一般社団法人 薩摩士魂の会 平成25年度版 活 動 報 告 黒田清輝「桜島爆発図」 (鹿児島市立美術館蔵) <今年は大爆発から100年> 上野公園西郷像前で薩摩琵琶献奏 <生誕186年祭> <活動報告> <基調講演> 【1】副教材用「薩摩武士道」抜粋版作成並びに 「西郷南洲翁精神の再認識と現代に如何に活かすか」 「人間西郷」の道徳教科書掲載運動(森園安男代表理事)・・・P2 (渡部昇一・上智大学名誉教授)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P5~8 【2】鹿児島支部報告 (大園正陽鹿児島支部副支部長) ・・・・・・・・P3 《理念、活動方針》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・裏表紙 【3】薩摩の訓を世界に (上村哲夫理事) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P4 《役員構成、鹿児島支部》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〃 【4】史蹟研修、顕彰慰霊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P10~11 【追悼】豊蔵 一顧問 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P10 <研究発表>「出水兵児修養掟」(野田正興理事) ・・・・・・・・・・・・・・P9 ・薩摩琵琶献奏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・表紙 (英語訳)Rules to be morally cultured by young men in Izumi ・・・・・裏表紙 ・自顕流演武 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P11 薩摩士魂の会 平成 25 年度版 <活動報告> 【1】 副教材用「抜粋版」作成と「人間西郷」の道徳教科書掲載運動 森園安男 一般社団法人薩摩士魂の会代表理事 平成 25 年度は薩摩士魂の会設立 10 周年、鹿児島支部設立、そして支部活動が大きな貢献をした年でありました。 国内の政情も安定し、政府は道徳の一段の強化を実施するようになり、世はわれわれが志向する日本人の心、精神の 作興へ向っていく雛勢になってまいりました。誠に喜ばしい限りであります。 加えて国内では、最近西郷さんムードが駘動して来ている感があります。またアメリカでは 1 ドル紙幣に西郷さん の顔写真が貼られているとのことで、 「薩摩武士道」日英版の贈呈と販売も一端の影響をもたらしたのではなかろうか と自讃しております。 〈サークル活動への取り入れ決定校も〉 今までの本会の主題でありました「薩摩武士道」の高校副教材採用の運動も、24 年 11 月より支部の大 きな協力の下に、県下 10 校に副教材採用の訪問運動を重ねて来ました。総論賛成なるも、現実的にはカリ キュラムの中に組み入れる余裕はないが、サークル活動の中に取り入れることを決定した学校もあり、大方 は、前向きに考へたいというのが結論でありました。 県としましては、平成 27 年 4 月開校の中高一貫校で男子全寮制の楠隼校において、 「南洲翁遺訓」の素 読を学習に取り入れ、将来英文へと検討したいとの意向で発足することになりました。大きな一角が一歩前 進した思いであります。 今後は各校にアタックするにしても、主題の方向を精神文化及び英語サークル部門へのアプローチに切り 換へるべく、すでに支部にお願いしております。 〈発起人に全国9団体が連名〉 次に新しい大きな目標を設定致しました。西郷さんを小中高校の 教科書に掲載する運動です。現在では史実としての西郷さんの名前 と顔写真が出ている程度で、西郷さんの人間像についての記述は見 当たりません。西郷さんは明治維新の最大の立役者であるだけでは なく、人間そのものに国家、民族を越えた人類共通の人間の心、愛 が輝いている人であります。日本人の心が精神を根本から再生出来 るエネルギーは、学校教育のなかで西郷さんの人間を学ぶことによ り育成された立派な青少年が、積年のうちに大きな団塊となり、核 南日本放送 MBCニュース (平成25年11月) の力になった時にこそ、内部より自力再生するものであると思いま す。この力こそが永遠なる再生作興の原動力であります。 しかし、教科書掲載問題は大変な事業であります。実践するに 際しては、まず西郷さんを顕彰する団体との連名による陳情請願 をした方が良かろうと思い、25 年 11 月西郷隆文さん主宰の NPO 西郷隆盛公奉賛会に相談しましたところ、早速にご賛同をいただ き、鹿児島は勿論、北は北海道、南は沖永良部和泊顕彰会まで、9 団体が全面的に賛同されて、発起人に名を連ねていただきました。 さらに島津家当主修久様には名誉顧問になっていただき、現在作 業を進めているところであります。 南日本放送 MBCニュース これの達成には、文科省教科用図書検定調査審議会の検定に合格 (平成25年11月) しなければなりません。4年先の検定に間に合わせるために、その 2 年位前に教科書が出来ていなくてはなりません。出版会社、編集者、掲載内容の学校別デザイン等の諸問 題を克服して行くために、 それぞれの専門家と協同しながら戦略戦術を打ち立てて行かなければなりません。 〈今年度の目標課題〉 最後に 26 年度の主たる目標課題を総括して、今後会員一同の更なるご理解と努力、精進を切にお願い致 します。 