マリアの讃歌

マリアの讃歌
ルカによる福音 4
マリアの讃歌
1:39-56
前講では「アベ・マリア」の歌詞に触れましたが、今日の所、特に 46 節以
下の詩は「マニフィカト」の名で知られています。マニフィカトあるいはマ
グニフィカートは、英語の magnifies と同じで、「賞賛する、あがめる」の
3人称単数形です。私たちの聖書で言うと、46 節 2 行目の「あがめ」という
三つの平仮名がこれに当たります。ギリシャ語やラテン語では、こういう文
は述語動詞で始まります。原文では
……, ラ テ ン 語 訳 で は
Magnificat anima mea Dominum ……で、magnificat という動詞が文頭に
立ちます。
音楽好きの方なら、バッハの「マニフィカト」、モラレスの「第二旋法に
よるマニフィカト」などご存知かと思います。大体こういう歌は、グレゴリ
オ聖歌に由来しますが、聖歌ですと 46 節から 55 節までせいぜい 3 分か 4 分
で歌い終わります。ところがモラレスのですと 10 分かかりますし、バッハの
ですと、繰り返しやオーケストラも入れて 30 分の大曲です。ベートーヴェン
は書いていませんけれど、もし書いていたら 1 時間くらいには引き延ばした
かも知れません。
つまり、この詩がギリシャ語からラテン語に訳された形ででも、ずいぶん
多くの人に宗教的感動を与えて、この同じ歌詞に作曲しようという衝動を与
えてきた訳です。これはやはりこの詩の内容が、それだけの力を持っていた
からだと思います。先ほど名を挙げたモラレスは 16 世紀の人ですが、この人
は何と 16 曲もマニフィカトを書いています。それくらい、このマリアの讃歌
のとりこになったのです。
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マリアの讃歌
1.マニフィカートの生まれた事情. :39-45.
今日の箇所には、このマニフィカトがどういう経緯で生まれたかが、まず
39 節から 12 行ほどにわたって記されます。
39.そのころ、マリアは出かけて、
急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
40.そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41.マリアの挨拶
をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリサベトの胎内の子はヨハネです。キリストの先駆けになるその胎児が、
母の胎内で激しく動いた……ということ自体は普通のできごとで、母親にな
られた方なら皆経験なさつた普通のことですけれど、その胎動をきっかけに
エリサベトは、マリアの胎内に宿った生命の正体を、霊感で悟ったのです。
エリサベトは聖霊に満たされて、 42.声高らかに言った。「あなたは女の
中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43.わたしの
主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
44.あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりま
した。 45.主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い
でしょう。」
このエリサベトの言葉は、この時のマリアにとっては、大きな慰めであっ
たろうと思います。前回に読んだ 28 節の「おめでとう、恵まれた方」という
あのお告げ以来この日まで、マリアにとってそれはどんなに怖ろしい位の緊
張の日々であったかと想像します。そのマリアに、遠縁に当たるエリサベト
のこの言葉が伝えられたのです。
もちろん、マリアの中に始まった奇跡は、エリサベトが体験したものとは
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次元的に違う、大きなものでしたけれど、マリアはやはり、ここでエリサベ
トの上にも主の力が働いていて、自分に与えられた事がそれとひと繫がりの
主の業であることに、大きな感動と確信を覚えたのです。
こうして、エリサベトの祝福の言葉がきっかけになって、この「マリアの
讃歌」マニフィカトが、堰を切ったように溢れ出たのですが、私たちはその
本文を味わってみる前に、最近の学者たちがこの詩の内容について何を言っ
ているかに、ちょっと注目してみましょう。と言いますのは、このマリアの
讃歌の悪口を言う学者たちがいまして、この詩の用語をよく調べてみると、
旧約聖書に出てくる熟語や表現の「継ぎはぎ」に過ぎないと言うのです。信
じられなければ、サムエル記上の 2 章とか、申命記や詩篇を見よと言います。
ここに使ってある用語 vocabulary も慣用句も全部そこに出ていると言うの
です。
これはギリシャ語訳旧約聖書・七十人訳 LXX の切り貼りであると……。
確かにその通りなのです。
ただ私はこれを見てかえって、マリアの偉さというか、彼女の素晴らしさ
に驚くのです。というのは、この場合マリアが正味の感動と讃美を自分の言
葉で自然に表わしたときに、それが旧約聖書のレパートリーの中から歌われ、
