株式 会社 誠行社 【巻頭言】 〈巻頭言〉 首都圏の生活環境は大きく変化していった。新しい所帯の家庭 には信仰の拠り所となる、神棚や仏壇が祀られることも少なく なってきた。このことは人々の心のあり方に、大きな変化をも たらしてきた。 ヤカーで、榊や仏花を売り歩いてきた。 花は限られた量であったから、毎月の中日や末頃には花屋がリ 景であった。多くの家では自宅前の空き地や、どぶ板の上の植 なに、ご先祖様に手を合わせていたのがごく普通に見られる光 つい戦後の時代まで、東京でも多くの家庭で長屋住まいのよ うな狭い家も多かったが、そこにも神棚や仏壇を祀り、朝な夕 現代の高齢者が孤独な終末期を迎える社会とは、一八〇度異な 時間の縦糸と地域社会との横の糸の繋がり、それらが織りなす ていると思う。 現代社会は非常にめまぐるしい変化の時代だが、かつての日 本人の生活は悠久な時の流れと地域の人々との関わりのなかで、 して暮らしている。それは先祖に対する尊敬と思慕がそうさせ ぎ、代々の先祖がやってきた習慣を出来るだけ忠実に守ろうと 東京下町に生きる、 土俗的信仰の名残り 私は、昭和二一年に東京の葛飾区に生まれた。東京とはいえ 戦後すぐの時代のこの地域は、長閑な農村の面影を色濃く残し、 明治から昭和にかけて戦争や天災による大きな不幸の連鎖が 続き、大抵の家ではそれらの犠牲者が祀られていた。私が育っ る世界であった。現代は戦後教育の影響や高度経済成長にあっ 杉浦 昌則 七代前の先祖(七代は、この土地では新参者の部類である)が た昭和二〇年代は、そんな時代背景のなか、物のない戦後生活 て、個人の自由が叫ばれ、自己を中心とした生き方や考え方を 建てた家に私も暮らし、幼児期は江戸時代の習俗と大して変わ であったが、大人も子供も今よりもずっと笑い声に満ちた生活 尊重する生活の結果、老齢になったその時、反動となって孤独 世界の上に自分の立ち位置を実感し、存在を示してきたと思う。 らない生活を踏襲していたと思われる。今私はその家の跡を継 であったと思う。テレビがない分、一家の団欒や客人のもてな や諦めの高い代償を払わされているような気がする。 木鉢にも、仏様の切り花用に花が植えられていた。育てられる しも、全ては会話が暮らしの中心であった。 今日では、核家族化、少子化、地方からの人口の流入など、 -3- 【巻頭言】 超えてその悲しみが私の心に繋がっている。 とりあえず良いということになる。 宗旨は浄土真宗大谷派で、 「南無阿弥陀仏」だけ唱えていれば、 古風な造りつけの仏壇をこしらえた。立った姿で拝む形式だ。 の生家や父が建てた家もそうであったように、建築屋に頼んで 朝は、朝食の前に必ず仏壇に向かう。私の家は築後二〇年経 つが、現代風の唐木仏壇のような据え置きの仏壇ではなく、私 ば、神棚が東向きで祭られている。欅の五尺板に、白木の三社 の仕事と決まっていた。 昔から仏壇のお世話は、女衆(おんなし) したがって花の水かえや仏飯、温かいお茶の献上は、私の妻の 体で捉えて受容するだけである。 ていく。自分の死もその自然の摂理のなかのことと、ごく自然 者であると実感する。しっかり生きて次の世代に無事襷を繋げ 一、私の毎日の習慣 仏壇とは御本尊に帰依し、信仰を表わす所であるが、家族に とっては先祖供養の場としての役割の方が重たい。掛け軸や御 宮が鎮座している。氏神の神社から毎年暮れになると配られる 」という伝統に生き、毎日ご先祖にご挨拶をしていると、 「家 たすき 私は孤独なランナーでは決してなく、襷を受け継いだ駅伝の走 仏像から一段下がった段に、繰り出し位牌が三基並んでいる。 お札の「天照皇大神宮」を真ん中に、氏神である「細田稲荷神 名が「童子」や「童女」となっているのは、飢饉で幼児が犠牲 政三年(一七九一年)とある。天明の大飢饉のあと、三人の戒 線香を焚き「南無阿弥陀仏」を唱える。一番古い仏さんは、寛 私はお寺さんの許可も得ず勝手に過去帳をこしらえて、毎日 めくって命日(日付)のご先祖さんがいれば、法名で呼び掛け、 れるべきはご先祖の霊である。 入って最初に仏間に行きお線香をあげる。我が家で最も尊崇さ 嫁、そして七人の孫がいるが、我が家を訪問する際は、玄関を を記した白木の板が納められている。私には三人の息子とその 州、掛川の火の神、秋葉神社のお札も貼っていた。千葉県市川 はり氏神様から来る「竈土大神」のお札を祭ってある。昔は遠 ここにも柏手を打って礼をして終わる。小さな荒神宮には、や は台所(キッチン)に行き、荒神様の一本松の水換えをして、 水を供え、 家長の役目である。毎朝の新(あら) 神棚のお守りは、 さかき 榊の水を換え柏手を打つ。仏壇、神棚へのご挨拶のあと、最後 のお札を毎年祭っている。 賛会」の会員になっている。ここから送られて来る「靖国神社」 とになっているが、私は叔父が戦死しているので「靖国崇敬奉 社」を右側に納めてある。左側には自分が尊崇する神を祭るこ けやき 役割である。仏壇は南向きで、そこから九〇度顔を左に向けれ その箱位牌の中に、この家で亡くなった二二人のご先祖の法名 になった結果であると思う。私は七代あとの子孫だが、時空を -4- 【巻頭言】 榊や荒神松がたくさん売られているのを見ると、これらを祭っ 現代では神棚や荒神宮を祭る家の割合は、昔から見ると随分 少なくなっていると思うが、毎月の月末には花屋や園芸店で、 はない。竈はまさに神の宿る場所である。 であり、しかし一歩扱いを間違えると、これほど恐ろしいもの う。屋根の下で焚く火は、最も神聖かつ煮焚きや暖の生活の礎 は困難を極め、今よりもはるかに火事は恐怖であったろうと思 まってない。かつての古の時代は、一旦火災が発生すれば消火 したお札が、各氏子に配られていた。その慣習も今は廃れてし 市行徳の地に秋葉様の分社があり、氏子の代表がまとめて拝領 を用意する。春のお彼岸には牡丹餅、秋のお彼岸にはお萩、農 荷さんなので「初午祭」で稲荷寿司や五目ちらしなどのご馳走 正月のおせち料理が終わると七草粥、一六日は藪入りで小豆 と続く。氏神様がお稲 粥、二月の最初の午の日は初午(はつうま) 反対側で共食することになる。 て箸は両端が細く削られ、家族が食べるのと同時に神様も箸の お迎えし、おせち料理を揃えておもてなしをする。正月に限っ (よりしろ) となりお盆にお迎えする 新しいご先祖は仏壇が依代 が、年期法要が済んだ古いご先祖は、正月に年神様と共に家に (なます) を供える。この正月時期の神事は、家長が全てを仕切る。 し蕎麦を供える。三が日は朝にお神酒とお雑煮。昼には大根膾 は主に子供の仕事で、先方からのお駄賃欲しさにお使いをする。 かまど ている家はまだ相当数、存在しているということになる。 の葉を乗せ、胡麻塩を添えて近隣の親戚に配って歩く。配るの の付いた竹が刺さっている。それと節分の豆まきの日に飾っ で) 秋祭の後は一一月に親鸞生誕にちなんで菩提寺での報恩講と続 繁期が終われば氏神の例大祭で、赤飯を炊き重箱に詰めて南天 夕刻には仏壇・神棚・荒神宮にはそれぞれに灯明を灯す。 私 の 家 の 玄 関 ド ア に は、 大 晦 日 の 悪 魔 払 い に 使 っ た 紙 垂(し た柊の葉と、鰯の頭がミイラ化して一年を過ごす。中々奇異に く。 映るかもしれないが、私には幼児の時代から見慣れているごく ひいらぎ 当たり前の風景である。玄関から入ろうとする魔物・鬼(亡者) 農耕の節目にご馳走で栄養を摂り体力を維持してきたのは、 平素から質素倹約の政令と貧しさの中で、肉も魚も滅多に食せ の悪霊をここでブロックする。 私の母が早くに亡くなり、中断した食の行事や習慣もあるも のの、私の家では現在も妻が手作りの伝統を息子の嫁達に教え ない江戸の農民の、生活の知恵と楽しみであったと思う。 寺から住職をお迎えしてお教をあげてもらう。正月は神様と古 込んでいる。 仏事は、春秋二度のお彼岸に親類が集まる。それとお盆は東 京でも旧家は八月に行う。仏壇を提灯やお供え物で飾り、菩提 いご先祖の祭りで、年の暮にお供え餅を飾り、大晦日には年越 -5- 【巻頭言】 りにある駅は、今でも「両国」と称す。時代が下がり文化・文 された。その舟を見ると畳二畳くらいの狭い船室に、小さな神 の展示があり、明治・大正期の頃の水運舟の復元モデルが展示 ある。数年前に「葛飾区郷土と天文の博物館」で、 「江戸の水運」 干人も雇って葛飾と隅田川を往復していた。「半農・半舟」で あった。祖父と父はトラックのない時代、手漕ぎの運搬舟で若 私が生まれたのは終戦の翌年である。父母、祖父母に加え、 兄が四人と姉と妹が一人ずつの七人兄弟。全部で一一人家族で ても、下総でもないが江戸市民でもないような半端な位置づけ していた。したがって将軍直轄領として、鷹狩りの狩り場とし 江戸時代に現在の葛飾・足立・江戸川区地域は、江戸城や江 戸屋敷の穀倉地として、米や生鮮野菜の一大供給地として機能 や浅草に出かけるときは「東京に行ってくる。」と称していた。 頃の近隣の年寄りは、自分を「都民」と思っていなくて、上野 私自身は生まれながらの東京都民と思っているが、私が小さい 政期の「新編武蔵国風土記稿」では、武蔵国細田村となってい 棚を祀っているのが印象的だった。祖父の話では舟に泊まる夜 の中で暮らしていたように思う。明治一〇年生まれの祖父の戸 二、地域と信仰生活 に、暗いランプの下で講談本を読みあさり、後年すっかり目を 籍では、東京府下南葛飾郡奥戸村大字細田の出生となっている。 多くは初代の名を「○○どん」と、代々引き継いでいくことに 分からないので、どこの家もお互いを屋号で呼び合ってきた。 ると、どちらを向いても「杉浦」だらけである。名字だけでは にへっついと称するかまど。荒神様を祭り、土壁に竈の神を祭 田の字の間取りである。入り口の大戸を入った所は土間で、右 当時の家の間取りはどこの家も同じ造りで、上から俯瞰すれば 私の生家は初代の「重治郎」という人が建てたものだが、私 が一〇歳のころ、隣家の火事の類焼で全焼してしまった。その うなものだ。 「 府 下 」 と は 東 京 府 の 下 に、 お 情 け で 仲 間 に 入 れ て も ら っ た よ るので、千葉県からいつの間にか東京になったようなものだ。 悪くしたと言っていた。 徳川家康が江戸幕府を開いたときに、私の「杉浦姓」は愛知 県三河地方に多い名字で、その頃江戸の湿地帯の開墾に人夫と なる。 間に続き、窓の近くに囲炉裏が切ってある。この板の間に神棚 して連れて来られたと考えられる。我が家の菩提寺の墓石を見 徳川の時代当初「江戸」とは葛飾から見て、隅田川の向こう 側の地域のことで、奈良・平安の律令時代、隅田川から現在の と仏壇がある。一番奥の座敷は床の間で、成田のお不動さんと り、秋葉神社のお札が貼ってある。すぐ左側の上がり框は板の 江戸川の間の地は下総国に属し、川向こうは武蔵国で川のほと -6- 【巻頭言】 細田の村(町とは言わなかった)には、お寺が二か所と氏神 の細田神社があった。毎月、月が変わると祖母に連れられ、近 た。あえて役割を言うなら、孫の守りと留守番であった。 た分、大して働きもせず勝手気ままに晩年を暮らすことが出来 帰る。昔はどの家も年寄りは隠居と称して、若い頃散々苦労し がふいにやって来る。そしてなにがしかのお布施を受け取って ではない真言宗の僧侶も来る。ご詠歌の先生と称する中年女性 などである。お盆には、菩提寺から住職が読経に来る。菩提寺 向かって、毎日お経を唱えていた。般若心経や観音経、御詠歌 を祀る本来の仏壇の方と、この「お大師様」と称する床の間に 弘法大師の御影の掛け軸が並んで下がっている。祖母が、先祖 と楽しみの場が与えられ、毛布などの寝具や生活品の引き出物 かはあちこちに赴くことになる。昔の年寄りにはちゃんと役割 帰る)、小判型の分厚い葬式饅頭が子供心にうれしかった。弔 た料理の折詰と(ちょっと箸をつけて、殆んど家族の為に持ち ある日は、祖父母の帰りを楽しみに待っていた。持ち帰る余っ きな包みを下げて三々五々散って帰路に着く。子供の頃弔いの 囲気に近く、酒とジュースで陽気に騒ぐ。やがて引き出物の大 理の膳が振舞われ、ほとけ(死者)が老人であればお祝いの雰 び喪家に寄り合い初七日念仏の供養をする。そこでは仕出し料 懸け、喪家に集まり枕経をあげる。弔いが済んだ日に、夕刻再 この講に属し、村にお弔いが発生すると黒の羽織姿で輪袈裟を 詣をしている。 時間も出来たので、犬の散歩のついでに、毎月一日には必ず初 は若い頃は仕事に夢中で出来なかったが、今は年も取り多少は 脇に摂社があり、右に水神様、左に天神様が祭られている。私 荷神社がその向こう側にある。そこにはお稲荷様の本社と、両 にしか見えなかった。単線の貨物列車の線路を挟んで、細田稲 震で頭がとれて、その上撫でられて摩耗し、ただの白い石の塊 や顔や身体を撫でまわされ、無病息災を祈る。お地蔵様は大地 飾・ 江 戸 川・ 墨 田・ 江 東・ 足 立 の 下 町 地 区 で は、「 新 四 葛 国・南葛八十八か所」という講が出来ていた。この講が太心講 を行っていた。 四国八十八か所霊場を模して「新四国○○八十八か所」と称 して各地に設けられ、四国お遍路の作法にならって地域で巡礼 講以外には「太心講」という講を組んでいた。 私の祖父も祖母も「音頭取り」という、ソロで大勢の念仏集 の役目を担っていた。念仏 の合唱をリードする、先達(せんだつ) 寄りを篤くもてなしていたのである。 と、なにがしかの金銭の包みが配られ、地域も互助の精神で年 いの後も、その家の法事には大抵声が掛るから、一年間に何度 いほうの寺の東覚寺に詣で、お地蔵様を撫でたその手で私の頭 浄土真宗では室町期の蓮如上人の影響と思われるが、戦後の 細田村でも「念仏講」が機能していた。近在の年寄りの多くが -7- 【巻頭言】 である。毎年春になると白装束のお遍路が、菜の花の咲く径に 長い列をなして巡礼する。鐘を鳴らしてご詠歌を歌いながら、 三、現代の葬儀事情 難の歴史があり、生き残った者は必死の思いで死者の供養に捧 保の大飢饉・日清、日露の大戦・関東大震災・大東亜戦争と苦 も時々耳にした。私の先祖が生きた時代に、天明の大飢饉・天 る話をよく聞かされた。明治以降の新宗教である、天理教の噂 病気になれば昭和の時代まで「お大師様」 (弘法大師)にすが 話変わって、細田の地に初めて医師が赴任したのは昭和の戦 前の頃である。死んで極楽往生を頼むのは阿弥陀様だが、一端 ものも、めまぐるしく変化してきた。それでも葬儀は地方色、 私は昭和四〇年代から葬儀業界に身を置いて地方を回り、葬 儀屋さん相手に商売をさせて頂いてきた。時代と共に祭壇その どんどん退行していっているかのようだ。 疎んじられていく現代の世相は、精神面や文化において人間は ければ安心出来なくなっている。高齢になるほど孤独に陥り、 ようで、高まる老後の不安に自らの死後を心配し、手を打たな 春の風物詩であった。 げたようだ。死は身近な存在であり、生に執着することは見苦 地域の特徴が顕著であった。飾りものに意味のない物は一つも 今日では科学の進歩もあって、唯物的思考が優先されている。 人間はますますあきらめが悪くなり、苦悩が一層深まっていく しいとさえ言われた時代であった。 の日本人の精神生活と心のありようが、一瞬にして崩壊するこ 現代は形が見えなくなってきているが、日本人の魂の中にそ れらはいまでも無意識に棲み着いている。なぜなら悠久の歴史 希望も絶望も感謝も恨みも、生活と心に神仏は大きな領域を 占めていた。 を支配する共通語は、「マネー」でしかないといわれる。 画一的な商売になっていった事は必然である。グローバリズム つまり伝統を追いやって、どこでも誰でもすぐにはじめられる、 偲ばれるものであった。世界はグローバリズム化し、葬儀も今 なく、小さな道具一つにも謂れがあり、地域の人の心づかいが とはあり得ないと信じたい。失われるとしたら醸成された時間 日ではホール葬全盛となり、そこには全国的に効率を重視した、 よりもずっと短いかもしれないが、その時はもはや「日本人」 又、「競争社会の原理は、相手の不幸を喜ぶことである。」と 本田宗一郎氏が喝破されている。斎場建設競争が、あっという ではなくなるだろう。 間に限界を超えてしまった。 次世代に葬儀のプロ集団として生き残るためには、企業の資 -8- 【巻頭言】 本金の大小ではなく、それぞれの土地のそれぞれの伝統や歴史 や文化に根差した、ローカリズムな価値の上にこそ立ち位置が あってほしいと思う。それは、かつての葬儀業界の先輩たちが 身に付けていた価値観でもあった。 日本だけでなく世界で、またずっと古の人々も持っていた、 人が人の死を悼むということの原点に思いやって、葬儀をビジ ネスの側面だけに偏重して、葬送の文化を一気になし崩しにし てきた結果、 「直葬」 「0葬」などに一般の人々が関心を持ち、 葬儀に何らの意味と価値を見出されなくしてしまったことは、 葬送文化にとって重大な局面である。 しかし全国の葬儀業界の斯界の若きリーダーたちも、このこ とに気付きはじめたようである。 宗教界、葬儀業界がもう一遍立ち止まって、あるいは一歩下 がって、新たな地縁と血縁の上に立った、新しい歴史を構築し て進めていく時代が、今到来していると確信せずにいられない。 少子・高齢化が言われて久しいが、葬儀が全てなくなるはずも ない。宗教者もどきや葬儀社もどきが淘汰され、たくさん儲け ることよりも、たくさん感謝されることを願う人達の手によっ て、葬儀は新しい歴史の入口に立っていると思わずにはいられ ない。 -9- 【追悼】 日本葬送文化学会元会長・ 故谷荘吉先生に寄せて 勲 その後、私のあとに当会の会長を引き継いでいただきました が、葬送文化を研究し、学んでいる私に、これまでと異なった いくつかのご意見をいただき、研究会と私自身に新しい風を通 してくださったのは大きな功績でしょう。 またキリスト教の篤い信者として真摯な態度で、これまでの 人生を過ごされましたことに敬意を表し、哀悼の意を捧げます。 最後に「大阪・生と死を考える会」会報二〇〇八年九月一五 日、第三〇号に寄せている先生らしい一文を、書家として一筆 を紹介させていただきます。 -10- 元会長 天野 先生の来世での幸せをお祈り申し上げます。 「東京・生と死を考える会」でお逢いしたときより、同年代 ということもあり心が通うことから親しくさせていただきまし た。その折、先生から「日本葬送文化学会に入会したい」と申 し入れがありました。 先生が言われた次のことばがで今でも私の心に残っています。 「医者のつとめは病を治すことが第一であるが、それ以上に 命を落としていく人を、静かに、安らかにあの世(天国)に送 ること、それとともに遺族の方々一人一人の想いを受け取り、 心の淋しさ、悲しさを癒すのも、医者のつとめと思う。その想 いを深めることが大事である。それには葬送のこととその学び を深めたい」 葬送文化を学ぶ一人として、心に一石を投じられ、私自身も 考えを改めて深めなければと反省いたしました。 社会の現状改善に「こだわる学問」 が欠如しているのではなかろうかと 感ずるのです。 「こだわり」に「こだわる」ことの 重要性を考えたいのです。敢えて言え ば、自称「頑固じじい」の私は、こだ わり人間のまさに、典型モデルでしょ う。 そこで、 「学を好むは知に近し」と いう儒教の教えを思い出します。原文 の趣旨としては、 「学を好むは知に近 し、力めて行うは仁に近し、恥を知る は勇に近し」とあります。 とても含蓄のある教えではないか と考えます。 付和雷同の社会趨勢を是正する近 道は、 「こだわらずに」、 学を好む市 民感覚(習慣)を涵養することから始 めなければならないという、気の遠く なるような「百年の計」になるのでし ょうか。 【追悼】 【訃 報】 日本葬送文化学会 元会長 谷 荘吉 様 平成26年3月17日 午前10時26分にご永眠されました。 ここに、ご生前の当会活動のご功績をしのび、謹んでご連 絡申し上げます。 追って、通夜及び葬儀・告別式はキリスト教式にて下記の 通り執り行います。 記 ◆前夜式 平成26年3月20日(木) 午後7時00分 ◆告別式 平成26年3月21日(金) 午前11時00分より ◆出 棺 午後12時30分 ◆場 所 メノナイトブレザレン教団 寝屋川キリスト教会(プロテスタント) 大阪府寝屋川市葛原新町3-57 ◆喪 主 長男 谷 順一 様 担当葬儀社:ライフワークス社 電話0120-361-392 -11- 【追悼】 谷 荘吉先生への追悼 杉浦 昌則 会長 二〇一四年三月二〇日 午後七時、 谷 荘 吉 先 生 の 前 夜 式 が、大阪府寝屋川市葛原新町の「日本メノナイトブレザレン教 団寝屋川キリスト教会」にて、執り行われました。 そ ぼ 降 る 雨 の な か、 私 は 会 の 有 志 の 方 々 か ら お 預 か り し た 「お花料」を鞄に納めて、寝屋川駅からタクシーで少し早めに 現地に到着しました。 語りかけるように、最期のお別れをさせて頂きました。 一四年一月末に倒れられて、三月一七日にご逝去されたそう です。八二歳のご生涯です。 先生どうぞ、やすらかにおやすみください。 先生と会との馴れ初めは、葬送文化研究会だった平成一一年 二月二〇日に東京電機大学で、定例会の講師としてお目に掛っ たのが最初でした。葬儀の研究会に初めて医療のお話を傾聴さ せて頂き、その後の会の研究の間口を広げるきっかけを与えて 頂きました。 先生は多趣味、多才の方で、このご講演の時もお得意の書道 で、「百花為誰開(ひゃっかたがためにひらく)」の揮毫をご披 露頂きました。 このご講演の翌月私に初孫が授かり、後日記念に孫の産毛で 筆を作りましたが、桐の箱の表書きには、先生の「百花……」 なられたような気がしましたが、大変きりっとした表情で、生 シンプルな生花祭壇の前に眠られる先生のお顔を拝見するこ とができ、大変光栄に思いました。先生はお顔が一回り小さく 谷先生には、平成一九年度と二〇年度の二年間の任期、会長 職をお務め頂きました。 なく八本目が誕生する予定です。 のお言葉を使用させて頂きました。現在筆が七本に増え、間も 前の先生のお姿を彷彿させられる思いでした。 先生のご功績はたくさんありますが、私の胸に残っている先 生のお言葉をご紹介させて頂きます。「先生、遠くから来られ 先生のご子息の谷 順一様にご挨拶することができ、先生の お柩に案内して頂きました。 「今日私は、葬送文化学会を代表してお別れに参りました。 先生長い間本当に有難うございました。 」私は先生のご尊顔に -12- 【追悼】 会」の会長として活動され、大変お忙しくお過ごしと見受けら りの名誉ホスピス長を兼任され、又、 「大阪・生と死を考える 会長はこの時松柏苑の施設長をお勤めで、緩和ケア病棟ひまわ 平成一九年一〇月二七日の研修旅行は谷会長(当時)のお世 話で、寝屋川の小松病院・松柏苑を訪問させて頂きました。谷 「僕はね、大変だなんて思ったことないですよ。新幹線で二 時間以上も読書に没頭できるなんて、至福の時間ですよ。」 て大変ですね。 」と私。その時の先生のお言葉。 出来ました。「少し疲れたので、休んでいる。」とのことでした。 とノックをすると中から先生のお声がして、ご挨拶することが こうでお休みになっている。」と、小声で教えられました。そっ になりませんでした。会場の係の方にたずねると、「ドアの向 最後に作品展を拝見させて頂いたのは一昨年だと思います。 いつも会場の応接椅子に座られて、絶え間ない訪問者とお元気 たので、関内駅周辺は私にとっても懐かしい土地です。 と思うと、つい自分を重ねて考えてしまいます。 その後お亡くなりになるまで一度くらいしかお会いできてい ませんが、先生のようなお元気な方でも年齢と病には勝てない に談笑されていましたが、その日は会場に先生のお姿がお見え れました。 いつもお元気で、バイタリティーに感心させられていたので、 ちょっと驚きでした。 この研修旅行は私が幹事をさせて頂きましたが、谷会長には 自らご講演をして頂き、又有馬温泉までバスで案内して頂き、 翌日の研修先である公益社様と共に大変大変お世話になりまし た。 れられてからのち病院の医師に、「自分はクリスチャンだ 倒 から、死ぬことは怖くありません。」と仰っていたそうです。 先生のお仲間と共に、横浜で書画などの作品展を開催されて いました。先生は書家としての作品を出品されていましたが、 学会のこともどうぞ忘れずに見守って頂けますよう、よろしく をたくさん作られているのではないでしょうか。日本葬送文化 谷先生は神奈川県のご出身です。 他のお仲間は、絵画や焼き物など多様な作品が展示されていま お願い申し上げます。 先生のことですから、あの世の世界でも好奇心一杯で、お仲間 した。 先生から作品展のご案内を頂くと、私は大抵足を運んでおり ました。横浜の関内駅から歩いて五、六 分の所です。 若い頃、私は営業で伊勢佐木町のデパートを担当していまし -13- 【研究論文】 一〇〇年にわたる死亡記事からみ た死亡者年齢・職業、場所・開始 時間など葬儀形態の変化について 福田 充/八木澤 壯一 囲まれることもある。主な内容は、亡くなった日時や 死因、死亡場所などと、年齢や経歴、業績を紹介す るとともに、葬儀や告別式の日取りなどが告知される。 日目にする新聞や雑誌記事などに掲載される著名 毎 人の葬儀や葬送儀礼のあり方は、一般の人々に大きな 影響を及ぼすと考えられ、将来にわたって、一般の人々 の葬送のしかたに大きな影響力を及ぼす可能性がある。 人々の死や葬儀に対する意識の変化として新聞や 雑誌などの報道を通して、こう 聞紙上では、明治時代中期から「死亡記事」あるいは「訃報 新 記事」と呼ばれる、著名人の死亡をニュース記事として掲載する 葬儀・告別式を行なわず火葬だけの葬送も増加している。 ゆく公人の死と私人の葬儀」として、新聞の死亡記事に掲載さ 「社会葬儀から個人葬儀への系譜―変わり 葬儀のしかたの変遷と動向に関する研究」、 これまで「新聞の死亡記事か らみた葬儀場所と死亡地の変遷 について」、「新聞記事にみる亡くなる場、 -14- した葬儀の内容とその変化を明 らかにすることを目的とする。 ことが行なわれてきた。この記事形態は、新聞紙面上では喪主な れた故人の死亡年齢や葬儀の実施場所、葬儀のしかたについて、 二、研究の方法 どが費用を捻出して掲載する「訃報広告」と区別される(写真 大正期(一九一三年)から二〇〇八年まで九五年間にわたる変 文 2 写真1 死亡(訃報)記事の例 写真2 訃報広告の例 一、研究の目的 人の死亡から葬儀、火葬、埋葬に至る一連の流れのなかで行 なわれる葬送儀礼(葬儀)は、戦後の都市化やライフスタイル の変化、近年の人口高齢化の影響によって大きな変化を遂げて 。この記事の第一の意味は、社会的な地位や高名な方が 1、2 ) いる。それに伴い、葬儀や宗教に対する意識変化も激しく、都 死亡した場合、その死をニュースとして知らせることである。通常、 遷について報告してきた。 文 3 市部の生活者を中心に、 「家族葬」や「直葬」などと称して、 故人の名前に太い黒線が引かれたり、大きな記事の場合は黒枠で 文 1 【研究論文】 研究の方法は、文3を踏襲して日本三大新聞の一つである全国 紙で、幅広く著名人の訃報記事を掲載している朝日新聞東京版 より、一九一三( 大 正二)年 から一九九三( 平 成五)年 までは 一〇年ごと、一九九八(平成一〇)年からは五年ごとに二〇一三 (平成二五)年まで、一、 三〇〇例を対象として、故人の年齢や職業、 葬儀を行なった場所、葬儀の開始時刻、葬儀の形態などを分析 した。各年一月一日から一〇〇人分としたのは、年間を通じて死 亡者数が集中する冬期間であること、年の変わり目の一月一日を 起点としたことがその理由である。一年間に朝日新聞に掲載され -15- る訃報記事は、一、 〇〇〇件前後とみられ、一〇%程度に相当する。 三、死亡記事に見られる故人の属性 - 三 一、死亡年齢 一 三( 大 正 二 ) 年 か ら 二 〇 一 三( 平 成 二 五 ) 年 ま で、 一九 一〇年ごと各年における訃報記事に掲載された故人の死亡年齢 図1 死亡年齢の変化 1.2 3.5 9.4 12.9 7.3 9.6 14.6 9.8 26.8 17.1 24.7 23.5 25.8 1913 年 の変化をみた(図1) 。 5.5 正 期 の 一 九 一 三 年 で は 半 数 は 五 〇 歳 未 満 の 死 亡 で あ り、 大 一九二三年でも三二%、年々減少を続けて第二次世界大戦後の 1933 年 14.7 1923 年 3.3 12.2 22.2 26.7 18.9 26.0 32.3 20.8 8.3 5.2 11.1 4.1 2.1 5.2 1940 年 4.0 21.2 25.8 27.8 7.0 27.4 30.6 6.3 25.9 32.3 17.7 5.1 32.7 22.1 25.5 8.4 1953 年 一九五三年になって八%に減少した。わが国が高度経済成長期 1993 に入った一九六〇年代に入ると、六〇歳未満の死亡は急激に減 1998 少して、六三(昭和三八)年には約二〇%になり、九三(平成 五)年には一〇%となっている。逆に、八〇歳以上の高齢者が 2003 4.1 7.1 17.3 1.0 9.0 年 3.0 1.0 14.0 年 1.0 8.0 2.0 4.3 14.0 年 1.0 9.0 11.0 年 2008 21.7 1983 年 2.5 10.8 1.3 3.2 13.3 1973 年 1.3 19.9 1963 年 11.0 40.0 28.0 14.0 26.9 39.8 16.0 29.0 31.0 21.0 37.0 29.0 21.4 50.0 2013 年 90 歳∼ 80∼89 歳 70∼79 歳 60∼69 歳 50∼59 歳 40∼49 歳 ∼39 歳 単位:% 【研究論文】 23.0 単位:% 占める割合は、六三年に二五%、九三年に五〇%を超えた。。 一九九〇年代からさらに死亡者の年齢は高齢化が進行して、 〇 三( 平 成 一 五 ) 年 に は 九 〇 歳 以 上 で 亡 く な っ た 方 が 一六%、八〇歳代二九%、〇八(平成二〇)年には九〇歳以上 が二一%、八〇~八九歳が三七%に達し、八〇歳以上が五八% と過半数を占めた。また、六〇歳未満の死亡は減少しているが、 七〇歳代は三〇%前後で変化していないことが注目される。 一三(平成二五)年の死亡記事では五〇歳未満の死亡は一件 も な く な り、 五 〇 代 が 四 %、 六 〇 代 が 七 %、 七 〇 代 -16- 一七%、八〇代五〇%、九〇代以上が二一%を占めている。全 体の七〇%以上が八〇歳を超えている。 - 7.8 三 二、故人の職業 図2 出身職業の変化 24.5 13.2 12.2 13.3 13.3 22.0 15.9 6.1 8.5 24.4 の職業について、故人の経歴や出身分野ごとに「財界」 故人 「学界」 「文芸界」 「政官界」 「司法界」 「宗教界」 「団体役員」 「親 27.6 族」 「その他」に分けた(図2) 。 1953 年 「財界」関係者は、〇三年は二二%、〇八年四九%だったが、 一三年は四〇%となった。 「学界」関係者は、九八年に三〇% と最も多かったが〇三年二五%、〇八年九%、一三年一一%と 減少している。 「文芸界」は二二%と増加しているのと、近年 27.3 5.1 4.1 28.6 1913 年 27.3 15.6 3.3 1.2 1.2 14.6 6.1 2.0 18.4 4.1 1923 年 はテレビ・マスコミ関係者や元スポーツ選手、歌手・芸能人な ど、既成の職業分類にあてはまらない「その他」分野の方の死 亡記事が増加傾向にある。宗教界では、奈良の唐招提寺八四世 1963 年 24.5 27.2 16.0 1973 年 20.9 26.3 27.6 1983 年 15.5 29.9 1940 年 20.0 14.4 1933 年 43.0 1993 年 30.3 4.0 3.03.0 6.0 14.0 1.0 2.0 14.1 3.0 6.1 6.1 10.1 1.0 15.0 10.0 6.0 7.0 12.0 6.0 0.6 0.6 10.3 7.7 3.2 12.8 10.9 1.9 0.6 11.4 14.6 14.6 8.9 2.0 1.3 11.3 17.3 4.7 10.7 9.3 2.0 11.2 11.2 5.1 11.2 7.1 2.1 7.2 10.3 5.2 7.2 8.2 14.4 1998 年 15.0 9.0 49.0 2008 年 25.0 22.0 2003 年 1.0 1.0 1.0 10.0 4.0 10.0 2.0 6.0 3.0 6.0 4.0 6.0 22.0 11.0 40.0 2013 年 その他 親族 団体役員 宗教界 司法界 政官界 文芸界 学界 財界 【研究論文】 単位:% 長老の益田快範氏が一三年一月二日に逝去して、一月四日の朝 刊に訃報が掲載された一件のみである。 四、死亡記事に見られる葬儀に関する情報 四 一、葬儀を行なう場所 - 葬儀を行なう場所の変化を図3に示した。分類は以下の通り である。 ・自宅 個人の住宅 ・寺院 仏教寺院の本堂などの宗教施設 ・斎場 葬儀業者、公共団体または宗教団体等が運営する葬 儀利用を想定した葬祭施設や火葬場 -17- ・教会 キリスト教教会 式場・集会所 式場は公民館や多目的ホール、集会所は自 ・ 治体等が管理する地域の集会施設 ・その他 これらに分類されない施設 「自宅」で行なうのが一般的であった。大正 かつて葬儀は、 期には三分の二は自宅で行なっており、三三年から五三年まで 図3 葬儀場所の変化 3.1 64.2 8.2 3.1 19.4 1913 年 3.0 52.2 3.0 14.9 2.0 46.4 18.9 2.5 47.0 3.6 2.5 15.7 30.1 1940 年 4.7 1.2 44.2 10.5 10.5 2.4 4.8 34.9 7.9 19.0 4.8 28.6 1963 年 3.5 34.5 17.6 9.2 4.2 31.0 1973 年 32.9 14.1 8.7 37.0 4.7 1983 年 10.0 1.1 2.2 1.1 3.8 3.8 3.1 2.6 15.6 5.2 32.3 37.5 6.3 1993 年 49.5 11.0 35.2 1998 年 3.0 23.9 1923 年 は四〇%、六三年から八三年までは三〇%を占めていた。これ 9.2 3.8 26.3 1933 年 が大きく変化するのは平成に入った九三年に一五%に半減し、 13.2 4.7 25.6 1953 年 その後は九八年には二%、二〇一三年では「自宅での葬儀」は 皆無となった。 「寺院」も八三年から九三年までに三七%を占 めていたものの、二〇〇三年になると二〇%と急減して、一三 2008 年 69.7 8.3 50.0 12.5 20.0 2003 年 5.6 8.3 1.3 1.3 1.31.3 5.3 13.9 63.9 2013 年 その他 自宅 式場・集会所 斎場 教会 寺院 【研究論文】 1.5 3.1 単位:% 年には一四%までになっている。 自宅や寺院に代わって増加したのが専門の葬祭場である「斎 場」である。八三年の九%が九〇年代になって急増し、九三年 に三〇%を超えると、以降どんどんその割合を増やし、六〇〜 10.3 26.5 54.4 七〇%は斎場で行なわれるようになっている。 - -18- 「教会」や「式場・集会所」など、葬儀利用が想定された施 設も多く一定数を占めている。 図4 葬儀開始時刻の変化 四 二、葬儀の開始時刻 2.1 9.2 35.6 44.9 の開始時刻の変化を図4に示した。一九八〇年代までは 葬儀 葬 儀 の 開 始 時 刻 は 午 前 中 に 行 な わ れ る こ と は ほ と ん ど な く、 一三時が半数近くを占めていたことがわかる。一九九〇年代以降 になると、一〇時、一一時、一二時開始という葬儀が多くみられ るようになり、二〇〇八年においては三分の二の葬儀が午前中 に開催されるように変わってきており、葬儀は午後から行なわ れるものという従来の常識が覆されるようになったことがわかる。 40.5 50.0 10.4 47.4 29.5 1.2 3.5 2.4 3.6 34.9 52.3 4.2 38.0 45.1 7.2 35.2 40.8 1963 年 4.8 6.4 5.6 1.2 2.3 1953 年 4.7 1.2 2.4 1940 年 2.6 2.6 1933 年 7.7 1.5 1.5 1923 年 4.4 1.0 1913 年 3.1 3.1 15.3 35.7 22.4 16.3 57.0 17.8 1983 年 6.7 2.1 0.7 1973 年 9.9 一三年には、一三時以降に設定されている葬儀は二割に満たない。 ただし、この傾向は死亡記事に掲載される著名人の傾向であ ることが影響しているかもしれない。葬儀の開始時刻は地域差 が大きく、葬儀を遺体のまま行なう「遺体葬」と火葬後の焼骨 で行なう「骨葬」があり、葬儀時間が前後する。 地方では、現在でも葬儀・告別式は一三時あるいは一四時開 始という地域も多く、午前中に出棺して午後にかけて火葬を行 18.7 2.0 16.3 7.1 2.2 1993 年 4.4 1.0 34.1 15.4 1.3 1998 年 27.5 7.5 22.5 26.3 2.7 15.0 25.0 22.7 9.3 37.3 25.3 9.4 9.4 15.6 34.4 28.1 2013 年 3.1 2.7 2008 年 2.5 2003 年 16:00 15:00 14:00 13:00 12:00 11:00 10:00 9:00 【研究論文】 3 13 1963 年 85 2 12 - 84 単位:% なう形態が多いのは東京を中心とした地域の特徴である。 1973 年 1 84 四 三、葬儀の形態変化 「近親者のみ(密葬)」「団体 葬儀の形態については、「葬儀」 葬」 「その他の会」 「行なわない」の五つに分けた(図5)。 ・葬儀 一般的な葬儀・告別式を行なう形式 ・近親者のみ(密葬) 密葬と呼ばれる身内だけの葬儀、「近 親者のみで営む」 「近親者のみで実施した」と記された非 -19- 公開の形態 図5 葬儀形態の変化 ・団体葬 社葬を含めた団体・学校法人等で営まれる形態 「お別れ会」や「偲ぶ会」と呼ばれる。身内 ・その他の会 の密葬を行なった場合も含む。 行なわない 故人の意思や遺言で、葬儀は実施しないと明 ・ 言しているもの 未定 新聞報道の段階では、葬儀の内容が決定していない ・ もの 97 2 98 1913 年 「密葬」とは「ひそかに葬ること。内々で行う葬式」(広辞苑 第六版)とされ、親族や近親者だけで遺体を火葬した後、あら ためて告別式などの「本葬」を行なうことを前提に使われてい た用語である。新聞表記上では〇三年には一部見られたものの、 〇八年以降は「密葬」という表現は一度も使われず、「葬儀は 近親者で済ませた」などの表記に変わっている。 葬儀形態は、一〇〇年間を通じて二〇世紀中はほとんど変化 1923 年 11 1 96 2 2 1933 年 2 14 1983 年 1 7 4 88 1940 年 9 91 1953 年 12 12 96 1993 年 11 10 6 4 82 1998 年 1 3 14 5 8 69 2003 年 3 3 24 70 2008 年 9 1 19 1 39 31 2013 年 未定 行わない その他の会 団体葬 近親者のみ(密葬) 葬儀 【研究論文】 葬儀を非公開にすることが前提となれば、死亡記事では故人の しかし、一挙に全体の四〇%近くに増加したことによって、 「例外 三年には、一般的な葬儀は七割に減少するとともに「その他 〇 の会」が一四%に増加し、葬儀を公開しない「近親者のみ(密葬) 」 経歴や業績を伝えるだけで、葬儀告知の意味はなさなくなる。 