英語では両者ともファンダメン タリズムであり︑ 違いはクリス チャンかイスラムかです︒最近の イスラム原理主義のテロ活動によ り︑原理主義に対する非難が大き かく原理主義が危険なのだ︑それ く語られています︒そして︑ ﹁とに るのはヒューマニズム︵人道主 さて︑相対主義は絶対的真理と 義︶である︑と言うのです︒ がイスラムだろうがクリスチャン 基準に反するものはすべて悪であ してすべての行動を規制し︑その ることを絶対視し︑それを基準と 本があってその教本に書かれてい 義です︒原理主義が︑ある種の教 さて︑原理主義の対局が相対主 評価しています︒ですから︑彼ら 人間の思考力︑理性の力を過大に 唱える者たちの主張です︒彼らは 示ではない︑と言う考え︒ ︶などを 発見し得る︒聖書は神の特別な啓 理神論︵神は人間の理性によって という思想︶か︑多神教︵汎神論︶ ︑ いうものはないとするのですか るのに対して︑相対主義は世界に は﹁人はおのおの自分の力で︑自 だ ろ う が 原 理 主 義 は 良 く な い ︒﹂ は絶対というものはない︑だから 分の頭を使って考えるべきであ ら︑真理を人に啓示される神の存 何が正しい何が悪であるかは人間 る︒自分が正しいと思うことを貫 と原理主義とは何なのだろうかと が決めなければならない︑すべて け︒自分を信じろ︒﹂と言うので 在を認めない無神論︑あるいは不 は相対的であるのだ︑すなわち絶 す︒このように言うと︑皆様は﹁う の定義なしにファンダメンタリズ 対的基準はない︑ある時に正しい ん︒聞いた︑聞いた︒学校の先生 可知論︵何もかも分からないのだ ことでも他の時には誤りにもな も言っていた︒本でも読んだ︒ ﹂と ムを排斥するのが一般的です︒ る︑だから強いて言えば基準とな (1) ボ ー ト に 乗 せ ら れ た あ な た が ︑ 団のリーダーであったり︑霊媒師 たが置かれたとします︒ 小さな ましょう︒太平洋の真ん中にあな るのでしょうか︒一つの例を挙げ この考えがどうして間違ってい す︒ を知らない人々の考えであるので を神の御栄光のために造られた神 す︒これは︑天と地を創造し︑人 れが非常に一般的な考えなので 言われるでしょう︒社会では︑こ 男であったり︑占い師︑カルト教 まことしやかに嘘を言う頭の変な いは空中遊泳することができると あれ︑おかしな教祖であれ︑ある す︒それがオカルト集団の頭目で るとそれに飛びついてしまうので そうな︑何か超自然的なものがあ た人々は︑ちょっとでも信じられ ているのです︒その不安に駆られ のかが分からずに︑不安に駆られ 理主義者はほとんど︑宇宙の創造 さて︑問題は原理主義です︒原 とを知ることであるのです︒ 神のみことばが与えられているこ た人が信じ頼ることができるこの られることを知ることであり︑ま を支配しておられる全能の神がお は︑天には宇宙を創造し︑すべて うな人々が必要としているもの 安に陥ってしまうのです︒このよ 考えなさい︒ ﹂と言えば︑余計に不 しょう︒ ば︒磁石があれば︒ ﹂と思うことで れるはずです︒ ﹁ああ︑海図があれ たら︑あなたは絶対に不安に駆ら い︒自分で考えなさい︒ ﹂と言われ が正しいと思う方向に行きなさ 彼らをそのような悪魔的なオカル 非常に不安なのです︒その不安が 得る神のみことばを持っていない 人々は︑信頼すべき︑また信頼し このようなものにひっかかる す︒しかし︑私たちにとって大切 見え︑同じく危険に見えるので えの頼りなさを知っているので︑ 者もイスラム原理主義者も同じに ので︑またあるいは自分自身の考 なことはクリスチャン根本主義と とっては︑クリスチャン根本主義 言っているのです︒相対主義者に を原理原則として認め信じると 者を通して啓示された神のことば 者である神を信じ︑神が神の預言 これと同じように︑多くの者が トに行かせてしまうのです︒です イスラム原理主義のどこが違うの であったりするのです︒ 人生の大海原に放り出されて︑ど から︑このような人々に﹁自分で ﹁自分を信じて︑ どちらでも自分 ちらの方向に向かって行けばよい (2) 視し︑それに一寸違わず従うべき 当はアル・クラーンです︒ ︶を絶対 般ではコーランと呼びますが︑ 本 ム原理主義者もアル・クラーン︵一 れとほとんど同じように︑イスラ であると主張しているのです︒ そ 絶対的に信頼すべき神のみことば を神の啓示の書と認め︑聖書こそ かということです︒私たちは聖書 