桃山町 - syamashita.net

桃山町の歴史と桃の年表
古代の荒河郷から中世の荒川荘・調月荘・細野荘
年表でみる桃山町2千年の歴史と桃栽培
平成 25 年 1 月 27 日(追加)
山下重良編
-1-
桃山町の歴史と桃の年表
桃山町2千年の歴史年表
年代・年次
明治 5 年までの月日は太陰暦、和暦年号や干支には( )内に西暦を併記。出典は[ ]内に番号。
桃山町と桃を巡る記録[出典 No]
す じん
き いのくに きのくにのみやつこ
崇神天皇時代
と
べ
と
べ
とふつの あ
国・県、及び関連記録[出典 No]
を
ふ
た
た
ね
こ
(180-198 年)
・崇神天皇、紀伊國(木 國 造 )荒河刀弁(戸畔=郷長)の娘遠津年 ・崇神天皇 7(BC186)年、意富多々泥古(大直禰子:饒
ゆ め ま くはしひめのみこと と お ほ つ の あ ゆ め ま く は し ひ め
とよ き いり ひ このみこと
とよすき
魚眼眼 妙 姫 命 (遠津年魚目々比売)を娶り豊城入日子 命 、豊 鉏 速日尊 7 世)に大物主神を御室山(三輪山)麓に社殿を造
大和政権初期
入比賣 命 を生む[1,2,4]。荒河の初出。
いり ひ めのみこと
とほ ふ
(弥生時代後期)
づ しよう
とおつ
おほ つ
とほ ふ
づ
って祀らせ [大神神社縁起,3]、日本大國魂神(大和神社)を大
・麻生津 荘 、古くは荒川郷の内にして遠津・大津とも書き麻生津 倭直の祖/長尾市に祀らせる[崇神紀,2]。また宮中より石上
とおつ
は遠津の転化なり[6]。
とふつの あ
ゆ
め
ま くはしひめのみこと
布留の高庭に移し鎮め祀る[石上神宮縁起,4]とし、布留御魂
とおつ
・遠津年魚眼眼 妙 姫 命 は荒河郷遠津生れ[10]。
あまみちねのみこと
ひ
こ
ま
き
と
ね
く
し
た
大神を祀っている。いずれも饒速日(大歳)尊の別名。
ま
あら ぎ
た
・紀国造家譜:天道根 命 →比古麻命→鬼刀禰命→久志多麻命は鬼 ・荒木田遺跡(石川県小松市)から大量の桃核が出土、
あらかわ と べ
もも
の もも
しんきようもも
刀禰命の男、又の名/目菅は荒河刀弁ならん[6]。
弥生時代の桃核の種は桃・野桃・新 疆 桃と判明[18]。
あらかわ と
べ
みようほうだん
まきむく い せき
・荒河刀弁は往古 妙 法壇に居を構え、古代は荒河壇と云う[12]。
・纏向遺跡(桜井市)から 2,700 個を超える桃核が出土[桜
壇(段)村の地名起源。
崇神-垂仁天皇
や
ま たい こく
み
こ
井市埋蔵文化ンター発掘報告]。出土した桃は饒速日大神の祭祀
や
ひ
ま たいこく
ぎ
しん ぎ
わ
・[魏の景初三(239)年 12 月、邪馬台国女王に魏の皇帝が「親魏倭 ・[田道間守伝説]:垂仁天皇 90 年の春 2 月、三宅連等
おう ひ
み
こ
邪馬台国女王卑 王卑弥呼」の称号と銅鏡百枚等を贈る[魏志,28]。
弥呼の時代
(2-3 世紀)
用か。
の祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣わして非時香
・「景初三年銘入り画文帯神獣鏡」は、女王卑弥呼
(豊鉏入日賣命) 菓を求めしたまひき。
・天皇崩りまして明年春 3 月 12
い ざ の ま わか
の異母弟/伊邪能眞若命の古墳、墓誌「伊邪能眞若命墓 丙寅(246 日、多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を
年)四月十七日 年六十九[和泉黄金塚古墳,61]から大阪府和泉市上代町の 採り縵八縵・矛八矛を以て将ち来たりし間に、天皇す
黄金塚古墳から発掘される[昭和 25(1950-1951 年、大阪府教育委員会/日本考古学協 でに崩りましき。ここに多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛
会の合同発掘調査]。
を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を捧げて
・また、景行天皇の王子/墓誌「神櫛王命 庚戌(290 年)十月九日 叫び哭びて曰さく、
「常世の国の非時香菓を持ちて参上
年四十三」古墳[神原神社古墳=島根県加茂町神原,61,67]。から出土[島根県教育委員 りて侍ふ」とまおして、遂に叫び哭びて死にき。その
会,昭和 47(1972)年発掘]。神櫛王命は女王豊鉏入日賣命(卑弥呼)の甥[景行天 非時香菓は、これ今の橘なり。この天皇の御年、壱佰
皇紀,2] 。これまで出土した景初三年銘入り画文帯神獣鏡二面は、い
伍拾参歳。御陵は菅原の御立野の中にあり[垂仁記,1]。垂
ずれも女王豊鉏入日賣命の同族近親者で、しかも女王卑弥呼が魏 仁天皇墓誌「伊久米入日子命
の皇帝から銅鏡を贈られた以降の死亡で、魏志の云う女王卑弥呼 年七十一」[奈良市尼ケ辻町字西池
-2-
庚午(250 年)七月一日
宝来山古墳陵前、柳本/伊佐知命宮,61]。
桃山町の歴史と桃の年表
は豊鉏入日賣命と断定できる。
・田道間守が持ち帰った橘の苗木 8 本のうち 6 本を紀
ひ み こ
ひめみこ とよすきいり ひ めのみこと
あらかわ と べ
・卑弥呼は崇神天皇の王女/豊鉏 入比賣 命 で荒河刀弁の外孫。三 伊国海草郡加茂村橘本に植えられ、六本木の地名あり。
ひめみこ
ひ
み
こ
きのくに
き こく
国志魏志は王女を卑弥呼、紀国を鬼国と書いた[魏志,28,10]。
今ここに橘神社がある[同社伝,27]。
・邪馬台国の女王卑弥呼の時代 参照。
・タチバナ C. tachibana TANAKA(C.Aurantium LOUR. var
とおほつのあゆめまくはしひめ
・194 年 6 月 18 日、崇神天皇妃/荒河刀弁の娘/遠津年魚目々比売 Tachibana MAKINO) は、我が国の原産、高知・和歌山・
命、薨去。紀ノ川北岸の大谷古墳(和歌山市)に葬られる。墓誌: 鹿児島等の諸県に野生あり、台湾にも野生す。小喬木
遠津年魚目々微比売命墓 甲戌(194 年)六月十八日薨 年三十七歳 性で葉翼微小、果実は小にして扁円黄色、果皮薄く種
[61] 。
・大谷古墳は後の
6 世紀にも同じ場所に紀氏一族が古墳を造 子多くして食用価値なし。紫宸殿の右近の橘は此の種
営した[同古墳発掘調査報告]とみられる。
なり[33]。
AD248 年(戊辰) [曹魏の正始七(248)年、(魏の)使者/張政らが倭国に到着した時は卑 ・田道間守の持ち帰った橘は、我が国原生のタチバナ
とよ すき いり ひ め
つか
女王豐 鉏 入日賣 弥呼はすでに死んでいた[魏志,68]。卑弥呼、以て死す。大きな冢(墓) ではないとする。貝原益軒の「大和本草」
・小野蘭山の
ぬ
ひ
命 50 年(垂仁天 が作られた。冢の径は百余歩で百人以上の奴婢が殉葬された云々[魏 「本草綱目啓蒙」をみても分かる。橘の古名/トキジク
皇 37 年)
志,28]。
ノカグノコノ木の實ととする名称から推測しても香り
・7 月 14 日、豐鉏入日賣命、64 歳薨去。墓誌:豐鉏入日賣命薨 の高い柑橘で、今の代々ではないか[田中長三郎,33]。
戊辰七月十四日
年六十四」[大和高田市築山古墳周辺,61]。
つきやま
きついづか
・大和高田市築山の築山古墳は周辺に狐井塚古墳・コンピラ山古
ばいつか
墳などの陪塚を持ち全長 210 メートルの巨大な前方後円墳である。
成務天皇時代
・神田古墳群(神田)、七塚古墳、尼ケ岡古墳(最上)、小林古墳、最 ・和歌山市に秋月古墳が造営され、岩橋千塚古墳群中
古墳時代
上円山古墳、西ノ辻古墳群(最上)が出土[7]。
(300 年前後)
きんめい
よしなか ま
ろ
の石室に三角縁神獣鏡が副葬されていた[同古墳発掘調査,7]。
・この頃から方形周溝墓(出雲式)が造営される[7]。
すげよしなが
くだらのくに
欽明天皇の頃
(540-571 年)
・欽明天皇の皇子/吉仲麻呂(菅吉永とも)が調月・丸栖を含めて所 ・欽明天皇即位 11(550)年、百濟國より初めて佛法が伝
よしなかのしよう
よしなか ま ろ
すみ か
ま ろ す
領し吉 仲 荘 と云う。吉仲麻呂の住家を麻呂栖と云う[23]。後に丸 う[2]。
(飛鳥時代)
栖となる。
きの お
ま
ろ
・欽明天皇 23(562)年 7 月、(後に調月を拓く)紀男麻呂
すげのたに
すく ね
しらぎ
・吉永領(吉仲荘調月)の南限は日前寺南の 菅 谷の山道なり[野口家文 宿禰を大将軍とし二万の兵を率いて新羅討伐に派遣、
すげのたに
書,64]。
すげのたにいけ
菅 谷は今も在り、 菅 谷池も実在する[現状]。
すげのたに
吉仲荘の起源。丸栖の地名起源。調月南部の 菅 谷の初出。
-3-
紀男麻呂宿禰は土卒らに「勝ちても敗れる事を忘れず
油断せず武具を手放さずは古の尊き教えなり云々」と
桃山町の歴史と桃の年表
訓示する[3]。
よう めい
用明天皇二(587) ・用明天皇 2(585)年、当地(調月)に布陣していた太子軍の一人、 ・(大歳大明神は)皇子/吉仲麻呂と云う者の斎き祀る所
ふじわらあそんす げよしなが よ し な か ま ろ
むく
年(飛鳥時代)
藤原朝臣菅吉永(吉仲麻呂)は椋に向かって「心あらば丸(麻呂)を助 なり。吉仲麻呂、未だ詳ならず。或いは欽明天皇の子
(蘇我馬子大王)
け給え」と祈り(中略)。その場に居合わせた 12 人の僧の一人、 とも云う。王子、ここに来たり絶景の勝地を相て一宇
しやくしょうにん
師薬正人が太子に向かい「御運開ける兆しあり」と云い、僧らは の幽屋を築き棲居す。之を十景山と称す。土民恵みに
やまんどう
しょきょう
しょう
ちょうぶく
ばんじおぼ
八万堂で一心に諸 経を 誦 じ守屋軍を調 伏。万事思し召すままに 懐き隣里家を移す。厨調を給す。皇子曰く、遊山川観、
ととの
れいげん
あが
つか
つ
つかつき
調 ったことから、
お経の霊験を崇め塚を築いて奉納し、
当地を塚築 嘯吟して日を送る。而して西沐之上林□(氵+字)栖と號
みつぎもの
み か づ き
ま
ろ
す
と云う。しかし文字には御調物の調を頭に、下には三日月の月を す。其の下一舎を立て之を麻呂栖と称す。又宮尾帝林
ととのうつき
書くなり。よって調 月と書き、
「つかつき」と云う事、この代よ 御食地に就いて各々一舎を立て優遊之處となす。九月
きょうぞうだに
しょう
りのことなり。諸経を奉納したところを経 蔵 谷、諸経を 誦 じた 午時、皇子夢に帝林より金色の玉を出現し大いに光を
やまんどう
しんどうのたに
やまんどひら
処が八万堂、経蔵谷の下を神堂之谷と云う[野口家文書,23]。
(現/山人平 放つ。赫々として林上に懸る。皇子に告げて曰く、我
やまんどう
しんどうだに
「八万堂=山堂社=旧大歳神社」の南側の谷は今も神堂谷と呼ぶ)
。 是大歳大神之魂也。我れ君と異に非ず。乃ち皇子の胸
つかつき
やまんどひら
調月、山人平の地名起源。
ふじわらあそんすげよしなが
中に入り又出でて宮尾の舎に入り、然夢覚濛々然たり。
ちよげつ
注):用明天皇は架空で蘇我馬子大王の事蹟。また藤原朝臣菅吉永 此の威に因て調月に命じて其社地を築き、而して両祠
とあるが、朝臣姓は天武天皇 14(685)年に初めて定められたもので、を立つ(中略)。華表正一位勲一等大歳大明神と題す[紀州
しかもその時、藤原氏は朝臣を下賜されなかった[天武紀
代には藤原朝臣はなく、後世の偽作である。
よしなか ま
ろ
すげよしなが
すげ
そ
が
3]。この時 那賀郡調月邑大歳大明神縁起,12,19]。
そ
が
吉仲麻呂=菅吉永、菅は[スゲ]・[スガ]と読み、蘇我/宗我の改変
・調月の歴史・調月大歳神社▼
http://www.syamashita.net/history/tsukatuki/index.html
文字か。皇子/吉仲麻呂は蘇我稻目の子であろうか。さすれば、書 ・日本語で「ツカツキ」と読めない調月はハングルで
すい こ
紀の云う蘇我稻目大臣=欽明天皇(天國排開廣庭命)となる。
きの お
ま
ろ すく ね
「츠카츠키」と書き「ツカツキ」と読める[編者]。
きの お
ま
ろ すく ね
こうげん
ひこふとおしのまこと
推古天皇時代
(593-628 年)
・紀男麻呂宿禰は大和時代後期の武将 [21] で聖徳太子(蘇我善徳大 ・紀男麻呂宿禰は 8 代孝元天皇の皇子/彦太 忍 信 命の
きのたけうちすく ね
王)に仕え、推古天皇即位 11(603)年、紀伊国に来て紀氏の谷を拓 10 代裔孫、紀建内宿禰の 7 代[紀氏系図,23]。
(蘇我馬子大王)
き、名を変えて 調 月と名乗る。耕作の道を教え八万堂(大歳神社 ・神戸(貴志川町神戸)に祀った紀氏の神は紛れもなく
ちようげつ
や まんどう
もとみや
旧宮)に大歳明神を祀り五穀豊穣を祈る。神戸に社殿を造り紀氏の 大歳大明神。今は大国主神(貴志川町国主の大国主神社
神を祀る[調月野口家文書,23]。
大歳神社の起源。
:別名大物主神)としている[同社説明]。
推古天皇 6(598) ・戊午 2 月28日、皇子(吉仲麻呂)薨去し(57 歳?)、十景山に葬 ・推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)は記紀の架空。倭王(蘇
-4-
桃山町の歴史と桃の年表
け
み
もののべのかま
年(戊午)
る。調月(紀男麻呂宿禰)、次いで卒す。皇子の居に因りて其の名 我馬子大王)の妻は雞 弥 [隋書 ,28]。蘇我馬子の妻/ 物 部鎌
(蘇我馬子大王)
を以て吉仲御庄と云う。 調 月はその従者の名也。以て其の邑に名 姫大刀自 連 公)[4]。
ちようげつ
ひめおほ と
じ むらじきみ
付く[紀州那賀郡調月邑大歳大明神縁起,12,19]。
・十景山とは御茶屋御殿山の北東麓/船戸山古墳か。
推古天皇 8(600)
あ
ま
た
り
年(飛鳥時代)
・[隋の開皇二十(600)年]、倭王、姓は阿毎、字は多利
し ひ こ あ は け み あまたらし ひ こ おおきみ
思比孤阿輩雞弥(天 足 日子大王)と号し、使いを遣わし
(蘇我馬子大王)
て闕(王宮)に詣る。王の妻は雞弥と号し(中略)、太子を
け
わ
か
み
た
ふ
み
り
名付けて利(和)歌弥多弗利とす[隋書倭国伝,28]。書記の編者
は都合が悪いのでこの史実を隠し、この時の遣隋使は
書紀には書いていない。
そ がのうま こ おほきみ
・注:天足日子大王は蘇我馬子大王、蘇我馬子の妻は
ものの べ かまひめおほ と じ むらじのきみ
け み
そ がのうま こ
物 部鎌姫大刀自 連 公 [4]は雞弥で、太子は蘇我馬子の
嫡子/蘇我善徳[推古紀 3]。書紀は蘇我馬子が大王だったこ
とを隠し、馬子大王の妻を推古天皇に擬し、また蘇我
善徳太子も隠し、太子/厩戸皇子(架空)を創作した。
推古天皇 34(626)
・5 月 20 日、大臣(蘇我馬子)薨せぬ(76 歳)。桃源墓(石
年
舞台古墳)に葬る [3] 。墓誌:馬子墓 丙戌年五月廿日七
十六[61]。桃源墓は後に中大兄らが盛り土を破壊し、石
せつかん
室から持ち出された石棺は、古墳の西方約 2 ㎞の明日
おに
かわや
香村平田の山腹に放置され、「鬼の 厠 」とよばれて観
光名物となっている。
「馬子墓」と侮辱した墓誌も、元
の墓誌を削り取って書かれたとみられる。
皇極天皇 3(644)
・皇極天皇(天豐財重日足姫=百済武王の妃/宝姫)は翹
年(飛鳥時代)
岐(中大兄皇子)の母親で飛鳥に居ず架空[65]。
(蘇我善徳大王)
・[唐の貞観 18(644)年]12 月 4 日、インドに渡っていた
唐の玄奘三蔵が長安に帰る[44]。
-5-
桃山町の歴史と桃の年表
大化元(645)年
・6 月 12 日、蘇我入鹿臣(蘇我善徳大王=聖徳太子)が
(飛鳥時代)
百済王子/翹岐(書紀名/中大兄皇子)、百済の大左平/智積
(蘇我善徳大王)
(書紀名/中臣鎌子)らに夜明けに法興寺西門前に誘き出
され暗殺される[3,65,入鹿の首塚伝承](乙巳の変)。飛鳥板葺宮
の大極殿で殺したとする書紀の記述 [3]は辻褄が合わな
い。
かる み
こ
・6 月 14 日、軽王子が即位し大化元年とする[2]が、こ
の時、軽王子(孝徳)は即位していない[白雉元年条参照]。
注:孝徳元年紀には蘇我倉山田石川麻呂を右大臣[2]と
書いているが大王だった。蘇我石川麻呂も大化 5(649)
年 3 月 25 日に翹岐(書紀名/中大兄)に攻められ自害[2]。
・9 月 12 日、中大兄が兵を率いて古人大兄を討つ[2]。
大化 2(646)年
・正月甲子朔(1 日)、大化の改新の詔[2]は、蘇我馬子大
(飛鳥時代)
王時代から進めてきた改新事業を蘇我倉山田石川麻呂
(蘇我石川麻呂大
大王が条文化したもの。
王)
・この年、熊野国造が支配していた熊野国が廃止され
紀伊国牟婁郡に編入される[6]。
はく ち
大化 6(650)年
・2 月 15 日、
「白雉」に改元。
白雉元(650)年
・[唐の高宗の永徽の初め(650 年)]、倭国、献使「其の
孝徳天皇元年
王/孝德即位し改元して白雉と曰う。虎魄大きさ斗桝の
えい き
こ はく
め のう
ごと
如く、碼碯五升器の若きを獻ず [新唐書,104] 。孝徳天皇即
位。
天武天皇
・天武天皇 13 年 11 月 29 日、白鳳南海地震起こる[3]。M 8.0 ~ 8.3、 ・672 年 7 月 26 日、
壬申の乱を制した大海人皇子は 673
672-686 年
死者多数。土佐で津波により大きな被害。田園約 12km² が海面下 年 2 月 27 日、即位(天武天皇)[3]。
(飛鳥-白鳳時代)
へ沈下、ほぼ同時期に東南海・東海地震も発生[地質調査結果,44]。
大宝元(701)年
・8 月 21 日、三河・遠江・~・国防・紀伊・讃岐・伊
-6-
桃山町の歴史と桃の年表
か
文武天皇 5 年
大宝 2(702)年
豫に大風あり、昼を発き稼(稲作)を損ふ[4]。
か だのうま や
・正月 10 日、初めて紀伊国賀陁駅家を置く[5-1]。
文武天皇 6 年
・大宝 3(703)年、紀伊國奈我・名草二郡に布調を停め
糸を献上せしむ[5-1]。
慶雲 2(705 )年
・5 月 7 日、天武天皇皇子/忍壁親王薨、墓誌:忍壁親
文武天皇 9 年(乙
王墓 乙巳年五月七日薨 御年四十六歳[61]。高松塚古墳。
巳)
忍壁親王(AD660-705 年)。
和銅元(708)年
・6 月 25 日、但馬内親王/天武女 薨、47 歳(AD662-708)
元明天皇元年
墓誌:但馬内親王墓 戊申年六月二十五日 年四十七
[61]。キトラ古墳。
和銅 5(712)年
・尾張より熱田神を勧請し、岩手大宮社を造営[社伝,60]。
神亀元(724)年
・10 月 7 日、天皇(聖武)、紀伊国那賀郡玉垣(粉河)へ、8
聖 武天皇元年
日に海部郡玉津島(和歌浦)に行幸[5]。この時に同行した
(奈良時代)
山部赤人の詩
じん き
しよう む
わかのうらに しほみちくれば かたをなみ
あしへをさして たづなきわたる[万葉集]。
の みのすく ね
神亀 2(725)年
・(吉仲荘調月邑城ノ段)中家の始祖は筑紫国の菅原朝臣中将送須 ・菅原朝臣は野見宿禰の後裔なり[50]。素戔嗚尊(須佐之
聖 武天皇 2 年
で聖徳太子の母方の子孫。神亀 2(725)年、吉仲庄大明神(旧大歳神 男尊)の子/ 天 穂日命、これ出雲臣・土師連等の祖なり。
(奈良時代)
社)に因縁あって来往、36 代俊良に至って平左衛門と云い、後に 天穂日命 14 世孫野見宿禰[2]。
しよう む
あまの ほ
ひ
の みのすく ね
てんおう
調月入道と称した。39 代峻正(中勝助)は、高野山木食上人俗世時 ・注)菅原朝臣は天応元(781)年、土師宿禰古人らが本拠
代の娘を妻としたことから、所持していた山林、田畑、夫役、諸 の大和国添下郡菅原の地名により菅原宿禰の姓を賜り、
えん りやく
公事の免許を蒙るとあり、
別に岡家(中家の分家)所蔵の明応 6(1497) 延 暦 9(790)年に朝臣姓を下賜された [5] もので神亀 2
年の文書に、峻正は高野山の最高権威者、応其上人と姻戚関係を (725)年には、まだ菅原朝臣はない。
結びてより俄に派振りを強め(中略)当時、中家の声望非常なもの
たい か きゆう ふ
きつりつ
あり、白亜の塁壁は南面を限り、大厦 丘 阜に屹立し、西南北一帯
こう や
の曠野を望み三里の遠きより其の白亜を臨むところ、いわゆる中
-7-
桃山町の歴史と桃の年表
屋敷として道行く人も敬意を払えり云々と、当時の中家の隆盛を
じん き
物語っている[12,23]。中屋敷を城と呼び城ノ段の地名となる。
神亀 3(726)年
・正月 12 日、奈良の帝(聖武天皇)、吉野より吉仲荘大歳明神(旧大
(奈良時代)
歳神社)に御願あり[野口家文書,23]。
天 平 13(741)年
・調月大歳神社、 行 基菩薩の発願により祭神社殿を現在地に遷し ・天 平 13(741)年 3 月、諸国に国分寺造営を宣下[5]。
聖 武天皇 18 年
神宮寺を造営。神堂薬師像(井上薬師堂の本尊/七体薬師像)は行基 この頃の紀伊国衙(国庁)は田仲郷に在ったか[紀伊国分寺跡
(奈良時代)
の作[野口家文書,23]。
てんぴよう
しよう む
ぎよう き
ぼ さつ
うつ
てんぴよう
が打田町東国分に在り]。
いは て
・石手郷上岩出村塔ノ芝(現岩出市西国分)に金光明四
天王護国寺(僧寺)、田仲郷池田村(現紀の川市東国分)に
てんぴよう
ひ おき
法華滅罪寺(尼寺)を建てる。この逆説もある[60]。
天 平 17(745)年
・9 月 21 日付け優婆塞献進文:紀伊国那名(賀)郡荒川郷戸主/日置 ・荒川郷は、今(1839 年)安楽川荘あり、その地[荒川郷]
聖武天皇 22 年
造 白麻呂戸口 [正倉院文書,16,25] とみえ、荒川郷の日置造白麻呂が朝 は即ち今の安楽川・麻生津・志賀野・真国・細野・鞆
奈良時代
みやつこしろ ま
ろ
廷に優婆塞を献上した。
・優婆塞とは三宝に帰依して五戒を受けた 淵の荘なるべし[6-1]。荒川郷は那賀郡の紀ノ川南岸の吉
ひ おきみやつこ
男子[21]。日置 造 は高麗国人/伊利湏使主の後裔なり[50]。 荒川郷 仲荘を除く広大な領域を指す。
の初出。
天平 20(748)年
・4 月 25 日付け書写所解:紀伊国那賀郷戸主大伴連佐
聖武天皇 25 年
伯麻呂 [正倉院文書,16] とみえ、その地は国分・田中・池田
(奈良時代)
もつかん
あらかわごうさかまい ご
・長田の四荘なるべし[6-1]。
と
てんぴようじん ご
しようとく
奈良平城宮時代
・平城宮跡出土の木簡で「荒川郷酒米五斗」と解読[ 25] 。・奈良時 ・天 平 神護元(765)年 10 月 13 日、天皇( 称 徳)紀伊国
716-793 年
代の朝廷に荒川郷から貢ぎや人夫が送られたことを示す。
に行幸、進みて 17 日那賀郡鎌垣(粉河)の行宮に至る云
々[5-4]。
てんぴようじん ご
しようとく
天 平 宝字 3(759) ・尼岡山尼寺旧記によれば天 平 神護の昔、 称 徳天皇が尼岡山に ・万葉集に桃の花を詠んだ詩が登場[万葉集]。
てんぴようほう じ
てんぴようじん ご
な
か ぐん し
ひ おき ひ
と
年以後
尼寺(最上廃寺)を創建、南都西大寺派なり[12]。
(称徳天皇)
・「最上廃寺跡」発掘調査の結果、飛鳥-白鳳(593-710 年)時代の寺 弟弓が紀伊国国分寺へ稲 1 万束を献上、外従 5 位下を
だい どう
・天 平 神護 3(767)年 6 月 22 日、那賀郡司の日置毘登
お ゆみ
ひ おき
院跡と判明[県教育委員会発掘調査報告書]。
授く[5]。日置造は高句麗から渡来した一族[50]。
だいどう
たか の
大同(806-810)年 ・大同 2(807)年 6 月 3 日、天台宗僧/最澄が熊野参詣の帰路、田仲 ・大同年中に天台宗開祖/最澄が荒川郷高野村に天台宗
-8-
桃山町の歴史と桃の年表
へいぜい
中(平城天皇)
だんむら
たか の
じ
ひ えいざんえんりやく じ
たか の
じ
郷壇村の八幡社に八坂神社を祀る [伝教大師行状記,47,7]。桃山町段の八 高野寺を創建。山門(比叡山延 暦 寺)末寺高野寺[20]。
坂神社(祇園社)起源。
こうにん
弘仁 7(816)年
さ
が
こうれい
こうにん
・稲葉家由緒書:(調月)稲葉家は孝霊天皇の末なり。大師高野山 ・弘仁 7 年 6 月 19 日、空海(後の弘法大師)は朝廷に高
みぎり
お
ち もりしげ
嵯峨天皇 8 年
御開基の 砌 (弘仁 7 年)伊豫國司越智守繁、紀州那賀判官を任綬。 野山を修禅道場として下賜を請い、弘仁 9 年にかけて
(平安時代)
それより以来荒河・調月両荘に給領あり。美福門院の時、荒河東 金剛峯寺を開創[29]。
あらかわ
つかつき
島百廿貫、調月南島百貫の所領券を給う(中略)。稲葉大善大夫道
いな ば とうぞうつうじゆん
輝より稲葉藤蔵通 諄 迄 6 代、高野山の荘園(吉仲荘調月)に居し云
々[23]。 吉仲荘調月村稲葉の起源。
弘仁 10(819)年
・弘法大師(空海)、當村(細野村)を巡歴、勝谷に井戸を掘りて庶民
嵯峨天皇 11 年
の爲を図る[伝承,49]。
こうにん
おおとも
たか み
む すひ
弘仁 14(823)年
・田仲郷段村は荒川団(壇)と云い大伴氏(名不詳)が兵士の武芸を講 ・大伴宿禰は高皇産霊尊 5 世孫/天押日命の後也[48]。
淳和天皇元年
じた処であったが藤原氏の勢力に圧され 淳 和天皇の諱/大伴親王 ・荒川団(壇)は紀ノ川の川原に在った嶋。
(平安時代)
じゆん な
ともすく ね
を避けて伴宿禰に改めた[12 上]。
天長年間
・空海が祇園社(段村)にて護摩を焚き、法華経の一字一石塔を築
(824-834 年)
く[8]。妙法壇の起こり。
じようがん
貞 観 3(861)年
せい わ
(清和天皇)
み ふねのかみ
・7 月 2 日、朝廷が紀伊国正六位上御 船 神(神田三船神社の古宮)
・(三船神は)里人伝え云うに、当社は古くは黒川村に
に従五位下を授く[32]。
あり。後に秘文の瀧東十町(約 1.1 ㎞)余り高野村領の宮
たか の
(平安時代)
と云う処に移し、それより古宮に移す。天正(1573-1592)
おう ご
年中に應其上人が再建のとき今の地に移す[6]。
元慶 3(879)年
・2 月 22 日、池田村塔ノ芝(現西国分)の金光明寺(国分
(平安時代)
僧寺)、火災で堂塔・坊舎悉く灰燼となる[32,60]。
えん ちよう
えん ぎ てんやくしき
き いのくにとうにんいち と
とうにん
(平安時代)
紀伊国から毎年桃仁一斗の献上を義務づけられたとみえる。
延 長 5( 927) 年 ・延喜典薬式に「紀伊國桃仁一斗」とある。桃仁は桃の種子[21]。
えんちよう
延 長 7(929)年
とうにん
えんちよう
・野田原村の村名は延 長 七(929)年の高野山所蔵の文書にみえる ・紀伊続風土記の安楽川荘野田原村に「當村、古くは
-9-
桃山町の歴史と桃の年表
だい ご
(醍醐天皇)
(平安時代)
[6]。
野田原村の初出。荒川荘野田原村と薄木大明神
・野田原の下司(代)平野八郎範景[13]あり、野田原八郎とも名乗り、 文書には野田八郎の名は見えず、
「平野八郎」の誤記と
「平野の田原」が訛って野田原となったか。野田原の地名由来
じよう へい
野田八郎と云う者の領せし地と云う [6]」とあるが、古
ひら の はちろうのりかげ
じようへい
みられる。
わ みようるいじゆうしよう
承 平年
間 ( 931- ・ 承 平年間に編纂の和漢辞書「和 名 類 聚 抄 」[21]の地名に荒川
す ざ く
な が
かん べ
いは て
ふけ と
な が
年
朱
雀 天 皇 郷とある。紀伊國第百十九の奈我郡は、神戸・石手・稿門・奈我
937
はねさき
時代)
・荒川・山崎・埴崎の七郷がみえる[倭名類聚抄,延喜式,34]。吉仲荘は埴
(平安時代)
崎郷に属す[6,12,19]。
じようげん
・ 貞 元 2(977)年、細野荘垣内の丹生神社に大日堂を合せ神宮寺と
えいかん
なす[49,8]。
永観元(983)年
・高野山金剛峯寺に初めて検校を置く[11-7,34]。
正暦 5(994)年
・秋 7 月 6 日、迅雷が高野山大塔を震わせ忽ち炎上す
(平安時代)
る。独り御影堂を残すだけとなった。後に金剛峯寺座
主/寛朝に達して伽藍再営の官助(国の援助)を乞い奉る。
まだ果たしていない。兼ねて東三条院に願い出て天野
の神宮院/山王堂曼荼羅院を修造し、さらに僧坊六宇を
創造する。検校坊、及び山籠僧の隠息の所とする。諸
堂社の法式を勤仕する。そのため、雅真師を天野検校
と号する。順延(順番に)別当(統括者)として有識の僧衆
が順役で高野山へ登り止住して法式を勤める。これを
参籠衆僧と号す。その依怙料(拠り所)として六箇七郷
を天野宮に寄付された。所謂天野・花坂・志賀・四村
・教良寺・山崎村である。天野丹生明神社領志賀郷が
成立。
寛弘元(1004)年
・9 月 25 日付け太政官符案:中納言/平惟仲領紀伊国
(平安時代)
在田郡石垣荘の庄司等が高野山領志賀郷を横領した[平
安遺文,17,63]。
- 10 -
桃山町の歴史と桃の年表
寛弘 5(1008)年
・10 月 27 日付け金剛峯寺帖案:白河寺の使者、及び
(平安時代)
左大臣/藤原道長の使者が、寺領志賀郷などに乱入した
ので、金剛峯寺が紀伊国伊都郡の郡司に寺領への妨げ
を停止させるよう訴える[平安遺文,17,紀伊国阿氐河荘史料 2,63]。
か じよう
嘉 承 2(1107)年
・1 月 25 日付け官宣旨:紀伊国在庁官人らが去年
(平安時代)
(1106 年) 12 月の報告に云う、紀伊国 7 箇郡のうち名
草郡を除く牟婁・日高・在田・那賀・伊都 6 箇郡にい
たっては、毎郡 10 分の 8 はすでに荘領となり、公地は
しらかわ
白河院政時代
か ん じ
あらかわ と
べ
こういん
あらかわひようえのじようとしたか
げ
す
幾ばくもない[11-4,13,34]。
・荒河刀弁の後胤・荒川 兵 衛 尉 俊尊は白河院時代に荒川荘下司
しき
(寛治元(1087)年 職となる[平野家文書 23]。
か
ほう
-嘉保元(1095)年)
寛治 4(1090)年
・正月 22 日、
「後白河法皇、熊野社詣の時、根来寺傳法院より調 ・寛治 4(1090)年 1 月 22 日、白河上皇が熊野参詣に出
(平安時代)
月大歳神社に臨幸あり、平清盛も熊野社参りの下向途上、当社に 発し寛治 5 年 2 月 17 日、高野山に参詣する[44]。
・後白
ぢ あん
参拝され所蔵の古文書を閲覧された由」[19,23]。
河天皇はまだ即位していない。白河法皇の誤り。また
・白河上皇、熊野参詣の折、根來寺、及び粉河寺に臨幸[60]。
根来寺傳法院は大治元(1126)年創建、まだない。
からはしほういん
ぢ あん
だい じ
治安(1021 年)以 ・吉仲荘(調月村、
丸栖村)は中古まで唐橋法院の領地で治安 2(1022)
ご いちじよう
ほつしよう じ
降(後一 条 天皇) 年以降は法 性 寺殿下(関白/藤原忠通)の領となる[19,24]。
(平安時代)
じようとく
法性寺領吉仲荘。
承 徳 3(1099)年
・1 月 24 日、南海地震(康和南海地震)-M8.0 ~ 8.5、死
(平安時代)
者数万と推定。土佐で津波により大きな被害。
・5 月 12 日、荘園の新設を禁止する(康和の荘園整理
こう わ
みつすえ
令)[44]。
康和元(1099)年
・(荒川荘公文奥氏の先祖は)源満仲(清和天皇の子孫)の弟/満季の ・承徳 3(1099)年 8 月 28 日、
「康和」に改元[21]。
(平安時代)
子孫/源義盛が陸奥國に住み陸奥三郎と称したが康和元(1099)年に
こう わ
奥に改姓[奥氏系図 23,34,]。
- 11 -
桃山町の歴史と桃の年表
か じよう
か じよう
嘉 承 2(1107)年
・1 月 25 日付け、紀伊国在庁官人らが去年(嘉 承 元
(鳥羽天皇 5 歳・
(1106)年 12 月の報告に云う、紀伊国 7 郡のうち名草郡
白河院政時代)
を除く牟婁・日高・海部・在田・那賀・伊都 6 郡に至
(平安時代)
っては 10 分の 8、9 はすでに荘園となり公地は幾ばく
も無い[11,13,20]。
・12 月 21 日、紀伊守/紀宿禰龍興と紀宿禰高継が対立
し紀伊国内が大いに騒乱する。紀伊国守(国司)の館は
伊都郡名古曽の丘(高野口町名古曽)に在った[13]。
永久 2(1114)年
・12 月、僧/覚鑁(20 歳)、京都仁和寺から高野山へ來住
(平安時代)
だい じ
する[11-8,13]。
ぎようそん
だい じ
大治 4(1129)年
・5 月、平等院大僧正( 行 尊)が荒川郷を荘園として立券、鳥羽上 ・大治元(1126)年、覚鑁が石手村根来に伝法院を創建
(鳥羽院政)
皇に寄進[11-3,34]。鳥羽院領荒川荘が成立。
し鎮守として大宮に三部権現を祀る[根来要書上・37-7・平安遺
(平安時代)
・10 月 5 日、鳥羽院庁下文:紀伊国司宛、使者と共に本券に任せ
文 2081 号・13,34,8]。
と
ば
とうしたに
て那賀郡荒川荘の四至(四方の境界)榜示を早く打ち定めよ[高野山御影 ・ 透 谷は調月の丸山と奥殿山の谷、また牛景渕及び多
堂文書 20]。荒川荘の四至、東は檜峯及び黒川を限り、南は高原及び
とうしたに
陀渕は調月城ノ段の田地の字名に残る [6] 。牛景渕・多
多須木峯(襷峠)を限り、西は尼岡中心及び 透 谷を限り、北は牛景 陀渕は当時紀ノ川・貴志川・石榴川の合流点で今の添
だい じ
渕及び多陀渕南の古溝を限る[11]。
田集落の辺りとみられる。
大治 5(1130)年
・12 月、鳥羽上皇と中宮/藤原得子が熊野へ参詣する。
(平安時代)
藤原得子が源師時に山伏の装束を指示する[源師時の日記/長
秋記・史料大成]。
ちようしよう
長 承 3(1134)年 ・鳥羽院の御宇、御使としての左官掌/奥盛弘が在庁官人(紀伊国 ・5 月 8 日、覚鑁上人の訴えにより金剛峯寺座主に高
(平安時代)
衙の地方役人)らを率いて現場に臨み、往古公験(公の験証)の旨に 野山住山の人を付けられる。よって鳥羽上皇の院宣が
従 い 荒 川 荘 の 四 至 ( 四 方 の 境 界 ) を 堺 し 榜 示 ( 領 域 杭 ) を 打 っ た 下され、東寺長者の高野山管領(管理支配)を止め、高
[11-1,37,20]。
野山止住の真誉(持明房)が金剛峯寺座主職に補される。
覚鑁の弟/信恵が金剛峯寺執行となる。
・12 月 22 日、
覚鑁上人が鳥羽上皇の院宣を賜り金剛峯寺と大伝法院
- 12 -
桃山町の歴史と桃の年表
の両座主となる。
・12 月 23 日、検校(坂上)良禅を追放
し、覚鑁の弟/信恵(曜光房)が高野山検校に就任。金剛
しゆうしよう
ほうえん
峯寺大衆が 周 章 (慌てふためく)する[11,13,20]。
さ えきのくにただ
保延元(1135)年
・12 月 29 日、鳥羽院使佐 伯 国忠が荒川荘の検注結果を報告、田 ・黒川村・脇谷村・高野村・五百谷の初出。
(鳥羽院政)
地三十六町九反三百十歩、うち現作(耕作田)三十二町七反百歩、荒 ・黒川の名、山間 狭 隘にして暗谷川と云う意味なり[6]。
(平安時代)
(休耕田)四町二反二百十歩、桑二千九百三十六本。在家三十一宇(軒) 黒川村の地名由来。
こう
きようあい
くらたにがわ
ざい け
い
を たに
い
を だに
の
た はら
わきだに
たか の
[11]。これには黒川・伊於谷(五百谷)・野太原(野田原)・脇谷・高野
じ さんまい ぐ りよう
・脇谷村は野田原の脇の谷から名付く [6] 。脇谷村の地
寺三昧供 料 を含むが、下司の平野氏や公文/奥氏の所領分は免許 名由来。
ざい け
地として除外されている。広い荒川荘に在家(民家)は僅か 31 軒。
・鳥羽院庁牒(通達):荒川荘を高野山領に立券させる[平安遺文
ほうえん
2236 号
,34]。
保延 6(1139)年
・12 月 8 日未明、金剛峯寺派が大伝法院・密権院を襲
(平安時代)
撃、高野山僧覚鑁、根來に下山[11,13,60]。
こう じ
かくばん
たいらのさねつな
康治元(1142)年
12 月 12 日、藤原摂関家(京都法成寺)領吉仲荘の下司/ 平 實綱が ・覚鑁上人、岩出大宮に三部権現を勧請[60]。
(平安時代)
藤原氏の熊野参詣にあたり菓子等を送り届ける[兵範記・平安遺文
,34]。
2490 号
たいらののぶのり
康治 2(1143)年
・吉仲荘は仁平 3(1153)年以前 10 年間、平信範の知行であったが、 ・ 平 信範:平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、
(平安時代)
藤原頼長(平安後期の公卿。左大臣)によって知行を停止され藤原 兵 部 大 輔/平知信の三男[21]。
ひよう ぶ おほいすけ
爲親の知行となった[兵範記・平安遺文,63]。
きゆうあん
12 月 12 日、覚鑁上人が那賀郡石手莊(岩出)根来寺円明
平信範領吉仲荘。藤原爲親領吉仲荘。
院で死去。行年四十九[11-7]。
あらかわとうぞうとしはる
きゆうあん
にんぴよう
久 安 3(1147)年
(鳥羽院政)
・荒川藤蔵俊春は鳥羽院時代に北面(武士)仰せ付られ河内国平野 ・ 久 安 6(1150)年、仁 平 元(1151)年、同 2 年、鳥羽上
きゆうあん
荘を給り平野周防守と改め、 久 安三(1147)年、平野右衞門尉従五 皇と美福門院、熊野に御幸[8]。
(平安時代)
位となり美福門院の朝臣となる[37-7,23]。
久 安 5(1149)年
・4 月 5 日、御室御所(仁和寺宮)が和泉国新家莊から宿をでて尾山 ・8 月 3 日、鳥羽上皇の后(藤原得子)に院号の宣下あり、
(平安時代)
峠を越え那賀郡小倉荘埴崎にて船に乗る。仁和寺領那賀郡貴志荘 美福門院の号を賜る[11-7,31,34]。
きゆうあん
莊司/友兼(藤原魚名の後裔)がこの所で昼膳を用意する。紀ノ川南 ・藤原得子は鳥羽天皇の女御となり、保延 5(1139)年、
- 13 -
桃山町の歴史と桃の年表
わり ご
なりひと
の荒川荘のほとりで荒川荘莊司の僧が仮屋を建て、破子(折弁当) 体仁親王を生む。永治元(1141)年、近衛天皇(3 歳)にし
などを用意する。しばらく船を留めやがて貴志荘莊司/友兼が用意 て即位、久安 5(1149)年、得子が美福門院の号を賜る[奥
する粉河寺領の宿に至る[御室御所高野山参籠日記・11-4,34]。
家文書・37]。
・5 月 12 日、高野山大塔に落雷があり金堂や潅頂堂などが焼失す ・この年、藤原得子(鳥羽天皇女御・父/藤原長実(左大
る。高野山大塔に再び落雷、金堂・灌頂堂に炎上、悉く灰爐とな 臣)、母/源俊房(左大臣)娘)が美福門院の号を賜る[奥家文
るも御影堂は炎上を免れる[6]。
書,12,34]。
・7 月 9 日、播磨守/平忠盛(清盛の父)が成功(資材献上)し高野山根 ・11 月、美福門院と暲子内親王が熊野に参詣する[本朝
にんぴよう
本大塔を補修・造営し始める[11,13]。
世紀・兵範記,37」。
にんぴよう
仁 平 元(1151)年 仁 平 元年 4 月 8 日付け吉仲荘の下司/平実綱書状:久安六(1150)年 ・久安 7(1151)年 1 月 26 日、
「仁平」に改元[21]。
(平安時代)
たいらのさねつな
秋の風水害により百姓は窮状にあるが吉仲荘の負担軽減がなかっ ・この頃、吉仲荘荘官に 平 實綱が美福門院によって
た[兵範記・平安遺文,34]。
配されたと云う[8]。
たいらのさねつな
ど いのちようじや
・調月では 平 實綱 [11] を土居 長 者と呼び、山人平に
ど
豪邸を構え息子が京都から嫁を迎えたと伝承 [8] され土
い やぶ
にんぴよう
ほうじよう じ
ご りよう
居藪が今も残る。
よしなかのしよう
かんにん
仁 平 3(1153)年
・10 月 28 日条:法 成 寺御 領 紀伊国吉 仲 荘 は 40 年間にわたっ ・法成寺は摂政関白/藤原道長が出家後、寛仁 4(1020)
(鳥羽院政)
て藤原爲親が知行したが、仁平三年、藤原頼長によって停止され、 年から建てた寺院[21]。
(平安時代)
再び藤原爲親の知行となった[兵範記,平安遺文,20]。
この当時の吉仲荘は法成寺領(藤原道長)。
ほうげん
ほうげん
まか
びよう が
保元元(1156)年
・荒川荘の平野右衞門尉は保元元(1156)年、荒川へ罷り帰る。以 ・6 月 12 日、美福門院は法皇の 病 臥する鳥羽安楽寿
(鳥羽院政)
来代々荒川荘の下司職。14 代平野弾正左衛門俊光の弟/刑部俊明 院にて落飾[31]。
(平安時代)
は津田に改姓[23,34]。
ほうぎよ
・7 月 2 日、鳥羽法皇、崩御(54 歳)[31]。
・下司平野氏本家は代々、加和村に住む[20],
[加和村に屋敷跡]。
ほうげん
・7 月 5 日、皇位継承を巡って保元の乱が勃発[31]。
ほうげん
・荒川荘の奥盛弘、保元元年より代々荒川(小林村)に住す。代々 ・保元元(1156)年、美福門院、剃髪して真性尼と号し
公文職[20,23,最上小林に奥家屋敷]。
奥盛弘唯一人を召して荒川荘に隠棲、小林に尼岡御所
を建てる[奥家文書,37-7,34]と、美福門院が荒川に来たとする
- 14 -
桃山町の歴史と桃の年表
へい じ
平治元(1159)年
に じよう
奥家文書は贋作。しかも創作は江戸時代と判明。
・5 月 28 日付け後白河院庁下文:院庁が荒川荘官らに下す。早く 9 月、金剛峯寺政所下文:荒川荘官に下す。非理の古
けんもん
( 二 条 天 皇 ・ 後 鳥羽院使/(奥)盛弘による長承 3(1134)年の註文(報告)に従って田仲 券を捧げ訴訟を権門に寄せ、或いは臨時の沙汰に触れ
ごうえん
白河院政)
荘・吉仲荘との相論を停止せねばならない当(荒川)荘四至内の領 強縁(権力者との縁故)を京都に取る輩は美福門院の令
(平安時代)
地のこと[岡家文書・11]。藤原摂関家領田中荘の領所/舎人/藤原仲清と 旨に背き高野山(検校)を蔑如(軽蔑)する者である[11-1,34]。
べつじよ
ともに吉仲荘の荘官が荒川荘と境界争いを起こした[51]。
・荒川荘大衆(定め)置文:強縁を京都(東寺長者)に取る
・5 月 28 日付け後白河院庁下文:紀伊国荒川荘を美福門院領とす ことを停止する[11-1,34]。
ひのみね
たこ ら
る(中略)。荒川荘の四至は東は桧峯並に黒川を限り、南は高原並 ・12 月 9 日、後白河院の近臣らの対立から三条殿およ
た
す
き みね
あむ か
とうしたに
うしかげぶち
しんぜい
に多須木峯を限り、西は尼岡中心並に 透 谷を限り、北は牛景渕並 び信西邸を焼き討ち、平治の乱が勃発[31]。
じゆん だ ぶち
に 純 陀渕南の古溝を限る。太宰大弐/平朝臣(清盛)等 30 人連署 ・「幻の美福門院荒川荘隠棲説話」
た
す
き みね
[11-1,13,20]。多須木峯は現在の
たすきとうげ
うしかげぶち じゆん だ ぶち
襷 峠 、牛景渕/ 純 陀渕は当時紀ノ川 ・日付不明、中納言御教書(命令書):荒川荘の検注は
うしかげぶち
じゆん だ ぶち
と石榴川・貴志川合流点の南岸の渕とみられる。牛景渕・ 純 陀渕 まだ終わらないか。石清水八幡宮寺領鞆淵荘が荒川荘
なまず
ねや
は調月城ノ壇の田地の字に残る[6]。高島東の石榴川北岸に 鯰 ノ閨 に押入ったと特に訴え申しているが事情を詳しく報告
の字名あり[現状]。
せよ[11-1,34]。
・7 月 17 日付け美福門院令旨:故鳥羽上皇の冥福を祈るため荒川
荘を金剛峯寺に寄進する。その年貢を以て故鳥羽法皇の菩提に資
