No. 82 - 学校法人東洋英和女学院

No. 82
東洋英和女学院史料室委員会
発 行 2014 年 5月 22日
特集:東洋英和幼稚園100周年(1)
今年度は二号にわたり、100周年を迎える東洋英和幼稚園の歩みを振り返ります。
今号では、保育の担い手がどのように育成されたのか、に焦点をあてます。
「宣教師の方々によって種蒔かれた神の栄光を
顕す保育と子どもの真の幸福追求の保育」
―東洋英和女学院短期大学保育科で学んだこと―
長山 篤子
― はじめに ―
この度、東洋英和女学院史料室から、私が当
学院で学んだ1957年から1959年までの 2 年間の
保育科で受けた教育について「印象深かった授
業」を記述するように原稿の依頼がありました。
57年前の学びですから、資料は殆どありません
ので(一つだけ残っていました)大部分は心に
残っている「思い出」として記述することにし
ました。特に、教科目名は定かでありませんし、
私の思い込みや記憶違いが多々あるかもしれま
せん。この事を補う為に、この原稿と「キリス
ト教保育125年史」の序章執筆原稿がたまたま
重なりましたので、「短大保育科で学んだこと」
を振り返る資料として、「125年史」序章に引用
した女性宣教師の言葉を軸に、保育科の授業を
振り返ることにしました。
私は、
「125年史」の序章を執筆するに当たり、
キリスト教保育の歴史を改めて学ぶ機会が与え
られました。特に、宣教師の方々が、どのよう
な思いで日本の幼稚園を開設され、その進展に
貢献されたかを多く知らされました。更に、保
育者が幼子にどのような姿勢で向き合う事が大
切かを学ぶ事ができました。その全てをここで
書き表すことはできませんが、1907年宣教師連
絡 機 関(Japan・Kindergarten・Union) の 第
一回年次総会での会長ハウ女史(アメリカ)の
挨拶にその理念を見ることができます。ハウ女
史は「キリスト教保育を志すものは、信仰面に
於いても、教育面に於いても最高のものを目指
して神の栄光と子どもの真の幸福が追求されな
ければならない」更に「・・・キリスト教保育
を行うためには幼稚園そのものが徹底した正し
い教育をするのでなければ神の栄光をあらわす
ことはできない・・・」と述べました。ハウ女
史が述べたこのビジョンは、その後、キリスト
教保育を実施している園の保育理念の柱となり
今日まで受け継がれてきました。私が学んだ東
洋英和女学院短期大学保育科に於いても、この
信仰に基づいたビジョンは、カナダミッション
の宣教師の方々により引き継がれ、校風の中に、
授業内容の中に組み込まれていたように思いま
す。保育科での学びから半世紀以上の時を経て、
今、ハウ女史のこのことばに出会ったことを不
思議な思いで受け止め、保育科でハウ女史の言
葉の証しの実践として授業がなされた当時の授
業を振り返ってみたいと思います。
― 1 ―
短期大学教職員(敬称略)
前列左より:斎藤純子/佐藤広子/岩佐まつ
後列:サティ /松尾芳子/スクルトン/鎌倉千槇/
黒田成子/ジュティーン/山崎鏡子/長野静江
(1953年頃)
― 保育科1957年から1959年の
いくつかの授業を振り返る ―
○キリスト教保育の学びが漂う校風
当時の保育科は一学年一クラスでした。私の
クラスは42名でした。二学年で、保育科だけで
85名くらいでした。学科は二学科あり、英文
科がありましたので全部で四クラスでしたか
ら、学生数は200名弱だったと思います。です
から、二学科の先生方が双方の授業や学生活動
に関わっていらっしゃいました。現在のような
先生方の研究室はありませんでしたので、職員
室に伺うと色々な先生方にお目にかかることが
できました。英文科の松尾芳子先生は、保育科
の授業には関わっていらっしゃいませんでした
が、保育科の学生にもよく声をかけてくださっ
ていましたので、私たちは授業を受けていなく
ても存じ上げていました。聖書の授業を担当し
て下さっていた非常勤の高木幹太先生はいつも
遅刻をし、松尾先生から叱られている様子に、
私たちは大喜びをしました。高木幹太先生の授
業は大変興味深く、聖書を通して生きる意味が
伝わり、自宅まで講義の続きを聞きに伺いまし
た。短大校舎は平屋の木造で、先生方の動向が
良くわかり、仕事ぶりが学生の私たちにも伝わ
りました。礼拝で外部の先生が聖書のメッセー
ジを伝えて下さった後など、職員室に自由に入
れましたので、私は高見沢潤子先生の講演の後、
職員室で信仰について色々お話をうかがうこと
ができました。私はその翌年のイースターに受
洗しました。
宣教師の先生方、教科担当の先生方、
職員の方々と学生が、一つになって「神の栄光
を顕す保育者の養成」を目指す雰囲気が校風に
満ちていたように思います。宣教師の先生方は、
近くの宣教師館にお住まいで、時々私たちを招
いて下さいましたので、先生方の生活、信仰を
通してキリスト教の雰囲気を更に味わう事がで
きました。
○「子どもの真の幸福を求めた」授業の数々
・宣教師スクルトン先生の授業
【児童の宗教教育】
カナダの宣教師として遣わされた先生は大変
おしゃれな先生でした。髪型、服装、靴にいた
るまでシックな品格を漂わせる雰囲気の中で、
凛として、保育者としてのあるべき姿勢を私た
ちに伝えていました。私は、このような姿勢で、
子どもや保護者の前に立ちたいと憧れていまし
短大木造校舎
た。ですからこの雰囲気を忘れないように、昨
年までスクルトン先生の授業ノートを保管して
いましたが、仕事をリタイヤすることと引越し