い︑自衛のためならば戦力を使う 他の人は自衛権まで放棄していな る自衛権をも放棄していると見︑ います︒ある人はそれは戦力によ 憲法の第九条はその解釈でもめて であるのです︒すなわち︑日本の ず理解︑解釈のための尺度が必要 釈すべきでしょうか︒それには︑必 クラーンをどのように理解し︑解 さて︑人は聖書を︑またはアル・ す︒ 私たちに示してくださったので 遣わしになられ︑神をはっきりと の神は御自分の御子をこの世にお しょうか︒感謝すべきことに︑真 うにして知ることができるので では︑その神の御性質をどのよ 質︑また御計画です︒ のみことばを啓示された神の御性 尺度は何でしょうか︒それは︑そ みことばは神の御性格を表現して アイデアを表現しています︒ 神の しかし︑神のみことばにはそのよ な権威がないことになるのです︒ いうことは︑その憲法には絶対的 絵描きの性格︑技術を表現してい まった尺度がないので第九条はど ます︒建築物もその設計主の性格︑ のようにも解釈できるのです︒と しが道であり︑真理であり︑いの たのである︒ ﹂︵ヨハネ一 一:八︶ ﹁イエスは彼に言われた︒ ﹃わた とり子の神が︑神を説き明かされ ない︒父のふところにおられるひ ラーンを解釈する基準︑ 物差し︑ であると主張しているのです︒ ことを認めている︑と見ます︒決 いるはずです︒神が絶対者であら うな曖昧さは許されません︒神の さて︑絵はその絵の作者である れるならば︑神の御性質︑御計画 もしわたしを知っていたなら︑父 神の御性質に合ったことが善であ さて︑では︑聖書を︑またアル・ク してはならないのです︒ かし︑今や︑あなたがたは父を をも知っていたはずです︒・・・し ちなのです︒・・・あなたがたは︑ ﹁いまだかつて神を見た者はい が善︑悪の基準であるべきです︒神 みことばは神の権威がかかってい の御性質に反することが悪であり︑ るのですから︑人間が勝手に解釈 るのです︒ (3) こそ神の御性質です︒私たちは聖 です︒イエス・キリストの御性質 よって明確に神を見︑知り得たの 私たちは主イエス・キリストに 父を見たのです︒ ﹄ ﹂ ︵ヨハネ一四 たのです︒﹄﹃わたしを見た者は︑ 知っており︑また︑すでに父を見 祝福するというのです︒ それは︑ いことになり︑彼らの神はそれを 考えに従えば︑殺人もテロも正し 対視する結果に至ります︒彼らの 人間の罪を正当化し︑あるいは絶 : ラディンやアル・カイダグループ などは︑それの典型です︒それは︑ なものにもなり得るのです︒ビン 義よりも一層危険な︑また悪魔的 してはなりません︒ ︶ ン・ファンダメンタリストを混同 せん︒それらと︑真のクリスチャ 義者でもクリスチャンでもありま 人優越主義の右翼的人種差別主義 リカは神の国であると自称する白 淫のふしだらな女の名にしては は﹁完成﹂を意味していました︒姦 命じられました︒︵ホセア一 二:︶彼 女の名はゴメルでした︒その名前 めとり︑姦淫の子を引き取れ︑と 神は預言者ホセアに姦淫の女を 者がいます︒彼らは本当の根本主 書を私たちにお与えになった神 真の神ではなく︑まさにサタンで 六︑七︑九︶ が︑どのようなお方であられるか す︒ どうか︑皆様方は︑敵をも愛し︑ を正確に知ることができたので す︒ですから︑私たちはイエス・ イエス・キリストを基準として︑ 御自分を十字架に釘付けにした者 このようなすばらしい基準なし 神の啓示の書である聖書を信じ頼 キリストを基準として︑聖書を理 に︑ある特殊な人間が神からの啓 るクリスチャン根本主義者である のためにもいのちを捨てて︑救い 示を受けたと言って書いた物を︑ ことを誇りとしてくださいますよ 解し︑解釈することができるので 人間が作った勝手な基準で解釈 うに︒ ︵なお︑アメリカには根本主 す︒ し︑それを絶対視し︑それを行動 義者と自認していても︑実はアメ の道を開いてくださった神の御子 の原理原則とすることは︑相対主 (4) 神は更にホセアにこの女を買い戻 不似合いでした︒彼女はホセアの のように︑神を裏切り︑罪の深み 離れ︑またも姦淫を行ない︑娼婦 者になった彼らは︑罪深い欲情に になってしまいました︒しかし︑ 駆られ︑夫を裏切ったホセアの妻 子を三人を生んだ後︑ホセアから に陥ったのです︒しかし︑これが くださった神を疎んじ︑偶像礼拝 の先祖アブラハムと契約を結んで することができるでしょうか︒ ラエルの民を︑神がどうして祝福 