2011年10月 - 教育の境界研究会

教育解放140
教育
解放
Free From the Education
和歌山県新宮市旧小口小学校
例会案内とお知らせ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2
夏合宿 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
報告(1)
中西 宏次
報告(2)
四方 利明:有田川町立御霊小学校、藤並小学校を訪ねて
9月例会
報告
感想
10月例会
報告
感想
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
小泉 友則:明治後期から昭和初期における幼稚園のなかの
<性>
冨井 恭二
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15
ウスビ・サコ:京都元番組小学校の統廃合・跡地利用と地域
共同体の変容・再生の関係を探る
中西 宏次:コミュニティにとっての学校
屋久島だより(7)
大垣裕美
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
編集後記
2011年10月
教育の境界研究会
第8期
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第19号
通巻
21
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140
A forum for border studies of Education
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教育解放140
例会案内とお知らせ
◆【恒例】冬合宿のご案内
・日
時
12月27日(火)~28日(水)
・日
程
午後1時、車に分乗、JR茨木駅を出発し宿舎へ、次の日の午前中、
学校見学の予定。
・宿
舎
美里温泉かじか荘
http://www.kajikasou.com/
・見学する学校について
紀美野町立毛原小学校の体育館は、2001年に全面リニューアルされ、内装
に木材を多用し、二階建てにして2階に多目的ホールと特別教室を配してい
ます。この設計を手がけたのが、今年の夏合宿に訪問した御霊小学校、藤並
小学校と同じ岡本設計です。さらに、注目すべきは、この2001年築の体育館
に加え、1953年築の木造平屋建ての校舎が現存していることです。体育館設
計にあたっては、この校舎の景観が考慮されているようです。文科省が2004
年に出した『あたたかみとうるおいのある木の学校』という本のなかに紹介
があります。また、毛原小学校のホームページのアドレスは、以下の通りで
http://www.kimino.jp/kajika/
す。
*合宿参加ご希望の方は、中西まで連絡下さい。
nakanisi@kyoto-seika.ac.jp
◆11月例会のご案内◆
日
時
11月12日(土)14時~17時
会
場
茨木市市民総合センター(クリエートセンター)
*いつもの会場茨木市民会館の東約100m
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教育解放140
報告者
岡本洋之(兵庫大学教員)
テーマ
セーラー服を通して日本社会を見る
―その試みと苦悩―
報告者のコメント
セーラー服は英国海軍水兵の服装、つまり男の服として始まったのに、な
ぜ日本では旧制女学校(高等女学校など)の制服の定番になったのか?女が
着るとはいっても、中高年女性が着ないのはなぜか?それ以前の女袴は雑誌
などからさんざん嘲笑や揶揄を受けたのに、セーラー服にそれがあったと聞
かないのはなぜか?
これらを考えているうちに、私はセーラー服が、女をめぐる日本の伝統に
合致する形状だからこうなったのではないかと思うようになった。これを突
き詰めると、ケガレの問題もからんできそうである。それでは「セーラー服
=
男の服」の印象が強かったに違いない軍港都市ではどうだったのか?
……これらを調べる過程で触れる日本社会の姿の面白さ。
セーラー服が女学校の制服になった理由を示す決定的証拠は、最後まで出
てこないかもしれない。それを覚悟でこの仕事に「はまって」しまった一研
究者の明暗とりまぜた迷いぶりを、本報告ではお話し申し上げたい。
◆12月例会のご案内◆
日
時
12月11日(日)14時~17時
*いつもの土曜日ではなく日曜日ですのでご注意ください。
会
場
茨木市民会館
報告者
野崎康夫(京都市立小学校非常勤講師)
テーマ
番組小学校「竈金」の評価をめぐる今日的課題
報告者からのコメント
「町衆の代表が集まり、知恵を出し合い、汗を共にかき、そして「竈のあ
る家はみんなお金を出し合う」ことで六十四の番組小学校(日本初の学区制
小学校)を創設し、その後の運営も自ら行いました」(京都市教育委員会・
京都市学校歴史博物館編『京都学校物語』)という前文にある門川大作氏(当
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教育解放140
時教育長)の文章表現に、2006年の出版から5年たっても今でも違和感
を覚えます。当時の人たちは本当に心からお金を出して学校を作ることを望
んだのでしょうか?そんな疑問から少しばかり歴史を紐解いてみました。か
なり自己流の解釈ですが、何かのお役に立てればと思います。
◆1月例会のご案内◆
日
時
2012年1月14日(土)14時~17時
会
場
茨木市民会館
報告者
四方利明(立命館大学教員)
テーマ
ブラジル日系社会と校舎
報告者からのコメント
1908年に日本からブラジルへの移民が始まって以降、ブジル各地に日系社
会が形成されていった。日系社会においては、日本人会が日本語学校を設置
することで、日本語教育を中心として日本文化の継承を目指してきた。それ
ゆえ、日本語学校は日系社会のコミュニティセンターとしての役割を担うこ
ととなった。さらには、地域によっては、日系社会にあるブラジル学校も、
通学する子どもたちのほとんどが日系人であることから、当該コミュニティ
の核としての位置づけを獲得してきたところもある。
興味深いのは、戦時中、ないしは戦後の早い時期にこのような学校が廃校
