂に値上げを承知した。 ⾃自分は帰途、感謝した。これで本年年⼀一ヵ年年、電気局で働く⼈人夫が⼆二千円の増収となる訳である。 四⽉月五⽇日 ⾦金金 晴 ⼤大掃除で、⼀一⽇日の晴暇を貰って休み、家の掃除で終⽇日働いた。⾝身体の全体が痛む。⻑⾧長い間、労働を休んで いる罰であろう。⼒力力の⼊入る仕事や運動も怠ってはならないと、つくづく感じた。 四⽉月六六⽇日 ⼟土 晴後⾬雨 庶務規定改正案が、職業紹介所事務打合せで可決した。⾃自分が⾸首謀者であって、此の案⽂文は成⽴立立させたか った。市の紹介所の為に必要なる事であった。 四⽉月七⽇日 ⽇日 曇 朝は⿊黒⽥田牧師の説教があり、夜は賀川先⽣生の死の芸術と題しての説教があった。 四⽉月⼋八⽇日 ⽉月 ⼩小⾬雨 庶務規定改正に関する打合せに就き、中村、泰⼭山両⽒氏と⾃自分の三⼈人が、東部の紹介所に於いて協議した。 四⽉月九⽇日 ⽕火 ⾬雨後晴 神⼾戸労働保険組合理理事会が、平和楼に於いて開催になり、⾃自分も出席した。組合の⼀一ヵ年年の予算が四万円 とは、組合も発達したものである。此の組合を発達せしめる事に依って、神⼾戸の⽇日傭労働者の統制を計る ものとしたいものである。理理財に於いても、此の組合が存在する事により、労働者の不不安と苦痛とは余程 減ぜられていると思う。 四⽉月⼗十⽇日 ⽔水 晴時々曇 近江より、義男兄夫婦と久⼦子⽒氏親⼦子三⼈人連れの訪問があった。余り意外なる客で驚いた。兄の親⼦子共に健 在である事を喜んだ。互いに⼦子供の順調に発育しつつある事は、特に感謝しなくてはならない点である。 ⽇日中は、牧野⽒氏の⼀一家族の来客があり、⼤大⼊入り満員の⼀一⽇日であった。 四⽉月⼗十⼀一⽇日 ⽊木 晴 ⼩小阪⽒氏(仮名)が職業紹介所を辞職し、本⽇日⼭山⼝口県に向かって、兵庫駅を出発せられた。⽒氏は神⼾戸市紹介所 の最古参であって、⼀一番⻑⾧長い功労者であった。⽒氏は⽿耳を病み、殆ど不不具者となり、現職を辞するも、他の 何等の職にも従事し得ない失業者となるのである。⼜又⽒氏は九年年間就職したるも、その間貯蓄⾦金金も出来ず、 或いは幾らかの貯えは準備する考えでありしも、株の暴暴落落を銀⾏行行の破綻に依り全く無価値に等しいものと なり、故に⾦金金はなく職は失い、⾝身は不不具者となりと淋淋しく神⼾戸を去った。その姿の気の毒なのには、⼀一⾔言 も語り得なかった。美邦の体重⼀一貫六六百匁。芳夫の来訪あり。 四⽉月⼗十⼆二⽇日 ⾦金金 ⾬雨後晴 富⼠士野から、美邦の⾞車車を買う為とて⾦金金参拾拾円を、⾺馬場⽒氏に託して贈って来た。彼を⽴立立派な⼈人と教育し得る ことの出来る様に、彼の健康と教養との⼆二点に特に⼼心配する。 四⽉月⼗十三⽇日 ⼟土 晴 平井の愛ちゃんが、岡⼭山から出て来た。⻑⾧長く便便利利な都会⽣生活に馴れた者は、⽥田舎には⽌止まり得ないのであ ろう。暫らく我が家の客となるであろう。 四⽉月⼗十四⽇日 ⽇日 晴寒気強し 朝は⾃自分が、神の聖旨は成ると題して述べた。⼣夕拝は井上増吉⽒氏が、隣隣⼈人愛と⾔言う題で説教した。前⾸首相 若若槻礼次郎郎⽒氏の政談演説を聞きに、妙法寺川迄出掛けた。現政府案を攻撃するのみで、別に得る点はなか った。⾺馬場⽒氏を訪問して置いた。想像以上に健康であった。 四⽉月⼗十五⽇日 ⽉月 晴 昨今⽇日、桜⾒見見の客は⼤大変なものである。電⾞車車と⾔言う電⾞車車が皆満員で、すし詰めの盛況である。三郎郎君、急 に発熱し四⼗十⼀一度度五分に達したが、その原因は不不明である。ユキ⼦子は、乳がしこって困っている。⼈人間は ⽣生⾝身だと⾔言うが、何時誰が⼤大病になるかも知れない。我等の健康も⼜又、神の守護の内にあるものである。 我が⾝身の事が、我⾃自⾝身に不不明なのである。 四⽉月⼗十六六⽇日 ⽕火 晴 ⾺馬⿅鹿鹿に暖かくなって来た。春というよりも夏に近い天候である。三郎郎君の熱は、朝に下がって⼣夕に上がっ た。⼜又三⼗十九度度を過ぎたと⾔言う。ユキ⼦子の乳のしこりも、少しましだと聞いて安⼼心した。乳が出なくなっ ては、美邦の健康が保たれない。 四⽉月⼗十七⽇日 ⽔水 晴 またまたユキ⼦子は乳で、三郎郎君は熱で、⼆二⼈人ともに困って居り、愛ちゃんは皆への奉公で、忙しく働いて 疲れている。お気の毒である。祈祷会の出席を中⽌止して、家での仕事に時を⽤用いた。⽗父が⼤大阪から来て、 病⼈人のあんまやらお灸やらで、看護に夢中で助けて呉れた。⽗父でなくしては出来ない、熱⼼心と親切切との努 ⼒力力である。 四⽉月⼗十⼋八⽇日 ⽊木 曇 楢崎⽒氏の奥さんの訪問があり、井上増吉⽒氏の結婚問題に就いての相談があった。然し、井上⽒氏は不不賛成で あると、⾃自分は強いて何も⾔言えない。ユキ⼦子が、乳が今度度はヒドク悪いと⾔言う。困ったものであるが、⼀一 つが使⽤用に堪えずとも、残す⼀一つで補いがつくのであろう。⼆二つ備わっている事は、不不思議な恵みである。 三郎郎君の病気は、余程全快に近づいた。明⽇日くらいは起床できるかも知れない。 四⽉月⼗十九⽇日 ⾦金金 晴 ⾃自分の⽣生涯に渡っての仕事を考えて⾒見見た。現在のままで善いかと、何だか⾜足りないものがある。では何が 出来るかと⾃自問にして、何も出来る確信の⾃自答が出来ない。伝道しなければ済まない様にも考え、専⾨門家 にはなり得ないとも考える。が、迷えば果てしがない。主の導きに従うより他に⽅方法はない。 四⽉月⼆二⼗十⽇日 ⼟土 曇 三郎郎君は⼜又、病気で悪いと⾔言うし、ユキ⼦子の乳もよくない。⼈人は⽣生⾝身である。何時病気するか知れない。 注意した上にも注意を要する。まあ、⼤大病⼈人でない事は感謝しなければならぬ。 四⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽇日 曇 昨夜以来暴暴⾵風で、吹いて吹いて吹き捲っている。桜の花も完全に散って終ったであろう。須磨に居住して、 須磨の桜を知らずに散らして終った。今年年の桜にはもうあきらめるが、⼜又来る年年には喜ばせて呉れるであ ろう。朝は井上君が、夜は⾃自分が述べた(全き⽣生涯)。会衆に変わりなく、新しい⻘青年年が唯⼀一⼈人出席して いた。三郎郎君が病気保養の為め、⼋八幡に往った。 四⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽉月 曇⼀一時晴 ⼤大阪から⽗父が来て、家内にお灸をすえている。⾃自分にも中⾵風にかからぬためとて、両の⾜足に⼆二つずつすえ た。之がきくか何うかを知らないが、⽗父の信ずるがままに⾝身を任した。灸がきくときかないとは第⼆二とし て、⽗父の熱⼼心なるすすめに反する事を不不孝のひとつに感ずるからである。きかずとも、⽗父に満⾜足を与える なら、あつい位の⾟辛抱は楽な孝⾏行行である。 四⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽕火 晴 市会議員選挙運動で、名刺刺の代⽤用でビラを数多く⼾戸毎に何⼗十枚も配布するものがある。降降頭主義の名刺刺の 使⽤用を禁じても、ビラに名を付して配布すれば、結局に於いて同様である。ビラ配りも廃して、唯郵便便に 依る推薦状のみに限る可きである。 四⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⽔水 晴 美邦の為に乳⺟母⾞車車を買った。然も上等すぎるものを。⼤大丸に販売する最上のものである。我々の如き貧乏 ⼈人の⽤用いる可き物ではない程、値が⾼高いけれども、⼦子供の脳の為と、⻑⾧長く使⽤用の出来るもの、完全なるも のを使⽤用するとせば、⽌止むを得ない。善き品を使⽤用する事が悪いのではなくして、値の⾼高いのが悪いので あるとも⾔言える。富⼠士野の折⾓角の注⽂文だから之でよかろう。 四⽉月⼆二⼗十五⽇日 ⽊木 晴 榎本丈夫君の結婚式を司った。会場は雲内教会で会衆四⼗十名であった。彼の新しい⽣生活の為に祈った。結 婚司式は、同君のが⽣生まれて初めてである。市会議員選挙に⼀一票を投じた。信頼するに⾜足る⼈人物がないた めに、棄権した⽅方が善いとも考えたが、⼜又考え直して⺠民政に⼀一票を⼊入れたのである。無産党員の候補者が ⽴立立っていないから仕⽅方がなかった。 四⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⾦金金 晴後曇⾬雨 全国の開票が終わらないのではっきりとは解らないが、⺠民政三⼗十、政友⼗十⼋八、無産五⼗十四位になりそうで ある。全体に於いて⼀一般の予想とを裏裏切切らなかったと⾔言える。 四⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⼟土 晴 引き続き市会議員問題は、市⺠民全体の興味の中⼼心である。開票の結果、⺠民政三⼗十三名、政友⼗十三名、⾰革新 四名、無産五名、其の他は中⽴立立となった。⺠民政が何といっても第⼀一位を占めた。今後は無産党が改選ごと に増加して⾏行行くであろう。加藤⽒氏が、弟君の就職の件で来訪された。 四⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽇日 晴 朝は⾃自分が、⼣夕は井上君が説教した。美邦を乳⺟母⾞車車に乗せて、須磨寺公園に散歩に出掛けた。桜の花は散 って、葉葉ばかりであった。美邦に猿と⿃鳥を⾒見見せるのが散歩の主眼であったが、未だ動物を⾒見見て喜ぶだけの 知能が発達していない。夏は出にくいであろうが、秋は⾒見見て楽しむであろう。 四⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽉月 晴 天⻑⾧長節 休⽇日が⼆二⽇日続いた。今⽇日こそ、⽇日頃の疲労が少しは癒えるかと思ったが、来客が多くって休⽇日にはならな かった。茂の親⼦子⼆二⼈人に杉⼭山君、紹介所の上野、杉⽥田の両⽒氏、遂々終⽇日了了った。 四⽉月三⼗十⽇日 ⽕火 曇 前年年度度の仕事が未だ⽚片付かない。⾃自分の責任を果たして済むまでは、気がかりで成らぬ。今⽇日は朝から、 酒飲みで事務の妨害を被った。何と思っても、酔っ払いには閉⼝口させられる。⼈人に同情し、弱きを助け、 慈悲を施し、貧しい⼈人達への奉仕は、苦痛よりも楽しみが多いが、酒飲みの無頼漢が無⼼心に来て、何時間 も動かないのは⼀一番困る。 五⽉月⼀一⽇日 ⽔水 曇後晴 ⼆二⼗十九⽇日が天⻑⾧長節で休⽇日であった為に、今⽇日の⽔水曜⽇日を忘れていた。⼆二⼗十年年の間に教会の集会⽇日を忘れて ⽋欠席したのは、今⽇日が初めてであった。 五⽉月⼆二⽇日 ⽊木 晴 サンダーシングを読んで、霊の⽅方⾯面に於いて余程啓発された。沢⼭山の知識識を得ずと雖も、深い徹底した真 理理を述べている。⼤大いに学ぶ可き事を悟った。 五⽉月三⽇日 ⾦金金 晴 紹介所の専⾨門化に関して、中央で打合せをしたが、何も決定しなかった。中央の若若い連中が経験もないく せに、⻑⾧長年年間経験し現在も実務の担当者である⽼老老練家に向かって、命令令がましいことを⾔言う。何という不不 謹慎な事であろう。彼等は学ぶ可き処で教えんとす。 五⽉月四⽇日 ⼟土 晴 前⽇日に引き続き、中央での打合せを延⻑⾧長して、春⽇日野紹介所に於いて、中村、泰⼭山、⾃自分の三⼈人が特に協 議を重ねた。兎に⾓角、神⼾戸の紹介所の為に、少しばかりの善き道を開いたと思う。 五⽉月五⽇日 ⽇日 晴 春らしくもなく、雪や霜が降降ったと新聞は伝える。急に寒くて、何だか冬の様である。朝は井上君が、夜 は⾃自分が説教した。⾃自分が剛健の秘訣と題して述べた。平井の夫婦とおつかさんが、岡⼭山から帰られた。 五⽉月六六⽇日 ⽉月 晴 平井夫婦は北北海道に向かって出発した。お⺟母さんは美邦を祝う為に、のぼりを買って下すった。去る三⽇日 は、武⽥田、絹井の両姉から⾦金金時を、今⽇日はお⺟母さんからと、何だか床の様⼦子が変わり、美邦の存在をして より⼀一層強めた。美坊が種痘のために三⼗十⼋八度度以上の熱を出し、少し気分が悪いらしく、笑い⽅方が少し変 である。 五⽉月七⽇日 ⽕火 ⾬雨 新潟⾏行行き⼈人夫三⼗十五名が、六六時⼆二⼗十五分三宮発で出発した。彼等は⼀一つの旅袋があるでなし、三⼗十銭の使 銭を持つ者も稀である。ハッピ⼀一枚の着のみ着のままで、之が本当の裸裸⼀一貫である。敏ちゃんが⼀一泊して 上阪した。 五⽉月⼋八⽇日 ⽔水 晴 前年年度度の整理理が未だ済まない。⾦金金銭の取り扱いは、⼆二重にも三重にも調査した上にも、尚調査の出来る様 にして置かねばならぬ。今度度の件でつくづくそれを感じた。事務打ち合わせ会で、午後⼗十⼀一時迄過ごした。 五⽉月九⽇日 ⽊木 晴 ⾃自分は⽣生まれながらの天才に⾮非ず。否今も変わりなく鈍才なり。⼤大学校まであるに尋常卒業したのみの⾃自 分は、教育を受くる点に於いては損な男であった。⼈人の習得すべき技能は数多くあるものを、何の技能を も学び得なかった事は、社会に何事かを貢献するのは甚だ不不適当であった。然し、今更更後悔するも如何と も⽅方法がないけれども、⾃自分は常に神に感謝の念念の堪えない事を、有難き御恵みと喜んで居る。天才に⾮非 ずとも、全くならんが為に、⽇日々努⼒力力する事の出来るは、ありがたき仕合せである。⼩小学校すら卒業して はいないが、毎⽇日数⼗十⾴頁以上の読書により、少しずつの知識識を得るは、楽しい極みである。何等の技能を も有たざる者なれど、健康にして許されし仕事に、忠実に奉仕さして頂ける事は、⾔言い表し難い感謝であ る。 五⽉月⼗十⽇日 ⾦金金 晴 天皇陛下の⾏行行幸せらるる⽮矢先に、ペスト患者が現れた。当局者は、此れが防疫に努むるは勿論論であるが、 かかる悪疫のある地に、陛下の⾏行行幸を仰ぐ事は、市⺠民として慎むべき事であろう。⼜又かかる病気に依って 死する者は、実に気の毒に堪えない。こんな病気では⼀一⼈人の⼈人間をも死なせたくないものでる。近き将来 には、ゼンナーが種痘に依る疱瘡の免疫を発⾒見見したと同様に、善き予防⽅方法が発⾒見見されるであろう。 五⽉月⼗十⼀一⽇日 ⼟土 晴 ⾏行行幸に際して、御道筋の道路路は実に⽴立立派にされつつある。⾵風の⽇日、塵が少なく、⾬雨の⽇日に泥泥がなく、⾒見見る に美しく、交通に安全である。センターポールをサイドポールに改めただけでも、⼀一年年間の障害と損失は 余程減ぜられたであろう。健康の為めに善く、危険が少し、こんな便便利利な事を何故早く実⾏行行しなかったか と⾔言いたい。都市計画が⼀一年年遅れる為には、どれだけの⽣生命と財産とを失いつつあるかも知れない。増税 するともよろしく断⾏行行すべき問題である。 五⽉月⼗十⼆二⽇日 ⽇日 晴 朝は⾃自分が、富める⼈人とラザロに就いて述べ、⼣夕は⼤大垣兄と井上兄が、前者は愛に就き、後者は持てる者 は尚余りありとて⽶米国の例例を引いて述べた。美邦の体重⼀一貫七百三⼗十匁になった。彼の成⻑⾧長は我の成⻑⾧長で ある。我の形は彼の形の中にひそむ。 五⽉月⼗十三⽇日 ⽉月 晴 美邦の教育に関して考える。彼に遺産として残すの財は、⾃自分には持ち合わせない。⼜又彼に最⾼高教育を授 くるの経済資⼒力力がない。然し、彼が如何なる失意、貧乏、失敗の時にも、失望せず悲観せず、⼜又如何に富 み如何に強き勢⼒力力を有すとも、おごる事なき、或いはどんな悪い環境に居り、悪友に誘惑されるとも、堕 落落せざるの剛健なる霊魂をつくってやりたいものである。 五⽉月⼗十四⽇日 ⽕火 晴 三郎郎君が帰って来た。彼が健康であり、彼が善き仕事を⾒見見つける事の出来る様に、彼にアーメンの霊魂が 宿る様に、彼の為に祈ろう。予算分割と職業紹介所専⾨門化との⼆二つの問題で、社会課に於いて打ち合わせ た。之で⻑⾧長い間の問題が、すっかり解決がついた。 四⽉月⼗十五⽇日 ⽔水 晴 社会課⻑⾧長が、⽶米国に於ける万国社会事業⼤大会に出席のためと、⾕谷⼝口嘱託の英国に開かるるボーイスカウト の⼤大会に参加のためと、両⽒氏の⾨門出を祝し、⼤大いに気勢を添えんがための、送別会が⿂魚庄に於いて開かれ た。⾃自分は例例の如く、⾷食事だけ摂ってさっさと引き上げた。出席者⼋八⼗十四名の第⼀一退席者であった。帰り、 直ぐに祈祷会に出席した。堀井君と⾃自分とが感想を述べた。 四⽉月⼗十六六⽇日 ⽊木 曇 鉄道の踏み切切りで⼀一名轢轢死した。本年年の⼀一⽉月から⾃自動⾞車車が三台、⼈人は何⼈人死亡したか記憶しないが、余り に事故が多いがために、これを魔の踏み切切りと称している。鉄道省省は実に横暴暴で、何⼈人の⽣生命を奪い、何 ⼗十台の⾞車車を破壊したら、踏み切切り番を置くであろうか。⼈人が鉄道に対して損害を与える時は、⽯石⼀一個でも 警察の⼿手を以って之を捜しているに、⾃自分の側で⺠民間に与える損害と迷惑と危険とに対しては、何等省省み る処がない。不不都合千万である。 五⽉月⼗十七⽇日 ⾦金金 晴 神⼾戸労働保険組合の評議会に出席した。会としては、これ程愚かなものに余り出た事がない。然も、経費 の百円近くも消費しているであろうに、今少し有効なる評議会たらしむる事の出来るものを。何という無 知な事であろう。職業の同労者にキリストの道を語って置いた。友⼈人の上に救いの御⼿手が延びる様に、⾃自 分が退職するか、彼らがそうする迄に、救いをして信ぜしめ度度いものである。⼤大⻄西兄を訪問した。 五⽉月⼗十⼋八⽇日 ⼟土 ⾬雨後曇 今⽇日も仕事中に、信仰に導かんがために、⼀一⼈人の事務員に⾃自分の体験を語って愉快であった。⼈人に真理理を 語る、こんな楽しみは⼜又とあるまい。語りつつ働き、働きつつ語るのである。美邦が⼀一昨⽇日から下痢痢して いるので、彼の病が気になる。⾃自分の病気以上に⼼心配である。原因が不不明なだけ、それだけ⼼心配なのであ る。 五⽉月⼗十九⽇日 ⽇日 曇後晴 朝は井上⽒氏、夜は⾃自分が説教した。集会に変化なし。⽇日中は、美邦の守り役を務めた。七⽇日中⼀一⽇日は、妻 に対し幾分でも慰労休暇を与えんが為である。美邦が腹を少しく痛めている。彼の病気は、何よりの⼼心配 である。 五⽉月⼆二⼗十⽇日 ⽉月 晴 児童相談所のお医者さんに依頼して、美邦の診断を願った。⼤大したこともないであろうが、腹の悪い事だ けは間違いはない。紹介所の問題は、⼀一先ず解決つくであろう。 五⽉月⼆二⼗十⼀一⽇日 ⽕火 ? 阪神国道の市内接続道路路が、愈々設けらるる事に決定した。起債の認可があった。これでイエス団も⼆二⼗十 年年⽬目に新築しなければならなくなった。余り⼤大きな家でなくとも結構だが、せめて仕事だけは充分に出来 る設備が欲しいものである。 五⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 ⽔水 曇 事務打ち合わせ会で遅くなり、祈祷会に出席し得なかった。最近、祈祷会に出席する率率率が少なくなった。 この次から間違わざる様、出席したいものである。 五⽉月⼆二⼗十三⽇日 ⽊木 ⾬雨 ⾕谷⼝口嘱託がロンドンに出張の為め、⾹香取丸で神⼾戸を出帆する事となり、第⼀一突堤に⾒見見送った。後⼤大阪に出 張した。⽤用件は事務局に於ける打合せであった。 五⽉月⼆二⼗十四⽇日 ⾦金金 晴 今⽇日はいやな相談を受けた。この世に於いては、問題とさる可き事が問題とされず、中⼼心を失ったきりき り舞いをしながら、詰まらない事ばかり問題にしている。実に愚かな事である。 五⽉月⼆二⼗十六六⽇日 ⼟土 余りに疲労し過ぎて、ぼうとして終った。少しは頭痛もある。 五⽉月⼆二⼗十七⽇日 ⽇日 晴 朝⼣夕共に⿊黒⽥田⽒氏が説教した。⼣夕は、久し振りにイチゴで親睦会を催した。昼は、美邦の守で時間の経つを 知らずにいた。 五⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽉月 晴 職業紹介委員会に出席して、俸給者紹介に関する市⻑⾧長の諮問事項に対して審議した。夜は、⽊木村社会課⻑⾧長 の送別会を兼ねた、昭和三年年度度神⼾戸労働保険組合の決算報告があった。平和楼の御馳⾛走になった。 五⽉月⼆二⼗十⼋八⽇日 ⽕火 ⾬雨 孫⽂文の⼗十七年年記念念で、⽀支那ではお祭りをやっていると⾔言う。彼は、⽀支那のあらん限り記憶される事であろ う。孔⼦子につぐ偉⼈人として⾮非常なる尊敬を受くるであろう。彼は⾄至る所に於いて追い回されて、迫害を受 けつつ三⺠民主義を称えたが、彼の死後、今⽇日程⽀支那の国⺠民に尊敬されるとは想像もしなかったであろう。 五⽉月⼆二⼗十九⽇日 ⽔水 晴 社会課⻑⾧長渡⽶米の為め、神⼾戸出発で⾒見見送りに往った。⾒見見送りに出た者五百名、彼は何と⾔言いても⼈人気男であ る。お役⼈人としては珍しい⼈人である。願わくば、彼に信仰の復復活の起こらん事を、である。 五⽉月三⼗十⽇日 ⽊木 曇 千狩り公営所より、供給⼈人夫の値上げに関する相談に来た。⼜又⼩小道課⻑⾧長に交渉して、単価⼗十銭を値上げし よう。⼀一⼈人の賃⾦金金⼗十銭値上げは、労働者に取っては⼤大きな利利益である。 五⽉月三⼗十⼀一⽇日 ⾦金金 晴 久し振りで、上ヶ原公営所へ⼈人夫賃⾦金金⽀支払いに往った。阪神国道を⾃自動⾞車車で⾶飛ばす事は痛快である。⾦金金持 ちが⾃自動⾞車車で乗り回すのも無理理がない。東京市⻑⾧長堀切切⽒氏は、賀川先⽣生に対して、内務省省社会局⻑⾧長たる事を 勧めてくるとの事である。何時か先⽣生が、僕に⼤大⾂臣になって呉れと依頼して来る時があると予⾔言したが、 成程と想像される⽇日が来た。 六六⽉月⼀一⽇日 ⼟土 ⼩小⾬雨 美邦が乳児脚気とは困った事になった。今の中に健康回復復をしてやりたい。今度度こそは、彼を満⾜足に成⻑⾧長 さしたいものである。何事も考えられない。 六六⽉月⼆二⽇日 ⽇日 晴 朝、偉⼤大な途と題して奉仕の⽣生活の尊さを述べ、夜は井上増吉⽒氏が隣隣⼈人愛と題して、⽶米国に於ける我が同 胞の状況を述べた。 六六⽉月三⽇日 ⽉月 晴 英国に於ける総選挙の結果は、労働党が第⼀一党となった。マグドナルド⽒氏、定めし御満⾜足であろう。我が 国の労働党は、とても英国との⽐比較にはならぬが、市町村議員は全国を通じて無産党なき処なきに⾄至った 様である。然し、労働党が天下を取るなど、とても近き将来ではあるまい。恐らく⾃自分の⽼老老⼈人となる頃で あろう。 六六⽉月四⽇日 ⽕火 晴 今⽇日より三⽇日間、⼤大阪に於いて天皇陛下を奉迎することになっている。市⺠民の中には、夜も眠らず、昨夜 ⼗十⼀一時より、御迎えのために莚の上に座してお待ち受けしている者があると⾔言う。然も少数の⼈人でないと ⾔言う。陛下は定めし御満⾜足であらせらるるであろう。 六六⽉月五⽇日 ⽔水 晴後⾬雨 美邦が今⽇日から貰い乳をすることになった。何うぞ、成績よく健康回復復する様に、彼の節句句を祝う為に、 妻は柏餅を餅屋につくらせた。 * * * * この⽇日記が書き記された帳簿の最後には、次のメモ書きがある。 ⼤大正⼋八年年⼋八⽉月⼋八⽇日 ⽇日暮通⼆二丁⽬目七ヨリ移転 再寄留留地 吾妻通五丁⽬目六六番地(三⽊木善次⽅方)家主名 武内勝 善志 梢 * * * * ⽇日記はこれで途絶えている。続きが在るかもしれないが、武内を知る貴重なものである。毎回お読みい ただいている⽅方や感想を寄せていただくお⽅方もあって、何とか「武内勝⽇日記 A」を紹介する事が出来た。 この勢いで、もう⼀一冊の「⽇日誌」(これは賀川没後の翌年年・昭和36年年の1年年分)を「武内勝⽇日記 B」と して次回より4回に分けて紹介しておきたい。 昨夜(2014年年3⽉月10⽇日)は、Thomas Hastings 先⽣生よりメール便便が届き、賀川豊彦の代表作『宇 宙の⽬目的』(毎⽇日新聞社、昭和33年年)の英訳『Cosmic Purpose』が先週出版されたという嬉しいお知ら せを頂いた。次のリンクをご覧下さい:https://wipfandstock.com/store/Cosmic_̲Purpose/ (2009年年9⽉月18⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月11⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(56) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 B」(1) 昭和36年年1⽉月〜~12⽉月 これまで8回に亘って掲載した「武内勝⽇日記 A」は、戦前の昭和2年年から4年年のも のであった。明治25(1892)年年⽣生まれの武内は、当時30台半ばの働き盛りの年年齢であったが、それ から敗戦を挟んで30年年余りを経て、彼はすでに齢69才になっていた昭和36(1961)年年の⽇日記が、 このたびの「⽟玉⼿手箱」に残されていた。武内勝の纏まった⽇日記としては、⽣生涯のうちこの2冊である。 前者は「武内勝⽇日記 A」としたので、晩年年のこの⽇日記は「武内勝⽇日記 B」としておく。今回から4回に分け て取り出しておきたい。 この⽇日記は、添付のように、15センチ×10センチのハガキ型の簡易易ノートが使⽤用され、表紙には「昭 和三⼗十六六年年度度 ⽇日誌 武内勝」と⾃自筆されている。 書き始められた契機が何であったのかは判らないが、賀川豊彦が昭和35(1960)年年4⽉月23⽇日にそ の⽣生涯を終えていて、その翌年年の元⽇日からの⽇日記であるから、武内たちは、賀川亡き後のイエス団継承の 責任を担いつつ、懸案であった神⼾戸の「賀川記念念館の建設」という課題をかかえての、昭和36年年の年年初 めであった。 武内はこのとき、神⼾戸市⻑⾧長⽥田区三番町に開園したイエス団の「神視保育園」(昭和32(1957)年年設 ⽴立立)の園⻑⾧長でもあった。 * * * * 昭和36年年1⽉月〜~3⽉月 1⽇日 礼拝に親⼦子三⼈人が出席した。 世界の平和を祈り、神の国の基礎の強化に就いて祈った。 午後、崎元待命⽒氏を済⽣生会病院に訪問し、祈って別れる考えであったが,同⽒氏もまた祈り、ニッコリ笑っ た。 先⽉月⼆二⼗十九⽇日は、病院より今⽇日、明⽇日の寿命と宣告された崎元⽒氏が、今⽇日は笑顔を⾒見見せて呉れた。 2⽇日 ⼀一⻨麦寮寮に於ける修養会に出席した。 出席者は108名であったが、⻘青年年の多数であったことは頼もしく嬉しかった。 3⽇日 前⽇日に引き続き修養会に出席し、午後は15分間の奨励をした。 賀川の弟⼦子になって何をしたかと題し、賀川先⽣生の指導を受け、愛の奉仕の真似で、三公の幽霊話と労働 保険組合の組織に就いて、宮本兵太郎郎の負傷と財団法⼈人イエス団の基本⾦金金五千万円積み⽴立立て、⽑毛利利⾦金金五郎郎 にだまされて得たこと。 以上に就いて述べた。 神視、印鑑必要に就き(坂出のため)25 五時より財団法⼈人イエス団理理事会 賀川記念念事業に千万円寄付を決定 坂出育愛館の借り⼊入れ⾦金金は、⼆二⼗十⽇日に再審議 ⼩小川牧師宅宅にて、1⽉月2⽇日11時、委員会開催 4⽇日 労働相談、出席職員祝賀 イエス団電話 5⽇日 神視出勤、園児出席数名 ⺠民⽣生安定所訪問 年年賀挨拶 帝国信栄 YMCAに於ける県下キリスト教信者教職員会に出席 職域伝道を何うするかを検討するためであった。 ⽔水⼾戸司法書⼠士に印鑑証明及び発送依頼 坂出育愛館⼿手紙 県秘書課⻑⾧長電話 6⽇日 神視出勤 今⽇日も園児出席は⼗十⼈人位で少数であるままだ。正⽉月気分で休むのであろう。兄弟が学校休みの 関係もあると思う。 労働相談出席 栃⽊木汽船の労働組合⻑⾧長より上位団体の援助に就いての相談があった。組合の届出に就いて も何も解っていなかった。 県秘書課⻑⾧長電話 賀川記念念事業に壱千万円寄付に就いての報告のためであった。知事は壱千五百万円出し て呉れと特に依頼された。 7⽇日 神視出勤 今⽇日もまだ園児出席は⼗十数名である。新しい保⺟母さん今⽇日から勤務した。 宇都宮来宅宅、⾼高本⽒氏が肝臓が悪くて静養しているとのことである。 賀状を出していない⽅方からこれを貰ったので、その⽅方々に賀状の礼状を数枚書いた。 8⽇日 家族合わせて三⼈人で礼拝に出席した。 帰途、済⽣生会病院⼊入院中の崎元⽒氏を⾒見見舞に訪れた。元⽇日訪問の際は、⾃自分で祈り且つニッコリ笑ったが、 今⽇日は⽬目を閉じる元気もなさそうであった。愈々死が近づいた感が深かった。 ⾒見見舞い者は、辻婦⼈人、緒⽅方婦⼈人、住友姉と⾃自分と妻であった。 崎元⽒氏は、新川の⼦子供の⾯面倒をよく⾒見見た。⾃自分の⼦子と他⼈人の⼦子と区別もなく、よく⼀一⻨麦に伴われて来て遊 ばせた。絶えず指導に努⼒力力していた。 ⽒氏ほど地区の⼦子供の指導に努⼒力力した⼈人はないと互いに語り合った。 9⽇日 労政事務所の分所⻑⾧長会義で出席し、ぜんざい会で御馳⾛走になった。何れの会でも、⾟辛党が中⼼心になるもの を、⽢甘党の会であった。 夜、中村朝太郎郎⽒氏が来宅宅し9時ごろまで雑談した。 10⽇日 ⾬雨 細川書記とイエス団理理事会議事録整理理 労政に於いて⼗十⼆二⽉月分の記録整理理をした。建物の修理理及び塗装の為、机の使⽤用が出来ないために整理理がつ かなかったものの整理理であった。 ⼤大蔵省省は、36年年度度の予算中、保⺟母の給料料15%増額を取り消したと⾔言うので、東京の保⺟母は当局に交渉 していると朝⽇日は伝えている。当局者の理理解が⾜足らぬ。 11⽇日 議事録を整理理し、細川書記に保存⽅方を⼀一任した。 12⽇日 午前2時頃、崎元待命⽒氏死亡の電報を受けた。 早朝イエス団に赴き、⾄至急ボーイスカウトの関係者と協議懇談し、三者の合同葬のような形で、13⽇日3 時イエス団教会を式場として葬儀を⾏行行なうことになった。 夜遅くまで教会に残った。⾃自分が葬儀委員⻑⾧長になった。 施設⻑⾧長会議は⽋欠席し、川崎⽒氏に代⾏行行して貰った。 13⽇日 今⽇日も神視を休み、県にも出ず、葬儀のために終⽇日イエスに詰めきることにした。また何かと相談事項が 相当多くあった。 3時、式をはじめ、4時40分終了了した。 会葬者は多く、イエス団教会創⽴立立以来、今⽇日程多数が集まった事はなかった。 式辞もよく、よき証⾔言となり、伝道にもなったと思う。 殊に、筒井姉が幼少の頃、崎元の世話になったことを思い出し、式に参列列して信仰の告⽩白をして呉れた事 は、⼤大きな収穫であった。 村⼭山牧師のよい経験になった事も感謝であった。 14⽇日 ⾺馬⾒見見から寄越した誓約書の誓を清の字を使っていたので書き直しのため返戻した。僅かな不不注意から⼤大変 な⼿手数となる。 豊島に対しては、20⽇日出頭の連絡をした。 15⽇日 家族3⼈人が礼拝に出席し、午後は⼀一⻨麦教会の献堂式に3⼈人とも出席した。 ⼀一⻨麦に居住中は、地上げのために⾬雨降降り後は、川に流流れて来た砂をすくい上げ、之をもって整地し、或い は⾼高⽐比良良、或る共産党員等の失業者に、⾷食事と電⾞車車賃を与えて、ガスを埋め⽴立立てた事もあり、⼗十⼆二年年間の 思い出が多く、殊に美邦の友⼈人梅村⽒氏が、教会の中堅となって、会堂建築の出来たことは、実に感慨無量量 である。 16⽇日 県に出勤したが、労働相談事項もなく、外交に出掛けたところに三島⽒氏(仮名)が来所した。 彼は、賀川夫⼈人から⾦金金を送ると⾔言って送って来ないから、弁護⼠士を依頼して事件にすると⾔言った。三島⽒氏(仮 名)は無理理な計画をしている。賀川の奥さんから、⾦金金を取るなど腑に落落ちない。 神視で職員会議を開いた。主としてベースアップに就いてであった。もっと優遇の道はないかと考えさせ られる。 17⽇日 伊藤⻭歯科医で⻭歯の治療療を受けた。次の診療療は来週の⽉月曜⽇日である。⻭歯だけが⾃自然に抜けるのではなく、全 ⾝身が漸次衰えて役に⽴立立たなくなる。 ⽼老老いる事は嬉しい事ではないが、予定されている運命では、⻑⾧長くてもう⼗十年年、更更に⻑⾧長くて⼗十五年年程度度であ ろう。 出来る限り、善い働きをして死にたいものである。 ⼭山部⽒氏(仮名)に建物の権利利証を返却した。彼も⾦金金に対しては実に無理理をする男である。 18⽇日 職員給料料を10⽉月に遡及し15%の増俸を決定した。然し、公共の保育所に⽐比較すれば殆ど半額である。 私設団体の職員は奉仕を旨としているが、待遇の点については、当局は実に無責任である。 全国の保育所従業員の恵まれる事を祈る。4万⼈人の従業のために。 県に出勤した。細川書記来園、議事録に就いて。 奈奈良良⾺馬⾒見見より訂正⽂文書来信。 崎元姉より礼あり。 19⽇日 坂出保育より河⽥田保⺟母主任来園、事務打ち合わせ。 協同⽜牛乳の関係にて、⾼高芝弁護⼠士訪問。 奥⼭山より借り⼊入れたる原因、それに関する件に打ち合わせ。⾼高芝弁護⼠士の書記は、協同⽜牛乳の負債の⽀支払 い要求は少ないので、会社に返す⾦金金が出来るという、有難い⾒見見込みである。 4時、崎元待命⽒氏の遺族及び旧友⼈人数名がイエス団に集まり、主として遺産の分配に関し協議した。崎元 ⽒氏にはまことに複雑な家庭であって、⾦金金に欲が出ると収拾拾がつかなくなる。それが円満に解決がついて感 謝であった。⽴立立会⼈人は⻄西尾、溝⼝口、池⽥田、村⼭山、武内の五名であった。 20⽇日 11時、⼤大阪⼩小川宅宅でイエス団役員会を開催。 坂出の借⼊入⾦金金、賀川記念念事業に対する寄付⾦金金、四貫島教会の借⼊入⾦金金などに就いて協議した。 イエス団に対する補助⾦金金の請求が、⼩小川牧師を第⼀一番とし、⼆二番が吉⽥田牧師、三番が吉⽥田牧師代理理で奈奈良良 ⾺馬⾒見見の要求である。 皆の要求を聞いていたら、⼆二三年年の内に基⾦金金はゼロになる。 早急にイエス団の助成規定をつくる必要があり、これは⾃自分の責任である。 出席者、⼤大川、⽥田中、吉⽥田、⾦金金⽥田、⼩小川、武内、本多、村⼭山、河⽥田、細川 21⽇日 財団法⼈人イエス団寄付⾏行行為施⾏行行細則案作成に就き検討す。 基督教社会事業書⾯面。 22⽇日 礼拝司会、役員会、菅野外1⼈人来宅宅、料料理理学校につき相談。 23⽇日 ⻭歯科(⼊入れ⻭歯)。2時労使センター会議。⾼高本来訪。 24⽇日 村⼭山牧師電話。菅野⽒氏来園。県厚⽣生課。 25⽇日 ⻭歯科 26⽇日 伊川⾕谷⼭山林林視察。 厚⽣生課、厚⽣生省省提出書類につき打ち合わせ。 財団、福祉ともに理理事⻑⾧長変更更届提出のこと。尚、登記謄本4通添付 27⽇日 三浦⽒氏及び知事と⾯面談。2時 奈奈良良⾺馬⾒見見書類返送 財団法⼈人イエス団より賀川記念念事業に寄付する⾦金金額は、建築費の⼆二分の⼀一であるが、建築変更更により増額 した場合は、更更に5百万円寄付⾦金金を増額することとした。 28⽇日 神野に出張し7,500坪の農地を視察した。将来養⽼老老院の施設でもすれば最もよき地と考える。坪当た り七⼋八百円も安いと思う。 29⽇日 礼拝出席、午後⾼高本を訪問。 夜九時まで⼆二宮(仮名)の30万借⼊入⾦金金について話し合った。 30⽇日 県秘書課⻑⾧長を訪問し、財団法⼈人イエス団の寄付⾏行行為変更更の認可申請について、本省省交渉のため東京にある 県出張所に⾏行行き、川上⽒氏と厚⽣生省省に同道する打合せをした。 31⽇日 兵庫県労働保険組合に履履歴書⼆二通を書いて送付した。同組合も愈々財団法⼈人組織となる。⼤大正15年年創⽴立立 の時からの懸案であった。兎に⾓角、組織化は結構である。 法⼈人代表者変更更届(⼤大⾂臣宛)作成した。原稿細川渡す。 賀川厚⽣生事業団に⾦金金壱千万円也寄付申込み書を発⾏行行した。 ⽔水⼾戸司法書⼠士、財団、福祉ともに四通登記簿を依頼した。 財団法⼈人、社会福祉共に理理事⻑⾧長変更更の届出を、厚⽣生⼤大⾂臣宛県に提出した。 2⽉月 1⽇日 ⾺馬⾒見見の百万円借り⼊入れ申請書の訂正で、⾺馬⾒見見から速達書類を送付して来たので、直ぐに書類を訂正し、細 川書記に渡した。明⽇日県提出の予定。 ⼊入れ⻭歯が出来たので、⼆二三年年はこれでものを⾷食べるに⽀支障がないことであろう。助かった。 本年年の冬は、何⼗十年年⽬目かの寒さである。事務室に練炭⼀一個、300の電熱だけでとても寒い。しんから底 から冷冷え込む。 細川の作成した議事録原稿を整理理した。 2⽇日 三時、⻑⾧長⾕谷川敞牧師の葬式に参席。 芦屋教会夫婦共に牧師であって、⼆二⼈人で⼆二つの教会を建設し、これを牧していた。⽣生涯を伝道に献げた尊 敬すべき先⽣生であり、また貧しき者を何時も覚えて、新川のためには毎年年古着を集めて下さった。 イエス団に於いては、忘れてはならない恩⼈人であり、協⼒力力者であった。 3⽇日 安藤⽯石綿⼯工業を訪問した。中⼩小企業では何処へ⾏行行っても労働組合にはてこずっている。成績不不良良の者の解 雇が出来ないためと、賃⾦金金値上げを恐れているからである。 松本姉は突然来園で、診療療所を開設したいから善い医者があったら紹介して欲しいとの相談であった。医 者は多いが、親切切な医術の勝れた者はないと⾔言う。皆欲が深いので、貧乏⼈人から⾦金金を巻き上げるのが苦療療 であると⾔言う。 県と打ち合わせの結果(⽉月)川上⽒氏と⾯面会。 