宮城県における災害ボランティア活動の報告 2011 年 5 月 1~5 日 四日市東日本大震災支援の会 代表 鬼頭浩文 四日市大学総合政策学部教授 2011 年 5 月 1~5 日の宮城県におけるボランティア活動について 2011 年 5 月 13 日 四日市東日本大震災支援の会 代表 鬼頭浩文(四日市大学教員) <活動の概要> 今回は、宮城県災害ボランティアセンター(VC)が運営する、東日本大震災における「宮城県災害ボランテ ィアバスパック(ボラバス)」を利用して東松島市の大曲地区で活動をしました。 <参加者> 教職員 4 名、学生 17 名の合計で 21 名が参加しました。 <収入> ★参加者から参加費として 22,000 円(宿泊・食事相当分)を徴収しました。 ★皆様より、合計で 35 万円の支援金をいただきました。 ★交通費、安全対策、保険など、四日市大学から約 25 万円のサポートを受けました。 <その他の収入> 東北の経済に貢献するため、被災地の産品を土産として購入する取り組みを呼びかけました。合計 で 15 万円の申込があり、その一部(1 万 5 千円)を活動資金に使わせていただき、13 万 5 千円分の土 産を購入しました。 <支出> 交通費・宿泊費・安全装具・活動道具など、合計で約 100 万円を支出しました。 <スケジュール> 集合:5 月 1 日(日曜)朝 6 時 集合場所:四日市大学バス停 5 月 1 日:四日市大学出発⇒秋保温泉到着(1 泊目) 5 月 2 日:東松島市大曲地区で活動①⇒秋保(2 泊目) 5 月 3 日:東松島市大曲地区で活動②⇒秋保(3 泊目) 5 月 4 日:東松島市大曲地区で活動③⇒秋保(4 泊目) 5 月 5 日:早朝秋保温泉出発⇒四日市 皆様からの暖かいご支援により、この活動が実現しました。ありがとうございました。 東日本大震災における災害ボランティア活動 四日市東日本大震災支援の会 代表 鬼頭浩文 四日市東日本大震災支援の会は、四日市大学の学生 17 名(うち女子学生 6 名、そのうち中国人留学生が 4 名)と教職員 4 名で構成されたボランティア団体です。宮城県の社会福祉協議会が受け入れているボランティ アバスパックの制度を利用し、東松島市の大曲地区の拠点に入って 3 日間の活動をしました。四日市大学が交 通費、安全対策の費用や健康面などのサポートを行い、さらには多くの教職員より支援金をいただいて実現し ました。 作業の中心は、耐震強度が OK となった家屋から、大量のゴミと泥をかき出す作業です。これにより、住宅 の復旧が可能となり、避難所生活から脱却できることになります。早くこの作業をしないと、家が腐って住む ことが難しくなります。時間との勝負です。 メンバーは、全身泥まみれになりながら、土のう袋に入れた泥約 20kg を、おそらく 3 日間で 1000 程度は 運び出したでしょう。被災地の困っている皆さんのことを思うと、体力と精神力の限界まで作業をしてしまい ます。連休中は、東松島市だけで 1000 人以上のボランティアが入りました。しかし、われわれが作業を行っ たエリアである大曲(おおまがり)地区には、約 700~800 世帯の潜在的作業ニーズがあると思われます。この ため、作業最終日の 5 月 4 日の午後の段階でも、まだ 3 割程度の世帯に手がついただけで、まだまだニーズ は限りなくあるように思われます。 現地は、まだまだボランティアが大量に必要な状態です。被災者は、ようやく一部がニーズを発信すること が可能になってきたところです。ほとんどの被災者は、家が津波の被害を受けていて、避難所で生活しながら、 片付けに戻って、何をしたらいいのか途方にくれる毎日を送っているというところです。GW 後にボランティ アが急減し、作業の進展が停滞するのではと、とても心配になります。 「ガレキ」と言うのは簡単ですが、一つ一つの物が、とんでもなく汚れてはいるものの、大切で極めてプラ イベートな財産ばかりです。簡単にボランティアが入って運び出すというものではありません。耐震強度が OK になった家屋の持ち主は、ようやく「ガレキ」を整理しはじめて、今度は津波が置いていった大量の「泥」 のかき出しの段階になります。ここで、ようやくボランティアの手が必要になります。それがこの GW あた りに動き始めたという状況です。 ニーズは、どうしても散発的で VC も詳細把握が追いつかない、そこに全国から物見遊山も混じったボラン ティアが大量に集中します。現場は大混乱の中、ボランティアの整理が追いつかない、道具が足りない、作業 待ちの多発など、ミスマッチの毎日でした。ぜひ、組織的で安全対策が万全な統率の取れた集団を安定的・継 続的に現地に送り込むことのできる体制づくり、そして現地の受け入れ態勢が整うことが求められています。 活動の最終日に、ボランティアセンターの責任者より受けた感謝の言葉の中に、また来てほしいという思い が言葉の端々に感じられ、3 日間の活動で「やりきった」というより、さらに重いものを背負った感覚です。 今回参加した学生達も、さすがに疲れ果て、すぐに再参加したいという勢いはありませんでしたが、また、再 び東北を訪れる日を確実にイメージしていると思われます。 私たちの活動は、あるていど想定した範囲内の活動でした。安全対策も十分できたと思います。また、旅館 を拠点としたことにより、入浴など毎日リセットが可能で、参加者の精神面・体力面のケアが可能でした。災 害ボランティアは、何より「自立・自己完結」の活動、つまり衣・食・住・活をボランティア側が確保しての 活動というのが基本です。気持ちだけで衝動的に被災地に入るのは、活動の妨げになるだけだと思われます。 今回のわれわれの経験が、この地域の東日本大震災の復興支援活動に活かされることを願っています。 石田沙也佳 5月1日から5日にかけて、宮城県でボランティア活動に行きました。 ボランティア活動の場所は東松島市の大曲でのボランティア活動はAチームとBチームに分かれ、私はBチ ームでの活動でした。ボランティア活動1日目は午前も午後も庭のヘドロのかき出し作業を中心に行いました。 普段なかなか行わない作業なのと、津波で2メートルくらいの浸水したあとが家の壁や窓に爪痕を残していた ため、少し戸惑いがありました。ボランティア活動2日目はAチームが1日目に作業を行ったお宅に伺い床下 のヘドロのかき出し作業をしました。ボランティア活動3日目は、ボランティア活動1日目に伺ったお宅の床 下のヘドロのかき出しを3日目ということもあり、みんなの動きもスムーズに作業をしていました。午後から はAチームと合流して同じお宅の床下のヘドロのかき出しでしたが、床下にビニールシートがあったためヘド ロは乾いておらず、みんなどろどろになりながらも作業を行いました。 作業を行った家の方々は、私たちを優しく受け入れてくれ、地震が起きた時の話や津波への被害の話を話し てくれました。地震や津波により仕事がなくなった方などがいると聞きました。地震が起きてテレビなどで連 日連夜地震の情報が飛び交い、被災地はどうなっているのかと心配する事と、募金など間接的な事しかできな い自分に先生から声をかけてもらい、自分にもできることがあるとめぐってきたチャンスで、被災地にどれだ けのことができたかわかりませんが、少しでも被災地の方の力になれればと思いました。