となり、子どもたちへの教育的な機能を喪失しても、なお、その建物と日系
社会とがかかわりを保持しており、日系社会のコミュニティセンターとして
の役割を担い続けている場合が散見されるということである。
本報告は、以上のような事例についてフィールド調査に基づいて紹介しな
がら、教育的な機能に特化して定型化された日本の学校建築のありようを相
対化する可能性を見出し、在籍児童・生徒への教育的機能に限らない、学校
の持つ多様な機能、意味を描き出そうとするものである。
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教育解放140
2011年夏合宿
概要
中西宏次
今年の夏合宿の宿舎は、和歌山県湯浅町の街外れにある栖原温泉旅館という一
軒宿だった。2日目に訪問する有田川町の2つの小学校に近いということで選ん
だ宿だったが、「隠れ湯」というキャッチフレーズがふさわしい鄙びた雰囲気な
がら、お料理がとても美味しくて「今までに合宿で泊った宿のなかで三本指に入
る」という人もいた。このことについては後でまたふれる。
午後3時すぎ宿に着いたあと、早速2時間ほどの研究会をした。報告したのは
冨井恭二さんと私である。冨井さんは「毎日新聞大阪本社社会部記者・林由紀子
さんインタビューの概要」という報告をされた。取材を仕事にしている記者さん
を逆に取材したというこの話には私も関与している。発端になったのは、彼女が
長期取材し「毎日」に連載(2010年6月・16回)された「弥栄のきずな」
という記事である。この記事は2011年3月に「開晴小中学校」に統合され廃
校になった京都市立弥栄中学での人権教育の実践を追ったもので、同和地区や養
護施設から通学している生徒たちが「人権劇」に取り組んだり、彼らをきめ細か
くサポートする教師たちの姿が描かれている。林さんとほぼ同時に取材に入って
いたNHK大阪放送局によるドキュメンタリー・「かんさい熱視線・逃げずに向
きあえ―京都・中学生が挑む人権劇」(2010年12月放送)という番組で、
その様子を映像でもみることができる。
私は以前「被差別部落と小学校―京都・東三条を中心に」(『大阪教育大学教
職教育研究開発センター紀要第2号』2008年3月)という論文を書いた時、
弥栄中の校区である粟田・有済小学校(2004年4月に統合、「白川小学校」
となる―同校も今春開晴小中学校に統合)校区の教育史を調べたことがあるので、
「毎日」読者である冨井さんからこの連載について知らされてからずっと関心を
持っていた。
冨井さんや私が林記者に話を聞いてみたいと思ったのは、若い彼女がどういう
経緯で弥栄中の人権教育に着目したのか、密着取材して彼女が感じ取った(記事
化できなかった部分も含め)印象などについて聞いてみたかったのと、両名とも
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教育解放140
すでに統合・廃校になった京都元番組小学校の出身者として、近年京都で進めら
れている広域学校統合について林さんと意見交換したいということもあった。
「インタビュー」は林さんの多忙などでなかなか実現しなかったが、7月末に
やっと時間を割いてくださり、毎日新聞大阪本社の一室で2時間弱3人で話をし
た。まず林さんが弥栄中の取り組みに出会った経緯だが、彼女の初任地である京
都でたまたま弥栄中を取材する機会があり、最初は電話取材だったが当時の教頭
から「研究発表会」に来てみないかと熱心に誘われ、行ってみたところ、中学生
たちが自分自身の被差別や家庭環境の問題などについて率直に語る姿に打たれた
のがきっかけとのことだった。林さん自身は愛知県の出身で、高校まで人権教育
を受けた記憶はなく(映画「橋のない川」をみた程度)京都へ来て初めて部落問
題・人権教育の取り組みに接したということで、弥栄中の先生が生徒たちとかか
わり、「生き方」の問題も含めて共に考え、歩んでいく姿には率直に感銘を受け
たと言っておられた。一方、長年高校現場で「解放教育」実践に取り組み、その
「限界」を自覚して「教育解放」に転じた私たちの歩みについても少し話したが、
林さんに理解してもらえたかは心もとない。
広域統廃合については、弥栄中の人権教育のように「全国的に評価されている」
取り組みが統廃合によってなくなるのは残念、というのが林さんの意見だった。
私たちも、京都府南山城村で、統廃合される前の小規模な小学校で行われていた
地域密着型の特徴ある教育実践のことを話した。学校統廃合の結果、統合校の教
育目標はどうしても「学力向上」とか一般性のあるものにウェイトがかかる結果、
統合以前の学校で行われていたローカルだが(そのローカリティに対応した)キ
メ細かな取り組みは継承が難しくなるという問題点があるという点で三人の意見
は一致した。
林さんは現在大阪市役所担当ということで、秋の「ダブル選挙」等に向け多忙
さが増すと思われるが、また機会があれば学校現場を取材して、問題意識を継続
・発展させてほしいと思う。
次に報告したのは私である。私は現在勤務している京都精華大学で、「現代学
校論」という講義のなかで「学校のモノ」として国旗・国歌(日の丸・君が代)
を取りあげ、学生たちの反応(コミュニケーションペーパー)等について若干の
考察をした研究ノート(「学校体験対象化の試み」)を研究会の年報8号に寄稿
したが、今回報告したのはその続編(2011年度前期の取り組みのまとめ)で
ある。
今回特徴的だったのは、
(不起立)教員処分に対する最高裁での「合憲」判決、
及び大阪府の橋下知事主導による「国歌斉唱起立義務化条例」制定の動きと講義
がほぼ同時進行(2011年6月中の5回の講義)したため、それらに関する新
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教育解放140
聞記事などの情報をリアルタイムに学生たちに提供しながら話を進めることがで
きた事、その効果もあってか学生の意見(「条例」への賛否両論など)が結構交
差して噛み合ったことなどが挙げられる。ただし、学生の意見交換はコミュニケ
ーションペーパーの中から私がピックアップしたものをプリントして配布し、そ
れを素材にしてまた意見を書いてもらうというやりとりとして行った。これは結