していないことがわかる。八〇%以上が一般的な葬儀・告別式 が八%と倍増した。さらに〇八年になると、 「その他の会」が三% 的なケース」ではなくなり、むしろ一三年には主流になっている。 に減少し、 「近親者のみ(密葬) 」が二四%に達するようになった。 非 公 開 の 葬 儀 と は 別 に、 葬 儀 自 体 を 実 施 し な い 例 も あ る。 一九八三年以降、「故人の遺志で葬儀を行なわない」という表 を伴う「葬儀」に分類される形式であり、九八年に「その他の この頃から、新聞紙面に掲載されるような著名人やニュース性の 現を使った事例が一~二%の割合で見られるようになった。こ 会」が一〇%に増加した。 ある人の死亡においても、葬儀を身内だけで執り行ない、一般に れは故人が生前から儀式として通夜や告別式などの葬送行為を 通の葬儀は、いまや主流ではなくなり、主流は「密葬」=葬 普 儀は近親者のみ、いわゆる「公開しない葬儀」が主流になった。 公開しない、いわゆる「家族葬」が一般化した。 伝えていたものと考えられる。実際には、故人の死亡後の遺体 搬送や遺体処置、遺族とのお別れ、火葬・埋葬などの一連の葬 したくないという意思を示していたか、「遺言」などで遺族に 葬儀の非公開への流れは、一三年に顕著となる。それまで主 流だった一般的な「葬儀」は三一%に激減して、代わりに「近 親者のみ(密葬) 」が三九%に増加し、新聞紙面上ではこれが 送行為は行なわれているはずである。 五、死亡年齢と非公開の葬儀について 主流になってきた。 個人の葬儀では、二一世紀に入ってから葬儀の小型化が進み 「家族葬」 、葬儀をしないで火葬だけで済ませる「直葬」(火葬 - 五 一、一 〇〇歳を超えた方々の葬儀 は、死亡年齢が高まれば故人の交友関係も少なくなり、 葬儀 葬儀の社会的告知機能は必要なくなり、葬儀参列者が少なくな 式等と呼ばれることもある)が一般的になってきたといわれる。 結果であり、新聞紙面に死亡記事が掲載されるほどの著名人と る=葬儀の小型化が進むととらえられてきた。また、葬儀の非 こうした傾向は、あくまで一般的な生活者が選んできた選択の は異なるものと考えられてきた。 いった家族関係の変化のなかで、特に八〇代、九〇代での死亡の 公開化は、大家族から核家族へ、核家族から単身世帯の増加と れら著名人は「公人」の側面をもっており、その葬送を遺族 こ や近親者の意向で非公開にすることには、異論があると思われる。 -20- 【研究論文】 場合、故人の死亡を広く知らせる必要がなくなると考えられる。 人ホームで死亡したと記事に記されているが、葬儀・告別式に 開催した。三月九日、東京・千代田区の如水会館に於いて「故 刊で報じられた。同氏は、 「密葬」を行なった後、「偲ぶ会」を 〇三年一月三日に元NHKドイツ語アナウンサーのフリード リッヒ・グライル氏が一〇〇歳で死亡したことが、六日付け朝 一〇〇歳以上の死亡記事は見られなかった。 ん(一〇一)が一月二〇日に宇都宮市内の特別養護老人ホーム ルームで「お別れの会」を開催した。また、詩人の柴田トヨさ 会長中西実氏(一〇二)の場合は、三月一三日東京会館ローズ が報じられた。元労働事務次官、元全国社会保険労務士会連合 別れ会を開催する予定と伝えられた。続報として二月三日朝刊 ついてはその情報は報じられていない。(写真3) 死亡年齢の変化をみた図1には「九〇歳以上」に分類してい るが、死亡年齢が一〇〇歳を超えた事例が現われるのは二一世 天 文 学 者 で 東 大 名 誉 教 授、 元 学 士 院 会 長 の 藤 田 良 雄 さ ん 紀に入った〇三年以降である。九八年の最高齢死亡は九八歳で、 (一〇四)の場合でも、「葬儀は近親者のみで済ませ」、後日お フリードリッヒ・グライルさんをしのぶ会」が開催された。 ら宇都宮市内の「川田市民ホール」と報じている。故水田三喜 文化勲章受章者の片岡球子氏(一〇三)だけだった。ほかの元 学 校 法 人 城 西 大 前 理 事 長 だ っ た た め、 密 葬 の 後 一 月 一 七 日 に 男元蔵相の妻、水田清子さんは一月四日一〇一歳で亡くなった。 で死亡し、通夜二三日一八時、葬儀・告別式は二四日一〇時か 同和鉱業〈現DOWAホールディングス〉常務の大久保安威氏 「大学葬」を東京・文京区の護国寺で開催すると報じている。 -21- で、二月二八日に「学士会館」でお別れの会が開催されること 〇八年では一〇〇歳を超えて亡くなった方は三名に増え、葬 儀を近親者だけで済ませたのは一月一六日に逝去した日本画家、 (一〇四)は東京・渋谷区のカトリック初台教会で、曹洞宗大 「近親者のみで済ませた」として葬儀を公開しなかったのは、 元日本電設工業専務佐久間四郎 氏( 一 〇 四 )、 工 業 デ ザ イ ナ ー 本山永平寺第七八代貫首の宮崎亦 保禅師(一〇六)は、死亡 地である札幌市において逮夜・密葬の後、日をあらためて福井 県永平寺において本葬(団体葬)が催されている。 だった。 の 渡 辺 力 氏( 一 〇 一 ) の 二 名 一三年には、一〇〇歳超の死亡者は一一名に増えている。最 高齢は一一五歳であった。一月一二日に「世界最高齢の女性」 とされていた神奈川県川崎市の大久保琴さんが、肺炎のために 死亡したことが伝えられた。大久保さんは、川崎市内の有料老 写真3 【研究論文】 このように一〇〇歳以上の方の場合は、むしろ非公開の葬儀 は多くない。ところが、若くして亡くなった方に葬儀の非公開 が目立つ傾向が見られる。 五 - 二、五 〇代以下現役世代の葬儀 ちなみに六〇代で亡くなった方は七名で、そのうち歌舞伎俳 優の市川団十郎 本名堀越夏雄氏(六六)は、二月二七日に青 山葬儀所で本葬を行なっている。そのほか六件のうち、通常の 月二四日に亡くなった美術家で東海大教授神山明氏 一 (五九)は、死亡記事には故人の経歴を紹介されているものの、 公開の葬儀が選択されている。 や追悼式を行なう形態が二件であり、未定二件、実施済み一件、 一〇件のうち通常の葬儀・告別式が四件、密葬の後にお別れ会 こうした傾向は過去にもあるのか。 八年には四〇代一名、五〇代三名の死亡記事があるが、い 〇 ずれも通常の葬儀・告別式を執り行なっている。〇三年の若年 葬儀・告別式は三件、近親者のみが三件であった。 葬儀については近親者のみで営むとされた。また、豊田通商専 そして残り一件は作家楢山芙二夫氏(五四、本名富士雄)が「本 とされた。 (写真4) 事 は あ る も の の、 「近親者のみで営む」 そして、一月六日に亡くなったNHKアナウンス室チーフア ナウンサー石川洋氏(五三)も、紹介記 開の葬儀を選択している。 を遺言していた方 そのほか一三年には故人の写真や業績に関 する記事を大きく載せた著名人のなかにも、 このように〇八年以前は、死亡年齢の相違によって非公開の 葬儀を選ぶという傾向は見られなかった。 代一名、五〇代四名あるが、いずれも通常の葬儀を行なっている。 -22- 一三年に五〇代以下で亡くなった現役世代の例は以下の四名 であるが、いずれも「葬儀は近親者で営む」とされ、すべて非 務 篠 崎 民 雄 氏( 五 八 ) と、 ブ ラ ザ ー 工 業 執 行 役 員 石 黒 裕 司 氏 人の希望で葬儀を行なわない」ケースであった。九八年は四〇 このようにマスコミの中枢にいるNH Kアナウンサーや大学教授、大手企業の がいた。政府税制 学者、慶大・千葉 調査会長で、経済 葬儀をしないこと 役 員 ク ラ ス の 人 で も、 「葬儀は近親者で 営む」として、葬儀を公開しないことを 選択している。 写真5 層の死亡記事は、三〇代一名、四〇代一名、五〇代八名である。 (五六)の両氏は、ともに現役の大手企業役員であっても非公 写真4 【研究論文】 人にも見られるようになった。 (写真5) 言を残す人は、作家などが大半であったが、高名な学者・経済 ないこととの遺言を残していた。これまで「葬儀をしない」遺 に八六歳で亡くなったが、故人の意志で葬儀・告別式は行なわ 商大教授、嘉悦大学長だった加藤寛氏である。氏は一月三〇日 想家の丸山真男は、 「日本の新聞は訃報が貧弱なこと。業績 思 があっても〝昔の人”という感じだと記事が小さいこと。それは 今後、葬儀に関する情報の告知の意味が薄れていくと考えられる。 の告知の意味がある。しかし、 「葬儀の非公開化」が進むなかでは、 れる通夜・葬儀、追悼会、お別れ会、しのぶ会といった葬送儀礼 弔う時と場所を伝えることである。すなわち、死に伴って実施さ 現在が基準になる「 『いま主義』の極端(な表れ)なんです」と、 儀情報が少なくなれば、亡くなった人への哀悼を表わす機会も減り、 六、まとめ 以上、一九一三年から二〇一三年まで一〇年ごと、九八年以 降は五年ごとに新聞の死亡記事からその内容変化を見てきた。 ますます先人を敬う気持ちが失われていくということであろうか。 遠藤周作編『友をしのぶ』光文社知恵の森文庫、二〇〇四年 高橋繁行『葬祭の日本史』講談社現代新書、二〇〇四年 諸岡達一『死亡記事を読む』新潮社、二〇〇三年 嵐山光三郎『追悼の達人』新潮文庫、二〇〇二年 此経啓助『明治人のお葬式』現代書館、二〇〇一年 中牧弘允『社葬の経営人類学』東方出版、一九九九年 〈参考文献〉 『生活文化史』 No.54 ) 注1 朝日新聞東京版 朝刊二〇一四年一〇月二〇日 月、日本建築学会建築計画委員会『地域施設計画研究』 No.17 ) 文3 福田充、八木澤壯一「社会葬儀から個人葬儀への系譜―変わりゆ く公人の死と私人の葬儀」 ( 二 〇 〇 八 年 九 月、 日 本 生 活 文 化 史 学 会 文1 八木澤壯一「新聞の死亡記事からみた葬儀場所と死亡地の変遷に ついて」 (一九七七年、日本生活文化史学会『生活文化史』 No.9 ) 文2 八木澤壯一、新井信幸、松木康高、田中欽也「新聞記事にみる亡 くなる場、葬儀のしかたの変遷と動向に関する研究」 (一九九九年七 訃報記事はその時代精神を反映していることを指摘している。葬 その結果、次のような顕著な現象が明らかになった。 ・高齢化が進み、死亡年齢は八〇代以上が七割以上を占めるよ うになった。 ・死亡記事に現われる職業は、多様化している。 ・葬儀を行なう場所は、平成に入ってから専門の斎場で行なわ れることが一般化した。 ・葬儀の開始時刻は、二一世紀に入った頃から変化が著しく主 流は午前中になった。 ・近年、葬儀の非公開化が著しく一三年には四割近くに達している。 ・ 一 〇 〇 歳 以 上 の 高 齢 者 や 現 役 世 代 に も、 非 公 開 の 葬 儀 が 広 まっている。 新聞紙面の訃報あるいは死亡記事は、社会的に功績のあった人 や著名人の死亡の事実(死亡地や年齢や死因)とともに、故人を -23- 注 1 【研究論文】 名古屋市を含む周辺地域における 葬儀規模・費用の変化について しゅうかつ 望などを残す活動を合わせた造語である終活という言葉を耳に する。この終活をノートにまとめたものがライフエンディング ノート(以下エンディングノート)で、小学館編(二〇一二)は、 「学生時代の思い出、家系図、かかりつけの医者、ふだん飲ん でいる薬、生命保険、年金、介護の希望、延命の意思、葬儀ス タイルの希望、お墓、相続、ペットのデータ、携帯やデジタル 的な死のかたちに対する反発として、自分らしい死、さらには 年代以降、医療スタッフや葬儀屋など専門職に管理された画一 タブーで無くなった。澤井(二〇〇五)によると、「一九九〇 代があった。しかし、二〇〇〇年以降、死についての話題は、 るという意識からであろうか」タブーとして敬遠されていた時 死期が迫っていることが分かっていても、生きている間は葬 儀について検討するのは、 「親の死を望んでいるように思われ い自分史を作成し、自身の確認や家族の為に生前の自身の記録 分史があり、出版して多くの人の目に触れることを目的としな 合や死亡した後に重点を置いて書かれる。似た切り口として自 ノートを残した人が病気や事故で伝えることが困難になった場 種類の多さでも確認することができる。エンディングノートは、 まっている。この傾向は、書店におけるエンディングノートの タイル、データの処分方法を残った人へ託すことへの関心が高 浅井 秀明 」とこのようにエ データの処分、万一の時のアドレス帳、 etc. ンディングノートを定義している。自分の情報を書き留めるこ 死の自己決定、また死後の自己決定という考え方が盛んに説か を書き留めることを勧める自分史作成の方法について書いた とにより、外出先で倒れた場合を想定したり、財産の有無や財 れるようになった。」として、自分らしい死、死の自己決定(終 本も書店で数多く見つけることができる。 はじめに 末医療や葬儀方法を自ら決定する)や死後の自己決定(相続)は、 産がある場合の相続方法、介護や延命の希望、自らの葬儀のス 盛んに行われる状況にあると指摘している。 る傾向であり、葬儀価格について一切触れていない新聞折り込 -24- ⑵ 葬儀費用については、二〇一四年現在において、新聞の折り 込みチラシに葬儀の価格が表示されることは、一般的にみられ 死の自己決定の方法の一つとして、就職活動(就活)と人生 の終焉を迎えるにあたって自らの葬儀の仕方の希望やお墓の希 ⑶ ⑴ 【研究論文】 みチラシは、ほとんど見られない。葬儀社が主催する会館見学 イベントにおいても、価格を表示しない見学会は内容が乏しい 一、研究の目的と方針 た 親 族 関 係 を 基 礎 に し て 成 立 す る 小 集 団。 社 会 構 成 の 基 礎 単 「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれ していると考えられる。新村(二〇〇八)によると家族とは、 プを特定しているところから家族を中心に執り行う葬儀を想定 いる。家族葬の定義は、定まっていないが、家族というグルー また、葬儀に関する仕事に従事したり、研究している人以外 でも葬儀の話題である家族葬という言葉が、一般的に使われて 通夜返し数と会葬返し数を分析することにより、葬儀規模の変 通夜、葬儀の現状について名古屋市の同社を例にとり、一回の る同社の葬儀規模の経年変化を明らかにする。本研究の目的は、 法人、以下同社)を対象にして県庁所在地の名古屋市等におけ 県において葬儀施設を展開している出雲殿(名古屋法人、豊田 を推計し、祭壇価格と葬儀一件単価を新たに指標に加え、愛知 法である通夜弁当と通夜返しと会葬返しの数より参列者の変化 と参加者に指摘され広報活動として成立しにくい状況である。 位。 」として家族を定義している。通常、葬儀の構成人員は、 化の傾向を明らかにすることである。 本研究は、二〇一三年に日本建築学会に投稿した「豊田市・ 出雲殿における通夜、葬儀の変化について」で用いた分析の方 喪家(家族) 、親族(遺族)と参列者(近隣、生前に故人とか かわりのあった人、親族と関係のある人)である。参列者にカ - め葬儀参列者数は、一般的な葬儀よりも縮小すると考えられる。 家族葬を行うことにより血縁関係以外の参列者が弔問しないた する市)の同社施設を用いた葬儀から経年の葬儀の変化を分析す 知立逢妻浄苑、春日井市尾張東部聖苑、瀬戸市瀬戸斎苑の所在 県の名古屋市とその周辺の火葬場(名古屋市八事斎場、 愛知 安城市安城斎苑、豊田市古瀬間聖苑、刈谷市青山斎園、知立市 一 一、名古屋市の火葬場について しかしながら、葬儀参列者が縮小したと主張する事業者は多い る。尚、断りが無い限り、資料は、同社当該地域のデータを使用 ウントしない参加者として葬儀儀式を挙行する宗教者、葬儀準 が、数値的な根拠を示した文献は、著者の知る限り、浅井/福 する。表に表れている以外のデータは、確定している二〇一二年 備進行を担当する葬儀社関連の人があげられる。したがって、 田/八木澤(二〇一三)以外、見当たらない。 八月期のデータを引用する(二〇一四年八月期のデータは、人口 や火葬場の火葬数など完全に確定していないデータも含まれる) 。 -25- ⑷ 【研究論文】 で、セレモニーホール名古屋貴賓館の周辺が名古屋駅で中心市 図 は、八事斎場とセレモニーホール名古屋貴賓館、中川店、 堀田店の位置関係を示した。色が変わっている部分が名古屋市 る。所在地は、セレモニーホール名古屋貴賓館が愛知県名古屋 館をオープンする。名古屋市内には、葬儀会館が三ヶ所存在す める。一九九三年葬儀会館であるセレモニーホール名古屋貴賓 二、名古屋店の沿革 街地である。同社資料から、セレモニーホール名古屋貴賓館で 市名駅南に位置し、四八〇席、二〇〇席、一二〇席、一〇〇席、 一 葬儀をした故人住所は、四㎞以内に六五・二%が存在し、八㎞ 七〇席、四八席(三室)の八つの葬儀儀式スペースがあり、宿 同社の沿革は、一九二四年、大阪市南区にて紳士服販売の浅 井商店を開業する。一九六六年に、浜松市にて葬祭業務をはじ 以内で八七・〇%に達する。 泊施設、会食施設などを併設している。二〇〇七年九月より堀 田店が、名古屋市瑞穂区堀田通にオープンし、一〇〇席、九〇 席の二つの葬儀儀式スペースがあり、宿泊施設、会食施設など を併設している。二〇一〇年二月より中川店が、名古屋市中川 区小碓通にオープンし、五〇席、一〇〇席の二つの葬儀儀式ス ペースがあり、宿泊施設、会食施設などを併設している。 - 一 三、名古屋以外の施設 図 は、名古屋市を含む周辺地域を図にしたものであり、色 が変わっている部分が対象の地域である。 設している。 三つの葬儀儀式スペースがあり、宿泊施設、会食施設などを併 県安城市三河安城南町に位置し、一五〇席、七〇席、三〇席の 一九九八年、葬儀会館であるセレモニーホール安城貴賓館を オープンする。所在地は、セレモニーホール安城貴賓館が愛知 2 -26- - 図1 名古屋市と火葬場(八事斎場)の位置関係 1 【研究論文】 在地は、セレモニーホール豊田貴賓館が愛知県豊田市小坂本町 に位置し、二二〇席、一一〇席、九〇席、五〇席の四つの葬儀 儀式スペースがあり、宿泊施設、会食施設などを併設している。 敷地内に別館として三〇名まで収容可能な家族葬専用ホール 「蓮の亭」がある。二〇一二年一〇月より若林店が、愛知県豊 田市若林東町上外根にオープンし、八〇席、三〇席の二つの葬 儀儀式スペースがあり、宿泊施設、会食施設などを併設してい る。 一九八四年、ウエディングプラザ平安閣瀬戸店として冠婚施 設としてオープン、その後一九九五年セレモニーホール瀬戸貴 賓 館 を 葬 儀 会 館 と し て 改 装 オ ー プ ン す る。 所 在 地 は、 セ レ モ ニーホール瀬戸貴賓館が愛知県瀬戸市孫田町に位置し、一六〇 席、八〇席、五〇席(二室)の四つの葬儀儀式スペースがあり、 宿泊施設、会食施設などを併設している。隣接市にある尾張旭 貴賓館もあり、共に一九八四年葬儀会館であるセレモニーホー ル尾張旭貴賓館をオープンする。所在地は、愛知県尾張旭市向 二丁目に位置し、八〇席、六〇席、四〇席(二室)の四つの葬 儀儀式スペースがあり、宿泊施設、会食施設などを併設してい る。 一九八八年、葬儀会館であるセレモニーホール春日井貴賓館 をオープンする。春日井市内には、葬儀会館が二ヶ所存在する。 所 在 地 は、 セ レ モ ニ ー ホ ー ル 春 日 井 貴 賓 館 が 愛 知 県 春 日 井 市 -27- 一九九五年、葬儀会館であるセレモニーホール豊田貴賓館を オープンする。豊田市内には、葬儀会館が二ヶ所存在する。所 ※●は火葬場、■は同社セレモニーホールの位置 図2 名古屋周辺地区 【研究論文】 梅ヶ坪町に位置し、三〇〇席、一〇〇席、 七〇席、二〇席の四つの葬儀儀式スペース があり、宿泊施設、会食施設などを併設し ている。二〇一〇年七月に高蔵寺店が愛知 県春日井市白山町にオープンし、一〇〇席、 七〇席、五〇席の三つの葬儀儀式スペース があり、宿泊施設、会食施設などを併設し ている。 一九九五年、葬儀会館であるセレモニー ホール刈谷貴賓館をオープンする。所在地 は、愛知県刈谷市東新町に位置し、一八六 席、九〇席、五〇席、四〇席の四つの葬儀 儀式スペースがあり、宿泊施設、会食施設 などを併設している。二〇一二年一月には、 館 内 に 三 〇 席 の 家 族 葬 専 用 ホ ー ル「 蓮 の 亭」を増設リニューアルオープンし、現在 は五つのホールで稼働営業をしている。 一 四、名古屋市を含む周辺地域の葬儀 - 火葬場シェア、簡易葬比率、宗教形式、 死亡場所の割合を同社データから分析する。 表 より、愛知県と名古屋市の人口は増 1 表1 愛知県と名古屋市死亡者数 ⑸ 2005年 愛知県 死亡者数 名古屋市 死亡者数 名古屋市 総人口 2006年 2007年 2008年 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年 52,536 52,294 53,618 56,036 55,189 58,477 60,388 61,948 62,929 17,396 17,291 17,729 18,466 18,334 19,014 19,978 19,995 20,483 2,215,062 2,224,311 2,238,853 2,250,998 2,262,229 2,263,894 2,266,517 2,266,851 2,271,380 名古屋市 死亡率 0.79% 0.78% 0.79% 0.82% 0.81% 0.84% 0.88% 0.88% 0.90% (出典:愛知県人口動態統計、各都市ホームページより著者作成) 表2 八事斎場 ⑹ における同社シェア ⑺ 八事斎場火葬数 同社火葬数 シェア 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 20,219 20,654 21,207 21,179 21,558 21,610 813 827 913 870 890 892 4.02% 4.00% 4.31% 4.11% 4.13% 4.13% (出典:同社資料より著者作成) 表3 名古屋市を含む周辺地域の火葬場における同社シェア 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 合算火葬数 30,741 31,746 33,054 33,240 33,843 34,172 同社火葬数 3,312 3,266 3,320 3,261 3,364 3,416 シェア 10.8% 10.3% 10.0% 9.8% 9.9% 10.0% (出典:同社資料より著者作成) -28- 【研究論文】 2 加傾向にあり、愛知県と名古屋市の 3 死亡者数、死亡率は増加傾向にある。 表 より、八事斎場における同社 シ ェ ア は、 四・〇 % 強 を 推 移 し て い 4 る。 表 より、対象火葬場における同 社のシェアは一〇%前後である。 表 より、葬儀を行う場所は、自 宅以外で行われる比率は九九%以上、 九七%は、同社の葬儀会館で行われ る葬儀である。 葬儀規模では、自治体から委託さ れた福祉葬儀を含む簡易な葬儀を簡 易葬と定義する。名古屋市において は、簡易葬の取扱比率が高いが、官 公庁からの依頼によるもので名古屋 市全体としての葬儀の内訳を反映し 5 ていない。 表 より、同社の名古屋市におけ る簡易葬の比率は、名古屋市を含む より、簡易葬の比率と数は、 周辺地域の葬儀よりも高い。 表 6 表4 名古屋市を含む周辺地域での葬儀を行う場所 施行場所 施行数 09年8月期 10年8月期 11年8月期 012年8月期 13年8月期 14年8月期 3,494 3,447 3,505 3,455 3,576 3,675 自宅 40 25 40 25 39 29 市斎場 28 22 24 22 27 23 寺院 32 36 24 21 23 32 集会場 18 15 20 12 7 5 同社葬儀会館 3,376 3,349 3,397 3,375 3,480 3,586 同社会館比率 96.6% 97.2% 96.9% 97.7% 97.3% 97.6% (出典:同社資料より著者作成) 表5 名古屋市の葬儀の内訳 ⑻ 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 個人葬 428 412 412 373 371 358 簡易葬 467 486 567 559 581 588 計 895 898 979 932 952 946 52.2% 54.1% 57.9% 60.0% 61.0% 62.2% 簡易葬% (出典:同社資料より著者作成) 表6 名古屋市を含む周辺地域の葬儀 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 個人葬 2,540 2,468 2,474 2,401 2,459 2,563 簡易葬 954 979 1,031 1,054 1,117 1,112 計 3,494 3,447 3,505 3,455 3,576 3,675 簡易葬% 27.3% 28.4% 29.4% 30.1% 30.7% 29.6% (出典:同社資料より著者作成) -29- 【研究論文】 期により減少している年もあるが、増加の傾向にある。 表 より、名古屋市を含む周辺地域の全体を見てみると宗教形 式 は、 二 〇 一 二 年 八 月 期 に お い て 三、四 五 五 件 中 の 三、一 九 八 件 (九二・六%)が仏式であり、神式が五五件、キリスト教式が二六 件、その他の形式が三七二件である。 表 よ り、 死 亡 す る 場 所 は、 三、四 五 五 件 中 の 二、七 四 三 件 (七九・四%)が病院で、二五二件が自宅、その他が四六〇件であ る。 定量的な調査ではないが、愛知県の地域習慣として、会社関係 の参列者が多数含まれるという特徴があげられる。 通夜の参列者は、親族や近隣の弔問の他、会社関係などの参列 もある。通夜の会食は、親族のみで行い、参列者へは振る舞わな い。 二、名古屋市を含む周辺地域における祭壇価格と葬儀規模 の変化 葬儀規模は、葬儀一件単価と会葬規模からなる。 葬儀社に支払う価格の構成要素は、祭壇価格(祭壇および棺等 の葬具、消耗品、司会進行等人的サービス)、返礼品、料理、供 物の四つに大まかに分けることができるが、これら四つの葬儀価 格構成要素をもって葬儀一件単価とする。 -30- 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 死亡場所 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 宗教 7 8 表7 名古屋市を含む周辺地域の葬儀における宗教形式 施行数 3,494 3,447 3,505 3,455 3,576 3,675 仏教 3,093 3,067 3,271 3,198 3,296 3,062 神式 78 51 48 55 54 60 キリスト教式 23 24 19 26 25 17 他 300 305 374 372 416 536 (出典:同社資料より著者作成) 表8 名古屋市を含む周辺地域の死亡場所 施行数 3,494 3,447 3,505 3,455 3,576 3,675 病院 2,807 2,775 2,768 2,743 2,720 2,868 自宅 324 287 289 252 298 225 その他 363 385 448 460 558 582 (出典:同社資料より著者作成) 【研究論文】 葬儀一件単価は、葬儀規模に最も関連が深い。 供物とは、故人や喪家に対しての弔意を表す 意味で生花、籠盛などを手向けるものであるが、 9 葬儀規模の算定根拠には、取り入れない。 表 より、名古屋市の祭壇価格は、二〇〇九 年をピークに下がり始め二〇一一年八月期をボ トムに再上昇している。 10 中央値、最頻値は、簡易葬の祭壇価格五万円 が多いため表からは割愛した。 10 表 より名古屋市を含む周辺地域における祭 壇価格は、二〇一二年八月期をボトムに上昇傾 9 向にある。 表 と表 を比較すると名古屋市と名古屋市 を含む周辺地域の祭壇価格には、一〇万円以上 11 の開きがある。 12 表 よ り、 名 古 屋 市 の 葬 儀 一 件 単 価 は、 二〇一二年八月期をボトムに上昇傾向にある。 12 表 より、葬儀一件単価は、二〇一二年八月 期をボトムに上昇傾向にある。 表 と表 から名古屋市の葬儀一件単価は、 名古屋市を含む周辺地域と比較して三〇万円以 上の開きがある。 11 表9 名古屋市の祭壇価格 祭壇価格 平均 標本数 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 307,130 287,877 224,329 233,856 256,628 282,170 895 898 979 932 842 888 (出典:同社資料より著者作成) 表10 名古屋市を含む周辺地域における祭壇価格 祭壇価格 平均 標本数 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 367,601 360,307 346,266 336,731 423,650 453,162 3,477 3,435 3,481 3,421 2,734 2,950 (出典:同社資料より著者作成) 表11 名古屋市の葬儀一件単価 1件単価 平均 標本数 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 639,326 657,252 590,224 588,507 664,542 737,164 895 898 979 932 952 946 (出典:同社資料より著者作成) 表12 名古屋市を含む周辺地域の葬儀一件単価 1件単価 平均 標本数 09年8月期 10年8月期 11年8月期 12年8月期 13年8月期 14年8月期 977,540 968,618 942,067 926,694 1,031,119 1,114,295 3,477 3,435 3,481 3,421 3,542 3,675 (出典:同社資料より著者作成) -31- 【研究論文】 三、通夜弁当数と通夜返しと会葬返しで見る会葬規模の 変化 会葬規模は、返礼品の通夜返し数、会葬返し数をもって会葬 者数を推計する。会葬規模は、会葬者数の変化に注目している ため、通夜返し数、会葬返し数を取り上げ、高額な香典を持っ てきた人に対する香典返しは、対象としていない。 料理は、親族の数にいちばん近いと考えられる通夜弁当の数 から親族数を推定する。 通夜弁当とは、通夜式の後に親族が食べる夕食で八〇〇円程 度の食事である。通夜弁当の数は、比較的近い親族の数をカウ ントして目安とする。 表 によると名古屋市の二〇一〇年八月期と二〇一四年八月 期は、大きく減少しているが、名古屋市を含む周辺地域でみる と大きくは、減少していないことから年度による誤差が含まれ る可能性がある。 表 から、二〇〇九年八月期と二〇一〇年八月期を比較する と一名程度減り、二〇一二年八月期と二〇一三年八月期を比較 するとさらに一名程度減り、親族数は、ほぼ変わらない。 通夜返しは、通夜の参列者に対して、弔問の謝礼の意味で返 礼する品で、五〇〇円程度のものを返す。通夜返し数は通夜に 参列した人数を推定できる。 -32- 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 通夜返し 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 通夜弁当 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 通夜弁当 13 14 表13 名古屋市の通夜弁当数 ⑼ 平均 22.2 17.7 20.9 20.2 21.0 16.9 標本数 399 113 337 290 298 279 (出典:同社資料より著者作成) 表14 名古屋市を含む周辺地域の通夜弁当数 平均 22.9 21.8 21.8 20.7 20.9 20.4 標本数 2,034 1,616 1,847 1,827 (出典:同社資料より著者作成) 2,058 2,147 表15 名古屋市での通夜返し数 ⑽ 平均 67.1 60.6 58.9 54.8 76.9 73.7 標本数 364 342 318 219 317 303 (出典:同社資料より著者作成) 【研究論文】 表 から、名古屋市において通夜返しは、二〇一二年八月期 に最低数を記録しているが二〇一三年八月期以降は、数が増加 している。 表 から、名古屋市を含む周辺地域の通夜返しの数は、年々 減少傾向にある。周辺地域においては、減少し、名古屋市にお いては、増加していて相反する現象が現れていている。 会葬返しは、葬儀告別式の会葬者に対して、弔問の謝礼の意 味で返礼する品で五〇〇円程度のものを返す。会葬返し数は、 葬儀に会葬した人数を推定できる。 表 か ら 名 古 屋 市 の 会 葬 返 し 数 は、 二 〇 一 二 年 八 月 期 に 四〇・九とボトムを記録したが、その後は五〇弱で推移していて、 二〇一一年八月期前に戻った。 表 から名古屋市を含む周辺地域の会葬返し数は、二〇一三 年八月期を除き減少傾向にある。 名古屋市においては、通夜参列者が増加し、葬儀会葬者は大 きく変化していない。 名古屋市を含む周辺地域においては、通夜参列者が減少し葬 儀会葬者も減少傾向にある。 名古屋市では葬儀参列者より通夜会葬者の方が多い。 名古屋市を含む周辺地域では、通夜会葬者に比べて葬儀参列 者が若干多い傾向がある。 -33- 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 会葬返し 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 会葬返し ⑾ 14年8月期 13年8月期 12年8月期 11年8月期 10年8月期 09年8月期 通夜返し 15 16 17 18 表16 名古屋市を含む周辺地域での通夜返し数 平均 85.7 82.8 76.9 72.9 72.3 67.5 標本数 2,235 2,173 2,131 1,972 2,145 2,220 (出典:同社資料より著者作成) 表17 名古屋市の会葬返し ⑿ 平均 51.3 48.2 45.4 40.9 50.0 47.3 標本数 385 347 350 326 (出典:同社資料より著者作成) 337 313 表18 名古屋市を含む周辺地域の会葬返し 平均 93.9 85.3 79.7 72.8 76.4 70.0 標本数 2,477 2,383 2,315 2,265 2,100 2,189 (出典:同社資料より著者作成) 【研究論文】 四、名 古屋市とその周辺地域での葬儀の 比較 表 、表 より、二〇一三年八月期から祭 壇価格が再上昇しているのは、宗教色が強い 生花祭壇 白木祭壇より、故人 のオリジナリティを表しやすい図 仏式をイメージする図 10 図 は、二〇一二年八月期の祭壇価格、図 は、二〇一四年八月期の祭壇価格に近い価 への顧客ニーズの変化があると考えられる。 4 3 9 ずしも断言できない。 は、大きく変化していない。通夜参列者は、減少傾向にある。 屋市における親族数は大きく変化していない。通夜参列者は、 る。 通夜返し数、会葬返し数)も減少傾向にあるといえる。しかし、 葬儀参列者は、減少傾向にあり、葬儀行事の規模(通夜弁当数、 周辺地域においては、会社に関連した参列も多く、職場の同 僚の代わりに香典を持ち寄る通夜返し、会葬返しの代理持ち帰 名古屋市のデータを見る限り、都会においては、通夜への参列 増 え て い る。 葬 儀 参 列 者 は、 あ ま り 大 き く 変 化 し て い な い。 (出典:同社資料) 周辺地域の人口は増加傾向にある。老齢人口と死亡者数も増 加傾向にある。周辺地域の葬儀の特徴に大幅な変化は見られな 図4 生花祭壇 二〇一一年八月期以降の通夜弁当、通夜返しの減少は、二〇一一 (出典:同社資料) い。同社データでは、名古屋市を含む周辺地域における親族数 図3 白木祭壇 年三月一一日に起こった東日本大震災の影響もあると推定でき 葬儀の特徴に大幅な変化は見られない。名古 名古屋市の人口は増加傾向にある。老齢人 口と死亡者数も増加傾向にある。名古屋市の 格帯の祭壇の写真である。 3 り数も含まれるため、葬儀参列者より通夜参列者が多いとは必 -34- 4 【研究論文】 の重要度が増している。 二〇一一年八月期以降の通夜弁当、通夜返し、香典返しの縮 小は、二〇一一年三月一一日に起こった東日本大震災の影響も あると推定できる。 葬儀規模としては、名古屋市を含む周辺地域において、会葬 規模(通夜弁当数、通夜返し数、会葬返し数)は減少傾向にあ るといえるが、葬儀一件単価からみると葬儀規模が縮小してい るとは言えない。 五、考察 碑文谷(二〇一一)によると「葬儀には五つの役割(処理)」 があり、社会的な処理、遺体の処理、霊の処理、悲嘆の処理、 さまざまな感情の処理をあげている。 社会的処理とは、死亡届を役所に提出したり、銀行口座を凍 結したり、生命保険を解約したりして、故人が死亡したことを 社会が認知することを指す。 遺体の処理とは、火葬したり、その骨をお墓に埋葬すること を指す。 霊の処理とは、宗教的な儀式などにより、亡くなった故人の 霊を弔う事を指す。 ま た、 祭 壇 単 価 の 増 加 か ら 葬 儀 に お い て 故 人 の オ リ ジ ナ リ ティを重視する顧客ニーズが顕れていると考えられ、祭壇など と考える。 える可能性を考えて、葬儀社はそれに対する対応が必要である 名古屋以外の都市においては、通夜参加することの利便性を さらに追求し、名古屋市のように、通夜への参列の重要度が増 に都会人は、利便性を見出しているのではないかと考えられる。 特に弔問客の悲嘆の処理、さまざまな感情の処理ができなくな 特に会葬規模が縮小するということは通夜参列者や葬儀会葬 者が減ることになり、五つの「葬儀の役割(処理)」のうち、 とを意識しなければならない。 ままで葬儀を行うことは、親族と弔問客の間に混乱が生じるこ 家族葬を行うこと(家族以外の会葬規模を増加させない)に より、抜け落ちてしまう「葬儀の役割(処理)」を補充しない さまざまな感情の処理とは、親族や弔問者が抱く、悲嘆以外 の感情の処理の機会を与えることを指す。 悲嘆の処理とは、親族や弔問者が故人の死を確認することに より、悲嘆の機会を与えることを指す。 の故人の個性を際立たせる商品のさらなる開発が必要であると る。 名古屋市において通夜への参列が増えているのは、仕事を休 んで葬儀に会葬するより、仕事が終わった後に参列できる通夜 考える。 -35- ⒀ 【研究論文】 葬儀関連の仕事に従事する者は、家族葬という定義が決まっ ていないために発生する「喪家がイメージする家族葬」をその まま行うことにより喪家が負うであろうマイナス部分を補うこ とができるようにマイナス部を明確に告知しマイナス部分が無 くなり、 「喪家がイメージする家族葬」に近いかたちの葬儀を 提案、助言することが大切であると考える。 本研究は、単一企業を対象としているため、愛知県全域の傾 向を表しているとは言えない。 賛同が得られれば、他企業にも働きかけ、遺族数、通夜会葬 者人数、葬儀会葬者人数の基準を確立し、葬儀業界の人数指標 を作りたいと考えるが、次の課題としたい。 