1、自主研修活動の推進 2、 「薩摩武士道」抜粋本の精神文化、英語研修サークル部門への採用運動 3、西郷さんの人間像を小、中、高校の教科書に採用する運動 4、アメリカで販売中の「薩摩武士道」日英版のヨーロッパ及び内外の外国人向け販売 PR 本部支部一丸になって目標達成に邁進しましょう。 2 <活動報告> 【2】鹿児島支部報告 大園正陽 鹿児島支部副支部長 「薩摩武士道は鹿児島から」を実践するため、平成 25 年3月9日(土)の鹿児島支部設立披露に伴い、内宮孝雄支 部長以下役員、鹿児島在住会員一同で以下の事業活動を推進した。 【1】高校訪問による「薩摩武士道」書の紹介など 「南洲翁遺訓」並びに島津「日新公いろは歌」日英仏三か国版の「薩摩武士道」書を、学校教材として活用し、 青少年の語学力向上と精神文化の普及に資して、やがて5年先、10 年先には武士道精神を理解する若い人 材の登場と、日本人の心を再生する原動力の源となることを願い、県内公立、私立の高校7校並びに平成 27 年度開校予定の新設中高一貫校設立準備室(楠隼中・高一貫校)を訪問して、薩摩武士道の啓発に努めた。 訪問校…県立校(甲南、鶴丸、大口、川内、加治木、楠隼中高一貫校) 市立校(玉龍) 私立校(志学館) 【2】薩摩武士道の真髄を理解するための自主研修 伝統ある薩摩士魂の真髄の理解と浸透をはかり、かつ一層の社会化及び社会の倫理観の向上に寄与する ため、支部会員を対象とした自主研修を2回開催した。 (1) 「南さつまの神話」 (内宮孝雄鹿児島支部長) 内容:神統譜 (略表記) による伊弉諾尊 (イザナギノミコト)から、天照大神(アマテラスオオミカミ)などの 子孫である海彦、山彦の説明があり、鹿児島県の笠沙町に影響を与えていることを説明された。 また、天皇陵総覧から①天津日高彦火瓊瓊杵尊(あまつひだかひこのににぎ=可愛山陵…鹿児島 県川内市宮内町字脇園、方形)②天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみ=高屋の山 上陵・鹿児島県姶良郡溝辺町麓菅ノ口、円墳)③天津日高彦波瀲武鵜草葦不合尊(あまつひだか ひこなぎさたけうがやふきあえず)吾平山上陵=鹿児島県肝属郡吾平町大字上名、洞窟) 以上神武天皇陵より古い3つのすべての山陵が、鹿児島県内に存在する。 (2) 「西郷隆盛の略年譜」 (大園正陽副支部長) 明治維新期の人物や史実への知識を深めるとともに西郷隆盛の生き様を学び、薩摩武士道を理解して、 会員との意思統一を図りながら正義感、質実剛健の気概・自立・自尊・自戒の精神を真髄とした社会の 倫理向上に寄与する研修を行った。 【3】鹿児島の諸文化団体との連携 鹿児島支部は本部と歩調を合わせて、鹿児島の精神文化団体と協力し合う媒介役として平成 24 年 11 月 16 日、森園代表の出席のもと、特定非営利活動法人西郷隆盛公奉賛会と会合を開いた。 西郷隆盛公を全国の小中学校の教材に掲載してもらう陳情・請願を、西郷南洲顕彰会関係及びその信奉 者との連名で行なうことへの承諾とお願いを、関係機関に向けて展開をしている。 【4】報道関係への当会の趣旨等の啓発 鹿児島支部での研修会、学校訪問、当会の趣旨等を啓発するため、報道関係者を招致及び出向き説明等 をして、当会の真髄の理解と浸透を図っている。 「鹿児島の精神文化団体連合会結成へ向けての会合」 西郷隆文氏、森園安男代表理事他出席 支部研修会参加メンバー 3 薩摩士魂の会 平成 25 年度版 <活動報告> 【3】薩摩の訓を世界に―「薩摩士魂の会」に参加して― 上村哲夫理事 鹿児島県人の私が郷土所縁の「薩摩士魂の会」のお 強に戦った後に恭順した。江戸市中の警備役であった 手伝いをすることになったきっかけは、薩摩から遠く 荘内藩は薩摩屋敷を焼き払い 50 余名の薩摩藩士を殺害 離れた東北・荘内地方への旅であった。 したことから厳罰の仕打ちを覚悟していた。しかし西 8年前、高校時代の友人に誘われて最上川下りや本 郷の処分は公正かつ極めて寛大なものだったと伝えら 間美術館庭園の見学など観光目的で山形県を訪れたお れている。 り、酒田市にある南洲・西郷隆盛を祀った「南洲神社」 1872 年、旧藩主・酒井忠篤ほか 76 名は西郷翁を慕 の例大祭に偶々参列の機会があったのが、そもそもの い鹿児島を訪問、100 日余り滞在して親しく翁の訓え 始まりであった。 を受け、藩主兄弟がドイツ留学を勧められるなど親交 「薩摩士魂の会」 は 12 年前(2002 年) 、鹿児島県人 を深めた。77 年、西南の役で翁は城山に没するが、89 有志により活動を開始。現在 160 名からなる一般社団 年の明治憲法発布の大赦で罪を許され、正三位を追贈 法人として、西郷の唱えた「敬天愛人」の精神、武士道、 される。旧荘内藩士はこの時を待って、翁の訓えを「南 薩摩の伝統・気風を現代に伝え活かすことを主目的に 洲翁遺訓」にまとめて出版、旧藩士 6 名が全国を行脚 活動している。 して有志に頒布したのである。 具体的な活動例としては、薩摩の訓を世界に発信す 後年(1976 年)、西郷の遺徳を偲び、「荘内南洲会」 るための著書『薩摩武士道』 (日英 2 か国語版、日英仏 は酒田に南洲神社を創建する。このことを知る鹿児島 3 か国版の 2 通り、計 4000 部)を日本経済新聞出版社 県人は今でも少なく、私自身 8 年前の旅までは知らな の協力を得て、 東日本大震災直後(11 年 3 月)に上梓し、 かった。現在、西郷の徳で結ばれた鹿児島市と鶴岡市 4月より内外の指導者・有識者に贈呈、配布したこと が兄弟都市となっており、昨年からは中学生の相互訪 が挙げられる。 