Sache ざっは 第12号(平成15年10月号) 野中広務追悼号 朝鮮現代史年表 1910年 日韓併合。 1919年 3月 1日 3・1独立運動。 4月10日 上海で大韓民国臨時政府樹立。 1931年 9月 満州事変。 1937年 7月 支那事変。 1941年12月 8日 太平洋戦争勃発。 1945年 8月15日 日本降伏。呂運亨、建国準備委員会発足。 8月24日 ソ連軍、平壌に進駐。 9月 6日 朝鮮人民共和国樹立宣言。 9月10日 米軍、ソウルに進駐。 10月14日 平壌で金日成歓迎群衆大会。金日成が演説。 1946年 2月 8日 北朝鮮臨時人民委員会発足。 8月28日 北朝鮮労働党結成。 10月 1日 大邱で暴動。 12月 米軍政庁、過渡立法議院設置。 1947年 2月22日 北朝鮮人民委員会発足。 1948年 4月 3日 済州道事件勃発。 5月10日 南朝鮮単独総選挙。 南 北 48・8・15 大韓民国独立、李承晩大統 48・9・9 朝鮮民主主義人民共和国独 領就任(第一共和国)。 立(首相金日成)。 50年6月25日、北朝鮮軍、韓国に侵攻、朝鮮戦争勃発。 50年9月15日 国連軍、仁川上陸、11月、中国義勇軍参戦。 51年6月 休戦交渉開始。 52・5 釜山に戒厳令、野党議員恫喝。 8 李承晩大統領再選(釜山政治波 動)。 53年7月27日 板門店にて朝鮮戦争休戦成立。 54・11・27 四捨五入改憲。 54・4・23 第七回最高人民会議。 56・5 李承晩大統領三選、副大統領張勉。55・5・25 朝鮮総連結成。 60・3・15 李承晩四選。 56・12・28 千里馬運動開始。 4・19 ソウルで暴動。 59・12・14 在日朝鮮人の帰還始ま 4・27 李承晩大統領辞任、下野。 る。 60・6 憲法改正(第二共和国)。 8・13 尹潽善大統領就任、国務総 理張勉。 60・8・14 金日成、南北連邦制を提案。 61・5・16 朴正熙将軍のクーデター。 61・7・6 朝ソ友好協力相互援助条約 5・18 張勉内閣総辞職。 締結。 7・22 経済企画院設立。 61・9・11 人民経済発展七ヵ年計画 62・3 政治活動浄化法制定。 採択さる。 63・10・15 朴正熙大統領就任 (第三共和国)。 63・10・28 労働新聞がソ連を非難。 65・12・18 日韓国交正常化。 67・5 朴正熙大統領再選。 69・10・17 「ひったくり改憲」可決。 71・4・27 朴正熙大統領三選。 70・3・31 日航機「よど号」ハイジャ ック事件。 72年7月4日 南北統一に関する南北共同声明。 72・10・17 非常戒厳令。 72・12・27 北朝鮮最高人民会議、社 72・11 維新憲法案国民投票で可決。 会主義憲法採択、金日成主席選出。 12・23 朴正熙大統領四選 73・5・17 WHO、北朝鮮の加盟可決。 (第四共和国)。 73・8・8 金大中拉致事件。 74・8・15 朴正熙大統領暗殺未遂事 74・3・25 対米平和協定締結を提唱。 件。 9・16 IAEA加盟。 79・10・26 朴正熙大統領暗殺さる。 76・8・18 板門店で乱闘発生、米兵2 12・6 崔圭夏大統領就任。 名殺害。 12・12 粛軍クーデター。 80・10・10 労働党第六回大会、金正 80・5・17 非常戒厳令全国拡大。 日が政治局常務委員、初期、軍事委員に就任。 5・18 光州事件(~27)。 8・27 全斗煥大統領就任 (第五共和国)。 81・2・11 全斗煥大統領再選。 83・10・9 ラングーン事件。 84・9 全斗煥大統領来日。 84・1・10 米国及び韓国との三者会 87・6・29 盧泰愚「民主化宣言」。 談を提案。 10・29 憲法改正(第六共和国)。 12・16 盧泰愚大統領就任。 88 ソウル・オリンピック。 88・9・9 北朝鮮建国四十周年報告大 90・1 三党合同。 会。 9・30 韓ソ国交樹立。 90・9・24 金丸副総理ら訪朝。 10・10 小沢、土井ら金日成と会談。 91年9月17日 南北同時国連加盟。 91年12月13日 「南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書」署名される。 92・8・24 韓中国交樹立。 92・1・22 米朝初のハイレベル接触。 12・18 金泳三大統領就任。 93・3・12 核拡散防止条約脱退通告。 95・10 全斗煥・盧泰愚、不正蓄財によ 94・6・15 カーター訪朝。 り摘発さる。 7・8 金日成死亡。 96・10 OECD加盟。 97・10・8 金正日、朝鮮労働党総書記 97・11 経済危機、IMF管理下に置か に就任。 れる。 10・9 日本が北朝鮮に対して総 12・18 金大中大統領就任。 額34億円相当の食糧・医薬品の援助を決 定。 98・8・31 テポドン1号発射。 2000年6月 平壌で南北首脳会談。 2000・6 金大中、ノーベル平和賞受賞。2000・7・19 露朝共同宣言。 02・12・19 盧武鉉大統領就任。 02・9・17 初の日朝首脳会談。 10・15 拉致生存者5人帰国。 金氏大系図 金膺禹 金輔鉉 李宝益 金亨稷 金亨権 金亨禄 金英柱 康盤石 金哲柱 金 (愛人) 金正淑 日 金聖愛 金成日 成 金敬姫 張成沢 シューラ 金敬真 金平日(平一) 金英日 (金慶喜) 張琴松 金忠民 金東民 金恩松 金仁剛 金成剛 金 洪一茜 成恵琅 成恵琳 正 金恵淑 高英姫 日 金恵敬 金正男 金松雪 金正哲 南北問題 南北対話が行われる時は、中ソとの関係が悪化していたり国際的孤立に追い込まれる時 である。 「南北共同宣言」が合意された1972年。離散家族の再会が実現した1985年。 南北首脳会談が行われ、 「南北基本合意書」が署名された1990年。