(通算 360 号)2011 年 8 月号 発 行 代表者 日本福音ルーテル箱崎教会 牧師 和田 憲明 〒812-0053 福岡市東区箱崎 3-32-3 TEL(092)641-5440 FAX(092)641-5480 メールアドレス wada@jelc.or.jp 箱崎教会・恵泉幼稚園 http://www.jelc.or.jp/hakozaki http://nata.aiikuen.net/ 奈多愛育園 -月報 メッセージと メッセージと証し- ・ 和田 憲明 「激動する現代世界において、・・・諸問題に対してわれわれは、伝統的なキリスト教倫理を検証し、新たな ( 『講座 現代キリスト教倫理』全 4 巻、日 パラダイム転換を図りつつ、応えを模索してゆかなければならない。」 基出版局「刊行のことば」)。今、私たちが直面している問題について、冒頭の祈りのごとく知恵を求め、 祈りを紡ぎ、努めている人々がいる。数々の言葉より―― 「キ保連より、震災後すぐ私たちの現地に、放射線検出器をお送りくださり、ありがとうございまし た。」と、今野善郎氏(栄光幼稚園・日本基督教団須賀川教会牧師)は 7 月末にシーホークで開かれた第 82 回社 団法人キリスト教保育連盟の開会礼拝で感謝の意を述べられた。キ保連では、阪神淡路大震災後の援助の 反省を踏まえ、災害援助積立金を積み立てていた。この度支援物資や支援金を送ったが、それぞれの 施設で必要なものが違ってきたことから、放射線検出器をまとめて購入。奥羽、東北、関東部会に送 り、事務局で一台を保有し要望により貸出しをしている。夏期講習会には被災地より参加があり、祈 りを合わせ、共にこれからも歩むことを約束した。 「3・11 以降、私たちが改めて理解したことがある。それは『神の領域』に属することと『人間の領 域』に属することを、これまで私たちが混同していたことだ。」と語る桃井和馬氏(写真家・ジャーナリスト、 「誰かの犠牲の上に成り立 恵泉女学園大学客員教授)。原発における日本の技術を「バベルの塔」と見て、 っている技術など、私たちには要らないのだ。原発とは、本来人間が立ち入ってはいけない『神の領 域』の技術なのだろう。どこまでも、人間は神ではないことをわきまえていなくてはいけない。慎み (季刊『Ministry 夏―特集 いま、語るべき言葉 東日本大震災』キリスト新聞社) 。 を忘れてはいけない・・・。 」 「今は楽観ではなく、自省を込めた悲観の情熱(パッション)によって危機と向き合う時ではないか。」 と、加藤博道氏(日本聖公会東北教区主教/5 月 29 日(日)日本聖公会郡山聖ペテロ聖パウロ教会説教より)は、 5 月 2 日の朝日新聞文化面の仙台在住作家佐伯一麦さんの言葉を引用し(括弧内は加藤氏の補語)語られ る。 「文明の光と影、人間の強さと弱さ、美しさと脆さ、楽観的な掛け声で乗り越えられる事態ではな く、しかしまた悲観というのは決して否定的という意味ではなく、深く思い悲しみと人間の命への愛 おしさをしっかりと受け止める、そのような情熱・パッションが、これから先長く保たれなくてはな らないのだ、と思わされました。パッションとは苦難・受難であり、また情熱であります。」。 「パッシ ョン」の原意に、震災とキリストの十字架への思いを重ねる。 仏教、神道、キリスト教の宗教者が宗派を超えて集い、仙台市の葛西斎場内に「心の相談室」を設け、震 災で亡くなった死者を弔い、遺族の心に寄り添う活動を行った。活動の母体は、宮城県下の 2000 を 越える宗教法人が加盟する宮城県宗教法人連絡協議会。川上直哉氏(日本基督教団・仙台市民教会牧師/仙 台キリスト教連合被災者支援ネットワーク事務局)は、40 年間宗教者が協力してきたこの会で、研修会の際、講師と して「テゼの祈り」を神職や僧侶に紹介した。被災地では親しみを込め「ルーテルさん」と呼ばれる日本 福音ルーテル仙台教会を拠点とした「ルーテルとなりびと」の活動もある。「平安の祈り」に想いを馳せたい。 説教「 説教「神の愛にとどまりなさい」 にとどまりなさい」(説教要旨) 説教要旨) 聖書日課: 聖書日課:ヨハネによる ヨハネによる福音書 による福音書15 福音書15章 15章9-12節 【父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わ たしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内 にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛 し合いなさい。