問交流が始まっている。 本の内容は、 旧荘内藩士がまとめた「南洲翁遺訓」 (註 一方、「荘内南洲会」と「薩摩士魂の会」はこの一年 1)と島津家中興の祖・日新公忠良が家臣団の教育用 間だけでも、教学の旅として会津若松、水戸の史跡め に作り、西郷をはじめ数多輩出した薩摩の人材を教え ぐり、あるいは南洲翁流刑の地、沖永良部島の訪問な 導いたとされる「いろは歌」( 註2) である。 ど活発に交流し、相互に研鑚している。目下「薩摩武 大震災の直後でもあったためか、海外からの反応は 士道」の抜粋版を編集中で、明日の日本を担う若者の 極めて好意的で、英国王室、ブッシュ前大統領、国内 学習を期待し推進中である。(「財界」2014 年 4 月 8 日 からも総理経験者を含む多くの要人から丁寧な礼状が 号より転載) 届き、期待以上の成果を挙げることができた。 ところで、どうして薩摩とは敵対関係だったはずの 荘内に南洲神社があり、荘内藩士が「南洲翁遺訓」を 註 1: 「天を敬し人を愛す」 (敬天愛人) 、 「子孫の為に美 田を買わず」など 50 余章からなる。 註 2: 「いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせ 世に問うのだろうか。 大河ドラマ『八重の桜』では会津藩が戦った凄惨な ずばかひなし」など 47 首からなる。 戊辰戦争が描かれているが、荘内藩は更に最後まで頑 「南洲翁遺訓」 (庄内本初版本) 4 「薩摩武士道」 日英仏語三か国語の革装丁本 「薩摩武士道」抜粋本 <基調講演会>(要旨) 渡部昇一・上智大大学名誉教授 「西郷南洲翁精神の再認識と現代に如何に活かすか」 平成25年11月 皆様こんにちは。本日は西郷先生について語るという ことですが、非常に難しいテーマです。西郷先生は非 常に偉い方で、こちらはちっとも偉くないものですか らわからない所がとても多くあります。私だけがわか らないのかと思っておりましたら、有名な薩摩出身の 作家の方が、「西郷さんというのは、実際に接した方で ないとわからないところがあるんですよ」と仰ってい ました。もちろん私は接したことはございませんので、 私がわからなくても仕方ないのでしょうし、頓珍漢な ところがあるとは思いますが、これから話させて頂き ます。 〈維新の力になった大久保との両輪〉 西郷さんもやはり我々が考えるような一般的な印象 だと、最期の時のイメージが強いので、若い時の非常 に神経の細やかで敏感な像は、なかなか浮いて来ない のです。しかし若い頃は、頭が良くてなんでもテキパ キとこなすことで目を付けられた方だったのではない かと思うのです。ですから、話がうまくいかないと、 お坊さんと一緒に投身自殺を試みたりするのです。し かし島流しをされている期間、その頃から更に変わっ てくると思うのですが、奄美大島や沖永良部島でもの すごく良く勉強をしていらっしゃるわけです。学者と 同じですね。漢詩がさらさらと書けるというのは、今 なら中国文学教授だって書けない人が 99% だと思うの ですが、西郷さんは韻を踏んだ漢詩がさらさらと書け て、また字が上手いことは皆さんもご存じだと思いま す。非常に人とは違うところがある方だと思います。 西郷さんにとって、最初のうちが一番幸せだったの は、仲間が良かったことでしょう。大久保利通と車の 両輪のように働いたことで、明治維新の力になったの だと思います。 徳川慶喜公が幕府に将軍の地位を還した後、今後のこ とをどうするかということで大名、公家、各藩の代表 が会って話し合ったのが小御所会議です。そのときに、 土佐の山内公が、ここに慶喜公を呼ばないのはどうい うことかと。その時の小御所会議は、近代日本におけ る第一回御前会議で、明治天皇が御簾の陰に出ていらっ しゃいます。将軍職を返還したけれども、先の将軍が いない所で今後の話し合いをしている。天皇が若いの をいいことにして、自分たちの利益を諮るのではない かということをおっしゃったわけです。 将軍家を返上しろというのは、山内公の力があった意 見だったことから、山内公としては責任を感じたので しょう。自分が大政奉還を進めて、最初の御前会議に 徳川慶喜公が呼ばれてないのですから。その時に、俄 然頑張ったのが維新の元勲と呼ばれる人たちだったの です。その中でも一番痛いことを言ったのが大久保利 通でした。 「本当に謹んで還すなら、八百万石か六百万 石かの徳川の領地をまず還せ、それからにしようじゃ ないか」と言ったもので、大久保さんが主張する方へ 流れていったのです。 そして小御所会議を守って囲んでいるのは、西郷さん の軍隊だったんですね。だから西郷、大久保のコンビで、 小御所会議というのが幕府討伐に決まっていったので す。西郷さんは非常に作戦が上手い方で、徳川家が天 下を握ったのは関ヶ原の戦いであったとすれば、徳川 家が政権を失ったのは小御所会議であると言われたの は、それが理由なのです。 〈軍事的な天才と勝海舟〉 西郷さんの動きをみますと、やはり軍事的に天才的な 所があったと思います。そうでなければ、やはりいく らあの戦いでああいう勝ち方をしても、そのまますぐ に江戸城へ進めという決断はなかなかできなかったの ではないかと思います。 我々は、今の目で徳川家を見ますが、当時の徳川家 は断トツの大大名で、しかも箱根の山の向こうなんで すね。そこに寄せ集めの兵隊が押し掛けて行ってもい いものなのかと。箱根の山が決戦場になったらどうす るか、あるいは軍艦をもっているのは徳川家なので、 どんどん進んでいる時に、軍艦で逆に大阪などに上陸 されたらどうするんだと考えれば、そう簡単には江戸 城へ進めとは言えなかったと思うのです。