そして2000年6月 の南北首脳会談の時には中朝関係は最悪だった。 韓国の金大中の思惑 金大中大統領は2000年6月の南北首脳会談の4カ月後にノーベル平和賞を受賞した。 金大中はどうしてもノーベル賞が必要だった。肩書きをなくすと影響力もなくなる韓国政 治では、国際的に尊敬される政治家であるとの評価が必要である。又は憲法改正による長期 政権を目指すには、 「世界的に評価を受けた史上初の大統領を終わらせるのはもったいない」 との声をあげさせなければならない。もし失敗すれば不正やマスコミ抑圧で関係者が逮捕、 調査を受けるかもしれない。大統領職を利用し集金や蓄財への誘惑、これら「韓国病」は今も 完治されない。 北朝鮮による日本人の拉致 日本政府が認定している北朝鮮による拉致被害者は、久米裕さん(昭和52年、東京【拉 致現場】)、横田めぐみさん(昭和52年、新潟)、田口八重子さん(昭和53年、東京)、地 村保志さん・浜本富貴恵さん(昭和53年、福井)、蓮池薫さん・奥土祐木子さん(昭和5 3年、新潟)、市川修一さん・増元るみ子さん(昭和53年、鹿児島)、原敕晃さん(昭和5 5年、大阪)、有本恵子さん(昭和58年、デンマーク)、の11人であったが、2002年 8月、新潟県の曽我ミヨシさん、ひとみさん母子と、欧州で失跡した札幌出身の石岡亨さん、 熊本出身の松木薫さんの計 4 人を新たに拉致事件の被害者と判断、公表され、政府が認めた 拉致被害者はこれで計10件15人になった。この15人以外にも、行方不明者の家族らが 「北朝鮮による拉致ではないか」として警察に再調査などを求めるケースが全国で百件程度 に上っている。 このうち地村夫妻、蓮池夫妻、曽我ひとみさんの5人は平成14年10月15日、帰国し た。 拉致事件が国民に広く知られるようになったのは、ここ4、5年の事である。それまで長 い間、拉致被害者の家族達は、まさか北朝鮮が自分の家族を拉致したとは思ってもみなかっ たのである。日本政府のすげない対応に耐えて家族会は活動を続け、結果として5人の帰国 がかなったが、まだ少なくとも10人が北朝鮮に残されているのである。 久米裕(くめ・ゆたか)さん(宇出津事件)1977年9月 最初の拉致被害者とされているのが、福岡県の久米裕さん(当時52歳)。 当時、日本に潜伏していた北朝鮮の工作員は、日本人に成りすまして工作活動をするため に、身寄りの無い日本人に戸籍謄本を取らせた上で、北朝鮮に拉致し、本人になりすまして 日本に入国する事を計画していた。北朝鮮の工作員は在日朝鮮人に適任人材の紹介を要請 した。そこで目をつけられたのが、久米裕さんだった。久米さんは人付き合いが少なく、肉親 とも疎遠であった。久米さんの友人の在日朝鮮人は、久米さんに密貿易の商談を持ちかけた ところ、久米さんは喜んで話しに乗った。 1977年9月19日夜、久米さんは在日朝鮮人と共に石川県宇能登町の海岸に向かっ た。そこで、久米さんは北朝鮮の工作船に連れ込まれ、北朝鮮に拉致された。 この事件は、拉致に協力した在日朝鮮人が、久米さんの拉致直後に公安に逮捕され、自供 していることで全貌が明らかになった。 しかし当時は、警察・検察ともに、北朝鮮がらみの事件が起こっても事を大きくしてはい けないような風潮があり、宇出津事件の処理にもそういった風潮が大きな影響を与え、立件 もされずに終わった。 2002年9月17日の安否調査結果では、久米さんは北朝鮮に入国した記録がないと 説明された。 横田めぐみさん 1977年11月 横田めぐみさんは新潟市内の中学1年生(当時13歳)だった。 11月15日、新潟市寄居中学校1年生の横田さんは、バドミントン部の練習を終えて帰 路についた。6時35分頃、友人と別れた時を最後に、めぐみさんの消息は断たれた。 いつも6時すぎには帰宅していためぐみさんがなかなか帰ってこないので、めぐみさん の母早紀恵さんは7時に、めぐみさんを探しに出たが学校にめぐみさんの姿は無く、早紀恵 さんは海岸一帯をめぐみさんの弟2人と、めぐみさんの部活の顧問の先生と共に探し回っ たがいっこうに見つからなかった。早紀恵さんは夜9時50分に警察に通報した。 警察は多数の人員を動員して1週間、非公開でめぐみさんの捜索を続けたが、11月22 日、公開捜査に踏み切った。しかし、結局めぐみさんは見つからなかった。 失踪以来初めて、横田めぐみさんの消息が家族のもとにもたれされたのは、1997年1 月下旬の事だった。 朝日放送のプロデューサー石高健次氏が、月刊誌「現代コリア」の1996年10月号に、 元北朝鮮工作員から聞いた情報として、76年に13歳の少女が、バドミントンの練習を終 えた後に、北朝鮮工作員に拉致された、という記事を寄せ、その「13歳の少女」が横田めぐ みさんの事であることがわかったのである。 めぐみさんは金正日政治軍事大学で、元北朝鮮工作員、安明進(アン・ミョンジン)に8 8年から91年の間に目撃されている。めぐみさんは朝鮮人の男性と結婚したが、精神に破 綻をきたしてしまったという情報がある。 2002年9月17日の日朝首脳会談の直後、横田めぐみさんは、1993年3月13日 に鬱病で自殺したという北朝鮮の安否調査結果が、横田さんの家族に伝えられた。 めぐみさんには現在17歳になる娘がいる。 田口八重子(たぐち・やえこ)さん 1978年5月 東京都豊島区の飲食店店員だった田口さん(当時22歳)は東京・高田馬場の託児所に 3歳と1歳の幼児を預けたまま失踪した。田口さんは拉致された後、1981年7月から1 983年3月まで、大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫元死刑囚の教育係をつとめた。北朝 鮮で田口さんは、「李恩恵(リ・ウネ)」と呼ばれていた。 