岡倉天心とインド:越境する近代国民意識と汎アジア・イデオロギーの帰趨

「岡倉天心とインド:越境する近代国民意識と汎アジア・イデオロギーの帰趨」
(再掲載)『日語日文学』 第24輯 大韓日語日文学会、2004年11月、13-30頁
2回
第2
第
回 韓韓
国国
日日本
本学
連 合 会 甘劉
豆王スパ翻
l
唱
学連合会
/ド
岡
インド
こ27作
は倉天,は
―越境 する近代 国民 意識 と汎 アジア ・
一越境する近代国民意識と汎アジア・イデオロギーの帰趨一
イデオロギーの帰趨 一
稲賀繁美*
橋 賀 繁 美*
i
nagas@n
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.
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.
j
p
inagas@nichibun.ac.jp
<要旨>
本発 表 は、
、
岡令天心とその周辺に焦点を省てる.検証すべき
合天心 とその 周辺 に焦点 を省 て る。検 証す べ きは以下の二
本発表は
問
は以下の二点となる.まず、ニ
世紀 初頭
点 とな る。まず、二O
〇 世紀初頭
『
におけ るア ジアの 自己表J j l Lして
と もっ と も突 出 した発現 の ひ とつた る r
東洋の理想』が、天心のインド
におけるアジアの白己表現としてもっとも突出した発現のひとったる
東洋 の理 想J が 、天心 の イ ン ド
体験 を核 と して練 りあげ られ た こと。そ して 第 二 に、近代 ア ジアの 文化 ア イデ ンテ ィテ ィー 発現 の一 手
体験を綴として練りあげられたこと。そして第二に、近代アジアの文化アイデンティティ一発現の一手
「
とし
段と
しての
東洋
美術J
I P Iが
念、そ もそ も狭 義 の 国民国家意識 か らの逸脱 を内在的 前提 条件 と して練 り上
段
ての 「
東
洋美
術」
概念が、そもそも狭読め国民国家意識からの逸脱を内在的前提条件として繰り上
「 とつ のア ジア ―
r東洋
東 』という虚構の
られ
げら
れた
たこ
こと
と。
ひひ
と つ の ア ジ ア 」ー すなわち文化概念としての東アジア、さらには
す なわ ち文化概 念 としての 東 ア ジア、さ らにはr
洋J と い う虚構 の
枠組 み ――の捏 造 そ して実 体化 ― これ な くして普遍的世 界美術 史 は構 想 し得 ない――の 裏 に は、天心 の生
枠組みーの民造そして笑体化ーこれなくして普通的u!:界美術史は構怨し得ないーの裂には、天心の生
涯 に刻印 され た1
が潜 ん で いた はずだ.
佳境状況が潜んでいた
涯に刻印された
越境状況
はず だ。 紋近のliJI兜があきらかにしたように、日本の近代美術
最近 の洵卜
究 があ き らか に した よ うに、日本 の近代 美術
(S
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to
。1
史 の形成 は、明治国家 の 立 ち上 げ と密 接 に関係 していた(
;
9
.
史の形成は、明治国家の立ち上げと密篠に関係していた
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))
。
さ らに視野 を広 げ るな らば、十九 L l l 紀
さらに飢貯を広げるならば、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、アジア諸民肢は、西欧列強による
後半 か ら二十 世紀初頭 にか けて、ア ジア 諸民族 は、西欧 列強 に よる
I主
I主
で、
に刈抗 す べ く、国民的 あ るいは文化的 な 自己同一性 を『
義植民地
帝 l"
f
1
ぷ
航民地状
況下で
J「西欧 」に対抗すべ〈、国民的あるいは文化的な自己同一性を「発明
」し、再設定
状況下
し、再設定
発 明」
し、あ るいは また国家
し、あるいはまた
P
i
l家 目
様 として
と し て追求
追 求した。
し た「
束
1
下美術史
」なる枠組みもまた、そうした運動と一体をなし
目標
なる枠組 み もまた、そ うした運動 と一体 をな し
束洋
美術 史」
て1
上した、ひ とつの理
浮
あるいは思 念 であ った。 本発表の日指すのは、天心の著述を、その執筆環境
7とした、ひとつの足
1
1
念あるいは思念であった.
念
本発表の 目指すの は、天心の著述 を、その執 筆環境
――
すな
なわ
ち二
― にお き直す こ とにあ る。まず イ ン ドの
I吐紀初頭のインドという
L 紀初頭 の イン ドとい う歴
ー
す
わち
二〇
01
l
鐙!
以内ー・
地
l'J!的
な空
I
H
トーにおき直すことにある.まずインドの
な
史的
地理的
空間
とア イデ ンテ ィテ ィー 覚醒 に天心 が以 下 に関 句下か を問 いたい。 さらに理 念 と しての 東洋 美
国
民意識
l
l
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l
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]
&
'
:
、滋とアイデンテイティ一党位に天心が以下に閑勾下かを問いたい。さらに理念としての東洋美
――す なわちア ジアの 文化的 自己表現 ――の、最 も雄弁 な国際的提唱者 の ひ と りた る天心 が その後彼
術
i
皮に
術ーすなわちアジアの文化的白己表現ーーの、肢も鮒弁な国際的旋回おのひとりたる天心が、その後
に
、
く「
続<
r美術史学」
1
:
:
.
術
:
.
l
'
.
学」の専門家集l
I
,
T
'門家集団たちの世界から、あたかもJs介者よ
ろしく抹消さ
れてゆく経緯に迫りたい
か ら、あたか も厄 介者 よろ
N l lちの世界
た
し く抹 消 されて
ゆ く経緯 に迫 りたい
本発 表 は、 岡 倉天′
に
。
いを例l
とって、二〇
.本発表は、│凋合天心を似
にとって、二
0
1
1
1
:
1 紀初似の束アジアの文化状況と、その世界史的反響の一的
紀初頭 の東 ア ジアの 文化状 況 と、その世界史 的 反響 の 一酌
は
I I し、 汎 ア ジア イデ
を検
オ ロ ギーの 帰趨
に関す る問題提起 となることを志 して い る。
を検証し、汎アジア
イデオロギーの
j
'
d
f趨に関する問題児起となることを志している.
r
は、岡倉天心 とその 周辺 に焦点 を省 て る。検証す
べ きは以 下 の二 点 とな る。まず、二 〇
本発表
本発表は、岡倉天心とその周辺に焦点を省てる
証すべきは以下の二点となる。まず、二
O世
世
にお け るア ジアの 自己表現 として もっ とも突 出 した
紀初頭
紀初頭におけるアジアの自己表現としてもっとも突出
した 発現
発現のひとったる『東洋の理想』が、
の ひ とつ た る 『東洋 の理想 』 が、
のデ ィア スポ ラ的境涯 の なか で こ そ培 われ た こ と。
天心
天心のディアスポラ的境涯のなかでこそ培われたこと
。そして第
二に
、近代ア
ジアの文化アイデ
に、
そ して第 二
近代 ア ジアの
文化 ア イデ
「
ン
テ ィテ ィー 発現 の 一 手段 としての
ンティティ一発現の一手段
としての 「
東洋美術」概念が、そもそも狭義の国民国家意識からの逸脱
東洋美術
」
概 念 が、そ もそ も狭 義 の 国民国家意識 か らの逸脱
を
内在的前提条件 として練 り上 げ られ た こ と。「
rひ
ひとつ
のアジア
一一すなわち文化概念としての東
を内在的前提条件として練り上げられたこと。
とつのア
ジアJ」―
す なわち文化概 念 としての東
「
ア
ジア
―
一
アジア、さらには
東洋 」とい
という虚構の枠組みーの担造そして実体化ーこれなくして普通的世界美
、さ らには 「
東洋」
う虚構 の枠組 み の捏造 そ して実体化 ―これ な くして 普遍的世界美
は構 想 し得 ない一 の 裏 には、
の 生涯 に刻印 された越境状 況 が潜 んでいた はずだ。この教
術史
術史は構想し得ないーの裏には
、
天心の生涯に刻印された越境状況が潜んでいたはずだ。この教
天心
は、昨今 の 安 易 なデ ィアス ポラT L 讃や越境志向の
ニ ズム
訓
訓は、昨今の安易なディアスポラ市し
モダニ
ズム研
研究
究の
の論調に対して
、
ア ジアの
ジアの側
讃や越 境志 向 の モダ
側
論 調 に対 して、
か
らの抜 本的 な再検討 を迫 る ものだ ろ う。
からの抜本的な再検討を迫るものだろう。
の研 究 が あ きらか に した よ うに、
最近
の近代美術 史 の 形成 は、
最近の研究があきらかにしたように
、
日
本の近代美術史の形成は
、明治国
家の立ち
上げと
密接
日本
の 立 ち上
明治国家
げ と密
接
米
日
本文化研究セ ンター/総 合研究大学院大学 教授
国際
*国防
1
;
日本文化研究セン芳一/総合仰│究大学院大学'教
J
受
1
4 日語日文原第
4輯
14
日語 日文學 第2
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)。さらに視野を広げ、るならば、
。
に 関係 して い た (
に関係していた
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さ らに視 野 を広 げ るな らば 、十九
十 ブし
世紀後半から二十世紀初頭にかけて、アジア諸民族は、西欧列強による帝国主義植民地状況下て¥
世 紀 後 半 か ら二 十 世紀 初 頭 にか けて、ア ジア 諸 民族 は、西 欧 列 強 に よ る帝 国主 義植 民 地状 況 下 で、
「
r発別
発 J し、再設定し
に 対 抗 す べ く、国民 的 あ る い は 文化 的 な 自己同 一 性 を「
r
i
m欧 」に対抗すべ〈、国民的あるいは文化的な自己同一性を
、あるいはまた国
西欧
あ る い は また 国
明」 再 設定 し、
「
二 体 をな して浮 上 した、
家目標として追求した。
、そうした運動と
、
な る枠 組 み もまた、
そ う した 運動 と一体をなして浮上した
家 目標 と して 追 求 した。r東洋美術史
東 洋 美術 史 J
」なる枠組みもまた
ひとつの理念あるいは思念であった。この文脈で、
ひ とつ の 理 念 あ る い は思 念 で あ っ た 。この 文 脈 で 、匡│際的な祝野から拘ー検討に値するのが岡倉天
国際 的 な 視 野 か ら再 検 討 に値 す るの が 岡倉 天
(1
18
86
66
6-1
11
93
1)
3の場合である。しかしながら
)の
心(
9
近ま
で
この 側 面 は、日本の歴史家たちによっては
日本 の 歴 史 家 た ち に よ って は、最
まで
場 合 で あ る。しか しなが ら、この側面は
最近
十分に研究されてきたとは言いがたい。一九四十年代の日本の海外膨張主義のなかで
十 分 に研 究 され て きた とは言 いが た い。一 九 四 十 年 代 の 日本 の 海 外 膨 張 主 義 の なか で、天 心 の 著
『
作(とりわけ一九三
東洋の覚醒」として、まず日本語訳で公表された扇動文書)は
、当時の
人年 に r
作 ( と りわ け一 九 二 八年に
東 洋 の 覚 醒 』 と して、まず 日本語 訳 で公 表 され た扇 動 文書 ) は、
省時 の
パ
ロ ギー に 沿 って 利 用 され、大東亜共栄圏思想プロパ力、ンダに好都合の文献として動員
軍事イデオ
大 東亜 共栄 圏思 想 プ ロ ガ ン ダ に 好都 合 の 文 献 と して 動 員
軍 事 イデ オ ロギーに沿って利用され、
された。保田与重郎を筆頭として、佐藤信街、とりわけ浅野晃がその代表となる。一九六
代
され た。保 田句重 郎 を筆頭 として、佐 藤信衛 、 とりわけ浅野晃 が その代表 となる。一九六0
年代
〇年
末までの岡倉天心論は
ひたす ら敗戦後 の 価値 観 を前提 とし、そ こ
その反省 ある い は反 動 ゆえか、ひたすら敗戦後の価値説を前提とし、そこ
末 までの 岡倉天心論 は、その反省あるいは反動ゆえか、
から
逆に
て 天心 の著作を読み、そのアジア主義を糾弾する
の 著作 を読 み、そ のア ジア主 義 を糾 弾す る、という論調からなかなか自由に
とい う論調 か らなか なか 自由 に
に糊
って
ら逆
湖っ
なれなかった
、論者自身の身の潔白を証明するためには
なれ なか った。そのなかにはあたかも
そ の なか にはあたか も、
論者 自身 の身 の潔 白 を証 明す るため には、天心に有罪宣告
天心 に有罪宣告
を突き付けることが、
戦後日本の知識人にとっての義務である、といった雰囲気すら見いだされる。
を突 き付 ける ことが、
戦後 日本の知識人 に とっての義務 である、とい った雰囲気す ら見 いだ され る。
海外に視点を向けると
、英語圏では今日『茶の本」がペイパーパックで入手可能であり
、そこ
そこ
英語圏 では 今 日 『茶 の 本 』 が ペ イパ ーバ ックで大 手 可能 であ り、
海外 に視点 を向 け る と、
からの抜粋が美術理論のアンソロジーに取られることも
か らの 抜粋 が 美術 理論 のア ンソロジー に取 られ ることも、ないではない。だがそれ以外の地域、た
な い ではな い。だが それ以外 の地域、た
『日本の覚醒」さらに「茶の本』は一九一七年から
とえは・フランス語圏では、『東洋の理想、
』 や r
とえば フ ラ ンス語圏 では、 『
日本 の覚醒』 さ らに 『茶 の本 』 は一九一 七年 か ら
東洋 の理 想』
二
二年に
かねて
語 訳 がf
I
:
Jたものの、日本研究者を除けば、今日のフランス・インテリで、岡倉覚
二二
にかね
た ものの、日本研 究者 を除 け ば、今 日の フ ラ ンス ・イ ンテ リで、岡倉覚
て仏
出
仏語訳
三 の名前を記憶している者は、美術史研究者にすら、数少ない。しかしながら
川 大吉に
の 名前 を記憶 して い る者 は、美術史研究者 にす ら、数少 な い。しか しなが ら、本稿は、色
に
本稿 は、色川大吉
代表されるように、美的な汎アジア主義の唱導者として、岡倉天心を再評価することを目指すも
代表 され るよ うに、美的 な汎 ア ジア主 義 の 唱導者 として、岡倉天心 を再評価す るこ とを 目指 す も
ロ ギー 批判 の延 長 に
の で もなけれ ば、逆 に、宮川寅雄や
のでもなければ、逆に、宮川
寅雄や竹内好を唱矢とする近代日本思想イデオ
竹 内好 を哨 矢 とす る近 代 日本思想 イデ オ ロギー批判の延長に
位置付けうる
ニ アル批評の論調に同調して、天心に危険な超国家思想家
アル批評 の論調 に同調 して、天心 に危険 な超 国家思想家
位置付 け うる、最近の北米ポスト・コロ
最近 の北米 ポス ト・コロニ
たるレッテルを貼り直すことに満足するものでもない。
たる レ ッテ ル を貼 り直す こ とに満足 す る もので もな い。
むしろ本稿の目指すのは、期阿弥寿子や岡倉古志郎の実証的な史料発掘の傍らで、インドでの
む しろ本 稿 の 目指 す の は、堀 岡弥寿子や 岡倉古志郎 の 実証的 な史料発 掘 の傍 らで、イ ン ドでの
最近の研究にも言及しつつ
、その執筆環境一ーすなわち二
その執筆 環境 一 す なわ ち二O
世紀初頭 の イ ン ドとい
最近 の研 究 に も言及 しつつ、天心の若述を
天心 の著述 を、
〇 世紀初頭のインドとい
・
う歴史的
地理的な空間ーにおき直すことにある
、七
0年代以降の
それ は また、
七〇
う歴 史的 ・
地理 的 な空 間――にお き直す こ とにあ る。それはまだ
年代 以降 の、高階秀爾や大岡
高階秀爾 や大 岡
信、さらに続く世代の大久保喬樹や木下長宏らの仕事にもかかわらず
、なお十分には解明きれて
なお十 分 には解 明 され て
信、さ らに続 く世代 の 大久保喬樹や木下長宏 らの仕 事 に もかか わ らず、
こなかった側面に
こなか った側 面 に、照明を当てることでもある。まず、インドの国民意識とアイデンティティー覚
照 明 を省て るこ とで もあ る。まず、イ ン ドの 国民意識 とア イデ ンテ ィテ ィー 覚
醒に
た天心の
の、越境性とディアスポラ的性格を問おう。さらに理念としての東洋美術ーす
に関
した天心
句し
関与
越境性 とデ ィア スポ ラ的性格 を問 お う。さ らに理 念 としての東洋美術 ――す
なわちアジアの文化的自己表現一ーの、最も雄弁な国際的提唱者のひとりたる天心が、その後彼に
なわ ちア ジアの 文化 的 自己表現 ――の、最 も雄弁 な国際的提 唱者 の ひ と りた る天心が、そ の 後彼 に
「
統
美
術史
学」の専門家集団たちの世界から、あたかも厄介者よろしく抹消されてゆく経緯に迫
の専 F ] 家集団 たちの世 界か ら、あ たか も厄 介者 よろ し く抹 消 されてゆ く経緯 に迫
くr
続<
美術
史学」
りたい。この経緯にもまた、天心の越境性とディアスポラ的性格が関与していたのではなかった
りた い。この 経緯 に もまた、天心 の 越境性 とデ ィア スポラ的性 格 が 関 句 して いたの で はなか った
ニ ズム前史 をなす二O
か。
、モダ
、その世界
この よ うに本章 では、
モ ダニズム前史をなす二
か。このように本章では
そ の 世界
世紀初頭 の東 ア ジアの 文化状況 と、
〇 世紀初頭の東アジアの文化状況と
史的反響の、ほんの一勧を検証するに過ぎない。だがそれは、<越境するモダ
ズム> の 前提 を問
史的 反響 の、 ほんの一 的 を検 証す るに過 ぎな い。だが それ は、< 越 境 す るモダニ ズム>の前提を問
い直すための
い直す ための、ひとつのささやかな問題提起となることを志している。
ひ とつの ささや か な問題提起 となることを志 して い る。
ン
稲賀繁美
1
司倉
天{}
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泄
稲賀繁美 /
/岡
倉天
1
1.