す[11-1,11-7,20]。金剛峯寺領荒川荘。
・8 月 3 日付け美福門院令旨:荒川荘を検注せよ[11-1,34]。
・8 月 27 日付け美福門院令旨:荒川荘の検注はまだ終わらない
か。石清水八幡宮寺領鞆淵荘が荒川荘に押入るとの訴えがある
[11-1,34]。
・11 月 3 日付け美福門院令旨:荒川荘へ条々(12 カ条)を下す。荒
川荘内高野寺三昧田のこと、本免であり改易(没収)してはならぬ。
給田 5 町・畠 10 町を副え給すること。年貢の献納を間す桝の事は
えいりやく
増減せずそのまま高野山の例に従うこと[11-1,6-3,34]。
永 暦 元(1160)年 ・2 月 19 日付け美福門院令旨:日吉大社大行事彼岸所(延暦寺)末 ・11 月 23 日、(もと荒川荘の領主)美福門院、京都白河
- 15 -
桃山町の歴史と桃の年表
こうきよ
(二条天皇)
寺の荒川荘内高野寺は本免 6 反ある[11-1,6,13,34]。
の金剛勝院御所(白河押小路殿)にて薨去、御年 44 歳。
(平安時代)
・10 月 7 日付け藤原親隆奉書:荒川荘への両度の熊野詣で課役は 遺骸は鳥羽東殿(安楽寿院)にて荼毘にふされ、遺言に
い がい
しばらく中止とする[11]。
だ
び
より弟の藤原時通らによって高野山に運ばれ納骨[31]。
・10 月 20 日付け前太政大臣(藤原忠通)家政所下文:田仲荘藤原仲 ・11 月 23 日、美福門院が死去する。遺骸を荒川荘大
清らの荒川荘への押妨を停止させよ[11,岡家文書,34]。
明山/福王寺境内に葬送する[奥家文書・12]。
えいりやく
こうぎよ
・10 月 22 日付け関白(藤原基家)家御教書:田仲荘に妨げを致され ・永 暦 元(1160 年)庚辰の十一月廿三日、門院が薨御、
け しき
ご そんがい
ほうむりたてまつ
ると荒川荘が訴え申す。関白殿下政所の下文はこの通り。御気色(命 御壽四十四歳、即御尊骸は庄内寺田に 葬 奉 る。奥
ゑんじゆ
令)により言上この通り。藤原親隆宛、右少弁/平時忠奉書[11]。
盛弘、御墓の印に椳 ( 槐 ) の木一株を植え置き之、薨
・10 月 23 日、美福門院庁令旨:田仲荘から荒川荘への押妨を停 御の時、御仕えの官女、哀れみて詠む哥(歌)三首(後略)[奥
ふじわらのなかきよ
えいりやく
止させよ[11-1,34]。田仲荘の舎人藤 原 仲清らが荒川荘の領土を横領
家 文 書 ・ 37]
。 荒 川 荘 公 文 /奥 盛 弘 の 要 請 で
しようとする。
荒川の御墓に分骨を納めたか[御墓は現存]。
永 暦 2(1161)年
・4 月 29 日付け東寺長者下文:荒川荘の堺相論のこと、早く具に ・11 月、荒川荘の尼岡御所を寺とし修禅尼寺と称する
(二条天皇)
連署を書き進めると上奏した。高野山寺領名手本荘の所司が庁番
(平安時代)
を催促して田仲荘と合戦に及ぼうとするは、あってはならぬ。田
[奥家文書・37,12,34]。
仲荘を焼き討ちしようと支度のこと、国司/源爲長を奉じれば高野
山の一大事となる。田仲荘を焼き討ちしようとはけしからぬ次第。
おう ほう
このような狼藉を停止すること[11-1,34]。
えいりやく
・永 暦 2(1161)年 9 月 4 日、
「応保」に改元[21]。
応 保 元 ( 1161) 年 ・11 月、東寺挙状(上申書)案:紀伊国司/源爲長らが荒川荘へ軍兵
(二条天皇)
にて乱入する。田仲荘舎人/藤原仲清が国司/源爲長・目代/爲貞・
(平安時代)
在庁官人/成実らと語らい荒川荘へ乱入し群侶が地方へ去る[11-8,34]。
応保 2(1162)年
(二条天皇)
・10 月 24 日付け東寺長者別当/隆憲書状:何事であるか、荒川荘 ・11 月付け東寺挙状(上申書)案:金剛峯寺の解状(上申)
公文/奥光盛が京都に常住し代官に公務を沙汰させていると云う。 に任せ荒川荘の訴える 2 箇条の裁断を請う。一つは憲
(平安時代)
芳心(心入替え)させよ。荒川荘下司/平野光時は高野山の寺命に従 法に任せ、紀伊国司/源爲長、及び目代/爲貞、在庁官
おうほう
わない[11-7,34]。
ふじわらのなかきよ
人/成実らの罪科を裁断されたいこと。二つは田仲荘・
・11 月、禅定殿下(藤原忠實)領田仲荘の舎人藤 原 仲清が鞆淵荘・ 吉仲荘・鞆淵荘の非理の妨げを停止し元の通り荒川荘
さき と
吉仲荘の荘官らと共謀、荒川荘の荘田を割取る[11-8,34]。
- 16 -
四至の榜示を打ち定められたいこと[11-8,34]。
桃山町の歴史と桃の年表
応保 3(1163)年
・3 月 29 日、
「長寛」に改元。
ちようかん
みなもとのためなが
お
う つの ほ
長 寛元(1163)年 ・4 月 8 日付け東寺長者御教書(命令状):荒川荘下司/平野光時が ・6 月 3 日、紀伊国司 源 爲長が麻生津保(公領)を高
か りよう
(二条天皇)
検校の所務に従わない。前々に光時が下司職を高野山検校に願い 野山へ寄進した。
これは去々月、
荒川荘を焼払った過 料
(平安時代)
出たが許容されないため上京して東寺長者から直接下司職に補任 (罰金)である[13,34]。
たか の
された。しかし荒川荘は東寺長者の支配地でなく一向に高野山検 ・田仲荘に高野村あり、古くは安楽川(荒川)に属す[6]。
校が支配する地である。東寺長者/大宮法眼任祐が下司/平野光時 ・7 月 3 日付け前太政大臣/藤原忠通家政所下文:荒川
に下文を遣わし、東寺長者が補任した下司職を召し返し(高野山) 荘と吉仲荘が境界相論あるが高野山の意向に従い検注
検校の憤りを止める。高野山検校宛[11-1,34]。
ふじわらのなかきよ
こう
に制止を加えてはならぬ[岡秀行家文書・県史中世 1,34]。
ごんのかみ
・4 月 8 日、田仲荘の舎人藤 原 仲清親子や住民らが美福門院の薨 ・7 月 4 日付け左京権大夫/平信範書状:荒川荘と松殿
きよ
みなもとのためなが
去を知り荒川荘に押し入り紀伊国司 源 爲長と共謀、人家を焼き 関白/藤原良基領吉仲荘とが境界を相論すること、事情
ふじわらのなかきよ
のりきよ
領土を横領[13,20]。藤 原 仲清は西行法師(佐藤義清)の兄[34]。
を言上し政所から下文が出された。吉仲荘の下司/平實
・最初が峰百合山の竹房・高野・五百谷が田仲荘の飛び地となる。綱も承知すること[11-1,34]。
さいしよう
・最初ケ峰は一望景色良く、本来は最 勝 の峰なり[6]。最初が峰の ・7 月 25 日付け関白(藤原良基)家政所下文:吉仲荘の
由来。
住人が荒川荘の田畠作物を刈り取る濫行を止めること
・4 月 8 日、田仲荘民らが美福門院の崩去を知り、荒川荘制止の
[11-1,34]。
ごんのかみ
村士を打ち破ろうとする。荒川荘の兵火は田仲・吉仲両荘民が紀 7 月 25 日付け左京権大夫/平信範書状:京都東寺長者
伊国司/源爲長と語らい、山論の仇に報いる爲と云う。よって、高 宛:荒川荘と吉仲荘との境界のこと、高野山のことは
野山の兵士/下司平野光時ら大勢にて田仲荘の民家を焼き払い合戦 深く帰伏しているから決して疎略には考えていない
う しよ
を挑む。大宮法眼任祐が羽書(速達書状)を届けて制止する。依っ
て高野山方の軍催を止む。しかし田仲荘民が荒川荘に乱入、民家
を焼く[13,34]。
・4 月 27 日付け東寺長者下文(継祐奉書):荒川荘の境界相論のこ
と。この事は朝廷へ上申している。田仲荘を焼き払う支度をして
す
け
いるのは高野山にとって一大事となる。持明院少将らで狼藉を止
ちよう かん
めるよう指示せよとの仰せである[11-1,34]。
長 寛 2(1164)年 ・7 月付け荒川荘在家、田畠支配状:金剛峯寺が検校ら 144 人の
- 17 -
[11-1,34]。
桃山町の歴史と桃の年表
(二条天皇)
寺僧に荒川荘の在家・田畠を配分する。検校が支配する在家は 20
(平安時代)
宇、田地 5 反、綿 20 両とする[11-8,34]。
長寛 3(1165)年
・6 月 5 日、
「永万」に改元[21]。
長寛 4(1166)年
・8 月 25 日、
「仁安」改元。
仁安 4(1169)年
か おう
し
し ない
・4 月 8 日、
「嘉応」に改元[21]。
こう や みち
嘉応元(1169)年
・4 月 3 日付け美福門院庁下文:田仲荘に下す。荒川荘四至内山
(高倉天皇)
のこと。東は檜橋峯、南は雨山、西は尼岡、北は高野路。この界 (神田から黒川、高野山に至る路)以北、竹房・高野・
(平安時代)
内に他領の者は用入を停止させよとの院宣である[11-1・13,34]。
たかくら
ひ ばしみね
こう や みち
(注):荒川荘の北限はもとは紀ノ川であったが高野路
五百谷は田仲荘になったことを示す。
・10 月 18 日付け阿保行宗田地/荒野譲状:荒川荘野田原村の田地、・武家社会では[元服加冠の式]と称し、今で云う成人
及び荒野 1 所を阿保守貞へ烏帽子子(元服子)となるにより永代に 式で、満 15 歳になると烏帽子を被せられる男子を烏帽
わたり譲与する [11-5,34]。阿保姓をもつ人物がこの時代に野田原村 子児と云い、その親を烏帽子親と称した。元服式のと
に住む武士化した有力名主(地主)とみられる[20] 。・阿保朝臣は 11 き幼名を改め、烏帽子親が自分の名前の一部を与えて
代垂仁天皇の皇子/息速別命の後裔。天平宝字 8(764)年、朝臣姓を 付けるのが烏帽子名である[60]。
賜う[50]とみえ、阿保行宗はその一族とみられる。
か おう
嘉応 2(1170)年
たかくら
・9 月 11 日付け後白河上皇院宣:荒川荘 20 町、加納(付属地)28
(高倉天皇)
町余に対して造日前国懸宮役を課すことを八条院(後白河上皇の妹
(平安時代)
/暲子内親王)に申したところ荒川荘を美福門院が高野山に寄進以
後は一切承知していないと申している[11-1・13,34]。
嘉応 3(1171)年
・4 月 21 日、
「承安」に改元[21]。
承安 5(1175)年)
・7 月 28 日、
「安元」に改元[21]。
安元 3(1177)年
・8 月 4 日、
「治承」に改元[21]。
治承元(1177)年
・治承元年、俊寛(平安末期の真言宗の僧。後白河院の
(平安時代)
近臣)が、藤原成親らと鹿ケ谷の山荘で後白河院を擁し、
平氏討伐の謀議を企て発覚し鬼界ケ島に流される。翌
- 18 -
桃山町の歴史と桃の年表
年の大赦にも俊寛だけは許されず、島に残された[21]。
・謡曲「俊寛(?-1180 年頃)
」
。藤原成親(39 歳)は備前に
配流の途、殺された[21]。
ひ おきすけもり
治承 2(1178)年
・9 月 11 日、八条院が後白河上皇の院宣を東寺長者に伝える。荒 ・12 月 26 日、日置助盛が荒川荘内の田地 1 反を米 5
(平安時代)
川荘の田畠 20 町、及び加納 28 町余に対する日前國懸宮の修造役 石にて智観房へ売る[11-3,34]。
は免除される[13,34]。
や ちよう
・12 月 5 日付け藤原中納言(顕頼)家御教書:造日前國懸使/野 庁
のかみ
頭 宛:荒川荘は八条院領である。ところが日前國懸宮修造の林木
を負担させるため官使が荒川荘に乱入すると云う、停止させるこ
と[11-5,11-7]。
治承 3(1179)年
・4 月 15 日付け僧/浄昭田地去渡状:渡す。紀伊国伊都郡志賀郷内くるみ谷の名分内田のこと。字は火口古川、合わせて
(平安時代)
半(180 歩)。四至は東の溝を限り、南の溝を限り、西の明白を限り、北の大河を限る。一区画の田六十歩、四至は明白であ
る。合わせて三百四十歩は寺の免田(租税免除の田)である。西垣内の溝の北百歩、並びの小(120 歩)、牛鋤の定め。有井田
一反、及び屋敷、四至は東の縄手(正作地主の直営田)を限り、西の谷を限り、北の大河を限る。合わせて四箇所。右の所
は僧/浄昭が相伝してきた所であるが、僧/能陣に渡す。その事情は三郎の許文(証文)を阿氐河北の庄司殿から僧/能陣に給わ
って浄昭に給う所の替わりである。後日の沙汰の爲、本券に類地あることから新券文を放つ状、この通り。下司/大法師(花
押)、三郎女の嫡女の嫡男/国覔万歳(筆軸印)[美里町長谷宮中家文書,37-県史中世史料 2,,63]。
・閏 7 月 29 日(1179 年 9 月 2 日) 、平清盛の長男/平重
盛が病死。享年 42。
・11 月、平清盛の武力的奇襲(クーデター)で後白河法
皇の院政を停止(鳥羽離宮に幽閉)、摂政/基房は解任さ
れる。代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任。
後白河院近臣の多くが解官される。治承三年の政変[44]。
じ しよう
治 承 4(1180)年
・4 月 16 日付け奉行職事/藤原行隆書状:藤原摂関家領田中荘の ・12 月、高倉院庁下文:鳥羽院および一院庁の御下文
- 19 -
桃山町の歴史と桃の年表
(鎌倉時代)
佐藤能清(西行の甥)が荒川荘を狼藉する[11-1,11-5,34]。
に任せ田仲吉仲両庄による荒川荘北堺への妨げを早く
・4 月 19 日付け左少弁/藤原行隆奉書:源平合戦に際して寺門が 停止させよ[11-3,34]。
じ しよう
以仁王(後白河天皇の皇子)の令旨に応じ源氏に加担した爲、平氏 ・治 承 4(1180)年、源頼政・頼朝の挙兵によって戦乱
により荒川荘が没収地とされ平宗盛(清盛 3 男)から沙汰される が拡大、富士川合戦・倶利伽羅峠の合戦・一ノ谷合戦
[11-1]。
などを経て、寿永 4(1185)年、壇ノ浦の合戦で平氏は滅
りようりん
うけぶみ
・5 月 13 日付け僧/ 良 琳 請文案:田仲荘と荒川荘との争いの時、 亡、鎌倉幕府が樹立される。源平合戦。源頼朝が鎌倉
りようりん
良 琳が在田郡阿氐河荘(現清水町)の沙汰のため住京していたとこ に政権を樹立、鎌倉幕府の時代となる。
ろ田仲・荒川両荘から相論があった。荒川荘解(上申)、平宗盛申 ・注)寿永二(1183)年の頼朝に東国行政権が公認された
文案、佐藤能清方の申し出による関白下文案の 3 通を進覧する 時期、また文治元(1185)年、守護/地頭設置の時期とす
[11-3,34]。
じ しよう
るなどの諸説がある[21]。
じ しよう
治 承 5(1181)年
・1 月 20 日付け左少弁(藤原行隆)奉書:荒川荘のことは道理に任 ・治 承 5(1181)年 7 月 14 日、
「養和」に改元[21]。源平
(鎌倉時代)
せて沙汰せよとの平能宗(宗盛次男)の沙汰である[11-1,34]。
よしむね
争乱の時代で、源頼朝の源氏方ではこの年号を用いず
引き続き治承を使用した[21]。
よう わ
養和元(1181)年
よしむね
けな げ
よう わ
つぼつけ
・2 月 8 日付け平能宗(宗盛次男)奉書:荒川荘のこと、実に神妙の ・養和元(1181)年 9 月付け荒川荘田畠坪付(調査)註文:
由である。左少弁(藤原行隆)の許に申し遣わすこと[11-1,34]。
1 所 1 反 180 歩は上野村にあり(高野山)持明坊が開発し
・4 月 25 日付け高野山衆徒言上状案:平宗盛宛:田仲荘の佐藤能 た[高野山宝寿院文書・34]。
清及び郎従(家来)長明による荒川荘への乱妨がある[11-5,34]。
寿永 4(1185)年
・秋、源平戦に敗れし平維盛が小松弥助と変名し、僅かな従者と ・寿永 3(1184)年 4 月 16 日、
「元暦」に改元[21]。
(元暦 2 年?)
共に落人として有田郡保田に落ち行く途中、(細野荘の) 窟 にて暫
いわや
く憩いしたと伝える。今も四郷の小字に小松と云う岩窟広大にし
て頗る峻険なり[49]。
元暦 2(1185)年
ぶん ち
・8 月 14 日、
「文治」に改元[21]。
文治元(1185)年
・12 月 15 日付け北条時政請文:高野山領には兵粮米を免除する ・1 月 28 日、源頼朝が後鳥羽天皇から守護・地頭の設
(後鳥羽天皇)
[11-1,34]。
ひようろうまい
置、及び 兵 粮米(兵乱の際、武士に与えるために諸国
- 20 -
桃山町の歴史と桃の年表
(鎌倉時代)
に割り当て徴発する米[21])徴収の勅許を得る[吾妻鏡,6-1,12上,34]。
ぶん ち
みなもとのよりとも
・文治元(1185)年 1 月 28 日、 源 頼朝が紀伊国守護
よしつら
に佐原義連を補任する[6,12]。
・文治元(1185)年 12 月 15 日付け北条時政請文:高野
ひようろうまい
ぶん ち
山領には 兵 粮米の拠出を免除する[37]。
よしきよ
ぶん ち
さ とうよしきよ
文治 2(1186)年
・4 月、荒川荘の百姓が田仲荘の佐藤能清[西行の甥]らの乱妨を訴 ・文治 2(1186)年 4 月 28 日、田仲荘預所(荘官)佐藤能清
(後鳥羽天皇)
える[11-7・13,34]。
(鎌倉時代)
・4 月 15 日付け高野山住僧等訴状:田仲荘の佐藤能清の使者/成 ・5 月付け高野山住僧 273 人解(上申)状:田仲荘佐藤能
ろうぜき
よしきよ
貞丸が所従数十人にて荒川荘へ乱入する[11-1,13,34]。
の使者/吉沢丸が荒川荘に狼藉、作麦を支配する[37]。
清による荒川荘北堺への濫妨を停止されたい。源頼朝
げ だいあん ど
・4 月 24 日付け荒川荘百姓言上状:田仲荘の佐藤能清の弟や長明 が外題安堵する[11-1,34]。
じ
げ
らが多数の軍兵にて荒川荘に討ち入り放火、殺害するため荒川荘 ・5 月付け荒川荘北堺、寺解(金剛峯寺から官庁に提出
住人らの居る所がない[11-1,13,34]。
した文書):荒川荘平野蔵人光時により田仲荘佐藤能清
・4 月 28 日、田仲荘領所(荘官=代官)佐藤能清の使者/吉沢丸が狼 らの乱妨を平定する[11-7,34]。
藉、荒川荘の作麦を制す[11-1,34]。
か もんのかみ
・5 月 20 日付け高野山金剛峯寺解(上申)註文:荒川荘
ちかよし
じよう し
・5 月 10 日付け掃 部 頭/中原親能書状:荒川荘のことにつき高野 北堺の 定 使が鎌倉政所へ出立する[11-7,34]。
山のこと、更々疎かに致していない[11-1,34]。
・文治 5(1189)年 10 月 22 日、僧/印盛が荒川荘の畠 300
歩を米 3 石 3 斗にて菅原国友に売る[11-3,34]。
文治 6(1190)年
けんきゆう
・4 月 11 日、
「建久」に改元。
建 久 3(1192)年
・3 月付け後白河院庁下文:吉仲荘は法成寺領(藤原摂関家領)であ ・3 月 13 日、後白河法皇、崩 66 歳。
(鎌倉時代)
る[京都臨済宗大徳寺文書,鎌倉遺文 584 号,24,34]。
けんきゆう
みようでんばた
建 久 4(1193)年
・2 月付け荒川荘、奥盛景没官田支配帳: 名 田畠 19 町 8 反余を
(後鳥羽天皇)
所有する荒川荘小林村の前公文奥盛景一族が、年来対立している
(鎌倉時代)
今季の検注使/下司平野重家、及び郎従二人を軍兵にて殺害した。
ご
と
ば
おくもりかげ
ひら の しげいえ
- 21 -
桃山町の歴史と桃の年表
奥盛景と一族を荒川荘から追放し、その没収田 19 町 8 反余を高野
けんきゆう
建 久 8(1197)年
山検校・領所(荘官)ら寺僧 280 人に分配す[11-3,20]。
さねきよ
・1 月 17 日付け守護代/少刑部真清免状:荒川荘への御家人役、 ・8 月 19 日付け源頼朝御教書:高野山領は大番役の催
新事粮料を免除する[11-1,13,34]。
建仁 2(1202)年
促を停止とする[11-8,34]。
こうのむら
ふ ぶつ
・5 月 13 日、高橋末貞が荒川荘 上 村にある田地を負物(借金)代と ・今から 800 年程前(1,201 年頃=平成 13(2001)年現在)、
こうのむら
かんじよかけ
して(高野山)北室阿闍梨へ渡す[11-3,34]。 上 村は後の加和村・賀和 野田原村神縄掛の高台に野田原八郎(平野八郎)が館を
村をさす。
・賀和村は山の傍にあり、古絵図に川村とありて古の紀 構えたことから城ノ段(通称ジョンダ)と呼ぶ[中西晃氏:野
けんにん
ノ川この辺を流れし故か[6] 加和村の地名起源。
田原の伝承]。
を づねかい と
建仁 4(1204)年
2 月 3 日付け僧/得仁常地賣券:荒川御荘小角垣内にあ
(土御門天皇)
る田地 180 歩を玄米 2 石 2 斗にて鐘王房に売る[11-5,34]。
(鎌倉時代)
・2 月 20 日、
「元久」に改元[21]。
つち み かど
げんきゆう
元 久 元(1204)年 ・6 月付け紀伊国符(通達)案:荒川荘の田畠 48 町・分米(年貢米)14 ・7 月付け金剛峯寺所司(寺務を司る僧)申分(申立て):
(鎌倉時代)
けんえい
石 4 斗[11-7,34]。
日前宮の課役を要求し紀伊国司が荒川荘に乱入する
・7 月付け金剛峯寺所司等解状(上申):荒川荘など高野山領に対す
[11-1,34]。
る造内裏役を免除されたい[11-1,34]。
く まい
建永 2(1207)年
紀伊国符(通達)案:造伊勢神宮役夫工米(人夫に給与する糧米)は荒
(鎌倉時代)
川荘 48 町への分米(年貢米)を 11 石 4 升とする[11-3,34]。
建 暦 3(1213)年
・12 月 6 日付け荒川荘没官領支配状:殺害人/行俊の所領 1 町 1
(鎌倉時代)
反を金剛峯寺が没収する[11-7,34]。
建保 4(1216)年
・3 月 2 日付け右衛門 権 佐/藤原頼資書状:荒川荘に対する修明 ・11 月 28 日、僧/仁 澄 が荒川荘西境に在る畠地 1 反
(鎌倉時代)
門院(後鳥羽上皇の後宮)の熊野参詣雑事は免除されている[11-1,13,34]。半を高野山 教 蓮房へ去り渡す[11-3,34]。
けんりやく
けんぽう
ごんのすけ
よりすけ
にんちよう
ぎようれんぼう
建保 5(1217)年
・12 月 10 日、紀末国が荒川荘小中島の荒野 1 反 60 歩
を負物代のため浄円房へ去り渡す[11-3,34]。・荒川荘小中
(鎌倉時代)
島とは石榴川か紀ノ川の川原に出来た島か。
・建保 7(1219)年 4 月 12 日、
「承久」に改元[21]。
- 22 -
桃山町の歴史と桃の年表
じようきゆう
承 久 元(1219)
・7 月 5 日付け権中納言/中御門宗行書状:高野山検校宛・荒川荘 7 月 30 日、荒川荘の荘家が国司の命令による課役に応
年
は国司の命令による課役を免除するとの内々の文書を賜っている じない爲、国使が人質を取る。高野山の寺家が荒川荘
(鎌倉時代)
[11-1,13,34]。
の人質を奪い返そうとする。依って荒川荘の領所(荘官)
じようけん
常 賢が仲介に入り人質を預かる[13,34]。
承久 2(1220)年
・7 月 13 日付け高野山衆徒[定め]置文:荒川荘は金剛峯寺検校・
(鎌倉時代)
執行・大衆が知行する所である。京都(東寺長者)との強縁を以て
寺家の沙汰に背くを停止する。放火殺害の他は私領を没収しない
[11-7,34]。
さねのぶ
承久 3(1221)年
・8 月 13 日付け六波羅探題下知状:荒川荘は先例に任せ兵粮米を ・5 月、上野実信が荒川荘の畠地 3 反半を代 2 貫 5 百
(鎌倉時代)
免除する。ところが兵粮米使が守護所から荒川荘へ乱入し荘庫に 文にて弥五郎に売る[11-3,34]。
追捕(没収)した。守護/三浦又太郞(義村)に命じて狼藉を停止させ ・12 月、僧/寛円が荒川荘の田地 1 反を米 9 石にて僧/
る[11-1,13,34]。
尊行に売る[11-3,34]。
・承久 4(1222)年 12 月 10 日付け関東(鎌倉幕府)政所執
事/伊賀光宗書状:承久の乱に当り寺家が院方(後鳥羽
上皇)に味方して敗れたため北条氏による没収地となっ
たが高野山領の所々(荒川荘)は(新補=新任)地頭を停止
された[11-1,34]。
じようおう
じようおう
・承久 4 年 4 月 13 日、
「 貞 応」に改元[21]。
貞 応 2(1223)年
・11 月付け高野山平等心院所領注文(進注状=書付け):荒川荘処分
(鎌倉時代)
田 1 反[高野山西南院文書,34]。
貞応 3(1224)年
(鎌倉時代)
・4 月 7 日、僧/道心が、荒川荘野田原村南垣内の田地 1
反を前荒川荘十番頭に預け置かれ、その 1 分を僧/道心
に預け置かれていたが、負物(借金)として代として大
覺房に去り渡す[11-3,34]。
かん ぎ
寛喜 2(1230)年
・3 月 25 日、一万法師が荒川荘近遠(遠方)村の田地 1
(鎌倉時代)
反余を 13 貫文で月信房に売る[11-3,34]。
- 23 -
桃山町の歴史と桃の年表
・文暦 2(1235)年 9 月 19 日、
「嘉禎」に改元[21]。
嘉禎 2(1236)年
・1 月 16 日付け高野山検校/勝心免許状:荒川荘神田村の津田家 ・3 月 11 日、僧/長位が荒川荘平井川原の荒野を 2 貫
(鎌倉時代)
に対し公事諸役を免除する[津田家文書 37-7,34]。
にん じ
文にて隋勝房に売る [11-3,34] 。平井川原は石榴川か紀ノ
川の川原か。
こう だ むら
仁治元(1240)年
・12 月 28 日付け田地賣券:僧/上得が荒川荘香田村の田地 1 反を
(鎌倉時代)
米 3 石 3 斗にて尊蓮房に売る[11-5,34]。荒川荘香田村字於那村垣内
こう だ むら
こう だ むら
こう だ
を
な むらがい と
こう だ むら
に在り[37]。 香田村は桃山町神田をさす。香田村:神田村の初見。
にん じ
神田は御船明神の神地なる故、後に神田村と名付く[6]。
かわそい
仁治 2(1241)年
・11 月 5 日付け高野山下文:荒川荘沙汰人宛、智學房の妨げを早 ・3 月 18 日、僧/隋念が荒川荘河副の田地 1 所を 3 貫
(鎌倉時代)
く停止し、光壽院の仏 餉 (仏に供える米飯)田とすること[11-3,34]。
ぶつしよう
文にて高野山光壽院に売る[11-4,34]。
・6 月 6 日、入寺/弘尊が荒川荘の田地 1 反を 3 貫文に
て恵眼房に売る[11-5,34]。
・仁治 3(1242)年 9 月 15 日、僧/榮覺が荒川荘に在る田
地 180 歩を仏物出挙(貸付)の爲、新大夫へ去り渡す
[11-3,34]。
かんげん
かんげん
・仁治 4(1243)年 2 月 26 日、
「寛元」に改元[21]。
あてぶみ
寛元 3(1245)年
6 月 28 日付け領所(寺僧荘官)田地充文(通達):荒川荘内の聖田は ・11 月 26 日、僧/行善が荒川荘の聖田 1 反を明得房に
(鎌倉時代)
僧/行善に知行させよ[11-3,34]。
寛元 4(1246)年
・9 月 26 日付け高野山大湯屋釜(風呂釜)修造 36 日間用途注文:鉄
ほう じ
宝治元(1247)年
(鎌倉時代)
けんちよう
いもの
売る[11-3,34]。
し こう
ほう じ
1 千 3 百 66 斤、 鋳 師祇候雑事は荒川荘などに負担させる[37-1,34]。 寛元 5(1247)年 2 月 28 日、
「宝治」に改元[21]。
さかん
・7 月付け造伊勢外宮主典/頼高宣上書:高野山領紀伊国諸荘は伊
勢外宮役夫工米に反抗致す理由はない。荒川荘 48 町の分担米 11
石 4 升を進済すること[11-3,34]。
宝治 3(1249)年 3 月 18 日、
「建長」に改元[21]。
建 長 2(1250)年
・12 月 2 日付け官宣旨:左弁官(律令制の官職名)が金剛峯寺に下 ・左弁官は律令制の官職名。太政官にあって八省のう
(鎌倉時代)
す。荒見村は粉河寺(天台宗)領である[11-1,34]。
ち中務・式部・治部・民部の四省を管轄。左大弁・左
中弁・左少弁がある[21]。
- 24 -
桃山町の歴史と桃の年表
かわぞい
建長 3(1251)年
・僧/高力が荒川荘河副の田地を 1 貫 300 文にて僧/隋
(鎌倉時代)
念へ去り渡す[11-3,34]。
ねんによ
建長 4(1252)年
・7 月 28 日付け高野山年領衆議評定置文[五箇条]:旱損(干害)のた ・9 月 26 日、大法師/唯信が荒川荘上野村の田地 1 反
(鎌倉時代)
め百姓の要求をいれ年貢反別 5 斗を 3 斗 5 升に減じ、反別 3 斗を 1 を年来同法にて譲与する[宛名不明][11-5,34]。
斗に減とする。年々の検注を実施する。新田開発のみ検注する
[11-1,34]。
建長 5(1253)年
・11 月、日置末友が荒川荘川副の田地 60 歩を銭 200
(鎌倉時代)
文にて尊禅房に売る[11-5,34]。
建長 6(1254)年
・9 月 9 日付け荒河荘供料相折帳(割当帳):総て合せ米 324 石 6 斗 ・7 月 24 日、僧/宗深が荒川荘古垣内の田地 1 反を代
(鎌倉時代)
1 升 7 合。高野山検校得分 30 石、領所得分 15 石、年領供料 11 石、 米 7 石にて十徳房に売る[11-3,34]。
定使得分 2 石 8 斗 8 升、本荘公文 2 石 5 斗、下司 2 石 5 斗、本荘 ・9 月、僧/貞河が荒川荘の田地 1 反を明俊房に宛がう
公文代 1 石 7 斗、下司代 1 石 7 斗。新荘公文代 1 石 7 斗、下司代 1
[11-3,34]。
石 7 斗。十番頭 1 石 6 斗、刀禰 7 斗 1 升、惣追捕使 7 斗 2 升、散 ・9 月 21 日、阿闍梨頼弁が荒川荘の田地 1 反を 10 貫
仕二人 5 斗 6 升[11-7,34]。荒河本荘・新荘の初出。
文いて十徳房に売る[11-3,34]。
・荒川本荘は以前からの高台・山間の荒川荘域、荒川新荘は後の ・12 月 6 日、僧/明俊が荒川荘の田地 1 反を 10 貫文に
神田・市場・加和・小路の各村域をさす。
て尊仏房に売る[11-3,34]。
建長 7(1255)年
・11 月付け荒川荘百姓等訴状:高野山宛:年貢・夫役の減免をさ ・3 月 19 日、正近が荒川荘野田原村の田地 160 歩を体
(鎌倉時代)
れたい。他荘住人を井(用水路)行事に補任するを停止されたい。 學房に譲与する[11-3,34]。
毎年検田を実施されたい[11-7,34]。
・3 月 23 日、源吉守が荒川荘の田地 1 反を 8 貫 120 文
にて十徳房に売る[11-3,34]。
・4 月 8 日、源守貞が荒川荘の畠 1 反を、本券文盗難
により末守に相伝する[11-3,34]。
しゆうじよう
建長 8(1256)年
6 月付け金剛峯寺衆徒愁
状(農民や郡司などが国司などの苛政を
(鎌倉時代)
中央政府に訴えて善処を求める訴状):荒川荘荒見村を粉河寺(天
台宗)横領された。高野山の旧領で知行していない地は、荒見村・
杉原村・東貴志村・調月村・小倉荘である[11-8,34]。
- 25 -
・建長 8(1256)年 10 月 5 日、
「康元」に改元[21]。
桃山町の歴史と桃の年表
しよう か
たんじよう
正 嘉元(1257)年 ・12 月 10 日、東貴志村の丹 生 神社を高野山寺僧の報賽により境 ・康元 2(1257)年 3 月 14 日、
「正嘉」に改元[21]。
(鎌倉時代)
内を広め、本殿・幣殿の造営を始め、文応元(1260)年 12 月 10 日
落成する。時に別当寺の丹生寺を建立する[社伝,34]。
正嘉 2(1258)年
・4 月 2 日、僧/頼空が荒川荘の田地 1 反を米 13 石にて蓮忍房に
(鎌倉時代)
売る[11-3,34]。
・6 月 21 日、僧/慶秀覺金が荒川荘の水田 240 歩を長
しようげん
なが
ちよう
帳 の旨により力乗房に去り渡す[11-3,34]。
正嘉 3(1259)年 3 月 26 日、
「正元」に改元[21]。
正 元元(1259)年 ・12 月 5 日、僧/京得が荒川荘上村の田地 1 反を米 5 石 5 斗にて
(鎌倉時代)
仙脱房に売る[11-3,34]。
文応元(1260)年
・12 月 3 日、右兵衛尉/大伴(奥)盛時が荒川荘の田地 5 反を公文職
(鎌倉時代)
証文 24 通と交換するため、生院房へ渡す[11-3,34]。
ぶんおう
・正元 2(1260 年 4 月 13 日、
「文応」に改元[21]。
・12 月 3 日、大法師/祐実が荒川荘の公文職証文 24 通を延暦寺領
那賀郡三毛荘の地頭/三毛兵衛に譲る。依って荒川荘の田地 5 反を
三毛兵衛に相伝させる[11-3,34]。
文応 2(1261)年
・1 月 28 日、僧/信慶が荒川荘字柳本の田地を師・弟子契約によ
(鎌倉時代)
り僧/良心へ宛て渡す[11-5,34]。
・3 月 23 日、内蔵重成が荒川荘近遠(遠方)村の田地を長尾の若へ
ぶんえい
去り渡す[11-3,34]。
文永元(1264)年
・5 月 12 日、僧/行賢が荒川荘の田地 2 反 50 歩を師弟たるにより ・尾張國の坂上宗延等 16 人、(細野荘)勝谷村に善福寺
(鎌倉時代)
円長房へ去り渡す[11-5,34]。
文永 2(1265)年
・2 月 12 日、僧/頼算が荒川荘神田村の田地 5 反を高野山御影堂
(鎌倉時代)
文永 5(1268)年
陀羅尼田として寄進する[勧学院文書,37-1,34]。
・1 月 9 日、僧/舜算が荒川荘柳本の水田 1 反を 4 貫文にて真言房
(鎌倉時代)
に売る[11-2,34]。
を建立す[6,49]。
・3 月 24 日、民景延が荒川荘の田地 1 反を米 8 石 1 斗にて善円房
に売る[11-3,34]。
文永 6(1269)年
・入寺/宗誓が荒川荘近遠(遠方)村梅木谷の田地片子(小作料)2 斗を
- 26 -
桃山町の歴史と桃の年表
(鎌倉時代)
病気平治のため、燈油料として高野山へ寄進する[高野山興山寺文書,34]。
文永 7(1270)年
・3 月 21 日、僧/ 隆 暹が荒川荘近遠(遠方)村の水田 1 反を高野山
(鎌倉時代)
御影堂陀羅尼田として寄進する[11-2,34]。
文永 8(1271)年
・12 月 6 日、入寺/寛俊が荒川荘小中島の田地 1 反 60 歩を米 12
(鎌倉時代)
石にて良印房に売る[11-3,34]。
りゆうせん
・12 月 28 日、大平安重が荒川荘近遠(遠方)村の田地 80 歩と荒野
を 2 貫文にて勝忍房に売る[11-3,34]。
文永 9(1272)年
・3 月 12 日、僧/寛俊が荒川荘上村の田地 1 反を 12 貫 800 文にて
(鎌倉時代)
禅観房に売る[11-3,34]。
文永 10(1273)年
・11 月 22 日、力乗房が荒川荘の田地 250 歩を 8 貫文にてしげ安
(鎌倉時代)
に売る[11-6,34]。
文永 11(1274)年
・2 月 8 日、名主/(大伴)得成が荒川荘の田地 1 反を 10 貫文にて内 ・10 月、蒙古と高麗の連合軍が対馬に上陸、さらに 20
(鎌倉時代)
蔵光に売る[11-6,34]。
日、博多湾に上陸して合戦し、いったん船に引きあげ、
翌 21 日姿を消す。直接原因は前夜の大風雨によるとい
われる[21]。(文永の役)。
文永 12(1275)年
・4 月 25 日、
「建治」に改元[21]。
たかつかさ
建治元(1275)年
・11 月 7 日付け摂政/鷹 司 兼平(藤原家実の子)御教書:院恵法院
(鎌倉時代)
を京都法成寺の大仏師書職に補任し、吉仲荘の沙汰を執行させる[兼
仲卿記,鎌倉遺文 1225 号,34]。
・12 月 10 日、僧/定範が荒川荘の田地 1 反を米 5 石 3 斗にて淳日
建治 2(1276)年
房に売る[11-3,34]。
・1 月 21 日、入寺/性尊が荒川荘新田 3 反を高野山御影堂へ寄進
(鎌倉時代)
する[11-3,34]。
・3 月 3 日付け亀山院院宣:荒川荘下司/平野正国宛:荒川荘は治
承(1177)以来、日前宮役は免除である[11-1,34]。
・7月8日、僧/明得が荒川荘小路村の三沢大夫作、片子米 4 斗・
- 27 -
桃山町の歴史と桃の年表
麦 2 斗の田地を 48 巻結衆に寄進する[高野山興山寺文書,37-4,34]。
・9 月 27 日付け亀山院院宣:東寺長者/僧正宛て:高野山領荒川
荘は治承(1177 年)以来、名草郡秋月郷の日前宮役は免除である
[11-1,34]。
建治 3(1277)年
・3 月 3 日付け鎌倉幕府下文:荒川荘下司/平野氏宛て:高野山本
(鎌倉時代)
寺領は日前宮役の事を免除されるべき由、定めである。ただし、
この分は国司ではその力が及ばない由と申している[11-1,34]。
・3 月 7 日、承仕/福音が荒川荘の田地 1 反を 10 貫文にて蓮覺房
に売る[11-3,34]。
ぼんしよう
・調月大歳神社の梵 鐘 銘:「建治三年丁丑九月十四日、大工・河
内国 平重永」の作[同鐘銘,6-1,34]。
・12 月 26 日、僧/静安が荒川荘の田地 60 歩、片子(小作料)2 斗を
親近房へ去り渡す[11-3,34]。
・12 月 27 日付け京都法成寺政所下文:吉仲荘に下す。沙汰人(領
所)/院恵法院が吉仲荘の下作人を召し使い、初當(年貢)・夫役の未
進など、非法を訴えられる。依って大法師/法印の院瑜を領所職と
こうあん
なすこと[平記抜書,裏文書,鎌倉遺文 13,928 号,34]。
・建治 4(1278)年 2 月 29 日、
「弘安」に改元[21]。
弘安元(1278)年
・10 月 20 日、藤原中子が荒川荘上野村の田地 1 反を嫡女/虎楠へ ・12 月 5 日、伴(奥)友正が荒川荘の田地 1 反を米 7 石 4
(鎌倉時代)
宛て渡す[11-3,34]。上野村の初見。
斗にて隋観房に売る[11-4,34]。
・當村は甚だ広く、地高くして井戸を掘りても水を得がたし。小
たつみ
みね
こ ばやし
ほり
名(集落)三つあり、 巽 (東南)に岑、南に小 林 、西にあるを堀と云
う。応永の旧記に上野村・下野村とあるが、今(天保 10 年)は低き
所も上野村領なり[6]。
こ ばやし
みね
ほり
小 林 ・岑・堀の各集落を合わせ上野村に
なった。
・12 月 1 日、沙弥/如願が荒川荘近遠(遠方)村の田地 1 反 330 歩を
13 貫 800 文にて鎌倉使に売る[11-3,34]。
- 28 -
桃山町の歴史と桃の年表
弘安 2(1279)年
・2 月 18 日、阿闍梨/玄順が荒川荘近遠(遠方)村の田地 1 反 330 歩 ・8 月 10 日、僧/弘覺が荒川荘平野村の田地 270 歩と
(鎌倉時代)
を理月房へ去り渡す[11-3,34]。
荒 野 1 所 を 高野 山御影 堂陀 羅尼 田とし て寄 進する
・3 月 5 日、山籠/良心が荒川荘柳本の田地 1 反を高野山御影堂陀
[11-3,34]。
羅尼田として寄進する[11-6,34]。
・8 月 21 日、入寺/源性が荒川荘の田地 1 反半を長帳
・4 月 5 日、平野友弘が荒川荘の田地を 3 貫 670 文にて定行房に の旨により円勝房に去り渡す[11-4,34]。
売る[11-3,34]。
・10 月、仏子/澄円が荒川荘の田地を高野山御影堂陀
羅尼田として寄進する[11-2,34]。
こうあん
弘安 4(1281)年
・5 月 15 日、高野山実相院の僧/能念が荒川荘の田地 1 反を高野
(後宇多天皇)
山御影堂陀羅尼田として寄進する[11-2,34]。
(鎌倉時代)
・5 月 16 日、僧/了智が荒川荘上野村の田地を 9 貫 200 文にて能
ご
う
だ
□房に売る売る[11-3,34]。
弘安 7(1284)年
・10 月、伴(奥)友氏が荒川荘藤谷の田地 10 歩を 700 文にて佐伯正
末に売る[11-3,34]。
こうあん
弘安 8(1285)年
・5 月 2 日付け僧/長芸、田地・下人去文:荒川荘の田地 2 反及び ・9 月付け金剛峯寺持領註文:那賀郡内の(金剛峯寺)寺
(後宇多天皇)
下人 1 人を道円房へ去り渡す。後日、間蓮房と相論ある時は、共 領は長谷毛原郷・麻生津荘・荒川荘・名手荘・静川荘
(鎌倉時代)
に協力されたい。もし相論なければ御成敗の旨に任せ、石丸が支 ・真国荘・猿川荘である。他人横領分は鞆淵荘・小河
ご
う
だ
配領有とされたい[11-3,34]。
こう だ
みなもと や
し ろうためとき
た ろうげんぱち
柴目荘・東貴志荘・調月荘・荒見荘である[6-5]。注:弘
・11 月 8 日、荒河荘上田村にて 源 弥四郎為時・太郎源八らが下 田荘・岡田荘・石手荘・山崎荘は、高野山伝法院領[34]。
ひら の
や
く ろうみつつな
むこ まご た ろうみつざね
みなもとさねふさ
司/平野弥九郎光綱を殺害。平野光綱の聟/孫太郎光真が 源 実房
ためふさ
・為房兄弟を殺害。よって殺害人源為時の私領田一町三反余を没
だ
弘安 9(1286)年
ら
に でん
収、その一部を高野山御影堂の陀羅尼田として寄進させる[11-2,34]。
・2 月 7 日付け高野山具書(証拠文書)、守護代/法橋行円から荒川 ・閏 12 月 19 日付け僧/成縁、加地子(小作料)銭借券:5
荘沙汰人宛て:荒川荘犯科人/源爲時・源八らのこと、早く傍例に 貫文は水田 1 反分、秋に 2 斗米を以て返済する。もし
任せ召し出すこと[11-4,34]。
懈怠すれば荒川荘田地 1 反を流す[11-3,34]。
・10 月 3 日付け荒川荘上野村源爲時起請文:放火。狼藉を停止す
る等十二箇条を誓約する[11-1,34]。
・弘安 11(1288)年 4 月 28 日、
「正応」に改元[21]。
- 29 -
桃山町の歴史と桃の年表
しようおう
正 応 2(1289)年
しようおう
しようおう
・1 月 29 日、沙弥/西信が荒川荘藤谷の水田 20 歩を 1 貫文にて佐 ・ 正 応 3(1290)年から 正 応 5(1292)年にかけての高野
みなもとためとき
伯正末に売る[11-5,34]。
山文書[11]には 源 為時ら荒川悪党人を巡る記録文書が
いん
40 件みられ大騒動になったことがみえる。前後の文面
みなもとためとき
げんぱちよしかた
・4 月 25 日付け関白近衛家基御教書:京都法成寺の大仏師職に院 から 源 為時・源八義賢は荒川荘上野村の住人である。
ゆ
瑜を補任し吉仲荘の知行を院瑜に安堵する[兼仲卿記,鎌倉遺文 16,981 号,34]。 ・荒川の悪党は高野山や幕府の悪政に抵抗したもの[竹
しようおう
みなもとためとき
いまし
中佳子:桃山歴史の会誌 38 号]。
正 応 4(1291)年
・2 月 18 日付け書状:殺害人の 源 為時が前に召し 誡 められた ・5 月 3 日、阿闍梨/榮豪あ荒川荘上野村の田地 1 反を
(伏見天皇)
が赦免を受けず荒川荘に還住、重ねて刃 傷 ・狼藉を致す。
(鎌倉時代)
・7 月 26 日付け荒川荘大犯人名簿注進状: 源 為時・源八義賢・
ふし み
にんじよう
ろうぜき
みなもとためとき
れん くう
せい ろく
くろ かわ ろく ろう
なか はち にゆう どう じよう みよう
げんぱちよしかた
高野山御影堂陀羅尼田として寄進する[11-3,34]。
に こう
蓮空・清六・黒川六郎・仲八 入 道 成 妙 ・尼公(源為時の母)
[11-7,34]。荒川の悪党。
・7 月 27 日付け高野山下文案:荒川悪党人を早く召し捕らえるこ
しようおう
と。那賀郡荒川荘官宛[11-7,34]。
よしたね
たいらさねつな
正 応 5(1292)年
・11 月 15 日付け荒川荘高野寺年領信応証言状、高野山年領房宛 ・3 月 28 日付け吉仲荘良胤兄弟(吉仲荘 平 實綱荘官の
(伏見天皇)
て:荒川荘上野村の源為時に対し荒川荘内高野寺はすべて同心し 後 裔 ) 陳 状 : 荒 川 荘 の 悪 党 を 扶 持 ( 援 助 ) し て い な い
(鎌倉時代)
ていない。源法心(為時)は荒川荘内延暦寺末寺・高野寺の寺僧と
ふ