4⽇日 細川書記、事務連絡に来園、イエス団の印鑑を渡した。 ⽥田中⽒氏の回答理理事会に就いて。⽥田中⽒氏は、⾃自分で役員会の費⽤用を負担するから開催して欲しいと⾔言う、熱 ⼼心な役員である。 午後、⾼高橋⽒氏と⾯面会。 5⽇日 礼拝後、佐藤姉と⾃自分の妻と三⼈人が、岸部⽒氏を訪問した。 古い思い出話をして、旧友を更更に暖かにした。語るも感謝、聞くも感謝であった。信仰の友をもつことが、 殊に深き愛の交わりのあることが、幸せなのである。 6⽇日 県の東京事務所から川上⽒氏が帰っているので、財団の関係で⾯面会する予定になっていたが、同⽒氏が多忙で 秘書課の連絡がつかず、午後4時過ぎも尚連絡がつかなかった。⼆二通話 中⼩小企業退職⾦金金共済事業について勉強した。 近藤⽒氏来園、⼟土地に就いて懇談した。 久仁⼦子の結婚につき、⾦金金のかからぬ⽅方法を考えた。 7⽇日 ⾼高芝弁護⼠士に訴訟資料料を提出した。 6時、YMCAに於いて、賀川記念念事業委員会に出席した。 寄付⾏行行為の第三条第四条が余りも貧弱と⾔言うか、無定⾒見見に等しい。 事業計画がないので驚いた。新川で⾏行行なう事業で最も⼤大切切なものは、児童を⼀一⼈人前の⼈人間に育て上げる事 であるが、それは⼀一⾔言も触れていない事は遺憾である。少なくとも児童教化のため、学校の予習復復習の指 導をしなければならぬ。⼜又不不良良防⽌止の為には⺟母の会、婦⼈人会、婦⼈人倶楽部等の組織、指導援助について努 ⼒力力し、多くの婦⼈人の協⼒力力で児童を不不良良から守らなければならぬ。児童愛護運動をする必要がある。 8⽇日 県秘書課に於いて、村⼭山牧師と共に川上主事と⾯面会し、財団法⼈人イエス団の寄付⾏行行為変更更に就いて、厚⽣生 省省より質問の点と変更更の困難な点について説明があった。 財団の⾦金金を福祉事業に使⽤用してはいけない。財団を解散して新しい財団を備えるか、社会福祉に全部寄付 するか、この場合現在の財団関係事業を社会福祉と認められるのでなければならない。 現在の寄付⾏行行為をそのままとして新しい事業を起こすか、現在のものを⼀一層拡張するか、上京し本省省に出 頭して係官と懇談の上ハッキリした線を出し、理理事会に於いて審議しなければならぬことなった。 県出勤。村⼭山牧師と寄付⾏行行為の第三条及び第四条につき協議し、変更更する事とした。之で⾃自分の願う点が 加えられるので満⾜足である。 9⽇日 朝から⼭山⽥田の⼭山を⾒見見に⾏行行った。壱万三千坪ばかり安い⼟土地があるというので視察したが、⽮矢張り⼭山であっ て利利⽤用価値が少ない。⾃自動⾞車車賃400は無駄であろう。 ⾦金金⽥田牧師に電話で、財団寄付⾏行行為に就いて連絡した。 武⽥田洋⼦子主任保⺟母を、基督教社会事業同盟研修会に出席する事を決定。2⽉月21-23⽇日 旅費2,50 0円を園より負担する。 YMCAにて記念念事業に就いての専⾨門委員会開催出席、⾦金金⽥田牧師と財団寄付⾏行行為変更更に関しての打合せを した。 委員会は24⽇日⼤大阪で開催される事になった。⽥田中理理事の熱で決定したようである。記念念館の設計図は、 素⼈人が事業を知らない設計させられたから再検討を要することになった。 10⽇日 厚⽣生省省⾏行行きを16⽇日に決定し、洲本出張を23⽇日に。⼤大阪に於ける委員会出席を24⽇日と決めた。その間、 15⽇日は三⽊木市出張である。 健康である限り⽤用事は尽きない。仕合せな事である。 分所⻑⾧長会議で⾊色々考えさせられたが、全国的に労働者の賃⾦金金は上昇し、殊に本年年⾼高校卒で15,000で、 就職もあるという。 世は正に労働者の時代になりかけた感がある。失業がなく貧乏が追放されることは有難い事である。 11⽇日 昔の紀元節である。雲にそびゆる、歌を思い出す。 年年中で⼀一番寒い時であるが、今⽇日も雪が降降り、相当冷冷える。多分六六甲には雪が積もり、明⽇日の六六甲はスキ ーヤーで賑々しいことであろう。 嘗ては、イエス団の⻘青年年達と、雪の⽇日の六六甲登⼭山で喜び楽しんだものであった。綺麗麗に30センチも雪の 積もっている上に、顔を突っ込んで⾯面の出来る事や、板⼀一枚の上に乗って、ソリの代⽤用で滑滑ったりころん だり、⾵風呂呂敷に包んで⼟土産にした事など、思い出すのも楽しみである。 特に、何の汚れもない真っ⽩白な六六甲⼭山頂で、⼤大阪湾を⾒見見おろしつつ賛美歌を歌い、祈りを献げ、神⼾戸の救 いを祈り、下って路路傍説教で救いの⽴立立証したことは、終⽣生忘れ難い印象である。 近藤⽒氏来園、伊川⾕谷と加古川の⼟土地につき雑談した。 12⽇日 礼拝出席。崎元婦⼈人と⾹香典の社会事業寄付⾦金金、財産の相続分配、漢族関係等に就き懇談した。 3⽉月1⽇日に、故⼈人の5⽇日祭追悼会を開く事、挨拶状はその際発送する事、社会事業寄付⾦金金は168、00 0とすること。借⼊入⾦金金未払いなどは、婦⼈人より⾄至急書き出すこと。分配⾦金金は本⼈人の名義で預⾦金金し、通帳は 教会で保管することとした。 午前中⼩小⾬雨であったが、後は晴れであった。 13⽇日 なし 14⽇日 協同⽜牛乳の債権者会議が、神⼾戸地裁で⾏行行なわれた。 安孫⼦子⽒氏が出席していたが、三島⽒氏(仮名)は⽋欠席していた。前者が出席するようになれば、後者は今後出 席できないものと想像される。 午後はビオフェルミンを訪問し、⼩小野常務と⾯面接した。 15⽇日 三⽊木市出張。商⼯工会議所会頭其の他と⾯面接した。 労働問題について労、働者はよく勉強し、使⽤用者は怠慢である。労働組合はないほうがよくて、ある事を ⾮非常に迷惑に考えている。 労使が⼀一体となって⽣生産のできるのは何時の⽇日か。 16⽇日 上京、財団法⼈人イエス団寄付⾏行行為変更更申請が却下となった。これについての厚⽣生省省係員との打合せの為で ある。 ⽇日本⼀一の富⼠士がさすがに⽇日本⼀一だと思わせる美しさであった。 雲が全然なく、六六合⽬目以上は雪で⽩白く、ほんとに美しい富⼠士であった。何度度⾒見見ても美しい。 17⽇日 兵庫県東京事務所に⾏行行き、川上主事と共に厚⽣生省省に⾏行行って係員と種々打合せをしたが、⽮矢張り寄付⾏行行為の 変更更は認められなかった。 昨夜は⼀一泊2,150円とられたが、今⽇日は河上⽒氏の紹介で第⼀一ホテルに泊まり1,270円で済むこと になった。東京で⼩小さい旅館が安くてホテルが贅沢だと考えたら⼤大間違いで、ホテルが便便利利であって安上 がりである。第⼀一ホテルの部屋が1,300あるのに驚いたが、料料⾦金金に就いても感⼼心した。 18⽇日 松沢の理理事⻑⾧長を訪問し、前⽇日の厚⽣生省省での交渉の結果に就いて杉⼭山,宣沼両⽒氏とも懇談した。 最後の案は何うなるか、帰神後理理事会の結果でないと解らないこととなった。午後4時半の特急かもめで 帰った。 19⽇日 礼拝出席。後役員会。 20⽇日 労働相談に出勤 ミナト機⼯工株式会社訪問。 ⼯工場⻑⾧長中島幸男⽒氏が、⾃自分を前から知って居ったと⾔言う。知⼈人とは凡てが打ち解けて相談が出来るので嬉 しく思うた。 従業員の募集をしても応募者がなく、⽋欠員補充すら不不能である。之では会社は⿊黒字経営でも、労⼒力力の⾯面で ⿊黒字倒産となる。 宿舎を設備し、⿅鹿鹿児島あたりから募集し、厚⽣生施設により従業員の幸福を⼯工夫することを奨励した。 21⽇日 崎元待命の遺産分配につきイエス団に於いて溝⼝口、⻄西尾両⽒氏と協議し、之を決定した。 22⽇日 久し振りで帝国信栄と本多⽒氏を訪問した。⼟土地と財団の関係についてであった。 23⽇日 洲本市へ出張した。県の公⽤用のためであった。 島は美しく東回りは特によいが、道路路が悪く⼀一台の⾃自動⾞車車が⾛走っても、⼟土ぼこりで⼈人家は⼤大変だ。その後 を追う⾃自動⾞車車は、ほこりでたまったものではない。 ⾃自衛隊で道路路⼯工事をやったら早く竣⼯工するものを。 24⽇日 ⼤大阪出張。財団法⼈人イエス団委員会に出席。寄付⾏行行為変更更申請却下について協議した。 結局、従前どおりのままということになり、賀川記念念館設⽴立立に寄付⾦金金千万円の約束をしていたが、これに ついては知事及び三浦⽒氏に報告し、其の後に於いて更更に検討することとした。多分イエス団に於いて建築 することになるであろう。記念念館に就いては、最初⾃自分の考えたとおりになるようである。 ⼤大阪に⼀一泊し、⼤大阪駅で朝⾷食の後散会した。 ⽊木村保⺟母の⽗父上が⼤大病のため⽊木村姉は帰国した。快復復を祈る。 25⽇日 加古川の神野⽒氏を訪問し、⼟土地五千坪について懇談した。 続いて⼟土⼭山の佐⼭山⽒氏を訪ね、菊池⽒氏の⼟土地⼀一万坪を案内して貰った。 原野として放任してある⼟土地が勿体ないことである。⼟土地の値上がりで⽣生涯遊んで贅沢の出来る事を楽し みとしているようである。有効に使⽤用し資本を投じて働くよりも、遊んで⼟土地の値上がりを待つほうが有 利利であるからである。 協同⽜牛乳も、⼟土地を買ったままで事業をしなければ⼆二千万円の利利益を得たものを、妙な時代であり現象で ある。 いい天気であった。中根⽒氏来宅宅。 26⽇日 礼拝出席。今⽇日も崎元⽒氏の遺産に就き夫⼈人と相談した。委員達の気持ちと若若⼲干の差がある。改めて委員会 を開かなくては済まないであろう。 賀川春⼦子姉に、委員会の協議の様⼦子を報告した。 正⽊木⽒氏に安孫⼦子⽒氏の要望を伝えた。はがきで。 27⽇日 中根市会議員と⼟土地の件で打ち合わせ。後、⼆二宮(仮名)と⾼高本⽒氏を訪問し⼆二宮(仮名)の負債⾦金金額30万を 返済した。 午後県庁へ出勤し、神⼾戸鋼船労働組合を訪問し、後河内滝雄組合⻑⾧長と⾯面談した。労使間円滑滑であると聞い て安⼼心した。 ⽵竹中及び岡⽥田訪問。 28⽇日 近藤⽒氏と⼟土地について打ち合わせ。 ⽊木村保⺟母の尊⽗父が永眠された。お気の毒である。とりあえず弔電を打った。今⽇日も武⽥田保⺟母が⽋欠勤した。 ⼭山⽥田はまだ⾵風邪が快復復しない。三⼈人の保⺟母が休んだので、残りの三⼈人は⼤大変であり、御苦労様である。 加藤医師と事務打合せをした。 夜、⾼高⽊木親⼦子(仮名)の調整役で⾠辰辰夫⽒氏(仮名)宅宅を訪れ、夜九時前まで懇談したがむつかしい男で困ったも のである。 3⽉月 1⽇日 早朝前⽥田兄が来宅宅され、住宅宅を求めているが得られず、現在居る家は今⽇日限り明け渡しをせまられている と苦哀を訴えての相談であった。 家内と共に服部⽒氏の宅宅が広いので相談に往った。然し、⼟土地も家も借りることは出来なかった。アパート はあっても家族6⼈人の⼤大勢では、何処に⾏行行っても断りばかりであった。 崎元⽒氏の追悼会を開いた。五⼗十数名の出席者であった。⾃自分も所感を述べた。 10時半、丸⼭山(仮名)が会いたいと申し出たので⾯面会した。 協同⽜牛乳の⼟土地建物の所有権で和解をしたらどうかとの件であった。但し奥地(仮名)に3百万円、もう3 百万円⼟土⼭山(仮名)に、1百万円を配当せよと⾔言う無理理な話である。 2⽇日 稲美町に出張し⼟土地の視察をした。坪1000で500坪程度度は買収できるがよく検討してみよう。養⽼老老 院、林林間学校には適するであろう。 花房にも過⽇日視察した。⼟土地に就いて値段の交渉に往った。但し決定を⾒見見なかった。 3⽇日 夫婦別れをし、⼦子供を取り合いしている⽗父親から預かっていた問題の⼦子を、⺟母親が迎えに来たので、武⽥田 保⺟母は⼦子供を引き渡した。その後で、⽗父親が⼦子を連れに来た。⼦子供は⺟母親が姫路路へつれて帰ったことを知 り、その責任を追及された。武⽥田は姫路路に出張し、その⺟母から⼦子供を預かって帰った。 ⼼心配したが、割合簡単に解決した。 茂が、四⽉月⼆二⽇日三時、⾃自宅宅で結婚式を挙げると案内して来た。 同⽇日、崎元の納⾻骨をすることになっているので時間がどうなるか。⽢甘く都合のつくよう考え、両⽅方の責任 を果たしたい。 4⽇日 神⼾戸市議会議員中根⽒氏の案内により、河談の⼭山を視察に、宇都宮と共に出張した。22町歩の⾯面積を、社 会施設のために有効に使⽤用したら何うか、と⾔言う問題であった。市は、⼆二年年間に近道をつくり、交通を便便 にするとのことであった。⼭山の利利⽤用は容易易でない。もう⼗十年年若若かったらと思う。 5⽇日 三協⼯工業を訪問し、吉⽥田専務の案内で布引の滝を視察した。 この建物及び基⾦金金も添えて財団法⼈人を組織、有料料養⽼老老院を備えて欲しく、更更にその運営を⼀一任するとのこ とであった。殊に、屋上に⼗十字架をつけて呉れとの了了解は嬉しかった。 有料料養⽼老老院とユースホテルをやって⾒見見たいと思う。施設ができたら⾃自分はイの⼀一番で⼊入院する。場所のよ いこと⽇日本⼀一と思う。⼤大阪湾を⼀一⽬目に⾒見見下ろし、⼤大阪神⼾戸の夜の光の美しさは百万ドルとか⾔言うが、実に 美しい。 布引の滝が、施設の庭の中の様な感じもする。少し上の⽅方には、布引⽔水源地がある。ここから天国には実 に近い感じがする。何だか夢⼼心地になった。若若し実現したら本当に感謝である。 ⽶米⽥田社⻑⾧長の社会寄与も⼤大きいと⾔言える。 6⽇日 明⽯石市に出張し、きしろ発動機と池内鉄⼯工所を訪問した。労務者の争奪戦を聞き、⼤大変な好景気となった ものである。 明⽯石市に三菱菱重⼯工が進出し、新⼯工場が明⽯石地元で本年年六六百名の従業員募集をすることになった。市内の中 ⼩小企業振興会53⼯工場では、三菱菱に従業員を引き抜きされるのでは⽣生産に⼀一⼤大⽀支障を起こすとあって、市 や商⼯工会議所に協⼒力力を求めて、地元募集の中⽌止運動を始めている。 市や商⼯工会議所では、市の発展のために⼯工場誘致運動をやっている。労務者は漸次⼤大企業に吸収すること になるであろう。中⼩小企業は、⾃自滅か合同かの運命に置かれる事になる。 ⽇日本の労使のあり⽅方に就いて深い関⼼心をもたれている。 職員会議を開き、年年度度末の打合せをした。 7⽇日 県出勤、訪問に出ず。5時まで在室したが来客1名もなし。 8⽇日 1時半より市役所七階会議室に於いて、保育施設⻑⾧長会議があり出席した。 36年年度度より給料料7、5増俸となる。尚、向こう4ヵ年年にして、私設社会事業従事者の給料料は公務員と同 額になる計画であり、⼤大蔵省省もこれを承認しているとの報告であった。措置費も予定通りの増額を決定し た。 ジャガイモの植え付けをした。7⽉月上旬には収穫できるであろう。種は1貫⽬目であるが⼗十倍くらいになる か。 近藤⽒氏来園、細川姉来園、社会福祉変更更に就いての打ち合わせ。 9⽇日 明⽯石出張。明⽯石機械、⽔水⽥田製作、共⽴立立マッチ、三光マッチの4⼯工場を訪問した。⼥女女⼯工員が失対事業に移動 していく傾向にあることには驚いた。⽇日雇から常 雇いを希望するのが普通であるが、常⽤用から⽇日雇への 希望は変である。 柴⽥田ゴムが、通勤⽤用⾃自動⾞車車で⼯工員の送り迎えをしていると⾔言うが、⾯面⽩白い時代が来たものであり、労働者 万歳である。労働の尊さが認められる時がきた。 10⽇日 井上⽒氏と労働宿泊に就いて懇談した。同⽒氏は鉄筋5階建て以上の新築をしたいと希望している。イエス団 に300万で現在の財産を譲渡してくれという。幸い⻑⾧長⽥田の建物の件を解決したい。よく検討してみよう。 11⽇日 労働相談協⼒力力会に出席。明⽯石⽅方⾯面の三菱菱其の他の技能者の引き抜きにつき報告した事が、次から次へと話 題になった。今⽇日もまた、労働不不⾜足に就いての協議になった。 12⽇日 礼拝出席。役員会でイエス団の不不法占拠者の⽴立立ち退きに就いて打ち合わせ、14⽇日の夜交渉に当たる事に なった。彼等は武内と交渉したいと希望しているとの事である。 13⽇日 明⽯石税務署訪問。御影の⼟土地家屋の譲渡に対する課税に就いてであった。 千恵⼦子の東京⾏行行のために荷造りをした。 誉⽥田⽒氏と36年年予算に就いて打ち合わせの予定であったが、資料料の関係で変更更した。 14⽇日 川崎⽒氏は⼯工場⾒見見学で出張。 ⾼高橋⽒氏と加古川⾏行行きは取り消し、後⽇日(18⽇日)出張と変更更した。 夜、イエス団不不法占拠者20名と⽴立立ち退きに就いて交渉した。彼は移転は⽌止むを得ないものと考えている が、補償費の要求額を最⼤大限にとの意図のようである。⼀一⼾戸五万円では解決は出来ないであろう。 15⽇日 明⽯石税務署に申告書を提出した。 11時、YMCA に於いて兵庫県基督教社会事業経営者の懇談会の開催があり、これに出席した。 千恵⼦子の東京⾏行行き荷物を発送した。 久仁⼦子の婚約式は、⼤大阪 YMCA で26⽇日午後2時に挙げることとした。 16⽇日 平中鉄⼯工所は、経営者が肋肋膜で⼊入院中であり、従業員の解雇で裁判沙汰になっているが、未だ解決はつか ない。資⾦金金にも詰まっている。得意先からは信⽤用を失い、倒産⼀一歩⼿手前であったが、現在も作業は継続し ている。主⼈人公も退院している。給料料も遅滞なしであるという。よくやっていると感⼼心した。 17⽇日 分所⻑⾧長会義に出席した。会議後の放談会は、職員の中から反対者が出て廃⽌止を主張した。 会費は男⼥女女同額で、婦⼈人は給仕をする点、男は酒を呑むが⼥女女は飲まないのに、付き合いで時間つぶしとな る。会にテーマがなく、全く無意義というのである。改善の必要がある。席はくじで定める事、給仕は交 代ですること、発題者は選挙で定めて、必ずテーマを定めること、テーマがよければ有意義である。 18⽇日 ⾼高橋⽒氏と加古川⽅方⾯面の⼟土地の視察を⾏行行なった。 19⽇日 礼拝出席。イエス団の⼟土地不不法占拠⽴立立ち退きに就いて懇談した。 第⼀一、建築⽤用地にならぬ道路路敷きの分は第⼆二次とし今回の交渉の対象としないこと、第⼆二、バラックの所 有者と協議し間借り⼈人とは交渉しないこと、第三、⼀一定の⽴立立ち退き料料で交渉の決まらない時は、調停裁判 にかけること。 20⽇日 明⽯石出張。明⽯石の⼯工場経営者の最⼤大の悩みは、労働者の確保であるという。世間の景気が好くて、労働者 が不不⾜足してきたからである。労働者は⼤大⼯工場に集中しつつある。 近藤⽒氏来園。 21⽇日 終⽇日⾃自宅宅に於いて、畑の耕作とテレビを⾒見見ることで費やした。鍬を持つ事は疲れが早い。それを感ずるだ けで年年を取ったかと思う。 22⽇日 イエス団関係の予算書を検討した。数字の違いは何処にもあるが、事務の才能のないのも困ったものであ る。 吉⽥田⽒氏と⾯面談し、明徳寮寮を無償で貸すから、養⽼老老院を経営して欲しいと依頼された。重なる点は、⼟土地建 物は無償貸与、現⾦金金は三百万円寄付するとの事である。