本当の愛

本当の愛
コリント人への手紙第一 13章4~8節より
誰もが、 愛を探し求めています。 すべての人に愛が必要だと
言います。 しかし、 愛とは何でしょう。 本当の愛とは、 どういうもの
でしょう。 仮に愛を見つけたとして、 どうやってそれが本物だと分
かるのでしょう。
世間は、 愛は生まれては消える感情で、 言葉では説明できな
いと言います。 しかし、 聖書は時代を超えて語りかけ、 朽ちること
のない愛の真理を伝えます。
牧師であり聖書の講解説教の講師であるビル ・ クラウダー師
は、 私たちがコリント人への手紙第一13章4~8節を新鮮な気持
ちで学べるように、 この冊子を書きました。 1980年代、 「愛はか
げろう。 つかの間の命。」 と歌ったグループがありました。 しかし、
クラウダー師は、 聖書が真実だと信じるなら、 愛は確かなものだと
明らかにしてくれます。
マート ・ デ ・ ハーン
この冊子は、正統なキリスト教の教義に基づいて書かれたものです。 エホバの証人、
末日聖徒イエス ・ キリスト教会 (モルモン教)、 統一協会とは関係ありません。
Japanese DS “What Is Real Love?”
本当の愛
― コリント人への手紙第一 13章4~8節より ―
2004 年 6 月 10 日
初版第 1 刷発行
2006 年 4 月 10 日 第 2 刷発行
2013 年 1 月 10 日
PDF 版 翻訳 :
肥田仁司 ・ 山本美智子 ・ 沖野いづみ
油谷扶美 ・ 大浦優子
監訳 :
田井淳子
表紙デザイン :
Alex Soh, Janet Chim
発行者 :
田井淳子
発行所 :
日本アールビーシーミニストリーズ
〒 630-0291 奈良県生駒郵便局私書箱 46 号
TEL: 0743-75-8230 FAX: 0743-75-8299
EMAIL: japan@rbc.org
WEBSITE: japanese-odb.org/
聖書個所は新改訳聖書より引用
原作 “What Is Real Love?”
©1997 RBC Ministries, Grand Rapids, Michigan
転載 ・ 転記には、 許可が必要です。
乱丁・落丁はお取替えいたしますので、ご連絡ください。
冊子は非売品です。 RBC ミニストリーズは、 特定の教会や教団にではなく読者の
みなさまの献金によって支えられ、 人生を変える聖書の英知を伝えています。
目次
今、世界が必要としているもの......................... 5
愛のない町........................................... 7
本当の愛のしるし.................................... 12
「寛容」です。 .................................. 14
「親切」です。 .................................. 15
「ねたみません。
」................................ 17
「自慢しません。
」................................ 18
「高慢になりません。
」............................ 20
「礼儀に反することをしません。
」.................. 21
「自分の利益を求めません。
」...................... 23
「怒りません。
」.................................. 24
「人のした悪を思いません。
」...................... 25
「不正を喜びません。
」............................ 26
「真理を喜びます。
」.............................. 28
「すべてを我慢します。
」.......................... 30
「すべてを信じます。
」............................ 31
「すべてを期待します。
」.......................... 32
「すべてを耐え忍びます。
」........................ 33
決して絶えることのない愛............................ 35
どこに愛を見つけることができますか?................ 36
愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
コリント人への手紙第一 13 章 4 ~ 8 節
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©2013 RBC ミニストリーズ
今、 世界が必要としているもの
米国に 「今、 世界が必要としているものは愛。 甘い愛。」 と歌
う往年のヒット曲があります。 その歌は、 「制覇する山も川もいらな
い。 世界に必要なのは愛。 特定な人だけではなく、 みんなを愛
する愛。」 と訴えました。 当時の若者たちは、 この歌を大合唱しま
した。
多くの人は、 このテーマに共感するでしょう。 私たちは、 クリス
マスや大切な人の誕生日にプレゼントを贈り、 台風や地震などの
被災者に義援金を送ります。 また、 生活に困っている人に手を差
し伸べるボランティア活動を尊いと思います。
さて、 75歳のラッセル ・ プレイサンス氏は、 地元の新聞に掲
載されていた貧しい家族のこと
「愛が必ず報われるのなら、
愛はみんなに
ゆきわたるはずです。」
を読んで、 ささやかな愛を贈り
たいと考えました。 そこで、 食
料品と子どものオモチャ、 そし
て少しばかりのお金を持って、 その家族を訪ねたそうです。
このプレイサンス氏の親切は、 とんでもない事件を引き起こし
ました。 何と、 その家の主人が、 数日後、 プレイサンス氏にナイ
フを突き付け、 財布と車を奪ったのです。
プレイサンス氏の例を挙げるまでもなく、 私たちは愛の乏しい
世の中に暮らしています。 愛が愛を生むのなら、 愛はみんなにゆ
きわたるでしょう。 「最後に愛は勝つ」 のが現実なら、 もっとたくさ
んの人が、どんなに苦しくても愛を実践しようと思うでしょう。 しかし、
愛は必ず報われるわけではありません。 また、 自分が愛に報いよ
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©2013 RBC ミニストリーズ
うとするときでさえ、 自分の都合のいいように愛を解釈しています。
というのも、 愛の意味は人に
「愛とは決して後悔しない
こと」 でしょうか?
