「 今は憐れみを受けている」

章
~
節
北川 義也
今「は憐れみを受けている」
ペトロの手紙一
1
京都・洛北教会伝道師
( 2・9) 人 々 に 宣 べ 伝 え る
ために召し出されている。こ
れは、本当に「驚くべき」出
来事としか言いようがありま
せん。しかし、同時に私たち
はこのことを通して大いなる
幻を見ることを赦されていま
す。それは、様々な状況の中
から集められ、各地へと遣わ
されている私たちが携わる伝
道の業を通して、地上にあま
ねくイエス・キリストが宣べ
伝えられ、この世のすべての
人々が神の民とされた時に神
の国は完成され、その時にこ
そ私たちが今、神の憐れみに
よってはるかに仰ぎ見ること
を赦されている終わりの日の
希望が、現実のものになると
いう究極の幻です。
私 た ち は、「 か つ て は 神 の
民ではなかったが、今は神の
民 で あ り、 憐 れ み を 受 け な
かったが、今は憐れみを受け
て」(2・ )います。
そして、これこそが私たち
の喜びの源です。この喜びを
語る者として、共に手を携え、
りか、この言葉がきっかけと
なって人々は主を十字架へ追
いやったということを。
私 た ち は、 神 が こ の 世 に
送ってくださった御一人子に
よって、救いの光が目前に示
さ れ て い る に も か か わ ら ず、
それを受け容れることが出来
ないばかりか、はっきり拒絶
してしまうような弱く愚かな
存在です。けれども神は、そ
こまで罪深い存在である私た
ちを見捨てられませんでし
た。私たちは、暗闇の中をた
だうごめくだけで、光を知る
ことすら出来ない存在である
にもかかわらず、神の御一人
子が死から甦られた、すなわ
ち、暗闇そのものに勝利され
たことによって、真の光のた
だ中に入れていただいている
のです。
私 た ち が、 本 来 な ら ば 決
して抜け出すことが出来な
い は ず の 暗 闇 の 中 か ら、「 驚
くべき光の中へと招き入れて
くださった方の力ある業を」
神の民 、 主
「
」
「 の憐れみを受
ける人々 」
を教会に増し加え
るために力を尽くそうではあ
りませんか。
1
2
63
10
15
10
私たちは、神に礼拝を「献 (2・2)とは、「疑うことなく、
げる」存在であり、礼拝にお 全 き 信 頼 と 謙 遜 と を も っ て、
い て 神 の 御 言 葉 を「 受 け る 」 ひたすら神の御言葉に聴き従
存 在 で す。 私 た ち は、「 霊 の う」ことだと理解出来ます。
乳」
、 す な わ ち、 神 の 御 言 葉
私たちは、この世の常識か
に 与 る こ と に よ っ て「 成 長 ら 見 た ら、「 家 を 建 て る 者 の
し、救われるように」なるの 捨てた石」にしか過ぎないよ
であって、この栄養分が断た うな存在を、神によって与え
れた時、私たちは本当の意味 られた「尊いかなめ石」とし
で生きているとは言えない存 て全面的に信じ、受け容れる
在となるのです。
ことによって初めて、真の福
主イエスは、弟子たちに「子 音であり、自分を生かし導い
供のように神の国を受け入れ てくださる命の源であるお方
る人でなければ、決してそこ と向き合うことが出来るので
に 入 る こ と は で き な い 」( マ す。
ルコ ・ )と語られました。
しかし、思い起こしてくだ
主が求めておられるのは、大 さい。主イエスが「わたしが
人にすがり付かなければ生き あなたがたに話した言葉は霊
ていけないことを自覚してい であり、命である」(ヨハネ6・
る子供のように、神にすべて
)と告げられるや否や、そ
をお委ねする。そして、親か れまで従順に従っていた人々
ら与えられた乳を疑うことな が 一 斉 に 主 の も と か ら 離 れ
く飲み込む子供のように、神 去って行ったことを。人々に
に 全 面 的 な 信 頼 を も っ て 従 とって、御言葉を受け容れる
う。このような姿勢です。こ と い う 行 為 そ の も の が、「 つ
れ に 照 ら せ ば、「 生 ま れ た ば まずきの石、妨げの岩」となっ
か り の 乳 飲 み 子 の よ う に …」 たことを。そして、そればか
10
昭和 52 年10 月13 日第三種郵便物認可
毎月1回10日発行 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
2007
6
360
上 田
光 正
日本基督教団福音主義教会連合創立三〇年を迎えるに当たって
教会連合の使命
東京・美竹教会牧師
教団・教区の支えにより、自
と 同 じ よ う に 見 な さ れ、「 キ
悟」という牧師は、むしろ大
己形成に励み、
「伝道と牧会」 リストと教会のために死ぬ覚
に努める、と理解されます。
いでしょうか。私たちの信仰
変珍しくなってきたのではな
では、私たちの日本基督教
団の現状はどうでしょうか。
残 念 な こ と に、 教 団 は 今、 は、そして召命は、一体どこ
非常に大きな危機に立ち至っ へ行ってしまったのでしょう
ています。
各個教会の教勢は、 か。これは、各個教会とその
り速い速度で弱体化の一路を
の問題を考え併せると)かな
う問題意識にまで立ち至らせ
教団もまた、その果たすべき
任であるだけでなく、やはり、
責任者である私ども自身の責
教団の果たすべき役割とし 辿っています。また、教団全
て こ こ で 考 え て み た い の は、 体は(私どもとは違う立場の
ます。
から賜った日本伝道の使命が
されて以来、否、神学生となっ
第一に、傘下の教会の信仰の 人 々 も 含 め て )
、日本社会へ
●教団はその果たすべき役割 実質的には(つまり、高齢化
た時から現在に至るまで、教
醇 化 と 伝 道 意 欲 の 向 上 で す。 の福音の証において、越える
果たされているのか、という
団の諸教会が己れの果たすべ
第二に、そのために指導力の ことの出来ない大きな壁に突
●教会連合の課題
教会連合が発足して、早や
三〇周年が巡って来たとのこ
き責任を果たしていない、と
を十分果たしているか
と。まことに感無量です。
いう強い問題意識を持ってき
一点に集中します。私は任職
教会連合は日本のプロテス
タント教会のほぼ七割を占め
●教会連合の戦略は
機能を果たしていない、とい
る日本基督教団の中の、改革
たる教団に対して、どのよう
では、私たちはこの全体教会
妥当であると考えます。それ
いう観点から考えられるのが
への奉仕と日本全体の伝道と
に当たり、これまでの歩みを
しょうか。この三〇年の節目
方をしなければならないので
めには、今後どのような歩み
でしょうか。また、変えるた
を変えて行くことが出来るの
と に お い て、 ど こ ま で そ れ
て、その使命と課題とは、全 それでは、教会連合はこの
体教会(即ち、
日本基督教団) よ う な 教 団 に ご 奉 仕 す る こ
想の中では、「教会を立てる」 り文句のように言うのも気が
勿論、これだけでは伝道は たして来なかったし、今も果
出来ません。現行の教憲の構 たしていない結果です。決ま
げられるでありましょう。
礼拝と礼典を整えることが挙
こ の よ う な 現 象 は、 明 ら
か に、 教 団 が そ の 使 命 を 果
う 一 つ だ け 付 け 加 え る な ら、 に晒されることになります。
要であると考えます。更にも の教会でも、統廃合の憂き目
ま す )。 以 上 の 二 つ が 最 も 重 激な減少のため、相当の規模
( こ の 中 に は、 教 師 の 養 成 と 召 命 感 に 燃 え る 若 者 が 減 少
いうことは明らかです。
は些かも減じてはいない、と
いということ)を抱えている
味での養成、このいずれにお
の醇化及び教師の実質的な意
さて、教団が今なおそのよ
うな大きな問題(即ち、信仰
あ る 教 師 を 立 て る こ と で す き 当 た っ て い ま す。 そ し て、
どうであったか
な改革の必要性(または、危
振り返りながら、この問題を
ました。
機感)を感じて来たのでしょ
じっくりと考えてみたい、と ( 伝 道 計 画 の 作 成、 協 力、 相 引けますが、信仰告白の実質
志向的なグループです。従っ
うか。また、現在感じている
思います。
題 は 教 区 に 委 ね ら れ て い ま 鼓舞する福音が語られていま
互援助などを含む)という課 が失われ、説教壇では信徒を
てきた連合の戦略も未だに効
うことは、三〇年間戦い抜い
そこで顧みたいことは、教
団が今なおダメである、とい
限り、教会連合の存続の意義
成と伝道を十分に支えている
す。また、各個教会は、この せ ん。 教 職 は こ の 世 の 職 業
認定、即ち、教師検定があり し、近い将来には、教職の急
のでしょうか。それは、この
いても各個教会を支えていな
教団が果たして各個教会の形
のか、また、それによって主
2
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
ていました。信仰の醇化の問
は、重要なポイントを押さえ
のでしょうか。大筋において
とは、どのようなものだった
なのです。では、連合の戦略
を奏していない、ということ
は残念であったと思います。
誤解まで招いてしまったこと
内小教会」と言った、あらぬ
て、
「 分 派 主 義 」 と か「 教 会
い状況となりました。かえっ
全体で理解されたとは言い難
来の目的に適った説明が教団
●教会連合は教団を
ます。
念場に立たされるのではない
私 ど も は、「 教 会 形 成 や 制 うか。勿論、教団の方が先ず、
か、という危機感を覚えてい 度の話ばかりで、
中味がない」 東神大非難決議を撤回しなけ
もは教団史始まって以来の正 らよいのでしょうか。
はないことが、了解されてき の大きな目標と考えられるの
決してそのような甘いもので も多く養成することが、連合
う空気がありました。しかし、 召命感に燃えた教師を一人で
改革の問題が熱心に、真剣に、 れば、解散もあり得る、とい 切実に思いますことは、真に
かつて連合の中では、教師 くれるような議論を展開する
検定試験の問題さえ解決され ことが大事だと思います。今