基⾦金金百万、改装百五⼗十万、運営に五⼗十万を充当す る予定であるが、更更に実地に就いて検討しよう。 23⽇日 YMCA に於いて、イエス団の36年年度度予算に就いて理理事会、評議委員会を開催し、午前10時から午後6 時半まで審議、協議、懇談を続けた。 但し、出席者が少なく理理事⻑⾧長、杉⼭山、⼤大川、⼩小川、吉⽥田、本多、芝などの理理事は⽋欠席であった。 花隈の建物に就いては、⽩白倉先⽣生とも懇談したが、移転の意志はなさそうであった。何うなるか。賀川先 ⽣生からの借り⼊入れは、実は先⽣生の寄付であって、借り⼊入れと称すべきものでない点が問題の中⼼心となり、 さまざまな説が出るのであるが、兎に⾓角、⼀一時に返済すべきものでないという⾦金金⽥田理理事の意向は強⾏行行であ る。 明⽇日⾺馬⾒見見の卒業式出席のため、吉⽥田⽒氏について奈奈良良に出張した。 24⽇日 ⾺馬⾒見見保育の卒業式に出席して祝辞を述べた。お⺟母さんたちの出席は、百名を越していたように⾒見見受けた。 実に盛⼤大なもので驚いた。 昼⾷食の際、役員の⼈人達と⾷食事したが、40⼈人近くの多数であった。 ⾺馬⾒見見の昔、四⼈人の若若者が中⼼心になって、伝道に、保育の設置に努⼒力力し、禁酒禁煙で基礎を築いた、古い思 い出話をきいたので、僕はそのもう⼀一つ昔の、賀川先⽣生の貧⺠民窟時代について156分おしゃべりした。 帰宅宅したのは6時過ぎていた。 祐⼀一が北北⼤大の⼯工場⾒見見学で京都、⼤大阪⽅方⾯面を巡る為に帰宅宅していた。彼が元気で勉強して呉れることは有難 い事である。 25⽇日 神視保育園の卒業式を挙げた。 ⺠民⽣生安定所⻑⾧長他⼀一⼈人が、式後出席された。川崎⽒氏の時間の連絡が悪かったためである。 夜は、イエス団敷地不不法占拠者と⽴立立ち退き交渉の懇談をした。決定は容易易ではないが、動く意志のある事 は認められる。 26⽇日 礼拝後、久仁⼦子の婚約式で⼤大阪 YMCA に⾏行行き、村⼭山牧師司式のもとに、⻑⾧長い間の問題も解決した。 出席者は永井⽗父⺟母と娘⼆二⼈人と、こちらは妻と千恵⼦子と祐⼀一も参加し、永井君の友⼈人が⼀一⼈人出席された。 27⽇日 崎元⽒氏の後の件、⽣生命保険⾦金金百万円の受け取りは妻のみでなく、全遺族に分配されることになる。 28⽇日 明徳館内に半⽇日を費やし、有効な使⽤用⽅方法を研究して⾒見見た。 今⽇日の労働委員10ヶ⽉月の勤務は終了了した。余り役にも⽴立立たなかった。次年年度度もう⼀一年年継続することにし た。 29⽇日 千恵⼦子の上京で、神⼾戸7時17分発霧島号乗り込みの⾒見見送りに出た。 彼も他⼈人の処で働く事が修養になるであろう。⽗父⺟母の死後を考えると、早く⼀一⼈人前の⼀一本⽴立立ちの出来る⼈人 間にしてやりたい。然し、⻑⾧長続きするかどうか気がかりになる。 明徳館の利利⽤用⽅方法について⾊色々設計して⾒見見た。 30⽇日 6時から YMCA に於いて、記念念館の設計に就いて協議したが、結論論は出なかった。更更に検討することにな ったのである。但し、今晩の検討で従来より⼀一段と進歩した事は事実である。 31⽇日 本多⽒氏が病気でずっと⽋欠席であったが、今⽇日は⾯面談し給料料も貰った。去年年9か⽉月分から遅払いであった。 今⽇日の天気は好過ぎて暑い。この調⼦子で数⽇日間続いたら、桜が咲く事であろう。 吉⽥田、⽶米⽥田両⽒氏に⾯面会のため三協を訪問したが、不不在であった。 * * * * 適宜コメントを付せば、理理解も深まるものと思われるが、今回まずは、句句読点や殆ど改⾏行行のない原⽂文に、 いくらか読みやすくする⼯工夫を加えて、そのままのものを記録することにした。「⽇日記 A」は縦書きであっ たが、この「⽇日記 B」は横書きである。 武内勝は、この⽇日記を記して5年年後、昭和41年年3⽉月31⽇日に⽣生涯を閉じている。 (2009年年9⽉月21⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月17⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(57) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 B」(2) 昭和36年年4⽉月〜~6⽉月 戦時下、神⼾戸空襲で焼失した神⼾戸イエス団の建物が、戦後新に再建されたのは、昭和24年年(1949) 年年2⽉月11⽇日であった。 ここに掲載する写真は、先⽇日(2009年年9⽉月17⽇日)、兵庫県三⽊木市にある「⼀一粒粒園保育所」の⼤大岸坦 弥・とよのご夫妻が拙宅宅にお越しになり、⻘青春時代のお話をたっぷりとお聞かせ頂き、⼤大切切に所蔵されて いる2冊のアルバムを持参して、拝⾒見見させていただく機会があった。これはその中の1枚である。 写真に付されているコメントで「昭 和24年年2⽉月11⽇日 神⼾戸イエス団 献堂式」とあり、このことが判明した。 このアルバムには、別に同⽇日撮影さ れた「神⼾戸関係の⼈人々」のものや、「イ エス団」の神⼾戸におけるもうひとつの 活動拠点であった⻑⾧長⽥田区番町のど真 ん中にあった「天隣隣館」で、ご夫妻が共に過ごされたお仲間たち、そして戦後この場所で開設された「⻑⾧長⽥田保 育所」などでの、とよの先⽣生その他が写された貴重な写真が沢⼭山残されていた。 添付写真中央の賀川の隣隣に武内は座しているが、前回から掲載を始めた「武内勝⽇日記 B」は、賀川没後す ぐ本格的に取り組まれた「賀川記念念館」建設に伴う募⾦金金活動のご苦労振りも、いくらか窺い知る事ができる ものとなっている。 * * * * 昭和36年年4⽉月〜~6⽉月 4⽉月 1⽇日 この間中から⾵風邪引きで、軽い頭痛があり気分が悪い。⾃自分の⾝身体の⽋欠点は、年年中⾵風邪を引いていること である。⾵風邪を引かない⼯工夫が必要だが如何するか。 今⽇日は会計年年度度の正⽉月だ。本年年中の経済に就いての神の守りを祈る。 イエス団の事業に、教会の財政の上に、我が家の家庭の上に。 2⽇日 礼拝に出席した。復復活祭である。出席者もいつもの礼拝より⼆二割程度度多数であった。 礼拝後、春⽇日野墓地に⾏行行き、イエス団の墓参と崎元待命⽒氏の納⾻骨式とを兼ねた。久し振りであったが、何 時来てみても、次に来る⼈人は誰かと思う。 年年の順から⾔言えば、⾃自分に当たる事になる。 3⽇日 ⾵風邪で頭の具合が悪く、⽋欠勤し医師の診断を受けた。⼼心配する程のことでもないが、仕事の出来ないこと が⾟辛い。 毎⽇日元気よく働けるほど、有難い事はない。終⽇日床にあって静養した。 4⽇日 今⽇日も前⽇日に引き続いて静養した。何うも頭が重くおかしい。これくらいのことで、続けて休むことは何 かおかしい。 久仁⼦子の就職する学校が決定した。丸⼭山中学校である。 嘗て職業指導で講演した学校で、⾃自分の娘が神⼾戸の学校で働くなど、夢にも⾒見見なかったことであった。久 仁⼦子にとってはよい経験となるであろう。 5⽇日 今⽇日もふらふらするが起きて出勤した。 神視は、今⽇日から新年年度度の事業始めである。⼊入園式を⾏行行なったが、⼦子供が⼩小さく数も少ないので、保育所 のままごとの感じであった。 県にも出勤した。来年年3⽉月31⽇日までの嘱託辞令令を貰ったが、余り⽤用事が多く、⾝身体の疲労を考えると、 辞退した⽅方がよいかとも考えられる。 久仁⼦子の⽉月収は18,170円也に交通費600との事である。 彼も理理学⼠士であり、阪⼤大の研究も3年年やったのであるから、もう⼀一⼈人前であって、今後どのような⽣生活を しようと放任しても、決して⼼心配は要らないであろう。 祐⼀一が九州から帰って来た。彼はもう1年年しないと⼀一⼈人前になれないが、健康であるから、北北⼤大は無事卒 業し、何処かに就職するであろう。来年年の3⽉月は楽しみであり、感謝である。 6⽇日 神視にも県にも出たが、頭のふらふらは依然として治らない。⽮矢張り⾵風邪の故である。 今⽇日は、四つ井⼯工作所と銀星タクシーと⼆二箇所から労働相談を受けた。前者は従業員 89 名中 37 名が組合 を結成し、それがストでピケを張っているため、⾮非組合員 52 名が就業が出来ないと訴えた。 組合がストを決⾏行行する事は組合の⾃自由であるが、⾮非組合員が就業する事も⾮非組合員の⾃自由であろう。それ を組合員が暴暴⼒力力によって 52 名の修⾏行行を妨害することは、⽣生き過ぎであるといえる。 銀星は組合を組織したが、上位団体の指導が不不当で 16 名中 12 名が脱退し、その 12 名が第⼆二組合を結成 したという。健全な組合を作ることは⼤大変な事である。 7 ⽇日 桂司法書⼠士を訪問し、神視の建物に就いて打ち合わせした。登記のためである。 今⽇日は社会事業会館で、賀川記念念事業会館の建設に就いて委員会を開くので、これに出席する。 記念念館の設⽴立立は容易易でないが、漸次進みつつある事は事実である。忍耐と努⼒力力で完成するであろう。 特に三浦、村⼭山両⽒氏の努⼒力力は⼤大変なものである。⼤大阪の協⼒力力もどの程度度であるか不不明であり、殊に東京は 全然⾒見見込みがない。そのほか他府県にあっても、援助は⼤大きく⾒見見積もらない⽅方が確実であろう。 8 ⽇日 早朝から福⼭山⽒氏(仮名)を訪問し、イエス団不不法占拠の移動に就いて相談した。困難な問題である。然し、 この移転問題は⾃自分が解決に当たるの他⽅方法がないと思う。福⼭山⽒氏(仮名)の不不安は、家賃を完全に払うか どうか、もう⼀一つは近所の⾵風紀が悪くなるの 2 点である。他の家を買収してアパートにする事を考えてみ るとの事であった。 9 ⽇日 礼拝に出席。⾬雨が降降り寒くなった。冬のようで⾵風邪をまた引き返した。 僕も弱くなった。⾵風邪に対する抵抗⼒力力がなくなった。 10 ⽇日 本多⽒氏と事務打合せをした。 1 徳島に賀川記念念事業を起こす事。それで慈愛寮寮の問題を解決した。 2 ⽯石井の事業を雲柱社のものとするか、イエス団のものとするかについて。 3 賀川夫⼈人に 130 万返済に就いて。 4 豊島の⼟土地の登記に就いて。 5 各施設からイエス団の補助に就いて申請の出ている事について。 11 ⽇日 協同⽜牛乳の債権者会議が裁判所で⾏行行なわれる予定であったが、判事の都合で 5 ⽉月 16 ⽇日に変更更になった。 正午は職安所⻑⾧長及び⻄西尾⽒氏と懇談し、昼⾷食は電電舎で御馳⾛走になった。 午後は県に出勤した。 12 ⽇日 終⽇日在園。 13 ⽇日 朝は、信愛学園で川村⽒氏と建物に就いて。 次に細⽥田を訪問し、⾼高橋⽒氏が渡⽶米商⽤用中である事を知り、⼥女女児を恵まれ仕合せに暮らしている状況を知っ て、感謝であった。 11 時から栄光教会で、国際奉仕団の委員会に出席し、1 時から県に出勤。 5 時から⼆二葉葉幼稚園で、イエス団の理理事会に出席、帰宅宅は 11 時であった。 14・15記⼊入なし 16⽇日 祐⼀一が北北海道に往った。後 1 年年で卒業する。時間の経つのは早い。 彼は学校を卒業して就職したら、最初の俸給は教会に献げるという。そういう⼼心掛けでいる事を嬉しく思 う。そのとおり実⾏行行させたい。 17⽇日 出勤した。特に記⼊入する事はなかった。 18 ⽇日 今⽇日も県に出勤した。上京の準備をした。 19 ⽇日 神⼾戸駅朝 7 時 17 分、霧島に乗⾞車車し東京⾏行行きで、夜は、深川愛隣隣学園で証⾔言した。最初 1 時間話し、後更更 に懇談の形で 1 時間話した。賀川先⽣生の⽣生涯を中⼼心であった。 20 ⽇日 キリスト新聞の主催で、15 周年年記念念と賀川記念念会と引き続き⾏行行なわれ、賀川先⽣生の新川時代について 10 分間話した。 1 時間ほど話す積もりで準備していたので物⾜足りなかった。然し、会衆 335 名で盛⼤大であった。会費 500 円払って、よくもこれだけ集まったものである。 ⽚片⼭山哲、杉⼭山元治郎郎、⼩小崎道雄、村⽥田四郎郎その他多数の名⼠士が参集していた。 夜は先⽣生の宅宅で⼀一泊した。兎に⾓角、12 時まで奥さんと杉⼭山、菅沼、純基⽒氏と共に、イエス団との打合せを したのであった。 21 ⽇日 千恵⼦子と共に千恵⼦子の必要な諸道具を買いに往った。 愛隣隣学園にまた⼀一泊した。 22 ⽇日 東京駅 8 時 14 分摂津で帰途に就いた。 5 時から、加藤先⽣生の接待で⼣夕⾷食の御馳⾛走になった。 23 ⽇日 礼拝説教。出席者 45 名。⾃自分が先⽣生の⼀一代記を語り、昼⾷食は⻨麦飯に焼き味噌で、40 名が昔の先⽣生をしの びながら⾷食事をした。その後で役員会を開催した。 祐⼀一からの⼿手紙によると、⼤大学からの発表に依れば 4 年年在学⽣生の内 7 名が 90 点以上で、この⽣生徒の就職 に就いては⼼心配は無⽤用。学校で責任をもって推薦する。但し 65 点以下の者は再試験を⾏行行なうが勉強せよ。 そうして祐⼀一はその 7 名のうちの⼀一⼈人であったという。アルバイトをしながら、よく努⼒力力した事を嬉しく 思う。 24 ⽇日 明⽯石税務署から所得税に就いて出頭せよと通知して来た。⾏行行ってみると⽣生命保険⾦金金の控除は 22500 円であ るのに 4 万以上控除しているから訂正せよとのことであった。 労働相談員を本⽉月限りで辞職することにしたので机の整理理をした。 25 ⽇日 細川書記と財団、福祉両法⼈人の決算役員会の打合せをした。終⽇日在園。 ⼤大下ゴム(仮名)の従業員が保⺟母に恋し、夜 2 時半電話で今から往ってもよいかと聞いてきた。保⺟母は驚い ている。5 ⽉月 16 ⽇日、僕が媒酌⼈人で結婚式を挙げることになっているものを、困った要求である。全く⽚片思 いであるが、結婚する事に依って、危害を加える事にならないように、注意している必要がある。 トマトを植えた。去年年は失敗であったが本年年はどうなるか。 26 ⽇日 神⼾戸職安を訪問し、杉⽥田課⻑⾧長を慰問した。職員が⼆二百数⼗十万円を横領領していたことが暴暴露露したので、⼤大変 な事になっていると思う。監督者の責任は免れない。悪い事をする部下を使っている者は不不孝である。 イエス団に於いて、東京での打ち合わせの内容に就き懇談した。尚理理事会に就いての相談をした。 県に出勤し岡⽥田を訪問した。 朝はきゅうりと⼩小芋を植え付けた。収穫はどうなるか。 27・28・29・30 記⼊入なし 5 ⽉月 1 ⽇日 夜 6 時、イエス団に於いてイエス団教会と⻑⾧長⽥田伝道所との牧師及び役員が、⻑⾧長⽥田伝道所の独⽴立立に就いて協 議した。 ⻑⾧長⽥田は喜ぶであろうと想像していたが、時期尚早で、当分現状のままを全員揃うて希望した。ピントがは ずれている感じであった。 2 ⽇日 ⾼高橋⽒氏と近藤⽒氏に⾯面接した。⼟土地の件であった。 3 ⽇日 休⽇日 4 ⽇日 ⽵竹中を訪問し、5 時より YMCA に於いて、本城⽒氏と記念念館募⾦金金について懇談し、その秘訣を本城⽒氏に教え て貰うためであって、種々協⼒力力されることを約束された。 5 ⽇日 記⼊入なし 6 ⽇日 協同宿泊所を訪問し、友愛に於いて村⼭山牧師と募⾦金金に就いて懇談した。 7 ⽇日 イエス団教会総会。役員選挙の結果、武内夫妻は当選で、武内は 50 年年役員を務め、更更に役員に当たった。 ひとつの教会で、役員 50 年年を務めることは計画して出来る事ではなく、全く主の導きである事を確信する。 8 ⽇日 午前は⼤大阪出張、全購連を訪問し、午後は中央市場を訪問した。賀川記念念の募⾦金金に就いてであった。 9 ⽇日 3 時、神⼾戸新聞会館パーラーに於いて、賀川記念念事業副会⻑⾧長会議を開いた。 中井⼀一夫弁護⼠士も出席され、募⾦金金に就いては協⼒力力する事を約束された。 10 ⽇日 兵庫教区総会に出席した。議⻑⾧長、副議⻑⾧長、書記 3 名が改選され、若若⼿手ばかりが役に就いた。県下の教勢は 依然として振るわない。前進運動、⼤大挙運動、ラクーア伝道、種々努⼒力力してはいるが、なぜかキリスト信 者は数が増えない。 本当の信者がいないからであろう。反省省しなければならぬ。 11 ⽇日 今⽇日も総会出席。 12・13⽇日 記述なし 14 ⽇日 礼拝出席 15 ⽇日 イエス団理理事会。YMCA、午前中は評議員会、3 時までは福祉法⼈人、其の後は財団法⼈人イエス団と朝から晩 まで役員会であった。 15 団体の仕事はそれぞれ有意義であって、今⽇日まで継続していることは感謝であり、今後益々発展に努め なければならぬ。 16 ⽇日 10 時、藤沢姉の結婚式に出席し仲⼈人役を務めた。 17 ⽇日 帝国信栄社⻑⾧長と⾯面談し、⼟土地の件を決定し、午後村⼭山牧師と岡部五峰⽒氏を訪問し、募⾦金金に就いての協議を 依頼した。 18 ⽇日 尼崎市役所に局⻑⾧長と共に出張し、募⾦金金について協議した。 19 ⽇日 中井弁護⼠士を訪問し、募⾦金金の協⼒力力に就いて依頼した。先⽣生は今も⼀一億説である。⼤大きな計画結構であるが、 募⾦金金は楽ではない。中井先⽣生は、神⼾戸新聞の原⽒氏に協⼒力力⽅方を依頼される予定である。 20 ⽇日 イエス団に於いて募⾦金金準備をした。 21 ⽇日 記述なし 22 ⽇日 6 時、YMCA に於いて記念念委員会を開いた。 11 時は愛隣隣館の理理事会を YM で開催された。愛隣隣館は改築の必要が迫ってきた。 23 ⽇日 神愛館⻑⾧長来園。借⼊入⾦金金、返済⾦金金、財団⽬目録などに就いて打ち合わせ。 24 ⽇日 栄光教会に於いて 7 時、賀川記念念⼤大講演会を開催し、武内も講師の⼀一⼈人で約20 分間講演した。 準備が不不⼗十分であって、集まった⼈人達も百名内外であったであろう。 講師は今村、吉⽥田の⼆二⼈人も⾒見見えなかった。講師に対する連絡もなかった。 上組の⽀支配⼈人井⽥田⽒氏を訪問。寄付を依頼した。 25 ⽇日 川崎重⼯工の砂野専務を訪問し、甲南汽船の⽥田中会⻑⾧長、労⾦金金の佐野理理事⻑⾧長と順調に⾯面会が出来た。 26 ⽇日 川崎航空機の専務を訪問し、庶務の係⻑⾧長と⾯面会したが、約束の 10 万円は受領領できなかった。岸⽥田⽒氏より後 ⽇日電話で回答の約束。 27 ⽇日 神⼾戸職安所⻑⾧長の紹介状により、神⼾戸⼯工業と神鋼を訪問の予定であったが、不不在であった。 午後、橋⽥田(仮名)⺟母⼦子のご両⼈人が来団。イエス団講につき本多⽒氏より 170 万の請求を受けているが、不不当 なものがあるので、中に⼊入って仲裁の労をとって欲しいとの依頼があった。 28 ⽇日 礼拝出席。午後、明⽯石愛⽼老老園理理事会に出席した。 