1988年1月に金賢姫がソウルで行った記者会見によりその生存が明らかになった。 2002年9月17日の安否調査結果によると、田口さんは1984年に、同じく拉致被 害者の原敕晃さんと結婚したが、原さんは1986年7月19日に死亡、田口さんは7月3 0日に交通事故で亡くなった、ということである。 地村保志(ちむら・やすし)さん、浜本富貴恵(はまもと・ふきえ)さん1978年7月 大工見習いの地村さんは当時23歳、浜本さんは当時22歳だった。 1978年7月7日夜、福井県小浜市の海岸に近い国道沿いのレストランを出た後、拉致 された。海岸を見下ろす展望台に地村さんの乗っていた軽トラックが鍵のかかったままで 残されていた。2人は9日前に結納を済ませたばかりであった。 2002年10月15日、2人は帰国を果たした。地村さんは社会科学院民俗研究所で翻 訳の仕事をしていた。2人の間には二男一女がいる。 蓮池薫(はすいけ・かおる)さん、奥土祐木子(おくど・ゆきこ)さん 1978年7月 蓮池さんは中央大学の学生(当時20歳)、奥土さんはカネボウ化粧品会社社員(当時 22歳)だった。 1978年7月31日、午後6時に新潟県柏崎市の海岸から250メートル離れた図書 館で待ち合わせをした後拉致された。蓮池さんは夏休み後に提出するレポートを書き上げ たばかりで、奥土さんは職場の店長に「コーヒーを一杯飲んだら帰るわ」といって出かけて いる。 2002年10月15日に2人は帰国した。蓮池さんも、地村さんと同じく社会科学院民 俗研究所で翻訳の仕事をしていた。2人の間には一男一女がいる。 市川修一(いちかわ・しゅういち)さん、増元るみ子さん 1978年8月 市川さんは鹿児島市の電電公社職員(当時23歳)、増元さんは事務員(当時24歳) だった。 1978年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用車を残したまま拉致さ れた。車はロックされ、助手席には増元さんの手提げバックとカメラが置いてあった。バッ クの中にはサングラス、財布、化粧道具などがそのまま残され、車内はまったく荒らされた 形跡がなかった。市川さんについては、元北朝鮮工作員の安明進が金正日政治軍事大学で何 回も目撃し話をしたことがあると証言している。 2002年9月17日の安否調査結果によると、1979年4月20日に2人は結婚し、 同年9月4日に市川さんは海水浴場で溺死、1981年8月17日、増元さんは心臓病で亡 くなったとのことである。 曽我ミヨシさん、曽我ひとみさん 1978年8月 1978年8月12日の夕暮れ、当時19歳の曽我ひとみさんは母親の曽我ミヨシさん (当時46歳)とともに佐渡島で拉致された。市川さん・増元さんが拉致されたのと同日・ 同時刻であり、同じルートで北朝鮮に拉致されたものと思われている。 2002年9月17日に北朝鮮からの安否調査結果が出されるまで、曽我さんの家族は、 ミヨシさんとひとみさんが北朝鮮に拉致されたとは知らなかった。 ひとみさんは横田さんとは拉致から1週間後に初めて会い5カ月間、その後再会して7 カ月間一緒にいた。さらに最後には1980年の5月か6月ごろに会ったという。お互いの ことは聞かないことになっていた。 横田さんと最後に会って2カ月後に英語の勉強のため、チャールズ・ロバート・ジェン キンス氏と会った。1980年8月にひとみさんとジェンキンス氏は結婚した。2人の間に は2人の娘がいる。 曽我ひとみさんは2002年10月15日に帰国したが、母親のミヨシさんの拉致後の 消息は不明。 原敕晃(はら・ただあき)さん 1980年6月 原さんは大阪市内の中華料理店員だった(当時43歳)。 身よりの無い原さんは、久米さんの場合と同じく、北朝鮮の工作員が日本人に成りすまし て工作活動をするために拉致された。 辛光洙(シン・ガンス)という大物工作員は、大阪朝鮮商工会の会長に拉致対象者の紹 介を要請した。在日朝鮮人の会長は、自分が経営する中華料理店の店員である原さんを対象 者候補にした。 1980年6月、理事長と辛、その協力者、金吉旭は良い就職先を斡旋すると原さんを騙 して宮崎県におびきだした。6月20日の夜、辛と金は原さんを青島海岸に散歩に誘った。 原さんは海岸で待ち受けていた4人の工作員により工作船に乗せられ、辛も同行して北朝 鮮に連れ去られた。 実際辛は、原さんに成りすまして日本に入り、韓国に対する工作を行っていた。辛は19 85年6月28日に韓国の安企部に逮捕され、その自供により、原さんが北朝鮮によって拉 致された事が判明した。 2002年9月17日の安否調査結果によると、原さんは1984年に田口八重子さん と結婚、1986年7月19日に肝硬変で亡くなったとされている。 松木薫(まつき・かおる)さん 1980年夏 松木さんは大学院生で、スペインに留学していたが、1980年の夏頃にマドリードで北 朝鮮に拉致された(当時27歳)。1988年9月6日に、同じく拉致された石岡さんが、 松木さん、石岡さん、有本さんらが3人で北朝鮮で生活していることを有本さんの実家に手 紙で伝えている。 2002年9月17日の安否調査結果によると、松木さんは1996年8月23日に交 通事故死したという。最近遺骨が再び発見され、再度火葬されて日本側に引き渡されたが、 鑑定により、松木さんの遺骨ではないことが確認された。 石岡亨(いしおか・とおる)さん 1980年夏 石岡さんは日本大学の学生で、欧州旅行の途中、1980年の夏頃に拉致された(当時2 2歳)。1988年9月6日、石岡さんは有本さんの実家に手紙を送り、有本さん、松木さん と3人で暮らしていると伝えた。手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「石岡 より、平壌にて」と書かれていた。 