よってまちまちで、 例えば次の
ようなことを意味するからです。
 一時的な感情
 性的な関係を曖昧に言うこと
 人のために犠牲を払うこと
 批判せず受容すること
 気持ちを隠さずに率直であること
愛はキラキラと輝くもの。
愛は英語で LOVE ですが、日常会話で以下のように使います。
“I love blue.” (青が好きです。)
“I love my children.” (自分の子どもたちを愛しています。)
“I love Hanshin Tigers.” (阪神タイガースの大ファンです。)
“I am in love.” (私は恋をしています。)
この例からお分かりのように、 LOVE (好きだ。 愛している。)
とひとことに言っても、 その意味はいろいろです。 いくつものニュ
アンスを持っているので、たとえ、ふたりの人間が 「愛」 を誓いあっ
たとしても、 その誓いの中身である 「愛」 に対する認識が、 完全
にずれている危険性があります。 同時に、 「愛」 は非常に抽象的
で曖昧なものだから、 そんなものよりもっと大切なことがあると考え
る人もいます。
しかし、聖書は「愛」の重要性を明言しています。使徒パウロは、
怒り争っていた人々に、 次のように書き送りました。
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「たとい、 私が人の異言や、 御使いの異言で話しても、 愛がな
いなら、 やかましいどらや、 うるさいシンバルと同じです。 また、 たとい
私が預言の賜物を持っており、 またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通
じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、
何の値うちもありません。 また、 たとい私が持っている物の全部を貧し
い人たちに分け与え、 また私のからだを焼かれるために渡しても、 愛が
なければ、 何の役にも立ちません。」 (Ⅰコリント13 : 1~3)
この手紙は、 献身や犠牲
「愛がなければ、 どんなこと
ばも騒音だ。 御霊の賜物は
の大切さを知っている人たち
に宛てて書かれたものです。
ないのと同じ。
どんな犠牲も無意味だ。」
コリントの教会の人たちは、 信
仰、 知識、 霊の賜物、 強い
指導力、 そして熱いメッセージの重要性をよく心得ていました。
この人たちの問題は、 今日の私たちの問題とよく似ています。
つまり、 自分の関心事だけに一生懸命になってしまい、 信仰と霊
的な知識が本来目指すべきゴールを見失ってしまったことです。
人は神のみこころから離れて聖霊の賜物を探求したり、 聖書を学
んだりすることもあるのに、 彼らはうっかりしていました。 自らが満
たされることを求めるあまり、 一番大切なものを忘れかけていたの
です。
愛のない町
世界一堕落した無情な町を想像してみてください。 人は愛の
名のもとに悪事を行い、 利己的な野心を満たすために人間関係
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を利用します。 人の生命が奪われることも日常茶飯事です。 紀元
1世紀のコリントの町は、 まさにそういうところでした。 コリント人へ
の手紙第一13章の崇高で聖霊に満たされた文面を初めて読んだ
人たちは、 その町のクリスチャンでした。
堕落したコリントの町と美しい愛の記述は、一見不釣合いです。
しかし、 これほど適切な組み合わせはありません。 コリントの町に
あった教会の人々が生き方を改めるためには、 本当の愛とは何な
のかという原理原則が必要だったからです。
むずかしい社会で生きている人々。
現代人の目から見ても、 コリントのクリスチャンは多くの問題に
囲まれていました。 世間の道徳的な基準は、 落ちるばかりでした。
一般的な人々の宗教は、 ギリシャの愛の女神、 アフロダイテ崇拝
です。 その神殿では、 千人もの女性が神殿娼婦として雇われて
いました。
経済的な発展も誘惑の種です。 コリントは、 北ギリシャと南ギ
リシャを結ぶ交通の要所にあり、 商業が発展しました。 しかし、 繁
栄が堕落をもたらしました。 物質主義と性行為を礼賛する宗教は、
快楽を追い求める世相を作りました。
コリントの道徳的堕落は非常に有名になり、 ギリシャの人々は、
とんでもない不道徳をしたり、 酔っぱらって見境のない行動をした
りする人のことを「コリント人のようにふるまう」と言うようになりました。
愛についての定義をパウロの手紙から受け取ったコリントの教会の
人々は、 このような社会に生きていました。
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霊的な意味で虚弱体質の人々。
現代にも通じることですが、 コリントのクリスチャンは、 不幸なこ
とに、 周りの社会に影響されていきました。 では、 パウロがこの手
紙で取り上げたさまざまな問題について考えてみましょう。
 神の家族である教会の内部分裂 (1~3章)
 プライドと霊的高慢 (4章)
 性的乱交 (5章)
 信徒間の訴訟問題 (6章)

夫婦間の問題 (7章)

霊的自由の乱用 (8~10章)
 男女の役割の混同 (11章)
 聖餐式の乱用 (11章)
 霊の賜物の誤用 (12、 14章)
 基本的教理の軽視 (15章)
コリントの教会は多くの問
「愛が、 コリントに住んでい
る人の人生を変えることがで
きたのであれば、
題をかかえていました。その上、
使徒パウロのことをよく思って
いない人たちもいました。 です
他のどんな土地に住んでい
る人の人生をも変えることが
できる。」
から、 事態のひどさにもかかわ
らず、 パウロの指導が必要だ
という認識はありませんでした。
この手紙を読んで分かることは、 手紙の受取人たちは、 自分のこ
とは棚に上げて、 他人の欠点に着目してしまう人たちだということ
です。
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霊的な洞察力のない人々。
解決策は何でしょう。 キリストに従って生きるとは、 聖書の知
識を深め、 超自然的な霊の力を追求することだけではありません。
コリントのクリスチャンは、 このことを理解していませんでした。 パウ
ロは、 彼らが愛の本当の意味を再発見することを願いました。 な
ぜなら、 愛の本当の意味を知らなければ、 教義を正しく理解し、
力強くメッセージを語って伝道し、 犠牲的に奉仕をしても、 かえっ
て人に疎まれるからです。 パウロは、 愛なくして善を行うなら、 実
際にはどういうことになるか、 13章1~3節で比喩を使って説明し
ました。
コリントのクリスチャンに欠けていた洞察力は、 すべてのクリス
チャンに必要なものです。 私たちも、 信仰に関する情報や知識
の山を築くばかりで、 「聖書の心」 で生きることを怠っていないで
しょうか。 私たちの心には聖霊が宿っておられます。 しかし、 その
聖霊が私たちに心を配ってくださるほど、 私たちは人のことに心を
配っているでしょうか。 私たちは、 他人の間違いは指摘できても、
愛のない自分もまた間違っているという事実に気づかないことがあ
ります。
このような見解は、 クリスチャンであることを咎めようとするもの
ではありません。 咎めるべきものは自己中心的な生き方です。 コ
リント人への手紙第一13章は、 クリスチャンを卑下させるために書
かれたのではありません。 それは、 宗教的な振るまいを身につけ
ようとするばかり、道に迷ってしまった人を導くために書かれました。