ボランティアに行こ うと思ってもなかなか行けるものではないため、行くことのできた私たちは被災地の思っていた以上の悲惨な 現場を目の当たりにし、ボランティア活動を行うことや、被災地の方と接することによって、今まで思ってい た考えがかわりましたし、なかなか経験のできない経験ができました。ボランティアの作業みんな楽しくでき、 今まで関わっていなかった学生とも関わりが持てたので、いろんな意味で本当に良かったと思いました。2回 目のボランティアがあれば絶対に参加したいです。 今必要なこと ドライバー伊藤直司 東日本大震災から2ヶ月が経ち映像の中でしか知らなかった地震と津波の恐ろしさ。被災地に行き自身の目 で確認した風景は、全ての家が津波に遭い家屋の1階部分の家財道具は使い物にならず道路沿いに瓦礫となっ て捨てられ、いまだ所有者のわからない車があちこちに放置されています。 「悲惨・惨い・酷い・」そんな言 葉しか出てきませんでした。自分は何不自由なく生活を送っていたことに何ともいえない気持ちになりました。 何が自分にできるか自問自答していたときボランティアの話を聞き「いま行くとき」と迷いはありませんで した。ボランティア経験のまったくない自分が、今思えばとにかく被災地に行き何かをしなければとの思いだ けで動いたように感じます。 四日市大学からマイクロバスを走らせ往復 27 時間、宮城県東松島市大曲地区での 3日間の作業、移動を含め5日間での全走行距離は 1,900km でした。 被災地に入り被害に遭われた人たちとの会話の中で感じたことは、災害に遭われた人たちが1日も早く自宅 での生活ができることだと思いました。 肉体的にはかなりの疲労感がありましたが作業を終え家主から「ありがとうございました」と涙を流してお 礼を言われた時にはなんとも言えない充実感がありました。 「苦しんでいる人達のために微力ながら力 になりたい」この想いが自分を奮い立たせ ボランティア活動に向かわせたのだと思い ます。 最後にキャリアサポートセンターの職員 として学生諸君に一言 「学生生活で頑張ったことは何ですか?」 就職の面接で必ず聞かれる質問です。 自信を持って言える何かありますか? 何でもいいので打ち込める何かをみつけ ることが必要です。ボランティア活動に参 加することもそのひとつです。 がむしゃらに頑張ることできっと大切な 何かが探せる! エンギョウタン 私は4年半前に来日しました。日本に来る前に地震や災害を経験したことが一度もなかったです。東日本大震災が 発生して以来、テレビのニュースを通じて被災地の状況を知った私は大変心を痛めました。ひとりの人間として、なにか 被災した方々お役に立ちたいと思います。それを思えば思うほど、何かしなければならないという想いが強くなります。 そして、GW の連休を利用して、宮城県の東松島市で五日間のボランティア活動に参加することにしました。この短い5 日間は私にとって一生も忘れられない体験でした。 今回の活動場所となる地域の災害ボランティアセンターまで、泊まっているホテルから一時間ぐらいの時間がかかり ました。途中で車窓から津波によって被害の光景が目の前に広がっていました。そして現地に着くと、あちこちに流さ れ、転がっていた車や船があって、テレビで被災地の状況を見慣れたわたしは津波の残酷さを物凄く感じました。テレ ビで放映されているのは被害のほんの一部に過ぎず、想像を越える被害があると思っています。そして被災者の方も、 津波によって生きてきた痕跡が全部流されてしまいました。どんな恐怖を経験しているのか、どれぐらいの悲しみを耐え ているのはわたしが想像できません。それに対して、何もできないわたしはむなしい気持ちでした。 震災からすぐ2ヶ月が経とうとしていますが、復興の兆しがすごし見えます。一日も早く復興に力になりたい私たちは、 素人として浸水した家の片付けや、泥だしなどしかできなかったです。簡単ですが、仕事を終わった後、被災者の方々 から「ありがとう」という声をいただくことによって、わたしたちが微力ながら、役立っていることを実感しました。3日間の 作業を通して、小さな力が合わせれば、大きな力になれるはず、一人ひとりできことをやり、ささやかであっても、被災地 の人々に勇気と希望をあたえることがわかりました。それを続けていければ、遠くない将来にきっと新しい東北として、 蘇るはずです。わたしそれを強く信じています。頑張ろう東北、頑張ろう日本。 人生初めての災害ボランティア活動でした。こちらは3日間一緒に作業を頑張った A 班のメンバーたちと現地の方 です。この写真を撮って終わった後、伊藤先生からこの中に外国人がいることを知った依頼者は感謝の言葉をいただ きまして、すごく嬉れしい気持ちになりました。この家に出る前に、おおばちゃんはわたしに「あんたも頑張れな、まだ、 いつか会いましょう」っていいました。それを聞いた私は胸いっぱいになって、「はい」って返事した瞬間に、涙もぼろぼ ろと落としました。きっと、いつかあいましょう。 平成 23 年 5 月 10 日 宮城県東松島市ボランティア活動報告 平成 23 年 5 月 1 日~5 日(実質活動期間:5 月 2 日~4 日) 教学課 大川正明 東松島市は、日本三景でもある松島の東に位置し、平成 17 年に矢本町と鳴瀬町が合併した人口約 4 万 2 千人の市 である。市の中央部を東西に仙台松島道路が、少し南に国道 45 号線と JR 仙石線が通っている。また、市の西部に は吉田川と鳴瀬川が、東部には定川があり、共に石巻湾に注いでおり、地勢は田畑と森林で市全体の面積約 2/3 を 占めている。 なお、市の面積・人口密度が、三重県下の市町村に例えると菰野町に近い。 ボランティア活動に入った地区は、東松島市でも東端に近い大曲地区であった。この地区は地震による津波によ って定川の堤防が決壊し浸水被害を受けており、目測ではあるが 2m30cm 前後の水が押し寄せたと推測された。 ボランティア活動の拠点となっている大曲市民センターより東方は、主に田畑であるが、定川決壊場所に近く一 面ヘドロの海と化していた。また南方には大型の漁船が打ち上げられている光景や電柱が傾いて建っており、停電 状態も含めて被害の大きさが実感できた。 実際の活動場所は、大曲市民センターのすぐ北側で、戸建ての民家が密集する場所であった。主な活動内容は浸 水被害家屋でのヘドロのかき出し・清掃で、初日には家屋周りの作業を 2 日目、3 日目には床下での作業を行った。 被災から約 2 ヶ月経っていることもあり、室内の清掃はひと段落し、一見、家屋自体は何も問題は無いように見 えたが、実際には家の周りや床下にはヘドロが滞留し、民家の塀沿いには浸水して使用不能になった家財道具が高 く積み上げられ、生活する上ではかなり厳しい状況のようであった。 活動を通して接した被災者の方々は、生活を立て直すべく、日々苦労を重ねられているが、災害の規模から自力 だけでの再建はとても難しいことが容易に理解でき、行政も人手が足らず、サービスが行き届かないことを考える と、ボランティアの役割が重要になっている。 しかし、そのボランティア活動者数も不足気味のようで、ボランティアセンターには被災者からの要請が山積み になっていた。土日や祝祭日にはボランティア活動者数 が増えるものの、ゴールデンウイーク期間中であっても、 平日であった 5 月 2 日は活動者数がピーク時の約 50%にな っており、被災地の復興・生活再建はまだまだ時間がか かると痛感した。 