が重なり処分してしまいました。今とても残念
に思っています。私は、半世紀以上も前の先生
の雰囲気とイメージを思い出しつつ、保護者や
学生の前に立つようにこれまで心がけてきまし
た。授業の初めは、讃美歌187番「主よいのち
のことばをあたえたまえわが身に・・・」を必
ず歌いました。英語での授業でしたので、英語
の苦手な私は、通訳の方を通して先生が伝える
聖書の奇跡の意味を一生懸命に考え、子どもに
どのように伝えるか、悩んだことをノートに記
していました。2010年、日本の保育界をリード
され保育学会長を務められた津守真先生が、学
会講演でスクルトン先生から学んだ保育者とし
て生きる姿勢について語られ、改めて英和の保
育科でスクルトン先生の授業を受けることがで
きたことを幸いに思いました。
・宣教師ジュティーン先生の授業【教育方法】
ジュティーン先生は、アメリカから遣わされ
た若い宣教師の先生でした。表情が豊かで、ウ
インクで私たちを授業に引き込んでいました。
日本語が通じない事柄も身振り手振り表情で意
志を示され、通訳の方なしで授業を進められる
こともありました。私が印象深く今も思い出し
ますのは「幼稚園の教育はいつも正しくなされ
なければならない。しかし、その方法は時計の
振り子のように行ったり来たりするので判断を
誤ってはならない」と黒板に時計の絵を板書し
ながら熱心に説明して下さったことです。正確
な言葉を記録しているわけではありませんが、
内容は鮮明に覚えています。ジュティーン先生
には、1990年頃より、キリスト教保育連盟で「日
本の保育内容、教育システム」などを「アジア
キリスト教保育者協議会」に知らせるための英
― 2 ―
大中寅二先生
短期大学教職員 (敬称略)
後列左より黒田成子/金田真澄、中央にキュックリッヒ、
右隣鎌倉千槙、一人おいて芝原翠(1961年修養会)
訳の仕事で大変お世話になり、改めて、東洋英
和での出会いを感謝しました。
・宣教師キュックリッヒ先生の授業
【家庭教育と両親教育】
キュックリッヒ先生はドイツから遣わされた
宣教師の先生でした。毎週埼玉県加須市から、
私たちの授業の為に一生懸命に通ってこられま
した。今のように交通事情が良くありませんの
で、六本木の英和にいらっしゃるのはどんなに
大変だったかと思います。大きな体を引き摺る
ようにして呼吸も荒く、授業を始められました。
「ママさんはねー」と冒頭から母親の役割につ
いて事例を通して語られました。キュックリッ
ヒ先生自身の戦争体験、恋人を戦場に送り出し
た時の気持ち、日本に遣わされた経緯、養護施
設「愛の泉」を開設されたことなど、学生の私
たちは、毎週涙を流して「講義と証し」を伺い
ました。当に、「子どもの真の幸福の追求」を
私たちに伝えて下さいました。
・大中寅二先生の授業【児童唱歌】
英和保育科の入学試験の時から印象的な先
生でした。讃美歌122番「みどりもふかき」を、
大中先生を中心にした先生方の前で、一人ひと
り歌わされました。先生は、入学試験ですのに
歌唱指導をなされ、私はその指導に引き込まれ、
その後現在に至るまで122番の讃美歌を歌うた
びに先生の表情が目の前に浮かびます。現在私
の当時の授業の資料として残っているのは、大
中先生の課題レポート「幼児に適した歌と不適
当な歌」と、先生の私のレポートに対するコメ
ントの手紙です。 1 年生の時の課題ですのに、
現在の大学生 3 ,4 年生に匹敵するような課題
でした。丁寧なコメントは、私の保育者生活の
宝となりました。二枚にわたる手紙の最後に「私
が、ほんとうにむつかしいと思っている音程の
跳躍のこと、讃美歌のことにつき、お互いに
話し合って研究したいとおもっています」とあ
り、大中先生の達筆なサインが記されていました。
(資料有り)宣教師の先生方が述べられた「幼稚
園の正しい教育」に、音楽家として真摯に向き
合っていらっしゃる大中先生との出会いでした。
・その他の授業
村岡花子先生【児童文学と言語指導】に読ん
でいただいた『いたずらきかんしゃちゅうちゅ
う』は、今も大切に教会の児童文庫で読み続け
ています。岡部弥太郎先生の【教育心理】では、
2 年間通して「自分の幼児体験とその分析」で
した。今思うと大変高度な授業でした。この時
使用した先生の著書は今も保管しています。谷
川貞夫先生の【社会事業概論】は、殆ど一冊の
本を先生が読み上げそれを私達が筆記し、授業
中にノートを作り上げました。手が痛かったです。
― おわりに ― この紙面では書きつくせない大学・大学院並
みの授業は、私の長年の保育者として、養成校
の教員としての働きの基盤となりました。宣教
師の先生方が伝えて下さった「キリスト教保育
が大切にしなければならないこと」を学び「神
への信頼と恵みのもとに生きる幼児への愛と理
解の保育を実践する」授業をうけて、私たちは
学校から示され、与えられた職場へと旅立ちし
ました。私の最初の働き場は、伊豆松崎教会付
属幼稚園でした。
(1959年短期大学保育科卒
キリスト教保育連盟前理事長 名誉理事)
― 3 ―
ハミルトン先生を回想して
芝 恭子
1951年 4 月、東洋英和女学院短期大学保育科
に入学し、ハミルトン先生にお出会いしてから
60余年が経ちました。東洋英和の歴史に重要な
位置付けをお持ちの、ミス・ハミルトンを物語
る史料が多い中に、一卒業生の私が個人的なエ
ピソードを加えることへの大きなためらいを覚
えます。しかしその一方で、先生の在りし日、
確かにご一緒する幸いを得た一人として、私に
お示しくださったお姿を同窓同労の皆さまにお
分ちしたい気持ちも否めません。