同時に、 人間関係の問題を起こしたり、 普段の態度が悪かったり
して、世間の不評を買うことがないよう自警しなさいと促しています。
クリスチャンの自分勝手な言い争いを見て、 世間の人が 「キリスト
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も大したものではない。」 と思うようなことがあってはいけないからで
す。
人間は、 「この人は私のことを本当に心配してくれている」 と
感じなければ、 その人のことばに耳を貸さないものです。 私たち
がそのように相手を思いやって初めて、 世間の人は、 キリストを信
じる私たちの信仰が、 意味あるものだと思うでしょう。 キリストの愛
によって生かされていないなら、
愛がなければ
雄弁な語りかけ..................................................... うるさい騒音のよう
霊的な洞察力 ......................................................... 何の値打ちもない
慈善行為.............................................................. 何の役にも立たない
 伝道は、 人を裁くものになる。
 正しい教理は、 律法主義になる。
 献身は、 独善になる。
 礼拝は、 心の通わない儀式になる。
 聖書の学びは、 高慢な知性偏重になる。
 奉仕は、 疲れのともなう義務となる。
霊の一新を必要とする人々。
もし、 コリント人への手紙第一13章が私たちの霊的な貧しさを
指摘しているなら、 私たちは周囲の人々にもっと心配りをするべき
です。 パウロの語ることばが、 私たちの自己中心性を示している
なら、 私たちは神によって変わるべきです。 このみことばが、 私た
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ちの心を照らすなら、 私たちはその光の中で自分の生き方を吟味
し、 もっと主に近い人生を歩むべきです。
しかし、 この冊子を読むときに心に留めていただきたいことは、
神は、 アップグレードしなさいと私たちを召しておられるだけでは
なく、 「あなたを心の底から変えてあげよう。」 と手を差しのべてお
られるということです。 神は、 単なる道徳水準の向上を意図してお
られるのではありません。 私たちを人間の生まれ持った性質から
解放し、 私たちが自分では変えることのできない部分に御業を成
してくださるのです。
今、 私たちに問われていることは、 神と神の真理に自分を完
全に委ねるか、 ということです。 もし、 私たちが応答するなら、 神
はコリント人への手紙第一13章に記されているような本当の愛を
私たちの中に生み出させてくださいます。
本当の愛のしるし
ビートルズは、 エド ・ サリバン ・ ショーのステージから鮮烈な
米国デビューを果たしました。 大胆かつ斬新なサウンドで当時の
人々を魅了し、 「愛こそはすべて」 と大合唱させました。 しばらく
して彼らは解散し、 ファンは再結成を夢見ました。 後年、 ステー
ジが企画され、 ビートルズは以前のように愛を歌いました。 スタジ
オでの再会が大きく取り上げられましたが、 そこでも 「リアル ・ ラ
ブ(本当の愛)」という題名の歌がキー・ソングでした。しかし、ジョン・
レノンが作詞した歌詞は、 悲しいものでした。 本当の愛こそが人
生の目的であり、 走り続けた人生の栄冠だと歌いながら、 その歌
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は 「ひとりぼっち」 という哀しい心模様で終わります。
ジョン ・ レノンの歌詞は、 彼の世代だけではなく、 みんなの心
情をとらえています。 私たちは、 愛を探し求め、 ある時はそれを
見つけたと思います。 しかし、 幻滅する時がいつか訪れ、 その感
情は消えてしまうのです。
愛とはいったい何物なのでしょう。 なぜ、 これほどつかみどこ
ろがないのでしょう。 しかし、 私たちが使徒パウロの時代に生きて
いたら、ギリシャ語の単語を使うことで、自分の求めている 「愛」 が、
どんなものなのかを明確に表すことができたでしょう。
エピトウミア (epithumia) という単語は、 性愛によって満足さ
せられる欲望を意味しました。 エロス (eros) は恋をしているとき
の感情、 ストルゲ (storge) は、 何かを守ろうとする強い愛を意味
しました。 フィレオ (phileo) は、 家族や友人を思う気持ちです。
もうひとつは、 アガペ (agape) でした。 このことばは、 (ほとんど
の場合、 神の愛に使われ)、 最も深くて純粋な愛を意味していま
した。 パウロがコリント人への手紙第一13章で愛について述べたと
き、 彼は 「アガペ」 という単語を使っています。 パウロは、 最も
崇高な神の愛こそが、 私たちのあらゆる愛に永遠の意味をもたら
すということを示したかったのでしょう。 パウロは、 「アガペ」 という
ことばを使うことで、 創造主である神の視点で 「愛」 を表現したの
です。 それは、 次のようなことでした。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を
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喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
(Ⅰコリント13:4~7)
この崇高な愛、 「アガペ」 をさまざまな角度から吟味するなら、
これこそが、 私たちが求めている 「本当の愛」 であることがはっき
りします。
本当の愛は 「寛容」 です。
新改訳聖書で 「寛容」 と訳されている単語は、原語のギリシャ
語では 「気長な」 というような意味です。 聖書辞典では、 腹の立
つことをされてもすぐに仕返ししたり、 相手を罰したりしないことだ
と説明されています。 すぐにくやしがったりしないことだと定義した
聖書学者もいます。 本当の愛は、 仕返しをしません。 心の中に
恨みを抱え込んだりしません。 本当の愛は、 心を深く傷つけられ
た場合でも、 耐え忍んで相手を愛します。
不倫や家庭内暴力など、 壊れた人間関係に苦しんでいる現
代社会は、 このような愛を必要としています。 本当の愛は、 心に
痛みや悲しみを感じさせます。 そして、 それを乗り越えようとしま
すが、 決して仕返しをしようとは思いません。 このような愛が、 普
通なら絶対にできないと言われることを可能にする場合もあります。
以下の例は、 そのひとつです。
知美さんの夫の和彦さんは、 長い間ある女性と不倫関係にあ
りましたが、 やがて家庭を捨てて出て行きました。 知美さんは、 離
婚協議の渦中にあっても、 何が夫を愛することであり、 なぜそうす
べきなのかを決して忘れませんでした。 知美さんの傷心がようやく
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癒え、 平和な生活を取り戻し始めた頃、 和彦さんが勤務中に怪
我をして入院したと聞かされました。 神はこの事故を用いて、 道を
踏みはずした和彦さんの目を覚ませられたのです。
ある日、 和彦さんから知美さんに連絡がありました。 もう一度
やり直せないかと尋ねてきたのです。 なんという自分勝手でしょう。
彼が同じことを繰り返し、 彼女を再び苦しませないという保証はど
