m2008-03 Vol. 96元.pmd

ちと共に、 このような賛美の歌を
物を求めます。
﹂
︵二一︶
ると、山々は煙を上げます。私は生
れると、地は震え、山々に触れられ
れますように。 主が地に目を注が
すように。 主がそのみわざを喜ば
﹁主の栄光が、 とこしえにありま
デに、今の世界のことによって神
霊は、今の時代に生きていたダビ
と言うことも可能です。しかし、聖
は、千年王国が実現される前の歌
ません。ですから、この賛美の歌
が餌食を求めて吠えることはあり
ります。それで、そこではライオン
千年王国ではライオンも草食にな
きているかぎり、主に歌い、いのち
歌われるのです。
第百四篇
を賛美させ、その歌で千年王国で
のあるかぎり、 私の神にほめ歌を
く主イエスの御父への賛美の歌で
た。そして第百三篇は、それに続
に主イエスの十字架上での歌でし
第百二篇は、すでに学んだよう
ばもあります。 たとえば次のこと
中には千年王国には適さないこと
讃えています。ですから、この歌の
をもって被造物世界を見て、 神を
から、今の世界の中にいる者の目
ので、恐らくダビデでしょう。です
い説明は省くからです。
度ゆっくり読んでください。この
読者は必ずこの篇と次の篇とを一
第百五篇
もできます。
てくださっておられると見ること
よ。そのみわざを国々の民の中に
(1)
﹁わがたましいよ。主をほめたた
聖徒たちがメシヤに導かれて神を
した。そして第百四篇も、千年王
ばです。
﹁主に感謝して、御名を呼び求め
賛美する歌を、私たちに予想させ
国での主イエスの大祭司としての
﹁若い獅子はおのれのえじきのた
﹂三(一∼三三︶
えよ。わが神、主よ。あなたはま 歌いましょう。
この歌を作るために用いられた人
ことに偉大な方。あなたは尊厳と
威光を身にまとっておられます。
﹂ は、この歌が第百三篇の続きです
歌です。主イエスは、実現された
めにほえたけり、神におのれの食
篇は大略的説明だけにして、細か
千年王国を目にしながら、聖徒た
︵一︶
Maranatha March
この方こそ、われらの神、主。そ
を目前にするまでの旅路の間、ど
に、イスラエルの民のカナンの地
返って見ることは良いことです。
た時から、今に至るまでを振り
若い信者も、時々、自分が救われ
を得ません。
︶
に神が彼らに恵み深くあられたか
知らせよ。
に対応しています。
を語って、彼らの大牧者なる主イ
主に歌え。主にほめ歌を歌え。そ
民数記は、イスラエルの民が荒野
のすべての奇しいみわざに思いを を如何に歩んだか、あるいは神が エスが彼らに神の深い恵みを歌わ
せようとしておられるのです。
潜めよ。
不従順なご自分の民を、どのよう
主イエスは、そのようにして彼ら
主の聖なる名を誇りとせよ。主を に忍耐深くカナンの地まで導かれ
の心を千年王国に入るために整え
慕い求める者の心を喜ばせよ。
たかの記録であるとも言えます。
ておられるのです。
主とその御力を尋ね求めよ。絶え
ですから、詩篇の第四巻も、患難
私たちもいよいよ天を目前にし
ず御顔を慕い求めよ。
時代の中をイスラエルの残りの者
主が行われた奇しいみわざを思 たちの大牧者でいます主イエスが たならば、主イエスを信じたとき
い起こせ。その奇蹟と御口のさば 彼らをどのように守り、導かれる から天に召されるまでの旅程を思
い出し、心からの感謝を主にささ
きとを。
かの預言であると言えます。
︵私は今七
主のしもべアブラハムのすえよ。 第四巻の終わりの二つの歌は千 げなければなりません。
主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。 年王国を目の前にした﹁残りの者﹂ 六歳なのでいつも主に感謝せざる
のさばきは全地にわたる。
﹂︵一∼
のように神が彼らに対して憐れみ
命記に対応しているとすでに語り
各部が順番に創、出、レビ、民、申
に思い出させ、その期間中、如何
のイスラエルの民の全行程を彼ら
を出た時から千年王国に至るまで
に入り、そのカナンの地に定着し
ジプトの地を出てからカナンの地
この篇は、イスラエルの民が、エ
第百六篇
ました。それで、第四巻は民数記
いよいよ第四巻の終わりになり 深くあられたかを語ることによっ
ました。詩篇が五部でできており、 て、アブラハムがカルデヤのウル
七︶
マラナ・タ 3月号
(2)
﹁私たちは先祖と同じように罪を
明らかにしています。
たどのような不信仰であったかを
神に対して反抗的であったか、 ま
て行かれるまでの間、どのように
て後、バビロンに捕囚として連れ
と言われた。もし、神に選ばれた
神を忘れた。エジプトで大いなる