そのあたり になると直観と腹で、江戸城まで進めることになった。 それと勝海舟との美談があり、江戸城明け渡しという ことになったと思います。 〈厳罰覚悟の降将を賓客扱い〉 会津藩と庄内藩だけは、官軍に絶対に憎まれている。 会津藩は京都の守護職として維新の志士を斬って憎ま れているであろうし、庄内藩は総大将になってきてい る薩摩藩の藩邸焼き討ちをした藩ですから、絶体絶命 で妥協なく攻められるであろうと戦う決心をしていま す。 会津藩も最後まで戦ってああいう風な形になりまし た。庄内藩はずっと戦い続けて、新庄や秋田へも攻め 込んで勝っています。ですから幕末の戦いで、戦場で 明らかに勝っている。攻め込んで勝つという勝ち方を しているのは、庄内藩だけだと思います。勝っている 間に、周囲を見渡してみると、みんな降参しているわ 5 薩摩士魂の会 平成 25 年度版 けです。戦場では勝ちながら、降参することを決めたの が庄内藩であります。 ですから庄内藩としては、官軍が来て降参する時に、 どのような懲罰を受けるかわからないという覚悟を決め たわけです。ところが、黒田清隆が代表で来ていたよう ですが、降参した酒井公と面接するときも、刀をつけて 来てもよろしいと。 「応対することあたかも賓客を遇す るが如く」と当時の本に書いてありますが、大切なお客 様を招くような対応だったということです。一番憎まれ ているはずの藩が降参したら、その大将を大切なお客様 を迎えるが如く降伏を受け入れたということです。これ は西郷さんの命令で、黒田清隆がそれに従ったといわれ てます。西郷さんにしてみれば、 「自分が徳川家の武士 であったならば、やはり庄内藩の方のようにやるのが偉 いのだ、だから敵ながらあっぱれという気持ちだ」と後 でそう語られたということです。 〈発達した封建国に騎士道と武士道〉 この敵ながらあっぱれというのがやはり私は「武士道・ 騎士道」の一つの重要なところであると思います。武士 道と騎士道は似ているところがあると思うのですが、両 方とも封建時代から生じたものです。発達した封建時代 があったのは、大昔はともかくとして我々が知っている 時代になってからでは、西ヨーロッパと日本だけです。 封建時代は、我々は悪い時代のように教えられてきまし たが、発達した封建国は、西ヨーロッパと日本だけです。 西洋では騎士道、日本では武士道という精神がそこで生 じるんですね。 封建時代というのは色々な考え方があると思います が、戦争は必ずしも、正義か正義ではないかということ を言わないことにするのです。 殿様が戦争をしたときに、 下の武士がこの戦いは正義か正義ではないかと考えたら 戦争になりません。ですから、相手も同じ気持ちで戦っ ているのだろうということで、武士は相身互い身、騎士 も相身互い身で、相手はこちらが悪いと思ってやってい ない、こちらも相手が悪いと思ってやっていないと、戦 うのであれば正々堂々とやりましょうというのが騎士道 で、負けたからといって悪いというわけではない。勝っ たからといって良いとは限らないという基本的な考え方 であったんですね。 これが発達したのは、 封建時代があっ たからなのです。封建時代はそういう意味で、細かい人 間関係の道徳が発達するためには、封建制度という小さ い単位で長い間生活して、人間関係がみんなが見えると ころで育つような道徳というものが必要だったのではな いかと思います。 〈すさまじい戦いでも憎みなし〉 封建主義のいいところが一つ残っておりましたのは、 やはり私は日露戦争を見ますと、ロシアも戦争では日本 と憎み合っていますが、残虐行為というのはやらないで すね。日本の捕虜が出ていますが、ロシアで残虐行為は 受けていません。ちゃんと戦後に和解しています。日本 も同じです。特に象徴的なのは、乃木大将が旅順で降参 したステッセルを遇する仕方は、敵ながらあっぱれとい 6 うことで、向こうも乃木大将を尊敬して、最後には自分 が大切にしていた馬を記念に贈呈したという話でした。 このことは、我々が子供の頃の歌にありました。これが 武士道なのだと、注釈つきでならった歌です。 「旅順開場約成りて 敵の将軍ステッセル…」 乃木大将が天皇の言葉を伝えましたら、彼は非常に感 激したのです。そこから、 「昨日の敵は今日の友、語る言葉も打ち解けて、我は 称えつ彼の防備、彼は称えつ我が武勇」とあり、最後の 方になりますと、一緒にご飯を食べる。そして更に別れ るときには、「さらばと握手ねんごろに、別れていくや 右左、砲音(つつおと)絶えて砲台に ひらめき立てり 日の御旗」そういうような光景で非常に美しいのです。 乃木大将も敗将に恥をかかせてはいけないとちゃんと剣 を持たせて、いろんな国の記者たちが写真を撮るときに ステッセルの恥にならないようにしたと。これは乃木大 将の精神というのは当時の武士道ですから、薩摩とも繋 がるし、最もドラマティックだったのは西郷さんの庄内 藩に対する処遇だったと思われます。 武士道ということを考えますと、西洋には騎士道があ りましたが、第一次大戦までは、日本はあまり関係しな かったのですが、ヨーロッパでの戦争を見ていますとす さまじい陸戦なのですが、ドイツの将校とフランスの将 校は意外に憎み合っていないのです。兵隊さんは知りま せん。お互いの将校の資料しかあまり残ってませんが、 将校たちはどちらかの捕虜になっても、全然相手を貶め るようなことはしないのです。これは長い間あの連中は 戦争をしていますから、相身互い身なんですね。 小御所会議 〈西郷の教えを書き残した南洲翁遺訓〉 その一番が、近代日本のまさに始めの時に、武士道精 神が大きな形で証拠として残ったのは、西郷さんと庄内 藩の関係だったと思います。