ん。私はむしろ、本質に立ち
革に成功することは出来ませ
という批判を貰うようでは改
な、「共に主の教会に仕える」
す。とにかく、お互いに真摯
すから、一方的断罪は論外で
うに考えるかに関することで
神学生の召命・訓練をどのよ
べることは当然出来る訳です
いぐらいに思います。教師養
の主要議題の一つにしてもよ
ればなりません。常議委員会
だとすれば、連合が打ち出し
ました。そこで引き続き教団
められるかどうかという問題 よくするはずですから。
はないでしょうか。教師委員
が、事は神学教育という業や、
成に関して、教団は意見を述
他に手はなさそうです)
。教
した。その努力の結果が、先
定 試 験 の 基 準 の 明 確 化 で す。 そして、粘り強く論じられま
師養成のポイントは、教師検
般 よ う や く 実 を 結 び、「 日 本
ました。現在の問題は、濱田・ ではないか、
ということです。 という態度で臨むべき事柄で
く和解すべきではないでしょ
題は、信仰告白の鮮明化に移
変えることが出来るのか 帰って、こちらと同じ前提に
立っていない人でも賛成して
た「教団信仰告白を教師検定
基督教団信仰告白を教師検定
し替えることが、ある程度ま しかし、連合は直ちに軌道
で 出 来 ま す( と 言 う よ り も、 を修正し、神学研を立ち上げ
試験の基準とする」という主
全く至極当然の主張が常議員
正常化の問題と取り組んでき
取り組み、東京教区が会議の
学が教師養成の問題と真剣に
れはしませんし、東京神学大
に於ける福音伝道の戦いを忘
す。勿論私どもは、各個教会
教団の中では教会連合だけで
に、教会はますます著しい高
感じられません。むしろ反対
伝道するようになった、とも
ありません。教師が命懸けで
化し、元気が出てきた訳では
です。教団の教会の信仰が醇
し か し、 こ れ で 問 題 が 解
決したわけでは全くないの
によるとしか思えません。
むっている人々が余りにも多 方 的 断 罪 」 は 誤 り で あ る と
体教会の重大な危機に目をつ 北議長が「議長総括」で「一
か過ぎないのに――、この全 大との和解です。せっかく山
いる間――それも短期間にし 考えているのは、教団と東神
自 分 の 教 会 が 上 手 く 行 っ て す。私が非常に急務であると
う で す。 更 に 残 念 な こ と は、 来ることが沢山あると思いま
ダメだ、と思っておられるよ 音主義教会連合としては、出
残念です。教団の信仰はもう 題ですから、教団に仕える福
解決の道を与えるに違いあり
の問題にも、プラスの方向で
気を変えます。神学校間格差
なることは、きっと教団の空
全教団の教会に仕えるものと
の 神 学 校 で あ る の で は な く、
大が現在のように特定の教会
そのようにして、東神大と
教団の関係が正常化し、東神
会が早急に取り組むべき重要
と言えるでありましょう。(い
会で可決されたのです。主の
張は、
まことに適切であった、 試 験 の 基 準 と す る 」 と い う、 阿部両先生の正教師登録が認 なぜなら、それは必ず教団を
ずれにしても、上記二つの問
課題です。そのために、連合
より、遥かに深刻です。
勿論、教師養成に専門的に
( こ の 危 機 の こ と を よ く 知 従 事 す る の は 神 学 校 で あ り、 が何らかの役割を果たし得る
り な が ら、 既 に 諦 め て い る 教 団 や 連 合 で は な い の で す。 はずです。
たことを、忘れてはおりませ
齢化・弱体化の危機に晒され
い、ということです)。
題 と 真 摯 に 取 り 組 ん だ の は、 まことに大きなお導きと忍耐
ん)
。
ています。そして、恐らくこ
では、教会連合はどうした ら、教団は東神大と一日も早
はっきり言っているのですか
方々がおられることは、大変 しかし、教師養成は教団の課
しかし、残念なことに、連
合の教師検定試験・按手礼執
こ十年ぐらいの間こそ、私ど
ません。
行は、その実施に当たり、本
3
(第三種郵便物認可) 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
シリーズ・山北宣久議長総括から考える
九州教区総会の現場から
長崎・長崎古町教会牧師
福 井
博 文
告白の承認、救いの恵みに貫
を簡潔に言い表した教団信仰
る。基本信条と福音的諸信条
必要なのは一~四と十二であ
したい。この中で早速改善が
たしたちは両者が同一のもの
ることが義務づけられた。わ
白と並べて戦責告白を告白す
開会礼拝において教団信仰告
欲しい。
九州教区では三年前、
とにされた。
か れ た 聖 書 の 正 典 性 の 承 認、 で な い こ と を 理 由 に 反 対 し
ゆ る や か に 構 築 さ れ た 教 憲、 た。結局数の論理で戦責告白
は開会式の冒頭に告白するこ
教規だからこその尊重、聖礼
按手礼執行方法を変更する
議案は、常置委員会記録によ
はならない。按手礼は使徒継 るところ愛餐である等と主張
承の問題も含んでおり責任の する。祈りの中で自らの罪を
教憲・教規の精神を軽視し独 ると言う。イエスは人間なの
立王国のよう振る舞いをして で当然罪も犯す、聖餐はつま
した。議案への賛成意見は少 道体制の立て直しである。
なく継続審議となった。教区
教区の一部の若い牧師た
は教団総会の決定を執行する ちは、聖書を読んで自分がど
執行機関に過ぎない。それが う感じるかが正しい信仰であ
条 第 三 項 に よ り 信 仰 職 制 委 すための教師検定試験の基準
員会に諮問すべきことを主張 の明確化、そして、教団の伝
かさの中での閉塞感におびえ
は信仰が失われつつある現実
化よりも、福音の宣教そのも
キリストにある福音の喜びを
総括の終わりに山北議長
は「今こそ、世界の希望たる
ると教区議長が信徒及び補教
要なのは正しく力ある福音で
典の教会的解釈の復権、正し
る べ き こ と、 教 規 第 四 十 四 い福音を教える教師を生み出
の変更であった。宣教基本方
師の按手参加を代行する形
伴う事柄である。単純に差別 告白懺悔することもない。キ
の問題として扱うものではな リスト教という信仰の基本的
ある。四十年前に出された戦
を列挙し、惰性と停滞に疲弊
針に関しては、教区常置委員
で、当該教会に出向いて役員
な枠組みが分かればそれでい
する教区内諸教会が心配であ
会の提案した議案が「戦責告
及び信徒の取り囲みの中で行
い。
偏った宣教基本方針
白に固く立って」を主眼とす
うというものである。正教師
十年間の宣教基本方針と基本
方策の策定であり、もう一つ
按手礼執行方法
を認める立場から、反対を表
は正教師への按手礼執行方法
音を宣べ伝えることの第一義
ち合う」という偏った言葉で
第十八条第七項より教憲及び
按手礼の執行主体は教区で
はなく教団であること、教規
いというものではないが、分
革すべきものを変革し、時代
い、守るべきものを守り、変
責告白の位置づけを早急に行
の動きにしっかり切り込んで
四十年を「荒野の四十年」と
山北議長は第三十五回教団 総会で一九六六年十月からの 戦責告白の教会的位置づけ
け止めたい。
でひとつの神の時が来たと受
○九年の宣教百五十年に因ん
いくことが求められる。二○
呼び、十二項目の誤りを認め
九の「戦争責任告白」教会
懺悔された。その勇気に感謝 的位置づけの明確化も急いで
ある。
かっていないと対話は成り立
自暴自棄になっている。今必
を憂い、考えのない人々は豊
のを待っている。心ある人々
べる。現代社会は福音の実質
本基督教団でありたい」と述
社会の混迷の中にもたらす日
るのに対し、
わたしたちは
「戦
の参加は認められない。わた
教会的機能
る。
責告白の歴史的意義は認め
したちは現在の教団の教職制
去る五月一日~三日に九州
教区総会が福岡中部教会で開
つつも、教団信仰告白に固く
度及び二種教職制の有意味性
迷走する正教師の
立って」を主張した。九十九
催された。今回の争点は将来
票対六十三票で敗れたが、福
及び教務の立て直し たない。早々に対策が必要で
性を主張する者の結束は揺る
明した。 しか表現せず、
二十一項目
(宣
教規の解釈は教団総会で論じ
ぎ な い。 福 音 を、
「広く分か
教基本方策)に渉る社会活動
4
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
第1回
性をそこに表現しました。
す。旧会堂から継承する連続
にした理由もそこにありま
教卓を新会堂に組み込むこと
したが、旧会堂の聖餐卓と説
す。このナルテックスは、無
を通って入ることになりま
の暗い小部屋
(ナルテックス)
堂です。礼拝堂には、このほ
据えられた祈りの空間が礼拝
設計者に難題を押しつける
形 で「 ナ ル テ ッ ク ス 」 を 設
礼拝堂の入り口
一筋の光に導かれ礼拝堂の扉
らの暗闇(罪)を自覚しつつ
す。 上 を 見 上 げ る と 垂 直 に、
装飾で何もない空虚な空間で
します。
置 し ま し た。 礼 拝 堂 の エ ン
山 口 隆 康
伝道する教会と礼拝堂 東京神学大学教授
教会の基礎と聖餐台
を開けるとそこに明るい光の
エス・キリストの伝道命令に
トランスにどのような理念を
なる空間」が礼拝堂建築の鍵
五反田・玉川平安教会牧師
として歩みの中で生み出した
忠実であったかと言う観点か
採用するかは難しい応用問題
戸越礼拝堂の第一の特徴
は、聖餐台にあります。聖餐 です。外界である表通りと礼
工事中の聖餐台部分です。次
ていただくことにします。礼
最初に戸越礼拝堂を紹介させ
ているのは礼拝堂の建物かも
拝堂」です。もっとも伝道し
た。伝道する教会の顔は「礼
堂を移築することになりまし
展開が期待できる場所に礼拝
ました。結論は、より伝道の
コンクリートの台座の上に旧 屋を設置したのです。礼
じように基礎から立ち上げた 準備のための祈りの小部
を設置しました。説教台も同 餐卓にむかうための聖餐
に旧会堂の聖餐卓の天板部分 ス)を設け、礼拝者が聖
基礎コンクリートの台座の上 り口に前室(ナルテック
あることがわかります。この 単に言えば、礼拝堂の入
ると、それが礼拝堂の基礎で を採用しました。ごく簡