こにもありません。 しかし、 知
「本当の愛は、
裏切りや別離、 和解の
望めない現実の痛みに
美さんは、 そのような不安を持
ちながらも、 和彦さんといっしょ
にカウンセリングを受けることに
耐えながらも、
相手の最善のために
尽くしつづける。」
しました。 そして、 女性として
最悪の状況を余儀なくされて2
年が過ぎた頃、 知美さんと和
彦さんは再婚しました。
同じ状況の別の女性は、 前夫とは良い友人にはなれても再婚
はできないと思うかも知れません。 しかし、 知美さんは、 恨むこと
を自ら否定し、 寛容になろうと決意しました。 そして、 相手は自分
を苦しめ自分を捨てた男性であるにもかかわらず、 リスクを承知で
その人と再婚したのです。
恨まないという強い意志があれば過去の苦しみを簡単に忘れ
られる、 というわけではありません。 しかし、 本当の愛は、 恨みに
屈しません。 本当の愛は、 本当に寛容なのです。
本当の愛は 「親切」 です。
「君は僕の人生を飾ってくれた」 というヒット曲が米国にありま
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した。 このラブソングは、 日常生活が愛されることによってときめき
輝く喜びを歌っています。 しかし、 本当の愛は親切だと言うその
愛は、 単なる飾りではありません。 ギリシャ語学者の A.T. ロバート
ソン氏によると、 「親切」 と訳されているこの単語は、 「役に立つ、
または、 恵み深い」 という意味だそうです。 Young’ s Analytical
Concordance (ヤングズ分析用語索引) も、 この単語を to be
useful (役に立つこと) および to be beneficial (有益なこと) と定
義しています。 言い換えるなら、 愛は、 親切で恵み深く有益な行
動につながるということです。
本当の愛の目的は、 相手にとっての最善です。 このことを踏
まえれば、 本当の愛は寛容であるだけでなく、 優しく親切でなくて
はいけません。 優しさは、 厳し
「本当の愛は、
力強く正直だが、
さ以上に人の良い部分を引き
出します。 箴言15章1節に「柔
無情でも乱暴でもない。」
らかな答えは憤りを静める」 と
あるように、 実践的で有益な愛とは、 相手の欠点ではなく長所を
引き出す愛です。
やさしくて 「恵みに満ちて」 (ヨハネ1 : 14) いることは、 イエ
ス・キリストのような性質だと言えます。 イエスは、助けの必要な人々
に向かってこう言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのと
ころに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわ
たしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば
たましいに安らぎが来ます。
」
(マタイ11:28~29)
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歴史上、誰よりも強く、誰よりも愛に溢れたお方が、キリストです。
このお方は、 宇宙を創造する強さを持ち、 権力者たちの偽善と利
己主義に打ち勝つ知恵もお持ちでした。 にもかかわらず、 恵みと
まことに溢れておられました。
イエスは、 私たちに次のことを教えてくださいます。 愛には真
実が必要ですが、 優しさを伴わない真実は、 愛とは言えません。
愛には寛容が必要ですが、 親切を伴わない寛容は、 愛とは言え
ません。 本当の愛は親切です。
本当の愛は 「ねたみません。」
パウロは、 本当の愛は他人の成功や幸福をねたまない、 と言
います。 愛は、 「私の手に入らないものを、 あなたも手にしてはい
けない」 とは言いません。 むしろ 「私は、 あなたのように成功して
名誉やゆとりある生活を手にすることはできないけれど、 あなたが
そのように成功して幸せなので嬉しいです。 自分ももっと与えられ
ればとは思いますが、 あなただけがそんなに与えられるのはなぜ
だろうとは思いません。」 と言うのです。
ねたまないのは、 難しいことです。 多くの人は、 出世のチャン
スを奪われたり、 仕事の成果を十分に評価されなかったりという経
験を何度もしているでしょう。 また、 自分は日々の暮らしで精一杯
なのに、 他の人がどんどん裕福になるのを見てきたかもしれませ
ん。 イエスの弟子たちでさえ、 自分たちの中で誰が一番なのかと、
繰り返し口論していました。
この不公平な世の中で、 ねたまず、 忍耐と親切で愛すること
が簡単だとは誰も思っていません。 失業しても落ち込んではいけ
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ないとか、 人間関係につまずいても悲しんではいけないと、 聖書
が言っているわけではありません。 パウロは、 本当の愛があれば
落ち込んだり悲しんだりしない、 とは言っていませんが、 本当の愛
があればねたまない、 とは言っています。 もし、 私たちに本当の
愛があるなら、 自分は苦労して
「喪失の中にあっても、
与え主である神を信じ、
信頼し、 希望を託すなら、
いるのに他の人は悠々と暮らし
ている場合でも、 その人に悪
意を持ったりしません。
私たちは愛し続けることが
できる。」
どのようにすれば、 慈しみ
深く愛することができるでしょう。
キリストの御霊だけが、 それを可能にしてくださいます。 がっかり
することが起こっても、 前向きでいられる秘訣は、 天の父であり羊
飼いである恵み深い神を、 深く信頼することです。 がっかりするこ
ともあるでしょう。 不公平を経験して、 信仰と愛が試されるでしょう。
しかし、 神を信頼することを学べば、 たとえ置かれた状況に落胆
することはあっても愛することができます。
本当の愛は 「自慢しません。」
愛は自分の業績を自慢しません。 自分の成功をひけらかしま
せん。 言葉巧みに自己宣伝をしようとはしません。
この考え方は、 旧約聖書の中にあります。 ソロモン王は、 次
のように語りました。 「自分の口でではなく、 ほかの者にあなたを
ほめさせよ。 自分のくちびるでではなく、 よその人によって。」 (箴
言27 : 2) 簡単に言えば、 本当の愛は、 自分にスポットライトを
当てないということです。
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この愛の特性は、 ねたんだり嫉妬したりしないことの裏返しで
す。 嫉妬は、 人が持っているものを欲しがります。 自画自賛は、
自分の持っているものをひけらかして相手の嫉妬を誘います。 嫉
妬は相手を引き落とし、 自画自賛は自分を引き上げます。
本当の愛は、 他人の成功を心から喜ぶだけでなく、 自分に成
功が与えられたときに、 それをどう取り扱うかよくわきまえています。
私が聞いたところによれば、 逆境を乗り切れる100人のうち、 成功
しても自分を制することができる人は10人ほどだそうです。
この論理は、 激しい競争社会で生きている人たちに疑問を抱
かせます。 自己啓発の本によ
「愛は、 自分が低い立場に
あってもねたまず、
高い立場にあっても
自慢しない。」
れば、 他人を追い抜くために
は成功した人のような立振舞い
を身につけ、 自分の能力が目
立つようにうまく自己宣伝しな
ければならないと言われています。
「本当の愛は自慢しない」 という原則は、 クリスチャンにとって
何を意味するのでしょう。 求職中のクリスチャンが、 履歴書に自分