今回のボランティアに参加して、被災された人々の苦 労を身近に感じ、自身に何ができるのか、どのような支 援が効果的なのかをより考えるようになった。また、現 地の状況を思い出す度に、不安や心配が心を過ぎる。被 災者の方々には「言葉よりも人員を」と思われるかもし れないが、それでも、 「頑張って下さい」とエールを送り たい。 参考(検索日時は全て H23.5.10) ・東松島市公式 WEB サイト http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/ ・東松島市災害ボランティアセンター http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10180 ・東松島市自身情報まとめ http://d.hatena.ne.jp/higashimatsushima_jishin/ ・菰野町公式 WEB サイト http://www2.town.komono.mie.jp/menu1.html 大澄 私は今回、東日本大震災により被災した宮城県東松島市で、5月1日から5月5日までの間、復興ボランテ ィアの活動を行った。作業は移動日を除いた2日から4日の3日間。午前は9時頃から作業を開始し、午後は 15時まで、与えられた作業に精一杯取り組んだ。様々な事を肌で感じ、色々な事を考えさせられた今回のボ ランティアは、私にとってとても良い経験となった。 左の画像は今回私たちが作業を行った地域の様子を写したもの。もともと田んぼだったこの場所には、船や 車やがれきなどが津波によって流されてきていて、それはまさに津波の恐ろしさを物語っていた。2階建ての 家の1階が埋もれてしまい、2階部分しか見えていない家もあった。あたり一面にヘドロが広がり、異臭をは なっていた。テレビの前からでは感じることの出来ない世界がそこには存在し、言葉を失った私は、ただ茫然 とその光景を見ていた。力になりたいという思いが現地に来てよりいっそう強くなった。 今回の作業は、津波の被害にあわれた家でのヘドロ除去だった。家の床下や物置、畑や庭にたまったヘドロ の除去を、1日だいたい2件行った。畑や庭でのヘドロ除去は比較的スムーズにやることが出来たけど、床下 のヘドロ除去は、高い位置から下にたまった重いヘドロを取らなければならず、腰や肩や腕にかなりの疲労が たまった。さらに床下には、竹や木の板などもあり、それを取り除かないとヘドロが除去できなかったので、 なかなかスムーズに作業は進まなかった。断熱シートのようなものが敷いてある家もあり、それを取り除くの が一番大変だった。乾燥したヘドロを取り除くのは比較的簡単だったが、シートの下にあったヘドロは乾燥せ ず水分を含んでいるぶん重量もあり、かなりの時間を費やした。1件につき10人程で作業したので早くて半 日、長くなっても1日でヘドロは除去出来たけど、これを被災にあわれた家の方だけでやるのはとても大変な 事だと思った。被災者の方は毎日このような作業を繰り返し行っているので、かなりの身体的疲労を負ってい るし、それ以上に精神的な疲労やダメージというのはとても大きなものがあるに違いない。そんな状況でも被 災者の方は私たちに明るく接してくれた。現地の方に言われる「ありがとう」という言葉には、とても深い想 いを感じた。もっと力になりたいと思えたし、早めの復興を心から願った。3日間という期間はあっという間 で、それだけでは物足りず、これだけで帰るのは本当に申し訳なく感じた。次回もあれば是非参加したい。私 たちに出来ることは少ないし限られてしまっているかもしれないけど、そこに全力でサポートしていきたいと 感じた。とても大きなものを感じ得たボランティア活動だった。 災害復興ボランティア 岡部 歩 私は今回ボランティアに参加しました。ボランティアに参加するきっかけは、祖母が福島県会津、母が青森 県八戸の出身で今回の地震でとても大きな被害をうけた場所です。そのような場所を新聞やテレビで画面越し に見ているととても悲しくなり、自分でも何か東北の方々に出来ることはないだろうかと思っていました。そ の時、災害復興ボランティアの募集があり応募しました。 1日目、バスで宮城県に入った頃から今まで見ていた風景とは違い、道路わきのフェンスが歪み、住宅の屋 根瓦が地面に散乱していて、ここが本当に私の知っている日本なのだろうかと不安に思いました。また、地震 や津波によって被災された方々が早く復興できるように一生懸命ボランティアの仕事を頑張ろうと思いまし た。 2日目、ボランティア初日、宮城県大曲のボランティアセンターに到着した時はとても驚きました。1日目 に見た光景は津波がかぶっていなかったのですが、テレビで見るような悲惨な津波の跡が残っていました。そ こには住宅はありましたが、とても人が住めるような場所ではありませんでした。 一軒目は倉庫に溜まった泥をかき出す作業でした。倉庫には全員が入れず私は庭に被ってしまった泥を集める 作業をしました。1時間もたたないうちに腰や手が痛くなりました。 二軒目は畑に被った泥を取り除く作業でした。 三軒目は床下の泥をかき出す作業でした。初めて家の中を見ました。一階はすべて水が入り棚に入っていたも のなどの悲惨な光景を見て、被災者の方はもっと疲れているのだから、私が疲れたなどと思うのは被災者に対 してとても失礼だと思うし、ボランティアが頑張らなければ早く復興できないと強く思いました。 3日目、一軒目・二軒目とも床下の泥かきでした。 4日目、1日一軒の家の床下をしました。この日、私は土嚢袋の口を結び、運ぶことに専念しました。今回 は床下が深く、家の外も瓦礫などが散乱していました。土嚢袋を運ぶのにとても大変でしたが、床下の中で泥 をかき出している人たちのほうがもっと大変だったと思います。 ボランティアに参加して、感じた ことは宮城の人たちは被災したか らと暗くなく、とても明るく強いと 思いました。 1日でボランティアに回れる軒 数は限られています。なので、完全 に復興するまでこのような機会が あればボランティアに参加して、少 しでも早く復興できるように協力 していけたらいいと思いました。 東日本大震災支援の会活動レポート 総合政策学部2年 尾崎 雅 震災が発生した時から私にできることは何かないのか考えていた中で、今回の復興支援ボランティアの話を いただいた。しかし、体力の必要なボランティア活動に参加するにあたって、腰痛持ちであり、腹痛を起こし やすい体質の私にとっては体力面・体調面ともに非常に不安があった。それでも、今回のように私にできるこ とは微力でも、直接支援できる機会はそうそうないことと思い、自分自身の能力の範囲内で良いから頑張ろう と割り切って参加することにした。 実際に活動をしてみて、活動の最中に足が少し痙攣するなど体力などでの不安は当たっていたので、体調管 理をうまくする必要はあったのは大きな反省点だった。 しかし、活動中においては反省点よりも、1件のお宅での作業が終わるたびにその家の方は喜んでいたこと がすごく印象的であった。その様子を見るたびに、少しだけでも協力はできたのかと思い、次も頑張っていこ うという気持ちをもって活動に臨むことができた。私個人にできること自体は、やはり小さなことだが、それ でも必要としてくれるところがある以上、これからも私にできることをやっていきたい。 