たか の
じ
とむら
[11-7,34]。
号している由であるが、法心は出家の後は後世の花を 訪 うため、
温室(湯屋)の所役ばかり勤仕していた[11-7,34]。
ち
げんぱちよしかた
・6 月 17 日、石王法師が荒川荘上野村住人源八義賢荘
・11 月 20 日付け大弐房下人・藤源太吉守白状案:荒川荘悪党に 司家の焼失を証言する[11-5,34]。
そうつい ぶ
し
つき惣追補使らの取り調べに白状。高野山への仇を莊内放火で仕
しようおう
正 応 6(1293)年
返したと云う[20]。
・7 月 10 日、僧/定慶・慶忠が荒川荘の水田 1 反を質流れとする
[11-3,34]。
・7 月 10 日、僧/定慶が荒川荘の田地 1 反を 8 貫文にて
えいにん
仙信房に売る[11-3,34]。
しようおう
・ 正 応 6(1293)年 8 月 5 日、
「永仁」に改元[21]。
永仁 4(1296)年
・3 月 19 日、僧/厳經が荒川荘島田の田地 1 反 10 歩を 6 貫文にて
(鎌倉時代)
恵仁房に売る[11-3,34]。島田は紀ノ川か石榴川の川原に出来た田か。
- 30 -
桃山町の歴史と桃の年表
せつろくわたりしよう
嘉元 3(1305)年
・4 月付け摂録 渡 荘 目録:京都法成寺領仏師/院賢が相伝する吉
(鎌倉時代)
仲荘の田地は 30 町にして年貢油は 3 石である[九条家文書,17,34]。
徳治三(1308)年
・安楽川荘は嘉元 4(1306)年)、一時後宇多院領となる[8]。
(後二 条 天皇)
・安楽川荘市場村は、もと紀ノ川原なり。後世、漸次開墾し肥沃 重代(累代)の御家人/三毛六郎 入 道心 浄 が公文職とな
(鎌倉時代)
の地となる。徳治三年の文書、及び応永の旧記に島田新荘とある。 り知行のところ高野合戦(1291 年荒川悪党合戦)のため
とく じ
ご
に じよう
か げん
ご
とく じ
う
だ いん
み
おうえい
け ろくろうにゆうどうしんじよう
たか の
後世に新田を開き人多く集い市をなし市場村の名起これり[6]。
市場村の起源。 荒川荘公文三毛六郎入道心浄。
しよう わ
か りやく
とく じ
・徳治 2(1307)年 8 月、荒川荘は高野山の知行であるが
・安楽川荘で 正 和(1312)元年、百姓一揆が起こる[8]。
くらんどひようぶの す
け
没収され今は三毛入道心浄に返給されている [11-6,34] 。
けんきゆう
おくもりかげ
建 久 4 年に奥盛景公文が殺人犯で荒川荘から追放され
た後任とみえる。
しよく せん
嘉 暦 2(1327)年
・閏 9 月 13 日付け関白二条道平御教書、蔵人 兵 部少輔・平成輔 ・平 安末期から鎌 倉時代の末頃の 食 饌を著述した
(後醍醐天皇)
宛て:吉仲荘は治安年間(1021-1024 年)以来、法 性 寺領である。 「 厨 事類記」に五菓と称して「 李 ・ 杏 ・ 棗 ・桃・栗
(鎌倉時代)
調月村を法 性 寺が押領したと金剛峯寺から訴えがある。紀ノ川以 が食卓に並べられるべき」と記される。
ご だい ご
ほつしよう じ
くりやごとるい き
ご
か
すもも
あんず
なつめ
もも
くり
ほつしよう じ
南、貴志川以東の調月村を金剛峯寺領とするは天皇の裁断に委ね
る[11-1,34]。
・10 月 1 日、金剛峯寺御影堂奉納文書目録:調月荘の綸旨(天皇
の意向書)、同じく関白二条道平家の御勅答、及び宗家(京都東寺
長者)の御施行など、(金剛峯寺)御影堂にこれを納める[11,20]。
か りやく
・調月はこの時金剛峯寺領調月荘となる。
さ
た にん
きのへい た ゆきやす
嘉 暦 3(1328)年
・6 月 13 日付け調月荘沙汰人(下級荘官)紀平太行保請文:年貢を ・6 月 21 日付け高野山御影堂奉納文書目録:調月荘沙
(鎌倉時代)
高野山に運上する旨、請文 10 カ状を高野山に提出[11-8,34]。
汰人請文 4 通 1 巻を奉納する[11-3,34]。
・6 月 13 日付け調月荘沙汰人/平良清・平良行請文条々十箇条:
正慶元(1332)年
調月荘の年貢は高野山へ運上する[11-8,34]。
・7 月 10 日付け高野山寺領調月荘沙汰人請文:京上近夫には従事 ・元弘 2(1332)年 4 月 28 日、
「正慶」に改元[21]。
(鎌倉時代)
しない[11-8,34]。
・7 月 12 日付け調月荘沙汰人/平良行・平行保等起請文十六箇条
:金剛峯寺から示された悪行停止の条々に従う[11-8,34]。
建武元(1334)年
・10 月、楠木正成・三善信連・斯波高経・高野山衆らが那賀郡飯 ・元弘 4(1334)年 1 月 29 日、
「建武」に改元[21]。
- 31 -
桃山町の歴史と桃の年表
(鎌倉時代)
盛山に立て籠もる故、北条高時の一族/佐々目憲法や六十谷彦七定 ・4 月 14 日付け後醍醐天皇綸旨:高野山領を認める
尚(湯浅黨)を攻める[11-1,34]。
[11-1,34]。
建武 2(1335)年
えんげん
・1 月 30 日、海部郡木本荘の木本宗元の奮戦により那
賀郡飯盛山の北条方が降伏する[師守記,和歌山市史 4,34]。
延元元(1336)年
・5 月、荒川荘賀和村の平野俊澄(南朝方)が湊川合戦で足利尊氏と ・建武 3(1336)年 2 月 29 日(南朝)、
「延元」に改元[21]。
(南北朝時代)
戦い、楠木正成とともに戦死する[37-7,34]。
あしかがたかうじ
・朝廷の皇統が南朝と北朝に分裂、足利尊氏が光明天
えんげん
・延元 2(1337)年、荒川荘小林村の奥重之が南朝方に属し、盃を賜 皇を擁立、後醍醐天皇が吉野に移り双方が相戦う南北
る[12,34]。
朝時代となる[21]。
せつ つ みなとがわ
・南朝方の武将楠木正成が足利尊氏と戦い摂津 湊 川に
だいなんこう
て敗死、大楠公と称えられる[21]。
りやく おう
暦 応 5(1342)年 ・1 月付け九条家摂録渡荘目録注記:仏師/清松丸が吉仲荘の田地 ・康永 4 年(南朝興国 6(1345)年 10 月 21 日、
「貞和」改
(南北朝時代)
じよう わ
30 町、年貢油 3 石を知行する[九条家文書,圖書寮叢刊,34]。
元[21]。
たの
貞 和 4(1348)年
・南北朝に対する立場不定の国人(地方武士)、ただ憑
(南北朝時代)
み難きはこの頃の武士である。5 度、10 度、敵に屈し、
味方になり、心を変えない武士は稀である[太平記,34]。
貞和 6(1350)年
かんのう
観応元(1350)年
えんぶん
・貞和 6(1350)年(南朝正平 5(1350)年 2 月 27 日、
「観応」
に改元[21]。
・荒川荘の平野俊勝・俊行・俊信は、北朝方足利尊氏将軍に属す[平
野家文書,37-7,34]。
しほの や
い せのかみ
延文 5(1360)年
・4 月 3 日、南朝方の侍大将/ 鹽 谷伊勢守が最初が峰から龍門山 ・荒川荘が一大戦場となる。桃山町最上塩塚の地名起
(南北朝時代)
に立て籠もり、野上・山東・貴志・湯浅・山本・恩地・贄川・志 源。この戦いで南朝方の伊勢守勢は生け捕り 67 人、討
かぶろ
はたけやまよしふか
宇津・ 童 (学文路)の兵等二千余騎が支援、6 日、北朝方 畠 山義深 ち死に 273 人[8]。
しおづか
の軍と交戦し撃退するも、鹽谷伊勢守が深追いして戦死[38-34,39,34]。 ・塩塚は明治 10 年頃の道路改修で塚の土が取り除かれ
・4 月 11 日、畠山国照らの幕府軍が龍門山の南朝軍を撃退[38]。
しおづか
旧跡が廃絶[8]。
しほの や
い せのかみ
しほの や なかつかさのじよう
・鹽谷伊勢守の墓は荒川荘上野村の北にあり。土人は鹽塚と云う。 ・ 鹽 谷伊勢守は紀伊国守護代/ 塩 谷中 務 丞 で名草
うまずか
なづ
里人その横死を憐れみ塚を築き、傍に馬骨を埋めて馬塚と號く[39]。 郡塩谷(和歌山市塩ノ谷)の武士か[38]。
- 32 -
桃山町の歴史と桃の年表
正平 16(1361)年
・1 月 26 日付け高野山諸衆大集会評定事書:紀良房入寺が荒川荘 ・荒川荘本荘は、元からの山間部(上野村・賀和村・奥
(南北朝時代)
本荘新加分、及び調月荘の加え分は所済の生産弱い爲、供料を具 安楽川一円)を指す。
に金剛峯寺へ寄進する[11-6,34]。
じよう じ
・評定=評議して取捨、よしあしなどを決定すること。
ぎようえん
こう だ むら
相談すること[21]。
みん
貞 治 7(1368)年
・2 月 1 日付け田地賣券:僧 行 円らが荒川荘上田村の田地 1 所を ・中国には明の時代(1368-1615 年)から華中で水密桃の
(南北朝時代)
2 貫 7 百文にて西覺房へ売る[37]。上田村は神田村をさす。
さいかくぼう
こう だ
記録がある[33]。
至 徳 3( 1386) 年 ・11 月 27 日、金剛峯寺領東貴志荘霊岸山丹生大明神宮を修復す
(南北朝時代)
る。高野山智荘厳院の応政が調月荘の領主であるため、これを監
察する[13,34]。
明徳 3(1392)年
・南朝の後亀山天皇が帰京、室町幕府による全国統一
(室町時代)
が完成、室町時代となる[21]。
めいとく
明徳 5(1394)年
・ある大雪の降る(1-2 月)夜中に、野田原村処垣内の伍作さんの家 ・阿弥陀三尊像の製作年代を鑑定した結果、台座底面
(室町時代)
に一人の若い托僧が瀕死状態で助けを求め、介抱して助けたお礼 に「□□□トク五年」の墨書あり、仏像の様式から南
にと三日かけて阿弥陀三尊像が造られた。伍作さん宅で祀ったと 北朝から室町時代の作と同定[和歌山県立博物館小田学芸課長]。
けんとく えいとく
し とく ほうとく きよう
ころ幸せな日々が続いたので、その後阿弥陀像を厨子に入れて垣 ・南北朝-室町時代の年号には建徳/永徳/至徳/宝徳/ 享
とく めいとく
内の家々を廻して祀る「廻り阿弥陀」の風習始まる[中西晃:野田原もの 徳/明徳(古訓:みゃうとく)があり、5 年以上続いた年
ミ
がたり]。
・野田原の「廻り阿弥陀」▼
ヤ
ウ
号は□□□トク五年以外にない。よって室町時代初頭
http://www.syamashita.net/history/notahara/mawari_amida.htm
ミヤウトク めいとく
の 明 徳(明徳)5 年冬 1-2 月迄の作と判明[編者]。
・明徳五(1394)年 7 月 5 日、
「応永」に改元。
おうえい
ひきうま
応永 6(1399)年
・高野山西塔供養荘官引馬支配帳:安楽川本荘馬 4 匹、安楽川新 ・支配帳=負担を分担する割当帳[21]。
(後小松天皇)
荘 2 匹[11]。(引馬は行列で鞍 覆 をかけ美しく飾り装飾して連れて
(室町時代)
行く馬)[21]。
。
応永 7(1400)年
・1 月 18 日付け金剛峯寺寺領注文(抄):那賀郡内の荒川荘・調月 ・12 月 23 日付け田仲荘公文 浄 安 遵 行状:荒川荘の
ご
こ まつ
おうえい
ひきうま
くらおおい
じようあんじゆん
荘・細野荘等。ただし荒見村・杉原村は知行せず [高野山勧学院文 書 山について、田仲荘の違乱を停止した[11-1,34]。
,37-1,34]。金剛峯寺領細野荘。
・注文=進注状=記録=書付け[21]。
- 33 -
桃山町の歴史と桃の年表
おうえい
応永 8(1401)年
12 月 9 日付け守護/畠山基国奉行人奉書:守護代/遊佐豊後入道宛 ・奉書=主人の意をうけて従者がみずからの名を署し
て:荒川荘内山のこと、田仲荘百姓らの入用を停止された。成敗 て出す文書。
おうえい
応永 10(1403)年
おうえい
するよう守護が仰せられた[11-2,34]。
・7月 付け高野山衆 徒契状:高 野山寺領へ守 護不入と定める
[11-4,34]。
がつ よ
応永 14(1407)年
・6 月 24 日付け高野山大集会衆分評定:荒川荘の月領 30 人供は
(室町時代)
最近有名無実である[11-6,34]。
・6 月 25 日付け高野山衆分評定事書:荒川荘 30 人月領供料につ
き来月 10 日以前に検注する旨、高野山学侶諸衆から事書を賜った
が、今に無沙汰である。来月の 10 日中に必ず沙汰されたい[11-6,34]。
・10 月 23 日付け高野山衆分集会評定:安楽川荘の月領 30 人供を
学侶にて早急に処置されたい[11-6,34]。
・10 月 28 日付け高野山学侶大集会評定:安楽川荘を検注するこ
と[11-6,34]。
おうえい
はんらん
・平安時代からの荒川は応永年間になって安楽川 [11-1,37] の字が使 ・川の氾濫から名付いた荒川を忌み嫌い安心安楽の川
こう だ
ざ くろがわ
われるようになる。しかし応永 17 年の文書[11-3]に荒川荘高田村と を願い安楽川と改称か。荘内を流れる紀ノ川と石榴川
こう だ
あり神田村を指すとみられる。この時代以降は「安楽川」
・「荒川」 は度々氾濫を繰り返し災害に悩まされてきた。
「安楽河」が混在して使われる。
応永 17(1410)年
おうえい
応永 20(1413)年
(室町時代)
・11 月 28 日、僧/明祐が荒川荘高田村の田地 1 反を 4 貫 600 文に ・高田村は神田村を指すか。
て高野山勧学院へ売る[11-3,34]。
あ
ら かわ
ぜん だ むら
おうえい
・この年の安楽河庄大検注帳:禅田村とあり善田村を指す[16]。
・応永 20(1413)年、
荒川本荘下司給、
公事銭分田切符(抄)
こう だ
・6 月 12 日付け高野山諸衆免状:荒川荘上田村(神田村)の課役を :荒川本荘下司給 3 分の 2。中田 300 歩、地主平野殿、
免除する「11-3,34」
。水害で荒れた。
ゆうそう
くすの き
・6 月 26 日、僧有宗が安楽川荘 楠 木垣内が焼失したと起請[11-8,34]。 作人/彦九郎。下田 140 歩、調月塚、地主/中殿、作人/
・7 月 28 日付け僧/道金起請文:給分の公事銭のこと、根本(根本 同。下田 240 歩、地主/城殿、作人/衛門三郎。下田 1
領主:中世、荘園制で未開地を開発して領主となった者
- 34 -
21)御支配
反 60 歩、地主/城殿、作人/衛門三郎。下田 1 反 100 歩、
桃山町の歴史と桃の年表
の切符を逸失したので、存じている分の員数を注進する。荒川荘 黒川村、地主/高野山修禅院、作人/僧良願[平野家文書,高野
島田の免(免除)は 1 貫 100 文、秋の所当は 5 反、また伊勢の森巫
山勧学院文書,県史中世 1,34]。
子供賃は 9 反である[11-8,34]。伊勢の森は市場の神明神社のことか、
さすれば市場の神明神社はこの頃に出来たことになる。
けん あ
み
・7 月 30 日付け荒川荘見阿弥/太郞二郎連署起請文:荒川荘安養
寺・善田村円福寺、大原村の智賀堂云々[ 11-8] とあり、善田村・大
原村の初出。・大原は龍門山の西南の原なる故大原村と名付く[6]。
桃山町大原の地名由来。
・8 月 7 日付け荒川荘荘官/百姓等申状(上申状):荒川荘の大井(用
ただ
水路)を間すこと、3 年間は大井を返上し昔のとうに畠を田に開発
する[11-7,34]。
・8 月 16 日、荒川荘の福王寺・極楽寺の領田の反畝を平野氏に授
ける[13,34]。
・8 月付荒川荘大井(用水路)奉行証文:大井は早急設営云々[11-7,34]。
こう だ
ざ くろがわ
荒川荘の大井は上田村(神田村)の石榴川からの水路を云うか。
・応永 20 年、安楽川大井この時既に開けり[47]。
応永 24(1417)年 ・6 月 21 日付け荒川荘良義房/里房免許:荒川荘上野村の良義房 応永 23(1416)年、細野荘垣内に極楽寺を建立す[6,49]。
(室町時代)
おうえい
里房、岡垣内は高野山上・山下の公事公役を課さない所にして、
応永 15 年 6 月 21 日に諸役免除済みである[岡家文書,37-7,県史中世 1,34]。
応永 29(1422)年
・野田原処垣内の五輪塔銘「応永□□年 大忠一結泉」は「楠木正
(室町時代)
成四世津田春行。応永二十九年三月卒、葬を阿良河、法号:大忠
あ
ら かわ
一結泉、阿良河に葬る。紀州津田家の元祖」[松原正勝氏安楽川系図]。
応永 30(1423)年
・應永三十(1423)年調月庄分田切符[11-5,34]:一、御社御精進供料、 ・10 月 13 日付け鞆淵千楠丸(下司/平野範景の子)書状
(室町時代)
上一反八十歩、浮田坪/狭三、地主/御社田、作/衞門。下半二十歩、 :高野山年領宛て:集会のため高野山へ登ったところ、
ハヤマ谷/狭七、地主/僧寺、作/富岡殿。一、天野夜燈料:一反半 去月 24 日暁に新方国の面々(守護/畠山満家の家来)塩谷
- 35 -
桃山町の歴史と桃の年表
二十歩、上・半四十歩、中・三百四十歩、日置田坪/狭二宛、地主 父子兄弟 4 人、杉原父子 2 人、調月荘の新五郎、安良
・観音寺・作同。中一反、下久米田坪/狭五、地主/東殿、作/同。 見村の在地家来、その他 2、30 人余が共謀して武具を
下大三十歩、石田坪、狭三、地主/下殿、作/彦三郎。下一反
帯び、百姓の牛 13 匹を押し取り宿所へ乱入された
小三十歩、同坪、狭八、地主/中殿、作/五郎太郎。下三百歩、下
[11-4,34]。
久米田坪、狭二、地主/国分殿、作/覺円。下半二十歩、下久米田 ・(左の注)切符は、租税などを割り当てる文書[21]。
坪、狭二、地主/中殿、作/五郎太郎。下三百歩、湯屋本坪、狭三 上・中・下は田地の等級で上田、中田、下田のこと。
地主/鞆淵殿、作/藤若。下二反九十歩、添田坪、狭四、地主/中 大、半、小は、田地の面積で、大は二百四十歩。半は
殿、作/彦三郎。下大二十歩、石田坪、狭四、地主/中殿、作/孫三 一反(三百六十歩)の半分の百八十歩。小は百二十歩の
郎。下三百二十歩、オウサノ坪、狭三、地主/押領使、作/彦九郎。 こと。 挍 (きょう)は狭、畝町とも記し、田地の区画・
以上、上分・半四十歩。中一反三百四十歩。下八反九十歩。分米 枚数のこと。作は、作人(耕作者)を示す。
(年貢米)三石六斗一升九合六夕。
・地名に付いた「坪」とは、一段低くなっているとこ
一、山上執行分(高野山執行分)
ろを、壺に見立てて呼んだもので「壺」とも書く[21]。
下大五十歩、松本坪、地主/岡殿、作/同。中六十歩、河田坪、地 度重なる貴志川の洪水で、耕土が流失して一段低くな
主/日前寺、作/助太夫。上一反百歩、同所、地主/勧学院、作/林殿。 った場所をさしたものとみられる。
上一反五十歩、ハカマタ坪、狭八、地主/新堂、作/井上殿。上小
また「石田坪」は、現在、稲葉垣内の中西良三氏宅
三十歩、同所、狭七、地主/大日寺、作/道仏。上大十歩、藤田坪、 の西側辺りで、古くは大道と呼ばれた旧県道を、なべ
狭五、地主/理趣三昧田、作/岡殿。中大、同所、狭六
地主/東殿、 や(津田家)の西側から南進して、突き当たりから南西
作/道永。下三百歩、石田坪、狭三、地主/中殿、作/祢宜。中三百 側である。かつて、度々堤防が決壊したとされる曾池
二十歩、掘町坪、地主/東殿、作/孫太郎。下大二十歩、久米田坪、 の濁流が溢れ、石ころまみれの土地だったと云う。現
狭二、地主/中殿、作/五郎太郎。中大四十歩、カマトノ坪、狭四、 在、大西孝氏が耕作している水田周辺を云う。
地主/鞆淵殿、作/衞門太郎。下半四十歩、ハヤマ谷、狭六、地主/
添田坪は添田集落と石榴川との間とみられる。オウ
富岡殿、作/同。下大三十歩、上池田坪、地主/国分殿、作同。
サノ坪は、稲葉集落の西方、稲葉団地とその西辺りで、
下三百二十歩、歳神谷、狭四、地主/高畠殿、作/八郎二郎。
幹線排水路までの土地をさしている。
中一反三百五十歩、歳神谷、狭七、地主/東殿、作/彦二郎 左近。
- 36 -
「ハカマタ坪 挍(きょう)八 地主/新堂
作/井上殿」
桃山町の歴史と桃の年表
下一反四十歩、歳神谷、狭三、地主/上村殿、作/彦次郎。
とある井上殿は、井上垣内の井上源吾をさしていると
中一反七十歩、船橋坪、狭二、地主/勧学院、作/孫太夫。
みられる。ハカマタは袴田とみられ、袴とは稲の茎を
以上、上分三反半十歩、中五反大二十歩。分米(年貢米)六石一斗 まとい覆う苞をさし、肥沃な泥土が流入して稲が出来
三夕。
過ぎ、収穫の少ない田地をさしている。
一、三供僧一・観明房
また当時の地主に、日前寺、大日寺、勧学院がみら
中一反大三十歩、松崎坪、地主/国分殿、作/同。下三百二十歩、 れる。日前寺は稲葉段にある寺堂で、今は小さなお堂
同所、地主/岡殿、作/同。上一反、楠田坪、地主/彦八、作/同。
であるが、もとは庵主さんと呼ばれた尼僧が寺の本尊/
下小五十歩、クヌキ本坪、地主/菅井殿、作/彦九郎。下半三十歩、 大日如来像を祀っていた。大日寺は、いまも添田集落
松本坪、地主/中殿、作/衞門次郎。中三百歩、河田坪、地主/岡殿、 を除く調月住民の菩提寺である。
作/同。上一反半五十歩、同所、地主/中殿、作/衞門[11-5,34]。
地主の勧学院は、北条時宗が高野山内の僧侶の勉学
・修練のための道場として、高野山金剛三昧院境内に
建立したが、後の文保二(1318)年、後宇多法皇の院宣
によって、現在の位置に移されたという勧学院の直属
農地だったのであろう。
地主の「中殿」は、この時代の調月における
地主の代表格だったとみられ、
「中殿」は、城の段(壇)
に居住していた中屋敷の当主で、
「岡殿」は中殿の別[12]
とある。
たんまい
応永 32(1425)年
・4 月 25 日付け伊都郡天野郷丹生社一切経会段米(臨時田租)日記
(室町時代)
:荒川荘神野村(賀和村)3 斗 5 升、神田村 1 斗 6 升、上野村 2 斗 9
升、野田原村 3 斗、善田村 1 斗 9 升、黒川村 1 斗 3 升 5 合、調月
荘 3 斗など、合わせ 23 石 5 斗 6 升 4 合 7 夕を収納する[11-4,34]。
しようちよう
こう だ
こうむら
正 長 2(1429)年 ・高野山検校荒川荘分田支配切符:上田(神田村)60 歩、上村(賀和
(室町時代)
村)地主/定使、作人/祝(神主)。中田 30 歩、上田村、地主/与太(俗
- 37 -
・応永 35(1428)年 4 月 27 日、
「正長」に改元。
桃山町の歴史と桃の年表
別当)、作人/衛門。中田 1 反 80 歩、上田村、地主/三船社与太、作
人/祝(神主)[11-5,34]。
えいきよう
・正長 2(1429)年 9 月 5 日、
「永享」に改元。
永 享 4(1432)年
・6 月付け高野山々下田麦本支配:領所・下司・公文・刀禰・定
(室町時代)
使ら、都合、麦 18 石 9 斗 7 升[11-7,34]。水田裏作麦。
・8 月 13 日付け荒川荘三船社与太(俗別当)職免状:氏長者/岡長盛
に三船社与太職を免許する。銭(免許料)5 貫文を収納する[岡家文書,県
史中世 1、37-7,34]。
か きつ
はしぐちはやとのかみともしげ
こうにん
嘉吉元(1441)年
・7 月、橋口隼人正友重(藤原=赤松氏一族)が河内国から調月荘の ・調月荘の稲葉藤蔵の先祖は弘仁 7(816)年以来、6 代
(室町時代)
稲葉藤蔵宅に来て後に高野山に逃げ込む。将軍足利義勝が諸将に にわたって高野山領(調月の稲葉)に住んだ[23]。
いな ば とうぞう
あしかがよしかつ
あかまつみつすけ
命じて赤松満祐を討つによる[12-下,13]。
稲葉段の地名起源。
嘉吉 2(1442)年
・1 月 7 日、赤松丹信(播磨國守護/赤松満祐一族)が大勢を率いて ・8 月 20 日、奈良並ビニ紀伊国大風雨、二十日ヨリ二
(室町時代)
高野山に乱入する。浪人/橋口隼人正友重、畠山羽二郎(尾張國守 十五日マデ大風雨、大洪水、前代未聞ノコトドモナリ[水
護 5 男)、稲葉藤蔵、及び寺僧が防戦する。赤松満祐が戦死。浪人 害統計]。
衆に褒賞として調月荘・東貴志荘・山東荘に屋敷と田地を与える
[13,6-5,12-下,34]。
・嘉吉 4 年 2 月 5 日、
「文安」に改元。
文安 2(1445)年
・12 月 18 日付け高野山月領 30 人評定事書:荒川荘野田原村の年
(室町時代)
貢減少を糾明したところ公文(奥)による隠し田あり。銭 3 貫文の
科料とする[11-5,34]。
文安 4(1447)年
・12 月 14 日付け荒川荘野田原村番頭/藤内起請文:高野山月領 30 ・12 月 18 日付け高野山月領 30 人評定:荒川荘野田原
(室町時代)
人への年貢米として、当年分 4 石 2 斗 9 升を金剛峯寺へ納入して 村の高野山年貢の減少は百姓の年貢納入不足ではなく、
いる。他に公文方へ 2 石 5 斗を取られた。この他には少しも百姓 公文の田地隠しにある。公文と百姓の訴えにより、来
へ年貢を強要致さない[11-5,34]。
年は田畠を調査する[11-5,34]。
文安 5(1448)年
・8 月 7 日付け高野山小集会評定事書:荒川荘野田原村の高野山
(室町時代)
月領 30 人への年貢についての田畠調査は、当年は厳重に実施すべ
きであるが、風雨(害)が意外に多いと噂あるため来年まで延期す
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桃山町の歴史と桃の年表
る[11-4,34]。
・11 月 17 日付け荒川荘公文代書状:高野山 30 人月領房宛て:30 ・12 月 26 日付け荒川荘公文/奥氏書状、月領 30 人宛
人月領房への年貢 8 石に 1 石増して寺納せよとの沙汰に従うよう て:公事銭を精一杯百姓に申しつけて上納するが、当
努めるが、5 斗増までが限度である。1 石増しを止めるよう集会に 年分は扶助(減額)されたい[11-5,34]。
て検討されたい[11-5,34]。
・文安 6(1449)年 7 月 28 日、
「宝徳」に改元[21]。
宝徳 2(1450)年
・12 月 3 日付け荒川荘野田原村公文代書状、高野山 30 人月領宛
(室町時代)
て:作人/彦太郎は 逃 散する。月領 30 人年貢を皆納する[11-5,34]。
ちようさん
・12 月 26 日付け荒川荘公文代書状、高野山 30 人月領宛て:公事
銭(夫役の代銭)を精一杯百姓に申しつけて皆納する。皆納の請取
り証あってこそ百姓が安堵する。皆納の請取証なければ、百姓が
けいかい
計会(貧困化)し逃散しかねない[11-5,34]。
宝徳 3(1451)年
・6 月 26 日付け荒川荘野田原村公文代書状、高野山 30 人月領宛 ・12 月 3 日付け荒川荘野田原村公文代公事銭皆納状、
(室町時代)
て:御公事銭は去年は 600 文の目減り銭 15 文を納める。田役の番 高野山 30 人月領へ:30 人月領への公事銭は、この前
頭給は田地荒れにより、一切御公事銭は無い。詳しくは番頭が説 に納めた。現作 5 反 270 歩、うち 2 反 120 歩は、内々
明する。皆納の請取証を給わりたい[11-5,34]。
に東の作人/彦太郎が逃散した爲、懸け銭は 232 文。残
る 340 文を納める。この他に(未納)は一切無い。皆納
の請取証を給わりたい[11-5,34]。
宝徳 4(1452)年
・6 月 25 日付け荒川荘公文代書状、月領 30 人宛て:公事銭を百 ・12 月 26 日付け荒川荘公文(奥氏)書状、高野山 30 人
(室町時代)
姓に催促したが、日照りにて田植え出来ないので困っている。ま 月領宛て:公事銭は精一杯申しつけて納める。現況で
ず 2 貫 500 文を納める[11-5,34]。
は貧乏の百姓は小屋住まい致さねばならない。まず、
ふ
ち
・6 月 29 日付け荒川荘野田原村公文代公事銭皆納状、30 人月領へ 瘠せた土地の開発をされて、百姓を扶持(援助)頂きた
:5 反 240 歩の料足(費用)572 文を上納する。皆納の請取状を給わ い[11-5,34]。
りたい[11-5,34]。
・7 月 16 日付け安楽川荘百姓等言上状、高野山 30 人月領坊宛て
:先度、30 人公事銭につき御使の下向を受け恐れ入る。御使に委
細を申した通り、あまりにも当地が貧乏の事につき、8 月まで待
- 39 -
桃山町の歴史と桃の年表
って欲しいと申したが、近日に催促を受け、御代官 1 人の派遣あ
り、当方から御共して精一杯催促した。月領中にて御容赦された
い[11-5,34]。
・宝徳 4(1452)年 7 月 25 日、
「享徳」に改元。
享徳 2(1453)年
・7 月 7 日付け荒川荘公文代書状、月領 30 人宛て:野田原村の公 ・9 月 3 日付け荒川荘公文代書状、30 人月領宛て:日
(室町時代)
事銭、夏分 560 文を納める[11-5,34]。
照り不作にて年貢を納め難いと百姓が訴えている
・7 月 19 日付け荒川荘公文(奥氏)返事状、30 人月領坊宛て:30 人
[11-5,34]。
公事銭 950 文を使者にて上納する[11-5,34]。
・7 月 27 日付け荒川荘公文代言上状:野田原村の公事銭を精一杯 ・10 月 19 日付け荒川荘百姓言上状:捨て田 240 歩へ
催促したが百姓が納めない。使者が高野山から下向のため、作人 の夏分公事銭を免除されたい[11-5,34]。
らは努力して進納する。先度分の 3 貫 100 文と、今度の 950 文、
合わせて 4 貫 50 文を納める[11-5,34]。
よしなり
享徳 3(1454)年
・高野山に住む橋口友重・忠藤が、大和國から乱入した上杉左衛 ・12 月、畠山政長と畠山義就が相争い、高野山検校/
(室町時代)
門の防戦に尽くしたので金剛峯寺から恩賞として調月荘に屋敷・ 深聖房道兼が義就に味方し、荒川荘下司/平野氏、及び
よしなり
田地を与えられた[13,6-5,34]。
公文/奥氏が政長に味方し、高野山の支配が内部分裂す
る[13,平野家文書,12-下,34]。
長禄元(1457)年
・12 月 22 日付け安楽川荘公文代起請文、高野山 30 人月領坊宛て
(室町時代)
:30 人月領への公事銭、及び年貢のこと、当年はことのほか干損
のため精一杯催促して寺納しようと思っていたが、特に不作地で
しる
は断りの由を申しているので、おの下地を注して報告する[11-5,34]。
長禄 2(1458)年
・7 月 27 日付け安楽川荘公文代起請文、高野山 30 人月領坊宛て
(室町時代)
:公事銭のことは、只今の納分は安楽川荘の分も安楽川荘野田原
村分も、同じく決して私していない。[11-5,34]。
・11 月 26 日付け荒川荘公文(奥)書状、高野山 30 人月領宛て:下
地(百姓)が計会(困窮)中につき、高野山からの公事銭催促使の下向
を止められたい[11-5,34]。
長禄 3(1459)年
・12 月付け荒川荘野田原村番頭/百姓起請文:高野山 30 人月領へ
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桃山町の歴史と桃の年表
きよもう うそ
かんしよう
(室町時代)
の年貢、及び公事銭は一粒 1 銭も虚妄(嘘)を申さない[11-5,34]。
寛 正 6(1465)年
・12 月 4 日付け高野山月領 30 人評定事書:荒川荘が水損にて年 ・この年、水害があったか。
(室町時代)
貢減免を願い出ている。月領 30 人への年貢は 8 石、10 貫文であ
かんしよう
おうにん
すいそん
るが、6 石 8 貫文とする[11-5,34]。
長禄 4(1460)年 12 月 21 日、
「寛 正 」に改元。
ぶんしよう
・寛政 7(1466)年 2 月 28 日、
「文 正 」に改元。
あ わのだいぜん
ぶんしよう
おうにん
応仁元(1467)年
・7 月、阿波大膳が大勢を率いて高野山に乱入する。橋口隼人正 ・文 正 2(1467)年 3 月 5 日、
「応仁」に改元。
(戦国時代)
忠勝(調月荘に居住)、家臣/櫻井刑部を率いて高野山の若大衆と共 ・応仁元(1467)年から文明 9(1477)年の 11 年間、京都
に、乱入した 56 人の首を討ち取る。よって、集会衆、沙汰衆から を中心とする内乱が続く。将軍家の相続問題と畠山・
そ
橋口忠勝に感状を与え褒賞を副える[13,12-下,34]。
斯波両管領家の家督争いから、諸国の守護大名が細川
勝元の率いる東軍と、山名宗全の率いる西軍に分かれ
て争う。幕府の権威は失われ群雄割拠の戦国時代とな
ぶん めい
る(応仁の乱)[21]。
いん べ もりずみ
文 明 9( 1477) 年 ・1 月付け荒川荘神田村三船神社神主/忌部盛純置文:彦狭知命の
もとぶち
(戦国時代)
子孫/忌部源渕・有井平治爲貞[有井家文書,37-7,34]。
文明 17(1485)年
・8 月、紀伊国守護/畠山政長の恩賞状を執事/遊佐兵庫助が荒川荘 ・10 月 21 日付け守護/畠山政長・執事/遊佐兵庫助長恒
(戦国時代)
上野村小林の奥四郎(公文)へ伝達[奥家文書,6-3,34]。
書状、荒川荘(下司)平野弾正左衛門宛て:公役(守護の
命令による軍役)に参加すること [平野家文書,6-3,37-7,県史中世
1,34]。
・11 月 15 日付け守護/畠山政長書状、荒川荘平野氏宛
て:山城国在陣が長期に亘ったこと、迷惑の由もっと
もである。今度の事は別けて堪忍して忠節に励むこと。
ぶんめい
文明 18(1486)年
恩賞を与えるようにする[平野家文書,6-3,県史中世 1,34]。
のりかげ
11 月、高野山寺領荒川荘のうち野田原村(銚子ノ口)の山地、下司 ・12 月 21 日付け荒川荘野田原村の平野八郎範景山地
(戦国時代)
職を荒川荘上野村の城殿の手を通じて現米十九石で永代調月荘の 売券:荒川荘銚子ノ口山地を米十九石で調月荘中俊良
中俊良が買う [ 37-7,34] 。調月の中氏は高台の地に塀を巡らし豪邸を に売る[13,37-7,県史中世 1,34]。 銚子ノ口が調月荘領となる。
構えた[12]ので城ノ段の地名となる。
・11 月付け調月荘中俊良田畠買入帳:東貴志荘菩提村
・11 月付け調月荘中俊良譲状:調月荘岡分のこと、調月荘岡孫太 の田地 2 カ所、及び谷池 1 カ所を菩提氏から買い、さ
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桃山町の歴史と桃の年表
郎(中氏の別家)へ根來寺功徳院の知行権を譲る [奥家文書,37-7,大日本史料 らに菩提村の田地 1 カ所を源左衛門宣弘から買う[中家文
8-19,34]。
書,大日本史料 8-19,34]。
延徳 2(1490)年
・紀伊国守護/畠山政長軍(根來寺・粉河寺・奥氏・平野氏ら味方)
(戦国時代)
と畠山義就軍(熊野三山・有馬氏・入鹿氏・西氏らが味方)が石手
荘根來村一乗山にて合戦、義就軍が敗れ畠山義就が戦死[蔭涼軒日録,
和歌山市史 4,34]。
明応 2(1493)年
・紀伊国守護/畠山政長が畠山義豊(義就の子)に攻められ、河内国 ・明応年中、荒川荘小林修禅尼寺が焼かれた [奥家 文書
(戦国時代)
正覚寺で自害、この時長政に味方して応戦した荒川荘平野俊之が
,37-7,34]。
戦死する。畠山義豊(基家)が紀伊国守護となる[13,平野家文書,蔭涼軒日録,12- ・9 月 4 日付け荒川荘福王寺領田畠注文:田地 36 カ
下,34]。
所、畠 17 カ所である。檀那(施主/檀家)平野俊光、住持/
永忍[平野家文書,13,県史中世-1,34]。
明応 5(1496)年
・3 月 21 日付け荒川荘小林修禅尼寺/慶珠/慶朔請取状:荒川荘の ・5 月 3 日、淡路国國府八幡宮の釣鐘が荒川荘上田村
(戦国時代)
公銭 500 文を請け取る[奥家文書,県史中世-1,4]。
文亀元(1501)年
・12 月 13 日、荒川荘野田原村に住む平野範景が、家附き銚子ノ ・明応 10(1501)年 2 月 29 日、
「文亀」に改元。
(戦国時代)
口の山 1 カ所を調月荘中氏に売る[13,34]。
永正 2(1505)年
・5 月 8 日付け高野山学侶小衆会評定事書、夫伝馬銭の事:細野
(戦国時代)
荘・荒川荘などの分を寺納させるよう釈迦院・十輪院・大光明院
の三船神社に移される[三船神社蔵釣鐘銘,34]。
が、調月荘岡殿に指示すること[高野山勧学院文書,37-1,34]。
永正 3(1506)年
・11 月 29 日付け高野山三所(検校・左右学頭)・十聴衆衆会評定事
(戦国時代)
書:二人の衆会衆が調月荘から高野山へ登山して来ることに付い
て調月荘へ使者を下向させること。使者料は調月荘の里坊に住む ・貫文:中世以降、租税として収取する米を銭に換算
二人の僧に各 5 貫文ずつ当てること[高野山勧学院文書,37-1,34]。
して表示するもの[21]。
ゆ
さ なりもり
永正 4(1507)年
・3 月 28 日付け守護/畠山尚宣奉行人/遊佐順房奉書:調月荘岡孫 ・12 月 24 日付け遊佐就盛書状、荒川荘平野範景宛:
(戦国時代)
太郎(中氏の別家)当て:小倉荘宇野氏の遺領を宛がう[13,34]。
この度御味方となり御忠節を致すにおいては御知行の
・6 月、調月荘の中入道俊良が(前守護)畠山義英(家基の子)に勘当 ことは相違あってはならぬ。御働きにより、御恩賞あ
される[13,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
・6 月 13 日付け畠山義英(前守護)安堵状、荒川荘三船神社神主/有 る由、私からよくよく申すようにとの旨である[平野家文
け なげ
井大夫宛て:連々忠義のこと神妙である。荒川荘野田原村平野範
書,県史中世-1,34]。
景の遺領の替え地として調月荘中俊良の遺領を与える [有 井家 文 書
,6-3,37-7,34]。
ゆ
さ なりもり
ゆ
さ なりもり
・12 月 25 日付け(前守護/畠山義英奉行人)遊佐就盛書
・6 月 13 日付け(前守護/畠山義英奉行人)遊佐就盛・基盛書状、有 状、荒川荘平野氏宛て:御本知の事は御書の旨に任せ
井大夫宛て:代々忠節を尽くすにより、荒川荘平野氏の遺領を知 相違あってはならぬ。恐々謹言[平野家文書,37-7,県史中世-1,34]。
行して良いと仰せ付けられたが、本主が居るため、替え地として
調月荘中氏の遺領を知行して良いよう沙汰する。知行を全うし益
々粉骨することが大切である。謹言[有井家文書,37-7,34]。
永正 5(1508)年
・1 月 28 日付け(前守護/畠山尚順奉行人)遊佐盛賢/盛秋奉書、調月 ・3 月 4 日付け守護代/遊佐順房書状、荒川荘平野殿へ
(戦国時代)
荘岡孫太郎宛:大和國宇治郡五条荘榮山寺(真言衆)領を半済(年貢 :子息誕生のことにつき鳥目(銭)100 疋(10 文の単位 21)=
とり め
半分の給与)とする[13,34]。
・1
ひき
しゆうちやく
貫)を頂いた。 祝 着 (慶賀)の至りである。詳しくは
高野山十輪院が伝達する[平野家文書,県史中世-1,34]。
永正 6(1509)年
・3 月 17 日付け池田光遠(前守護/畠山義英奉行人)奉書、調月荘岡
(戦国時代)
孫太郎宛:和泉國新在家村 4 分の 1 の年貢収納を宛がう[13,34]。
・12 月 2 日付け池田光遠・遊佐行忠(前守護/畠山義英奉行人)奉
書、調月荘中俊良宛て:日高郡公文職の半分を以前の通り知行し
て良い[13,34]。
永正 7(1510)年
・8 月 3 日付け守護/畠山尚順奉行人/山田恒定書状、安楽川荘平野
(戦国時代)
神五郎俊光宛:平野殿御知行分の事につき、貴殿が色々と仰せを
だいえい
受けた分を申し届け、守護代/遊佐順房が私へ別儀なく御進退して
良いとの書状が届けられた[平野家文書,6-3,37-7,県史中世-1,34]。
大永 3(1523)年
だいえい
・数年来、飢饉あり、この年大干魃にて不作[60]。
大永 4(1524)年
・11 月 3 日付け守護畠山義堯奉行人/平英作・英正、知行安堵状、
(戦国時代)
荒川荘奥四郎左衛門ら宛て:勝仙院(前守護/畠山尚順)殿が仰せ付
けられた筋目のように、当荒川荘は将軍足利義晴様の御料所(領地)
- 43 -
桃山町の歴史と桃の年表
とすること。この旨を承知して忠義に励むようにとの事である[奥
家文書,6-3,県史中世-1,34]。
享禄元(1528)年
・五穀稔らず飢餓起こる。紀ノ川洪水あり[60]
享禄 3(1530)年
・和泉國岸和田における畠山氏と三好長慶の合戦に、荒川荘平野
(戦国時代)
俊光が畠山氏に味方して出陣する[平野家文書,37-7,34]。
享禄 4(1531)年
6 月 25 日付、高野山不断經の掃除・兵士下状・在所日記:不断經
の掃除・兵士の下状の付け所のこと。日限は六月二十五日定めで
ある(中略)。調月二通あて掃除・兵士
季六月二十五日 年預代
てんもん
検校の預所定使
堯光房[11-8]。
すぎのぼう
めいざん
享禄四
じ ゆうさい
天文 12(1543)年
・天文十二(1543)年、根来寺杉 坊 院主明算(自由斎と名乗る[23])が
・小倉荘吐前城主/津田監物算長が大隅国種子島に至
(戦国時代)
種子島の領主時尭にポルトガル伝来の鉄砲割愛を要請し、津田
り、ポルトガル人の伝えた鉄炮の奥儀を授かり、天文 13
ときたか
かつあい
つ
だ
けんもつかずなが かずなが
監物算長(筭長)が種子島に渡り銃一挺を初めて伝えた[鉄炮記,鉄炮由緒 年に帰国、根來荘(石手荘)坂本の清左衛門に鉄炮を造
書]。
らせる。弟の津田自由齋は鉄炮修業のため諸国を回り、
帰国の後、安楽川荘に住む[6-1,34]。
かずなが
しばつじ
天文 13(1544)年
・私[荒川荘神田村津田氏]の先祖は自由齋と申し、天文 13 年、種 ・天文 13(1544)年、算長は根来寺門前町西坂本の芝辻
(戦国時代)
子島に渡り鉄炮を伝授して帰る。後、織田信長に鉄炮を伝え、信 鍛冶刀場の芝辻清右衛門妙 西に伝来銃を示して模倣さ
か
じ かたなば
しばつじ し ん え も ん みようさい
も ほう
のぶはり
長の弟/津田兵衛尉(信張)に命じ、津田姓を下される[津田流鉄炮薬由緒書 せ国産化に成功した。
かずなが
,37-7,34]。
てんぶん
じ ゆうさい めいざん
たねがしま
てつぽう
・算長は津田太郎左衛門尉 従五位下 小監物。永禄十
・天文十三(1544)年、先祖自由斎(明算)は(中略) 種 嶋に渡り鉄炮を ( 1567)丁卯年十二月廿二日小倉ニテ卒す。光善院久室
でんじゆ
傳授仕り帰り、それより段々日本へ広め申し候ところ、信長公が 宗長禅門居士 行年六十九歳。紀州小倉に領地八箇村五
てつぽうでんじゆ
でんじゆ
お聞遊ばされ鉄炮傳受仕り候よう仰せ付け候に付、一々傳受仕り
ご しやてい
上げ候ところ(中略)。之に依り信長公の御舎弟津田太郎左衛門尉
むしくい
つ
だ
じ ゆうさい
千石、紀泉之内に合わせて本知行、凡そ壹万石余也。
はんざき
小倉吐前に居城す。身の丈七尺有り。比類なき大力で
さ
はちまき
な
□□に仰せ付けられ津田の名字を下され津田自由斎と申し候。そ 戦場に臨み、時には大竹を割き鉢巻と為す。敵は恐れ
きょうろく
れより一家の者どもは津田と名乗り申し候云々[津田流鐵炮薬由緒書,23]。 て近づく者なし。 享 禄(1528-1532)年中に種子島に渡
海し鉄炮を傳来、天文十三甲辰三月に帰り、紀州の西
か
じ しょく
てっぽう
坂本邑の鍛冶 職 芝辻清右衛門に鉄炮を造らせ将軍義晴
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桃山町の歴史と桃の年表
めいさん
公に献ず。その為に賞として従五位下を叙さる。明算
えいろく
は根来寺総門主杉之坊。永禄元( 1558)年戊午十二月五
日寂す[津田家家譜,伊川健二:鉄砲伝来の史料と論点(下).