そこで、過ぐる歳月の折々に、あたかも映画
の瞬間的な回想場面、フラッシュバックのよう
に私の瞼に浮かぶハミルトン先生のお姿を、
“フ
ラッシュ”の形で書いてみることにいたしまし
た。個人的なエピソードの記述には、ミス・ハ
ミルトンでなくハミルトン先生とお書きします
が、それはお出会いの時からそうお呼びしてき
たからに他なりません。
演出家のハミルトン先生
保育専攻部から短大保育科に改組して 2 年目
のカリキュラム中、「児童の宗教教育」と「外
国語」を、ハミルトン先生がご担当になりまし
た。両科目とも、私にとって印象深く記憶に残
る場面は、教室でのお講義より学生自身に実動
を求めるスタイルのお授業です。
「児童の宗教
教育」では、保育あるいは日曜学校(当時の呼
び方)のクラスで子ども達に聖書の話をする教
師役の学生に、他の級友全員が生徒役として対
峙します。当時短大と青楓寮の礼拝に使われて
いたチャペルが教室になりました。司会当番の
ハミルトン先生
(1954年)
青楓寮 当時の短大保育科は
この建物の 3 、 4 階を使用
学生は、一クラスを導く教師となって子ども達
をまとめ、聖話に聴き入るための働きかけを行
うのです。子ども役の学生達は日頃見聞きした
子どもの状態を遠慮なく演じ、先生役はそれに
対応しながら聖話に集中する子どもたちへと導
き、遂には準備してきた聖書のおはなしをする、
という学習体験でした。この活動が終わるとク
ラス全員で評価の時があり、締めくくりにハミ
ルトン先生からご講評いただきました。
『カナ
ダ婦人宣教師物語』ミス・ロークの頁にも同様
な記事を見ます。(p94 ・ 95)
私の場合、日本語の発音が先生には明瞭に伝
わったのでしょう。後日、新しくJ 3 ( 3 年間
の予定で来日する短期宣教師)として赴任され
たミス・ラングランドの、日本語家庭教師にな
るよう仰せつかりました。これがきっかけで宣
教師館には毎週伺い、そこにお住まいの先生方
とも親しくさせていただきました。私が多くの
宣教師方を存じ上げる所以です。
「英語」は、 1 年次の必修科目で聖書物語が
テキストでした。保育科入学がキリスト教入門
の時となった私にとっては大変嬉しいテキスト
でした。当時殆どのクラスメートは既にクリス
チャンでしたので、彼女達にはまた別の感じ方
があったかも知れません。
2 年次に「英語」は選択科目となり、39名中
私を入れて 6 名が、ハミルトン先生から続いて
英語を教えていただくことになりました。ここ
で先生は、さらに本格的な演出家のお仕事をな
さったのです。英語劇をすることになったので
した。
1954年当時の宣教師たち 左より:ホーニング、イエドン、
ジュティーン、トルーマン、ハミルトン、サンダース、
ダグラス、ラングランド(宣教師館前にて)
― 4 ―
先生はドラマのテキストにタイ国の若き高官
とその美しき妻、彼の母(妻にとっては姑)が
登場する物語を選ばれました。テーマは、愛す
る夫・愛する息子を巡る嫁姑の確執と和解で
あったと、はっきりした記憶はここまでで、本
のタイトルも作者も思い出すことができなくて
残念です。
3 名の登場人物に 6 名の役者。ちょうどダブ
ルキャストになりました。その上、履修者は 2
名ずつ、それぞれの役にピッタリな顔触れだっ
たのです。先生は、この条件を念頭にテキスト
をお選びになったに違いありません!私は姑役
の一人でした。 6 名の演技に対して難しいご注
文は出ず、当然ながら会話の英語に対する細や
かなご指導がありました。学期末には、当時隣
接していた幼稚園のホールで、クラス全員に観
てもらいました。一同、配役の妙に感じ入った
様子でした。
『カナダ婦人宣教師物語』にも、ミス・ハミ
ルトンの発案で、先生方が即興の英語劇「桃太
郎」をなさり(p.76)、生徒達を「大感激」さ
せたと記されています。中高部にも演出家ミス・
ハミルトンのお姿があったと知り、大変嬉しく
感じました。
ハミルトン先生に派遣される
英語劇の興奮から醒めた或る秋の午後、ハミ
ルトン先生のお呼びで私は教授室に伺いました。
先生は「これを持って霊南坂幼稚園に行って来
なさい」とおっしゃり、F.G.ハミルトンと縦書
きにお名前が印刷されたお名刺をくださいまし
た。肩書の小さい文字も見えましたが、お名刺
のサイズが私にとっては驚きでした。当時女性
が名刺を持つ場合、私の知る限りですが、男性
の名刺の三分の一くらいのサイズに作られてい
たものです。ハミルトン先生もそのしきたりに
従った名刺をお持ちなのか・・・先生のご存在
全てに対してふさわしくないサイズだと、申し
訳なく思いました。
霊南坂幼稚園に行くとは、就職面接に行くこ
とです。当時はこのように、各幼稚園の条件と
各学生の状態や希望を良くご存知の先生方が、
双方を結びつけて下さり、よほどの事が無い限
り、園側は紹介された学生を受け入れるのでし
た。私は就職を斡旋して頂いたと感じるより、
ハミルトン先生が派遣のご命令を下されたと感
じ、心身引きしまる思いでした。
ハミルトン先生に送り出される
もともと、自分の教会幼稚園で働く目的を
もって入学した学生が多い時代ではありました
が、保育科の学生が一人でも多く、信仰と幼子
を育む使命・喜びを携えて卒業するように、 2
年間の教えに祈りと専門性を注がれた先生方
でした。その先頭にお立ちのハミルトン先生
は、卒業の日一人一人に、ご自筆で宛名を書き、
With best wishes, F.G.Hamiltonとサインなさっ
た、“My Graduation Day Prayer”という訳文