総じて活動では最低限の仕事もできたとは思わず、今回は足を引っ張ってしまったという気持ちはある。し かし、私にとっては現地へ実際に行って、実際に見ることで得たものもあり、さまざまな経験をできたことは 私を成長させる1つの場になったと感じている。 今回の活動を終えた後には、反省点の方が残ってしまったので、次回活動の機会が来た際には体調面や体力 面の不安をしっかりと克服して臨み、今回より協力できるようにしていきたい。そして、何よりもこれからも 自分にできることは何事も精一杯やっていきたい。 ➡写真は、ボランティア活動終了後、ボランティアセンターに て全員で撮影したもの 河田 私は今回、東日本大震災により被災した宮城県東松島市で、5月1日から5日間復興支援ボランティアを行 った。活動時間は、午前9時から作業開始し、午後は15時まで与えられた作業を行った。 作業内容は、津波の被害にあわれた家でのヘドロの除去だった。ボランティアセンターの指示で、家の床下 や物置、畑や庭にヘドロがたまっている家に私たちやボランティアの人々が派遣され、1日に2件の家をきれ いにした。畑や庭のヘドロは比較的に乾いていたためスムーズに作業ができて効率よくヘドロ除去が進んだ。 しかし、床下のヘドロ除去は、下にたまった水分の含んだ重いヘドロを除去しなければいけないので、腕や腰 にかなりの疲労があった。床下には、津波により流された木の板や竹などがあり、なかなかスムーズに作業が 進まなかった。 上の画像は、今回のボランティアセンターのある場所で撮影した写真です。船や車やがれきなどが津波によ って流されていた。それから、あたりにヘドロが広がり、異臭をはなっていた。船や車などの重たいものを一 瞬で流してしまう津波の力や恐ろしさは私たちの想像をはるかに超えていた。テレビやニュースを見ていた時 より、実際に現地に行くことで津波の被害の深刻さや、力になりたいという感情が強くなった。 今回の作業では、10人くらいでやっても早くて半日、長くて1日で1件を終わらせることができたが、こ れを被災した方だけでやるのは大変だし、身体的にも精神的にもかなりのダメージがあるに違いない。それな のにもかかわらず被災者の方は明るく接してくれた。現地で言われた[ありがとう]と言う言葉に深い思いがあ った。この復興ボランティアに参加して、自分の無力さを思い知ったしもっと力になりたいと思った。本当に 早めの復興を心から願った。私たちにできることは限られているけど、できることを精一杯頑張りたい。いろ いろな事を考えさせられたし、大きなものを感じることができたボランティアだった。 東日本大震災ボランティアまとめ 日下部孝樹 活動1日目から 2 班に分かれた。自分は A チームでメンバーが、直司さん、早川さん、坂下さん、小林さん、 エンさん、リンさん、後藤君、岡部さん、大澄、花木、自分で、それにボランティアセンターから阿部さんと いう 22 歳の人が同行してくれた。1 日目は、歩きながら一軒ずつ声をかけていって、居住スペースでやって もらいたいことを頼まれたらやっていくというふうで、一軒目は倉庫の中の泥を掃除する作業だった。自分と 小林さん、花木、リンさんで倉庫の中を片付けた。倉庫は狭かったのですぐに終わった。その間他の人は倉庫 の周りを泥が覆っていたのでそれを片付けた。一軒目は 30 分ほどで終わり、次の家を探して聞いていたら、 おばあちゃんが畑を掃除してほしいと言われていたので、今は居住スペース優先だと説明してまた歩いていた ら、他のボランティアの人に今日は、もうボランティアを頼まれているところはないと言われたので、さっき のおばあちゃんの家の畑の掃除をすることになった。12 時過ぎに掃除が終わって一旦ボランティアセンター に戻って昼食をとった。ボランティアセンターにはちゃんとしたトイレがあるものの、水がまだ流れなくて仮 設トイレの臭いがした。ご飯を食べ終わると、午後から三軒目の家に向かって、その途中にあったグチャグチ ャのトラックとかに吃驚した。三軒目は古い造りの大きな平屋で、床下の泥掃除をした。午前中とは比べ物に ならないくらい大変だった。皆黙々と泥をすくって袋に入れるという作業を繰り返していた。自分は途中から 土嚢を運ぶ作業をして、小林さんに少し手伝ってもらってすべて運んだ。それで 1 日目は終わってホテルに帰 った。2 日目は、阿部さんの同行はなしで自分たちだけで作業をした。2 日目も床下の泥掃除で自分とエンさ ん、小林さん、大澄の 4 人で 1 部屋の泥掃除をした。午前中に作業をしていた家を見て隣の家の人が自分た ちにやってほしいと言ってきたらしい。2 日目は二軒とも造りが新しかったので前日の作業よりもスムーズに 進んだ。作業の休憩中に家の人からジュースを頂いて作業の励みになった。2 日目は 1 日目の午後のおかげで 慣れたのか、割とスムーズで楽しく和気あいあいと作業していた。3 日目はまた床下の泥掃除だったけど、な ぜかビニールが泥を覆っていてとてもとりにくかったため午前では終わらず、午後も継続して作業した。午後 からは B チームも合流して作業して、その家を終わらせることができた。また機会があったらこういう体験 をしたい。こういう機会は本当はないほうがいいのかもしれないけど.. . 後藤 大輔 今回、私が人生初のボランティア活動で訪れたのは宮城県東松島市という地域でした。 なぜ、今回の活動に参加したのかというと、3 月 11 日に発生した大地震の直後から各地で「義援金」を募る 活動が多くなり、私も多少の募金をしました。 しかし、募金するより被災者の人たちのために直接的な行動がしたいと思っていたら 鬼頭先生がこのようなチャンスをくれたので、参加させていただきました。 1 日目は三重県から宮城県までの大移動でした。 宿泊地に向かう途中、被災地の一部を見るとそれまでの車中で緩んでいた気持ちが一気に引き締まり、また、 津波の恐ろしさを改めて実感しました。 2 日目から活動場所にバスで来たのですが、降りて辺りを見回すとテレビでは伝えきれない非日常的な風景 が広がっていて思わず息を呑みました。 作業初日の午前は民家の倉庫内と別の家の畑の泥掻きで、 午後はまた別の家の床下の泥掻きでした。 床板をはがすところから始まったのですが、慣れない作業で体がついていかず、なかなか大変だったうえに、 作業するために立ち会っていたお婆ちゃんの目がとても悲しそうだったのを見て、心が痛みました。 3 日目は別々の家の床下の泥掻きでした。 初日で慣れたせいか、比較的楽でした。一軒目は家族で、二軒目は夫婦で自分たちのできることをしているそ の姿がたくましく見え、私も自分の出せる力を最大限に発揮し、 皆が頑張って詰めた土嚢を一生懸命運び出しました。 4 日目は作業の最終日にふさわしい現場でした。同じく床下の泥掻きだったのですが、 まだたっぷりと水分を含んでいて、とても重く、汚れもひどかったです。 しかし、やり終えたときの満足感は計り知れなかったです。 5 日目は宮城県から三重県への帰りでしたが、帰ったら家があるというありがたみを改めて実感しました。 今回の体験で私は、地震が起きても、家が津波に飲まれても、生きていれば何度でもやりなおせることを被 災者の方々から教えてもらえました。なので、これからは何があってもくじけないよう必死に生きようと思い ました。 そしてなによりこのボランティアを通じ、先輩と仲良くなれたのがとてもうれしかったです。 