参考文献 ・浅 井 秀 明・ 福 田 充 ・ 八 木 澤 壮 一 ( 二 〇 一 三 ) 、 「豊田市・出雲殿におけ る通夜、葬儀の変化について」『葬送文化(日本葬送文化学会・会誌) 』 、 第一三号、 。 pp.50-58 ・出雲 、 『 COMPANY PROFILE IZUMODEN GROUP 』 、 殿総務部(二〇一二) 出雲殿。 ・澤井 、 『死と死別の社会学 社会理論からの接近』 、青弓社。 敦(二〇〇五) ・小学館編(二〇一二)、『エンディングノート』 、小学館。 ・新村出(二〇〇八)、『広辞苑 第六版 あーそ※』 、岩波書店。 辞苑 第六版』は「あーそ」と「たーん」と「付録」の三編から構成されている。 ※『広 ・碑文谷創(二〇一一)、『増補三訂 葬儀概論』 、表現文化社。 データの出典 ・愛知県人口動態統計 http://www.pref.aichi.jp/0000000028.html 2013/8/13 ・安城市ホームページ http://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/tokei/jinkousetai.html 2013/8/13 ・尾張旭ホームページ http://www.city.owariasahi.lg.jp/shoukai/gaiyou/jinkou/index.html 2013/8/13 統計瀬戸市 Web http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2013041600038/ 2013/8/13 知立 Web https://www.city.kariya.lg.jp/shisei/tokei/jinkonoshiryo/index.html 2013/8/13 ・ Web かすがい http://www.city.kasugai.aichi.jp/web_statistics/ 2013/8/13 ・刈谷市ホームページ ・ ・ http://www.city.chiryu.aichi.jp/0000003105.html 2013/8/13 ・ Web 統計とよた http://www.city.toyota.aichi.jp/web_statistics/ 2013/8/13 ・名古屋市ホームページ http://www.city.nagoya.jp/shisei/category/67-5-5-0-0-0-0-0-0-0.html 2013/8/13 脚注 ⑴ 澤井(二〇〇五) 、 p.10 ⑵ 冊子の帯の箇条書きより抜粋。 中井健人(二〇〇八)『思い出クイズ&チェック式 たったひとつの 自分史づくり』ウェイツ、立花隆(二〇一三) 『自分史の書き方』講談 ⑶ 社、前田義寛・野見山肇・前田浩(二〇一三)『失敗しない自分史づく り 九八のコツ』創英社/三省堂書店 ⑷ 新村(二〇〇八) 、 p.2571 出典:愛知県人口動態統計(死亡者数は一月~一二月・人口は一〇 ⑸ -36- 【研究論文】 月一日現在) 八事斎場所在地 〒四六八 事字裏山六九番 地 ⑹ ⑺ 〇 - 〇七一名古屋市天白区天白町大字八 出 典: 出 雲 殿 資 料、 二 〇 〇 九 年 八 月 期、 二 〇 一 〇 年 八 月 期、 二 〇 一 一 年 八 月 期、 二 〇 一 二 年 八 月 期 の 表 記 は 出 雲 殿 決 算 期 に よ る 区 切り(例:二〇〇九年八月期は、二〇〇九年九月一日~二〇一〇年八 月 三 一 日 の 間 で、 以 降 二 〇 一 〇 年 八 月 期、 二 〇 一 一 年 八 月 期、 二〇一二年八月期も同様に区間を区切る。 ) ⑻ 出典:出雲殿 資 料 ⑼ 出典:出雲殿 資 料 ⑽ 出典:出雲殿 資 料 ⑾ pp.10-12 会葬返しの他に、五、〇〇〇円、一〇、〇〇〇円の香典に対する返礼 品を香典返しと言い、会葬返しと区別する。香典返しを渡す会葬者には、 会葬返しも添え る 。 ⑿ 出典:出雲殿 資 料 ⒀ 碑文谷(二〇一一)、 -37- 【研究論文】 嵯峨 英徳 「死の受容」の場としての火葬場 等の社会的役割に関する一考察 はじめに 筆者は、東京都営の瑞江葬儀所にて二〇余年火葬ならびに会 葬者接遇の現場業務に従事し、東京都定年退職後は都営霊園に ところである。愛する家族など別れ難い人の「死」に直面した 時、生前の姿形を留める遺体を前にし、遺された人にとって、 その「死」は、観念・理性のレベルでは認識できても、心の深 奥では受け入れ難いものであろう。カルト教団絡みの事件で、 死亡した肉親の遺体について「死んでいない」と主張する遺族 の様子が報じられたことがあったが、一般の人であっても、何 かの間違いであってほしい、できることなら生き返ってほしい、 と思うのは当然の事であろうし、生前の面影を前にして様々な 思いを語りかけたりする遺族の心理においては、亡くなった方 の人格は、その遺体の中にまさしく存続しているのである。 によるお骨上げのお手伝いをする、という業務を通じて通常得 いと思う。特に、火葬場においては、実際に遺体を焼き、遺族 験をふまえ、その社会的役割について思うところを若干述べた を反映したものとも思われる。そして、古代インドの火葬のあ たことがらは、生前の姿を留める遺体に対して抱く遺族の思い して成り立っていると思わせるものが多く見られる。そういっ 人の「魂」など、その人格的主体が存続していることを前提と 代 か ら の 様 々 な 地 域・ 宗 教・ 民 族 に お け る 葬 送 儀 礼 や 遺 古 物・遺跡・文献等の中にも、生前の姿を留める遺体には、その 難い体験をさせて頂き、その精神文化面における役割の重要性 りさまを留めるといわれる、ガンジス河畔バナーラスにおける て霊園管理業務に従事してきた。火葬場・霊園における実務経 を認識するに至った。 火葬においては、火葬中に魂は昇天するものと考えられている。 荼毘に付してしまえば遺体は焼変してしまい、もはや未練を 繋げるよすがたりえなくなってしまう。従って、火葬炉の前に (註①) 火葬場における実務を通じて得た最大の教唆は、そこにおけ る「死の受容」とでも言うべき機能の発見であった、というこ おいて納炉に同意する時、遺族は、心理的に一歩踏み出さざる 一、火葬場の社会的役割と火葬行政 とは、拙著(註①)をはじめ、様々な機会を通じて述べてきた -38- 【研究論文】 あるまいか。 ていた頃であれば、焚き付けに点火する時がそうだったのでは いのは、そのためであろう。おそらく、かつて野焼きが行われ とりすがったり、号泣したり、絶叫したりする方々も少なくな ては心理的ピークに達する時である。火葬炉前において、棺に を得ない。 「死の受容」のクライマックスであり、遺族にとっ 使命である。 助を為すことこそが、火葬場ならびに火葬業務従事者の社会的 を受入れ、悲しみの淵から立ち直る第一歩を踏み出すうえで一 くらい重要である。そこにおいて、遺族が、愛する人の「死」 理プロセスにおいて果たしている役割は、決定的といってよい ならびに火葬場については、保健衛生局等々の部署が担当する 近代日本における火葬および火葬行政は、遺体処理・衛生管 理の観点のみから出発している。多くの自治体において、火葬 そして火葬が終了し、遺族自らの手で焼骨を骨挙げすること によって「死の受容」の心理過程は一段落する。 あろう。 ことが一般的になっているが、そうした経緯を反映するもので 葬と火葬が並行していた平安中期に編まれたと思われる 土 『栄花物語』には、風葬的要素も併せ持つ土葬の描写において 「火葬ならば諦めもつくが、このやり方では悲しいこと甚だし のようにして遺体を保存する事は不可能に近く、いずれ遺体は れることは当然のことかもしれない。しかし、一般的には、そ 生前の姿を留める遺体に対する思いを考えるならば、古代オ リエントや中国馬王堆漢墓のような遺体保存の葬法が広く見ら るものと思えてならない。 ロセスにおいて果たしている役割について、その重大さを物語 代においても火葬ならびに火葬場が「死の受容」という心理プ ②)という、言わば火葬場の精神文化面における社会的役割に (略)きわめて清浄で静寂荘重な施設でなくてはならない。」 (註 葬場は荘重な葬儀告別の殿堂であって処理工場ではないので 京市は、火葬場建設を公園緑地行政の一環として位置づけ「火 形を追求し、その後の火葬場建設に大きな影響をもたらしたこ り、これからの火葬ならびに火葬場の模範となるべき理想的な 担ってきた首都において、敢えて公営火葬場を建設するに当た 都内唯一の公営火葬場として瑞江葬儀所が開設された際、当 時 の 東 京 市 の 担 当 課 長 で あ っ た 井 下 清 が、 民 間 が 火 葬 業 務 を 腐食し、人格を継承する主体が宿るものとしては耐え難い状態 着目した方向性を打ち出したのである。今日においても、都営 い。 」といった会葬者の感慨が述べられている箇所がある。現 へと変り果てる。死穢や祟りの観念が生ずる所以でもあろう。 霊園や葬儀式場である青山葬儀所とともに瑞江葬儀所が都の公 とは、歴史的にも高く評価されてきたところである。当時の東 「死の受容」という心 何れにせよ、火葬ならびに火葬場が、 -39- 【研究論文】 の公園や文化財庭園等とともに管理を委託されてきたことの歴 園緑地部の管轄下にあって、 (公財)東京都公園協会が、多く いると偽っているというのである。家族同士で、職場や学校で 携わっておらず庭園部分の園地管理や設備管理にのみ従事して 所に勤務していることは隠しきれないにしても、火葬業務には も禁止されている。 カード装着を行わず、職員が写りこむような場所での写真撮影 従事者については、一般には義務付けられている写真入り職員 うであった。そういった事情もあって、瑞江葬儀所では、火葬 のことなどを語り合うときなども、作り話でごまかしているよ 史的背景がそこにある。 (註①)『東アジアにおける火葬の考察』 (二〇一一・九・一 京成社) (註②)井下清「都市の葬務緑地」(『緑地問題』一九五二・一〇 東京市 政調査會) 二、都市空間としての霊園・葬儀所 なことや、それに類する体験は何度かあった。瑞江葬儀所の所 「あんな人と口をきいてはダメ!」と叱りつける、というよう えて引き戻し、虫を見るような眼で私を睨み付け、お子さんに 私の所へ駆け寄ってこようとした時、その親御さんが血相を変 貸価格が安い、といった話は聞いたことがある。私は、昨年母 いても、墓地の隣接地は、そうでないところに比べて地価や賃 ている。火葬場のみならず「死」に関わる場、例えば墓地につ においても、周辺住民との取り決めで一日の火葬件数を制限し 度の差はあっても避けて通れないという話も聞く。瑞江葬儀所 背景には、火葬業務を含む「死」に関わる物事や人に対する 穢れの観念や、そういった職種に未解放部落等被差別層出身者 長だった方が出張先からタクシーで戻ろうとしたとき、運転手 が身罷り葬式をやったが、利用者として経験してみて改めて感 映画『おくりびと』のもととなった書(青木新門著・註③)に、 その著者が葬儀社で納棺業務に従事した体験の中に、親族から、 が行先を聞いて血相を変え、乗車拒否はできないので近くまで じたのは、火葬場も墓所も、表通り等の人目に付くところには が従事してきたという歴史的背景があることはよく知られてい 来てはくれたものの、正門から中へ入ることを嫌がり裏門付近 入口が無く、少し目立ちにくい造りになっていることである。 納棺夫の職務についたことを「一族の恥だ!」と罵られたこと の路上で降ろされた、といったようなこともあった。私が着任 「死」を忌み嫌い、できる限り隠蔽し、眼につかぬようにしよ る。現在でも、火葬場建設においては、周辺住民との軋轢は程 して何よりも驚いたのは、職員の中に、火葬業務に従事してい うという志向性を窺わせるものである。 が記されている。私も、職務中に、会葬者の連れてきた幼児が ることを家族にも隠している方がいることであった。瑞江葬儀 -40- 【研究論文】 事した経験も踏まえた著書を実名で出版した際も(面と向かっ ニュアンスのご意見もあることは知っている。私が、火葬に従 もとより、こうした現状について部落差別等と同様に「その こ と に は 触 れ ず に そ っ と し て お い た ほ う が よ い。」 と い っ た 係各位からも様々な観点からのご教示を賜りたく、お願い申し きたことから脱皮する歴史的役割を果たすものとなるよう、関 園・葬儀所が、なるべく日常生活の眼につかぬように造られて と も 連 携 し た 空 間 創 出 が 図 ら れ て い る。 都 市 空 間 に お け る 霊 「ソメイヨシノ」などを活用し、周遊ルート整備等、周辺地域 ては言ってこないのではあるが) 「今まで守られてきた守秘原 上げる次第である。 以上、死に関わる施設についての基本的認識を申し述べたが、 遺族と向き合う業務について、若干の問題提起を含め、実務経 三、 「死の受容」の場としての火葬場における業務 (註⑤)東京都建設局公園緑地部計画課資料「区部霊園の再生について」 (二〇一一・七) (註④)八木澤壯一「序論」葬送文化研究会編『葬送文化論』 (一九九三・三 古今書院) 法蔵館)参照。 それについては青木新門『それからの納棺夫日記』 (二〇一四・二 (註③)『 納 棺 夫 日 記 』 一 九 九 三 桂 書 房・ 『 納 棺 夫 日 記 増 補 改 訂 版 』 一九九六 文藝春秋社・『定本 納棺夫日記』二〇〇六桂書房。青 木氏は、映画化に際し、敢えて“原作”とされることを拒んだ。 則を破る行為で許されない。 」といって本を床に叩きつけた同 僚もいたようである。社会に深く根付いた差別や偏見を取り除 くことは、一朝一夕で可能なことではないから、無理もない反 応と言えなくもないが、それでよいはずがない。「死を直視し 生の価値をみつめ直せる火葬場」 (註④)という理想へ近づく うえでも、関係者自らの意識を含め、克服しなければならない 課題の大きさを実感している。 (雑司ヶ谷・青山・谷中・ 現在、東京の所謂「区部四霊園」 染井)においては、 「霊園に有する自然資源・人文資源を保全・ 東京市時代から引き継がれてきた火葬行政に関する理念と共通 験に基づく整理を試みたい。 活用し、霊園と公園が共存する空間として再生を図る」(註⑤) の視点に立った計画、霊園という「死」に関わる空間を開かれ という霊園再生の計画が進行中である。これは、前節で触れた、 た空間として再生しようとするものとして注目に値する計画と ならば「遺骨」であろうか? 私の職務上の実感は「遺族の気 持ち」である。逆に言えば、そのことから冒頭に申し述べた火 火葬場或いは霊園において取り扱うものは何か? という問 いに対して一般的に思いつく答えは、前者ならば「遺体」後者 言うべきであろう。染井霊園においても、墓所のニーズ多様化 に応える立体式墓地や、緑地資源を生かした広場の設置などを 行うとともに、著名人墓所等の文化遺産や、地域を特徴づける -41- 【研究論文】 の方、等々、ごく自然に遺族の様子が気になるようになった。 あろうか? 満足げに謝意を表して帰る方、憤懣やるかたない 雰囲気で火葬場を後にされる方、悲しみに打ちひしがれたまま る為、事実としての民間伝承の存在を紹介する言い方にとどめ と“後生がよい”とよく言われています。」(宗教的中立性を守 ありがたみを感じないが、葬家によっては「これが残っている 反応は正反対だったり……というようなことも珍しくはない。 勿論、幼い我が子を失った方と、大往生された高齢者の遺族な ることは言うまでもない。)とご案内すると、感激の涙して喜 葬場の社会的役割等々も見えてきた、と言うべきであろうか。 ど、それぞれの事情による差異も大きいとはいえ、火葬場職員 ぶ方々も多い。そうかと思うと「余計なことは言うな!」と怒 「自分だったら」といっても、例えば、所謂“喉仏”の解説 についても、そもそも信心浅い私などは、そんなことには殆ど の対応による差異が目につくようになり、事情は事情として、 られることもある。葬家の感覚は様々であり、それを速やかに 火葬ならびに会葬者接遇の職務に多少慣れてきたころからで それなりに気持ちに区切りがついて落ち着いた心理状態でお帰 察知して臨機応変に対応することが、この職種における“熟練” のと思われるようにもなった。五〇歳も近くなってから大学の そうした背景に関する知識の習得もまた職務上必要不可欠なも 「自分だったら……」というのは、独り善がりになりかねない 高 め る う え で も 役 立 っ た と 思 う。 そ う い っ た 意 味 に お い て は 大学や葬送文化学会を通して学んだ、様々な宗教(とりわけ 仏教の諸宗派)や葬送儀礼に関する知識も、利用者の満足度を であろうか、とも思う。 二部に通って東洋哲学を専攻するようになった動機も、そんな 危険性を伴う。 り頂くにはどうしたらよいか? 工夫するようになった。 た、 同 じ よ う な 事 情 の ご 葬 家 で も、 家 族 関 係・ 宗 教 的 信 ま 条・風俗習慣・年代等の違いによって感覚は千差万別であり、 ところにあったと言えるかもしれない。 か考えろ。 」というものがある。私も、先輩や上司から度々言 場においては、火葬炉前に会葬者が集まって“お別れ”する。 まず、一節で述べた生前の姿を留めた遺体との最後の別れと なる火葬炉前の“お別れ”について考えてみよう。多くの火葬 次に、具体的な局面での対応を中心に述べてみよう。 われてきた。しかし、来所する遺族は様々で、その価値観・宗 それは、遺族の心情を思えば自然なことであろう。かつての野 教・人生観・死生観・思想・人生経験等々は千差万別で、こち 辺の送りであれば、焼き場に到着して点火する場に相当するで 相手(遺族)の気持ちに寄り添うサービスの心得として、よ く聞く言い方に「自分がその立場であったら、どうしてほしい らが同じことをしたり言ったりしても、A家とB家とではその -42- 【研究論文】 らかの事情でその場に立ち会えなかった方との精神面での経緯 が大きく異なってくるらしい。この“同意”をした遺族と、何 に強要されたことと自分で決したこととでは、その受け止め方 が心理的なピークに達する。心理学的に見ると、人間は、他人 焼懐させることに同意する、その瞬間であるから、多くの遺族 様々な問題もあった。 (註⑥)前述の通り、生前の姿の遺体を ている場合もある。(註⑦) この拾(収)骨については、関西の方の中には部分収骨に慣れ もまた「死の受容」においては重要なプロセスであろうと思う。 家百様である。何れにせよ、自らの手でお骨を壺に納める行為 も多いが、稀にその逆であるなど、遺族の心理の動きもまた百 やがて火葬が完了し“お骨挙げ”となる。納炉の際あれほど 取り乱していた方が……と意外なほど物静かになっていること のお気持ちを汲んでご案内することが肝要であろう。 の相違について、その道の学識者による研究をお願いしたいよ 近年では、外国人や日本国籍でも外国で生まれ育った方など、 様々な方の利用も増えており、そもそも火葬自体に馴染まない あろうか? なお、瑞江葬儀所においては、様々な事情により、 そ の“ お 別 れ ” の 場 が 別 に 設 定 さ れ て お り、 そ こ か ら 生 ず る うな気もする。 日本の習慣だから、嫌ならばやる必要はない。」と案内すると 日本人でも「やめて!」と叫んだり、やりきれない気持ちの ぶつけどころというべきであろうか、職員に「馬鹿野郎!」と 物損壊に至るなど業務に支障を生ずることはなかった。 う者もいた。一種の通過儀礼らしく、決して火葬執行妨害や器 初めての頃は私も当惑したし、同僚の中には偏見的な陰口を言 く) 、棺に取りすがらんばかりのアクションを演ずる方も多く、 り(そうしないと「親不孝者」呼ばわりされかねない、とも聞 例えば、韓国・朝鮮系の方では激しい嘆きを表現する風習があ 葬場においても拾骨時に「散骨したいのだが……。」といった 地の募集を始めて高い倍率を記録するなどの事例があるが、火 そういった方々のみならず、遺族の価値観や葬送意識が多様 化する中で、その要望も多様化しつつある。現在の勤務先であ ことも何度かあった。 ぶ方もいるなど、まさに千差万別、先入観無用だな……と思う 意外と多く、アジア系の方の中には“喉仏”の解説をすると喜 「やってみたい。」「素晴らしい習慣だ。」などと言って拾う方も 葬家もある。それでも、たどたどしい英語や中国語で「これは この炉前での“お別れ”についても、基本は遺族(それも故 人との関わりの濃密な方優先)の「気の済むように」であろう。 当たり散らしたりするケースもあるが、火葬が阻止されるに至 相談をもちかけられたことも一度や二度ではなかった。お骨を る都営霊園においても、例えば、近年は樹林墓地等の合葬式墓 ることはなかった。様々な“お別れ”の形があると思って、そ -43- 【研究論文】 が如何に故人のことを大切に思っているのか」を他の会葬者に 局面で爆発するケースは多々ある。中には、相続絡みで「自分 を、火葬場職員にぶつけてくることも少なくないが、骨挙げの ように、遺族の中には、何らかの理由で憤懣やるかたない思い 等の要望に苦慮することは日常茶飯事であった。先にも触れた こにおいても、基本は遺族の「気の済むように。」であろ こ うが「拾骨のやり方が納得できない。 」 「もっときれいに拾え!」 想定しての対応を検討する必要性は強く感じた。 い。 」と断るしかなかったが、遺骨の粉状化等、様々な要望を はなく、自分とは違う価値観を持った人の気持ちも尊重して対 びっくりさせられたりすることもあった。「自分だったら」で う」と後で苦笑したり、喜んだ遺族が「万歳!」を繰り返して 子 供 達 も 一 緒 に な っ て「 お 母 さ ん、 良 か っ た ね!」 な ど と いって大喜びされて「家族が死んで“良かったね”はないだろ ちでお帰り頂くために“おべんちゃら”を口にするのである。 とは言いたくないのであるが、少しでも遺族に晴れやかな気持 価値観・結婚観でいえば、家事・育児等は、男性も役割を担う おそらく、その年代のご夫婦では、夫がそう思っていても感 謝の言葉を言いそびれていることが多いのかもしれない。私の 「 持 ち 帰 り た く な い。 」 と い う 葬 家 に つ い て は「 規 則 上 で き な アピールしたいが為に職員に当たり散らしていたことが葬祭業 応する、ということが必要であろう。 べきであって、女性が専ら受け持つことを前提としたようなこ 者から後で聞いた話で判ったケースなどもあったが、その場で 作って差し上げていらしたのでしょうね。 」と付け加えると、 齢の女性配偶者が受け取る場合「奥様がいつもおいしいものを す。 」と申し上げれば、たいていの方が喜ぶものであるが、高 持になることも多かった。例えば「たいへんご立派なご遺骨で ようなことを申し上げることも多く、自分で情けないような気 少しでも落ち着いたお気持ちで遺骨を受け取って頂けるよう、 様々な工夫も凝らすわけであるが、一種の“おべんちゃら”の そもそも私は、父が熱心な仏教者だったので(よくありがち なことで)反撥から大変信心浅くなった。知識として、十善戒 種の為にあるような教訓だったのだな、と思う。 態を慮って立ち直りを手助けするという、まさに私のような職 「 “詐欺まがい”だな」と思ったこともあったが、相手の心理状 け難いものであることを悟るに至らしめた釈迦のやり方を ともちかけ“死人を出したことのない家”を探させ「死」が避 は耐え忍んでできる限り要望に応えるしかない。 「それを言ってほしかった!」とばかりに喜ばれるケースが非 の中に“不綺語”があることなどは父の影響で知っていたが、 「嘘も方便」と言うが、乳飲み子を亡くして我を失っている キ サ ー ゴ ー タ ミ ー に、 と り あ え ず「 生 き 返 ら せ て あ げ よ う。」 常に多い。 -44- 【研究論文】 父が死んで三〇数年経ち、相変わらず所謂“信仰心”などの宗 教的心情を抱くことはないにしても、釈迦の考え方や生き方に は共感を覚えることは多い。 おわりに 後段は火葬場等における体験をややとりとめもなく述べてし まったが、それらの積み重ねを経て今回の問題提起に至ったも が入所して彼を指導する立場にあったとき、会葬者に通常認め 園・葬祭場等の「死」に関わる施設には周辺住民との軋轢が避 最近、所謂「終活」ブームというほど「死」に対する関心が 高まってきているように言われる。しかしながら、火葬場・霊 のとしてご容赦を願いたい。 ない行為を、彼が同じ宗旨の会葬者に認めたことがあり、その け難く、なるべく日常目につきにくく建設されることが今なお しかし、公営施設における宗教的中立性という点について言 えば、私の場合、信心浅かったことはプラス要素だったかもし ことを注意したことがあった。同じ宗教的信条をもつものとし 多い、とも言われる。老人は介護が深刻なほど老いれば施設に れない。瑞江葬儀所において、ある宗旨の信仰心を持った職員 て「自分だったら」と相手の気持ちを思いやってしまった結果 入り、病人は病院にあり、我々の日常生活は、あたかも出家前 「死を見つめることは、生き方を問うこと。」(註⑧)という 発想が、広く世に受け入れられるまでの道のりを思うにつけ、 であろうが、他の会葬者には認めていないことなのであるから、 特定の宗教・国籍・民族・職業・出自等々によって優遇した り、逆に冷遇したり、といったことは間違っても無きよう、自 葬送文化学会の役割の重要性を痛感する次第である。 のシッダールタ王子のようだと言っても過言ではあるまい。 分も気づかぬうちに同様の過ちを起こしてはならぬことを肝に 不公正な対応と言わざるを得ない。 銘じた次第である。 (公益財団法人東京都公園協会染井霊園管理所) (註⑧)アル フ ォ ン ス・ デ ー ケ ン『 死 と ど う 向 き 合 う か 』 ( 二 〇 一 一・九 NHK出版) 最後になったが、八木澤壯一先生はじめ各位の貴重なご教示 に、改めて感謝を申し上げる。 (註⑥)それについては拙著「火葬場の告別空間ならびに公営火葬場にお け る 宗 教 行 為 に 関 す る 考 察 ―― 東 京 都 瑞 江 葬 儀 所 の 告 別 ホ ー ル 改 装 に 伴 う 諸 問 題 の 報 告 を 兼 ね て ――」 ( 公 [財 東 ] 京都公園協会緑 と水の市民カレッジ事務局編『都市公園二〇三号』二〇一三・一二) 参照。 (註⑦)浅香勝輔『火葬後拾骨の東と西』 (二〇〇七・三 日本経済評論社) に詳しい。 -45- 【研究論文】 株式会社誠行社の成立と火葬場に おける新しいサービスの取組み 石井 範明/福田 充 一、誠行社の成り立ち(明治〜大正〜昭和) - 斎などにより海水浴の有用性が取り上げられ、大磯を初めに由 -46- 一 一、明治時代における鎌倉・逗子の発展 総合葬儀社「鎌倉葬儀株式会社」として設立されましたが、大 比ヶ浜、葉山と次々と海水浴場が開設されていきました。ちな 会社誠行社は明治三九年(一九〇六)に「鎌倉葬儀舎」 株式 として設立されました。設立当初は火葬部門と葬祭部門を持つ 正八年(一九一九)に葬儀部門を切り離し、「株式会社誠行社」 みに明治政府において、長与専斎は内務省衛生局の初代局長、 問題などから当時の鎌倉の有力者を巻き込んで設立運動を起こ そんななか、当社の初代社長たる鈴木慶蔵が、あまりに野焼 き葬が非人道的であるとの観点と、開発による町営火葬場移転 財界人の別荘が多く建てられるようになりました。 明治二二年には海軍の要請により横須賀線が開通し、東京か らの交通も飛躍的に改善されたことにより、鎌倉・葉山には政 松本順は初代陸軍軍医総監でした。 に商号を変更しました。 当初は薪炉でしたが、設立の時としては最新の火葬場として 役割をはたしていました。 当時の鎌倉は、横須賀線の線路の上に立つと、材木座から由 比ヶ浜まで見渡すことができたそうです。そのような田舎町で あった鎌倉・逗子に近代的な火葬場をつくる必要があったのか。 明治以降、明治天皇の主治医を務めたベルツ博士の提唱した 避暑、または、松本良純が著した「海水浴のすすめ」や長与専 誠行社旧火葬場 【研究論文】 しました。 話しでは高位の方たちの火葬は昔から行われていたという事で なども順次閉鎖していったようです。 当時由比ヶ浜にあった町営火葬場も景観に合わない等の理由 もあり、誠行社が設立され稼働すると、長勝寺にあった火葬場 と思います。 域としては比較的まとまりの良い地域であったことも幸いした 火葬率が高かった地域では、そもそも焼骨埋蔵用墓地へ埋蔵 するか、菩提寺納骨堂へ収蔵するのが主であり、土葬用墓地が 葬用墓地の地代が急騰してしまいます。 毀釈」の流れから、一時火葬が禁止されました。都市部では土 を布告します。火葬は、仏教の宗旨に基づいてインドから伝え 明治時代に入ると、新政府は煤煙悪臭問題や神道派の主義主 張を取り入れて、明治六(一八七三)年七月に一般火葬の禁止 した。 簡単に言えば、皇族・華族・財界人の別荘のある地域に野焼 き の 火 葬 施 設 が あ る の は、 今 後 の 開 発 等 に 支 障 を き た す … と 少なかったため、新たな埋葬受け入れが不可能となる墓地も出 江戸時代は幕府の直轄領、旗本領、親藩領が混在していた三 浦半島において、鎌倉は幕府直轄地が大部分を占めており、地 いったことと理解されます。また、当時より浜辺が埋葬場所で てきて、埋葬用墓地の許可を受けていない墓地以外の地所に遺 に伴い、いろいろな時代の人骨が二、〇〇〇柱も出土した例で 体を不法遺棄する例も多発して混迷を極めました。 られた葬法として受け止められていたので、明治政府の「廃仏 あったことは平成になって施工された由比ヶ浜地下駐車場工事 もわかります。 大蔵省も火葬禁止令に反対したことから、この火葬禁止布告は しかし、公衆衛生上、人道上の問題があまりにも深刻かつ、 埋葬墓地が増加すれば、将来都市計画上大きな問題を起こすと そのような理由で、当時としては近代的な火葬場が鎌倉の地 に出来た…ということでしょう。 僅か二年後の明治八(一八七五)年五月に廃止されました。 - 集落または個人所有の簡易な火葬場しかなかった自治体をはじ 二、明治初期の火葬禁止令と火葬再開 近代に至るまで、江戸や大坂などの都市部と、浄土真宗門徒 の多い北陸地方などでは火葬が普及しておりましたが、日本の め、多くの財閥や資産家からも火葬場建設の請願が出されたそ 一 葬送儀礼として火葬は決して主流ではありませんでした。ただ、 うです。 この火葬禁止期間は多くの人々に火葬の必要性を再認識させ ることになり、火葬禁止布告が廃止されると、今まで寺付属や 二六年九月の当会例会で講演頂いた嵯峨先生の火葬の起源のお -47- 【研究論文】 火葬炉等あちこちを修理・修繕を繰り返して、火葬業を続けて 三、近代的な火葬場の整備と火葬率上昇 明治三〇年(一八九七)に「伝染病予防法」が制定され、法 定伝染病患者は原則禁止とされ、公衆衛生の観点から近代的な きました。 一 火 葬 場 の 整 備 が 促 進 さ れ ま し た。 当 時 の 日 本 の 火 葬 率 は、 戦前は、近代的な火葬場という面目を保っていた誠行社です が、戦後は一民間株式会社経営という背景から、建物や煙突、 三〇%以下でしたが、昭和初期にかけて五〇%を超えるように 昭 和 六 三 年 斎 場 棟 新 築、 平 成 六 年 火 葬 棟 新 築 と し て 現 在 に 至っております。 なりました。 以上の様なことで、田舎町であった鎌倉・逗子・葉山を営業 範囲とした誠行社が設立された訳です。 -48- 明治初期においては、この地域の中心は「葉山」 蛇足ですが、 であった様です。これは「葉山御用邸」があったことによると 思います。従いまして、当社の設立請願などは葉山警察署長宛 に出されております。 昭 和 の 時 代 と な り、 誠 行 社 で は 昭 和 一 三 年 に 重 油 炉 へ 改 修 (重油炉四基・薪炉一基)をしておりますが、戦争が激しくなっ て重油が手配出来なくなると、薪を使った火葬へ逆戻りした時 代もありました。 薪炉時代は火葬に一晩かかった様ですが、重油炉となってか らは現在とさほど変わらない時間となります。 終戦後は、昭和二三年に「墓地、埋葬等に関する法律」が制 定され、墓地や火葬場は公営化が進みました。誠行社はもとも と地域の有力者や寺院が設立したといういきさつからか、公営 化は進みませんでした。 平成6年に現火葬棟が完成した - 【研究論文】 弊社の野崎よりの話では、昔は従業員を採用するのも人が来 ないで大変であった…来ても、すぐ辞めてしまう…などと言わ ありました。何故…弊社へ…との質問には「映画や小説を読ん 二、総合葬祭部の設立に伴う社内改革 平成一八年、それまで火夫三名・斎場担当二名で火葬場とし て運営しておりましたが、直営の葬祭部を設立いたしました。 た昔との変わりようにビックリいたしました。 ります。これには非常勤役員等は含まれておりません。 平成二六年一一月現在の人員は火葬専従二名、葬祭部兼任六 名、斎場担当六名(パート含む)、管理・役員四名となってお でやり甲斐を感じ…」といった答えが多く、忌避施設と言われ れて採用に臨んだ訳ですが、一人の募集に三〇人近くの応募が これは今後の火葬件数の増加を見込み、それに対処するため の人員の増加と、その後の人口減少に伴う減収分の補填の為、 葬儀部門へのシフトを念頭にいれたことによります。 それと同時に株式会社組織ではありますが、公共施設の色彩 の強い当社が地元への貢献として、葬儀社の立場を鮮明に打ち 出したものであると考えます。 三、葬送儀礼としての火葬場のサービス 全国的に見ても民間会社が経営する火葬場は十数件しかなく、 ほとんどの火葬場は自治体が運営するものです。結果として昔 今、申し上げた展開の上で、弊社を維持・運営していくには 葬祭部の活躍が必要となる訳ですが、近年の葬儀料金の低価格 なっていると思います。 ました。葬儀は葬儀業者が取り仕切り、火葬は自治体や環境組 化・小規模化が小規模斎場しか持たない当社葬儀部の追い風と 葬祭部を設立して、それを確実に運営する人材として、弊社 社長 野崎二三子に白羽の矢を立てられたのが、大村英二とい う男…当時…男の子でした。 はっきりしています。 との覚悟でお仕事に従事されているものと思います。 この業界のお仕事は「故人とのお別れをお手伝い」するもの で、搬送・葬儀・火葬と係る全ての人達は「失敗は許されない」 合等の諸君が担うようになり、民間と公共のサービスの相違が われていた葬送は、葬儀と火葬は別物と捉えられるようになり は地域コミュニティの中で葬儀、火葬・埋葬と一連の流れで行 手前味噌ではありますが、この男の子が葬祭部を立ち上げた 当初、二年間、二四時間待機を一人でこなしていた事は驚嘆に 値すると評価しております。 その後、人員を増員して現在に至っている訳ですが、時代は 変わった…と言いますか… -49- 【研究論文】 ていねいに気を遣い遺体を搬送し、心を籠めて葬儀を行って、 最後の火葬場で「ホッとした」また「あきらめ」の気持ちでお 帰りいただくはずのところ、火葬場でのちょっとした音や仕草 ですべての努力を無にしてしまう事もありえる以上、細心の注 意が必要です。その意味でも、すべての従業員が葬儀について 考えておく必要があり、葬祭部が活動することにより、その経 験を共有出来ることに価値があると思っております。 -50- 火葬場は、一生のうち必ず一度は来る必要がある場所ですの で、故人の旅立ち、お別れを見送る場 斎場で行われる葬儀の模様 所として、来られた方たちに少しでも 寄り添える様、日々謙虚な努力をして いく所存であります。 * 葬祭部六名(平均年齢三三歳)の若 い感覚と力で市場の確保と新しいサー ビスへの展開とを期待しています。 誠行社車寄せ 【研究論文】 斎場棟から火葬場へ向かう 火葬炉 見送り(社長野崎二三子) -51- 【研究論文】 長江 曜子/八木澤壯一 首都圏及び山形、山梨、静岡、 岐阜、愛媛、鹿児島の石材店扱い の墓地返還・改葬にみる遺骨のゆ くえについて 一、研究の背景と目的 現代日本は、少子・高齢社会であり、二〇〇五年から人口減 少期の多死社会に入った。高度経済成長期に首都圏や中部・阪 神圏に流入した人口が、高齢期を迎え、墓地と先祖の遺骨を改 葬・返還する時期となり、年間七万件の改葬手続がなされてい る。本研究は改葬・返還後の、遺骨の扱いの現状や問題点と課 題を明らかにすることを目的とする。 二、研究の方法 全国各地の墓地は、過疎化による無縁墓地や、有縁であった としても遠方にある墓を維持管理できず無縁になったと思しき 墓地が急増している。その原因は、戦後長男、長女であっても、 首都圏や中部・阪神圏に上京し、教育を受けたのち、都市にそ のまま就職、結婚するケースが多い。核家族化も二世代になり、 少子化、未婚化等による家族のあり方も変化している。また、 平成一一年の厚生省の省令改正で、無縁墳墓の改葬簡略化が実 施されてから一五年を経て、墓地と墓石、遺骨が動き始めている。 平成二六年四月に首都圏の都立霊園現地調査と石材店につい て、改葬や返還に関して、現地調査と聞き取り調査を行った。 二点目には、山形県、山梨県、静岡県、岐阜県、愛媛県、鹿児 島 県 の 石 材 店 に、 改 葬・ 返 還 後 の 遺 骨 の 扱 い に つ い て の ア ン ケート調査を同時期に行い、その実態について、これまでの明 治維新後の墓地の無縁化の歴史的な経緯を踏まえた分析を行う。 三、結果とその分析 平成二六年の過去一年間における改葬・返還調査結果から、 二つのことが分かった。 ⑴ 首都圏の都立八柱霊園三九社中の一社、A石材店調査 平成二五年二月から平成二六年四月までに、返還・改葬した 事例が一五件であった。使用者は、男性一四件。女性一件と圧 -52- 【研究論文】 寺の永代供養墓)へ改葬をした例である。公営霊園三例(八柱 嫁いだ娘が母親の存命中に八柱霊園から京都大谷霊廟(東本願 使用者は、夫の死後墓を承継したが高齢になり、二人の他家に 倒的に男性が多かった。改葬者も同様であった。ただし、女性 件であった。 改葬理由としては、自宅の近所に九例、永代供養墓への移転 二例は娘だけの家族構成であり、承継者なし一件、遺骨なし二 葉県総武霊園とかすかべ霊園であった。 二件、八王子一件) 、民営一二例であった。 平成二三年の東日本大震災以降に、昭和五〇年代から開発し た民営霊園から、墓地の移転をしている事例が約八割であった。 当時、東京都内の墓地開発が不可能な時代であり、墓地を首都 圏から二〇キロ以上の遠方に購入せざるを得なかった。埋葬地 -53- は、千葉県が八霊園、埼玉県が二霊園、茨城県が一霊園、神奈 川県が一霊園、東京都八王子市が三霊園と首都圏の広範囲にわ たっている。改葬先は、都内の寺院墓地が四件、千葉県藤ヶ谷 霊園から文京区、神奈川県厚木霊園から世田谷区、千葉県小室 霊園から江戸川区、千葉県長福寺霊園から都内寺院墓地であっ た。埼玉県かすかべ霊園から八王子市の民営霊園、千葉県千葉 東京都八柱霊園hpより 図1 都立八柱霊園平面図 東霊園から綾瀬市の寺院墓地、八王子市民営萩霊園から都立多 磨霊園にある妻の実家の墓地に改葬された例もある。 また、遠方への移転例として、都立八柱霊園から栃木県今泉 霊園へ、八王子市萩霊園から札幌市の霊園へ、改葬移転した例 があった。同じ県内の改葬例として、千葉県千葉東霊園から茂 原霊園へ、茨城県とりで台霊園から牛久沼聖地霊園へ移転した 二例があった。