彼らは自分たちの救い主である
れた。それは、ご自分の力を知ら
一︶
た。
﹂
︵四四、四五︶
﹁それゆえ、神は、﹃彼らを滅ぼす﹄ ﹁主は、御名のために彼らを救わ
ことをなさった方を。
﹂︵一九∼二
せるためだった。
﹂
︵八︶
恵みゆえに、彼らをあわれまれ
自分の契約を思い起こし、豊かな
められた。主は、彼らのために、ご
どうか、私たちの全てが、この神
人モーセが、滅ぼそうとする激し
たちの先祖はエジプトにおいて、 い憤りを避けるために、御前の破
の恵みの深さに心から感謝し、真
犯し、不義をなし、悪を行った。私
れに立たなかったなら、どうなっ
実に神をお喜ばせする者でありま
﹁サムソンは、ガザへ行ったとき、
﹁それでも彼らの叫びを聞かれた
であるのか、あるいは害であるの
を何でも、それが自分にとって益
(3)
あなたの奇しいわざを悟らず、 あ
﹂
︵二三︶
なたの豊かな恵みを思い出さず、 ていたことか。
すように。 ︵次号に続く︶
のさとしを待ち望まなかった。 彼 ﹁それゆえ、主の怒りは御民に向
らは、荒野で激しい欲望にかられ、 かって燃え上がり、ご自分のもの
そこでひとりの遊女を見つけ、彼
つき従い、死者へのいけにえを食
である民を忌みきらわれた。 それ
女のところに入った。
﹂
︵一︶
逆らった。
﹂
︵六、七︶
荒れ地で神を試みた。
﹂︵一三、一
で彼らを国々の手に渡し、彼らを
べた。
﹂
︵二八︶
四︶
サムソンは非常に軽率な人でし
憎 む 者 た ち が 彼 ら を 支 配 し た 。﹂
彼らの栄光を、草を食らう雄牛の
とき、主は彼らの苦しみに目を留
た。彼は自分がしたいと思うこと
像に取り替えた。
物の像を拝んだ。こうして彼らは ︵四〇、四一︶
﹁彼らはホレブで子牛を造り、鋳
﹁彼らはすぐに、みわざを忘れ、そ
かえって、海のほとり、葦の海で、 ﹁彼らはまた、バアル・ペオルに
Maranatha March
全く考えませんでした。
しいのか、ふさわしくないのかを
か、ナジル人である自分にふさわ
そのような彼にエジプトに帰るよ
失っていたのです。しかし、神は
しんでいる同胞に対する思いを
モーセは、すっかりエジプトで苦
てしまったのです。
も引き抜いて山の上まで担ぎ上げ
たサムソンは、町の門の扉も門柱
の恵みは変わらず、真夜中に起き
心な祈りへの神のお応えであった
はサムソンの母親が神に祈った熱
の原則に従えば、このような約束
からだ。
﹂
︵一三 七:︶
聖書全体が語っている神の御業
ぬ日まで、神へのナジル人である
﹁その子は胎内にいるときから死
の母親に約束されたからです。
した。
を取り去ることはなさいませんで
と約束されたということです。
をエジプトから解放する者とする
セを彼らに与え、イスラエルの民
両親の切なる祈りに応えて、モー
その理由は、ただ一つ、神が彼の
せようとされました。
エジプトから連れ出す働きを行わ
うな彼になおもイスラエルの民を
ト行きを拒みました。神はそのよ
ろいろの言い訳を言って、エジプ
うに執拗に迫られました。彼はい
によって取り扱われているゆえに、
でしょうか。いや、私たちは恵み
失敗をしたことのない人間がいる
い人間がいるでしょうか。一度も
常に重要です。恵みを必要としな
注意になり、軽率さが増しました。
いました。慢心した彼は、一層不
それで彼は一層大胆になってしま
去っていないことを知りました。
これと同じことがモーセの場合
してしまったのです。遊女のとこ
のです。しかし、彼はそれを悪用
しく働く良心、神のみことばの権
持って、すなわち正しい良心、正
す。
︵ローマ五 一:、二参照︶
しかし、もし私たちが鋭い良心を
私たちにとっても神の恵みは非
サムソンは自分から神の霊が
に違いありません。また、一度神
サムソンへのこのような神の恵 恵みの中に立たせられているゆえ
みは彼の益になったでしょうか。 に、希望があり、平安があるので
それでも神はサムソンから恵み
が約束を結ばれると、神はそれを
彼はそれを益にすることもできた
にも言えるのです。シナイの荒野
ろに入って一夜を過ごしても、神
(4)
それは、次のように神がサムソン
絶対に成就されます。
で四十年間羊飼いとして過ごした
マラナ・タ 3月号
を私たちは悪用する者になり、 軽
恵みに応えないならば、神の恵み
威に服している良心をもって神の
す。
し、彼はそれを知らなかったので
ジル人ではなくなりました。しか
それだけでなく、サムソンが自分
まっていました。しかし、悲劇は
ンはただの普通の人になってし
彼は簡単に捕らえられてしまい
になおいつもの力があると思った
ました。そして、彼は目をえぐり
