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サッタル・バフルルザデ 「ラザ村の外れで」
P・パルヴィズ氏所蔵
サッタル・バフルルザデ SATTAR BAHLULZADE (1909 − 1974)
力強い自然の律動
文:Ziyadkhan Aliyev
サッタル・バフルルザデは、その予測しがたい言動で知られていた。しかし、彼が批評に対してかくも激しく反応
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することは誰も予想していなかった。事件は、バクーの国立美術館で開かれた展覧会の開会式で起こった。サッタル
は自作の中から一枚の風景画―海の風景だった―を提出したが、作品は受理されなかった。運営委員のひとりは、彼
が自然の「解釈を誤って」おり、作品には改善すべき点があると言った。
「君たちはアトリエを出もせずに風景画を描く」とサッタルは反撃した。「絵葉書や写真をただ描き写してるん
だ。僕が思うに、君たちは自然がどう見えるかさえ分かってないね」突然、彼は自作を蹴って破損させ、踏みつけ
た。
1950年代に起こったこの衝突は、自身の定義による創作を行なおうとするサッタルの情熱をよく表わしている。
政府に課された社会主義リアリズムから飛び出したアゼルバイジャン人芸術家たちの先駆者である彼は、独自なスタ
イルによる風景画の制作を展開したことで知られる。彼の没後25年を迎える今年(訳注:1999年)、バクーで
は彼の生誕90年を記念する行事が予定されている。
サッタルがはじめに絵画の専門教育を受けた(1927−1931)のは、バクーの国立芸術大学である。その
後、彼は2年間、アジム・アジムザデと共に「コミュニスト」という新聞社で働いた。1933年、アジムザデの助
言によって、彼は絵の勉強を続けるためにモスクワに行き、モスクワ芸術大学の絵画科に入学する。ここで、彼は
V.A.ファヴォルスキーの指導を受けた。夏にクリミアで開かれた講習会でサッタルのスケッチ数点を見たロシア
の画家マルク・シャガールは、彼に油彩科への転部を勧めた。彼はその勧めに従った。
1940年、サッタルは卒業制作用の油彩画「バベクの叛乱」に着手した(バベクとは、7世紀のアゼルバイジャ
ンでアラブ人の圧政に対する蜂起を指揮した英雄的人物である。のちに捕らえられ、処刑される)。サッタルはこの
作品を仕上げ、展示したのだが、第二次世界大戦の開戦により翌41年に帰郷を余儀なくされ、学位審査を受けるこ
とができなかった。終戦後、彼は何度か学位取得の試問に戻ってくるよう招きを受けたが、モスクワには戻らなかっ
た。「芸術家の価値を証明するために学位証明書が必要かい?」と彼は問い返した。
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サッタル・バフルルザデ「シャマヒの葡萄畑」
P・パルヴィズ氏所蔵
自然への回帰 BACK TO NATURE
サッタルはその人生と、創作生活の殆どを、バクーから車で東に1時間ほどの、海に近い村アミルジャンで送っ
た。東洋の伝説「レイリとメジヌン」の登場人物メジヌンのように、サッタルは屋外の自然の中で日々を過ごした。
町に出たり、友人や家族に会いに行ったりすることは滅多になかった。メジヌンが荒野をさまよったのは愛に病んだ
ためだが、サッタルは自然の美を捉え、カンバスに表現しようとしていたのだ。彼は生涯独身で、友人知人もそう多
くはなかったが、彼と親交の深い人々はその奇矯さも受けとめていた。
彼はさまざまなジャンルの創作を試みたが、彼独自の才能が最もよく表わされているのは風景画である。絵を始め
た当初、彼は教えられた通りの写実主義的な手法で自然を描いていた。しかし、まもなく、自身の内にある感情を表
現する手法を発展させた。新しい作風はより超現実的で「宇宙的」だった―実際、彼の作品には、宇宙から撮影した
地球の写真を思わせる絵もある。柔らかで淡い色合いと大胆な筆致の組み合わせによって、彼は自然を現実以上に彩
りと生命、ときに奇想天外さに満ちたものとして描写した。
新たな作風 A NEW STYLE
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事物を綿密に観察するサッタルの能力は、繊細で洗練された自然の表現を可能にした。彼は石や木々、草花の見せ
るごく小さな美―他の人々にはごくありふれたものに見えるような―にも喜びを覚えることができたのだ。その喜び
を人々も感じ、楽しむことができるように、彼はその美をカンバスに移した。
サッタル・バフルルザデ
題名不詳 P・パルヴィズ氏所蔵