も付いたカードを贈ってくださいました。
「…私は今から、真理に向って絶えざる追求
を為すため出発致します故、今日が真の意味の
卒業式、コメンスメント、始まりの日ならしめ
給へ。(ママ)アーメン」
ハミルトン先生のお出迎え
保育科卒業を第一番目のコメンスメントとし
ますと、その後私はもう一つのコメンスメント
を経て、カナダ合同教会のスカラシップを頂き、
留学することになりました。1963年 7 月22日横
浜港を出航したオーストラリアの大型客船は、
8 月 1 日夕刻、今や静々と森のような深い緑に
包まれたバンクーバー港に舳先を進めていまし
た。これがカナダ・・・宣教師の先生方を日本
牧師・園長 小崎道雄先生(檀上)と著者
霊南坂幼稚園クリスマス礼拝(1957年)
バンクーバー入港時の同船者たち 左から 2 人目が著者
右端は陶山義雄先生 (1963年 8 月 1 日)
― 5 ―
へ送りだされたカナダ・・・それは余りにも深
く広く、緑なす静かな入り口、B.C.州バンクー
バーの港でした。
下船許可が出てタラップを下りますと、あゝ
そこにハミルトン先生の、あの長身のお姿が
在ったのです!先生は当時B.C.州と州は同じで
も、バンクーバーからバスで 8 時間もかかる、
ナラマタという所にお住まいでした。カナダ合
同教会関係のどなたかに迎えて頂くとは知って
いましたが、私が表敬訪問に上がる前に、先生
ご自身がお出まし下さったのです。それどころ
か、先生とご一緒に出迎えられた 4 名の方の
リーダーとして、私のスケジュールを作ってく
ださっていたことを知りました。
1956年、東洋英和ご引退以来の再会を、私は
どのようにふるまったのか、先生が差し伸べら
れた手にお縋りしたのか、全く思い出す事がで
きません。とにかくご挨拶が一通り終り、構内
のレストランでお茶を、と歩き出した時からの
光景は今もはっきり覚えているばかりか、フ
ラッシュバックとなって私を懐かしがらせ笑わ
せ続けています。
ものの、錚々たるおばさま方に囲まれた私に近
づくことができなかったとのこと。私はハミル
トン先生に彼を紹介し、先生は気持ちよく彼も
お茶に誘われました。お茶の後一同は、彼の車で
暮れなずむバンクーバー周辺をドライブしました。
やがてホテルに着けてもらった時、私は彼に
心からの感謝を述べ、留学生活の予定を話そ
うとした時でした。ハミルトン先生が彼にこ
うおっしゃったのです。
「ミス・シバは、大切
な目的をもってカナダに来ました。これからト
ロント大学で幼児教育を学びます。遊んでいる
わけにはゆきません。おわかりですね。誘わな
いように・・・」日本語で言えばこんな意味の
ことを、お父上の名代で出迎え、ドライブのお
もてなしをしてくださった青年に申し渡された
のです。私はもうびっくりし、彼も目をパチク
リという表情の後、穏やかな笑顔で先生に応え、
静かに去って行きました。
先生はその後、私にはご注意めいたことを何
もおっしゃいませんでしたが、
「大切な目的」
に備えて、この上なく平安な休息“ナラマタホ
リデー”の数日をくださったのでした。
出迎えの青年を指導なさるハミルトン先生
先生方と歩き出した私は、ふと視線を感じて
その方を見ました。なんともう一人、出迎えて
下さった方がいたのです。何年か前に、霊南坂
教会で小崎道雄牧師からご紹介を受けた青年で
した。小崎先生はアメリカご留学が長く日本基
督教団総会議長もなさり、海外にご友人を多く
お持ちで、この青年はそんなお一人の令息でし
た。霊南坂幼稚園就職に伴い鳥居坂教会から転
会した私を、先生は園長、牧師そして慈父のよ
うに見守り続けてくださいました。私のバン
クーバー入りを、近郊のご友人に知らせておあ
りだったとは・・・お父上の代役で来てはみた
最も大切なハミルトン先生のフラッシュバック
ハミルトン先生の回想ラストシーンは、短大
のチャペルに座された先生の後ろ姿です。礼拝
で神に祈りと賛美を捧げ、証の担当者に聴き入
るお姿には、立場も国籍もありませんでした。
未信者の一学生は、人間存在の新しい秩序を知
らされました。私はこれまでもこれからも、先
生の後ろ姿を一番好きで大切なフラッシュバッ
クとして見続けることでしょう。
前掲の『物語』にも、先生の後ろ姿が語られ
ていて感慨深く、また「史料室だより」No.42
で上記の体験を書く機会を頂きました。
(1953年短期大学保育科卒 大学名誉教授)
著者とハミルトン先生 カナダ・バンクーバーにて
(1963年 8 月 2 日)
青楓寮・短大のチャペル
― 6 ―
〈思い出の先生がた〉27 ミス・マシューソン
ミス・マシューソンの思い出
ミス・マシューソンは28才の時、カナダ・メ
ソジスト教会宣教師として来日された。東洋英
和に 2 年、山梨英和に 3 年奉職された後、賜暇
休暇の帰国中に太平洋戦争が始まり、再び来日
されたのは、1948年40歳。その後12年間東洋英
和中高等部の英語と宗教教育、そして増設され
た短期大学英文科の英語・英文学を担当された。
1960年に帰国され、晩年は、関節炎のため療養
生活を送られたが、
「神様に守られた愛するホー
ム」
、東洋英和の思い出を大切にされていた。
1953年 3 月高等部卒の私たちは、40代のミ
ス・マシューソンにどこかの学年で教えていた
だいた。敗戦後の衣食住もままならぬあの頃
に、先生はいろいろな方法で英語の世界を私た
ちに見せてくださった。美しい板書の後、心を
込めて詩の朗読をして下さった。時にはイタ
リー語で「フニクリ・フニクラ」を楽しく教え