﹁彼女が、
﹃サムソン。ペリシテ人
たとき、サムソンは眠りからさめ
出され、鎖に繋がれて、牢の中で
率な者になり、放縦の中に歩む者
て、﹃今度も前のように出て行っ
ことでした。
そのように、彼はソレクの谷にい
て、からだをひとゆすりしてやろ
臼引きにならせられてしまいまし
があなたを襲ってきます﹄と言っ
たデリラというペリシテ人の女性
う﹄と言った。彼は主が自分から
になってしまうのです。
を愛してしまったのです。彼はデ
去 ら れ た こ と を 知 ら な か っ た 。﹂ た。このような状態になってから
サムソンは、自分が軽率さとわが
リラに魅惑されてしまいました。
︵二〇︶
彼の力の秘密を何度も知ろうとし
女でした。彼女は金を得るために、
るためならば、彼を平気で裏切る
はいませんでした。彼女は金を得
一方、デリラは彼を決して愛して
条件を失ってしまったサムソンを、 の民に平安を与え、神のしもべと
かし、ナジル人であるための最低
けは切られていませんでした。し
は言えませんでしたが、髪の毛だ
た。彼の心は到底ナジル人の心と
人の最低限の条件を守って来まし
してイスラエル人の幸いな指導者
ペリシテ人を征服し、イスラエル
彼は、ナジル人でありさえすれば、
気が付くことは残念なことです。
失ってから、失ったものの価値に
(5)
彼女は彼の心を奪ってしまったの
ました。彼はその都度、彼女を騙
神はもはやナジル人として扱うこ
であり得たのです。しかし、彼は
ままのゆえに、大きな特権を失っ
しました。しかし、遂に彼は力の
とはおできになりませんでした。
デリラのような女を愛したために、
サムソンはこの時点まで、ナジル
秘密を明かしてしまったのです。
ナジル人ではなくなったサムソ
たことを知ったのです。
髪の毛を切られた彼はもはやナ
した。
です。彼は彼女を献身的に愛しま
Maranatha March
全てを失ってしまいました。
これは私たちへの警告ではない
れ、過去の光栄を語るのみになっ
目にされており、罪の鎖に拘束さ
もし、このサタンへの憎悪と怒り
のサタンへの怒りがあるはずです。
者たちは、霊的ナジル人です。そ
の見せ物にされました。彼の心の
さて、サムソンはペリシテ人たち
たかに気が付いていない人です。
ほど多くの祝福を取り損なってき
まだ自分のわがままによってどれ
がない人がいるならば、その人は、
して、ナザレのイエスに弟子入り
中に怒りが込み上げてきました。
サムソンの心は、自分を軽率に
てしまうのです。
したのです。ナジル人は、一般の
敵に対する憎しみが彼の心を満た
でしょうか。私たちは、特に献身
イスラエル人に許されているもの
です。
キリストのしもべにふさわしい姿
ているべきであるのです。それが
質素な食事を食し、質素な服を着
食べてはならなかったのです。 そ
ぶどうとぶどうから作った物さえ
とっては神からの祝福を意味する
忠誠心を鈍らせ、福音伝道を邪魔
駄な時間を使わせ、キリストへの
を怠け者にし、横道に誘い込み、無
はないでしょうか。また、私たち
るべきなのです。質素な家に住み、 し込んで来たサタンに対する怒り
のように献身者の生活は質素であ
し、何度も落胆させ、私たちを躓
の奴隷にし、永遠の火の中に落と
くのたましいを神に反逆させ、罪
怒り、憎しみがないでしょうか。多
私たちの心にも、サタンに対する
だのです。それで、彼は信仰の勇
の下敷きになって死ぬことを選ん
シテ人を道連れにして、崩れた宮
て寝るよりも、三千人以上のペリ
られました。デリラの膝を枕にし
はナジル人として死ぬ覚悟が与え
らのナジル人になったのです。 彼
彼は、生まれて初めて真の、心か
で満たされました。
サタンとペリシテ人に対する怒り
与えられていた特権を奪い取った
し、不注意にして、自分に神から
しました。
霊的ナジル人の姿を失った牧師
かせてきたサタンに対して怒りと
(6)
でも、またこの地上にいる人々に
は髪の毛を切られたサムソンと同
もし彼が、人生の初めから、自分
憎悪はないでしょうか。キリスト
の真のしもべの全ての心には、こ
じで、もはや霊的力は失われてし
まっています。霊的視力も失い、盲
者の一人に数えられています。
マラナ・タ 3月号
に与えられている神からの恵みに
関して、主イエスと読者の皆さん
ンにとって実に重要なこの問題に
若いクリスチャンたちの間で、
す。
ければならないと感じているので
方に忠実に、勧めの言葉を書かな
自覚し、自分に与えられている召
この小論のタイトルとなってい
命の尊さに気が付いていたならば、
そして彼が肉に活動の自由を与え
る質問は、とても重要な、また実
際的な問題です。私たちが認める