どのくらい荘内の殿様、酒 井さんが感激したかというと、藩をあげて西郷ファンに なりまして、殿様の御子さんもやはり薩摩に西郷さんが 帰られた際には付いて行って、いろんな勉強をしており ます。その時にいろいろと承ったことを書き留めたのが、 『西郷南洲翁遺訓』なのです。その時の若殿様が、西郷 さんの話をいろいろと聞き、西郷さんは政府の中心にい た方ですからいろんなことを良くわかっていらっしゃっ て、 「これからの陸軍はドイツだぞ、だからドイツへ行っ て勉強したらいいだろう」というわけで、酒井の跡継ぎ さんは、ドイツへ留学するのです。そこで非常によく勉 強をなさいまして、行くときは確か少佐か中佐ぐらいで 留学なさって、ドイツでも勉強の仕方などが非常に評判 が良かったのです。ところが帰って来ましたら、その間 に西南戦争がおこっており、西郷さんは賊軍という扱い だったのです。それで庄内藩は西郷ファンだから西南戦 争のときに西郷側につくのではないかといって、庄内の 出口には動けないように官軍がはりついて、後ろから攻 めるのではないかという心配があったぐらい、庄内藩は 警戒されていたわけです。それで殿様が帰ってきました ら、中尉に落とされていたのです。今でいえば二佐で二 尉になった。その辺は殿様ですから我慢せず、国に帰っ てしまったのです。ですから、約三百くらい大名があっ たといいますが、本邸が昔のままの領地にあるのは庄内 藩、鶴岡だけなんですね。加賀百万石といっても、本邸 は東京にありますし、島津さんもそうです。庄内藩だけ は鶴岡で、今でもずっと殿様の直系が鶴岡に住んでおら れます。 殿様が下がりますと、殿様についていた優秀な人で、 明治政府で相当出世していた人たちもいましたが、一緒 に鶴岡へ戻ってしまいます。ですから、鶴岡からはえら い政治家や財政家がいないのです。これから出るかもし れませんが、明治大正の頃はぜんぜんいない。上杉藩な んかは、日銀総裁になる人が何人も出たりしましたが、 鶴岡からはえらい政治家が出ていません。軍人では海軍 の佐藤鉄太郎、陸軍の石原莞爾といった人たちは出まし た。学問の方では熱心で、 鶴岡辺りの雰囲気というのは、 非常に学問を重んじました。だから我々が子供の頃は、 偉いのは学者だと思っていたのです。それは全部偉くな るべき人、殿様だって明治維新の後は相当偉くなってい たんです。皇室関係の所へも務めていたのですが、留学 して帰ってきたら西南戦争で引っ込んだわけですから、 偉くなるべき人がみな戻ったものですから、庄内藩の雰 囲気、鶴岡あたりの雰囲気は違いました。 違っていたことがわかったのは、私が東京へ出てきて いろんな所の人と付き合いましたが、ちょっと鶴岡の人 と違うのです。学校の先生も旧藩士がほとんどです。私 が入った小学校は旧藩校ですから、特にそうだったと思 います。なんとなくみんな良い意味の武士か儒学者みた いな方雰囲気だった。これは、他にはちょっとなかった のではないかと思います。ただそこで尊敬されるのは、 金持ちでもなければ政治家でもなく、ようするに学者な んですね。そうすると学者は偉いとなる。ぼくが大学へ 入ったとき、東大の哲学科の科長は、鶴岡の出身で、独 文科の科長もそうでした。ずらりと鶴岡の偉い学者がい るのですが、ほかにはあまりいないという妙な現象であ りました。 〈疎開児童への公平な扱いにも西郷精神〉 さらにそれが良く分かったのは、戦争中に疎開という ものがあり、疎開児童が空襲で東京から逃げなければな らないのですが、親類がない子供がたくさんいて、集団 疎開というのがありました。集団疎開先が子供たちが食 べるものがないところへ疎開するので、いじめられたり 恨みの気持をもって帰ってきているのです。ドラえもん ののび太のお父さんだってその記憶をもっています。と ころがたったひとつ例外があったのです。それは庄内藩 へ疎開してきた東京の子供たちは、いずれも懐かしく 思っていて、その後も遊びに来るようになった。庄内藩 が引き受けた児童は、江戸川区だったんですね。だから 鶴岡市と江戸川区は姉妹都市になっています。疎開児童 が元になって姉妹都市になるのは鶴岡市と江戸川区しか ありません。 その江戸川区の子供たちの話によれば、旅館や空間の 余地のある家に疎開するわけです。全然知らない、親類 でもなんでもない家です。そうすると、たまにぼたもち などが出来た時には、自分のうちの子供と絶対に区別し ないで食べさせてくれたと言います。それが終戦直後の 厳しい食糧事情のときでも、普通の庶民がそうしたので す。特定の人がやったのではありません。だから江戸川 区から来た子供たちはみんな感激して、鶴岡こそが我ら のふるさとになったのです。こんな土地はほかになかっ たわけです。 それはなぜかと言うと、薩摩、特に西郷さんの影響を 受けた殿様及び高級武士たちが、そのまま鶴岡周辺に住 みついて、そこで教育事業をやったものですから、その 威風が普通の人たちにまで浸み込んでいったのです。だ から戦争で東京の知らない子供たちが疎開してきたとき に、だからといって差別をしないだけの道徳観がまだ 残っていたのです。それはおそらく西郷南洲翁の影響力 の最後として、書き残されるべきことではないかと思っ ております。 「徳の交わり」(西郷南洲と庄内藩家老菅実秀) 〈敗戦直後に西郷神社つくる〉 西郷さんの話を聞いた武士たちもみんな感激して、書 き留めてきたものを集めたのが、 『西郷南洲翁遺訓』で すが、西南戦争の西郷さんの援軍は国賊になった。国賊 になったので出版できなかったのです。