同じ霊園内の永代供養墓への移転は二例で、千 八柱霊園 開園 : 昭和10年7月1日 面積 :1,046,468㎡ 【研究論文】 の返還改葬には、無料の優遇 一件(都立小平霊園)、民営墓地が一件(天城霊園)、二七件が 平成二三年は三二件中、使用者が男性一八件、女性は一件、 不明が一三件であった。埋葬地は共葬墓地が三件、公営墓地が 件について調査を行った。 措置が取られており、返還を 寺院墓地であった。改葬先のお墓としては、永代供養墓が一五 また、平成二五年度に完成 した、霊園内の新納骨施設へ 促進している。 供養墓へ改葬移転した一例と、恵鏡院から移転先不明が一件の 普通墓地であった。 ら品川区の寺院墓地への移転改葬であり、永代供養墓ではなく、 不明八件であった。女性の改葬者の事例は、伊東市の松月院か 遠方は品川一件、北海道一件、富士市一件、仙台市一件であり、 寺院への移転、町営墓地への移転が二件、民営霊園移転が一件、 院からの依頼であり、同寺院内の永代供養墓であった。七件が 件であった。永代供養墓への移転は、四件であり、すべてが寺 埋葬地は、寺院墓地が一八件、共葬墓地が三件、公営霊園が一 平成二四年は、使用者と改葬者は、男性が一六件、女性が一 件で、不明五件であった。一一件は寺院からの依頼であった。 原光寺への移転改葬は、夫婦墓の事例が一件であった。 の依頼が一件(民営の天城霊園から改葬先不明)、弘誓寺から 件のみであった。一三件が寺院からの依頼であり、市役所から の依頼が、一九件であった。遠方への移転改葬は、熊本県の一 件であった。女性改葬者は、伊東市仏光寺から、同寺院内永代 都立八柱霊園に隣接する石 材店は単に石材工事管理メン 二件であった。改葬先が不明なのは一〇件であった。寺院から 改葬・返還の相談、代行、工 事業務を受け持つことが分 かった。 ⑵ 地 方の石材店のアンケートから 改葬・返還に二タイプあることが分かった。 タイプ1 人口流入地域である、静岡県伊東市、岐阜県多治見市、愛媛 県松山市の寺院墓地や民営墓地においては、県内の過疎地域や 他県からの流入者の墓地移転が多かった。 *静岡県伊東市I石材の改葬記録 平成二三年一月から一一月までの三二件、平成二四年一月か ら一一月までの二二件、平成二五年二月から一二月までの三七 -54- テナンス業務だけではなく、 写真1 新納骨施設 【研究論文】 男 性 五 名 と 同 数 で あ っ た。 返 還・ 改 葬 理 由 は、 承 継 者 な し が みで、あとの九件は共葬墓地であった。改葬者は、女性五名、 平成二五年度中、九件が寺院からの依頼分であった。使用者 は、男性三五件、女性二件であった。永代供養墓への改葬移転 一〇件であった。 *愛媛県松山市S振興会の改葬記録 は一三件であった。中には、埋葬地であった龍豊院内の永代供 養墓に移転した事例では、石塔一四基を処分した事例があった。 埋葬地は、公営霊園二件、共葬墓地二件、自宅墓地一件、後の 平成二五年二月から平成二六年七月までの計一一一件の調査 を行った。 埋葬地は、寺院三三件、共葬墓地六五件、公営墓地三件、民 営墓地六件であった。使用者は男性が七九件、女性が三三件で 三二件は寺院墓地であった。改葬先は、公営が一件、民営が二 近隣は神奈川県鎌倉市であり、稲取町営霊園、伊豆市で、一一 あ り、 改 葬 者 は 男 性 が 件であった。遠方への移転改葬は、九州が一件、北海道が一件、 件は不明であった。 八一件、女性が三一件で 墓地への改葬移転二一件中、埋葬地は寺院墓地が二件、共葬 墓地が一二件、公営墓地が二件(飛騨市神岡町の墓地、名古屋 改葬一〇件で、計三一件の調査ができた。 I 石 材 店 の 改 葬 記 録 に つ い て、 平 成 二 三 年 一 一 月 か ら 平 成 二六年七月までの墓地改葬移転の二一件、永代供養墓への移転 ンとして近年人口が増えてきている。 墓地の内訳は愛知県二件、 が九件であった。遠方の 納骨堂が一五件、永代供 二件、民営墓地が三七件、 寺院墓地が二七件、共葬 養墓が九件、遠方の墓地 -55- *岐阜 県多治見市I石材店の改葬記録 あった。そのうち二件は 市平和公園墓地) 、民営霊園が五件であった。使用者は一八名 兵庫県一件、和歌山県一 男女であった。改葬先は、 が男性で、三件が女性であった。改葬先は、四件が寺院墓地へ、 件、九州一件、東京二件、 岐阜県多治見市は、政令指定都市の名古屋市まで、快速電車 で約三〇~四〇分の立地条件であるため、名古屋のベッドタウ 二件が共葬墓地へ、一三件が民営墓地に移転した。永代供養墓 大阪二件であった。 墓地が六件、公営墓地が への改葬移転事例一〇件の中で、埋葬地は、寺院墓地は一件の 写真2 松山市の永代供養墓 【研究論文】 葬が一件、親戚の墓のある墓地に移転が一件、寺と折り合いが めが一件、子供がないため妹の家族の墓の近接したところに改 つの墓を一つにするためが二件、二つの墓を一つに管理するた で墓参しにくいためが二件、遠方の為墓参りに不便が五件、二 お骨なしが一件、車いす墓参がしたいためが一件、山場の墓地 件、管理の良い霊園が良いためが一件、軍人墓の処分が一件、 改 葬 理 由 と し て、 自 宅 の 近 所 に 移 転 が 五 九 件、 承 継 者 難 が 一七件、宗旨替えや宗教替えが四件、交通至便にするためが一 永代供養墓への移転改葬が、五件で全体の二六%で約四分の一 所が四名で、東京二件、神奈川県一名、静岡県一名であった。 (うち女性が改葬者は二件)であった。改葬理由は、自宅の近 で あ っ た。 改 葬 先 は、 永 代 供 養 墓 が 五 件 で 理 由 は 承 継 者 な し (うち三名が娘)、六名が男性で、家名のみが二件、不明が五件 不明三件、一四件は男性であった。会葬申請者は、女性が六名 あり、圧倒的に寺院墓地が多い。使用者は二名が女性であり、 所は、一六件が寺院墓地、二件が共同墓地、一件が民営霊園で 一一月までの一九件の改葬記録から分析した。墓地のあった場 悪くなったためが一件、妻側と合祀するためが一件、長男が和 であった。 -56- 歌山県にいるためが一件、遠方の現住所に移すためが八件、不 明が四件であった。松山市は、関西圏、中部圏、首都圏への人 口移動(進学、就職、結婚等による)が、戦後顕著であったた め、その方面への改葬移転が多いと思われる。 タイプ2 人口減少地域である山形県米沢市、山梨県甲府市、鹿児島県 鹿児島市においては、墓地移転は首都圏や中部・阪神圏への移 転が多く、先祖の遺骨の一部を永代供養や納骨堂に入れるタイ プがみられた。 *山形県米沢市I石材店の改葬記録 山形県米沢市は、人口一〇万人を切っており人口減少の地域 に 位 置 し て い る。 I 石 材 店 の 平 成 二 五 年 四 月 か ら 平 成 二 五 年 写真3 山形県米沢市の永代供養墓 【研究論文】 *山梨県甲府市M石材店の改葬記録 *静岡県焼津市のK石材工業所の改葬記録 なしが四件、うち永代供養墓への移転が三件で、本家墓地への 葬理由は、自宅の近所が一件、静岡県伊東市への移転、承継者 用者の妻一件、いとこ一件、親戚二件(寺仲介)であった。改 藤枝市の寺院墓地から、墓地の相続者の独身五〇代の一人娘が 墓へ入れた(どちらも一人娘が独身であった)。そのうち一件は、 霊園キリスト教区であった。改葬先は、二件が寺院内永代供養 八件中、使用者が女性は二件であり、六件は男性である。埋 葬地は六件が寺院墓地、一件が共葬墓地、一件が静岡市営愛宕 平成二五年七月から平成二六年四月まで八件を調査した。 移転が一件、宗旨替えが一件(奥さんの実家の墓地へ)であっ 無縁死し、家庭裁判所から弁護士が入って改葬永代供養墓への 平成二四年六月から平成二六年六月までの改葬記録六件中、 埋葬地寺院墓地六件、使用者は男性六件、会葬者男性二件、使 た。 移転費用の寺の経費を除いた分は、家屋敷を処分して国庫へ入 村田墓地から大阪へ改葬移転された事例が各一件ほどあった。 から神奈川県へ、民営のカトリック墓地から東京都へ、民営の ら静岡県へ、市営の坂元墓地から神戸に移転、市営草牟田墓地 市営の群元墓地から一部遺骨を神戸へ改葬、市営草牟田墓地か 骨堂であった。改葬理由は、九件が自宅の近所に移転、遠方は、 骨堂への改葬移転が一二件であり、うち一一件が寺院墓地内納 二二件の記録中、使用者が男性一八件、女性四件であった。 一四件が市営墓地、五件民営墓地(カトリック墓地一件)、納 平成二四年一一月一九日から平成二六年五月二日までについ て調査を行った。 二件であった。焼津市の寺院から、長男が守っていた墓を、息 ク墓地内納骨堂に改葬予定である。また、遠方への移転改葬は、 会の依頼で解体処分したが、弁護士立ち合いで、市内カトリッ 件は静岡市営愛宕霊園から無縁のS家の遺骨三体を、墓石は協 改葬事例中一件が寺院墓地から夫婦がカトリックのため、出 ていくことを言われ静岡市営霊園の一時預かりの納骨堂へ、一 自分も永代にお願いして整理した事例である。 に移転改葬を、独身の沼津市に住む六〇歳の娘が墓を処分し、 先祖は、焼津港の発展に寄与した水産翁と言われ焼津神社に記 *鹿児島県鹿児島市M石材株式会社の改葬記録 女性四件の改葬者中、三件は、納骨堂を改葬先としている。ま 子の死後両親の墓守りを二男に任せて、自分は新規墓地を購入 れた。石材店には、寺院からの依頼であった。あとの一件は、 た、市営宇宿墓地から民営の田上霊園納骨堂に妻の実家の墓を したため、二男の住む茨城県の牛久市にある寺院墓地へ、両親 念碑もあるが、昨年母親が亡くなり寺院から寺院内永代供養墓 自宅近くに移転した。 -57- 【研究論文】 ⑦ 宗教や宗旨替えで、寺院墓地からの改葬のタイプ 遺骨のみ改葬するタイプ ら阪神圏の東大阪市内の民営霊園に移転改葬事例が一件あった。 の遺骨二体を改葬した例である。また、浜松市内の共葬墓地か 墓地の相続者が未婚の女性であり、死後家庭裁判所から返還依 ⑩ 墓参に不便なので、交通が便利な場所に移転改葬したタ イプ ⑨ 承継者がいないため、妹家族の墓地に隣接する場所に移 転改葬するタイプ ⑧ 使用者が高齢化して車椅子が使用できる霊園に、改葬移 転するタイプ 頼があった事例が二件あった。民法の祭祀財産の承継者難のタ イプがあった。 ⑶ 結果と今後の課題 ② 故 郷の共葬墓地が、山場の墓地で墓参しにくいため移転 改葬するタイプ ① 故 郷の墓地や遠方の墓地を、自宅の近所に移転し、墓参 や管理しやすくするタイプ なく、追悼、メモリアリゼーションをいかに、葬送文化として 骨堂が寺院内や民営霊園にできたため、改葬が進行している。 が出ており、少子高齢社会が深刻な承継者難を起こしている。 墓地の返還、改葬後の遺骨の取り扱いには、一〇のタイプが あることが分かった。 ③ 将 来の墓地の承継者がいないため、使用者が生前に墓地 を改葬で、解体処分して、遺骨を納骨堂や永代供養墓に移 確保するかが問題となっている。今後は、男性の三分の一、女 墓地は、従来永代使用が一般的であり、家族がその担い手で あった。しかし、戦後核家族化が進行し、今や核家族二世代目 動するタイプ(娘だけのケースが多いが、男性のケースも 性の四分の一が、将来生涯非婚化、未婚化が心配されている。 なった。 祉の視点を持って進めていくことが課題であることが明らかに 個人単位や夫婦単位の墓地、有期限墓地についての研究を、福 ただ、改葬が、単なる墓地や遺骨の処理、処分に終わるのでは また、平成になって、墓地の多様化か起こり、永代供養墓や納 ある。 )愛媛県松山市の事例で、軍人墓の処分が一例あった。 ④ 墓 地使用者が無縁死し、独身の為承継者がなく、家庭裁 判所の弁護士が、改葬を依頼するタイプ ⑤ 妻 側の実家の墓を、移転改葬し、一つにまとめるタイプ (両家墓を建立) ⑥ 実 家の墓を、相続する際に、長男に固執せず、二男でも -58- 【研究論文】 八木澤 壯一 中国殯葬白書に見られる 殯葬事業の課題と動向について はじめに 中国では、毎年九六〇万人の死者がおり、その喪葬(葬儀に 相当する中国語の表現)活動に参加する人が二億人を超える。 葬 事 業 発 展 報 告 二 〇 一 〇 』 と し て 社 会 科 学 文 献 出 版 社 か ら、 二〇一〇年四月に出版された。殯葬事業の日本流にいうと『白 書』である。 主編者は、李伯森(一九六五年生れ)中国民主建国会会員で、 上海財形大学卒 民政部一〇一研究所所長である。中国民政部 の責任で編集されている。その内容は、五部で構成されている。 第一部は総報告で、民政部一〇一研究所の李伯森らによるも ので、二〇一一~二〇一二年殯葬事業発展状況、殯葬事業の新 規発展の主要問題、二〇一三年殯葬事業発展対策がのべられて いる。 展開している。そのため火葬と葬儀を行う殯儀館が全国で一、 京市殯葬協会副秘書長)ほかの殯葬サービスの保障性と市場特 殯葬管理)の恵民殯葬政策の実施状況と展開計画、悲春悦(北 第二部は恵民篇である。福祉政策としての殯葬事業に重点が 置かれていることの対策が論じられている。劉裙(法学修士・ 七〇〇か所存在する。そこには、五、二〇〇基余の遺体火葬炉 性、周雪媚(民政部一〇一研究所)ほかの中小都市における公 その喪葬活動を民政行政主導で火葬の実行を国策の基本として が設置されている。火葬率は四九%である。 江蘇省、深圳市における恵民殯葬の実践と特色がくわえられて 一〇一研究所)ほかの殯葬の環境保全技術の戦略的研究、楊徳 三部は科学技術篇である。孟浩(民政部副所長)ほかの遺 第 体火葬と蔡品遺物焼却設備の現状と対策研究、熊程程(民政部 いる。 葬サービスの基本性と選択性の分析研究がみられる。さらに、 益性公墓の建設対策、曾寒柳(民政部一〇一研究所)ほかの殯 この報告は、筆者の中国との長年の交流に加え近年刊行され た『殯葬緑皮書 二〇一二~一三』の内容をふまえ、現中国の 葬送事情の現状と課題を明らかにすることを目的とする。 一、『殯葬緑皮書 二〇一二~一三』について このレポートは三年目である。初版は二〇一〇年に『中国殯 -59- 【研究論文】 社会管理所職業学院)ほかの人文殯葬論の内容と外縁、朱金龍 の現在の殯葬事業における幾つかの文化理論問題、趙康(北京 第四部は人文篇である。人文殯葬を充実させようとする課題 に関する内容である。まず、王国華(北京工業大学教授)ほか かのネット祭祀の現状とその由来とその将来についてである。 林梅ほかの殯葬科学技術とその応用的探索について、馬金生ほ 所長)ほかの殯葬業務における汚染制御と環境管理基準体系、 率分析と殯葬施設の計画探究、肖成龍(民政部環境監測センター 現状と発展趨勢、張楠(民政部一〇一研究所)ほかの人口死亡 慧(民政部一〇一研究所)ほかの殯葬における遺体防腐技術の 緑色殯葬(クリーンな葬法をこう表現する)として、広樹葬、 花葬、草坪葬の推進。土地を節約する葬法として、骨灰深埋葬、 致すべく、中国殯葬業CO2削減計画が立てられた。 自然科学研究では「殯葬領域の排気汚染物質と遺体処理の無 公害化研究」が重大項目として取り上げられた。国際条約に合 策の研究も顕著で、「殯葬立法研究」が課題となっている。 役割、殯葬政策の標準化、公害防止政策が研究された。殯葬政 殯葬に関する自然科学的な研究と同時に、殯葬の歴史、文化、 習俗、政策の研究が進められた。社会保障制度としての殯葬の 元の住民負担を軽減した。 治区、直轄市で恵民殯葬政策が実施されている。毎年、一五億 保護をこえて、自然の尊重、自然への順応につながり、 「魂系 (中国殯葬協会顧問)の人文殯葬実現への筋道、孫樹仁(北京 沙民政職業技術学院教授)の中国伝統殯葬文化の伝承と再現、 生態、葉楽帰根、回帰自然、緑萌後人」に貢献すると考えられる。 撒灰、海葬などの安葬が推進された。これは資源の節約、環境 芸執毛らの死者記録簿作成案のモデル研究、楊荊生(空中大学 社会管理職業学院)ほかの現代の社会死生観研究、王夫子(長 副教授)の台湾における生前契約葬の発展と趨勢がある。 主編、文化出版社〈上海〉、四〇元)が出版されている。 東大学などが参加し、『中国殯葬史』(鄭曉江、徐春林、陳士良 さらに、殯葬文化研究に二〇一二年以降、民政部一〇一研究 所を中心に、中国社会科学院、中国孔子研究院、南開大学、山 精神的なケアに取り組もうとしている。 殯儀館開放日の設置や、グリーフケアをはじめとする心理的、 人文殯葬では、北京、上海、天津、湖北、広東では、慰霊サー ビスの他、人生記念園、人文博物館等の殯葬文化基地をつくり、 第五部は大事記で、二〇一一~一二年にかけての中国殯葬事 業の事業記録をまとめている。 二、二 〇一一~一二年の殯葬事業の現状 低 収 入 者 に 対 す る 殯 葬 政 策 が 顕 著 に な っ て き て い る。 二〇一二年末には、西蔵自治区(チベット)以外三〇の省や自 -60- 【研究論文】 葬サービス費免除としている。 殯葬を基本的民生問題と位置づける。古語左傳から「国之大 事、在祀与戎」を引用する。恵民政策の起源は二〇〇七年以前 拡大している。上海市では、二〇一〇年に計画公募面積は五、 国の老齢化の加速で、死亡人口が増加し、都市部の墓地需要が 三、殯葬事業の恵民政策について に、上海市、雲南省麗江市などで特殊困難住民に対して殯葬費 〇〇〇畆、当面使える墓地が一〇〇〇畆である。七~八年で満 恵民政策の一つとして、各都市における公益性墓地の整備が ある。民政部一〇一研究所の周、李、姜氏の報告で見よう。中 用 の 救 済 措 置 が 行 わ れ た こ と が 始 ま り で あ る。 制 度 の 確 立 は 杯になりそうである。 四、殯葬業としての科学技術の発展と対策 二〇一二年の民政部が出した「恵民殯葬政策の全面遂行の関す る指導意見」 (日本でいう行政通達に相当する)である。 恵民政策の現状は、基本殯葬業務として行政が提供する、遺 体の運送(納棺、消毒を含む) 、冷蔵庫での安置、火葬、骨灰 の奇存。選択できる殯葬サービスは、遺体の特殊処理、施設設 寄存、普通骨灰壷の費用免除としている。上海市では、遺体の 体の転送、普通炉火葬、三日以内の遺体の冷蔵、三年間の骨灰 天津市では同様に、一、八〇〇元としている。河北省では、遺 北京市では、遺体の転送、普通炉火葬、遺体の冷蔵、骨灰寄 存のうち、基本喪葬費用額を、標準として五〇〇元としている。 が取られている。 六四型の重油の火葬炉である。各地で使用されたが汚染、消耗、 中国の火葬炉の独自開発は、一九五〇年代、瀋陽火葬設備研 究所の前身である、瀋陽建新機械工場で始められた。六二型、 に努力されていた様子を具に見聞した。 春河氏の招きで火葬炉技術交流団で訪中する。当時中国が独自 から独自に火葬を導入する。共産主義国家の東欧から設備を導 中国殯葬革命の主眼は火葬の導入にある。当時は中国共産党 の立国直後で、日本による火葬施設も存在したが、抗日の考え 転送、普通炉火葬、遺体の冷蔵、薬液防腐、普通化粧について、 文明火葬炉の点で問題が多かった。 備の料金、祭尊サービスがある。各自治体では、次の様な対策 困難者を三〇〇元としている。深圳市では、遺体の転送(普通 つぶさ 入し火葬を始める。筆者は一九八〇年、北京市建築設計院の張 殯葬専用車) 、遺体保存(三日以内) 、遺体告別(小型告別室)、 八〇年代の初期、瀋陽火葬設備研究所は日本の台車式燃焼と 再燃技術を手本に、八二年に八二 B型オイル火葬炉を設計製 遺体火葬(普通炉火葬) 、骨灰寄存(一〇年以内)を、基本殯 -61- - 【研究論文】 それらの火葬炉は第一代中国産火葬炉で外国にも匹敵する水準 Y火葬炉、北京市でKHZL火葬炉が開発され市場に出回った。 がみられた。同時期に山東省でSDM火葬炉、湖北省で三HE 造する。この火葬炉は火葬効率、燃料消費、運転操作面で改善 四名、修士一二名が携わっている。 資格の三級研究員二名、四級研究員二名、副研究員四名、博士 それらの中で、民政部の一〇一研究所には、科学技術面で国家 所、安徽省の火葬炉企業、などで研究開発が進められている。 北省四二七科研所、煙台福利企業、上海遺物祭品焼却設備研究 五、殯葬業務の文化理論問題 を示した。 九〇年代、経済社会が進歩し、火葬炉の環境保護問題が重視 された。民政部では、フランスの火葬炉事情を視察し、公害防 止の技術提携を結びます。瀋陽火葬設備公司(株式会社)と合 資会社をつくり、TABO式火葬技術を採用し、江西省でYQ - - - も受け、海外の製品に匹敵する、第三代の火葬炉である。二一 自動化が図られ操作盤はカラー表示で外観も優美で、国家表彰 の先端技術を吸収し、独特の炉体構造でコンピューターによる 一九九七年、民政部一〇一研究所の開発になり九八年に石家 庄の新殯儀館にMZ 二〇〇〇型火葬炉が投入された。国内外 火葬炉と言われた。 率、自動運転、排気ガスのクリーン化で効果を上げ、第二代の 型火葬炉が開発された。これらの火葬炉が燃料節約、高燃焼効 は大切にし、殯葬事業の従業員を尊敬している。国家も民政学 中国の現代の殯葬事業の発展と変遷を、殯葬事業の重視と拝 跪、重情と無情、記憶と遺忘と捉える。殯葬に対して各家庭で 摘する。 さを、日本の映画“おくりびと”を例示し中国での震撼さを指 「殯葬事業の幾つかの文化理論問題を論ずるにあたって」で、 王国華(北京工業大学教授)、張三夕(中華師範大学文学院教 祭尊方式における殯葬文化の変化が問われて来ている。 中国の改革開放政策も三〇数年が経過した。殯葬業務でもこ の影響を受け大きく変化してきた。民衆の殯葬理念、喪葬形式、 世紀に入り、環境保護と省エネルギーに対する改良が進められ 院で従業員の教育に励み、殯葬文化の研究も進展している。し 九〇型、北京市のCH 九三型台車式、上海市のSD 九七 ている。 人で稼ぐ”と 蔑まされてきたのが現状である。 - かし、喪事に対し“縁起が悪い”とされ、従業員に対しても“死 授)は、社会の変化が著しいが殯葬業務については偏見の著し その後、伝統的喪葬慣習に応じる火葬炉や、葬祭に関する遺 留品に対する設備が求められてきた。江西火葬設備研究所、湖 -62- 【研究論文】 殯葬は、遺体の安置システムとして、儀式的文明としての記 憶と感情表現活動である。それには殯儀、安葬、祭祀の三大部 門が含まれる。 北京社会管理職業学院の孫樹仁、王丹、薫希玲らは「当代社 会生死研究報告」で殯葬改革の回潮現象を指摘している。中国 は殯葬改革として、 “土地の節約、火葬の実行、土葬改革、喪 葬弊俗排除”を進めてきた。しかし、半世紀が過ぎて、回潮現 - 象が現れてきた。その第一次は一九七八 八二年の三年間であ の 規 範 と し て 伝 え ら れ て い る。 “儀”は道議、情義で、一般社 会の交際の基準として役割を果たしている。 そのほか、殯葬事業発展問題研究グループは、死者の記録の 保存問題を探求したり、台湾の楊刑生は、台湾における生前契 約の動向について報告している。 まとめ 主に殯葬緑皮書二〇一三を基に中国の殯葬事業の現状と抱え ている課題、これからの動向を見てきた。福祉政策としての位 る。火葬率が三〇%から一八%に低下した。いわゆる文化大革 命期で、乱埋乱葬と旧習慣が復活したときであった。第二次は 置 づ け、 科 学 技 術 の 活 用、 殯 葬 本 来 の 役 割 の 検 討 が 明 ら か に - 四九%を徘徊している。 であろう。 工学博士) (東京電機大学名誉教授 なった。我が国でも当然検討すべき課題であり、参考にすべき 二〇〇六年以降である。二〇〇五年に五三%に回復した火葬率 が低下し二〇一一年でも四八 この要因として、伝統的殯葬習俗への評価が関わっていると 指摘する。孝道、生命尊重、社会公徳、職業道徳、家庭美徳、 品徳教育などを重視する考えからであろう。 「中国の伝統殯葬文化の伝承と継承」で王夫子・長沙民政職 業技術学院教授が報告している。中国の伝統的な社会意識は、 儒、釋、道の三家と民間信仰から形成されている。その中心は 儒家文化で、核心概念は孝、忠、礼、儀である。まずは自己の 愛である、これが孝に通じる。次が長者に尊重である。理想的 モデルとして“忠孝両全”となり、これが中国伝統文化の精髄 である。中国古代の“礼制”システムが存在する。これが民間 -63- 【公開シンポジウム報告】 第一回 宏則 実行委員長 勝山 日本葬送文化学会シンポジウム 開催報告 開催の決定 うにしたら例会に来ていただけるのか。インターネットによる テレビ会議や動画中継を活用して、遠方に所在する会員に参加 してもらえるようにする、などがあった。シンポジウム開催は 関係者だけで研究していた課題や知見を社会に問い、提供する という第一の目的とともに、停滞しつつあった会の組織を活性 化させる目的も内包された。 テーマの選定 ほぼ定型化しているなかで、皆の希望を再確認し、新しい活動 した。 の人に関心を持っていただけるテーマが良いということで一致 まずは、テーマ選びが検討された。一般の人に役立つ内容が 良いということになった。初めてイベントを開催するので、集 を取り入れることが目的である。 (詳しくは『葬送文化第一五 「家族葬」をテーマにすることは早い時期に決まってきた。 平成二四年の年末を締め切りとして学会会員アンケートが実 施された。これは杉浦会長の発案で、質問は、この学会に対す 号』一三四ページを参照)結果は、学びたいことは「日本の葬 客がどの程度の規模でできるのか、全くわからなかった。大勢 送の歴史・文化・慣習」であり、定例会年間プログラムへの要 家族葬を推進する立場ではないが、これだけ人口に膾炙し、 多くの人に支持されている家族葬を無視するわけにはいかず、 る期待や運営方針など、多岐に渡るものだった。年間の活動が 望は、 「一般公開のシンポジウム」と「会員外・葬送関連以外 むしろどのような点が支持される理由なのか、解き明かしてい 家族葬と言っておけば間違いがない。金銭的な問題は起きな ただし、家族葬には定義がなく、地域によって内容にかなり 大きな差があるというところがまずは確認された。 こうということになる。 の人の意見を聞く機会」が同数第一位であった。 正月の理事会で早速アンケート結果が報告されて、次年度事 業においてシンポジウムを開催することが内定した。この時の 他の議題は、活動を活発化するには例会に参加いただける会員 を増やしていかなくてはならない。数多い一般会員は、どのよ -64- 【公開シンポジウム報告】 い。そんな安心感を与えてくれる言葉になっている。 しかし実態は言葉だけが独り歩きしている。家族葬と呼んで はいても葬儀に対する方針は家によって異なり、規模も五名以 下のときもあれば二〇〇名以上になるケースもある。費用的に も安価になる場合ばかりではなく、一点豪華主義で、こだわり のある葬儀を実現している場合もある。 巷では、葬儀社やNPO団体の開催する、終活セミナー、葬 儀セミナーが頻繁に開催されている。参加者が何かを求めてい ることは間違いないが、期待を裏切らないことが必要だ。 一般市民が何を知りたがっているのか見当がつかなかった。 集客の面からは、どのような広報をすれば反響が得られるの か研究が必要だ。 学会という研究団体のため、あまり学術的な内容に終始する と途中退場者が増えることが懸念された。 シンポジウムは一つの結論を導き出し主張を押し通すもので はなく、複数の専門分野の立場から、経験や見解を述べてもら い、参加者が自分で判断する材料を得てもらうことにした。 この思想は、案内リーフレットの「葬儀の原点を見つめ、皆 さんの選択をサポートしたいと考えます」という言葉で表現さ れた。 -65- 【公開シンポジウム報告】 儀の基本的な流れという一五分間のDVDがあったので、これ で知ってもらいたいと思った。大成祭典にてかつて制作した葬 葬儀で行うこと、するべきことを、正確に知っている人は現 代では少ない。一般的な葬儀の流れをDVD視聴により短時間 化された家族、一つ屋根の下に住む人を家族とする見方もある。 ケースもある。一言で家族といっても、最小単位である核家族 あり方が変わってきている。遠方に住む親戚を葬儀に呼ばない た時代、それぞれの時代においての家族の構成員そして形態や に注目していた。封建的時代、高度成長時代、成熟社会となっ をベースにしてアレンジすることにした。 理由で、深く追求することは止めることにした。 リハーサルと内容検討 ただけると思う。 判断をする能力を身に付けてい る機会と手段を知り、より良い 説を聞く。正しい情報を収集す 単純にあるべき論を聞くだけではなく、様々の切り口からの解 を約二時間で体感してもらいたいと思った。参加された人は、 このシンポジウムの構成が日本葬送文化学会の活動の縮図と なるように工夫してみた。何年も参加している会員と同じ経験 しかし、このテーマについては家族論の専門家もいないという この学会の特徴である様々の分野の人が集まっているという ところから、パネラーが選定された。拡散してしまうであろう 話をまとめるためにコーディネーターが必要とされた。 コーディネーター 福田 (ジャーナリスト、葬送研究家) (大学名誉教授 火葬場設計) 火葬 八木澤 葬儀 (大学名誉教授 牧師) 宗教 柴田 墓地 長江 (大学教授 墓石店経営) 勝山 (葬儀社経営) 宗教と葬儀の関わりの面で、日本における葬儀の形式の主流 である仏教式葬儀について、僧侶から話をしてもらいたいとい う意見があったが、仏教典礼や様式についての限定的な話にし シンポジウム開催前には二回 にわたり会場となった「東京国 ないということ、そして、このシンポジウムの主旨に則り話を ある柴田氏に宗教者代表としてパネラーになっていただいた。 立博物館大講堂」の視察を行っ 進行してもらうためにも、この会に長く参加されている牧師で 宗旨宗派にとらわれず、より広く宗教と葬儀という視点よりお 遠くないことが、市民に寄り添 た。ステージと客席がそれほど コーディネーターの福田氏は「家族とは何か」というところ 話をしていただくことになった。 -66- 【公開シンポジウム報告】 うシンポジウムに相応しいと感じた。大きな木の扉から講堂内 ドバイスを多数いただいた。 理事および、当日参加できなかった協力者に回覧し、貴重なア 送文化の発展に必ずや貢献できると喜んだ。 けられている氏からは、一般市民の心理や要望について詳しく 九月初旬に毎日新聞社首都圏版編集長の滝野隆浩氏と会合す ることができた。ここで、シンポジウム開催へのアドバイスが 広報の方針 に入ると木材を多用した壁に囲まれ、上品なシャンデリアが温 かく客席を照らし、とても格調高い雰囲気に包まれる。当学会 パネラーによる講演内容の検討は複数回開催された。まずは テーマ決めから慎重に検討された。それぞれが専門的な知識に 伝えていただいた。特にプレスリリースの文章の書き方、関心 の活動の拠点である上野の地で、国の文化の擁護者である国立 立脚したヒントを数多く発言した。うまくまとめれば大変に価 を持ってもらい参加したくなる内容説明について、参加者特典 博物館において第一回のシンポジウムが開催できることは、葬 値あるシンポジウムになると確信した。 ほとんどは空振りになったが、大手新聞社、テレビ局に対して としての資料やノベルティの必要性などを教えていただいた。 いただけた。新聞社として、市民講座やイベントを数多く手が 一〇月の例会は直前検討会という名目で、実質はリハーサル を、定例会開催場所である東京都文化会館にて開催した。 沈黙が続いた。コーディネーターの進行でまずは自己紹介から、 福田と勝山にて大まかな流れを作ったつもりであったが、出 だしから発言がストップした。パネラー同士、目を見合わせて は特にいただけなかった。 の内容となった。完成度が低すぎたためか会場からのコメント 出なかった。勝山がトーキー映画のように解説を加えたが散々 ンポジウム開催の囲み記事が掲載された。反響は絶大であり、 コラムが毎日新聞紙上に掲載された。その二日目と三日目にシ プレスリリース文章が作成され、参加者特典配布が決定され たところで、瀧野氏の執筆する八木澤氏を紹介する三日連続の 書き下ろしていただいたものである。 ていたベースとなる原稿があり、これに当学会の思想を込めて 加 者 特 典 と し て、 日 本 葬 送 文 化 学 会 特 製「 エ ン デ ィ ン グ 参 ノート」を制作することにした。これは、福田が以前より温め も初めてのプレスリリースを行った。 徐々に発言を引き出していった。このときのリハーサルは録音 多くの参加申し込みをいただいた。 まだ、未完成ではあったが大成祭典にて制作した「葬儀の流 れ」DVDをリハーサル前に上映したが、機材の不調で音声が されテープ起こしした原稿をパネラーにフィードバックした。 -67- 【公開シンポジウム報告】 ーフレット制作時点ではエンディングノートの作成が決 リ まっていなかったため、紙面には記述がない。完成したリーフ 葬儀の流れDVD 大成祭典の女性葬祭スタッフの松村がDVDのナレーターを 務めることになった。DVDは音声付なのだが、現職の葬祭ス レットは会員全員に配布され、友人、知人、関係者に渡しても ら う よ う に 依 頼 し た。 会 場 の あ る 台 東 区 の 公 的 施 設 に は 情 報 タッフが登壇して生の声で伝えてもらいたかった。 稿の再検討がなされた。制作当時に 大成祭典社内において、複数の葬祭責任者も交えてDVD原 はなかった事前相談と、葬儀後の手 続き、法事、墓地についての項目が 映像として付け加えられた。オリジ ナルの録音は葬儀屋言葉のオンパ レードであり、セールス色の強いも のであった。総じて過剰な敬語遣い で慇懃無礼であった。僧侶をご導師 様、喪主を喪主様、ご葬儀、ご遺族、 お葬式、お香典(奠)も、過剰なの である。これらの言葉はすべて自然 な言葉に修正した。解説は押し付け にならず、利用者の立場を考え、葬 儀の主催者目線で話をすることに心 がけた。ナレーターによりリハーサ ルを行い当日に備えた。 -68- コ ー ナ ー へ の 配 置 を し た。 ま た 会 場 近 隣 地 区 に は 戸 別 の ポ ス ティングを実施した。 リーフレット表面 【公開シンポジウム報告】 シンポジウム当日 備設営とリハーサルには実際にかなりの時間を要したので、利 阿島事務局長からの強いアドバイスがあり、当日会場の利用 時間は正午からであったものを午前九時からに前倒しした。準 リーフレット裏面 用時間を延長してもらい本当に助かった。 また、スクリーンに投影されるコーディネーターの原稿は当 日の午前中に最終的な補正を施し、八木澤氏の写真とともに、 PCに収納してオペレーターに操作を依頼した。 舞台袖の照明スタッフと連携して、投影画面のオンオフと照 -69- 【公開シンポジウム報告】 開会一時間前には、葬儀で演奏されることの多い曲を中心に 弦楽二重奏の生演奏が舞台で披露された。これは杉浦会長から であった。 第に青ざめていった。しかし、内容は充実し、途中退席は皆無 明の調光は、大変スムーズに操作された。 の粋な計らいであった。 開会時にはビニールひもで閉鎖していた講堂後部の座席は、 途中で開放して遅れて到着した参加者と運営スタッフの席とし 一人ひとりの話が少しずつ伸びて、質疑応答の時間は少なく なってしまった。最前列に座していたタイムキーパーの顔が次 司会の発声で時間通りに開会し、DVD上映の後、会長挨拶、 そしてシンポジウムへと進んだ。 -70- 【公開シンポジウム報告】 会員には会場に入ってもらうようにした。 り、開催時間中の受付と場外整理は派遣スタッフを雇用して、 はすべての会員にも参加してもらいたいという会長の意思によ た。会員ボランティアによる運営であったが、シンポジウムに に感謝し、今後の展望についての話に花が咲いた。 退館後は紅葉の上野公園を通り抜けて慰労会会場の上野駅内 の文化亭へ移動した。長かった準備期間を思い出しつつ、成功 人との挨拶の時間となった。 シンポジウム終了後は退館時間までお客様と学会メンバーと の自由討論をイメージしていたが、時間も少なく、関係者、知 -71- 【公開シンポジウム報告】 準備、広報、スタッフ構成 担当した杉浦真也氏がまとめた記録があるので、ここに添付 する。 一、事前準備 会場について 理事より紹介のあった会場と、ネット検索した会場に電話に て空き状況確認。 探し出す時期としては開催の三か月前と遅かった事と、一一 月はイベント需要が多く入っており、ほとんどの会場に空きが なかったが、東京国立博物館、大講堂のみ午後四時撤収という 条件付きで予約がとれた。予約確定は八月一日であった。 当初は正午から午後四時までの予約であったが、その後、設 営とリハーサルのため、午前九時からに変更した。そのため、 弦楽二重奏を依頼することが可能になった。 案内(リーフレット)について 福田理事よりご紹介いただいた、スタジオフラッシュキュー ブへ、リーフレットのデザインを作成依頼。会誌のデザインも お 願 い し て い る こ と か ら、 学 会 の 趣 旨 も 理 解 さ れ て お り、 ス ムーズに打ち合わせが進んだ。六校正の後、校了した。校了後、 プリントパックで持ち込みにて印刷依頼。校了は九月二三日で 印刷完了は九月二七日であった。 広報について 広報予算を一〇万円計上していたが、毎日新聞社編集長、瀧 野さんのご協力があり、毎日新聞に告知記事を掲載いただいた ため、広告費は未使用。新聞掲載は一〇月一四日朝刊。 そ の 他、 業 界 関 係 誌 全 般、 主 に 都 内 の テ レ ビ 社 会 部・ 報 道 部・バラエティ部と出版各社へメールと郵便で告知。同時にプ レスリリースゼロや、ツイッター、フェイスブックへ告知文を 正門前一名、曲がり角一名 株式会社ディライト 計二名 掲載。テレビ、マスメディアからの取材はなかった。 資料作成について 当日配布資料は次の通り ① レジュメ ② エンディングノート ③ 学会入会申込書 ④ アンケート その他、杉浦真也手配内容 誘導係 開会前の生演奏 弦楽二重奏 有限会社ナカムラ 関係者用お弁当三七個 株 式会社シービーサービス(当会会員) -72- 【公開シンポジウム報告】 二、シンポジウムの当日の役割分担 総監督 実行委員長 事前準備、案内、広報、資料作成等 受付 会場 外回り、誘導 壇上 弁当手配 録音・録画 パネラー コーディネーター 司会 杉浦会長 勝山 謝辞 実行委員とパネラーはメーリングリストを活用して頻繁に連絡 今回のシンポジウムの隠された目的は、諸事情で活動になか なか参加できない会員さんに再び集まってもらうことである。 杉浦真也 石井、小林、村田、大野 を取り合っていた。そこに各界で活躍しているが会合ではあま いきたい。 り続けるとともに、新会員を増やし葬送文化研究の輪を広げて も定期的に公開イベントを実施して、社会へ開かれた学会であ された知見をより多くの人に活用していただきたい。これから なると思えば、とても気が楽になった。歴史あるこの会に蓄積 開催が決定されたときは不安ばかりであったが、普段の活動 の実績を披露するだけでも、この学会を知っていただくことと がされた。 当日には、懐かしい顔も多く集い、旧交を温め盛んな情報交換 葉を多数いただくことができた。感謝の言葉が尽きない。開催 りお目にかからない会員の皆様からも建設的な提案や激励の言 大杉 杉浦直人 福田、勝山 杉浦真也 杉浦正樹、和田 八木澤、長江、柴田、勝山 福田 三橋 ほか、会員とそのご家族ご友人、会員会社の従業員の皆様多 数のご協力をいただいた。 三、シンポジウム開催後のメディア掲載 雑誌SOGI 葬祭流儀 宗教新聞 毎日新聞WEB版 ほか、参加された方のブログなどに複数掲載があった。 -73- 【公開シンポジウム報告】 第一回 日本葬送文化学会シンポジウム 運営予定表 (七月三〇日 勝山 会 場 視 察 弘 済 会 館、 芝 弥 生 会 館、 産 業 貿易センター浜松町) 会場視察 国立博物館 実行委員会 テーマ決定 役割分担決定 文化 瀧野氏訪問 毎日新聞社本社 パネラー会議 大成 名古屋例会 南山大学 (八月一日 会場と開催日が決定 国立博物館) 八月一五日 理事会 大成 八月二二日 二三日 一〇月一七日 一一月二日 一一月一六日 シンポジウム開催 国立博物館 例会 リハーサル 文化 会 場 視 察 国 立 博 物 館 ス タ ッ フ 会 議 文 化 九月二七日 例会 ペットのエンディング 文化 (九月二七日 シンポジウムリーフレット納品) (一〇月二日 福田・勝山 シナリオ検討 大成桐ケ谷) 一〇月七日 パネラー会議 大成 (一〇月一二日、一三日、一四日 毎日新聞に案内記事が掲 載される) 九月七日 九月四日 九月二日 - 理事会 大成 野外研修 国立歴史博物館 佐倉市 理事会 大成 総会 文化 会員向けにシンポジウム開催を発表 理事会 テレビ会議の実験 大成 例会 天野勲氏 文化 理事会 大成 例会 年間成果発表会 文化 例会 山田慎也氏 東京文化会館(以下 文 化) 理事会 大成祭典本社(以下 大成) 前年のアンケート結果を受け、シンポジウム 開催が決定する 平成二五年(二〇一三年) 一月一〇日 一月二四日 二月一四日 二月二一日 三月一四日 三月二一日 四月一八日 四月二五日 五月一六日 五月二三日 例会 シンポジウムへの意見交換会 パネラー決定 文化 例会 碑文谷創氏 文化 (六月一一日 瀧野氏入院の連絡 一三日の会合はキャンセル) 六月一三日 実行委員会 文化 一Fロビー 六月二〇日 七月二五日 -74- 【公開シンポジウム報告】 死は誰もが迎える結末です。不幸と言えない天寿を全うされ れに違うのだ」と。お葬式は不幸という言われ方もしますが、 パネルディスカッション いうことです。したがって今日のシンポジウムを聞いたから ぞれの人にとって、それぞれに異なる思いをはらんでいると る幸福な死もあると思います。ただ言えることは、死はそれ 変わる葬送文化 ― 今なぜ「家族葬」なのか と言ってすぐさま結論が出て、疑問が解決できたという性質 の皆様にご参集いただきまして誠にありがとうございます。 杉浦昌則会長挨拶 皆様、こんにちは、ただ今紹介に預かりま した、日本葬送文化学会会長の杉浦と申します。本日は大勢 きの点も多々あろうとは思いますが、このあと当学会の精鋭 学会としての初めての催しでございます。不慣れで不行き届 巡らせるきっかけの一助となれば幸いと存じます。本日は当 のものではないとは思いますが、本日会場にお越しの皆様の ご案内にありますように、当学会は昭和六〇年に葬送文化研 が登壇いたしますので、どうぞ最後までごゆっくりとお過ご いて行われておりましたが、現在では上野駅前、東京文化会 とうございました。 しください。本日は多数ご参加いただきまして、誠にありが 中には、今日、この日を境に皆様なりのいろいろなお考えを 究会として発足をいたしました。当初の例会は大学構内にお 館にて毎月、定例会を開催しております。学会と称しており あらゆる面で日本人の意識が変わってまいりました。家族構 も参加できます。この学会の始まった昭和の時代と現在では、 化に関心があるという変わった趣味の方であれば、どなたで てまいります。勝山さんから宜しくお願いいたします。 ております。それでは、四名のパネラーの自己紹介から始め 学位をとりまして葬送文化、現在、葬送ビジネスの研究をし 福 田 福田でございます。自己紹介をさせていただきます。 私は葬儀関連の月刊誌の編集長をしておりました。その後、 ますが、会員は様々の職業の者で構成されています。葬送文 成そのものと家族意識、そして時代背景の変化にともない、 ストイの長編小説の冒頭にこう記されています。「幸福な家 ります。当社はその隣に会社があります。私の祖父が昭和三 勝 山 勝山です。私は東京品川で葬儀社を経営しております。 品川には桐ケ谷斎場という江戸時代から続く古い火葬場があ 葬儀事情も大きく変わってまいりました。ロシアの文豪トル 庭は皆同じように似ているが不幸な家庭は不幸の様もそれぞ -75- 【公開シンポジウム報告】 級と二級の合格者は累計で、二七、二一二名になります。長 ライセンスです。今年も去る九月に試験がございまして、一 葬祭ディレクター技能審査の審査官をしております。これが 年に興した会社です。私はその四代目社長になります。私は 現在は地元の松戸の聖徳大学において、「ゆりかごから墓場 墓大学」というのがあるのですが、そこを卒業しております。 おります。アメリカにはACA(全米墓園協会)主催の「お お墓を大切にしているとわかり、四五か国まで研究を進めて 柴 田 柴田でございます。私は昭和一桁生まれです。キリス ト教でもプロテスタントの一派であるルーテル教会の牧師と までの研究」というテーマで、所属は児童学部生涯教育文化 八木澤 八木澤と申します。生まれは昭和一二年ですので、戦 争を少しだけ感じた世代です。今迄は戦後の復興と高度経済 して一九五六年以来活動をしております。その後半はルーテ 老と呼ばれる人がいなくなった現在、文化をつなぐ担い手と 成長のなか、大学に勤務していました。専門は建築です。そ ル学院大学と日本ルーテル神学校から招聘されて、七〇歳の 学科で、教鞭をとっております。 の中でも火葬場の設計を引き受け、それがきっかけとなり、 定年まで実践神学という部門の責任者をしておりました。神 してのディレクター育成をしています。 いまでも地方の自治体などからの依頼で、どのような火葬場 訓練指導することです。牧師の仕事の実際には葬儀も入って 学生が卒業して実際に携わる仕事を支障なくこなせるように 火葬場については日本だけでなく世界中を相手に研究してい います。大きな教会では、信徒の葬儀は次々起こるので、葬 を作ったら良いのかを考える委員会などに参加しています。 ます。 まれる所と亡くなる所だと思いまして、欧米の墓地や墓石の ことが一つの契機で、やはり人間にとって一番大事なのは生 千葉県松戸にあります八柱霊園の石材店の三代目に生まれた 関わることについて研究を重ねていたのですが、実は、私は を研究しておりました。宗教と文学を基本として人間の死に 長 江 長江と申します。葬送文化研究を始めて二五年ほどに なります。もともとは、明治大学の大学院で日本の近代文学 ます。今日、このようなシンポジウムを学会として開くこと 抵抗もあり、公開講座を作ることに随分苦労した覚えがあり たしましたが、その頃は大学で葬儀をテーマにすることには 認識しています。二〇年ほど前に大学で葬儀の公開講座をい なくて、宗教と葬儀の関係とは、葬儀の本質に関わることと たのですが、しかし、ただ儀礼的にやればよいというのでは 葬儀は不可分のものでした。不可分の関係がずっと続いてい 儀について学んでおくことは非常に重要です。古来、宗教と 研究に二五年前に移りました。研究を始めると世界中の人が -76- 【公開シンポジウム報告】 教という立場というより、宗教と葬儀という角度からいささ ができるということに深い感銘を受けております。キリスト 返し、などが費用を抑えてできるのではないかと思われてい ず自由な形式で行われる。会葬者は少ないので、飲食、香典 故人との別れをじっくりできる。祭壇や宗教形式にこだわら ます。そこでよく聞く言葉は「家族葬でお願いします」です。 勝 山 それでは葬儀社の立場から現状を報告させていただき ます。私は数えきれないほどの葬儀の打ち合わせに立ち会い まずは、葬儀社という遺族に一番近い立場で仕事をされて いる勝山さんからお願いします。 を深めてまいります。 る。これらのことを前提にして専門家のパネラーとともに話 かでもお役に立ちたいと思っています。 福 田 本日のパネラーのように日本葬送文化学会では多分野 の専門家が集まっております。どこまで深く話せるか楽しみ です。シンポジウム後半には質疑応答の時間を用意していま す。葬送やお墓などご心配のことはたくさんあると思います。 専門家の方が集まっている機会ですので、どうぞ質問をして ください。まず、前提となるお話をします。スライドをご覧 ください。 ほとんどの方が家族葬を希望されています。しかし会話を聞 化が、寿命が伸びるという高齢社会の進行のなかで起きてい 形態の変化、高齢化、家族関係の変化といった社会環境の変 られていると思います。家族葬が普及してきた背景は、家族 「小規模」 「故人が中心」 「費用がかからない」。このように語 イメージとしては三つ紹介させていただきます。家族だけの うになりました。しかし家族葬には明確な定義はありません。 りません」の意味に使われているようです。また、インター 葉は、「派手にしたくありません」「お金はあまりかけたくあ 未だ定義がされていないので、「家族葬にしたい」という言 小規模で兄弟子供たちだけで行うイメージがあるのですが、 儀になったという例も少なくありません。家族葬というと、 儀当日には二〇〇名以上の方がお集まりになり、大規模な葬 ん用意しなくてはならない」などとも話されます。結局、葬 いていると、「訃報を作って近隣に配る」「会葬御礼はたくさ ました。もう一つは従来型の御葬儀、特にバブル経済期の費 ネットや新聞折り込みで見かける安さを売りにした葬儀社の 家族葬という言葉がこれだけ使われるようになったのは、 西暦二〇〇〇年以降、特に首都圏であたりまえに使われるよ 用がかかり、接待に気をつかい、寺に気をつかう、そんなス 宣伝があります。しかし、安いが一番良いわけではないと思 います。安いけれども、品質はどうなのか、サービスはどう タイルに対する反発がありました。 家族葬を選択するメリットは何か、弔問客に気をつかわず、 -77- 【公開シンポジウム報告】 かかっているのかがわからない。何をしなくてはいけないの しい葬儀が提供できるのかが大事です。いったい何にお金が なのか、そこが皆の心配するところです。故人と遺族に相応 きているのです。 ら努力をしています。安置所が家族の集まる場所に代わって 時間が少しでも作れるように私たちは施設を提供する立場か か、しなくてもいいことは何なのかが分かってくると、我が 弔問、弔辞、弔意、慶弔…「ちょう」というこの漢字を最 近は「とむらう」と読むことが少なくなったと感じます。こ つはそれぞれとても大切です。今日のシンポジウムは葬儀を めに集まってくださった人たちへのおもてなしです。その三 御葬儀には三つの「おもてなし」つまり目的があります。 一つは亡くなった人への、第二には遺族への、最後は弔うた 表した調査でも七〇歳以上と以下の方では葬儀の宗教性につ していませんでした。二〇〇七年に第一生命経済研究所の発 にも関わらず、六〇歳代以下の世代ではほとんどの方が選択 七〇歳以上の方は「葬儀は弔うためにする」が最多数だった 家にあった葬儀のありかたが見えてくるのです。 低価格にするのが目的ではありません。葬儀をなぜするのか、 いて意識が大きく異なっていることが報告されています。弔 の 春 の 新 聞 で 発 表 さ れ た 葬 儀 に 関 す る 意 識 調 査 に よ る と、 どのようにするのが良いのかを考えて納得することにより、 れなくなってしまうかもしれません。意味も判らなくなって うというのは素晴らしい言葉だと思いますが、もうじき使わ ともなくなるのです。本来、葬儀にはするべきプロセスがた しまうでしょう。 良い葬儀を出すことができるようになり、無駄遣いをするこ くさんありますが、現代社会では省略割愛されてしまった儀 礼が数多くあり、そのために失われた大切なことがたくさん た。本来ならば、故人がご自宅に帰り、家族と水いらずで対 式場や寺院などの安置施設にてお預かりするようになりまし では当社で扱う葬儀のうち、約六割の方がご自宅に帰らず、 です。いままでは一旦ご自宅にお帰りになりましたが、最近 さえも省略されるようになりました。これは、花祭壇ですが、 れを飾らないと成仏できないとまで言われていました。これ うなもの、これはシカバナ(四華花)というもので、昔はこ 天目茶碗、最近は使われなくなりました。銀色のブラシのよ 事の一つでした。砂糖菓子、むかし砂糖は貴重なものでした。 スライドをご覧ください。白木の祭壇です。いろいろな飾 り物には意味があり、それを説明するのが葬儀社の大事な仕 面する、親族が集まり打ち合わせをする、故人の思い出話を これにもシカバナが飾られています。お釈迦様が亡くなった あるのです。現在、病院で亡くなる方が九〇パーセント以上 することは大変に貴重な時間なのです。それに代わる機会や -78- 【公開シンポジウム報告】 ときに植物が悲しんで一瞬に白くなった故事にもとづいてい するにはどうしたらよいか他国の例を紹介した。王様が火葬 奈良時代です。遣唐使だったお坊さんが仏教の考えで政治を です。辞典にも書いてあります。これを天皇家が取り入れま ます。次は供花に札を立てている例です。その次は仏教式の 聞の訃報、社葬の広告をお見せします。「なお、通夜密 新 葬は近親者にて相済ませました。つきましてはお別れの会を した。女帝の持統天皇です。昨日の新聞にありました。日本 をして土葬をやめるというのを持ち帰った。これを進言し自 左記の通り執り行わせていただきます」 。文の最後には、「誠 の天皇家に火葬が復活しそうです。持統天皇は遺言を書いて 生花祭壇です。 に勝手ながらご香典ご供花ご供物の儀は固くご辞退もうしあ 火葬にしました。夫である天武天皇は立派な前方後円墳です。 最近は個人葬でも香典、供花をご辞退するケースが増えて きました。香典・供花をもらいきりでお返しできないのでは 葬(はくそう)という簡単な葬儀にしようとします。それ以降、 た厚葬(こうそう)という手厚い葬儀の考え方でしたが、薄 分は遺言して火葬にしてもらった。これが日本の火葬第一号 げます」と書いてあります。 ないか。地域のコミュニティによる助け合いはもう機能して 天皇家は火葬が基本になります。日本全体では火葬と土葬は 半々くらいでした。江戸時代になると徳川家康はキリスト教 その横に眠っています。それまでは前方後円墳を造るといっ いないので、贈りものは必要ないと考えられるようになって きました。香典供花は弔う気持ちを伝える一つの手段である 止します。その頃の火葬率は三〇パーセントくらいでした。 を怖れ、仏教を大事にして火葬を奨励しました。江戸時代に 二年くらい施行しましたがもたず、解除しました。このテー ので再考する必要があるでしょう。弔う気持ちは人間の優し 福 田 次は火葬について八木澤さんからお願いします。 八木澤 私は韓国や中国で葬送業務に携わる人たちとの交流が あるのですが、彼らから言われることは、「日本には火葬の マで日本の火葬事情として日本建築学会の懸賞論文に提出し は火葬は本山ではなくて末寺などで行われていました。これ 文化があっていいですね」です。本当にそうだと思います。 ました。残念ながら佳作でした。さて、火葬を禁止しましたが、 い気持ちのひとつなので大切にしていっていただきたいです。 このスライドは国宝の骨壺です。奈良時代、秋田に赴任した 役人が死亡して火葬され、この壺に入れられて奈良に帰りま 特に東京、大阪などは大変に混乱しました。とても処理でき 仏教の考えで火葬をしていると判断して明治六年に火葬を禁 も政治的なことです。明治時代には仏教の影響をやめようと、 した。日本の火葬は政治的な歴史があります。火葬の導入は -79- 【公開シンポジウム報告】 に撒かないように、煙突を造りなさい。火葬場を造り運営す 旧来あるものは良い。焼き場の煙は健康を害するので生活圏 東京府下、都市となるところには造ってはいけない。民間の ということにして、火葬場は取り締りの対象となりました。 生上よくないというものでした。やむを得ず火葬を再開する せんでした。それは伝染病になった人は火葬しないと公衆衛 それでも混乱は収まらず、大義名分がなくては火葬に戻せま 治維新のあと、水戸の家老の上屋敷の跡地を墓地にしました。 ない。墓を土葬にするために造った。代表は青山霊園で、明 がってきました。そのお手伝いを私はしています。 であるので少 し ずつ火 葬 場 を 良 く しよ う とす る運 動につな とって火葬場は弔う場所でした。実際に最期のお別れの場所 遺 体 焼 却 場 と し て 国 は 位 置 づ け ま し た。 し か し、 日 本 人 に 国が仕向けたのではないでしょうか。明治の初めは火葬場を いう前提でしたので、皆は反対できる性格をもってきました。 りました。病院自体辺鄙な場所にありましたし、煙が有毒と 所に造ったかというと、伝染病患者を隔離する病棟の隣に造 も火葬場を造らなくてはならなくなりました。どのような場 た。現在、政府は、火葬場は地方自治体で造りなさいというが、 で火葬場は大事と認識していました。設計者の選定委員会の 街づくりの方針として死に甲斐のある街にしたいということ る経費は自分でまかない、国は援助しない。遺骨をそこに捨 国の補助はありません。墓地も市営墓地の建設に国の補助は 委員長を私が務めました。市民の意見をとりいれて設計した 一つ例を挙げますと、これは滋賀県の近江八幡市の火葬場 です。この町は近江商人につながる古い商家の残る町並みで、 つきません。人が亡くなったあとの責任は国がもたないとい いという会社を選定し、委員のなかには、文化施設であるの ててはいけない。戦後、取締規則は墓地埋葬法に発展する。 う方針であると言えます。いかに日本が火葬になじみがある で文芸協会の会長さんもいました。市民の代表も参加しても この火葬棟は町家をイメージしました。市長は近江八幡市の か、世界火葬協会発表のグラフを見てください。日本がダン らいました。初めは火葬場を隠そうとしていましたが、だん 骨子は何も変わっていません。監督は厚生労働省になりまし トツに一番です。五〇年に六割、七〇年代なら七割、現在で だん見えてもいいと方針が変わってきました。 こ れ は、 竣 工 時 に 配 布 し た パ ン フ レ ッ ト で す。 表 題 に は 「こころをこめてさよならを」と書いてあります。委員会で は九九・九パーセントです。プロテスタントの国は七〇パー い。カトリックも禁止だったが、近年は上がってきています。 つくった文章です。こころを込めて考えてくださいました。 セント程度まで上がっている。イスラムは火葬禁止なので低 伝染病防止の目的で火葬が普及するのですが、土葬の地域で -80- 【公開シンポジウム報告】 を聞くことが定着してきたようです。 うになっています。どういう火葬場をつくるか皆さんの意見 幡市ではこの施設が二組あり、家族だけでお別れができるよ 葬場ですと並んで複数の家族が同時に進行しますが、近江八 になっています。一家族だけで使ってもらいます。東京の火 別れのあとにこの板壁が扉として開き、火葬炉が見えるよう 壁としました。左には板壁があり、これには工夫があり、お 普通の生活の最期のように、窓があって中庭が見えて壁は土 が差すような厳かなものにするのが一般的ですが、ここでは お別れの場所です。普通ならば火葬炉の扉がならび上から光 を造ったのではなく、墓を造って森をつくりました。外から クホルムの森林墓地は世界遺産です。それは、森林の中に墓 中には世界遺産がたくさんありますがスウェーデンのストッ 世界中の人が墓を大切にしているという事例のなかで、世の しゃっています。NHKの対談でご一緒したことがあります。 ことが極めて重要なことであり変わらないことだとおっ 墓は単なる骨の捨て場ではなく葬送文化の場所であるという 中で「墓というのは人間しか造らない」、動物は造らない。 カの壁』という本を書かれた解剖学者の養老孟司先生も本の で造られてきました。数年前に大ベストセラーになった『バ お話したいと思います。お墓は時代によって変わるといわれ す。遺骨を収める墓を造るのか造らないのか文化的な面から 福 田 長江さんよりお墓について報告していただきます。 長 江 先ほど、八木澤先生より九九・九パーセントの方が火 葬をすると報告がありました。火葬をするとご遺骨が残りま しゃるでしょうが、心を通わす場所としての素敵な空間でも 当 に 美 し か っ た で す。 た ま に し か 墓 参 で き な い 人 も い ら っ は、夕方行くと蝋燭がゆらめき、森がライトアップされて本 あります。私は二度訪問しました。なによりすごいと思うの 墓碑は見えません。自然の中に墓があり、そのなかに火葬場 ますが、お墓の形、機能が家族の形とともに変化するという あります。 く な ら れ た 方、 死 者 と 生 者 の 心 の 交 流 の 場 所、 メ モ リ ア リ う場所となると、忘れてはならないものを追悼する場所、亡 た。戦後都市化がおこり、地方から首都圏に流入してきまし いです。戦後になり、家族が小さくなり核家族化が進みまし ではいま何が変化しているのかというと、家族の形が変わ りました。戦前は大家族、家の墓というイメージが大変に強 もあります。散骨のエリアもあり、こころを交流する場所が のは確かにあると思います。ただ、変わらないものは一体何 ゼーションという故人を忘れないという空間としてお墓は古 た。中には亡くなる人もいて墓地を求めたいという人が増え なのか考えてみたいと思います。先ほどまで葬儀と火葬が弔 代から現在まで、ご遺体、焼骨を埋葬する場所として世界中 -81- 【公開シンポジウム報告】 成の時代には永代供養墓、樹林墓地、散骨など、私たちの耳 には合葬墓や壁型墓地などいろいろな形態が出てきます。平 一九九〇年ころには深刻な墓地不足となりました。東京都内 たあとは、宗教法人の民営墓地がたくさん開発されました。 かりますか? わずか二五万家族分しかありません。そのた め、昭和五〇年代に八王子霊園、芝生と洋型墓石の墓を造っ 墓地は八か所、都内が四つで郊外が四つ。何家族分あるかわ ました。都内の寺院墓地だけでは足りなくなりました。都営 なっています。 いらっしゃいます。火葬後の遺骨の行方が心配になる時代に きません。エンディングノートなどを記入して準備する方も づけることができても、自分自身では自分の葬儀も火葬もで は深刻な問題です。これを解消しようとお墓を自分の代で片 も、墓をこれからも維持していけるのか持っている人の不安 場合は合葬墓が選ばれます。最終的に面倒みることができな 最後のところは家族に担わせています。担うことができない い方は仕方ないだろうと思われています。墓守をしてきた人 に入って二〇年くらいになります。いまお墓を求めることが できないと思っている方がいます。お嬢さんしかいなくて墓 活用ということも行われています。そのなかで実際に一番に したり、墓じまいするだけでなく、甥や姪が墓を引き継ぐ墓 「 葬 」 と い う の は 穴 を 掘 っ て 遺 体 の 上 に 草 を 載 せ る、 こ れ が いう字はどのような意味があるのか皆さんに質問をしたい。 では宗教について柴田さんから宜しくお願いします。 柴 田 先ほど勝山さんが「弔う」という文字がだんだん読め なくなり使われなくなるという話をされました。葬儀の儀と 福 田 エンディングノートは当学会で監修したものを本日配 布いたしました。 困ったことだと思うことは福祉の先進国と言われるヨーロッ 葬るという意味ですが葬るだけではなくて儀というのを付け を継げないと考える方もいます。それは間違えています。東 パでは、ゆりかごから墓場まで、そのとおりで、かつては教 るというのは何を意味しているのか。それを皆さんにお聞き 京都の墓地であれば、姓が違っても間柄がわかれば七親等ま 会税、今では埋葬税として徴収され、死後のセーフティネッ したいのです。儀の付く理由を本質的なところからお話いた で継げるのです。極端に言えば持っている人がすぐに墓を返 トがある程度保障されている。日本では孤独死された方は火 します。 古来、宗教が葬儀と不可分に関わってきたというのは、い つの時代でもどの世界においても事実でありました。これか 葬までは行政が面倒をみてくれますがそのあとの遺骨の行き 場所は地方自治体によって用意されているところと用意され ていないところがあり、目に見えないところがあるのです。 -82- 【公開シンポジウム報告】 いうだけで、宗教を排除しているわけではないのです、とい 参列したことがありませんが、特定の宗教にこだわらないと せてまいります。近頃は無宗教葬というのがあります。私は ならないのか、どのように関わっていくのか、に焦点を合わ 教が深く関わっていることになります。なぜ関わらなくては ではなぜ葬だけで終わらずに儀があるのか。儀のところに宗 ら家族葬という形態をとってもこれは変わらないと思います。 ると仏教で頼もうという日本人は多いと思います。それは、 ば自分は宗教的でない、無宗教である、という人も葬儀にな であると大多数の人が思っています。なぜでしょうか。例え わらず、今日でも葬儀に宗教が関わることが期待され、当然 は解明され説明できるようになっているからです。にもかか 代では、神秘性が理由で宗教とは言いません。死に至る理由 にならざるを得ない時代を経て現代に続いているのです。現 行為は生き残った者たちに対して去っていった者との断絶を しきたりだから頼むのか、それ以外の理由があるのか、これ て、儀という内容があるということです。葬儀に対して人々 宣言する行為なのか。それとも、生きている者と去った者と う指摘を受けたことがあります。もしも、宗教を排除してし が期待しているものがあるのです。二〇世紀を代表する思想 の 間 に 絶 対 的 な 継 続 性 が あ る と 宣 言 す る も の な の か。 亡 く を考えていただきたいと思います。私はこのように考えます。 家ティリッヒは「宗教はシンボルである」と言っています。 なった人に関わった医師も、一般の人もこれについては語り まうならば、それは、無信仰葬ということになります。無宗 シンボルとはなにか。表現しにくいものを、シンボルを使っ ませんが、宗教者は、その希望を信じ指し示す立場にある。 宗教が葬儀に関わる一番の理由は、死を超えたものがあると て指し示すことです。事実はあるけれども、人間は手を触れ 語る責任がある。だから宗教者が葬儀に招かれるのです。生 教であれ無信仰であれ、葬儀というものが何らかの形態をと ることのできないことがあります。シンボルを用いて指し示 前の思い出を語り、遺族の寂しさや悲しさを癒す声かけだけ いうこと。死を超えた希望を語れるかどうか。それとも、人 すこと、それが宗教だと彼は言うのです。古来、人間の死は なら宗教者なしでもできるのですが、それでも宗教者が招か らなくてはならない。集まって何をすればいいのかわからな 理解を超えた不可解で恐ろしく神秘的なことでありました。 れる理由はここにあります。私はルーテル教会の牧師であり、 間は死んでしまったらすべて終わってしまうのか。葬という 今まで口をきいていた人間の顔かたちが変わることは、説明 その創始者はマルティン・ルターですが、ルターの有名な説 いという訳にはいかないのです。儀というのは形式ではなく がつかない恐ろしいことだと思う。それ自体が神秘的で宗教 -83- 【公開シンポジウム報告】 の生活のほうが広くて、あの世の生活は無視するかあるいは ある。しかし死という狭い通路がある限り、私たちはこの世 れは未来の天と比べるならばそれは遥かに狭く小さいもので 私たちの住んでいる天と地が大きく広いものであっても、そ 門をくぐってこの世の生活から抜け出ていくのである。いま から産まれ出るように次の世界に移る、人間は死という狭い なわちこの世に産まれ出るようなものである。赤ん坊が母胎 な母胎の住まいから危険と不安を怖れず、この広い天地、す このように説明しています。 「それはちょうど赤ん坊が小さ 教に「死への準備について」があります。そこで死について 儀なのです。どんな形態であっても宗教以外のものでは、そ なく死を超えた向う側のものを指し示すことが重要でそれが という言葉に変わってきます。私たちは埋めれば終わりでは 埋めるという言葉ではなく、思い起こすという言葉が、お墓 るという意味です。ところが新約聖書のキリストの時代では、 ヤ教の聖典ですが、墓地はケーベルと言います。これは埋め 儀であるのです。聖書の言葉を引用します。旧約聖書はユダ 出会う接点であり、接点の向う側にあるものを指し示すのが はずだ」と言っています。死というものはそのようなものに る。だから理解できるものは理解できないものに触れている 福 田 私たちは日本の葬送文化の幅広さ奥深さについて研究 しています。葬送儀礼はいままで長い期間にわたって私たち れを指し示すことはできないと考えています。 があることを知らなくてはならない」仏教で往生という言葉 の生活に親しまれ密着してきました。しかしここ十数年の期 狭いと考えがちであるが、そうではない。私たちは死に臨ん が使われます。仏教学者の石田瑞麿の著書である「往生の思 間は家族葬に見られるように大きく変化を遂げてきています。 だときに、不安を払いのけて死後になお大きな住まいと喜び 想」によれば往生は行って生まれるの意味です。極楽を目指 これからは家族葬について今の在りようやこれからの可能性 勝 山 具体的なお話をさせていただきますが、その前にお断 りをしておきます。私が話すのは東京における葬儀のお話で して行き、そこに到達してそこで生まれる。誰かが死ねば、 地上で終わるだけの宣言ではなく、生き続けることの宣言で す。日本中の葬儀社が家族葬を宣伝文句としています。この について具体例も示しながらお話を伺っていきます。 ある。そこに宗教の意義があるのです。ドイツの詩人、二〇 会にも全国の葬儀社が会員として参加しており、情報交換を 往生した、死んでしまったというのとは違う。行きて生まれ 代で若くして亡くなったノヴァーリスが「見るものは見えな するのですが、首都圏以外ではまだまだお寺中心で、親戚づ る。死をそのように理解すれば、葬儀というのは故人の死が いものに触れている。聞くものは聞こえないものに触れてい -84- 【公開シンポジウム報告】 言葉をいただいております。 「葬儀のしきたりについて何も がしい思いをした」 「達成感があり満足している」というお をいただいています。本当に充実した葬儀の場合、「すがす うなものなのでしょうか。当社では葬儀終了後にアンケート てたということもあろうかと思います。いい葬儀とはどのよ りないのに形式ばって形骸化した葬儀になってしまい疲れ果 より大規模で高額な葬儀になってしまったり、信仰心があま ということがあると思います。また、世間体や親戚の助言に 会社の付き合いで顔も見たこともない人の葬儀に参列をする ると思いますが、隣にどんな人が住んでいるのかわからない、 お伝えしておきます。東京にお住まいなら、ご理解いただけ きあい、近所づきあいを大切にする葬儀が主流であることを がもっと良いものに進化していくと期待しています。 き、ご家族の希望が叶う葬儀が実現していくならば、家族葬 が増えてきています。葬儀の目的をしっかり理解していただ す。いま、葬儀に対して関心が高まり、事前相談をされる方 故人がいなくなった後の人間関係の再構築が促されていきま 流やお世話になった人たちに対しての感謝の気持ちがうまれ、 の人たちと自分との関係がよくわかってくると、今までの交 ることが今まで以上に大事にされています。この故人と周辺 葬儀と言われています。個性を活かしその人らしさを演出す てきます。つまり故人とのつながりがよくわかる葬儀が良い 人達が急に昔からの付き合いのある人のような気持ちになっ 知ることができ、今まで他人だと思っていた故人の家族や友 福 田 私にも、故人のことはよく知らないのに、お付き合い で葬儀に行くときがありました。最近は逆に、家族葬になっ 知らなかったのだが相談しているうちにだんだん理解できて 立派に葬儀を終えることができた」 「葬儀社の担当者がよき たがため、あの人には線香を手向けたかったというときに、 混乱の時期なのです。 家族葬のため拒絶されるということが起きています。そんな 相談相手になってくれた」ということも書いていただきます。 今、葬儀に詳しく、こうすればいいと説明してくれる長老 や親戚はいません。ですので、葬儀に臨んでそのときに学び とっていただくしかないのが実情です。さて、あまり面識の 柴田さんが昨年奥様を亡くされ葬儀を執り行った体験をお 話いただきます。 柴 田 家族葬が増加するのには様々な背景があり、これから 定着していくかもしれませんが、ただ家族葬だけですべてが ない方の葬儀に参列したときに思い出コーナーというのを見 わらず、よく設置されます。故人のアルバムや愛用品、趣味 終わるのではないと私は思っています。アメリカではフュー たことのある方も多いと思います。葬儀の規模の大小にかか の作品などを飾るコーナーです。これを見ると故人の生涯を -85- 【公開シンポジウム報告】 しれません。 葬から、地域を重要視したものに、また変わっていくのかも いう考えです。時計の振り子のようなもので、日本でも家族 葬儀に戻せという運動もあります。伝統的なものが大事だと する式場での葬儀が圧倒的に多い。しかし、これを教会での ネラルホームやフューネラルハウスと呼ばれる葬儀社が提供 ました。一か月と言われていましたが二か月生きました。病 施しようがないと言われたときに、病院から家内を連れ戻し は家内のすぐそばにずっといたのですが、医師からもう手の アンチテーゼであり、反省を促しているのだと思います。私 的になっていくことに対して家族葬というのはそれに対する あります。牧師や僧侶がサラリーマン化して、だんだん形式 院にいるときは天井を見て「ここ何処ここ何処」とよく言っ んのことを語るなかで、あの人とともに生きたということ、 ていました。亡くなる人もライフスタイルを持っています。 クターという言葉があるように、ホームパスターという言葉 その人の一生が本当に意味のあることで、ともに生きたこと 私は家内を昨年亡くしました。私なりに葬儀を組み立てま した。私は家族葬によって大変に反省を促されました。葬儀 があります。生まれた時からずっと関わっていく牧師の働き が自分たちにとっても本当に意味のあることであると、しみ 亡くなる前に、今までの人生のライフスタイルに戻して終わ を意味します。生まれて洗礼を受け、結婚や出産など、人生 じみとわかってきました。葬儀社に依頼はしました。家内の を執行する者は亡くなった人のことをよく知らなくてはなら にずっと関わっていき、最後亡くなった時に葬儀をする。で 人柄が表れるようにお願いしました。家族葬というのがある るというのはとても大事だと思います。自分が生きてきた場 あるので、おのずから亡くなった人の人生を反映した葬儀に から家族葬にしたのではなくて、自然とそのようになったの ないということをです。キリスト教には牧会という言葉があ なってくるのです。宗教者が葬儀のときだけ関わるというこ です。ギリシア語では墓のことはムネメイオンと言うのです 所に戻って亡くなるということです。形式的、儀式的なこと とには私は否定的です。檀家と僧侶との関係は江戸時代には が、英語のメモリー、覚えるという言葉の語源で、これがギ ります。日本語にはあまり馴染みがないのですが、広辞苑の こうした牧会的な関わりがあったと、私は八木澤先生から聞 リシア語では墓という意味なのです。いつまでもいつまでも ではなくて、家族が集まって、妻のこと、母のこと、お婆ちゃ いています。葬儀に限らず、いろんな相談相手になっていた。 心に残っていくような、そういうやりかた。それが良い通夜 第四版からようやく掲載されるようになりました。ホームド 「牧会の集大成としての葬儀」という言葉がキリスト教には -86- 【公開シンポジウム報告】 故人のパーソナリティが生かされ続けるものが家族葬ではな びたい。いつまでも心に覚えている人々によって執り行われ、 うものを定義づけるならば私はそのような葬儀を家族葬と呼 続けるであろう人々によって行われました。もし家族葬とい つまり、家内のことが心に残っている、またこれからも残り 私たち夫婦がよく面倒をみた女性牧師にしてもらいました。 たくさん飾ったり、家内の好きな讃美歌を歌ったり、司式は していろいろと準備をしてもらいました。家内の好きな絵を リティが活かされるような葬儀にしてほしいと葬儀社に依頼 であり良い葬儀であると思います。なるべく家内のパーソナ (近江八幡のように)火葬炉があります。前室の向うに燃焼 の 風 景 を 再 現 し て い ま す。 こ ち ら の 壁 の な か の 扉 が 開 く と で、人気があります。これは、告別の部屋です。三次らしさ この発想は、昔、村でやっていた葬儀と火葬を形にしたもの ある形態になっています。まさに家族葬向けの火葬場です。 待合があるという構成で三つの小さな火葬場が一つの建物に します。平成の町村合併の予算で建設されました。窯の前に 表も一緒に考えています。広島の三次の火葬場の例をお見せ いう形になったと考えます。火葬場を造るときに、市民の代 分で葬儀をしなくてはならない時代になってきて、家族葬と していたことです。残されたのは家族です。最後は家族が自 だけでいい時代が長かったのです。その次に、戦後の高度成 では火葬場の経営は多くは民営であり、いろいろ不便が多い 福 田 八木澤さんは、地方の火葬場をたくさん設計されてい ます。たいへんグレードの高い施設となっています。首都圏 いただけたと思っています。 簡単なお葬式なら十分にできます。市民の皆様に大変喜んで 室があります。待合があって、これだけのスペースがあれば みよし いかと私は思います。 福 田 火葬場でのお別れの形について八木澤さんお願いします。 八 木 澤 火 葬 場 は お 別 れ の 場 と し て 重 要 性 を 増 し て い ま す。 我々日本人の葬儀は誰がやってきたのだろうか。かつては地 長期には、葬儀をリードするのは会社になりました。会社の のが実情です。そんな中でもいろいろと企業努力はなされて 域社会の人たちがほとんどリードして喪主はただ立っている 総務部が中心になりました。高度成長が終わると田舎から転 いることを付言しておきます。 長 江 遺骨になってお墓に収められる、あるいは納骨堂とか 亡くなってからの住まいであるお墓はどうあるべきか、長 江さんお願いします。 居してきた関係で地域社会は既に崩壊しています。会社のほ うも景気が悪くなると冠婚葬祭にお金を出さなくなり手伝い もしなくなりました。そこでリードをしてきたのが葬儀社で す。葬儀社がモデルにしたのは高度成長期に会社の総務部が -87- 【公開シンポジウム報告】 かと思います。これは知識があってやっているのではなく、 モリアリゼーション)の意味が抜け落ちてしまうのではない を粗末に扱うことになり、単なる遺体処理になると追悼(メ 送るので直送と書いていました。これは一歩間違えると遺骨 荼毘に付すだけの葬儀、直葬というのがあります。昔は直接 を提供しています。いま一番、問題だと思うのは、火葬場で 関わってきています。九、〇〇〇件に近いお客様にサービス 石屋を商っている家の三代目ですので、九三年間家業として います。私は学問として研究するだけでなく、大正九年から と私は思います。故人のありかた生き様がそこに見えてきて ます。お墓から今までの家族の人間関係がすべて見えてくる 永代供養墓、樹木葬、散骨など様々の形式が生まれてきてい 生前にお墓を用意していたあるお父様がいました。しかし 息子さんはそれを知らなかった。亡くなって、遺品を整理し 言ってあげられていないというのも怖い状況だと思います。 る一方で、墓の持ち主に「かなり自分勝手ですよ」とだれも 対してそういうことを言うこと自体間違いだという考えもあ て納骨拒否ということもあるでしょう。