構活性化したのだが、講義時間内にディベート風ディスカッションを行う試みは
準備不足もあって失敗した。「受講者が多い場合全体で議論するのはハードルが
高いので、一旦講義を終わり、残りたい人は残ってというかたちでやれば?」と
いったご意見をいただいたので、また工夫して再チャレンジしてみたい。
研究会を終えて小憩したあと、夕食タイムになった。この宿は海に近いので、
魚介類が美味しいかなと期待していたのだが、その期待は裏切られず、さらにそ
の食材をもっと美味しく仕立てる料理人の腕がたいしたもので、「美味しい!」
という声があちこちから上っていた。一例をあげると、太刀魚のお刺身は少し炙
ってあり、香ばしさがプラスされていたし、付け醤油も泡だてたもの(泡醤油)
と普通の液状のものとが両方出てきて、付け分けるとそれぞれに違った趣があっ
た。また、裏山で栽培されているという「三宝柑」をくりぬいて器にした茶碗蒸
も、エビやアワビといった具や卵出汁に柑橘系の香りがほんのりと移っていて、
印象に残る一品だった。
夕食時から窓の外に花火が上るのが見えていたが、食後二階の一室に移動し部
屋の電気を消すと、湯浅の海岸から打ち上げているらしい花火がとても綺麗に見
えた。思わぬ花火鑑賞もでき、思い出に残るであろう宿の一夜になった。
少し長くなったので、2日目の学校見学記は四方さんに委ねることとしたい。
冨井補足
林記者の弥栄中学校の取材記事は「弥栄のきずな」だけでなく、2
011年3月の「続
弥栄のきずな」として16回連載された。前者は2009
年度の、後者は2010年度の3年生の「人権劇」と「研究発表会」を軸に取材
されている。NHKの番組の内容と後者の記事は重なっている場面が多く、林記
者自身がこの教育実践が映像と文字の両方で記録できてよかったという感想を述
べられていた。
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教育解放140
有田川町立御霊小学校、藤並小学校を訪ねて
四方利明
1.御霊小学校
夏合宿二日目の8月8日は、有田川町(合併前は旧吉備町)に位置する、町立
御霊小学校、藤並小学校を訪ねた。二校の校舎ともに、鉄筋コンクリート造であ
りながら、内装に木材をふんだんに用いており、設計を手がけたのはともに岡本
設計である点で共通する。
午前は、御霊小学校を訪ねた。御霊小学校の現在の校舎は、1994年に竣工
している。今年度の児童数は263人で、1学年2クラスである。新校舎竣工当
初はもう少し児童数は多かったようであるが、1学年2クラスという規模は維持
し続けている。
敷地の北端に東西方向に一文字型の二階建て校舎が位置する。校舎内部は、片
廊下ではなく、中廊下式を採用している。廊下をはさんで日当たりの良い南側に
普通教室、北側に特別教室を配置している。校舎の西半分は、中廊下にあたる部
御霊小学校多目的ホール
(1階奥は図書コーナー、左は普通教室)
御霊小学校多目的ホール
(右は普通教室左は特別教室)
分が、1階と2階が吹き抜けの広い多目的ホールになっており、壁や天井には木
材が贅沢に使われている。多目的ホールの西端は図書コーナーが設けられ、オー
プンな図書室となっている。ホールの東端には、1階から2階に上がる階段が設
けられており、この階段の踊り場や2階普通教室前の廊下からは、多目的ホール
を見下ろすことができるが、設置された柵は木材をクロスさせたもので統一して
いる。この多目的ホールは、特に教育活動に結びつけて活用されているわけでは
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教育解放140
ないそうだが、それゆえにこそ、直接の
教育機能からはみ出すゆとりをこの校舎
に付与する魅力的な空間となっている。
教育的な機能をはみ出す余裕部分とい
うことであれば、校舎の東端の階段の踊
り場も印象的である。通常の踊り場より
広いスペースが与えられ、木のベンチま
でしつらえられており、多様な使い方が
御霊小学校東階段踊り場(世界名画コーナー)
できうる余地を残している。この余地に
は、「世界名画コーナー」と称して絵画が複数掲げられるとともに、本棚が設置
され図書を並べている。また、この階段を上がった2階エレベータ付近にも少し
広いスペースがあり、そこも図書を並べた畳コーナーとして活用されている。
音楽室は、旧校舎であった円形校舎に敬意を払って、ステージから運動場側に
御霊小学校音楽室
御霊小学校ベランダ
向かって半円状にせり出す形になっている。普通教室には出入り自由なベランダ
が付随しており、ベランダからは運動場越しに周囲の山並みを眺望することがで
御霊小学校校門
御霊小学校昇降口(奥は運動場出入口、上方は2階
廊下、1階左にも丸太五本が挟まっている)
き、学校とこの地とのゆるやかなつながりが実感できる。この地とのつながりと
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教育解放140
いうことでいえば、校門は隣接する御霊神社を意識してか、屋根は瓦葺きで、コ
ンクリート柱に木の格子ががはめ込まれた造りになっている。また、両サイドが
丸太五本に挟まれた昇降口は、上方は吹き抜けで、昇降口を通過するとすぐに運
動場側に出られるようになっており、来訪者を校内に誘っているような印象を受
ける。
このような校舎の造りも関係している
のか、地域住民による体育館の利用状況
も、夜はほぼ毎日利用され、土日も盛況
だそうである。また、訪問当日は、子ど
もたちが参加する吉備津神社の獅子舞が
町内を巡回する日に当たっており、偶然
にも我々が訪問見学する時間帯に御霊小
学校に現れ、舞いを見学することができ
御霊小学校外観
た。
このように、御霊小学校の校舎は、直接的な教育機能からはみ出す余地を多分
に含みこみつつ、この地とのゆるやかなつながりが感じられる校舎であった。
2.藤並小学校
昼食をはさんで午後は、藤並小学校を
訪れた。敷地の北半分に運動場があり、
南半分に校舎と体育館、プールが位置す
る。校舎より一年早く1999年に竣工
した体育館は、屋根に太陽光パネルが設
置され、太陽光発電設備が備えられてい
る。
藤並小学校外観
藤並小学校の現在の校舎は、200
0年に竣工している。1学年3クラス
の想定で、学年毎にワークスペースを
共有する形になっている。校舎配置の
