訳者まえがき 脳は複雑です.まず,全体が不思議な見かけをしています.そして,脳はからだのいろいろ な部分と,神経で結びついています.脳の内部にはたくさんの異なる場所があり,そのあいだ にもさまざまな神経の連絡があります.また,脳のなかには,自分のからだ自体がいくつも再 現されています.さらに,外の世界,たとえば目で見える世界や耳で聞こえる世界も,何重に も再現されています.したがって,肝臓や筋肉などとはレベルの異なる複雑さが,脳にはあり ます.初心者や学生にとって,脳を理解することは大変でしょうが,反面,勉強のしがいもあ ることでしょう. 脳研究の現場では,脳のなかの場所の名前を知るために,アトラスとよばれる脳の地図帳が 欠かせません.本書の原著者は,ラットのアトラスなど,多数のよく使われているアトラスを 出版していることで有名な研究者たちです.脳のなかのありとあらゆる場所についてとても詳 しく知っている神経解剖学の専門家による,神経科学の入門書がこの本なのです.コンパクト 神経解剖学 にまとめられていて,美しくわかりやすい図がたくさんのせられています.複雑な脳につい 脳を中心とする神経系につい ての解剖学のことです.解剖 学は生き物の「かたち」につい て考える学術領域です. て,これほどやさしくていねいに解説している教科書は,なかなかありません.わかりやすい うえに,最新のデータや過去の経緯について書かれていたりもします.大学に入学し脳につい て初めて勉強する学生に最適な教科書であると思い,本書の日本語訳をはじめました. 原著内での疑問点については,Charles Watson 教授に直接に答えていただくことができま した.さらに,原著の誤りは,原著者の了解を得てできる限り修正してあります.また,内容 について,東京医科歯科大学の中村泰尚名誉教授から,多くの貴重なご意見をいただきました. 神経科学 脳や脊髄をはじめとする神経 系について研究する科学の一 分野のことです.解剖学,生 理学,薬理学,分子生物学な ど,いろいろなテクニックを 使って研究します. ここに記して感謝いたします. また,本書の出版にあたっては,グラベルロードの伊藤裕之さんと共立出版の信沢孝一さん にたいへんお世話になりました.ありがとうございました. 2012 年 3 月 徳野博信 iii 日本語版の読者へ Introduction to the Japanese edition of “The Brain” We have been very lucky to have “The Brain” translated into Japanese by our colleague Dr Hironobu Tokuno of Tokyo Metropolitan Institute of Medical Science. Dr Tokuno is an outstanding neuroscientist who has not only translated the book, but has also contributed both ideas and illustrations to the book. He also corrected a number of my errors that were present in the English edition. Over the past two years, I have led neuroanatomy workshops in Tokyo, and the students performed very well, despite the fact that the workshops were given in English. I hope that the Japanese translation will make it easier for students to learn the basics of brain anatomy. This book differs from many other introductory neuroanatomy texts, in that it begins by presenting basic brain anatomy as seen in the rodent brain. Most texts start by teaching about the human brain, but in my experience the complexity of the human brain makes it a difficult model to study. We therefore reserve the study of human cerebral cortex for the second half of this text. I hope that you enjoy using this book. I welcome any comments you may have, either positive or negative, so we can improve the book in the future. You could write to me at c.watson@curtin.edu.au or to Dr Tokuno at tokuno-hr@igakuken.or.jp. Charles Watson Perth, December 2011 iv はじめに 本書では,神経解剖学の教育で長くつづいてきた習慣をやめ,ふたつの新たな方法を試みま した.