これがわたしの掟である。】 <平和を「実現する」=「つくり出す」者に> 8月の第1日曜日の日を、ルーテル教会は「平和主日」として守っています。今夏も暗唱聖句として、園 の子どもたちと「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイに よる福音書5章9節)と共に唱えています。私も子どもとの礼拝の中、手話で「平和」、「実現する(新 共同訳)=つくり出す(口語訳)」を教えます。このみ言葉が、幼子の心の中に印象深くいつまでも 残って欲しいです。 <福音書のイエスの言葉「ように」=「基づいて」> さて今朝、私たちに与えられた福音書でイエスはこういわれました。 【15:9 父がわたし を愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたし の掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 】と。 ここでは順番があります。父なる神が、御子イエス・キリストを愛されたことが、先ず言われていま す。なぜ、イエスは愛されたのか。それは、イエスが父の戒めに完全に服従されたからです。同じヨ ハネ福音書 10:17 にはこうあります。 「わたしは、命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父 はわたしを愛してくださる。」と。つまり、父なる神にとって御子イエス・キリストは愛すべき方でし た。父なる神は、そのようなご自身の愛に値する方であるイエス・キリストを愛したのです。それは、 いわば、当然のことです。しかし、私たちの場合はどうでしょうか? 私たちは、イエス・キリストにとって、決して愛すべき存在ではありません。彼の愛に値するような 者ではありません。生まれながらの私たちは、決してイエス・キリストの戒めを守ることの出来るよ うな存在ではないのです。 【15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わ たしの愛にとどまりなさい。】と記され、父が御子イエス・キリストを愛されたことと、イエス・キリ ストが私たちを愛してくださるということと、その 2 つのことを、 「ように」という言葉で結び付けて います。つまり、それら2つのことはイコールである、等しいと言うふうに言われていますが、しか しこの 2 つの事柄は、けっしてそのようにイコールであると言うことが出来るようなことではありま せん。父なる神がイエス・キリストを愛されたのは、愛すべき方を愛されたのです。しかし、イエス・ キリストが私たちを愛されるのは、決して同じ事柄ではありません。私たちは、神に背く者であり、 罪を犯す者であり、神の敵である者です。その私たちを、イエス・キリストは愛されたのですから、 それは全く違った事柄であると言わなければなりません。ローマの信徒への手紙 5 章 8 節に「しかし、 まだ罪人であったとき、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたち に対する愛を示されたのである」という有名な言葉があります。イエス・キリストの私たちに対する 愛は、まさしく、そのような愛でした。したがって、この 9 節の「ように」という言葉は、「ように」 と訳すよりは、むしろ「父が私を愛されたことに基づいて」と訳せる言葉なのです(参照:『ヨハネ福音 書を読む』井上良雄著、新教出版社) 。 <神の愛にとどまりなさい> 例えば、先の巻頭言に書いた桃井氏は神の領域と人間の領域があることを語ります。今日のみ言葉に なぞらえれば、 「イエスはまことのぶどうの木」という箇所(ヨハネ 15 章 1 節-17 節)の真中に位置す るこのみ言葉は、いわば「神の領域」につながり、とどまるということでしょう。神やイエスそして 私たちが関係性を保ち、同じテリトリーの中に位置するのです。 【15:12 わたしがあなたがたを愛した 、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 】 ように(ことに基づき) 「どうぞこの時私たちが共に祈りつつ、主の約束への信頼を、穏やかにしかし確かに持ち続けること ができますように。そして苦難の地にあるすべての人々の命と生活と心とが、どうぞ守られますよう に。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン」 (巻頭言、加藤博道司祭の説教の終わりの祝祷より) 。 