打ちっ放しです。会衆席に座 は「伝統的ナルテックス」
回は「礼拝堂と光」について)
の 食 卓、 説 教 卓、 洗 礼 盤 は、 拝空間の間を神社の参道のよ
いずれも基礎部分から建ち上 うに分離するか、それとは反
言 葉 で し た。( 写 真 は、 基 礎
空間が展開します。「光」
と「聖
す。このほのくらい空間で自
上方に伸びる光が目に入りま
二つ目の礼拝堂です。第一の
らの自己反省は、一つの教会
五反田教会戸越礼拝堂が完 設立以降二〇年の歩みを振り
成しました。
「伝道する教会」 返り、自己吟味しました。イ
礼拝堂は、二〇〇三年に開堂
道する教会にふさわしい新会
した
「センター北駅前礼拝堂」 的決断を生み出しました。伝
です。玉川平安教会と五反田
堂の建築です。二一世紀にお
ける福音伝道の展開という観 げられています。教会の土台 対に連続させるか、公共建築
点からみて、現在の礼拝堂の ( 基 礎 ) が ど こ に あ る か を 目 物のようにひたすらバリアフ
教会が対等の関係で伝道協力
を開始し、横浜北部副都心に
「センター北駅前礼拝堂」を
拝堂に焦点を当てながら「伝
しれません。伝道する礼拝堂
会 堂 の 説 教 卓 を 置 き ま し た。 拝堂の中心に聖餐卓が置
に 見 え る 形 で 表 現 し ま し た。 リーにするか礼拝堂建築
道する教会の建設」について
はどのような建築物になるの
五反田教会の教会形成の特徴 かれています。もっと正
ロケーションはこのままでよ
考えてみたいと思います。
でしょうか。このような視点
は、説教と聖餐礼典にありま 確には、聖餐卓が中心に
開設しました。時間的順序と
戸越礼拝堂を建築する歩み
の出発点は、これまでの五反
から数回にわたり戸越礼拝堂
聖餐台は基礎コンクリートの の難しい課題です。結論
田教会の歩みを「伝道する教
を紹介させていただくことに
は 逆 で す が、 こ の 紙 面 で は、 いか、という課題に取り組み
会」という視野から総点検し
た こ と に 由 来 し ま す。 教 会
5
(第三種郵便物認可) 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
能登半島地震 被災教会再建のために
ま た、 地 域 に 目 を 向 け れ
ば輪島塗などの地場産業や
観光業が深刻な打撃を受け、
特 に 奥 能 登 で は、 生 活 に 困
窮 す る 人 々 が 多 数 出 て、 今
までの過疎化にさらに拍車
も基礎が一部沈下し、深刻な
ま た、 能 登 の 教 会、 及 び
魚 津 教 会 は、 広 大 な 地 域 に
てきています。
剛
る調査の結果、予想以上に深
状況。一体化している関連施
それぞれただ一つある日本
小 宮 山
刻な被害を受けていることが
設の七尾幼稚園舎も亀裂が多
の壁に亀裂等の被害。
基 督 教 団 の 教 会 で す。 そ れ
三月二五日、まさに聖日の
礼拝が始まろうとする午前九
分かってきたのです。
数発生。
◆その他、各教会・伝道所で
らの教会がなくなるような
富山・富山二番町教会牧師
がかかる可能性があります。
時四二分、能登半島は、七尾
◆羽咋教会‥学童保育の施設
こ と に な る と、 信 徒 は 行 き
教会員の生活にも影響が出
市、輪島市、穴水町で震度六
この事態の深刻化を中部教
区も受け止め、当初能登圏に
で あ る「 ゆ り っ こ 児 童 ク ラ
は、多数の備品が損壊しまし
強を観測するという、未曾有
置いた対策本部を見直し、教
た。
区常置委員会の下に「能登半
ブ」の建物内で礼拝をしてい
の地震に見舞われました。そ
れらの地域では、多くの建物
場 を 失 う こ と に な り ま す。
こ の ま ま 放 置 す れ ば、 教 会
教会堂も壁や基礎に亀裂が見
分 が 傷 み、 建 て 替 え が 必 要。
◆輪島教会‥牧師館の基礎部
現在のところの状況は次の
通りです。
合幼稚園にも亀裂の被害。
一杯だったのです。
専任の伝道者を置くことで精
蓄 え は ほ と ん ど あ り ま せ ん。 と考えます。
教 会 ば か り で す。 も ち ろ ん、 施 設 を 守 り 抜 く 必 要 が あ る
教区からの援助を受けている
な る 恐 れ が あ り ま す。 同 じ
被災した教会は、いずれも
小 さ な 教 会 で 会 員 も 少 な く、 教 団 の 教 会 と し て、 な ん と
被災教会を取り巻く状況
それぞれの教会は、ちょう
ど教会学校の分級活動や、礼
られる。隣接する建物が倒壊
◆富来伝道所‥古い木造の建
関 連 施 設 も、「 浄 土 真 宗 王
国」と呼ばれる日本有数のキ
造の建物の柱、壁、梁に多数
拝準備をしている時刻でし
の恐れがあり、教会に被害が
物が、柱、梁等に構造上の被
リ ス ト 者 過 疎 地 域 に お い て、 興 の た め の 切 な る お 祈 り を
を組織して、支援と復興に乗
が 損 壊 し、 道 路 は 寸 断 さ れ、 島 地 震 被 災 教 会 再 建 委 員 会 」 るが、その鉄筋コンクリート
大きな被害がありました。
た。建物は倒壊しなかったも
及ぶ可能性も。
害。建て替えが必要。
とその伝道が立ちゆかなく
のの、激しい揺れに家具や備
◆七尾教会‥牧師館、及び礼
◆魚津教会‥こちらは富山県
の亀裂。関連施設の羽咋白百
品が倒れて散乱し、負傷者も
拝堂の地盤が一部沈下。その
り出すこととなったのです。
出ました。しかし、建物その
ため、牧師館は居住不能とな
教会の被害状況
ものには深刻な被害はなかっ
東部にあるが、鉄骨造の建物
ました。
る 次 第 で す。 ま た、 そ れ ぞ
賜 り た く、 お 願 い 申 し 上 げ
つ き ま し て は、 こ こ に、
全国の心ある皆様の震災復
再建のための支援を
してもこれらの教会と関連
たかに見えました。ところが
り、建て替えが必要。礼拝堂
伝道の重要な一翼を担ってき
その後の余震と、専門家によ
6
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
んでいただければまことに幸
れの場で、再建献金に取り組
部祐治牧師)と全国
代表者会(議長・阿
改革長老協議会全国
福音主義教会連合関西部会
中高生修養会
編 集 室
災した諸教会・伝道
堺市立少年自然の家で開催さ がありました。そして、分団
去る3月 日(火)~ 日 という主題で、中学生、高校
(木)、和歌山県日高市にある 生にそれぞれ2回ずつの講演
藤掛順一牧師)も被
連 合 長 老 会( 議 長・
いです。
ご 送 金 は、 郵 便 振 替 で
「 00830-7-52037 加 入 者
名・ 日 本 基 督 教 団 中 部 教 区 」
所及び諸施設の復興
も達を預かっておられまし
再建」と通信欄にお書き下さ 春休みを返上して地域のこど
被 災 教 会 救 援 献 金 」( 目 標 額
支 援 の た め「 能 登 半 島 地 震
関西部会(委員長・市川忠 でした。
彦牧師)は 年前に、教団紛
2日目から東京神学大学の
争のさなか、森里忠生牧師を 神代真砂実教授が加わってく
れました。
のは今春東京神学大学を卒業
援につき協議すると伺ってい
なお、日本基督教団では7
月開催の常議員会において支
参加者があり 数教会100
ラハム物語を題材として)な
どもあり、楽しい充実した修
今年は三重県の名張教会や 養 会 を 持 つ こ と が で き ま し
遠く埼玉県の安行教会からも た。
年の歴史があります。
の当初から実施されており
てきました。この修養会もそ スタンツのコンテスト(アブ
レーニング・センターとも言
その他、カヌーや釣りなど
うべき役割を、今日まで担っ の野外活動や、燭火礼拝後の
員・ 信 徒 研 修 会 な ど 霊 的 ト 話しくださいました。
中心に、教会の足腰を強めよ ださり、3日目の朝には礼拝
に分かれて学びを深めたこと
い。
います。郵便・振替口座番号
うとの願いをもって発足しま 説教を、そして、最後の全体
幼稚園に集っていました。
した五十嵐(いからし)先生
ます。
輪島教会は牧師の転任と重
なりました。新しく赴任した
( 写 真 右 ) で す。 在 学 中 に 他
3000万円)を呼びかけて
被災教会の苦境をご理解い た。その日も、牧師の「おは
ただき、被災教会に代わりま よう」という明るい挨拶に迎
00830-7-52037
加入者名・
日本基督教団改革長老教会協
編集室
そして募金のご案内
被災教会訪問
ます。
して、心よりお願い申し上げ えられて、こども達が教会の
した。教会学校教師講座や役 会では「献身のすすめ」をお
で、
「能登半島地震被災教会
報告
議会、「能登半島地震救援」。
29
30
名 を 越 す 人 数 と な り ま し た。
このために、神さまの祝福の
もと、 数名のスタッフが準
備会をかさね、心をあわせて
取り組んでこられました。
講師は鳥居坂教会の張田眞
牧師。旧約聖書のアブラハム
の物語から
「祝福への旅立ち」
7
27
30
10
去る4月3日(火)に七尾 教派から転入してこられ、現
教会、輪島教会、富来伝道所、 在は信徒伝道者という立場で
羽咋教会を訪問し、祈りをさ 教会に仕えておられます。自
さげました。小宮山先生の報 動車が無く不便しておられま
告記事に掲載の写真はその時 した。お祈りください。
山先生の報告にもあるように
に写したものです。能登半島
すでに、日本基督教団社会
は観光地であり風評被害を恐 委員会では能登半島地震救援
れて、被害の状況を過小に伝 募金を始めていますが、小宮
えているようでした。
七尾教会では礼拝堂と牧師 中部教区が被災教会の再建の
館が大きな被害を受けました ために全国募金を開始いたし
が、 教 会 幼 稚 園 で は 地 震 後、 ました。また、日本基督教団
30
(第三種郵便物認可)
第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
《シリーズ》信徒のための旧約用語基礎知識 第
囚
回
2.バビロン捕囚
のです。
わゆるバビロン捕囚が起こる
した。この百数十年後に、い
ンに連れ去られた捕囚の民は 代だとされるゆえんです。
かろうじて民族的な連帯感を