. 国 国民統合と『東洋の理想』
民 統 合 と 『東 洋 の 理 想 』
r ラー マ ク リシ ュ ナ ー
(1
19
90
0)
3 に序文を寄せたのは、
)に
天心の最初の英文著述、『東洋の理想
3
天 心 の 最 初 の 英 文 著 述 、 『東 洋 の 理 想J
序 文 を寄 せ たの は、「ラーマクリシュナーヴィ
ヴィ
」(
・
ニヴェディータ」こと、アイルランド生まれのマーガレット・エリザ
ン ダの
ー・
ヴ ェ カー ナ ンダ
シス
ヴェカーナ
のシ
スタ
ニ
ター
ヴ ェデ ィー タ」こ と、ア イ ル ラ ン ド生 まれ の マ ー ガ レ ッ ト・エ リザ
ベ ス ・ノー ブ ル ( 18
86
67
7-9
11
91
1)
1。省時ラーマクリシュナ(1
)省時
。 ラ ー マ ク リシ ュ ナ ( 18
83
36
61
-8
18
86
8)
6の
)の
ベス・ノーブル(1
1
弟子に
てイ
ンド
ン
のヒ
にし
して
ド近
ヒン
イン
近代
代の
18
86
63
31
-9
10
92
0)
2にもっとも近い、異国出身の弟子だった。彼女と
)に
デ ィ ス ム 改 革者 、ヴ ィヴ ェ カー ナ ダ (1
ディスム改革者、ヴィヴェカーナダ(
もっ と も近 い、異 国 出身 の 弟 子 だ った 。彼 女 と
na
ag
ga1
a 9
19
98
9)
8に譲るが、彼女のジョセフイン・マックラウド
)譲
に るが 、彼 女 の ジ ョセ フ ィ ン ・
マ ッ クラ ウ ド
天心との関係に関しての詳細は別稿(I
天 心 との 関 係 に 関 して の 詳 細 は別 稿 ( In
(1
18
85
58
8-9
14
99
4)
9宛
)宛
(N
Ni
iv
ve
ed
dt
ia1
ta 9
12
9)
8から判断すれば、ニヴィディータは天心手稿に手を入れて、
2 )ら
か判 断 す れ ば 、ニ ヴ ィデ ィー タ は 天 心 手 稿 に 手 を入 れ て 、
(
1
書簡(
i
8
『
の理 想J
r
東洋の
を現 在 の 姿 で 出版 させ る仲 立 ち を した、実 質 的 な 女房 役 だ った 。と い う よ りむ し
』 を現在の姿で出版させる仲立ちをした、実質的な女房役だった。というよりむし
『
ろ天 心 は、年 下
の 彼 女 を 「良 き母 」に見立てて、ことさら
ろ天心は、年
Fの彼女を「良き母
悪い男の子」を演じて甘えていた節さえ
に 見 立 て て 、こ と さ ら「
悪 い 男 の 子 」を演 じて甘 えて い た 節 さえ
r
東
(1
19
93
38
8 )として出版されることになる手稿は、天心のカル
として 出版 され る こ とに な る 手稿 は、天 心 の カル
あ る。さ らに 、天 心 没 後
ある。さらに、天心没後『東洋の覚醒
)
洋 の覚 醒 J
」(
ヽ
シタ滞 在 中 に 執 筆 され るが 、これ に は ニ ヴ ィデ ィー タの 手 が 入 って い る。そ の 執 筆 過程 でh天
カ ッタ滞在中に執筆されるが、これにはニヴィディータの手が入っている。その執筆過程で
天心
が タ ゴー ル 兄 弟 周辺 の 若者 た ち と盛 ん に 議論 を して い た こ とは、ス レン ドラナ ー トの 回想 か ら知
がタゴール兄弟周辺の若者たちと盛んに議論をしていたことは、スレンドラナー卜の回想から知
られ る。だが 、原稿 取 りま とめ の 段 階 で 実 質 的 に校 閲 を担 省 したの は ニ ヴ ィデ ィー タだ った 。こ こ
られる。だが、原稿取りまとめの段階で実質的に校聞を担当したのはニヴイデイータだった。ここ
に は、の ちの ボス トン にお け る天 心 の イザ ベ ラ ・
には、のちのボストンにおける天心のイザベラ
ガードナー夫人との信頼関係や、インドの詩人プ
ガ ー ドナ ー 夫 人 との 信頼 関係 や 、イ ン ドの 詩 人 プ
『東
リヤ ン ヴ ァダ ・デ ヴ ィ との 晩年 の 文通 に 匹敵 す る共 働 が 想定 で きる。実際 ニ ヴ ィデ ィー タは、 r
リヤンヴァダ・デヴィとの晩年の文通に匹敵する共働が想定できる。実際ニヴィディータは、
東
『
『
ー
ー
(
1
9
0
1
)
、
の
ン
洋 の 理想
を、
の出
彼女
女 自身
自 身 「女 神 カ
J (
1
9
01)、「インドの生活、その経糸緯糸』
想」
出版
カ リ
版を 、彼
リ 』
Jの
ドの 生 活 、そ の 経 糸 緯 糸 』
イ
((
1
9
0
3
)
と
の 間 に位 置 付 けて、自分 の 出版 事 業 と も比類 で きる重大 事 と して、手紙 の なか で言 及 して
19
0
3
)との間に位置付けて、自分の出版事業とも比類できる重大事として、手紙のなかで言及して
い
る。彼 女 の序 文 に は、こ うあ った。
いる。彼女の序文には、こうあった。
「
rです
ですから、岡倉氏のように、アジアを、我々が想像してきた
か ら、岡倉 氏 の よ うに、ア ジア を、我 々が 想 像 して きた
よ
ような地理的断片の寄せ集めとしてではなく、おのおのの部分が他のすべての部分に依存し、全
う な地 理 的 断 片 の 寄 せ 集 め と して で は な く、お の おの の 部 分 が 他 の す べ て の 部 分 に 依 存 し、全
体が単一の複合的な生命を息つ。いているひとつの統ーされた生ける有機体
体 が 単 一 の 複 合 的 な生 命 を息 づ い て い る ひ とつ の 統 一 され た生 け る有機 体
[a
united
organisnl,
each
part
dependent
the
others,
the
whole
[
au
n
i
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e
dliving
l
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i として示すことは、このうえなく価値のあることなのです
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] と 示 す こ とは、この うえ な く価値 の あ る こ となの です 」
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c.5)ほかのインド研究者が明らかにしたとおり、ニ
h . 5 かの
) は イ ン ド研究者 が 明 らか に した とお り、ニ
ヴ
イデ ィー タに とって 天心 が しめ したア ジア 観 は、省時 の イ ン ド国民統合 の指針 とな リイデ オ ロ
ヴィディータにとって天心がしめしたアジア観は、省時のインド国民統合の指針となりイデオロ
ー 的 な支柱 を提供 す る ものだ った。「
ギ
ア
ジア はひ とつ 」とぃ
ギ一的な支柱を提供するものだった。
「
アジアはひとつ
とい う宣言
う宣言におけるも
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"
は、明らか
におけ る″
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″、明 らか
に
に天心がヴィヴェカーナダから教示されたアドヴァイタ
d
天心 が ヴ ィヴ ェカー ナ ダか ら教示 され たア ドヴ ァイ タ AA
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aの考えに負っているが、それを
の
考 えに負 ってい るが、それ を
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Ⅳ
ヴ ィデ
ィー タは 「すべ てに涙 る混清 の 力」
ニヴ
ィディータは「すべてに様る混捕の力
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る ヒ ンデイズム(という当時の
デ ィズム
なるヒ
近 代 の 創設」
創設J
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近代
))に導かれた「インドの総合
に導 かれた イ ン ドの 総合」
「
の
の契機を見いだしていた。「アジアはひとつ
の掛け戸は、当時大英帝国によって蚕食されていた
契機 を見 い だ して いた。 ア ジア はひ とつ 」の
掛 け声 は、当時大英帝 国 に よって 蚕食 されて いた
「
イ
は、「イ ン ドはひ
い う政治的 メ ッセー ジーー分割統治 へ の抵抗 ――として解読
イン
ン ドにあって
ドにあっては、
ドはひとつ
Jと
という政治的メッセージ一分割統治への抵抗一ーとして併読
とつ 」
されたの
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これか
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ら数年
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数年と
し な い 一九〇
九O六
六年十月十六日には、カーゾン総監
Fで
でベンガ
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分割l
令が施
施
実際
年十月十六 日には、カー ゾ ン総監下
分割令
され、西ベ ンガル州 と東ベ ンガル( 現在 のバ ングラデ ッシュ) が切断 され、これはスワデシ運動 と
行され、凶ベンガル州と東ベンカソレ(現存.のパングラデッシュ)が切断され、これはスワデシ運動と
行
1
6 日冨
日語
日 文 型 第24輯
2
4輯
16
吾日文學
呼ばれる広範な英国製品ボイコッ卜運動を引き起こすことになる。ほかならぬニヴィディータは
ば れ る広 範 な英 国製 品 ボ イ コ ッ ト運動 を引 き起 こす こ とに な る。ほか な らぬ ニ ヴ ィデ ィー タ は
呼
こ とに な る。そ して 実 は こ う した潮 流 の さ
のなかで女性活動家として指導的な役割を果た
すことになる。そして実はこうした潮流のさ
その
な か で 女性 活動 家 と して指 導 的 な役 割 を果 た す
、そ
『東 洋 へ の 理
「
ン ド美術 史 」が
なかで、国民統合の祝点から
インド美術史
が構想されてゆく。ニヴィデイータの
なか
で、国 民 統 合 の 祝 点 か ら『イ
構 想 され て ゆ く。ニ ヴ ィデ ィー タの r
へ の序文 は、そ
には「
を作 り上 げ る
O七年には
「
国民性を作り上げる
想』への序文は
その先駆的な文書であり、また彼女自身も一九
の先駆 的 な文書 であ り、また彼女 自身 も一九〇七年
国民性
想』
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うえでの芸術の機能
)a と
での 芸術 の機能」
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nつといった論文を公刊
l iいった
t y ″ 論文 を公干J
うえ
するとともに、立場を同じくする教育者や研究者を盛り立ててゆく。その代表となるのが、アーネ
る とと もに、立場 を同 じくす る教育者 や研究者 を盛 り立 ててゆ く。その代表 となるのが、ア ー ネ
す
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14
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h.4)。
ハ ヴ ェル とアナ ンダ ・クーマ ラスワー
スト・ビンフィールド・ハヴェルとアナンダ・クーマラスワ
ーミとい
ってよい(恥
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)
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ミとい って
よい( M1
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ト・ビ ンフ ィー ル ド・
『
2
仏教美術の『インド性』
2.