2002年9月17日の安否調査結果によると、1985年、有本さんと結婚、娘を儲け たが、1988年11月4日、石岡さんは暖房用の石炭ガスで、有本さん、娘とともに中毒死 したという。 有本恵子(ありもと・けいこ)さん 1983年8月 1983年8月、有本さんは英国留学中(当時23歳)だったが、 「よど号」犯の元妻、八 尾恵女史に騙され、工作員によってデンマークのコペンハーゲンから北朝鮮へと連れ去ら れた。デンマークのインターポールが、北朝鮮外交官の動向監視の際に、空港で有本さんと 工作員の写真を撮影している。 有本さんが北朝鮮にいることは札幌市出身の石岡亨さんから1988年9月6日に実家 に届いた手紙で分かった。手紙には有本さんと石岡さんの写真や住所と松木薫さんの名前 などが書かれていたという。手紙には、石岡さんと有本さんの子供と思われる乳児の写真が 添付してあった。 2002年9月17日の安否調査結果によると、1985年に有本さんと石岡さんは結 婚し、娘を儲けた。1988年11月4日、有本さんは暖房用の石炭ガスで中毒死したとい う。夫の石岡さんと娘も亡くなったらしい。 ザッハ文化祭号のために 杉浦 正和 政党政治論 ~ 政党政治が日本に根づくか ~ 総選挙が近づいてけっこう面白い雰囲気になってきた。高校生がどう感じているかが問 題であるが、ちょっとこの間の動きをおさらしてみよう。 自民党総裁選挙があった。振り返れば2年前の春、小泉氏が雪崩を打つような国民の支持 を受けて、橋本氏を押しやって総裁に選ばれた。あの熱気がかなり失せたとはいえ、国民の 中では小泉首相以外の選択肢が見えていないようである。夏からいろいろな動きが続いて いた。共産党が筆坂氏のセクハラ辞任と詳細説明拒否、社民党が辻元氏秘書給与流用で起訴 と土井委員長の無責任対応と、両党とも顰蹙を買う事件を起こした。自民党内では、総裁選 挙に向けて反小泉「抵抗勢力」の大反撃が始まって、小泉が総裁に選ばれない場合は解散総 選挙に打って出るとの観測さえ流れるほどだった。 この好機を逃さずに大胆に動いたのが管民主党代表であった。小沢自由党党首との会談 で一気に両党合併を合意してしまったのである。実は、昨年暮れ、当時の鳩山代表が同様の 動きを見せたら、民主党内で一気に不満が爆発して鳩山氏が辞任に追い込まれてしまった。 しかし、今回は反発の動きが出るどころか合併に向けて、党内も世論もムードが盛り上がっ た。世の中はタイミングが実に重要であることを思い知らされる動きであった。民主党は地 方自治体選挙で実績をあげたマニフェストを前面に立て、数値まで具体的に示した政策パ ッケージで政権交替を狙う戦略を推進し始めた。 しかし、小泉首相はもっと策士なのかもしれない。総裁選挙で圧勝する作戦を用意してい た。最大派閥の橋本派分断工作である。国民世論気にする青木参院幹事長にすり寄り、田中 派以来の権力基盤で「抵抗」を続ける野中元幹事長と徹底して敵対した。青木氏は橋本派内 の総裁候補者を見放して小泉首相との妥協に入った。怒り心頭の野中氏は自爆し、引退に追 い込まれてしまったのである。結果的に、20 日の総裁選挙では党員票を 205/300、国会議員 票を 194/357 と圧勝してしまう。これで自民党総裁任期3年の安定した「権力」を得たわけ である。小泉氏は「自民党をぶっこわす」と言っていたが、ともかくも派閥支配をぶっこわし たことは確かであろう。 さらに、彼は大胆な手を打つ。北朝鮮拉致事件のとりまとめで国民的人気の高い安倍晋三 氏を党の幹事長に指名した。前回のザッハで、大統領選ともなれば血筋が良く人気も高い安 倍氏が有力候補となることを示唆したが、まさに小泉首相は安倍氏を後継者に指名するこ とで、 「首相公選」(大統領)的自民党支配の構図を布いて見せたのである。そして、この指名は 異例づくめだった。安倍氏は 49 才で 47 才で就任した田中角栄から 4 人目の若さ、衆院当選 3 回目の就任は祖父岸伸介以来、閣僚経験なしでの就任も福田赳夫以来。おまけに、総裁と同 派閥から幹事長を出さないという党内慣例を破ってしまった。 こうした田中角栄、岸伸介、福田赳夫という自民党の錚々たる歴史的政治家を背景にして の事実上の若き後継者指名となれば、この勢いで支持率を高めて総選挙・参議院選挙を乗 り切れると読んでいるのだろう。とうとう衆議院の首相所信表明では、抵抗勢力が最も嫌っ ていた郵政民営化を 2007 年に実現すると言ってのけてしまった。首相が国民のリーダーと して、国民の期待する政策を掲げて突き進めば、選挙という民意反映のシステムがある以上、 党内の抵抗や反発を抑えられるという当然のメカニズムがはっきりと確認されたわけであ る。考えてみれば、これは米英で当たり前のことである。思い起こせば 91 年、そこそこ国民 に人気のあった海部首相が「解散総選挙」を口にして、自民党内からの猛烈な反発を受けて 辞任に追い込まれてしまった事件。あの時、海部氏に小泉氏のような眼力と胆力があれば、 もう少し早めに自民党の改革が始まっていたのかもしれないが。まあそれも絡んで、小沢氏 の反乱があったのだろうけれど。 ここへ来て、読売新聞は小泉批判の小キャンペーンをはって、 「奇妙な総裁選挙」、 「急進的 改革は危険」と断じている。他方で、民主党自由党合併に対して、 「安倍ショック」をどう克服 するか、安保政治手法党内で隔たりと懸念を示している。しかし、政策に関する党内の一貫 性について言えば、自民党も民主党も似たような事情にあると言うしかないだろう。ついで に言えば、アメリカの二大政党制もこんな感じである。アメリカは広大な国なので、なかな か一つの組織としての政策一致まで求めるのが難しいのだろう。要は、政党は大統領選挙の ための窓口のようなものだ。