ていなかったならば、そして、も
し彼が自制心をもって神に仕える
︱︱と言っても、若者だけに限定
と世と罪に対して戦うように召さ
ちは、サムソンと同様に、サタン
だけのことではないのです。 私た
しかし、これらのことはサムソン
のであったことでしょうか。
彼の生涯はどんなにすばらしいも
私たちの内なる人を養う食料です。
本は、私たちの心と魂の糧であり、
計器だと言えます。私たちの読む
の道徳的、知的、霊的状態を示す
うか。私たちの読む本は、私たち
る﹂とも言えるのではないでしょ
がありますが、
﹁本を見て、人を知
が本棚に眠っています。これは実
重要で価値ある真理を記した書物
貪り読まれていますが、何よりも
る種類の有害でくだらない書物は
小説、人気物語といった、あらゆ
しく思っています。新聞、宗教的
ないのを見て、私たちはとても悲
しっかりとした読書が好まれてい
するわけではありませんが︱︱、
れており、そして戦って勝利する
ですからクリスチャンにとって、
に嘆かわしいことです。それは、霊
(7)
ことの祝福を、そしてその報いの 以上の事柄を含んでいます。
﹁友を
永遠の価値を追求していたならば、 見て、人を知る﹂ということわざ
ように定められているのです。 ど
読書は実に重大な問題なのです。
もあるなら、口で立派な信仰の告
のいのちが火の粉ほどわずかにで
いる警告灯です。実際のところ、神
的状態がどれほど低いかを示して
うか私たちの全ての者が、この神
そして神の栄光を現す者でありま 上げるのが遅すぎたとさえ言えま
すように。 ︵次号に続く︶ す。ですから、すべてのクリスチャ
から与えられている特権を決して 実のところ、読者の皆さんに率直
無駄にしない者でありますように。 に告白するなら、この主題を取り
Maranatha March
白をしていながら、その手に汚れ
どこにいるかを、明白に証明して
スチャンは、そのような読み物に
きます。真に霊的な、熱心なクリ
や、公職の場にあるクリスチャン
いると言えます。これは間違いの
私たちの状態も同様なのです。も
が、仕事や果たさなければならな
たゴミを握りしめて、それに喜び
使徒ペテロは、すべてのクリス
し私たちの信仰が堅く、熱心であ
い義務に関して、世の書物を読む
喜びを見出すことができません。
チャンたちに次のように命じてい
るなら、それは私たちの毎日の自
ことはあるでしょうが、それは読
ないことです。私たちの読み物が
ます。﹁生まれたばかりの乳飲み子
発的な読書によって明白に証明さ
書に喜びと楽しみを見出すのとは
を見出すことが、一体どうしてで
のように、純粋な、みことばの乳
れます。そのような読書は、私た
全く異なる問題です。その人は、世
軽く、つまらないものであるなら、 仕事に従事しているクリスチャン
を慕い求めなさい。それによって
ちの喜びとなり、元気の回復とな
の書物に、隠れたマナやカナンの
うか。聖書を一、二節大急ぎで読
して成長することができるでしょ
や本を貪り読んでいるなら、 どう
新しい性質は、それ以外のものを
私たちは単純にこう答えましょう。
読んでいられません﹂とか、
﹁小説
クリスチャンから、
﹁聖書ばかり
と言う人がいるかもしれません。 ことなどありません。
ばかり読んでいることはできない﹂ ん。人気小説にキリストを見出す
(8)
きるのか理解に苦しみます。
成長し、救いを得るためです。
﹂︵Ⅰ
るのです。
むのが精一杯で、軽くて役に立た
決して欲しないはずです。問題は、 を読んで何が悪いのですか﹂ など
地の作物を見出すことはありませ
ない書物には何時間も費やすクリ
私たちが、古い性質と新しい性質
なかには、
﹁いつも聖書と信仰書
ペテロ二 二:︶神のことばをないが
しろにして、軽薄で無価値な雑誌
スチャンが、どうして健全な状態
のどちらに与えたいと願うかです。 けないことです。このような発言
ちが何を読んでいるかということ 新しい性質に与えたいと願うなら、 は、その人がキリストから離れて
が、私たちがどのような者であり、 新聞や軽い本は不向きだと断言で いるという事実を証明しています。
と聞かされるのは、程度の低い、情
にあると言えるでしょうか。 私た
マラナ・タ 3月号
があります。
﹁麦粉を持って来﹂な
入っている﹂︵二列王記四 四:〇︶の
です。魂が完全に回復される必要
違っています。﹁かまの中に死が
的また道徳的状態が、 完全に間
を検討する資格もありません。 霊
く議論する力を失っており、 証拠
も、何の意味もありません。正し
読むのが良いか悪いかを議論して
ているのです。ですから、小説を
まっており、危険なほどに進行し