.仏
教 美 術 の イ ン ド性 J
ハ ヴ ェル
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16
84
641
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13
97
3 7はカルカッタの美術学校の指導者としてア
)カ
はルカ ッタの美術学校 の指導者 としてア
アーネスト・ビンフィールド・ハヴェ
Jレ0
)
ア ー ネス ト・ビ ンフ ィー ル ド・
・タ ゴー ル 0
( 18
87
71
1-1
15
91)を支援し、またイ
51)を
ン ドの芸 術産 業育成方針 に 関 して、カー
ビンドラナータ
9
ビ ン ドラナ ー タ ・タゴー
支援 し、またイ ンドの芸術産業育成方針に関して、カー
(8
1 85
59
9-1
12
95
2)
5と激し
)と
ゾン総監
9
く対 立 した こ とで名 を残 す が、その彼 が マ ドラ スか らカ ル カ ッタに
ゾ ン総 監 0
激 し く対立したことで名を残すが、その彼がマドラスからカルカッタに
ニ ヴ ィデ イータと接触を始めるのは、
ー タに出会うよりほんのひ
移って早々、
天心 が ニ ヴ ィデ ィータに出
会 うよ りほん の ひ
ィー タ と接触 を始 め るの は、天心がニヴィディ
移 って 早 々、ニヴィデ
(9
10
98
0)
8は、『リグ・ヴェーダ』の
)は
と月ほど前のこと。そのハヴェルの著作、『インドの彫刻と絵画
J (
、 『リグ ・ヴ ェー ダ」 の
と月 ほ ど前 の こ と。そのハ ヴ ェルの著作、 『イ ン ドの彫刻 と絵画』
ン ドの 国民的統 合 を文化史 の側 か ら支援 し擁 護 しよ う とす る。学術 書 の 体裁
理念に基づいて
イ
イ ンドの国民的統合を文化史の側から支援し擁護しようとする。学術書の体裁
理念 に基 づ いて、
ン ド・
をとりながら
、そこにはイ
ナショナリズムの声明としての性格が色濃く宿っている。そのハ
ナ シ ョナ リズムの声 明 としての性格 が色濃 く宿 って い る。そ の ハ
をと りなが ら、
そ こには イ ンド
にかれが ロン ドンの ロ
ヴェルのインド美術史観が激しい反発を招いた事件としては、一九一
年にかれがロンドンのロ
〇年
ヴ ェルの イ ン ド美術史観 が激 しい反発 を招 いた事件 として は、一九 一O
バー ドウ ッ ド卿 は、おおむね イ
{ヤル
ソサ イエ テ ィー で行 った講演 が知 られて い る。ジ ョー ジ ・
「ヤ ル ・ソサイエティーで行った講演が知られている。ジョージ・バードウッド卿は、おおむねイ
ンド文化にたいして好意的で理解もある人物として知られていた、と評されるが、そのかれがハ
ン ド文 化 にた い して好意 的 で理 解 もあ る人物 として知 られて いた、と評 され るが、そのか れが ハ
「
ヴェルのインド美術称賛の講演に激怒して、次のような
」を弄することになった。
を弄す るこ とになった。
暴言」
ヴ ェルの イ ン ド美術称賛 の講演 に激怒 して、次 の よ うなT暴言
「
「およそいやし
熱 を込 め られ た
1青
お よそ いや し くも美術と呼ぶに憎られぬ、かの理想の、いましめを解かれ
くも美 術 と呼ぶ に憚 られぬ、かの理 想 の、い ま しめ を解 かれ、情熱を込められた
実現として
、我 々が慈 しんで参 った もののなか に、わた くしは今 日に いたるまで、二 八 年 にお よぶ
実現 として、我々が慈しんで参ったもののなかに、わたくしは今日にいたるまで、二八年におよぶ
経験に鑑みて、いかなる類例をもインドにおいて見いだすことは、できないのであります
経験 に鑑 みて、いか なる類 例 を もイ ン ドにお い て見 いだ す こ とは、で きな いの であ ります」。スリリ
「
ランカのアヌラダープラに由来する釈迦座像に言及して、バードウッド卿はさらに統けて言う。
ラ ン カのア ヌラダー プ ラに由来 す る釈迦座像 に言及 して、バー ドウ ッ ド卿 はさらに続 けて言 う。r
この、永遠に固定された姿勢の無意味な似像は、霊感とは無縁の真鍋像となんら変わら
ず、「朝食
ず、「
」
この、永遠 に固定 された姿勢 の無意味 な似像 は、霊感 とは無縁 の真鍮像 となん ら変 わ らJ
朝食
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96
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市
こ
の肉入りプディングだって、象徴としては同様に間に合うことだろう
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)
。こ
の 肉入 リプデ ィ ングだ って、象徴 としては同様 に間に合 うこ とだ ろ う」
)と
と。
れは、およそインドに美術の名に値するような造作のあることを、まっこうから否認し、仏像教義
れ は、お よそイ ン ドに美術 の 名 に値 す るよ うな造作 の あ るこ とを、まっこ うか ら否認 し、仏像教 義
「
「
の結酬扶座を冒涜するに等しい言辞だった。さすがにこの
暴言
」は当時の英国人の
良心
」を憤慨
は省時 の英国人 の「
を憤 慨
の 結助Π
暴言」
良心」
欧座 を冒涜す るに等 しい言辞 だった。さすが にこの「
・
させるに足るものだったらしく、ブルムズペリー・グループの美術評論家、ロジャー-フライ
させ る に 足 る もの だ った ら し く、ブ ル ム ズ ベ リー ・グル ー プ の 美術 評 論 家、ロ ジ ャー フ ラ イ
(8
16
86
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-9
13
94
3)
4をはじめとする論客たちは、バードウッド卿の発言に抗議する文書を公表している。
)を
0
は じめ とす る論客 たちは、バー ドウ ッ ド卿 の発 言 に抗議 す る文書 を公表 して い る。
「
マネ
ところで、その同じフライが、二年後の一九一
O年にはグラフトン画廊で、
マ
ポスト
象派
にはグラフ トン画廊 で、「
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とポス
ト印
印象派
ところで、そ の 同 じフラ イが、二 年後 の一 九一〇年
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5 4に至るフランスの倍近の絵画を展示して、英国
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に るフラ ンスの 最近 の絵 画 を展示 して、英 国r良識派」
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6からマティス
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賀繁美/岡
倉天倉天醍
心、とイン
ドド17
1
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稲賀繁美
美術愛好家の盟躍を買うことになる。とすれば、非西洋の文物を「美術」の一員として認知するか
美術愛 好 家 の筆 盛 を買 うこ とにな る。とす れば、非西洋 の 文物 をr 美術 」の一 員 と して認知 す るか
「
否かの判断が、古典主義的な
、野獣派に至る
否 かの判断 が、古典主義的 な美的判断に叛旗をひるがえす
美的判断 に叛旗 をひるが えす、
野獣派 に至 るr前衛」擁護の姿勢と、ま
前衛」擁護 の姿勢 と、ま
さに表裏 一 体 に形 成 されて いた、とい う省時 の ロン ドンの 文化状況 も、納得 され るこ とだ ろ う。
さに表裏一体に形成されていた、という当時のロンドンの文化状況も、納得されることだろう。
それではなぜハヴェルの所論は、バードウッド卿のような激しい反発を招くことになったのか
それ ではなぜ ハ ヴ ェルの所論 は、バ ー ドウ ッ ド卿 の よ うな激 しい反発 を招 くこ とにな ったのか
。ハヴェルの論法は、バードウッド卿のような既製の価値判断の裏をかく二重の戦略から成り
。ハ ヴ ェルの 論 法 は、バ ー ドウ ッ ド卿 の よ うな既 製 の 価 値判 断 の 裏 をか く二 重 の 戦 略 か ら成 り
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a)
)の重要性を、仏教図像学の立場か
の重要性 を、仏教 図像学 の 立場 か
立 っていた。一 方 でハ ヴ ェル は、結珈映座 の瞑想 の姿勢 ( Dh
立っていた。一方で‘ハヴェルは、結酬扶座の膜想、の姿勢(D
ら力説 す る。この 図像 はグ レコ= ロ マ ンの 規範 とは無縁 であ り、あ くまで 『ヴ ェー ダ ン タ』 の 哲学
ら力説する。この図像はグレコ=ロマンの規範とは無縁であり、あくまで『ヴェーダンタ』の哲学
In
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s)
sなる
)な
に立 脚 した もの だ、と訴 える。他方 でハ ヴ ェル は、イ ン ド美術 独 自の r ィ ン ド性 J
I
i
に立脚したものだ、と訴える。他方でハヴェルは、インド美術独自の「インド性
る
」((
観念を持ち出し、インド外部からの影響は、これを本来の「インド性」からの逸脱として排除し、拒
観念 を持 ち出 し、イ ン ド外部 か らの影 響 は、これ を本 来 の 「イ ン ド性J か らの逸脱 として排除 し、拒
絶する。これは結局のところ、インドを評価するのに、もっぱら東洋の理想をもってし、西洋の規
絶 す る。これ は結局 の ところ、イ ン ドを評 価す るの に、もっぱ ら東洋 の理想 を もって し、西洋 の 規
範を退けることで、西高東低の美的価値判断基準を転倒させるものだった。バードウッド卿の反
範 を退 け る こ とで、西高東低 の 美的価値 判断基準 を転倒 させ る もの だ った。バ ー ドウ ッ ド卿 の 反
「
発は、その意味では、ハヴェルの立論に含まれた東洋優位論の
毒
」を、いわば本能的に見抜いた
発 は、そ の 意 味 で は、ハ ヴ ェルの 立論 に含 まれ た東洋優位論 の r
を、いわば本能的 に見抜 いた、
毒」
西洋的価値の擁護論だった
も 言えるだろう。
とも言
西洋的価値 の擁護論 だ った、と
えるだ ろ う。
ハ ヴ ェルの 論法 は、省時 の 西側 世界 の 価値判断基準 を無効 にす る うえ で は、論理的に必然
ハヴェルの論法は、当時の西側世界の価値判断基準を無効にするうえでは
の選
の
、論理 的 に必然、
「
択でもあった。そしてこの戦略は、天心その人の発言をも思い起こさせる。
東洋の理想』は、「内
択 で もあった。そ して この戦略 は、天心 その人 の発言 を も思 い起 こさせ る。 r
東洋 の理想 』 は、「内
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か らの勝利 か、それ とも外 か らの強大 な死か」
からの勝利か、それとも外からの強大な死か
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4)
)。とはいえ、岡倉本人は、日本美神
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をして「新たなも
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t )と結は.れていた
と
とはいえ、岡倉本 人は、日本美術3
結 ばれていた((
たな も
を して
r 新た な も
の
の実現例と見ていた。外から移入した
のを取り入れつつ、古をも失わぬアドヴァイタ
の
を取 り入れ つつ 、古 を も失 わぬア ドヴ ァイ タ」
実現例 と見 ていた。外 か ら移 入 した 「新たなも
ン ド、中国のみならず商側世界からの影響も含まれる(それゆえ、天心は日本美術史に
の
の」
には、
イ
イ ンド
」には
、
、中国 のみ な らず西側 世界 か らの影 響 も含 まれ る( それゆ え、天心 は 日本 美術 史 に
お い て、列島外 か らの影 響 が顕著 な、飛鳥 ・
おいて、列島外からの影響が顕著な、飛鳥・奈良仏教の時代、空海による密教移入の時代、室町の茶
奈良仏教 の時代、空海 による密教移入 の 時代、室 町 の 茶
の
1
爵した丸山応挙を高く評価する)。とすれば、『東洋の理想、』末尾の警句
の流行、そして洋風を岨
流 行、そ して洋風 を咀唱
した丸 山応挙 を高 く評価 す る) 。とす れば、 『東洋 の理 想 』 末尾 の警 句
は
は、そのままでは日本には省てはまらない。それはむしろ、インドの置かれた政治的現状にこそ対
、その ままで は 日本 には省 て はまらない。それはむ しろ、イ ン ドの置 かれ た政 治的現状 にこそ対
「
ルイ
スで一
応するもの
、といわねばなるまい。さらに、セ
ル
で 一 九〇
九O四
四年に行った講演
絵画におけ
とい わねば なるまい。さ らに、セ ン ト
応す る もの、
にお け
ト・
イス
年 に行 った講演 「
絵画
『
る
る現今の諸問題」で、天心は同様の命題を敷延しつつ、それを「日本の保守主義者の主張」と断った
現 今 の 諸問題 」で、天心 は 同様 の 命題 を敷 延 しつつ、それ を 日本 の保 守主義者 の主張」と断 った
で、こ う定式化 す る。「
うえで、こう定式化する。
r
[
うえ
[文明の]本当の均一性は内部からの実現でこそあれ、外部の物事の寄せ
文明 の] 本省 の 均一性 は内部 か らの 実現 で こそあれ、外部 の物事 の寄 せ
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)。
、ハ
め であ って はな らないのです 」
集めであってはならないのです
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と
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ハヴェルの所論が、この天心の
集
ヴ ェルの所論 が、この天心 の
の 延長 上 にあ るの は明 らかだ。イ ン ド美術 の勝利 は、
定式の延長上にあるのは明らかだ。インド美術の勝利は
イ
ンドの伝統の中核にある(として担ぎ
定式
ドの伝統 の 中核 にあ る( と して担 ぎ
イン
ェー ダ ン タ』哲学
だ
だされた)
rヴェーダンタ
』哲学に
によって、その内部から粛され、外部からの影響は、有害にして
され た) 『ヴ
よって、その 内部 か ら齊 され、外部 か らの影 響 は、有 害 に して
危険なものとして
排除されねばならない
。それがハベルのイデオロギーの骨格だったのだから。
な もの と して、排除
されねば な らな い。
危険
それがハベ ルの イデ オ ロ ギー の骨格 だ ったのだか ら。
ハ
ハヴェルの二重戦略の必然的帰結がもっとも鮮明に現れたのは
ンダーラの仏教
術 への否
ヴ ェルの二 重戦略 の必然的帰結 が もっ とも鮮 明 に現 れ たの は、ガ ン
ダー ラの 仏教 美
美術
18
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8-8
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6)
)や
や
定的評価である。ハヴェルに先行する学者たち、例えばジェイムズ
・ファーガス
ン(
1
定
的評 価 で あ る。ハ ヴ ェル に先行 す る学者 た ち、例 えば ジェ イ ム ズ ・
フ ァー ガ ス ン(
セ ン ト・ス ミス( 後出) らは、ガ ンダー ラ彫 刻 をイ ン ド美術 の最高位 の ひ とつ として高 く評価
ンセント-スミス(後山)らは、ガンダーラ彫刻をインド美術の最高位のひとつとして高〈評価
ヴィ
ィン
ヘ レニ ズムの影響 の跡 が、否定 しが た く刻 まれて いたか らだ
してきたが、それはそこにギリシア・ヘレニズムの影響の跡が、否定しがたく刻まれていたからだ
して
きたが、それ はそ こにギ リシア ・
グ レコ ・ロマ ンの 美的規範 に照 ら して も、ガ ンダー ラ彫 刻 は、西側世界 の定義 す る 「
。グレコ・ロマンの美的規範に照らしても、ヵーンダーラ彫刻は、西側世界の定義する
r美術
美術品
Jと
とし
。
し
品」
『
19
90
08
8 )で、かれ
で
に承認 で きる ものだ った、とい える。ところがハ ヴ ェル は イ ン ドの建築』
て界易に承認できるものだった、といえる。ところがハヴェルは『インドの
一
建 築 J ((
1
)
て容易
、かれ
18
8日
4輯
輯
1
日語
諾 日文學
日文阜第
2
4
第2
r もっぱらヒンドワ
も っぱ らヒ ン ドゥ一的要素を見落として」、インド美術をひたすら外部か
ー 的要素 を見落 として」、イ ン ド美術 をひたす ら外部 か
に先立 つ 学者 たちが、「
に先立つ学者たちが、
「それらの作品が、およそインドとは何らの関係もない』かのように
らの影響の栴.積へと還元し、
らの影 響 の堆積 へ と還元 し、r
それ らの 作品 が、お よそイ ン ドとは何 らの 関係 もな い」かの よ うに
論ずる態度を取っているとして、これらの先行研究を激しく攻撃する。それに対してハヴェル自
論 ず る態度 を取 って い る と して、これ らの 先行研究 を激 し く攻撃 す る。それ に対 してハ ヴ ェル 自
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nなる概念を提唱する(H
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s s概念
) な を提唱す る ( H a
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1。
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らは、「本質的なインド性
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3
らは、「
これが
本質的 なイ ン ド性」
「インド性
おりからのスワデシ運動に呼応していることは、明らかだろう。ハヴェルの
お りか らのス ワデ シ運動 に呼応 して い ることは、明 らかだ ろ う。ハ ヴ ェルの 「
の主 張 は、
イ ン ド性 」の主張は、
=
国
イギリス製品不買=国産品購買運動を、美術の世界に翻訳した,きわめて政治的な言葉遣いだった
イギ リス製品不 買
産 品購 買運動 を、美術 の 世界 に翻 訳 した, きわめて政治的 な言 葉遣 い だ った
ことも透 けて見 える。
ことも透けて見える。
「インド性
この よ うに観念的 で純 血主義 のr
このように観念的で純血主義の
」を唱えるハヴェルは、勢いガンダーラのほとんどの
を唱 えるハ ヴ ェルは、勢 い ガ ンダー ラの ほ とん どの
イ ン ド性」
「
rロ
口_ーママ か ら
(H
Ha
av
ve
el
ll
の欠
仏像に、
精神
如 」を認め、そうした欠点を
の 影響
響」
l
ゆ え と決 めつ け る(
欠如」
を認 め 、そ うした 欠点 をr
らの影
仏像 に、「
ネ
申性 の
」ゆえと決めつける
4
)
1
19
90
08
8:
:5
455
-0
5 。ガンダーラをキ、リシアと結び付けて言祝ぐそれまでの論調とは手のひらを返し、ハ
0 )ガ。ンダー ラ をギ リシア と結 び付 けて言祝 ぐそれ までの論 調 とは手 の ひ らを返 し、ハ
『
ヴェルはそうした外からの影響がなければ
芸術はもっとインド的になり、もっと国民的で精神
ヴ ェル はそ う した外 か らの影響 が なければ「
芸術 は もっ とイ ン ド的 にな り、もっ と国民的 で精 神
的なものとなる
と主張す る。本論 は、なに もこ うした主 張 の 妥省性 を論 じよ う とい うの ではな い
的 な もの とな る」と主張する。本論は、なにもこうした主張の妥当性を論じようというのではない
.問題にしたいのはそうした独断的修辞がなぜ戦略上必要とされていたか、を考察することだ。実
。問題 に した いの はそ う した独 断的修辞 が なぜ 戦略 上必 要 とされて い たか、を考察す るこ とだ。実
ンの理想 とは相 いれ な い美的価値 を擁
際、バ
ードウ
ドウ ッド卿のごとき発言に対抗して
ッ ド卿 の ご とき発 言 に対抗 して、グレコ・ロマ
際、バー
、グレ コ・ロマ ンの理想とは相いれない美的価値を擁
護するのに、これ以外の論法がありえただろうか。こうして、ハヴェルの東西対比論が導かれる。
護す るの に、これ 以外 の論法 が あ りえただ ろ うか。こ うして、ハ ヴ ェルの東 西対比論 が 導 かれ る。
た神
曰 く「
日<
rイ ン ド
で構想さ
れた
性と
は 、超人
て精
精 神 性 の あ る 身体
身体と
いう
観念で
され
ドで
とは、
su
up
pe
er
rh
hu
um
ma
an
nにし
して
とい
う観
神性
超人 s
hy
ya
an
na
a)
)によって形作られる
によって形 作 られ る」
、
」、これに対してグレコ
ロマ
これ に対 して グ レコ ・ロマ
あって、これは結伽朕座の膜想の姿勢(D
あって、これ は結珈映座 の 瞑想 の姿勢 ( D h
・
ンの 規範 とは、肉体的・物質的であり、インド的な精神性とは折り合いがつかず、害悪をなすもの
ンの規範とは
、肉体的 物 質的 であ り、イ ン ド的 な精神性 とは折 り合 いが つ かず、害悪 をなす もの
として、範疇論的 に排除 され る。
として、範時論的に排除される。
レコ・ロマ ンの 肉体性 とイ ン ドの精神性、とは、いか に も図 式
グ
グレコ・ロマンの肉体性とインドの精神性、とは、いかにも図式
的な対比だが、当時の欧米の聴衆に対しては、こうした説明の仕方も有効だった。天心晩年の、ボ
的 な対 比 だが、省時 の欧 米 の聴衆 に対 して は、こ う した説 明 の 仕方 も有効 だ った。天心 晩年 の、ボ
ス
ア ジア芸術 におけ る 自然JJ(
トン での英語講演、
ストンでの英語講演、
「「
東アジア芸術における自然
東
(1
19
911
1)
1 を見ょう。官頭で天心は、東洋の理想主
)を
見 よ う。冒頭 で天心 は、東洋 の理想主
に精 神性
神性を
を見、反対に西洋の写実主義が物質的だ、とするような単純な決めつけの対比を退け
義に
見、反対 に西洋 の 写実主 義 が物質的 だ、とす るよ うな単純 な決 め つ け の 対 比 を退 け
人間 の
る。それでいながら、天心は末尾におよんで、東西の神性観念の表象の違いを論じ、西洋が
る
。それで い なが ら、天心 は末尾 にお よんで、東西 の神性 観念 の 表象 の違 い を論 じ、西洋が r「人聞の
超人 の 神 性 を定
『 なら
理想
化し
よう
する
のに対して、東洋では
ぬも
の」
とす
る」の
に対 して、東 洋 で は r「超
を理
しよ
らぬ
姿を
想化
うと
もの」
神性 」を定義するのに
義 す るの に 「人 な
いて
を志向する傾向がある、と指摘する(天心はこれを「抽象的なタイプ」ではない、と
書いて
nn
oo
nn
―
mm
aa
nn
を
志 向す る傾 向 があ る、と指摘 す る( 天心 はこれ をr 抽象的 な タイプ」ではない、と書
い
r抽象的
抽象的タイプならざるべからず
の書き損じではあるまいか)。漢代[ママ]
るが、これ は本来、「
いるが、これは本来、
タイプな らざるべ か らず 」の
書 き損 じで はあ るまいか ) 。
漢代[ ママ]の
の
「
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il
ry
l ys
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bt
ey
a)
uに、天心はインド理想主義
t、
y天心
) に はイ ン ド理想主義
観音菩薩の
宙に舞う軽々とした優美な様式
J(
(
a
r
t
y
a
u
に舞 う軽 々 とした優 美 な様式」
観音菩
薩 の r宙
((
In
ni
da
in
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am
l)
iの影響を認めている
s m影響
) の を認めて い る((
Ok
ka
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22
: 。以上明らかなように、天心とハ
1 以上
52)。
I
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1
1
)
明 らか なよ うに、天心 とハ
ェル には共 通 して、こ うした東 西対比論 法 が 見 られ る。だが それ は省時 の東西美学 比較 論 の い
ヴェルには共通して、こうした東西対比論法が見られる。だがそれは当時の東西美学比較論のい
ヴ
わば
わば常套となる定数のひとつであって、はたして天心とハヴ、エルのどちらがそれに先鞭をつけた
常套 とな る定数 の ひ とつ であって、はた して天心 とハ ヴ ェルの どち らが それ に先鞭 をつ け た
のか、
と問 うて も、あ ま り意味 はな い だ ろ う。
、と問うても、あまり意味はないだろう。
稲
賀繁美/岡
倉天倉天
心、と
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ドド19
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稲賀繁美
/岡
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3.