てくださった。行ってみたい国とその理由を簡
単に書くようにという作文練習もあった。
「ス
イスに行ってみたい。その美しい山と湖を見た
い。戦争をしない国を見たい。」と私は書いた。
その思いはそれから数十年後に実現し、平和を
維持することの厳しさを知った。ある時は、放
課後の宗教部の小さな聖書研究会で、キリスト
の祈りについて静かに日本語で語られた。当時
の文語訳聖書で、
「常に喜べ、絶えず祈れ、す
べてのことに感謝せよ」の聖句を学び、先生の
ゆるぎない生き方の中心を教えていただいた。
W.Wordsworthの“The Solitary Reaper”を教
えていただいたことを懐かしく思う友は多い。
“Stop here, or gently pass!”の一行が、横断歩
道に来ると今も聞こえてくると、楽しい話がは
ずむ。自分の英語力を総動員して、劇の練習の
ため授業を欠課させてくださいとお願いしたら、
静かに聞いてくださり、許可して下さった。そ
の眼差しと共に先生の思い出は忘れられないと
語ってくれる友もある。
後に中高部の英語教育に加わることになった
私に、英語のことなら何でもどうぞとおっしゃ
り、テキストの読み方を何度か聞いていただい
たこともあった。先生方とのお付き合いを大切
になさり、音楽・理科・社会・国語・聖書の先
生方とも英語の集いを
しておられたようであ
る。後に、有志による
ミス・マシューソンの
追悼会が奥興先生の三
軒茶屋教会で行われた
時にも、多方面の方々
が出席された。礼拝の
司会を理科の原和子先
ミス・マシューソン
生が、説教を奥先生が
なさった。そして 2 階
の談話室でしばらく思い出を語る会があった。
卒業生をはじめ、分野の異なる先生方が、ミス・
マシューソンを慕う感謝の言葉を述べられ、時
間が足りなかった。
国も社会も、敗戦からの復興が始まったばか
りの頃、中高部のどこかでミス・マシューソン
に英語と共に広い視野と信仰を教えていただい
たことは、本当に幸せであった。先生の柔和な
微笑みと、学問に裏打ちされた真面目さ、そし
てはるかな神の国を慕う眼差しを私たちはいつ
までも覚えていたい。先生の天における平安を
心からお祈りいたします。
文 依田 和子
(1953年高等部卒 元中高部英語科教諭)
Mildred Evelyn Mathewson 先生
―略 歴―
1908年 3 月29日 カナダ・オンタリオ州リッ
ジウェイに生まれる
トロント大学、オンタリオ教育大学、
カナダ合同教会神学校に学び、高校
教師となる
1936年 来日 東洋英和女学校に着任
1938年 山梨英和女学校に赴任(∼1941年)
1941年 カナダ帰国 ユナイテッド・カレッ
ジ、トリニダード島ナパリマ女学校
勤務
1948年 再来日 東洋英和女学院中高部、短
期大学勤務(∼1960年)
この間、御茶の水の愛隣学園理事も
務める
1960年 帰国 1986年11月29日永眠(享年78歳)
― 7 ―
〈資料紹介〉24
東洋英和の絵葉書
日野原 千紘 東洋英和の史料室には創立から現在までの刊行物や写真、東洋英和に関わった方の史料がたく
さん保存されています。中でも絵葉書は行事や改築の記念として作成された貴重な記録写真であっ
たり、卒業生の方が東洋英和の事を想って作成してくださったりと、多くの方が関わってくださっ
ている物の一つです。2013年 6 月より今年の 2 月まで学院史料展示コーナーで主だったものをご紹
介しましたが、展示しきれない程の数がありますので、今回は一覧にしてご紹介します。
②創立三十年記念:東洋英和女學校校舎
番号
1
2
3
4
5
制作年
1914年
③献堂式記念….:幼稚園傳導館正門
名 目
創立三十年記念
枚数
内 容
15枚 ・明治十八年(1885年)撮影の教職員と生徒
たち
・大正三年(1914年)現在生徒
・東洋英和女學校校舎★②
・書籍室
・西洋料理室
・家政科食堂
・客間に集まる第二世代の生徒
・唱歌練習
・職員會
・食堂
・東洋英和女學校洗濯日
①創立三十年記念:表紙
・母ノ會委員會
・幼稚園
・永坂孤女院食堂
・永坂幼稚園
1931年 昭和六年 十一月 東洋英和 5 枚
女學校
1932年 献堂式記念 カナダミッショ 6 枚 ・幼稚園傳導館正門★③
ン合同教會 幼稚園傳導館
・幼稚園傳導館 幼稚園遊戯室
・青楓寮 西洋教師館 幼稚園傳導館
・傳導館社交室
・傳導館料理室
・定礎式
1934年 東洋英和女學校落成記念
8 枚 ・東洋英和女學校
・マーガレット・クレイグ記念講堂
・圖書室
・作法室
・室内体操場
・食堂
・理化教室
・同窓會室
1934年 日本メソヂスト教會第二十八 6 枚
回年會記念 東洋英和女學校
― 8 ―
備 考
表紙付き(表は菊、裏
は楓の葉)★①
原物 1 セットのみ所蔵
原物なし
ウィリアム・メレル・
ヴォ―リズ設計
原物 2 セットのみ所蔵
ウィリアム・メレル・
ヴォ―リズ設計
ウィリアム・メレル・
ヴォ―リズ設計
④創立六十五週年記念:
(ヴォーリズ)校舎
⑤東洋英和幼稚園創立80周年記念:
園庭にて
⑥TOYO EIWA WOMEN'S
UNIVERSITY:礼拝堂(チャペル)
⑦The Blooming Seasons:
A Portrait of Youth(卒業式)
⑧小学部 校舎の思い出:
(5年生の作品)
⑨旧校舎のスケッチ1993年夏:
マーガレット・クレーグ記念大講堂
番号
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
制作年
1949年
1951年?