の長所を列挙し、 パリッとしたスーツを着て面接に臨み、 将来有
望だと思ってもらえるよう努力するのは誤りなのでしょうか。
米国メジャーリーグのフロリダ ・ マーリンズが、 ワールドシリー
ズ初出場を決めたとき、 マスコミは、 ジム ・ リーランド監督を賞賛
しました。 しかし、 リーグ初優勝を称えられたリーランド監督はこう
答えました。 「勝ったのは、 私ではありません。 私は1球も投げな
かったし、 ホームランも打ちませんでした。 ファインプレーをしたわ
けでもありません。 優勝したのは選手たちです。 私ではありませ
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ん。」 なんという謙虚な態度でしょう。 見ている人たちにとって、 謙
虚な勝利は、 潔い敗北と同様、 気持ちのよいものです。
本当の愛は 「高慢になりません。」 ここで使われている単語は、 「ふいごのように自分を膨らませ
る」 という意味です。 パウロは、本当の愛とは正反対の特質を 「高
慢」 という言葉で記述し、愛のないコリントのクリスチャンたちに 「一
方にくみし、 他方に反対して高慢にならないためです。」 (Ⅰコリ
ント4:6) と書き送っています。 この部分では、 コリントのクリスチャ
ンは自信過剰で、 他の人たちの痛みを感じようとしないことが言及
されています。 また、人の援助を謙虚に受けようとしない高慢さは、
援助すべき人がいるという事実から目をそむけさせることも示して
います。
近代の福音宣教の父と呼ばれるウィリアム ・ ケリーは、 謙った
愛のすばらしい実例です。 彼は優れた言語学者で、 34にも達す
る言語や方言の聖書翻訳に尽力しました。 しかし、 彼は自分の出
発点が身分の低い家庭であっ
「自分は大切な人物だという
感覚が増大していくなら、
たことを心に留めていました。
自分の意見を反映する
声だけを聞き、 自分の関心
を反映させるものだけを
見るようになります。」
生まれ、 若い頃は靴修理の仕
彼は、 イギリスの庶民の家に
事をしていました。 福音宣教を
志してインドに渡ったとき、 彼
の身分の低さと前職は人々の
嘲笑の的でした。 ある晩餐会に招かれたとき、 出席者のひとりが
彼の身分に賓客の注意を引こうとして、 「ケリーさん。 あなたは昔、
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靴職人だったそうですが。」 と質問しました。 すると、 ケリーはこう
答えました。 「いいえ閣下。 靴職人ではありません。 ただの靴の
修理屋です。」
自分を過大評価している高慢な人は、 自分の気持ちや自分
の意見、 自分の幸福や自分が得をすることばかりを気にかけます。
高慢な人は、 人の気持ちや人の必要を平気で無視します。
新約聖書は、 本当の愛は自分の必要を無視する、 とは教え
ていません。 ただ、 自分の利益が他人の利益以上に大切ではな
いことを忘れないようにと教えます。 私たちの優先順位が自分や
自分の家庭である場合が多いのは仕方のないことですが、 自分た
ち以外の人の利益やその人たちの家庭についても心を配るべきで
す。
自分だけが大切だという感覚になっているかどうかを知るため
に、 最初に目をつけるべきものは祈りです。 あなたは、 自分の生
活や自分の仕事の祝福だけを祈っていますか。 自分の配偶者や
子どものために祈っていますか。 また、 他の人のためにも祈って
いますか。 自分や自分の家族が健康で豊かな生活をすることが、
隣人の生活以上に大切だとは言い切れません。 本当の愛は、 そ
んな高慢を許しません。
本当の愛は 「礼儀に反することをしません。」 この聖書個所は、 「不作法をしない」 (口語訳) 「礼を失せず」
(新共同訳) と訳されています。 この単語が登場する新約聖書の
個所は他には1ヶ所だけで、コリント人への手紙第一7章36節 (口
語訳 ・ 新共同訳) です。 ここは未婚の男女の関係について書か
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れているところですが、 パウロは神に献身することが一番大事だと
強調しながらも、 もし男女が性的欲望にかられたなら、 「ふさわし
くないふるまい」 (新共同訳) をせず結婚すべきだと言っています。
7章の 「ふさわしくないふるまい」 と13章の 「本当の愛」 は、 ど
のように関係しているのでしょうか。
本当の愛の特性は、 相手
「本当の愛は、
愛を証明するために
に対して不当な要求をしないこ
とです。 交際相手に 「愛して
正しくないことでも
してほしい、 と相手に
要求したりはしません。」
いるなら、 証明して欲しい」 な
どとは言いません。 本当に愛し
ているなら、 その人に嘘をつか
せたり、 その人のものを奪ったりしたいとは思わないはずです。
「礼を失わない」 ということは、 兄弟愛を口実に、 相手の良心
や信条に反することをさせたり、 神が定められた道徳に反すること
をさせたりしないことです。 どれほどの不当な要求が、 愛という名
のもとに、 夫や妻、 子どもたち、 若者、 教会員になされてきたか、
神はご存知です。 最も悪質な性的虐待、 ぞっとする隠蔽行為や
秘密主義が、 家庭や仲良しグループ、 様々な組織や団体の中で、
愛の名のもとに行われたのです。
パウロは、 本当の愛は間違ったことをやらせようと圧力をかけ
たりはしないと語ります。 本当の愛は、 相手の最善を考えます。
自分の利益や快楽を求めたり、 相手を操ったり支配することは望
みません。
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本当の愛は 「自分の利益を求めません。」 無私無欲について説明するとき、 パウロはこの表現を最も好
みました。 自分の利益を求めない人とは、関心が外向きの人です。
そのような人は、 自分のことに集中しすぎないので、 他の人の必
要や利益に心を配ることができます。
パウロは、 ピリピ人への手紙2章でも、 この愛の原則について
言及しています。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましが
あり、愛の慰めがあり…何事でも自己中心や虚栄からするこ
となく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と
思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧み
なさい。」(ピリピ2:1、3~4)
これらの記述は、 キリストを信じる人たちの心がひとつになる
ようにと、 パウロが心から願っ
「私たちを救うために
天国を去って
来てくださったお方以上に、
ていたことを表しています。 し
かし、 それが夫婦であれ、 親
子であれ、 教会内やその他の
究極の無私の愛を示す
実例はありません。」
どんなグループの人間関係で
あっても、 自分たちの思いだ
けでなく他の人たちの気持ちに配慮しなければ、 クリスチャンの心
がひとつになることはありません。
自己犠牲は、 私たち人間の持って生まれた性質とは相反した
行為です。 それは、 キリストの心 (ピリピ2 : 5) です。 キリストは、
ご自分を低くされました。天の御座を去って限界のある人間になり、
ご自分を拒む者たちの僕となられました。 ご自分を見捨て逃げる
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弟子たちの足を洗い、 ご自分のいのちを捨てる価値などない人間