する以前に、すでに霊的堕落が始
クリスチャンがそのような発言を
どということがあり得るでしょう
を好む人が、健全な状態にあるな
書かれた本よりも、中身の薄い本
か。真に霊的な徳を高めるために
ちにあって成長があるでしょう
るでしょうか。どうして神のいの
ないなら、どうして魂が豊かにな
き明かす信仰書を心から愛してい
す。聖書や、聖書の尊い真理を解
その霊的悪影響は、実に有害で
読んでいることが原因なのです。
多くの場合、軽い無価値な書物を
とても低い霊的状態にあるのは、
そ れ こ そ が 深 刻 な 問 題 な の で す 。 囲のクリスチャンたちの信仰が、
を惜しむだろうか。
﹂
そうになる者が、ちりを捨てるの
るからです。﹁御使いのパンをごち
にはもっと素晴らしい読み物があ
くないし、読まないのです。彼ら
のは読もうと思わないし、読みた
せん。ただ単純に、そのようなも
違っているかは、問題ではありま
うな本を読むことが正しいか間
りません。彼らにとって、そのよ
本を読むための、時間も関心もあ
うな者たちは、雑誌や中身の薄い
らを手に入れるはずです。そのよ
書が入手可能なら、感謝してそれ
に、真剣な注意を払っていただけ
んが、このきわめて実際的な問題
クリスチャンである読者の皆さ
とかしなければならないのです。
の救済策を適応し、病的状態を何
ければなりません。すなわち、神
を読むはずであり、助けとなる良
を望む者たちは︱︱、熱心に聖書
トを真実に愛し、天と、天のこと
に用いられることを願い、キリス
リスチャンたちは、︱︱神の働き
せん。真実な心を持った熱心なク
か。そのようなことは信じられま
いて、私たちが感じている通りに、
得なかったのです。この主題につ
考えると、このように書かざるを
します。キリストのさばきの座を
耐して読んでくださることと期待
書きましたが、読者の皆さんが忍
このようにはっきり、ずけずけと
たらと切に願います。私たちの周
Maranatha March
(9)
熱意を持って書くことができたな
ら幸いです。実に重大な、実際的
るなら、私たちの魂は養われ、強
められ、﹁私たちの主であり救い主
であるイエス・キリストの恵みと
忌むべきものの一つです。そのよ
うなものをモーセに、神によって
せるべきです。クリスチャンの読
イスラエルの民を連れ出すために
なったのです。
遣わされたしるしとしてお与えに
者が、軽々しい読書を避け、これ 生活が義の実に満たされ、神の栄
をやめてくださるよう懇願します。 光が現されるのです。
エジプトに遣わされました。そし
知識において成長し﹂
、私たちの実
本や雑誌を手にしたとき、以下の
てモーセはエジプトの王に﹁私た
な問題であり、私たちは注意を寄
ような問いかけをしましょう。
﹁主
ちに荒野へ三日の道のりの旅をさ
めたたえられるために、これを読
るだろうか。主イエスの御名がほ
むことを祝福してくださいと言え
神の御前に差し出して、これを読
モーセの手が懐に入れられるとラ
の杖が地に投げられると蛇になり、
お与えになったしるしは、モーセ
わされたことのしるしとして彼に
神がモーセを神の使者として遣
出エジプト記第四章一∼九節より
が神に遣わされたように、私たち
る種の共通点があります。モーセ
このモーセと私たちの間に、あ
のです。
さ さ げ さ せ て く だ さ い ﹂︵ 三 一
:
八︶と言わなければならなかった
せ、私たちの神、主にいけにえを
さてモーセはエジプトの国から
が来られて、私の手をご覧になっ
むことができるだろうか。
﹂これら
イ病に冒された手になることでし
(10)
てもよいだろうか。私はこの本を
の質問に、
﹁はい。
﹂と答えること
も神によってこの世界に遣わされ
モーセに与えられた目的が、イ
た。これは実に奇妙なしるしでは
蛇もライ病もアダムが犯した罪
スラエルの民をエジプトから連れ
ができないなら、神の恵みによっ
しょう。そして、その時間を、素晴
の結果として人間に与えられたも
出し、三日の道のりを旅させ、神
ています。
らしい神のことばや霊的な書物を
のであり、しかもその中でも最も
ないでしょうか。
読む時間にあてましょう。そうす
て、その雑誌や本を投げ捨てま
マラナ・タ 3月号
Maranatha March
しるしにも共通点があると言えま
とを考えると、神から遣わされた
命とモーセの使命との間にあるこ
このような共通点が私たちの使
たように、私たちの目的もこの世
に礼拝をささげさせることであっ
彼らには死に対処する手段がない
破綻状態について知らされること
悲劇を忘れたいからです。彼らは
耳を傾けます。それは、この世の