1962年
1968年10月4日
1973年2月24日
1986年5月10日
1987年7月
1994年
1995年4月
1996年2月
名 目
創立六十五週年記念絵葉書 第一集・第二集
短期大学 (木造校舎)
東洋英和幼稚園 短期大学 校舎改築記念
かえで幼稚園 献堂記念
横浜新校地開設 短期大学開学記念
TOYOEIWA JUNIOR COLLEGE
東洋英和幼稚園創立80周年記念
TOYO EIWA WOMEN S UNIVERSITY
The Blooming Seasons 中学部・高等部校舎竣工
記念
1997年6月
大講堂(中高部)のオルガン
1998年
小学部 校舎の思い出
1999年または2000年 TOYOEIWA UNIVERSITY
外部または卒業生・教員製作
19 1964年
東洋英和女学院
20
21
22
1967年
2008年
2010年
23
24
25
26
27
28
不明
不明
不明
2001年∼
2000年
2002年∼
枚数
各5枚
4枚
5枚
5枚
6枚
6枚
6枚
10枚
3枚
11枚
備 考
★④
小瀧達郎氏撮影★⑤
★⑥
★⑦
7枚
12枚 ★⑧
3枚
「絵はがき 麻布の名所今昔」下巻 川村みのる画 永坂更科発行の 1 枚
H.Jomai画 麻布十番商店街発行
増田彰久氏撮影 便利堂制作
小阪謙造氏画
麻布鳥居坂
中高部旧校舎 正面玄関
東洋英和女学院・旧本館《W.M.Vories設計・建
築遺産シリーズⅨ》
木版画はがき 軽井沢追分寮
5枚
軽井沢追分寮
3枚 井上健之助先生画
野尻
7枚 森田のぞみ先生画
野尻
14枚 露木美奈子先生画
旧校舎のスケッチ 1993年夏
16枚 佐藤和子氏(1950年高卒)画★⑨
Our School Life
8枚 中畝治子先生画
★①∼⑨は画像の番号を示す
もし、記載されていない絵葉書あるいは戦前(特に 1 ・ 2 ・ 3 )の原物をお持ちの方は、ご連絡
いただけると幸いです。
(幼稚園教諭 史料室委員)
― 9 ―
史料室の活動より(2013年10月∼2014年 3 月)
(☆は複数回の事項)
☆NHKドラマ制作部より村岡花子氏在学当
時の学校生活について照会多数、資料調
査して返答
10月・追悼記念日礼拝 ミス・カートメルの聖
書展示(今回より大講堂入口横)
・照会−ミス・L.L.ショーは東洋英和で教
えたことがあるか→教えていない
・来校−NHK文化センター「
(歴史的建造
物を訪ねる)講座」20名ほど。本部・大
学院棟ロビーにて、展示を少し説明
・出張−全国大学史資料協議会2013年度総
会及び全国研究会参加(於 明治大学)
・
(関西学院訪問・見学、
神戸女学院「ヴォー
リズ建築の魅力とメッセージ」シンポジ
ウムに出席・見学)
・来室−山梨県立文学館高室有子氏 村岡
花子関係資料調査
・来校−Beans堺氏と村岡恵理氏。 2014
年の「赤毛のアン展」協力依頼
*史料室所蔵 村岡花子著作リスト再作成
・照会−鈴木氏 母上は卒業生か →不明
・第 2 回目 写真デジタル化撮影のため、
堀内カラーにアルバム 5 冊を委託
・出張−軽井沢ナショナルトラスト 亜武
巣山荘暖炉火入れ式および別荘ウォッチ
ング参加。その後ハミルトンコテージの
オーナーと懇談。
☆来室−高野雅子氏(ピアノ科講師)
生
涯学習センター「英和学」第 6 回「東洋
英和の音楽教育 ピアノ科」講義準備
・
『カナダ婦人宣教師物語』
第 2 刷 5500
部納品
・来室−ピアノ科講師 3 名 創立期の行事
プログラム閲覧
・来室−露木美奈子中学部長 ミス・カー
トメルの聖書 閲覧
11月・ミス・カートメルの聖書展示
( 5 日∼ 8 日)
・中高部宗教委員会:卒業生紹介パネル展
示(野村みち氏について、史料室担当)
・
「史料室だより」No.81 発行
・来訪−港区麻布地区総合支所担当者 今
年度の「麻布未来写真館」日程調整
・画像提供−松本郁子氏(元職員)へ 研
究発表のため、宣教師関連他13点
・参加−卒業生の楓祭 (年史・
「史料室だ
より」バックナンバー展示、
希望者に配布、
『カナダ婦人宣教師物語』販売)
・画像提供−ノートルダム清心女子大学 赤松佳子氏へ 宣教師など11点
・来校−野村弘光氏(初期卒業生 野村み
ち氏の孫)
パネル及び中高部見学
・来室−齊藤康代氏 生涯学習センター「英
和学」
講義準備
(ミセス・ラージについて)
・取材協力−「Nile's Nile」誌 2014年 1 月号
六本木特集 校舎外観及びチャペル撮影
・古い視聴覚資料の媒体変換 3 業者に委託
12月・来室−芝恭子氏(大学名誉教授)写真の