のままに生きることを欲するイス りも︑悪霊と交わり︑邪悪な肉欲 避け︑聖なる神とともに生きるよ 束されたのです︒神と共に生きる ハムに︑彼の子孫を祝福すると約 心は︑あえいでいることよ︒︱神 き足らなかった︒なんとあなたの 重ねたが︑それでも︑あなたは飽 業の地カルデヤとますます姦淫を も︑まだあなたは飽き足らず︑商 ヤ人と姦通した︒彼らと姦通して れでもまだ飽き足らず︑アッシリ 六章を見ましょう︒﹁あなたはそ であるのです︒エゼキエル書第一 のようなイスラエルの民が神の民 能であるのです︒それと同様︑こ うになるでしょうか︒それは不可 すれば夫と幸せな生活ができるよ でしょうか︒このような女がどう て結婚の契約を守ることができる しょうか︒このような女がどうし て夫の愛を受けることができるで ホセアの妻のような女がどうし きのように︑彼女はその所で答え がエジプトの国から上って来たと 彼女が若かった日のように︑彼女 アコルの谷を望みの門としよう︒ 所を彼女のためにぶどう畑にし︑ しく彼女に語ろう︒わたしはその をくどいて荒野に連れて行き︑優 ﹁それゆえ︑見よ︑わたしは彼女 す︒ のように預言しておられるので しかし︑神はホセアを通して次 ことを嫌い︑神と共に歩むことを し︑彼女を愛するように命じられ 罪の奴隷とされたアダムの子孫の である主の御告げ︒︱あつかまし として聖なる神とともに幸いな交 よう︒その日︑︱主の御告げ︒︱ この女こそイスラエルの民の姿 ました︒ 実相であるのです︒ い遊女のするようなこれらのこと わりを保つことは不可能であるの あなたはわたしを﹃私の夫﹄と呼 をことごとく行なって︒ ﹂ ︵エゼキ しかし︑神は彼らの先祖アブラ です︒ エル一六 二:八〜三〇︶自分たち (5) その名はもう覚えられることはな ちの名を彼女の口から取り除く︒ とは呼ぶまい︒わたしはバアルた び娼婦になった妻を買い戻した おう︒ ﹂ ︵ホセア二 一:四〜二三︶ そして︑ホセアが彼を捨てて再 う︒彼は﹃あなたは私の神﹄と言 とを守り︑心を尽くし︑精神を尽 しるされている主の命令とおきて に聞き従い︑このみおしえの書に うにしてイスラエルの民が︑おの い︒その日︑わたしは彼らのため 時︑神は次のように仰せになりま くして︑あなたの神︑主に立ち返 は天に答え︑天は地に答える︒地 答える︒︱主の御告げ︒︱わたし は主を知ろう︒その日︑わたしは と契りを結ぶ︒このとき︑あなた ぶ︒わたしは真実をもってあなた とあわれみをもって︑契りを結 契りを結ぶ︒正義と公義と︑恵み ませる︒わたしはあなたと永遠に 地から絶やし︑彼らを安らかに休 女に変わることが非常に困難なこ 徳の︑情欲の奴隷の女が貞潔な淑 の妻のような︑ふしだらな︑不道 起こりえるのでしょうか︒ホセア に来よう︒ ﹂ ︵ホセア三 五:︶ ではどうしてこのようなことが に︑おののきながら主とその恵み 王ダビデを尋ね求め︑終わりの日 て来て︑彼らの神︑主と︑彼らの ﹁その後︑イスラエル人は帰っ からきよめられる︒わたしはすべ あなたがたの上に振りかけるその 連れて行く︒わたしがきよい水を 国々から集め︑あなたがたの地に 民の間から連れ出し︑すべての ﹁わたしはあなたがたを諸国の す︒ 六章にその答があります︒第三六 エゼキエル書の第一一章と第三 る﹂ ︵申命記三〇 一:〇︶ようにな らせられるのでしょうか︒ ﹁あなたが︑あなたの神︑主の御声 のきながら主とその恵みを求め︑ に︑野の獣︑空の鳥︑地をはうも した︒ び︑もう︑わたしを﹃私のバアル﹄ を︑﹃あなたはわたしの民﹄と言 のと契約を結び︑弓と剣と戦いを は穀物と新しいぶどう酒と油とに とであるならば︑まして罪の奴隷 ての偶像の汚れからあなたがたを とき︑あなたがたはすべての汚れ 章二四節から二八節を参照しま る︒わたしは彼をわたしのために が︑心から真実に神のみことばに 地にまき散らし︑ ﹃愛されない者﹄ 聞き従う者に変えられることは不 答え︑それらはイズレエルに答え 可能であるのです︒では︑どのよ を愛し︑ ﹃わたしの民でない者﹄ (6) きよめ︑あなたがたに新しい心を 彼らの後の子らの幸福のために︑ 従うことを喜ぶように変えられる と愛に答え︑神のみことばに聞き なぜ︑神はこのようなことをな 彼らに一つの心と一つの道を与 のからだから石の心を取り除き︑ らを幸福にするため︑彼らととこ さるのでしょうか︒エゼキエル書 与え︑あなたがたのうちに新しい