関係で、6つのワークスペースのうち
4つは三角形の形になっており、さら
にこのワークスペースと廊下の仕切り
藤並小学校ワークスペース(左は普通教室)
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教育解放140
に円状の穴が空いているなど、遊び心の
あるワークスペースとなっている。この
ワークスペースを使って、学年集会も開
かれるそうである。
校内の至る所にベンチがあり、単なる
通路ではない余地を廊下に持たせる工夫
が見て取れる。このような廊下とつなが
っていく形で、校舎の2階中心部に、廊
藤並小学校ワークスペース入り口(右は普通教室)
下と壁で仕切られていないオープンな図
藤並小学校図書室
藤並小学校廊下に設けられたベンチ
書室が存在する。また、1階の普通教室に囲まれた中庭は、
「木のふれあい広場」
と命名されているが、竣工から2年ほどはこの広場と外部をつなぐ門は開放され、
地域住民が校内に入ってきてこの広場で憩っていたようである。
このように、開放的な雰囲気とゆと
りをもたせる工夫がみられるものの、
御霊小学校に比べると、若干窮屈で、
手触り感がない印象をもった。1学年
2クラスと3クラスの想定学校規模の
違いが関係しているのかもしれない。
さらには、藤並小学校の場合、1学年
3クラス(×6学年=18クラス)の
藤並小学校「木のふれあい広場」
想定で設計されているが、現在の児童
数は約600人で、5年生は想定より1クラス多い4クラス、さらにここに特別
支援学級3クラスが加わるので、合計22クラスで運営されている。もともと校
舎に用意されている普通教室は18教室、これに生活科室として用意された教室
が2教室と、教具室、特別活動室を動員して、なんとか22教室を確保している
状況である。なので、想定通りの児童数であれば、もう少し余裕が出てくるのか
11
教育解放140
もしれないが、当面児童数が減少することはないそうである。
いずれにせよ、御霊小学校、藤並小学校ともに、木材をふんだんに使っている
こと、廊下と教室の仕切りは残しつつ校舎内に開放感をもたせ、直接想定可能な
機能からはみだす余地を含み持たせようとしている点で共通点があるように思っ
た。そしてこのような共通点の背景として、旧吉備町が、校舎建築に多少の出費
は厭わなかったことがあげられよう。
9月例会
報告
明治後期から昭和初期における幼稚園のなかの〈性〉
―保育者と幼児の相互行為を中心に―
小泉友則
今回は私の執筆予定である修士論文の、2章の2節・3節にあたる部分を中心
に報告しました。私の修士論文は、明治後期から昭和初期の時期の幼稚園のなか
の〈性〉にまつわる諸現象についての史料研究です。今回の報告では、その修士
論文の2章の2・3節にあたる、幼稚園の保育者である「保姆」と幼児との間で
の相互行為おいて、どのような性規範が見られたのかということを中心に取り扱
いました。
報告内容は、まとめると以下のようになります。
①
当時の幼稚園保育の理論には、ある程度の前提として「男女別なく」扱い、
同じ場で保育をしていこうという旨の理念が存在したということ
②
だが、その理念は性の差異における「本能」や「自然」などに抵触しない
限り行われるものであって、それに抵触する場合には、男女別の扱いをする
ことは問題視されず、むしろ奨励さえされたということ
③
実際その時代の保育雑誌や専門書籍を見てみれば、「遊戯」・「自由遊び」
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教育解放140
・「手技」・「説話」・「しつけ」などの場で、「保母」の保育行為のなかには
幼児に性規範を押し付けるような行為や、幼児の自由遊びのなかで「主体的」
に幼児が自らの性に合致した規範を身に着けていることなどが確認できたと
いうこと
④
ただ問題として、当時の保育雑誌や専門書籍には、中等教育段階の教育書
などとはちがい、幼児をことさら男/女に二分しそれらの違いについて言及
するという形式があまり成熟しておらず、「実際どのくらいの頻度で〈性〉
にまつわる行為や理念が幼稚園保育のなかにあったのか」ということが確認
しづらいということ
⑤
当時、幼稚園の保育内容については国家からの干渉もほとんどなかったし、
明示的に〈性〉の扱い方を指導するようなカリキュラムも存在しないゆえに、
潜在的にあるものをいかにして読み解くか、といったアポリアが存在すると
いうこと
こうしたことをつたないながらも報告させていただきました。
報告後の質疑応答の時間では、④・⑤の問題点について、次につながるような
指摘を多くいただきました。非常に有意義な時間でした。ご指摘いただいた点を、
これから自分の中で咀嚼し、ぜひ論文に反映させたいと思っています。またよろ
しくお願いします。
感想
冨井恭二
9月例会は小泉友則さんの「明治後期における幼稚園のなかの〈性〉/保育者
と幼児の相互行為を中心に」というタイトルの報告であった。これは小泉さんの
修士論文執筆過程の一部を発表し参加者の意見・批評を受けるという試みであ
る。発表の内容は、明治後期から昭和初期の幼稚園で行われていた教育的営みの
実態の中にどれだけ幼児の性別を意識したもの/意識しないものがあり、それが
保育者(保姆)の幼児に対する性差・性別意識とどうかかわっているかというこ
とを文献資料で検証するものである。遊戯が中心であるこの時代の幼稚園の生活
の中で、どれだけ性差があらわれていたのか、それを保育者がどう見ていたのか、
13
教育解放140
また保育者が幼児の性を分けることに積極的・肯定的であったのか、消極的・否
定的であったのか、をいろんな場面から説明していった小泉さんからは、ほとん
ど先行研究がないこのテーマに一定の結論を導き出したいという意欲的な姿勢が
感じられた。ただ、先行研究が少ないということは研究の対象として魅力がない
というよりも、明確な結果が出せないということもあり得るのではないかという
参加者からの指摘があったように、修士論文の他の章の考察と結びつけた結論が
求められる。今回はそこまでの報告ではなかったが、仮の結論は提示された。
(当時の幼稚園の保育者には)理念としては、基本的には性別で分ける必要は
ないが、「本能」や「自然」に抵触する場合には適宜分ける(分けてもよい)と