この捕囚期は約 年続きま
保つことができ、また、ある し た。 け れ ど も、 こ の 間 に、
ダヤ民族を根絶する政策をと 確かだったものをすべて失っ
らなかったからです。バビロ たのです。捕囚期が暗黒の時
た。なぜならば、バビロニア 荒廃し、捕囚によって民族は
はアッシリアとは異なり、ユ 引き裂かれました。神の民は
捕 囚 と は 性 質 を 異 に し ま し た事実を意味します。国土は
が知っているはずだと思った
に用いてきました。当然誰も
で「捕囚」について解説せず
今回は「捕囚」という旧約
用語を取り上げます。これま
呼ばれます。
ではなく、アッシリア捕囚と
た。この捕囚はバビロン捕囚
滅ぼされたときに起こりまし
ラエルがアッシリアによって
紀元前721年、北王国イス
立って、598年に第1回の
いうと決してそうではありま
このバビロン捕囚が一度
限りの出来事であったかと
がバビロン捕囚です。
制的に連行されました。これ
捕囚の民としてバビロンに強
滅したのです。多くの人々が
殿が瓦解し、ダビデ王朝が消
た。都エルサレムは陥落。神
「 バ ビ ロ ン の 流 れ の ほ と り ち( エ レ ミ ヤ、 エ ゼ キ エ ル、
に座り、シオンを思って、わ 第 二 イ ザ ヤ ) も 現 れ ま し た。
たしたちは泣いた」(1節)。 こうして、神に立ち返るなら
れています。
イスラエルは抱いたのです。
郷を思う捕囚民たちのどうし 族の歴史を本格的に編纂する
ようもない思いが切々と記さ 作業が始まりました。また再
捕
東京・中村町教会牧師
紀元前587年、存続して
きた南王国がついにバビロニ
からです。けれども、知らな
アッシリアは滅ぼした北王
国の人々を捕囚の民として
バビロン捕囚が起こっていま
小 友 聡
い人もいるのだということに
アッシリアに強制的に移住さ
す。 5 8 7 年 の 捕 囚 は 2 回
東京神学大学准教授
気づかされました。これは迂
居住させ、民族的混交を推進
ということをきちんと説明し せました。一方、旧北王国領
て お か な け れ ば な り ま せ ん。 土(サマリヤ)には異民族を
闊 で し た。
「捕囚」とは何か
しました。イスラエルの民族
バビロン捕囚はイスラエル やがて、バビロニアは滅亡
の歴史において決定的に重要 しました。征服したペルシア
アの侵略によって滅亡しまし
これはイスラエルの歴史にか
目 で あ っ た の で す。 そ の あ
程度の自由も保証されたよう イスラエルは自らの歴史を問
です。けれども、捕囚民の嘆 い直しました。なぜ、国が滅
かわる極めて重要な出来事だ
性を根絶する政策をとったの
な意味を持っています。とい の王キュロスは捕囚解放令を
うのも、捕囚はユダ王国が滅 出し、捕囚の民は故郷に帰還
はないからです。捕囚はまず
捕囚はバビロン捕囚だけで
捕囚が最初の出来事でありま
と言う場合、このアッシリア
この捕囚は先のアッシリア
人々でした。
生と復興を預言する預言者た
ば、神は再び救いをもたらし
てくださるとの確かな希望を
た 神 殿 を 失 う と い う こ と は、 苦しい試練を経て、イスラエ
イスラエルが神に見捨てられ ルは見事に復興したのです。
神殿祭儀が執行できなくなり するのです。捕囚は暗黒の時
ました。信仰の拠り所であっ 代でしたが、その捕囚という
らです。国が失われただけで 人たちが中心になって神殿が
はありません。神殿が消失し、 再建され、ユダヤ教団が誕生
3.バビロン捕囚の意味
きと苦悩は果てしないもので びたのかを反省し抜いたので
した。詩編137編には、故 す。その結果、イスラエル民
からです。
レミヤ書 章によれば、第1
です。要するに、反抗を阻止 と、 3 回 目 の 捕 囚 が あ っ た
するためです。これによって、 こ と が 知 ら れ て い ま す。 エ
サマリヤ地方は異教化を余儀
回は 023人、第2回目は
832人、第3回目は745
せ ん。 紀 元 前 5 8 7 年 に 先
1.二つの「捕囚」
亡し、イスラエルが世界史か することができました。紀元
ら姿を消す出来事であったか 前538年のことです。この
旧 約 聖 書 に お い て「 捕 囚 」 なくされました。主イエスの
は一義的ではありません。「そ 時代にサマリヤ人がユダヤ人
52
4
8
70
13
れってバビロン捕囚のことで に軽蔑されていたことがこの 人、総数 600人が捕囚と
し ょ う?」 と 答 え る な ら ば、 歴史的事実から説明できます なったとされています。その
完 全 な 正 解 と は 言 え ま せ ん。 (ヨハネ福音書4章)。「捕囚」 多くはユダ王国の上層階級の
3
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
ない。
不評の責任
3,000
相模原教会(有志)
24,500
吉本幸嗣・紀子
香里教会
5,000
山本松太郎
大阪教会
3,000
聖ヶ丘教会(有志)
55.000
飛鳥陽一
銀座教会
5,000
福永嘉彦
大阪教会
1,000
合 計
長山信夫・順子
銀座教会
10,000
鈴木優子
小松川教会
2,000
加藤清子
大阪教会
2,000
山根フサ
沖野俊行・義穂
大阪教会
3,000
合 計 町野英樹
大阪教会
36,000
平本善一
桜美林教会
3,000
塚本信・洋子
教師
6,000
古木勝敏・光恵
銀座教会
5,000
酒井久美子
銀座教会
2,000
中村央子
枚岡教会
2,000
阿部博子
銀座教会
1,000
三門博信☆
銀座教会
2,000
金子節子
鳥居坂教会
5,000
高橋はつ
鳥居坂教会
5,000
松永正和
泉ヶ丘教会
伊藤忠彦
教師
市川テル
大阪教会
3,000
大見川昭子
大阪教会
3,000
クールに買ってもらえるよう
に話し合われているか、と質
問し、話しはついていると返
大阪教会
讃美歌 の不評
讃美歌 は一九九七年に教
団出版局より刊行された。教
吉本田鶴子
2,500
ただ、これだけの大事につ 答された。が、経過は違って
いて、発行経過と事後につい いたようだ。
2,000
10,000
て、 責 任 を と る 人 が い な い。 他 の 問 題 点 も 出 さ れ た が、
仕 組 み が、 そ う な っ て い る。 在来版も併用するので適宜に
小松川教会
☆印は、イースター献金です。
もし、どうでも責任者をと言 利用するように、というのが
えば、教団に関係する総ての 常議員会での方向性だった。
人ということになってしま
鈴木 優子
7,750
団讃美歌編集委員会が編集し
ている。同年三月一七日には
東部地域出版記念会が青山学
院大学で行なわれている。
従って本年は一〇周年にあ
たるが、特別な企画を聞かな
い。不評がこたえているのか
も知れない。
う。筆者にも一端の一端はあ 早急な対応が必要 ることになる。
讃美歌出版・編集への仕組
ということは、皆が責任者 みは、変える必要がある。仕
組みの変更が実現するまで
は、機能を変える必要がある。
係わる人、担当する人を変
えなければならない。能力の
有る無しではなく、今までの
体勢になじんだ人は、退いて
もらって、革新的な対応をし
て欲しい。
例えば、讃美歌選を作るこ
と。讃美歌と讃美歌 の合作
集( 当 然 選 曲 ) を 作 る こ と。
などはすぐに思いつく。すで
に教会として準備に入った所
もあるやに聞く。話し合うこ
とも必要である。
9
出版直後に痛烈は批判書が
出 版 さ れ、 使 用 す る 教 会 も
21
(2007 年3月 11 日~ 2007 年4月 10 日 )
献金感謝報告
子美
や歌
孫へを
のめ伝
讃
ぐ道
って
思 っ た よ う に 伸 び な か っ た。 のように意見を言いわなけれ
多分経理的にも見通しは破れ ばならない仕組みなのに、讃
ていると思われる。
美歌 の場合は、殆んど誰も
長い間、出版局全般の経理 が、 何 も 聞 か れ る こ と は 無
は、讃美歌によって支えられ かった。
てきた。讃美歌売上げの利益 一九八〇年代の教団総会に
で、他の伝道文書の発行が助 出席し続けた人でも、讃美歌
けられ、教団の文書伝道の先
の内容は聞いていない筈で
兵がつとまったのである。
ある。最後の所で試用版は出
讃美歌は、救いのため、伝
道のために、大いに用いられ
なければならないからであ
る。
(小林貞夫)
教会献金
個人献金
21
21
青年伝道は半分以上、讃美 たが理解は不十分だった。
歌が突破口になっていたこと 常議員会では一度だけ説明
を 体 験 し て い る 筆 者 な ど は、 を聞いたが、内容には入れな
この不評と販売状況がゆるせ かった。筆者はミッションス
21
21
21
(第三種郵便物認可) 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
ローマの信徒への手紙
節
第 章
死 者 に 命 を 与 え、 存 在 し て い な い も の を 呼 び
出 し て 存 在 さ せ る 神 を、 ア ブ ラ ハ ム は 信 じ、
そ の 御 前 で わ た し た ち の 父 と な っ た の で す。
節
「この神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出
さ れ る 神 を 信 じ た 」 か ら で す。 そ の 時、 彼 は、 イ サ ク
章
節
の 父 に な る だ け で な く、 ア ブ ラ ハ ム の こ の 信 仰 に 従 う
すべての子孫の父ともなったのです。
歴代誌上8章
マタイによる福音書
第
ま ず 、杯 の 内 側 を き れ い に せ よ 。 そ う す れ ば 、
節
外 側 も き れ い に な る。 フ ァ リ サ イ 人 た ち は、 人 か ら の 栄 誉 を 求 め ま し た。
神に仕えるポーズを取りながら、その内実においては
12
は人体のように、それぞれの部分が仕えあって、生命
共同体は機能します。私達は神の共同体の、それぞれ
の部分なのです。
歴代誌上9章
マタイによる福音書 節
章
第
め ん 鳥 が 雛 を 羽 の 下 に 集 め る よ う に、 わ た し