29 ⽇日 イエス団の予算配分⾦金金、返済⾦金金などに就いて検討し、午後橋⽥田⽒氏(仮名)を訪問。不不法占拠者の⽴立立ち退きに 就いて懇談、打合せをした。 尚、4 時垂⽔水の⼭山奥を視察し、⼟土地の調査をしたが⼭山であって、素⼈人では⼿手のつけようがない場所であっ た。 30 ⽇日 村⼭山局⻑⾧長、徳島出張。賀川納⾻骨式参列列。 終⽇日名刺刺を整理理した。 31 ⽇日 午前中、本多⽒氏、事務所に於いて事務打ち合わせ。 1 時、社会事業会館にて社協主催の施設⻑⾧長会議出席。労働基準法の説明あり、午後 4 時閉会。 本年年 3 ⽉月より、社会事業に対しても労基法を適⽤用されることになった。これは当然なことであるが、今直 ちに実施された場合、違反しなければ事業を⾏行行なう事のできないものが多数であって、労基法厳守の為に は予算の裏裏づけが必要で、職員従業員の増加を計らなければ、実効⾄至難であるとの結論論に達し、此の種の 協議を今後開催されることになった。 6 ⽉月 1 ⽇日 35 年年度度予算、36 年年度度予算の報告を作成し、これを⼀一括した。 局⻑⾧長と共に神⼾戸⼯工業、川東、川鉄、三輪輪を訪問し、社会事業に対する協⼒力力を依頼した。 2 ⽇日 局⻑⾧長同伴、坪⽥田照次⽒氏、ビオフェルミン、中央市場を訪問した。 堺⽒氏は県に、6 ⽉月議会の追加として県より記念念事業助成費を予算化するよう、関係係りにそれぞれ交渉さ れた。これは厚⽣生省省より免税認可を受けるためである。 午後労⾦金金を訪問し、佐野理理事⻑⾧長とともに神鋼江⾒見見重役と⾯面談し、寄付⾦金金 30 万円の依頼をした。 3 ⽇日 村⼭山牧師と共に募⾦金金にかかっているが容易易でない。⼤大蔵省省の免税認可を得るまでは軌道に乗らないのでは ないかと考えられる。 4 ⽇日 礼拝の司会をした。午後は本多⽒氏を訪問し、橋⽥田⽒氏(仮名)のもつれについて相談し、その後で井上所⻑⾧長を 訪問した。 宿泊所も将来は鉄筋コンクリートの建物でないと⽕火災、衛⽣生の点から不不安である。計画をしてみよう。 5 ⽇日 ⾼高橋⽒氏と⾯面談し、後は理理事会の準備をした。そのためには県の⽯石橋⽒氏に電話し、賀川記念念事業にイエス団 は寄付しても法的に⽀支障はないかを問い合わせた。同⽒氏は寄付してよろしいと答え、これを確認した。 七福相互での借り⼊入れに就いて七福に交渉した。 6 ⽇日 ⼩小川⽒氏宅宅でイエス団(財団)の理理事会を開催した。 百万円を不不法占拠⽴立立ち退き者に⽀支給することについて、理理事会の了了承を得た。本多理理事は記念念事業から⽀支 出することを固持したが、⾦金金⽥田理理事の賛成で決定した。 7 ⽇日 不不法⽴立立ち退きについては、33 世帯に対しイエス団から百万円、記念念事業から百万円、神⼾戸市から 80 万円 を出した。 右近⽰示市会議員と橋本福松⺠民⽣生委員の特別な協⼒力力で解決した。 33 世帯は市会に集まって市、右近、橋本、武内からそれぞれ説明した。 不不平を⾔言う者⼀一名もなく、全員喜んで散会した。 ⽴立立ち退き問題は新聞の三⾯面記事か、調停裁判か、共産党の後援か等と⼼心配していたが、これが杞憂うにな ったことは感謝である。 8 ⽇日 ⽴立立ち退きの件を理理事⻑⾧長に報告した。⽴立立ち退き者の中 70%は既に移転先が決定した。幸いな事である。15 年年間不不法占拠で、ただで⼟土地を使って、出て⾏行行くときは数万円を貰っていくのである。然し、受くるより 与うるは幸いである。 9 ⽇日 午前中はイエス団に、午後は神視に。終⽇日⾬雨で外には出なかった。 4 時から職員会議を開き、⼟土曜⽇日にうどんの給⾷食を決定した。 久し振りの⾬雨でよく降降った。もう梅⾬雨⼊入りであろう。 近藤⽒氏が、⾼高槻に⼟土地の出物があるから買わないかと進めて来た。 不不法占拠⽴立立ち退きの後に、50 坪ばかりのバラックを建てたいので、設計をして⾒見見た。 10 ⽇日 ⻑⾧長⽥田区役所に於いて 31 年年度度固定資産税について調査した。保育認可を受けるまでの税⾦金金であることが明瞭 に成った。 不不法占拠者の中、2 家族は今⽇日建物をこぼち移転した。約束どおり、本⽉月中に全部が⽴立立ち退いてくれたら、 本当に有難い事である。 11 ⽇日 礼拝後、⼆二星⽒氏を⾒見見舞い、徐々に健康を回復復しつつあり、信仰は熱⼼心になり、主の救いの証⼈人となり、⼤大 いに伝道する決意であり。すでによき働きをしつつある事は感謝に堪えない。 夜の集会では、雪⼦子の証⾔言があり、⾃自分が司会した。 松⼭山兄(仮名)より、同⽒氏の息⼦子が⿇麻薬関係で⽯石井拘置所に収容され、先⽇日検事より 1 年年 6 ヶ⽉月の求刑が在 り、15 ⽇日判決がある予定であるが、執⾏行行猶予の恩典はないかとの相談であった。 これについて明⽇日、⼩小⻄西弁護⼠士を訪問する事を約した。 12 ⽇日 ⼩小⻄西弁護⼠士を訪問し、更更に裁判⻑⾧長に⾯面接し、判決を寛⼤大にと御願いした。 当⼈人が組みに加わっている事、⿇麻薬の扱いが⼤大量量であったことなどが、執⾏行行猶予にならない理理由のようで ある。 ⾼高槻の⼟土地を⾒見見に⾏行行った。 13 ⽇日 本多⽒氏に⾯面接し橋⽥田(仮名)の返事を伝えた。 頼⺟母⼦子講は廃業するが、掛け⾦金金に就いては相当無理理をして整理理する計画をしている。それでも百数⼗十万は 不不⾜足のようである。 市より⽴立立ち退きに関係する職員 2 ⼈人がきて、⽴立立ち退きをした者が壊した家の捨て場がなくて困っているが、 どうするかとの相談があった。 古⽊木は⾵風呂呂屋もただでも取ってくれないので始末に困っている。外に捨てると警察に叱られる。焼けば向 いが消防署であって具合が悪いという。 社会福祉法⼈人イエス団に対する助成案を⽴立立てた。 坂出吉村、南部升崎、⽩白倉、三⽒氏に対し、それぞれ書⾯面を出す事にした。吉村については登記と計画書に 就いて、升崎⽒氏については社会福祉法⼈人イエス団加⼊入について、⽩白倉⽒氏には⽴立立ち退きについて。 14 ⽇日 イエス団、橋⽥田(仮名)本多両⽒氏の講⾦金金関係がやっと解決した。⾦金金壱百万円也で双⽅方とも互譲したかからで ある。 15 ⽇日 聖和短⼤大の⽣生徒 16 名が、アーンアーピーヴィー⼥女女史に引率率率されて⾒見見学に来園された。参考事項については、 武⽥田主任保⺟母から充分説明した。 11 時から本多⽒氏と⾯面接。12 時から 4 時 30 分イエス団、其の後 7 時までは宿泊所に於いて、それぞれ⽤用 事を済ませた。 16 ⽇日 丸⾦金金ゴム社⻑⾧長と都市計画に就いて懇談した。この園にもその影響があるかないか、まだ不不明であるが早く 承知したい。次の設計計画があるからである。 午後は、イエス団で細川書記と財団関係で打ち合わせた。 17 ⽇日 賀川記念念館設計変更更に就いて素⼈人案をたてた。 新築は、不不法占拠者の⽴立立ち退き後に建つべきである。第⼀一の理理由は、市の助成約 400 万円と現在の建物の 跡に建てるためには、⼀一時バラック建てに 100 万はかかり、結局 500 万円の予算がいる。 運動場の位置と太陽の光線の点で、建物の表と裏裏との相違があるが、運動場が裏裏になっても⽌止むを得ない。 更更に、現在の既設の建物も半分は保存できる可能性がある。 18 ⽇日 礼拝後役員会があり、其の後永井家との打ち合わせのため、⼤大阪に妻と共に出張した。 結婚式場を YMCA とし、式はキリスト教としたが、永井夫⼈人は反対であって、はっきりと決定する事がで きなかった。 19 ⽇日 川崎航空より 10 万寄付の払い込みを、本⽇日末と交渉の結果決定した。 佐野⽒氏と募⾦金金に就いて懇談した。海員組合より 5 万円寄付が、佐野⽒氏と組合⻑⾧長との間で内定した。 船主協会からも、会員 8 名あり 100 万程度度は寄付されるであろうと、佐野⽒氏は⾒見見通しをつけている。訪問 ⽇日は同⽒氏より連絡される。 本城敬三⽒氏と電話で交渉し、22 ⽇日正午、YMCA で昼⾷食しながら募⾦金金に就いての懇談をする。 20 ⽇日 午前中理理事会、評議員会の議事録を仕上げて、細川書記の原稿を若若⼲干訂正した。午後は神視で勤務し、今 ⽇日は給料料の⽀支払いをした。 近藤⽒氏と⼟土地の件で⾯面会した。 21 ⽇日 イエス団議事録作成。 ⽚片⼭山⽒氏、⼟土地斡旋のため来団。 近藤⽒氏、賀川記念念館屋上に広告塔を設ける件につき来団。 22 ⽇日 正午、YMCA に於いて本城⽒氏と村⼭山、武内 3 ⼈人、昼⾷食を共にし、賀川記念念事業募⾦金金に就いて懇談した。 同⽒氏はウンと協⼒力力し、殊に⾦金金を寄付される⼈人々を善く承知していて、誰にお願いすればどの程度度は寄付す るであろうなど、予測の出来る確信を持っている。⼼心強く思う。 午後、林林輝⽒氏の来団があり、29 ⽇日、私学会館に於いて賀川先⽣生の死線を越えての⽣生々しいところを話して 欲しいと依頼された。喜んで承諾諾した。 23 ⽇日 ⽚片⼭山勘三郎郎の案内で、⼩小野の⼭山地を視察に⾏行行ったが、⾕谷が多く、利利⽤用の出来る⾯面積が少ないので、価格よ りも利利⽤用価値が少ないので、駄⽬目と判断した。 屋敷の前にある溝に⽯石を全部並べた。 ⼤大変な労⼒力力で全く疲労し、⾝身体全部が悼む。然し、⻑⾧長い間しなければ成らぬと考えていた事が実現したの で、何ともいえない愉快さでもある。 24 ⽇日 ⽯石を掘り起こし、これを溝に並べるにはえらかった。今⽇日も疲労は残っていて全⾝身が痛い。 ⽊木村姉の義⽗父が永眠し、⺟母と当⼈人の⼆二⼈人家族となって双⽅方が淋淋しいので、⺟母の⽅方が来神して、親⼦子⼆二⼈人で ⽣生活する事を希望していたが、真の⽗父親は妻を失って 28 年年⼀一⼈人でいるので、本当の⽗父と育ての⺟母とがこの 際夫婦になってはどうかとの問題が起こったという。誠に結構なことである。賛成する。 25 ⽇日 礼拝出席。 26 ⽇日 午前中イエス団、午後神視。豪⾬雨の為、⼀一時国道不不通。 川鉄訪問。20 万寄付を受けるため、村⼭山牧師と共に会社取締役桜井貞雄に⾯面接、更更に庶務係りに⾯面接した。 寄付⾦金金に就いては、社⻑⾧長の決裁がまだ済んでいないが、⼆二三⽇日の中に決済の⾒見見込みと答えた。 27 ⽇日 夜中からの豪⾬雨で国鉄、⼭山陽共に不不通で、終⽇日⾃自宅宅にいた。但し、屋敷が溝の下⽔水の氾濫濫で海の如くなり、 折⾓角の野菜が台無しになるのではないかと思われる。 兵庫県労働保険組合の役員会は変更更になった。 28 ⽇日 不不法占拠者 33 世帯のうち32 世帯がそれぞれ建物を壊した。残る1⼾戸は居座る考えのようである。電灯を 新しく取り付けた。 各地に⽔水害が起こっている。国鉄も私鉄も不不通箇所が多く出ている。殊に神⼾戸市に於いては、宅宅地の造成 で不不完全な⼯工事をしているために被害が多く、天災でなく⼈人災といわれているが、当局の責任か⼈人の欲の ためか、天⻯竜川も決壊したというし、東京も降降⾬雨らしいが、⼤大事に⾄至らねば結構である。 29⽇日 記念念館の屋上広告塔を設けることに就いて、近藤⽒氏の紹介により広告会社係員とが3名来団。村⼭山、武内 都合5名が協議した。 要点は、広告料料は最低年年額150万円、最⾼高25万円程度度であるとの話であった。中を取って年年額200 万円を毎年年前⾦金金払いとしてくれる事になれば、イエス団は経済的には⾮非常に恵まれ、さまざまな有意義な 事業を⾏行行なう事が出来る。 知事の反対がなければ実現する。広告もビールや酒は出来ないが、電気、薬品、保険の種類の者はイエス 団の建物を利利⽤用したとしても差し⽀支えはないと思う。 30⽇日 河上丈太郎郎⽒氏より、三浦⽒氏に電話で、記念念館建設のための募⾦金金につき、⼤大蔵省省はかねて提出している書類 の他に、知事の副申書と建物の3階の使⽤用⽅方法と、会館を特定の者に貸さない規則がでたら、それで認可 の⽅方針との事であった。 直ぐに書類作成に取り掛かった。認可があり、広告料料が⼊入り、更更にモータープールでも設けることになれ ば、イエス団の財政基礎は⼀一層強固となって来る。 * * * * 武内のこの⽇日記を記して2年年後、昭和38(1963)年年にめでたく「賀川記念念館」は開館される。そして ⽇日記にあるように、武内と共に、この募⾦金金活動の中⼼心的役割を担って取り組んだ村⼭山盛嗣牧師は、賀川の 招きで昭和33年年にイエス団の牧師として就任し、⻑⾧長期間にわたり「賀川記念念館館⻑⾧長」「友愛幼児園園⻑⾧長」 などを歴任、2009年年の今もイエス団専務理理事として、「賀川献⾝身100年年記念念事業」の⼤大きな柱である 「賀川記念念館の新築再建」の事業に関っている。 補記 過⽇日(2014年年3⽉月8⽇日)には「賀川記念念館設⽴立立50周年年感謝会」が、新築5年年となる「賀川 記念念館」において開催された。 (2009年年9⽉月23⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月19⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(58) お宝発⾒見見「武⽥田勝⽇日記 B」(3) 昭和36年年7⽉月〜~9⽉月 今回の武内の⽇日記の中に、この地域の住宅宅問題への⾔言及がある。戦前、賀川らの努⼒力力が実り、 「不不良良住宅宅 地区改良良法」が制定された。その第1号として、神⼾戸のこの地域が指定され、昭和6年年から10年年までに 鉄筋共同住宅宅326⼾戸と⽊木造住宅宅60⼾戸が建設された。 しかし、ここで紹介する武内の⽇日記に依れば、昭和36年年段階でも、戦災で焼け残った鉄筋共同住宅宅の 屋上に90⼾戸ものバラックが建ち、改善の⽅方途も確定していない状況にあった。この頃漸くにしてという べきであるが、国を挙げた根本的な解決の⽅方策を本格化させる時を迎えていた時であった。 添付の写真は、武内⽇日記から10年年近く経た昭和45(1970)年年のものであるが、神⼾戸市内におい てもこの数年年後から、集中的な環境改善事業が取り組まれ、共同住宅宅そのものも姿を消した。そして今⽇日 在るような、⾼高層の市営住宅宅郡の建ち並ぶ、新しい街へと⼤大きな変貌を遂げたのである。 残念念ながら、この急激な地域の変貌過程は、武内没後の ことである。21世紀を迎えた街の現在を、もし武内が⾒見見 るとすれば、如何なる感想を抱くのであろうか。 * * * * 昭和36年年7⽉月〜~9⽉月 7⽉月 1⽇日 終⽇日、神視にいて賀川記念念の免税認可申請の⼀一部作成。 2⽇日 礼拝後、終⽇日教会に残り、⼣夕拝の証⾔言を済ませて帰宅宅。妻と⼆二⼈人連れで⼆二⾷食の弁当持ちであった。 話の最中、岸本君が持病のてんかんを起こしたので、看病に医師の依頼に皆が協⼒力力した。幸い集会閉会後、 やや元気になったので、寿君に岸本君を⾃自宅宅まで⾒見見送ってもらった。 3⽇日 終⽇日、イエス団⽴立立ち退き後始末。前不不法占拠者の⼀一⼈人に依頼した。 4⽇日 記念念館の屋上に広告塔を建てることについて、知事の了了承を得た。これで年年額200万の前⾦金金を得、記念念 館の維持費に⼼心配がなくなった。 5⽇日 兵庫県労働保険組合の役員会が労働会館で開催され、10時から6時まで出席した。 理理事⻑⾧長に対する反感が多く、事毎に衝突であった。専務の退職でよりこじれた様である。労働者の代表は 理理事⻑⾧長の⾼高姿勢が気に⾷食わぬといっている。理理事⻑⾧長には気の毒でならなかった。できることなら引退した い事であろう。 ⼤大蔵省省は、賀川記念念事業募⾦金金に就いて、寄付⾦金金の免税認可をしたとの連絡を受けた。これで募⾦金金に⾺馬⼒力力を かけることが出来る。 6⽇日 5時、⼀一⻨麦に於いて委員会開催。各施設に対する助成⽅方法及び⾦金金額は⾦金金⽥田、本多、武内の3理理事で決定す ることになった。 次回は、⾦金金⽥田理理事の都合により8⽉月⾏行行なう事になった。基⾦金金は⼟土地を買収することに決定した。但し、財 団は年年額200万を充当する事とし、たとい借⼊入⾦金金をしてもこの額を保証することに決議した。 (⽥田中提案) 7⽇日 神⼾戸新聞広告部より10万寄付。 近藤、⽇日鋼社⻑⾧長の両⼈人が、来団あり、記念念館を公団の資⾦金金により7階か8階の建物とし、1,2,3階を 使⽤用し、他は住宅宅としては如何との意⾒見見であった。 児童の運動場は屋上にとすることにして計画することも、⾯面⽩白い案である。 神⼾戸市を訪問し、⽴立立ち退きの件で礼を述べ、また橋本⽒氏にも礼を述べた。 バラックの後⽚片付けがまだ済まない。 8⽇日 右近、橋本両⽒氏に礼を述べに往った。 市のアパート管理理⼈人、所⻑⾧長⼤大⾓角治⽒氏と塚⽥田利利雄⽒氏の⼆二⼈人が来て、不不法占拠の⽴立立ち退き状況を聞かしてくれ と依頼された。アパートの屋上の90⼾戸のバラックを建て、其処にいる⼈人達が居住しており、また畑を作 っていたと⾔言う。 住宅宅料料500円では新築が出来ず、放任も出来ず困ったものだと、悲観論論を称えた。建築費は国庫から⼆二 分の⼀一の補助があるのだから、⼀一ヶ⽉月⼆二千円くらいで賃貸の出来るものを建てたら、新川の住宅宅問題は解 決する。⺠民⽣生局⻑⾧長の無能の結果、新川、番町の住宅宅問題の解決がつかないのではないか。 9⽇日 礼拝出席。⽴立立ち退きの後始末で、汚い古⽊木などを焼いていたが、⽕火が⼤大きくなり隣隣のガソリンスタンドに ⽕火がついては⼤大変と、消防署に依頼して⽔水をかけてもらった。そのため始末書を提出する事を、署から要 求された。 10⽇日 イエス団の敷地、建築位置などに就いて検討した。 午後神視に出掛けた。特筆事項はなかった。 11⽇日 明⽯石農協⽜牛乳に往き、組合⻑⾧長その他3名と地裁に出席し、債権額を決定した。まだ淡路路信⽤用の⼀一⼝口が残っ ているが、何う決定されるか。 12⽇日 本多君より垂⽔水の⼭山林林1坪200円で買えるが思案しないかと連絡があり、本多君の事務所で、村⼭山牧師 と3⼈人が2時間待ったが、案内⼈人が出てこないので中⽌止した。 13⽇日 ⼤大阪ヴォーリズ事務所を三浦、村⼭山、武内3名が訪れ、記念念館の設計について懇談した。設計と請負とを 別にした⽅方がよいか、最初から請負に⼀一任したほうがよいか、検討の必要がある。 ヴォーリズに設計を依頼するのであれば、請負は⼊入札とすべきであり、⽵竹中に請負をやらせるのであれば、 ヴォーリズを依頼する必要はないと思う。 14⽇日 本多⽒氏により⼟土地の現地視察をした。