する方法論がある。すなわち、分けるということは、やり過ぎない範囲ではむし
ろ奨励されたり行ってもよいとされる。だがこの判断基準は極めて恣意的であり、
そもそもさほど重視されているようにも見えない。結局のところ、保育内容は国
家からも強制されず、議論もなされていないことと相まって、各々の保育者(特
に「保姆」)が自己の基準で性規範に対しては向き合っており、幼稚園という場
には、自発的・結果的なものとして性に関する種々の規範が垣間見えると言うこ
とである。ここには、自発的に規律訓練化されていく権力のあり方の一つを見る
ことができるだろう。
そして、当時の保育学的見地からすれば、幼児が「自然」に「母」となる際に
は(自発的に模倣遊戯を始めた際には)、それは「人格化の活動」及び、幼児が
「世界」に対して「親しみ」を生じてきた証であるとして奨励されるし、かつま
た幼児の「模倣」としての行為は(何故か)
「順応本能」であるともされている。
このようなことから、この時期は実際のところ性規範に準じた保育は抑制される
こともなかったし、むしろどちらかというと奨励されたと考える方が妥当だろう。
参加者からは、当然のこととして、その時代の幼稚園一般の社会的な位置、資
料とした幼稚園の地域での位置がどうなのかという質問が出された。わが子を幼
稚園に通園させるまだ数少ない親がどのような社会的存在なのか、その意識に幼
稚園における幼児の性のあり方も影響されるのではないかということでもある。
「保姆」の出身階層や生育歴による意識傾向も視野に入れなければならないであ
ろう。小泉さんはそのことも掴んでいることを回答で示したが、「対象の時期が
長すぎて一般化できないのではないか」という指摘もあった。
私としては、その当時の日本社会が当たり前に行ってきた子育ての方法に対し
て、幼稚園という近代教育機関がどのようなくさびを打ち込んだのか、あるいは
日本の幼稚園教育が当たり前の子育てを前提としていてその地域一般との差がほ
14
教育解放140
とんどなかったのかどうかということが気になった。「自発的・結果的なものと
して性に関する種々の規範」とは「庶民の規範」とどれだけの差異があるのだろ
うか。渡辺京二『逝きし世の面影』(1998年刊)で描き出した、外国人から
見た幕末から明治の中頃までの日本の庶民生活に対する「子どもの楽園」を小学
校と同じように幼稚園が破壊していったとは、小泉さんの報告を聞いて思えなか
った。それが小泉さんの結論にも感じられるあいまいさにも表れているように思
う。童謡や集団遊戯など路地裏だけの幼児の遊び場では体験できない面はあった
であろうが、「性」だけではなく保育一般に社会的な子育ての現実が覆い被さっ
ていて、『逝きし世の面影』が描き出す大人の模倣による幼児の社会化を幼稚園
も無視できる段階ではなかったのだろう。「**ごっこ」「ままごと」が多くの
場面で見られ、そこに性差が存在することは幼稚園がなかった頃からの幼児の遊
びの延長としてとらえたい。しかし幼稚園が近代学校教育の一環であると規定す
るなら、性についても従来からの伝統的な子育てとの差異があったのではないか。
だから、論文全体との整合性もあるので見当違いの感想かも知れないが、小泉さ
んには幼稚園独自の性を意識した育児方針をもっと掘り下げることを期待する。
10月例会
報告
京都元番組小学校の統廃合・跡地利用と地域共同体の
変容・再生の関係を探る
ウスビ・サコ
近年、全国的に小学校の数が減少傾向にあり、京都市においても例外ではない。
明治2年より建設された京都の64の番組小学校について、京都市は平成4年か
ら平成9年にかけて、25校を対象に統廃合することを決定した。25校のうち
7校が近隣の学校に統合され、残る18校が廃校・跡地活用対象校となった。跡
15
教育解放140
地には多機能で、バラエティに富んだ施設が出来上がり、実際に利用されている。
地域社会の核である学校の廃校が地域住民にとって重い話であることをいうま
でもない。また小学校が廃校となった後の跡地がどのような施設に生まれ変わる
のか、地域住民が共有財産として考えてきた小学校を、新たな施設に生まれ変わ
っても使い続けることができるかどうかは今後の地域の在り方に深く関わってく
ると考えられる。
私自身、京都のコミュニティに関心を持ち始めたのは、今から18年前にさか
のぼる。当時、所属大学院の研究室が主催した町家型集合住宅研究会に、ワーキ
ンググループのメンバーとして参加したことである。また、大学教員になり、学
生を町家の見学によく連れて行く。その中で、2002年に、学生達と町家とマ
ンションが共存する京都市の様々な地区を見学し、ある地区にお住まいの二人の
男性から、近年の町内活動について話を伺った。建設当時、高さのあるマンショ
ンから家の中がのぞかれるのではないかと懸念した住民がマンションの建設反対
という立場をとったらしい。話し合いの末にマンション建設の条件として、マン
ション住民は町内会に参加すること、地蔵盆の際にマンション横の倉庫スペース
を提供することなどで双方が合意した。この町内では高齢化が進み、子どもの数
も少なくなっていた。そこにマンションが建ち、若い世帯が増え、地蔵盆も一気
に昔の賑わいを取り戻した。今までは地蔵盆や運動会などは、存続すら難しい状
況であったことを考えれば、現在はマンションがあるからこそ町内行事が存続し
ている状況であるといえる。さらに、今年度(2010)から隣組組長の役が輪
番制で当たり、地域の構造とその歴史に対してさらに関心が深まったといえる。
今回の研究会では、元番組小学校の跡地の活用と京都の地域コミュニティの変
遷を様々な角度からインタビュー、アンケート調査、観察調査などの報告を行っ
た。本研究では、まず、京都の地域住民の構造とその変化を把握し、地域活動の
拠点であったと考えられる小学校の統廃合によって跡地がどのように使われてい
るのか、さらにそれに対して地域住民がどのような思いを抱いているのかを把握
する。元番組小学校の跡地利用と、新しく入った施設と地域コミュニティとの関
わりを把握することを目的としている。そのために、京都市の番組小学校が生ま
れた背景や、それらの小学校が位置する地域の歴史と構造を把握する必要もあっ
た。
京都の様々な場所でコミュニティの内容が、町家の減少、マンションなどの集
合住宅の増加によって、変化してきていることがいうまでもない。新たにコミュ