そういう寺の態度に ンもしないので当然待たされるわけです。これでは場合によっ 戒名もいただかない。ただ納骨するだけでもコミュニケーショ ないのです。そのため、僧侶に葬儀もしていただかないし、 代同居はわずか三〇パーセントで施設としての墓を使ってい を持っています。それに対して六五歳以上の人口のうち三世 ありません。祭祀財産であり、使い続ける施設としての機能 お待ちいただくということになります。お墓はものだけでは ネットで調べて若い人たちが選んでします。そうすると墓地 ていたら、墓地の使用許可証が出てきた。その一枚の使用許 はメンバーズクラブであるので、皆さんで支えているところ ば何とか入れられるのではないかと思っていた。しかしお寺 をとってなくて、そこにお墓があるので、遺骨を持っていけ 抱いた黒服の団体がその墓にやってきた。お寺とは全く連絡 これはトラブルの一つであったのですが、寺院墓地に墓が あり、ほとんどその墓地には行っていなかった。突然遺骨を たいのかは、お墓とともに考えておかなくてはなりません。 ケーション不足が起きています。自分が亡くなったらどうし がたく使わせていただきたい」と言ったそうです。コミュニ ますか」と尋ねたところ、「父が残してくれた墓だからあり そこの霊園の管理のご住職が、「使用しないでお返しになり 霊園へ行きました。そうしたらちゃんとお墓は造られていて、 をもっている方々までそうしてしまっています。 です。しかもその日は日曜日で日柄も良かったので埋葬が複 伝わっていないことは怖いことです。無名化無形化は一番避 可証を持って、本当だか嘘だかわからないまま、息子さんは 数予定されていました。間に割り込むことはできないので、 -88- 【公開シンポジウム報告】 抜いてはいけないものがあります。その意味をもう一度確認 海外でもその人の名前と生年と没年は最低限刻んでいます。 ゼーションというのは、その人を思い出すよすがとなります。 けたいと思います。家族の歴史、その人が生きたメモリアリ お墓の相続放棄ができるのかということも含めて今後、研究 (長江) 分割相続のできない祭祀財産、結婚、離婚、非婚、さ まざまの部分で関わっています。トラブルも発生しています。 は実務もされているので、是非とも研究をお願いします。 が正しいのか、法学者も研究していると思います。長江さん してまいります。 していただきたいと思います。トラブルも結構あります。 福 田 今日はあえて直葬という、荼毘に付すだけの葬儀につ いては触れないで家族葬を積極的な意味づけでとらえようと と弔われる権利があるのですが、それを認めず葬る直葬は葬 ケースが年間一〇万件以上あるそうです。人間には弔う権利 私の親族は大勢いるのですが、はやっていたので家族葬を選 家族葬がはやっていると、猫も杓子も家族葬になってしまう。 のだろうと思いました。しかし、日本人の気持ちからすると、 (問二) 柴田先生の奥様のお葬式はパーソナリティの表れたと ても良い式であったのだろうと思いました。これが家族葬な 送文化的に認められないだろうと考えています。では、これ 択してしまい、結果、親族間の摩擦の原因となりました。デ し て い ま す。 生 活 保 護 や、 身 元 不 明 の た め、 葬 儀 を し な い から質疑応答の時間といたします。 てお墓の権利についても研究してもらいたいと思います。法 あるのですが家族葬という問題をとりあげるならば、付随し であるという規定があります。いろいろなトラブルが山ほど では、お墓の権利の関係は、一般財産とは別である祭祀財産 した。親戚も大勢いましたが、どのような葬儀にしたいのか、 いと思います。私の祖母は三年前に亡くなり、家族葬をしま しまうこともあります。是非とも事前相談をしていただきた ご家族に相応しいかどうか検討をしないまま式を執り行って (勝山) 家族葬を選択したからゆえのトラブルというのが事実 あります。家族葬がパック商品になってしまっていて、その メリットについてどのようにお考えでしょうか。 律の問題になると思いますが、どうしても避けて通れない問 よく考えてもらうように強く促しました。家族のための家族 江さんにおたずねします。今日のシンポジウ 質疑(問一) 長 ムで出てこなかったお話は祭祀財産のことなのです。いまま 題です。先祖から受け継いできたお墓、新しく造った人が子 葬であることを忘れないことが大切です。 (問三) 私は仕事の関係で行旅死亡人と関わりがあります。数 供に譲るお墓、これは一般の相続財産とは別個に祭祀財産と して扱う規定がしっかりあります。これをどのようなあり方 -89- 【公開シンポジウム報告】 合、警察、行政が身内の方を探すこともあるのですが、直葬 年間お預かりして、その後火葬することもあります。その場 開いてくださいました。これについて私は全く指示を出すこ 申し上げて、その後に家内を知る人が集まり偲ぶ会を東京で はありません。先程も触れましたが、アメリカでは多くの教 ともなく私自身は関わらなかったのですが、宗教的でなく自 ( 福 田 ) 多 く は、 行 政 の 立 会 い で 火 葬 し て 遺 骨 を 親 族 へ 還 す ケースが多いです。遠縁であっても親族が見つかり渡すこと 会が、年中葬儀が起こるので葬儀を葬儀社に任せきりで、家 になるのですか。 もあります。また、遺族が見つからないケースがあり、火葬 族葬的な形態をずっと続けておりましたが、昨今は、これで が終わるとは私は思ってはいません。 動きがあります。この例に見られるように、家族葬ですべて はいけない、葬儀を教会に戻し、宗教の本質に戻ろうという 然発生でこのような会が開かれることを否定しているわけで 場などで預かったままになることもあるようです。 (問四) 家族葬であれば必ずデメリットがあります。一方で、 柴田先生のお話の例にもあるように、それを乗り越えてでも、 残された遺族のために家族葬にするべきメリットというもの もあるでしょう。踏み込んでそこをご説明ください。 (福田) 家族葬のこれからについてのお話をいたします。本日、 議論を重ねましたが結論が出るものではありません。しかし、 を改善することは可能だと思います。家族葬が悪いと言って ことはできます。葬儀以外に納骨の時の連絡などで人間関係 人百様、生き方が違うように、葬儀の形も百人百様、違って 知人がともに送る正しい様式となってくるでしょう。人が百 と思います。大事なことは、故人を敬って弔うことで、遺族、 宗教、儀礼、会場を問わずに葬儀の様式として定着していく いるわけではなく、家族葬も葬儀の大きい小さいだけではなく、 よいのでしょう。いままでは、社会の規範のなかでスタイル (長江) トラブルが多い事実をお伝えしましたが、勝山さんの 説明のように親族間のコミュニケーションによって解決する 柴田先生のお話にあるメモリアリゼーションがあれば、その が規制されてきましたが、これからは、私たち自身が、家族 本日は、シンポジウムにご参加いただきまして誠にありが とうございました。 えるでしょう。 自身が相応しい形を造っていく、考えていく時代が来たと言 人のことを一番良い方法で弔うことが最高なのだと思います。 (柴田) 家族葬があるから家族葬にするのではなく、私の場合、 家内をいつまでも覚えてくれる人が集まったということです。 でもそれで終わったわけではありません。二〇〇通くらい家 内が亡くなったという挨拶を葬儀後に送付しました。率直に -90- 【公開シンポジウム報告】 DVD解説「葬儀の一般的流れ」 ナレーション原稿 (□=大項目、■=スライド、【 】=イラスト) ナレーター 松村朋子 司会 三橋初枝 (司会) 始めに、いま執り行われている一般的なお葬式の流れ をご紹介いたします。一〇分ほどの映像にまとめてあります。 で、いくつかに相談をして自分に合ったパートナーを見つけ ることが大切です。 □ご臨終直後 ■ご臨終 医師による臨終の宣告のあと、亡くなった方は、霊安室へ移 されます。ただし、霊安室では、長時間安置することができ ないため、速やかに自宅などに搬送する必要があります。 ■病院送迎 東京都内の葬儀社に勤務し、日々葬儀の現場で活躍されてい る松村朋子さんに説明していただきます。本日のテーマであ 葬儀社は二四時間、いつでも寝台車を手配することができま す。病院が紹介する葬儀社を利用する場合は、料金や内容に る家族葬を考える上での一つの前提としてご覧いただければ と思います。 不安がないか、信頼できる葬儀社かどうかを落ち着いて判断 ■遺体安置 打合せでは、まず喪主を決めます。そして、家族構成、予算、 ■喪主決定 応しい葬儀のあり方を探していきます。 多くの経験と知識をすり合わせ、遺族と故人にとって最も相 葬儀社と打合せをします。故人や遺族の希望と葬儀社の持つ ■打合せ 葬儀式場や火葬場の安置施設を利用することも可能です。 意します。また、事情により自宅での安置が難しい場合は、 自宅に安置されたあと、枕飾りという小さなお線香道具を用 しましょう。 □葬儀の一般的流れ 【雲】 【芝生と海】 □生前の備え ■事前相談 皆様は、一度はお葬式に参列したことがあると思います。た だ、人が亡くなった後、どのような流れで葬儀まで進んでい くのかはあまりご存じではないのではないでしょうか。一〇 分の映像を見ながら振り返ってみましょう。 万が一の時に備え、事前に準備をする方が増えています。多 くの葬儀社で葬儀セミナーや個別事前相談を受け付けていま す。葬儀社や担当者によって提案する内容や金額は様々なの -91- 【公開シンポジウム報告】 参列者数、司式者の都合、式場や火葬場の状況などを考慮し、 日時と式場を決定いたします。 ■宗旨・宗派確認 通常は、先祖代々のお墓のある菩提寺に葬儀を司式してもら います。葬儀社で僧侶や神官、牧師を紹介することもできま す。最近では無宗教でのお葬式も増えてきました。 ■訃報連絡 日時と式場が決まりましたら、訃報の連絡をします。家族葬 を行う場合は、友人や勤務先、近隣の方々はどの範囲までお 知らせをするのか考慮をする必要があります。 ■湯灌 故人を棺に安置する「納棺」や身体を洗い清める「湯灌」は 近年では親族ではなく専門スタッフにより執り行われます。 白装束や故人自身の着物や洋服を身に着けさせます。 □通夜 ■会場設営 祭壇の両脇に飾るご供花に立てる、喪主、子供一同などの札 順位は喪主が決定します。祭壇に近いほうから、故人との縁 の深い順に並べます。 ■通夜 受付は、勤務先や町内会の方々に依頼するのが一般的です。 また最近では通夜の日に香典返しを渡すことも多いため、受 付で弔問客に引換券を配ります。 ■通夜・席次 席次は、祭壇に近い所から、喪主、遺族、親族、友人など故 人と関係の深い順に並びます。喪主はあらかじめ親族のだい たいの席を決めておくとよいでしょう。 ■焼香 焼香は、喪主、遺族、親族、その後一般弔問客の順番で行い ます。神式では焼香の代わりに玉串奉奠、キリスト教や無宗 教では献花を行います。 ■通夜振る舞い 通夜では、故人を偲んでご会葬いただいた方々のために、お 食事の席を用意します。お料理や返礼品などの追加の手配は 葬儀社が行います。 □葬儀・告別式から初七日法要 ■葬儀・告別式 東京近郊においては一般弔問客参列者のほとんどは、通夜の 日に参列をします。そのため、葬儀・告別式は、遺族・親族 などのごく近しい方々で行うことが多くなりました。 ■弔電・お別れの言葉 告別式では、故人と交友の深かった方にお願いをしてお別れ の言葉をいただくこともあります。弔電は告別式の途中に司 会が奉読をします。 -92- 【公開シンポジウム報告】 ■最期のお別れ 告別式終了後、参列者一人一人の手で、お花や故人の愛用品 などを棺の中に収めます。故人と参列者がゆっくりとお別れ のできる最期の時間になります。 ■出棺のご挨拶 出棺の前に、喪主、または遺族代表から、参列者に対し、ご 挨拶をします。今までの親交に対する感謝と、これからも変 わらぬお付き合いをお願いする言葉です。 ■出棺 そして火葬場に向け出棺です。身内の男性の手で、故人の棺 を霊柩車まで運びます。遺族親族以外の参列者はここで見送 ります。 ■霊柩車 納めたあと、扉の前で読経してもらい、焼香をします。二三 区内の火葬場では四〇分から一時間程度の火葬時間となりま す。 ■骨あげ 喪主から、故人と関係の深い順に二人一組で箸を使い、遺骨 を骨壺に納めます。眼鏡などの棺には入れられない金属製の 愛用品を骨壺に入れることもあります。 ■初七日法要 仏式では火葬場から戻ったあと、その日のうちに繰り上げて、 「 初 七 日 法 要 」 を 行 い ま す。 最 近 で は 火 葬 を す る 前 に 初 七 日 法要を行う場合も増えてまいりました。 ■精進落とし 初七日法要後に、精進落としの食事となります。喪主や遺族 はこの席で、参列者に挨拶を述べ、故人の思い出話をし、お 洋型タイプを選んでいます。 は大部分の方がシンプルな 葬儀がひと段落しても法要の準備や仏壇、墓地の手配、年金 【街路樹の道】 □葬儀を終えたら 互いに労をねぎらいます。 火葬場に併設された式場で の 手 続 き な ど、 や る べ き こ と は た く さ ん あ り ま す。 場 合 に かつては霊柩車と言えば宮 型霊柩車でしたが、近年で は、霊柩車は使用しないこ よっては専門家のサポートを得ることも良いでしょう。近年 葬儀について考えてみてはいかがでしょうか。 葬儀の形はめまぐるしく変化しています。皆様もこの機会に ともあります。 ■火葬 仏式の場合は火葬炉に棺を -93- 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「SOGI No.138」(1/3) -94- 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「SOGI No.138」(2/3) -95- 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「SOGI No.138」(3/3) -96- 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「宗教新聞」 -97- 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「葬祭流儀」(1/4) 日本葬送文化学会が第1回シンポジウムを開催 いま注目の 「家族葬」 の 位置づけとそのあり方を考える ●勝山宏則さん… す。残されたご家族が、故人やご葬儀 から、ご自 宅へは帰 らず 葬 儀 社で安 では 住 宅 事 情、ご近 所への配 慮 な ど 葬儀社の立場から現状をお話し すると、最 近では葬 儀の依 頼に来 11 送りたい、 送られたい 感動のお葬式 -98- 従 来は病 院で亡くなると、ご自 宅 へ搬 送 す るのが 普 通でしたが、最 近 るほとんどのご家族が「家族葬で」 なのです が、ご自 宅でそ ういう 時 間 について話し合う時間はとても大切 勝山 宏則さん 日本の葬儀の現状とは…? subject 1 葬儀社に依頼する家族の ほとんどが「家族葬」を希望 と希望されます。ただし、家族葬に 自宅の居間代わりのスペースを提供 を 持てないので、現 在では 葬 儀 社 が 置するケースが約6割を占めていま ついては明確な定義がないので、よ く よ く お 話 を 伺い、そ れに 沿った するようになっています。 プランをつくっていくと、けっこう 大規模なご葬儀になるケースも珍 葉自体、最近ではあまり使われなく そ も そ も お 葬 式 の 目 的 は「 弔 う 」 ことです。しかし、 「 弔 う 」という 言 しくありません。 「家族葬で」とい う言葉の裏には、 「派手な葬儀はし 故人を「弔う」気持ちを表す手段だっ なりました。お香典や供花、供物は、 たくない」あるいは「お金をかけた くない」といった思いが込められて 何にお金がかかっているかわから いるよ う に 感 じていま す。葬 儀 は 葬なので」とお断りする方が増 えて います。 た は ず な の で す が、最 近 で は「 家 族 う人も多いということでしょう。 ないために、 「 高い」と感じてしま ●八木澤壯一さん… 厚生労働省認定葬祭ディレクター 技能審査・審査官。品川区桐ヶ谷 斎場隣に営業拠点を持つ葬儀社 「大成祭典」の四代目社長。 あまりにも当たり前に使われるようになった「家族葬」という言葉だが、 日本葬送文化学会は去る 月 日 (土) 、 〝今なぜ「家族葬」なのか〟というテーマについて、改めて考えるシンポジウムを開催した。 定員300名の東京国立博物館大講堂は、ほぼ満席の盛況ぶり。4人のパネラーによって展開されたシンポジウムの内容をレポートする。 16 46 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「葬祭流儀」(2/4) 家族葬とは 2000年ごろから首都圏を中心に増えて きたが、明確な定義はない。 ①家族だけで行う小規模な葬儀 広まった背景には、核家族化、少子高齢 う人も多いということでしょう。 ないために、 「 高い」と感じてしま います。 葬なので」とお断りする方が増 えて ●八木澤壯一さん… 火葬場は弔う場所であり 最期の別れの場所 火葬が導入されたのは奈良時代で 今、日 本では亡く なるとほとん どの方 が火 葬 されま す が、日 本に す。天 皇 家で最 初に火 葬 されたの は持統天皇で、それ以降、天皇家で なるとお寺で火葬が行われるよう は火 葬が続 きました。江戸 時 代に ②従来の形式にとらわれない自由な発想 ③費用が抑えられる。 が可能。 浄苑」があります。設計者の選定から 運 営 計 画 まで任されたのです が、地 室」は外から光 け た「 お 別 れ -99- その後、明治維新が起こると、政府 ①接待に追われず、ゆっくり過ごせる。 に戻りました。 〝安心してお別れができる場所に〟と 域の方にも積極的に参加してもらい、 %が火葬 世界 的に見ると、近年は火葬 率が 上昇 傾 向にあ り ます が、イスラム教 八 幡の街 並み をモチーフとし、内 部 の思いでつく り ました。外 観 は 近 江 では土葬が基本。日本は であるのに 対 して、全 世 界では火 葬 このように火葬の歴史と現状を振 り返ってきましたが、火葬場とは、先 には木 をふんだんに使 用。炉 前に設 が占める割合は約 %です。 ほ どの 勝 山 さ んの 言 葉 を 借 り れ ば、 空 間 で、 「おも いでコーナー」 の入 る 明 るい ム」なども設け まさに「弔う」場所であり、最後の別 わしいのはどんな場所なのか。 ています。 れの場所です。であれば、それにふさ これまで数々の火葬場の設計に携 わってきましたが、近年関わったもの や「キッズルー では滋 賀 県 近 江八幡 市の「さ ざなみ 47 になり、一般庶民にも広まります。 止に。しかし、都市部ではすぐに埋 来の葬儀への反発があると考えられ、 世界の火葬場研究の第一人者。 前日本葬送文化学会会長。東京 電 機大学名誉 教 授。1992 年、 火葬場研究で日本建築学会賞 を受賞。 99 の政策により明治6年に火葬が禁 多い、お寺との付き合いが大変、など従 日本葬送文化学会会長 などのイメージが一般的だ。家族葬が 葬 場 所の確 保が難しくなり、衛 生 化などによる家族形態の変化や、接待が 杉浦 昌則さん 葬祭ビジネス研究家、日本葬送文 化学会副会長。今回のシンポジウ ムのコーディネーターを務めた。 ③費用がかからない 八木澤 壯一さん 70 面の問 題 も あって、ま も な く 火 葬 などのメリットがあげられる。 厳粛な雰囲気 福田 充さん ②故人の遺体を中心にしめやかに弔う。 subject 1 ect 2 ● 長江 曜子さん…… お墓は死者と生者が 心を通わせる場所 お墓の形や機能は家族の形態と と もに 変 化 して きていま す が、い つの 時 代 も 変 わ ら ないのは「 追 悼 する場所である」ということ。故人 方になるとキャンドルが灯されて美 慮 してつく られたこの墓 地には、夕 しいです。その様 子 はとても 暖 かい き。 は 葬 る こ と、埋 め る こ と で す。で は いつの時 代にも、宗 教は葬 儀 と深 く関わってきました。 「葬儀」の「葬」 死の向こう側を 指し示すのが宗教の役割 ●柴田 千頭男さん…… 聖徳大学児童学部児童学科 教授、生涯教育文化学科教 授。石材店に生まれ、世界 45カ国を旅して欧米の墓地 や墓石を研究。 送りたい、 送られたい 感動のお葬式 から人 間の死 という ものは、不 可 解 世の生活から抜 け 出し、死 という 狭 ようなもの」と表現しています。この まいがある、というようなことをいっ ているのです。 い通 路 を通ると、死 後には大 きな 住 なぜお寺や教会に葬儀を頼むのかと で恐ろしく、神秘的なものであり、宗 いえば、人々は 宗 教が 葬 儀に関 わる まれること。つまり、地上での生が終 仏教では、亡くなることを「往生す る」といいます。往生とは、往って生 りではない。死は、目に見えないもの わったとしても、それですべてが終わ しょう か。生 きている 者 と 去った 者 との関 係 を指し示し、死を超 えた向 行わずに寺院墓地を利用しようとし そして、それが「葬儀」なのです。 を差し示すことが、宗教の役割です。 マル テ ィン・ル タ ー は 死 に つい て 「赤ん坊が小さな母体から生まれ出る ても、トラブルになるのは当然です。 に触れる接 点であり、その向こう 側 それこそが、いつまでも心に残る、よ 宗教者の役割だと思うのです。 こ う に 希 望 が あ る こ と を 語 るの が、 ことを期 待しているからではないで 教 に 頼 ら ざ る を 得 な かったので す。 いっています。指し示すものです。昔 リッヒは「宗教はシンボルである」と だと思うのです。神学者のポール・テ 「 儀 」は 何でしょう か。それは、宗 教 長江 曜子さん ソナリティが表出された葬儀になる。 -100- 墓地があり ます。自 然との調 和に配 心の交 流の場でも あ り ま す。大ベ 思われ ルーテル学院大学名誉教 授。牧師でもあり、宗教 を通じて魂と心の問題を 探求。宗教と葬送文化に ついても研究している。 を忘れないためのメモリアリゼー ストセラーとなった『バカの壁』の 雰 囲 気に満 ちており、ここが死 者 と らわれ 柴田 千頭男さん ションの 場 で あ り、死 者 と 生 者の 著者、養老孟司さんは「墓は人間し せる場所であることを痛感させられ のコミュニケーションの場、心を通わ ます。 す が、お 墓は人 間 ならではの葬 送 文化の場なのです。 日本では1990年代以降、深刻な 墓地不足に陥り、平成になってからは かつくらない」とおっしゃっていま スウェーデンのストックホルム には、世 界 遺 産に登 録された森 林 永代供養墓、樹林墓地、散骨な ど、墓 地の形 も 変 化 を 遂 げ ま し た。一方 で、お 墓 を 守 る 人、 お墓の担い手不足も深刻です。 維 持し続けられるのかという お墓を持っていても、いつまで ます。また、身内もなくたった 不 安を抱えている人も大勢い き場所がない人もいるのです。 ひとりで亡 く な り、遺 骨の行 自分が亡くなったときの遺骨 れの家 の行方は、現代人の大きなテー マとなっています。 で送る 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「葬祭流儀」(3/4) 48 【公開シンポジウム報告】 掲載記事「葬祭流儀」(4/4) 「家族葬」はこれからどうなる…? ● 勝山 宏則さん…… の行方は、現代人の大きなテー マとなっています。 ●柴田 千頭男さん…… 族が自分たちの家族葬をつくっていくべき。 最 近の葬 儀では、故 人のアルバ ムや 愛 用 品、趣 味の品 などを飾る 定 的で す。 「 家 族 葬 」は、これ までそ 牧師が葬儀のときだけ関わるのは否 が 故 人 をよく 知 らないと、その人 ら とができ たり、自 分 とのつなが り 侶や牧師へのアンチテーゼかもしれ のような関係を築いてこなかった僧 それこそが、いつまでも心に残る、よ ソナリティが表出された葬儀になる。 マル テ ィン・ル タ ー は 死 に つい て 「赤ん坊が小さな母体から生まれ出る また、生前にお墓を用意しておいたの ても、トラブルになるのは当然です。 行わずに寺院墓地を利用しようとし そして、それが「葬儀」なのです。 うケースも。きちんと家族でコミュニ に、それを子どもが知らなかったとい を差し示すことが、宗教の役割です。 い家族葬だと思います。 ●八木澤壯一さん…… てはいけ ないものまで省いてしま う ます。いくら家族葬といっても、省い ケーションをとっておく 必要があり より往く人と送る人とのコミュニケー 家族葬向けの火葬場が登場 家 族葬の増 加により、火葬 場はお 別れの場としての重要性が増してい ションが大切です。 していくのではないかという考えが示 「 家 族 葬 」は 最 後にまとめとして、 今後、新しい葬儀の一形態として定着 家族葬のこれからについて ●福田 充さん…… と、トラブルの原因になるのです。何 火 葬 場 は、内 部 に 大 中 小の3つのユ ます。広 島 県三次 市にできた新しい 見送りと収骨ができるスペースと待 ニットがあり、それぞれにゆったりお 合 室などを完 備。他の利用者とは顔 す。このようなスタイルは、家族葬向 を合わせることもなく、大 切 な人を けの火葬場として、ニーズが高まって されました。葬儀は、本来故人や遺族 心ゆ く まで偲 び、送ることができ ま いくのではないかと思います。 は規模の大小を問わず、故人のゆかり ある人が集って弔うことが大切です。 ごとに異なっていくべきで、家族葬と ●長江 曜子さん…… お墓は祭祀としての 機能を持っている お墓からは、故 人の生き 様や 家 族 との関 係 が 見 えてきま す。最 近では 通夜や告別式を行わずに火葬をする 「 直 葬 」が増 えていて、寺 院 墓地での ないと思うのです。 通夜では家族が集まり、故人を思 い 起 こ し て 話 し 合 う。そ し て、好 き らしさや 個 性が 表 れ、改めて故 人 とのつながりを確認できる葬儀で、 トラブルも多いようです。お墓は単な これからのお付き合いを考 えてい 能を持っていますから、追悼の儀式を が見えたり。いい葬儀とは、その人 しい葬儀はできません。私は、僧侶や それによって故人の生涯を知るこ 葬 儀を行います。葬 儀を執 行する人 アメリカでは、生まれたときから その人に関わっている教会の牧師が いつまでも心に残る葬儀を 葬儀の一形態として、定着していくと思われ 「思い出コーナー」を設けています。 〝その人らしさ〟 が伝わる葬儀 る。スタイルは百人百様であり、それぞれの家 る物ではなく、祭祀の施設としての機 -101- ず、 「弔う」ことを重視し、親しい人たちで送る 音 楽 を流せば、自 然 とその人のパー 49 (まとめ) だった絵や花を飾ったり、好きだった ●事務局 3 栃木県那須烏山金井 1-8-12 ㈲一二三内 ☎ 0287-82-2536 http://www.sobunken.jp/ 家族葬は、形式、儀礼、会場などにとらわれ くきっかけにもなっていく ものだ 日本葬送文化学会 家族葬のこれから と思います。 葬送文化研究会として 16 年間の 活動を経て、平成 13 年 10 月に日 本葬送文化学会を設立。葬送とそ れにかかわるすべてのテーマに関 する研究を目的に、月1回実施さ れる研究会と年間 2 回の野外研修 を活動の軸に活動している。 subject 2 【公開シンポジウム報告】 (除く当学会会員) 回収率 四五・二% 一〇四/二四〇(人) 参加者アンケート結果 その他の意見 〈自由回答〉ご意見、感想や身近な悩みなどご自由にご記入 ください。(一部抜粋) ・これからは自分自身と夫の最後の事、考える上で参考になり ました。また、これからもこのようなシンポジウム・講演会 があったら出席したいと思います。(六七歳主婦) 次は是非直葬について取り ・もう少し時間が欲しかった。火葬比率が上がったことは、葬 儀に影響を与えたのだろうか? 上げて欲しい。(三七歳男性) ・宇宙葬について詳細を知りたい。(七〇歳男性) ・いまあまりにも葬儀が多様化している。「しない」=直葬と いう選択の中で、なぜ葬儀をするのかを改めて知りたい。特 ・家族葬を選んだ家の場合の故人の平均年齢(男の場合) ・死をタブーとして扱う意識について に宗教(仏教)離れはどういうことなのか、死生観すら迷走 ・家族葬を推し進めるような内容でなくて良かった。「葬儀と ます。(八〇歳男性) なのか、ぜひ貴会の研究の成果を折にふれて知りたいと思い している感がある。人の死とそれを弔う「よりどころ」が何 ・日本人はなぜ火葬場を忌避するのか、など死のタブー死につ いて知る機会があると嬉しい ・「儀」としての部分。 「しきたり」を超えた信念・宗教の部 分で納得する形を探したいと思っている ・グリ ーフケア、遺物(遺品とまでいえません、ガラクタです) は?」を知る機会はその場に直面した時とした場合、勝山さ んをはじめとする葬儀社の方の重要性は高いと感じた。時間 の処理 ・葬儀 社におけるグリーフサポート の関係からパネラーのバックボーンについて、もう少し絞っ ても良かった気がします。(男性) ・変わ りゆく葬儀の在り方。今後どこまで変わって行くのか。 葬儀文化はどう変化し、終わりはあるのか。 ・家族葬ではない葬儀とはどういうものなのかが、わかりませ んでした。家族葬以外にどんな葬儀があるのか?(社葬?) -102- 【公開シンポジウム報告】 にいかず現況悩んでいる。(七八歳男性) ・日本の現状では仏教関係の人の話しも聞きたかった。神道も を知らないので流行っているから家族葬にしているのではな いケースも多いと思います。私としては「家族葬=こじんま 29 29 26 散骨について 準備しておくこと 22 お寺とのつきあい方 22 お墓について 21 葬儀費用について 21 20 お布施・戒名の金額 直葬の費用 17 火葬場について 17 16 手元供養について 14 葬儀社の選び方 15 お骨の保管 ・柴田先生の「キリスト教と祖先崇拝」についての考えを知り 無く事務局長の様な立場の方。(六三歳男性) いればもっと可。(七〇歳女性) ・病院関係の方もパネラーに入れて下さい。できれば医師では 33 エンディングノート たいと思っています。(五四歳女性) 11 葬儀の種類 11 8 メイク・死化粧 納骨堂について 7 エンバーミング 7 6 葬儀の手順 4 葬儀情報の調べ方 終活」に関心があります。 (四三歳男性) 34 直葬とは にはとまどっています。 かって行くのか。金のかかる葬儀 大 き な 問 題 で す。 ど の よ う に 向 ・世の中急速に変わりつつあります。 (八三歳女性) ように扱えば良いのでしょうか? 粗末に処分はしたくないのです。 ・合同墓=無縁墓なのでしょうか? 後継者がいない時の仏壇は、どの 感じた。 きたのかという話しがなかったと ・家族葬という言葉がどこから出て い。(三六歳男性) 点を掘り下げた講義もぜひ受けた ・世代によって、葬儀や死についての意識が違ってくるという 生前予約・生前相談 ・柴田先生の「儀」のお話し考えさせられました。ルターの死の 35 家族葬とは 40 35 30 25 20 15 10 5 0 -103- り」と、とらえました。 (女性 税理士) ・独身で地方から上京した者です。自分を含め「おひとり様の 12 仏壇について 定義については、死への希望を見い出しました。 (五九歳女性) 家族葬の仕方 樹木葬について ・家族関係が養子縁組など進んでいない。小生再婚でスムーズ 1)関心のある項目、今後知りたいと考えていることはどのようなこと ですか?(複数可) 【25 年度月例会報告】 平成二五年五月野外研修 国立歴史民俗博物館 「死と向き合う」見学 報告:杉浦 真也 案内人:国立歴史民俗博物館研究部民俗研究系准教授 山田慎也氏(当会会員) 日程:平成二五年五月二三日(木曜日) 場所:国立歴史民俗博物館 千葉県佐倉市城内町一一七番地 もあり、また現在大きな社会問題としても横たわっている死と、 それにかかわる葬送について、多様な民俗と現代的な変容につ いて取り上げています。 一四時三〇分、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)エントラ ンスに集合の後、研修室へ移動、見学前に山田氏より施設、展 示説明を受けた。 、第二展示室(中世)、第三 歴博は第一展示室(原始・古代) 展示室(近世)、第四展示室(民俗)、第五展示室(近代)、第 六展示室(現代)の六テーマにて構成されており、今回の研修 では、その中の第四展示室(民俗)を見学した。 第四展示室の民俗展示室は、一九八五年にオープン。その後 の社会情勢の変化、研究分野の進捗を踏まえ、二〇一三年にリ ニュール。現在の展示では沖縄から北海道まで、複数の民族集 人の一生のなかに組み込まれ、ややもすると直接的な表現を避 歴博は開館三〇周年を迎え、民俗展示が最新の研究成果を取 り入れ、二八年ぶりにリニューアルオープンしました。通常、 【山田氏より研修前にいただいたメッセージのご紹介】 合う』コーナーを見学した。 三大テーマで構成され、主に『おそれと祈り』中の『死と向き 様な展開の軌跡と最新研究成果が展示に盛り込まれている。室 団によって構成される列島の民族文化を紹介しながら、その多 け、展示自体も積極的ではなかった「死と葬送の民俗」につい 入室し、まず目に飛び込むのは、華やかなおせち料理である。 『民俗へのまなざし』中の『ひろがる民俗』コーナーにあり、 はじめに て、今回、 「死と向き合う」というコーナーを広い面積をとっ おせちの展示で、行事食の変化が紹介されていた。おせちの語 内は、『民俗へのまなざし』『おそれと祈り』『くらしと技』の て独立して設置しました。時代を通して人びとの苦悩の一つで -104- 【25 年度月例会報告】 源は御節供であり、神への供物だった。江戸時代からおせちと なり、一九五〇年代末からセット化がされた。有名デパートな ど既製品台頭による、行事食の変化が一連のサンプル展示から 学べた。 『民俗へのまなざし』コーナー後半では、『家族の変容』の紹 介があり、地域の人間関係や親族によって支えられていた、出 会い、子育てに、企業や公共団体が介在し始めたことや、情報 伝達方法が変化し、テキストなど参照する事が多くなったこと、 少子高齢化、単身世帯について分析がされており、『家族のあ り方』が展示されていた。 次に、研修目的地となる『おそれと祈り』コーナーに入る。 ここより写真撮影が許されていたため、写真を多く載せ紹介す る。 Ⅰ めぐる時間と祭り 一年という時間のサイクルの中で繰り返される、地域の生業 や生活とかかわる祭りや行事の展示を見学。 -105- 【25 年度月例会報告】 Ⅱ 妖怪の世界 妖怪は恐怖をもたらすだけでなく、遊びの対象としてもさま ざまなキャラクターが生み出された。民話、文芸、絵画、芸能 など活躍する世界の広い、妖怪展示を見学。 -106- 【25 年度月例会報告】 Ⅲ 安らかなくらし 人生節目におとずれる不安な時期においての儀礼や行事、神 仏への祈りの展示を見学。 Ⅳ 死と向き合う 解決することのできない死について、さまざまな民俗的な対 応を行い向き合ってきた。死に対する民俗的な世界観も近代化 によって大きく変容している様子を見学。 -107- 【25 年度月例会報告】 葬列・葬具を見学。 死者との交流行事、道具や、地域での違いなどを見学。 -108- 【25 年度月例会報告】 供養絵額を見学。 現代の供養方法と、道具を見学。 散骨・樹木葬・メモリアルフォトムービー・仏壇の変化・も やいの碑・現代の墓・バーチャル墓・手元供養・遺骨バッグ・ 新納骨システムの解説書、展示物を見学。 『死と向き合う』コーナーを後にし、『くらしと技』コーナー を見学。第四展示室の見学を終えた。 葬送文化を研究する当会にとって、歴博は素晴らしい施設で あった。展示物や解説文によって、文化の変遷と様子が可視化 されている。現代、未来を考えるのであれば、過去からの大き な流れを学ぶ。その必要性を再認識する事ができた。次回は他 の展示室も含め見学したい。一日滞在しても時間が足りないか もしれないが、当会に在籍しているという理由だけではなく、 日本人として改めて学びに来たい。 -109- 【25 年度月例会報告】 七月月例会 講演 碑文谷 創 葬送をテーマとした「評論」の視点 ~あくまで私的に~ (配布資料) 一、雑誌『SOGI』について 「葬送に関する専門雑誌」という位置づけ 読者に葬祭業従事者が多いことは充分意識するが「業界 誌」にはしない。 二、評論 氾濫する情報の提供と交通整理による見方の提示 情報の質の評価と意見 個・家・社会の変化、現況、分析、予測 死の周辺の変化の分析 習俗の発生と見方 (死、死者、遺族) death study 社会の中の葬祭サービス、社会の中の寺(神社、教会) 議論の場の設定、、概念の整理と体系化、用語の整理 生と死の歴史 問題提起と自分なりの考えの提示 三、現場への係わり 永代供養墓(個、家族の変化) 情報の流通もあるが、月刊誌等が出たことで、情報を選 別、分析に重点 さまざまな人(遺族、市民、宗教者、死の周辺の現場の 人、研究者、市民運動等)の本音を聞く。 エンバーミング(遺体論、刑法一九〇条) 教育 行政 地方自治体、市民への情報提供、省庁の指針作り 葬祭ディレクター(求められる人材、教域) 樹木葬(個、家族の変化) 葬送を広い角度で見る。境界線を最初から作らない。 執筆、討論に参加する人のそれぞれの問題意識を大切に する。拡がりが生まれる。 現場感覚、当事者感覚を大事にする。 「見識」を大事にする。 どんな意見でもいいのではなく、 -110- 【25 年度月例会報告】 認するのも意味がある。 - Net セカンドステージ冠婚葬祭講座 碑文谷創 二〇〇九) (この段落のみ下記より一部転載)(日経BP社 BP 実は葬式無用論は島田裕巳が言い出した訳ではない。産婦人 科医であった太田典禮という人が中心になり「葬式を改革する 勝山 宏則 会」をつくり、葬式無用論を出版した。 八 〇 歳 以 上 で 亡 く な る の は、 全 死 亡 者 数 の う ち の 五 二 % に なっている。大往生の死であるのであまり悲しまない。高齢社 『葬式無用論』一九六八 の で 推 測 す る と、 八 〇 歳 以 上 は 三 % 程 度 だ っ た。 こ れ は 長 寿 講演会報告 太田氏は仏教式の葬儀に対して、このような葬儀はいらない のではないかと言った。 近所の人が集まって少し豪華にやる一種のお祝いだった。 だったしお祝いだった。お菓子や小銭を入れて葬列でばら撒く。 会の死は違った問題をもっている。昭和の始めのデータがない 丁度そのころ高度経済成長期であり、近代化の意味もこめて 提唱したが、当時それは結局理解されなかった。 - 太田典禮(一九〇〇 一九八五) 今の高齢者の置かれている環境は違う。大阪大学の教授が、 「家族が親の面倒を見るのは当たり前だ」と発言した。「そうい う倫理的なものの考え方がなくなったから問題だ」とも言って あった。