本当の⼭山であって住宅宅地にはならぬ。 イエス団が所有すれば、⼭山林林は盗材されることは明らかであり、困難と思われる。同じ伊川⾕谷でも明⽯石に 近い役場付近であれば、明⽯石駅に3キロの距離離であり、坪当たり300円の差があってもそのほうが有利利 と考えられる。 15⽇日 丸⼭山(仮名)が来団し、協同⽜牛乳の解決に就き、⾃自分に⼀一任すれば早く解決がつくが、現状のままでは何年年 経っても解決は困難であると申し出てきた。不不安になったので、反対に出て来たものと思われる。 近藤⽒氏と電話で建築に対する打合せをした。 16⽇日 久仁⼦子の結婚仲介者として、堤先⽣生を訪問しご依頼した。永井利利彰君の⽗父君と共に⾏行行った。松阪屋で、式 に関し永井の⽗父と息⼦子と⾃自分と久仁⼦子の4⼈人が打合せをした。 ⽇日々暑さが酷くなって来た。 17⽇日 ⽚片⼭山⽒氏が、⼩小野の⼭山地について近く神⼾戸市と合併になるのであり、地価が⾼高騰するから最も有利利な⼟土地で ある、よい買い物であると進めてきた。然し、急に発展するものとは考えられない。 18⽇日 村⼭山牧師と⽣生駒⽒氏を訪ね、⼭山下栄⼆二⽒氏を久保⽥田鉄⼯工所に訪ね、同⽒氏に募⾦金金に就いての相談をした。⼭山下⽒氏 は⾮非常に好意的であって、直ぐ市⻑⾧長に電話し、共に市⻑⾧長に⾯面談した。 市⻑⾧長も、⼤大⼝口の募⾦金金には⾃自分で出かけるといわれ、元代議⼠士⼭山下⽒氏は、僕も募⾦金金に廻ると約束し、尼で1 00万円は募⾦金金したいとのことであった。 ⾮非常に協⼒力力的であった。尚、市⻑⾧長は市として何がしかを予算化する決⼼心であると話された。⼼心強く思うた。 有難い事である。 本城⽒氏と⾯面接し、募⾦金金に就いて協議をした。本城⽒氏も⾮非常に⼒力力を⼊入れて厚意ある気持ちを⽰示された。⽒氏⾃自 ⾝身が募⾦金金に⾏行行くと度度々話される事は、⼤大きな奨励である。 19⽇日 ⻑⾧長⽥田保健所に於いて、神視の園児にワクチンを与える事に就いて打ち合わせ、加藤先⽣生によって飲ますこ とにした。 本多⽒氏と橋⽥田⽒氏(仮名)との件は明⽇日に延期した。 20⽇日 本多事務所に於いて橋⽥田(仮名)親⼦子より100万円渡すから事務所は何時空け渡すかについて話し合いの 結果、橋⽥田⽒氏(仮名)は本多⽒氏が8⽉月5⽇日事務所の明け渡しだと固持するので、橋⽥田⽒氏(仮名)は僕に⼀一切切の 責任を負わせ100万も僕が預かった。 21⽇日 尼崎市⻑⾧長名で芳名録に挨拶⽂文を書くことと、知事名で募⾦金金依頼状を書くことで⼀一⽇日費やした。 不不法占拠跡の⽚片付けをして呉れた⽼老老⼈人に礼をした。 千恵⼦子が帰って来た。夏休み2週間の暇が与えられたからである。 22⽇日 午前中イエス団、午後神視。 23⽇日 松阪屋にて永井⽒氏と打ち合わせ。 24⽇日 和歌⼭山の粉川教会で、イエスの友の修養会が開催され、これに出席した。 ⽴立立証時間6分で、話すに苦しいが仕⽅方なし。⼀一⾔言した。 25⽇日 久仁⼦子が帰宅宅したので家から打電あり、直ぐに帰宅宅した。久仁⼦子は県病院で診察を受けて、5時佐野病院 に⼊入院した。 26⽇日 永井君が来宅宅し、共に病院を訪問した。久仁⼦子の診断は、3ヶ⽉月で退院の⾒見見込みと院⻑⾧長は⾔言われた。 27⽇日 丸⼭山中学校⻑⾧長を訪問し、病状に就いて報告した。 後、⽶米⽥田⽒氏を訪問し、養⽼老老院設置に就いて懇談した。⽶米⽥田⽒氏が果たして寄付するかどうかが明確でない。 YMCA で建築に就いて協議し、⻫斉⽊木、前⽥田両⽒氏の意⾒見見を聞くことにした。 28⽇日 ⼤大阪松阪屋にて永井⽒氏と⾯面接の上、久仁⼦子の30⽇日結婚は取り消す事に決定し、松阪屋への申込みはこれ を取り消した。取り消し料料⾦金金は無⽤用。堤先⽣生を⼤大阪⼤大学院に訪ね、結婚式変更更の連絡をした。 29⽇日 ⾃自宅宅電話加⼊入が認められたので、早速申込みをした。1万300円の⼯工事費である。 30⽇日 礼拝出席。久仁⼦子の結婚式取りやめに就いて報告した。 三島⽒氏(仮名)来宅宅し、家内は1000の無⼼心でこれを渡した。 31⽇日 三島⽒氏(仮名)は、イエス団に来て3万円借⽤用したいというたが、断った。 今⽇日も1000貸せというので、今⽇日も貸した。彼は⾦金金に困っているのであろう。 8⽉月 1⽇日 ⽇日光に於けるイエスの友会に出席のため、銀河で出発した。寝台券が買えたので楽に上京できた。 2⽇日 ⽇日光の蒲⽣生浜に開会前に到着した。⾃自然が⼤大きく且つ美しい。別荘が沢⼭山あり、観光客が多数である。 ⼤大正8年年に来たが、その時は舗装道路路はなく、従ってバスもなく徒歩で登ったのであるが、今は便便になっ たものである。 修養会の出席者が50数名で、先⽣生の全盛時代の三分の⼀一程度度である。三分の⼀一程度度の若若⼈人の参加は、⾮非 常に頼もしく感じた。イエスの友の後継者が欲しいものである。 久し振りに旧友に会って、嬉しくもあった。 3⽇日 今回の修養会は、プログラムに無理理がなく、何となく落落ち着いた気楽なものである。⼤大変御馳⾛走を⾷食べさ す。イエスの友開催以来、嘗てない御馳⾛走である。 ⾷食事をしながら、貧しき者を忘れるな、との賀川先⽣生の声が聞こえる。 男体⼭山の裏裏の湯之元も⾒見見たし、湯の滝、戦場ヶ原も⾃自動⾞車車で⾒見見物した。 4⽇日 修養会も昼⾷食で終わり散会した。 中禅寺湖を蒲⽣生浜から船で渡ったが、⾬雨降降りで視野が狭く、何も⾒見見えなかった。⼜又、華厳の滝を⾒見見に⾏行行っ たが、これも⾬雨で⾒見見えず、⽇日光とは⽇日の光であるが、毎⽇日三⽇日間とも⾬雨天であった。⽇日光に雲柱社が集ま ったので、降降⾬雨になったか。 出席者延べ57名では、兎に⾓角淋淋しい。もっと多くをひきつける実⼒力力を持たなければ駄⽬目だと、誰もが考 えているようであるが、今のところイエスの友関係では、偉⼤大な指導者がいない。 夜、⾦金金星で帰途に着いた。 5⽇日 正午ごろ家に帰った。庭は草で茂り、野菜は⽔水に餓えていたので、早速⽔水を注いだ。 6⽇日 礼拝出席。記念念事業に対する東京⽅方の報告。 7⽇日 神視、イエス団、夜は⼀一⻨麦で委員会。⼟土地に就いて。疲労を癒す時はない。 8⽇日 住友信託の案内で御影、芦屋⽅方⾯面の⼟土地を視察した。 9⽇日 森及び酒井⽒氏を訪問した。3時半から、⽶米国の⼤大学⽣生に賀川先⽣生の⼀一代記を話した。但し、通訳つきの話 はしにくいので不不快である。 10⽇日 ⼤大川、⾦金金⽥田両理理事の案内で、⽣生駒の⼟土地に視察に往った。 ⼭山⼜又⼭山で全くの⼭山地であった。買うのは安いが、売る事は難しいと考えられる。協議の結果、⼤大川⽒氏所有 地の地続きだけを買うことにした。 夜は、クリスチャンセンターに於いて、賀川豊彦劇の打ち合わせがあり之に出席した。 11⽇日 イエス団、午後神視。夜、YMCA で賀川記念念事業委員会、建設に関し協議した。兵庫建設か⽵竹中か⼀一般⼊入 札か。 ⾃自分としては、⽵竹中に⼀一任が最善と信じ、委員の多数も同感の様であるが、福井⽒氏のみは兵庫建設を主張 する。 12⽇日 永井君が川崎から久仁⼦子の⾒見見舞いに来てくれたので、⾃自分と雪⼦子と3⼈人で病院を訪問した。ずっと快⽅方に 向かっている様⼦子であった。院⻑⾧長も係り医師も不不在であったので、詳細は不不明であるが、第⼀一はふとって 来た、第⼆二は蕁⿇麻疹も薬の加減か知らないがずっとひいている。第三は永井君に会えたためだろうが、よ く笑っていたし気分もよさそうで、⼊入院の時と⽐比べると雲泥泥の相違であると思う。 13⽇日 礼拝出席前に、森⽥田校⻑⾧長宅宅を訪問する考えで、家内と⼆二⼈人で宅宅を7時30分に出かけたが、バスの不不便便(1 時間に1回)で予定以上に時間を費やした。 久仁⼦子の⽋欠勤に就いては、校⻑⾧長に⼀一切切御願いした。礼拝は⽌止むを得ず⽋欠席した。 夜は、村⽊木⽒氏(仮名)が来宅宅し、病気に窮しているから1万円貸してくれと依頼を受けた。然し、平素何の 交際をしているわけでもなく、また久仁⼦子の病気で⽀支出が多く断ったが、⾃自殺するといって動かず300 円を恵んだ。 14⽇日 三島(仮名)、植⽊木(仮名)の両⽒氏が協同⽜牛乳の関係で来団した。管財⼈人が病気の為引き上げて帰った。早く 解決したいものである。 上⼭山(仮名)と⼭山下(仮名)の両⽒氏が、⼟土地の件で今⽇日も御苦労様にイエス団に来訪、不不動産はそんなに簡単 に売買は出来ないが、ブローカーは儲けの為に熱⼼心である。 15⽇日 波⽌止岡⽒氏の案内で、有⾺馬の⼟土地を視察した。よい⼟土地であるが理理事会は何とするか。 16 ⽇日 尼崎に出張し、賀川記念念の募⾦金金打合せをする予定であったが、相⼿手⽅方の⼭山下元代議⼠士が休みでやむなく帰 った。⽣生駒⽒氏が市と⼭山下⽒氏との連絡を取り、懇談の出来る⽇日時を知らして貰うことにした。 17 ⽇日 500 円で⼟土搬びの⼿手製の⾞車車を使⽤用した。従来どおり箱を引いていたのに⽐比べると、労⼒力力は⼗十分の⼀一も要ら ない。⾃自分で驚いた。不不精は出来ない。⼯工夫は宝である。 18 ⽇日 久仁⼦子を病院に⾒見見舞った。素⼈人から⾒見見ると普通⼈人と何等変わったところがなく、健康状態からも精神状態 からも、ずっとよくなっていると思うのだが、池地先⽣生は、⼊入院の時と同じ事でよくなっていないといい、 それで電気療療法をやって⾒見見る、⼀一ヵ⽉月後にはその結果が現れ、よくなると思うとの診断であった。 久仁⼦子に薬品の効果がないので、若若し電気でも効果がなかった場合は、インシュリンを使⽤用するとの話で あった。本当によくなっていないかどうかについて、医師の⾒見見⽅方も当たっているかどうかに、いささか疑 問が残る。 上岡(仮名)、村⽊木(仮名)の両⽒氏が、⼩小野の⼟土地を早く買うように理理事会に計ってくれと要求してきた。買 えば直ぐ倍に売れるという。それではその⽅方に売ったらよさそうであるが。 徳憲義牧師について、依頼のまま原稿⽤用紙 5 枚に書いた。 19 ⽇日 奈奈良良電鉄三⼭山⽊木に出張。⽇日⽣生農園視察。 給料料⽀支払い。 20 ⽇日 礼拝。役員会。⻄西⽠瓜。⼣夕拝を廃⽌止すべきか存続かについて協議した。 21 ⽇日 ⼤大阪⾦金金⽥田⽒氏と預⾦金金寄付⾦金金などに就いて打ち合わせ。 預⾦金金については神⼾戸銀⾏行行より 50 万の寄付を受けているが、預⾦金金をしていないので現在の定期満期を機会に、 神⼾戸に預⾦金金すべきである。本多⽒氏も反対しないであろう。⾦金金⽥田⽒氏も賛成であった。 22 ⽇日 ⾼高橋⽒氏と七福について打ち合わせをした。帝国信栄も七福も寄付をすると⾔言ってくれた。 23 ⽇日 本多⽒氏と七福の預⾦金金に就いて協議した。 七福は他の銀⾏行行以上の利利を出すといい、賀川記念念に対しても寄付するとの申し出があり、神⼾戸は⽇日歩 2 銭 1 厘で預かるという。 24 ⽇日 村⽊木(仮名)、上⼭山(仮名)の両⼈人が来て、明⽯石の⼟土地の買収の際に労した点、今回イエス団はその⼟土地を⾦金金 にしたことに就いて、若若⼲干の謝礼は出ないかと要求した。よく説明したので納得して帰ったが、とること ばかり考えている連中である。 財団法⼈人イエス団の従業員年年⾦金金案を作った。これでよく研究してみる。 年年間どれだけの予算が必要になって来るか、これが問題であるが、将来の従業員の為に、年年⾦金金制度度は是⾮非 必要である。 25 ⽇日 松尾尼崎信⽤用⾦金金庫理理事⻑⾧長及び神⼾戸信⽤用⾦金金庫理理事⻑⾧長に⾯面談し、賀川記念念事業寄付⽅方を依頼した。寄付⾦金金額は 不不明であるが、何れも了了承された。感謝である。 26 ⽇日 多聞寺で神⼾戸市の公⽴立立私⽴立立の保育施設⻑⾧長、保⺟母の研修会があり、3 時湊川駅を出発出席した。 多聞寺は、寺の本堂という感じはなくユースホステル、修養会場を⽬目的として建築されている。下から⾒見見 上げたところ寺のようであるが、建物の中は寺らしくない。キリスト教会が善く利利⽤用するはずである。他 の団体も善く利利⽤用している。⾷食堂も清潔で便便利利であり、殊に便便所は綺麗麗であった。会の問答は余り有益で はなかった、時間が欲しかった。 27 ⽇日 礼拝司会。礼拝後、婦⼈人会の例例会で信仰に就いて奨励した。 28 ⽇日 6 時家を出発し、本多⽒氏と共にクリスチャンセンターに⾏行行き、イエスの友会の劇と賀川記念念事業に関係し た協議あって、後泉佐野に⼟土地を視察した。 今まで⼤大阪の案内受けたものでは、⼀一番ましな⼟土地と判断された。 29 ⽇日 ⾼高⽊木⽒氏(仮名)より、箕⾕谷の奥に坪当たり 17 円の⼟土地があると知らせてきた。 本条ダムの近くで景⾊色のよいところだという。村⽊木⽒氏(仮名)も坪 200 円程の⼟土地があると図⾯面まで持って 来てくれた。但し、遠⽅方の⼭山地を買うことは考え物であろう。 兵庫建設は記念念館の建設を断った。 30 ⽇日 ⼤大阪クリスチャンセンターに於いて、賀川劇について協議会あり出席した。今晩は何の意⾒見見も述べなかっ た。本⽉月末までに何回も委員会を開く予定だとのことである。⽊木本⽒氏はじめ御苦労様である。 31 ⽇日 四条畷の⼭山地を買収したので、これの⽀支払い・登記等について、⼤大阪に出張した。 暑い最中、⽥田舎道を歩き回った。⼤大川⽒氏の案内であったが、⼤大川⽒氏もご苦労千万 1 円の利利益も得るもので ないのに、全くイエス団のためである。 9⽉月 1⽇日 ⼆二百⼗十⽇日であるが、好天気で⾬雨⾵風の⼼心配のない1⽇日であった。 尚、農林林省省は開国以来、嘗てない⼤大豊作を報じている。7年年続きの豊作である。農業技術が進み、農薬・ 肥料料等々により、昔のような不不作もなくて済むのかも知れない。有難い事である。 関東⼤大震災記念念⽇日でもある。⼤大地震はあっても、僅かの損害で済ませる準備と訓練が⼤大切切である。 久仁⼦子を病院に訪問した。これが病⼈人であろうかと思われるほどであるが、医者は⽮矢張り病⼈人であるとい う。どうして病気したのであろうか。これが防⽌止も⽅方法のありそうなものである。 2⽇日 丸⼭山中学校⻑⾧長と教頭に、久仁⼦子の病状に就いて報告し、礼を述べた。 本⽇日20⽇日までは賜暇で、それから先を⽋欠勤にするとのことである。 彼が早く全快し、結婚か勤務の出来る様になってもらいたいものである。 3⽇日 礼拝出席。 4⽇日 午前中、神視。 ⼤大正3年年、僕より涙ながらの話を聞いたとの事であり、其の後、垂⽔水の聖書学校に学び、聖書協会で20 数年年販売係りを務め、現在伝道の応援をしていると⾔言う渡辺⽒氏が来園し、種々と昔の物語をするが、思い 出せない。僕も愈々⽼老老いたのか。 5⽇日 午前神視に、午後イエス団に在勤した。 財団法⼈人イエス団及び社会福祉法⼈人イエス団従事員の年年⾦金金制度度確⽴立立の為、原案を作成した。 年年⾦金金の⽀支給規定よりも、年年⾦金金の基⾦金金をどれ程積み⽴立立てるべきかの、算定基礎資料料を作ることに時間を要し た。然し、これでイエス団関係の職員に、ひとつの安定感を与えうるであろう。 イエス団がこれを確⽴立立する事に依って、他の団体もこれに習ってくるであろう。社会福祉事業従事者の福 ⾳音となることであろう。 6⽇日 病院を訪れ、久仁⼦子に⾯面会した。 彼は昨⽇日から世界が変わった感じがする。また今まで何事でも⼆二つに考えられたが、それが⼀一つになった といい、院⻑⾧長もよくなったと証明された。 但し、院⻑⾧長はこの調⼦子が続くか、⼜又悪くなるか保証は出来ないと、慎重な条件がつけられた。兎に⾓角、⼊入 院以来始めての顔つきであり、当⼈人も喜んでいた。感謝である。 永井君との懇談の席を何処にするかと求めていたが、雲内の⼋八幡神社の社務所を借りてもらうことになっ た。10畳に8畳の座敷で、神⼾戸を⼀一⽬目に⾒見見おろす事のできる申し分のない、静かで明るくて広くて、結 構な部屋である。有難い事である。 7⽇日 イエス団の研修会場について、⾦金金⽐比羅羅⼭山を⾒見見に往った。こんなよいところがある事を、⻑⾧長い間神⼾戸にいて 気がつかなかった。 ユースホテルであり、修養会には最適である。料料⾦金金も安い。 8⽇日 5時、YMCA に於いて財団法⼈人イエス団理理事会を開催した。⼟土地買収、財産管理理、修養会、年年⾦金金に就いて 協議した。 9⽇日 永井君が8時三宮に着くので、家内と⼆二⼈人で出迎え、3⼈人で病院を訪問し、雲内の⼋八幡神社の社務の⼆二階 座敷で4⼈人が⾊色々話し合った。 久仁⼦子が快⽅方に向かっていて、もう峠を越えているので、共に有難く思うた。 永井君は、10⽉月30⽇日結婚式予定で準備を進めたいといってくれた。久仁⼦子も喜んでいる。 10⽇日 礼拝に親⼦子3⼈人が出席した。夜は、信仰第⼀一と題して⾃自分が奨励した。 ⽇日中は、岸本君の住宅宅につき相談した。 11⽇日 ⽵竹中訪問。丸⼭山(仮名)来団。⾼高芝弁護⼠士訪問。神視出勤。 協同⽜牛乳の後始末がまだ出来ない。丸⼭山(仮名)の⾔言を信⽤用する事もできず、早く解決のつくことを願う。 12⽇日 昨夜、吾妻通6丁⽬目に⽕火災があり、罹罹災者35,6名がイエス団に流流れ来て宿泊した。お気の毒である。 保育は停⽌止になった。 罹罹災者は往くところがなく、⾦金金もなく、持ち物は焼失しているが、イエス団にながく⽌止まってもらう事は 勿論論出来ない。 区役所の市⺠民課⻑⾧長は⾒見見舞いには⾒見見えたが、市からの⾦金金は個⼈人に1000円、⼆二⼈人以上の家族に2000円 で、品物は独りに⽑毛布1枚で、それ以上は何物も出ないという。 明⽇日13⽇日1時に、⾦金金と⽑毛布を⽀支給することになっているが、果たして⼀一同が出て⾏行行くかどうか疑問であ る。 13⽇日 丸⼭山中学校の教頭が来宅宅になり、久仁⼦子の辞職願に就いてである。 退職と同時に健康保険も無効になるとか、後4⽇日ばかりの⼊入院である。何とか成らないものか。 ⽕火災の罹罹災者は130⼈人となった。市より⾦金金⼀一封、右近市会議員より世帯道具類バケツ⼀一杯、市と⽇日⾚赤か ら⽑毛布、イエス団から⽶米と⽸缶詰、などを⽀支給し、全員がここから出て⾏行行った。 新川の不不良良住宅宅の完全な改良良は何時か。不不良良住宅宅を残しておく事は、犯罪の巣を残してあると同然である。 14⽇日 七福相互を訪問し、寄付の承諾諾を得た。相互銀⾏行行関係で25万か30万まで寄付するのであろう。 六六甲信⽤用を訪問したが⽩白⽯石理理事⻑⾧長は今⽇日も不不在であった。 