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3
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をめざす観念主義
とつ
め ざす 観 念 主 義
」を
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が 自説
自説を
展開す
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所ととししたの
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18
87
77
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-9
14
93
4)
3の初期の研究だった。セイロンに生まれ、
)の
(
青年期をイングランドに過ごし、ロンドン
初期 の研 究 だ った。セ イ ロンに生 まれ、
青年期 をイ ン グラ ン ドに過 ご し、ロン ドン
大学で学んだクーマラスワーミーは、当初自然科学志向で、化学や鉱物学を修めていた。ウィリア
大学 で学 んだ クー マ ラスワー ミー は、省初 自然科学志向で、化学や鉱物学 を修めて いた。ウ ィ リア
ム・
モ リスの影響 下 にあ ったかれ は、スワデ シ運動 の高揚期 に イ ン ドに戻 り、社会改革 に 目覚 め る
ム・モリスの影響下にあったかれは、スワデシ運動の高揚期にインドに戻り、社会改革に目覚める
。後年は
文法学および美術研究に専心するが、一九
。後年 は、
、
文法学 お よび美術研究 に専心す るが、一九O
八 年 にはイ ン ド美術 を一本 に東 ね る原理 を
〇八年にはインド美術を一本に束ねる原理を
「インド美術の目的
考察する、本質論的で観念主義的
e
i
t
」と題す
考察す る、本質論的 で観念主義的 ii
dd
ea
al
ls
ii
sc
t i な論文を公刊していた。
cな論文 を公刊 して いた。「
イ ン ド美術 の 目的」
と題す
「
るこの 論文 で、クーマ ラス ワー ミー は岡倉 の 東洋 の理想 』 か ら も引用 しなが ら、こ う主張 す る。
るこの論文で、クーマラスワーミーは岡倉の『東洋の理想』からも引用しながら、こう主張する。
「イ ン ドの らゆ る
「インドのあらゆる思想の学派を通じて、あたかも黄金の糸のごとく、ウノマニシャツドの根底的な
あ
思想 の 学派 を通 じて、あたか も黄金 の 糸 の ご と く、ウパニ シ ャ ッ ドの 根底 的 な
『ヴェーダンタ』が一本貫いているが、それとちょうど同様に、あらゆるインド美
理想主義たる
理想主 義 た る r
ヴ ェー ダ ン タ』 が 一 本貫 い て い るが、それ とち ょう ど同様 に、あ らゆ るイ ン ド美
術においても、その目も舷まんばかりの多様性の下には、ひとつの統一性が存在する。この一本に
術 にお い て も、その 目も眩 まんばか りの 多様性 の下 には、ひ とつ の統一性 が存在す る。この一 本 に
(u
un
ni
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i n gp
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る原
束
理C
f
g
r
i
c
l
東ね
n五
ci
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pe
l)
eもまた観念主義であるが、それは必然的にそうであらねばならな
)も
また観念主義 であるが、それは必然的 にそ うであ らねばな らな
原理
「
「多 J で は
= J」
なな る
った
かっ
た。
とい
い うの
の もイ
もインド
の思惟の綜合
一
ので
て「
であ
ドの
はr
いか
。と
るも
って
もの
であ
合は
あっ
ない
から
らで
る」
J はな
ある
」
(
C
o
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1
)
。
CCoomaraswamy 1
9
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)
。
こ こ に 見 られ る 「一 」な る もの へ の 志 向 が 、天 心 の 「ア ジア は ひ とつ 」と共 鳴 し、また それ が ニ
ここに見られる「ー」なるものへの志向が、天心の「アジアはひとつ」と共鳴し、またそれがニ
「 文」は無論、その背後に控えるヴィヴェカーナンダのアドヴァイタの思想とも
ヴェデイータの
ヴ ェデ イー タの r
序 文 」は無 論、そ の 背 後 に控 え るヴ ィヴ ェカー ナ ン ダの ア ドヴ ァイ タの 思 想 と も
「
通づることは、いうまでもない。ここで天心自身の自注を号│いておこう
J
不二一元(アドヴァイタ)
通 づ る こ とは、い う まで もな い。こ こで天心 自身 の 自注 を引 い て お こ う。
不 二 一 元 ( ア ドヴ ァイ タ)
『
の思
い う語 は、二 な らざる状 態 を意 味 し、存 在 す るす べ ての もの は、外 観 は
ドヴ
タ」
思想
想―ア ア
ドヴ
ァァイ
イタ
Jと
という語は、二ならざる状態を意味し、存在するすべてのものは、外観は
多様であるけれども、実際にはひとつであるという、偉大なインドの教義に適用される名前であ
多
様 で あ るけ れ ど も、実 際 に は ひ とつ で あ る とい う、偉 大 な イ ン ドの 教 義 に適 用 され る名 前 で あ
る
si
in
ng
ge
le
る。ここから、全宇宙がすべての細部に含まれており、一切の心理はいかなる一個の分化
s
l
。こ こか ら、全 宇 宙 が す べ て の 細 部 に 含 まれ て お り、一 切 の 心 理 は い か な る一 個 の 分 化 (C
dd
if
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ei
na
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tの中にも発見できるものでなければならないということになる。すべては、かくし
i o中
n )に
のも発 見 で きる もの で なけれ ば な らない とい う こ とに な る。す べ て は、か くし
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1。個に全体が映じると同時に、全体に個が分
2 8に
)。
て
て平等に貴いものとなる
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COOk
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2
平 等 に 貴 い もの とな る」
個
全体 が 映 じる と同時 に、全 体 に個 が 分
され る、と い う万物 の 相 互 照 射 の 曼茶 羅 の 宇宙 観 が 、文 脈 に よ って 仲 縮 自在 の 動 き をみせ て い
有される、という万物の相互照射の憂茶羅の宇宙観が、文脈によって伸縮自在の動きをみせてい
有
一
る
。。「
「
ー」なる思想が、
天心にあってはアジア全体の比輸となり、クーマラスワーミーにあってはイ
」な る思 想 が 、天
心 に あ って はア ジア 全体 の 比 喩 とな り、クー マ ラ ス ワー ミー に あ って は イ
ン
ド統 一 の 鍵 と見 な され る。
ンド統ーの鍵と見なされる。
rイン ド
こ
こうした「インド美術の目的」に見られるクーマラスワーミーの観念的インド観を利用しなが
う した
美術 の 目的 」に 見 られ る クー マ ラス ワ ー ミー の 観 念 的 イ ン ド観 を利 用 しなが
ら
ら、ハヴェルは一九一一年には『インド美術の理想」、と題する書物を上梓する。題名からも、天
、ハ ヴ ェル は 一 九 一 一 年 に は 『イ ン ド美術 の 理 想 』 、と題 す る書物 を上梓 す る。題 名 か ら も、天
の 直 接 の 感 化 は 明 白 だ 。そ こで ハ ヴ ェル は、イデ オ ロ ギ ー
心
心の直接の感化は明白だ。そこでハヴェルは、イデオロギ
一的
的な
立場
場を
なおいっそう
明確にし
て
な立
をなお
して
う明確
「
ロウ
ゆ
く。ハ ヴ ェルの 主 張 の 基 本 は、「
ゆく。ハヴェルの主張の基本は、
考古学的な
アプロ
チ」
」を退
を退けることにあった。
「
考 古学
学的
的ア
アプ
プ
なア
ウチ
け る こ とにあ った 。「
考
ロ
ウチ 」こ そが、か の ア メ ラ ダ ー
ロウチ」こそが、かのアヌラダ
ープ
プラの仏像に「グレコ・ロマン・モデルの堕落した模倣」
と
いった
ラの 仏 像 に r グ レ コ 。ロマ ン 。モ デ ル の 堕 落 した 模 倣 」
とい
った
「
評価を下す元凶だ、というわけだ。対するにハヴェルは、インド古典文学のなかに、
仏教とジャイ
価 を下 す元 凶 だ、とい うわ け だ。対 す るに ハ ヴ ェル は、イ ン ド古典 文, 学の なか に、「
評
とジ ャ イ
仏教
ナ
ナ教に共通する理想の起源と、それがインドの叙事詩に記述された古きアーリア人種の英雄的な
教 に 共 通 す る理 想 の 起 源 と、それ が イ ン ドの 叙事 詩 に 記述 され た 古 きア ー リア人 種 の 英 雄 的 な
理想から波及するさま」を認める。とともにハヴェルはこの本で、いかにインド美術において
理
想 か ら波 及 す る さ ま」を認 め る。と と もに ハ ヴ ェル は この 本 で 、い か に イ ン ド美 術 に お い て r「
ヴ ェー
ーダ思
思想
想が 霊
霊感
感と
なっ
たか を
立証 し
よう
と努め」
」
のヴェーダの思想こそが、
「
今日なおイ
ヴ
とな
った
しよ
この
を立
うと努
ヴ ェー ダの 思 想 こ そが、「
、こ
日な お イ
今
2
0 日語
日 語日:丈
日 文學
翠 第24車
第2
4輯
20
母
or
ri
ig
gi
in
nt
ai
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ig
ng
ンド
にお
生活
気 にに
染染
みみ
込込
んん
でい
イ
美術を
発生
生さ
せ る 衝 撃 ((
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させ
で、
ド美術
を発
ドに
おけ
る生
インド
ける
全般
般のの雰雰囲囲気
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iv)
―
これ は美術史研究 とい うよ りは、思
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s)
e となっている」ものだとする(H
)と
iv
)。これは美術史研究というよりは、思
。
なって い る」ものだ とす る( H a
マニ フ ェス トとい ったほ うが近 い。
想的マニフェストといったほうが近い。
想的
この理想主義的インド文化論の序文で、ハヴェルは、こう宣言する。直観的な方法論を良しとす
この
理 想主義的 イ ン ド文化論 の序 文 で、ハ ヴ ェルは、こ う宣言す る。直観的 な方法論 を良 じとす
「日本の卓越した批評家にして、
の理 想』 の 著
る点で、
自分は天心と意見を同じくする
と
r
東洋の理想』の著
の卓越 した批 評家 に して、 『
は天心 と意見 を同 じくす る、
とJ
る
東洋
。 日本
点 で、自分
者であるオカクラが正しく強調するとおり、芸術や哲学の領分では、アジアはひとつであるが、
し
し
であ るオカ クラが正 し く強 調す る とお り、芸術や哲学 の領分 で は、ア ジア はひ とつ であ るが 、
者
かしもし我々が西洋の分析的な方法を適用してアジアの美学に評釈を加えようとするならば、そ
か
しもし我 々が西 洋 の分析的 な方法 を適用 してア ジアの 美学 に評釈 を加 えよ う とす るな らば、そ
れらをきちんと、そして完壁に才茸想することはけっしてありえないのであり
、((中略
)、[
うした完
した完
れ らをきちん と、そ して完壁 に構 想す るこ とは け っ して あ りえな いの であ り、
、
略)
[こ
こう
ン ドの哲
壁な
理解を
には
ジア美術を練り上げたあまたの偉大なる創造の力のなかで、
イ
な理
るに
は]
イ ンドの哲
を得 る
]ア
ア ジア
美術 を練 り上 げたあ またの偉大 なる創造 の 力 の なか で、
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ve
el
111
11
91
13
1)
:。だが、これはいささかハ
3だが、
) 。 これ はい ささか ハ
学的宗教が果たす重要性を悟らねばならないのである
J(
(HHa
l
9
:
学的宗教 が 果 たす重要性 を悟 らねば な らな いので ある」
ヴェルの側の我田引水ということになるだろう。というのも、天心は次のような皮肉な観察をし
ヴ ェルの側 の我 田引水 とい う こ とにな るだ ろ う。とい うの も、天心 は次 の よ うな皮 肉 な観察 を し
ていたからだ。たまたま同じ年、一九一一年
の ボス トンでの講演、「
て いたか らだ。た また ま同 じ年、一 九 一 一 年 のボストンでの講演、「東洋芸術鑑識の性質と価値」
東洋芸術鑑識 の性 質 と価 値」に
おいて、天心はインド的思考の観念性、直観性が、歴史的な芸術研究にとっては障害となることを
お い て、天心 はイ ン ド的思考 の 観念性、直観性 が、歴史的 な芸術研究 に とっては障害 となるこ とを
「
ハ ヴ ェルが 攻撃 す るr
ンド
西洋的分析」をこそ評価する見解を示している。日
rイ ンド
指摘し
むし
ろハヴェルが攻撃する
く「
しろ
西洋的分析」をこそ評価 す る見解 を示 して いる。曰 <
指摘 し、む
では、人々は歴史よりも哲学を事とする傾向があって、事実よりも観念を弄ぶがゆえに
、英国人た
で は、人 々 は歴 史 よ りも哲 学 を事 とす る傾 向 が あって、事実 よ りも観念 を弄 ぶがゆ えに、
英 国人 た
ちはインド芸術の歴史的構築という分野で、[インド人になりかわり]自分たちが先鞭をつける、と
ちはイ ン ド芸術 の歴 史的構 築 とい う分野 で、[ イン ド人 にな りかわ り] 自分 たちが先鞭 をつ け る、と
(O
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ka
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ku
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v2
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22
:。となれば、問われる
1 となれば、
32)。
い う幸運 を手 にす るこ とが で きたのである、
v
1
:
)
いう幸運を手にすることができたのである
」、と(
間 われ るべ
きは、はたしてその天心自身、インド滞在を通して練り上げた東洋美術を巡る思念にあって、観念
きは、はた して その天心 自身、イ ン ド滞在 を通 して練 り上 げ た東洋美術 を巡 る思念 にあって、観念
と事実、哲学と歴史と、のどちらに重きを置く傾向を呈していたのか、との問いであろう。
と事実、哲学 と歴 史 と、の どち らに重 きを置 く傾 向 を呈 して いたのか、との 問 い であろ う。
の限
4
主張
ジア的
とそ
4.