しえの契約を結ぶ︒わたしは︑彼 第三六章二二︑二三節を参照しま のです︒ あなたがたに肉の心を与える︒ わ らがわたしから去らないようにわ す︒ え︑わたしが彼らから離れず︑彼 たしの霊をあなたがたのうちに授 たしに対する恐れを彼らの心に与 ﹁それゆえ︑イスラエルの家に 霊を授ける︒わたしはあなたがた け︑わたしのおきてに従って歩ま える︒わたしは彼らを幸福にし 諸国の民の間であなたがたが汚し せ︑わたしの定めを守り行なわせ た︑わたしの聖なる名のためであ 言え︒神である主はこう仰せられ 艱難時代の苦しみによって心か る︒わたしは︑諸国の民の間で汚 て︑彼らをわたしの喜びとし︑真 またエレミヤ書第三二章三七節か らの悔い改めを与えられたイスラ され︑あなたがたが彼らの間で汚 る︒あなたがたは︑わたしがあな たしは︑わたしの怒りと︑憤りと︑ エルの民に︑神は︑イエス・キリ ら四一節を参照します︒ ﹁見よ︒わ ストの贖いの御業によって新しい したわたしの偉大な名の聖なるこ る︒イスラエルの家よ︒わたしが 激怒とをもって散らしたすべての いのちと新しい心とをお与えにな とを示す︒わたしが彼らの目の前 たがたの先祖に与えた地に住み︑ 実をもって︑心を尽くし思いを尽 国々から彼らを集め︑この所に帰 り︑彼らの心に神への真実な恐れ であなたがたのうちにわたしの聖 事を行なうのは︑あなたがたのた らせ︑安らかに住まわせる︒彼ら と敬虔さをお与えになります︒彼 なることを示すとき︑諸国の民 あなたがたはわたしの民となり︑ く し て ︑ 彼 ら を こ の 国 に 植 え よ はわたしの民となり︑わたしは彼 らの心から反抗心︑不従順が取り は︑わたしが主であることを知ろ めではなく︑あなたがたが行った らの神となる︒わたしは︑いつも 除かれ︑彼らは真心から神の恵み わたしはあなたがたの神となる︒ ﹂ う︒ ﹂ わたしを恐れさせるため︑彼らと (7) しょうか︒ です︒何という神の恵みの栄光で の証しであり︑贖いの勝利の証し は︑キリストの十字架の御業の力 光を表わすことでしょうか︒ それ 拝し︑神のみこころに従い神の栄 心から神をあがめ︑神を賛美し︑礼 れたイスラエルの民は︑どれほど 成就されます︒千年王国に入れら かけてアブラハムとの契約を必ず 行されます︒神は御自分の栄光に 約束されたならば︑必ずそれを実 ためであるのです︒神はいったん これは神の御名の御栄光を保つ う︒︱神である主の御告げ︒︱﹂ を実現させてくださいます︒ くださいます︒そして︑その願望 を行なうことを願う願望を与えて の心に神を恐れ敬い神のみこころ ださいます︒そして聖霊は私たち この新しいいのちに力を与えてく けれども私たちは新しい性質を がキリストを信じた時︑神は私た を与えてくださいました︒私たち たちに神はキリストを信じる信仰 て言ってはならないのです︒ むし 不可能なのだ︒ ﹂と︑私たちは決し がないのだ︒神に従うなど︑到底 ﹁私たちは救われた罪人にすぎな ためにお救いくださったのです︒ いました︒私たちの中にある肉は︑ しではないでしょうか︒神は私た ちに聖霊を与え︑新しいいのちを ろ私たちに勝利を与えてくださる 邪悪なまま存在し続けています︒ ちを神の恵みの栄光の誉れとする 与え︑新たな誕生を与えてくださ 神の栄光を表わすために積極的に した︒聖霊は私たちのうちに住み︑ いのだ︒だから罪を犯すのも仕方 持った新しいいのちをいただきま 罪に対して戦い︑ ﹁イエス・キリス しいキリストの十字架の勝利の証 いるということは︑なんとすばら く︑義の奴隷として神に従う者が の世界に︑罪と情欲の奴隷ではな 御栄光となることでしょうか︒ こ 全くなく︑ただ神に逆らう︑神の した︒神のみこころを行なう力は 私たちも罪人であり︑罪の奴隷で ような関係があるのでしょうか︒ ことは︑どれほどすばらしい神の の子として歩み︑神に従順に従う 配するこの暗黒の世にあって︑光 の罪の誘惑に満ちた︑サタンが支 キリストを信じる私たちが︑こ マ五 一:七参考︶者であるべきであ るのです︒ あって王のように支配する﹂ ︵ロー トにより︑キリストのいのちに さて︑このことは私たちとどの 敵でした︒しかし︑そのような私 (8) 性的な人と呼び︑他の人を感情的 す︒ですから︑人々はある人を理 信じるならば︑人は偶像礼拝もで そして︑もし人が進化論を本当に じられないはずであり︑神社にも きないはずであり︑オカルトも信 