な話を好み、楽しい、美しい話に
らのみならず、私たちの犯した罪
事実を無理にでも聞かされると、 れと全く同じように、私たちには
を好みません。もし、このような
の結果の呪いの全てから人々を救
この世の人々は激しく反応します。 アダムの犯した罪の結果の全てか
者たちをこの世から連れ出し、 分 死を話題にすることを忌み嫌いま
離させ、神を礼拝させることです。 す。また、この世の腐敗と絶望的
の人々に福音を宣べ伝え、信じた
からです。
りの健康な手にもどりました。そ
モーセが懐に入れて出すと、元通
病になったモーセの手も、 再び
なった杖の尾を掴むと、その蛇は
るのです。しかし、モーセが蛇に
まさせる忌むべきメッセージであ
ように、私たちが語る福音も、救
の犯した罪の結果の恐ろしさをエ ことは、イスラエルの民には喜び
ジプト人に示すためのものでした。 でしたが、エジプト人にとっては
わざわいでした。それと全く同じ
るしである蛇とライ病は、アダム
われるように選ばれている者には
ばならないと言う者たちも増えて
るために未信者と仲良くしなけれ
た。また、クリスチャンは伝道す
ないと言う者たちが増えてきまし
い得る真実な救い主があります。
彼の手の中で再び杖となり、ライ
す。
付けられたキリストを宣べ伝えま
喜びのおとずれでしょうが、 滅び
モーセがエジプトに遣わされた
す。その時、絶対に避けてはなら
る者にとっては、わざわいであり、 きました。
神がモーセにお与えになったし
ないことは、アダムの犯した罪の
それは正しい考えでしょうか。果
密着し、好感を持たれないとなら
近頃になって、教会が地域社会に
結果の恐ろしさを明瞭に世の人々
考えたくもない死後の永遠の地獄
たして聖書はそのようなことを教
私たちもこの世の人々に十字架に
に語ることです。
を思い出させ、死の恐怖を呼び覚
この世の人々は、心を和ますよう
(11)
必要な教訓を与えていると信じま
セに与えられたしるしが私たちに
えているのでしょうか。このモー
すためです。
ている者たちをこの世から連れ出
を宣べ伝えるのは、救いに選ばれ
対立せざるを得ないのです。
す。すなわち、私たちはこの世と
てこの世も全く同じように答えま
べ伝える私たちもこの世の者たち
者でした。それと同様に福音を宣
セは蛇やライ病のように忌むべき
エジプトのパロ王にとって、モー
様に、私たちも信じた者たちに、こ
て礼拝するためでした。それと同
たところで神にいけにえをささげ
道のりを旅してエジプトから離れ
プトから連れ出す目的は、三日の
モーセがイスラエルの民をエジ
いることは人間の利益のみであり、
うとはしません。この世が求めて
この世は決して神の栄光を求めよ
は宣べ伝えることができません。
るならば、その人は福音を忠実に
されたいと願うクリスチャンがい
もし、この世に気に入られ、歓迎
す。
には忌むべき者であるのです。
の世から分離して、神を礼拝し、神
神の利益を決して求めることがで
ます。人々に死後地獄において恐
ルの民の怠け心が彼らに神を礼拝
エジプトの王パロには、イスラエ
違いしようとはしません。私たち
てこの世と対立し、世の人々と仲
きません。もちろん私たちはあえ
るはずがないからです。
に付けたこの世が私たちを歓迎す
は。私は主を知らない。イスラエ
行かせなければならないというの
私がその声を聞いてイスラエルを
えてももらえなくても、彼らに罪
私たちは、彼らに気に入ってもら
世の人々のご機嫌取りはしません。
(12)
私たちは神がこの世をさばくこ
に仕えることを教えます。
るべきさばきを受けることが定
しようとさせていると思えたので
モーセがエジプトに来たのは、イ
について、さばきについて、神の
スラエルの民をエジプトから連れ
義について語ります。
出すためでした。私たちも、福音
ルを行かせはしない。
﹂
︵五 二:︶と
答えました。私たちの主張に対し
排斥されます。主イエスを十字架
。パロはモーセの言葉 はこの世の人々に対してでき得る
から私たちはこの世から憎まれ、 す︵五 八:︶
に対して﹁主とはいったい何者か。 限り親切にします。しかし、この
まっていると宣べ伝えます。 です
とを決めておられると宣言してい
マラナ・タ 3月号
︵その二︶
士師記第十一章から
取りがちですが、聖書をよく読む
やくざの親分になっていたと読み
き、彼はギルアデとマナセを通り、
﹁主の霊がエフタの上に下ったと
がエフタから感化され、彼を尊敬
て
、
ギ
ル
ア
デ
の
ミ
ツ
パ
か
ら
ア
モン
していたようにさえ読み取れます。 人のところへ進んで行った。
﹂︵二
ついで、ギルアデのミツパを通っ