聖書の用語で「きまっていた」のです! マリアと言う人がそれだけ聖書の言
葉で育てられて、そこまで深く聖書の信仰と思想の中に浸かって、いわば彼
女の語彙 vocabulary 自体が「聖書浸け!」になっていた証拠だからです。
それで思うのですけれど、我々のうちの誰でも、詩を書くとか、随筆を書
くとか、どんな作品でも宜しいのですが、見る人が見たら、これは発想から
言葉の使い方まで徹底して「聖書そのものだ!」としたら……。もちろん作
品は独創的で、この人自身のものが出ているけれども、考え方の中心が聖書
の内容と繫がっている―そう言われるような作品が書けたら……これは決
して恥ずかしいことではないと思うのです。
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マリアの讃歌マニフィカトは、表現は今も言いましたように、旧約聖書の
文学そのものですが、内容は独自で新鮮です。マリアは自分の上に何が起こ
ったか、これから一体何が起ころうとしているのか……だれも語らなかった
驚くべき内容をこの歌に託します。
2.さいわいな女、マリア. :46-49.
46.そこで、マリアは言った。 47.「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊
は救い主である神を喜びたたえます。 48.身分の低い、この主のはしために
も目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸
いな者と言うでしょう、 49.力ある方が、わたしに偉大なことをなさいまし
たから。
ここまでを第一段と見て、その中心テーマを考えますと、私は「幸いな者」
という結びの句にひかれます。マリアは自分を本当に「幸いな女」と実感し
たのです。でも、見方によってはマリアほど不幸で悲惨な女性はなかったと
も言えます。誰にも信じてもらえない出産のこともそうですが、この人は最
後には、自分の生んだ子が自分の目の前で処刑されるのを見なければならな
いのです。その不幸な女がこの詩では、「今から後、いつの世の人も、わた
しを幸いな者と言うでしょう」と言い切ります。そしてその秘密は、「力あ
る神が、わたしに偉大なことをなさったから」―この私に眼を留めて、神
聖な器としてお使いくださった―という意識にあります。
それも決して、自分がフットライトを浴びて晴れがましい……とか、救い
主の母として面目を施す……というような角度からではなくて、この小さな
自分を用いて神がなさろうとしている業の大きさを見つめているから、そう
言えるのです。これは次の部分に更にはっきり表現されます。
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3.神の手による逆転・転覆. :50-53.
この部分をマニフィカトの第二段と見ますと、ここの中心は人間世界の秩
序が今から、天と地が入れ替わるほど、上下が逆転することです。
マリアは自分の中に宿った生命が、やがて人間の価値をひっくり返してし
まうのを見ています。昔からこの言葉の中に革命への情熱を見た人は多くあ
りました。しかしこれは、本当はそんな現実の矛盾を叩き壊したり、革命を
鼓舞したりする以上のことを見通しています。マリアが見た未来はこうです。
やがてナザレのイエスというお方に人が触れるときに、自分の罪ある姿を
正直に見て悲しむ人は、卑しい者が引き上げられるように、飢えている者が
満ち足りるように、神が準備されたものを受けることになる。神の義を頂い
て、地上にありながら天の人となる。反対に自分の王権を強情に守って、「私
は自分で自分を清める。私は自分の実績と点数で勝負する」と言う人は、あ
っという間に、その高みから転落します。結局、マリアが産み落とすその子
とどう関わるか……その人をどう受け止めるかで、人の生き死にを決めるの
です。
ここの文章で面白いのは、日本語では少し遠慮して、和らげてありますの
で目立ちませんが、全部まるで過去か完了のような(原文はアオリスト時称)
表現が続くことです。
その御名は尊く、 50.その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及び
ます。 51.主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 52.権力
ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 53.飢えた人を
良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
「主はその腕で力を振るわれた。思い上がる者を撃ち散らしてしまわれた。
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驕る者を権力の座から引き降ろした。代わりに卑賤な者を高く引き上げた。
飢えていた者を良い物で満腹させなさった。金持ちは何も持たせずに追い払
われた」という風に、すでに起こった事として断定していることです。そし
ても神が今マリアの胎内にお始めになった事業は、神ご自身が手を染められ
た以上、完結したも同じだと見るのです。
3.旧約の歴史の最終的完結がこの子に……. :54-55.