日本は違った事情があるものの、地縁血縁などなどのつながり で徒党党派を組むという、伝統的文化を急に変えるのは無理なのかもしれない。それならば、 最低限総選挙のときは政策を明確にして張り合ってもらおうではないか。どちらにしても、 選択は政策のパッケージを選ぶしかないし、細かい政策の善し悪しなど分からないから、党 首の姿勢と人間的見栄えで決める部分が多いわけだ。 どっちにころんでも面白いが、日本に本格的な政党政治が来ることを期待するならば、こ こでは自民党に降りてもらった方が面白くなる。民主党は政策立案に熱心な若手政治家が 多いのが強みだからである。安倍氏だけの顔で女性票がごそっと持っていかれるようでは、 日本の民主主義も情けないかなと思うが、いかがなものだろうか。(03 年 9 月末) 歴史家の仕事―料理人との比較から 私は歴史を専門とする人間である。一つも論文を世に出していないので研究者としては まだ駆け出してもいない段階であるが。ただ、論文執筆の準備などで歴史家(の端くれ)と して活動してきて、その仕事の一端は理解しているつもりでいる。世に歴史に関する書物は 氾濫しているが、歴史家の仕事を判りやすく語ったものはあまりないといってよい。そうい ったわけで今回は私が、その未熟さを敢えて無視し、自己の理解に基づいて歴史家の仕事を 説明してみたい。 さて、 「歴史家」といっても、歴史を高校の授業で学んだだけの一般の人々からすればピン と来ないであろう。これは歴史家の側にも問題があって、これまで自分たちの仕事を世間に 知らしめるような活動をしてこなかったのである。このような状況なので、歴史家の仕事を 単に説明しただけでは、難解かつ退屈な文章となってしまうのは避けられない。私は頭をひ ねった結果、他の職業との比較から語ることを思いついた。では、歴史家と最もよく似た職 業とは何か。それは料理人である。意外に思われるかもしれないが、歴史家と料理人の仕事 は本当に良く似ているのである。 料理人にとっての料理にあたるのが、歴史家の論文執筆である。料理人にとっての料理を 作る目的は(料理人に実際聞いたわけではないので本当はどうか知らないが、おそらく) 「旨い料理を客に出し、満足してもらう」ことであるが、歴史家の論文執筆におけるそれは 「自分独自の学説を主張し、それを学界に認めてもらう」ことである。この辺の目的意識は、 実は結構大切で、これが中途半端だと中途で挫折してしまうことになりかねない。料理人の 中にも、途中で料理を投げ出して別の職業についてしまう人がいるが、歴史家にもそういう 人は結構いる。継続して仕事を続けていくためには(料理人や歴史家に限らず、どの職業で もそうだと思うが)、やはり最初の目的意識が肝心なのである。 料理が素材探しから始まるように、論文執筆もまた素材探しから始まる。ここで言う「素 材」とは、論文執筆に必要な諸史料(年代記、文書類)にあたり、歴史家は論文の大まかなテ ーマが決まると、必要な「素材」を集めにかかるのである。良い素材(史料的価値の高い、つ まり信憑性の高い史料)がなければ旨い料理(良い論文)が作りだせないのは料理人も歴 史家も同じであるが、料理人の素材選びは大部分自分の眼力に頼らなければならないのに 対し、歴史家は過去の先達の「素材選び」に乗っかる―つまり過去の研究に頻繁に用いられ ているものを集めてくる―ことが出来るので、この点は料理人より楽であるといえる。 「素材」集めが終わると、歴史家はそれらを読解し、論文に必要な部分を抽出する。これは、 料理人における素材の下ごしらえにあたる。無論、包丁の使い方がわからなければ下ごしら えが出来ないように、歴史家も史料の読み方がわからなければ読解に手をつけられない。史 料の読み方とは、史料が記述されている言語の読解力(筆者はアフガニスタン史を専門と しているが、この場合はペルシア語となる)や、史料の背景に関する知識を指すが、こうし たことは当然身に付けておかねばならない。 こうして史料を読み終え、必要箇所を抽出し終えると、いよいよ本格的な論文執筆へと移 る。これは料理人における調理と同じである。この段階で料理人にとって大切なのは火の扱 いであり、天才的料理人は「火の魔術師」などとも呼ばれたりするが、歴史家にとっての「火」 にあたるのが、論理構成能力である。火を使って別々の素材を一つの料理として完成させる ように、歴史家は論理構成力で抽出した史料の個々の記述を一つの論文に作り上げ、自らの 学説を主張する。だから、支離滅裂で説得力のない文章しか書けないようでは、いくら良い 素材を集めてきても、良い論文は決して作り出せないのである。 こうした作業を経て、歴史家にとっての「料理」、つまり論文が完成することとなるが、こ の一連の作業で最も重要なものは何か。それは「独創性」である。料理人が人並みの料理しか つくれないと、小さな食堂で一生埋もれてしまうことになるが、歴史家の場合も独創的な論 文を書けなければ世に出ずに一生を終わることになる。論文執筆にあたっては、他人の真似 事ではない、自分だけの論文を作り出さねばならないのである。この独創性は、どこで出し ても構わない。同じ調理法でも、違った素材を使えばおのずと違った料理が出来上がるし、 同じ食材を違った調理法で料理した場合はなおさらである。歴史家の場合、 「素材」が史料に あたり、 「調理法」が論理構成にあたるのは前述の通りであるが、誰も使用したことのない史 料を用いたり、同じ史料でも違ったりすることで独創性を出すことが出来るわけである。独 創性を出す上で重要なのは、他の店の料理を知ること、歴史家について言えば、過去・現在 の研究の内容に関してあらかじめ十分な知識を持っておくことである。