タが神によって立てられた指導者
もし、そうでなければ、ギルアデ
エフタはいよいよ信仰をもって
と、そうではなく、ごろつきども
であることを認めるようになりま
の民やその首長たちが彼に彼らの
戦場に進んで行きました。その時、
イスラエルの民はようやくエフ
した。私たちはここにも主イエス
首領になってくれと頼むはずはな
九︶
の型を見つけることができます。
さて、第一五節から第二七節まで
私がアモン人のところから無事に
を私の手に与えてくださるなら、
正しかったのでしょうか。聖書を
(13)
主イエスの回りには取税人や罪
の資格に合致していないと見えた
のエフタがアモン人の王に発した
帰って来たとき、私の家の戸口か
いからです。
彼は神に次のような誓願を立てた
エフタも彼らの要請を受け入れ、 のです。
ように、主イエスも民の長老たち
彼のことばを読むと、彼がイスラ
ら私を迎えに出て来る、その者を
人たちが話を聞きに集まっていま
や祭司たちの考えていた基準には
エルの歴史に非常に詳しいことが
主のものといたします。私はその
﹁エフタは主に誓願を立てて言っ
合致しませんでした。それで、彼
分かります。彼は、イスラエルの
者を全焼のいけにえとしてささげ
彼らのかしらになることを引き受
らは主イエスを拒み、十字架に付
民に対する神の御計画に精通して
ます。
﹄
﹂
︵三〇、三一︶
した。エフタが彼の時代のイスラ
けてしまったのでした。
いたのです。それは、彼にはりっ
た。﹃もしあなたが確かにアモン人
エフタの回りにごろつきが集
ぱな信仰があったことを示してい
けました。
まって来て、共に出歩いていまし
ます。
このような誓願を立てることは
た︵三︶
。不注意に読むとエフタが
エル人の考えていた指導者として
Maranatha March
読むならば、神の民が神の恵みに
とを見ます。また、私たちも神の
ことは分かりますが、彼には正し
エフタが熱心な信仰者であった
ことと同様に、人のつまずきとな
え、また神の御栄えを汚している
な信者が多くの人につまずきを与
い信仰の知識なく、世的で妥協的
このような無知な熱心さは、正し
いうようなことです。
のクリスチャンを激しく責めたと
結論として、エフタの誓願は誤っ してはならないと考え、日曜日に
ていたと言わなければなりません。 子供のために薬を買いに行った他
恵みのゆえに、感謝の表現として
い知識が不足していました。その
感謝して、いけにえをささげたこ
自分自身を神にささげるように勧
︵人を全焼のいけにえとして神に
められています。
︵ローマ一二 一:、 結果、彼の娘を生涯未婚のままに
二︶しかし、
﹁もし神が私の願いを しておくことになったのです。
聞いてくださったならば、私は、こ
神は人の側から神に捧げる物の値
屋で仕えさせ、その人の身代わり
るのです。 ︵次号に続く︶
打ちに従って祈りの答えを決める
ようなことはなさいません。 実際
や私たちは、私たちの捧げ物に
応えることはできません。まして
ちに注いでおられる大きな恵みに
価な捧げ物を捧げても、神が私た
たとえば、ある熱心なクリスチャ
を与えることもあり得るのです。
識のない熱心さは、人につまずき
識も持たなければなりません。知
きですが、同時に正しい信仰の知
されています。
また創世記第十一章に
は、
テラに至るまでのノアの息子のセ
聖書は語っていないのです。
創世記第
五章にはノアまでのアダムの家系が記
答 天地の創造が七千年前であるとは
いる聖書の教えと、
ずいぶん大きな違
いがあるのでとまどっています。
に羊を全焼のいけにえとして神に 問 学校で地質学を習っていますが、
捧げることを意味していました。
︶ 天地の創造が七千年前であり、ノアの
大洪水が四千数百年前であると語って
よって、私たちの祈りに応えるよ
ンがいて、日曜日を安息日と思い
私たちも熱心な信仰者であるべ
うに神を誘惑するようなことは決
込み、日曜日には絶対に買い物を
のところ、私たちがどのように高
してすべきではありません。
(14)
れこれのことを神にします。
﹂とい 捧げるということは、その人を生
うような例はあまりないのです。 涯、神に奉仕するしもべとして幕
マラナ・タ 3月号
思いがちなのです。それで、昔カト
リックのアッシャーという大司教がそ
のように計算し、
アダムは七千年前の
誰々を生んだと記されています。
です
から子供を生んだ親の年齢を全て拾い
上げて足し算するとアダムからテラに
至るまでの年月の長さが計算できると
ムの家系が記されています。
それらの系図は誰々が何歳になって
に、
ノアの息子のセムが死んだのが洪