「ラン・ ラン・ハンキンス先生 ハンキンス先生の 先生の講座に 講座に出席して 出席して」 して」 J ・N 心が弱っている知人の話を聞いていて、どうしてこんなに悪い方にばかり考えるのか、どう向き合 ってあげればよいのかと悩んでいる時、講座のチラシを手にしました。早速、2 回目の講座から学びの 中に入れていただきました。テキストを手に、先生のお話を聞いてすぐに、これは人と向き合うとい う前に自分の心の中を見つめ、自分と向き合う時であることが分かりました。 これまで自分の内面とじっくり向き合う時間が少なく、頭で分かっていても心が動かされない状態で、 やはり自分のこととなるとなんだか疲れるというか、サラーとしておきたいという思いもして、宿題 にもペンが進みませんでした。でも、続けているうちに、自分の中にある歪んだ考えや、幼い時から 自然に身に着いた「それだけは受け入れたくない」という気持ちの中にも、自分が作り上げた思い込 みもあることに気づかされました。 私も高齢者と言われる年齢になりましたが、時に鏡に映っている自分の姿に驚くことがあります。ま た、荷物の整理をしているとたいして意味もないものを長い間ため込んでいることに驚き、あきれる ことがあります。自分の心の中も同じことで、それは見えない分余計に気づきにくく、何十年も歪ん だ思いを持ち続け、ため込んでいることさえあります。人間関係、そして神様との関係の中で、もっ と自分を大切にし、素直な生き方をしてゆきたいものだと思いました。 先生のお話を聞いているうちに聖書のみ言葉が浮かんできました。 「主を畏れることは知恵の初め、聖 なる方を知ることは分別の初め」、「穏やかな心は肉体を生かし、激情は骨を腐らせる」、「神に逆らう 者はつむじ風の過ぎるように消える。神に従う人の願いはかなえられる」などなど。人間関係の悩み は昔から人につきものですが、時代が単純でも複雑でも問題の原因は共通ではないかと感じました。 自分の本当の姿に気づき、自分と向き合うこと、そして真の神に向き合うとき、み言葉が生き生きと 迫って、問題の解決へと導かれて行くでしょう。問題は自分を見失い、愛の神を見失っていることか ら生じると思いました。 私に大切な時間を与えてくださって有難うございました。 ラン・ ラン・ハンキンス先生 ハンキンス先生の 先生の「自分らしさに 自分らしさに出会 らしさに出会うための 出会うための 10 日間」 日間」 ―自尊感情をとりもどすための 自尊感情をとりもどすためのプログラム をとりもどすためのプログラム- プログラム-に参加して 参加して 永久 明子 「認知行動療法のプログラムがあります。」と、牧師先生に声をかけていただいてから、それが実現 することを楽しみに待っていました。そしてこの講座のタイトルを知った時、更に心惹かれました。 私はうつ病と診断された後、いつまで続くのかわからない暗く長いトンネルを抜けた時に、自分を 大切にする事の意義を深く感じ、家族にとって自分がどれ程大切な存在であるか・・・家族を大切に思う ことはあっても、家族にとって自分が大切な存在であるかという事に気付いていなかったのです。 “うつ病がひどい状態の時は重大な決断はしてはいけない”という事だったのに、笑う事も泣く事も 声を出すことも・・・生活の中で普通にできると思っていた事が何ひとつできなくなっていた時に、私は まさに重大な決断、洗礼を受ける事を決めたのです。どうしてそれだけを決めることができたのか、 わかりません。神様がそうしなさい!と言われたから??自分の中の何かが突き動かされる、という のはこういう事なのでしょうか。他の事は何もできなくなっていた時だけに、とても不思議な感覚で した。 そういう体験の後でのこの講座は、もうたまらなく面白く楽しい時間でした。ハンキンス先生のお人 柄といい、明るさ、ユーモア、優しさ、その中で話される、生きていくために何が大切なのか。嫌な 気持ちは自分が作り出しているという事。 「自分が嫌な気持ちになった時、その前に無意識のうちに何 を考えていたか、その考えの中の歪んだ部分に気付きそれを調整する」という事は、 “嫌な気分を変え られるのは自分だけなんだ!なんと簡単な事か!な~んだそうか!”これですべて解決した訳ではな いし、まだたくさん学びたい事はあるのですが、今日の講座で学んだ事を、これからたくさん試して みます。自分で自分に“大丈夫だよ”と言える為に。 このプログラムに出会わせてくださった方々に感謝です。そしてこの出会いもまたすべて神様からの 大きな大きな恵みなのですね。
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