.アアジ
その
理想
自己主
界
想 の自
張と
限界
的理
この間いに答えを得るために、ここで三人目のインド美術研究者に登場を願うことになる。
この 問 い に答 え を得 るため に、こ こで三 人 目の イ ン ド美術研 究者 に登 場 を願 う こ とに な る。
(8
14
88
4 8-1
12
90
2)
0は、同じく
)は
一 九一一年 に、浩潮にして
ヴインセント
9
ス ミス0
ヴ ィ ンセ ン ト・スミス
、浩渤 に して学術的な『インドとセイ
、同 じく一九一一年に
学術 的 な 『イ ン ドとセ イ
ロンの 美術 史』 を発刊 して い る。英文 ではA
ロンの美術史』を発刊している。英文では
A HH
s
ii
st
to
or
ry
yと不定冠詞を戴いた控えめな題名ながら、著
と不定冠詞 を戴 いた控 えめ な題名 なが ら、著
者 一生
涯の
的精進
結集し
た決
定 版、とい
の学
といってきしっかえない。これに先行する著作では、
って さ しつ か えな い。これ に先行 す る著作 で は、
した
を結集
生涯
進を
学問
問的精
決定版、
「グレコ・ロマンの顕著な影響」
ヴィンセント・スミスもガンダーラ彫刻に
今日ま
グ レコ ・ロマ ンの 顕著 な影響 」を認め
を認 め、それ
を「
ヴ ィ ンセ ン ト・ス ミス もガ ン ダー ラ彫 刻 に「
、それ を「
今 日ま
で知られている限りで、
」と評価していた。ところが一九一
と評価 して いた。ところが 一 九一
で知 られ てい る限 りで、インドにおける造形芸術の最良の作例
イ ン ドにおけ る造形芸術 の 最良 の作例」
「
一年の出版でかれはそうした従来の見解を改め、
義的」
な
、軌道
一 年 の 出版 でかれ はそ う した従来 の 見解 を改め、r国民主
な最近の傾向へ目配せして
軌道
最近 の傾 向へ 日配 せ して、
国民主義的」
ハヴェ
修正を図った。その結果は、アナンダ
クーマ ラ スワー ミー や アー ネス ト・ビ ンフ ィー ル ド・
修正 を図 った。そ の 結果 は、アナ ンダ・クーマラスワーミーやアーネスト・ビンフィールド・ハヴェ
・
ルの見解との妥協
総合を試みたものとなっていた。ところが、興味深いことに、この本でスミス
ルの 見解 との妥協 ・
総合 を試 み た もの となって いた。 ところが、興味深 いこ とに、この 本 でス ミス
は、こうした国民主義的なインド芸術再解釈に歩み寄りを見せながらも、(期待に反して)この系諮
は、こ う した国民主義的 なイ ン ド芸術再解釈 に歩 み寄 りを見 せ なが らも、( 期待 に反 して) この系譜
「オ カ クラの
のなかで、天心を肯定的に取り上げはしていない。それどころか
、「オカクラ
の著書
の なか で、天 心 を肯定 的 に取 り上 げ は して い な い。それ どころか、
書」、すなわち
」、す なわ ち
『東 洋 の 理 想』 とは、まっ こ うか ら対立 す るこ と辞 さな い、とい う姿勢 をあ らわ にす る。これ は
『東洋の理想』とは、まっこうから対立すること辞さない、という姿勢をあらわにする。これは
稲賀繁美/岡倉天心、とインド
1
稲賀繁美 /岡 倉天′
インド2
淑ヒ
21
い ったい ど うした こ とだ ろ うか。本論著者 の考 え としては、この 対立 に こそ、
いったいどうしたことだろうか。本論著者の考えとしては、この対立にこそ、天心が「東洋美術史
J
天心 が 『
東洋美術史」
い
と う観念i
da
eあるいは理想
a あるいは理想i
da
el
a の構築において果たした役割の核心一可能性とともに限界ー
lsの
という観念
i
d
e
i
d
e
s
構 築 において果 た した役割 の核心 ――可能性 とともに限界 一―
が 宿 ってい る。
が宿っている。
「
争点 を明 らか にす るため、
まずス
ミスの天心批 判 を見てお こ う。
r
ある日
本人の著者は次のよう
争点を明らかにするため
ま
ず スミスの天心批判を見ておこう。
、
ある 日本
人 の著者 は次 の よ う
『
なおか
しな
結論 に至 っていた。つ ま り ガ ンダー ラの作品 その もの を、よ り深 く、よ りゆたか な情
なおかしな結論に至っていた。つまり『ガンダーラの作品そのものを、より深〈、よりゆたかな情
報 の助 け を得 て研 究 したな らば、そこにはギ リシアよりもむしろ
報の助けを得て研究したならば¥そこにはギリシア
シナの影響が優勢で、ある
ことが
よ りもむ しろシナの
影響 が優勢 であ るこ
とが
、将来 明 らか になるだ ろ う』 、とぃ うので あ るJ」 (
(S
Sm
mi
it
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9:
03:
、将来明らかになるだろう』、というのである
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″
78
8,
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9.
2なおここ
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お ここで岡倉の念頭にある
で 岡倉 の 念頭 に あ る"
9
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e
スミスが適切に指摘すると
おり、
7
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s"
eとは
″は漢代のこと)
と
ス ミスが適切 に指摘 す る とお
漢代 の こ と)。
。
り、
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乱
「
この
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)
は
の
天心 r乱暴な決めつけ
暴 な決 めつ け」
J(
r
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s
e
r
t
i
o
n
)は、よくしてもせいぜい
この天心の
ヨー ロッパの芸術的理
、よ くして もせ いぜ い 「ヨーロ
ッパ の芸術 的理
想 に対抗 して なされ た、ア ジア的理想 による 自己主張 の、雪 辱 の試 みJ」
想に対抗してなされた、アジア的理想による自己主張の、雪辱の試み
(
e
i
n
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an
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d 評するしかあるまい。天心が
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s
)
しかあ るまい。天心が
「
々
で
あ
らわ
に
海外
い
時
る
す
い
ささか
が、ここでは勇み足の強弁、
海外で時々あらわにする、いささか神経症めいた、
、
神経症 め た、「東洋の自己主張
東洋 の 自己主張J」
が、ここでは 勇 み足 の 強弁、
井上章ーの「法隆寺への精神史』は
井上章一 の 『
法隆寺 へ の精神史 』 は、
ガ ンダー ラ美
、ガンダーラ美
r無
無
術評 価史 の 洗 い直 し作業 に も先 鞭 をつ けた貴重 な仕 事 だが、そこ
術評価史の洗い直し作業にも先鞭をつけた貴重な仕事だが、
で井上は、天心のこの一節を
こで
井上 は、天心 の この一 節 を「
「
で 思わず筆がすべってしまった
茶」
(I
In
no
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4 :1
17
71
77
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1)
7。だがそこにはむ
8だが
) 。そ こに はむ
思 わず 筆がすべ って しまった」ものと評している
茶
Jで「
u
9
7
もの と評 して い る(
「
r対抗してなされた
対 してな
しろ、ス ミス も示唆 す るよ うに、
ヨー ロ ッパ の芸術 的理想」
しろ、スミスも示唆するように
「 ヨーロッパの芸術的理想
」に特有の先入観に
に特有 の先入観 にr
された
抗
ア
ジア
か
」
、
東
らの
ほ
い
とん
側
ど機械的 と って よい、ある種 の条件反射 を認 め るべ きではないか。
、
、東アジア側からの、ほとんど機械的といってよい、ある種の条件反射を認めるべきではないか。
伝播 をV Jjる無理なこじつけになっている
lる
無理 なこ じつ けになっている。
伝播を抑
。
た
しか に、ガンダー
ラ彫 刻 を、それ よ り後 代 の 中国 の仏像 との類 似性 で説 明す るの では、
たしかに
ガンダーラ彫刻を、それより後代の中国の仏像との類似性で説明するのでは
、時代錯誤
時代錯誤
だ しい。ましてゃ 漢代 の 中国 ( 一世紀) がガ ンダー ラ美術 ( 一―二 世紀) に影響 を
も甚
も甚だしい。ましてや漢代の中国(一世紀)がガンダーラ美術(一一二世紀)に影響を与えたとする説
句え た とす る説
は
、この 後 の 美術 史研究 か らは問題外 とされてゆ く。だが天心 は( 先に見 た とお り) 晩年 に至 るまで
は、この後の美術史研究からは問題外とされてゆく。だが天心は(先に見たとおり)晩年に至るまで
錯 誤」
のみ な らず 仏像 の 伝播 を も想定 して いた。とす れば、天心 もr「錯
漢代
中国 に、仏教
漢代中国に
仏教のみならず仏像の伝播をも想定していた。とすれば、天心も
、、逆
逆に
仏像
は
に仏像
誤 」は
『
の
製作
が
、 『東洋の理想、」以降十年ほどのあいだに
製 作 の年代決定
年 代 決 定 が、
、
い かに
かに進捗したかを示す事例と見
東洋 の 理想 』 以降十 年 ほ どの あ い だ に、
進 捗 したか を示 す 事例 と見
べ
る
きではないか。さらに この時期 のハ ヴ ェルや クーマ ラスワー ミー に もまた、グ レコーロマ ンヘ
るべきではないか。さらにこの時期のハヴェルやクーマラスワーミーにもまた、グレコーロマンへ
の
べ て をイ ン
対抗上、東 ア ジア
の対抗上、東ア
ジア美術の
すべてをイ
ンド哲学の伝播として説
明し尽くそうとする、汎インド主
美術 の す
ド哲学 の 伝播 として説 明
し尽 くそ う とす る、汎 イ ン ド主
『
べ
とで
も言
義
き
つ
ン
う
傾
向が
義とでも言 べ 傾向が目
立 。
。
イ
ヴェーダンタ』を持ち出す発案は、天心
目立
ド文 明 の 基礎 に ヴ
イ ンド文明の基礎に『
ェー ダ ン タ』 を持 ち出 す発案 は、天心
「シナ
r
近
が
ち出
したの と五 十歩百 歩、と もに 「
が 「シナ」
」を持
を持ち/
-1
:
¥したのと五十広百歩、ともに
近代における伝統の発明
」
の一齢、
と評すべきだ
代 にお け る伝統 の発 明」
の一
的、と
評 すべ きだ
「
ろ
う。学問 上の 勇 み足 を も辞 さな い蛮勇 を誘 った
ろう。学問上の勇み足をも辞さない蛮勇を誘っ
た r国民主義的」
国民主義的」心情にこそ、当時の知識人たちの「
心情 にこ そ、省時 の知識人 たちの r
が浮 き彫 りに され るのではないか
精神史J
の実態
精神史 』
の実態が浮き彫りにされるのではないか。
とまれ
ス
、ヴ ィ ンセ ン ト・
ミスのい ささか冷笑的 な次 の よ うな評 価 は、
とまれ、ヴィンセント
・
スミスのいささか冷笑的な次のような評価は
、
天心の占める学術史的
な
の 占め る学術史的 な
天心
と、
位置
その政
治的 な射程、さらには、
位置と
、
そ の政治的な射程、さらには
、それと骨がらみの限界をも、冷徹に見定めていたもの、とも
それ と骨 が らみの限界 を も、冷徹 に見定 め て い た もの、とも
「
い
えるだ ろ う。「
オカ
クラの この乱暴 な決 めつ けは、かれの 本が一部 で得 た注 目の ため 、とぃ うの
いえるだろう。
オカクラのこの乱暴な決めつけは、かれの本が一部で得た注目のため、というの
でなか
った な らば、敢
えて ここ で言及す るに値 す る もの ではなか っただ ろ
でなかったならば、
敢えてここで言及するに値するものではなかっただ'
ろう
れ
と。ここには、天心
う」
、と
。ここには、天心
の
著作 が、この
後学問 と しての 美術史 の L 「
の著作が、
こ の後学問としての美術史の世界からは
、時代遅れの著述として、用摘みの偶印を押さ
界 か らは、
時代遅 れの 著述 と して、用済 みの烙 印 を押 さ
れ
、無 視 され て ゆ くこ とに な る有 り様 が 、予見 されて い る。天心 自身、
れ、無視されてゆくことになる有り様が、予見されている。天心自身
、
その晩年には、『東洋の理
その晩
年 には、 『東洋 の 理
想』
史的 な記述 の細 部 には、もはや 妥省 しな い点 の 多 い こ とを 自覚 して いた。そ してア ジ
想』の
の美術
美術史的な記述の細部には、もはや妥当しない点の多いことを自覚していた。そしてアジ
22 日語
日諮日文翠第
24~砕
22
日文學 第24輯
アの国々との連帯感を謡う思想的な宣言の部分のみが問題とされ、しかもそれは、思想史の立場
アの
国 々 との連 帯感 を謳 う思想的 な宣言 の 部分 のみが 問題 とされ、しか もそれ は、思想史 の 立場
から、もっぱら近代日本のアジア主義の危険な兆候を代表するものとして、どちらかといえは‘否
か
ら、もっぱ ら近 代 日本 のア ジア主 義 の 危険 な兆候 を代 表す る もの として、どち らか とい えば否
だが、果たして天心の東洋美術構想は、学問繋明期
だが
、果 た して天心 の東洋美術構想 は、学問黎 明期
の未成熟さゆえに
、観念
観念を事実に先行させたものだったのか。『東洋の理想』は、哲学的言明のた
の
を事 実 に先行 させ た ものだった のか。 『東洋 の理想 』 は、哲学的言 明 の た
未成熟 さゆ えに、
定的な評価に晒されてきた、といってよい。
な評 価 に晒 されて きた、といって よい。
定的
めに、歴史学的正確さを犠牲にし、そのため天心晩年には、すでに美術史学的には歴史的使命を終
め
に、歴 史学的正確 さを犠牲 に し、その ため 天心晩年 には、す でに美術史学的 には歴 史的使命 を終
が いか に し
えようとしていた、と結論つ♂けてよいのだろうか。ここではむしろ、そうした天心
f
9
n
尺がいかにし
えよ
う として いた、と結論 づ けて よいのだろ うか。ここで はむ しろ、そ う した天心解釈
て登場し、支配的な言説として流通するに至ったのか、の背景を探ってみたい。東洋美術史構想の
て登
場 し、支配的 な言説 として流 通 す るに至 ったのか、の背景 を探 ってみ たい。東洋美術 史構 想 の
立役者としての天心像は、いかにしてアジア主義者としての天心像へと様変りしたのか。そして
としての 天心像 は、いか に してア ジア主義者 として の 天心像 へ と様 変 りしたのか。そ して
立役者
そこにはどのような力学が働いたのか。そこで、次に簡単に取り上げ‘たいのが、沌精一、伊東忠太、
こには どの よ うな力 学 が 働 いたのか。そ こで、次 に簡単 に取 り上 げ たいのが、滝精 一、伊東忠太、
そ
大村西崖という
、天心
天心の次世代に属する三人の人物である。(なお
、思想史な論点に関しては
の 次世代 に属す る三人の人物 であ る。( なお、
思想史 な論 点 に関 して は、天心
とい う、
大村西崖
没後の一九三八年に『東洋の覚醒』として出版された草稿をめぐる別稿に議る)(1)。
の一 九 三 八 年 に 『
東洋 の覚醒』 として出版 された草稿 をめ ぐる別稿 に譲 る) ( 1 ) 。
没後
たち
.