ニティに加わってきているメンバーは、コミュニティ活動に対して、全く関心を
持てないわけではないが、参加の仕方や関わりについて戸惑っている。一方で、
これまで頑なに地域の在り方を守ってきた地域社会には、少子高齢化の影響で、
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教育解放140
コミュニティの活動の場や活動の内容に変更がもたらされている。その活動の場
の一つ、またはアイデンティティとも言える元番組小学校が統廃合の対象となっ
てしまっていることである。旧地域住民は小学校が統廃合になっても跡地の利用
には関心を示し、また、地域施設としての役割を求めているのに対し、新しい住
民は、つまり居住年数の浅い住民は、施設の催しものに対して関心は高いが、地
域活動の拠点としての関心がそれほどないように思われる。また、旧住民の中で
も、統廃合となった小学校に通ったかどうかで、現在の施設に対する満足が異な
っているがわかる。
今後とも、小学校の跡地利用に巡って、京都では、行政、
地域住民、経済界、学校関係者、研究者など、それぞれの立場から活発な議論を
引き起こすことが考えられる。
発表を終えて
初中等教育関係者が大勢集まっている研究集会で研究発表をするのは初めてに
等しい。今回の研究会では、まず、なぜ日本の小学校とコミュニティの関係に関
心をもったかを概略させていただき、また、私の出身国であるマリ共和国(以下
マリ)の初中等教育の背景と現状を述べさせていただいた。マリを含むフランス
語圏の国々(公用語や準公用語にフランス語が設定され、フランス語がその地域
で重要な言語のひとつになっている国・地域の総称。フランコフォニー(Organi
sation Internationale de la Francophonie)とも言う。フランスの旧植民地が
広がっていたアフリカ西北部の国に多い。)における初中等教育は、既存の地域
コミュニティをベースに始まったわけではなく、植民地政府と行政で仕事できる
エリートの育成から始まっていると考えられる。その影響が今のマリの初中等教
育にも見られ、その結果、識字率が依然と低いままである。一方、コミュニティ
や家庭の教育は、宗教や伝統に基づいて行われている。従って、学校教育とコミ
ュニティや家庭での教育が分離し、両方の教育方法には齟齬をきたしている。
現在、マリの初中等教育の問題は、教育施設の不足、講師育成の問題、教材と
教材開発の問題、教育システムの問題、民族や地域の言語の導入の問題等が挙げ
られている。それに対して、京都のように、学校の校舎の建設、運用さらに、教
育の内容にまで地域コミュニティが関与していることが、私にとって興味深いも
のである。
マリでは近年、初等教育の総就学率が66%(2005年:UNESCO)のマリが、
量的目標として、2010年までに総就学率を95%に向上させ、地域間、都市
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教育解放140
部と地方部、男女間の格差を是正するプロジェクトを立ち上げている。また、そ
の具体的な手段として、教室の建設をはじめとするインフラ整備、教員の大量採
用、就学に対する住民への啓蒙、貧困地域における学校給食の実施、の4点が掲
げられている。さらに、教育行政の地方分権化が進められ、全国の学校に学校運
営委員会の設置が義務付けられている。今後とも、マリの方でも地域コミュニテ
ィと学校運営または学校の在り方について様々な問題が出現し、これらを調査研
究し、また現場経験者が多いこの研究会で報告し、皆さんと意見交換ができたら
と考えている。
感想
コミュニティにとっての学校
中西宏次
2011年10月例会は、京都精華大学人文学部教員のウスビ・サコ(Oussou
by SACKO)さんが、「京都元番組小学校の統廃合・跡地利用と地域共同体の変容
・再生の関係」と題する報告をされた。サコさんは建築が専門だが、建築の中に
住まったり集ったりする人々のコミュニティのあり方にも関心があり、彼の出身
地であるマリ共和国での人々の集住のしかたと、首都バマコの在来型住居(中庭
型)の建築様式との関連を論じた論考などがある。
当日の報告も、半分ぐらいがマリの紹介や今までの彼自身の歩みに関する映像
や話で、これ自体が非常に興味深いものだったが、「本題」への彼のアプローチ
の仕方を、聞き手の我々が自然な形で理解できるという効果もあった。
さて本題だが、今回サコさんが取りあげたのは京都都心部の旧番組小学校区、
特に明倫・龍池・立誠の3元学区のケースが中心だった。因みに旧明倫小学校は
「京都芸術センター」、旧龍池小学校は「京都国際マンガミュージアム」に再生
利用されており、旧立誠小学校は不定期のイベントなどの会場として利用されて
いるものの恒常的な再利用形態は未定である。なお、再生利用としての(広域的
に利用される)施設とは別に、各旧小学校とも元学区の住民が会議や行事等に利
用するためのスペース(及び消防団の詰所・器具庫)が必ず確保されており、元
学区という地域コミュニティーの中核施設であった小学校の機能がこのような形
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教育解放140
で一部残されている(この点は再利用形態がまだ決まっていない廃校跡地にも共
通している)。京都市中心部では「元学区」という地縁社会がまだ健在であり、
小学校が廃校になってもそれは小学校から教育機能がなくなるだけで、旧小学校
にそれ以外の学校機能を残すことは言わずもがなの事なのである。その点過疎地
の廃校跡地の再利用が難しいのは、地域コミュニティ自体が衰弱し(学校が)そ
のセンターであったという歴史も含めて過去のものになってしまうからであろ
う。
ところで「京都元学区コミュニティ」であるが、サコさんの眼に最初はおそら
く非常に特異なものと映ったのではないだろうか。彼が京大の院生の頃、研究室
のフィールドワークとして行った「打ち水」についての調査資料を見せてもらっ
たが、通りを挟んだ両側町の住人(主に主婦)が朝、「かど掃き」とともに行う
「打ち水」には、住人たちの人間関係の一側面が反映されているという。「向こ
う三軒両隣」のなかで好感をもっていない家の前にはあまり水を撒かない、とい