『銃砲史研究』]。
こうかい
天文 14(1545)年
・冬、紀ノ川洪水による田畑荒潰により、高野山寺領民が強訴し この前年に水害があったか。天文 9 年(1540 年)紀の
(戦国時代)
て年貢を納めない[13,34]。
川の大洪水にて慈尊院が流失[九度山町史]。
天文 16(1547)年
・根來寺の大塔完成[60]。
天文 18(1549)年
・スペインの宣教師/ザビエルの随行者が喫煙したのを
見かけ、間もなく煙草の種が導入され全国に広まる[60]。
天文 21(1552)年
・12 月 24 日、根來寺蓮蔵院勢春が、名草郡栗栖荘に在る田地 1
(戦国時代)
所を 7 貫文にて成真院(根來寺内の調月荘中氏の坊堂)に売る[調月中
家文書,和歌山市史-4,34]。
永禄 3(1560)年
・根來寺杉の坊・同岩室坊を将とする 500 人、三好方
むねよし
元亀 4(1573)年
・3 月、織田信長の攻略に敗れた近江國の武士/佐々木順良(37 歳)
(戦国時代)
が、娘/於駒を荒川荘上野村の城氏に預け、発心して高野山に入道
に敗北、討ち死に 89 人・捕虜 78 人[60]。
し木食應其と号する。やがて、於駒は調月荘の中俊正(俊猛)の妻
となる[13,12-上,34]。
・元亀 4(1573)年 7 月 28 日、
「天正」に改元。
天正 2(1574)年
・5 月 16 日、妙法院が荒川荘野田原村脇谷の山を 50 貫文にて高 ・天正 3(1575)年、荒川荘と田仲荘が山論から合戦、竹
(戦国時代)
野山知識院に売る[高野山勧学院文書,37-1,34]。
房村にて児玉忠貞父子が戦死する[粉河寺文書,37-5,34]。
天正 3(1575)年
てんしよう
・この頃より根來寺が全盛となる。根來寺岩室坊・雜
賀党と共に一万余騎にて千石掘・畠中・貝塚等の要害
に拠り信長と敵対す[60]。
お おぎまち
天 正 4(1576)年
・2 月 8 日、荒川・田仲の山論から田仲荘住人が荒川荘に乱入、 ・正親町御宇、荒河、田仲山の山論あり、荒河の地士/
(正親町天皇)
荒川方侍大将として応戦した調月荘の橋口甚太郎(22 歳)が壇村に 奥氏・平野氏を初め、その勢 2 千五百余、橋口甚太郎
(戦国時代)
て戦死。山論は荒川荘高野村の西に在る平野山・検校山の利用争 を荒河の大将にて相戦う。壇村の東堀に馬駈け入り難
お おぎまち
いを云う[13,6-5,34]。
渋の所、田仲勢 2 千八百余が攻寄せば馬騒ぎ立ち甚太
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桃山町の歴史と桃の年表
郎が落馬、田仲團九郎と云う者が立ちかかり遂に甚太
郎の太刀を抜き首を取る云々[23]。
天正 5(1577)年
・織田信長が紀州征伐[8]。・荒川荘の平野刑部俊明、信長公の紀州 ・天正 5-6 年、織田信孝高野攻めの時、(細野)城山に砦
(戦国時代)
雜賀合戦に忠節に働いた恩賞として津田姓を給わる[23]。
天正 7(1579)年
・12 月 6 日付け高野山役人/宥遍法度状:博奕は堅く停止するこ ・後戦国時代末期頃の作とみられる松村宗案の農書
を造る。権別当、薄月山頂に砦を築く。権別当は信孝
の従者ならんか[49]。
ばく ち
しんみんかんげつしよう
と。見付け者には 5 貫文の褒美を与える。勝手に米・大豆・麦を 「親民鑑月 抄 」の桃栽培についての簡単な記述に、
百姓に負担させてはならぬ。科人を報告しない沙汰人あれば堅く 実生または接木繁殖の説明[33]が見られ、接木の歴史も
てんしよう
成敗する[津田辰楠家文書,37-7,34]。
かなり古い。
わびじよう
ひら の だんじよう さ
天 正 9(1581)年
・3 月 5 日付け田仲荘年寄等詫 状 、調月荘橋口隼人正(故/甚太郎 ・12 月、信長の高野攻めに備え荒川荘の平野弾 正 左
(正親町天皇)
兄)宛て:田仲荘から荒川荘に乱入し、貴殿の弟/橋口甚太郎殿を 衛門俊光が荒川荘の奥一族を連れて高野山に立てこも
(戦国時代)
田仲荘の烟 上 弥右衛門が討取り申したところ、御詫言を聞き入れ り西口の大将として構える[34,37]。
え もんとしみつ
ゑんじよう
いささ
てんしよう
なかとしたけ
頂き千万忝い。
この上は後々になっても、
荒川荘の山地について 少 ・天 正 10(1582)年、調月荘の中俊猛(城ノ段中家の当
かも新儀の申し出は致さない[三船神社文書,県史中世-1,37-7,34]。
主)が高野山に馳せ参じ戦功があった[12]。
12 月、織田信長が高野山攻めを発し 14 万の総大将織田信孝(信長 3 ・同年 6 月、織田軍が高野攻めの途中、本能寺の変が
せのやま
ひら の
男)が伊都郡笠田荘西の背山に本陣を置く。高野山は荒川荘の平野 起こり信長が自害、高野攻め中止となる[12]。
だんじよう さ
え もん
おくよしひろ
じようまごろく
つ
だ ぎよう ぶ
さ
え もん
あり い ひようだい ふ
弾 正 左衛門・奥義弘・ 城 孫六・津田 刑 部左衛門・有井 兵 大夫
まつやましん ご
・松山新吾らを招集、高野方は 3 万 6 千の兵にて対決防戦を構え
る。時に高野山寺領は 17 万 3 千百 37 石[6,12,13]。
・吉仲荘は、天正年間(1573-1592)に丸栖は小倉組に属し紀伊国領
[19]となり、調月は高野山寺領として残り二分される。
天正 10(1582)年
・3 月 10 日、信長の武将/大木権大夫・竹田藤内が、伊都郡志富 ・根來寺衆、和泉佐野を中心に 13 の出城を築く[60]。
(正親町天皇)
田荘寺尾砦(砦将は医王院/勢算)を攻め、荒川荘上野村の城孫六が ・調月荘の中俊猛が高野山に馳せ参じ戦功があった[12-
(戦国時代)
戦死[13,12-上,34]。
としたけ
下,34]。
・4 月、信長方の侍大将/竹田藤内・大木権大夫ら 1 万 5 千にて那 ・6 月、織田信長軍が高野攻めの途中、本能寺の変で
賀郡麻生津荘の飯盛城を攻めた。城将の僧/弁仙(遊佐河内守の子) 信長が自害し高野攻めが中止となる[12-上,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
・副将の調月荘橋口隼人重藤が防戦、特に辻之坊・三膳坊・大河 ・6 月 2 日、織田信長が中国の毛利氏と対戦中の羽柴
内彦六らが勇戦し、信長方の 4 将が戦死する[13,34]。
秀吉を救援しようとして京都本能寺に宿泊した際、出
陣の命を受けて先発していた明智光秀が反逆して丹波
亀山から引き返し、信長を襲って自害させた[21]。
てんしよう
天 正 13(1585)年 ・3 月 23 日、秀吉の軍勢が根來寺を焼き討ち、2 千七百の寺院、 ・3 月 24 日、秀吉が紀州雑賀を攻撃、4 月 22 日、秀吉
とりで
(正親町天皇)
灰燼となる[60]。根來寺僧の一部が細野荘の山中に逃れて土着、そ が雑賀一揆の太田の 塁 を陥落。4 月、太田城が水攻め
(安土桃山時代)
の地は根來窪となる[8]。
され日前國懸神宮の社殿がすべて破壊される。この時、
・秀吉、根來寺を討つ。根來小密茶逃れて根來窪に土着す[49]。
紀州では多くの寺社が焼失したと伝える(天正の兵火)
・この時、調月 山 人平の薬師堂が兵火で焼かれ[8]、本尊薬師如来
[58]。
やまん ど ひら
にちぜん じ
像に焦げ跡。稲葉山日前寺も兵火に罹り[8]、胎蔵界大日如来座像 ・天正 13 年、3 月より 7 月まで若山大田の陣にて田辺
に焦げ跡あり[現状]。
騒動[万代記,16]。
・3 月、羽柴秀吉の紀州攻めの時、荒川荘の鉄砲修業者/津田自由 ・7 月 2 日付け羽柴秀吉書状、遠藤基信宛て:紀州和
齋は秀吉に本領を没収され、名草郡松嶋村に住む[6-1,34]。
あいこしらえ
哥(歌)山に拙弟/秀長を置き候、居城(岡山城)相 拵 (造
・4 月 10 日、高野山に入道中の木食應其が、金剛峯寺の老僧/南 り)紀泉両国を残らず申し付候 [三好家文書,6,16] 。秀吉が岡
院院主/宥全、及び遍照尊院/快言を伴い、羽柴秀吉を粉河寺の本 山に城を築き弟/秀長に与えたか [16] 。若山/和歌山の初
陣に訪ねて高野攻め中止を交渉する[畠山記,13,34]。
出。・初めは和歌山/若山が併用されたが元禄年中に藩
が若山に統一、明治になって和歌山と改称した[16]。
・羽柴秀長が紀伊国・和泉国主となり、秀長は大和郡
山に居城し桑山重晴を城代に置く[16]。
・桃山町調月の字名[美濃]は美濃守羽柴秀長領から名
付いたか[58]。
も
天 正 15(1587)年 ・3 月 10 日、荒川荘三船神社(祭礼神事)の座席順位で揉め、平野 ・3 月 10 日付け高野山惣分(行人方)沙汰所/木食應其上
てんしよう
ご ようぜい
(後陽成天皇)
氏・奥氏双方から訴えあり、金剛峯寺から豊臣秀吉に伺ったとこ 人掟書:荒川荘の城・平野・奥・荘中年寄宛て:荒川
(安土桃山時代)
ろ「左様な者は焼討ちせよ」と仰せられた。秀吉を恐れた下司平 荘は古くから六方給人(高野山十輪院・高野山修禅院・
にえかわともつぐ
野氏と公文奥氏は雲隠れした。検使贄川与次が平野・奥両家を焼 安楽川荘の城氏・平野氏・奥氏・野田原村の岡氏)の所
き払って帰る。荒川荘の年寄らの取りなしにより、平野氏・奥氏 にして、給人が座席のときは城彦六左衛門、平野氏へ
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桃山町の歴史と桃の年表
が帰還する。赦免により両氏の諸夫役・山林免許は城氏と同じと 遣わしている証文の通り城氏を上一座としているが、
する[津田家文書,勧学院文書,37-7,34]。
平野弾正左衛門への遣わし状には平野氏を隠居分とな
し、城氏が立つように与え置いているから、城氏と平
野氏は年次により上一座の着座とすること。組給人、
末家の分は同じく下座に着座すること。年寄衆の内で
は番頭・諸士・沙汰人は神社役を勤めるため、年寄が
着座の時は上に着座すること。この条々は古来の通り
荘中で座席を守る爲、改めて掟書を与えるものである[神
田津田家文書,37-7,34]。
てんしよう
おう ご
天 正 17(1589)年 ・2 月 26 日、安楽川荘の井路(用水路)を應其上人(高野山行人方僧) ・安楽川の井路(用水路)は石榴川を水源とし水不足で
かくえい
い ぜき
(後陽成天皇)
が弟子僧覺榮を奉行に初めて造営する[34,37]。
苦労したが紀ノ川から水を引く井堰と水路を整備。百
(安土桃山時代)
・新田村の東 8 町(約 870 ㍍)余に湯入(圦)という出村あり。湯入は 合の新田井。
ゆ いり いり
せき
ゆ いり
紀ノ川の水を高野領荒川に引く堰の入口を以て名付く[6]。湯入が
ゆ
り
後世に百合となる。百合の地名由来。
天正 18(1590)年
・1 月付け豊臣秀吉許可状、荒川荘神田村津田氏宛て:天文 13 年、 ・9 月 21 日、荒川荘神田村三船神社が木食應其上人に
種子島時尭から傳来した日本元祖の津田流(鉄砲火薬製法)を一子 より造り替えられる[同社棟札銘,三船神社文書,県史中世-1,34]。
相伝し、天下無比の密法は当津田家の外は許さない[津田家文書,37-7,34]。 ・9 月 28 日、木食應其上人、高野山に興山寺を建立す
・4 月 12 日付け木食應其上人書状、調月荘/東貴志荘宛て:調月/ る[土屋家文書,37-6,13,34]。
ぢ
げ
東貴志荘での逃亡人の田畠は 1 カ所でも荒らせば、すべて地下(百 ・木食應其上人の命により、弟子僧/覺榮が荒川荘上野
まがごと
姓)の曲事(不正)となるから、一時も急いで田植えの用意すること[金 村に興山寺を建てる[同寺御影堂安置の木食應其木造座像銘,47,34]。
剛三昧院文書,37-2,34]。
てんしよう
おう ご じようにん
かくえい
天 正 19(1591)年 ・高野山の僧応其 上 人(俗姓/佐々木順良 21))は弟子僧覺榮を奉行と
(後陽成天皇)
して上野村に興山寺を造営、神田三船神社を移転改築、安楽川井
(安土桃山時代)
路・井関の修築に尽力[20,34]。上野村興山寺の寺名は応其の興山上
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桃山町の歴史と桃の年表
人号による[16]。
・10 月 21 日付け豊臣秀吉高野山寺領朱印目録(抄):野田原村 175
石、細野荘 405 石。那賀伊都両郡で 1 万石[高野山蓮上院文書,高野山興山寺
文書,37-3,4,34]。
天正 20(1592)年
・興山上人應其書状:高野山寺領村々荘官宛て:名護屋(秀吉の朝 ・紀州に大旱害あり[60]。
(安土桃山時代)
鮮出兵基地(九州)への人足として 1,000 石に付き 2 人ずつ、大いに ・閏 9 月 9 日付け高野山興山寺・穀屋連判書状、安楽
達者な百姓、確かに若い百姓を選んで 31 日に必ず出向くよう仰せ 川荘宛:京夫(京都天台宗方広寺造営人夫)15 人は明日
付けられたい。飯米などは当方から用意する。この人足は急度仰 伊都郡天野村(丹生神社)へ参集すること。小槌を持っ
せ付けること[11-3,34]。
て大仏殿(方広寺)の造営に行くこと。油断してはなら
・3 月 26 日付け興山寺書状、荒川荘宛て:高野山剃髪寺(秀吉の ぬ。追申:油断無く明日天野社へ参集すること。また、
母親を追善する寺)造営の材木を四郷(細野荘)へ出すため人足 70 人 竹を 1 人につき1つ、飯米は自弁にて参集のこと[三船神
を出すこと[三船神社文書,37-7,県史中世-1,34]。
社文書,11-7,県史中世 1,34]。
・7 月 9 日付け高野山興山寺・穀屋連判書状、安楽川荘庄屋衆中 ・9 月 19 日付け高野山剃髪寺造営米請取状:上様(秀
宛て:高野山剃髪寺造営人足の飯米として荒川荘の平野殿・奥弥 吉)の命令により高野山剃髪寺御造営米として御渡し下
兵衛・城孫衛門・津田孫八殿は、それぞれ 3 石 5 斗ずつ在庫米を された 1 万石のうち、上人(應其)御内の三宝院(学侶方)
高野山へ明日 10 日に油断なく運上されたい[三船神社文書,37-7,県史中世 へ渡申した替わり請取りの事。合わせて 904 石 3 斗 3
-1,34]。
升 6 合である。小新内・田勝介(黒印)。荒川荘城孫右
・8 月 4 日付け豊臣秀吉高野山寺領朱印状(抄):都合 2 万 1 千石、 衛門殿・奥弥兵衛殿へ参る[奥家文書,県史中世 1,34]。
うち那賀郡善田村 135 石・勝神村 58 石・調月荘千 237 石・荒川荘 ・10 月 9 日付け高野山興山寺・穀屋連判書状、安楽川
2 千 542 石・遠方村 142 石・杉原村 330 石・荒見村 450 石[11-3,5,34]。 荘中宛て:当年中に下命した京夫(京都方広寺造営人
・8 月 6 日付け高野山興山寺内/理徳院(覺榮)・穀屋内/泉徳院連判 足)・伊賀夫(伊賀国行き人足)・谷内(高野山)剃髪寺造
書状、安楽川荘庄屋衆中宛て:特に申し届ける。高野山谷内木引 営人足の書状で下々の分を悉くまとめて来たる 12 日に
こ びき
き(木挽)の飯米と致したいので在庫米の 5 石城孫衛門の倉、5 石奥 来ること。油断あってはならぬ[三船神社文書,11-7,県史中世 1,34]。
弥兵衛の倉、5 石平野殿の倉、5 石津田孫八の倉、合わせて 20 石 ・10 月 27 日付け高野山文殊院(行人方)・五大院/宥信
を 9 日の昼前までに谷内辻村まで届けられたい。普請(剃髪寺の) 連署書状、安楽川荘・東貴志荘・調月荘庄屋衆中宛て
者(大工)の持ち米も残り少ないので 10 日迄にすべて都合 20 石を :那賀郡麻生津荘から運び上げる材木(剃髪寺造営用)
- 49 -
桃山町の歴史と桃の年表
届けられたい[三船神社文書,11-7,県史中世 1,34]。
の人足を 400 人と申し遣わしたのに、80 人だけがやっ
・8 月 6 日付け高野山興山寺・穀屋連判書状、安楽川荘宛:急度 て来た。どうした事か。急度今月中に 400 人を高野辻
申し下す。高野山谷内山の材木出し人足 75 人が 9 日に藁・綱・藤 まで出すこと。なお、この上 1 人も無沙汰となれば高
綱を持って 9 日の朝までに到着するよう油断なく早々に参ること。野山興山寺でも決心する。合点するよう処置する事も
追申:人足(剃髪寺造営人足)は 4 日間高野山に逗留する。75 人の ある。この分別(理解)すること。下々の百姓、その他
うち 1 人も欠けることなく 9 日には早々来ること[三船神社文書,11-7,県史 年寄どもで合点しない者あれば名前を報告されたい。
中世 1,34]。
ただし庄屋衆が無沙汰しているのか。近頃、理由ない
・8 月 25 日付け高野山文殊院(行人方)書状、安楽川荘平野氏・奥 事である[三船神社文書,11-7,県史中世 1,34]。
氏宛て:急度申し入れる。安楽川荘の百姓への負担のものを年寄
・11 月 3 日付け安楽川荘三船神社氏人衆書状、安楽川
衆が勝手な振舞をしている由、百姓から訴えがある。どうしたこ
荘三村百姓衆宛て:便宜上から書状を届ける。ついて
とか。納所の高に応じて負担させ諸事を遂行するよう仰せ付けら は、そちらの百姓衆が、この頃特別に不便(人足負担多
れたい。この度、剃髪寺のかかり詰め人夫として 200 石に 1 人の
く困っている)との由と聞き、そのため氏人衆と相談し
割当てとなっている。以降、同心しなければ興山應其上人へ委し
合って今後、4、5 年ばかり酒など止めるべきである。
く申し上げようか。急度(必ず)返事されたい[三船神社文書,11-7,34]。
そうすれば自然と興山應其上人様、とくに下々の代官
衆などが、この事を御聞きなされて一段と人足役の負
担を減免されるようになるから急度、効果があるだろ
う[三船神社文書,11-7,県史中世 1,34]。
・天正 20 年 12 月 8 日、
「文禄」に改元。
文禄 2(1593)年
・3 月 26 日付け高野山登山衆書状、安楽川荘衆宛て:高野山興山 ・7 月 22 日、高野山剃髪寺が青巖寺と称して落慶する
(安土桃山時代)
寺から剃髪寺棟上げ用の縄 600 把を仰せ付けられた。他郷も同様
[13,34]。
である。当方は怠りなく処置しているが、木食應其上人様が多忙 ・9 月 27 日付け荒川荘免(年貢率)定、荒川荘平野隼人
のため手間がかかっている。安楽川荘小路村から 8 人、神田村か ・城孫右衛門・奥弥兵衛宛て:2630 石 1 斗、うち田方
ら 4 人、上野村から 7 人、市場村・小林村から 6 人が、剃髪寺上 は免 3 割 7 分の徳(得分)、畠方は免 5 割半の徳(得分)と、
棟日の立願・吉日には急いで高野山へ来て欲しい。弘法大師様へ 毛見衆中が定める[奥家文書,37-7,県史中世 1,34]。
の御精進供、高野山丹生明神様への御神楽を急ぎ御果たされたい。
ただし行人方文殊院(覺榮)様の御同意なしに高野山へ登って来る
- 50 -
桃山町の歴史と桃の年表
のは迷惑と申している[三船神社文書,11-7,県史中世 1,34]。
・小路村の初出。
文禄 3(1594)年
・8 月付け安楽川荘年寄衆中・奥出羽守・中勝介・奥孫兵衛証文 ・11 月 15 日付け興山上人應其、高野山寺領損免(年貢
(安土桃山時代)
:安楽川荘津田孫八後室(未亡人)跡式(遺領)を無事に始末する一紙 免除)覚書(抄):那賀郡細野村 7 つ、野田原村 7 つ、善
(証文)の事。一、安楽川荘平野家の下地(田畠)4 分の 1 分は先年、 田村 6 つ 6 分、荒見村 5 つ 4 分、遠方村 6 つ 2 分、勝
あつかい
後室が存命の時、安楽川荘奥出羽守殿・奥孫兵衛殿の御
(扱い) 神村 5 つ 4 分。高野山学侶方・年領房宛て[11-3,34]。
ひ かん
として筋目通り平野殿方へ悉く返す事。一、後室が使っている被官
(召使い)の者どもの事は相違なく平野殿方へ返す事。一、後室家
きん す
にある財物、金子などは相違なく津田孫八方にて所持してよい事。
一、この度、
の筋目をもって津田孫八の妻/お徳方へ譲り渡す田
地 5 カ所、畠 5 カ所の分は、お徳が存命中は所持すべきである。
お徳の死去後は平野殿家へ返すべきである。もし、お徳と津田孫
八が不和の事などがあって離別すれば、この下地(田畠)の事はお
徳が所持して(平野殿方へ)返す事。一、十カ所の田畠の事は別紙
に記し置いている事。以上、後室(未亡人)遺領の事は、平野方と
津田孫八方で互いに申し合わせしているが、この条目は筋目をも
って無事と致している。よって、後々に於いて双方とも違乱あっ
てはならぬ。平野殿へ差し上げる[平野家文書,県史中世 1,34]。
文禄 5(1596)年
・10 月 27 日、
「慶長」に改元[21]。
慶長元(1596)年
・高野山碩学(学者僧)中目安(訴状)返答条々:荒川荘の奥弥兵衛が ・閏 7 月 13 日、山城、摂津、和泉一帯が大地震(慶長
(安土桃山時代)
興山応其上人に反抗し木食應其上人の弟子僧を人質に取る。豊臣 地震)。余震は 1 か月におよび、方広寺の大仏、伏見城
秀吉の命令により奥弥兵衛を成敗しようとしたところ奥弥兵衛が の天守閣など多くの建造物が倒壊[21】。
ちくでん
はりつけ
逐電(雲隠れ)したので徒党 3 人を 磔 にし、田畠・屋敷・家財を ・7 月 12 日、調月村に地震被害[19]。
けつしよ
闕所(没収)とする[勧学院文書,37-1,34]。
・12 月 1 日付け木下定之・松下永晴(秀吉家臣)許可状:荒川荘津
田九大夫宛て:鉄砲薬の調合を許可する[神田津田家文書,37-7,34]。
慶長 2(1597)年
だいすけ
・3 月 2 日付け荒川荘六人衆起請文:神田村大輔・東市場村甚二
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桃山町の歴史と桃の年表
(安土桃山時代)
郎・荒川荘興山寺平野氏・同久左衛門・同孫左衛門・同孫八は如
何なる事も同心して協議する。百姓衆がどんな事申し来ても、六
人衆で協議する。上野村興山寺へは如何なる事にても協力する。
牢人衆(浪人衆)が、若し立ち帰り不合理な事要求しても六人衆が
同心して対応する。庄屋衆に対して訴えても六人衆として対応す
る。この通り誓約する[上野村興山寺文書,県史中世 1,34]。
慶長 3(1598)年
・この年、調月荘の中氏宅が火災、古文書は殆ど焼失する[12-下]。
(安土桃山時代)
・8 月 18 日、朝鮮出兵軍の不振のなか、豊臣秀吉(63
歳)が山城国伏見城にて死去[21,13,34]。
・豊臣秀吉:安土桃山時代の武将。尾張国(愛知県)の
人。幼名日吉丸、初名木下藤吉郎。初め今川氏の臣松
下之綱に仕え、のち織田信長のもとで戦功をたて、重
用されて羽柴と改姓。中国経略の途中、本能寺の変を
聞き、山崎の戦いで明智光秀を討つ。のち小牧・長久
手の戦いを経て徳川家康と和し、四国、九州、後に北
条、奥羽を平定し天下統一を達成。天正 13 年関白、翌
年太政大臣となり、豊臣を賜姓。太閤検地を行い、刀
狩によって兵農分離を図った。またキリスト教の弾圧
など、統一事業を推進。晩年は二度にわたって朝鮮に
出兵(1536 ~ 1598 年)[21]。
はやとのじよう
慶長 4(1599)年
・1 月 21 日、調月荘橋口隼人 進 が先祖の業跡状を稲葉左内へ渡
(安土桃山時代)
す[神田津田家文書,37-7,34]。
・8 月 4 日、荒川荘三船神社の脇宮を造営する[三船神社文書,37-7,34]。
慶長 5(1600)年
・9 月、木食應其が美濃國関ヶ原合戦に石田三成に味方し、西軍 ・3 月 9 日付け増田長盛(秀吉 5 奉行の一人)下知状(抄)
(安土桃山時代)
として出陣したが徳川家康の東軍に大敗して高野山に帰らず近江 :高野山惣中宛て:7,500 石学侶分、5,500 石行人分、
國甲賀郡水口村の飯道寺に隠れる。荒川荘の平野氏・奥氏・城氏、 3000 石青巖寺領、1000 石木食應其上人、2000 石燈明
調月荘の中氏も徳川軍に敗れて帰国する。信濃國上田城主/真田昌 田、2000 石行人入用領、合わせ 2 万 1 千石[高野山興山寺文
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桃山町の歴史と桃の年表
幸と次男/幸村が徳川軍に敗れ、伊都郡九度山村に隠れる[11-3,平野家
書,37-4,34]。
文書,奥家文書,6-2,12-上,34]。
・応其は上野村の興山寺を隠棲の地とするつもりだっ
・11 月 16 日付け高野山学侶集議評定事書(抄):支配(年貢取立率) たが、関ヶ原の合戦で石田三成軍に荷担した疑いで家
は 6 割 5 分とし、米 7・大豆 3 の割合とする。荒川荘野田原村の 康の追究をうけた後、慶長 5 年 9 月 15 日、故郷の近江
土免(年貢率)は去年、及び去去年の年貢率を用いてはならぬ。当 国北杣村の飯道寺に隠棲[44]。
年の毛見(作柄検査)は 11 月 16 日迄に多分(学侶)から検使を出向し ・慶長 5 年 10 月 16 日、浅野幸長紀伊守様、37 万 4 千
て見積もること[勧学院文書,37-7,34]。
六百石と成りて、慶長 6 年 3 月 24 日、若山の城え初め
・11 月付け高野山学侶方領免相(年貢率)目録(抄):荒川荘野田原 て引移り、その後検地奉行/石黒半兵衛を以て国中改め
村;田方 7 割 6 分、畠方 6 割 3 分、惣高 175 石 1 斗 8 升 2 合。善 候由、夫れよりして 19 年後、元和 5(1619)年 8 月、南
田村;田方 7 割 5 分、畠方 6 割 2 分、惣高 101 石 3 斗 3 升。細野 龍院様(徳川頼宣)、駿河より御入国なされ云々[藤田昌吾家
村;田方 7 割 3 分、畠方 6 割、惣高 412 石 1 斗 3 升。遠方村;田
文書,60]。
方 7 割 4 分、畠方 6 割 1 分、惣高 142 石 2 斗 4 升。勝神村;田方 7 ・慶長 5 年、浅野幸長、紀州の領主になるに及び、(調
割 1 分、畠方 5 割 7 分、惣高 41 石 7 斗 6 升。黒川村;田方(欠字) 月)藪内氏の当主/藪内市郎左衛門光信は、紀州領土よ
畠方(欠字)、惣高 130 石 2 斗 1 升 8 合。安良見村;田方 7 割 3 分、 り高野山領内に安住の地を求め、木本八幡宮三石氏の
畠方 6 割、惣高 459 石 1 斗 1 升 8 合。杉原村;田方 7 割 2 分、畠 援助により、郎党六人とともに調月大歳神社の神領に
方 5 割 9 分、惣高 331 石 8 斗 7 升 4 合。年領/東南院/快算(花押)。 居を定めた[調月津田家由緒書]。
慶長 4 年の免相と比べ田方は分の高率にして、畠方が 5 分の低率
と定めている[勧学院文書,37-1,34]。
慶長 6(1601)年
5 月 27 日付け興山応其上人書状、調月荘中勝助宛:其の方の事を ・浅野幸長、和歌山藩主となり、紀伊全体の検地を実
(安土桃山時代)
聞きたいと思い使者を送った。菊千代(孫)が手習いも精入れ安心 施[60]。
だろう。この 6、7 日は当方も気分が良い。委しくは使者の喜四郎 ・5 月 21 日付け徳川家康朱印状:高野山寺領 2 万 1 千
から申す[高野山校倉文書,37-2,34]。
石を寄付する。青巖寺は学侶に、興山寺は文殊院(行人
方)に所属させる。7500 石は衆徒中(学侶)、2000 石は青
巖寺(学侶方)とする。奥之院 2000 石、修理料 1000 石、
興山寺領 1000 石は行人方の知行とし、7500 石を行人
方領とする[高野山安養院文書,37-4,6-5,12-下,伊都郡誌,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
けいちよう
かくえい
はんどう じ
慶 長 7(1602)年
・3 月、高野山遍照院の覺榮が飯道寺に隠棲の応其上人に報告し ・4 月 18 日付け木食應其書状、調月荘於駒宛て:度々
(後陽成天皇)
た造営費見積:荒川荘川堤千 5 百石、三船神社修築 4 百 53 石、云 書状をもらったが、変わった事ないため返事しなかっ
(安土桃山時代)
々[11-3,34]。
た。菊千代は必ず立派になるから、その心得すること。
・4 月 10 日付け木食應其上人書状、調月荘於駒宛て:紙袋三つ届 私は思いの外疲労している。この様子ではやがてこの
はるばる
いた。遙々見舞いかたじけない。菊千代のこと、どうかして当方 世を去る状態である。色々菊千代が我への心遣いは不
が安心できるようにされたい。当方へのしつけは不要である。き 要である。今この書状も書きがたいのでただ一筆にと
っと分別するようになるだろう。万事難しい事は嫌である[高野山校 どめた。追伸:意外に疲労しているので筆をおく[高野山
けいちよう
倉文書,37-2,34]。
校倉文書,37-2,34]。
慶 長 8(1603)年
・4 月 16 日、荒川荘の津田左京公が願主として神田三船神社の社 ・2 月 12 日、徳川家康が征夷大将軍に任じ江戸幕府を
(江戸時代)
殿屋根の上葺きを修復[三船神社棟札銘,県史中世 1,34]。津田左京は荒河刀弁 開く[21,44]。江戸時代となる[21]。
と べ
こういん
の後 胤 /荒川兵衛尉俊尊 14 代平野弾正左衛門俊光の弟 [平 野家文 書 ・3 月 27 日付け江戸幕府布告:百姓を無闇に殺しては
から
,37-3,23]。
ならぬ。たとえ罪科あっても百姓を搦め捕らえ、奉行
所にて判決の上で罪を申しつける事[幕府法令上,近世法制度史
慶長 9(1604)年
よし なが
,34]。
・荒川荘神田村の津田刑部(左京)に紀伊国主/浅野幸長から知行
400 石を与えられる[津田家文書,6-3,34]。
・12 月 16 日、調月荘に地震被害あり[19]。
慶長 10(1605)年
・7 月付け高野山衆徒(学侶)中/寺領目録(抄):安良見村:高 460 石、 ・8 月付け荒川荘三船神社修復料覚書:本願は高野山
物成(年貢)216 石 4 斗 8 升、うち大豆 50 石 8 升。杉原村:高 330 石、 遍昭院/覺榮。下司(平野氏)・公文(奥氏):米 1 石ずつ。
物成 144 石 6 斗、うち大豆 64 石 6 斗。勝神村:高 41 石 7 斗 6 升、 本座衆:米 2 斗ずつ。新座衆:米 1 斗 5 升ずつ。他所か
物成 15 石 3 斗 1 升 5 合、
うち大豆 9 石 5 斗 5 升 5 合。
遠方村:高 142 ら来た衆:銭 100 文ずつ。人別:米 2 升ずつ出す[最上興山寺
石、
物成 63 石 6 斗 6 升 8 合、
うち大豆 29 石 7 斗 8 升。
細野村:高 405 文書,県史中世 1,奥家文書,37-7,34]。
石、物成 193 石 1 斗、うち大豆 61 石 6 斗 3 升。善田村:高 123 石 8
斗 8 升、物成 63 石 7 斗 5 升、うち大豆 24 石。野田原村:高 175 石、
物成 147 石 7 斗 1 升 8 合。長谷村・猿川村・真国村を合わせて那
賀郡の物成 9 千 500 石[11-6,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
おう ご じようにん
はんどう じ
慶長 13(1608)年
・11 月 25 日付け高野山学侶方年領下知状、高野山学侶支配寺領 ・10 月 1 日、応其 上 人、飯道寺(甲賀市水口町)にて死
(江戸時代)
中宛て:当年の駿河夫(家康の居城/駿河城造営人足)は、那賀郡荒 去[11-2,13,37-7,34]。
・高野山に興山寺を創建、秀吉の高野攻
見村・杉原村、真国荘、伊都郡花園荘の四カ所から一人ずつ、合 めを和議で救った名僧[21]。
わせ 4 人を出すから、去年のように 7000 石寺領へ勘定(割当て)す
ること[11-5,34]。
・12 月 3 日付け高野山学侶方領駿河夫銭算用触状(抄)、荒川荘荒
見村・杉原村・遠方村・勝神村・善田村・野田原村・細野村、な
ど 23 か村宛て:駿河夫(代)銭の上納を命じる[11-5,34]。
慶長 15(1610)年
・慶長十五(1610)年、(奥)出羽守并嫡子/杢之助、大坂の陣出馬、
奥杢之助ハ元和元(1615)年大坂落城之節、討死ス[11-3]。
慶長 17(1612)年
・8 月 6 日付け徳川秀忠触達:バテレン(キリスト教)門
徒は禁制とする。煙草吸うこと禁断とする。牛を殺す
こと制禁とする[幕府法令-上,34]。
慶長 18(1613)年
・6 月付け紀州検地高目録(抄):高野山寺領 2 万 1 千石を除く紀州 ・6 月付け紀州検地帳(抄):高野山寺領を除く那賀郡の
検地惣高 37 万 6 千 5 百 62 石 5 斗 8 升 6 合、惣村数 1075 村。うち、 村数 158 箇村、検地惣高 6 万 9 千 5 百 4 石 7 斗 9 升 5
高野山寺領を除く那賀郡内村数 158 村、惣検地高 6 万 9 千 5 百 47 合。段村の検地高 152 石 4 升 6 合[有田郡広川町柳瀬・石川家文
石 7 斗 9 升 5 合、小物成(年貢)計 91 石 2 斗 2 合。下田中荘段村の
書,県史近世 1,34] 。[この年には那賀郡荒見村・杉原村・勝
検地高 152 石 4 升 6 合、上田中荘高野村検地高 162 石 9 斗 9 升 5 神村は高野山寺領荒川荘に属していたことを示す[34]。
合、小物成 5 斗 1 升 5 合。上田中荘勝神村検地高 98 石 6 斗 8 升 8
合、小物成 3 升 9 合[海南市重根間藤家文書,県史近世 3,34]。
慶長 19(1614)年
めんそう
7 月付け京都方広寺大仏殿供養人足注文:荒川荘神田村 10 人、杉 ・10 月付け高野山学侶方寺領免相(年貢率)目録(抄):
原村 22 人、遠方村 10 人、野田原村 10 人、黒川村 10 人、調月荘 19 荒(休耕)、川成(洪水で川原になった荒地)を除く荒川荘
人、荒見村 32 人、ほか合わせ人足 400 人出すこと[11-3,勧学院文書
善田村 8 割 9 分。遠方村 8 割 8 分・畠 6 割 7 分。阿良
,37-1,34]。
見村 8 割 8 分・畠 6 割 1 分。杉原村 8 割 7 分・畠 6 割 7
・10 月 25 日、調月荘に地震被害[19]。
分。細野村 8 割 8 分・畠 7 割。野田原村 9 割・畠 7 割 2
・大阪冬の陣起こり、根來寺衆徒の一団、大阪の陣に加勢する[60]。 分。勝神村 8 割 5 分・畠 5 割 9 分[勧学院文書,37-1,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
・11 月、家康が全国の大名を召集し大坂城を攻囲(大
坂冬の陣)。翌月、外堀を埋める条件で和議を結んだが、
約束に反して内堀までも埋め立てた[21]。
慶長 20(1615)年
・2 月 16 日付け高野山碩学領荒川荘百姓八名起請文:高野山碩学 ・4 月 6 日、家康が諸大名に大坂攻めを命じ、26 日、
への年貢を請け合い申す事。昨年分の上納米 100 石は今日から以 豊臣方の軍勢が郡山城を包囲し落城させる[44]。
降に 20 石を完納する。この米を以て慶長 18 年分の未進に差し引 ・荒川荘から出陣した奥杢之助が家康軍に敗れ戦死、
き、昨年分の未進が残れば当年秋に 3 割の利子を加え上納する。 豊臣方の武将/木村重成と真田幸村が戦死、杉原村の山
大豆は麦秋の 5 月中に皆納する。高野山碩学領へ小作の催促あれ 本角左衛門、荒川荘の奥弥兵衛・平野八郎右衛門将・
ば請ける。逃亡人の上納は庄屋から皆納する[勧学院文書,37-1,34]。
城孫右衛門、調月荘の中勝助、荒見村の喜多忠政らは
退散する。5 月、大阪城の豊臣秀頼(23 歳)、母/淀君は
・2 月 16 日付け荒川荘上野村与太(俗別当/岡氏)等 6 人起請文:青 城内で自害し豊臣氏滅亡[13,37-6,7,平野家・奥家文書,6-1,2,34]。
巖寺(高野山学侶方支配寺)への御年貢米を請合い申す事(後略)。[勧 ・5 月 7 日、大坂夏の陣最後の決戦が大坂城の南方茶
学院文書,37-1,34]。
臼山・岡山付近で行われ豊臣方の主要戦力が壊滅する。
・5 月 8 日、豊臣秀頼(23 歳)と母淀殿(49 歳)が自害し
豊臣氏は滅亡[44]
・(奥)出羽守、并嫡子/奥杢之助、大坂陣出馬、杢之助
ハ元和元(1615)年大坂落城之節、討死ス[奥家文書,11-3]。
・7 月 13 日、
「元和」に改元。
元和元(1615)年
・7 月 17 日、家康が禁中並に公家諸法度を布告する[44]。
元和 2(1616)年
・10 月、高野山学侶方領細野荘から伊都郡天野村丹生神社へ蜜柑、 ・1 月 22 日、徳川家康が発病。茶屋四郎次郎がすすめ
(江戸時代)
芋、栗、柿を納める[勧学院文書,37-1,34]。
たゴマ油で揚げた鯛とされるが胃癌の可能性高い[44]。
・10 月 3 日付幕府触達:煙草を作った百姓は 30 日の
入牢とし煙草を売った者も同罪とする。煙草を作った
所の代官は銭 5 貫文の過料とする[幕府法令-上,34]。
・4 月 17 日、徳川家康、駿府城で没。75 歳。5 月に神
号を「大権言」と決定[44]。
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桃山町の歴史と桃の年表
・5 月 8 日、幕府が下田港の守護と諸船出入りの監督
のため下田奉行を置く。幕府が明船以外の外国商船の
寄港地を長崎と平戸に限定する。キリスト教の渡来を
禁じる[44]。
元和 5(1619)年
・調月荘の岡孫太郎(中氏の別家)が地士を銘じられる[6-1,34]。
ながあきら
・紀伊国主/浅野長 晟 が安藝/備後国(42 万 6 千石余)へ
・荒川荘の津田九大夫元重(平野孫八の子)が切米 50 石を賜る。平 移封となり、徳川頼宣(家康の 10 子:18 歳=駿河/遠江
野久太郎が切米 50 石を与えられる[平野家文書,37-7,34]。
國 50 万石)が紀伊国(37 万石余)と伊勢国(17 万石余)を
・細野村に大飢饉、字中畑に於いて餓死数男女実に二十五名に及 加えた 55 万 5 千石の初代紀州藩主となる。安藤帯刀直
ぶ。中畑阿弥陀寺境内に供養碑あり。碑の銘に、
「元和五年己十一 次・水野淡路守重仲が補佐役を勤める[12-上,34]。
かどわ
月 南無阿弥陀仏 不食人数男女二十五名」[49]とあり、現在は阿弥 ・12 月 22 日付け幕府触達:人を 拐 かし売った者は死
陀寺が廃寺となり道路沿いに移されている。
罪とする。人を買い取り、さらに売った者は 100 日の
入牢、及び過銭とする。人売り買い宿を久しく致して
いる者は死罪とする。人の売買仲介は死罪とする。長
年の年季奉公を禁止する[幕府法令-上,34]。
元和 6(1620)年
・2 月 5 日、荒川荘野田原村の百姓が雨山を論争し、藩領丸栖村 ・11 月 27 日付け高野山学侶方中老僧申状:京枡(標準
の百姓と共に和歌山役所へ訴える。このため 8 月 21 日、高野山碩 桝)が不統一である。一定とすべきである[勧学院文書
学衆が書き付けを以て道理を上申。訴えた百姓らは平伏して去る
,37-1,34]。
[13,勧学院文書,37-1,34]。
元和 7(1621)年
・11 月 14 日付け高野山青巖寺(学侶方)法印/快盛等九寺僧寄進状、
高野山南院(学侶方)左学頭/全秀宛て:那賀郡安楽川荘内の脇谷村
を南院本尊の仏供燈明料に永代寄進する。依って田畠を開発次第
に年貢を収納されたい[11-5,勧学院文書,37-1,34]。
元和 10(1624)年
かんえい
とくがわよりのぶ
あんどうちゆう
・2 月 30 日、
「寛永」に改元。
寛永元(1624)年
・南龍公(初代紀州藩主徳川頼信)、段村に至り妙法壇にて安藤 忠 ・一説に寛永 2 年から新田を開墾[47]とする。
(後 水 尾天皇)
兵衛に「この地新田となすべき地なり、開墾すべし」と命じ、寛 ・寛永 3(1626)年、紀州藩主/徳川頼宣が安藤忠兵衛に
(江戸時代)
永元年から初めて開墾し新田となる。段村・新田村、古は紀ノ川 命じ、田中組南の壇村を開墾させる[6-1,34]。
ご みずの お
べ
え
かんえい
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桃山町の歴史と桃の年表
の中なり[6]。
・紀伊藩初代藩主/徳川頼宣の重臣:安藤帯刀直次・水
・高野山学侶方衆評/寺領免相(年貢率)目録(抄):荒川荘善田村: 野淡路守重央・三浦長門守爲春・久野丹波守宗俊・水
田方 8 割 5 分、勝神村:田方 8 割 3 分、勝屋村:田方 8 割 5 分、 野太郞作・安藤忠兵衛・渥美源五郎等、百 30 人[60]。
円明寺村:田方 8 割 7 分、細野村:田方 8 割 7 分、野田原村:田
方 8 割 8 分、遠方村:田方 8 割 9 分、杉原村:田方 8 割 9 分、安
かんえい
良見村:田方 8 割 9 分[勧学院文書,37-1,34]。
かんえい
寛永 2(1625)年
・安楽川の桃栽培の始まりは寛永 2 年頃と聞いた[昭和 46 年頃、段新田 ・この頃の新田村に桃を栽培した記録は無いが開墾し
(江戸時代)
宮村信太郎氏談,14]。
ながら一部に桃を植えたか。
・高野山寺領荒川荘の五十地士:津田半右衛門・平野四郎兵衛・
平野段右衛門・奥松之助・津田九大夫・城四郎兵衛・奥孫四郎・
かんえい
城万五郎・坂中勝之丞・津田作之丞・山本角左衛門(杉原村)[6-1,34]。
ばく ち
寛永 3(1626)年
・新田村に薬師寺を開基す[8]。
・6 月 12 日付け荒川荘中法度条々:博奕宿あれば、荘
(江戸時代)
・8 月、安楽川荘中宛行状、安楽川荘小林/奥殿:慶長(1615)年中、 官に伺い打ち殺す。博奕の報告者には褒美として銀 100
奥源太郎(重俊)殿が(大坂夏の陣から)御帰国の節、木食應其上人様 目を与える。与太職(三船神社俗別当/岡氏)・宮(三船神
の御直筆書、及び覺榮様(応其上人の弟子僧)の御添え状が安楽川 社神主/有井氏)ら、21 人署名[岡家文書,37-7,34]。
荘中に在った。この度、高野山学侶方御年領様から仰せ渡しがあ
り、1 通を安楽川荘に保存して置き、覺榮様の御添え状を奥家へ
届けることになった。奥家は先規の通り山林・竹林・諸役は御免
除に て神 社( 三船) の事 は往 古の通 り諸 事を守 られ たい [ 奥 家 文 書
,37-7,34]。
寛永 4(1627)年
(江戸時代)
・10 月 4 日、調月荘に地震被害[19]。
寛永 10(1633)年
・7 月 18 日付け幕府蝕達(抄):人の売買は一切禁止す
(江戸時代)
る。男女を抱え置く年紀奉公は 10 ヶ年までとすること
[幕府法令上,34]。
寛永 17(1640)年
・11 月 21 日付け高野山興山寺免状:調月荘野口九兵衛宛て:高 ・野口九兵衛は調月大歳神社の神主。
- 58 -
桃山町の歴史と桃の年表
(江戸時代)
30 石を与え諸役を免除する。惣分(行人)への奉公に益々油断なけ
れば相違ないものである。知事[野口家文書,37-7,34]。
寛永 18(1641)年
・2 月、藩主徳川頼宣、百姓らに申し聞かす条々(抄):
(江戸時代)
切支丹(キリスト教)禁制を通達する[南紀徳川史 10,34]。
寛永 20(1643)年
・3 月 11 日付け幕府蝕達(抄):酒を一切造ってはなら
(江戸時代)
ぬ。煙草を一切作ってはならぬ。田畑は永代売買して
はならぬ[幕府法令上,34]。
・8 月 26 日付け幕府蝕達(抄):田に木綿を作ってはな
らぬ。畑に油用として菜種を作ってはならぬ [幕府法令上
,34]。
寛永 21(1644)年
・10 月付け高野山学侶方衆評/寺領免相(年貢率)目録(抄):那賀郡 ・12 月 16 日、
「正保」に改元。
(江戸時代)
内の田方。荒川荘善田村 8 割 4 分、勝神村 7 割、勝屋村(勝谷村)7
割 7 分、円明寺村 7 割 2 分、細野村 7 割 3 分、野田原村 8 割 9 分、