「キャパズの雫(しずく)」という彼の作品が誕生した経緯について紹介しよう。1962年に、サッタルは同業
の友人タヒル・サラホフ、トグルル・ナリマンベヨフと共に国内旅行に出かけた。彼らはギョイ・ギョル湖とキャパ
ズを見るためにギャンジャに立ち寄った(キャパズは山に近い場所である。12世紀にこの地方で起きた強い地震に
よって、ギョイ・ギョル湖、マラル・ギョル湖をはじめとするいくつもの湖が生まれた)。
彼らが訪れた日のキャパズは深い霧に覆われていた。サッタルは、山から昇る日の出を見ようと言ってきかなかっ
た。翌朝彼は、月がまだ山の反対側に輝いている空へ昇る太陽を見届けた。この光景は深く彼の心を打ち、バクーに
戻った彼は自身の感情をその絵に再現しようと試みたのである。
別の作品「大地の願い」は、同じ年のジェイランバタン湖への訪問に啓示を受けて描かれた。バクーの人々に飲料
水を供給してきたこの湖が、近い将来に干上がってしまうだろうという噂が広まった時、サッタルはそこに行って自
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分の目で湖を見ようと決めた。湖の近くを歩いていた彼は、乾いてひび割れた地面から一輪の小さな花が咲き出てい
るのに気付いた。この枯れた地が花咲く草原になることを、その花がいかに強く願っているかを感じ取った彼は、ア
トリエに戻って「大地の願い」の創作にとりかかった。この絵は、「水のある所には、必ず美があるのだ」と語って
いるかのようである。
アゼルバイジャンの近代風景画の創始者であるサッタルは、田舎を旅して美しい自然を探し求めることを愛した。
ある時、彼はこう言った。「ゴーギャンのようにタヒチまで行く必要は僕にはない。他の人たちにもその必要はな
い。僕の霊感は自分の国と、そこに住む人々から生じるんだ。」
彼の多くの作品は、アゼルバイジャンの特別な場所に出かけた際のものだ。例えば、「バザールドゥズ近郊」は大
コーカサス山脈で最も高い山バザールドゥズを描いた作品だし、「古いシェマヒ」や「ナヒチヴァンの秋」といった
作品には、それぞれの町で人と自然の間に存在する緊張感が表現されている。しかし、アゼルバイジャン全土でサッ
タルが最も愛したのは故郷の村アミルジャンで、彼はその地を離れようとしなかった。バクー市内の「画家たちの
家」の一室にある二間のアパートを支給された時も、彼はそのアパートを友人タヒル・サラホフに与えてしまった。
風変わりな人格 A SINGULAR CHARACTER
サッタルのいくつかの独特な点はよく知られていた。その一つが、非常に長い髪だ。彼は生涯で二度しか髪を切っ
たことがないといわれていた。二度目に髪を切ったのは、重い病気を患った1972年だ。最初の散髪は、アゼルバ
イジャン人彫刻家のフアッド・アブドゥラフマノフがサッタルの彫像を作ろうと決めた時に行なわれた。画家は、フ
アッドが彼自体よりもその長髪に気を取られているのではと疑念を持ち、髪を切って彫刻家のアトリエに姿を現わし
た。フアッドがたいへん驚いたのは言うまでもない。こんにちバクーの国立美術館に展示されている白大理石のサッ
タル像は、髪を短くした時の姿で彼を描写している。
サッタルが物惜しみをしないのも周知の事実だった。彼は作品を褒められると、しばしばそれを褒めた相手に与え
てしまった。アゼルバイジャンを訪れる、芸術に興味を持つ外国人たちはよくサッタルのアトリエに立ち寄った(当
局はそれを好ましく思わなかったが、客人たちの希望に抗うわけにもいかなかったのだ)。ある時、ひとりのイタリ
ア人がサッタルの作品を買おうとした。サッタルはその絵を客に売るのではなく、贈ろうと決めた。イタリア人が躊
躇し、「無償でこんな貴重な作品を受け取ることはできない」と言ったところ、サッタルは「安い贈り物は、僕は絶
対しないんだ」と答えた。こうして議論は打ち切られた。
1964年に、プラハの国立美術館でサッタルの作品展が開かれた。この展覧会の後、彼の絵が五点、美術館の常
設展示に加えられた。サッタルは謝礼金を拒否し、館への寄贈品として作品を残した。
彼のこうした物惜しみのなさは、その簡素な生活ぶりとも通じる。彼は金銭や衣服といった物質的なもの―いつも
手放さない安い煙草を除いては―にこだわりを持たないことでも知られていた。
国家報奨金を拒否 STATE PRIZE REFUSED
サッタルの作品は数多くの賞を得ている。1960年には「国家功労芸術家」、1963年には「人民芸術家」の
称号を授与された。1972年には国家報奨金を与えられたが、彼はその受け取りを拒否した。報奨金が自宅まで届
けられても、彼はそれを送り返した。