倉天
天心
心と
後継
継者
者ーたち
とそ の 後
55
. 岡岡 倉
『
87
731
-9
14
9)
45)
に滝精 一 ( 18
r
国華』は一八八九年に岡倉天心が創刊した美術雑誌だが、一九
年に油精一(1
3
5
〇〇年
国華』 は一人八九 年 に岡倉天心 が倉J 刊した美術雑誌 だが、一九00
はその編集責任者となり、以降、その死の年までこの雑誌の舵取をすることになる。一九一四年に
はその編集責任者 とな り、以降、その死 の年 までこの雑誌 の舵取 をす ることになる。一 九一 四年 に
東京帝国大学に設けられた美術史講座の最初の教授に任命される滝は
美術史学科の創設者とし
、
美術史学科 の創設者 とし
東京帝国大学 に設 け られた美術史講座 の最初 の教授 に任命 される滝 は、
て、さらには帝国学士院会員として、世俗的には日本の美術史研究の最高位を我がものとして生
て、さらには帝国学士院会員 として、L 俗 的 には日本の美術史研究 の最高位 を我が もの として生
『
ー ラ美術の評価
国華』誌上などを中心に、近年のガンダ
涯を終える。その滝は一九一六年から
美術 の評 価
国華』 誌上 な どを中心 に、近 年 の ガ ン ダーラ
涯 を終 える。その滝 は一 九一 六 年 か ら r
91
1)
7年十一月号
)年
の変貌を取り上げた
、一連の論文を掲載する。とりわけ『書画骨董雑誌、」大正六(1
7
十 一 月号
一 連 の論文 を掲載す る。とりわけ 『書画骨董雑誌』大 正六 ( 19
の 変貌 を取 り上 げた、
r健
健駄 羅 芸
「
術の
判に
て 」は、学会内部で、大きな影響力をもった論文とされる。そこで沌はと
いて
の批
は、学会 内部 で大 きな影 響 力 を もった論 文 とされ る。そ こで滝 は と
に就
批判
就い
駄羅 芸術
「かや うに欧 州 の 学者 間 には、
「
りわけ「クマラスワミイ、ハベル
こ
こ う述べている。
の業績 に言 及 し、
う述 べ て い る。「かやうに欧州の学者聞には、
わけ クマ ラ スワ ミイ、ハベ ル」の業績に言及し
り、
健駄羅芸術を褒る方が甚だ盛んであった所が、近年になって傾向が少しく変わって来て、寧ろ健
健駄羅 芸術 を褒 る方 が甚 だ盛 ん であつ た所 が、近年 になつて 傾 向 が 少 し く変 わ って来 て、寧 ろ健
駄羅芸術は印度に於ける最上の芸術とは認める事が出来ない。其の芸術は之を審観すると
、案
外
案外
駄羅 芸術 は 印度 に於 け る最 上 の芸術 とは認 め る事 が 出来 な い。其 の芸術 は之 を審観 す る と、
に価値のない者で、印度にはそれ以外の者で、それに勝った立派な固有の芸術がありと云ふ説を
に価値 の な い者 で、印度 にはそれ以 外 の者 で、それ に勝 つ た立 派 な 固有 の芸術 が あ りと云 ふ 説 を
「
(滝
滝1
と名付 け、近年 それ
為す学者が出て々来た
7
)
新ナシヨナリスト
」と名付け、近年それ
新 ナ シ ヨナ リス ト」
19
91
1:7
7 : 7-8
8 。滝はこの傾向を
)滝
。 はこの傾 向 を「
」(
為 す学 者 が出て 々来 たJ
が、かつて支配的であったグレコ・ロマン中心の見方に取って替わる趨勢となっていることを紹
が、かつ て 支配的 で あった グ レコ ・ロヤ ン中心 の 見方 に取 って替 わ る趨 勢 となって い る こ とを紹
介している。
介 して い る。
ところが、注目すべきことに、油精ーは、自分の先駆であり、『国華』の創刊者でもある天心に
ところが 、注 目す べ きこ とに、滝精 一 は、自分 の先駆 であ り、 『国華』 の創 刊者 で もあ る天心 に
は、ここでは一切言及していない。これに先立ち一九一六年に『国華』に先表したもうひとつの
は、ここで は一 切言 及 して い な い。これ に先立 ち一九 一 六 年 に 『国華』 に発 表 した もうひ とつ の
r岡
岡倉氏の無謀なる
「
論
文、 「
印度芸術の東亜に及ぽせる彬響について
で
、、
M
iは天心に一言触れ、
「
は天心 に一言 触 れ、
ではは
倉氏 の 無謀 な る
滝
」
印度芸術 の東亜 に及 ぼせ る影響 につ いて」
論文、
主張には耳を傾くるの要なけれども
氏
の著書 が東洋主義 の主張 をなす もの として有 力 と認 め ら
氏の著書が東洋主義の主張をなすものとして有力と認めら
、
主張 に は耳 を傾 くるの要 なけれ ども、
(T
Ta
ak
k i1
11
96
1 63
:1
34
1、との評価を示している。この一文、
4 )との
、 評価 を示 して いる。この一 文、
れたるものなる故に黙過しがたしと云へり
J(
i
9
:
)
れ た る もの なる故 に黙過 しが た しと云 へ り」
既に引用したヴィンセント・スミスの文言そのままである。油はスミスの権威を嵩に着て、先輩た
既 に引用 したヴ イ ンセ ン ト・ス ミスの 文言 その ままであ る。滝 はス ミスの権威 を嵩 に着 て、先輩 た
る天心の信頼性を毘める手段に利用していたことになる。
る天心 の信頼性 を貶め る手段 に利用 して いた ことになる。
ン
稲賀繁美/岡倉天'
U
企
イ
ン
ドド23
2
3
と
イ
山
稲賀繁美 /岡 倉天′
その 滝 が東京帝 国大学美術史講座教授 に就任す る一 年前 の一 九 一三 年 に、天心 は病没 して いた。
その滝が東京帝国大学美術史講座教授に就任する一年前の一九一三年に、天心は病没していた。
その直後 の 『国華 』 は、省然 そ の創 刊者 の追悼記事 を掲 載すべ きところだが、実際 には雑録欄 に、
その直後の『国華』は、省然、その創刊者の追悼記事を掲載すべきところだが、実際には雑録欄に、
次のような日本美術院誹誘、
二
次 の よ うな 日本 美術院誹謗、といってよい文章が、無記名で掲載された。(本論冒頭でも触れた
とい って よい文章が、無記名 で掲載 された。( 本論 冒頭 で も触 れた)
二
)r
「
r
革
十世紀初頭 の仏蘭 西 に起 つ た後印象派」
の 革命的思想」
十世紀初頭の仏蘭西に起った後印象派」
の「
に言及 した この雑録 は、それに続 けて、日
命的思想」に言及したこの雑録は、それに統けて、日
「
本 にお け る同類 の 事件 として、日本美 術院 に言及す る。「
本における同類の事件として、日本美術院に言及する。
憶ふに美術院の出来た当時、この派によ
憶 ふ に美術院 の 出来 た省時、この派 に よ
つ て試 み られ た新 運動 は 可 な りの広 大 な波 動 を起 した もの であつ たが 世間 か らは朦朧 体 といふ
って試みられた新運動は可なりの広大な波動を起したものであったが世間からは臆臨体といふ
嘲笑的名称
を以 て迎 へ られ た。其 の 失敗 の述 は明白である」
l
朝笑的名称を以て迎へられた。其の失敗の迩は明白である
云々。いうまでもなく
、日本美術院は、
云 々。い うまで もな く、
日本 美術 院 は、
」
東京美術 学校 を追 われた天心 を慕 った、横 山大観、下村観 山、菱 田春草 らが 集 ってなった私立 の機
東京美術学校を追われた天心を慕った、横山大観、下村観山、菱田春草らが集ってなった私立の機
「日本画の革命
関であり、肢鵬体という新画風の提唱者も、ほかならぬ天心であった。この
こ
関 であ り、朦朧 体 とい う新 画風 の提 唱者 も、ほか な らぬ 天心 であ った。この「
こ
日本 画 の 革命 」が、
、
r
奇
r
っ
の 記事 で は西洋画 との「奇怪なる握手
の記事では西洋画との
」と評され、それは
ぃに何等 の 結果 を も薔 さなんだ」のみ
と評 され、それ は「ついに何等の結果をも賢さなんだ
怪 な る握 手」
のみ
「
「
な らず 、「日本画は滅びた、同時に洋画も滅びた
日本 画 は滅 びた、同時 に洋 画 も滅 びたJ」と酷評される。かかる実験が
ならず、
惜し
い失
敗」
と酷評 され る。かか る実験 が 「
しい
に終
失敗
」に終
『
わ ったの も「当然である
(K
Ko
ok
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a 19
91
13
3,
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N rr
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21
13
3:
わったのも
.
:
との 見解 で、この 記事 は締 め く くられ て い る(
省 然 で あ る」との見解で、この記事は締めくくられている
11
15
5-6
6 )。この中傷記事の掲載は
。この 中傷 記事 の掲 載 は当然、編集長、
1
)
省然、編 集長、滝精ーの認可なくしては不可能で‘ある。ほかならぬ
滝精 一の認 可 な くしては不可能 であ る。ほか な らぬ
「
「
匡
l
華」がその
いずれにせ よこれ は、 r
滝 自身 が この 「
滝自身がこの
怪文
書 J を執筆した疑いも濃厚となる。だが、
を執 筆 した疑 い も濃厚 とな る。だが、いずれにせよこれは、
文書」
が その
国華』
紙 面 を使 って、創 刊者 た る岡倉天心 を公 の場所 で否認 しよ う とす る、きわめて意図的な振る舞い
紙面を使って、創刊者たる岡倉天心を公の場所で否認しようとする
、きわめ て意図的 な振 る舞 い
に 出 た こ と を、は っ き り公言 した もの 、とい って構 わ な い。それ に 追 い打 ち をか け たの が 、ガ ン
に出たことを、はっきり公言したもの、といって+茸わない。それに追い打ちをかけたのが、ガン
ダー ラに関 す る滝 の 署名記事 であ り、そ こでは美術 史家 としての 岡倉天心 の信憑性 その もの を、
ダーラに関する滝の署名記事であり、そこでは美術史家としての岡倉天心の信湿性そのものを、
『国華」そのものも、
学聞の名によって掘り崩す意図が、明らかに見て取れる。このころから雑誌
問 の 名 に よって掘 り崩す意図 が、明 らか に見 て取 れ る。この ころか ら雑誌 r
学
国華』 その もの も、
々 に 同時代 の 美術 界 の 事件 か らは関心 を薄 めてゆ き、
徐々に同時代の美術界の事件からは関心を薄めてゆき
、次第に
徐
次第 に美術作品鑑定のための最も権威あ
美術 作品鑑定 のための最 も権 威 あ
る
る学術的研究誌としての色彩を強めてゆく。いささか生盟い話だが、日本における美術史学の確
学術 的研 究 誌 と しての色 彩 を強 め て ゆ く。い ささか生 胆 い話 だが、日本 におけ る美術 史学 の確
は、い わば 岡倉天心 の 死後の失権 と朝L を一 に して進行 して いった。
立
立は、いわば岡倉天心の死後の失権と軌をーにして進行していった
18
86
67
7-1
15
94
5)
4は
)、
は
ぎに建 築史 へ と視点 を移 す。伊東 忠 太 ((
次ぎに建築史へと視点を移す。伊東忠太
1
9
日
本に
おけ
築史
研究
分け
次
にお
日本
る建
の草
と
、
ける
建築
史研
究の
けと
草分
い
って よ く、帝国大学 工 科学科造家学科 の創立期 の卒業生、そ して( 後の ) 日本建築学会の創設者 の
いってよく、帝国大学工科学科造家学科の創立期の卒業生、そして(後の)日本建築学会の創設者の
ひとりで
もある。その伊東忠太 は、一 九〇〇年
のパ リ万国博覧会 に際 して、
ひとりでもある。その伊東忠太は、
九00
年のパリ万国博覧会に際して、
'
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LL
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ロン
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の執筆に参画する。
ンクワによるフランス語訳で出版された同書は、日本が公式に
EE. トロ
執筆 に参画す る。
クワによるフランス語訳で出版 された同書 は、日本が公式 に
J]
ap
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n の
『
15
96
561
-9
10
96
0、
6序
)、
した最初 の 日本芸術史』。総責任者 は、
編纂
編纂した最初の『日本芸術史』。総責任者は、博覧会臨時事務局事務官長、林忠正
9
)
序
博覧会臨時事務局事務官長、林忠正(0
18
85
52
2-9
13
91
3)
1の
)執筆であ
の
は帝室 博物館館長、九鬼隆 一 (1
文
文は帝室博物館館長、九鬼隆一(
1
執筆であり
企覚三も、東京美術学校校長蔀任事
三 も、東京美術学校校長辞任事
り、間
岡倉覚
との 関連 で職責 を離れ るまでは、実質 上の編 集責任者 だった。伊東 はこの 出版 の建築部門 の担
件との関連で職責を離れるまでは、実質上の編集責任者だった。伊東はこの出版の建築部門の担
件
2)
)。。伊東
として、天心 を補佐す る位置 にあった((
当執筆者として、天心を補佐する位置にあった
2
伊東は学部水業論文以来、法隆寺のエンタシ
省執筆者
は学部卒業論文以来、法隆寺 の エンタシ
ス
や 建築様式 に、希順
スや建築様式に
希l
胞の
の影響を想定する一群の人々のひとりとして記憶されている。一九
O二 年
影響 を想定す る一群 の人 々のひと りとして記憶 されて い る。一九〇
には
には巾国東北部に旅行して、雲間の石窟を調査し、ヘレニズム期のギリシア彫刻がガンダーラに
中国東北部 に旅行 して、雲開 の石窟 を調査 し、ヘ レニ ズム期 のギ リシア彫 刻がガ ンダー ラに
を与え、それが東漸 して北魏様式 の仏像 を介 して( 朝鮮半島経緯 で) 、
影響
影響を勾え、それが東漸して北説様式の仏像を介して(朝鮮半島経純で)、ついには臼木にまで到達
ついには日本にまで到達
い る、との認識 を新 たに した。この経路 は、省時 フェノロサが唱 えて いた、長安経 由の 日本東
して
している、との認識を新たにした。この経路は、吉時フェノロサが唱えていた、長安経由の日本東
とは対立す るものだった。その伊東忠太 は、
漸説とは対立するものだった。その伊東忠太は
、
天心の肝入りもあって一九
O二
二年にはカルカッ
漸説
の肝入 りもあって一 九〇
天心
年 にはカル カッ
「
ゴー
タを
ね
ル
タ
訪 、タゴール兄弟とも接触しているが、天心については、
Jに
に、
こん
タを訪ね
寸'の見たる間企覚三氏
兄弟 とも接触 して い るが、天心 については、「
の 見 たる岡倉覚 三氏」
予
、こん
24
日語 日コ
虻學 第24輯
2
4 日語日文拳第
2
4輯
r氏
な感想 が 散 りばめ られて ぃ る。
な感想が散りばめられている。
r氏自らも世間も氏を以て学者とは認めなかった様であるが、学問
自らも世 間 も氏 を以て学者 とは認 め なかつ た様 であ るが、学問
の頗 る該博 であ り、識見 に至 ては実 に高邁 であつ た。( 中略) 但材料 の組織 が 未だ科学的 に整 て居 ら
の頗る該博であり、識見に至ては実に高遁であった。(中略)但材料の組織が未だ科学的に整て居ら
ぬ様 に思 はれ るが、勿論 これ は追 ひ追 ひ大成 せ られ る成案 が 有 たので あ ら う。
( 中略) 要す るに氏 の
ぬ様に思はれるが、勿論これは追ひ追ひ大成せられる成案が有たのであらう.
(中略)要するに氏の
学問 は所 謂学究的 ではない。微 に亘 り、細部 に入 り考証 三 味 に憂身 を資す る流 では無 い。只紛 々 た
学問は所謂学究的ではない。微に亘り、細部に入り考証三味に憂身を饗する流では無い。只紛々た
る事物 を聡 合 して大綱 を組 織 す る と云ふ造 り方 である、
Io
t o1
11
9)
1。伊東忠太自身が、はたし
3伊東忠太
)。
る事物を聡合して大綱を組織すると云ふ造り方である
」
云々(I
9
3
云 々(t
」
、
自身が、はた し
r
学
て
と
め
るか
究
か
的」
認 得
て「
学究的
J と認め得るか否かは、議論の分かれるところかもしれないが、先輩への市し
は失しない
否 は、議論 の分 かれ る ところか もしれ な いが、先輩 へ の 市し
は失 しない
配慮 を しなが らも、伊東忠太が 自分 と天心 との差 をそれ とな く強調 して い ることは否定 で きまい。
配慮をしながらも、伊東忠太が自分と天心との差をそれとなく強調していることは否定できまい。
さて一 九〇
八 年、前述 の 仏文 『日本 芸術史 』 の 日本語版 た る 『
さて一九
O八年、前述の仏文『日本芸術史』の日本語版たる『稿本
美術略考』は
紀
日本 帝 国美術
稿 本 日本帝国
略考 』 は、
、
紀
淑雄 を主 幹 と して 改訂 され る。細部 の 内容 の増補 を別 として、ここに はひ とつ たいへ ん 目につ く
淑雄を主幹として改訂される.細部の内容の増補を別として、ここにはひとったいへん目につく
改編 が な されて い る。す なわ ち、この一 九〇
改編がなされている。すなわち、この一九
O八年版では、建築の部が、伊東の責任執筆としてそれ
八 年版 では、建築 の 部 が、伊東 の 責任執 筆 として それ
一
以外 の第 部 とは切 り離 されて、別個 だてにされた ことで あ る。 一九
以外の第一部とは切り離されて、別個だてにされたことである。
00
年の出版にあっては、
一 九〇〇年
の 出版 に あって は、
建築 も同 時代 の それ以 外 の美術 ・
建築も同時代のそれ以外の美術・装飾工芸の分野の最後に
装飾 工 芸 の分野 の最後 に、時代ごとに分けて配列されていた。時
、時代 ご とに分 けて配列 されて い た。時
代区分 を初 めて 日本 美術史 の 記述 に組 み入 れ たの は天心 だが、い わばフェノ ロサ経 由の俗流 ヘー
代区分を初めて日本美術史の記述に組み入れたのは天心だが、いわばフェノロサ経由の俗流へー
『日本芸
グル主 義 的 な 『時代精神 」の図式、個々の時代の有機的な関連と性格づけとが、この公式
の 図式、個 々の時代 の有機 的 な関連 と性格 づ け とが、この 公式 r
ゲル主義的な「時代精神
日本芸
(
K
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1
9
9
9
;
M
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2
0
0
0
)
。
術史』 で も重 視 されていた Kin
術史』でも重視されていた(
o
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a1
9
9
9
; Muto 2
0
0
0
)。ところが、伊東はそうした天心の構想
ところが、伊東 はそ うした天心 の構 想
にはっ き りと反旗 を翻 し、建築史 をほかの分野 か ら独立 させ 、同時代的 な関連 の替 わ りに、建築 独
にはっきりと反旗を翻し、建築史をほかの分野から独立させ、同時代的な関連の替わりに、建築独
自の発達段 階 とい う、
自の発達段階という
、時間軸に
時 間軸 に沿った縦の流れを優先させたことになる。現在に至るまで、欧米諸
沿 った縦 の流 れ を優先 させ た こ とになる。現在 に至 るまで、欧米諸
外国 で は美術 史 と建築史 とは隣接 した学科 であ るの に、
外国では美術史と建築史とは隣接した学科であるのに
日
本では
発点から(今日の名称
日本
では、両者は出
か ら( 今 日の名称
、両者 は 出発点
な
らば) 文学部美術 史講座 と工 学部建築学科 とに分離 してい る。その分離 を、日本 にお け る準 公式
ならば)文学部美術史講座と工学部建築学科とに分離している。その分離を、日本における準公式
の
い わば建築史 の分離 ・
J 美術
美術史記述においても認知させるという
、いわば建築史の分離
独立宣言が、ここで伊東によっ
史記述 にお い て も認知 させ る とい う、
独立宣言が、ここで伊東 に よっ
て
、明確 に 自分 の名 前 を刻 み こむ形 でな され た、
い過 ぎで はなか ろ う。そ して これ は、
て、明確に自分の名前を刻みこむ形でなされた
、と見ても
言い過ぎではなかろう。そしてこれは、
と見 て も言
天心
没後 三 年 の一 九 一六 年 に、帝室博 物館蔵版 として刊行 され た廉 価版 で も、維持 され るこ とに
天心没後三年の一九一六年に、帝室博物館蔵版として刊行された廉価版でも、維持されることに
なる
る
。。
に東 洋
の分
に触
最後に
術史
お ここうう。
。こ
こで省
然言及
れねば
ない
のが
大村
村西崖
西崖
ここで
れて
てお
洋美
美術
史の
いの
分野
野に
触れ
されね
ばな
省然
及さ
なら
らな
が、
、大
(0
18
88
681
-9
12
97
2.