県の信⽤用組合協会に往ったら⽩白⽯石理理事⻑⾧長がいたので、記念念事業に対する寄付の依頼をしたら、他の⽅方⾯面の 寄付額とにらみ合わせて応分の寄付をする、他所より多くしなければオッチョコチョイといわれ、少しだ とけちん坊といわれる。但し坊主には絶対にしない、賀川先⽣生のためだから、との挨拶であった。 七福の下さんの紹介で、⽇日⽑毛にも専務を訪ねて寄付を依頼した。 修養会場を村⼭山牧師と⼆二⼈人で⾒見見に⾏行行った。YMCA にも往き、今⽇日はよく⾶飛び回った。⾃自動⾞車車があるので能 率率率が上がる。⽤用事の多い者には、⾃自動⾞車車は経済的であり決して贅沢でない。 15⽇日 台⾵風の予報が出ている。18号は、範囲が広くて強いと、薄気味の悪いニュースである。 16⽇日 台⾵風で⽋欠勤した。⾬雨⾵風がひどく庭の松が倒れ、板塀が全部倒壊した。畑は池となった。10年年に1度度は、 ⼤大きな天災があるものと考えなければなるまい。対策のないのが愚かである。 3時から停電で、ラジオもテレビも役に⽴立立たず、新聞も⼣夕刊は配達してくれず、被害の程度度が全く不不明で、 ただ罹罹災者が沢⼭山出たであろう予感がする。 17⽇日 礼拝⽋欠席。被害の応急策で疲労した。然し、まだもう⼀一⽇日かかっても⽚片付かないであろう。村⼭山牧師と神 ⾕谷⻑⾧長⽼老老とが⾒見見舞いに来てくださった。 18⽇日 今⽇日も⽋欠勤して後⽚片付けをしたが、未だ終わらない。 19⽇日 前⽇日に引き続き、後⽚片付けであった。然し、棚も修理理し、倒れた樹も引き起こした。梅⾕谷の⼿手伝いがあっ たので樹は起きたが、枯れはしないか⼼心配である。 久仁⼦子の結婚式を10⽉月30⽇日に挙げるように準備をしてくれと、利利彰⽒氏から⼿手紙を寄越した。久仁⼦子の 快復復は有難い。 妻は肋肋⾻骨が痛むといい、疲れたとこぼしている。 キリスト新聞から、賀川全集について座談会を開くから、是⾮非出席して欲しいと依頼して来た。25⽇日午 後3時である。出席の返電を打った。 20⽇日 共栄⽕火災訪問、友社⻑⾧長に⾯面会。 神視の給料料⽇日である。神視に出勤した。台⾵風での損害が2万円程度度、或いは5万円もかかるかも知れない。 久仁⼦子の結婚式については、クリスチャンセンターに申込みをした。 21⽇日 丸⼭山中学校⻑⾧長を訪問し、久仁⼦子の辞職願を提出した。多分9⽉月30⽇日限り退職となるのであろう。 彼は健康で勤務可能と考えていたであろうが、病気の為遂に退職することになった。主は彼の上にも、御 旨を施し給うのであろう。 本多⽒氏と⾯面談する為、花隈に往ったが不不在であった。 緒⽅方兄は、24⽇日の夜⾏行行上京の便便のために、銀河の寝台券を買い求めて連絡してくれた。有難い。疲労を 覚悟していたが助かった。帰りは仕⽅方がないであろう。⽇日本の交通も不不便便なものである。必要な時は何時 でも切切符の買えるように、早く準備してもらいたい。 22⽇日 今⽇日は台⾵風の後⽚片付けの疲労が出て来て、何だか全⾝身が重苦しい。 23⽇日 永井君が来宅宅。久仁⼦子の外泊を初めて許された。ずっと快復復した。医師からも10⽉月30⽇日の結婚は宜し いと認められた。 24⽇日 礼拝出席。銀河で上京。 25⽇日 キリスト新聞社の主催で、賀川先⽣生の著書についての座談会に出席した。 ⻄西尾⺠民社委員⻑⾧長も出席された。古い昔話に花が咲いた。 武藤社⻑⾧長⽈曰く、賀川の伝記で横⼭山⽒氏の書いたものは、マルコ伝であるがヨハネ伝がない。誰が書くかと。 ⾃自分が当然書くべきであるが、⾃自信がない。然し、ヨハネならずとも、ペテロやヤコブ書は書かなくては なるまい。家事を早く⽚片付けて、伝記にかかりたいものである。 夜、理理事⻑⾧長宅宅に⼀一泊した。理理事⻑⾧長、純基⽒氏、杉⼭山健⼀一郎郎⽒氏、菅沼⽒氏と⾃自分とで、賀川家の財産管理理、イエ ス団と雲柱社との関係、雲柱社の将来のあり⽅方などに就いて懇談した。 26⽇日 帰着。 27⽇日 久仁⼦子を病院に⾒見見舞った。次第によくなっている。感謝である。 神視とイエス団に出勤した。 28⽇日 太陽海運の庶務課⻑⾧長と村⼭山、武内が記念念事業について懇談した。 課⻑⾧長は話好きで、海運界の実況を1時間ばかり話してくれた。毎⽉月1000万円の利利⼦子を払っているとい う。戦争で船を失い、政府は保証もせず⾦金金融で⾦金金利利を取るとこぼしていた。 協同宿泊所を⾒見見舞った。床上1尺の⾼高潮で55万円の損害があったという。財団から9200円の助成⾦金金 を持参した。 村⼭山牧師が、⾃自動⾞車車の運転をして⾶飛び回るので、外交はとても便便利利であり能率率率的である。 29⽇日 3時、宝知院に於いて保育に関し協議した。共同募⾦金金についてと、運営で⾚赤字に関すること、就業規則を 設けること等が主なる⽤用件であった。 吉村姉が来園し、坂出の改築についての相談があった。約100万を要するとのことである。計画書を提 出するよう進めた。 30⽇日 ⼤大阪朝⽇日新聞会館、賀川劇、保育園職員8名が全員揃って観にいった。 賀川の少年年時代が余りに⻑⾧長すぎる。全4幕の半分も妾の⼦子で悩んでいるのは何うか。賀川がキリスト愛の 実践に努⼒力力した点を、もっと多く現した⽅方がよいと思う。 滅多に劇化する事が出来ないのに、⼤大正7年年の⽶米騒動で打ち切切っているのは惜しい。全⽣生涯を通じての⽅方 がよくはなかったかと思うた。 * * * * この武内⽇日記は、昭和36(1961)年年で、ほぼ半世紀も前のものである。次回で最終回となる。 現在刊⾏行行準備中の武内勝⼝口述書「賀川豊彦とボランティア」新版は、この⽇日記より5年年前のもので、い まその校正作業を⾏行行いながら、その⼝口述の「歴史性」を感じさせられている。 補記 上記の新版は、予定通り神⼾戸新聞総合出版センターより刊⾏行行され、現在神⼾戸の書店には並べられ ており、書店注⽂文が可能である。 (2009年年9⽉月27⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月21⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(59) お宝発⾒見見「武内勝⽇日記 B」(4) 昭和36年年10⽉月〜~12⽉月 今回の⽇日記の中に「賀川豊彦全集」全24巻普及の取り組みが記されている。 全集の配本毎に収められる「⽉月報」に、武内も寄稿予定であることが残された⼿手帳にあったので、松沢資 料料館の杉浦先⽣生にその「⽉月報」を依頼したところ、過⽇日全24巻全ての「⽉月報」をお送りいただいた。当時 の証⾔言では「百三⼈人の賀川伝」や「神は我が牧者」など知られているが、この「⽉月報」に寄せられた多彩 な証⾔言も、⼤大変興味深いものがある。 ここに添付する写真は、「⽉月報4」に収められているもので、鮮明な印刷ではないが、「全集刊⾏行行感謝会で 挨拶する賀川ハル⽒氏と隣隣は純基⽒氏」とある。残念念ながら「⽉月報」には、お⽬目当ての 武内の寄稿はなかったようである。 * * * * 昭和36年年10⽉月〜~12⽉月 10⽉月 1⽇日 礼拝。 2⽇日 10時、⼤大阪クリスチャンセンター総合協議会に出席の予定であったが、尼崎の薄井市⻑⾧長が、記念念事業 の募⾦金金に就いて⾯面談したいとの連絡で、市⻑⾧長を訪れたが、市⻑⾧長の登庁が遅いので昼までかかり、午後セン ターに⾏行行ったらキリスト新聞の楯岡⽒氏が、賀川全集の予約に就いて待っているので、同⽒氏と共に灘⽣生協、 神⼾戸⽣生協等を訪問し、協議会には出席しなかった。 3⽇日 森短⼤大、頌栄、啓明、農業会館、平井、⼗十字屋、松蔭、ルーテル神学校、神⼾戸改⾰革神学校、YM、YW 等 を訪問した。 4⽇日 今⽇日は関学の⼤大学・⾼高校、聖和、神⼾戸⼥女女学院、中井⼀一夫、岡部五峯、神⼾戸新聞社等を訪問した。 神⼾戸で(県下)200部は予約可能かもしれない。兎に⾓角努⼒力力しよう。 5⽇日 安⽥田信託を訪ね、東京の協会に記念念事業のため寄付に協⼒力力されるよう依頼した。 ⽚片⼭山、村井、神⼾戸佐野⽒氏等来団。 6⽇日 本多⽒氏とイエス団の預⾦金金先につき協議したが、預⾦金金先を変更更することに反対であった。イエス団全体の 有利利な預⾦金金をしたいと思うが、記念念事業は他⼈人の事に考えていて、頑として反対であった。 久仁⼦子が外泊した。 7⽇日 イエス団の35年年度度の事業概要の原稿で終⽇日かかった。 久仁⼦子は今⽇日も⾃自宅宅。 8⽇日 礼拝司会。 午後畑仕事、よく働いた。⾃自分でも感⼼心するほど働けた。有難い事である。 9⽇日 久仁⼦子の退院。 神視の事務打ち合わせで終⽇日を費やし、イエス団の⽅方は⽋欠席した。 10⽇日 イエス団36年年度度の事業概要出版のための原稿で終⽇日。 夜は、今津吉⽥田牧師宅宅において、1⽉月修養会の打ち合わせをした。出席者は少数であった。⾦金金⽥田、天満教 会牧師、緒⽅方、武内、住道教会牧師。 11⽇日 今⽇日も原稿だ。 ユニオンチャーチから保育園に贈り物が届けられた。外⼈人ではあるが、毎年年1回これを実⾏行行されるのは感 ⼼心である。⽇日本⼈人にして、海外でこれに類した何かを実⾏行行しているであろうか。 久仁⼦子は正式に退院した。先⽇日中は外泊で帰宅宅していたのであったが、誠に感謝である。何うぞ再発しな いように、感謝と祈りをした。 12⽇日 井上秀吉⽒氏はイエス団助成⾦金金を辞退した。幾らかの家賃としてでもイエス団本部に納めたいと考えてい るので、助成は辞退するとのことであった。 2万円で全集を買い、3万円で調査し、残りの使⽤用に就いては特に考えたい。 13⽇日 35年年度度の年年報の原稿をやっと書き上げた。 賀川先⽣生が、原稿書きが⼀一番疲労するといわれたが、そのとおりであるとつくづく思わされる。 永井君、昨夜から来ている。結婚準備で気分の疲労が多く、殊に⾦金金のないのに⾦金金が必要なので、家内は神 経を病んでいる。可能の範囲内でやれば幸せな事が、無理理をしようとするから⼼心配となり、苦となるので あるが、それが解っていて、そうした気分になれないらしい。多くの⺟母親がこんなものであろう。 14⽇日 神視運動会及びバザー。天気がよくて結構であった。⼦子供は運動会が好きで張り切切っている。お⺟母さん たちも百⼈人ばかり集まっていた。弁当持ちのお⺟母さんたちもあった。 バザーはいい品物がないためか、余り売れなかった。⾐衣類に就いては⽮矢張り⾒見見栄を張るのかもしれない。 古着を買うのは少ない。 15⽇日 礼拝。役員会。伝道集会について。 永井君が帰京した。久仁⼦子の結婚式で、何かと毎⽇日忙しいと雪⼦子が⾔言う。出来るだけのことをしたらそれ でよいものを。 16⽇日 終⽇日イエス団にいて、賀川全集予約に就いて、学校名とその所在地其の他、依頼先を検討した。 ⽣生駒の⼟土地買収に就いての登記、細川書記が登記に出張した。 村⼭山牧師は東京出張。 17⽇日 尼崎に出張し、商⼯工会議所に於いて尼崎市秘書課⻑⾧長、会議所の⼯工業課⻑⾧長渡辺⽒氏、専務新宮⽒氏、商⼯工連盟 の稲垣⽒氏、⽣生駒、武内が記念念事業募⾦金金に就いて懇談した。 専務は⾮非常に協⼒力力的であり親切切である。こちらの願いたいと思う事を全部承知してくれる。渡辺⽒氏は信者 であり僕とは同県⼈人であって、またずっと以前から僕をよく知っている⼈人であり、嘗ては職業相談もした 事のある⼈人であった。何かと話しに理理解があって、仕合せな事であると思うた。 何れ募⾦金金計画の詳細を調べた上、尼での協⼒力力⽅方⽅方針を、市と協議の上決定されるであろう。 18⽇日 賀川全集予約について、キリスト新聞楯岡局⻑⾧長より協⼒力力を求め、殊に官公関係につき三浦先⽣生に依頼し て来ているので、三浦先⽣生と打ち合わせ、楯岡⽒氏に回答した。 兵庫県で200部予約を取りたいというが、果たして取れるか。 近藤⽒氏と⾯面会、宇都宮の件について。 19⽇日 村井、堀⽥田両⽒氏が⼭山⽥田の⼟土地について買って欲しいと頼みに来た。 坪当たり100円でも場所があるという。但し⼭山地であって、利利⽤用が容易易でないであろう。⼭山の利利⽤用に就 いては研究の必要がある。残念念にも思うが仕⽅方がない。 20⽇日 ⾼高槻出張で、阪急の終点まで⾏行行って30分待ったが、本多⽒氏が来ないので帰った。 給料料⽇日である。皆に⽀支払った。岡⽥田も訪問した。 21⽇日 港の祭りで休み、畑仕事をした。畑の仕事は実に愉快である。⾃自分は⽣生まれつき労働者であろう。狭い 畑をよく耕作し、花に野菜、来年年は果樹苗を植え、⽣生涯の楽しみに、この⼟土地を有効に使⽤用する。 畑で労働の出来る事は、⾃自分の⽣生涯の最⼤大の幸福である。 22⽇日 礼拝に家族全員が出席し、久仁⼦子の退院と結婚に就いて教会員に挨拶した。 午後は宇都宮と⼟土地を⾒見見に⾏行行った。⼟土地の価値が上がっているので売りたいという者と、まだ上がるであ ろうし上がれば儲かるといって買う⼈人がある。世はさまざまである。 後は仕事で、予定通り⽚片付け、百合も250球植えた。球根が⼩小さいので来年年は花にはならないであろう が、再来年年は⾒見見事に咲くであろう。これも楽しみである。 23⽇日 園児が相撲を取って、左腕を⾻骨折したので⾒見見舞いに⾏行行った。 今⽇日は市の監査を受けた。監査員はよくできて居ると評し、更更にイエス団の仕事は市も同様なやり⽅方で結 構ですが、寺や個⼈人の経営は営利利的で感⼼心しないとの意味であると、感想を述べた。監査が、園に来ただ けでも雰囲気が違っていると誉めてくれた。神視は、番町でもっと地区の為になる仕事をやりたいもので ある。 24⽇日 久仁⼦子の結納で休み、家にいて雑⽤用に当たった。 永井理理⼀一⽒氏は10万の結納⾦金金を置いて帰った。先⽇日、⻑⾧長男の結婚式が済んだばかりで、負担の多い事に苦 労された事であろう。形式的なことに⾦金金をかけすぎると思うが、社会的地位上⽌止むを得ないものと考えら れる。 式への出席は43名で、披露露には⼀一⼈人当たり2000円以上を要するという。勿体ない事である。 25⽇日 修養会準備と理理事会の準備をした。 午後は堀⽥田⽒氏の案内で、⼭山⽥田の⼟土地を視察した。8万坪あり坪当たり100という。神⼾戸の裏裏は⼭山ばかり であるが、利利⽤用⽅方法を考えれば役に⽴立立つものが多くある。営利利を⽬目的としないで利利⽤用法を研究すれば、⼤大 きな財産であるが、欲の為に何にも使⽤用できないものの多い事を知った。 ⼭山で4時過ぎとなり、帰途散髪した。 26⽇日 午前中はイエス団で、村⼭山牧師とさまざまな問題で懇談し、午後は⼀一⻨麦で⼟土地買収の件で相談した。⼟土 地は甲が所有していたが、⼟土地を担保設定して借⾦金金し、それが返済できないので、弁済に貸主⼄乙が名義を 変更更しているので、現在居住者と地主との関係が明瞭でなく、また⼟土地を買収してもイエス団で整地、利利 ⽤用は困難で、そのまま買い⼿手がある場合、ハッキリしない限り買収は出来ない。⽥田中久雄⽒氏が報告してき た場合、それに基づいて更更に協議する。 27⽇日 吉村館⻑⾧長宛、豊島の担保抹消と坂出の⼟土地所有者の名義変更更に就いて、⽂文書を発送した。 神有電鉄の重役と会社沿線の⼟土地に就いて懇談した。駅前で坪当たり500円とは安いと思う。27万坪 買って欲しいと⾔言う。現地を⼀一度度視察することにした。 祐⼀一が帰宅宅した。 28⽇日 ⽇日雇労働者調査について労働組合と交渉中、兵庫県労働保険組合監査につき相談を受けたが、久仁⼦子の 結婚式の為変更更してもらった。 結婚式の準備で、家内はバタバタ⾛走り回っている。これで正式武⻑⾧長⼊入社が決定した。彼は旅費10400 円を⽀支給され、それで写真機の付属品やフィルムを買ってきた。久仁⼦子の写真をとるためである。 29⽇日 礼拝後、YMCA に於いて本城⽒氏と賀川記念念館募⾦金金につき打ち合わせた。 毎⽇日⾬雨が降降る。洪⽔水で⼤大変な騒ぎである。本年年の天候は不不順である。秋はそれとしても冬は何うか。 久仁⼦子の結婚準備は終わったようである。 30⽇日 今朝はこの間中に晴天で、気持ちのよい天候になった。 何か、久仁⼦子のための晴天のような気がする、と家内は⾔言う。有難い事である。 式は予定通りクリスチャンセンターで挙⾏行行した。式場の費⽤用103350円という。貧しい者の家庭で、 かかる⾦金金のかかる式の出来た事は誠に奇跡である。 久仁⼦子を理理学⼠士にする事のできたのも、また奇跡のように考えられる。式が終わって、重荷が降降りた感で ある。新郎郎新婦は、神⼾戸の布引観光ホテルに宿泊した。 31⽇日 新郎郎新婦は三宮を8時58分のつばめで九州に向かった。天の⽗父が彼らを祝福し、永井にも救いを給う ことを切切に祈る。 11⽉月 1⽇日 賀川全集予約の為、キリスト新聞楯岡⽒氏と三浦先⽣生、村⼭山牧師、武内4⼈人が医⼤大、神⼤大、外⼤大、神 ⼤大分校、薬⼤大、商船、武庫川⼤大学、夙川学園を訪問し、5校の申込みを得た。無駄になるのは商船⼤大学の みであろう。知事の紹介と三浦県会議員のおかげである。甲南⼤大学、甲南⾼高⼥女女 2⽇日 修養会準備のため楯岡⽒氏案内せず午前中それに当たり、午後1時半 YMCA の本城⽒氏と共に村⼭山、武 内は随⾏行行し、⼤大丸百貨店神⼾戸市店⻑⾧長に⾯面会し、賀川記念念館建設費募⾦金金の依頼をした。どれ程寄付されるか 知れないが、⼤大丸其の他計は30万から50万までのような感じがした。 3時半、雷雷声寺に上がり修養会場で財団、福祉の理理事会を開催し、5時から修養会を予定の如く開催した。 出席者 名、イエス団創⽴立立以来嘗てない試みであったが、是⾮非必要な会合であり、有益であったと思う。 年年1回は毎年年実⾏行行したい。 3⽇日 修養会を午前中で解散し、午後は観光バスで六六甲登⼭山を計画していたが、⾬雨降降りで中⽌止し解散した。 南部の升崎外彦⽒氏より、同⽒氏の経営する事業も是⾮非ともイエス団に合併さして欲しいと、講壇の上から全 員に対する依頼があった。理理事会にはずっと前から申し込みのあったことである。ただ⼿手続きのみが遅れ ていた。 4⽇日 特別伝道集会のため、夜は映画会を催した。但し⾦金金10円⼊入場料料をとったためか、客は案外少数で あった。 理理事会の議事録作成、⾒見見舞⾦金金分配⽅方法等に従事した。 5⽇日 礼拝後、⼤大阪クリスチャンセンターに⾏行行き、結婚式の費⽤用⼀一切切の⽀支払いの為、永井⽒氏と合同し全部 の⽀支払いを済ませ、堤繁先⽣生宅宅を訪問し、媒酌⼈人の礼を述べ、⾦金金壱万円也の礼をして帰り、夜は⼤大阪⼥女女学 院⻑⾧長⻄西村次郎郎先⽣生の説教で伝道集会を開催した。 