これは多分コンテナだと思うのですが、普通は 垂直に設置されているはずです。しかし、見て の通りガードレールに倒れかかっている状態 です。 これを最初に見たとき、津波の恐ろしさが一瞬 にして頭の中に入ってくるような感じの衝撃 的な光景の一枚です。 東日本大震災のボランティア活動について 総合政策学部 2 年 小林 智宣 1.感想 最初はどうなるものか不安だらけであったが、すべてを通して作業がうまくいったように思う。日に日にみ んなとの距離が縮まり、ほとんど知らない人間ばかりだったのがこのボランティアを通じて非常にいい関係に なったとように感じた。作業については、サッカー部の学生たちが盛り上げ役になって、しんどいながらもみ んなが楽しくできたように見えた。私自身、時間を忘れて取り組めたのも彼らのおかげだろうと思う。 このボランティアを通じて、現場の状況を自分の目で見れたこと、被災地の方たちとつらさを分かち合えた こと、みんなで築けた友情や思い出、この4つは一生忘れることはないだろうし、とても大きなものを得られ たと実感しています。 春休みに友人たちが街頭に立って募金活動をしている中、自分が寄付しかできなかったことに心がもやもや していた。そういった経緯もあり、鬼頭先生がボランティアを企画していただいたことに感謝しています。そ して、また機会があれば参加したいと思っています。 2.写真 ボランティアセンターにて撮影。陸に船がいるのを生で見て衝撃を受け、同時に津波の恐ろしさを知りまし た。そしてこの風景を見て言葉を失いました。何年かのち、再び活気にあふれたまちに戻ってくれると信じて いますし、そのために少しでも役に立ちたい、そう思いました。 総合政策学部3年 坂下博基 「床下からの災害ボランティア活動」 今回3月11日に発生した東日本大震災では、東北・東関東地方で地震・津波と福島原発による甚大な被害を受けま した。全国から支援の輪が広がっていますが、当大学でも鬼頭先生を始めとした災害ボランティア活動が始まり、何か 手助けができればと思っていましたので参加を決めました。 5月1日(日)~5日(木)の日程で、現地へは中3日間ボランティア活動をしました。参加は先生・大学関係者4名と学 生17名の総数21名(男性14名、女性7名)で、1台のマイクロバスで出発しました。現地のボランティアセンターは、宮 城県東松島市大曲地区の「大曲市民センター」で被害地区の真ん中にありました。現地に着いて最初に感じたのは、 阪神・淡路大震災時の直下型大地震での家屋の倒壊とは違った津波の被害でした。 道の両側には、土嚢が積まれ、水に浸かった畳や壊れた家具が山積になっており、津波に押し流された乗用車や 漁船などが庭先や畑の真ん中に転がっており、日常生活ではありえない光景が飛び込んできました。現地のボランテ ィアセンターは、全国からボランティア活動に駆けつけた人達で運営されており、毎朝バスや自家用車で参加するボラ ンティア達への作業指示で現場はごった返していました。 我々21人は2班に分かれ、ボランティアの希望宅に作業をするため一輪車に道具を乗せて訪問しました。この時期 の作業は、震災発生から1ケ月半経ってほとんど家の中は片づいており、家族だけでは撤去できない床下や庭のヘド ロ除去が大半でした。2日に作業した老夫婦のお宅では、物置のヘドロ撤去でしたが、庭先には乗用車が5~6台津波 に押し流され折り重なっていました。 ヘドロ撤去が一段落して“大変でしたね”とお話しすると、「終戦時のことを思うとこれぐらいの被害は、何てことないよ。 それよりも津波の時にたくさんのものが流れてきたが、流された人を見ていて助けられなかったのがつらかった」と話さ れていました。活動対象地区は寺前団地を含めた大曲地区で、当時津波の高さは 1.5m~2.0m程度もあったとのこと で、ヘドロの厚さも 7~10cm もあり、重油の黒い層が固くなっていたりして撤去には大変でした。 3日間の活動は、床下のヘドロ撤去が主な作業で、カッパを着て防塵マスクやゴーグル・ヘルメットを着けると汗が吹 き出し、ヘドロまみれの3K作業です。しかしながら、訪問宅では家族だけではできない作業なので大変感謝されまし た。災害復旧対策での自治体・個人の作業分担では、自治体はまずはインフラの復旧が第一となり、個人宅の復旧作 業は家族が中心となり、手が回らない作業は必然的にボランティアに協力をお願いすることになります。 1995 年の阪神・淡路大震災や今回の東日本大震災のような大災害では、一刻も早く復旧することが被災者には物心 とも負担が軽減されることになりますので、そのためにはボランティア活動が重要となります。今回のボランティアセンタ ーとなった「大曲市民センター」の庭には、大曲地区の灌漑記念顕彰碑が残されていました。その地区の灌漑工事は、 昭和の初めから何年にも亘り行われてきましたが、予算が足らず完成しなかったが、数年後に国の予算もつき完成した。 灌漑工事後は、風水害や日照りなど天災時にも左右されず、豊作となったとのことが記されていました。しかしながら、 今回の大震災に伴う津波には何の役にも立たず、一面ヘドロと海水の混じった田畑となってしまいましたが、また復旧 し津波にも影響されない工事が完成した暁には、新しい記念顕彰 碑が建てられることを祈念します。 今回、比較的早い段階で大学の課外活動として災害ボランティ ア活動ができたことは、四日市大学の先生をはじめ関係者方々の ご協力の賜物と感謝しています。今回の災害ボランティア経験を 生かし、さらに社会との関わりを深めていきたいと思っています。 東松島市大曲「大曲市民センター」前で記念写真(2011.5.4 撮影) タンチュアン 東北地方から関東にかけて、甚大なる被害をもたらしました。このたびの3月11日の東大震災で、たくさ んの老人や子供など弱者は、死んでしまいました。家族もいない、住所もない、何もない人は、どういう生き ているか、日本人だけでなく、全世界の人に心配させています。 いつの間にか、いかに、被災者の力になれるかを常に考えていました。寒さや不便な毎日の生活と戦ってい る被災地の方のために、力を尽くしたいと思います。 最初は、鬼頭先生の授業から、宮城県にボランティア活動することを聞きました。そのときに、私の第一反 応は、今度の活動に参加します。ですから、授業が終わってから、鬼頭先生の研究室に行って、自分の気持ち を先生に伝えました。 「留学生として、こういう気持ちがあって、すごく感謝しました。しかし、今度のボランティア活動は、総 合政策学部の活動です。経済学部の学生は、参加したら、単位も認めません。そして、震災や原発事故の影響 で、余震とか、数マイクロシーベルト程度の放射線を受ける可能性もあります。いい気持ちだけど、やはり家 族と相談したほうがいいです」先生は厳しく言いました。 ところが、私は、ボランティアとしての決意が動揺されなかったです。 確かに、震災や原発事故の影響で、日本で留学生の家族から「早く、帰国して、日本は危ない」という声は よく聞きました。そして、春休みに一時帰国した母国で、親戚から「日本に戻らないほうがよい」と注意され たこともあります。まだ、デパートで、お客さんが日本産のものを買い控える光景も目のあたりにしました。 一時に、必要以上に日本が危険だという印象が広がっています。 