遠方村 8 割 6 分、杉原村 8 割 4 分、荒見村 8 割 3 分[勧学院文書,37-1,34]。
正保 3(1646)年
・高野山上の寺院数:学侶方 210、行人方 1,440、聖方
(江戸時代)
120、小坊 146、客坊 42、谷の坊 53、計 2,011[伊都郡誌,34]。
けいあん
慶安 2(1649)年
・徳川家光が細野荘を高野山衆徒総中院の供料地とする[8,49]。
(江戸時代)
・2 月 26 日付け幕府蝕書(将軍徳川家光):酒・茶を買
い呑みしてはならぬ。大便所を広く造っておくこと。
米を多く喰い潰さぬこと。夫を軽視し大茶を呑み、物
詣り遊山好きの女房は離別すること。煙草を呑んでは
ならぬ。年貢さえ済ませば百姓ほど心やすい者はない[幕
府法令上,34]。
・9 月 21 日、徳川家光朱印状:高野山学侶領 9 千 5 百
石、行人領 1 万 1 千 6 百石、聖領 2 百石[高野山安養院文書
,37-4,6-5,34]。
慶安 3(1650)年
・各村では伊勢講を組織して旅費を積み立て、
「お陰詣り」は昭和 ・この頃から伊勢神宮に「お陰詣り」と云って集団大
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桃山町の歴史と桃の年表
初期まで続き、稲刈り前に「お伊勢さんに参れば米半俵増える」 挙して伊勢参りの風習が始まり、宝永 2(1705)年、享保 3
として、籤に当たった者が忙しい農繁期を控えた 10 月の稲刈り前 (1718)年には夥しい人々が参詣、天保元(1830)年には頂
に参った[58]。
点に達する。人々は伊勢に参宮すると特別な御利益が
あると、誰ともなしに言いふらす者がいて流行となる
めいれき
明暦 2(1656)年
[60]。
・杉原村の蜜柑価格:上々蜜柑で大豆 3 升 4 才余、1 匁 1 分[杉原山
本家文書,34]。
万治 3(1660)年
寛文元(1661)年
ゆ がかり
・徳川頼宣(紀州藩主)、岩出御殿山口に別館建てる[60]。
・12 月 26 日付け高野山青巖寺法印ら 8 寺僧による安楽川荘湯 懸
(用水路利用)法度書:三船神社相伝所有の田地へ水を引く時も 60
余の田地所有寺僧の田地同様に等分に水を入れる事。夕立水は三
船神社田地を除き他の地主田へ水を入れる事。在り来たり(今まで)
の通り三船神社の田地へは水引き人足を負担させてはならぬ。(中
略)この用水について今後、喧嘩、口論すれば両者とも罪科の軽重 ・寛文 4(1664)年、僧/宥賢、(細野村)峯に地蔵寺を建立
に従い処罰申し付ける[津田家文書,37-7,34]。
寛文 5(1665)年
[49]。
・11 月 9 日付け江戸寺社奉行裁許状:安楽川荘内脇谷村の事につ
き、行人方修理領の百姓が狼藉致すにより、学侶方南院から訴え
あった。よって百姓を呼び寄せ糾明した結果、行人方修理領の百
姓の不正は明らかである。そこで百姓 2 人を入牢処分とした。先 ・寛文 7(1667)年、2 代紀州藩主/徳川光貞が就任[34]。
規の通り脇谷村は学侶方南院が支配してよい[11-5,34]。
寛文 10(1670)年
じようこういん
・6 月 6 日付け高野山行人方/ 定 光院/賢応定書:急度(確かに)申し
じようこういん
せきがく
遣わす。 定 光院が拝領している碩学領(学侶方)100 石の庄屋は、
今まで万五郎に申し付けているが不届きの事が数々あるに付き、
今後は定光院支配下領 100 石の庄屋/多左衛門に申し付ける。異議
あれば家屋敷・田畠すべて返上して高野山寺領外へ行くこと。後
悔しないよう一族とも相談すること。定光院が拝領し支配してい
- 60 -
・寛文 8(1668)年、根來窪村に新田開発[49]。
桃山町の歴史と桃の年表
る田地を持たない百姓どもに夫役を負担させている由である。た
とえ安楽川衆中一同の古法であるとしても、今後は田地の高に応
じて奉公致すべきものである。もし異議に及んで訴える百姓あれ
ば定光院賢応一人だけとなっても江戸奉行へ伺い、その判決を得
たいと考えている。ただし、今まで定光院の支配下になってきて
いる百姓どもは、一人も他方へ逃亡させない[岡秀行家文書,37-7,34]。
寛文 11(1671)年
・12 月 13 日付け高野山行人方定光院納所定書、安楽川荘上野村
庄屋/多左衛門宛て:定め、石高にかかる人足負担については春・
冬二回の費用を借りて(高野山へ)やって来た時に、逗留の間に雨、
雪が降って人足働きが致し難い場合には宿に居らせる。その時は
飯米として八木(米)5 合ずつ渡すこととする。荷物を持たせて高野
山定光院へ来させた費用賃は、互いに協議して定めて渡す。高野
山から下向の時に荷物のない時は 1 升ずつの費用を与える。高野
山から和歌山城へ定光院から所用を申し付けられて出向く時は、
寛文 12 年からは荷物のある節は米 5 合、もし荷物のない節は米 4
合ずつの飯米を定光院から年末に支払いする。面々が使った費用
賃は互いに協議して定めることとする[岡秀行家文書,37-7,34]。
寛文 13(1673)年
・9 月 21 日「延宝」に改元[21]。
延宝元(1673)年
・6 月付け将軍/徳川家綱分地制限令:庄屋は 20 石以
えんぽう
下、百姓は 10 石以下の田地を分割してはならぬ[幕府法令
えんぽう
上,34]。
延宝 5(1677)年
・高野山領学ら美福門院五百回忌を行い荒川の御墓に五輪塔を建
(江戸時代)
つ[8]。・延宝年間、高野山より五輪塔を建立し奉り石灯篭を奉納す
えいりやく
[同墓銘]。
・門院崩後の永
暦 (1160 年)より紀藩二代光貞に至るまでの
五百年間、大乱相次ぎ尊陵空しく草叢に覆われて、往時しばしば
えんぽう
無心の田夫をして徒らに尊厳を冒さしむるに至れり。延宝(1135
- 61 -
桃山町の歴史と桃の年表
年)となりて、高野山碩学等之を憂へて此処に石を畳み五輪塔を建
えんぽう
て墓標とせり[13]。
延宝 8(1680)年
・6 月 25 日、紀ノ川洪水で高野山寺領荒川荘に水害、荒見村・杉 ・8 月 6 日、江戸、東海、西海の諸国に大風雨が襲う[44]。
(霊元天皇)
原村等、荒川荘各所の川堤が大破。
れいげん
(江戸時代)
延宝 9(1681)年
・3 月、4 月、荒見村・杉原村の川堤を補修する。紀州藩普請奉行/
(江戸時代)
池田喜右衛門と高野山寺領修理奉行/法泉院/懐英が協議し、人足
かいえい
を均等にかり出し川堤を修理[13,34]。
・9 月付け潅漑用水池補修入用米請求状(高野山行人方/宝積院)、
高野山検校宛て:米 8 石 2 斗 3 升 1 合 2 夕 2 才、大池堤の普請に
入用。うち 1 石 7 斗 2 升 5 合 1 夕は調月荘惣分(行人)支配下。3 斗 9
升 9 夕は調月荘城組修理領(行人方)支配下。3 石 5 斗 1 升 2 合 1 夕
5 才は安楽川組小路村修理領(行人方)支配下。これは年々学侶方・
行人方知行所の田畑に掛かる用水普請入用米である。惣入用は割
符した上、行人方から出すべき分である。この通り手渡しになる
よう郡奉行/淡輪新兵衛殿まで御報告なされたい[11-5,34]。
てん な
延宝 9(1681)年 9 月 29 日、
「天和」に改元[21]。
天和元(1681)年
・10 月付け高野山(学侶方)門首/碩学法度条々(抄)、荒川荘宛て: ・奥源太郎重俊は在所に居り、舎弟/杢之助は秀吉公の
(江戸時代)
博奕・遊興宿・遊女宿を禁止する[桃山町岡秀行家文書,37-7,34]。
ばく ち
女中、大野主馬に仰せ付けられ杢之助の妻女に下され、
その他厚恩罷り在り。元和元(1615)年五月(大坂夏の陣)
に討ち死に仕り候[奥家文書,11-3]。
じようきよう
貞 享 3(1686)年
(江戸時代)
・3 月、検地(田畠調査)条目:間竿は長さ 1 丈 2 尺 2 分
にて検地すること。1 反は 300 坪とする。田畑は上々
・上・中・下・下々の 5 等級と決める[幕府法令上,34]。
貞享 5(1688)年
・9 月 30 日、
「元禄」に改元。
元禄 2(1689)年
・3 代紀州藩主/徳川綱教が就任[34]。
元禄 5(1692)年
つなのり
・6 月付け高野山浄菩提院代(学侶方)・瑞泉院代(学侶方)覚書:和 ・7 月 14 日、荒川荘市場村の治右衛門が大和國五条村
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桃山町の歴史と桃の年表
(江戸時代)
歌山城の彦坂儀左衛門殿から 5 月 21 日に請け取る。調月村惣分(行 の商客を殺害し処断される[13,34]。
人)支配領 10 人、大用水池堤補修へ出し人足。経費 1 石 1 斗 5 升 5 ・7 月 25 日、高野山に於ける学侶と行人の対立騒動に
合 6 夕 7 才、うち 1 斗を出し人足に引く。合わせ 1 石 5 升 5 合 6
つき、江戸寺社奉行が伊都郡橋本に来たり、命令に従
夕 7 才が不足。
うち 5 斗 2 升 7 合 3 才は荒川荘賀和村へ負担させ、
5 わない行人衆 627 人を九州に流罪とする。依って高野
斗 2 升 7 合 8 夕 3 才は荒川荘市場村に負担させる。これにて補修 山上行人方の潰え寺 902 寺に及ぶ[13,伊都郡誌,南紀徳川史 1,12を済ますこと[11-6,34]。
・大用水池は曽池のことか。
上,34] 。行人方の納所に居た藪内市郎左衛門(調月の宮折
:津田市郎左衛門に改名)もこの時に追放されたか。
元禄 6(1693)年
・3 月 24 日付け紀州藩勘定奉行/三浦實村書状、高野山学侶方修
(江戸時代)
理奉行肝煎(世話役)/功徳聚院宛て:高野山行人方領調月荘の用水
池の樋を早く取り替えて欲しいと百姓どもが訴えている。普請に
必要な費用を十分検討し、行人方の蓮明院・正賢院からの請求を、
げんろく
学侶方功徳院から粉河村に居る郡奉行へ提出されたい[11-7,34]。
げんろく
しばなか
元禄年間
・元禄年間に段新田の芝中家が摂津国から桃苗をひいて植え付け ・この頃、紀ノ川の川原を開墾した畠(後の段新田)に
(1688-1704)年
たのが安楽川の桃の元祖らしい[昭和 7 年、段新田桃組合長/堀田政太郎氏談/22]。 逐次桃が植えられた可能性がある。
東 山天皇
・芝中家の後裔は後に山名姓を名乗る三家あり[22]。
ひがしやま
(江戸時代)
・京都伏見城の跡地に桃の木が植えられ元禄時代には
三万本にもなり桃の名所となり桃山と呼ばれる[伏見桃山
の由来]。
元禄 7(1694)年
・2 月 11 日、杉原村の山本角左衛門が東杉原村の蜜柑畑(大豆高 2 ・小路村の一部は高野山行人方修理領で、一部は学侶
(江戸時代)
斗 4 升の畑)を山本六左衛門に代銀 100 目(匁)にて売る。証人/与太 方の碩学領となっていた[34]。
(荒川荘上野村の岡氏)[12-上,34]。
・3 月 24 日付け高野山学侶方/功徳聚院書状、粉河役人(郡奉行)岩
本次郎左衛門・堀田与次右衛門宛て:去年 12 月、荒川組小路村出
火者のことについて、村中から願い出たところ、願いを認めるこ
とは当然である。延焼の内に学侶支配地が無ければ相談に及ばな
げんろく
元禄 9(1696)年
いことであるから、どのように指示されても構わない[11-6,34]。
・8 月、高野山行人方寺領の収納高:調月村 8 百 3 石 4 斗 9 合、 ・元禄 10 年発行、宮崎安貞著「農業全書」に桃の解説
- 63 -
桃山町の歴史と桃の年表
東山天皇
うち 9 石 9 斗 2 合 6 勺は畑返り増高、南北組。調月村行人方修理 と品種の記載「先伏見のさもゝ、同五月もゝ、大うす
(江戸時代)
領支配下城組百 86 石 7 斗 8 升 3 合。安楽川組小路村 2 百 42 石 9 もゝ、此等の三色(種)勝れて味はひよし云々][33]。
これ ら
升。同組神田村 3 百 33 石 5 斗 7 升。同組黒川村百 76 石 1 斗 8 升。 ・元禄 11 年、高野山寺領の免(年貢率):田方 6 割 9 分、
同組大原村 86 石 3 斗 6 升 7 合(後略)[12-上,34]。
畑方 4 割 8 分[12-上,34]。
元禄 10(1697)年
・細野円明寺建立[49]。
元禄 11(1698)年
・高野山寺領の免(年貢率):田方 6 割 9 分、畑方は 4 割 8 分[12 上,34]。・紀州藩御蔵所領伊都郡学文路村庄屋/大畑才蔵(勝善
(江戸時代)
げんろく
=日高郡湯河信光の子孫)五人組帳前書:この度五人組
が生まれる。五人組にて連帯責任を負うこと[12 上,34]。
だんむら
元禄 13(1700)年
・2 月、新田村は壇村の出村となり、願い出により那賀郡田中組
(江戸時代)
新田村となる[新田文書,22]。新田村の起源。
げんろく
だんむら
元禄 15(1702)年
・紀州藩領田中組南の壇村を検地し(東の出村を)新田村と称する。 ・検地があった以降に、紀ノ川の築堤工事が始まる。
(江戸時代)
高 52 石 6 斗[6-1,12 上]。
はな み てい
当時は花見堤と呼んだ[和歌山河川国道事務所古記録]。
・5 月、段新田御検地帳写:筆数 731、高 418 石 3 斗 1 升 3 合、町
数 39 町 6 反 3 歩、持主/耕作人:上野村・小路村・市場村・神田
村・畑ノ上村・花野村・打田村・尾崎村・窪村・若山[22]。(持主氏
名略)・この当時から段新田には近隣の村々から耕作に入っていた
ことがわかる。
元禄 17(1704)年
・3 月 13 日「宝永」に改元[21]。
宝永 2(1705)年
・6 月 18 日、
4 代紀州藩主/徳川頼職が就任したが 9 月 8
(江戸時代)
日死亡、後を受けて 5 代徳川吉宗(幼名/源七・新之助)
よりもと
が就任[34]。
宝永 3(1706)年
・9 月 6 日、紀州藩領田中荘 20 か村と高野山寺領安楽川荘 4 か村
(江戸時代)
の山論に対し、幕府が裁許して絵図を作って示す。紀之川南の高
野村辺の山を田中荘の持山とし、神田村・賀和村・小路村の東に
- 64 -
桃山町の歴史と桃の年表
ある平野山・検校山を高野山寺領安楽川荘の山と定め書きされる
[打田町所蔵絵図,13,34]。
正徳 2(1712)年
・寺島良安、
わが国最初の図説百科事典[和漢三才図会]を著わし、
86 ・【和漢三才図会】図入り事典。全一〇五部。江戸中期
なつめ
みん
おう き
-91 巻で果物を6つに分類して紹介。「李・杏・桃・栗・ 棗 を五 の漢方医/寺島良安著。正徳二年成立。明(中国)の王圻
果という。桃の産地として「山城伏見の産良く備前岡山及び紀州 撰「三才図会」にならう図鑑で、和漢古今の万物を天
の産之に次ぐ。備後亦之に次ぐ」[和漢三才図会,島根大学図書館デジタルアーカ ・地・人の三才(三極・三儀・三元)に分け、絵図を付
イブ] とあり、すでにこの当時、紀州が桃産地として上げられてお
し漢文で解説したもの。寺島良安は大坂の人。別名尚
り、紀州藩領田中組新田村では寛永-元禄の頃から桃が栽培され、 順、号は杏林堂。大坂の御城入医師[21]。
産地となっていていたとみえる。しかも産地としてまとまった栽
培があった証拠[和漢三才図会,寛永 2 年,元禄年間の記載から傍証]。
正 徳 6( 1716) 年
・紀州藩主/徳川吉宗が江戸幕府第 8 代将軍に就任した
(江戸時代)
ため、吉宗の従弟にあたる宗直(幼名/義太夫)が 6 代紀
州藩主となる。
・正徳 6 年 6 月 22 日「享保」に改元。
きようほう
享 保元(1716)年 ・荒川荘の尼岡を奥氏が支配していたとして、元禄年(1688-1704) ・奥杢之助は元和元(1615)年 5 月に死んだ [奥家文書,11-3]
(江戸時代)
おくもく の すけ
なかはし
中に奥杢之助と荘民間で論争あり。この年、伊都郡慈尊院の中橋 筈。
かん の じよう
勘之 丞 らが来荘して裁定、尼岡を荘民(調月)の支配地とし、替地
に荒川荘平尾を奥氏支配とする[奥家文書,12 下,34]。
享保 3(1718)年
・段村の祇園社を今の位置に遷す[47]。
享保 6(1721)年
・2 月、幕府蝕達(抄):村々宛て:村々の百姓は前々の
(江戸時代)
通り五人組を決め置き、法度を堅く守ること。百姓は
一味同心して徒党してはならぬ。百姓の持ち高 10 石以
下、1 町歩以下の田畑は子供・兄弟へも分割してはな
らぬ。田畑・屋敷・山林は永代売買してはならぬ。小
作田は 20 ヶ年以上作れば永小作とすること [幕府法令上
- 65 -
桃山町の歴史と桃の年表
,34]。
享保 8(1723)年
・2 月、高野山興山寺(行人方)役人通達、村々庄屋・百
(江戸時代)
姓宛て:この節、特に万端にわたり倹約すること[橋本市
萱野家文書,県史近世 4,34]。
享保 11(1726)年
・藩命により岩手(もと石手)を岩出に改める[60]。
享保 13(1728)年
・4 月、幕府(将軍/徳川吉宗)蝕達(抄):毛見法による年
(江戸時代)
貢徴収を止め、豊作不作に拘わらず免(年貢率)を一定
じようめん
とする 定 免法による年貢徴収とする[幕府法令上,34]。
享保 21(1736)年
・享保 21(1736)年 4 月 28 日、
「元文」に改元。
元文 6(1741)年
・元文 6(1741)年 2 月 27 日、
「寛保」に改元。
寛保 4(1744)年
・寛保 4(1744)年 2 月 21 日、
「延 享 」に改元。
えんきよう
えんきよう
延 享 元(1744)年 3 月、尼岡の地を巡り荒川庄里四村と調月庄の境界争いについて ・6 月、将軍徳川吉宗回答:大岡越前守、島長門守、
(江戸時代)
高野山行人方の調べで裁定、奥四郎右衛門と津田芳祐が立ち会い 水野対馬守が、田畑永代売買の処罰を伺ったところ、
あむ か ざんまい
新三昧(尼岡三昧)を荒川領とし荒川/調月両庄の境界に標示杭を打 田畑永代売買禁止令を緩和せよとする[幕府法令上,34]。
ち決着[奥家文書,12]。花崗岩の榜示杭は山ノ上の埋葬墓地に今も残っ
ている。
えんきよう
・延 享 元年、藩領田中組大指出帳(報告書):新田村 418 石余、家
数 59 軒、人数 317 人、牛 25 匹[打田町史史料,34]。
えんきよう
えんきよう
延 享 2(1745)年
・延 享 2 年 7 月 7 日、将軍/徳川吉宗が隠居を宣言、後継将軍を長男の家重とする宣言。10 月 1 日、吉宗(62)から家重へ
(江戸時代)
の将軍代替り儀式。11 月 2 日、徳川家重(35)が第 9 代征夷大将軍となる[44]。
うるう
・ 閏 12 月、高野山行人/学侶通達:荒川荘 5 か村、吉仲荘調月村あて。調月村と荒川荘 5 か村の山境争論について裁断の
こと。楠木峠から尼岡までは道幅を 6 尺と定め、調月側には榎並木を植え、荒川側には松並木を植え中心を両村の境界と
する。入込み地にも境界を示す木を植えるか石印を立てること[奥家文書,県史近世 4,12 上,34]。
・高野寺領調月村と荒川庄五村の山境論について裁許のこと:一.調月村から訴える趣によると、私ども(調月村の者たち)
- 66 -
桃山町の歴史と桃の年表
あまおか
は、村内内の居村から東方、尼岡(あぶか)と申す場所の芝地を四十年前から、私どもが開発して畠作地としていたことに
ついて、高野山の御地頭様から元禄十五(1702)年に御検地されて御年貢を上納していたところ、去る元文五年申(1740)年に、
御検地なされて上納の年貢高を仰せ付けられた。この場所に未開発の芝地がある。尼岡から奥の番匠尾へ見通した傍示(境
界を示す杭)が明らかにあるのに、学侶方・荒川庄の百姓どもが勝手に入り込み、そのうえ前例を無視したことを企て、こ
の畠作を踏荒して芝(草)をはぎ取ったので高野山学侶方と行人方と両方の御検地様へ御訴え申し上げて御取調べを御願い
申したところ、御聞き取られただけで御詮議もなかった。この調月村山のことは、紀州藩領(和歌山御領)丸栖村と入り会
いであったところ、十三カ年以前の亥年(享保十六(1731)年)、前田村(現貴志川町前田)の者どもが新規なことを申しかけて
争論に及び、高野山の学侶方、行人方両地頭様方や和歌山(紀州藩)の御役人中様が御立会にて事が落着しないため、翌年
子(享保十七(1732)年)
、丑(1733 年)の両年に御評定様において御吟味を成された上で、調月・丸栖・前田、三か村が立ち会
い、誓祇・起請文の上で絵図を作り、明白に境目を立てて絵図御評定様へ差し上げ、調月村地内に紛れないこと分明とな
っていた。ところが、また荒川庄の者どもが境目が明らかでないと申しかけて、高野山学侶様御知行所の内へ訴えて巧み
に申すことで難儀していると、調月村から訴えがある。
一.荒川の者の答えでは、元禄十五午(1702)年から四十年來、御検地高を受けて御上納している場所へ入り込み勝手して
いると申しているけれども、御年貢地へ荒川から少しも構え申したことはない(中略)荒川領尼岡のことは、同所の奥杢
之助と庄中が元禄年中(1688 ~ 1703 年)争論あり、寶永年中(1704 ~ 1710 年)まで十三年間にわたり滞り、終に噯(たの)み仰
せ出され、替え地(荒川庄平尾)にて済し、尼岡を荒川庄中が支配しなくなったこと、上々様が御存知遊ばされている御事
と存じている。尼岡は荒川庄中の支配となり、前々のように御普請の御用、芝草をはぎ取り牛馬の牧(飼料)にし、死人を
葬り、もちろん芝草刈り、そのほかの証拠が数々あるところ、去年はじめて御用芝はぎ取り申すこと、難渋いたした(中略)。
右のとおり、両村の申し分が相違して決めがたいため、高野山の学侶・行人双方の地頭から役人を派遣して論所地につい
て改めて両村立ち会いの絵図を申しつけ吟味したところ、
(中略)調月の申し方は証拠無く落着した(中略)
。
一.傍示の内楠峠(くすのきとうげ)から尼岡までは道路幅を六尺と決め、調月の方には榎木の並木を調月から植え、荒川
領の方には松の並木を荒川から植え、その中心を以て両村の正しい傍示(境界の標示)とし、道路が壊れた時には両村が
立ち会って道造りを行う。新道の付け替えは堅く停止すること。
一.三カ所道を越えた入り込み地の傍示にも、両村が立ち会って傍示の木を植えること。もしも木を植えがたい所には、
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桃山町の歴史と桃の年表
石印を立てること。
一.尼岡・上野・三昧の丑寅(北東)隅から嶋中忌の木までは古田の中で特に論外の地であるから、道幅は在り来たりのと
いみ
おりとし、最も紛れがましい所には傍示石を立て置くこと。この他、忌の木から大川端までは道傍示または紛れがましい
所には傍示石を立てること。
右、条々は高野山の学侶方と行人方とが立ち会いを数回もって吟味したのち、調月・荒川両村の傍示を定めて申し渡し
たものであるから永々この旨を守って異論あってはならない。そこで、学侶・行人が立ち会った裁許このとおり。
延享二乙丑(1745)年閏十二月
日
高野山行人方一臈坊(判)高野山学侶方年領坊(判)
吉仲庄・調月村中
荒川庄・里五か村中
右のとおり御裁許を仰せつけられ有難くおそれいり奉る。このため印形を差し上げ申す。以上。
調月村南組庄屋幸七(印) 南組年寄秀右衞門(印) 南組年寄孫一郎(印)
南組平惣代文三郎(印)
南組平惣代宅右衞門(印)
調月村北組庄屋/仁右衞門(印) 北組年寄/杢右衞門(印) 北組年寄/杢左衞門(印) 北組平惣代/源次(印) 北組平惣代/伴内(印)
調月村城組庄屋/新助(印) 城組年寄/幸十郎(印) 調月村城組平惣代/佐右衞門(印)
城組平惣代/孫一(印)
荒川市場村庄屋/作之丞(印) 荒川加和村庄屋/幸八(印)
荒川加和村庄屋/与太(印)
荒川上野村庄屋/沢右衞門(印)
荒川上野村庄屋/源兵衛(印) 荒川上野村庄屋/彦平(印)
荒川上野村庄屋/正蔵(印)
荒川上野村庄屋/宗助(印)
荒川上野村庄屋/与市(印) 荒川上野村庄屋/彦太夫(印)
荒川上野村庄屋/善之丞(印) 荒川上野村庄屋/紋右衞門(印)
荒川小路村庄屋/三郎兵衞(印)
荒川御修理下神田村庄屋/市之進(印) 荒川御修理下・神田村年寄/清九郎(印)
荒川小路村庄屋/政之丞(印) 荒川小路村年寄/平右衞門(印) 荒川小路村平惣代/磯之丞(印)
荒川神田村平惣代/源 次(印) 荒川加和村平惣代/林兵衞(印) 荒川市場村平惣代/左五之丞(印)
荒川上野村平惣代/惣二郎(印)
右のとおり両村へ御裁許を仰せつけられた趣を承知致し畏れいり奉る。そこで、印形を差し上げ申す。以上。
(延享二(1745)年)丑閏十二月十八日
(調月村)中
弥太夫(判)
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桃山町の歴史と桃の年表
(上野村)奥
(包紙上書)奥四郎右衞門
津 田 芳 祐
杢之助(判)
両代官[県史近世史料-4,52]。
宝暦 4(1754)年
・12 月、高野山学侶方青巖寺免状、調月荘野口利右衛門宛て:野
(江戸時代)
口家は由緒あるを以て、今から御家人に召し加え帯刀を免許する。
知事[野口家文書,37-7,34]。調月大歳神社神主家/野口利右衛門。
宝暦 9(1759)年
・細野荘に浄瑠璃流行、文化年間に及ぶ[49]
宝暦 10(1760)年
・上野村小林に金毘羅社を勧請[47]。
ほうれき
あんえい
ごう そ いつ き
安永 7(1778)年
・7 月 2 日、安永 5 年の高野山寺領の百姓強訴一揆につき江戸寺 ・3 月、
高野山寺領百姓強訴の事実尋問で寺領荘から 37
(後桃園天皇)
社奉行所から判決:荒川荘加和村平野蔵之助、上野村奥杢之助・ 人が江戸寺社奉行に呼び出され、長期の尋問があった[荒
(江戸時代)
城万五郎・奥孫四郎・坂中権之丞・城四郎兵衛、神田村奥武左衛
ご ももぞの
川荘上野村/城四郎兵衛の参府日記[34]。
門、加和村津田義右衛門、市場村津田幸右衛門・津田清左衛門ら 12 ・閏 7 月、安永 5(1776)年、高野山寺領百姓強訴一揆を
人の地士は苗字、帯刀取り上げ[24]。ここでも奥杢之助が登場する 先導したとして獄門に処せられた猿川荘菅沢村の庄屋/
げんろく
が元禄年間(1688-1704)年に土地諍いを起こした奥杢之助とは別人 弥一郎の首が、江戸伝馬橋から大坂・堺・紀見峠を越
か。
え伊都郡を経由し、閏7月 21 日には安楽川荘の宿を経
て菅沢村(海草郡紀美野町菅沢)に送り届けられる [九度山
町中橋家文書,県史近世 4,34]。
安永 10(1781)年
てんめい
むらがき や
そ はち
・4 月 2 日、
「天明」に改元。
せつつのくにいけだのしよう
むらがき や
そ はち
天明 2(1782)年
・段新田の村垣弥惣八氏が摂津國池田 庄 より桃苗を購入して栽培 ・村垣弥惣八 34 歳[没年齢から推算]。
(光格天皇)
を始める[27]。・村垣弥惣八は安藤 忠 兵衛について来て開墾したと ・天明 2 年から同 7 年にかけて大飢饉。特に奥羽・関
(江戸時代)
聞いている[弥惣八6代村垣延代氏談]。
東地方の被害大きく、餓死と疫病の流行のために全国
・紀州藩領田中組南の新田村に天明年間から桃栽培が始まり新田 で 90 万人以上の死者が出た。各地で打ちこわしが続出
こうかく
あんどうちゆう べ
え
村全域が桃の特産地となる[17,34]。
し、老中/田沼意次の失脚を早めた[21]。天明の飢饉。
天明 6(1786)年
・9 月 12 日付け高野山行人方興山寺役人/和光院廻文:8 月上旬、
(江戸時代)
高野山領調月荘真言宗結界寺へ侵入し住僧を殺害して逃げた者は、
安楽川荘大原村の源左衛門と判明[かつらぎ町山崎菅野家文書,県史近世 4,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
天明 8(1788)年
・2 月付け将軍徳川家斉が米穀の自由販売を奨励する
(江戸時代)
通達を出す[幕府法令下,34]。
寛政 3(1791)年
・3 月、高野山興山寺役人/和光院廻文:調月荘結界寺の弟子僧/智 ・羽後国(現/秋田県昭和町新関)では寛政年代には桃栽
(江戸時代)
然のこと。先だって不埒(大日寺で盗み)あったため、惣高野山寺 培が 170 町歩あった[秋田県果樹栽培指針/昭和 13 年刊,14]。
領から追放したが、その後は法に従って勤め、帰参を願い出たの ・文化 2(1805)年 10 月 13 日、那賀郡名手荘西野山村の
で許される[かつらぎ町山崎菅野家文書,県史近世 4,34]。
華岡青洲が乳癌の麻酔手術に成功する[44]。(文化元年説
あり)。華岡青州の本名は震、字は伯行[21]。
享和 3(1803)年
・根來寺大伝法院、再建落成[60]。
享和 4(1804)年
・2 月 11 日、
「文化」に改元。
文化 15(1818)年
・4 月 22 日、
「文政」に改元。
文政 3(1820)年
う
ご
・俗名/村垣弥惣八 文政三(1820)年九月十七日入、行年七十三才[村 ・羽後国(現/秋田県昭和町新関)では文政年間に桃栽培
垣家過去帳]。
面積が 69 町歩、明治 9 年には 280 町歩あった[秋田県果樹
栽培指針/昭和 13 年刊,14]。
文政4(1821)年
・荒川荘市場村百姓総代4名年貢減免願:前の川(石榴川)の堤が
切れて田畑が大荒れになった[奥家文書,県史近世 4,34]。
文政 6(1823)年
・4 月 18 日に大雨が降って以来干天 50 日続く。紀北一円の百姓、 ・6 月 15 日付け荒川荘市場村百姓総代4名年貢減免
(江戸時代)
大暴動起こす。世にコブチ騒動と云う[19,60]。大干魃
願、市場村役人衆中宛て:市場村の惣百姓どもは去る
・5 月、藩領名草郡宮郷から百姓一揆が起こる。4 月から 50 日間 文化 12 年の大洪水にて藩領田中組新田村裏の紀之川堤
降雨なく、小田用水路・藤崎用水路が水不足のため紀之川堰止め が切れ崩れにつき大嶋向かいの作物損亡が特に多かっ
となる。名草郡宮郷用水路も水不足となり、田植え準備不能のた たので、その後重ね重ね御願い申し上げたが少しも年
め、名草郡の百姓 800 人程が給水を求めて鳴神村の庄屋に押しか 貢減免もなかった。さらに打ち続く凶作にて百姓一同
け家財を打ち壊す。5 月 29 日、紀之川下流南岸の百姓 1,300 余人 が難渋至極と存じているのに、またまた文政4(1821)
が岩出に出かけ、六カ井用水路・宮井用水路の紀之川堰を打ち壊 年に前の川(石榴川)の堤が切れて田畑が大荒れになっ
し、帰途、小倉の大庄屋/西川喜右衛門宅を打ち壊す[12-上,34]。
たが一向に減免なく難渋が重なり百姓が取り続き出来
・5 月 28 日夜半、安原・岡崎・吉原では釣鐘・半鐘・法螺貝・太 がたくぞんじているので何とぞ年貢未進は、永く年賦
鼓が響き渡り宮郷一帯は大騒動の巷と化し、同 29 日には鬼が池付 (分割払い)に仰せ付けられるよう願い上げ奉る[奥家文書,県
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桃山町の歴史と桃の年表
近に 1 万三千人が竹槍・鍬・鎌などを持って集合、岩出の堰を切
史近世 4,34]。
り崩すとして向かい、途中多くの農民が参加、その数 2 万五千人、 ・荒川荘 2,000 石役人総代の宗右衛門、籐吉が高野山
途上の大庄屋や酒屋を片っ端から破壊、岩出の水門を切断して水 年領代へ田方の免(年貢率)7 割 3 分を 7 割 1 分に減免願
を流下させる[60]。
・5 月 29
いを提出したところ許可される[12-上,34]。
日、紀伊国紀川筋に水一揆が起こる[44]。
・6 月 17 日付け高野山惣分(行人)役人/舎那院通達、高
・6 月、紀州藩領伊都郡名倉村・大野西村(高野口町)における水不 野山寺領村々庄屋宛て:他所米の買入を許可する[橋本市
足から百姓一揆、百姓二千余人が参加し打ち壊し(こぶち騒動)に
清水/菅野家文書,県史近世 1,34]。
拡大、伊都郡・那賀郡・名草郡の豪農・商人・大庄屋・庄屋など ・6 月 21 日付け高野山惣分役人/舎那院廻文、高野山
の家宅を打ち壊しながら和歌山城下に迫る。有田郡でも打ち壊し 寺領村々庄屋・百姓宛て:藩領打ち壊し者の召し捕り
が起こり、被害者は伊都郡 155 軒、那賀郡 147 軒、名草郡 7 軒、 がある。留め置いてはならぬ [橋本市清水/菅野家文書,県史近世
有田郡 8 軒、ほか那賀郡、名草郡の大庄屋・役人ら 17 軒、その他
1,34]。
少ない被害を合わせおおよそ 731 軒に及ぶ。紀州藩は大砲 3 基を ・8 月、安楽川荘小路村総代/平治郎が、庄屋の認印つ
含む藩兵五百余人を配備し役人が村々を回って説得、海士郡地蔵 き書状を持って一人で高野山年領坊に行き、年貢減免
之辻にて百姓一揆を食い止める。
願い状を提出する[奥家文書,県史近世 4,34]。
・6 月 11 日、地蔵之辻にて交渉なり、百姓二千余人が村々に帰り ・9 月、安楽川荘 2,000 石支配下役人総代/津田健介・
紀北の百姓打ち壊しが止む[12-上,県史近世 3,34]。
源右衛門が高野山学侶・行人の両代官に年貢減免願い
・6 月 11 日付け高野山惣分(行人)役人・舎那院通達、高野山寺領 状を提出する[奥家文書,県史近世 4,34]。
村々地士/庄屋宛:このところ国領の村々にて騒動の由を聞くの ・10 月、高野山年領代が安楽川荘 2,000 石支配下役人
で、心得違いしてこれに似た行為などを決して無いよう末々小前 中宛て:安楽川荘の若者が村々にて若者仲間と号して
百姓に至るまで念を入れて申し聞かすこと。前々から毎度申し示 党を組み法外の働きをしていると聞く。今後は若者仲
している通り、徒党・強訴は厳しく幕府御制禁のことであるから 間を禁止する[奥家文書,県史近世 4,34]。
堅く守ること。高野山寺領では定免にして旱損・水損の区別なく ・紀ノ川筋の水一揆の直接動機は干魃にあったが、根
じ びん
定免の通り年貢上納を致すべき筈であるが、慈愍をもって旱損水 底には藩政治により圧迫された農民の抗議行動であっ
損があれば容赦遣わす[橋本市清水菅野家文書,県史近世 4,34]。
はるとみ
た。紀伊藩 10 代/徳川治宝の代、天明の飢饉や藩政の
か れんちゆう
・6 月 11 日付け高野山学侶方年領代通達、荒川荘庄屋宛て:藩領 不始末から起こった藩財政の窮乏から、極度な苛斂 誅
きゆう
の百姓騒動(打ち壊し)につき、高野山領内での騒動を禁じること[奥 求 から農民大いに困窮、家財を売却したり妻子を見捨
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桃山町の歴史と桃の年表
きつかい
家文書,県史近世 4,34]。
ふ ろう
て路頭に迷う者が相次ぎ乞丐、浮浪が野に充ち人心が
険悪な状況にあった[60]。
文政 7(1824)年
・調月井上薬師堂代物箱の銘 「霜月(旧暦 11 月)、井上 新田
文
政七年申歳霜月 世話人:源五・文治・源五郎・茂兵衛」。代物箱
に三幅の掛け軸が入っている(平成 25 年 1 月 13 日調べ)。
文政 11(1828)年
・11 月、安楽川荘杉原村の百姓/仲兵衛が高野山学侶方への年貢 ・11 月、高野山学侶方領伊都郡慈尊院村の百姓/作兵
(江戸時代)
に差しつまり、伊勢講 1 株を銀 95 文にて講座中へ売る[杉原額田和美 衛が安楽川荘市場村の恒右衛門が所持の株(権利)高 50
家文書,34]。
石造酒米高 300 石を譲り受けて酒造りを始める[慈尊院中
橋家文書,県史近世 4,34]。
文政 13(1830)年
・12 月 10 日、
「天保」に改元。
天保 2(1831)年
・4 月、幕府蝕達:百姓・町人の墓碑の高さは台石を
(江戸時代)
合わせ 4 尺(約 150 ㌢)以内とし、戒名に院号・居士号
てんぽう
を決して付けてはならぬ[幕府法令下,34]。
天保 7(1836)年
・吉仲荘調月村にて白米 1 升 1 銭 5 厘に高騰、大飢饉にて惨状を ・8 月、調月の藪内氏は、高野山の要請で神田村の地
(江戸時代)
呈す[19]。安楽川で霖雨により凶作で大飢餓。米価三百文[47]。
てんぽう
りん う
か
士/津田市左衛門の名跡を継ぎ、調月村の地士/津田氏
わ
となった[同家由緒書]。
天保 10(1839)年
・安楽川荘は上野村 134 軒・市場村 41 軒・小路村 84 軒・賀和村 ・紀州那賀郡は山崎荘 18 村、弘田荘 8 村、野上野荘 8
(仁孝天皇)
66 軒・神田村 95 軒・大原村 29 軒・善田村 59 軒・勝神村 16 軒・ 村、岩出荘 11 村、国分荘 2 村、池田荘 17 村、田中荘 21
(江戸時代)
黒川村 85 軒・野田原村 81 軒・脇谷村 21 軒・遠方村 92 軒・杉原 村、長田荘 9 村、粉河荘 14 村、名手荘 12 村、静川荘 3
にんこう
かすかみ
をちかた
あ
ら
み
村 89 軒・安良見村 147 軒の 14 箇村、総戸数 1 千 139 軒。
すいばら
村、小倉荘 9 村、吉仲荘 2 村、貴志荘 17 村、野上荘 27
・吉仲荘 2 か村、調月村 195 軒・丸栖村 197 軒。
村、安楽川荘 14 村、麻生津荘 5 村、志賀荘 5 村、真国
かち や
よ ごう
・細野荘 7 箇村 112 軒、円明寺村・勝谷村・四郷村・垣内村・中 荘 7 村、細野荘 7 村、鞆淵荘 9 村、小川荘 6 村、神野
畑村・峯村・根來窪村、古くは荒川郷の地なり。細野荘は谷間に 荘 17 村、猿川荘 7 村、毛原荘 5 村、長谷荘 3 村、合計 1
て田畠の細きより起る[6-1]。
細野の地名由来
万百 20 余軒[6-1]。
く
み やま
・田仲荘 21 箇村のうち壇村 61 軒・新田村 69 軒[6-1]。
・天保時代に京都の寺田村(現久御山町寺田)で栽培さ
・5 月 6 日より 8 月 4 日まで(91 日間)降雨なし[60]。大干魃
れた桃の品種は「稲田桃」
「川中桃」
「谷五郎桃」
「黒仁
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桃山町の歴史と桃の年表
・12 月、荒川荘平尾の百姓/源治が年貢に差しつまり、大豆高 8 桃」[33]。
もんめ
斗の畑を庄屋/津田芳祐の認印を得て銀 100 目 (匁)にて平尾の兵蔵 ・3 月、仁井田好古ら「紀伊続風土記(全五輯)」撰上[6-1]。
に売る[平尾/松嶋家文書,34]。
・この頃、新田村で栽培された桃の品種:ホオキヤ・ズンバイ・
と
ば
たに ご ろう
くろ に
鳥羽・谷五郎・オクニ・黒仁[22]。
天保 13(1842)年
高野山寺僧の衆評により、高野山寺領民に倹約 14 箇条
(江戸時代)
を命令する[12-上,34]。
天保 15(1844)年
・12 月 2 日、
「弘化」に改元。
こう か
弘化元(1844)年
こう か
・この年、細野荘の各字で寺子屋を開始[49]。
(江戸時代)
弘化 2(1845)年
・2 月付け安楽川荘杉原村(額田)忠左衛門往来一札(証文)「杉原村
(江戸時代)
真言宗薬師寺、及び庄屋/俊蔵、国々関所・村々役人宛:四国巡礼
に出る忠左衛門は代々真言宗にて杉原村薬師寺の檀那(信者)であ
る。依って国々の御関所は御構えなく御通し下されたい」[粉川町杉
原額田和美家文書,34]。
弘化 3(1846)年
・和歌山城天守閣が落雷によって焼失[60]。
弘化 5(1848)年
・2 月 28 日、
「嘉永」に改元。
嘉永 3(1850)年
・5 月 13 日より三ヶ月間、雨降らず[60]。
・根來寺大門、落成す[60]。
嘉永 4(1851)年
・愛媛県温泉郡興居島村由良の小林佐七氏が、嘉永 4
(江戸時代)
年攝津國東野よりモモ苗 500 本を購入して植栽したの
が最初。当時のモモは樽屋早生という大果品種であっ
た。世人は佐七早生と命名し、全村に普及して興居島
モモと通称した[愛媛県果樹園芸史]。
嘉永 7(1854)年
・3 月、安楽川荘平尾の兵蔵が、上野村庄屋(奥氏)の認証を得て平
(江戸時代)
尾カルコ谷の奥氏の隠居田(年貢米 5 石 4 斗余、毛見ナシ)を永小
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桃山町の歴史と桃の年表
あんせい
作とする請証を貰う[平尾・松嶋家文書,34]。
安政(1854-1860) ・安政元(1854)年 6 月 15 日、調月荘に地震被害[19]。大地震あり[60]。 ・安政元年 2 年 2 月 7 日、日露通商友好条約締結、千
年間
・安政年間に百合山新四国八十八カ所が造営され参詣者多く一大 島列島は日本領土とする[44]。
(江戸時代)
霊域となる[47]。
同年 12 月、金属回収御触:海岸防禦の爲この度諸国寺
・安政 6 年 5-6 月、安楽川荘の百姓、多くが紅花商いを申請する 院の梵鐘を以て大砲小銃に造り換える云々[岩出組大庄屋藤
[34]。
田家御用留帳,60]。
・安政 3(1856)年、(細野村で)婚姻等に依り住所変わる時は檀那寺 ・安政 2 年 10 月、幕府は蝦夷開拓者募集の御触[60]。
より寺送り(宗旨)一札を要す[49]。
・同 3 年 7 月 21 日、初代アメリカ総領事ハリスが下田
に到着[44]。
安政 4(1857)年
・4 月 8 日より 8 月 16 日まで降雨なし[60]。
(江戸時代)
・百合山新四国西参詣道に光明橋を架橋し弘法大師の大碑石を光
明橋詰めに建つ[47]。
安政 5(1858)年
・5 月、新四国八十八カ所が描かれる[41]。
(江戸時代)
・この年、田仲荘竹房村紀ノ川南岸に餓死した百姓の冥福を祈り りの荒れ地・原野に櫨・ 漆 ・コウド・三つ叉・茶を植
・2 月 20 日、幕府(将軍徳川家定)が交易のため、手余
はぜ
うるし
餓死人塚を建てる。天明・天保の大飢饉等大凶作により百姓は草 えて国産物を増産するよう指示する[幕府法令下,34]。
の根、木の皮を食べるなどの苦しみに陥り餓死したとある[34]。
・根來山四国八十八箇所、落成[60]。
いえもち
安政 6(1859)年
・5 月 2 日付け高野山惣分(行人)役人/光明院通達:間作稼ぎとし ・1 月 13 日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達:神奈川・長
(江戸時代)
て百姓が紅花商いの鑑札を欲しい時は印紙にて申し出れば渡す[橋 崎・箱館の三港を近々に開港するに付き、この場所へ
本市清水菅野家文書,県史近世 4,34]。
出稼ぎ、または移住して勝手に商売致してよいから希
・5 月-6 月、安楽川荘加和村・小路村・上野村・遠方村・市場村 望する者は、その港の役人へ引き合わすように致すこ
・安良見村・杉原村の百姓 34 人が、それぞれ承認を得て高野山年 と[幕府法令下,34]。
領代に紅花商い鑑札の下付願いを出す[勧学院文書,県史近世 4,34]。
・12 月 15 日付け高野山惣分役人廻し文:高野山寺領
村々の地士・庄屋宛て:村々で石高持ちの百姓にて 80
歳以上の男女に養老銀を与えるから調べて名前を届け
ること[かつらぎ町山崎菅野家文書,県史近世 4,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
安政 7(1860)年
・3 月 18 日、
「万延」に改元。
万延元(1860)年
・4 月 18 日付け高野山惣分役人/舎那院回文:高野山寺領大庄屋 ・12 月 23 日付け高野山惣分役人/密蔵院回文:村々の
(江戸時代)
・庄屋宛て:紅花売買の鑑札を望む者は印紙にて高野山の役人宅 大庄屋宛て:世上一同に米穀、諸品が高値につき、老
みよう が きん
だ
かせ
へ申し出ること。 冥 加金(雑税)は 1 駄に付き金 3 歩ずつ在地の取 人・小者(小百姓)にて桛ぎ(稼ぎ)が出来難く、末末の者
締役(地士)へ差し出す事[橋本市清水萱野家文書,県史近世 4,34]。
が喰い事に差し支え難き儀の様子と聞く。その村々に
て身元相応の者から成るだけ扶助すること。その上で