それで憲法が出 来たときに、明治天皇が「西郷は賊ではない」とおっしゃ られたので、西郷さんは名誉を回復したわけです。それ で初めて『西郷南洲翁遺訓』も印刷されるようになった のですから時間がかかっていますね。『西郷南洲翁遺訓』 は、我々の小学校でも教えたくらいですから、脈々と残っ ていまして、大戦後、敗戦直前までは、高等小学校の先 生をやっておられた方などはみな旧藩士ですから、それ こそ西郷精神で育てられた人たちです。この人たちが敗 戦直後に荘内南洲神社をつくったのです。今でももちろ んあります。そしてそこへ行くと、どうぞご自由にお持 ち帰り下さいということで、岩波文庫の西郷南洲翁遺訓 が積んであるのです。戦争中までは、高等小学校の先 生だった人たちが無尽會社をやっていて、それが銀行に なったのですが、高度成長期で銀行がみな儲かったもの 7 薩摩士魂の会 平成 25 年度版 ですから、その人たちが神社を建てて、今言ったように いつも岩波文庫を積んであるようにしたのです。戦後に 南洲神社をつくるというそういう風土でありました。 最後に西南戦争になるのですが、その時に私は非常に 残念だと思うのは、西郷さんというのは、あの方がいな ければ維新も起こらなかったし、もっと難しかったと思 うのは、大名を一挙になくした藩籍奉還です。これは世 界中でもないことです。イギリスもドイツも今だに貴族 がいっぱい残っていてなくならなかったのです。ところ が日本では、みんな還しました。その時に中央政府にど れだけの軍隊があったかというと、西郷さんとたった千 人の軍隊です。西郷さんを中心とする千人、まあ周囲を 入れると一万人くらいになったかもしれませんが、日本 中の大名が抵抗せずにみんないうことをきいてしまっ た。これは奇跡ですね。西郷さんが如何に尊敬されてい たか、畏敬されていたか、富士山のような存在だったと 思うのです。 〈西洋を見た大久保と見なかった西郷〉 ただたった一人だけ、西郷さんと最後まで平等に付き 合える人がいました。それは大久保さんです。 西南戦争の話も、大久保さんが書いたものによると非 常によく解るのです。大久保さんは、やはり使節団とし て西洋を廻ってきて、ようするに富国強兵でなければ植 民地になるということを実感したわけです。西郷さんも 大久保さんも維新の志士ですから、京都、東海道を歩い たことがあります。馬車も大八車も東海道は通れませ ん。馬の脚か人の足しか通れなかった。ところがアメリ カへ行けばもう鉄道が走っている。ヨーロッパへ行けば ナポレオン戦争で大砲を撃ったり、軍艦をつくったりし た頃から 50 年間、休まず進めた近代化です。ロンドン へ行けば夜になるとガス燈がついて暗くならない。東京 の冬は空っ風で目も開けられないくらいの砂埃だが、ロ ンドンは全部石畳、しかも両側には江戸城よりも高い家 が建っていて住んでいる人は庶民。こんなのを見て、大 久保さんをはじめとして使節団の人たちは、ぼやぼやし ていられないと。大久保さんたちがロンドン辺りにいた 時に書いたものを見ますと、日本をどうしたらいいのだ ろうと。 あの人たちは頭がいいのですね。このくらい差がつい たのは何年前くらいだろうと言ったら、50 年くらいし か差がついてないぞと。これなら追い越せる、富国強兵 ということで、みんな一致したわけです。たとえば大久 保さんと桂小五郎は仲が悪かったのですが、その点にお いては、行った人は一致してるのです。富国のためには 何があるかというと、通商産業、工業、これを興こさな くてはならない。それによって武力を強める、これしか ない。 ところがですね、ここだけが西郷さんの残念なところ ですが、西郷さんは外国を見なかったのです。それで大 久保さんが書いたものをみると、西郷さんに「お前も外 国へ行って来い、一度見て来い」としょっちゅう書いて いるのです。ところが西郷さんは病気だったので行けま せんでした。もしも西郷さんがいらっしゃっていれば、 8 その後も大久保さんと二輪馬車のように行けたのではな いかと思うので、それは残念でありました。 それは事実、 『西郷南洲翁遺訓』を読みましても、庄 内藩の武士が「これからの日本はどうなるのでしょうか」 と聞きましたら、文武農だといっているわけです。文は 儒教です。武は武士道精神、農は農業です。それで鶴岡 の武士たちは大開墾をやるのです。しかしこれは、 ちょっ とずれました。残念ながらこれだけは大久保さんと西郷 さんがすれ違った最大の原因は、外国を見なかったこと だと思います。これが悲劇の元でありました。 〈精神面では武士道の一番良い形〉 しかしそれは政策上のことでありまして、精神の方で は、やはり武士道・騎士道の一番良い形を日本において いる。しかも大きな形で。新しい政府の軍隊と、一番古 い封建時代の藩との間で、あれだけうるわしい関係が生 じたということは、私は世界的な美談として世界中の人 に知られても良いと思うのです。それはアメリカにも反 省させたい点があって、日本のよく戦った将軍たちを死 刑にしたのはあなた方の国に騎士道精神がなかったから だと、騎士道の伝統がない国の弱みが出ましたねという ことを、プライベートな所では言ってもいいと思います ね。政治家が言ったのでは問題になりますが。 私は最初に申し上げましたように、西郷さんのような えらい人のことは良くわからないところがありますの で、上っ面みたいなことを申し上げましたが、最後に私 が今から 70 年程前に習った、西郷南洲翁の遺訓をへた ですけれども朗唱してみます。 これは有名なもので、 へ かた て 志始めて堅し、丈夫は玉砕し 「幾たびか辛酸を歴 せんぜん は 甎全を愧ず 一家の遺事人知るや否や、児孫の為に 美 田を買わず。」 