しかし、今度のボランティア活動は、私は、留学生として、外国人としての身分ばかりでなく、文化も言葉 も国籍も超えた地球人として、苦しい生活から被災者たちを救い出すために、力を尽くしたいという気持ちは いっぱいになりました。被災者や貧困地域の支援活動の力になっていきたいと思います。 短い3日のボランティア活動に参加してから、私は、東日本大地震の怖さを身をもって体験しました。四日 市大学の学生と教員のボランティア団体と一緒に協力して、すごく連帯感を互いに心に生まれました。みんな と一緒に、同じ目標のために精いっぱい被災者のために、頑張りました。そして、新たな知見を得ることは、 生きていて、いいですね。生命を大切にするべきです。 今度の大地震の中に、苦しい生活と戦っている被災者のかたに どううか、お身体に気をつけて、元の生活に戻れるまで、元気で 生きてください。 中国から留学生は、祈っています。 一つになろう日本 私たちは5月1日から5日までの GW 期間を利用して宮城県東松島市の大曲へ災害ボランティアに行って きました。作業は2日から4日の3日間で、20人を2チームに分けてて行いました。 現地に到着した私は衝撃を受けました。「なんもないやん・・・」私が真っ先に発してしまった一言です。 普段そこにあるものが無い、無いものがある。見た事がない景色でした。自分もなにか力にならないといけな いと改めて感じました。 作業内容は民家の床下に流れ込んでいる泥のかき出しがメインでした。泥はいろいろな物が混ざりドロドロ でヘドロのようになっていました。水分を多く含んでいるので大変重く女性や子供、高齢者の方々にはなかな かできる作業ではないと思いました。本当なら1軒1軒すべての泥を出してきれいにしたいのですが、とにか く被害範囲が広くて助けを待っている人はたくさんいます。だからどの家も最後まで作業することはできませ んでした。1日2軒、午前と午後でわけての作業でした。 私たちの力などすごくちっぽけなものでした。しかし作業をさせていただいた家の方々はそんな私たちに精 一杯の感謝をしてくれました。1人1人に頭を下げてありがとう、ありがとうと言ってくれたおばあちゃん、 全員分の飲み物を用意してくれていたお母さん。そんなたくさんの感謝の気持ちが私の原動力になり疲れてい た身体を動かしていました。褒められたり感謝されるためにこのボランティアに参加したわけではないけれど、 普段そのようなことに慣れていない私は優越感に浸ってしまい少し恥ずかしくなってしまいました。ただ現地 の方々の気持ちは素直にうれしかったです。 それから今回の活動で私にはもう一つ大きな収穫がありました。それは仲間です。参加メンバーの中でもと もと関わりのあった学生は5人。5人以外は少しだけ話したことがある学生、初対面の学生、中国からの留学 生でした。最初は私自身何を話したら良いのかわからず、一緒に作業ができるのか心配でした。でもみんなす ごく明るくて元気があり、なにより自分も何か力になりたいという同じ意思がみんなの距離を縮め、より深い 信頼関係が築けたと思います。そんな仲間 の存在も大きな力になりきつい作業も取り 組むことができたのだと思います。 私は今回の活動で本当にたくさんの仲間 に支えられ、微力ではあるけれど自分にで きることを精一杯することができる環境に 立たせてもらえたことを本当に感謝してい ます。今までの私はボランティアとは無縁 のような20年間を過ごしていました。損 得勘定だったと思います。しかし今の私は 少しだけれど変われたんじゃないかと思い ます。 被災地が完全にもとの姿になるには10 年はかかると言われています。被災者をは じめ私たちの戦いはまだまだ始まったばか りです。1人1人が他人事とは考えずみん なで協力して復興に向けて進んで行くべき です。 花木 寿弥 自分で体験し現実を知る 四日市大学職員 早川 幸江 3 月 11 日に起こったあの凄まじい地震と津波。連日テレビや新聞で報道され、現実に起こっている事と理 解はしているつもりでも、地震後も普段と変わらない生活をしているどこか現実的でない自分がいました。で も「何かしたい!」という気持ちがずっと心の中にあり、今回の話を聞いた時はすぐに参加を決めました。 活動場所の東松島市の大曲地区に近づくにつれどんどんと景色が変わっていき、今まで報道されていた状態 が目の前に広がっていき、自分の中ですべてが現実になりました。 バスから降りると海の臭いとヘドロの臭いがすごくしました。ボランティアセンターの方から説明を受け、 作業場所に移動。雨具に防塵用マスク、ゴーグル、軍手にゴム手袋の二重装備、そして鉄板入りの長靴、歩く のも大変で防塵用マスクは息苦しくすぐに辛くなります。作業も最初はおぼつかない状態でした。でも作業宅 の方のお話を聞いていると慣れない作業も気持ちでカバーでき、次第に手際よく行えるようになりました。床 下のヘドロを除去する作業は大変で、臭いもきつく水分を含んでいるヘドロをスコップで腰を曲げてすくい上 げて土のう袋に入れる作業を何百回も繰り返します。床板を全部取り外すことができず、とても狭いところに 入り込んで作業するため、当然雨具はもちろん全身ドロドロになります。全身筋肉痛になるし腰は痛いしと疲 労は日に日に積み重なっていきます。でも被災地の方の「ありがとう」という一言で癒され頑張れました。み んなも文句も言わず一生懸命頑張り、3日間終った時はみんなとても素敵な笑顔になっていました。その笑顔 を見た時ボランティア活動に向いている人は活動をした後、 「体は疲れたけど心は疲れていない」と感じれる 人だと思いました。 今回の災害ボランティア活動に参加が決まってから活動から帰ってくるまではあっという間に時間が過ぎ ていきました。現地の状況がほとんど分からない状態で最悪の場合を考えて、いろいろな方に協力していただ いての準備、そして往復 27 時間の長旅、被災地の悲惨な現状、ドロドロになってがんばった作業。今思えば もうかなり前のことのようですが、被災地の方々は毎日この現状と向き合っていると思うととても心が痛みま す。 たった 3 日間の活動は被災地の方々からみたらほんのわずかな事ですが、少しでもお役に立てたのであれば 嬉しく思います。 「これからも私に出来ることは小さなことでも継続して行っていきたい!」今回の活動を通じて強く思いま す。 ※ 私が選んだ 1 枚 ※ 今回 1 枚写真を選ぶのにとても悩みま した。どの写真も印象的でなかなか選べ ずにいました。 この写真は作業2日目のお昼に空に虹 のように綺麗な色がでていました。虹だ ったのかどうかは分かりませんが、この 荒れ果てた地上とから空を見上げると 綺麗な虹色。 きっとこれから先への希望が見えたよ うな気がしました。 東日本大震災レポート 三好康介 私は、5月1日からの5日間、東日本大震災のボランティアとして宮城県に行ってきました。作業をしたの は3日間だったけど、とてもよい経験ができたと思いました。テレビでしか見たことなかった被災地に行き、 そこで目の当たりにした被災地の光景は言葉にできないくらい衝撃の現場でした。宿泊先のホテルの周辺は地 震の被害がほとんどありませんでした。同じ宮城県内でもこんなに違うのかと思いました。秋保温泉から東松 島市大曲というところに行く途中だんだん地震や津波の影響で壊れた家や車、普段自分たちが何気なく使って いる物が壊れたりしていてとても恐ろしかったです。いざ作業する東松島市大曲についてみるとバスの中から みた光景とまったく違いとても悲惨な状況でした。道路は陥没していたり、船が陸地にあったり、フェンスが あり得ない形に折れ曲がっていたりしてこれが地震と津波の恐ろしさだとしりました。そこに住んでいる人に 津波や地震の時の話を聞かせてもらいましたが、揺れがものすごく大きく時間も長く車から降りようとしたら 車内から放り出され、シートベルトを着けていたから大丈夫だったけど地震の揺れで車ごと 3 メートルほど移 動したと聞きました。津波ははじめ40センチだったけど何回も来ていつの間にか 2 メートルを超す高さにな り、川沿いにあった民家は 300 件ほどの民家がありその人たちは津波が来ても大丈夫だろうと思い避難しな かったら家ごと流されてしまいその人たちはみな亡くなってしまったと聞きました。そこで海から離れていた って津波は来ると思いました。大きな揺れを感じたらすぐに避難するべきだと思いました。そこでは体験した 人しか分からない話が聞けてとてもよかったです。被災者の人たちは自分たちに温かく声をかけてくれたりし て逆に自分たちが勇気をもらいました。ものすごく不便な生活をしていても復興のために頑張っていて、あの 状況を見たらその家族だけで復興するのは絶対に無理だと思いました。自分たちは家の床下の泥かきを中心に やりました。それは想像を絶するつらさでとても大変で汚れるのを覚悟でやりました。その家の作業が終わっ た時の達成感はすごくて言葉にできませんでした。それでもまだ作業が終わっている家は少ないし、まだ手を つけられる状況ではない家もあり、復興にはまだ時間がかかりそうだと思いました。自分が被災者や被災地の ためにできることは時間が許す限りやってきたと思います。きつくて大変だったけどまた行きたいと思える体 験や経験ができ、行った人にしか分からない被災者や被災地の現状をしり、これは言葉で表したいけどなんて 伝えればいいのかわかりません。でもこのボランティア で人とのつながりや困っている人たちのために活動を し、そういう状況になったらみんなで助け合い励ましあ って乗り切っていくしかないと思いました。自分たち日 本人は団結力がものすごくあると思ったし、この東日本 大震災で学んだことは今後の自分の人生で役に立って くるとおもうし、東海地震や東南海地震がきたときにこ の経験を生かせれたらいいなと思っています。自分たち は今、何も不自由なことがなく当たり前に生活している が、被災者の人は自分たちのように生活できていないっ てことを頭にいれて普段から生活をしていきたいです。 またボランティア活動があったら是非参加したいと思 いました。 山崎 賢人 今回私たちは5月1日から5月5日の間、東北にボランティアへ行ってきました。 ボランティアの活動期間は3日間、まず、私が思ったことは、私たちが住んでいる三重県とは全く違う風景で した。津波の被害があった土地では住宅地なのに家が無かったり、海岸からかなり離れている場所なのに船が あったり、家はあるものの、家の中に有るはずのものが全く無くなっている、道のまわりに木材やごみが散乱 していたりフェンスが津波によって押し倒されてぐにゃぐにゃになっていたり車が何台も横転していたり普 通とは違う光景に唖然となりました。 写真では少し見にくいかも知れせんが、テレビで見るのよ り、被災地へ行って、自分の目で見たものはあまりにも違 いました。 その中で私たちのボランティアの作業は、津波によって家 の中に入ってきたヘドロを取り除くという作業でした。1 日目は家の庭のヘドロを取り除く作業をしました。2人1 組になり、一人はスコップでヘドロをすくい、もう一人が がや袋を持ちヘドロを入れるという形で作業をやりました。 ヘドロは普通の土とは少し違っていてとても黒く、とても 粘り気が強く滑りやすかったです。2日目は、家の床下に まで入り込んでいるヘドロを取り除く作業です。この作業 は簡単に見えますが、外とは違い家の中なのでとてもヘド ロがとりにくくとても大変でした。3日目も同じく、床下 のヘドロをとる作業でした。 3日目のもなれば、作業もスムーズにできたのでよかっ たです。 3日間という少ない時間でしたが私がボランティアに行 って思ったことは、実際に現地に行ってみないと分からな いことがたくさんあることに気付きました。私はボランテ ィアに行く前はテレビでしか被災地の状況を知らなかった ので、正直他人事でした。実施行ってみて、そんなことを 言っていられる自分が恥ずかしくなりました。自分の県に 地震が来ていないから大丈夫といったことを思っている人 も多いかと思いますが、それではいけないと痛感させられました。日本人として助け合いの心が一番大切だと 思います。 私はこのボランティアで学んだことを、みんなに伝え、将来に生かしていきたいです。 ボランティア活動 米島 幸生 東日本大震災でとても多くの人々が災害にあわれている姿をテレビニュースや、新聞で見ているだけでした。 でもこのたび私は、四日市大学から宮城県にボランティア活動をすると言う話を聞き、最初は行くか少し迷い ましたが被災者のためにボランティア活動を出来る機会はそう何度もあるものではないので私は行くことに 決めました。 宮城県の宿泊先から被災地まで片道バスで約二時間くらい離れた所ま行き来していましたが、被災地に近く なって行くにつれて何もない所に来てしまったかのような感覚になりました。 バスから見える景色の中には 家や車があり、家の屋根がほとんど壊れていてもとの形がわからなかったりする所もあり、車はたくさんひっ くりかえっているのがあたりまえになっていました。 そしてボランティア活動をする所についてバスから降りた時、私たちよりさきに現地についてすでにボラン ティア活動をしていたことに驚きましたが、それよりも外の空気が少し臭く、ゴーグルやマスクをしていない と目や口にゴミが入ったりするのが普通になっていていました。 そこから被災者の家まで行き、庭や家の床 下の泥のかき出しや家屋の清掃を始めました。 被災者の家について最初に驚いたのは、どこにでもある二階 建ての家が津波で一階のほとんどが水に漬かっていたあとがありました。被災者の方の話では、家が水に流さ れて行くところもあれば、沖合から大きな船が流れて来ていろんなものにぶつかったりしていたと言う話を直 接聞くことが出来ました。その中でも一番ひどかったのは、人が流されているのになにも出来ずに見ているこ としかできなかったことが一番つらかったことなどを聞いて、私には想像することが出来ませんでした。 そして、家の中に溜まった泥を外に出す作業をしていましたが、約一日で一つの家の泥を取り除くことが出 来ましたが、それでもまだすべての泥やゴミを取り除くことはできませんでした。 私がボランティア活動を 通して思ったことは、泥やいろんなゴミを取り除くのに今以上にみんなで頑張っていかなければならないこと を思い知らされました。このたびの経験は私自身にとっていろんな意味で少し成長できたと思います。 またこのような機会があればボランティア活動をしたいと思います。 リョウセイ 東日本の地震、津波、放射物が、東北地方に大きい被害をもたらしました。日本の経済にも影響を与えまし た。多くの人々が亡くなり,多くの財産が流れました。生きて残っている人々の生活も、苦しい状況になって います。 宮城県の東松島市の被災地へ手伝いに行くボランテイア活動の話しは、大学で鬼頭先生から聞きました。