自分の殻に閉じこ もって論文を作り上げ、自分独自のものだと主張したとしても、もし過去に同じ研究があっ たとしたら、またもし現在同じ研究を行っている人がいたら、結局は他人の真似事となって しまう。だから、料理人がお忍びで他店を偵察しに行くように、歴史家も自分の分野に関し ては、他者の研究内容をも知らなければならない。この作業を経て初めて、良い料理、つまり 質の高い論文が出来るのである。 さて、論文の執筆が完了すると、最後にそれを発表するという仕事が待っている。料理人 の場合は、料理を客に出し、満足して帰ってもらえればそれでいいのであるが、歴史家の場 合は論文を学術雑誌に投稿し、評価を受けるのである。ここで良い評価を得、雑誌に掲載さ れると、歴史家としての自分が晴れて世に知れ渡ることになる。ただ、一般の客と料理評論 家で評価の影響力が違うように、雑誌もそれぞれの「格式」を持っており、高い格式の雑誌ほ ど自分の評価も高まる(研究者内では、それぞれの雑誌の「点数」で研究者を評価するとい うことも行われている)。歴史家の長期的な仕事とは、この一連の活動を継続的に行い、評 価を高めていくことである。最終的に自分の店を持つこと―歴史家の場合にはどこかの大 学・研究機関で職を得る事であるが―が出来れば、もう一人前の歴史家である。 ここまで読まれてきて、意外に感じられた方も多いと思う。歴史とは、出来事、年号、人物 などを調べ、まとめていくことではないのか、と。それもそのはずである。なぜならば、高校 までの歴史と大学からの歴史とは、名前は同じであるが行う作業は全く異なるのだから。こ こまで書いてきたとおり、歴史家の目標は「史料を蒐集・読解し、それを元に独自の学説を 作り出す」ことである。高校までの歴史の作業というのは、その初歩の初歩に過ぎないので ある。また、 「史料を蒐集・読解し、それを元に独自の学説を作り出す」ということは、極論す るなら、史料にしっかりと基づいてさえいれば―それが独創性を持っている限り―何を言 っても構わない、ということになる。要は、研究者個人が史料をどう解釈するかなのである。 このため、同じ対象を研究していても、おのおのの研究者によって見解が全く異なるという ことも少なくない。歴史は、高校までで習うようなスタティックなものでは決してないので ある。歴史学の持つこのダイナミックな性格は、高校までの歴史では決して感じることが出 来ない。思うに、 「歴史がつまらない」という意見が根強く存在するのも、一つにはこうした 事実が広く認識されていないということがあるのではなかろうか。どうも専門家というの は、(歴史学に限らず)自分達の世界の中に閉じこもりがちになるものである。歴史家は、 もっと世間に自分たちの仕事内容を知らせ、歴史に対する一般的認識を変えていく努力を する必要があると思う。 …と、ここまでわかったように、しかも偉そうに書いてきてしまったが、先にも言ったと おり、私はまだ論文を書いたことがない、研究者としては駆け出し以前の人間である。一応 現時点での私の理解を総動員して、歴史家の仕事について語ってしまったが、自分が本当に 上述のような独創的な料理を作り出していけるのか、はなはだ不安である、というのが私の 現在の偽らざる心境である。 最後に、歴史家を志している人々へ。正直に言えば、やめたほうがいいです。お勧めできま せん。歴史研究の作業の大半は、図書館と自分の部屋の往復です。好きでなければこんなに 退屈な作業はありませんし、交友関係も狭まります。それに、もし間違って大学院になど行 ってしまった日には、就職口も狭まります(教師か研究者しか残されていないといってい いでしょう)。でも、もし歴史が好きで、かつそうした障害を覚悟できるのなら、こんなにす ばらしい仕事もありません。史料から新事実を見つけ出す喜び、それを自分独自の学説に組 み立てていく喜び、他分野の研究者から自分にない視点を吸収する喜び…、歴史家とは、こ うした喜びにあふれた、実に刺激的な仕事なのです。そうした事実を理解してなお、歴史家 を志す人が出てきてくれればいいな、と思います。 2003 年 9 月 14 日記す (小沢先生の投稿です) ヨーロッパ・ロイヤルファミリーの今 著:フランツ1世 今ヨーロッパに残る君主制国家はわずか10カ国。それも、いずれ5人の王しか残らなく なるという。スペード、クローバー、ハート、ダイヤ、そして英王である。 しかしその英王室も、スキャンダルで揺れている。エリザベス女王が没した後に、王制を 廃止するという話もある。 西欧・中欧では1918年に、東欧は1945年以後にそれぞれ沢山の王室が瓦解し在 野の人となったわけであるが、今でもその王室の子孫は熱心に政治的活動を繰り広げてい る。 ハプスブルク=ロートリンゲン家 言わずと知れた超名門、一時その覇権はオーストリア・ハンガリー、ドイツ地域のみなら ず、イタリア、スペイン、ポルトガル、ネーデルラント、そして広大な新大陸、アジア諸州に轟 いた。しかし次第にその勢力は削ぎ落とされ、カール5世の時代を頂点としてじわりじわり と領土が減って行く。30年戦争によりハプスブルク家が任をつとめる神聖ローマ皇帝が 無力化され、スペイン継承戦争によりスペイン王位をブルボン家に奪われた。 1918年11月11日、第1次世界大戦で疲弊しきった市民が起こした革命によりオ ーストリア皇帝にしてハンガリー王カール1世が政権を放棄、スイスへ亡命した。 カール1世はハンガリー王位奪回を二度も試みて失敗し、大西洋の孤島マデイラに流さ れそこで若死にする。 現当主はカール1世の長男フランツ・ヨーゼフ・オットー、通称オットー大公。オットー 大公はナチスのオーストリア併合に亡命先のベルギーで強硬に反対し、ナチスに指名手配 された挙句、ドイツ軍のベルギー侵攻の際にはあやうく捕まるところであった。