しかし︑大抵の場合︑普通の人 寺にも行かないはずです︒ところ な人と呼んだりします︒ は︑理性領域が感情領域に優先し のか︑それを行なうことは理にか 常に︑これを考えることは正しい 二部分です︒人は︑理性領域では︑ 称では︑理性領域と非理性領域の があると言われています︒別の名 る部分と感情が支配している部分 れで︑問題となることは︑その知 自分の行動を決定しています︒そ るいは仲直りするにはいい方法が るから止め︑我慢しようとか︑あ 今腹を立ててけんかすると損をす これは︑人間の本性︑すなわち も悪くても人々は知性を働かせて︑ 心 な 偶 像 信 者 ︑ オ カ ル ト 信 者 で ないだろうかとかなどと︑良くて 聖書が言う肉が非常に宗教的であ 込み︑唯物論者である人々が︑熱 があふれています︒無神論を信じ 伝している日本の国に︑神社や寺 レビ︑ラジオで進化論を盛んに宣 ています︒例えば︑腹が立っても︑ が︑学校で進化論を教え︑新聞︑テ なっているのかと︑なにか知的な 性が何を基準にして判断を下すの ることを物語っています︒すなわ 人間の心には理性が支配してい ものを基準にして判断していま かということです︒ あったりします︒ す︒しかし︑非理性領域では感情 合理的なものを基準にして物事を とします︒義理とか人情とか︑非 い︑世界は偶然にできた︑人間も すなわち︑世界には創造主はいな とです︒だから︑唯物論者が仏教 かを信じることができるというこ して︑宗教心の要求に従って︑何 人は進化論を基準にしています︒ 理性領域︑感情域で﹁肉﹂の働きと ち︑人々は︑理性領域ではなく︑非 判断します︒そして人によって理 偶然に進化してできた︑神は存在 を信心し︑進化論者が念仏を唱 クリスチャン以外のほとんどの 性領域が非理性領域に優っている しない︑と言うのが進化論です︒ で物事を考え︑行動を決定しよう 場合もあれば︑その逆もありま (9) 理性的信心︵信仰︶というものが のです︒すなわち人間社会には非 はなく︑変であるとは気づかない えることも彼らにとっては矛盾で 域内には︑神は存在せず︑その人 す︒ですから︑その人の理性の領 内だけの信心︵信仰︶であるので 感情の世界︑宗教的感情の時間の 者でいますことを認めていません の不従順です︒彼らは︑神が絶対 ト信者︵偽信者︶の特徴は︑神へ このような信心での自称キリス イスラム教徒が﹁アラー・アク 主イエスの弟のユダは︑そのよ し︑神の御前で自分の罪深さを認 他にないのです︒釈迦が﹁天上天 バル﹂ ︵神は偉大なり︶と唱えてい うな者たちについて次のように の自我が︑すなわち肉が絶対者で 下唯我独尊﹂と言ったのはまさし る時︑実質的に﹁自我は偉大なり﹂ 語っています︒﹁この人たちもま あるのです︒彼らの理性領域の判 くこのことです︒彼は宇宙の中に と唱えているのです︒オサマ・ビ た同じように︑夢見る者であり︑ めたこともありません︒彼らは人 自分よりも尊いものは他にないと ンラディンがアラーは偉大なり︑ 肉体を汚し︑権威ある者を軽ん あるのです︒このような信仰︑信 豪語したのです︒これほど︑不遜 と言っている時︑彼は︑自分は最 じ︑栄えある者をそしっていま 断では︑絶対者でいます神は存在 な︑また愚かな言葉は︑天上天下︑ 高だ︑と言っているのです︒これ す︒・・・しかし︑この人たちは︑ 間主義者であり︑彼らの教会は民 どこを捜しても見当たりません︒ がまさに非理性的︑すなわち肉的 自分には理解もできないことをそ 心は︑聖書の基準に従って言え 人間はこのように唯物論的傲慢な ︵宗教心的︶信心であるのです︒そ しり︑わきまえのない動物のよう しないのです︒ですから彼らは自 考えを持ちながら︑その同じ人間 してそのような信心で︑人々は仏 に︑本能によって知るような事が 主主義であり︑神の主権を排除し が心の中の︑非理性の領域で︑何 教徒にも神道信者にも︑あるいは らの中で滅びるのです︒忌まわし ば︑偽物であるのです︒ かを信心し得るのであり︑宗教的 キリスト教徒にもなり得るので いことです︒彼らは︑カインの道 分が第一で︑自分より尊いものは になり得るのです︒しかし︑その す︒ てしまっています︒ 信心は︑非理性の世界︑すなわち (10) 飛ばされる︑水のない雲︑実を結 を養っている者であり︑風に吹き ともに宴を張りますが︑自分だけ の愛餐のしみです︒恐れげもなく 滅びました︒彼らは︑あなたがた いに陥り︑コラのようにそむいて