先 生はその話をしたき、何となく私はとても行きたい気持ちになりました。日本に来て、もう三年になり、三年 の間ずっと日本で勉強、アルバイト、生活をしています。今回、日本の東日本地震があったので、私は留学生 として、人間として、力の限りでできることをやりたいと思いました。また、日本に来てから、身の回りにい つもやさしくて親切な日本人がいましたから、いろんなことで助けられました。そのやさしくて親切にしてく れた日本人に対して、わたしはありがとうございますと言うしかありません。私はそうしたやさしかった日本 の人たちに対して、感谢の気持ちでいっぱいです。 その感谢の気持ちを持って、被災地に行って、自分も困っている人の力になりたい、日本の人たちに少しで もご恩返しがしたい、という気持になりました。 その気持ちを持って、東松島の被害にあった場所でボランティアの活動を始めました。活動場所に着くと、 自然災害により、ものすごく破壊されたものが目の前に広がっています。びっくりしました。 その3日間は被害にあった場所で、家で庭の泥だし、畳の下の床下の泥だし、と住民の要求に応じて、洗い 物を洗うという活動をやりました。 皆さんは精一杯で協力して、一生懸命活動をやりました。確かに、ホテルに戻ると、皆とても疲れました。 次の日になると、筋肉もいたくなっていました。でも、みんなはまだ、元気で自分の気持ちを込めて、続けて 活動をやります。一日の活動が終わった後、ご飯を食べる時、なぜか、ご飯はいつもよりおいしくなっていま す。困っている人に対して手伝いことをできるのは、何よりうれしいことです。そのうれしさは、とても大切 です。 活動の中間の休みの時、被災地の場所を歩いているとき、めちゃくちゃの被災地を見たとき、先生から津波 によって、たくさん人の命がなくなったことを聞いて、私の気持ちはすごく落ちこみました。津波の無情、多 く人々の命と多く財産を奪い去った、一瞬間の間に人々の命が消えてしまったのは、何か人々の命はそんなに 小さいものだと思いました。考えると、私の気持ちも悲しく複雑になってしまいました。命がなくなった人々 を祈っています。今、生きている人々は亡くなった自分の親友達の悲しさをこらえて、新しい家族を再建する ために頑張って生きている姿は、私はその強さ、明るくさに感動しました。心から日本に頑張ろうと声出して いいたい。その困難を乗り越えて、必ず、いい明日を迎えることができます。必ず、元気な日本になっている でしょう。 今回の活動を通して、私は生きてい る意味は何だろうかと考えています。 生きているうちに何かやったら、自分 は人間として価値があるだろうと考 えています。 仙台にいる四泊五日 林 燕(リン エン) 初めてボランテイア活動で仙台へ行った。前から仙台へ行きたかったが、ボランテイアという形で行ったのは全 然考えてなかった。今回、代表者の鬼頭浩文先生を含めて、教職員4人、学生17人(その内、留学生4人)の仕組 みで、我々四日市大学21名のボランテイアたちは四泊五日を欠けて、仙台の被災地大曲で、泥のかき出しを中心 に活動をした。 5月1日(一日目) 学校のレンタカーで、三重出発、新潟経由で仙台へ移動した。行くのは12時間がかかった。泊まりの秋保温泉 ホテルへ行く途中、被災の風景を全然目に入ってなかった。被害あまり少ないなと思った。 5月2日(二日目) 朝7時ごろホテルから出発、車で1時間半ぐらい大曲のボランテイアセンターに着いたら、びっくりした。道の 辺りと田んぼ、目に見えるところ、電化製品、生活用品と家具あちこちに散らしていた。特に田んぼ,廃墟のよう に見えた。地震の怖さはその場で身近に感じた。先生たちはボランテイアセンターのスタッフと話し合って、作業 の場所と内容を決まった。私たち21名を A と B 二つのチームにわけ、違う場所で泥のかき出しをした。 5月3日(三日目) 今日も一日泥のかき出しだった。朝の作業で、あるお家の床板をはずして、下にあるへ泥を掘り出した。その家 に80代のおばあさんがひとりいった。もしボランテイアがいなかったら、皆お年寄りどうしようかなとおばあさ んの姿を見て、こう思った。一日作業の時間が決まってるから、作業が終わらなくても、決まった時間に戻らなく てはいけない。もっとおばあさんの家をきれいに片つけてあげたかったが、時間が足りなかった。残りを後に来る ボランテイアに任すしかない。 5月4日(四日目) 今日、ヘ泥の掘り出しは一番大変だった。この前に行った家はほとんどコンクリートの床でした。今日行った家 は、床の下全部泥で、防湿のために、ビニルも敷いた。津波で、へ泥が入って来て、ビニルの上に乗せ、重くなっ て、なかなか取れなかった。結局、皆手で、少しずつ千切って、取れた。へ泥と元にある泥が混ざって、余計掘り 出しにくかった。最終で最強の重労働でした。 5月5日(五日目) 三日間はあっという間に終わった。朝7時ごろから車に乗って、三重に戻る。帰りに渋滞で、14時間もかかっ た。帰りの途中、この間のことを思い出した。私は震災にあったことがないが、なかなか地震の怖さが理解出来な かった。今回のボランテイア活動を通じて、災害の残酷をよく分った。もし自分が震災にあったら、どうすればい いかなと考えた。正直いうと、仙台の人々みたいの冷静と対応はできないと思う。 毎日活動の終わりに、現地のひとに「ありがどう」 「ご苦労様」と言って貰って、本当にうれしいかった。私たち ボランテイアのできことがそんなにおおくないが、すくなくても、ひとりのひとをたすけるのはすごく達成感があ る。その反対に、被災地の人々を助けただけじゃなくて、現地の人々もわたしに勇気と決意を見せた。関心した。 これは一番印象に残った写真 道に散らしている大曲小学校の看板。 地震の前、子供たちはきっと毎日楽しんで 学校を通っていたが、震災後、前一緒に勉 強したお友達は皆全員無事なのか?又い つか学校に戻れるのかな。この間、道に散 らしたぬいぐるみをみつけた。見た瞬間、 ぬいぐるみの持ち主を思い出した、何歳く らいの子かな、いまどこにいるのかな、親 又爺さん祖母さんからもらったぬいぐる みなのに、なくなって、泣いたかな・・・・・ 災害にあった場合、一番弱い立場にいるの は子供とお年寄りだ。 今回のボランテイア活動で、すごく感 動したことがあった。一つは、ひとり普段 やンキーっぽいで、パンツを半分人に見せ るサッカー部の子は、泥の掘り出しにめっちゃ頑張った。あんな痩せているなのに、意外と力持ちで、へ泥を顔、 全身に付いても,気にせず、がんがんやった。もうひとつはサッカー部の伊藤監督のこと。伊藤監督は A チームの リーダで、仙台にいる間、皆と一緒に泥の掘り出しをした。伊藤監督は床の下にスコップで届かない場所に入って、 手でへ泥を運び出した。皆と同じ疲れているなのに、行きと帰りの運転手も担当して、皆を無事に戻させた。その 姿を見て、感動した。日本には、サッカー部の子と伊藤監督みたいなひとはまだたくさんいると思う、こういう人 がたくさんいるから、日本は絶対震災を乗り越えることができると信じている。 今から、政府と国民の力で、被災地の復興はスムーズになると思う。一方、被災地の方々への心のケア、ごみの 方付けと再就職などに、力も入れたらいいなと思う。 頑張ろう、東北。頑張ろう、日本。
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