アメリカに 亡命した大公は、ルーズベルト大統領、チャーチル首相と何度も会談し、戦後の中欧にハプ スブルク帝国を復活させようと尽力した(勿論ルーズベルトは乗り気ではなかった)。 戦後結局オーストリアには共和制が敷かれてしまった。政治経済学博士であるオットー 大公は欧州議会議員に立候補して当選、ドクター・ハプスブルク=ロートリンゲンとして 知られ、つい最近まで議員の座にあった。また、パン・ヨーロッパ連盟の会長でもある。冷戦 終結によるハンガリー自由化の際には、オットー大公を大統領にしようという声もあった。 現在、オットー大公の長男カール大公も議員を務め、次男パウル大公は欧州のハンガリー 大使である。ちなみにオットー大公は現在90歳。 オーストリアは最近右傾化しているが、そのベクトルはハプスブルク家に向いていない。 オーストリア人はオットー大公を尊敬しているが、帝国復活は夢のまた夢。 ブルボン家 ブルボン家は、今スペイン王位を占めているが、本家本元はフランスの王家であった。聖 王ルイ9世の遠き子孫アンリ4世がヴァロア家の跡を継いでフランス王となったのは16 世紀。以後ルイ14世に至るまではハプスブルク家との抗争の繰り返しであった。 フランスはルイ14世の時にスペイン継承戦争により、スペイン王位をハプスブルク家 から奪い取ってスペイン=ブルボン家を創設。スペイン=ブルボン家からは両シチリア= ブルボン家とパルマ=ブルボン家が生まれた。 フランス革命でルイ16世が処刑されたが、ナポレオンの後に王政復古、ルイ18世、シ ャルル10世の治世が続くがまた革命。今度は、ルイ14世の弟の子孫であるオルレアン公 ルイ・フィリップが即位する。しかし彼も革命で退位、以後フランスに王政は復活していな い。 ブルボン家は19世紀以来、王位継承問題でフランス・スペインとも家が分裂していた。 フランスでは、シャルル10世の子孫である本家と、ルイ・フィリップ以下のオルレアン家 が、スペインでは、イサベル2世の家系とその叔父カルロス5世のカルリスタ系が、いがみ あっていた。 両シチリア、パルマのブルボン家はイタリア統一の際にサヴォイ家に駆逐されてオース トリアに亡命。フランスのブルボン家はもはや名目のみ。そしてスペインのブルボン家は1 931年の革命で無くなる。 スペインのブルボン家が復活したのは1975年にフランコが死んだ時である。ファン・ カルロス1世が即位し、スペイン=ブルボン家の復活が成った。 しかしブルボン家、未だにみんな仲が悪い。フランスの本家が断絶した後、フランス王位 継承権を巡って、オルレアン系、スペイン系、パルマ系が未だに争っている。 さすがは名門ブルボン家、実権は無くても王家らしい事をしています。 ロマノフ家 悲劇は1917年のロシア革命。ニコライ2世は退位し、1918年にボリシェビキの手 により一家全員処刑される。同時に皇族の全てが、殺害されるか亡命するかしたのでソ連の 崩壊までロシアにロマノフ家の人はいない。 そして待ちに待ったる憎きソ連の崩壊である。ロマノフ家の人々は歓喜して亡命先から ロシアに帰国する。 然し大問題が発生した。今のロマノフ家の代表は誰だ?ということである。ニコライ2世、 アレクサンドラ皇后、その子供達の列聖式の代表は誰になるのか? マーリヤ・ウラジミーロヴナ・ロマノヴァ、アレクサンドル2世の玄孫にあたる人物が、 息子ゲオルギイを連れて自らが正当なるロマノフ家の代表であると宣言。 然し…、彼女は重要な事を無視している。エカチェリーナ大帝が、ロシアの帝位継承者、即 ちロマノフ家の家長は、自分の死後は男子に限ると言っているではないか。 さすればマーリヤさんには継承権は無い事になるが、実は現在ロマノフ家には男の大公 がいない。男子はいることはいるのだが、みんな貴賎結婚の産物であるからして適格でない。 かといって女がロマノフ家の長になるとは許せぬ!ということでロマノフ家も分裂。 結局、列聖式はマーリヤ側とそうでない側とが別の教会で別に主催して執り行った。ロシ アではニコライ2世、アレクサンドラ皇后の人気が高まっているが、帝政復古はきっとない。 ホーエンツォレルン家 1918年、ハプスブルク家と共倒れしたドイツ皇帝家、ホーエンツォレルン家。ヴィル ヘルム2世はオランダに亡命したが、戦後ドイツの実権を握ったのは右派の参謀本部の軍 人達。中途半端な革命は失敗して結局反動を産んだ。よってヴィルヘルム2世は、北ドイツ にあった広大な領地を没収されずに済む。ハプスブルク家は全財産没収されたにも関わら ず。 参謀本部の人達は、ヴィルヘルム2世の孫を皇帝にしようともくろむ。ヴィルヘルム2世 とヘルミーネ皇后は未だにドイツ社交会の顔である。すわこそ、ドイツ帝国の復活かと思わ れる。然しそこにドイツに登場したのがアドルフ・ヒトラー…。 帝国は復活したがそれは第三帝国である。ホーエンツォレルン家は落胆した…と思った ら、意外とナチスに協力的である。ヴィルヘルム2世の四男アウグスト王子なぞは1933 年、ヒトラー首相就任の時から既にSSに入隊していて、結果的に中将にまで出世している。 しかし結局第三帝国は12年で消滅し、ドイツは帝政復活などと言っている場合ではな いほど惨憺たる状況である。 現在においても、ドイツ人にとってホーエンツォレルン家は過去の人である。 サヴォイ家 根っからのイタリア貴族、サヴォイ家。外来王朝が多いイタリアにおいて、サヴォイ家の 存在は大きかった。サヴォイ家はイタリア統一の象徴に祭り上げられ、ハプスブルク系、ブ ルボン系の諸国のみならずローマ教皇聖下の領地までも全部叩き潰して、晴れてイタリア 王となる。 第1次大戦では、協商側にいたのが幸いして戦後も王政は維持。あまり政治に関心が無い 歴代国王の元、イタリア人は呑気に生活していた。そこに現れたのがムッソリーニ。ローマ 進軍なんかしてしまって政権を奪取。