は お 前 の 子 ら を 何 度 集 め よ う と し た こ と か。
節
23
歴代誌上7章
マタイによる福音書
節
第 章
律 法 学 者 た ち と フ ァ リ サ イ 派 の 人 々、 あ な た
た ち 偽 善 者 は 不 幸 だ。 節
3
ているのです。
歴代誌上
章
マタイによる福音書
第
し か し、 最 後 ま で 耐 え 忍 ぶ 者 は 救 わ れ る。
章
節
節
これは、当時のファリサイ人たちだけの問題ではあり
ません。私達もまた、
何時も「偽善者」になる弱さを持っ
の国を閉ざすからだ」とイエス様は言われます。
ファリサイ人たちは、外面的な敬虔をよそおいながら、
内面には不遜な感情が満ちていました。
「 人 々の 前 で 天
を意味するようになりました。
心をかくすために仮面をかぶる者、外見と内面の違う者
役者を意味する言葉でした。それから、演技する者、本
「偽善者は不幸だ」とイエス様は、鋭くパリサイ人た
ちを叱責されました。
「偽善者」とは元来、舞台の上の
火
歴代誌上6章
マタイによる福音書
節
第 章
だ れ で も 高 ぶ る 者 は 低 く さ れ、 へ り く だ る 者
は 高 め ら れ る。 節
23
ア ブ ラ ハ ム に は 神 か ら の 大 き な 約 束 が あ り ま し た。 自分自身が偉くなる事を求めていたのです。この上昇
「 わ た し は、 あ な た を 立 て て 多 く の 国 民 の 父 と し た 」。
思考は、私達の中に何時も強く働いている思いです。
妻 と 共 に 年 老 い た 彼 に と っ て、 こ の 約 束 は 人 間 的 に 考
イエス様は、自分を高くするのでなくて、仕える者
えれば実現不可能な約束、いわば無約束でした。
となれと教えられています。「高さ」を競い合うのは、
で も ア ブ ラ ハ ム は、 ま だ 見 て い な い 事 実 を 確 認 す る 競 争 社 会 で す。「 仕 え 」 あ う 事 に よ っ て、 愛 と 協 力 の、
ようにして、神の約束の実現を信じました。なぜなら、
新しい関係が生まれます。一本の樹木のように、或い
月
木
は十字架しかないのです。
た 後 に は、 救 い の 道 は な い の で す。 道 な き 道 を 開 く の
宣言しました。神の守り、主の呼びかけが空しく終わっ
の 報 い は、 み な 今 の 時 代 に 及 ぶ 」 と 最 後 の 神 の 審 判 を
主 イ エ ス は、 人 類 の 罪 を こ こ に 総 括 し「 こ れ ら の こ と
国 に 敵 対 し、 方 々 に 飢 餓 や 地 震 が 起 こ る。 そ の 時 苦 し
・
)。そして全世界に福音が宣べ伝えられて終わりが来
の 恵 を 受 け る た め に 忍 耐 が 必 要 な の で す( ヤ コ ブ
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。約束
る、と。
使 者 を む ち 打 ち、 処 刑 し ま し た。 主 イ エ ス は 人 の 罪 の み を 受 け 殺 さ れ、 主 の 名 の た め に あ ら ゆ る 民 に 憎 ま れ
歴 史 は 同 時 に 神 の 忍 耐 の 歴 史 で あ っ た と い う の で す。 る。 多 く の 人 は 躓 き、 互 い に 裏 切 り、 憎 み 合 う。 偽 預
言 者 も 大 勢 現 れ、 不 法 が ひ ろ が り 多 く の 人 の 愛 が 冷 え
預 言 者 や 知 者 を お 遣 わ し に な り ま し た。 し か し、 神 の
弟子たちが世の終わるときどんな徴があるのですか
フ ァ リ サ イ 人 た ち は、 律 法 を 形 の 上 で 守 る 事 は 厳 格
でした。しかしイエス様は、心の内を見られるのです。 主イエスは、旧約聖書以来の歴史を振り返って、「そ と 問 う と、 主 が 答 え ら れ ま し た。 惑 わ す 人 た ち、 主 の
れなのに」と言われます。神は、私たちを救うために、 名 を 利 用 す る 偽 メ シ ヤ た ち が 現 れ る。 民 は 民 に、 国 は
は『ぶよ』は漉だし、『らくだ』は飲み込んでいるよう
であると。
人 は 外 側 に 表 れ た 形 で 判 断 し よ う と し ま す。 し か し
神 様 は、 心 の 内 側 を 見 ら れ る の で す。 私 達 自 身、 自 ら
の心を吟味しなければなりません。
自 身 の 内 面 は、 食 欲 と 方 縦、 不 法 と 無 慈 悲 に 満 ち て
い る こ と を 告 白 し な け れ ば な り ま せ ん。 こ れ を 潔 め る
の は、 自 分 の 力 に よ る の で は な く、 イ エ ス 様 の 恵 み の
愛によるしかありません。
10
るのです。
10
2
5
13
13
4
23
13
-
22
1
-
14
日
水
23
24
1
4
「公平とあわれみと忠実とを見のがしている」と。それ
10
17
1
-
12
37
-
39
27
金
13
-
25
23
-
36
26
6
26
7月
聖書日課
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
章
偽 メ シ ヤ や 偽 預 言 者 の 出 現 に 注 意 し な さ い。 悪 の 力 が
いて、しるしや不思議を見せて私を信ぜよと迫る。「メ
章
節
テモテのへの手紙一
第
章
節
節
こ ろ か ら 起 こ る の で す。 弱 い 者 か ら 祈 り 始 め る 習 慣 が
章
章
身につくなら、信仰生活に益となります。
歴代誌上
マタイによる福音書
第
一 人 は 連 れ て 行 か れ、 も う 一 人 は 残 さ れ る。
だ か ら、 目 を 覚 ま し て い な さ い。 節
24
シヤよ、十字架から降りてこいと迫る悪の力です。」
歴代誌上
マタイによる福音書 章
第
天 地 は 滅 び る が、 わ た し の 言 葉 は 決 し て 滅 び
な い。 節
14
9
歴代誌上
章
マタイによる福音書 節
第 章
人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に
乗 っ て 来 る の を 見 る。 節
月
歴代誌上
マタイによる福音書
節
第 章
偽 メ シ ヤ や 偽 預 言 者 が 現 れ て、 大 き な し る し
節
そ こ で ま ず 第 一 に 勧 め ま す。 願 い と 祈 り と 執
り成しと感謝とをすべての人々のためにささ
げ な さ い。 1 節
1
主 イ エ ス が お 生 ま れ に な る 前、 2 世 紀 位 の 間 に、 黙
と り な し の 祈 り の 第 一 は「 す べ て の 人 の た め に 」 で
示 文 学 が 流 行 し ま し た。 世 の 終 わ り に 悪 魔 が 勝 利 す る あ り ま す。 そ れ は 一 般 庶 民、 と も 言 え る で し ょ う。 教
の か、 神 が 勝 利 す る の か。 こ の テ キ ス ト は、 紀 元 前
会 員 一 人 一 人、 平 凡 な 一 人 一 人 の た め に、 ま ず 祝 福 を
1 4 0 年、 シ リ ア 王 エ ピ フ ォ ネ ス が エ ル サ レ ム 神 殿 に
祈 る べ き で す。 さ ら に、 上 に 立 つ 人 々 の た め に 祈 る の
偶像を祭った事と紀元 年総督フロルスの悪政に対し
です。
て ユ ダ ヤ 戦 争 を 勃 発 し た、 エ ル サ レ ム 陥 落 の 歴 史 的 事
こ の 順 序 を 逆 に し て は な り ま せ ん。 教 会 の 問 題 の 多
件 が 背 景 に あ り ま す。 こ の よ う な 大 き な 苦 難 の 時 に、 く も、 平 凡 な 一 人 を 見 失 い、 目 立 つ も の を 優 先 す る と
や不思議な業を行い・・・ 日
水
大きな苦難によって神の創造された世界が闇の支配
す る と こ ろ と な り 崩 壊 す る。 そ の 時 救 い 主 は、 天 使 の
大軍を率いて奇跡的超越的な姿で地上に来られ地上に
滅 び を も た ら す。 し か し、 私 た ち の 時 間 と 空 間 に 立 っ
てくださった主イエスは、そのような方であったでしょ
う か。 罪 を 贖 い、 復 活 に よ っ て 罪 と 死 と の サ タ ン の 支
配 に 打 ち 勝 た れ、 人 々 に 新 し い 永 遠 の 命 を 与 え 給 う 救
い 主 と し て、 主 イ エ ス は 来 て く だ さ っ た。 そ れ で は ど
う し て、 黙 示 文 学 的 メ シ ヤ の 姿 と し て、 こ の よ う な 主
章
イエスの言葉が残されているのでしょうか。
歴代誌上
マタイによる福音書 節
章
第
主 人 が 帰 っ て き た と き、 言 わ れ た と お り に し
て い る の を 見 ら れ る 僕 は 幸 い で あ る。 節
手を見ること。人の子が戸口に近づいているというの
なことを何気なく見るのではなく、その背後に神のみ
前日のテキストを解く鍵はここです。いちじくの若
い枝や若葉が出ると夏の近いことを悟ります。外面的
連れて行かれ(天にあげられる)、ひとりは残され
いるように思われます。にもかかわらず、ひとりは
ここに出てくる人は、特別なことをしているので
はありません。ごく普通の仕事をし、生活を営んで
わてないように、心している必要があるのです。
れ て は な ら な い の で す。 い つ 主 人 が 帰 っ て き て も あ
私 た ち は 主 人 で は あ り ま せ ん。 主 人 の 帰 り を 待 っ
て い る 僕 で す。 主 人 が い つ か 帰 っ て く る こ と を、 忘
仕えようとしているのか、ということです。
を奪われているのか、与えられた仕事を通して神に
ないか、あらためて問い直しましょう。
私 た ち は 主 人 が い な い の を よ い こ と に し て、 あ ぐ