主は…… 54.その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりませ
ん、 55.わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に
対してとこしえに。」
そしてこのあと、56.マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在して
から、自分の家に帰った。―で結ばれます。
この 54 節と 55 節を「マリアの讃歌」の第三段として見ますと、この段の
趣旨は、今から始まろうとしている事は、アブラハムへの神の約束に遡る。
私の胎内に芽生えたこの子が果たすことは、旧約聖書の全歴史が背景になっ
ていて、生ける神が約束なさった事であるから、これ以上に確かな事はない。
地上で何が不確かでも、この事だけはその通りになるという、断定的な結び
になっています。
ここには、旧約聖書の第1頁に見るのと同じ強烈な主張があります。それ
は、神が言葉に出して明言された内容は、必ず事実になるということです。
神が「言われた」ということと、それが「事実になった」ということとはイ
コールである! という思想です。
創世記の言葉をとって言えば、神が「光あれ!」といわれると、光が「あ
った。」……神が「地はそれぞれの生き物を産み出せ」といわれると、その
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ように「なった」のです。神の言葉は不可避的に事実である。言われた瞬間
に実現している。ヘブライ語「ダヴァール」rb'D' が「ことば」を意味すると
同時に「こと―事実」を表わすのは暗示的です。そのような神が信仰の人
アブラハムに明言されたことが、今この胎児が生まれ出ると同時に、恐ろし
い力で無理にも「事実」になって行く。アブラハムの信仰に立つ人、イスラ
エルの精神で応える人は、今からこの神の事業の成就の中へ、巨大な力で巻
き込まれて行くのです。
こうして最初に、「私の魂、私の霊は、これから起こる事を考えただけで、
神を崇め、讃えないではおられない」Magnificat, exultavit で始めたマリア
は、その理由を、「神の救いの事業は成就する。私はその方を世に送り出す
器として用いられた」と、高らかにうたい終わるのです。
この詩の中に弱点を探そうとすれば、確かにそこには、その方はどんな方
か……とか、何をしに来られるか……その方の救いは何か……というような
内容は何一つ描かれません。その意味でこの詩は謎のようでもあります。た
だ、この後 30 年経ってから、この人を近くで見た人たちの体験を、ルカは以
下 40 数頁を割いて克明に描きます。「権力ある者を王座から引きおろし、卑
しい者を引き上げた」とはこのことだ!「飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を手ぶらで帰らせた」というのはこれだ!……それが、このル
カによる福音書の残りの頁です。
その意味で、この「謎」を含んだまま強烈なイメージを与えるマリアの詩
は、ルカ福音書のいわば第一主題を提示していると言えるのです。
《 まとめ 》
① マリアは真の意味で「幸いな女」であった。それは主なる神がこの器を
用いて、途方もない大事業をなさるからである。
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② マリアが生む子は、
やがて人間の内面世界を覆すことになる。
そのとき、
卑しく価値のない者が不思議と高みに引き上げられる。
③ マリアの胎内で始まった事業は、神が明言して手を着けたものである
以上、完結するまで遂行される。
最後に私たちは、このルカというギリシャ人が書いた一風変わった福音書
に、イエスの母マリアという人が生き生きと描かれていて、いわばこの巻物
の巻頭から、舞台の前面でスポットを浴びているのが、とても面白いと思い
ます。もちろん、マリアがイエスの母となったという記事だけなら、マタイ
も書いています。でもマタイはただ一言、「母マリアはヨセフと婚約してい
たが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかに
なった。」それだけです。
御使いのマリアへのお告げも記しませんし、マリアの悩みも、彼女の告白
も、もちろんこのマニフィカトの詩も何も書かない。ですから、マリアがど
んな婦人だったか、どんな信仰を持っていたか、それでいてどんなに悩み苦
しんだかも、私たちには分かりません。マタイの書く御使いの言葉はマリア