も行き届きがたい分は難渋人の名前を調べ、高野山の
かゆ
役人へ届け出る事。そうすれば粥でも与える[橋本市清水萱
野家文書,県史近世 4,34]。
万延 2(1861)年
・2 月 19 日、
「文久」に改元。
文久元(1861)年
・9 月付け高野山行人方興山寺役人/密蔵院通達:高野山寺領村々 ・12 月 16 日付け高野山惣分役人/密蔵院通達:高野山
(江戸時代)
の地士・庄屋宛て:砂糖・芍薬・米穀売買・質屋・綿・木綿・古 寺領村々の地士・庄屋宛て:近年来の百姓は一同に農
かせ
着・綛(紡いだ糸を巻取る道具)・油・紺屋・造酒船の株(権利)免許 事に励まず商人気分となり大変困った事である[かつらぎ
を与えられている百姓の名前を高野山役所へ報告する事[かつらぎ町山
町山崎菅野家文書,県史近世 4,34]。
崎菅野家文書,県史近世 4,34]。
・10 月 12 日付け高野山惣分役人/密蔵院通達:高野山寺領村々の
地士・庄屋宛て:紅花の作付けは当分の間禁止する[かつらぎ町山崎菅野
ぶんきゆう
家文書,県史近世 4,34]。
てんちゆうぐみ
文 久 3(1863)年
・3 月付け高野山年領坊通達:高野山寺領村々役人宛て:高野山 ・高野山が天 誅 組の来山に備え地士を招集、
安楽川荘、
(江戸時代)
学侶衆を親とする仕法講と云う名の頼母子講を設営したから、銭 調月荘の地士らも登山する[12 上,34]。
を拝借したい百姓は村役人、及び総代が加判した拝借手形をつく ・調月観音経堂の観音像厨子の裏に墨書銘:「西観音修
ぶんきゆう
り高野山内の担当役僧へ願い出る事[高野町下筒香区有文書,県史近世 4,34]。 補厨子新造立 施主/稲葉藤蔵・稲葉平七。文 久 三(1863)
いな ば とうぞうつうじゆん
年拾弐月」、稲葉藤蔵・稲葉平七は稲葉藤蔵通 諄 の後
裔。
げん じ
文久 4(1864)年
・
・2 月 20 日、
「元治」に改元。
元治元(1864)年
・6 月付け高野山惣分役人/光明院通達:高野山寺領村々の地士・ ・4 月 8 日付け幕府(将軍徳川家茂)蝕達:田地へ桑を植
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桃山町の歴史と桃の年表
(江戸時代)
庄屋宛て:他国米の買入を許可する[橋本市清水萱野家文書,県史近世 4,34]。
えてはならぬ。五穀を廃し蚕を専らに致してはならぬ[幕
・11 月、調月荘山ノ上(上ゲ)に、垣内の住人らが順調な雨を祈願
府法令下,34]。
いしどうろう
はる
して石燈籠を建立。石灯籠は高さ 2 ㍍程で、遙か東方の高野山に
じょうやとう
向かって拝むようになっている。正面には「常夜燈」と刻まれ、
こうぼうたいし
げ ん じ ね
側面には「高野山弘法大師」
、一方の側面に「元治子年十一月建之」
いしどうろう
き だ ん
と彫られ、石灯籠の基壇には建立当寺の「世話人、與七・直楠・
平治郎」の名前がみえ、
「三垣内中」とある。三垣内は上げ集落の
前垣内・後垣内・池の上垣内をさしている[山下重良調べ]。
元治 2(1865)年
・4 月 7 日、
「慶応」に改元。
慶応元(1865)年
・閏 5 月付け高野山惣分役所通達:高野山寺領村々宛て:この度
(江戸時代)
紀州藩主徳川茂承様が第二次長州征伐の総督として御進発に付き、
もちつぐ
その御用途金を格外の心得を以て上納する事[かつらぎ町山崎菅野家文書,県
史近世 4,34]。
慶応 2(1866)年
・尊皇攘夷論者の森田節斉(吉田松陰/久坂玄瑞の師)が幕府から狙 ・7 月 13 日付け高野山惣分役人/妙観坊回文:高野山
(江戸時代)
われ大和國五条、栄山寺近くの住居から安楽川荘荒見村の地士/北 寺領村々の地士・庄屋宛て:時節柄、村々に於いては
長左衛門宅に身を寄せる。ここで森田塾を開く[12-下,34]。
男女が集まり、踊り興業などは決して致してはならぬ。
各人が慎み、酒宴・会合などを致してはならぬ[橋本市清
水萱野家文書,県史近世 4,34]。
・11 月 25 日付け高野山惣分役人/妙観坊通達:高野山
寺領村々の地士・庄屋宛て:米穀高値につき外国米を
慶応 3(1867)年
買い求めてよい[かつらぎ町山崎菅野家文書,県史近世 4,34]。
・10 月 14 日、江戸幕府 15 代将軍徳川慶喜は大政奉還、
(江戸時代)
武家政治が終焉[21]。
けいおう
・8 月 21 日、明治天皇即位。
慶応 4(1868)年
・この年以降、神田御船神社・調月大歳神社等に併設の神宮寺が ・1 月 15 日付け高野山惣分役人/妙観坊通達:高野山
(明治天皇)
破却される。
寺領村々の地士・庄屋宛て:この度京都(鳥羽、伏見)
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桃山町の歴史と桃の年表
にて戦争があったため、落ち武者(敗北した幕府方)が
多く所々に分散の様子と聞く。このような者が寺領内
へ入り込めば隠さず早速高野山興山寺役所に訴え出る
事[橋本市清水萱野家文書,県史近世 4,34]。
・3 月 28 日、維新政府から神仏混淆を禁じる神仏判然
(分離)令が太政官布告で発令 [12-下,103]。宗教界が大混乱
となる[34]。
・慶応 4(1868)年 9 月 8 日、
「明治」に改元。
明治元(1868)年
・細野荘円明寺に戸長役場を置く。初代戸長に峯の西垣内亀五郎 ・9 月、高野山へ維新政府から太政官布告あり、高野
氏[8,49]。
山の学侶方(多分)・行人方(惣分)・聖方(非事吏)の三派
を廃止、学侶方の青巖寺を金剛峯寺と改称、高野全山
が協和し学侶方法度に従うこととなり、行人方の興山
寺、及び聖方の大徳院が廃寺となる[伊都郡誌,那賀郡誌下,34]。
・岡山県真庭郡湯原村の藤島好太郎氏が明治元年に桃
を植えたのが岡山桃の始まりで、明治 9 年、上海・天
津両種の導入を契機に各地に栽培され初め、新品種の
導入・育成・発見が相次ぎ、土壌、気象立地とも適合
し、
(昭和 46 年現在も)桃主産県の地位を維持している[岡
めい じ
明治 2(1869)年
山の果樹園芸史,14]。
・3 月 23 日、全村に小学校を置くことになる[19]。
・8 月、那賀・ ・1 月、金札と銭札の交換:金 1 朱を銭 600 文と交換
伊都両郡の高野山寺領は堺県に属することとなり安楽川荘、調月 し金 1 歩を銭 2 貫 400 文と交換、金 1 両を銭 9 貫 600
荘、細野荘が堺県に編入される[伊都郡誌,16]。
文と交換する[12-上,34]。
・那賀郡民政局、岩出に設置[60]。
・10 月 7 日、交代兵の制となり、士農工商の別なく 20
・(那賀郡田中組)段村の(堀内)爲左衛門氏が百合山に初めて温州苗 歳男子を徴兵することとなる[12-上,34]。
を植える[47]。
明治 3(1870)年
・12 月 24 日、農工商人の帯刀禁止[12]。
・4 月 1 日、高野山寺領は五条県に編入され、荒川荘、調月荘、 ・9 月 19 日、平民の氏称(苗字)が許される[12-上,103,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
細野荘が堺県から五条県に移る[16]。
明治 4(1871)年
・7 月、廃藩置県により紀州藩が和歌山県となり、11 月 1 日から ・7 月 14 日、明治政府が藩を廃止して地方の統治を中
紀州高野寺領も和歌山県に属す。那賀郡の上野村・市場村・小路 央集権下の府と県に一元化(廃藩置県)[21]。
え
た
ひ にん
村・賀和村・神田村・大原村・善田村・黒川村・野田原村・脇谷 ・8 月 28 日付け太政官布告:穢多・非人の呼称は廃止
村・勝神村・遠方村・杉原村・荒見村・調月村・細野村・根來窪 とするから今後は身分職業とも平民同様とすること[法
よ ごう
かち や
村・峯村・中畑村・垣内村・四郷村・勝谷村・円明寺村・高野村
令全書 448 号,12-上,34]。
・段村・段新田村が成立[17]。この時、安楽川の名称消える。
・9 月 7 日、政府から田畑勝手作許可令が出され米穀
・庄屋制の廃止に伴う安楽川荘当時の庄屋・役人:市場村庄屋/竹 以外の作物を自由に作れるようになる[法令全書,大蔵省 47
中竜助、年寄/奥弥九郎・室谷周助。賀和村庄屋/林謙之輔・年寄/
号]。
乾亀之進・柳本重二郎。神田村庄屋/磯七郎右衛門・年寄/松山管 ・10 月 3 日、宗旨人別帳が廃止される[法令全書,34]。
吾・津田勇助。小路村(旧行人方修理領)庄屋/田端新左衛門・年寄/ ・この年、那賀郡に強風あり被害甚大[12]。
田中儀右衛門。小路村(旧学侶方碩学領)庄屋/片山善四郎・年寄/永
長三郎兵衛。上野村庄屋/城四郎兵衛・年寄/坂中周三郎・堀定八。
・庄屋制廃止に伴う旧紀州藩領田仲荘南の庄屋・役人:段村・新
田村の庄屋/堀内仙右衛門、肝煎/山名利八、蔵庄屋/藪内重左衛門
[47]。
・11
月の那賀郡内の諸物価:炭 1 俵 13 銭 5 厘、木綿 1 反 40
銭、塩 1 貫目 2 銭 4 厘、醤油 1 升 7 銭、砂糖 1 升 7 銭、鶏卵 1 個 3
厘、牛肉 1 斤 10 銭、麦 1 升 2 銭 5 厘、米 1 升 3 銭 4 厘[12-上,34]。
明治 5(1872)年
・村民は 20 歳以上男子は 3 年間の兵役を義務づけ。ただし官吏・ ・3 月、神社仏閣の女人禁制を廃止する太政官布告が
こ しゆ
し
し
どく こ
どくそん
国立学校生・戸主・嗣子・独子・独孫・270 円納税者は兵役免除
出る[12-上,34]。高野山の女人禁制は明治 39 年迄続く[34]。
[12-上,34]。
・庶民の次男・三男坊は分家や養子となって兵役を免れた
[58]。
・4 月付け太政官布告:今後、僧侶の肉食・妻帯・蓄
髪は自由とする[12-上,34]。
・細野村円明寺戸長役場にて戸籍を作成す[49]。
・4 月、郷長(もと大庄屋)を戸長と改め庄屋を廃止し副
戸長とする[12-上,34]。
・8 月 3 日付け太政官布告:学制を制定し学区制によ
り小学校 4 年間を義務教育とする。としたが小学校 4
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桃山町の歴史と桃の年表
年間は月 50 銭の授業料を取り、寺院や民家を仮用した
教室であった。従って就学率は低く学制反対の動きが
あった[12-下,34]。
・11 月 9 日、政府は太陽暦の採用を布告。しかし農村
では旧暦の正月が近づくと、村々では歳の市で賑わい、
新旧 2 回の正月がきた[12-下,58]。
・同月 28 日、徴兵告諭の太政官布告[12-下,34]。
明治 6(1873)年
・6 月 12 日、加和村に加和小学校開校[8,47,]。
・7 月 28 日付け太政官布告:地租改正条例:①地価に
応じて土地税を金納とする。②税率は地価の 100 分の 3
とする。③土地所有権者だけから土地税を取る。地租
は田地 1 反につき 1 円 2 銭 2 厘 4 毛と税額は高率で政
府歳入の 8 割が地租で占めた[12-上,34]。
明治 7(1874)年
・12 月 1 日、安楽川郵便局が小路村に開局[12-上,34]。
・明治 7 年、勧業寮より上海・天津が大師付近に入り
栽培された[神奈川県園芸発達史/富樫常治,川崎市生田/上原守氏,14]。
・和歌山県那賀郡長田村では明治初年から桃が作られ
ていたが、明治 7 年、洪水が起こり嶋一帯が荒れ地と
なり、人々は考究の末、桃を植え始めた。明治 28 年、
矢平田信一氏が天津・上海等の優良種を導入し熱心に
栽培した結果、好成績を上げた[礎/長田村尋常高等小学校刊,14]。
明治 8(1875)年
しやんはいすいみつ
てんしんすいみつ
ばんとう
・1 月、那賀郡を 12 区に分け、小区長が置かれる[12-上,34]。
・明治政府の勧業寮が 上 海水密桃・天津水密桃・蟠桃
かごづめ
しん
・明治初め頃の新田桃は三貫六百匁(13.5 ㌕)入り篭詰で一人 4 籠 =ピントウを清(中国)から輸入[14]。
た なかまち
を和歌山市田中町の問屋に向けて天秤棒で担いで運んだ。時の人 ・明治 8 年、武田昌次・岡毅・南部陳・山口辰七郎・
は「安楽川のカチ(徒)」と呼んだ[22]。新田桃はその後、大八車や 中相常利・満川成種等を清国に遣わして農産物を調査
くろ え
ひ かた
ロ
ろ
ば
リヤカーで海南の黒江や日方まで売り歩く。売れ残ると有田の湯 し、兼て羊・驢(驢馬)・及び穀菜果樹を購入せしむ。
浅まで往復。紀ノ川の川船で百二十~百四十篭を満載、和歌山の この際に上海水密桃・天津水蜜桃・蟠桃の他に、無名
ヒン カ
市場に出荷[22]。
・上野村を最上村と改称[8]。
オウトウ
の油桃 1 品種・蘋果(中国苹果)・櫻桃(支那櫻桃)・大鴨
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桃山町の歴史と桃の年表
ヤー リ
すいしよう ざ くろ
アン あん ず
・7 月、八坂神社と廳を校舎に段小学校、薬師寺境内に段新田小 梨(鴨梨)・水 晶 石榴・杏(杏子:品種名なし)・大白葡萄
学校開校。
・大紅葡萄、等を輸入したことになっている[大日本史,33]。
・7 月、神明社の廳を校舎に市場小学校開校[8,57]。明治 11 年、荒 ・上海水密桃と云う品種は華中にはない。これは我が
ビヤクボウ
川小学校と改称、同 17 年、賀和村小学校と合併、明治 20 年 4 月、 国にて命名したもので、中国で云う「 白 芒水蜜桃」と
荒川尋常高等小学校と改称[57]。
思う。舶来果樹要覧の桃第十四号に、
「水蜜桃:上海産、
・上野村小学校は佛土寺を仮用したが、後神田小学校と合併して 清国上海の産なり。水蜜桃:天津産」とあるのみで品
新校舎建ててこれに移る[57]。
種名は書かれていない。依って天津水蜜桃も日本で名
付けたもの[果樹園芸学上巻,33]。
・明治 8 年、安楽川郵便局始めて市場に置く[47]。
・3 月、米国駐在領事/高木三郎より、オレンジ・レモ
ンなどの種苗を勧業寮に送付す[明治園芸史,14]。
・明治初期の在来桃品種:燕桃・早生半毛・半毛・早
生金時・柳葉金時・飛金時・赤坊・早生土用丸・八十
次丸・腐土用丸・谷五郎・稲田桃(河内桃)・木津桃・
五月六・早桃・鳥羽・鹿ノ子・黒仁・樽屋・カワナカ
・太白桃・立山土用丸・嘉平土用丸・奥嘉平土用丸
・早生丸・小丸・中生丸・土面丸・青相・白桃・鎧通
・アメントウ・早生カミニワ・寒桃・キオモモ・夏桃
・秋桃・茶碗桃・核桃・西王母・甚兵衛桃・緋威・核
紅桃・盆桃・鎧返・唐桃・フシガエリ・アベモモ・ウ
スヤ・マルヤ・ナガダイリヤ・スイヌリ・ヒオイ・彦
兵衛・旭丸・晩生カミニワ・毛桃・ヘイシロウ・源平
桃・江戸桃・養老桃・白玉・ツマモモ・弁慶桃・古着
屋・剣先・太平・金太・兜・被桃・丹後桃・ヤニモモ
・若狭桃・日ノ出・ナガモモ・ベニキオモモ・ツユモ
モ・トボサクベニモモ・貝塚桃・大佛桃・一歳桃・八
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桃山町の歴史と桃の年表
王子・半毛不知・日ノ丸・権左衛門桃・四谷桃・馬顔
・立山金時・ソザエモン・大房・ズバイモモ・大長油
桃[池田伴親著:明治 40 年刊 The Fruit Culture in Japan,14]。
・明治初期に導入された桃品種:Admirable Jaune・Bay
Maker・Bell Bauce・Rein des Vergers・Chevreuse Hatif
・Early Rivers・Early
American・Gross Mignonne・
Gross Mignonne Hatif・Indian・Malte・Precoce Rivers・
ピン
Teton de Venus・水蜜桃(上海産)・水蜜桃(天津産)・蟠
タオ
コウタウ
桃 or 缸桃・Blood Leaved or 赤芽桃。ネクタリン:Elruge
・Early Violet・Orange・Late Melting・Stanwick。[三田育
種場(明治 17 年刊) 舶来果樹要覧,14]。
明治 9(1876)年
・2 月、大坂日報(大坂毎日新聞の前身)が創刊されたが購読者は一 ・明治 9 年編纂の「菓木栽培法」に桃の品種として 23
部に限られた[12-下,34]。
品種を記載。[早生種]燕桃・早生半夏桃・山半夏桃、[中
・4 月、大歳神社の神宮寺を教室に調月小学校創立[17.19]。明治 29 生種]早生金時・柳葉金時・飛金時・赤坊・早生土用丸
年 3 月、調月尋常高等小学校に改称[19]。
・八十次丸・腐土用丸・立山土用丸・嘉平土用丸・奥
・4 月、神田小学校(神田村福王寺を教室に) [34,57]開校[8]。明治 24 嘉平土用丸、[晩生種]早生丸・小丸・中手丸・土面丸
しろもも
年、最上小学校と統合し八幡坂上に新校舎を建て安楽川第二小学 ・青相・白桃・鎧通、他に早生油桃・奥油桃・壽星桃[果
校となる[57]。
樹園芸學上,33]。
・市場村に森田無絃が塾を開く[47]。
・明治 8(1875)年、森田節斉の
息子/司馬太郎が市場小学校に訓導(教師)として着任、節斉の妻/森
田無絃女史は市場の竹中左膳邸に仮住まいし安楽川塾を 13 年間営
む[竹中佳子:桃山歴史の会 38 号]。
明治 10(1877)年
・8 月 15 日、那賀郡役所・岩出警察署から盆踊り禁止訓令[12]。
・2 月、西郷隆盛を擁した私学の生徒らが西南の役を
・麻生津村の坂上氏・川原村の藤田氏・田中村の堂本氏・段村の 起こし[21]、調月村から 3 人が徴兵され、田原坂で津田
堀内仙右衛門氏らが主唱し、紀之川沿岸の伊都・那賀郡内の温州 春松氏が戦死[19]。・細野村より西南の役に 3 人征討軍
なんようしや
蜜柑の販売同業者団体「南陽社」を結成、船舶運賃契約のため販 に加わり奮戦す。円明寺の部屋浦善左衛門氏戦場死[49]。
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桃山町の歴史と桃の年表
売総代として千田三次郎氏を東京に派遣[12-上,34]。
・明治 10 年、神奈川県橘樹郡保土ヶ谷の青物仲買商が
アーサ氏から外国の桃を貰い受け石渡七左右衛門氏に
托し苗木を養成したのが川崎の桃栽培の始まり[神奈川県
園芸発展史/富樫常治著,川崎市生田/上原守氏談,14]。
・福島県には明治 10 年に船土桃という在来種が栽培さ
れ、明治 29 年頃に甚兵衛桃を箱崎の小野三郎氏が植え
たのを見た同村の伊藤市郎氏が同 30 年頃に日の丸・天
津・上海の苗木を 5 反歩植えた[福島県果樹栽培の沿革,14]。
明治 11(1878)年
・賀和村と小路村が合併して元村となる[17]。
明治 12(1879)年
・1 月 20 日、小区長を廃止し、那賀郡 251 村を統括する郡役所を ・2 月 24 日付け県令/神山郡廉通達:初めての県議会
こうやまくにかね
清水村(岩出町清水)に置き、郡長は県令にて任命された[8,12-上,34]。 議員の人数は各郡の人口 6 万人以上は 5 名、6 万人以
・上野村を最上村、中畑村を細野中畑村と改称[17]。
下は 4 名と定めるからその規準で選挙すること。県会
・この頃から新田村では桃を船便で広島方面に出荷[22]。
議員の被選挙権・選挙権は女子になく、直接国税を納
あ
か
い
・那賀郡役所を岩出村清水/閼伽井寺に設置[60]。
めていた男子に限られた。最初の被選挙権は満 25 歳以
・10 月 12 日、細野村立小学校開校[49]。
上の男子で地租 1 円以上の納税者で、人口の 2.7 ㌫、
選挙権者は満 20 歳以上の男子で地租 5 円以上の納税者
で人口の 4.9 ㌫であった[12-上,34]。
むらがきげん う
え もん
・段新田村の村垣源右衛門家の桃売上控帳:総売り上
げ四拾二円四十八銭五厘、七十三荷八分五厘[22]。
ふく ば はや と
明治 15(1882)年 ・那賀郡内小学校数 93、学齢児童 1 万 3 千 927 人、就学児童 6 千 ・福羽逸人氏は桃の袋掛けで害虫を防ぎ良果を得られ
頃
251 人、就学率 44.8 ㌫(男 63.64 ㌫、女 18.87 ㌫)、小学校教員 83 たと発表[14]。
人、内代用教員 14 人[12-下,34]。
・この頃から各村で養蚕が始まり昭和 10 年代まで農家
の現金収入源として盛んになる[58]。
明治 16(1883)年
・貴志川が洪水で調月村に水害、また夏に干魃害で米の収穫皆無
- 82 -
桃山町の歴史と桃の年表
の所あり[19]。
明治 17(1884)年
・神奈川県多摩川(川崎)で、東京三田育種場が学農社
の小沢善平氏よりアムスデンジューン他 10 数種の桃を
取寄せて栽培し、以降多摩川に於ける桃栽培発展の基
礎となった[神奈川県園芸発達史/富樫常治,川崎市生田/上原守氏,14]。
明治 18(1885)年 ・伊都/那賀郡の柑橘同業者団体[南陽社:明治 10(1877)年設立、段 ・この年、フランスのボルドー大学教授/ピエール・ミ
頃
村の堀内爲左衛門社長]が温州みかんの北米輸出を始め、日本最初 ラルデによって、石灰乳に硫酸銅液を加えた乳剤が葡
の輸出となる[8]。明治 22(1889)年 2 千箱、同 23 年 1 万 6 千箱を輸 萄の病害駆除薬として発見され、以来、農業用殺菌剤
出[7,8,27]。
として用いられ、
「石灰ボルドー液」として世界各地で
使用されるようになる[21]。
・岡山県御津郡柏谷村の山内善男氏が天津水蜜や上海
水蜜に害虫被害が多いので梨にならって袋掛けし良い
結果得る[14]。
・岩出小学校開校、溝川小学校を併合[60]。
明治 19(1886)年
・この年(桃山町領域の村は)段村・段新田村・市場村・元村・神 ・3 月 1 日付け小学校令(抄):第 1 条、小学校を分けて
田村・最上村・調月村・脇谷村・大原村・善田村・黒川村・野田 高等科・尋常科とする。第 3 条、児童 6 歳から 14 歳に
原村・垣内村・細野中畑村・峰村・根來窪村[地方行政区画便覧]。
至る 8 ヶ年を学齢とし、父母/後見人らは学齢児童に普
通教育の義務を課す。第 6 条、父母/後見人らは小学校
の経費に充てるため、児童の授業料を支弁するものと
する。第 13 条、小学校の教科書は文部大臣の検定した
ものに限る[12-下,34]。
明治 20(1887)年
・小学校の学科:尋常科(4 ヶ年):終身・読書・作文・習字・算数 ・宮城県刈田郡蔵王町では明治以前から在来種の桃が
・体操・唱歌。高等科(4 ヶ年):尋常科の学科に加え、地理・歴史 広く栽培されていた。明治 20 年頃、接木技術が伝わり、
・理科・図画・女子では裁縫が必須教科となる[12-下,34]。
- 83 -
はん げ
福島から半夏桃・伊達すんばいが入り栽培が進歩した
桃山町の歴史と桃の年表
[宮城県農業改良課/宮城県の果樹 1952 年,14]。
明治 21(1888)年
・8 月 30 日、調月村に台風被害[19]。
・各村にこれまであた連帯責任の[五人与=五人組]が
廃止される[12-下,34]。五人組は、江戸時代、古代の五保
制にならった庶民の隣保組織。五人与と書き、五人組
合ともいい、地方によっては十人組もあった。その長
はんがしら
を五人組頭、または判 頭 と称した。戦国時代、下級武
士の軍事編成にも五人組がみられたが民間の組織とし
て制度化されたのは江戸幕府成立以後。初めはキリシ
タンや浪人の取締りを主眼としたが、後には法令の遵
守、相互監察による犯罪の予防・取締り、連帯責任に
よる貢租の完納に重点がおかれるようになった[21]。
明治 22(1889)年
・4 月 1 日、市町村制施行により段村・段新田村・市場村・元村 ・2 月 11 日、大日本帝国憲法が発布される[21]。第一条、
・神田村・最上村が合併して安楽川村となる。脇谷村・大原村・ 大日本帝国は万世一系の天皇是を統治す。第五条、天
善田村・黒川村・野田原村は奥安楽川村に、調月村は調月村(村役 皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う。第十一条、
場は薬師寺・大日寺を使用)として存続、垣内村・細野中畑村・峰 天皇は陸海軍を統帥す。第三十三条、帝国議会は貴族
村・根來窪村は細野村となる[12-上,16]。安楽川村・奥安楽川村・調 院・衆議院を以て成立す[12-下,34]。
月村・細野村が成立。細野村初代村長として新井常五郎氏就任[49]。 ・4 月 1 日、和歌山県が市制町村制施行、1 市 2 町 229
・4 月 1 日、那賀郡田中組段村・同段新田村は安楽川村に合併。 村を設置[24]。
高野村は田中村に合併[12 上,34]。桃山町史[8]には明治 24 年とある。 ・8 月 19 日、大洪水で県下の死者 1,400 人以上[7]。
たま り
き ぞう
・8 月 15-19 日、暴風雨で大洪水、新田浦の堤防が決壊、安楽川 ・農科大学(後の東大)教授/玉利喜造(,1856-1931,安政 3
村の平坦部が浸水被害[7] 。貴志川大洪水、調月村大水で浸水家屋 ~昭和 6)がワシントンネーブルオレンジ(ブラジルのバ
多し[19]。
明治 23(1890)年
イア地方原産)を日本に初めて導入[果物の博物学]。
・和歌山県那賀郡(安楽川村壇)の堀内仙右衛門(1844-1933,現紀の ・4 月 2 日、皇紀 2550 年を記念して橿原神宮が創建さ
川市,旧桃山町出身)、堂本秀之進(1864-1940)・藤井孫八・藤田繁 れれ、10 月 30 日、政府の教育方針を明記した教育ニ
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桃山町の歴史と桃の年表
かんぱつ
之助ら温州ミカンを米国カルフォルニア州に輸出するが、彼地産 関スル勅語「教育勅語」が渙発される[44]。
のネーブルオレンジに圧倒される。このためネーブル苗2本を日 ・岩出に吉村製糸工場、創業[60]。
本に導入。彼等が中心になってミカン輸出会社である南陽社でミ ・細野村役場を中畑に置く[49]。
カン輸出は順調に伸びなかったが、有田地方より品質劣る紀北地
方のミカン農家にとって海外市場はきわめて重要であったといわ
れる[村上節太郎著/柑橘栽培地域の研究(1967 年)]。
・この年(明治 23 年
47))、安楽川村段の堀内仙右衛門(爲左衛門 47))
氏らが米国からワシントンネーブルの苗木 2 本を輸入、繁殖して
百合山で栽培。日本のネーブル栽培の先駆けとなる[27]。・明治 27
年、安楽川村段の堀内爲左衛門氏、庭先の老樹にネーブルを高接
し、同 29 年、初めて 9 果の結実をみる、美果で味頗る佳なり[47]。
明治 24(1891)年
・村別戸数:安楽川村 954、奥安楽川村 335、調月村 428、細野村 208、竜門村 387、田中村 1,074[12 上,16]。
・段新田から和歌山市田中町の問屋に出荷の桃売立伝票一例:大肉二荷七十七銭九厘・小肉二荷六十六銭七厘[22]。
・那賀郡役所、新築移転[60]。
明治 26(1893)年
・8 月 17 日、調月村に台風被害[19]。
・明治 27 年 7 月、和歌山・奈良両県の有志が和歌山五条間を通る紀和鉄道会社を設立[12 下,34]。
明治 27(1894)年
・細野村より日清戦役に浦市松氏はじめ7名出征、無事凱旋[49]。
明治 28(1895)年
・この頃、安楽川村神田高巣尾山待尾に田中村から突如侵入、両 ・岡山県赤磐郡可真村の小山益太郎氏が上海水蜜桃と
村の境界標木が引倒される。安楽川 4 か村住民が委員を派遣し談 アーリー・クロフォードの自然交雑実生から黄肉の
きんとう
判[7]。
・10 月 5 日、紀和鉄道会社が設立、鉄道院から紀ノ川南岸ル 「金桃」を発見、その後岡山県を中心に栽培された[40]。
ートの打診あるも安楽川村議会では反対意見続出[7]。
明治 29(1896)年
・8 月 30 日、調月村に台風被害、この年、隔離病舎設置[19]。
。神奈川県橘樹郡大島村(現川崎区大島)の吉沢寅之助
氏が新種桃「伝十郎」を開発、後に「伝桃」と命名す
る[川崎区史研究会:小泉茂造氏]。
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桃山町の歴史と桃の年表
明治 30(1897)年
・12 月 27 日、水源確保・土砂流出防止・風致保持を目的に県は ・岡山県小田郡新山村の長尾円澄氏がアーリー・リバ
ど ようすいみつとう
保安林を設定。奥安楽川村田鶴木 81 町 3 反 8 畝、神田鷹巣尾 73 ーと上海水蜜桃の実生から「土用水蜜桃」を発見、関
町 1 反 8 畝、神田亀沢 55 町 9 反 7 畝、調月村調月里子谷 54 町、 西地方の主要品種となり明治-大正時代に広く栽培され
田中村竹房最初扇平 52 町 4 反 9 畝が保安林となる[12]。
た[40]。
・この年以降、安楽川村段の堀内爲左衛門氏らネーブル苗木を年
々 30 万本、果実 2 万 5 千箱を収穫して各地に輸出、世に爲左衛門
氏をネーブル王と呼ぶ[47]。
明治時代
・明治時代の肥料:明治 20 年頃までの肥料は、厩肥・
(1868-1912 年)
堆肥・人糞尿・草肥などの他、販売肥料として魚肥・
油粕・米糠、などが使用された。明治 30 年頃から大豆
粕・硫安・燐鉱石等の輸入が激増するとともに、国内
でも人造肥料の製造が盛んになり、明治末には魚粕な
どの使用が減少した[明治園芸史第 8 編,14]。
明治 31(1898)年
しやんはいすい
でんじゆうろう
・段新田の宇田辰之助・宇田由吉氏ら 5 人が攝津に出かけ 上 海水 ・神奈川県橘樹郡田島村の吉沢寅之助氏が「伝 十 郎」
みつ
てんしんすいみつ
せんてい
密・天津水蜜の剪定や袋掛、病害虫駆除等の栽培を実地研修、穂 を発見、戦前には関西地方の主要品種となる[40]。
木を求めて持ち帰る[47]。桃の品種、栽培技術導入。
・この年、一本管型(手押し)噴霧器が国産化[14]。
のりさと
・4 月、紀和鉄道会社が五条-橋本間、5 月に和歌山-船戸間の鉄道 ・明治 32 年 10 月付那賀郡長/秋山徳隣訓令、郡内町村
を完成させ、船戸-橋本間は安楽川を通り紀ノ川南岸を通す計画を 役場宛:県令を以て小学校の設備規則改正令を発布。
提示。しかし安楽川の村民は猛反対、結局船戸から紀ノ川を渡っ 現に寺院・民家を仮用して校舎としているものは、今
て河北を通すことになり安楽川・調月に鉄道は来なかった[12-下,34]。 後 2 ヶ年度以内に必ず新築、または相当の設備となす
・・この年、調月村の小西傳松氏・政之助氏兄弟が植木技術を他 こと[12 上,34]。
産地に学び、調月の苗木/植木づくりの大本となる[7]。
明治 32(1899)年
・10 月、那賀郡会議員 30 人が選出され、安楽川村の千田勘十郎 ・町村歳出予算額:安楽川村 2,427 円 66 銭、置く安楽
・奥安楽川村の殿尾喜代蔵・調月村の津田織之助が選出[12 上,34]。
川村 918 円 26 銭、調月村 1,247 円 49 銭、細野村 622
円 7 銭、粉河町 7,527 円 90 銭、岩出村 4,287 円 92 銭、
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桃山町の歴史と桃の年表
那賀郡 36 町村合計 88,328 円 95 銭[12 上,34]。
・石灰ボルドー液の調整法(斗式)が定められ、各種果
樹に普及始まる[14]。
・福島県伊達郡で明治 32 年頃から本格的に桃栽培が行
われたのが福島県の桃栽培の発祥地で、日露戦争後に
山地開墾が行われて増植が進んだ[果樹栽培の沿革,14]。
明治 33(1900)年
・9 月1日、産業組合法が施行され各町村に産業組合が設立され ・5 月4日、船戸-清水間の紀和鉄道紀ノ川鉄橋が完成、
る。安楽川の桃は組合を通じた肥料購入や桃の出荷販売が行われ 和歌山-橋本間が全線開通[12-下,34]。
ることとなる[12-上,34]。しかし安楽川村誌[47]には産業組合の業務に ・8 月 20 日、小学校令が改正され義務教育の小学校尋
桃の出荷記録はみえない。
常科 4 年間は授業料を徴収しないこととなる[12-下,34]。
・この頃、段新田で初めて桃の害虫防除に袋掛けが行われる[22]。 ・岡山県御津郡横井村の石谷末吉氏が上海水蜜桃の実
り かくすいみつとう
(主に「チョッキリゾウムシ」や「シンクイムシ」の加害予防[58]。 生から離核水蜜桃を発見[40]。
・当時、ゾウムシ(シンキリとも云った)は朝露で虫の羽が乾かな
からかさ
ひ がさ
い早朝に枝の下に唐傘や日傘を裏向けて受け枝を揺すって虫を落
とし捕らえた。この方法は昭和 20 年頃まで普通に行われた[58]。
・紀和鉄道の開通[12-下]により京阪神方面への新田桃の鉄道出荷始
まる[22]。
明治 34(1901)年
・1 月、和歌山区裁判所安楽川出張所が安楽川村市場の家屋を仮 ・岡山県赤磐郡可真村の大久保重五郎氏が上海水蜜桃
はくとう
庁舎として事務を開始。所轄は安楽川・奥安楽川・調月・丸栖・ 系の偶発実生から「白桃」を選抜、また水鉄砲式噴霧
東貴志・中貴志・西貴志の各村[7]。
器を発明、実用化[14]。
せんてい
・安楽川村で初めて桃の剪定が行われる[22]。
明治 36(1903)年
・調月村長役場を大日寺境内に新築[19]。桃山町合併まで業務[58]。 ・調月戸長時代の役場は大日寺・薬師寺・大歳神社社
務所と変転[19]。
明治 37(1904)年
・細野村より日露戦役に 13 名出征、奮戦す。うち、梶谷松之助、 ・2 月、両切り煙草「スター」
・「チエリー」
・「リリー」
奥垣内梅松両氏が戦病死[49]。
が発売、それぞれ 7 銭、6 銭、5 銭。口付き煙草「敷嶋」20
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桃山町の歴史と桃の年表
本入 8 銭、
「朝日」同 6 銭[60]。
・紀和鉄道は、前年 7 月の大雨による路線被害が甚大
となり株の配当困難となり経営破綻し関西鉄道会社に
19 万 3 千 540 円にて売却される[12-下,34]。
・明治 37 年、満州・朝鮮の支配権をめぐって日本とロ
シアとが戦争。2 月宣戦布告。日本は旅順攻撃、奉天
会戦、日本海海戦などで勝利を収めたが戦争遂行能力
が限界に達し、ロシアも相続く敗退や国内の革命勃発
などによって戦争終結を望み、同 38 年 9 月、アメリカ
大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条
約を締結[21]。(日露戦争)。
明治 38(1905)年
・貴志川大洪水、堤防決壊 5 カ所以上に及び被害甚大[19]。
・調月観音経寄付連名:明治丗八年壱月廿弐日
・4 月、きざみ煙草発売、
「白梅」40 匁(150 ㌘)60 銭、
加山段:加山文 「さつき」同 40 銭、
「あやめ」同 32 銭、
「はぎ」同 24
吾、他十四人。茶の木原段:矢野新三郎、他十五人。宮ノ尾段: 銭[60]。
藪田常吉、他九人。寺前段:津田立一、他十八人。中筋段:野口
鹿助、他十五人。井上段:小西浪之助、山下清造、他十人。稲葉
段:稲葉乕之助、高岡喜三朗、他六人。宮折段:津田信徳、他三
人。福井/山ノ上段:山上磯楠、他二人[同観音経堂寄付帳]。
明治 39(1906)年
・この年、日露戦争における軍事輸送の秘密確保等のため(桃出荷 ・米国製サクセス型(手押し)噴霧器が有田郡保田村で
の輸送機関となってきた)関西鉄道が、政府に買収され、明治 40 ミカン防除に初めて利用される[27]。
年 11 月 1 日から国鉄関西支線和歌山線となる[12-下,34]。
- 88 -
・岡山県赤磐郡可真村で小林雄治氏が離核水蜜桃と土
桃山町の歴史と桃の年表
こ ばやしすいみつとう
・那賀郡費の町村分担金:安楽川村 165 円 81 銭、奥安楽川村 39 用水蜜桃の混植園で小 林 水蜜桃を発見[40]。
円 5 銭、調月村 54 円 80 銭、細野村 17 円 80 銭、粉河町 146 円 21 ・野田原の雨山(山頂標高 477 ㍍)を郡有林とし、合理
銭、岩出村 105 円 7 銭、那賀郡 36 町村合計 2,867 円 1 銭[12-上,34]。 的造林経営の模範を示し啓発することとなる[12-上,34]。
明治 40(1907)年
・1 月 14 日、調月農業補習学校創立[19]。
・この年、一村一社の神社合祀の勅令が出され大正 13
・神社合祀令により、その後安楽川村・奥安楽川村・調月村・細 年までに全国に 20 万社在った神社の 7 万社が主な神社
野村の多くの神社が後に一村一社に合祀される[8]。
に合祀される。
・段新田と百合に果物出荷組合を創設[22]。組合長に村垣康太郎。 ・那賀郡内小学校への就学率は 97.85 ㌫[12-下,34]。
・安楽川村・調月村・丸栖村・山崎村・長田村・田中村の夏果物 ・小学校令が改正され、義務教育 4 ヶ年から 6 ヶ年に
明治 41(1908)年
の出荷団体として那賀郡果物組合を組織[27]。
延長となる[12-上,34]。
・この頃以降、桃や柿の薬剤散布に手押し式噴霧器が逐次普及。
・石灰硫黄合剤が果樹の防除に使用され始める[14]。
・温州蜜柑の那賀郡同業者組合が設立、栽培の多い村は川原村・ ・8 月、岩出村が町制を施行、岩出町となる[60]。
麻生津村・奥安楽川村・上名手村・龍門村であった[12-上,34]。
明治 42(1909)年
・各村で養蚕業が最盛期を迎える[58]。
・3 月 8 日、度量衡法改正法が公布され尺と貫(尺貫法)
・安楽川村の四ケ字の神社を三船社に合祀す[47]。
が基本となる[44]。
・細野村農会を設置[49]。
・明治 42 年農林省園芸収集品種[桃]:・アーリーリバ
・10 月 1 日、調月村青年農会創立、後に青年団と呼ぶ[19]。
ース・アーリークローホード・アムスデンジューン・
アレキサンダー・インペリアル・ウエージャー・エン
マ・エルバータ・エーセントジョン・カリフォルニア
クリング・グロッスミニヨン・ゴールデンクリング・
サスケハンナ・サルエー・シーイーグル・スタンプゼ
ヴォールド・ヂョージスレート・トライアンフ・ニュ
ーホール・ビクエッツレート・ヒース・ビルユースレ
ート・フィリップス・フォスター・フォックスシード
リング・ブラッドリング・ブリッグスメー・ホイート
ラント・マウンテンローズ・マクデビッツ・マリース
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桃山町の歴史と桃の年表
チョイス・モリスホワイト・ラージホワイトクリング
・ラニョンスオレンヂ・レートクロフォード・レモン
フリー・ローベル・ローヤルジョージ・ワーヅレート
・晩尖・大稲田・金桃・上海水密桃・瑞西桃・谷五郎
・天津水蜜桃・土用水蜜桃・新山天津桃・半兵衛・日
ノ丸・蟠桃・離核水蜜桃。[油桃]・アーリーニューウ
イントン・プロコースドクロンセル・ボストン。[恩田鉄
彌 実験園芸講義,14]。
明治 43(1910)年
・5 月 11 日、調月村に台風被害[19]。
・この年、神奈川県の吉沢寅之助氏が伝十郎桃の実生
たちばな わ
せ
・この年の人口:安楽川村 3,780 人、奥安楽川村 2,080 人、調月村 から半月以上も早熟する品種を育成「 橘 早生」と命
2,109 人、細野村 1,092 人。那賀郡 36 町村合計 9 万 5 千 589 人[12]。 名し大正4年公表[14]。
・10 月、調月村に在郷軍人会が組織される[19]。
・細野村農業補習学校を垣内に設立、但し男子のみ[49]。
・12 月、那賀郡内 36 町村に青年会が組織され、安楽川村 187 人、
奥安楽川村 186 人、
調月村 38 人、
細野村 122 人が加入、
郡合計 5,402
人が加入する[12-下,34]。
明治 44(1911)年
・4 月、野田原村の村木保隆氏が初めて温州苗を植える[同家記録]。
・調月村村長/坂本文三郎氏(在職、明治 44 年 4 月 19
・9 月、貴志川大洪水で調月村の水田損害 8 千 200 円、畑 1 千 200 日-大正 9 年 1 月 6 日)[19]は、調月上げの水飢饉を何と
円、宅地 2 百円、建物 6 百 50 円、里道 100 円、橋梁 60 円、河川 しても救わんと考えたあげく愛宕山東の谷水(佛谷)を
堤防 5 千円、雑 30 円、合計 1 万 8 千 60 円を数える[19]。
堰き止めて池を造り、増田池に水を導いてくる方法を
・11 月、那賀郡会議員 30 人が選出され、安楽川村から室谷徹、 考えた。村の予算が足りなんだので自らの田畑を売っ
奥安楽川村から津田茂之、調月村の藪内泰造が選出される[12-上,34]。 て資金を確保、八年の歳月をかけて池を造り導水トン
ネル工事を完成させたのが大正 2-3 年のことという。
里人たちは新しい池を「トンネル池」と呼ぶことにな
った。池の広さは約一町歩(9,918 ㎡)であったが随分と
- 90 -
桃山町の歴史と桃の年表
骨が折れたらしい[加山秀雄/福岡胤治,桃山町発行:桃山の民話.和歌山
県民話の会編]。坂本文三郎氏はその後、和歌山市に転居さ
れ、戦後の食糧難の頃、調月の上げを頼って食糧を買
いだしに来られたが、上げの人達は知らぬ顔したと云
う[調月稲葉の坂本武彦氏が父親から聞いた話]。
明治 45(1912)年
・那賀郡内神社の氏人数(抄):安楽川村三船神社 600 人、調月村 ・2 月 12 日、船戸-岩出間に木橋の岩出橋開通、幅員 1.5
大歳神社 430 人、細野村丹生神社 206 人[12-下,34]。
間。かつては大和街道の船戸-岩出間の紀ノ川は、岩出
の渡と呼び、船頭が俗謡を唱じながら旅人を渡した。
人馬の往来が繁くなるころから仮橋が架けられたが洪
水の度に流された[60]。
・7 月 30 日、
「大正」に改元。
たいしよう
大 正 元(1912)年 ・市場村の西に安楽川隔離病舎新築[47]。この頃、腸チフスが多発 ・賀賀郡内小学校の就学状況:学齢児童 14,822 人、不
していた。
たいしよう
大 正 2(1913)年
就学児童 162 人、就学率 98.91%[12-下,34]。
さんそう
・安楽川の一部桃園で初めて石灰硫黄合剤を散布。サンソー(酸曹) ・岩出に電気会社が建てられ電灯がつき、劇場が建つ
き せつかい
い おう か
液と呼び[22]、生石灰を水で消化させ硫黄華と水を入れて大釜で炊
[60]。
いて作る[58]。
大正 3(1914)年
・県農事試験場は田中村竹房で、同 4 年に段新田の桃園で病害虫 ・全国の桃収穫量 3 万 9 千 2 百㌧[14]。
予防試験を行う[県農事試験場業務功程]。
・安楽川井の水門工事竣成す[47]。
・奥安楽川村善田の増田長三郎氏らが奥安楽川索道株式会社を設 ・6 月 28 日、オーストリア皇太子フェルディナント大
立、黒川-善田-竹房-打田の約 16 ㎞に索道を架設、農産物、肥料、 公夫妻がサラエボでセルビアの青年に暗殺され第一次
食糧の輸送始める[7]。
世界大戦の直接原因となる(サラエボ事件)[21]。
・6 月の那賀郡内諸物価:炭1俵 13 銭 5 厘、木綿1反 40 銭、塩 1 ・7 月、サラエボ事件をきっかけにオーストリアがセ
貫目 14 銭 5 厘、醤油 1 升 32 銭、砂糖 1 斤 16 銭、鶏卵 1 個 2 銭、 ルビアに宣戦、次いでドイツ・オーストリアとイギリ
牛肉 1 斤 20 銭、麦 1 升 5 銭、米 1 升 16 銭[12-上,34]。
- 91 -
ス・フランス・ロシアとの間に宣戦布告がかわされ、
桃山町の歴史と桃の年表
さらに日本・ルーマニア・ギリシアや同盟を脱退した
イタリアが協商側にトルコ・ブルガリアが同盟側に参