ら を か い て い な い か、 主 人 の 名 前 だ け 利 用 し て は い
は、すでに神が啓示され、神の臨在が明らかになって るというのです。
キ リ ス ト が 昇 天 し た 後 は、 キ リ ス ト 教 会 が 神 の 国
いる。あなたの戸口に立っている主、神の手の働いて 違 い が ど こ に あ る の で し ょ う。 ひ と り は め ざ め、 の 業 を 託 さ れ て い る の で す。 主 人 が 旅 立 っ て い る 中
で、 悪 い 僕 は 主 人 が 帰 っ て 来 な い と 思 っ て い る の で
いることに気づかねばなりません。 節の主の断言は、 ひとりは目覚めていないということです。この世の
仕事を同じ様にしていても、この世のことにだけ心 す。それ故に、仲間を叩きはじめました。
福 音 を あ ら ゆ る 民 に 宣 べ 伝 え な け れ ば な ら な い。 終 末
がきても、私たちの肉体やこの世が滅びても、主イエ
スの言葉は、永遠に変わらない。
11
24
8
11
30
46
13
29
-
31
45
-
51
土
火
24
24
7
10
12
15
11
70
2
36
-
44
41
木
15
-
28
32
-
35
35
12
24
24
35
7月
聖書日課
(第三種郵便物認可) 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
7月
聖書日課
14
節
ヘブライ人への手紙
第 章
11
章
章
日
節
神は彼らのために都を準備されていたからで
す。 節
15
歴代誌上
マタイによる福音書
第
17
忠 実 な 良 い 僕 だ。 よ く や っ た。 お 前 は 少 し の
も の に 忠 実 で あ っ た か ら、 多 く の も の を 管 理
節
さ せ よ う 。・ ・ ・ 25
章
25
日、 そ の 時 を 知 ら な い の だ か ら。 土
歴代誌上
16
マタイによる福音書
節
第 章
目 を 覚 ま し て い な さ い。 あ な た が た は、 そ の
節
金
い お と め も、 共 に 恵 み に あ ず か る た め に 招 か れ て い ま
様 に 招 か れ て い る 者 な の で す。 思 慮 の 深 い お と め も 浅
ト で あ り 十 人 の お と め は き ょ う か い で す。 十 人 皆、 神
が 迎 え て、 共 に 祝 い の 席 に 着 く の で す。 花 婿 が キ リ ス
ている物に対しては責任重大です。
分がいただいた物であれば自由に用いるのですが、与っ
タ ラ ン ト は、 神 か ら 与 え ら れ た も の で あ り、 賜 物 が
与 え ら れ た と い い ま す が、 預 け ら れ て い る の で す。 自
です。
主 人 は 僕 に 自 分 の 利 益 を、 与 え た の で は な く 預 け た
の で す。 た だ 与 え た と い う よ り も、 更 に 意 味 が 深 い の
よ っ て 仰 ぎ 望 ん で い る「 天 の ふ る さ と 」・「 天 の 都 」 が
う か。 断 じ て そ う で は あ り ま せ ん。 私 た ち に は 信 仰 に
と 同 じ よ う に、「 信 仰 を い た だ い て 死 ぬ 」(
私 た ち に も や が て 死 が 訪 れ ま す。 し か し、 そ れ で 終
わ り で は あ り ま せ ん。 私 た ち に は 希 望 が あ り ま す。 死
し た。 こ の 招 か れ て い る こ と だ け を 喜 び、 光 に の み 心
節)ので
で は 終 わ ら な い 希 望 で あ り ま す。 私 た ち は 代 々 の 聖 徒
を 奪 わ れ、 光 の 源 で あ る 油 を 用 意 し て い な か っ た お と
は、主人の信頼に応えることだからです。
章
節
め は、 祝 い の 席 に 着 く こ と は 出 来 ま せ ん で し た。 私 た
ち が 用 意 し て お く べ き「 油 」 と は 何 で し ょ う か。 神 の
歴代誌上
章
あ り ま す。 結 局 死 ん で し ま う の だ か ら 同 じ な の で し ょ
神さまによって備えられているからです。
節
こ の 確 か な「 事 実 」 が こ の 地 上 の 生 涯 に お け る 私 た
ち の 歩 み 方 を 決 め る の で す。 う つ ろ い ゆ く 者 に 振 り 回
章
されることのない歩みであります。
歴代誌上
マタイによる福音書
第 章
26
「 先 生、 ま さ か、 わ た し の こ と で は 」 と 言 う
と 、イ エ ス は 言 わ れ た。「 そ れ は あ な た の 言 っ
た こ と だ 。」
節
20
一 人 の 女 が、 極 め て 高 価 な 香 油 の 入 っ た 石 膏
の 壺 を 持 っ て 近 寄 り、 食 事 の 席 に 着 い て お ら
れ る イ エ ス の 頭 に 香 油 を 注 ぎ か け た。 7 節
水
ユダは銀貨 枚で主を売ろうとしていました。主の
弟子たちの集団は貧しかったに違いありません。その
18
十字架の影が主の上におおいかぶさりつつあるのを
見 た 一 人 の 女 が、 持 て る 最 高 の 捧 げ も の を 捧 げ て い ま
26
集団の財務担当者ユダでしたから、どんなにか経済的
第
マタイによる福音書
19
す。 こ の 女 の 見 て い た も の は、 主 の 十 字 架 と そ の 背 後
17
国に入る準備です。
章
主 イ エ ス・ キ リ ス ト が、 終 わ り の 日 に 栄 光 の 主 と し
て来て下さる。終わりの日には。「全ての国民」が主の
前 に 集 め ら れ る の で す。 こ こ で は、 キ リ ス ト 者 と そ う
で な い 人 の 区 別 委 は 取 り 払 わ れ、 最 後 の 審 判 の 日 の 審
判 を 受 け る の で す。 裁 き は、 羊( 謙 虚 な 弱 い 者 ) と 山
羊( 権 力 を 持 ち 傲 慢 な 者 ) と に 分 け ら れ る。 だ と す れ
ば 救 わ れ る 者 は、 よ わ き も の、 自 分 に 頼 る こ と の 出 来
な い 者、 キ リ ス ト に よ り 頼 む ほ か な い 者 で す。 主 は い
火
歴代誌上
マタイによる福音書 節
章
第
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人
に し た の は、 わ た し に し て く れ た こ と な の で
あ る。 節
25
13
14
-
25
架が見えていませんでした。
伝 わ っ て き ま す。 こ の 行 為 に 憤 っ た 弟 子 た ち に は 十 字
油を惜しまずに主の頭に注いだこの女の感謝が今でも
こ の 女 に は 信 仰 の 目 で 十 字 架 が 見 え て い た の で す。 香
事は主を裏切ることになりました。
たのです。しかしそれは無理な事でした。富に仕える
ないでしょう』と言います。彼は、主にも仕えたかっ
切りを指摘される主に向かって『まさか、わたしでは
い 」 と い う 貪 欲 に よ っ て 主 を 裏 切 る 事 に な り ま す。 裏
ていたのです。しかし、彼は「神と富とに兼ね仕えた
に 重 な る 自 分 が 負 う べ き 自 分 の 十 字 架 で あ り ま し た。 苦労を負っていた事でしょう。同情できる役割を担っ
25
18
と 小 さ い 者 と 同 じ 者 に な ら れ ま し た。 い と 小 さ き 者 へ
30
月
の愛の業は、主に届いているのです。
1
-
13
神 の 国 に 招 か れ て い る と い う こ と は 重 大 な、 責 任 の
あ る こ と な の で す。 預 け ら れ て い る 財 産 を 用 い る こ と
当 時 の パ レ ス チ ナ で は、 結 婚 の 時 花 婿 が 花 嫁 を 連 れ
て 帰 っ て く る 習 慣 が あ り ま し た。 そ れ を、 花 嫁 の 友 達
13
17
-
19
16
1
-
13
31
-
46
40
12
14
-
30
21
13
16
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
章
第
章
節
歴代誌上
章
マタイによる福音書
第
章
節
21
歴代誌上
章
マタイによる福音書
23
第
章
節
「 父 よ、 で き る こ と な ら、 こ の 杯 を わ た し か
ら 過 ぎ 去 ら せ て く だ さ い。 し か し、 わ た し の
願 い ど お り で は な く、 御 心 の ま ま に 。」 節
26
22
26
「今 夜、 あ な た が た は 皆 わ た し に つ ま ず く。
節
20
26
贖 い の 意 味 を 示 そ う と し て お ら れ ま す。 捕 ら え ら れ る
知しておられた主がご自分の最期を意識して十字架の
の 場 の ざ わ め き が 伝 わ っ て き ま す。 弟 子 の 裏 切 り を 承
ます。
を責めるのです。そのようにして、十字架に人は躓き
して何もなさらない無能な者のように目を反らして神
から目を反らしています。そして、まるで神が悪に対
た。 私 達 も 全 て の 事 を 神 に ぶ つ け て も 良 い と い う こ と
来る事なら苦しみを過ぎ去らせて下さいと祈られまし
ら れ た 神 の 御 子 の 姿 が あ り ま す。 主 イ エ ス で さ え、 出
を 示 さ れ ま す。 し か し、 主 は『 わ た し の 思 い の ま ま に
前 に 弟 子 た ち に 聖 餐 を 示 し、 こ れ を 制 定 し て 下 さ い ま
ではなく、みこころのままになさって下さい。』とも祈
の弟子たちも躓きました。私たちも躓いてしまいます。 ら れ ま し た。 私 た ち の 祈 り も 又 主 の こ の 祈 り に 続 き た