人物特定協力等
・来室−管財課 1970年代頃までの野尻
キャンプサイト護岸の写真調査
・第 5 回史料室ボランティア ワーク 3
名 (
「かえで」等整理)
・画像提供、資料貸出し−山本香織小学部
長へ 出流山学童疎開関連
・納品−堀内カラーより 第 2 回目 写真
デジタル化データ
・資料提供−野村正宣教諭(中高部)へ 青山墓地のカナダ宣教師の墓の地図
・照会−吹浦忠正氏より 村岡花子在学当
時のカナダ国旗は? →英国国旗
・納品−視聴覚資料の媒体変換 但し80周
年の音声テープは復元困難で返却
・来室−福本久子教諭(中高部) 1 月の高
三特別授業「創立当時の先生に会おう」
準備。資料選定と打ち合わせ
・照会−甲府市観光課より 村岡花子関連
の資料貸出し依頼
*史料室所蔵古い洋書リスト作成
・資料貸出し−大田区立郷土博物館へ常設
展拡充のため 村岡花子関連 28点
・来室−松本郁子氏 宣教師関連資料調査
・
「KAEDE Magazine」Vol.07 東 洋 英 和
歴史館第 7 回原稿チェック
・資料貸出し−NHKドラマ担当者へ 古い
洋書 9 冊
2014年
1 月・来室−スィッペル教授(大学)
資料集
第 4 号の相談
・来室・見学−高三生徒 2 名 特別授業
「創立当時の先生に会おう」受講者
・画像提供−総務課へ 第 2 会議室の 3 名
の校長先生の肖像写真(架け替え)
― 10 ―
・画像提供−総務課へ NHKドラマガイ
ド誌への本校の広告材料として、 3 点
・来室−弥生美術館内田静枝氏 村岡花子
関連本のため、古い洋書調査
・来室−三木妙子氏(高等部卒)卒業60年・
65年記念誌作成のため、資料下見
・授業−中学 1 年生対象(クラスごと)史
料展示コーナー紹介と鳥居坂界隈の歴史
・来室−トッパンテック 130周年ロゴ作成
のため、古い画像を調査
・来室−Beans堺氏「日加修好85周年記念
モンゴメリと花子の赤毛のアン展」打ち
合わせ、資料調査 ・作業・お手伝い−中高部地歴部 クラブ
ボランティアとして 7 名参加
・来室−深町正信院長 WMSの歴史関連
の図書 2 冊貸出
・来室−山梨県立文学館高室有子氏 貸出
資料、提供画像の確認など
・第 3 回史料室委員会
・照会−大江スミ氏に関する記録
・出張−NHK緑山スタジオにて「花子とア
ン」収録場面を見学
・照会−中高部楠山眞里子教諭より 卒業
式に水仙を卒業生の人数分講壇に飾る理
由 →200本近い水仙の活けられた水盤
を上からみて、校章に見立てる(中野登
美子先生伝聞)
・弥生美術館へ、村岡花子関連資料26点 撮影のため貸出し(∼ 2 / 4 )
・画像提供−NHK出版へ 「花子とアン」
ドラマガイドのため 8 点 ・画像提供−学研へ 村岡花子の子供向け
伝記出版のため 6 点
2 月・来室−教文館 渡部満氏、八巻聡子氏 村岡花子展のため、資料貸出依頼 ☆来室−スィッペル教授(大学)
資料集
作成のため、カートメル書簡読み起こし
・2013年までの収集画像データ一部、史料
室所蔵電子化データに追加
4 4
・画像提供−甲府市観光課へ 東洋永和時
代の画像 1 点
・画像提供−JR九州へ 広報誌掲載のた
め、本校旧校舎画像 2 点
・来室−大学入試広報課 2015年度大学案
内掲載のため歴史的画像の収集
・来室−大阪市立大学 永井 泉氏 片山
廣子寄贈本閲覧
・来室−1956年高等部卒業 5 名 卒業60年・
65年記念誌作成のため資料調査 ☆来室−Beans堺氏「赤毛のアン展」打ち
合わせ、
レプリカ作成用に資料貸出し( 5
点)
→作成レプリカ寄贈される
・学院史料展示コーナー「東洋英和の絵葉
書展」終了、撤収( 2 /13)
・学院史料展示コーナー 「麻布未来写真
館」
( 2 /17∼ 2 /28)
漫画「セーラームー
ン」
、
「大正野球娘」の本校や麻布地区描
写場面を校舎等の写真と対比させて紹介
・来室−教文館 八巻氏 貸出希望洋書の
選定など
・来室−弥生美術館 内田氏とイラスト
レーター加藤氏 村岡花子関連図書作成
のため在学の頃の画像を閲覧、調査
・来室−中村早苗氏(短大保育科卒)
「史
料室だより」執筆のため打ち合わせ
・納品−「東光」
「短大だより」
「母の会だ
より」
「はぐくみ」製本
・来室−山梨県立文学館 高室氏、カメラ
マン 村岡花子展出品資料撮影
・来室−山北千世氏 村岡花子の短大保
育科講師の頃の思い出情報提供
3 月・資料集第 4 号作成ボランティア 7 名打ち
合わせ
・画像提供−大田区広報へ 村岡花子関連
多数
・画像提供−少年写真新聞社へ 同上 2 点