戦して世界戦争に拡大(第一次世界大戦)[21]。
大正 4(1915)年
・9 月 8 日、紀ノ川が洪水、竹房渡しで船が転覆。安楽川方面か ・神奈川県橘樹郡大島村(現川崎区大島)の吉沢寅之助
ら粉河高等女学校に通学の女生徒 9 人が水死[12-下,8,34]。船の転覆は 氏が「伝桃」の実生から半ヶ月以上も早熟する理想的
粉河中学に通う男子生徒が面白おかしく船を揺すった爲に起こっ な品種を改良し「橘早生」と命名[川崎区史研究会:小泉茂造氏]。
た。女生徒の水死体を捜索の結果、紀ノ川河口まで流されていた ・5 月 13 日、漢口で排日運動が激化、日本商店の襲撃
[58]。
事件起こる[44]。
・郡会議員 30 人が選出され、安楽川村から田中雄二、調月村から ・神奈川県農事試験場園芸部(中郡二宮町)で富樫常治
稲垣正博、細野村から上清二郎が選出される[12-上,34]。
氏・川口正英氏らが、大正 4 年から桃の交配を行い選
抜調査を継続し、その後「白鳳」・「昭和」など、有望
と思われる 10 種を命名した[農業及び園芸 11 巻 5-6 号,14]。
大正 6(1917)年
・5 月 21 日、善田に奥安楽川小学校開校、児童数 387 人[53]。
・8 月 1 日、那賀郡立野上農蚕学校が東野上村動木に
開校、修業 3 ヶ年、授業料月 80 銭、男女別学[12-下,34]。
・9 月 21 日、那賀郡立河北農蚕学校が池田村北大井に
開校。男女とも小学校尋常科 6 年卒業者を入学資格と
し修業 3 ヶ年、授業料月 80 銭、男女別学[12-下,34]。
・石灰硫黄合剤を高圧釜で処理する新製法が清水市の
多喜六次郎氏によって発明[14]。
大正 7(1918)年
・8 月、大正 3 年から始まった第一次世界大戦により物価高騰が ・この頃の嫁入り道具は、箪笥・長持は荷持ち人が、
続き米が 1 石 19 円から 40 円に値上り。8 月 9 日、粉河町・名手 花嫁の家で振る舞い酒を飲んで景気を付け、メリヤス
町で米騒動が起こり警察や軍隊が出動、8 月 18 日に治まる[12-上,34]。 襦袢に股引、鉢巻姿で担いで運ぶ。青竹を小脇に持っ
・8 月 17 日、天皇から那賀郡へ米穀廉売資金 4,771 円下賜される ち、道中で休んだり唄を歌う時に荷物を支える。これ
[12-上,34]。
を息杖と呼んだ。花嫁の家を出る時は表に勢揃いして、
・9 月 20 日、米安売りを受けた那賀郡内の人数(抄):安楽川村 950 長持ち唄など歌う。また結婚式が済むと、近所の女連
人、奥安楽川村 642 人、調月村 1,050 人、細野村 200 人、粉河町 2,635 中が衣装見せにやってくる[60]。
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桃山町の歴史と桃の年表
人、名手町 400 人、岩出町 697 人、池田村 2,519 人、田中村 1,583
人[12-上,34]。
大正 8(1919)年
・野上農蚕学校在学生徒数(抄):奥安楽川村 4 人、東野上村 66 人、 ・那賀郡会議員 30 人が選出され、
安楽川村から奥四郎、
たね お
計 195 人。河北農蚕学校在学生徒数(抄):安楽川村 6 人、調月村 1 奥安楽川村から直高鶴太郎、調月村から岡胤夫が選ば
人、池田村 20 人、田中村 49 人、計 173 人[12-下,34]。
れる[12-上,34]。
・10 月 1 日、調月小学校に御真影奉安庫(殿)が寄贈される[19]。
・選挙権は男子 25 歳以上で直接国税 3 円以上納めてい
る者に限る[12-上,34]。
・那賀郡立粉河高等女学校が県立に移管される[12-下,34]。
大正 9(1920)年
・2 月の那賀郡内諸物価:炭 1 俵 2 円 30 銭、木綿 1 反 4 円、塩 1 ・10 月 1 日第一回国勢調査:那賀郡内町村人口(人):
貫目 35 銭、醤油 1 升 1 円 22 銭、砂糖 1 斤 50 銭、鶏卵 1 個 8 銭、 安楽川村 3,919、奥安楽川村 2,223、調月村 1,897、細野
牛肉 1 斤 95 銭、麦 1 升 28 銭、米 1 升 54 銭[12-下,34]。
村 1,138、粉河町 6,238、名手町 1,985、岩出町 3,282、
・那賀郡内町村の繭産額(抄):安楽川村 642 石、奥安楽川村 631 田中村 5,456、那賀郡合計 95,155 人[12-上,34]。
石、調月村 463 石、細野村 266 石、小倉村 1,042 石、東野上村 927 ・細野村中畑で大火災、11 戸焼失[49]。
石、西貴志村 923 石、36 町村合計 17,909 石[12-上,34]。
・那賀郡内の温州蜜柑作付け面積:川原村 248 町 8 反、麻生津村
244 町 8 反、奥安楽川村 229 町、上名手村 192 町、龍門村 125 町 2
反、粉河町 99 町 5 反、田中村 69 町、安楽川村 23 町など[12-上,34]。
大正 10(1921)年
・硫酸ニコチンが静岡県農事試験場で梨の害虫防除に有効なこと ・岡山県御津郡平津村の福本喜久治氏の園で偶発実生
おかやま わ
せ
が報告され[14]、その後各種の果樹や作物の害虫駆除に使用される から「岡山早生」が発見され早生水蜜・栄水・福光水
[58]。
蜜の異名で早生種の代表品種となる[40]。
・那賀郡内の医師/歯科医/産婆数(抄):安楽川村 5/0/2、奥安楽川村
1/0/1、調月村 2/0/1、細野村 0/0/0、粉河町 4/1/4、名手町 4/2/4、岩
出町 3/3/1、田中村 1/0/2、東野上村 3/0/2、36 町村計 48/9/47[12-下,34]。
・当時の歌謡:「私しや富山の薬売り/惚れちゃならない薬売り」、
安楽川村・奥安楽川村・調月村・細野村などに売薬(置き薬)商人
かい
が 12 人居た[12-下,34]。農家は野菜の肥料に糞尿を使用したので、蛔
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桃山町の歴史と桃の年表
ちゆう
虫 駆除薬に「セメン薬」も置き薬に。また薬屋は風船を持って子
供らに与えたので子供に人気があった[58]。
大正 11(1922)年
・調月村高島に木製の高島橋が架橋される。工事費は県・郡・村 ・全国の桃収穫量 4 万 3 千百㌧[14]。
費合せて 4 万 2 千 995 円。
・船戸駅-安楽川村市場間に乗合バス運 ・那賀郡立野上農蚕学校、河北農蚕学校が廃止となり、
行開始[12-下,34]。船戸駅や和歌山市方面へ桃の輸送が便利になる[58]。 在学生は岩出町高塚に新設した県立那賀農業学校の専
・那賀郡内の寺院(抄):安楽川村神田/正福寺(真言宗)/同村最上/興 修生として編入される[12-下,34]。
りんとうあん
山寺(真言宗)・琳洞庵(尼寺)、同村市場村/蓮台寺(真言宗)、同村段/ ・3 月 3 日、京都で全国水平社創立大会が開催され
弥勒寺(真言宗)、同村段新田/薬師寺(真言宗)。調月村/大日寺(真言 2,000 人が参加、以降各地で水平社が組織される[同和資料
宗)・同村/遍照院(同)・同村/観音寺(同)・同村/教了寺(浄土真宗)。
,34]。
奥安楽川村善田/安養寺(真言宗)・同村黒川/安楽寺(同)・同村野田 ・4 月 9 日、賀川豊彦・平野力三らにより、日本各地
原/三宝寺(真言宗)・同村安養寺(同)・同村脇谷寺(真言宗)。細野中 で生まれた小作人組合が日本農民組合として結成され
畑村/阿弥陀寺(真言宗)・四郷/地蔵寺(同)・峯/地蔵寺(同)・勝谷/善 る[日本史年表,34]。
福寺(同)・垣内/極楽寺(同)・円明寺/妙見寺(同)。郡内に 282 寺院あ ・7 月 15 日、堺利彦・山崎均・片山潜らが日本共産党
り、殆どは真言宗寺院[12-下,34]。
大正 12(1923)年
を結成し天皇制廃止と市民革命を唱える[日本史年表,34]。
・1 月、高島橋の鉄橋工事起工[12]。大正 11(1922)年に架橋された ・9 月 1 日、関東大震災[21]、死者不明者 14 万 2 千 8 百 7
木製橋がその後の貴志川洪水[和歌山県災害史]で流されたか。
ど くら
人、全壊焼失 57 万五百 39 戸[7]。
この頃から天津水蜜や堂倉を北海道函館の問屋に向けて出荷、内 ・大正時代の農林省桃種収集品種:・稲田・晩尖・菊
地の 4 倍の高値に売れる[22]。
水桃・金桃・殿水蜜桃・上海水密桃・谷五郎・橘樹早
生・傳十郎・天津水蜜桃・土用水蜜桃・新山天津桃・
すい す
蟠桃・白桃・離核水蜜桃・名不詳(瑞西原種)・アドミ
ラルジュエー他、欧米種 55 品種。ネクタリン 7 品種[農
林省園芸試験場大正 12 年,14]。
大正 13(1924)年
・那賀郡果物組合を設立、段新田の薬師寺境内に事務所[22]。
・3 月 10 日、東野上村動木に村立東野上実践女学校が
・この年の安楽川村果物生産統計(大正 13 年刊)、柑橘、柿、梨、 設置される[12-下,34]。
梅、桃がみられ、総作付け面積七町七畝余歩、うち桃が四町七反 ・3 月 25 日、生糸の価格暴落、全国の製糸業者が一斉
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桃山町の歴史と桃の年表
五畝余、産額八万五千貫(約 319 ㌧)と大きな比重を占める[22]。
休業となる。
・3 月、調月村のトンネル池と導水路建設、耕地整理に尽力され ・婦人参政権獲得期成同盟会が結成される。
た坂本文三郎氏の功績を称え、調月(山ノ上)上げに功績碑を建つ[碑 ・全国の桃収穫量 3 万 8 千百㌧[14]。
文銘]。
大正 14(1925)年
大正 15(1926)年
・1 月 26 日、安楽川南部の住民三百余人が斧鎌を持って待尾の松 ・神奈川県農事試験場二宮園芸分場で菊池秋雄氏らが
木を伐採、田中村委員が安楽川側に抗議、警察官の出動となる。
白桃に橘早生を交雑、「白鳳」を育成 [14] 。白鳳はその
・9 月、安楽川村有志が特設電話組合を設立[7]。
後、福島県等で系統選抜がすすみ、現在も主流品種と
・安楽川村に電話・電報が開通[12-上,34]。
して全国で栽培される[58]。
・5 月、貴志川の高島鉄橋が完成[12]。
・8 月 6 日、日本放送協会(NHK の前身)が設立され、
ラジオ放送が開始される[日本史年表,34]。
・県立那賀農業学校(岩出町高塚)が県立紀北農業学校
に改称される[12-下,34]。
・12 月 25 日、
「昭和」に改元[21]。
昭和初(1926)年
・静岡県で桃の主な栽培品種は、極早生「ビクトリア」
・中生系には「橘早生」
・晩生には「伝十郎」
・「久保」
であった。この頃、神奈川県試験場にて育成された品
種に、
「冨士」
・「日ノ出」
、宿河原にて出来た「宿早生」
、
登戸にて「但馬早生」と、多くの品種が出来た。一長
一短あり、最後に残ったのは「宿早生」
・「橘早生」
・「伝
十郎」になった。又、神奈川試験場育成の「白鳳」が
人気が出て、伝十郎は次第に姿を消した[14]。
昭和 2(1927)年
・船戸-市場間の乗合自動車が神田まで延長、1 日 2 往復[7]。安楽 ・白桃の育成者/岡山県赤磐郡可真村の大久保重五郎氏
川村市場の中林氏、神田の田井氏が貨物自動車の運送業を始め、 が大正 14 年、白桃の実生樹から新種を発見、昭和 2 年
おお く
ぼ
桃や温州蜜柑を国鉄和歌山線船戸駅へ運送、神田の田井氏はタク 「大久保」と命名[14]。
シー運行も実施するようになる[47]。
・3 月 15 日、金融恐慌が起こり、銀行・会社の破産・
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桃山町の歴史と桃の年表
・「大久保」は大果の離核で栽培容易な特性からこの頃以降、安楽 休業が続出する[日本史年表,34]。
川村・調月村に広く普及[58]。
・12 月、和歌山県伊都郡かつらぎ町寺尾の北浦徳三郎
氏が、岡山県から[ドクラ(堂倉)]という桃品種を導入し
初めて水田に植栽した[林正久,14]。水田転作の桃栽培。
昭和 3(1928)年
・個人で貨物自動車を購入して運送業を始める業者が現れ桃の輸 ・11 月 5 日、NHK がラジオの全国中継放送を始める[7]。
送販路が拡大[7,22]。川船を営業する業者が減り僅か 2 隻となる[47]。 ・細野村で船迫光一氏宅にて初めてラジオ聞く[49]。
・安楽川(田中)村百合山の新四国巡礼所が再整備され桃桜の花咲 ・この年、初めて国産の動力噴霧機(宿谷式)が作られ
昭和 4(1929)年
く頃、各地から大勢の人が訪れる[7,47]。
た[池上勇三著/現在農業,14]。
・奥安楽川村黒川に郵便取扱所が開設される[47]。
・昭和初期から砒酸石灰の製造が始まり[14]、その後果
・竹房橋が架橋、橋の南半分だけ鉄橋[17]。
樹害虫の防除に使用された[58]。
ひ さんせつかい
・この頃から打田駅への川船による桃輸送が途絶える[22]。
昭和 5(1930)年
・安楽川村段新田の宮村信太郎氏らが桃の「安楽川第一共撰」を ・全国の桃収穫量 5 万 3 千百㌧[14]。
結成。これを機に各部落で共撰組織が 12 カ所に及ぶ[14]。
・動力噴霧器(有光式・初田式・丸山式)が発売される
・調月村では最近 40 年来、繭・生糸暴落から桑園を柿/桃に転換 [14]。
[19]。
・昭和 6 年、奥安楽川村の桑園 848 反・養蚕(繭)8,390
・奥安楽川村農業:田 965 反・畑 2,267 反、米 965 反・麦類 214 貫、家畜:牛 105 頭・馬 12 頭・鶏 1,340 羽[57]。
反・大豆他 102 反、温州等柑橘 1,381 反(内温州 1,320 反)、梅・桃 ・浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約に調印、財政
5.5 反、枇杷 2 反、生柿 40 反、茄子他 227 反(内茄子 85 反)、コン 緊縮、産業合理化(デフレ政策)を行い失業者 31 万人と
ニャク芋 3 反 320 貫。林産物:栗 20 石・棕櫚 16,000 斤・竹皮 200 なり農村不況が深刻化、加えてニューヨーク株式暴落
ご ばい し
たけのこ
貫・棕櫚葉 900 貫・五倍子 400 斤。松茸 1,200 斤・竹荀 3,500 貫・ が波及、生糸輸出の激減により米価が下落[日本史年表,34]。
白炭/黒炭 9,500 貫[57]。
昭和 6(1931)年
・調月村の地目別反別:田 15,607.94 ㌃、畑 5,639.5 ㌃、宅地 1,176 ・8 月現在の調月村商店数:菓子商 10、饅頭商 1、飲
㌃、山林 23,976 ㌃、原野 1,269 ㌃。村内用水池:増田池(奥新田・ 食店 3、醤油店 1、酒商 8、雑貨商 6、呉服店 2、煙草
156.0 ㌃)、林池(山田・27 ㌃)、茅生池(奥新田・37.7 ㌃)、櫻池(尼 商 7、薬屋 3、炭屋 3、八百屋 2、旅宿 3、履物商 3、米
岡・42.9 ㌃)、新設池(佛谷:通称トンネル池 42.9 ㌃)、秀右衛門池(山 穀商 2、理髪店 2、肉商 1、苗木商 10、豆腐屋 4、医師 3、
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桃山町の歴史と桃の年表
田 24.1 ㌃)、菅谷池(稲葉段・28 ㌃)、松池(尼岡・通称カゴ池 32.9 竹材木商 3、牛乳商 1[19]。
㌃)、花王院池(尼岡・39 ㌃)、楓池(北上ノ台・10 ㌃)、金剛池(北上 ・9 月 18 日の柳条溝事件を契機に日本の関東軍による
ノ台 55.8 ㌃)、曽池(稲葉段・121.2 ㌃)、上曽池(山田・80 ㌃)、藪 満州侵略戦争起こる。若槻内閣は不拡大方針をとった
田池(奥新田・3.1 ㌃)、土井池(尼岡・通称土井ほ 3.0 ㌃)、大日池 が危機に立つ日本資本主義は経済的にも軍事的にも満
・通称大日ほ(尼岡 9.0 ㌃)、野口池・通称蛭池(奥新田 7.3 ㌃)、殿 州占領を望み、軍は政府の方針を無視して満州全土を
池・通称トンノイケ(山人平 6.0 ㌃)、金性池(金性谷 49.6 ㌃)[19]。
占領、翌(1932)年 3 月に満州国を独立させた[21]。
・調月村の産額:米 2,210 石:1 石 17-18 円、麦/小麦 750 石:同 8 ・9 月 18 日、満州事変が起こり日本軍の中国侵攻始ま
-9 円、蜜柑 53,200 貫:1 貫 20-30 銭、繭 7,500 貫:10 貫 30 円[19]。 る。国内不況が続き、初めてのトーキー(音声同調)映
・8 月 21 日現在の調月村家畜飼養数:牛 125 頭、馬 4 頭[19]。
画「大学は出たけれど」が上映され、宮沢賢治は「雨
・10 月、安楽川村最上塩塚に、南朝方の忠臣/塩谷伊勢守の古墳 にも負けず」を作詞発表[日本史年表,34]。
跡に有志らが資金を募って碑石を建て遺跡とした[8]。碑石は現存
するが道路整備で位置は若干動かされた。
昭和 7(1932)年
・この後、安楽川村に「清水白桃」が導入され、栽培性に難点あ ・岡山県芳賀清水(現岡山市)で西岡仲一氏が白桃と岡
し みずはく
るも品質優れ関西市場では白鳳に次ぐ中生の主力品種となる[58]。 山 3 号の混植園で成熟の早い偶発実生を発見、
「清水白
・安楽川村の最高齢者:段新田の谷口藤兵衛氏 93 歳[47]。
とう
桃」と命名[14]。
・奥安楽川村戸数/人口:大原 42 戸/212 人、善田 82 戸/405 人、黒 ・5 月 15 日、海軍青年将校と陸軍士官学校生が政党/
いぬかいつよし
川 191 戸/867 人、野田原 135 戸/673 人、脇谷 22 戸/106 人、計 472 財閥/特権階級の打倒を叫び、三井政友会/犬養 毅 首相
戸/2265 人[47]。
を白昼に暗殺、政党政治が終わる[日本史年表,34]。
・郡内の民衆に新聞購読が広がりラジオの購入者が出
てきた[12-下,34]。
・愛媛県松山市道後湯之町の河野房五郎氏が、初めて
動力噴霧機を使用した[愛媛県果樹園芸史,14]。
・昭和 7 年末の青森県下の動力噴霧機台数は 39 台で、
米国式よりも島式等の国産の方が多く、昭和 12 年末で
は 9,946 台[京都園芸 20 輯,14]。
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桃山町の歴史と桃の年表
昭和 8(1933)年
・安楽川村の桃栽培面積 329 反、9 万 8 千百 60 貫、主な品種:天 ・3 月 27 日、日本が国際連盟を脱退[日本史年表・34]。
津水蜜・堂倉水蜜・田中早生・土用水蜜・伝十郎・離核水蜜・上 ・8 月末、安楽川村の職業別戸数:農業 780、工業 24、
海水蜜、出荷先:早生種は北海道、他は東京・大阪・和歌山・北 商業 48、漁業 2、その他 11、計 865 戸[47]。
しまがら
陸方面。主に自家用桃苗木 4 千五百本[47]。
・女子の衣服縞柄は一段と華美鮮明、帯は八寸巾の昼
ちやがゆ
・近頃の食事は朝は茶粥、昼は米飯、夕は昼飯を粥にする。男子 夜帯、丸帯は儀式用。夏はアッパッパ用いる者流行な
こん が すり
しま だ ちようちよう
の常着、和服はセル・モス・大嶋・木綿・紺飛白、礼服は黒紋付 り。島田 蝶 々 の髪型は衰え洋髪多し。中老男子の丸
はかま
むぎわらぼう
羽織、 袴 云々、洋服の愛用は次第に蔓延、夏の帽子は麦藁帽一点 刈りは尚多きも青年は殆ど長髪にてチック・ポマード
張り。懐中時計は次第に廃れ男女とも腕巻時計[47]。
なで あ
にて撫上げ分けたる者多し云々。盆踊りは昔盛んなり
・日本は国際連盟を正式に脱退する[44,日本史年表]。国定教科書の改 しが今はなし[47]。
訂、小学校一年生の国語教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」 ・和歌山鉄道貴志川線が開通[12-下,34]。
で始まり、
「ススメ ススメ ヘイタイススメ」となる[34]。
昭和 9(1934)年
・9 月 21 日、室戸台風襲来、家屋倒壊、果樹園にも大被害[7]。
・室戸台風襲来により全国で死者 2,702 人、不明 334
・9 月 4 日、細野村大字勝谷の善福寺境内の榧の大樹が天然記念 人、負傷者 14,994 人[理科年表平成 17 年版]。
物に指定される。幹廻り二丈二尺(約 7 ㍍)、樹高約八十尺(約 24 ・外国から導入された桃品種の栽培状況は、昭和 9 年
㍍)、樹齢千数百年の古樹なり[49]。
には天津・アムスデンジュン・上海・レッドバードク
リング(土倉)・アムスデンジュンなど[農水省農務局農事改良
資料,園芸学会編園芸学全編] 。天津を除く他の品種は、この頃
すでに日本で育成された品種に替わった。天津・レッ
ドバードクリングは、昭和 30 年頃まで僅かに栽培がみ
られた[農水省統計調査部昭和
31 年果樹品種普及統計表,園芸学会編園芸学
全編]。
昭和 10(1935)年
・1 月 17 日、編者/山下重良、誕生。
・袋掛けは当時、イグサで縛っていたが佐賀県で針金
・この頃以降、安楽川・調月でも桃の袋掛けに針金が使用され能 を使うことで能率が上がることを実証[14]。
率倍増。その後、止め金付き袋の出現で更に能率的となる。その ・岡山県都窪郡妹尾町箕島の小銭久三郎氏が小林と大
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桃山町の歴史と桃の年表
後手先の器用な女性は 1 日 4,000 枚も掛けるようになる[58]。
み しまはくとう
平の混植園で偶発実生の中から「箕島白桃」を発見[40]。
・村別世帯数/人口:安楽川村 852 世帯 3871 人、奥安楽川村 452 ・4 月 1 日、青年学校令公布、各村の小学校に青年学
世帯 2126 人、調月村 363 世帯 1680 人、細野村 217 世帯 1611 人、 校が付設され、陸軍下士官(軍曹)によって軍事教練が
合計 1 千 8 百 84 世帯 9 千 2 百 88 人[17]。
行われることとなる[日本史年表,34]。
・調月大歳神社の石鳥居(現在の石鳥居)を米田喜一氏が寄進、も
との両部鳥居は東参道に移される[58]。
昭和 11(1936)年
・小学校・中学校・高等女学校・農業学校・工業学校・商業学校 ・2 月 26 日、皇道派の陸軍青年将校が兵 1,400 人を率
等の正門内側に天皇/皇后の御真影と、教育勅語を入れた桐箱を安 い、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監を殺害、
置する奉安殿が設けられ、登下校時には脱帽して最敬礼するよう 東京朝日新聞社を襲い印刷不能にさせる。首謀将校や
指導された[34,58]。朝礼には奉安殿から桐箱を恭しく取り出し、校 皇道派らが銃殺刑、東条英機ら統制派が軍部の実権を
長先生が壇上で教育勅語を読み上げ頭を下げて聞かされた。
「朕惟 握る[日本史年表,34]。(二・二六事件)
フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ ・3 月、広田弘毅内閣が成立、庶政一新・広義国防を
・・・御名御璽」
、この行事は終戦まで欠かさず続いた[58]。
掲げ、軍備拡張のため 9 月、戦艦大和(7 万 2 千㌧)の建
・安楽川村市場の肥料商/津田氏が、安楽川小学校正門内に南朝の 造に着工[日本史年表,34]。
忠臣/楠木正成の乗馬銅像を寄贈、段新田の山名氏が二宮金次郎の ・二宮金次郎(1787-1856):江戸末期の農政家。通称金
たかのり
銅像を寄贈[34]。昭和 17 年頃には調月小学校の校庭にも草鞋を履 次郎、名は尊徳。相模国の人で苦学の末没落した一家
き柴を背負った少年/二宮金次郎像が建っていた[58]。
を再興。文政五年、下野国(栃木県)芳賀郡の荒地の復
興に努め、その後印旛沼、日光領 89 か村などを復興。
報徳社を創始、自ら陰徳・積善・節倹を励行した人[21]。
昭和 12(1937)年
・支那事変には、応召兵として当地からも多くの人々が軍隊に招 ・7 月 7 日、中国の北京郊外の盧溝橋にて日本の駐屯
集された。安楽川村では応召兵が入隊するに当たり、神田の三船 軍と中国軍が武力衝突、7 月 28 日から日中全面戦争と
神社、調月では大歳神社で武運長久を祈る祈願祭が執り行われ、 なる(支那事変)[日本歴史年表,34]。
小学生も授業を止めて参列し日の丸の小旗を手に手に振りかざし ・日本軍は、政府の不拡大方針を無視して戦火を全中
ながら応召兵を船戸駅まで歩いて見送った。途中、応召兵たちは 国に拡大、北京・天津・上海などを攻撃、国共統一戦
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桃山町の歴史と桃の年表
軍歌を歌い出す。
「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たから 線の激しい抵抗にあい、次々と大軍を投入した。中国
にゃ、手柄たてずに帰らりょか」と。その後、応召される人が日 政府は重慶にのがれて抗戦を続けたが、日本は汪兆銘
増しに増え、戦死して白い布で包まれた遺骨となって帰還する兵 を援助して南京に政府を樹立させたが国際的に承認を
士が多くなり、各村で村葬が盛大に行われる[34,58]。
得られなかった[21]。
・4 月 7 日、銚子ノ口で山火事。細谷より炎上し多野谷・滝の上 ・8 月 24 日、閣議が国民精神総動員実施要綱を決定す
・富士谷に類焼、約 30 余町歩を全焼[当時、銚子ノ口在住西澤重夫氏メモ]。 る[44]。
・5 月、森田無絃の安楽川開塾 60 周年を記念して門人たちにより ・12 月 13 日、日本軍が南京を占領[44]。
市場の神明神社境内に女史の頌徳碑を建つ[竹中佳子:桃山歴史の会 38 号]。
昭和 13(1938)年
・1 月、細野村の職業別戸数:農業 145 戸・林業 25 戸・工業 17 ・1 月 15 日、中国戦線への笑いの慰問団「わらわし隊」
戸・商業 18 戸・その他 12 戸・計 217 戸。農業:稲作 4 百 96.223 一行が門司港を出港。吉本興行の一行には柳家金語楼
反、麦類 96.616 反、大豆 30.800 反、柿 35.500 反、柑橘 1.500 反、 や花菱アチャコ、横山エンタツなどが入っていた[44]。
梨 1.300 反、その他 25 反、桑園 3 百 11.510 反、繭収穫量 6 千 3 百 36 ・2 月 23 日、中国軍機が台北を爆撃する。日本領土へ
貫、農業生産額 6 万 4 千 6 百 90 円。養畜:牛 51 頭、馬 9 頭、鶏 157 の初の攻撃となる[44]。
羽、兔 190 頭、養蜂 10 箱。林業生産:杉用材 22 万 6 千才、炭材 5 ・3 月 8 日、衆議院が 48 億 5 千万円の臨時軍事費を可
わん き
じ
万貫、松材 7 万三千貫。林産加工品:白炭/黒炭 1 千二百俵、椀木地 決する[44]。
しゆ ろ なわ
80 フロ、棕櫚縄四百巻。棕櫚皮 1 千 7 百 84(千枚)、棕櫚芯葉 1 万 3 ・4 月 1 日、国家総動員法が公布され、朝鮮志願兵制
千 4 百 19 貫[49]。
が実施される。芥川賞の火野葦平は国民精神総動員運
・細野村役場に初めて電話開通。全戸数 217 戸中、柱時計 144 戸、 動に協力して「土と兵隊」、「麦と兵隊」の従軍記を出
大阪朝日新聞購読 23 戸、大阪毎日新聞 12 戸、雑誌家ノ光 44 部、 版[日本史年表,34]。
その他雑誌 10 部、国旗 123 戸、蓄音機 36、自転車 71 台、リヤカ ・5 月 30 日、小学校で柔道と剣道が正課に組入れられ
ー 7 台、馬力車 11 台[49]。
る[44]。
・6 月 15 日、御前会議で大本営が武漢作戦・広東作戦
の実施を決定する[44]。
・11 月 3 日、第 2 次近衛内閣は「日本の戦争目的は東
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桃山町の歴史と桃の年表
亜新秩序にある」と声明を発表[44]。
・12 月 2 日、閣議が 37 億円の予算案を承認。軍事費
は 3 割を占める[44]。
昭和 14(1939)年
・7 月 8 日、国民徴兵令が公布され[44]、20 歳になり体格検査に合 ・1 月 6 日、ドイツ外相が 3 国同盟案を日本とイタリ
格した男性は軍隊に徴兵されるようになる[58]。
アに正式に提案する[44]。
・各村の小学校は校外に学校農園を設け野菜作りを実習、肥料は ・4 月 23 日、靖国神社に新たに 1 万 389 人が合祀され
タンゴ
学校の便所から汲んだ糞尿を担桶で担いで施す[58]。
る[44]。
・7 月 26 日、アメリカが日米通商条約破棄を通告[44]。
・9 月 3 日、イギリス/フランスがドイツに開戦を布告、
第 2 次世界大戦となり、9 月 27 日、日独伊三国同盟が
結ばれる。10 月、電力調整令が施行。11 月 11 日、兵
役法が改定され応召兵が増え、農村の働き手が日々少
なくなる[日本史年表,34]。
・12 月 8 日、昭和 15 年度国の予算概算が決定、軍事
費は 64 %になる[44]。
昭和 15(1940)年
・安楽川、奥安楽川、調月、丸栖、中貴志、東貴志、西貴志7村 ・1 月、和歌山県那賀郡西貴志村大字長山の林光男氏
の青年学校を統合、河南青年学校とし調月城の段に校舎を開設[7]。 が、岡山県より高倉白桃 200 本を購入、同字の秦野佐
・各村の小学生、中学生の男児から大人男性は外出時に必ず国防 兵衛・林義秀・林信昭の三氏に各 50 本づつ分配して栽
色の国民服を着用[58]。
培。これを始まりとして現在 30 ㌶栽培されている[長山
・11 月 10 日、村々では紀元二千六百年行事として住民が手に手
きん し
につぽん
はえ
大池出荷組合生産部長/林稔彦氏談,14]。
よ ないみつまさ
に日の丸の小旗を振りながら行列行進し、
「金鵄輝く日本の榮ある ・4 月 10 日、米内光政内閣が米穀強制出荷命令を発動、
あした
光身にうけて いまこそ祝へこの 朝
紀元は二千六百年あゝ一億 農家に米穀増産を要求する。よって、桃畑は稲作/麦作
の胸はなるー」と歌った[58]。
に転換させられ、蜜柑・桑・柿等の樹園地も可能な限
り麦作に転換させられる[日本史年表,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
・6 月 1 日、米・味噌・醤油・マッチ・砂糖の購入に
切符制が始まり「欲しがりません勝つまでは」との政
府指導となる。統制に従わない者は非国民とされる[34]。
・9 月、ベルリンで日独伊三国同盟が結ばれる[21]。
・11 月 2 日、大日本帝国国民服令が公布され男子用の
国民服が法制化[44]。
・11 月 10 日、建国紀元二千六百年奉祝行事が宮城前
広場を主会場[103]として全国各町村で行われる[34]。
昭和 16(1941)年
・9 月、金属回収令が施行され各村、各地の神社仏閣・公共施設 ・3 月 1 日、国民学校令が出され全国の尋常高等小学
・各家庭の鉄製品の供出が村役場から要請され、12 月、東条英機 校は 4 月 1 日から国民学校と改称[44]。国民学校令第 1
内閣はアメリカ映画の上映禁止、敵性語の使用禁止となる[34]。
なべ
条「国民学校は皇国の道に則り初等普通教育を施し、
かま
・この時、各家庭から火鉢や鍋・釜等の鉄製品、調月大歳神社の 国民の基礎的錬成をなすを目的とする」となり、3 年
梵鐘等が軍需資源として供出される[58]。
生の教科書には、
「日本ヨイ国、清イ国、世界ニ 1 ツ神
ノ国、日本ヨイ国、強イ国、世界ニカガヤク エライ国」
とあった[日本史年表,法令集,34]。
・4 月 1 日、生活必需物資統制令が公布され、同月 13
日、日ソ中立条約に調印。8 月 1 日、アメリカが一方
的に対日航空機用ガソリンを禁輸とする[日本史年表,34]。
・12 月 8 日、日本軍がアメリカ領ハワイ真珠湾を奇襲
攻撃、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスに宣
戦布告、太平洋戦争に突入[21,日本史年表 103,,34]。
昭和 17(1942)年
・3 月、県立粉河中学校に着任した目良甚一郎校長が運動場で滑 ・全国の桃収穫量 5 万 5 千 8 百㌧[14]。
空機(グライダー)に乗り 50 ㍍を飛び生徒に範を示した。粉河中学
の 4 年生は紀之川の川原で滑空機乗りに参加した[34]。
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・1 月 1 日、食塩は通帳配給制。1 月 2 日、日本軍が
フィリッピンの首都マニラを占領。2 月 1 日、衣料の
桃山町の歴史と桃の年表
・4 月、県立野上高等実践女学校が、県立野上高等女学校と改称[野 購入は切符制となる。2 月 15 日、日本軍がシンガポー
上町史,34]。
ルを占領、3 月 9 日、ジャワに進出のオランダ軍が降
・4 月 18 日、アメリカ航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機が 伏[日本史年表,34]。
日本本土へ初空襲があり、その 1 機が午後 4 時頃、安楽川村市場 ・5 月 9 日、
朝鮮に徴兵制実施が決定される[日本史年表,34]。
の農協倉庫上に低空飛行した[34]。
・那賀地方事務所、新設[60]。
・村々から徴兵される人が増えて戦死者もあり、農家における農
作業が益々困難となる。粉河中学校・粉河高等女学校・紀北農業
学校・野上高等女学校の生徒は午後の授業を返上し、在住地の応
召兵、戦没者宅の麦刈りや稲刈り等、農事手伝いに勤労奉仕し食
糧生産の確保に努めた[34,58]。
昭和 18(1943)年
・柿・桃等の果樹園が伐採されて藷作りに転じ、調月小学校では ・農林省で果樹園整理計画がたてられ、予備費を以て
児童にトンガや鍬を持って来いと云われ、運動場を耕して藷畑と 追加予算計上。果樹園整理は 4,000 町歩(反当補助金 190
なる[58]。
円)、隔畦抜株 7,000 町歩(反当 95 円)、合計補助金
・奥安楽川村野田原の家々に初めて電灯が灯る[8]。
14,250,000 千円となり、これにより府県は町村を通じ
せんちやん
・5 月 27 日、叔父/大西茂は中支で宣 昌 作戦に参加し、戦闘中に て果樹農家に食糧増産のため「果樹園転作令」が出さ
敵弾胸部を貫通し湖北省宣昌県牽午領にて戦死す[大西家記録]。
れた[農林省特産課 25 周年誌,14]。
・2 月 23 日、陸軍省が「撃ちてし止まむ」の標語ポス
ター 5 万枚を配布する[44]。
・5 月 29 日、日本軍アッツ島守備隊 150 名が玉砕。6
月 8 日、日本海軍の戦艦陸奥が岩国市の柱島泊地で原
因不明の火薬爆発で爆沈、乗員 1,121 人中 771 人が死
亡[44]。
・9 月 8 日、同盟国イタリアが無条件降伏[103,34]。
・12 月 24 日、徴兵適齢臨時特例が公布施行され徴兵
- 103 -
桃山町の歴史と桃の年表
の適齢が 1 年下げられ 19 歳となる[44]。
昭和 19(1944)年- ・日本陸軍飛行場が安楽川村段・段新田の桃産地に計画され、各
20 年 8 月
・昭和 19 年 2 月 1 日、アメリカ軍がマーシャル群島に
地の国防婦人会や中学生・地元小学生らが大勢駆り出されて桃の 上陸、6 月 15 日、サイパン島に上陸、7 月 7 日にサイ
つぶ
樹を伐採・抜根 [7]、2 年足らずで果樹園が潰され桃畑は姿を消す パン島の日本軍が全滅する[103,34]。
[58]。
・昭和 19 年、日本の戦闘機は飛び立っても帰還する燃
・調月村に米軍グラマン戦闘機の低空飛行があり、[日本の皆さん 料なく戦艦は重油不足で動けない状態となる。村々で
早く降伏するように]とのビラをまき、空襲警報で学校から自宅に は神社やお寺、山の松の大木を切って松ヤニ用燃料と
帰途、防空頭巾を被って道端に伏せた。妹/美恵子は津田家(ナベ して供出される[34]。
からたち
屋)の枳殻の垣根に伏せて頭に刺が刺さり泣いた。この時大歳神社 ・1 月~ 5 月に至るアメリカ軍の重爆撃機 B29 の日本
前の水田に爆弾が投下され大きな穴があいたが不発に終わった[編 襲来は 472 回、1 万 6 千 858 機にのぼる[34]。
者記憶]。
・7 月 18 日、東条英機内閣が総辞職、陸将/小磯国昭
・岩出保健所を公会堂に開設[60]。
と海将/米内光政の連立内閣となり一億玉砕戦を唱え
る。7 月 21 日、アメリカ軍がグアム島に上陸[日本史年表
,34]。
・8 月 31 日、台湾に徴兵制を実施、都市住民の田舎疎
開が進められ、国防婦人会では防空頭巾・モンペ姿で
バケツリレーによる防火訓練・竹槍戦の訓練、応召兵
に贈る千人針つくりがすすめられ、人家・工場等の建
物の白壁/白塀の黒塗り作業に多忙となる[34]。
・太平洋戦争における日本軍の戦況が日々悪化。昭和
19 年 10 月 10 日、米軍が沖縄を初空襲して以降、全国
主要都市が致命的な戦災を受けて焼け野原となる[58]。
・同年 10 月 18 日、男子 18 歳以上の兵役義務が定めら
れ従軍看護婦の応召となり、同 19 日、神風特攻隊が編
成される[103,34]。
昭和 20(1945)年
・3 月 1 日、硫黄島の日本軍が玉砕、全滅。3 月 6 日、国民勤労動 ・3 月 10 日、アメリカのB29型重爆撃機 279 機が東
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桃山町の歴史と桃の年表
員令が公布され、那賀郡内では男女の大人は軍需工場に動員され、 京を襲い(東京大空襲)、10 万人が死亡、100 万人が家
各町村では老人と子供の社会となる[34]。
を失う[44]。
・7 月 9 日午後 11 時、アメリカの B29 が 50 機、和歌山市を空襲、3 ・3 月 14 日、B29が大阪を大空襲、13 万戸が焼失す
時間にわたり焼夷弾を投下して爆弾攻撃、家屋全焼 2 万 7 千 403 る[44]。
戸、死者 1,102 人、負傷者 4,438 人、和歌山城天守閣が焼失、陸軍 24 ・4 月 1 日、アメリカ軍が沖縄に上陸、
・4 月 5 日、ソ
部隊の作業中隊(隊長/栗栖中将)の兵舎も爆撃で全焼する[34]。
連が日ソ中立条約を延長しない旨通告、6 月 21 日、沖
・この頃、和歌山・大阪等の都会から毎日食糧を求めて多くの人 縄がアメリカ軍に占領される[103,34]。
々が買い出しに来る。衣類等を持ってサツマイモ・ダイコン・柿 ・5 月 7 日、同盟国ドイツが無条件降伏[日本史年表,34]。
などと交換して帰る。しかし、道端や船戸駅で巡査が荷物を検閲 ・6 月 23 日、国民義勇兵法が公布され、男子 15 歳以
し取り上げられることが多いと聞いた。また、夜暗くなると船戸 上 60 歳までが軍隊に徴兵され、女子 17 歳以上は従軍
駅の手前の道沿いで追剥ぎ強盗が出没、和歌山から帰りに買い求 看護助手として入隊。6 月 28 日、和歌山市湊の陸軍 24
めた物を押し取られ、上衣まで脱がされ取られた[寺前熊次治談]。・畠 部隊に大勢の人々が徴兵され兵舎が満員となり近くの
作物の盗み取りが頻発、サツマイモ・柿・ジャガイモ・大根が夜
青年学校・隣保会館・国民学校講堂を兵舎の代用、入
中に盗まれた。所によっては自警団を組織して夜警見回りをした 隊しても銃や飯盒、軍靴、巻脚絆の支給はなく、戦闘
[34]と云う。
帽と軍服だけで地下足袋を履き水筒は竹筒[34]。
・11 月、選挙法が改正され婦人参政権が認められ、有権者は 25 ・8 月 6 日、広島に、8 月 9 日、長崎に米軍の原子爆弾
歳から 20 歳に、被選挙権は 30 歳から 25 歳に改められる[日本史年表 が投下され壊滅的な被害[21,58]。広島では 11 月までに原
,34]。
爆で 14 万人死亡、5 年後の 1950 年までに 24 万 7000
・12 月 29 日、アメリカの占領政策の 1 つ、第一次農地改革とし 人に。被爆者は 36 万人以上と見込まれ、長崎では 12
て 5 町歩以上の小作地を小作者に解放、小作料は物納から金納に 月までの死者は 8 万人以上[44]。
変えよと指令が出る[日本史年表,34]。
・8 月 9 日、ソ連軍が日本に開戦する[日本史年表,34]。
・終戦以降、軍隊から復員し我が家に帰った人々は荒れ果てた農 ・8 月 15 日正午、昭和天皇、ポツダム宣言を受諾する
地を復旧し、稲作をしながら藷作りの畝間に桃や柿の苗木を植え
旨のラジオ放送、
満州事変以来 15 年間にわたる戦争は、
て果樹園の再興に取り組む。しかし農家で出来た米は一部自家用 日本軍の敗戦となり戦争が終結[21,34]。
を除き総て政府に供出させられた[58]。
・8 月 17 日、ベルリン郊外のポツダムで米英ソの首脳
が会談、同 25 日、日本の無条件降伏・植民地返還・戦
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桃山町の歴史と桃の年表
犯者の処分・日本の民主化等を軸としたポツダム宣言
を発表、中国の蒋介石も同意する[日本史年表,34]。
・8 月 20 日、東京に G.H.Q(総司令部)が設置され、マ
ッカーサー司令官による占領政策が実施される。
・8 月 23 日、ソ連軍が日本人 50 万人のシベリア抑留
の指令を発する[44]。
昭和 21(1946)年
・1 月 28 日、新制中学校を新設、小学校 6 ヶ年、中学校は 3 ヶ年 ・2 月 17 日、金融緊急措置令・臨時財産調査令が公布
が義務教育と決定[新聞報道,34]。翌 22 年、荒川中学校・奥安楽川中 され、預金の支払停止、新円との切り替え、預金封鎖
学校が発足。調月村には中学校が出来ず荒川中学校に通うことと によるインフレ防止策がとられる。3 月 3 日、物価統
なる[34,58]。発足した荒川中学校は校舎がなく、安楽川小学校の講 制令が施行され、食糧管理のため農地所有者に家族保
堂を間仕切りして授業があり、学生は新校舎建設のため紀ノ川の 有米麦が定められ、サツマイモの供出が義務づけられ
川原に石ころや砂利を拾いに出かけたり、山で伐った丸太を担ぎ る[103,34]。
に行った。校舎が出来た時、南庭にヒマラヤスギの苗木を植え付
けた[山下重良]。
・5 月1日、改正選挙法で初の国会議員総選挙が行わ
・この年初めて細野村の家々に電灯が灯る[8]。
れ婦人議員が登場。
・6 月 4 日、米の配給は大人 1 日 2 合 1 勺とされる[34]。
・11 月 3 日、日本国新憲法公布、翌 22 年 5 月 3 日に
・12 月 21 日、南海地震。マグニチュード 8.0、死者行方不明者 1 施行[21]。新憲法により地方自治法が制定され、県知事
千 330 人、家屋全半壊 3 万 5 千 78、津波による流失 1 千 4 百 51 は公選、改正民法は男女同権の相続法、独占禁止法が
[44] 。地震は夜明けに起こり、裸足で慌てて外に飛び出すと、庭先 制定される[日本史年表,34]。
にモミガラを焼いて広げた上に霜が白く光っていた。稲妻が走り
里山では雉の啼く声が響いて屋根瓦がガラガラと落ちた。それ以
来、木造の我が家は障子や襖が完全に閉まらなくまった。
昭和 22(1947)年
・農業協同組合法施行[21]により、安楽川村・奥安楽川村・調月村 ・3 月、アメリカ教育使節団の勧告により教育基本法、
・細野村の各産業組合が農業協同組合となる。
及び学校教育法が制定され、4 月からアメリカ式の6.