どうも失礼いたしました。(文責 編集部) 西郷南洲書「感懐」 書『感懐』は西郷南洲翁遺訓のなかで もっとも有名で、山形県鶴岡市の致道博 物館に保管されている <研究発表> 平成 25 年 11 月 野田正興理事 「出水兵児修養掟」 「強い心と物の哀れが分かる人間を目指して」 藩政時代の子弟教育に使われた掟(規範)が、薩摩の 地に幾つか残されている。 その一つに、 「出水兵児修養掟」 がある。 島津家取り潰しを画策する徳川幕府に対抗して、 隣国肥後との国境の守りを固めるべく、江戸初期の寛永 6 年から 28 年間、特に青少年の訓育に力を注いだ出水 郷の第 3 代地頭、山田昌巌(しょうがん、1578-1668) ※の教えを表現したものとされる。 風雲急を告げる幕末へかけて、他の方限(郷)の掟書 を参考にしながら作り上げたものもあるとされる鹿児島 城下の方限の掟と比べると、生活規範や行動規範の領域 を超えて、人間いかにあるべきかの根本原理にまで踏み 込んだ点に、大きな特色がある。 「士は節義を嗜(たしな)み申すべく候」で始まる出 だしの「士」を、 「ひと」に置き換えて読んでも、現代 に十分通用する内容である。感性豊かで思いやりがあ り、人生の哀歓も理解できる人間になるよう日頃から嗜 め(心がけよ)と呼びかける。文武両道の推奨による「温 和慈愛」の高尚な理念の実現を、すでに兵児(青少年) の段階で求めたものである。 この 「出水兵児修養掟」 。実は、 江戸時代中期の儒学者、 室鳩巣(1658-1734)が著した「名君家訓」の第 4 章 と瓜二つである。ここから、出水郷で言い伝えられてき た昌巌の教えを後世に文字化する段階で、室鳩巣の文章 に出遭い、昌巌の教えを表わすのに最も相応しい文章だ と判断して採用したとする見方が出てくる。 ただ文言は同じでも、思考過程とその意味合いには大 きな違いがある。室鳩巣は、元和偃武で戦がなくなった あとの武士の立場はどうなるのか。身分制度、封建体制 いず み へ の将来はという政治的な危機感を背景に思索した結果、 受動的に到達した武士道、人間観を示している。一方、 昌巌は、徳川幕府の取り潰し戦略に対抗して兵力の強化 に奔走した江戸初期の薩摩で、戦いを超えて人間いかに あるべきかを仏教的に考察してたどりついた積極的な人 生哲学を示唆している。 強い心ばかりでなく、物の哀れも分かるバランスのと れた人間になれ。「節義」(人間としての正しい道)を中 核に普遍的な価値を説く出水兵児(いずんべこ)修養の 掟。今も出水地方の子どもたちに教えられ、伝えられて いる。 ※【山田昌巌】武人にして政治家、思想家 日向高城の守将山田有信の子であった千代太郎(有栄 のちの昌巌)は、秀吉の島津攻めで降伏の証として羽柴 秀長の陣に人質に取られた辛い経験を持ち、薩摩に帰っ たあと 14 歳で朝鮮の役への従軍を申し出たが、17 歳 になるまで許されなかった。関が原では、数少ない生き 残りの一人として、その時の軍功で 200 石の加増を申 し受けたが、武人としての苦労や功績を語ることはな かった。 20 代の若さで福山の地頭という政治的な立場に立っ てからも、軽輩にも親切かつ公平に接して慈父のように 慕われた。さらに福山時代の 30 年間に、仏門に帰依し て仏書に親しみ、昌巌を名乗った。51 歳で出水郷地頭 に転出、28 年間つとめたあとの余生を北辺の出水郷で 送り、90 歳でその生涯を終えた。 こ しゅうようおきて 出水兵児 修 養 掟 し せつ ぎ たしな そうろう 士ハ節義を嗜み申すべく候。 たしな いつわ わたくし かま こころすなお さ ほう かみ へつ 節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず、心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂 しも あな かんなん おの やくだく たが か い たの も かりそめ しもざま いや らハず下を侮どらず人の患難を見捨てず、己が約諾を違へず、甲斐かいしく頼母しく、苟且にも下様の賎し はし たとえはじ くび は おのれ な き物語り悪口など話の端にも出さず、譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、死すべき ひとあし そのこころてつせき ごと おん わ じ あい あわ なさけ もつ たしな 場を一足も引かず、其 心 鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと なり 申すもの也。 口語訳 人は正しいことをしないといけない。 正しいこととは、うそを言わないこと、自分よがりの考えをもたないこと、素直で礼儀正しく、目上の人に ぺこぺこしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、困っている人は助け、約束は必ず守り、何事にもいっ しょうけんめいやること、人を困らせるような話や悪口などを言ってはいけないし、自分が悪ければ首がは ねられるようなことがあってもべんかいしたりおそれたりしてはいけない、そのような強い心を持つことと、 小さなことでこせこせしない広い心で、相手の心の痛みが分かるやさしい心を持っているのが、立派な人と 言えるのです。 (出水市ホームページより) 英語訳(12 ページへ) 9 薩摩士魂の会 平成 25 年度版 <活動報告> 【4】史蹟研修 上村哲夫理事 荘内南洲会主催教学の旅「幕末の水戸・会津に学ぶ」に参加して 平成 25 年 8 月 27、28 日、荘内南洲会主催の教学の ムの中で日新館を訪問、白虎隊少年たちの論語学習の間, 旅に薩摩士魂の会より森園代表以下 4 名の理事が参加 続く大極殿は孔子像を祭り正面にて三顧の礼をする。