の罪をあがなうために、 十字架にかかって死なれました。 本当の
愛の実例を、 このイエスの他に見つけることができるでしょうか。 イ
エスは、 自分のことを通り越して他の人のために尽くす、 本当の
愛の姿を見せてくださいました。
本当の愛は 「怒りません。」
パウロが本当の愛を定義するために使った次の言葉は、 簡単
にイライラしたり、 とげとげしくなったりしないという意味です。 言い
換えれば、 すぐキレないことです。 これは、 愛の第1番目の原則
である 「寛容」 に似ています。
私たちは、 この愛の特徴を簡単に忘れてしまいます。 夫婦は、
結婚してわずか数年で、 相手にカッとしやすくなります。 親は苛
立つと、 子どもを怒鳴りつけます。 職場では、 当然の権利が奪わ
れたと、 従業員がさわぎます。 公務員が汚職をすると、 人々はひ
どく怒ります。
なぜ、 私たちは 「ムカつく」 のでしょう。 私たちは、 ときどき
腹の中が煮えくり返るという経験をしますが、 それは欲しいものを
欲しいときに手にしようと主張しているのに、 「後で」 などと応じら
れるからです。 癇癪は、自己中心性の確固たる証拠です。 しかし、
逆の例もあります。 自分本位が理由で怒っているのではなく、 愛
のために憤りを感じるというときです。 使徒の働き17章16節がそ
の例です。
「さて、 アテネでふたりを待っていたパウロは、 町が偶像でいっぱい
なのを見て、 心に憤りを感じた。」
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この場合、 パウロの怒りは愛によるもので、 当然とも言えまし
た。 パウロは、 シラスとテモ
テを待っているうちに、 アテ
ネの偶像崇拝について見聞
きしました。 そして、 人々が
「イエスの愛が示す模範とは、
怒らないことではなく、
簡単には怒らないことです。」
似非宗教にだまされ傷つけられていると思うと、 心の中に怒りがじ
わじわと湧き上がってきました。
もうひとつ例を見てみましょう。 イエスは宮の両替人のテーブ
ルをひっくり返されましたが、 そのとき、 心の底から怒っておられ
ました。 愛に満ちたイエスは、 「祈りの家」 にあった異邦人の庭を
台無しにしてしまった商業主義を怒られたのです。 イエスは、 祈
るための静かな場所を奪われた異邦人を気の毒に思っておられま
した。 愛が欠けていたために過剰に反応されたのではありません。
むしろ、 愛に溢れていたために、 神が愛しておられる人々を困ら
せる悪習慣を怒られ、 あのように行動されたのです。
アテネのパウロやイエスの宮きよめの行動は、 怒るべきときも
あると私たちに教えます。しかし、怒りは愛をもって示さねばならず、
怒っても罪を犯してはいけません (エペソ4 : 26)。
本当の愛は 「人のした悪を思いません。」 パウロは、 無視することを奨励しているのではありません。 「見
ざる、 言わざる、 聞かざる」 という伝説上の猿を模範にしているの
ではありません。 ここで使われている単語は、 経理の専門用語で
「統計する」 とか 「帳簿に書き込む」 という意味です。 また 「悪」
とは、 他人から受けた傷を意味します。
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「人のした悪を思いません」 と言うとき、 それは、 仕返しをす
る目的で傷つけられた記録をとどめておかないことを意味します。
別の言い方をすれば、 本当の愛は、 たとえ相手が悪くても、 その
人に対して長年、 恨みを持ち続けたりはしません。 借りは返しても
らおうと相手の間違いを記録し
「本当の愛には、 悪の
入り込む余地など
つづけるなら、 自分の借りも払
いきれないほど大きくなるでしょ
ありません。」
う。 私の教会には、 25年間も
絶交している人たちがいます。 残念なことに、 この人たちは、 違
いを乗り越えて和解しようとは思っていません。
自分の罪を認めて赦しを請う人を赦すとき、 人は最も神に似
せられると言われますが、 もしそれが本当ならば、 自分の間違い
を認めて哀れみを請う人に遺恨を持ち続けるなら、 私たちは、 自
分を救ってくださった神から最も遠いところにいるのです。 相手の
失点を覚えておくのはスポーツではよいことですが、 愛を実践する
ためにはよくないことです。
本当の愛は、相手の間違いを記帳したりしません。 というのは、
神が自分とともにいて、 すべてを与えてくださると安心しているから
です。 すべての結末は、 神の御手の中にあると知り、 また、 私の
必要は神に知られていると信じているなら、 他人の落ち度を自己
防衛のために記録する必要はありません。
本当の愛は 「不正を喜びません。」
愛は、 自分の主張を押し通そうとイラついたりしません。 また、
不親切をせず、 ねたまず、 見栄を張ったり自己宣伝したりせず、
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礼を失せず、 利己的でなく、 遺恨を持ち続けず、 短気を起こしま
せん。
愛は不正を喜ばないとは、 前述のまとめです。 パウロは、 「神
が悪いことだと言われることは愛ではない」 と述べているので、 他
の人が道徳的に失敗したことを密かに喜ぶのは、 愛ではありませ
ん。 暴かれるべき悪を隠すことが愛ではありません。 他人の失敗
を井戸端会議のネタにするのは愛ではありません。 自分は情報通
だと吹聴したり、 単調な会話を弾ませたりするために他人の恥を
話題にすることは愛ではありません。 誰かが罪を犯したという話は、
関係者のきまり悪さや苦しみをあおらないように、 人々の益になる
ような形でしか語られるべきではありません。
アイルランドの作家オスカー ・ ワイルドは、 冗談半分にこう言
いました。 「私は、 信条より人間が好きです。 そして、 信条を持た
ない人が、 世の中で一番好きです。」 このような言葉を聞くと、 私
たちはニヤッとします。 そ
れ は、 道 徳 的 な 信 条 よ り
も罪のほうが愉快だからで
す。 パウロが記述している
愛は崇高に聞こえますが、
短期的に見るなら、 苦痛
「本当の愛は、 浮かれて
蒔いた悪の種が、
良心の呵責に苛まれる
深刻な結果を
生むということを知っています。」
に思えます。 しかし、 本当の愛は、 長期的な視点に立って、 罪
の害を心配します。 罪の報いの苦悶を思うなら、 悪を歓んでいる
わけにはいきません。
本当の愛は、 浮かれて蒔いた悪の種が、 良心の呵責に苛ま
れる深刻な結果を生むということを知っています。 罪は、 私たち
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から機会や利益を奪ってしまいますが、 事の発端は軽率さや愚か
さです。 「みんなもやっている。」 と言って蒔いた種は、 いつの日
か、別離や孤独という果実になることを、本当の愛は知っています。
罪をそのままにすれば、 大切な時間が失われるだけでなく、 たま
しいが永遠に滅びてしまう可能性さえあります。
本当の愛は不正を喜びません。 それは、 今だけでなく将来を
も心配しているからです。 悪は無邪気ないたずらではありません。
本当の愛は、 そのことを知っています。
本当の愛は 「真理を喜びます。」
パウロは 「愛は不正を喜びません。」 と言いました。 では何を
喜ぶのでしょう。 その答えは真理です。 では、 なぜ 「正しさ」 で
はなく 「真理」 なのでしょう。 パウロが 「真理」 という言葉を選ん