・画像提供−港区基本計画・麻布地区から
の提言書表紙へ 1964年撮影の航空写真
1点
・学院史料展示コーナー「村岡花子と東洋
英和 Ⅱ」展示開始( 3 /11∼)
・NHK番組「フィフティ ボイス」のた
めの取材(インタビュー)
・画像提供−弥生美術館及び河出書房新社 村岡花子関連 10点
― 11 ―
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・画像提供−「月刊おとなりさん」へ 同
上1点
・来訪、展示見学−ノートルダム清心女子
大学 赤松佳子氏
・Beansへ 「赤毛のアン展」のため資料貸
出し 24点
・来室− 飯島千雍子・石津珠子教授(大
学)
WMSの資料などの所在確認
・来室−松本郁子氏 関西学院で入手し
たカナダ合同教会関係の資料提供下さる
・来室−東洋大学大学院生 清水麻利子氏 片山廣子寄贈本閲覧
・山梨県立文学館へ 「村岡花子展」のた
め資料貸出し 39点
・来訪−村岡美枝氏、恵理氏 展示見学、
ご著書数冊恵贈下さる
・画像提供−マガジンハウスへ1933年撮影
の航空写真 1 点
・
(NHK朝の連続ドラマ
「花子とアン」
開始)
主な寄贈資料
*卒業證書(1945年幼稚園師範科)
*『キュックリッヒ・ママの 足 取り』書 籍・
DVD
*戦前のピアノ科で使用した楽譜 6 点
*長野彌元院長自筆葉書 2 枚
*『アンを抱きしめて』村岡恵理著・わたせせ
いぞう絵 『腹心の友たちへ 村岡花子エッ
セイ集』村岡花子著 以上河出書房新社、
『花
子とアンへの道』村岡恵理編 新潮社、
『
「赤
毛のアン」と花子』村岡恵理著 学研教育出
版、
『連続テレビ小説「花子とアン」Part 1 』
NHK出版
*
『家族・ジェンダーと法』
成文堂、
『世界の離婚』
有斐閣、
『家と女性―役割―』三省堂 以上 三木妙子(高等部卒)著
*『パンのはなし』技報堂出版、
『ビアードさん
のパンの本』
『ビアードさんのパスタの本』
文化出版局、
「手作りのパン」雄鶏社 以上 根田春子(高等部卒)著
*『パテ屋の店先から』新装増補版 林のり子
(高等部卒)著 アノニマ・スタジオ
*『歴史を織りなす女性たちの美容文化史』
ジェニー牛山(高等部卒)著 講談社
*Surviving Japanese Militarism:Canadian
Educators at a Christian Girl's School Patricia Sippel(大学教授)ICUアジア文化研
究38抜刷
*「大正歌壇における芥川龍之介の短歌・歌論」
清水麻利子著 東洋大学日本文学文化第13号
抜刷 他 2 冊
*「戦前期の軽井沢別荘地における外国人の所
有・滞在と対人的環境の様態」他 1 点 花里
俊廣著 日本建築学会計画系論文集77巻抜刷
*「週刊エコノミスト」2013. 9 .10,2013. 9 .17
*「小説 練絲痕」小林一三作 コピー
*「山梨英和 礎のときを生きて」続編
*『明治学院百五十年史』
『 同 』主題編
その他 他大学年史・紀要多数
主な移管資料
*「メサイア」等合唱曲楽譜(富岡正男元教諭
献辞入り) 5 冊
院長室より
*明治・大正期作成の植物標本 8 枚 中高部理科研究室より
*『近代劇全集 別冊 舞台写真帖』
The Missionary Monthly Vol.Ⅷ No. 4
大学院図書室より
購入資料
*『片山廣子全歌集』秋谷美保子編 現代短歌社
*「大正野球娘」 1 ・ 2 神楽坂淳著 徳間書店
*「美少女戦士セーラームーン 新装版」 3
武内直子画 講談社
*英和ちゃんタオル 中高部母の会製作
製作資料
*媒体変換(オープンリールテープよりDVD/
CDへ)
映像:1958年高二北海道修学旅行、1962年幼
稚園追分キャンプ、1976年中 3 飛騨高山修学
旅行 音声:創立百周年記念講演会、長岡輝
子講演会(1978年・1986年)
*1910年・1913年卒業證書授与式プログラム、
1910年 5 月・10月大文学会プログラム、1955
年「東光」創刊号(村岡花子関連資料)
レ
プリカ作成(寄贈)
〈お知らせ〉
史料室では、学院の歴史や学生生活の
様子を伝える資料、写真、記念品等を収
集しています。ご家庭にあってご不要の
ものがありましたら、ご寄贈いただける
と幸いです。また、卒業生および教員の
著作も収集しています。
― 12 ―
お問合せ先は下記のとおりです。
東洋英和女学院史料室(法人事務局内)
Tel 03-3583-3166(直)
Fax 03-3583-3329(直)
E-mail:archive@toyoeiwa.ac.jp