厳 した。初日はまず水戸の偕楽園を散策、針葉樹や竹林に 格な什の掟は有名だが、郷中教育との違いを感じる。 覆われた森は陰、明るい広々とした梅林は陽とした陰陽 鶴ヶ城は戊辰戦争激戦の地。1300 名もの犠牲者を出 道の設計思想に感銘する。 した戦いに、綾瀬はるか演じる砲術師範山本八重も奮戦 荘内組と合流後、常盤神社、徳川ミュジアム、弘道館、 した。会津藩家老西郷頼母一族 21 名は自刃して果てる 回転神社、西山荘を訪問した。光圀公の大日本史編纂、 等、会津の悲哀に胸が打たれる。飯盛山登り口で荘内組 藤田東湖らの激烈尊王攘夷思想、桜田門外の伊井直弼殺 と別れを告げ、白虎隊の墓を参拝して帰路に就いた。 害、徳川慶喜の擁立等幕府崩壊に多大の影響を及ぼした 今回はバスを使っての長旅であったが、車中で荘内南 歴史・史蹟があるものの、大震災の影響もあってか伝承・ 洲会編集の資料での勉強会、また夜は遅くまで荘内南洲 顕彰の活動をあまり感じ取れず残念であった。 会熱血幹部の方々との西郷さんにまつわる議論で時を忘 二日目の会津若松は、大河ドラマ「八重の桜」のブー れ、親交できたことは真に有意義であった。 西山荘 追 悼 豊蔵 一(顧問) 2013年12月30日 ご逝去 (享年 86 歳) 博識にして温厚なお人柄で、貴重 なご指導をいただきました。心よ りご冥福をお祈り申し上げます。 (略歴:建設省事務次官、住宅・ 都市整備公団総裁、セントラル野 球連盟会長) 10 常磐神社 <活動報告> 【5】顕彰慰霊 治水神社 春季、秋季両例大祭 木曽三川の宝暦治水工事で犠牲となった薩摩義士を祀る治水神社(岐阜県海津市)恒例の春季、秋季両例大祭に参列。 平田靱負 辞世の句 荘内南洲神社 西郷南洲翁の大徳を偲ぶ会 当日、鶴岡市の致道館を訊ねる。 玉串奉奠 宿利理事来賓挨拶 致道館 自顕流演武 (平成25年11月23日) 研究発表「出水兵児修養掟」に関連して。 薬丸野太刀自顕流(抜き) 〃 (形) 11 Rules to be morally cultured by young men in Izumi (出水兵児修養掟)9 ページ参照 Be a man of principles. Work with might and main, Be resolute in your intention, In order to be a man of principles: Be to be relied upon, however, Do not utter an untruth, On no account you speak of Be mild , sensitive and merciful to Do not look to your own interests, something contemptible nor ill of others. Be honest and decent-mannered, others, All these are to make you a man of Do not fawn upon your superiors nor Be a man of honour, therefore, you principles. domineer over your inferiors, should not do what you should not, Help those who are in trouble, even if your head were to be cut off, Be true to your word, Never escape from your fate, (Translated into English by Okamoto, Makoto) 理 念 「薩摩士魂」とは、遠く島津日新斎以来の武士、近くは西郷南洲をはじめとする薩摩の志士達が身を挺して 示してきた正義感、質実剛健の気概、自立・自尊・自戒の精神などいわゆる薩摩武士道であり、それらはかつ ての薩摩人の誇りであった。われわれ薩摩士魂の会はこの伝統ある薩摩士魂を、現代に生きる自らの心に蘇ら せ、日頃の行動指針にすべく自奮・自励し、以て郷土鹿児島および日本人の精神作興に寄与し、世界人類の愛 と平和に波及貢献することを念願する。 基本的な活動方針 1. 幕末維新期の人物や史実の研究を深める。 2. 研究の成果を、総会や催しなどを通じて広く国内外に発表する。 3. 志を共有する全国の方々と連携し、相互に研究会や訪問などを行なう。 役 員 構 成 鹿児島支部 名誉顧問 島津修久(島津家第三十二代当主) 支部長 内宮孝雄 谷村昭一(元経済企画庁事務次官) 〃 越場義廣 顧 問 春成幸男(元三州倶楽部会長) 代表理事 森園安男 副代表理事 前囿利治 理 事 飯田昌之、内宮孝雄、上村哲夫、黒肱節郎、﨑山猛 宿利義和、田之頭稔、野口重信、野田正興 監 事 有馬純幸、上村泰子、川畑満洲夫 副支部長 大園正陽 〃 淵脇智沙子 事務局長 橋本龍次郎 事務局長代理 岩元拓夫 〃 安川あかね 〒107-0062 東京都港区南青山 1-15-14 ㈱豊建築事務所内 Tel.Fax.03-3404-3542 e-mail: info@satsumashikonnokai.or.jp http://www.satsumashikonnokai.or.jp 12
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