だ理由は、 正しさと真理の本質的な関係にあると思われます。
パウロは、 テサロニケ人への手紙第二の中で、 「真理を信じな
いで、 悪を喜」 ぶ者は裁かれる (Ⅱテサロニケ2: 12) と述べて
いますが、 この言葉は、 「愛は真理を喜びます。」 の意味を解き
明かす手がかりになります。 す
「悪を喜ぶ人が、
真理を信じない人です。」
なわち、 パウロは、 あることを
信じることとある行動をすること
の間には、 深い関係があると指摘しています。 つまり、 何を信じ
るかが、私たちの行動を決定します。 同時に、やりたいと思うことが、
信じたいと思うことを決定するのです。
聖書が正しい信仰を強調しているのは、 このためです。 良い
教理とは、 神について、 私たち自身について、 他者についての
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正しい教えのことです。 正しい教えは、 自分を欺いて人と係わる
のではなく、 真理の中でお互いを愛するように導いてくれます。
すべての悪は、 真理を否定します。 間違った行為の根は、
現実に対する誤信です。 すべての不道徳は、 自己欺瞞に起因し
ています。 自己欺瞞とは、 次のことです。 それは 「自分のことは
神以上に私自身がよく知っている。 周りの人のためにどうすればよ
いかについても、 神以上に知っている」 と言うことです。
結婚前の交際相手と性的な関係を持とうとするのは、 本当の
愛ではなく不誠実です。 真理についての嘘を信じることで、 人は
殺人や強盗を犯し、 人を欺し、 嫉妬し、 噂話をします。 結婚して
いない大人の男女が合意の上で性的関係を持ったとしても、 誰に
も迷惑をかけていないというのは、 自己欺瞞です。
パウロが愛は 「不正を喜ばずに真理を喜びます。」 と語ったの
は、もっともなことです。 不正の反対は、単なる正義ではありません。
正しくないことの反対は真理です。 人と良い関係を築くことを可能
にしてくれるものは、 人の欠点をあげつらうことではなく、 真理を
信じることです。 それは神について、 人について、 そして自分自
身についての真理です。 真理に背を向ければ、 私たちは自滅し
ます。 勇気を出して正しく、 忍耐強く、 誠実に生きるなら、 私たち
は、 自分よりうまくやっている人たちのことをも喜ぶことができます。
それが、 本当の愛です。
本当の愛について説明するために、 パウロは、 真理と正義と
いう基礎を据えました。 いよいよ、 仕上げにかかります。
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本当の愛は 「すべてを我慢します。」 ギリシャ語で 「我慢する」 という言葉は 「屋根」 を意味します。
愛は、 屋根が嵐から家を守るように、 愛するものを守ります。 周り
の状況がどうであれ、 相手の益のために我慢して働き続けます。
失敗の雨も逆境の風も、 失望の嵐も我慢します。 愛は極寒の冬
や酷暑の夏を避ける屋根です。 最悪の状況に耐え得る避け所で
す。
人は不完全な世界に生きていますから、 辛く厳しい現実に直
面します。 そんなことがないように私たちを守ることは、 誰にもでき
ません。 また、 間違った選択
愛は最悪の状況に耐え得る
避け所です。
をすれば、 その先には良くな
い結末が待っています。 その
現実から私たちを救うことは愛にもできません。 しかし、 愛は傷つ
き疲れはてた人を思いやり、助けてくれる友だちを与えます。 愛は、
悔い改めの心を持たない人にさえ、 とりなしの祈りをする人を与え
てくれます。 愛は、 どんな悪い人にさえ、 悔い改めるチャンスを
与えるのです。
ここで間違ってはならないことは、 「すべてを我慢します」 とい
う意味が、 雑巾が汚いものを拭うように自分に向けられたすべて
の罪を我慢することではないということです。 その意味は、 愛は相
手の最善を願うことを止めず、 相手から赦しのチャンスを取り上げ
ないということです。 愛があるなら、 相手を憎んだり、 軽蔑したり、
否定したりしません。 愛は思いやり深く祈りつづけ、 相手の失敗を
忍耐し、 はっきり物を言うべき時は言い、 悔い改めれば赦してあ
げます。 このようにして、 相手を思いやるのです。 この愛を、 屋
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根のイメージで説明する限界が、 ここにあります。 つまり、 この愛
は、 消極的な愛ではないからです。 この愛は、 積極的な愛です。
相手の出方によってリードしたり応答したりと適切に変化する活力
に満ちています。 愛の本質は変わりません。 しかし、 相手にとっ
てすべてが益となるために、 愛の戦略は常に変化しています。
本当の愛は 「すべてを信じます。」 この説明から受ける第一印象は、 愛する人は単純でだまされ
やすいというものです。 しかし、 パウロの考えは違います。 また、
疑わしい言動をいつも好意的に理解してあげなさいというわけでも
ありません。 愛情深い教師やコーチ、 カウンセラーや友人は、 真
相を突き止めるためにむしろ疑い深くなるべきです。
パウロは、 愛しているなら相手の言うことを盲目的に信じなさ
い、 とは言っていません。 そうではなく、 信じることと愛することに
は喜ばしい基本的な関係があ
「本当の愛は、
信仰の上に立脚し、
そこに根を下ろしています。」
ると言っているのです。 本当の
愛は、 神を信じることからエネ
ルギーを得ています。 コリント
人への手紙第一13章は、 この真理を教えてくれます。 神が語ら
れるすべて、 つまり、 神、 そして、 私自身や私と他者について神
がお語りになる 「すべて」 を信じる、 という信仰の上に、 本当の
愛が育まれていくのです。
もし、 神の愛を疑うことがあるならば、 私たちはお互いに愛し
合う動機を失います。もし、神が寛容で親切であることを疑うならば、
お互いに寛容であり親切であることは難しいでしょう。 もし、 神が
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生活の必要を満たしてくださることを疑うならば、 人に気前良くしよ
うとは思わないでしょう。
キリストのように愛することを理解するために、 「愛はすべてを
信じる」という真理は、大切です。 本当の愛は、信仰の上に立脚し、
そこに根を下ろしています。 信仰は聖書に記された神のみことば
に立脚し、 そこに根を下ろしているのです。
神への信仰がなければ、 愛はあきらめて死んでしまいます。
神が語られた 「すべて」 を信じつづけないかぎり、 私たちの愛は、
人生における侮辱や拒絶、 そして失望を生き抜くことができませ
ん。 神のみことばの上に私たちの愛の基礎を据えないかぎり、 愛
は敗北してしまいます。 神を信頼してこそ、 愛は強くありつづける
のです。
本当の愛は 「すべてを期待します。」 これは前文から自然につづくものです。 神のみことばと神の御
計画を信頼して生きるなら、 当然、 すべてを期待することができま
す。 神の恵みを信頼するとは、 人間が失敗しても、 それで終わり
ではないと信じることです。 本当の愛が 「期待する」 理由は、 神
が人の人生に働きかけられるからです。
パウロは、 無分別に何でも信じなさいとは言っていませんが、
聖書の神を信じる人たちだけが、 愛することと期待することの健全
な土台を持っていると言っています。
詩篇の作者は、「私の望み、それはあなたです。」 (詩篇39:7)