今から四〇年以上の昔、 「葬儀無用論」が語られたこ 氏は今大きく問題になっている「尊厳死」を最初に唱えた人で 尊厳死協会」と改名した。つまり「葬式無用論」を唱えた太田 楽死協会」を設立。同会は昭和 五八年(一九八三)に「日本 太田氏は、昭和三八年(一九六三)に『安楽死のすすめ』を 刊行した。後に太田氏は、昭和五一年(一九七六)に「日本安 昔には無かった問題だ。親が子供の世話(子育て)をする期 間より、子が親の面倒を見る(介護をする)期間の方が長いの うが、私の母親は八〇歳から九九歳まで認知症でした。 どこまで言えるのか。もう八〇歳以上だから高齢で万歳だとい 社会の中で、「家族が高齢者の面倒をみなくてはいけない」と、 戦前まで、一九五〇年代家族は平均五人いた。その前は七人、 八人といた。今は、二人強くらい、老々介護になった。そんな 島田氏の発表は二〇一〇年である。 『葬式は、要らない』幻冬舎新書、二〇一〇 ともあったこと、その流れが現在の「尊厳死」のリビングウィ ではないか。 いた。 ルにまで、さらには「献体」運動にまで繋がっていることを確 -111- 【25 年度月例会報告】 は文句を言えるところがない。娘だけの負担にしている男が悪 苗字が変わろうが関係ない。嫁の立場であれば、実家に行っ たり、外に行ったりして、義理の親の文句も言える。娘の場合 する。 れたか。昔は男の子が跡継ぎだったが、今は女の子を跡継ぎに かし良く言われたのが「嫁の世話になりたくない」今は、 む 世話をするのは圧倒的に娘だ。家についての観念がどれだけ崩 もおかしくない。そして更に、なんで親の死を子供が面倒みな くてはならない時期にきている。だから一割は直葬の人がいて 家族関係・親族関係が崩れて変わってきている。かつての血 縁関係を中心に成り立っていた社会構成をもう一度組み直さな 森の中の納骨堂、費用は五万円、宅配便でも送りつけること ができる。実は流行っている。 さんを引き取りたくない。 い。 くてはならないのかと考える人が一~二割いても不思議ではな いとも言える。 社会的に、いろいろ見ていかないといけない問題だ。死の問 題も直葬の問題もそうだ。 もう一つの調査によると身元が判っても引き取りを拒否され る遺体は三万一、 〇〇〇人いた。 と官報に載ったものを集計したら一、 〇〇〇名だった。 全国にどれくらいいるのか、NHKの調査で全国の地方自治体 割だそうだ。行旅死亡人つまり身元の判らない人、行き倒れは じ込めて、外から一時間鍵をかけておけばよい。否が応でも遺 間前から、どこか部屋にこじつけて家族を集めて棺と一緒に閉 というのは、もし遺族が棺のまわりにいて関係をもっているな まりのときに挑発して発言したことがある。一番良いサービス 棺から離れないようにするなど、死者に対する哀惜の強い人 と、もう死んだということで冷たくあしらう人だ。葬儀社の集 葬儀社に勤務する人は分かることだと思うが、遺体に対する 感情は非常に極端に分かれる。 三万一、〇〇〇人いるなら、その三倍くらいは、いやいやなが 体につきあう時間を作らせる。 直葬と私が名付けた。かつては直送と言っていた。荼毘葬、 炉前などみんな葬儀社の隠語だった。東京では、直葬は二~三 ら引き取った人がいたということは、すぐに想像できることだ。 ら放っておけばよい。もしそうでないなら、葬儀が始まる一時 実際、遺体の引き取りを拒んだ親族は甥姪が圧倒的である。 実際に昔のことが良いばかりでもない。青木新門氏の話を聞 いても、湯灌なども、あんなきれいには行われない。だから、 兄弟とかならまだ引き取る。生前知りもしない伯父さん叔母 -112- 【25 年度月例会報告】 湯灌の世話をする人には酒を飲ませて、飯を食わせて、そして、 も う 酔 っ ぱ ら っ て ど う な る か わ か ら な い。 そ ん な こ と が 相 当 あったようだ。 湯灌は霊と身体を浄化する。逆水など逆手に柄杓をつかう。 一膳飯の話。箸を一本立てるのか二本立てるのか、どちらが 正しいのか、おそらく一本というのは、生者の世界と死者の世 界が違うからということで一本、これは後に作られた話のよう だ。 白米、昔の言葉なら銀シャリ、麦とかが混ざっていない、あ れは凄まじい御馳走だ。あれは亡くなった人に何とか、食物の きょうしょく 魅力で生き返ってくれないかというものだ。だから、箸は二本 だったろうと思う。 あとは、死者との別れでの共食は、キリスト教のプロテスタ ントの聖餐式、カトリックでの聖体拝領、に見られる。最後の 晩餐での別れの会食に由来する。 食事が死者との別れにおいて重要な意味をもった。だから葬 儀での食事は重要な意味がある。 今の飽食の時代の感覚と、むかし食事がもっていた意味合い、 それが死者と生者に対してもっていた意味合いが随分違うので はないか、そんな想像力は現代人にも必要であると私は思う。 -113- 【25 年度月例会報告】 九月月例会 高齢化する ペットのエンディングを考える 我が家でのペット一九年間 福田 充 ペットの高齢化とペット産業 藤井 高 海外におけるペット葬儀の考察 岩㟢 孝一 ペッ トとの出会い・生活・介護・看取り はじめに ペットとして、犬・猫等二〇年近くも、家族の成長と共に生 活と影響を与えたり、鳥に至っては三〇年から四〇年も生きる ペットの高齢化とペット産業 福田 充 ペットの飼育状況 犬一、一五〇万頭 猫九七〇万頭 ペット産業の市場規模は、ブリーダ、ペットフード、ペット 関 連 用 品、 医 療 ト リ ミ ン グ、 保 険、 及 び ペ ッ ト の 死 を 含 め た サービス市場を含めて一兆四、〇〇〇億円と言われています。 犬や猫の平均寿命も一二年から一五年以上と長くなっており、 飼育する飼い主の高齢化と共に、様々ニーズに対応するサービ ス産業が展開されてきました。 えなくなったペットの里親探し・高齢で介護が必要となっ 飼 たペットを飼い主に代わって終生にわたって預かり、医療、介護、 終末まで生活を共にする「有料老犬ホーム」の展開情報を紹介。 ・各地の展開状況として ペットリゾートカレッジ日光でのペット専門学校の実習施設 を兼ねた屋内運動場。屋外での散歩、個室から寝たきりペット 種類もあり、家族の一員としてかけがえない時代を生きてきて も、いつかは別れが訪れます。 の実情が報告されました。 続いて、板橋区舟渡の戸田葬祭場隣接のペット火葬板橋の施 設報告 の介護、飼い主への近況生活リポートまできめ細かなサービス こ の 動 物 た ち は、 話 し か け て き た り、 遊 び を 要 求 し た り と 様々に多様性を持ち、古来から擬人化されたりして、多くの物 語に登場します。 ペットの高齢化・介護、看取り、葬儀に関しての報告を行い ました。 ここでは、人間同様の火葬施設を持ち、お別れ室から台車にて 炉室へ自動搬送され火葬が終了すると再びお別れ室へ自動搬送さ れ、収骨を行うペット火葬の利用が年々増加して年間二、 五〇〇 -114- 【25 年度月例会報告】 1 年老いたペットを介護するペットリゾートカレッジ日光 3 ペットの墓石も並ぶペットと一緒に眠る墓地 2 お見送り環境を整えたペット火葬板橋 件に及ぶところまできました。 最後に合掌の郷小野路霊園ふれあいペットローズガーデン。 ペットも一緒に入ることのできる墓地でペットの墓石やありが とうの言葉の刻まれた墓石の写真などを紹介しました。 まとめでは、ペットや飼い主の高齢化によって人間と同様に 終末期に向けてのエンディングがますます重要になってきた点 藤井 高 と医療、火葬、埋葬など増加するニーズへの対応と老犬老猫ケ ア施設の充実が課題となる報告がなされました。 海外におけるペット葬儀の考察 中国・台湾・香港・アメリカ・ドイツのペット葬儀状況の報 告がなされた。 中国、広州市の人口六八五万人に対しペットの犬は約六〇〇万 頭と言われ、当然ペットの死骸処理の問題が発生している。 また、上海では、火葬したペットの遺骨を下水に流す事も発 生するなど、ゴミとして適当に処理されていたが、専門のペッ ト葬儀社も現れてきた。 アメリカ、ドイツなど一般的にペット病院経由で火葬するが、 アメリカでは、個別火葬・グル―プ火葬、土葬用のペット棺で の土葬もあるが、ドイツでは一週間に一度まとめて火葬するシ ステムが主流である。 -115- 【25 年度月例会報告】 遺骨に対して日本ほど執着がない事から火葬して終結する傾 向がある。 ペットの介護から看取りを体験して ペットの飼育と高齢ペットの介護に関して、実際にペットが 寝たきりになってから死亡するまでの実証記録から、人間の介 岩﨑孝一 る事を促す傾向が高い。 も挙げたが、人間の介護と違い、動物はわがまま精神的な感情 出会い・飼育・介護・看取り我が家での一九年間 本 で は、 人 間 の 介 護 と 同 じ で 最 後 ま で し っ か り 介 護 し て 日 送っていこうとする傾向が高く、多くのペットは家族の一員と のいらだち・甘えは、一切ない。 欧米では、ペットが元々寿命が人間より短いので、医療面で 手術など苦痛を与える手法より、安楽死の選択で、一生を終え して存在し、亡くなった時にペットに感謝し、供養と冥福を祈 護と動物では、大きな違いがあることに気づく。今回の報告に る考えがある。 動物本能の生きるためには、食べ物を食べる、水分をとる、 ペットのトイレが決まっていれば、何としても歩こうとするな ど、野生で生きていた自然界の掟に亡くなるまで、必死である 手元供養では、小さなカプセルやきれいな骨壺に収納して、 ペットロス症候群に陥りにくいという効果を持った商品が開発 ・歩けるうちは、歩行できるよう滑りにくい床材を敷いて、自 ・人間の老後・介護のような行き過ぎた延命医療行為を行わない。 事が我が家にての介護日誌の結果である。 されている。 ・食べ物は、柔らかくしたり、細かくしたりして、自ら食べる ペット霊園・納骨・手元供養に関して ペット霊園は宗教法人や特定の主教法人ではない民間企業に より整備されて納骨堂と共に人気がある。 〇〇〇万頭のペットが飼われており、 統計では、日本には約二、 毎年五%が亡くなる報告がされた。 ・寝たきりになったら、一ヶ月程度で、天国に行く 確かに、人間の方は、毎日仕事をするし、いろいろな行事で 家を留守にする事が多い。 事に手を貸して元気になるようにする。 ら行動することにまかせる。 大切な点は まとめとして、欧米と日本のペットの死に対する宗教上の違 いと農耕民族であった日本人が古来自然を対象にした信仰が、 今後もペットの育成、死、供養に大きく影響を与えるのではな いかとしている。 ペットの終末期の介護を、働き盛りの人達が行う事はこの点 -116- 【25 年度月例会報告】 難しい状況である。しかし、介護期間は、長くないので、新た 一生が遂げられた。 看護する事を推奨され、最後は自宅で静かに看取り、ペットの 進めており、樹木と共に主骨埋葬を計画しています。ペット霊 なサービス事業を開始・営業しても飼い主への金銭負担は、重 ペット介護用品の開発状況 ・ペットシーツと長座布団(ペットの身長に合った物を選択) 園等の選択はなく、自然界への回帰です。 荷にならないと思われます。 ・秋から冬期にかけては、加湿器など ペット介護日誌 火葬後は、現在は会員である東洋工業さんのペット供養地蔵 (大きさ手のひら)と主骨壺に収めており、自宅の庭の整備を ・室内歩行の補助材として、コルクタイル床材の設置 生 (看取りの 症 ☆ 家族だけで介護・看取りを行える場合と、専門のペットサービスに力を借りて介護~看取りを委ねる場合の選択がある ・ペット用の紙おむつ 症 病 猫 病 ☆ これからのペット飼育(最期まで看取る責任の必要性)を考える 参考事例として) 生 病 犬 ※ 寝たきりになると、毎日の介護が必要(東京と栃木の往復でした) ・ミール状態にすり鉢にて加工して与える食器 生 状 症 病 犬 -117- 犬 番 留 犬 猫 猫 )は、 気を発 するまで元気に動き、食欲も十分ありました ・身体が弱って排尿が困難になった時期に利尿剤を与える 報告の中で、ペットの出会いと家族の年代の点について、我 が家では、猫は次男が小学校から中学校へ進む年代。犬につい ては、栃木県の父親が飼っていたペットで父親が亡くなった後、 飼育を継承しましたが、幸い子犬の時から散歩とか一緒に遊ぶ 機会も多く、慣れ親しんでいたとの環境が幸いしていました。 この事例から、家族の成長期を共にしたペットと飼育を継承 したペットの介護と看取りを体験しました。最後を看取るまで の状況について、飼い主側のいろいろなケースがあり、地震災 害もありもっと大変だと言う事象もあるのでは。 ここで、獣医師からの適切な話がありました。 人間の年齢で言うと、一〇〇歳ちかい事もあり、危険を伴う 手術は一切行わず点滴による栄養剤投与と利尿剤のみで自宅で した場合・・・どのような選択・対応が必要か ☆ 複数のペットが同時介護・看取り又は家族の中に介護者が発 上記の例に関して 気を発 して、動きが悪くなり亡くなるまで1~2ヶ月程度 ※ ・ ※ ペット( 日本炉機ペット火葬板橋にて火葬 19歳大往 動きが鈍くなる 栃木佐野市ペット斎場にて火葬 17.5歳大往 足がふらつく 元気で 歴無し 10月18日 10月17日 平成24年9月中旬 飼育18年 腹水 元気で 歴無し 11月21日 11月20日 10月中旬 平成24年9月中旬 飼育19年 ) 守 は栃木での は東京、 ★参考 : ペットの飼育から介護・看取り( 【25 年度月例会報告】 平成二六年一月月例会 司法書士として成年後見による 高齢者支援を通じて見えてきたこと 報告:石井 範明 が行う研修を修了し、法務大臣に認定を受けた司法書士は簡易 裁判所における事物管轄を範囲内とする民事訴訟、調停、即決 和解等の代理、法律相談、裁判外和解の代理を行うことができ る規定が新設されました。 それによって従来は弁護士しか出来なかった領域にまで仕事 の幅が広がった事となります。 精神上の障害により判断能力が不十分な方を法律的に保護する 今回のご講演は少子核家族化や職業の多様化などの中で、身 寄りの無い人達の任意後見と認知症、知的障害、精神障害等の 今回、講師にお招きいたしましたのは、春風事務所・司法書 士の藤田真弓先生です。 に係るお話をして頂きました。 基本的な職能が定められ、特に代書人・代言人は裁判権の円滑 「証書人・代書人・代言人職制」の中に法制度を支える三つの きもので、全二二章一〇八条からなる法典です。この第一〇章 参院本会議において全会一致で可決、承認されました。 平成二四年一一月四日、障害者への差別を禁じ、一層の社会 参加を促す「国連の障害者権利条約」の締結承認案(批准)が、 そして最後に 法定後見、それらを成年後見制度として概要と、その際の葬儀 先生の司法書士というお仕事の起源は案外と古く、一八七二 年(明治五年)の太政官無号達で司法職務定制を定めたのが始 な行使に不可欠な存在として位置付けられました。それ以降、 まりとなります。これはわが国最初の裁判所構成法ともいうべ 紆余曲折はあったもの証書人は現在の公証人、代書人は現在の 年後見制度の利用が可能であるのに、わずか一・六%の方しか 害者、精神障害者の方々を含めると一、〇〇〇万人近い方が成 見制度の利用者数は一六万六、〇〇〇人しかいません。知的障 しかし日本の現状は、認知症高齢者数が五五〇万人(九州大 学)とも、四六二万人(厚労省)とも言われている中、成年後 司法書士、代言人は現在の弁護士となります。 二〇〇二(平成一四)年に司法書士法が大幅に改正されまし た。 その改正内容は多岐にわたり、法務大臣が指定する法人 -118- 【25 年度月例会報告】 利用していないのが現状です。世界では、補助、保佐状態の方 に法定代理人等が付いて権利擁護を行っているようです。そう した方々が、消費者被害等に遭い大事な老後資金を搾取されな いよう、また、自己決定支援を中心においた制度となっていく よう、成年後見制度を見つめ直す時期に来ています。 というお話でした。 現在、葬儀社を中心として行われている生前に自分の葬義に ついて、自分で見積りを行う生前見積や自分の死後の事を記入 していくエンディングノートの作成など、多様化している葬儀 の中で自分の意思で葬儀形式を決めていく事が肝要な時代と なっていくのかも知れません。その意味では成年後見制度の利 用は今後増えていく事と思います。また、仕事として葬儀に係 る人たちも、その制度を熟知する必要があると思います。 -119- 【25 年度月例会報告】 平成二六年二月定例会 都会のお寺として 葬儀と供養のあり方 報告:大杉 実生 講師:野々部利弘(真言宗豊山派金剛院住職) 金剛院は寺院開設以来、五〇〇年を数える寺院。住職として は第三三世の住職である。檀家数も通常の寺院に比較するとか なり多くの檀家を抱える。 寺を中心に街並みが形成されてきた。東京都豊島区の西武池 袋線「椎名町駅」の真前に位置し、全国でも最も駅に近い寺で ある。 私が、最初に野々部住職にお会いしたとき、住職が言われた 言葉が今でも頭に残っている。それは「今は、檀家の人たちは お墓参りに来てくれますが、後、二〇年後にはお墓参りする人 はいなくなるのではないか」という言葉です。 その要因は、①若者の宗教離れ。②結婚しない、子供ができ ない等により、墓の承継者が不在。③海外への移住。④遠方の 郊外へ移住……このような、要因により、檀家の減少及び都心 から遠方への移住によるドーナツ化現象が起きている。 檀家の生活から、お寺、お墓が次第に遠のき、供養と供養の 気持ちも遠のくのは必定。 多くの住職にお会いしたが、野々部住職ほど「危機感」を持 つ住職を知らない。 歴史と檀家数においては群を抜く安定した寺院であるにも関 わらずである。 住職は、この現状を放置せず対策を着実に行っている。 ① 節分には寺の門前で豆まきを行う。豆まきには区長はじめ 豊島区内の有力者が組み上げた舞台の上から豆を撒く。また、 人気者のキャラクターに登場してもらい盛り上げる、因みに 毎年一度、門前広場でバザーを開く。 平成二六年は「仮面ライダー」が参加した。 ② ③ 「寺子屋」を復活し、子供たちに習い事を教える。 ④ 「カフェ寺ス・なゆた」を開業。地域の人たちが気軽に集 える場所として提供。 家族葬専門の式場解説 ⑤ 訪問看護事業を開始 ⑥ イベント会場を開設 ⑦ 机や椅子などを並べるのは遺族にやってもらうことをコン セプトにした、自分で行う葬儀。遺族参加型葬儀。葬儀社は -120- 【25 年度月例会報告】 祭壇を設置するだけ。 ⑧ 寺の本堂にて、音楽の公演、講演、芝居(曽根崎心中)、 お坊さんのファッションショーなどユニークなイベントを定 期的に開催 このような、数々の事業やイベントを通じて「お寺が街の中 心」として、寺に来るのが自然になるような試みに取り組んで いる。地域コミュニティ作りに積極的である。 野々部住職は上記の事業を推進するために、NPOライフデ ザイン、株式会社プラナを設立した。 また、野々部住職は過去にも、様々な試みを行ってきた。 大正大学仏教学科修士課程中にカンボジアなどに難民救済ボ ラ ン テ ィ ア に 参 加 し た り、 ラ オ ス の 子 供 た ち の た め に 学 校 も 作った。 国 立 劇 場 や カ ー ネ ギ ー ホ ー ル( ニ ュ ー ヨ ー ク ) な ど で 声 明 (お経)公演を行い、仏教の普及に努めた。 野々部住職は「葬儀は供養である」と力説する。単なるイベ ントや処理ではない。 日本人の心から、故人や先祖への供養の心を無くさないよう に……という気持ちが伝わってくる。 -121- 【26 年中部支部】 中部支 部研修旅行(二〇一四年七月、 岐阜県可児市)開催概要 二〇一四年七月二七日~二八日にかけて、日本葬送文化学会 中部支部研修旅行が実施された。昨年に引き続き第二回目とな る今回は、岐阜県可児市が開催場所となり、葬祭施設見学の後、 研究発表会を行い、懇親会後、鵜飼の見学を行った。翌日は、 国宝・犬山城を見学し、リトルワールドで世界の葬送について の資料などを見学した。 究発表会は、 「東海大地震発生後に葬祭関連業者ができる 研 こと」にテーマを絞り、㈱出雲殿・浅井秀明氏から「東海大地 震とはどのような地震か」について発表があり、南山大学大学 院ビジネス研究科ビジネス専攻教授・石垣智徳氏より、「災害 時の避難所関連情報と新斎場について―名古屋市の事例―」が 発表された。シンポジウムは、名古屋学院大学経済学部・玉川 海大地震が起こった場合の対応について発表があった。 スケジュール 【七/二七(日)】 ――――各自にて会場へ *一一:〇〇 可児市福祉センター のうひ葬祭ホール〔見学 希望者のみ〕 参加者数 一〇名 一二:三〇 可児市福祉センター〔集合〕 一三:〇〇 中部支部会員による研究発表会 参加者数 一六名 一六:〇〇 研究発表会終了 一六:三〇 ホテルのバスが迎え ↓ (ホテルに移動) 一七:〇〇 ホテル着 チェックイン 一七:三〇 懇親会 (夕食) 参加者数 一五名 一八:五〇 懇親会終了 一九:〇〇 鵜飼見物(鵜飼舟に乗船) 参加者数 一五名 二〇:一五 鵜飼見物終了 貴子氏がコーディネーターを務め、㈱トモエ陶業・可児錠二氏 参加者数 一三名 から骨瓶について、㈱大栄・中村典充氏から仏衣、納体袋につ (休憩) 二一:三〇 二次会(ホテル内 バーあすなろ) いて、㈱共栄・藤村卓史氏から棺について、一般社団法人全国 霊柩自動車協会副会長・高木利定氏から霊柩車配備について東 -122- 【26 年中部支部】 研修発表会の模様 ■宿泊先 名鉄犬山ホテル 〒四八四 〇 - 〇八二 愛知県犬山市犬山北古券一〇七 一 - 長良川の鵜飼いを堪能 宿泊者数 一三名 のうひグリーンホールを視察 ―――――――――――――――――――――――――― 【七/二八(月) 】 朝食〔七:〇〇~九:三〇〕 オプション参加者以外は解散 ● オプション 参加者 一〇名 九:三〇 ホテル《(ロビー集合・出発)》 (徒歩にて) -123- ↓ リトルワールド 九:四〇 犬山城 ↓ (見学) 一一:〇〇 犬山城(タクシーにて) ↓ 一一:三〇 (見学) ↓ http://www.littleworld.jp/ http://inuyama-castle.jp/ 一四:〇〇 ↓ 一四:三〇 犬山駅着(解散) 国宝犬山城 リトルワールド 名鉄犬山ホテルにて 【26 年中部支部】 研究発表会報告 「震災時における葬祭・ 供養関連事業者の対応」 益通 二 四、七 〇 〇 人、 経 済 被 害は八一兆円となってい る。名古屋では、最大二 メートルの津波が押し寄 せると予測されている。 全日本冠婚葬祭互助協会 では、災害協定のなかで、 材・資材の提供、遺体を 報告 大野 二〇一四年七月二七日、二八日の二日間、二七日は、岐阜県 可児市の可児市福祉センターにおいて、中部支部会員による発 安置する施設(葬儀式場 災害時においては、遺体 表・報告会が行われた。テーマは、 「震災時における葬祭・供 等)の提供、霊柩車等に 「東南海地震に対する 出雲殿グループの浅井秀明氏からは、 葬祭関連の対応」と題した発言があった。 「東南海地震に対する葬祭関連の対応」 発言があった。 処できるよう、葬祭・供養に携わるさまざまな立場の方々から を教訓に、今後、予想される東南海地震などが発生した際に対 では、棺、納体袋、ドライアイスなどが不足し、苦慮したこと かねてから、地域内において施設がバランスよく配置され 「 ているかを検証する『施設最適配置』の研究を行ってきた。商 南山大学ビジネス研究科の石垣智徳先生からは、「災害時の 避難所関連情報と新斎場について」と題した発言があった。 「災害時の避難所関連情報と新斎場について」 で五〇〇~一、〇〇〇の棺・納体袋を備蓄する予定である」 中部地区では愛知冠婚葬祭互助会で一、五〇〇、出雲殿互助会 することを定めている。 よる遺体搬送などに協力 の収容や安置に必要な機 養関連事業者の対応」 。二〇一一年三月一一日の東日本大震災 「中央防災会議が発表したデータによると、東南海地震、南 海 地 震、 東 海 地 震 が 同 時 に 発 生 し た 場 合、 死 者 は 最 大 で -124- 【26 年中部支部】 が避難所として指定されているが、想定外の津波が起きた場合、 名古屋市の施設配置をみていく。通常は、小学校や中学校など 阪神大震災、東日本大震災を経て、ますます盛んになっている。 難場所や公共施設の配置の問題として研究されるようになり、 ら研究されてきた学問であるが、土木学の分野では災害時の避 学や経営学では、競合企業や系列店との共食い回避等の観点か らを商品としてパッケージ化した」 スク、タオル等であった。そのため、今後の対策として、これ 従事者が必要としたのは棺や納体袋だけでなく、エプロン、マ 報が錯綜するため、優先順位が分からなくなった。被災地で、 連と県葬連から二重に発注があるなどのトラブルもあった。情 わせの電話が鳴りやまなかった。納品場所は一か所なのに全葬 一時的な避難場所として、市が指定した『津波避難ビル』があ る。ハザードマップ等の情報と合わせてみていくと、避難所や るだけでなく、遺族を火 一般社団法人全国霊柩自動車協会 高木利定氏 「 岩手県では、亡くなった方を遺体安置所から火葬場へ搬送す しまう懸念もある。また、多くの人が労働に従事している昼間 葬場から避難所へお送り 避難ビルの立地によっては、一か所の施設に被災者が集中して と夜間とでは人口が異なるなど、細かい情報も考慮すべきであ するお手伝いもした。被 災によって多くの遺族が る。葬儀関係施設は、災害を想定し、長期的な視点に立って立 地戦略を検討することが必要とされる」 移動手段がなかったため きたい」 訓練の実施に注力してい は、マニュアルの作成や 要であると感じた。今後 の数などの情報収集が重 害の規模や亡くなった方 である。被災地では、被 自家用車を失っており、 パネルディスカッション 「震災時における葬祭・供養関連事業者の対応」 東日本大震災で実際に起こった事例と、今後の対策について の事業者からの発言は、たいへん興味深いものであった。 株式会社共栄 藤村卓史氏 「震 災発生翌日の三月一二日、棺二〇〇本を被災地へ送り出し たが、その後、内閣府、県、警察、各県の葬儀社からの問い合 -125- 【26 年中部支部】 四、〇二〇、納体袋一、六九五である。救援物資も合わせて搬送 綜し、社内で混乱も生じた。搬送の際には行政に協力を求めた く寄せられたが、問い合わせだけで納品の依頼はない。そのよ すか?』、『在庫を確保できますか?』という問い合わせは数多 し、被災地の社員の安否確認も行った。『商品の在庫はありま ところ、絶対に無理だと思っていたトラックの確保が容易にで うなことでは、必要な物が必要な場所に届かない。行政からの トモエ陶業 可児錠二氏 「先 の震災では、骨壺の提供をさせていただいたが、情報が錯 きた。骨壺は地域によってさまざまなサイズがあるが、今後、 トップダウンで一括してもらいたい。今後は、災害に備え、社 注力していきたい」 内マニュアルの整備に 災害時には、全収骨が可能なサイズのものに統一してはどうか」 大栄株式会社 中村典充氏 「 主 に 仙 台 に 向 け て、 物 資 の 搬 送 を 行 っ た。 そ の 数 は、 仏 衣 -126- 【26 年中部支部】 犬山城は、織田信長の叔父、織田信康が天文六年(一五三七 年)に築城したと言われており、現在は天守だけが現存してい 日 目 の 二 八 日 は、 愛 知 県 犬 山 市 の 国 宝 犬 山 城 と、 リ ト ル 二 ワールドを見学した。 敵が攻めてきたら争いごとをできるだけ避けて明け渡すこと で存続してきたという説明を受け、とても印象的だった。 犬山城は、城主がたびたび交代しているが、焼け落ちること なく残っている。 る。 -127- 【26 年中部支部】 自由見学報告 野外民族博物館「リトルワールド」 正洋 報告 吉川 日本葬送文化学会二日目の犬山城見学の後は、車で一五分程度 移動し、リトルワールドへ到着しました。日本葬送文化学会の メ ン バ ー 間 で、「 野 外 民 族 のように園内を回ろうかと 自由見学の時間になり、ど し た( 写 真 上 )。 そ の 後、 ンバーで記念写真を撮りま ました。入場早々に学会メ 入場の際の案内図で園内 がとても広いことがわかり れた方を棺に納め、土葬安置し、七年後に親族の手で遺体を取 展示のなかでも学会メンバーが驚いたのが、現在でも一部行 われている沖縄県与那国島の洗骨改葬です。お亡くなりになら 前が記されていました。 展示されていました。途中抜けがありましたが二六世までの名 れており、スクリーンの手前にも台湾の先祖代々の家長位牌が てくれました。会場内にはどこかの部族の儀式の様子が放映さ ました。「スピリチュアルワールド」です。 思案していると、すぐ横の りだし、洗骨し清められた骨を焼骨ののち、骨壷に納め、再び 博物館とは?」と話しなが 入口に何と!日本葬送文化 お墓に安置されるそうです。この内容に学会メンバーもかなり ら車を走らせておりました。 学会にふさわしいイベント 衝撃を受けられていたように見えました。 内には、いきなり『「あの世」を感じてください』と書 会場 かれた案内があります。展示品の装飾頭蓋骨が私たちを出迎え が入場無料で開催されてい -128- 【26 年中部支部】 この会場を出たところに五つの区切られた以下のブースがあ りました。 一、 「聖なるまなざし」 ―モノに宿る魂― 二、 「変身する」 ―異界からの来訪者― 三、 「語る」 ―世界のイメージ― 四、 「のろう・まもる」 ―悪の力 善の力― 五、 「願う」 ―聖なる存在にいのる― 一ブースずつ展示品等を体験した後、学会メンバーは各自自 由行動となり園内を回りました。園内を歩く方、バスに乗った 方、熱いのであまり動かれなかった方など 様々でした。 一二時三〇分に集合し、昼食を取り、時 間の有る方、無い方で帰る方、残る方で別 れました。 私は浅井様のお誘いでこの会に参加させ て頂けた事、学会メンバーにお会できた事 に感謝しております。これからも宜しくお 願い致します。 -129- 【26 年中部支部】 254,238 神戸市長田区 11,816 144,272 家屋焼失 3,851 研究発表1 -130- 5,709 家屋半壊 東南海地震に対する 葬祭関連の対応 715,192 家屋一部破損 129,198 104,906 浅井 秀明 新潟県中越沖 新潟県中越沖 東日本 M7.1 M7.3 M6.8 M6.8 M9.0 発生時間 1948.6.28 16:13 1995.1.17 5:46 2007.7.16 10:13 2011.3.11 14:46 最大震度地 福井市豊島 神戸、 阪神淡路 新潟県中越 三陸沖 新潟県中越 1,331 36,184 3,175 家屋全壊 この発表の目的は、葬祭業者として東海大地震において対応 可能なことを推定することである(前提として愛知県名古屋市 で、イズモ葬祭が対応できること) 。 阪神淡路 2004.10.23 17:56 16,278 15 68 6,434 2,994 3 行方不明者 一、葬祭関連業者が対応を考えるべき大災害の特定 直下型地震の心配がある活断層は、名古屋市の北、岐阜県の 方向、名古屋市の東、豊田市から知多半島にかけて、愛知県の 西の端から三重県にかけて存在する。 福井地震 - マグニチュード 3,769 死者 構造線としては、糸魚川 静岡構造線が、東西を分けている。 フィリピン海プレートと太平洋プレートが相模トラフのあたり で東西に重なっている。 名古屋市住民が最も警戒しなければならない地震は、東南海 大地震で一〇〇年~一五〇年間周期で起こっている。 今まで起こった大きな地震と被害 【26 年中部支部】 県でふさがれるようになっているため、太平洋側は、大きな被 害になるが、名古屋市は、最大三~六メートルである。 過去一八九一年の濃尾地震で甚大な被害が出ている。 -131- 東海地震と東南海地震が連動することが多い。 東海大地震の名古屋市の推定震度は、六弱~五強である。 名古屋市の津波による被害推定は、伊勢湾が渥美半島と三重 出典 :『災害列島・危険情報地図』 【26 年中部支部】 津波で心配されるほかの被害が、浜岡原発がダメージを受け た場合で、放射能汚染は、東日本大震災の例を取ると、日本政 府が二〇キロメートル、アメリカ政府が八〇キロメートル以内 は危険と判断しているが名古屋市は、アメリカ政府の見解にお いても避難圏外となっている。 高層ビルの倒壊が心配される長周期地震動の揺れは、名古屋 で最も危険な地域には入って 市では、一〇・〇~五〇・〇 cm/s いない。六〇メートルを超える高層ビルも東京、大阪に比べ少 -132- ない。 阪神・淡路大震災では、死傷者の約八〇%以上の死因が建物 の倒壊による窒息死・圧死、同じく負傷者の約八〇%以上が、 建物が倒壊、家具などの転倒による負傷である。 地震の発生時刻、状況により被害予測は異なるが、「東海」、 「東南海」 、 「南海」地震により、約二万人が建物の下敷きにな り圧死、窒息死で死傷することも考えられる。 ほとんどの地域において、震度五以上の揺れを感じ、震度五 強を超えると歩行が困難になるため、突然襲ってくる地震の場 合には家屋から逃げることも出来ない。耐震対策として家具の 固定など防災対策、 「緊急地震速報」の活用、「ゆれやすさマッ http://www.jjjnet.com/jishin_tokai_nankai_tonankai.html プ」でお住まいの場所が、より「ゆれやすいか」をチェックす 出典: る必要がある。 出典 : 著者作成 【26 年中部支部】 中央防災会議は、「東海」「東南海」「南海」の三地震が同時 発生した場合の被害想定を公表している。 え る 津 波 で 約 九 六 万 棟( 愛 知 県 の 場 合、 一、九 〇 〇 人 九一、〇〇〇棟)の住宅などが全壊、経済被害は約八一兆円に 達するとしている。 災害の起こる順序 と続く。 一、大きなゆれ、地殻変動による地盤沈下、土砂崩れ 二、津波の来襲 三、火災延焼 四、余震による復旧作業障害 一つ一つが大きな災害になる可能性が極めて大きいと予想さ れる。それらが、数時間以内に次々と重なってくる。 人命の救助は、七二時間以内に行う必要があるが、地震発生 後三日間は救助体制が整わない。 さらに、一年間は余震の続くなかでの避難生活・復旧活動を 強いられる。 -133- 五メートルの津波でも、二階部分まで水が来る。二メートル の津波の場合、床上浸水の危険有。名古屋市で津波に被災した 2m 場合、超高層で無く、頑丈そうなビルの二階以上に避難するこ 5m 発生時刻などで被害状況は変わるものの、最悪の場合、死者 は約二四、七〇〇人、震度七の激しい揺れや一〇メートルを超 とが重要である。 10m 【26 年中部支部】 二、現状(全互協として対策を講じていること) 全互協と自治体の災害対策協定 (目的)第一条 災害対策協定を締結している自治体 愛知県、半田市、安城市、名古屋市、尾張旭市、知立市、岡 崎市、小牧市、豊橋市、春日井市 する場合の迅速かつ円滑な応急対策を行なうため、必要な手続 いう。 )に多数の死者及び被災者が一時的または集中的に発生 に合わず)、非常用赤電話設置、棺組立、遺体の保存場所確保、 掛け、収骨容器、ドライアイス(実際には一六日以降も供給間 ライフライン破壊、物流停滞のなか三月一二日から棺(ヤ 「 マトコフィン)を集めることに奔走。」、仏衣(三和物産)、棺 東日本大震災時の仙台市・清月記の対応 き等について定めるものとする。 遺体の身元確認→三月一三日から安置所設置、遺体搬送 この協定は、甲において地震、風水害その他災害の発生によ り、甲に災害対策本部が設置される災害時(以下「災害時」と (協力)第二条 ライフラインの回復にかかった時間(電気→約一週間、電話 →約二週間) 「四月四日には仮埋葬業務は自衛隊の手を離れ、仮埋葬遺体 を掘り起こしての火葬などは、個別市町村との連携により葬祭 甲は、通常業務に優先して協力するものとする。 ㈠遺体の収容及び安置に必要な機材、資材及び消耗品並びに作 業等の役務の提供 ㈡遺体を安置する施設(葬儀式場等)の提供 業者が行う流れとなりました。」 四月二四日最終遺体の仮埋葬、 仮埋葬掘り起し随時(最初の例四月一四日)、五月七日遺品洗浄、 ㈢遺体搬送用寝台車及び霊柩車等による遺体搬送 ㈣帰宅困難者に対する避難場所の提供(結婚式場等) ミニ仏壇提供、生花提供、ライフラインの回復(水道→約七〇 出典:菅原裕典(二〇一二) 、『―三・一一東日本大震災―清月記 活動の 記録~鎮魂と追悼の誠を捧げて~』 、清月記 pp.10-11,34,36,38,84 日、ガス→約九〇日)、遺体を掘り起して火葬 ㈤甲が設置した一時避難所及び、乙が提供する避難場所におけ る、被災者に対する炊き出しや継続的な食事等(弁当等)の 提供 ㈥その他甲の要請により乙が応じられる事項 ◦遺体関連の資材、消耗品、役務 ◦遺体搬送、安置、避難場所と食事 -134- 【26 年中部支部】 災害時連絡フローチャート(情報伝達の流れ) 会長・副会長 災害時必要となったもの ペットボトルなど) 、保存食(缶詰・カップ類など) 、紙コップ、 水( 紙皿など、サランラップ、衣類(服・下着) 、くつ(スリッパ、スニー カー、長靴) 、冬用ジャンパー、ティッシュ、簡易トイレ、トイレッ ⑦報告 ④連絡 ⑥報告 ⑤連絡 ⑩報告 ⑨連絡 支援ブロック各互助会 トペーパー、アルコール消毒液、石鹸、水のいらないシャンプー、 ⑫報告 ⑪報告 被災ブロック各互助会 各地区本部長 各地区本部長 支援ブロック長 マスク、爪切り、体温計、救急箱、子供用・大人用おむつ、生理 ②連絡 ①支援要請 用品、使い捨てカイロ、タオル、毛布、寝袋、筆記用具、懐中電灯、 ⑬報告 ※1 軍手、ゴミ袋、スコップ、雨具、ヘルメット、ロープ、ナイフ、保 安指示灯(警備棒) 、段ボール、土のう袋、ライター、タバコ、携 ③支援要請 ⑧連絡 -135- 、ラジオ、ガソリン携行缶、 帯用灰皿、携帯用自転車(折り畳式) ガソリン、軽油、発電機、携帶用ガスコンロ、携帶用ガスボンベ、 携帶電話充電器、乾電池(単 、単 、単 )ソーラー式電灯、 〇〇〇個の棺・納体袋を備蓄する。 各互助会五〇〇~一、 下図参照 http://www.jjjnet.com/jishin_tokai_nankai_tonankai.html イズモ葬祭資料 全日本冠婚葬祭互 助 協 会 資 料 中央防災会議ホー ム ペ ー ジ 成美堂出版編(二〇一二)、『災害列島・危険情報地図』 、成美堂出版 鎮魂と追悼の誠を捧げて~』、清月記 菅原裕典(二〇一二)、『―三・一一東日本大震災―清月記 活動の記録~ 参考文献 災害時連絡体制 拡声器、現金、棺、納体袋、骨箱、骨瓶、ブルーシート、防臭剤 4 ⑭報告 ⑮報告 3 被災ブロック長 全互協 被災自治体 1 【26 年中部支部】 研究発表2 災害時の避難所関連情報と新斎場 について ―名古屋市の事例― 南山大学ビジネス研究科ビジネス専攻 石垣 智徳 一、はじめに 阪神・淡路大震災(一九九五年一月一七日に発生)をはじめ、 東日本大震災(二〇一一年三月一一日に発生)など地震に伴う して名古屋市では、現在、八事斎場一か所で全市の火葬需要に 対応しているが、今後の市の対応を確認するとともに問題点を 提示する。 二、津波避難ビル ページで公開され Web 名古屋市の津波避難ビルの指定基準については、二〇一四年 三月に見直しが行われ、津波避難ビル指定等推進事業の対象区 七区ではその一覧表が名古屋市役所の ている。この情報を元に散布図を描いたのが次頁の図(港区) である。 