水後五百四年になり、
アブラハムが死
んだのが洪水後四百六十七年ですの
二年ということになります。そして、
アブラハムが五十八歳になるまで、
ノ
アが生きていたことになります。
さら
縮されていることを認めないと、
アブ
ラハムが生まれたのが洪水後二百九十
その説明として、
ノアが挙げられ得
ます。
ノアが死んだのは九百五十歳の
系図から、
ほとんどの系図は圧縮され
人であったと言ったのです。
それが伝
統的に教えられて来たので、
それが正
しいと思っているクリスチャンがかな
で、
セムがアブラハムの死後三十七年
に死んだことになります。
そればかり
かセムの曾孫のエベルまで非常に長生
です。そして、その第二節には、﹁地は
形なく、
何もなかった。
﹂
と記されてあ
ないのです。また、聖書では、誰々が
誰々を生んだと言うとき、
その生まれ
た誰々が、
生んだ人の息子でもあり得
に﹂
、太陽も月も含めて、全宇宙が、一
瞬のうちに、
完全な姿に創造されたの
ています。その﹁初め﹂がいつである
か特定されていません。この﹁初め
特に、
創世記第一章一節には、﹁初め
に、
神が天と地を創造した。
﹂
と記され
せん。同じように、天地の創造も、七
千年前であると言うのは、
決して聖書
的ではありません。
それですから、
ノアの大洪水があっ
たのが、
四千年前の何倍昔でもあり得
るのです。
何年前であると特定できま
て記されていることが分かります。
そ
のことを知らなかったアッシャー大司
教の年代設定は誤っていたのです。
りいるのです。しかし、それが間違い
であるのです。
聖書の中に記されている人の系図は
きしていますので、
アブラハムの時代
には長生きの人間がまだまだ非常に大
勢いたことになります。しかし、聖書
りますが、それは、﹁何もなくなった﹂
と訳すのが本当なのです。
︵これに反
対を唱える人もいますが、
その反対論
には根拠がありません。
︶すなわち第
るし、孫でも、あるいは曾孫でも、曾
曾孫でもあり得るのです。
(15)
時で、洪水後三百五十年でした。とこ
ろが、
もし創世記第十一章の系図が圧
全て圧縮されているのです。
家系上の
人物が全て取り上げられているのでは
はそのようなことを語っていません。
アブラハムは信仰のゆえの、
孤独の人
であったのです。
旧約聖書の中に記されている人々の
Maranatha March
一節と第二節の間に非常に長い期間が
あったのです。何かがあったのです
水によって非常に大きな、
想像も付か
ないような大変化が地殻に生じたこと
年前の翻訳の今までの版を改訂し、
もっと読みやすい文に書き替えまし
た。
また、
同じ著者による他の書から
の引用文も付録として加えています。
また、創世記第一章の天地の創造に
ついての解説も加えております。三
月中、あるいは四月の初めに出版さ
が分かります。その結果、石炭や石油
ができたのです。ですから、ノアの大
洪水がたったの四千数百年前というこ
とはあり得ません。もっと古いので
す。
みください。
00960-0-57854
E-mail:maranatha@tsukuno.com
-
ま
す
。
れ
旧 版 よ り も か な り 読みやす
くなっていると思います。ぜひ、
お読
地質学にも正しい、科学的な、純粋
に地質そのものを学ぶ学問と、
進化論
を証明しようとしている地質学の二つ
の流れがありますので、
よくよく気を
付けてください。
りました。発売記念特別価格は千三
百円です。まだ注文されていない方
はお早めにどうぞ。
次の出版物は﹁種類に従って﹂の改
(16)
が、﹁地は形なく、何もなくなった﹂と
記されているように、
その痕跡が完全
に消されているので、
知りようがあり
ません。また、アダム以降ノアまでの
人間の住居も、
工作物もすべてノアの
時の大洪水によって滅ぼされてしまっ
ているので、
私たちはそれを知ること
ができません。
ですから、
化石などを含む地層がで
りますか。頂上に至るまで、全く水平
に見える地層が重なっていることが分
かります。
その地層には全て生物の化
訂版です。
今まで、
伝道出版社が出版
を引き受けてきましたが、次の版は
出さない方針なので、ちょうど五〇
お知らせ 山岸登師
エマオ出版訳新約聖書が出版されま
した。予定より早く印刷ができ上が
石が見つかります。
それで分かるよう
に、
エベレスト山もノアの大洪水以降
に隆起してできたのです。
ノアの大洪
それではノアの大洪水はいつあった
のでしょうか。
エベレスト山の写真を見たことがあ
きたのはノアの大洪水の時であったの
だと言えます。
マラナ・タ 3月号