アゼルバイジャンの共産党書記ヘイダル・アリエフ(訳注:のちにアゼルバイジャン共和国大統領に就任)と会見
したいという希望が叶えられず、彼は心を乱されていたのだ。サッタルは自国の芸術家たちが抱える共通の問題につ
いてアリエフに語ろうとしていた。ついに彼がグルジアに移住すると言い出した時(サッタルの才能がアゼルバイ
ジャンを去ったなら、大変な醜聞とされたであろう)、友人タヒル・サラホフは念願の会見を実現させるために手を
尽くした。
タヒルとサッタルが着いた会見の席には、文化担当書記(サッタルがアリエフと面談するのを妨害していたのはこ
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の人物だった)も現われた。彼はサッタルに握手しようと手をさしのべたが、サッタルは冷淡に無視した―非常な軽
蔑を表す行為である。アリエフとの実りある会談の後、サッタルは報奨金を受け取ること、自作を再びアゼルバイ
ジャン国内で展示することに同意した。
声を大にして SPEAKING UP
1970年代に、「ソビエト・アゼルバイジャンの功績」という重要な展覧会がバクーで開催された。政治局の正
規局員のひとりヒョードル・クラコフが、モスクワから来てこの催しに出席することになっていた。著名なアゼルバ
イジャン人芸術家たちが、展示会場を装飾する任務についた。
旗や紋章を作る材料を供給するのは、政府の役割だった。芸術家たちには、天然絹ではなく人絹の布が与えられ
た。絵具は布に染み込まず、装飾の出来映えは惨憺たるものになった。
開会式の前日、開催の正式認可を出すために、政府担当者たちが視察に訪れた。ひどい仕上がりの装飾を見た役人
たちは、政府からの仕事を失うことを恐れて沈黙を守る芸術家たちを罵倒し始めた。
参加の要請は受けていなかったのだが、サッタルもその場にいた。彼は激怒し、沈黙する同僚たちを責めた。ス
ターリンはフセイン・ジャヴィド(アゼルバイジャンの高名な詩人)を殺したが、彼は死んでいない―その詩のうち
に生きているではないか、とサッタルは言った。現在の権力者たちもスターリンの方針を受け継いではいるが、既に
スターリンのような殺戮を行なう力を持ってはいないと彼は知っていた。サッタルは、立ち上がって失態の本当の原
因を述べるように仲間たちを叱咤したのだ。
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サッタル・バフルルザデ
「静物」 P・パルヴィズ氏所蔵
病と死 ILLNESS AND DEATH
1973年、サッタルは敗血症による中毒で倒れた。バクーの病院で手当を受けたが、病状は好転しなかった。病
院の主任医師は、回復のための唯一の選択はモスクワでの治療だと言った。当局はそのような渡航の費用を支出しよ
うとしなかったので、サッタルの友人たちが手配をすることになった。地元で茶店を経営していたギュルムラドが彼
をモスクワに連れて行き、手術は成功した。BR>
1974年に死んだサッタルは、多くの人が埋葬地として予想した「栄誉者墓地」ではなく、彼自身の希望に従っ
て、故郷の村アミルジャンにある母親の墓の隣に葬られた。そこに立つ記念碑―絵の入っていない額縁を二つ抱えた
サッタルの像―は、オマル・エルダロフ(訳注:アゼルバイジャンを代表する彫刻家で、現在バクーの国立芸術アカ
デミー学長)の手によるものである。こんにち、アミルジャン文化会館の前にはブロンズ製のサッタルの胸像が立て
られ、バクー市内には彼の名を冠した道「サッタル・バフルルザデ通り」がある。BR>
サッタルの遺産である数多くの作品は、米国、イギリス、トルコ、ロシアでの個展を含む、世界中の展覧会で公開
された。また、彼の生涯と芸術が反映された約30冊のスケッチ帳も現存する。BR>
サッタル・バフルルザデの作品に関する詳細は、アミルジャンに住むサッタルの甥ラファエル・アブディノフに照
会可能である[電話:(994−12) 420−08−73]。アゼルバイジャン・インターナショナル誌による
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サイト“AZ Art Gallery” (www.azer.com)には、サッタルの作品数点が掲載されている。
Azerbaijan International誌1999年夏季号より翻訳・転載
Copyright 1999 Azerbaijan International
Web site: www.azer.com
Mail: ai@artnet.net
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