出席者数を問題にしていたが、割合多く、殊に新川の⼟土着の⼈人たちが来ていたので、新川の⼈人々に福⾳音の 伝えられる事を感謝した。 6⽇日 ⽔水害と台⾵風の⾒見見舞⾦金金分配と、⽯石井の助成と吉村姉の契約書を作成する事で半⽇日を費やし、午後本多 ⽒氏と事務打合せをしたが、本多⽒氏は⺟母⼦子寮寮と宿泊所の⾒見見舞⾦金金に就いて3万ずつとし、⽯石井に就いては更更に 理理事会にはかってからでないと送⾦金金はしないという。吉村姉の誓約書については、公正証書を作成する必 要があると主張する。 7⽇日 永井新郎郎新婦は九州旅⾏行行より帰ってきたが、永井は夜中下痢痢でそのためか発熱した。 本多⽒氏と宝塚の⼟土地の視察に往った。2000坪3000万円という。⾼高い⼟土地だとは思われるが、尚専 ⾨門家に就いて相場を調べる必要がある。 ⾒見見舞⾦金金分配。 8⽇日 久仁⼦子は堺の永井家へ⼟土産を持っていくはずであったが、永井の病気で中⽌止し電報で断った。永井 ではびっくりして、⽗父と娘とが⾒見見舞いに来られた。但し⼤大病ではないので⼼心配の要はないと思われる。 9⽇日 兵庫県労働保険組合の監査をした。⾚赤字で困るかと⼼心配していたが、幸いにも厚⽣生省省の助成⾦金金が6 00万円増額になったのでどうにか辻褄があった。 36年年度度の上半期の成績は、去年年よりずっとよくなっているので、下半期の⾒見見通しは明るい。有難い事で ある。 ⼤大正10年年8⽉月16⽇日、⻄西出町の公設市場の物置で⽇日雇労働紹介を開始し、⼆二三⼈人の労働者が求職に来た 当時を思い出す。 10⽇日 尼崎市秘書課⻑⾧長に⾯面会し、更更に商⼯工会議所に於いて産業連盟関係と募⾦金金に就いて懇談した。中々 ⼀一度度や⼆二度度⾜足を運んだ位では寄付はいただけないものである。当然な事でもあろう。 永井君が帰京した。15⽇日のバンコック往きには、よう⾒見見送りしないので⼤大阪駅まで⾒見見送りに⾏行行った。ま だ健康が勝れないからと⼀一等寝台に乗った。僕は70歳でもまだ⼀一等寝台に乗ったことがない。僕は貧乏 に⽣生まれついているせいか。 11⽇日 神視で措置費変更更による研究をしたが、川崎⽒氏が⾚赤字⾚赤字とそれのみ不不安に思って、正確な数字 をよう出さないでいる。⾃自分で検討する。 12⽇日 礼拝に家族全員が出席した。 13⽇日 徳島の⿊黒⽥田牧師が、社会福祉事業の認可を得たいのでその書類の申請についてやってきた。神視 へともに往って神視の認可申請書の控えを貸した。 尚、本⽇日中に徳島に出張し、同⽒氏ともに⽯石井町⻑⾧長を訪問することを約した。 川崎⽒氏は依然としてベースアップの案が⽴立立たないと嘆いている。 14⽇日 妻と久仁⼦子が永井君の⾒見見送りの為、上京した。今晩は旅館泊まりで明朝9時の⾒見見送りは⽻羽⽥田であ る。千恵⼦子が病気でなければ、共に⾏行行ってもよいが仕⽅方がない。 午前は給料料の値上げで検討し、午後は尼崎に出張し、三和シャッターで5万円寄付していただき、次は商 ⼯工会議所を訪問し、渡辺、専務両者に⾯面会した。但し寄付⾦金金は急に運ばない事である。 久し振りの晴天で好い⽇日であった。朝は霧で⽩白くなっていた。従って冷冷たくあった。 15⽇日 9時に永井君が⽻羽⽥田を出発したであろう。今⽇日も昨⽇日同様、朝は霧で冷冷えたが晴天で、気持ちの よい⽇日である。⾶飛⾏行行上も気持ちのよいことであろう。 ⾼高⽊木⽒氏(仮名)が⾯面談したいというので訪問した。枝⾁肉市場が出来るのでその元締めをやりたいとして、神 ⼾戸同業者の約半数の委任状を集めているが、資⾦金金の不不⾜足と上の牧場との関係で⼀一向に進展しないと泣き⾔言 を聞かされた。神⼾戸で唯⼀一の枝⾁肉の配給元締め機関の⼤大将をするには、他に適当な⼈人物がありそうなもの である。⾼高⽊木(仮名)もその器ではないと思う。 16⽇日 イエス団の建物を移転するに当たり武⽥田、⽵竹中両所に往って懇談した。但し、⽵竹中は道路路敷地内 に移転するようにというが、現在建物は幅が5?あるので道路路敷きは4?でムリである。建物を切切って移 転すれば経費は⾼高くなる。更更に検討を要する。 17⽇日 建物移転に就いて設計してみるが妙案はない。 18⽇日 神視に⾏行行き給料料を受け取った。24⽇日職員会議を開く事を決定した。 ⽵竹中訪問。 19⽇日 礼拝。家族4⼈人全員が出席した。夜は⾃自分が奨励した。話した後で説明の⾜足らない点を発⾒見見した が、後の祭りであった。話す時は、やはり原稿の⽤用意が必要である。 20⽇日 神⼾戸駅7時54分発で⼤大津に出発した。⽇日本基督教社会事業同盟の研修会に出席した。 真鍋理理事⻑⾧長は精神の⾼高揚に就いて述べられ、⻑⾧長井牧師の説教も精神的であった。然し同⼤大の⼩小倉先⽣生の講 話は設備、従業員の待遇に就いて多く述べ、また労働組合に就いても語られたのであって、出席者がよく 理理解するかどうか考えさせられた。 21⽇日 前⽇日の3⽒氏の話に基づいた分断協議を⾏行行った。然し結論論が出たのではない。 リクレーションは⼋八景めぐりであった。⽔水族館で淡⽔水⿂魚ばかり⾒見見た。時間の都合で充分⾒見見る事が出来なか ったのは残念念であった。 22⽇日 分団の結論論は出なかった。丹丹⽻羽理理事から労組に就いて、東京 YMCA の組合活動の事実問題を取り 上げ、組合の要求に対し理理事者はある線を出して話し合いがついた。それに上部組合である総評から、組 合員に対しその程度度で妥結するなんて⾺馬⿅鹿鹿らしいではないかと、上部からけしをかけられ、組合員は迷惑 していたとの事であった。 保育所の施設⻑⾧長は、使⽤用者であっても他の従業員と同様⼀一定の給料料で働いているのであり、他の職員を安 い⽉月給で使⽤用し、その利利益を取ることはできないものであって、⼀一般の労組と同じようには出来ない。ま た少数の職場であって、施設⻑⾧長と対⽴立立になる必要はないであろう。 23⽇日 勤労感謝の休⽇日である。勤務は休んだが、家には⽤用事が多いので、とりあえず今⽇日はストーブ⼆二 つを取り付け、あとは納屋の⽚片づけをした。終⽇日働き通した。然し別に疲労を覚えなかった。健康の証拠 であろう。感謝の⾄至りである。 24⽇日 神視の職員会議に出席した。但し重要な問題については、次回に延期した。給料料値上げと賞与に 就いてである。 イエス団の敷地内に福井(仮名)の家が出張っているいるので、⽴立立ち退きの交渉に家主の福井(仮名)を訪問 したが不不在であった。今度度の⽇日曜⽇日の夜6時、訪問の約束をした。 25⽇日 賀川記念念館の設計変更更の図が出来たので、これを検討した。今回の図は、⼤大体理理想的に仕上がっ ている様に思われる。但、延べ600坪であるから建築費も6000万円程度度になるのではないか。その ⽀支払い⽅方法如何。 けれども1階の290坪からは、毎⽉月30万円の利利益は上がるのではないかと考えられる。10年年後には 毎⽉月の純益となる。これが否でも竣⼯工させたいものである。⼤大いに祈る。 ⼀一⻨麦保育園に於いてイエス団理理事の委員会を開催する。⼟土地の売買に就いてである。 26⽇日 礼拝。役員会。 教会裏裏の不不法占拠に就いて村⼭山、⻫斉⽊木、武内の3⼈人が交渉した。イエス団の建築に⽀支障のないように⽴立立ち 退き致しますと⼝口約した。 27⽇日 財団法⼈人イエス団、社会福祉イエス団、財団法⼈人賀川記念念厚⽣生事業団と3団体が、賀川記念念館を 建設するに当たり、種々申し合わせ取り決めなどしなければならず、法的措置もあるので、これが協議事 項に就き村⼭山牧師と協議の上作成した。 28⽇日 協同⽜牛乳の関係で裁判所に出頭した。早川(仮名)は証⼈人調べの問いに対し全く嘘を答弁した。 三島⽒氏(仮名)が来て電⾞車車賃100円也貸せと⾔言うので貸した。 記念念館の建設に就いて、⽵竹中⼯工務店の設計図に基づき専⾨門委員、⽵竹中の技術、村⼭山、武内とが協議した。 間所⽒氏の追悼会が⼤大阪クリスチャンセンターで開催されるので、出席の通知を出していたが、時間の関係 で断った。 近藤⽒氏に記念念館の1階使⽤用に就いて、借り⼿手を世話してくれるように依頼した。会館の1階は使⽤用料料1か ⽉月30万、屋上の広告は年年間150万、計年年500万の収⼊入は確実に上がるように考えられる。有難い事 である。感謝に堪えない。 29⽇日 ⼤大丸百貨店訪問。 記念念館募⾦金金に就いて三浦⽒氏訪問。30⽇日のイエス団理理事会についての打ち合わせ。 神視保育園の給料料・賞与の決定について、給料料・賞与とも市の通達どおりとすることにした。 30⽇日 午前は理理事会の準備をし、午後1時三島⽒氏(仮名)の依頼で森岡弁護⼠士を訪問し、3時より⼤大阪ク リスチャンセンターでイエス団の理理事会を開始した。これで賀川記念念事業団とイエス団との関係をはっき りする事が出来た。 12⽉月 1⽇日 午前は教会と社会福祉法⼈人との財産に就いて研究し、午後は⽵竹中⼯工務店の設計係りと打ち合わせた。 充分ではないが、図⾯面で話し合っていると暫時進んでいくようである。特に実務者の意⾒見見を充分参考にし ている。 2⽇日 午前中はイエス団で教会と社会福祉の共有財産について検討し、両者の協約案を作成した。 午後は神視に廻った。神視は5⽇日、4施設の餅つきを引き受けた。当番制であろう。 3⽇日 礼拝。家族全員が礼拝出席できる事は有難い事である。 午後は天気はよし。たまねぎ100本追加植え付けと草取りと下稗をとって、疲労するまで働いた。 4⽇日 午前中、教会と社会福祉との共有財産を、どう双⽅方都合のよいように、永久双⽅方の争いの起こらな いように取り決めておくべきかを検討した。最も困難な問題であるが、双⽅方の為に是⾮非とも決定しておか ないと、必ず後⽇日⼤大きな問題となるであろう。これを未然に防⽌止の出来る⽅方法を講ずることは、僕のみに 課せられている使命と思う。他の者には出来ないと思われる。 5⽇日 神視、餅つき当番。 11時、⼤大阪に出張し近畿百貨店協会を訪問、記念念事業について寄付⾦金金を依頼した。協会の係りは⼀一応取 り上げてくれた。多分何⼗十万かの寄付はいただけるだろう。50万も寄付されたら有難い事である。 尼崎の⼭山下栄次⽒氏と募⾦金金の打合せをし、商⼯工会議所も訪問した。会議所では各会員から直接送⾦金金すること にしたということであったが、果たして送⾦金金されるかどうか。 6⽇日 徳島出張。村⼭山牧師の運転で⽯石井と⼤大幸との⽤用件を⽚片付けた。 ⽯石井の助役は、保育設置に就いては消極的であった。磯部⽒氏の宅宅に⼀一泊さして頂いた。 7⽇日 市橋に⾯面会し教会、⽯石井の保育設置、豊島の⼭山林林、記念念事業等に就いて懇談し帰途に就いた。 ⾏行行くよりも帰りは順調であった。⼆二⽇日間とも天候に恵まれた事は、仕合せであった。 8⽇日 真珠湾攻撃20年年の⽇日である。⽇日本の失敗は世界の⽅方向転換の動機となった。特に東南アジアに於 いて植⺠民地の解放は⼤大変な出来事となった。 ⼤大阪、奈奈良良に出張し、4箇所の保育、乳児の施設を訪問した。 朝、⻄西明⽯石駅で左⾜足のかがとの上3⼨寸位のところを捻捻じたか、痛み、ちんばになった。 9⽇日 年年末⼿手当を貰った。神視保育園としては昨⽇日渡したが、⾃自分のものは出張の為今⽇日となったのであ る。 10⽇日 ⾜足が痛むので、礼拝を⽋欠席し終⽇日在宅宅した。 11⽇日 宝塚の⼟土地買収に就いて、⼟土地所有者に⾯面接してくれと、本多⽒氏の依頼があり、午前本多⽒氏と⾯面 談し、午後宝塚に出張した。⼟土地坪当たり15000坪数2000坪で34万円となる。本多⽒氏は⾺馬⿅鹿鹿に 乗り気だが、安いとは考えられない値段である。 午後7時、村⼭山牧師の按⼿手礼が栄光教会で、他の牧師たちと共に⾏行行われ、これに出席した。 12⽇日 ⾦金金⽥田理理事より電話で、⼤大川と本多と両⽒氏の⼟土地買収案につき宜しく頼むとの事であった。 午後、⼤大川⽒氏来神され、⼟土地に就き種々承った。⼭山林林の買収は投資ではあるが、賭博に似た点があるけれ ども、同⽒氏は3年年後には1億円位の値が出てくると思うとのことであった。兎に⾓角、14⽇日11時、YMCA で委員会を開催する事とした。 13⽇日 共栄、労⾦金金を訪問した。 午後、神視でクリスマス礼拝、祝会に就いて打合せをした。⼤大阪では警察署⻑⾧長がサンタクロースになり、 ヘリコプターで空からプレゼントを持って降降って来た。⼦子供は⼤大喜び、これをテレビで観て、時代は変わ った。犯罪者専⾨門の⼤大将がサンタクロースとは。 14⽇日 YMCA で委員会を開催し、⼟土地買収の件を決定した。本多案は全額が予定超過で否決となり、⼤大 川案の⼭山林林を買収することとした。尚、平地については16⽇日現地を視察した後に決定する。 イエス団では古着の整理理の為、数名の婦⼈人が奉仕をした。 (ここまでで「⽇日誌」は終了了している) * * * * 武内の纏まった⽇日記 A と B の2冊を、ここにすべてを書き留留めておく事ができた。 武内所蔵資料料の中には、戦後の折々のメモを記した「⼿手帳類」が多数存在する。それらを丁寧にたどれ ば、空⽩白の経過がいくらか埋めることが出来るはずである。その作業も、少しずつ進めて⾏行行けたらと願っ ている。 思いがけない事であったが、既にこのサイトで60回近く「お宝」を掲載してきたが、今後もこのたび新 しく発⾒見見された120通以上もの「賀川豊彦・ハル夫妻からの武内書簡」の未紹介分を、取り出して⾏行行く事 にする。 (2009年年10⽉月1⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月23⽇日補記) 賀川豊彦の畏友・武内勝⽒氏の所蔵資料料より(60) 賀川豊彦と武内勝:ふたりの役柄関係 今回から再び、賀川夫妻から武内に宛てられた書簡を取り出して置きたい。 愈々「賀川献⾝身」の⽇日ーー1909(明治42)年年12⽉月24⽇日ーーより「100年年記念念⽇日」 (2009年年 12⽉月24⽇日)が⽬目前となった。新しい賀川記念念館も完成間近である。 豊彦は「葺合新川」での「新しい⽣生活」をはじめて、ほぼ初期の段階から、その71年年の⽣生涯を閉じるま で、途切切れることなく、歩みを共にした稀有の「友」が、いま取り上げている「武内勝」であった。 豊彦は、神⼾戸時代初期のあの⽶米国留留学の時より、神⼾戸の留留守を、すべて武内に託した。 武内は、賀川の⽶米国留留学の間、それまで賀川が受けていた、マヤス先⽣生などからの経済的⽀支援を⼀一切切断 り、⻘青年年たち17⼈人が「共産⽣生活」を試みており、武内は⾃自ら「⽣生涯のうちで、あの時が、最も愉快な時で あった」と述懐する。 あの3年年⾜足らずの期間を武内は「独⽴立立イエス団」と称して、⼤大きな実験をかさねて賀川夫妻との再会を 待ったのである。 そして賀川夫妻が再び新川に戻り、労働運動や農⺠民運動、そして救済運動や消費組合運動など開拓拓的な 諸活動を繰り広げ、1923(⼤大正12)年年9⽉月1⽇日の、あの関東⼤大震災を契機に、賀川夫妻などの仲間た ちが神⼾戸を離離れて震災救援活動に打ち込んで⾏行行った後、神⼾戸イエス団の働きの中⼼心となったのは、専ら武 内勝であった。 賀川豊彦にとっては、同時にまた、⽣生涯を貫いて、「新しい⽣生活」をはじめた「神⼾戸」はつねに、「出発の場 所」であり「帰る場所」「帰りたき場所」であったことも、武内の証⾔言においても、良良く知られている事であ る。 豊彦はすでに神⼾戸時代、特に留留学から帰国後の賀川は、国内はもとより世界を股にかけての活躍が続く のであるが、賀川は神⼾戸の働きを事実上責任を担い続け、武内はその指⽰示を受けつつその活動を⽀支え続け たのである。賀川は神⼾戸の働きを常に気に懸けながらの、疾⾵風怒怒濤の東奔⻄西⾛走であった。 そのことを⽰示す⼆二つの書簡を、次に取り出してみる。 * * * * ⼀一つは、東京上北北澤から、⻄西宮⼀一⻨麦寮寮の武内に宛てて、昭和18年年3⽉月16⽇日投函された速達便便で、「賀 川原稿⽤用紙」2枚に記されている。 その⽂文⾯面は、 武内勝様 謹啓 来る三⽉月廿七⽇日(⼟土)神⼾戸イエス団財団法⼈人理理事会 並びに財団法⼈人愛隣隣館理理事会及び評議員会を開いてくださ いませ。各⽅方⾯面に通知願います。 時間はご都合により午後1時からでも、或は少し遅くても 結構です。⾷食事が出来ないでしょうから、時間は都合よく ご配慮願いあげます。 ⼜又、廿⼋八⽇日(⽇日本復復活節)には、朝神⼾戸イエス団にて礼拝を 致します。 ⼜又午前⼗十時の礼拝を⼤大阪聖浄会館 夜7時⼤大阪四貫島にて 各々礼拝説教を致しますから電話にてご通知願います。 雲柱社の理理事会は本⽇日無事終了了致しました。右にお願 いまで 主にありて 賀川豊彦 尚、神⼾戸イエス団報告書御作成願い上げます。 また予算も作成願い上げます。 * * * * もう⼀一通は、同じく東京上北北澤から、⻄西宮⼀一⻨麦寮寮の武内に宛てられた速達のハガキである。⽂文⾯面には⽇日 付がないが、消印から、昭和20年年3⽉月2⽇日に投函されたことが判る。この後、賀川は5⽉月27⽇日、反戦 並びに社会主義思想の容疑で、神⼾戸相⽣生橋署に留留置されるのである。 その⽂文⾯面は、 冠省省 ⼩小⽣生こと来る三⽉月⼗十⼀一⽇日に⻄西下いたし、愛隣隣館 及びイエス団理理事会を開催いたしたく存じて居ります。 ⼗十⼀一⽇日午後⼆二時頃、愛隣隣館で開催しては如何でせうか? ご都合伺います。愛隣隣館⼜又、イエス団の予算及決算書 を御作成願い上げます。 右は御急ぎ御願まで 賀川豊彦 * * * * 武内は、初期段階ら⼀一貫して、独⽴立立した職業⼈人である。⾃自らの⽇日々の仕事をこなしながら「救霊団」 「独 ⽴立立イエス団」「神⼾戸イエス団」の働きに参画した⼈人である。 賀川豊彦が神⼾戸を離離れて後も、ここの牧師は賀川であったが、⻑⾧長期間に亘って武内が、信徒伝道者とし て「礼拝」「祈祷会」その他の役柄も、誠実に担い続けたのである。その⽇日々の⼀一端は「武内勝⽇日記 A」(昭和 2年年〜~4年年)を閲読いただいた通りである。 (2009年年10⽉月7⽇日⿃鳥飼記す。2014年年3⽉月25⽇日補記)
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