と神に語りました。 パウロは、 「希望は失望に終わることがありませ
ん。」 (ローマ5 : 5) と言っています。 また、 ペテロは、 次のよう
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に記しています。 「イエス ・ キリストが死者の中からよみがえられた
ことによって、 私たちを新しく生まれさせて、 生ける望みを持つよう
にしてくださいました。」 (Ⅰペテロ1 : 3)
これが愛の力です。 愛のエネルギー源は、 移ろいやすい感
情や時々の状況ではなく、 神に対する深い信頼と大きな希望にあ
ります。 本当の愛は 「あなたがたの中におられるキリスト、 栄光の
望み」 (コロサイ1 : 27) によって、 いつも新しくされながら、 人
生を前向きに生きています。
本当の愛は 「すべてを耐え忍びます。」
本当の愛が、 正しいことを信じ、 正しい希望を持つという前提
で、 パウロは 「愛はすべてを耐え忍ぶ」 と言っています。 愛につ
いての話を締めくくるために、 「耐え忍ぶ」 という単語が選ばれま
したが、 これは13章4節の 「寛容」 と同じ意味を持っています。
本当の愛を説明するために、 パウロはこのふたつの単語の違
いを上手に用いています。
4節の 「寛容」 は長く耐えるという意味で、 自分を迫害する人
さえ恨まずに耐え忍ぶということが焦点になっています。 一方、「す
べてを耐え忍ぶ」 というときに
「愛はあきらめません。
途中で投げ出したり、
逃げ出したりしません。
強調していることは、 人生のい
ろいろな状況に対してどう応答
すべきかという点です。 愛はあ
すべてを耐え忍び、
最後まで我慢します。」
きらめません。 途中で投げ出
したり、 逃げ出したりしません。
「すべてを耐え忍び」、 最後まで我慢します。
決して忘れることのできない光景があります。 それは、 1984
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年のロサンゼルス ・ オリンピックの女子マラソンを走ったスイス人選
手の光景です。 他の選手たちがゴールに入り、 かなり長い時間が
経過してから、この選手は競技場によろめきながら入って来ました。
立っているのがやっとという状態で、 歩いたり走ったりすることなど
不可能のように見えました。 しかし、 ゴールするにはトラックを一周
しなければなりません。 私は、 限界に達し、 今にも倒れそうなこの
選手の姿を見つめていた自分を思い出します。 同時に、 そこにい
た観客が総立ちで、 何としても完走するようにと、 彼女を応援した
ことも覚えています。 最後の直線コースにさしかかったとき、 彼女
のコーチがすぐ横を歩きだしました。 失格にならないように、 彼女
にさわらないように注意深く歩きました。 ついに、 ゴールラインを
越えると、 彼女はコーチの腕の中にくずれ落ちました。 ほとんど無
意識の状態でした。
何という素晴らしい忍耐の姿でしょう。 こういう忍耐こそ、 コリン
ト人への手紙第一13章が語る愛のしるしです。 本当の愛は、 耐
え忍びます。 苦しみに遭ってもあきらめず、 耐え忍びます。 ゴー
ルすることには大きな価値があると知っているからです。
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決して絶えることのない愛
結婚式をあげる若いカップルは、 永遠の愛にあこがれます。
しかし、 パウロがコリント人への手紙第一13章で述べている愛な
くして、 このような愛は存在しません。 パウロは、 これらの思いを
8節の 「愛は決して絶えることがありません」 という一節で強調し、
愛についての議論を終わらせています。
本当の愛は逆境に強く、 生き残ります。 なぜなら、 その源は
神であり、 そのいのちも神にあるからです。 本当の愛は、 どんな
ことにも耐えるのです。
パウロは、 他のもの (預言、 異言、 知識) は一時的で不完
全なので頼りにならないと明言しています。 しかし、愛は違います。
神の力と恵みによって、 ど
んな状況をも生きのびるの
です。 本当の愛は、裏切り、
疑惑、 道徳的失敗、 そし
て 失 望 を も 乗 り 切 り ま す。
「なぜなら、 その源は神であり、
そのいのちも神にあるからです。
本当の愛は、 どんなことにも
耐えるのです。」
敵対する人たちや侮辱、 嫉妬を乗り越えることもできます。 逮捕
や拉致、 監禁されても滅ぼされません。
その人が間違った選択をしたために以前のように付合えなく
なった人がいたとします。 しかし、 神の愛は、 相手の人のために
祈り、 何かできることがあったなら、 私たちがその人のために働く
よう導いてくださいます。
その愛は、 キリストの心を反映する愛です。 そして、 人生にす
ばらしい転換がもたらされます。 それこそが、 本当の愛です。
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どこに愛を見つけることが
できますか?
もしあなたが、 「どこに本当の愛を見つけることができますか。」
と心から尋ねているのなら、 良い知らせがあります。 あなたは、 す
でに愛されています。 聖書のもっとも有名な一節はこう語ります。
「神は、 実に、 そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。
それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを
持つためである。」 (ヨハネ3 : 16)
信じる人たちに対して、 キリストは神の愛の広さを述べられまし
た。 弟子たちに、 次のように言われました。 「そういうわけだから、
何を食べるか、 何を飲むか、 何を着るか、 などと言って心配する
のはやめなさい。 こういうものはみな、 異邦人が切に求めているも
のなのです。 しかし、 あなたがたの天の父は、 それがみなあなた
がたに必要であることを知っておられます。 だから、 神の国とその
義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、 それに加えて、 これ
らのものはすべて与えられます。」 (マタイ6: 31~33)
人を愛することにはリスクが伴いますが、 このように愛されてい
るなら自分の立場は安全だと信じて、 リスクを顧みることなく愛する
ことができます。
あなたは、 自分を愛してくださるキリストに出会いましたか。 こ
のお方と知り合い、 このお方の愛を受け入れるために、 第一歩
を踏み出しましたか。 キリストに自分をゆだねる決心をしましたか。
聖書は、 あなたの罪のためにキリストは十字架で死なれた、 と語り
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ます。 このことを信じますか。
ここが出発点です。 自分の罪を自覚し、 キリストが自分の人生
にとって必要不可欠だということを理解しましょう。 キリストは失われ
た人を捜して救うために、 この世に来られました (ルカ19 : 10)。
このキリストに、 神の愛を見出します。 そして、 このキリストに、 パ
ウロが語る本当の愛を実践する人生を見ます。 キリストは、 単に高
い道徳基準を目指して生きるようにと私たちに促しておられるので
はありません。 むしろ、 私たちの人生の中にご自身を現わそうと、
私たちを招いておられるのです。
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