歴代誌上
いと願います。
神 は 御 子 イ エ ス・ キ リ ス ト の 十 字 架 を、 我 々 の 事 と
し て 受 け 入 れ て 下 さ い ま し た。 御 子 イ エ ス・ キ リ ス ト
章
第
章
しかし、躓く愚かな私たちを重々御存じの上で、主は
26
マタイによる福音書
節
第 章
イ エ ス は 黙 り 続 け て お ら れ た。 大 祭 司 は 言 っ
た 。「 生 け る 神 に 誓 っ て 我 々 に 答 え よ 。 お 前
は 神 の 子 、 メ シ ア な の か。」
節
25
神 の 選 び は 神 の 愛 に よ り ま す。 パ ウ ロ は 神 の 選 び に
与 る 者 と し て、 キ リ ス ト を 受 け 入 れ な い 同 族 イ ス ラ エ
ネの園において主が自分の合図でまんまと計略にか
者 よ 」 で は な く「 友 よ 」 で あ っ た の で す。 ゲ ッ セ マ
銀貨三十枚で主を売ったユダに向かって主が語り
か け ら れ る 言 葉 は、「 友 よ 」 で あ り ま し た。「 裏 切 り
て お ら れ た 」 の で す。 ま る で「 毛 を 切 る 者 の 前 に 黙 っ
祭 司 カ ヤ パ の 主 イ エ ス に 対 す る 裁 判 で す。 彼 は 権 力
に満ちて裁いています。この裁きの庭で「イエスは黙っ
す。 ユ ダ が 今 犯 そ う と し て い る 罪 を 悟 ら せ、 ユ ダ の
こ と に 心 を 痛 め、 愛 し み を も っ て 語 り か け て 下 さ っ
て い ま す。 裏 切 り 者 の た め に も 心 配 し て 下 さ る 主 の
愛 が 伝 わ っ て 参 り ま す。 悔 し い 砕 け た る ユ ダ の 魂 を
待ちつつ「友よ」と呼びかけて下さっているのです。
です。この命に生かされて今があるのです。
ることなしに人間の救いはないことを知っていたから
主 は 沈 黙 の う ち に 死 の 道、 十 字 架 の 道 を あ え て 選 ん
で お ら れ ま す。 罪 な き 者 が 罪 の と り な し と し て 殺 さ れ
誰のための沈黙なのでしょう。
ル 人 の た め に 深 く 悲 し み ま し た。 彼 ら の 救 い の た め な
た。 神 の 選 び は 人 間 の 特 権 で は あ り ま せ ん。 他 人 を 審
いて切り捨てるための根拠でもありません。神の約束、
神 の 計 画、 神 の あ わ れ み に よ る の で す。 罪 と 悪 と 過 ち
と に 満 ち た 人 間 の 世 界 に 神 の 愛 が 働 い て い ま す。 神 に
よ っ て 捨 て ら れ る べ き 人 間 の た め に、 御 子 は 十 字 架 の
上に捨てられなさったのです。
後 ま で、 友 と し て ユ ダ に 関 わ っ て 下 さ っ て い る の で
ている羊のように、口を開かなかった。」
(イザヤ ・7)。
24
十字架に向かって下さっています。
歴代誌上
26
マタイによる福音書 節
章
24
「友 よ、し よ う と し て い る こ と を す る が よ い」
節
23
か っ た と ユ ダ は 喜 ん で い ま す が、 主 の 方 は 最 後 の 最
火
よと差し出されています。
ローマの信徒への手紙
節
第 章
従 っ て、 こ れ は、 人 の 意 志 や 努 力 で は な く、
節
日
神 の 憐 れ み に よ る も の で す。 22
ら自分がキリストから離されてもよいとさえ思いまし
63
47
-
56
50
9
が 私 の 身 代 わ り に な っ て 下 さ っ た の で す。 こ れ を 食 べ
した。
『 た と い、 み ん な の 者 が つ ま ず い て も、 わ た し は 決
し て つ ま ず き ま せ ん。』 と 豪 語 し た ペ テ ロ も 躓 き、 他
主 の 十 字 架 は、 私 た ち の 目 に は 弱 々 し く 映 り ま す。
私たちは自分の弱さを忘れ、自分の罪を忘れて十字架 『できることでしたらどうか、この杯をわたしから過
ぎ去らせてください。』と祈られた祈りの中に人間とな
土
歴代誌上
21
マタイによる福音書
木
「 取 っ て 食 べ な さ い。 こ れ は わ た し の 体 で あ
る 。」 節
19
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」では、
主がイスカリオテのユダの裏切りを指摘された時のそ
36
-
46
39
金
月
13
26
31
-
35
31
26
-
30
10
-
18
16
57
-
68
53
7月
聖書日課
(第三種郵便物認可) 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
7月
聖書日課
歴代誌上
章
マタイによる福音書
第
章
節
ペ ト ロ は 、「 鶏 が 鳴 く 前 に 、 あ な た は 三 度 わ
た し を 知 ら な い と 言 う だ ろ う」 と 言 わ れ た イ
エ ス の 言 葉 を 思 い 出 し た。 そ し て 外 に 出 て、
激 し く 泣 い た。 節
歴代誌上
章
マタイによる福音書
第
27
章
27
節
1
-
10
主 イ エ ス の 言 葉 は 十 字 架 か ら 響 い て き ま す。 み 言 葉 は
ゆるしの宣言です。私たちも罪に罪を重ねて生きてい
ます。しかし、なおそこで主イエスが共に生きて下さ
章
見 て、 絶 望 し て い ま す。 後 悔 し て い ま す。 銀 貨 さ え 返
せ ば 罪 が 帳 消 し に な る と 思 っ て い る の で す。 し か し、
始末することのできない人間の罪を取り除くために十
字 架 に 向 か わ れ ま し た。 主 は 人 間 の 破 れ を、 人 間 の 罪
節
を 一 身 に 背 負 っ て 十 字 架 に か か っ て 死 に 至 り ま し た。
主の赦しを頂いて生き直せるのです。
テサロニケの信徒への手紙
章
歴代誌上
章
マタイによる福音書
第
章
節
人 々 が イ エ ス を 引 き 渡 し た の は、 ね た み の た
め だ と 分 か っ て い た か ら で あ る。
節
裁 き、 決 定 す る こ と が 出 来 な か っ た の で し ょ う か。 十
字 架 に お い て、 私 た ち の 罪 が あ ら わ に な り ま す。 自 分
自 身 の 保 身 の た め に で す。 権 力 保 持 の た め で す。 そ の
た め な ら、 主 を 最 重 の 罪 人 と し て 引 き 渡 す 事 も し て し
ま う の で す。 し か し、 神 は こ の 罪 の 暴 露 で あ る 十 字 架
章
節
を罪のゆるしの証拠と変えて私たちに差し出してくだ
さいました。神の愛があります。
歴代誌下1章
マタイによる福音書
第
三 時 ご ろ 、 イ エ ス は 大 声 で 叫 ば れ た 。「 エ リ 、
エ リ 、レ マ、サ バ ク タ ニ 。」 こ れ は 、
「わ が 神、
わ が 神、 な ぜ わ た し を お 見 捨 て に な っ た の で
す か」 と い う 意 味 で あ る。
節
第
そ れ で、 わ た し た ち 自 身、 あ な た が た が 今、
受けているありとあらゆる迫害と苦難の中
で、 忍 耐 と 信 仰 を 示 し て い る こ と を、 神 の 諸
教 会 の 間 で 誇 り に 思 っ て い ま す。 4 節
ここには人間の罪に対する神の仮借なき審きがあり
ま す。 神 に 捨 て ら れ る の で す。 神 と の 断 絶 で す。 死 の
教 会 が 誇 る こ と の で き る も の は 忍 耐 と 信 仰 で す。 そ
れ は、 代 々 の 教 会 が 度 重 な る 迫 害 の 中 で も 成 長 し、 愛
本 当 の 恐 ろ し さ を、 罪 の 審 き を 真 正 面 か ら 受 け、 私 た
ちに代わって十字架の死を死んで下さいました。
「血を
流 す こ と な し に は、 罪 の ゆ る し は あ り 得 」 な か っ た の
す。 そ れ ゆ え 教 会 は 決 し て 失 望 す る 事 な く、 孤 独 に な
主 の 復 活 の 光 の 中 で 十 字 架 を 見、 罪 と 死 の 勝 利 者 な る
としたのです。死はもはや終わりではない。私たちは、
で す。 そ し て 神 は キ リ ス ト の 死 を 新 し い 生 命 の は じ め
ることなく誇りをもってキリストに従って行くことが
れ果て、傷つき、消耗しつくされた主イエスに出会い、 そ れ は 一 方 で は キ リ ス ト の 来 臨 の 希 望 に よ っ て、 導
か れ、 同 時 に 諸 教 会 の 祈 り に よ っ て 支 え ら れ る も の で
出来るのです。
キリストの従って行けるのです。
私が生き始める」のです。
心 を 動 か さ れ ま す。 無 理 に で も 主 の 十 字 架 を 負 う 中 で
主 の 十 字 架 へ の 道 行 き で 出 会 っ た 人 が い ま し た。 ク
レ ネ 人 シ モ ン が そ の 人 で す。 彼 は 捕 ら え ら れ 無 理 に 十
無 理 に 担 が せ た。 字 架 を 負 わ せ ら れ た の で す。 私 た ち の 人 生 に も 目 前 の
が 増 し 加 え ら れ た こ と で 証 拠 づ け ら れ ま す。 忍 耐 と 信
節
1
-
12
人 の 十 字 架 を 無 理 に 負 わ せ ら れ る こ と が あ り ま す。 シ
章
います。み言葉をもって救いに導きます。
歴代誌上
マタイによる福音書
第
1
仰はむしろ迫害の中で鍛えられてきました。
28
総 督 ピ ラ ト は、 主 イ エ ス が 無 罪 で あ る こ と を よ く 知