を行き︑利益のためにバラムの迷 神が教会にお与えになった指導者 人間です︒ ﹂ ︵ ﹁権威ある者﹂とは︑ 裂を起こし︑生まれつきのままの この人たちは︑御霊を持たず︑分 う︑あざける者どもが現われる︒ ﹄ の不敬虔な欲望のままにふるま いました︒ ﹃終わりの時には︑自分 せん︒ですから勿論のこと進化論 るための情緒的信仰心ではありま ただ単なる宗教的感情を満足させ 的な決断による信仰です︒それは これがまさに︑理性領域での知 をもって神を敬います︒ と御耳とを恐れます︒そして従順 治下にあることを認め︑神の御目 を信じ︑それを実行します︒そし のことです︒黙示録第二︑三章に では︑真の信仰とはどのような て人間主義︑人間本意的集団から ばない︑枯れに枯れて︑根こそぎ のために永遠に用意されていま 信仰でしょうか︒まず︑真の信仰 自分を分離させ︑真実に神を愛 は絶対に認めません︒偶像礼拝も す︒・・・彼らはぶつぶつ言う者︑ は神の絶対的主権を認め︑自分が し︑神を恐れ敬う者たちと共に交 記されている七つの教会の各々に 不平を鳴らす者で︑自分の欲望の 神の主権に逆らってきた罪人であ わり︑聖なる歩みを求めて互いに にされた秋の木︑自分の恥のあわ ままに歩んでいます︒その口は大 り︑そのために永遠の地獄の火に 励まし合い︑聖なる愛をもって愛 認めません︒人間の生きている目 きなことを言い︑利益のためにへ よるさばきに相当する者であるこ し合います︒自分を喜ばせること 与えられている﹁御使い﹂と同じ つらって人をほめるのです︒ 愛す とを認めます︒次に︑イエス・キ を求めず︑他の者の益を自分の益 をわき立たせる海の荒波︑さまよ る人々よ︒私たちの主イエス・キ リストが唯一の救い主︑ 主権者︑ に優先させます︒そして神を喜ば 的は神を礼拝することであること リストの使徒たちが︑ 前もって 永遠の神でいますことを認めま せることを︑自分の第一の喜びと です︒ ︶ 語ったことばを思い起こしてくだ す︒そして︑自分が神の直接的統 う星です︒まっ暗なやみが︑彼ら さい︒彼らはあなたがたにこう言 (11) します︒ 支配︑権威が︑私たちの主イエス・ ユダは次のように語って私たち キ リ ス ト を 通 し て ︑ 永 遠 の 先 に に 勧 め の 言 葉 を 述 べ て い ま す ︒ も︑今も︑また世々限りなくあり ますように︒アーメン︒ ﹂ ﹁しかし︑愛する人々よ︒あなたが に︒ に真実に従う者でありますよう どうか私たちの全てが︑このユ たは︑自分の持っている最も聖い 信仰の上に自分自身を築き上げ︑ ダの勧めを心から受け入れ︑それ 聖霊によって祈り︑神の愛のうち あなたの王国とは︑わたしの前に とこしえまでも続き︑あなたの王 国 は と こ し え ま で も 堅 く 立 つ ︒﹂ ︵Ⅱサムエル七 一:一〜一六︶この 約束は︑千年王国において文字通 りに︑また完全に成就されます︒ そして︑この約束が成就されるた めには︑イスラエルの民が自分た ちの力では王国を造る力がないこ に自分自身を保ち︑永遠のいのち に至らせる︑私たちの主イエス・ とが証明されなければならず︑ま の約束は︑イスラエルの不信仰の キリストのあわれみを待ち望みな 故に︑すぐには成就しませんでし た︑不従順なイスラエルの民のた ながらあわれみ︑肉によって汚さ Ⅱサムエル七章は︑神がダビデ た︒ さい︒疑いを抱く人々をあわれ れたその下着さえも忌みきらいな に︑永遠に続く王国を約束してく しかしダビデは神のお約束を聞 めに︑キリストの贖いが達成され さい︒あなたがたを︑つまずかな ださった箇所です︒神は︑こう仰 きました︒神の永遠のご計画を知 み︑火の中からつかみ出して救 いように守ることができ︑傷のな せになりました︒﹁わたしはあな りました︒その時ダビデはどのよ なければなりません︒ですからこ い者として︑大きな喜びをもって たをすべての敵から守って︑安息 い︑またある人々を︑恐れを感じ 栄光の御前に立たせることのでき を与える︒さらに主はあなたに告 の答えが八章にあります︒﹁その うな態度をとったでしょうか︒そ る方に︑すなわち︑私たちの救い げる︒﹃主はあなたのために一つ 主である唯一の神に︑栄光︑尊厳︑ の家を造る︒ ﹄ ・・・あなたの家と (12) 私たちは神のみことばを信じるべ ことをよく聞くことです︒ 次に︑ とばの中で語ってくださっている ん︒まず聞くことです︒神がみこ スタートに立つことはできませ から始まります︒これがなければ 信仰は神のみことばを聞くこと 待っていよう︒ ﹂ う︒じっとしてその日が来るのを のなら︑いつかはそうなるだろ した︒﹁神が約束してくださった ダビデは決してこう言いませんで とを信じ︑剣を取ったのでした︒ 守って安息を与え﹂てくださるこ さったとおりに﹁すべての敵から 戦いました︒神が︑約束してくだ から奪った︒ ﹂ ︵八 一:︶ダビデは神 のみことばを信じ︑信仰によって メデグ・ハアマをペリシテ人の手 て︑これを屈服させた︒ダビデは 後︑ダビデはペリシテ人を打っ 七︶彼もまた︑ ﹁聞き︵神から警告 箱舟を造り・・・﹂ ︵ヘブル一一 こんで︑その家族の救いのために から警告を受けたとき︑恐れかし だ見ていないことがらについて神 した︒ ﹁信仰によって︑ノアは︑ま るはずです︒ノアの場合もそうで したいという願いが必ず起こされ 心に︑神のみことばに従って行動 に満たされます︒そして私たちの ときに︑私たちの心は感謝と喜び しさ︑そのご計画の偉大さを知る 従うことです︒神の約束のすばら があります︒それは︑みことばに に信じるなら︑必ず次のステップ ません︒そして神のことばを本当 とばとして受け入れなければなり とばを︑神の権威のかかったみこ るように︑私たちは単純に神のこ 喜ばせする事はできない︒﹂とあ きです︒﹁信仰がなければ神をお : です︒ ダビデは恵み深い神のお約束を 者を神の祝福にあずからせるため 光が表されるためであり︑信じる は弱い者をお用いになる神の御栄 て行なってくださるのです︒それ 神のみことばを信頼する者を用い ご自分の御心を行うに当たって︑ ださるのは神です︒けれども神は 言っておられません︒行なってく 神は私たちの力で何かをせよと もできないのは事実です︒しかし 考えです︒確かに私たちの力で何 ら何もしなくても良いのだという よいのだ︑私たちは無力なのだか みことばは︑聞いて信じるだけで 違った考えを持っています︒神の ある人たちは信仰について間 た︒ 従った︵箱舟を造った︶﹂人でし を受け︶ ・信じ︵恐れかしこんで︶ ・ (13) 満ちあふれました︒羊飼いの末っ 聞きました︒ダビデの心は感謝に はそうはしていない︒ ﹂などといい ﹁神の日の来るのを待ち望み︑その ださった神︑ダビデの家を永遠に ろう︑味わわせようと思ってくだ そうしてせっかく神がお与えにな しょう︒ れを実際的に活用する者でありま して︑神の豊かな祝福を味わい︑そ わけをして︑神のみことばに従う 日の来るのを早めなければなりま ﹂どうか私たちが聞いて・信 ことを拒んでいないでしょうか︒ せん︒ じて・従う者でありますように︒そ 堅く建ててくださる神︑すべての さっている勝利と祝福を︑みすみ 子をイスラエルの王へとあげてく 敵から守って安息を与えてくださ る神︒なんとすばらしい神でしょ す逃しているのではないでしょう う︒ダビデはこの方を愛しました︒ か︒ この方のみことばを信じました︒ 私たちは﹁キリストとともによ そしてそのような真実な信仰は︑ みがえらされた﹂者です︒それな なく︑義の器として神に捧げま 不義の器として罪に捧げるのでは に剣を取り︑ペリシテ人と戦うこ たちは﹁罪に対して死んだ﹂者で とでした︒第二サムエル記八章は︑ す︒それならば︑私たちの手足を 神についての正しい知識を持って しい生活を送り︑罪をやめなさい︒ こなわれます︒目をさまして︑正 友だちが悪ければ︑良い習慣がそ らば︑地上のものを思わず︑天に 私たちはこのような信仰の態度 しょう︒私たちはやがて︑ ﹁雲の中 いない人たちがいます︒私はあな 従順な行動へと導かれました︒ そ をとっているでしょうか︒それと に一挙に引き上げられ︑空中で主 たがたをはずかしめるために︑ こ あるものを思い続けましょう︒私 も﹁自分を欺いて︑ただ聞くだけ と会う﹂者です︒しかもその日が う言っているのです︒ ﹂︵Ⅰコリン れは︑神の守りを信じ︑自分の手 の者﹂でしょうか︒﹁聖書はそう 近づいています︒それならば︑こ ト一五 三:三︑三四︶ ﹁思い違いをしてはいけません︒ いっているかもしれないが︑ 私は の世から分離した生き方をし︑ 戦いと勝利の章です︒ 弱い︑周りの状況が悪い︑他の人 (14) あると同時に︑悪い習慣を身につ も良い習慣を身につけている者も この聖句はクリスチャンの中に す︒ てしまっている例が多くあるので 