へではなく、ヨセフへのお告げです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリア
を迎え入れなさい。」そしてマリア自身はスッと背景の後の方へ引っ込んで
しまいます。イスラエル人特有の筆致です。
ところがルカが書くと、これがまるで違ったストーリーになります。ペン
を執る人の視点から、取材する時の感心から、全く別なのです。
私たちは前に、この福音書が「異邦人の福音書」だと言いました。ギリシ
ャ人の医者ルカが書いたというだけではなくて、「異邦人への使徒」パウロ
の最大の理解者で、「異邦人のための福音」―律法の資格と無縁の、ただ
恵みを受ける人の福音―に徹しきった人の目で見たイエス像が、このルカ
の福音書だと言えます。
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マリアの讃歌
私たちは、すでに最初の 2 頁半を読んだだけで、そこにはそういうテーマ、
そういう強調点が、他のだれが書いたものよりハッキリ出ているのに気づき
ます。それは自分の完全さや律法の業績を誇るファリサイ派のそれとは反対
に、確かにパウロの視点から、つまりローマ書やガラテヤ書の視点から語ら
れていることは、ここからあと少し読んで行くと、俄然、鮮明になってくる
のです。
マリアについて言うならば、その同じルカの視点が、このナザレのマリア
という女性をも浮き彫りにしているのが分かります。それも 48 節にあるよう
に、一人のただの「身分の低い、主のはしため」としてです。ルカはこれか
らあとも、何人かの女性を登場させて、女の人の信仰を描きます。ルカは女
性というものを多分、自分の力と業績を誇ろうとしない者―パウロのいう
「異邦人の信仰」のシンボルとして見ているのかも知れません。キリストが
与えようとされるものは、決して自信満々の「誇り高き男」にではなく、自
分の弱さを謙遜に知る「ひくい魂」に与えられる。これがパウロの伝えた「異
邦人の福音」の特徴である。ルカはそう言いたいのでしょう。
(1994/12/04)
《研究者のための注》
1. 前置きで述べた宗教音楽としての「マニフィカト」は、このマリアの讃歌を独唱ある
いは合唱で展開するものですが、その例としてバッハの BWV243 の曲を見ますと、ま
ず 46 節が第1曲になるのは勿論ですが、48 節を前半と後半に分けて、46 から 55 節ま
でを順番に第1~11 曲とし、これに第 12 曲 Gloria をつけて結んでいます。他にシュ
ーベルトやヴィヴァルディも Magnificat を作曲しました。
2. マニフィカトの歌詞は 46 節と 47 節だけのラテン訳は Magnificat anima mea
Dominum. Et exultavit spiritus meus in Deo salutary.です。これはルカ原文の
の直訳です。この第 1 行と第 2 行にある私の「魂」と私の「霊」は対句
として、同義語の反復による効果を出しています。これは前講でとり上げた 35 節の「聖
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霊」と「いと高き方の力」が並列されるのと同じで、「魂」と「霊」を区別して解釈
する必要はないでしょう。
3.
のラテン訳 magnificat が英語の magnifies の語源であると指摘しました。
や magnifico は「大きいことを認め
元々「大きくする、増大する」意味の
る、大なりと宣言する」の意味もあって、これが神の「偉大さを讃える、崇める」意
味に繋がります。これと並行する用例は 48 節の「わたしを幸いな者という」は原文
ですが、
も「幸福にする、幸いを与える」から「幸いだ
と断定する」の意味に適用されます。NEB は will count me blessed と訳しています。
4. 「ユダの町」(38)を私は「ユダの地方にある一つの町」の意味に取りましたが、こ
れを「ユダ」という町が実際にあったと考えて、ヨシ 15:55 に出る町「ユタ」と同一
視する人もいます。レングシュトルフ註解の邦訳 60 頁を参照。
5. この「マリアの讃歌」と一番よく似ていて、原型ではないかとまで言われるのはサム
上 2 章の「ハンナの祈り」です。他に申 10:21、詩 103:17、119:9 などとの類似も
指摘されます。本文中でも述べたように、マリアの感謝と発想の根本が聖書の語彙と
表現に一致すると見れば、形式の類似は自然なことです。
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