自 分 の 貧 し さ に 頭 を 抱 え て し ま う こ と が あ り ま す。 り な が ら 死 刑 の 宣 告 を く だ し ま し た。 何 故、 彼 は 主 の
ユ ダ は「 罪 の な い 人 の 血 を 売 っ た 」 そ の 過 去 ば か り を 無 罪 が 見 え て い た に も か か わ ら ず、 そ の 義 を 義 と し て
イ エ ス を 裏 切 っ た ユ ダ は、 イ エ ス に 有 罪 の 判
決 が 下 っ た の を 知 っ て 後 悔 し、 銀 貨 三 十 枚 を
祭 司 長 た ち や 長 老 た ち に 返 そ う と し て、 3 節
木
日
モンはゴルゴタへと十字架を引きずる力もないほど疲
29
十字架の主を仰ぎつつ、愛の業に励みましょう。
シモンが実は生きるのです。「他者を生かすことの中で
46
兵 士 た ち は 出 て 行 く と、 シ モ ン と い う 名 前 の
キ レ ネ 人 に 出 会 っ た の で、 イ エ ス の 十 字 架 を
節
18
26
はみ言葉を思い出せずにいるのです。しかし、十字架 罪 は お 金 を 返 し た か ら と い っ て 解 決 で き る も の で は な
の上よりペトロを見つめる主の眼差しがあるように、 い。 ユ ダ の 自 殺 が そ れ を 語 り ま す。 主 イ エ ス は 自 分 で
とを告げています。罪を犯した後、そこでしか私たち
主イエスの言葉を思い出す時とはどんな時でしょ
う。ペトロは「主を裏切ってしまった後」であったこ
75
32
14
69
-
75
27
-
44
11
-
26
45
-
66
26
27
27
27
26
29
金
月
水
土
27
30
25
28
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)
歴代誌下
章
28
1
-
10
マ タ イ に よ る 福 音 書 節
章
2
野の花
寄せておられる。かつて定員
報』には、山内真学長が献身
一六〇名としていたのが今は
者の減少を嘆いている文章を
霊性の危機
行なうべきだと主張する教師
を基準として教師検定試験を
会連合では「信仰告白」のみ
方それに抗して、福音主義教
験が公に行なわれていた。一
として受け入れる教師検定試
ない。しかし受験当事者であ 入を巡っての教団と東神大と
であり、殊更驚くには当たら 遠因として東神大の機動隊導
礼
・ 拝出席者)があることは
このようなことは長い教会
の歴史にはしばしばあること いうまでもないが、もう一つ
のであろう。
は抹殺されていくことになる とのことである。この要因に
「 事 件 」 は 単 な る エ ピ ソ ー ド 一〇〇名としなければ「私学
かつて教団には「信仰告白」
を否定する者たちを教団教師 に過ぎなくなり、教団史から 補助金」が受けられない状態
生きておられます。復活こそ、私たちを絶望から救出さ
基督教団が「信仰告白を否定 ていない事を挙げなければな
のです。うろたえる彼女たちの行く手に先だって、復活
の 主 は 彼 女 ら を 迎 え て く だ さ り、「 平 安 あ れ 」 と 言 わ れ
たのでした。主イエスは死を突き破り、死に打ち勝って
るのです。信仰の道を最後まで、喜んで続けましょう。
プを実施することになりました。将来の教会を担う力
が集まるようにと願っています。
日 程 2007 年 9 月 23 日 ( 日 ) 夕方 5 時~
24 日 ( 月 ) 夕方 5 時
場 所 豊中市の服部緑地ユースホステル
テーマ 「愛とシンコウ」~信仰と親交~
講 師 内田 知牧師(伊東教会)
会 費 5000円
申込み締切 9 月 5 日
参 加 資 格 18 ~ 40 歳迄の男女
主 催 福音主義教会連合関西部会
問い合わせ 岸和田教会 小林℡ 072-423-0145
る筆者にとって、愛する日本 の不幸な関係が未だ克服され
教団全体の教勢低下(受洗者
せ、希望を与えてくれます。それはやがて召される日に
する者を受け入れる教師検定 るまい。教団と教団立神学校
主はそこにおられませんでした。墓からよみがえられた
も私たちは、そこで主から「平安あれ」と迎えてもらえ
信
・ 徒たちがいて、大激論の
末教会連合総会で試験実施が
安息日が終わって、週の始めの日の明け方にマグダラ
のマリヤと他のマリヤとが墓を見に行きました。しかし、
あ の 方 は、 こ こ に は お ら れ な い。 か ね て 言 わ
れ て い た と お り、 復 活 な さ っ た の だ。 6 節
第
土
過半数の支持を得て可決され
教会連合から離脱する者・教
が な い。 私 は、( そ し て 恐 ら を挙げ得るだろうか。共倒れ
ぎ去っていくのが残念で仕方 の伝道困難な日本で伝道の果
何事もなかったかのように過 なれないでいて、どうしてこ
た。しかし深いしこりが残り、 試 験 」 を 克 服 で き な い ま ま、 である東神大とが一つ思いに
会が多く出た。教団当局は勿
がキリストの教会的権威を軽 日本基督教団。一体私たちは
論この試験を認めるはずがな
視したまま、すなわち「信仰 二〇〇九年の日本プロテスタ
くもう一人の当事者である阿 の危険に瀕しているのではな
あれからもう 年が経過し
た。教師検定問題はもうすっ
告白」の位置を不明確にした ント伝道一五〇周年をどのよ
く、受験者達は受按・受允後
かり教団には存在しないかの
部洋治牧師も)補教師のまま いか。
ようである。教会連合が教師
ままの状態で、あたかも正常 うにして迎えたらいいのだろ
も補教師・信徒伝道者のまま
検定試験を実施したというこ
化したようなふるまいでいる うか。霊性の危機である。
で教師生活を終わることはあ 受 洗 者 も 生 み 出 せ ず、 献
まり問題としていない。教団 身 者 も 生 み 出 せ な く な っ た
と を、 ま し て や そ の 意 味 を
のが残念なのである。
で現在に至っている。
知っている者はほとんどいな
東京神学大学の最新の『学
(濱田辰雄)
くなっていく。そのうちこの
28
15
31
関西部会では、各教会の青年交流を目的としたキャン
7月
聖書日課
第1回近畿青年交流キャンプのご案内
(第三種郵便物認可) 第 360 号
福 音 主 義 教 会 連 合
2007 年6月 10 日
教会学校教案」をどうぞ 教会教育には 「
七月号 目 次
大住 雄一
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
巻頭言 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊藤 瑞男
「悩み深い子どもたちと共に」
七月号の教案
テキスト研究
説教例
吉本 紀子・篠田真紀子・高橋 証仕
説教・・・・・・・・・・・北川 義也 1 「 今 は 憐 れ み を 受 け て い る 」
福音主義教会連合創立三〇周年を
迎えるに当たって
「 教 会 連 合 の 使 命 」 上 田 光 正 2
《 シ リ ー ズ 》 山 北 宣 久 議 長 総 括 か ら 考 え る
九州教区の現場から 福井 博文 4
《シ リ ー ズ》
伝 道 す る 教 会 と 礼 拝 堂 (第 1 回)
り 充 実 し た 議 論 が な さ れ て、 議 事 は 一
日 で 終 了 す る こ と が で き ま し た。
◇ 五 反 田 教 会 の 新 し い 歩 み に つ い
て、 山 口 隆 康 先 生 の 「伝 道 す る 教 会 と
日発行)
礼 拝 堂」 が 連 載 さ れ ま す。 ご 期 待 く だ
さ い。
年 月 日第三種郵便物認可(毎月1回
16
北村 ちづ・渡邊 義彦・矢野 敬太
昭和
円)一年間購読料3000円(送料とも)
- 東京都港区六本木5 6
・ 1
・5
3
・ 401 8
・ 704 FAX03 3
・ 401 8
・ 289 定価1部250円(〒
部以上200円
電話03
編集室 日本基督教団 鳥居坂教会内
〒
編集人 張田 眞
発行人 長山信夫
発行所 日本基督教団 福音主義教会連合
〒
- 東京都中央区銀座4 2
・ 1
・ 銀座教会堂ビル内
電話03 3561 0231 FAX03 3
・
・
・ 561 0
・ 242
郵便振替口座 00170 7
・ 3
・ 3909
10
高橋 信・鷹澤 匠・新渕千枝子
山口 隆康 5
「能 登 半 島 地 震 被 災 教 会 再 建 の た め に」
小宮山 剛 6
報 告 「福 音 主 義 教 会 連 合 関 西 部 会
中 高 生 修 養 会」
7
《 シ リ ー ズ 》信 徒 の た め の 旧 約 用 語 基 礎 知 識
「 捕 囚 」 小 友 聡 8
連合の窓から見た教団・・・小林 貞夫 「 讃 美 歌 を め ぐ っ て 」
献 金 感 謝 報 告 ( 月 分 )・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
聖 書 日 課 (2 0 0 7 年 月 ) ・ ・ ・ ・ ・
野の花
編 集 室
◇ 1971年の東京教区総会のこと
が 思 い 起 こ さ れ ま す。 ヘ ル メ ッ ト と 竹
竿をもった人々によって総会は暴力的
に 粉 砕 さ れ、 そ の 後、 し ば ら く 教 区 総
13
荒木かおり・道家 紀一・藤田 義哉
林 牧人・岡村 恒・森田恭一郎
聖句カードのお話 ・・・・・・・・・・・・・・・・浅見
覚
本 紙 6月号 目 次
「 霊 性 の 危 機 」 濱 田 辰 雄 教案誌案内・編集室・・・・・・・・・・
7
会 は 開 催 不 可 能 と な り ま し た。
10
内田 知
分級教案 ・・・・・・・・・・・・・
筧 伸子・田中かおる
小林 貞夫・飯田 敏勝
読者の広場・教会紹介 土浦教会(茨城県)
5
そ の 東 京 山 手 教 会 で、 去 る 5 月
、 日に今年度の教区総会が開催さ
52
0061
0032
13
9
10 9
16 15
21
れ、 整 然 と、 よ く 整 理 さ れ た 発 言 に よ
60
30
104
106
20
29
2007 年6月 10 日
福 音 主 義 教 会 連 合
第 360 号 (第三種郵便物認可)