聞く人の心に残らないものになっ 減され︑意味が不明瞭になって︑ 軽いからです︒﹂︵マタイ一一 二 : びきは負いやすく︑わたしの荷は います︒では私たち自身はどうで ト︑正しい言葉使いでメッセージ 正しい発音︑正しいアクセン たものです︒しかし︑日本では牛 を引かせ︑あるいは荷車を引かせ の昔でも︑牛にくびきを付けて鋤 く時か畑で鋤を引く時です︒ 日本 牛がくびきを負うのは荷車を引 九︑三〇︶ けている者もあることを示唆して しょうか︒このことについて考え を語ることは非常に大切なことで は一頭で働かせられました︒ 聖書 す︒それには︑説教者が常に心が 習慣というものは意識して︑ そ け︑長年努力しないと身に付きま てみましょう︒ れが身に付くように常に心がけな かせる時︑牛の首の根元の︑肩の の時代のパレスチナでは二頭で働 このことと同様︑クリスチャン 上にある瘤に横木を乗せ︑その木 せん︒しかし︑その努力は必ず報 も常に心がけないと︑なかなか取 個人にも︑習得しようと常日頃努 の両端に綱︑あるいは細長い横木 いと︑なかなか身に付かないもの れないものです︒たとえば︑説教 めなければならない習慣がありま を結びつけ︑その綱︑あるいは横 かせられたようです︒︵牛に車を引 する者の﹁アノー︑アノー﹂ ︑﹁そ す︒それは主イエスと共に歩む歩 木で車を引いたのです︒その牛の いられます︒ れでですね︒ ﹂ ︑ ﹁まあ﹂ ︑ ﹁えー﹂な み方を学ぶという習慣です︒ です︒また︑身に付いた悪い習慣 どの癖は︑聞いている者の耳に非 なければならない悪い癖です︒ そ を疲れさせる︑是非とも取り除か 常に耳障りになり︑聞いている者 ら学びなさい︒そうすればたまし たしのくびきを負って︑わたしか だっているから︑あなたがたもわ ﹁わたしは心優しく︑へりく のくびきを負って︑新米の若い牛 ベテランの牛と︑新米の牛が一つ その場合︑働き方を知っている 肩の瘤に掛ける横木をくびきと呼 の悪い癖のゆえに︑せっかくメッ いに安らぎが来ます︒わたしのく びます︒ ︶ セージの内容が良くても︑力が半 (15) 頃の学ぼうという心がけが必要な ばならないのです︒その習慣は︑自 のです︒それが習慣とならなけれ 分の家で︑自分の個室で︑個人生 あります︒堅実さと謙虚さと希望 人間社会には肉的な競争︑虚栄 活の中で学ばなければならないの は︑ベテラン牛から働き方を教え 中を走る競馬馬や︑サポーターた の張り合い︑ねたみ︑いがみ︑しっ です︒私たちは︑この大切な習慣 があります︒ ちの声援を背にしてボールを追い とが渦巻いています︒しかし︑聖 られるのです︒それは︑大歓声の かけたり︑蹴ったりするサッカー を身につけることに︑一層強く留 値段 一部三〇円 津久野キリスト恵み教会 〒五九三 八-三〇七 発行所 マラナ・タ 意すべきであるのです︒ であるべきであるクリスチャンの が働いている場合が多いのです︒ 選手とは違い︑非常に地味な働き また道で︑誰からも注目も同情も もし︑神の僕になることを願う若 です︒畑でただ黙々と鋤を引き︑ 社会の中にも︑そのような醜い肉 得ることなく黙々と車を引く働き 者が︑この主と共に歩むという訓 練なしに︑その習慣を身につける です︒ しかし︑飼い主の指示に従っ て︑畑で黙って鋤を引く牛には︑ 前に公の場に立ったならば︑途端 の場限り︑というような空しさと には︑賭け︑虚飾︑虚栄︑刹那︑そ い独特の美しさがあります︒そこ 牛場でいきり立っている牛にはな ということの大切さは︑どれほど 主の謙遜を︑忍耐を︑従順を学ぶ かない隠れた所で︑ 主から学ぶ︑ い︑静かに︑個人的に︑人目につ 主イエスと共に同じくびきを負 前田大度・環野浩史・松岡平・ 大阪 00960-0-57854 編集責任者 山岸登・山本啓之・ につまずいてしまうのです︒ は無縁な︑確実さ︑堅実さ︑謙遜 強調しても強調しきれるものでは 河田哲也 レースを走っている競馬馬や︑闘 さ︑実益︑希望があります︒それ ありません︒この大切な学びには 構成・印刷 門上矢 大阪府堺市平岡町二七六 四℡(〇七二)二七三 八-六一五 と全く同じように︑ 主イエスに 時間がかかるのです︒そして常日 E-mail:Christ@osk2.3web.ne.jp 郵便局振替口座 従って歩む者には独特の美しさが (16)
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