しかしそれはあくまでイタリア国王ヴィットーリオ・ エマヌエーレ3世陛下の臣下という地位である。 王はムッソリーニのおかげでエチオピア皇帝、そしてアルバニア王にも即位できた。 サヴォイ家の人々は、ムッソリーニの政策によってヒトラーやナチスの将軍達とも交流 せねばならぬ。しかしそこは高雅なサヴォイ王室、ヒトラーを一々嘲弄してやまない。ヴィ ットーリオ・エマヌエーレ陛下の嫌がらせに、ヒトラーもいよいよ怒り出す始末である。 しかしヒトラーを嘲弄しても、ヒトラーの政策には従わねばならない。クロアチア独立国 の国王には、王の弟アオスタ公が名目だけのクロアチア王トミスラフ2世となる。 しかし1943年にイタリアは早々と連合軍に上陸されてしまう。変わり身の早い王ヴ ィットーリオ・エマヌエーレは、ムッソリーニを逮捕する。 しかしその代償は大きかった。ヒトラーは王に対する報復として、王の娘、ヘッセン=カ ッセル方伯夫人マファルダを強制収容所に入れて殺害。 戦後のサヴォイ家は悲惨である。ナチスに協力したとの事実が国民感情を刺激し、ヴィッ トーリオ・エマヌエーレ3世の子ウンベルト2世は退位して亡命。以後イタリアにサヴォ イ家の人々は立ち入り禁止となる。 それでウンベルト2世の子、ヴィットーリオ・エマヌエーレ王太子がイタリアに帰国し たのが今年(2003年)の初春。王位継承権を放棄しての入国である。 しかしそれに、イタリアの王党派は怒った。そんなに簡単に継承権を放棄してしまうとは! 王太子にあるまじき行為である。従って「元老院」は王の遠戚アオスタ公アメデオを王位継 承者に指名した。 王太子は何かと不人気だが、王太子の子、エマヌエーレ・フィリベルト王子はスポーツマ ンで、国民の印象が良いようだ。 ウィンザー家 グレートブリテン王国の王家。現在の代表は女王エリザベス2世。本来家名は、ハノーヴ ァー=サックス=コーバーグ=ゴータというはずなのですが。第1次世界大戦の時にジョ ージ5世が、ドイツ語の名前では印象が悪かろうということで、英国風に家名をウィンザー に改めたのである。 そういういきさつから判る通り、エリザベス女王の父ジョージ6世までのハノーヴァー 家の王、女王達はほとんどドイツ人である。ウィリアム征服王の血など一滴ほど。 エリザベス女王の母で、このあいだ亡くなった国母エリザベス王太后はイギリス貴族で あるから、女王はおおまかに、半分ドイツ人、半分イギリス人といえよう。 王室の威信は、ジョージ6世の時代はまだまだ保たれていた。エリザベス女王の最初の治 世も、保たれていた。それが崩れ始めるのは、女王の妹マーガレットのスキャンダルに端を 発し、女王の子供達がスキャンダルを起こした時からである。 アン、チャールズ、アンドリュー、エドワード、全員離婚歴がある。問題はチャールズ王太 子の妃ダイアナと、アンドリュー王子の妃セーラの質の悪さである。彼女らは、英王室の威 信を徹底的に踏みにじってしまった。王室の威信は地に落ちかけ、それをかろうじて女王が 支えているといった風である。 しかも、チャールズ王太子の次男ヘンリー(愛称ハリー)王子の乱行が始まる。ウィンザ ー家の御先真っ暗、ラスプーチンの予言がにわかに取り沙汰されるほどであった。 しかしダイアナ死して、ウィンザー家の威信は上向き加減である。ウィリアム王子は誠実 で人気があり、ヘンリー王子も更正したようだ。チャールズ王太子とカミラ夫人の再婚も問 題無かろう。女王は今まで通り真面目だ。エディンバラ公も最近失言も無い。今後のウィン ザー家の幸せを祈ります。 サクス=コブルク=ゴツキ家 ブルガリアの王家。ドイツのザクセン王国の傍系であるザクセン=コーブルク=ゴータ 家のフェルディナントがブルガリアに渡って即位した為、ブルガリア風に家名を変えた。 ブルガリアの悲劇は1945年。ナチス=ドイツと同盟していたブルガリアはソ連軍に 蹂躙された上、摂政キリル公がソ連軍に処刑されてしまう。8歳の少年王シメオン2世は国 外に亡命。以後ブルガリアは共産国家。 しかし…2001年7月、帰国していたシメオン2世は「シメオン2世国民連合運動」を 指揮して選挙に大勝し、64歳にしてブルガリアの首相に就任する。その名も、サクス=コ ブルク=ゴツキ首相。 しかし大統領が反王党派らしいので王政復古は難しそうです。 カラジョルジェヴィチ家 セルビア、ユーゴスラヴィアの王家。バルカンの王国にしては珍しく、セルビア土着の王 家である。祖先の素性は豚商人。 ペータル1世の時にユーゴスラヴィア王国が誕生、カラジョルジェヴィチ家は一躍バル カン最大の領土を保有するに至る。しかしセルビア人優遇の政治は次第にクロアチア人、ス ロベニア人などの反抗を招く。 ペータル1世の子アレクサンダル1世は1934年にマルセイユでクロアチア人に暗殺 される。即位したのはその子でわずか11歳のペータル2世。アレクサンダル1世の従弟パ ヴレ公が摂政として政務を執る。 しかしやってきたのはナチスの脅威とクロアチアの離反。王室は親ナチス派と反ナチス 派に分裂。結局なんだかんだでナチスにユーゴは攻め込まれ、王族はイギリスに亡命する。 戦後、王族は帰国するが結局王政復古はならなかった。 現在、ペータル2世の子アレクサンダル王太子が、王政復古へ向けてセルビアで活発に活 動しているらしい。 オランダ、ベルギー、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの王制は現在も存続している が、権力は当然無い。王室はややもすればかすれがちであるが、国民には尊敬されているよ うだ。ルクセンブルク大公国、リヒテンシュタイン侯国、モナコ侯国、これらも同様である。
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