った形で。そう言われれば、私の生家でも打ち水をしていたことを思い出した。
生家は京都西陣の下町にあった借家である。母はできるだけ早起きをし、朝一番
に打ち水をしていた。ゆっくりしていると、少し離れたところに住まいがある大
家さんがやってきて打ち水をされるのである。遅れをとってしまうことを母は
「恥」と感じているようだった。「京都人は口先と腹の中は違う」と言われるこ
とがあるが、元学区コミュニティもタテマエとホンネ、虚と実がない混ぜになっ
た複雑な地縁社会である。また「番組小学校は地域社会が支えた」とも言われる
が、元学区内部の力学は、ボトムアップだけではなく、トップダウンの面も多々
あった。戦時中相互監視組織としても活用された「隣組」は京都の元学区の「町
会」がモデルだと言われるが、戦後だいぶ経ってからも町内の寄りあいは戦前・
戦中と同じく「常会」と呼ばれ、「組長」は欠席を許されない雰囲気があったこ
とを思い出す。いま番組小学校とその元学区の歴史を「竈金の精神」とか言って
美化しようという動きがあるが、京都元学区という地域コミュニティーを(いい
面もそうでない面も含めて)もっとトータルかつリアルに見ていく視点が必要と
思う。
サコさんの報告では、廃校舎再利用に関して、旧住民とマンションなどの新住
民との間にある意識のギャップの問題が指摘されていた。確かに、廃校跡地が新
旧の住民が融合する新しい地域コミュニティの拠点になっていくためには、その
再利用のあり方に関し、行政・住民側ともにもう一工夫も二工夫も必要ではない
だろうか。
それから、サコさんの話で「学校」というものについて改めて考えさせられる
点が他にもあった。マリでは義務教育制度が導入され、公用語・フランス語によ
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教育解放140
る教育が始まると、伝統的社会の側からは「学校から子どもを取りかえす」動き
が出てきたという。具体的には「留年」は2回までしか許容されない制度になっ
ているので、わざと3度目の留年をさせてもらって放校される道を積極的に選ぶ
人が多いそうだ。職人になったり商売人になったりするうえで、近代学校で教育
を受けることはむしろマイナスだという考え方はマリでは今でも根強いらしい。
元々マリの子どもたちは、地域のイスラム教司祭さん宅の「玄関の間」で朝6時
から始まる「コーラン学校」へ行ってコーランを学び、同時にコミュニティで生
きていくうえでの道徳などを学ぶ。学校は8時頃終わるので、その後は各自一人
前になるための労働(修業)現場に向かうという生活スタイルがあった。今もそ
れが基本で、義務教育の近代学校はマリの人たちにとってまだ「自分たちのもの」
とは捉えられていないのだという。
日本では明治以後、学校は基本的に「良いもの」であり、京都の番組小学校の
ように「自分たちのもの」という意識も早くに形成された。しかし、
「良いもの」
「自分たちのもの」という位置づけが自明のものになると、それはそれで別の問
題が出てきたと思う。しかしそうした負の面は、あまり表面化しないようにされ
てきたのではないか。学校の統廃合が進み、「学区」がやたらに広くなり、廃校
舎があちらにもこちらにもあるという状況が拡がっている今、あらためて「自分
(たち)にとって学校とは何なのか」という問いが立てられてよいと思う。
な
お、12月例会(12月11日・日曜日)で野崎康夫さんが「竈金の精神―番組
小学校は正しく伝えられたか」と題する報告をされることになっているので、こ
こでもまた違う角度から学校について議論できるのではないかと思う。多くの方
が集われることを期待したい。
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教育解放140
屋久島だより(7)
十五夜の龍
大垣裕美
旧暦の8月15日は中秋の名月で、屋久
島では綱引きをし、相撲を取る。なんの
ことやらとお思いかもしれないが、なん
だかとても好きな行事に(今年から)な
ったので今日はそのことを書こうと思う。
今年は9月の12日が中秋の名月、十五
屋久島十五夜の龍
夜だった。この夜、屋久島では茅や葛や
藁で編んだ綱で各集落ごとに綱引きと相撲が行われる。何を綯って編むか、何に
模して編むか、はたまたお供え物は何かなどは集落によって様々。私は今年は島
の北西に位置する永田集落でこの行事に参加した。
永田集落の綱は龍である。これを朝から集落の男衆がつくる。私は学校があっ
たのでその行程は見ていないけれど、30m以上はありそうなそれは最終的にはか
なりの重さになっている。相当の重労働だと思われる。というか、それより先に
めちゃくちゃ巧いと思う。龍の目は釣りの浮きである。なんだかおちゃめである。
(ちなみにそこを通った子どもがさっきまではテニスボールだったよと教えてく
れた。浮きにして良かったんじゃないかと思う。)この龍の綱は夕方になると学
校の校庭に運び込まれた。
校庭には徐々に、本当に徐々に集落の人が集まり始める。三岳(島内でつくら
れている芋焼酎。ほぼ全ての神事には三岳が使われます)を含んだ数々のお供え
物が用意され、サッカーなどをして遊んでいる子どもたち以外はなんとなくそわ
そわ山の方を気にしながらおしゃべりを楽しんでいる。龍も長机の上に鎮座して
いる。皆が気にする山のある方角は、東だ。月の出てくる方向である。永田小・
中学校のグラウンドからは奥岳がきれいに見える。「奥岳」というのは屋久島の
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教育解放140
中央部に連なる峰々の総称で、里からは「前岳」と呼ばれる手前の山に遮られて
奥岳が見える場所はほとんどと言ってよいほどない。この永田小・中学校から見
える奥岳の中には九州で二番目に高い永田岳(1886m)も含まれていて冬は早い時
期から冠雪し、その景色は荘厳で美しい。
ご存知の通り屋久島は九州一の山岳地域を控え、外側は太平洋と東シナ海に囲
まれている。そのため平らな農地/耕地は限られており、自ずと暮らしは山や海
に頼る事が多くなる。古くから島の人々は「山(特に奥岳)は神々の宿る聖域」
と畏れ、崇めてきた。そうした山岳信仰の現れとして、今もなお残る行事のひと
つに「岳参り」というものがある。すこし話が逸れるがこの「岳参り」というの