7 )かつ
。 て は天心 の忠実 の仲 間であった西崖 は、福地俣一 (0
18
82
621
-9
10
99
0)
9らの画策による東
)の
ら画策 に よる東
6
)
かつては天心の忠実の仲間であった西崖は、福地俣ー
6
一八
から
らの
京
学校
校か
心追追放放((一
YY
oo
ss
hh
ii
dd
aa
京美術学
の天
では
は福
福地
地陣
陣営に
美術
術学
学校
校 に残
残る
天心
人九
いて
人)
に就 い
九八
)で
て、
る ((
、美
1991;1994)。
1
9
91
;1
9
9
4
)。美術学校の生徒監なども歴任する西崖は、一八九九年から一九
O八年におよぶ『審美
美術学校 の生徒監 なども歴任す る西崖 は、一 人九九年 か ら一九〇八年
におよぶ 『
審美
・
(今
の編纂 泉雄作 図版選択、邦文解説 ・
大観
大観』全二
O巻の編纂(今泉雄作・図版選択、邦文解説・藤井宣正、欧文解説・高楠順次郎)に参与し
』全二〇巻
藤井宣正、欧文解説 ・
高楠順次郎)に参 ら し
『
たの
に続 いて、一 九〇
ら一人
にか
たのに続いて、一九
O八
八年
年か ら
一 八年 に
かけ
て は 、今度
今 度はお
は おな
なじ
じ審美書房刊行
審 美 書 房 刊 行の
の『
東 洋 美 術大
大
けては、
東洋美術
五 巻 の編纂主幹 を勤 め上げる。膨大 な数 の コロ
観』十
観』十五巻の編纂主幹を勤め上げる。膨大な数の
コロタイ
プ版白黒写真に
、木版
多色刷りによる
タイプ版
白黒写真 に、
木版多色刷
りによる
の図版 を添 えた、
高品質の図版を添えた
、
文字通り記念碑的な規模の出版は、日本における東洋美術研究の水準を
高品質
り記念碑的 な規模 の出版 は、日本 にお ける東洋美術研究 の水準 を
文字通
るとともに、
誇示するとともに
、また
また東洋美術史研究
東洋美術史研究において扱うべき作品の大要を決定した史料編集として、
誇示す
において扱 うべ き作品 の大要 を決定 した史料編集 として、
日に至 る影響力 を発揮 して い る(Murakado
今日に至る影響力を発揮している
(M
u
r
a
k
a
d
o 1998)。
1
9
9
8
)
. また
また東洋学者としても、大村西崖の名戸
今
東洋学者 として も、大村西崖 の名声
はほとん
ど伝説的 といってよい。 「
はほとんど伝説的といってよい。
r
支那美術彫塑編.!
(915)は古典として今に名を残す。滝精ーの
支那美術彫塑編
古典 として今 に名 を残す。滝精 一の
』 (1915)は
嫉妬ゆえか、
1954)、
(
Y
a
s
h
i
r
o1
9
5
4)
、
嫉妬ゆえか、博士号授与の対象とはならなかった、との風説を矢代幸雄は伝えるが
博士号授句の対象 とはならなかった、との風説 を矢代幸雄 は伝えるが(Yashiro
稲賀繁美/岡倉天心、とインド
2
5
稲賀繁美 /岡 倉天ことインド25
この一 件 にか え って発奮 した ものか、西崖 はつ い で五巻 か らな る 『密教発達志J
(9
11
98
1)
8を中文で
)を
この一件にかえって発奮したものか、西崖はついで五巻からなる『密教発達志
』(
中文 で
r東洋」といっても中国に比重が
東
(9
12
95
2)
5は
)、は
執筆し、学士院賞を授与される。晩年の『東洋美術史
J (
r
執 筆 し、学 士 院 賞 を授 萄 され る。晩年 の 『東洋美術 史』
、 洋 」といって も中 国 に比重が
『
『
傾くが、『中国美術小史』、『文人画の復興」などは中文訳も出版され、中国本土の学者からも引
傾 くが、 中国美術小史 』 、 文人画 の 復興 J な どは中文訳 も出版 され、中国本土 の 学者 か らも引
用 されて、西崖 自身、面 目を施 した とい う。その 著述 は体裁 を変 えて、もっ とも信 頼 で きる教 科書、
用されて、西崖自身、面白を施したという。その著述は体裁を変えて、もっとも信頼できる教科書、
参考書としての評価を失わず、版を重ねる。このように、こと作品情報の集積と管理に関していえ
参考書 としての評 価 を失 わず、版 を重ね る。この よ うに、こと作品情報 の集積 と管理 に関 してい え
ば、大村西崖 の生涯 をかけた業績 ― そ してそれ に代表 され る戦前期 の学的進歩 ――が、先駆者、天心
ば、大村西崖の生涯をかけた業績ーそしてそれに代表される戦前期の学的進歩ーが、先駆者、天心
の仕事 をまった く時代遅 れの ものへ と押 しや って しまったこ とは、否定 しが た い( K is
sh
hr
io1
r o9
13
9。
33)。
の仕事をまったく時代遅れのものへと押しやってしまったことは、否定しがたい(Ki
i
3
)
6
6.
。 東洋美術史学の
の成 立
天心 に続 く世代 の 出現 とと もに、東洋美術 史 とい う枠組 み は学問分野 と して認知 され、天心 の
天心に続く世代の出現とともに、東洋美術史という枠組みは学問分野として認知され、天心の
業績は
業績 は、いわは‘体よくやっかいばらいされる有り様となった。グーハ=タクルタがインド
、いわ ば 体 よ くや っか いば らい され る有 り様 とな った。グーハ = タ クル タが イ ン ド、
ンガ
、ベ ンガ
「
ルの文脈 で適 切 に指摘 す るよ うに、rスワデシ運動はハヴェルやその同世代に、なにがしかの力と
スワデ シ運動 はハ ヴ ェルや その同世代 に、なにが しかの 力 と
ルの文脈で適切に指摘するように、
反響 とを萄 えたが、それ らは美術 史 とい う学問デ イ シプ リン にお い て は、もはや わずか な科学的
反響とを勾えたが、それらは美術史という学問デイシプリンにおいては、もはやわずかな科学的
(G
Gu
uh
ha
a―
有効性を発悔するものでしかなかった
J(
T
9
)
有効性 を発揮す る もので しか なか った」
Th
ha
ak
ku
ur
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ta
a 1
19
92
9:
2 :1
18
83
3。この指摘は、
)こ
。の指摘 は、当のスワデシ
省 のスワデ シ
=タ ク
運動とも係りのあった、日本の岡倉天心にもまた
ハ=タク
運動 と も係 りの あ った、日本 の 岡倉 天心 に もまた省てはまるだろう。さらに
省 て は まるだ ろ う。さ らに、これはグー
、これ はグーハ
いこ
タは
こと
して
ない
とだが
ルタ
は 指摘
指摘し
ていな
だ が、
日
本における東洋美術研究では
にお け る東洋美術研 究 で は、大村西崖から滝精ーにいたる
日本
、
大村 西崖 か ら滝精 一 にいた る
が、イ ン ド美術研 究 にお け るアナ ン ダ ・
世代
世代が、インド美術研究におけるアナンダ
・クーマラスワーミーに代表される
学究た
類比で
クーマ ラス ワー ミー に代表 され る学究
たち
ちと
と類
きるよ
きるような役割を担った
、といえるだ
ろう。スワデシ国民運動の退潮とともに
、クーマラスワー
とい え るだ ろ
うな役割 を担 った、
クーマ ラス ワー
う。ス ワデ シ国民運動 の 退 潮 と ともに、
ミー は理 想主 義的 ・
ミーは理想主義的・観念論的なインド美術本質論からは徐々に離れる。天心の死後三年を経た一
観念論 的 なイ ン ド美術 本質論 か らは徐 々に離 れ る。天心 の 死後 三 年 を経 た一
一 六 年、ボス トン美術 館 に設 け られ た東洋 部 イ ン ド部門 の 責任者 に着任 して以 来、北 米 に移住
九
九一六年、ボストン美術館に設けられた東洋部インド部門の責任者に着任して以来、北米に移住
した
クーマ ラ スワー ミー は、その後 半生 を、イ ン ド美術史 に関す る膨 大 な作品 目録 の編纂や、
したクーマラスワーミーは、その後半生を、インド美術史に関する膨大な作品目録の編纂や
、詳細
詳細
な研
な研究書の執筆に捧げる。クーマラスワーミーからその著作を贈られた岡倉天心が、ロンドンで
究書 の 執筆 に捧 げ る。クーマ ラスワー ミー か らその 著作 を贈 られ た 岡倉 天心 が 、ロ ン ドンで
の
面会 を所 望 した書簡 一 通 の ほか は、現 在 までの ところ、
の面会を所望した害簡一通のほかは、現在までのところ
、両者の
交流に
つい
て の 資料
資 料 は 発見
発見さ
れ
いての
につ
両者 の 交流
され
い な い模様 であ る。だが、クーマ ラスワー ミー の ボス トン美術 館赴 任 の 裏 に、天心 の遺志 を想定
て
ていない模様である。だが、クーマラスワーミーのボストン美術館赴任の裏に、天心の遺志を想定
るこ とは、的外 れ な推沢1 ではな いだ ろ う。大著 『
97
2)
7 )をはじめ
を
す
ン ドとイ ン ドネ シア芸術史』
することは、的外れな推測ではないだろう。大著
rイ
インドとインドネシア芸術史
J(
(192
は じめ
ー
マ
ー
ー
とす
るその ク
ラスワ ミ の 著述 は、イ ン ドで著作集 が 刊行 され、その幾 つ かの著述 は、現在
とするそのクーマラスワーミーの著述は、インドで著作集が刊行され、その幾つかの著述は、現在
の 美術 史や宗教学講座 で、必読 の入門書 として指定 されて い る、とい う。
なお
なお北米の
大学の美術史や宗教学講座で、必読の入門書として指定されている、という。
北米 の 大学
って
って、岡倉天心の場合はどうだろうか。日本美術院は近年、
設立百周年を祝い
膨大
本
翻3
、岡倉天心 の場 合 は ど うだ ろ うか。日本 美術院 は近年、設立
百周年 を祝 い 、膨
日本
大 な 『『日
百年史 』 を発刊 した。だが その一 方 で、美術 史研 究 の専 門家 の 世界 では、天心 の 名前 に言及
美術院百年史』を発刊した。だがその一方で、美術史研究の専門家の世界では、天心の名前に言及
美術院
の
な され るこ とは、
のなされることは
、はなはだ
はなはだ稀だといってよい。田中日佐夫氏は、学問分野としての美術史学を批
稀 だ とい って よ い。田中 日佐夫氏 は、学問分野 としての 美術 史学 を批
TT
an
na
ak
ka
a 11
99
92
2)
)で
で
に評定 した発表 ((
判的に評定した発表
判的
の美術史学が、天心 の志 の うち、
a
9
、
日
本の美術史学が、天心の志のうち
、ふたつ
の点をないが
日本
お、たつの
、
点 をな いが
しろに
して きた、
と指摘 して い る。ひ とつ は、美術 史学 が 文化財指定 の科 学的鑑定 や 、
しろにしてきた
、と指摘している。ひとつは、美術史学が文化財指定の科学的鑑定や
、
財
産目
録編
財産
目録編
に 自己 目的 を設定 した結果、作品研 究 が個別的 とな り、作品創造や作
纂に自己目的を設定した結果、作品研究が個別的となり、作品創
造や作品受蒋の社会的環境、
歴史
纂
品受容 の社会 的環境、歴史
2
6 日語
5
6日文學
円 文 早 第24111
第2
4柿
26
へ の考慮 が疎 か に されて きたこ と。3ふたつめに、科学的な訓査機材の活用が、研究助成金獲
的環境への考胎;ヵ、疎かにされてきたこと
、
たつめ に、科学的 な調査機材 の 活用 が、研究助成金獲
的環境
・
エ ック
ス線分析、紫外線
得上の有利さなどもあって奨励されたためか
ックス線分析、
紫外線・赤外線写真帰路、
さらに
らに
上 の 有利 さな どもあづて奨励 され たためか、エ
赤外線写真撮影、さ
得
は三次元立体解析のデジタル情報のコンビュータ処理などといった技術偏重か急速に進み
、
そ
の
その
は三
次元立体解析 のデ ジ タル情報 の コン ピュー タ処理 な どといった技術偏 重が急速 に進 み、
l 的側面、す なわ ち作品 に( 超) 歴史的 な生 命 を句 える条件 へ の 配慮
陰で、芸術受容、芸術鑑賞の心理的側面、すなわち作品に(超)歴史的な生命を与える条件への配胞
で、芸術 受 容、芸術 鑑賞 の心 l 」
陰
といった面が軽視されたこと。
とい った面 が 軽視 された こと。
この第二の点に関しては、出中氏は
日本における心理学の学祖でもある松本亦太郎の方法論
この第 二 の点 に関 して は、田中氏 は、日本
におけ る心理 学 の 学祖 で もあ る松本亦太郎 の 方法論
『1J~の本』を通じて英文で詳細に説明を試みた、
を喚起しているが、思えばこの側面こそ、天心が
の 本 』 を通 して英文 で詳細 に説 明 を試 み た、
を
喚起 して い るが、思 えば この側面 こそ、天心 が r 茶
東洋芸術の賞翫の本質ではなかったか。果たして博物館や美術館の無機質の陳列ケースのガラス
の 賞翫 の本質 ではなか ったか。果 た して博物館 や美術館 の無機質 の陳列 ケー スのガ ラス
東洋芸術
の向こう側に
作品を手に触れ得ぬ存在として隔離することが、作品鑑賞の王道なのか。天心の晩
の
品 を手 に触 れ得 ぬ存在 として隔離す ることが、作品鑑 賞 の王 道 なのか。天心 の 晩
向 こ う側 に、作
18
84
48
8-1
13
98)はじめ、幾多の個人コレクションを
38)は
年
以 降、この疑問に答えたのは、鈍翁こと益田孝
9
この 疑 間 に答 えたの は、鈍翁 こ と益 田孝 (0
じめ、幾 多 の個人 コレ クシ ョン を
年以降、
(3
3)
)。。
形成した、近代日本の茶人たちだった
だが
だ
が、今日の日本の大学の、美学教室はいざ知らず、美術
形成 した、近代 日本 の茶人 たちだ った(
今 日の 日本 の大学 の、美学教室 は い ざ知 らず、美術
史教室で、『茶の本』が作品分析
鑑賞の教科書に指定されている
て聞
にし
った話 は、寡 聞
して聞
聞に
、とい った話は
鑑賞 の教科書 に指定 されて い る、とい
史教室 で、 『茶 の 本 』 が 作品分析 ・
かない(芙例があれば、是非ともご報告を拝聴したい)。
か な い( 実例 が あれば、是非 ともご報告 を拝聴 した い) 。
7
7.