3.3.4の新学制となり、9 年間の義務教育、男女共
学が確定される[103,34]。
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桃山町の歴史と桃の年表
・4 月 5 日、新選挙法により縣知事、町村長の選挙が
実施される。
・4 月 25 日、衆議院議員選挙が行われ社会党 143 名、
自由党 131 名、民主党 121 名、協同党 29 名、共産党 4
名、諸派 25 名、無所属 13 名となり、社会党・民主党
・協同党連立の片山哲(社会党)内閣が成立。片山内閣
は、米の配給公団の設置、労働基準法・児童福祉法・
生活保護法を制定し、労働省を設け GHQ の指示によ
り国家公務員法を制定する。経済白書を出し健全財政
・耐乏生活を国民に求め、月給 1,800 円を基準とし、
食糧増産を説き、石炭・鉄鋼の増産を必要として傾斜
生産方式を推進する[103,34]。
・8 月、農薬取締法が制定される[27]。
・11 月 19 日、農業協同組合法施行[21]。
・農産種苗法が
成立、種苗名称登録制度が発足[15]。
・熊本県宇土郡浦村の枝森一新氏が、羽田式2サイク
ルエンジン付き動力噴霧機を導入し、みかん園 40 ㌃で
使用した。またみかん園 40 ㌃に約 120 ㍍の真鍮管によ
る定置配管施設を取り付けた[枝森一新氏談,14]。
昭和 23(1948)年
・4 月、那賀郡に男女共学の県立 3 高校が発足、県市町村に公選 ・敗戦で疲弊し自立経済力を欠く日本経済は、
「竹馬の
による教育委員会が設けられる。県立粉河高校は旧県立粉河高等 脚経済」と評され、国民は「筍生活」に耐えねばなら
女学校の校舎を、県立那賀高校は旧紀北農業学校を使用、県立大 なかった。アメリカは、学校給食を奨励しアメリカ産
成高校は旧県立野上高等女学校を使用する[教育要覧,34]。
牛乳・アメリカ産パンを小学校生に支給するため、対
・紀北農業学校を改め、那賀高等学校が開校[60]。
日借款 5 億ドルを許可する。炭鉱の国家管理を巡って
・農薬取締法が制定され、殺虫剤として砒酸鉛・砒酸石灰・砒酸
対立があり、2 月 10 日、片山内閣が総辞職する[103,34]。
鉄・除虫菊・デリス・硫酸ニコチン・マシン油・ソーダ合剤・松 ・3 月 10 日、民主党と社会党の連立による芦田均内閣
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桃山町の歴史と桃の年表
脂合剤・うんか駆除油剤・青酸クロルピクリン・DDT・珪酸化ナ が成立、中道政治、修正資本主義を唱え、石炭、鉄鋼
トリウム。殺菌剤として硫黄亜鉛・無機銅・有機水銀・石灰硫黄 の傾斜生産方式と外資導入を図る。学校では積善教育
合剤・硫黄・過酸化水素・ホルムアデヒドが登録される。これら の名称で同和教育を推進し、中学校では社会科の授業
は戦前からの農薬である[佐藤清/現在農業,14]。
が開始される[103,34]。
・4 月 4 日、GHQ が日の丸国旗の掲揚を許可する。8
月 15 日、大韓民国成立の式典あり、9 月 9 日、朝鮮民
主主義共和国成立が宣言される。11 月 13 日、東京極
東軍事裁判にて A 級戦犯の東条英機ら 7 名が死刑、16
名は終身禁固刑となる[103,34]。
・10 月 19 日、第二次吉田茂内閣(自由党)が成立、以降
第五次吉田茂内閣が昭和 29 年 12 月 7 日まで続く
[103,34]。
昭和 24(1949)年
・英国で開発の 2,4-D が水田除草剤として市販され、以後手作業 ・昭和 24(1949)年 3 月 31 日付け県立高等学校教諭の初
の田の草取りから解放される[34]。
任給は月給 4,460 円、巻きたばこ 12 本入り「ピース」120
円で、サラリーマン生活は困窮の日々であった[34]。
・安楽川村最上では水田も井戸も池の水を利用していたが、初め ・同年 4 月 23 日、1ドル= 360 円の単一為替レートが
て井戸を堀り、自家用井戸が普及し始める[34]。
決まる[44]。
・4 月、シベリヤに抑留されていた人々の帰国が多くなる。10 月 1 ・戦争直後アメリカ軍が持ち込んだ DDT がシラミな
日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立[日本歴史年表,34]。
どの防疫に初めて用いられ農業用殺虫剤としても利用
された。DDT は 1971 年 5 月に農薬登録が失効[農薬取締
法]。
・この頃から EPN 乳剤が輸入され果樹の害虫防除に普
及[58]。
昭和 25(1950)年
・9 月 3 日、ジェーン台風が関西を襲い死者 336 人、家屋倒壊 1 ・6 月 25 日、朝鮮戦争が起こる。日本がアメリカ軍の
万 5000 戸[44]、稲の倒伏・果樹の落果・倒木等、被害甚大。
基地化し、国歌「君が代」の復活が許され、警察予備
・11 月 1 日、那賀郡 23 町村組合立の国保那賀病院が田中村打田 隊が創設され、対中国輸出禁止令が出る。朝鮮戦争に
- 108 -
桃山町の歴史と桃の年表
に発足[34,60]、地域住民の拠点病院となる。
昭和 26(1951)年
よる軍需生産景気[特需ブーム]が起こる[103,34]。
くらかた
ぬの め
・9 月、和歌山県果実農業協同組合連合会(果実連)設立[27]。安楽川 ・8 月 25 日、桃の「倉方早生」
・「布目早生」が種苗登
・調月・奥安楽川・細野の各村農協が組織会員となる。
録[14]。
・農業委員会、発足[60]。
・9 月 8 日、吉田茂を全権としてサンフランシスコ対
・ルース台風上陸[60]。
日講和条約が調印される。参加国 52、中国の招待はな
・10 月1日、細野村が海草郡に編入される[7]。那賀郡東野上町・
く、インド・ビルマ・ユーゴスラビアは参加拒否、ソ
中野上村・南野上村・北野上村・小川村・志賀野村・下津野村・ 連・ポーランドは調印を拒否。同寺に日米安全保障条
上神野村・猿川村・長谷毛原村・真国村・細野村が海草郡に編入 約に調印する[103,34]。
され、同年に猿川村が国吉村と改称[17,34]。
・有機燐製殺虫剤「ニッカリン T」が国産化[27]
・この頃以降、果樹園の害虫防除に EPN 乳剤が普及[58]。
・農薬取締法で殺虫剤に、EPN・ルビーアカヤドリコ
バチ(天敵)、除草剤として塩素酸塩が登録される[14]。
・塩化ビニールフィルムが登場、その後野菜の育苗や
促成栽培のトンネル被覆に活用され、さらにハウスへ
栽培へと発展[15]。
昭和 27(1952)年
・この頃からパラチオン剤(ホリゾール)が桃の害虫防除に使用さ
・7 月 18 日、弥生時代の遺跡から発掘された 2000 年
れ卓効あげる。しかし昭和 46 年に一般使用が禁止[農薬取締法]。
前のハスの実が開花。発見者の大賀博士の名を取って
・安楽川村の農家数 769 戸(うち専業 494 戸)、田 102 町 3 反余・ 大賀ハスと命名[44]。
は
た ばこ
畑 109 町 3 反。葉煙草の栽培が盛んとなり桑畑が姿を消す[17]。
・この年、パラチオン・メチルパラチオンが農薬登録[農
薬取締法]。
・県は果樹振興五ケ年計画を策定、戦争で荒廃、減反
した栽培面積と生産量の復興を目指す[27]。
・福島市飯坂町平野字壇ノ東で遠藤金弥氏は、昭和 27
年から同 28 年にかけて灯火の種類と果樹害虫の誘殺数
を調査、同 29 年から 31 年にわたって主としてブラッ
クライトの効果を検討した結果、ナシヒメシンクイム
シの被害軽減には役だつが、ハマキムシ類を誘導し僅
- 109 -
桃山町の歴史と桃の年表
かながら光源周辺に被害を集中させた[農業及び園芸
35 巻 6
号,14]。
昭和 28(1953)年
・9 月 1 日、町村合併促進法が公布され、安楽川村が町制を施行、 ・2 月 1 日、NHK テレビ(白黒)の本放送開始、8 月に
安楽川町となる[7]。
民放が放送を開始。テレビは一般民衆には高嶺の花[日
・7月 18 日、前日からの豪雨で貴志川堤防が決壊、紀ノ川の増水
本歴史年表,34]。
と相まって調月村の水田 80 %、安楽川町の 20 %が水没、砂礫の ・7 月 11 日、県は粉河町に果樹園芸試験場紀北分場を
ナナ
イチハチ
ご
ま だんざん
川底となる(七・一八水害)[7]。細野村では護摩壇山水害と呼び崖崩 新設、柿・桃等の落葉果樹の技術開発を開始[27]。
れ等で幾人かの命が奪われた。
・7 月 30 日、力道山のプロレス道場が東京日本橋に完
・9 月 26 日、再び紀ノ川堤防、石榴川が決壊、安楽川町の元・市 成[44]、街の電器店がプロレスのテレビ放映を見せ店頭
場全域が床上浸水[7]。
が人盛りとなる[58]。
・この頃から塩化ビニール管が果樹園の防除配管に敷設される ・山梨県で、勾配 16 度の核礫に富む埴土園で桃の実生
[14]。
幼樹を用いて、土壌管理(敷き藁法・清耕法・草生法・
・この頃から安楽川町や調月村の桃園で DDT 乳剤をカイガラム 夏季被覆作物法・冬季被覆作物法)の 5 種で、降雨によ
シ類防除に使用[58]。
る浸蝕・土壌温度・土壌水分と桃幼樹の生育を検討し
た結果、その後果樹園に敷き藁を行う農家が急激に増
加した[山梨県果樹試験場、園芸学会雑誌 21 巻 4 号昭和 28 年 3 月,14]。
・農薬取締法で殺虫剤にマラソン、殺菌剤にジクロン
・キャプタン、除草剤に NPC が登録される[14]。
昭和 29(1954)年
・5 月 2 日、決壊した貴志川の改修が完了。7 月、流域農地の整備 ・1 月 1 日、50 銭以下の小銭が廃止される[日本歴史年表,34]。
が大半完成[26]。大水害から僅か 11 ヶ月の劇的スピードで復旧。 ・3 月、農林省農業技術研究所園芸部果樹科は、同研
農地整備に従事した県外の土木・大工職人の多くが調月村・東貴 究所気象研究室と合同で桃園において初めてスプリン
志村・中貴志村等に定住、その後土建業を営んだ[58]。
クラ散水による凍霜害防止試験を実施[山下重良]。
・7 月 1 日、国の独立と平和を守るため防衛庁自衛隊
が発足[日本歴史年表,21]。
・農薬取締法で殺虫剤にアルドリン・ディルドリン・
エンドリン、殺菌剤としてチウラム(対抗菌剤)、除草
- 110 -
桃山町の歴史と桃の年表
剤にクロル IPC・スルファミン酸塩が登録される[14]。
昭和 30(1955)年
・4 月 1 日、那賀郡長田村・川原村・王子村東野・井田、及び龍
・6 月、奈良県大和郡山市長安寺町の中津正之氏が白
門村遠方・杉原・荒見・勝神が粉河町に合併[17]。
桃の種から育成した「中津白桃」が品種登録[40]。
なか つ はくとう
・3 月、岩出鉄橋完成、幅員 7.5 ㍍、のち昭和 42 年 3 月 25 日、幅 ・6 月、奈良県磯城郡川西村の森川嘉造氏が大和白桃
や ま と わ せ
員 2.5 ㍍の歩道橋を追加[60]。木製の岩出橋は 2 年前の大水害で流 の枝変わりから育成した「大和早生」が品種登録[40]。
されていた。
・海草郡國吉村・下津野村・上神野村・長谷毛原村・
真国村が合併、美里町となる[103,34]。
・4 月 1 日、海草郡志賀野村を東野上町に合併して野
上町となる。
・4 月 16 日、小川村を野上町に合併する
・海草郡國吉村・下津野村・上神野村・長谷毛原村・
真国村が合併、美里町となる[103,34]。
昭和 31(1956)年
・8 月1日、安楽川町・奥安楽川村・調月村が合併、桃山町とな ・6 月 3 日、エンドリンが殺虫剤として農薬登録[農薬取
り西武雄氏が町長に就任。人口 1 万三百 17 人、2 千百 37 世帯[7,8]。
締法]。
・鞆淵村が粉河町に合併[17]。
・9 月 30 日、岩出町・山崎村・根來村・上岩出村・小
・10 月 2-3 日、岐阜県南濃町で全国果樹研究会柿部会大会が開催 倉村のうち船戸、山崎が合併、新岩出町となる[60]。
され、桃山町調月の山内好彦氏が「炭疽病多発地帯における富有 ・西京大学で、桃の花粉の発芽能力と貯蔵花粉の発芽
柿の栽培改善」について研究発表、最優秀賞を獲得[月刊和歌山の果樹昭 保有期間を調査したところ、①花粉量は品種によって
和 31 年 11 月号]。
差異がある。②常温・密封・暗所貯蔵では 15 日が限度
である。③ 3-2 ℃の低温・密封・暗所貯蔵では 40 日間
まで実用価値があり、その後急速に能力は低下、限度
昭和 32(1957)年
は 60 日間である[西京大学学術報告農業 8 号,14]。
ぬの め
くらかた
おかやま
すな ご
やまと
たちばな
・全国桃(生食用)品種別栽培面積比率(%)、布目早生 4.0、倉方早生 4.2、岡山早生 9.9、砂子早生 0.3、大和早生 0.3、 橘
はくほう
たかくら
み しま
しんぎよく
おお く
ぼ
やまと
こうよう
はくとう
早生 2.4、白鳳 3.0、高倉 1.8、箕島白桃 4.3、神 玉 0.8、大久保 43.0、大和白桃 0.8、高陽白桃 2.9、白桃 9.4、その他(伝十
郎・離核・天津・土用)12.9。生食用品種栽培面積計 1 万 3 千 174 ㌶。缶詰用品種栽培面積計 2 千 60 ㌶。合計栽培面積 1
万 5 千 234 ㌶。(注)%は生食用品種栽培面積計に対する比率[40]。
昭和 32(1957)年
・6 月、桃山町で初めて町立調月保育所が竣工[7]。
- 111 -
あん
・平井重三氏らがモモの忌地現象は根皮に含まれる安
桃山町の歴史と桃の年表
そくこうさん
・8 月、海草郡細野村垣内、中畑、峯、根來窪が桃山町に合併[46]。 息香酸が原因と発表[園芸学研究集録 8,14]。
・調月大歳神社の梵鐘が県重要文化財に指定[7]。
・この年、長野県のりんご園で初めてスピードスプレ
・桃山町の世帯数 2 千百 65 戸、1 万 13 人、面積 48.7 ㎢[7]。
ヤーが導入され平地果樹園の防除に変革[14]。
・那賀地方事務所を廃止し農林・県税・福祉の各事務
所が独立[60]。
昭和 33(1958)年
・この頃以降、桃山町で桃の「砂子早生」が広く普及。
すな ご
・岡山県赤磐郡可真村の砂子政市氏が桃の「砂子早生」
を種苗登録。その後早生の代表品種として全国の桃産
・9 月、和歌山電鉄バス調月線(船戸-調月間)が運行開始[7]。
地に広がる[14]。
・9 月、桃山町元に旧桃山町舎が竣工[46]。
・山梨県農業試験場巨摩試験地の礫に富む砂壌土と砂
土の桃園の大久保と倉方早生・高倉を供試し、潅水方
法・潅水量試験の結果、顕著な増益効果が得られ、間
断潅水法の場合、土壌湿度の変化をみて果実成熟期近
くには 6 日間断で 1 日当たり 10mm、1 回 60mm の潅
水が必要とした[山梨県農業試験場巨摩試験地昭和 31 年度果樹試験研究
年報,14]。
昭和 34(1959)年
・9 月 26 日、伊勢湾台風[46]で桃・柿等の倒木・枝折れ、柿の落果 ・1 月 1 日、尺貫法が廃止されメートル法が実施され
被害甚大[58]。
る[44]。
・伊勢湾台風による全国の死者 4,697 人、行方不明 401
人[理科年表平成 17 年版]。
昭和 35(1960)年
・4 月 1 日、県立那賀高校定時制貴志川分校が独立し、県立定時
・9 月 1 日、NHK がカラーテレビの本格放送開始[46]。
制貴和高等学校が貴志川町長原に発足(男女共学、4 年制)[同窓会誌,34]。・桃・梨の袋掛けは外観保持の目的になり、多くの労
・8 月、木製の井坂橋が完成、渡し船が姿消す[46]。
力・費用を要するので、無袋栽培の研究が行われ、昭
・桃山町百合の丸百出荷組合設立、代表・佐竹孝夫氏、湯川繁治 和 29 年から桃、昭和 30 年から梨について、無袋果実
氏、組合員 36 人[同組合資料]。
の特性が明らかにされた。無袋栽培が広まったのは、
桃では昭和 36 年、梨は昭和 35 年頃からである[千葉大学
- 112 -
桃山町の歴史と桃の年表
報告 2,14]。
・無袋栽培の問題点とされていた果実の発育や着色は、
適正な摘果・上向き果の着果・着色期の新梢管理によ
って、無袋栽培の技術体系を確立した。以来、山梨県
では早生・中生は無袋栽培が行われるようになった[山
梨県農業試験場報告 3 号,園芸学会研究発表要旨昭和 36 年 10 月,14]。
・昭和 35 年から福島県園芸試験場は、同 42 年にかけ
て桃・桜桃などのコスカシバの生態と防除の試験を行
い、羽化産卵期は 9 月上旬がピークで、幼虫態で樹皮
下で越冬することがわかった。成虫の発生期に殺虫剤
処理で防除出来た[福島県園芸試験場研究報告 1 号(昭和 43 年),14]。
昭和 36(1961)年
・9 月 19 日、第二室戸台風、果樹園の被害甚大[46]。
・6 月 12 日、国は農業基本法を制定し[21]農業・農村に
・この頃から桃・柿、等の落葉果樹がカンキツに転換、桃栽培は 選択的拡大を要請、農業構造改善事業等で施策を推進。
減少に転じる[58]。
昭和 37(1962)年
・この頃以降、果樹園の肩掛け式草刈機が普及する。
・背負い式草刈機が佐賀県で導入される[14]。
・この頃から園内軌道モノラック・モノレールが設置され桃山町 ・山梨県東八代郡八代町の松森美富氏が白鳳の芽接ぎ
昭和 38(1963)年
の桃園・柿園・ミカン園で活用される[58]。
苗から白鳳より 7-10 日早い品種を育成、この年初結果
・6 月、農業用山田ダム完成、通水式[46]。
「松森早生」と名付けた[40]。
・貴志川支流山田川の貯水池山田ダムが完成[17]。
・福島県園芸試験場は昭和 38 年から同 39 年にかけて、
・県立定時制貴和高等学校が全日・3 年制の男女共学となる[34]。
モ モ の 灰 星 病 に つ い て 研 究 、 病 原 菌 は Monilinia
まつもり
bructicola であることを明らかにした[福島県園芸試験場研究報
告 2 号,14]。
昭和 39(1964)年
・10 月、安楽川・奥安楽川・調月の三農協が合併、桃山町農協と ・3 月 18 日、早川電機とソニーが初の電卓を発表。価
なる[7]。尼岡澤二氏が桃山町農協組合長に就任[同農協資料]。
格 50 万円[44]。
・新高島橋が竣工[46]。
・日本経済は高度成長から減速経済期を迎えオイルシ
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桃山町の歴史と桃の年表
・9 月、田中功氏、桃山町長に就任[8]。
ョックで各種企業の輸出が減退。国鉄民営化となる。
東海道新幹線が開通、東京オリンピックが開かれる[日
本史年表,34]。
・御茶屋御殿山に NHK テレビ塔建つ。岩出町宮の交
差点に郡内で初めて信号できる[60]。
昭和 40(1965)年
・桃園はじめ、果樹園で接触型除草剤「パラコート剤グラモキソ
・6 月 7 日、和歌山県は「みかん課」を新設、果樹・
ン」
・「ジクワット剤レグロックス」等の使用が始まる[58]。
果実行政の一元化を図る[14]。
・桃山町予算 1 億 5 千 2 百万円、うち一般会計 1 億 3 千 7 百万円、 ・接触型の畑地除草剤「パラコート」
「ジクワット」が
土木費 3 千 9 百 40 万円、総務費 2 千 5 百 11 万円、教育費 2 千 62 農薬登録される[農薬取締法]。
万円、農林費 1 千 2 百 92 万円、公債費 1 千百 67 万円[7]。
・7 月、名神高速道路が全線開通[46]。
・3 月、山梨県下の桃園の土壌・根群の分布と果実品
質の関係を調査した結果、土壌深く根群分布の深い園
ほど桃の品質が不良(糖度低)で、土壌の浅い園ほど良
好であった。土壌及び根群分布と剪定方法との関係は、
慣行剪定区(剪定量 70-82%)、弱剪定区(30-63%)と品質
及び収量、収穫期の関係をみると、弱剪定区は慣行区
よりも僅かに糖度が高く、収量は 1.18-3.08 倍となり、
収穫期が 3-4 日早くなった。以後、県内で普及した[園芸
学会研究発表要旨,14]。
・5 月、東海近畿農業試験場が、愛知県知多郡武豊町
南中根で、大久保 5 年生樹の蒸散及び園地面からの土
面蒸発量について、5-9 月に Chambaer 法で測定した結
果、蒸散量の最大は 8 月上旬にみられ、30 ㍑/樹/日程
度で、他の果樹に比べて少ない。蒸発散量は 8 月に多
く 4.8mm/日前後で、生育期間の蒸発散量は平年時で
430mm 前後である[東海近畿農業試験場栽培第 2 部作 1 研,14]。
- 114 -
桃山町の歴史と桃の年表
・ハイテク産業が躍進、先端技術・コンピュータの開
発導入による産業合理化が進み、経済大国日本となる。
自動車・電化製品の輸出が増える一方、食糧・木材が
大量に輸入される。原油価格が安定し円高差益のある
電力・石油・ガス間蓮企業が発展する[日本史年表,34]。
昭和 41(1966)年
・桃山町農協は総合選果場(桃は重量選別機)を建設[7]、各地区の選 ・3 月 31 日、日本の人口が一億人を突破[46]。
果場を廃して一元的に集荷、選果を始める[58]。
・丸元出荷組合設立、初代組合長に山内良太郎氏。
・10 月、桃山町調月に旧桃山会館が完成、町営結婚式開始[8,46]。
昭和 42(1967)年
・1 月、安楽川地区に簡易水道施設完成[46]。
・山梨県中巨摩郡白根町西野、芦沢達雄氏が大久保と
にし の はくとう
白桃の混植園から偶発実生を育成、
「西野白桃」として
品種登録[40]。
・洗濯機・掃除機・炊飯器が普及したが高齢人口が増
え社会福祉費が増大、進学率が高くなり教育費が増大、
国鉄民営化による合理化・鉱山業・造船業・繊維産業
の不況で人員整理や倒産が起こり、円高不況から自由
競争社会となる[日本史年表,34]。
昭和 43(1968)年
・3 月 1 日、旧安楽川地区に簡易水道が完成する[8]。
・日本の GNP が米国に次ぎ世界第 2 位となる[44]。
・5 月、西武雄氏、桃山町農協組合長に就任。
・あら川第一生産組合設立。初代代表湯川良雄氏。
昭和 44(1969)年
・3 月、神田三船神社の社殿、棟札等が国の重要文化財に指定[46]。 ・モモの連作障害は線虫が原因で殺線虫剤が効果ある
・8 月、調月地区に簡易水道施設完成[8,46]。
ことを実証[富山県農試研究報告 3 号]。
・11 月、井坂橋が鉄橋で架橋される[日本史年表,17,34]。
・5 月、東名高速道路が全線開通[46]。
・7 月、アメリカのアポロ 11 号、月面着陸[46]。
昭和 45(1970)年
・3 月、県営桃山開拓パイロット事業完成[46]。調月里子谷に完成 ・政府は米の在庫過剰から稲作転換奨励金を出して米
した調月パイロット団地 25 ㌶では主にミカン類を植栽[58]。
- 115 -
の生産を抑える政策を推進[44]。
桃山町の歴史と桃の年表
・この頃から水田転作による桃の増植が盛んになる[58]。
・県果樹園芸試験場がスプリンクラによる果樹病害虫
・桃の「いぼ皮病」はその後桃山町の桃園でも各地でみられ樹勢 防除法を確立[同試験場報告]。
を損じ経済寿命が短かくなるものがみられる[58]。
・農林省園芸試験場の桃園で枝幹に多数のイボを発生
・この頃から桃園の反射シートマルチが行われ果実の着色増進に し樹脂を出す病害を発見、
病原菌を特定し昭和 45 年「い
効果出る[58]。
ぼ皮病」と命名[日本植物病理学会報 36 巻 4 号]。
・この頃から桃山町の桃園・カンキツ園にスプリンクラー防除施
設が普及する[58]。
昭和 46(1971)年
・桃山町農協の組合員預金残高が 13 億 1 千 400 万円超となる[桃山 ・各地の農協は黄金期を迎え組合員の団体旅行が国内
町農協資料]。
外に出かけ[ノーキョーさん]と呼ばれる[34]。
・桃の袋掛用ホッチキスが発売されホッチキス止めが主流となる
[58]。
昭和 47(1972)年
・1 月、桃山町(田中功町長)は「全国緑の供給基地構想」宣言、植 ・5 月、米国が沖縄島を返還、沖縄県が発足[46]。
木園芸生産組合を結成。同 50 年 2 月植木集出荷センター完成[46]。 ・10 月、桃山町史発刊[8]。
昭和 49(1974)年
・11 月、桃山町農村地域工業導入計画の一環として調月に県経済 ・元陸軍少将/小野田寛郎氏(海南市小野田出身)、ルパ
農協連合会桃山食品工場が竣工、操業開始[46]。
昭和 50(1975)年
ング島で投降し、その後日本に帰還[103]。
・4 月、桃山町段の堀内文一氏、
「安楽川の桃」の故事来歴を調べ ・那賀郡内世帯数/人口:岩出町 5,141 戸 20,300 人、粉
て自費出版。その後平成 11 年 4 月、同氏の 100 歳を記念して同書 河町 4,694 戸 18,882 人、打田町 3,138 戸 12,259 人、那
を「あら川の桃」として桃山町で再版[同書]。
賀町 2,749 戸 10,422 人、貴志川町 2,590 戸 10,259 人、
・5 月、山田寿雄氏、桃山町農協組合長に就任[桃山町農協資料]。
桃山町 2,311 戸 9,457 人、計 20,623 戸 81,579 人[17,34]。
・10 月、那賀消防組合が発足[60]、調月に南消防署を開設[46]。
昭和 51(1976)年
昭和 52(1977)年
・9 月、堀田豊治氏、桃山町長に就任。
・9 月、県果樹試験場紀北分場が長野県から「川中島白桃」を導 ・長野市川中島町の池田正元氏が白桃と上海水蜜の混
よう じ
かわなかじまはくとう
入、桃山町元の山名洋爾氏が試験園で試作、果実大きく日持ち良 植園から中晩生桃の「川中島白桃」を育成。
なまもの
好な特性からその後桃山町内に広く普及。
・6 月、有田市にコレラが発生、生物のコレラ菌汚染
・桃の早・中・晩生の優良品種が構成され収穫期は 6 月上旬-8 月 の風評被害で桃山町の桃販売にも大きな影響出る[7]。
上旬に拡大、農家の労力配分が平準化し規模拡大に貢献。
- 116 -
桃山町の歴史と桃の年表
昭和 54(1979)年
・6 月、妙法壇祇園太鼓が県無形文化財に指定[46]。
・国道 424 号線から打田町を通り泉佐野市から関西空
・11 月 1 日、桃山町最上の奥島泰一氏が白鳳の芽接ぎ苗から発見、 港に通じる県道 62 号線が開通[17]。
わ
せ ももやま
育成した「早生桃山」が種苗登録される[35]。
昭和 55(1980)年
・桃山町農協は桃園に反射マルチの敷設を推進し資材購入に助成
金を出す[同農協資料]。
・三和ピーチ組合設立、初代組合長西尾佳彦氏。
昭和 56(1981)年
・5 月、別所節夫氏、桃山町農協組合長に就任。
・農林水産省が 4 ヶ年計画で「地域内食生活向上対策
・この頃から桃山町内各所に果樹・野菜農家が自家産の直売所を 事業」を提唱。以来、地産地消の一手段として主要道
出店[58]。
路沿いに農産物直売所が出店される[58]。
・桃山町でこの頃から桃園の防除にスピードスプレヤーが導入さ ・昭和 56 年から 57 年にかけて農林省果樹試験場は桃
れ始め平成 24 年現在、桃山町内で約 70 台[JA 紀の里資料]。
のネマトーダ抵抗性台木を育成、実用化[15]。
・除草剤「バスタ液剤」が登録され、以後果樹園で使用される。
・5 月 27 日、山梨県山梨市の田草川利幸氏が白鳳の枝
ひ かわ
変りから育成した「日川白鳳」が品種登録[農林省品種登録
データベース]。
昭和 57(1982)年
・4 月、桃山町調月に新桃山会館が竣工[46]。
・6 月、東北新幹線開通[46]。
昭和 58(1983)年
・県立定時制貴和高等学校が県立貴志川高校となり男女共学全日
制となる。
昭和 59(1984)年
・2 月、全国花卉生産者大会の参加者 820 人が本町の産地を視察[7]。・和歌山県は、桃・李・枇杷の出荷規格を策定、施行[和
歌山県青果物標準出荷規格実施要領]。
昭和 60(1985)年
・桃山町の桃栽培は 200 ㌶、収穫量 4300 ㌧、那賀郡内の過半数を ・1月 10 日、世界人口は 48 億人と発表[国連統計の報道]。
りよう が
占めるまで増え「あら川の桃」は名実ともに戦前を 凌 駕して回復。 ・6 月、県果樹園芸試験場紀北分場(山下重良分場長)が
・桃山町の世帯数 2,319 戸、人口 9,567 人[17]。
県農協連合会の支援を得て、桃の海外市場開拓を目指
・4 月、桃山町の桃産地を内外に PR するため、
「もも」を町の花 し安楽川丸百選果場の完熟桃を 3 ℃に予冷、日本航空
として制定、第一回「桃山まつり」を開催[7]。
でロンドンのヒースロー空港に空輸試験、フランクフ
・6-7 月、桃山町農協から初めて桃を航空輸送で鹿児島・宮崎の ルト・アムステルダム・チューリッヒ・コペンハーゲ
市場に 42.5 ㌧を出荷[30]。
ンに空輸配送、各都市のバイヤーによる商品評価で好
- 117 -
桃山町の歴史と桃の年表
評博す[30]。
・8 月 12 日、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落、520
人死亡[46]。
・那賀郡 6 町の世帯数/人口合計 24,866 戸 92,132 人
[17,34]。
昭和 61(1986)年
・11 月、町営乗合いバス運行開始[46]。同月、調月保育所竣工[46]。
・同 62 年 5 月、新竹房橋が竣工[46]。
昭和 62(1987)年
・国鉄に代わって JR 和歌山線を電車走り、[しもいさか]・[きいな ・那賀郡内各所に自動販売機が設置されジュース・コ
がた]の無人駅で乗降出来るようになる[34]。
ーヒ類・酒・ビール・タバコも売られるようになる
[34]。
昭和 63(1988)年
・3 月、貴志川の下流、貴志川町丸栖-桃山町調月間に桃山大橋の ・県果樹園芸試験場はミカン・柿・桃の非破壊品質選
架橋竣工[7]。
別法の研究開発に着手、近赤外線電磁波利用で見通し
・3 月、桃山町の深山渓谷が「紀の国名水」に選定される。5 月、 得る[県果樹園芸試験場研究成果]。
細野渓流キャンプ場完成[46]。
や はた
・山梨県の前田茂吉氏が白鳳の枝変わりから「八幡白
はしば
・11 月 5 日、桃山町市場の杉原成和氏が桃山白鳳(通称モモハク) 鳳」
、山梨県の橋場達夫氏が白鳳の枝変わりから「橋場
を選抜、品種登録[農水省品種登録データベース,7]。相前後して「日川白鳳」 白鳳」等、多くの早生系白鳳が選抜、育成される[58]。
・「桃山白鳳」
・「八幡白鳳」等が導入され桃山町内全域に普及[58]。
昭和 64(1989)年
平成元(1989)年
・1 月 8 日、
「平成」に改元。
・5 月、山下忠男氏、桃山町農協組合長に就任。
・三菱重工㈱は近赤外線を用いた桃の非破壊糖度選別
・6 月、全国モモ研究大会が和歌山市で開催、桃山町段新田の桃 機を開発、岡山市の一の宮農協に導入。
・同じ頃、三井
園を視察[同研究大会資料]。
・6 月、桃山町文化協会発足[46]。
金属工業㈱が開発した同様な装置を山梨県西野農協選
・県立那賀高校の農業課程が廃止され県立紀北農芸高校(伊都郡か 果場が導入[15]。
つらぎ町妙寺)に併合される[34]。
平成 2(1990)年
・3 月、細野小学校は児童減少で休校となる[46]。
・4 月 1 日、大阪で国際花と緑の博覧会[花の万博]が開
幕(9 月 30 日まで)[44]。 都道府県の展示コンテストが行
われ、山下重良が審査員に委嘱され審査にあたる。
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桃山町の歴史と桃の年表
・6 月 9 日、1989 年における女性が一生涯に産む子ど
も数の合計特殊出生率が史上最低の 1.57 と発表[厚生省人
口動態統計,44]。
平成 3(1991)年
・6 月、国道 424 号線バイパス(調月南部- 市場間)完成[7]。
・9 月 28 日、台風 19 号が襲来、青森のりんごが大被
・6 月、調月北島に郡民スポーツレクレーションセンター竣工[46]。 害を受ける。全国で 44 人が死亡、6 人が行方不明。
・10 月 16-17 日に全国園芸試験場長会(会長山下重良)
現地研究会を青森県で開催。
平成 4(1992)年
・6 月、桃山町野田原の薄木神社例祭に「ホタル祭り」始まる。
・6 月 6 日、1991 年の全国の出生率が 1.53 で史上最低
・10 月、那賀郡内の 5 農協が合併し JA 紀の里農協となり[7]、桃 と発表[厚生省人口動態統計]。
山町農協は JA 紀の里農協桃山支所となる。
・県果樹園芸試験場はミカン・桃・柿の非破壊で糖酸
・この年、桃山町の桃栽培面積 244 ㌶、生産量4千 549 ㌧となり の選別手法を確立、雜賀技術研究所(和歌山市)がミカ
県内収穫量の 32.5 %を占める[近畿農政局生産統計]。
ンの光センサー選菓機を製品化、1 号機を長崎県西海
・町内で桃の摘蕾・摘果・袋掛け・剪定作業等に高所作業台車が 農協選果場に設置する。以来、全国主要ミカン産地の
使われるようになる[58]。
平成 5(1993)年
選果場に普及。
・4 月 1 日付けで山下重良、推されて研究法人青果物選別包装技 ・5 月 18 日、アメリカのマイクロソフト社がパソコン
術研究組合理事長に就任。理事/株式会社マキ製作所堀居哲士社長、基本ソフト「ウインドウズ 3.1」日本語版を発売[44]。
理事/白柳式撰果機株式会社鈴木栄一社長、富士通株式会社社長、 ・6 月 4 日、厚生省は 92 年人口動態統計を発表、1 年
幹事/石崎政彦氏(元和歌山県果樹園芸試験場長)。青果物の選別包 間の離婚が約 18 万組と過去最高に、1 人の女性が産む
装機器、施設の改良開発を推進[同研究組合議事録]。
子供は 1.5 人と過去最低になったことが判明。
・4 月、桃山小学校野田原分校が休校[46]。
・8 月 31 日、気象庁が 1954 年以来の冷夏になったと
・5 月、桃山町市場にふれあいコミュニテイセンター完成[46]。
発表。
・バブル経済の崩壊が波及し、加えて輸入穀物の増加・パン食の ・9 月 28 日、冷夏のため 9 月 15 日の時点の米の作況
普及・輸入果実の増加・政府の稲作減反政策により、水田の果樹 指数が戦後最悪の 80 と公表される(最終的には 74 ま
転換や緑化樹栽培に転換する農家が増える[34,58]。
- 119 -
で落ち込む)
。
桃山町の歴史と桃の年表
・那賀郡打田町西三谷に近畿大学理工学部が開学。5 学科、募集
定員は 1 学年 380 人[34]。
平成 6(1994)年
・1 月、山下忠男氏、桃山町長に就任。
・1 月 29 日、中国山東省の前漢時代の集団墓地跡から
・7 月 29 日、桃山町農協申請の「あら川の桃」が商標登録[同振興協 発掘した人骨の多くが九州北部や山口県の弥生遺跡出
議会資料]。
土人骨の特徴と似ていることが判明、弥生人の大陸渡
・9 月 29 日、台風 26 号が紀伊半島に上陸、桃や農作物に被害。
来説に有力な証拠となる[報道,44]。
・7 月、和歌山マリーナシティで世界リゾート博開催
[46]。
・9 月 4 日、関西国際空港が開港[46]。
・12 月 27 日、電子メールに乗って感染するマクロウ
ィルスの新型が日本で初めて発見される[報道,44]。
平成 7(1995)年
・4 月、桃山町で第 1 回桃源郷マラソン大会開催、750 人参加[46]。 ・1 月 17 日、兵庫県南部地震。午前 5 時 46 分、淡路
・同月、調月観音寺跡の木造観音菩薩立像が県指定文化財に[7]。
島を震源とするマグニチュード 7.2 の直下型地震が起
・この年、桃山町内で桃のせん孔細菌病が多発、商品性を損なう。 こり淡路島と神戸で震度 7 を記録する。家屋倒壊と広
その後防風対策やボルドー液散布が徹底される[35]。
範囲の火災で死者 5500 人、行方不明 2 人、負傷 2 万
6815 人、家屋損壊 10 万 9464 棟[新聞報道,44]。阪神淡路大
震災。
・モモのネコブセンチュウ抵抗性台木の筑波 4・5 号の
実生台木の矮化効果を実証[農業技術 50 巻 3 号]。
・4月 19 日、円が1ドル 79 円台に突入[新聞報道,44]。
・9 月 8 日、厚生省が全国高齢者名簿を公表、100 歳以
上が全国で 6 千 3 百 78 人と発表[新聞報道]。
平成 9(1997)年
・県内桃生産者団体・関係技術者・出荷団体をはじめ県関係機関 ・4 月、消費税が 3%から 5%に引き上げ[46]。
等を構成員として和歌山県桃研究協議会設立[同協議会規定]。
- 120 -
・6 月 20 日、環境庁が測定したダイオキシンの大気中
桃山町の歴史と桃の年表
・7 月、桃山町上水道 2 期拡張工事完成[46]。
濃度を地名別に公表、都市部は農村部のほぼ 10 倍の濃
度[44]。
・10 月 23 日、チリ気象庁が南極圏のオゾン層が過去
最大の規模で減少していると発表[44]。
・12 月、京都で気候変動枠組条約第 3 回締結国会議が
開催され温室効果ガスの総排出量の削減が取り決めら
れる。大量排出国のアメリカ・中国は不参加[44]。
平成 10(1998)年
・6 月、桃はじめ町内産物を直売する桃山特産センター完成[7]。
・除草剤ラウンドアップが登録され、以後果樹園で使
・この頃から桃山町内の沿道各所に桃農家や出荷団体が桃の直売 用される。
所を数多く出店、桃の季節は多くの人々が来店して賑わう。
・7 月 25 日、和歌山市で毒入りカレー事件が発生、全
・12 月、あら川の桃縁起踊りが桃山町無形民俗文化財に指定[46]。 国で毒物混入事件が相次ぐ[報道]。
・専業農家でも米を買う農家が増え、農耕用牛を飼う農家がなく ・黒川地区営農飲雑用水施設が完成[46]。
なり、耕耘機やトラクターで耕し、田植えも機械植えとなり稲作
を減らせば減反奨励金が出る[34]。
平成 11(1999)年
・4 月、桃山町舎と公共施設にインターネット回線接続、町のホ
・8 月 13 日、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)
ームページ開設[46]。
が公布され、「第一条 国旗は日章旗とする(後略)。第
・7 月 14 日、山下重良、推されて桃山町農業委員に就任。
二条 国歌は君が代とする(後略)」(法律第百 27 号)と、
・和歌山県桃研究協議会編「桃栽培マニュアル」を策定、配布[県 日章旗が正式に国旗として、また国歌は旧来からの「君
桃研究協議会]。
が代」と定められる[44]。
・野田原地区に雨山観光農道完成[46]。
・那賀郡内各地の山林でマツクイムシによる松枯れが
多発、松茸が出なくなる[34]。
・各家庭で電化製品・冷暖房機が普及し、自家用車の
保有台数が増える。各地に食料品の大型スーパーや何
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桃山町の歴史と桃の年表
でも揃うホームセンターが増え、町の小売店が寂れる。
平成 12(2000)年
・11 月 3 日、JA 紀の里農協は大型農産物直売所「めっけもん広 ・7 月、全国モモ研究大会が和歌山県で開催され、桃
場」を開設[JA
紀の里資料]。桃山町内農家は、桃はじめ果実・野菜等
を出荷、大勢の集客で繁昌[58]。
平成 13(2001)年
山町百合地区の桃園視察[同大会資料]。
・宅急便の利用が増え、郵便小包の利用が減る。
・11 月、桃山町は環境省の「全国かおり風景百選」に応募、「桃 ・4 月末現在、携帯電話の国内普及台数は 6 千 2 百 3
源郷一目十万本の桃の花」が選定される[7]。
万台。日本人口の半数以上が携帯電話を所有するよう
・この頃から桃山町の農家でも携帯電話を持つ人が増える。
になる[電気通信事業者協会資料]。
・8 月 24 日、チェリモヤ「粋豊=山下重良育成」が農
林水産省に品種登録される。
平成 14(2002)年
・1 月、桃山町・JA紀の里農協桃山支所・桃山町内の桃出荷団 ・1 月 21 日、奈良県明日香村のキトラ古墳の壁面に、
体、及び出荷先卸売市場等、関係組織や桃生産者が協力し「あら 国内初の獣頭人身像が描かれていると、同古墳保存活
川の桃研究協議会」設立。
・3 月、桃山町誌完成、発刊[7,46]。
用委員会が発表[新聞報道]。同古墳は、天武天皇の皇女/但
・桃山 町で一般家庭 に初めてイ ンターネット に常時接続回線 馬内親王の墓であることが井上赳夫氏や池田仁三氏の
(ADSL)が利用可能となる[58]。
画像解析で判明した[61,67]。
・地球環境保全と廃棄物の再利用が世界的に重要課題
となる[報道]。
・3 月 4 日、公立学校で土曜日を休日とする完全学校
週 5 日制を実施[文部科学事務次官通知]。
・除草剤「ラウンドアップ」が発売される。
平成 15(2003)年
・7 月、桃山町神田の桃園で果皮に小さな赤斑点を表す新病害が ・赤斑点の病害が福島県伊達地方の桃園でも 1988 年か
発生、県果樹試験場かき・もも研究所等が研究の結果、糸状菌の ら確認された「福島果樹試験場技術情報」。
せきてんびよう
一種を検出、平成 20(2008)年に「モモ果実赤点 病 」と命名[同研究所 ・カイワレダイコンの
研究報告・日本植物病理学会報]。
o-157
汚染や無登録農薬問題か
ら農薬取締法、食品衛生法が改正される。
・JA 紀の里は農産物の安全性を証明し紀の里ブランドを守る「安
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桃山町の歴史と桃の年表
全・安心」の農産物推進運動を開始[同農協資料]。
平成 16(2004)年
・6 月 21 日、台風 6 号が近畿地方を直撃、桃山町で早生桃や白鳳 ・2 月 27 日、地下鉄サリン等、13 事件で 27 人の犠牲
に大きな被害を受ける。
・台風後、桃のせん孔細菌病が多発、被害 者を出し殺人罪などに問われたオウム真理教元代表、
は県平均で 40 ㌫、一部では 80 ㌫を超えた[森本凉子他:関西病害虫研究報 松本智津夫被告(麻原彰晃 48)の判決公判で東京地裁死
告] 。
・桃のせん孔細菌病対策マニュアルを策定配布[県桃研究協議会]。・
刑判決[報道]。
12 月、桃山町神田に桃源郷学習体験館が完成、庭園に 250 品種 300 ・7 月 1 日、紀伊山地の霊場と参詣道などがユネスコ
本のツバキ公園が開園[46]。
平成 17(2005)年
の世界遺産に登録[報道]。
・11 月、那賀郡内の打田町・粉河町・那賀町・桃山町・貴志川町 ・那賀の地名は那賀郡だけとなる。
が合併、紀の川市となり、中村慎司氏が紀の川市長に就任。10 月 ・和歌山県、及び桃山町の助成事業で昭和 52 年から平
の人口総数 6 万 7 千 8 百 62 人。
・桃山町は桃産地を意識して紀の 成 17 年迄に設置された果樹園の防風網施設が延長 22.6
川市桃山町の地名を残す。
㎞、防風樹は 1 万 3 千本、延長 13 ㎞[森本凉子他:関西病害虫
・インターネット光回線が桃山町の一般家庭で初めて利用可能と
研究報告]。
なる。
・3 月、桃山中学校閉校[46]。
・同月、安楽川保育所竣工[46]。
平成 19(2007)年
・太陽光発電装置の設置補助金と電力買取り政策をうけ町内一般
・7 月 31 日現在の紀の川市人口(外国人含む)は 6 万 9
家庭に太陽光発電装置の設置増える[58]。
千 971 人(前年比マイナス 15 人)
。男 3 万 3 千 360 人。
女 3 万 6 千 611 人。世帯数 2 万 4 千 875 世帯[紀の川市資
料]。
平成 20(2008)年
・3 月、桃山町最上に桃源郷運動公園が完成、各種スポーツ競技
・中国産ギョウザの輸入品に農薬(メタミドホス)が検
場として活用されるようになる。同公園にハナモモ・ハナウメ等 出され中国産食品の買い控え起こる。
97 品種、約 400 本が栽植され憩いの場となる[紀の川市資料]。
・農薬の基準値を超えた輸入米・カビ米が違法に販売
され農水省の米管理のずさんさが問われる。
平成 21(2009)年
・JA 紀の里農協が紀の川市竹房に西部流通センター建設、翌 22 ・西部流通センターの桃選果荷造り施設は予冷庫を備
年から桃山町内の桃をはじめ柿等の選果荷造りを開始[JA
紀の里農協資
料]。
平成 22(2010)年
え個々の果実糖度を自動測定、1 日選果能力 70.2 ㌧、
渋柿の CTSD 脱渋施設等も完備[同左]。
・桃栽培面積と生産量:桃山町 229 ㌶、3 千 431 ㌧。那賀郡(紀の
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・世界の桃生産量(㌧):1 位中国 1,071 万 8,048、2 位
桃山町の歴史と桃の年表
川市/岩出市)577 ㌶、8 千 579 ㌧。和歌山県 830 ㌶、1 万 2 千 100 イタリア 159 万 0,660、3 位スペイン 113 万 4,750、4 位
㌧。全国 1 万 2 千 100 ㌶、13 万 6 千 700 ㌧[農林水産統計,和歌山県調べ]。 アメリカ 104 万 4,440、5 位ギリシャ 63 万 9,400、6 位
トルコ 53 万 4,903、18 位日本 13 万 6,700(以下省略)。
平成 23(2011)年
・2 月 15 日、桃山町調月の養鶏場で鳥インフルエンザの感染が確 ・3 月 11 日 14 時 46 分、三陸沖を震源とする東日本大
認され約 12 万羽の殺処分や埋却処分等、防疫措置が行われる[和歌 地震で大津波発生、翌年 7 月 18 日現在、死者 15,867
山県発表]。
人、重軽傷者は 6,109 人、届出があった行方不明者は
・9 月 3-6 日、台風 12 号に伴い紀伊半島南部に水害・土砂災害が 2,906 人[警察庁発表]。また東京電力福島原発が震災と津波
発生。和歌山県の死者行方不明 61 人[和歌山県広報紙]。
・桃山町でも低 災害で破損、放射性物質が飛散し農作物や牛乳が汚染
地の住宅や倉庫が浸水被害[58]。
被害[報道]。
・4 月 25 日、レギュラーガソリンが高騰、和歌山県平
均㍑当り 163.1 円に[資源エネルギー庁石油流通課調べ]。
平成 24(2012)年
・4 月 2 日、
「あら川の桃振興協議会」は「あら川の桃記念誌」編 ・1 月 20 日、山梨県果樹試験場が「一葉」と早生の
纂委員会を組織して資料収集・編纂を開始、12 月に概ね完成。
「みさか白鳳」を交雑して 育成の極早生桃「ひめっ
・7 月 13-25 日、JA 紀の里農協あら川桃部会が観光バス会社と提 こ」が品種登録される[農水省品種登録情報]。
携、桃山町元の桃園で消費者の「桃狩り体験バスツアー」を開催、 ・4 月、果樹・野菜等のハウス燃料の A 重油が㍑当り
大阪・奈良等から約 2 千六百人が参加[同部会資料]。
近畿平均 90 円(小型ローリー納入価格)に値上がり[右同]。
・和歌山県果樹試験場かき・もも研究所が、2009-2011 年にかけ 果樹・野菜・花きの加温栽培が危機的状況となる。
て桃山町の「モモ果実赤点病」発生園で、感染時期と薬剤お防除 ・8 月 4 日、厚生労働省は平成 22 年時点で日本の認知
効果を試験した結果、分生胞子は 6 月下旬から急増し 10 月上旬ま 高齢者が 3 百万人超と発表、2025 年には 4 百 70 万人
で多く、果実の発病は袋掛けが遅くなる程多く、5 月上旬-6 月中 になると推計[厚生労働省新聞報道]。
旬までダコレート水和剤 1,000 倍・ベルクート水和剤 1,000 倍・ナ ・8 月 12 日、ロンドンオリンピック閉幕、日本選手団
リア WDG2,000 倍・ジマンダイセン水和剤 600 倍の 3-4 回散布が は 11 位ながら史上最多のメダル数 38 個獲得[報道]。
有効と発表[同試験場研究成果,わかやま果試ニュース No81 号]。
・9 月 11 日、日本政府は尖閣諸島の国有化を決定する。
中国政府はただちに撤回を要求、中国軍も報復措置を
示唆する声明を発表するなど緊張が高まり各地の反日
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桃山町の歴史と桃の年表
デモで日系企業が荒らされる。中国の巡視船が連日、
日本の接続区域や領海に侵入して示威行動繰返す[報道]。
・10 月 10 日、参院本会議で消費税増税法案が可決、
成立。現行 5 %の税率は平成 26 年 4 月に 8 %、27 年 10
月に 10 %に引き上げと決まる[報道]。
・12 月 11 日(日本時間)、京都大学 iPS 細胞研究所長山
中伸弥教授、カリフォルニア大学サンフランシスコ校
グラッドストーン研究所上級研究員、奈良先端科学技
術大学院大学栄誉教授(医学博士)は、「成熟細胞が初期
化され多能性をもつことの発見」によりノーベル生理
学・医学賞を受賞した[報道]。
・12 月 16 日、衆議院選挙、政権党の民主党が大敗し
自民党が多数を獲得[報道]。
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本文及び年表に記載した主な引用文献・参考資料 (順不同)
No.著者・編者名:資料名.発行者名.発行年月
1.次田真幸 全訳注:古事記(全三巻).株式会社講談社.2006 年 4-6 月 50 刷
2.坂本太郎他校注:日本書紀(上).岩波書店.昭和 42 年 3 月
3.坂本太郎他校注:日本書紀(下).岩波書店.2003 年 5 月
4.菅野雅雄訓読:先代旧事本紀.新人物往来社.2008 年
5.青木和夫他校注:続日本紀(一~五).岩波書店.2005 年
6.仁井田好古ら編著:紀伊続風土記(全五輯).臨川書店.天保十年三月(復刻版)
7.桃山町誌編纂委員会編:桃山町誌.桃山町.平成十四年三月
- 125 -
桃山町の歴史と桃の年表
8.藪内虎彦編:桃山町史.桃山町.昭和四十七(1972)年十月
9.松田文夫編:紀州豪族史料.自費出版.平成十九年(第三版)
10.山下重良著:邪馬台国の建国から女王卑弥呼の時代.桃山歴史の会.平成 22 年 9 月
11.東京大学史料編纂所:大日本古文書・高野山文書(全八巻).東京大学出版会.明治 40 年(復刻版)
12.那賀郡役所編:那賀郡誌(上下二巻).那賀郡役所.大正 12 年
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32.竹田祐吉・佐藤謙三訳:訓続日本三大実録.㈱臨川書店.昭和 61 年 4 月
33.菊池秋雄著:果樹園芸學(上巻).㈱養賢堂.昭和 36 年 5 月(改訂第二版)
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桃山町の歴史と桃の年表
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37.総本山金剛峯寺編:高野山文書(全七巻).歴史図書社.昭和 48 年 8 月
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桃山町の歴史と桃の年表
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78.三好和義他:日本の古社 大神神社.株式会社淡交社.2004 年 2 月
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桃山町の歴史と桃の年表
90.谷沢永一:聖徳太子はいなかった.株式会社新潮社.2004 年 5 月
91.井上修一:徐福伝説「秦の始皇帝をだました男」http://inoues.net/mystery/jyofuku.html
92.三浦一郎:九鬼文書の研究.皇道宣楊会.昭和 16 年 11 月
93.高野
勉:聖徳太子暗殺論.光風社出版.昭和六十年十一月
94.野中寺発行:野中寺略縁起
95.南向山西方院発行:西方院縁起
96.聖徳太子御廟所 磯長山叡福寺:河内国上之太子 磯長山叡福寺縁起
97.森田悌:続日本後紀(上・下).株式会社講談社.2010 年 11 月
98.和歌山県史編纂委員会:和歌山県史.和歌山県.昭和 45 年
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100.梶原正昭 校注訳:義経記 新編日本古典文学全集 62.小学館.2000 年 1 月
101.橘 健二/加藤静子 校注訳:大鏡.小学館.1998 年 3 月
102.長谷川瑞 校訂訳:太平記(第 1-40 巻,全四冊).小学館.1998 年 7 月~ 2004 年 5 月
103.日本歴史大事典編集委員会編:日本史年表.河出書房新社.1998 年 3 月(第四版)
104.藤堂明保 他全訳注:倭国伝(中国正史に描かれた日本).株式会社講談社.2010 年 9 月
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