は各集落で毎年1回ないし2回行われる。集落には集落ごとに崇拝する山(岳)
があり、そこへ2~4人の男性が各岳の「一品宝珠大権現(いっぽんほうじゅだ
いごんげん)」(=島の守護神 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の俗称)
を詣で、豊漁豊作や家内安全などを祈願する。(現在では、簡略化して前岳のみ
に参拝する集落や、岳参りそのものが廃れてしまった集落もあるとのこと。)入
山の女人禁制は今もなおこの「伝統」の中では「守られて」いる。
さて、話を戻す。そろそろ件の「奥岳」から月が顔を見せ始めそうだ。自然と
お供え物の前に人が集まる。すると数人の大人たちが先ほどの龍の綱を持って唄
を唄い始めた。なんと言っているか全く解らない。言葉も節も独特な、十五夜の
唄。今は集落内で分けられた班が毎年持ち回りで担当し唄を唄っているそうだ。
綱を掲げたり下げたりしながら唄っている。聞くところに寄ると集落に寄っては
この唄は70番くらいまであるらしい。唄はなかなか終わらないし、今か今かと待
っている月もなかなか顔を出さない。この日はとてもよく晴れていたのだが、山
の上部に一部、小さな雲がかかっていた。その小さな雲がかかっている後ろに丁
度月が隠れている。雲が風に揺られゆるりゆるりと上がる。月が昇っているであ
ろうペースと恐らくほぼ同じペースで。もう見えてもいい時間なのに、まだ拝め
ない。待つ子ども達もしびれを切らしてきた様子だし、何より唄い手もきつそう
である。「もうちょっと、あぁもうちょっと!」どこからともなく声がかかる。
ふと、ぐんと月がスピードを上げたかのような錯覚に陥った。ようやく雲から
月が顔を出したのだ。みんな喝采と拍手で出迎える。雲はそれで諦めたかのよう
に、いつの間にやら姿を消した。
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教育解放140
いよいよ綱引きである。龍の縄、龍の縄と思っ
ていたところに、よく運動会で使われる綱引き用
の縄が用意された。最近はこの綱でやるのだそう
だ、なんだ残念。綱引きは大人対子どもで行われ
る。勝った方が無病息災で過ごせる。ということ
で、一勝一敗。明るい月に照らされて夜に綱を引
くなんて、なんだかこの世の事とは違うみたいで
無意識のうちに気分が高揚する。子どもたちを見
ていてもそう思えた。昔は縄がちぎれるまで綱引
きを続けたそう。人数が少なくなった今、そんな
ことをしていたら朝を迎えてしまいそうだ。
お次は相撲大会で
綱引き
ある。今度は龍の綱
をいよいよ使って土
俵をつくる。そして年齢の幼い子どもから相撲合
戦がはじまる。まだ歩き始めたばかりの様な子ど
もだ。行司役の人が「ハッケヨーイ、ノコッタ!」
と威勢良く声を上げても両者キョトンとしている。
その姿がまた観衆の笑いを誘う。勝っても負けて
もお菓子がもらえる。子ども達は何度も立ち会い、
次第に夜が色濃くなってくる。小学生、中学生と
徐々に年齢はあがっていき、男の子も女の子も相
撲を取り続ける夜。それを見守る大人達。月夜の
下で、セ
相撲
ンダンの
樹に見守られながら。
屋久島で暮らして4年。月の動きを
以前より意識する暮らしになった。そ
の方が生活に沿うのだ。例え自分はし
月夜の相撲
なくても、ひと月に二度巡ってくる大潮の時は「あぁイソモン穫りの日だなぁ」
と思うし、潮の満ち引きによって温泉に入れる時間がかわったりもする。こうし
た島の行事ごとも旧暦で執り行っているものがある。海と山に挟まれ、月を見上
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教育解放140
げては満ち欠けを知り、なんというか決して抗えないとても大きなエネルギーみ
たいなものを日常的に感じる。時には猛威を振るう自然と対峙しながらも、そこ
からあまりある恩恵を受け、感謝して暮らしてきた島の人々。多少形は変われど、
そこに受け継がれてきた行事や対する想いはごく自然な営みのように思える。そ
こには動物界の一種として存在しているに過ぎない人間が、自然界の中で生きて
いくための本質が潜んでいるように私は感じる。
編集後記
古手の研究会メンバーにつづき、この10月に還暦を迎えました。干支が十干と十二支の最
小公倍数なので60年サイクルだということは知っていましたが、さて、生年と今年の干支が
何になるのか。調べてみたら、辛卯(かのとのう)だそうです。それでどうしたということ
でもあるのですが、もちろん何の感慨も湧いてきません。それもそのはずで、日本では、十
干と言っても、確かに甲、乙、丙、丁が昔の通信簿表記であったり、この4つの干に戊を加
えた基準で戦前の徴兵検査が行われていた事実はありますが、もうすでに記憶から消去され
かけているか、はじめから記憶されない歴史になっているのでしょう。一方、十二支は毎年
その年の支がキャラクターとしてさまざまなところに登場するので、小学生でもよく知って
います。だから干支という言い方は、誤解を招くかもしれません。
さて、人生が一巡したと規定されてしまえば、何だかこの先の幾歳月は単なる余録に過ぎ
ないと言われているようです。この余録がもう一巡することはないでしょうが、しかし、あ
と半巡ぐらいならさほど珍しくもないでしょうから、結構な長さの余録ではあります。した
がって、先に何の感慨もないと言ったものの、実は、60歳という年齢が確かに何かの節目の
ような気がして、しばらく前から余録の人生についてはかなり真剣に考えています。何のこ
とはない、正体もよく知らない干支なるものに、わたしもちゃんと捕らわれてしまっていた
わけです。こんなこと、他にもよくあるような気がしていますが、いかがでしょうか。
本号で7回目の「屋久島だより」は次号で最終回になる予定です。詳しくは次号でお知ら
せしますが、少々なごり惜しい気がします。また、何か新しい企画があればご提案ください。
なお、本号表紙の写真は、会員の呉優美さんが和歌山県へ洪水被害支援のボランティアに
行った時に、その拠点となっていた廃校小学校を撮ったものだそうです。それを使わせてい
ただきました。なかなか端正な佇まいだと思います。
(N.m)
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