. 遺遺産と忘却
産 と忘 却
(1
18
88
81
1-9
14
93
4)
3から、ひとつ、あまり
)か
本石市を閉じるにあたって
、
ア
フォシオン
1
知られていない
られて いない
ら、ひ とつ、あ ま り知
ア ンリリ・
フ ォシオ ン(
本稿 を閉 じるにあたって、
『
・ソ
19
93
3)
4 ほか
)ほ
1
4
で有名なフォシオンは、両対戦聞に、パリ
一節を引用をしておきたい。『形の生命
一 節 を引用 を してお きた い。 形 の生命J
かで
有名 なフ ォシオ ンは、両対戦 間に、パ リ・
』 ((
ルボンヌ大学の美術史講座を主催し
ル ボ ンヌ大学 の 美術 史講座 を主催 し、世界的権威の名を欲しいままにした美術史家だ。そのかれ
、世界的権 威 の 名 を欲 しい ままに した 美術 史家 だ。そ のかれ
「
が、
J((
4
一 九 二五 年 に 自著 『
が、一九二五年に自著円ヒ斎
。 円ヒ斎』は、十
北斎』 は、十
99
11
4)
) の第二版に添えた、序文の一節である
の第 二 版 に添 えた、序文 の一節 であ る.
北斎J
初初版 11
九世紀末のフランスの日本趣味に遅ればせながら便乗して、北斎をもって、日本美術はおろか、東
九世紀末 の フラ ンスの 日本趣味 に遅 ればせ なが ら便乗 して、北斎 を もって、日本 美術 はお ろか、東
洋美術の最高位に位置付けようとした書物だった。二十年代中頃の今にしてみれば、いささかな
洋美術 の 最 高位 に位置付 け よ う と した書物 だ った。二 十年代 中頃 の 今 に してみれば、い ささか な
( ザイ ドリッツ ら) 欧米 の学者
らず軽率との誘りを免れぬこのかつての自分の判断。それを
、
日
本や(ザイドリッツら)欧米の学者
日本や
らず 軽率 との 謗 りを免 れぬ このかつ ての 自分 の判断。それ を、
たちからの反論に対抗して、あえて正当化せねばならない。そんな立場に、あるいはフォシオンは
たちか らの反論 に対抗 して、あえて正省化 せ ねばな らな い。そん な立場 に、ある いは フ ォシオ ン は
この
立たされていたのかもしれない。その限りでは極めて政治的といってもよい下心が
こ
のフォシ
フ ォシ
立 た されて いたのか もしれ な い。その限 りで は極 め て政 治的 とい って もよ い下心 が、
「
(4
4)
) 。 アジア
オンの序文の裏には匂ってもくる
.
ア ジア巾の哲学者たち
オ ンの序 文 の裏 には匂 って もくる(
詩人 たち、芸術家たちの作品か
、芸術家 たちの作品 か
中 の哲学者 たち、詩人たち
(u
un
ne
e
の連
ら、
日
本人オカクラは、おそらくは架空のものだが、構造として天才的な
続性 (
ら、
日本
連続性
人 オ カ クラは、お そ ら くは架空 の もの だが、構 造 と して 天 才的 な、ひとつ
、ひ とつ の
p
u
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u rを扶りだした。それは共通の遺産
e扶
) をりだ した。それ は共 通 の遺産
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ms
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ё
、有機的な思考の連続性というべ〈、自らの美徳をしっかりと保持し、常に緊張した[アジア]人種
、有機 的 な思 考 の連続性 とい うべ く、自らの美徳 を しっか りと保 持 し、常 に緊張 した[ アジア] 人種
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i(
iなお
i )お( な
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5
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)
によって鼓舞された、あのひとつの大陸の愛国心というべきものだ
によって 鼓舞 され た、あの ひ とつの大陸 の愛国心 とい うべ き ものだ」 (
″
「
"
g
ge
en
ni
ia
l
ae
l"
eは、天心の構想、をフォシオンが「天才的」と評したというよりは、むしろそこにフォシオ
″、天心 の構想 をフ ォ シオ ンが 天才 的」と評 した とい うよ りは、む しろそ こにフ ォシオ
は
「
ンがアジア民族の
ンがア ジア民族 のr
精
髄」」をなすものを見いだした
、
とと解
解釈すべきかもしれない)。
をなす もの を見 いだ した、
釈す べ きか もしれ な い) 。
精髄
「ア ジアはひとつ
「お
ジア はひ とつ」
「
おそ
」な、
ととフ
フォシオンが評する
ォ シオ ンが 評 す るrア
そ らくは架空のものだが、
ら くは架空 の ものだが、構造として天才的
」
、
構 造 として天才的」
(v
vo
oy
ya
an
nt
t )として
としての
)
の射程のほど
という理念、あるいは
見者
とい う理念、あ る いは理想。そこには、天心・岡倉覚三の思索者、
射程 の ほ ど
理想。そ こには、天心 ・
見者 (
岡倉覚 三 の思索者、
稲i~紫美/間合天心とインド
稲賀繁美 / 岡 倉力餃インド 22
77
とともに、そ のかれ が、没後、東洋美術史研究 とい う、かれ 自身が その礎 を築 いた はずの 領域 か ら、
とともに、そのかれが、没後、東洋美術史研究という、かれ自身がその礎を築いたはずの領域から、
なかば 意図 的 に排斥 され て しまった理 由が、見事 に言 い省 て られて い る。ひ とつの 制度 が 制度 と
なかば意図的に排斥されてしまった理由が、見事に言い省てられている。ひとつの制度が制度と
して 自律す るため には、その創 出 の 責任者 を抹消す る必 要 が あ る。その 不可欠 の 「
して自在位するためには、その創川の責任者を抹消する必要がある。その不可欠の「見えざる媒介者
見 え ざる媒 介者
「ひ とつ
(
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1
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9
8
:1
18)こそ、
そ、歴
歴史
が天心 に 与え た役割 ではなか ったか。「ひとつ
」(
史が天心に与えた役割ではなかったか。
r架空」
架
の ア ジア」という、いわば
の 合言葉 に よって、天心 は強引 に も、
のアジア
、東洋(あるいはより正確には
」とい う、い わばr
空」の合言葉によって、天心は強引にも
東洋 ( あるいは よ り正 確 には
″
″
r東洋美術』なる空虚に
東
の 発端 をこ じあけた。だが 「
東アジア)美術史研究という領分を"担造"し
、
そ
東 ア ジア) 美術 史研 究 とい う領分 を 捏造 し、
その先端をこじあけた。だが
洋美術 」な る空虚 に
「
(
実
して虚 構 の 観念 に よって、そ こには
して虚構の観念によって、そこには(実際にその研究に従事する専門家集団や博物館の
東洋部」
際 にその研究 に従事 す る専 門家集団 や 博 物 館 の 「
東 洋部」
(5
5)
)。
。
な る分類 範疇 として) 、もはや抹 消 で きず、取 り返 しもつ かぬ実体 が生 み出 されて しまった(
なる分類範時として)、もはや抹消できず、取り返しもつかぬ実体が生み出されてしまった
そ
そ
『
の す べ ての 責任 を天心 に帰す るの は無理 だ ろ うが、しか しそ うした罪深 いr重
のすべての責任を天心に帰するのは無理だろうが、しかしそうした罪深い
J
H
:
¥
Jの罪をなすり付
の 罪 をなす り付
出」
創I
けるに最適なのが、天心だったことは否定しがたい。あたかもその創出者の影が、この先幽霊のよ
け るに最適 なのが、天心 だ った こ とは否定 しが たい。あたか もその創 出者 の影 が、この先 幽霊 の よ
うに舞い戻りはしないか、と恐れるがごとく、日本における東洋美術史研究は、大村西崖から滝精
うに舞 い戻 りは しな いか、と恐 れ るが ご と く、日本 にお け る東洋美術 史研究 は、大村西崖 か ら滝精
架空 」で
一 の 時代 に、天心 とい う存在
ーの時代に、天心という
存花を、いわば象徴的な次元で抹殺した。かれは
を、いわば 象徴 的 な次元 で抹殺 した。かれ は、そのいかにも「
、その い か に もr架
空」
「
しか な い、 東洋美術 史」創 出 とい う< 物 語 り> の 痕跡 を抹 消 す るため に、選 ばれ た犠牲 として、自
しかない、「東洋美術史」創出という<物語り>の痕跡を抹消するために、選ばれた犠牲として、自
ら消 し去 られ る運命 にあ った。天心 は学者 にあ らず、との判定 は、日本 の 「東洋 美術 学1 に よる「父
ら消し去られる運命にあった。天心は学者にあらず、との判定は、日本の「東洋美術学」による「父
の儀式、その学問的出産外傷を除去するための呪いだったのではないか。
殺し
」の儀式、その
殺 し」
学問的 出産 外傷 を除去す るための呪 い だ ったのではないか。
「全集
その一方で、天心の英文著作が三巻の
」として
聖文閑
訳版行さ
れる
のは
そ の一 方 で、天心 の英 文著作 が三 巻 の 「
として聖
より
り完
され
るの
は、ようやく
全集」
閣よ
完訳版行
、よ うや く
13
95
356
-)
6年のこと。それに先立つ一九二二年の日本美術院蔵版は、第三巻に英文著
)年
の こ と。 それ に先立 つ一九二二 年 の 日本美 術院蔵版 は、 第 三 巻 に英 文著
昭和十一十一
9
昭和十 一十 一 (0
作抄訳を収めるのみだった。つまり現実的には、『東洋の理想、」をはじめとする天心の英文著作
作抄訳 を収 め るのみ だ った。つ ま り現実的 には、 『東洋 の 理 想 」 をは じめ とす る天心 の 英 文著作
が
が、二十世紀初頭の同時代の日本人読者に大きな影響を与えることはなかった
、というのが実
態
、二 十世紀初頭 の 同時代 の 日本人読 者 に大 きな影 響 を萄 え るこ とはなか った、
とい うのが 実態
だ ろ う。そ して 日本 で最初 の 英 文著作 完訳版 仝集 が刊 行 され た とき、時 代 はす で に二 ・
だろう。そして日本で最初の英文著作完訳版全集が刊行されたとき、時代はすでに二・二六事件
二 六 事件
「
『
((
1
9
3
6
)
を
19
3
6
)を招く軍国主義の世の中となっていた。天心生前未完の原稿
我らはひとつ」が、『東洋の覚
らはひ とつ 」が、 東洋 の覚
招 く軍 国主義 の世 の 中 となって いた。天心生前未完 の原稿 r我
醒」として、浅野晃訳により出版されるのは一九三八年。その二年後には
r皇紀
皇紀二
年 」が華々し
二千
醒
が華 々 し
』 として、 浅野晃訳 に よ り出版 され るの は一 九 三 八 年。その二 年 後 には『
千年」
く
く祝賀される。こうしてアジア主義者としての天心像が形成されてゆく準備が整ったことになる
祝賀 され る。こ うして ア ジア主義者 としての天心像 が形成 されてゆ く準備 が整 ったこ とになる。
*
*
AA
AA
SS
))
年
は、一九九九 年 三 月 ボス トン で開催 された、仝米 ア ジア研究 協会 ((
本稿は、一九九九年三月ボストンで開催された、全米アジア研究協会
年次総会、
r岡倉
本稿
次総会、「
天 心 の 再検
再 検 討」部会で発表した英語論文、およびそのフランス語訳から、改めて日本語に訳出した
天心
部会 で発表 した英語論文、お よびそのフラ ンス語訳 か ら、改 めて 日本語 に訳 出 した
二 千年七 月号 お よびノヽ月号 に掲 載 したが、今回、これ に必要 な
もの
であ る。既 に学灯社 『
ものである。既に学灯社
r国文学』
国文学』二千年七月号および八月号に掲載したが、今回、これに必要な
を加 えた もので あ ることをお断 りす る( 二〇〇〇年七
訂正を加えたものであることをお断りする(二
000年七月三一日記)。
訂正
月三一 日記) 。
((1)天心の思想面の再検討としては、
1 ) 天 心の思 想面 の再検討 としては、(C
In
na
aa
g a1
19
9)
9。
8 ) ここ
。 では 『
I
g
9
8
ここでは『東洋の覚醒』として一九三八
東洋 の覚醒』 として一九 三人
に出版 された原稿 を、一 九〇
年に山版された原稿を、一九
O二
二年のカルカッタにおける省時の執筆状況との関連で分析した。
年
年 の カルカッタにお ける省時 の執筆状況 との関連 で分析 した。
なおこの
なおこの論文は、一九九八年一二月にカリフォルニア大学'ロス・アンジェルス校で開催された、
ア ンジ ■ルス校 で開催 された、r「
論文は、一 九九八年一 二 月 にカ リフォルニア大学 ロス ・
ワー クシ ョップ」での発表原稿 である。お招 きいただ いたFF
岡倉天心ワークショップ」での発表原稿である。お招きいただいた
r
r
e
r
岡倉天心
に謝意 を
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ot
re
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l教授に謝意を
f e授
r教
( 編) 『
へ の憧憬 と祖国へ の回帰』、明治書院 にて近刊 の
またその 日本語訳は、平川祐弘
表す。またその日本語訳は、平川
M
i弘(編)
r
呉国への憧限と他国への回帰』、明治苦院にて近刊の
表す。
異国
2)
)一
パ リ万国博覧会 での 『日本芸術史』 に関 しては、
In
na
ag
g a1
19
9)
9。
7また
)ま
。た 同
予定。 ((
2
一 九〇〇年
00年パリ万国博覧会での『日本芸術史』に関しては
、 (C
I
a
9
7
書
予定。
同書
2
8日
語
文 製 第2
4輯
28
日言
吾日文學
第24輯
(K
Ko
ojiit
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19
979)、馬測明子
7 馬渕
) 、 明子 C
( TT
NN
RR
II
CC
PP11
99
99
99
))な
に関 して は、小路 田泰直 『日本 史 の思想J
に関しては、小路田泰直『日本史の思想
などの論文が.
どの論文 が
』(
ある。小路田泰直論文には、編集責任が岡倉天心から福地復ーに移ったところで、天心の汎アジア
あ る。小路 田泰直論文 には、編 集責任 が 岡倉天心 か ら福地 復 一 に移 った ところで、天心 の 汎 ア ジア
主義的歴史観が、水戸学風の国粋主義的史観へと変更された、との魅力的な仮説がある。しかしな
主義的歴 史観 が、水戸学風 の 国粋主義的史観 へ と変更 された、との魅力的 な仮 説 が あ る。しか しな
がら、これはさらに十年後の検定歴史教科書における南北朝正閏論を逆投影している部分があり
が ら、これ は さ らに十 年後 の検定歴史教科書 にお け る南北朝正閏論 を逆投影 して い る部 分 が あ り
、同書のヴィヴェカーナンダと天心の思想の比較ともども、仮説としておもしろいが、立証にはな
、同書 の ヴ ィヴ ェカー ナ ンダ と天心 の思想 の比較 ともど も、仮説 としてお もしろ いが、立 証 にはな
「r
『
今、日本の美術史
お手続きのうえで飛躍が多い。また馬淵論文に対する著者の異論と見解は、
お 手続 きの うえ で飛 躍 が 多 い。また馬渕 論文 に対す る著者 の 異論 と見解 は、r
今、日本 の 美術 史
『あいだ
学をふりかえる」を聴いて
あ いだ Ex
E x ttr
ra
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』2
25
5号(美術と美術館のあいだを考える会,
号( 美術 と美術館 のあいだ を考 え る会 ,1
学 をあ、りか える』 を聴 い て」 r
19998
9)
8,
)r, 「
『
『
(3
3)) 近代日本における産
近 代 日本 におけ る産
官製『日本帝国美術史』の誕生
14
、ほ
か。。(
ほか
19
99
98
8年
年3
3月
月1
4 日付
官製 日本帝 国美術 史』 の誕生」 r図書新聞
図書新 聞J
付、
』 1
(K
K uummaakkuurraa 11998
80
0)
)が古典的研究。
が古典的研究。 益田孝を中
業資本と連動した茶人の芸術収集にかんしては
、 C
業資本 と連動 した茶人 の芸術収集 にかん しては、
益 田孝 を中
( GGu
ut
th
h
心として近代日本茶人の美術収集研究を論じた英文の著述としては、
心 として近代 日本茶人の 美術収 集研究 を論 じた英文 の著述 として は、(
11
99
99
33
))。なお
Innaaggaa
なお((I
(4
4)) フ
(I
Innaaggaa 19
19
98
98b
-)
b )そ
そ
参
照。 (
フォシオンに至るフランスでの北斎評価の変貌に関しては
(
2
20
00
00
0))も
も
ォシオ ン に至 るフラ ンス での北斎評価 の 変貌 に関 して は、
参照。
『
( 京者6 、
(5
5)) ボ
ス トン美術館東洋部 の確 立 と岡倉天
の 邦訳 は r
の邦訳は
A
2
)
(
ボストン美術館東洋部の確立と岡倉天
20
00
00
0年
年
Ar
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or
r uumm 2
21
1J
』(京都、醍醐書房、
醍醐書房、
).
。
『
心とのかかわりについては、展覧会図録
心 とのかか わ りにつ いて は、展覧会図録 『岡倉天心とボストン美術館』
岡倉天心 とボス トン美術館 』 名古屋ボストン美術館
名古屋 ボス トン美術館
1
999。とりわけ
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