そのひとつは,人間の脳ではなく,より簡単な哺乳類の脳の構造の説明からスタートす ることです.複雑な人間の脳の話はあとまわしにして,おもに本書の後半であつかいます.も うひとつは,今までの,外観だけに頼った(わりといい加減な)用語による説明を減らして, 最新のデータによる説明,特に脳ができあがる過程での遺伝子の発現にもとづく新しい考え方 を取り入れたことです.本書では,間脳・橋・延髄などといった用語については,従来とは異 なる使い方をしています.さらに,辺縁系・網様体賦活系・錐体外路系といった用語は,わか りにくいので使わないことにしました.このような時代遅れとなってしまった用語が,研究が 進んでいるにもかかわらず,いまだに広く使われています.臨床医からは不評を買うかもしれ ませんが,若い神経科学者たちが,分子生物学にもとづく新しいコンセプトを受けいれるべき 時期が来ていると考えます. わたしたちは,最新の神経科学の研究成果を取り入れた本書が初心者のためのよい参考書に なるように,さまざまな工夫をしました.生物・医・薬・保健・心理系などの学生たちが,本 書を活用してくれることと信じています. Charles Watson Matthew Kirkcaldie George Paxinos vi イントロダクション 本書は,神経系の構造(かたち)と機能(はたらき)についてのガイドブックです. ほとんどすべての神経解剖学や生理学の教科書は,人間の脳に焦点をあてています.読者と して,医学やヘルスサイエンスの学生を想定しているからです.そこで問題なのは,人間の脳 が複雑すぎることです.そのため,人間の脳の基本構造を学ぶことは,誰にとっても,とても 難しい作業なのです. 本書では,より単純なラットの脳について,最初に説明することにしました.初心者にとっ て,ラットであれば,脳の主要な構造と各部のはたらきが理解しやすいことが経験的にわかっ てきたからです.哺乳類の脳にあるすべての主要な構造はラットの脳にもあり,なおかつ,配 置がわりにシンプルです.まず,哺乳類の脳の基本的なかたちを理解しましょう(第 1 章から 第 6 章) .そのあとで,複雑ながらもすばらしい人間の脳の世界,特に人間の大脳皮質の構造に 【訳注】さらに,第 8 章以降で は,もっと高次の脳機能,脳の 病気,発生,研究方法について もふれていきます. 1. 進みましょう(第 7 章)1 . 脳の基本的なかたちを解説するにあたって,進化論的な見方も重視しました.脳の役割は, 個体とそれが所属する種を守ることにあります.そのためには, 「えさと水を確保する」 「外敵 から逃れる」 「子どもを生み育てる」といったことを,脳は確実にこなしていかなければなり ません. 外界やからだの内部から意味のある情報を集め,それを分析する能力が,脳には必要です. 感覚系のはたらきにより,光や音,からだに触れるものなど,外の環境の情報を脳は受け取り ます.また,自分の内臓からの情報も受け取っています.脳は情報を分析して,過去の経験と 比較したうえで,必要な反応を選びます.世代交代していくなかで,自分の身だけではなく, 子どもたちを生んで守っていくことも大事なことです. こういったときの脳の反応には,さまざまなタイプがあります.筋肉を収縮させる,内臓の 活動を変化させる,血液中にホルモンを放出させるなどです. 「手を上げる」 「心拍数を上昇さ せる」 「ストレスホルモン分泌をうながす」といった簡単な反応だけではなく, 「家や巣をつく る」 「子を育てる」といった長期的で複雑な反応も,脳のはたらきによります.したがって,脳 が複雑になればなるほど,その動物の可能性が広がり,うまくやっていける確率が高まります. 人間はもっとも複雑な脳を持ち,その行動の幅はもっとも広いものになっているのです. 脳と脊髄のなかにたくさんある,情報収集や情報分析のいろいろなシステムを,本書から学 んでいってください.これらのシステムこそが,わたしたちのからだが外界からやってくるさ まざまな課題に対して正しくこたえていくための原動力なのです. 【訳注】この欄は,重要な用語の 解説と強調,歴史的なエピソー ド,余談などに使います(訳者 による注もここに記します) . 【訳注】本文中のやや難しい部 分,ゆっくり読んで理解を深め てほしい部分は網かけになって います. viii
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