事業の対象地区」としている。災害による死傷者が出ないに越 瑞穂区、熱田区、中川区、緑区)を「津波避難ビル指定等推進 名古屋市も他の都市と同様に合計七区(港区、南区、中村区、 地で作成され、それに基づいた避難所情報が提供されている。 避難所、避難経路を特定すべく、津波ハザードマップが全国各 学校の校舎が選択されていることが多く、空間的な散らばりの なお、この図は「あらゆる可能性を考慮した最大クラス」の 浸水範囲の情報と避難所の関係を示している。避難所は小・中 いため、浸水深の深いものを濃い色で示した。 分けし、見やすく表示しているが、ここではカラー表示できな メートル未満~三・〇メートル未満の範囲を6段階に分けて色 下向きの細く白い矢印が避難ビルかつ避難所を示しており、 ペ ー ジ で は 〇・三 着 色 さ れ て い る の が 浸 水 範 囲 で あ る。 Web したことはないが、さまざまな情報を事前に提供していたにも 構造などを考慮しているとはいえない。 建物の倒壊だけではなく、津波による二次災害への対応として 関わらず、死傷者が出てしまうのが現実である。 ( 一 九 三 一 ) の 吸 引 力 モ デ ル、 Reilly 学 日 本 で も 吸 引 力 モ デ ル の 応 用 と し て 中 西( 一 九 八 三 )、 石 垣 ( 一 九 四 〇 ) の 介 在 機 会 モ デ ル な ど の 研 究 が 存 在 し、 Stouffer 術 的 に は、 古 く は 本報告では、入手できる情報をもとに名古屋市の指定する津 波避難ビルの配置と斎場に関して考察する。津波避難ビルにつ いては、その指定の現状と問題点を提示する。また、斎場に関 -136- 【26 年中部支部】 (一九九四)の研究があるが、現時点では人口密度の情報が不 きる点が問題点であろう。これらの点を確認するとともに市民 年度前後)になることが予想されており、八事斎場のみでは対 名古屋市では、現在、八事斎場一か所で全市の火葬需要に対 応しているが、火葬件数は最大三三、〇〇〇件程度(平成五〇 三、名古屋市の新斎場 には避難所が指定されている合理的な理由も含めて情報を開示 応が不可能である。そのため、名古屋市立第二斎場が港区東茶 足しているために厳密には適応できない。その点を差し引いて していく必要があるといえる。さらに、中村区、熱田区、港区、 屋(図中央やや左上の太い矢印)に建設され、二〇一五年より も、配置の最適性や浸水被害が多い地域の避難所が多数確認で 南区の順に昼間人口比率が一・〇を上回っており、外部からの 供用開始予定である。 問である。また、 決まったと推察できるが、大規模な災害の際は、この第二斎場 火葬需要に伴う斎場の増設は良いのだが、その設置場所が港 区であることに疑問を感じる。もちろん諸事情があり、ここに いるかどうかが疑 区別の外国人比率 への車による遺体の搬送ができなくなる可能性がある。この問 題を解消するためには、ヘリポートなど空路または海路につい も七区において、 二〜四%に達して URL ても考える必要があると考える。 ・ ・ ・ Distance,” American Sociological Review, Vol. 8, pp.845-867, 1940. (名古屋市役所) http://www.city.nagoya.jp/shobo/page/0000025607.html Stouffer, S. A., “Intervening Opportunities: A Theory Retailing Mobility and Reilly, W. J., The Law of Retail Gravitation, N. Y., W. J. Reilly, 1931. 第三九巻第二号、 pp.67-79, 一九九四年 ・中西正雄、 『小売吸引力の理論と測定』 、千倉書房、一九八三年 ・石垣智徳、 「小売業集積地の発展構造」、 『大阪府立大学経済学研究』、 参考文献・参考 おり、これらの対 策も考える必要が あるだろう。 津波避難ビルと 名古屋市第2斎場の建設地 -137- 流入人口が多く、流入者が地元の小・中学校の位置を把握して 港 区 【26 年中部支部】 パネルディスカッション 「震災時における葬祭・ 供養関連事業者の対応」 名古屋学院大学経済学部講師・コーディネーター 玉川 貴子 東日本大震災発災に伴い、津波による死者、被災者遺族らへ の対応が非常に注目されることになった。行政さえも被災した 状況では、行方不明者の安否確認もままならず、遺体の収容、 喪った事業者もいるなかで、何もかもが異なる現場を目の当た り に す る こ と へ の 精 神 的 な 苦 痛 は は か り し れ な い。 ご 遺 族 の 方々も病死とは異なるからこそ、できるだけのことをしたいと いう思いを持たれたに違いない。 日 本 大 震 災 は 昼 間 に 発 生 し て い る が、 冬 場 の 夜 間 な ど で 東 あったら、もっと死者数が多かったかもしれない。東海、東南 海、南海地方で起きるとされる南海トラフ地震では死者数が最 大となるケースが内閣府により発表されている。それによると、 愛知県では約二三、〇〇〇人、三重県では約四三、〇〇〇人の死 者が発生すると考えられている。 い、今回は、四人のパネリストの方々にご講演を頂いた。さら そこで、災害時における死者対応として、東日本大震災での 教訓をどう生かすかということをこの機会に考えてみたいと思 部署の職員までもが対応せざるをえなかった。遺体及びその後 に、フロアからの質疑応答にもお答え頂き、大変有意義な議論 身元確認等におわれ、普段、そうした業務に携わることのない の供養について、プロフェッショナルとして葬祭事業者、供養 行われた。講演者は、株式会社共栄・藤村卓史氏、株式会社ト が展開された。 震災時は、死者への対応に慣れているはずの事業者でさえも 大変ご苦労をされたと伺っている。ガソリン不足、道路の寸断、 モエ陶業・可児錠二氏、株式会社梅定・高木利定氏、株式会社 関連事業者が関わるが、警察、医師、行政、事業者間での連携 火葬場稼働の問題等、数々の難題があった。ひと言で「苦労」 大栄・中村典充氏である(講演順のお名前、役職名等は省略さ が必要な場面もあったであろう。 と書いてしまったが、そのような言葉では言い表すことのでき せていただく)。 二〇一四年七月二七日、のうひ葬祭・鈴木哲馬氏のご尽力に より、岐阜県可児市福祉センターでパネルディスカッションが ない、多くの人々の悲痛な思いを受け止め、供養しなければな ら な い 大 変 重 責 の か か る 現 場 で あ っ た と 思 う。 被 災 し 家 族 を -138- 【26 年中部支部】 行政とのスムーズな連携をとる仕組みをどうつくるかというこ 商品等についての興味深いお話を伺うことができた。また、東 海トラフ地震対策への方針が少し見えてきたのではないかと思 これらについては、現段階で最善の解決方法が示されている わけではないが、今回のパネリストの方々の講演において、南 とも課題として浮かぶ。 日本大震災発災から時系列で対応していたことをもとにしたご われる。 講演内容については後述されているので、詳細は避けるが、 震災が起きた時の各事業者間、あるいは行政(市町村だけでは 報告も伺うことができた。 私自身、東日本大震災関連の調査をし、かつ所属大学で被災 地に派遣する学生ボランティアの引率をしている。何度、被災 なく省庁も含めた)との連絡・連携のとり方、葬祭・供養関連 フロアからは、たとえば、原発事故などを想定した納体袋に 関する安全性についての質問や南海トラフ地震に何を備えてお 地に足を運んでも、震災がもたらした影響を、自分はどれだけ 身をもって理解しているのだろうかという思いをもつ。 くか、などの質問が出された。 後者の質問については、たとえば、藤村氏は、運送手段や棺 の自社確保を提案され、可児氏は、メーカーと問屋の仕組み作 織・仕組みがどこまで機動的かということも含めて考えねばな た。まずは、在庫・運送等の確保だが、現在ある事業者間の組 指示系統の一本化、メーカートップ同士の連携を提示されてい 予測してもしきれないのが災害ではあるが、だからこそ日常 的な災害対応への意識、あるいは行政や事業者間同士でどう連 戒めでもある。 るが、それは学生に言い聞かせるだけではなく私自身に対する の気持ちや立場にたって行動するようにと大学生には諭してい 震災から三年が経過し、被災の痕跡が見えにくくなっていく なかで、被災当時の状況を想像し、被災地で生活してきた人々 らないというご指摘であろう。 携していくのかが問われる。 り、高木氏は、堅牢な全国組織の重要性に言及され、中村氏は、 各業界、事業者において、東日本大震災で得た教訓を南海ト ラフに生かすとすれば、各事業者が有している商品(備品)と それら商品の災害時における統一基準や使用時の簡易化、災害 時における望ましい遺体処置方法の開発などが挙げられるだろ う。また、死者対応についてのノウハウなどをいかに活用し、 -139- 【26 年中部支部】 報告 遺体用棺の震災対策 卓史 株式会社共栄 藤村 (東日本大震災での事例) 一、震災時の対応 東日本大震災発生(平成二三年三月一一日) 三月一一日…夕方、葬儀社様より一番目の連絡がはいる。 棺を二五〇本用意する。 三月一二日…朝、 各営業担当者ならびに会社へ各葬儀社様から 問い合わせが入る。 「お 棺は準備出来ますか?」この時点では在庫の 確認のみ。 午前一一時被災地へ向けて第一便が、棺二〇〇本、 布団、水など積込出発。 の後も電話は鳴り止まず、国(内閣府)、県、市、警察な そ ど各地区の自治体、そして全葬連など、各県の葬儀社様からの 問い合わせが相次ぐ。 二、当時の状況 配送、運送 ① 第一便を送った数時間後、西日本でもガソリンスタンドで 規制がかかる。 ② 一〇トントラックなどの大型トラックが救援物資の予約で いっぱいになり、手配出来ない。 ③ 自社便での配達を繰り返す。(警察署で通行証をもらう) 工場 ① 棺の製造を急ピッチで仕上る。 ② 在庫の確認、商品の出荷。 ③ 中国工場への追加注文の依頼。 三、受注から納品まで ① 指示系統、交通機関などの乱れにより納品場所に辿り着く までの時間が大幅にかかる。 ② 納品場所に辿り着くが、受け取りに現場もパニックの為手 間取る事も。 ③ 多重発注(全葬連から発注があり、県葬連からも全葬連に 送るなど) -140- 1 【26 年中部支部】 四、東日本大震災での問題点 ① 情報が錯綜する為、優先順位が分からない。 ② 流通経路の断絶により救援物資が届かない。 ③ 二次的な理由により被災状態が長期化する。 ④ 製造・仕入にも打撃を受ける。 ⑤ 原材料の流通がストップする。(仕入れが滞る) ⑥ 物価の高騰。 五、過去の事例 ① 阪神淡路大震災時は棺の発注が沢山あったが、最終的に返 品も多数出てしまった。 ② 以前は全葬連で二、〇〇〇本を確保(東北造柩、ヤマトコ フィン、共栄)して、買い取っていただいた事もあった。現 在はやってはいない。 六、震災用商品 ① 東北大震災後、市役所、各県の互助会、葬儀社などから災 害用として棺一、〇〇〇本近くの納品をさせていただいてお ります。 ② 被災地での従事者が最も必要としたのは、棺、納体袋は勿 論の事、遺体処理に関わった従事者が物資として送ってほし パーソナルプロテクションセット(アイテム一二種類) PPS いと言われたものは、エプロン、マスク、タオルなどでした。 -141- 【26 年中部支部】 報告2 東日本大震災における 全国霊柩自動車協会の活動と課題 利定 一般社団法人全国霊柩自動車協会 髙木 ・全霊協の説明 まず、一般社団法人全国霊柩自動車協会(以下、全霊協)に ついて説明しておきたい。全霊協は、国土交通大臣の許可を受 一六、〇〇〇人の死亡者、ならびに、行方不明者二、六〇〇人を 超える東日本大震災が発生した際の全霊協の活動と課題を述べ たい。 この未曾有の大災害に際して、全霊協は、被災地自治体の要 請により死亡者の搬送支援を行うこととなった。要請した自治 体は、岩手県、宮城県、福島県、東京都の一都三県であった。 岩手県、福島県の場合、支部長が自治体の設置した災害対策本 部に出向き、出動隊の要請期日及び集合場所を相談決定し、協 会本部に設置した災害対策中央本部に連絡が入った。宮城県に は支部がなかったので、地元の葬儀社を通じての要請となった。 東京都からの要請は、宮城県の身元不明者を東京で火葬する際 車五、三〇〇両となっている。平成七年の阪神淡路大震災発生 に一般社団法人へと移行した。現在、一、二五〇事業者、霊柩 であり、昭和五〇年四月に社団法人格を取得、平成二四年四月 ためである。 畿圏からの出動車両が、中間地点の関東での給油が困難だった うと、当時、関東圏ではガソリンが不足しており、中部圏や近 この要請を受け、全霊協は、関東以北の支部長に会員の出動 要請を依頼した。なぜ関東以北の会員への要請になったかとい の搬送支援であった。 以降、自治体との「災害時におけるご遺体搬送の協定締結」を け、霊柩運送事業を行う事業者で組織された全国で唯一の団体 協会事業の柱の一つとしている。 はいえなかった。 要員の準備等未経験のことばかりで、始めの内は円滑な状態と また、災害対策中央本部では、被災地が三県に跨るという広 範囲であったので、それぞれの県への出動隊の振り分け、交代 ・東日本大震災での対応 平成二三年三月一一日、東北地方の太平洋沿岸部において約 -142- 【26 年中部支部】 中央本部は、始めに北海道、秋田県、青森県、岩手県、新潟県 市内のホテルとのことであった。この要請に全霊協の災害対策 間は一八日から二五日までの八日間、出動隊の集合場所は盛岡 時系列でいうと、岩手県からの要請は、三月一六日に岩手県 支部長の立花氏より全霊協の災害対策中央本部にあり、要請期 現地での活動については、岩手県での活動について中心的に 述べていきたい。 不思議なぐらいであった。 バーであったものの、出動期間中に一つも事故がなかったのが を 苦 し め る 要 因 ば か り で あ っ た。 出 動 隊 員 達 は プ ロ の ド ラ イ アの道路は、がれきの山積み、半分朽ちかけた橋など、出動隊 行距離は七三四キロメートルにも上った。さらには、三月半ば また、出動隊の業務は、海岸線にある火葬場が当然ながら被 災して稼働不可能だったので、稼働している内陸部の火葬場ま の一道四県に出動要請を行い、後半に交代追加要員として群馬 このような悪条件の中、三月一九日、我々全霊協の出動隊は、 岩手県からの要請を全うし帰還することとなった。この、緊急 ・被災地での活動 県、埼玉県、千葉県の三県に出動を要請している。 だいた。 遺体搬送支援に対しては、後日、岩手県知事より感謝状をいた とはいえ、岩手県では雪も降っていたこと、加えて、被災エリ での往復となった。このため、かなりの長距離となり最長総走 震災が起ったのは一一日だが、我々への要請は一六日であっ た。これは、勿論生存者の救助が優先されたためであり、震災 発生時に、我々が駆けつけたのでは、霊柩車が道路通行など生 存者救助の妨げになるからである。 も対応できるよう「災害時遺体搬送マニュアル」及び「災害時 全霊協では、東日本大震災での経験を踏まえて、それまで整 えていた「災害時における緊急輸送体制」を検討、広域災害に 岩手県での出動隊の業務は、基本的には遺体安置所から火葬 場、火葬場から避難所への搬送だった。従来の霊柩運送の場合 緊急遺体搬送における行動計画」を作成した。 全霊協における今後の課題については、「マニュアル」及び ・全霊協における今後の課題 は、ご遺体を火葬場まで搬送して業務終了となるが、岩手県の 被 災 者 は、 ご 家 族、 家 屋 と と も に 移 動 手 段 で あ る 自 家 用 車 も 失ってしまったので、火葬場からの移動ができなかった。その ため、ご遺体の火葬終了後、ご遺族を元の避難所へお送りする 業務も加わった。 -143- 【26 年中部支部】 最も重要なことは、情報の収集だと考えている。災害によっ てどのくらいの被害が出たのか。亡くなられた方は、どのくら 「行動計画」より引用して説明していく。 協会との連携も必要と考えている。 ラック協会を通じて収集することが多いので、地元のトラック の連携が必要となる。また、霊柩車が活動するには「ガソリン」 協事務局との早急な連絡体制の構築が重要になる。全霊協はも どんな災害が発生するかもわからない。全霊協としては、担当 これまで、東日本大震災における全霊協の活動及び課題につ いて説明してきたが、災害は、想定できるものではない。いつ、 が 欠 か せ な い。 給 油 可 能 な ガ ソ リ ン ス タ ン ド の 情 報 等 は、 ト いなのか。このことに基づき、全霊協としては、出動隊の準備 しもの災害に備え、協会事務局に「衛星携帯電話」を二台設置 委員会において、あらゆる災害について検討しているところで (出動隊の要請)をするからである。ということは、被災地自 している。 はあるが、まだまだ準備が必要と考えている。 治体責任者と被災地の全霊協責任者(通常は県会長)及び全霊 二点目は、普段からの訓練である。 いざ、災害が発生し、全霊協から出動要請があっても、誰が 行けるのか、霊柩車は何台出動できるのかを把握しておくこと も重要と考えている。さらに、出動に際しての携行品の備えも、 普段から準備しておかなければならないと考えている。出動隊 員の水及び食料の備蓄、寒い時期なら暖房器具、熱い時期なら クールダウンの用意など、季節によっても携行品を代えなけれ ばならないからである。 三点目は、警察やトラック協会との連携である。 被災地自治体から出動要請があっても、災害時には一般車両 は通行止めが多く、目的地に到着するのに時間がかかるため、 警察から「緊急通行車両標章(通称:丸緊マーク)」の交付を 受けなければならない。この手続きについても、普段の警察と -144- 【26 年中部支部】 報告3 トモエ陶業株式会社 可児 錠二 東日本大震災時の対応 骨壺等の提供等に関して ① 東日本大震災での骨壷等の提供の有無、あるいは災 害時において骨壷の提供等について現在、どう考えて いるか ・震災時商品(骨壷、骨箱)の提供をしました。自社便で五回 仙台へ 日本通運三回 いすゞ一回(日通、いすゞ便は国土 交通省の手配) 他、各商社の便で、約一か月かかりました。 ・一番初めの便は三月一二日の夕方に岐阜県の弊社出発。緊急 のステッカーを警察より頂き自社便にて ・一番の問題は、いろいろな方面より依頼があり混乱した。 していた。事情を説明したが、「貢献」の名のもとに強要する お客様もいた。 組合主導で行われたが当然丸投げ。備品に関しては行政とわ れわれメーカーが連携したほうがスムーズにいく。当初は棺メー カーの社長が棺、骨壺、納体袋、仏衣を各メーカーの社長を通 じて行っていたが、種類が違うと在庫確認、納期等対応出来な い。結局弊社も経産省より確認、依頼があったそれも同じ日に 経産省の三つの部署から連絡があり、行政も統一されてない。 例一 福島への納入に関し、運送便を用意して欲しいと経産省 にお願いしたら、経産省から国土交通省に連絡が行き、国 土交通省から日本通運名古屋支店長へ、その後支店長より 連絡 大型トラック三台用意。その後いすゞのデモ車を用 意。福島へ運送。 行政の力を感じた。 ② 商品の中で災害用対応の骨壷はあるか 全葬連からの災害対策連絡協議会の緊急時資材拠出可能数量 で数を提出してある。 「なくなるかも」との意識からか通常より多くの発注 各組合が援助の名のもとに少しでも分けて欲しいとの発注 中には被災地へ届けて欲しいと依頼があり。当時は一般の運 送便はすべてキャンセルだが、無理なお願いもあった。 問題は、骨壷は地域によって大きさが違う。東日本の際も七 ない 在庫を何万個と持っているのでその中で対応予定。 弊社は全葬連、経済産業省、内閣官房に依頼され商品を用意 -145- 【26 年中部支部】 寸と指定があった。現在日本には大きく分けて四寸、五寸、六 てくれる。 験から)。輸送手段等民間が災害時に出来ない事を可能にし を取るにも取れない。 地方自治体では難しい。国でないと災害時各地方行政、大手 企業等を動かせないから。又、地方自治体が壊滅状態なら連携 行政(国)と葬祭用品メーカーとの連携が出来るような仕組 みが必要。 提案として 葬儀のあり方とかはわかりませんが、災害時の骨壷は全国統 一で「七寸」の全収骨が良いと思う。 ④ 災害時の葬儀、火葬、供養のあり方、その他、震災 に関連して ・口座は内閣府官房会計課 支払いも早かった。三月末だった ので予算執行のため見積もりを出したらすぐに振り込まれた。 寸、七寸と四種類の骨壷があり、弊社が災害用に在庫を持つの は場所的に不可能である。過去、阪神大震災の際は五寸の骨壷 を納品と記録にあり、各地の使用寸法にあわせて用意する必要 がある。 ③ 東日本大震災を教訓にして、今、考えている事、そ して南海トラフが起きたときの対応について ・骨壷のメーカーはほとんどが愛知、岐阜にある。他県にもあ るが有田、九谷等の高級品で災害時用には価格的に不向き。 万が一瀬戸、多治見の被害が大きい場合は、用意するのが難 しい可能性が高い。 ・万が一愛知、岐阜の被害が大きい場合は、海外商品をどこか の港につけて配送し対応。他の地域の棺や仏衣メーカーに協 力をお願いする。 ・メーカーの連携は大事。震災時、棺メーカーのトラックの空 きスペースに弊社の商品を積み込み(愛知県内のSAで落ち 合い、載せた)被災地へ運んで頂いた。この様な連携がとれ る被災地に。 ・いつ起きる事かわからないので万全の準備は出来ないが、行 政(特に国)が主導で行うと良い(経産省とのやり取りの経 -146- 【26 年中部支部】 報告4 東日本大震災における支援活動 典充 大栄株式会社 中村 ・地震発生 ⇒ 二〇一一/三/一一 ⇒ 二〇一一/三/一二 ・宮城県葬祭事業協同組合の依頼あり 二トントラックに積込して出発 北陸道 磐越道 東北道を経由して 仙台入り 【持参商品】 仏衣・納体袋・棺覆 【仙台社員用】 水・ カ イ ロ・ 缶 詰・ 消 毒 液・ ビ ス ケット・パン・ガソリン 二〇一一/三/一四 今後も使用できるのか確認する必要 あり ・仙台営業所社員の自宅を訪問 ・二トントラック便は新潟で宿泊 ・二トントラック福井市に帰還 ・二トントラック二台で次の便を準備 (第二便) 第一便と同様に宮城県葬祭事業協同 組合からの依頼 【持参商品】 仏衣・納体袋・棺覆 【仙台社員用】 水・ カ イ ロ・ 缶 詰・ 消 毒 液・ ビ ス ケット・パン・カセットコンロ・ガ スボンベ・乾電池・あめ・ごはん 生理用品・携帯用充電器・かぜ薬・ ウエットティッシュ・カップ麺・ガ ソリン 二〇一一/三/一五 ・第二便トラック出発 小松市で三和物産さんの荷物も積込 北陸道 R113(小国街道) R (山形) 山形道 東北道 ・仙台営業所に到着 社員分荷物を下ろした ・清月記さんへ納品 ・第二便は新潟で宿泊 -147- まず震災時の弊社の対応を時系列的にご説明します。 二〇一一/三/一三 ・清月記さんへ納品 ・弊社仙台営業所に到着 事務所内の写真撮影 13 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 【26 年中部支部】 二〇一一/三/一七 二〇一一/三/一六 ・第三便の用意 仙台営業所納品 【持参商品】 納体袋 【仙台社員用】 水・パン・お菓子・缶詰・トイレッ ト ペ ー パ ー・ テ ィ ッ シ ュ・ カ ッ プ 麺・ご飯・乾電池・カセットコンロ ・第二便(二台)福井市に帰還 二〇一一/三/一八 ・第三便出発 北陸道 磐越道 東北道 仙台営業所で荷物降ろし サーバーを積み込んで出発 東北道 磐越道 新潟で宿泊 ・第四便出発 【持参商品】 岩手県の葬儀社向け商品 紙オムツ、スポーツドリンク 北陸道 磐越道 東北道 仙台営業 所 一関 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ・第三便 福井市に帰還 ⇒ 二〇一一/三/一九 【今回の震災においての教訓】 ①発注ルートの明確化 業界のメーカーとして、とにかく多くのところからお問合せ がありました。国(いろいろな部署から)、都道府県、自衛隊、 警察、全葬連、各単組、葬儀社様から「救援に行くので物資を 用意して欲しい」というお問合せが数多くあり、その中には問 合せだけの場合もありましたし、重複しているものもありました。 その中で、数が限られている商品(弊社の場合は仏衣と納体 袋でした)が、本当に必要としているところに届けられている のだろうかと不安に思っていました。 そんな中、宮城県葬祭事業協同組合は清月記様が窓口になっ て い た だ き、 そ ち ら か ら の 指 示 で 動 け ば よ か っ た た め 大 変 ス ムーズに進んだと感じています。 ②同業者間の連携 このような非常事態の時には、一社でできることには限界が あります。平時では競合先であったとしても業界にいるものと して協力体制をとることが不可欠になります。 そのためにも平時からトップ同士は常に連絡が取りあえるよ うな関係づくりをしておくことが非常に大切であると、今回の 震災では感じました。 -148- ⇒ 【26 年中部支部】 ③災害時の対応マニュアルの整備 震災は突然起こるものですが、今回も被災した自社社員への 支援をどうしたらよいのか?被災後の物流がストップした地域 への商品供給対応などいろいろな課題が湧き出てきました。 もちろんすべてを想定することはできませんが、ある程度想 定しておくことでよりベターな対応ができるのではないかと思 います。 最後に、我々メーカーも含め葬儀業界にいるものとして、万 が 一 の 震 災 が あ っ た 場 合 に は、 自 衛 隊 や 警 察 の 方 々 と は ま た 違った、 「故人様の尊厳を守るという気持ち」で、できる限り のことをして差し上げることが使命であると思います。 -149- 【新入会員紹介】 新入会員自己紹介 新たに入会いただいた会員の方々にご質問させていただきま した。 ① 当学会入会のきっかけ ② 興味の対象、研究テーマ ③ 学会への期待 ④ メッセージ 南川 和充(南山大学) ① 中部支部設立記念研修会が南山大学を会場にして開催され た際に、会員(石垣智徳先生/南山大学、浅井秀明様/出雲 殿)のご紹介で入会。 ② 葬祭業や葬送文化を対象とする経済学的な理論分析やデー タに基づく実証研究。 ③ 葬送関連業界の実務家や専門家の方々との交流。 ④ 皆様から幅広く学び、葬送文化研究の発展に微力ながら寄 与できるよう努力していきたいと思います。 吉川 正洋(株式会社法輪 専務取締役) ① 名古屋商工会議所、若鯱会先輩の出雲殿の浅井社長様より ご紹介、お誘いして頂いたことがきっかけです。 ② これからの収骨、埋葬のあり方について研究したいと思い ます。 ③ 何度か参加させて頂きましたが、普段意識して踏み込むこ とがなかった奥深い内容に戸惑いと、感動を頂き感謝してお ります。 学会では、全てのお話の中には、必ず、数字、統計に基づ いての研究発表をなされ、また、実証されるための事実、案 件による研究は感動を頂きました。この様な感動頂ける、専 門分野の方々の発表講演を拝聴したく思っております。 ④ 学会に誘って頂き、早々に犬山市における一泊研修会にも 参加をさせて頂き、沢山の方との出会いも有り、また、専門 分野の方の研究発表を聞かせて頂いたり、東北の地震を教訓 に今後の天災に対して東海地域はどうあるべきか、何をすれ ば良いのかなど大変勉強になりました。 これからも、東海地区にこだわらず、多方面の学会の方の 研究発表も勉強させて頂きたいと思っております。 -150- 【新入会員紹介】 営業部門を別会社にしたのが、現在の大栄株式会社です。 育事業をしている「ヒューマンサポート事業部」、またグルー 可児 錠二(トモエ陶業株式会社 代表取締役) トモエ陶業株式会は、昭和四五年に愛知県瀬戸市で宗教用具 の陶磁器メーカーとして創業しました。現在も葬儀社、寺、神 プ会社として納棺事業の「㈱ソワニエ」、生花祭壇設営事業の 現在、弊社は従来の事業の他に新規事業として、斎場建築& 経営支援事業をしている「ビジネスサポート事業部」、人材教 社、宗教団体様用の陶磁器を専門として商いをしております。 「 ㈱ 大 栄 フ ラ ワ ー サ ー ビ ス 」、 ホ ー ル ス タ ッ フ 派 遣 事 業 の「 ㈱ デュオ」を行っており、あらゆる角度から葬儀社様のサポート 私は大学を卒業して家業である陶器屋に就きました。一八年 になります。 今回、日本葬送文化学会様に入会させていただいたきっかけ は出雲殿の浅井社長にお声を掛けていただいたことです。当初 をさせていただいております。 湾、中国、ドイツなどの葬儀、埋葬の現場を見学する機会があ は、私のようなメーカーが学会に入会させていただいても何も 宗教用具を扱っておりますが、まだまだ知識や経験が足りま せん。ここ数年アメリカのNFDA、香港のAFE、韓国、台 り葬送文化への興味が強くなりました。また、前回パネラーと お役に立つことはないだろうと思っていたのですが、浅井社長 の方から「メーカーさんの視点から情報発信してください」と して参加させて頂き葬送の歴史、現在、未来を展望するこの会 の活動に大変刺激を受けました。 ら何かお役に立てるのでないかと思い、入会を決めた次第です。 本当に知識の乏しい私どもではありますが、どうぞよろしく お願いいたします。 言っていただき、それで他のメンバーの方々とは違った立場か 日本葬送文化学会に参加し、少しでも知識や経験を高めて研 究活動のお手伝いが出来ればと思い入会を申し込ませて頂きま した。 中村 典充(大栄株式会社 代表取締役) 私どもの会社は、昭和二八年創業の大栄繊維株式会社から始 まりました。福井が織物の産地であるため、繊維製品(仏衣、 布団、幕など)を中心に葬儀社様に商品を納品させていただい ているメーカー兼問屋でした。平成一六年にその大栄繊維から -151- 【理事紹介】 常任理事自己紹介(有志) 私は昭和四七年から、浅草の葬祭用品販売の問屋に勤務しま した。基幹商品は白木祭壇でしたが、あらゆる葬祭具の販売に 携わりました。仕事のローテーションは月のうち半分は地方出 張にて葬儀業者のルートセールス、残りは都内勤務でした。 昭和五七年にご縁を頂き、提灯や水引幕に家紋を印刷して販 売する事業を、墨田区両国で立ち上げました。「困った時は、 お客様に聞け」を商売上のモットーとし、葬儀社の経営者や社 員の方とのお話の中からニーズをくみ取り、「頼まれたら断ら 幕張等の養生・音響・照明・備品等、様々なノウハウを教えて 会長 杉浦昌則 平成二四年度より当会の会長を仰せつかっています、杉浦昌 則と申します。 ました。 入会当時の例会場所は、東京電機大学で開かれていました。 例会後の懇親会が楽しみで、今日まで続けられたような気もし 私の「学ぶ」精神の涵養は、日本葬送文化学会と共に歩んで こられたと思っています。 頂き、葬儀のアウトソーシング分野のお仕事を頂くようになり ない」も私のモットーですから、気がついたらテント・看板・ 入会年度ははっきりせず申し訳ありませんが、二〇年ほどこ の会にお世話になっていると思います。 ます。 私にとって、葬送文化への関心は、自身の人生後半期におい 当会副会長の福田充と申します。また、第一三号から当会機 関誌『葬送文化』編集業務をさせていただいています。 副会長 福田 充 当会の会員の皆様も一人でも多く例会にご出席頂き、親交を 一層深めさせて頂きたいと、心から願っております。 私のモットーは社員にもよく言っていますが、「良く学び、 良く遊び、良く働き」です。当時の「葬文研」の頃から月例会 の日が楽しみで、その日は昼間一生懸命働いて仕事を片付け、 外部講師や先輩会員のお話を聞かせて頂き勉強し、さらにその あと会員有志の皆様と、酒を酌み交わし普段聞きづらい事も聞 いたり話したり、私のモットーを一日で完遂し、とても充実し た一日を過ごせたと思いました。 -152- 【理事紹介】 た。そして、四年をかけて葬祭業をテーマとして学位論文を仕 院で研究に取り組むという新鮮、かつ地味な時間を過ごしまし しました。五〇歳を目前にして、昼間会社勤めをしながら大学 雑誌編集長のとき、当会顧問の八木澤壮一先生が共立女子大 学で教鞭を取られ、先生の勧めもあって大学院に社会人入学を 業をテーマとする雑誌編集に携わるようになりました。 ましたが、四〇代からになって介護・高齢者福祉、そして葬祭 三〇代まではレジャーや流通分野の雑誌記者・編集者をしてい て大きなテーマとしてクローズアップされてきました。二〇〜 が動機。 遅まきながら次回の仕事に備えようと感じ研究会に参画したの ところがあり出来得る限り葬送に関する文化・知識を吸収して ついて完璧な建物は存在しないとは言うものの、多々反省する とって理想的な火葬場とは言い難いことに気が付いた。全てに 計をする機会に恵まれた。ところが火葬場が実際に操業し始め 建築家として幼稚園・女子高・ごみ処理場等、大規模な設計 を手がけたが、初めて火葬場(板橋区に建つ戸田葬祭場)の設 (一九八五)からの会員。 ると機能・デザイン・テーマ等、建築学的な知識だけでは私に 上げることができました。 か し、 残 念 な こ と に 当 学 会 に 在 籍 し て い た 間 に は、 実 務 し ( 設 計 ) を 病 気 の た め に リ タ イ ア し た 三 年 前 ま で に 火 葬 場( 幾 現代は、歴史上最も急激に葬送文化が変容を遂げているとき です。数十年、数百年培われてきた歴史や伝統も、いとも簡単 言ってはなんであるが、折からの斎場ブームに斎場設計の依頼 い 方 針 ) を 設 計 す る 機 会 に は 恵 ま れ な か っ た。 そ の 代 わ り と 現在は、フリーの身となり研究者、またジャーナリストとし て活動しています。 に失われてゆく時代。 斎場を設計する事ができた。もちろん入会後学会で学んだ知識 つか話だけは有ったが当時役所は民営には原則建設を許可しな 日本葬送文化学会は、こうした時代ゆえ葬送の過去と未来を つなぐ橋渡しの役割が問われていると思います。皆さんととも が大いに役立った事は言うまでもない。依頼主に感謝された作 自分が学会に貢献できているところは会費収入が頼りの学会に 現役を引退し年金生活者の身分になって、今更葬送の文化・ 知識の勉強もないだろうと言う意見もあると思う。確かに今の 品が多いのが小生の数少ない細やかな自慢である。 が増えたことと、五〇年弱の実務の中でトータル二〇棟近くの に考え、取り組んでいきたいと思っています。 常任理事 杉山昌司 日本葬送文化学会の前身である葬送文化研究会草創時 -153- 【理事紹介】 に向けてご協力出来ればと考えております。 事実である。微力ではあるが杉浦会長の念願である会員の増加 の会に何故か愛着を感じ損得抜きで離れ難い存在であることも が本人にとっては四分の一世紀を超える長い間在籍してきたこ おいて遅滞無く会費を払い込む会員であるぐらいであろう。だ 事を微力ながら、推進しています。 ミュニティ施設の設計を通して、大切な心を継承・役立てる仕 経営、従事されている中で、私自身も葬祭施設、学校・地域コ ります。大多数の会員の方が、直接葬祭及び関連業務に研究、 嗟の判断と続く全力疾走行動力で助かった所がある反面、悲し 災地に入りました。ここは釜石の奇跡と言われた小中学生の咄 私所属の東京都建築士事務所協会江東支部は、被災地に義援 金を送り、その後、被災地状況を調べに、釜石鵜住居地区・被 けた地域の訪問も学会のおかげです。 ・一一巨大地震と江東湾岸地域の被害と被害区民住宅への 三 現地調査の関わりと三・一一東日本大震災の津波で大被害を受 加齢・病気が進む事で会員の皆様にご迷惑が多々及ぶ懸念が 出そうな場合は潔く退会致しますのでいま暫くお付き合いを願 います。 常任理事 岩㟢孝一 専門は、建築設計ですが、今も現地調査して、報告書をまと め、実施設計に係る業務を今年度も何本も抱えて仕事をしてい ただき、今日に至っています。 う冷や汗の連続を経験し、日本葬送文化学会の前身に入れてい ルとなる建基法五一条都計審通過して初めて設計が出来ると言 置、現場運営に拘わる人々の声を集めること。また、大ハード 来場者数、時間帯把握、基礎資料を毎日計測し、動線計画、配 りが如何に大切か。 現地には、タラップも無かった。せめて、屋上タラップでも あれば。金額は二〇万たらず、生と死を分ける、建築での気配 除かれ、多くの人が屋上に行けず、命を落としました。 図に設けられていましたが、僅かな予算オーバーを理由に取り えた駅舎、ここでは二階テラスから屋上に上がる外階段が設計 地区防災センター、周辺はねじ曲げられた線路と跡形もなく消 午後三時四四分で止まった時計、RC二階建ての天井間際ま で押し寄せた大津波、ほんの数人のみが助かった釜石市鵜住居 い現実もあったところです。 ます。戸田での経験が今でも、生き続けています。この事から、 ・一一の際、東京では、私は江東区放課後支援施設で子供 三 戸田葬祭場施設の旧施設から新施設への取り組みに参加、調 査、設計、工事業務を通して、ここで学んだ事は、来場車両、 日本葬送文化学会の皆様の活動と一緒に出来る事に感謝してお -154- 【理事紹介】 建ての一階の柱の大きな揺れ方向、子供達は床に伏し、広場へ 達の遊ぶ中、建物の劣化調査をしていました。SRCの一三階 大規模震災では火災危険発生が極めて高い地域とされました。 接道敷地に形成された戸建て住宅とアパ ト群が軒を連ねて、 - と誘導、揺れの収まるのを待っていました。 公的補助金の算出と区への相談橋渡し役、住宅の解体かの判断、 高齢化した一人暮らし世帯、介護施設に入り留守、全くの空 家などが目立ち、高齢化に対応した住宅の改善と提案、耐震化、 この後、四月の始めまでの二〇日間、自分の仕事をすべて放 棄して、区内、隣接区の被害都民の依頼で被害住宅の調査に廻 兄弟同士の財産問題など日々、相談が寄せられ、日本葬送文化 以上が、私の日常の瞬間です。今後ともよろしくお願いいた します。 ここを、希望のある街・活気があり・若い人が住みたくなる 水彩都市に変化出来る事に夢を描いています。 学会の研究事象と重なりも見せてきました。 りました。 この時の体験と地震の波の方向一三階建ての建物の揺れを体 感し、その後この団地の二棟の耐震診断を実施したのが、一年 半後です。多額の費用を要する耐震診断ですが、住民の不安を 解消方向に、現在補強設計に向けて、方法施工計画を検討中で す。 私の仕事の取り組みの一つとして 区内不燃化特区への取り 組みがあります。 着いた場所と云われる)の火葬場等がありましたが鉄道の敷設、 城東地域には、亀戸の火葬場、岩井橋(お岩さんの板戸が流れ 農耕地区域でありました。江戸時代から明治期にかけて、江東 頼って葬儀業に入門しました。 ました。伯母が品川区五反田の島田屋本店に嫁いでいたため、 やっと一人前になったところで、関東大震災に遭い仕事を失い 大成祭典は、祖父が昭和三年に創業しました。福井生まれの 祖父、勝山佐吉は神田YMCAそばの洋品店で背広職人として 常任理事 勝山宏則 人家の外れへと、砂町火葬場に集約されて、昭和三九年まで施 この街の成り立ちは、都内有数の金魚池と畑、古くは半農半 漁の地域であり門前仲町などの市街地から離れた、村はずれの 設の稼働していた処です。 始しました。 当時は島田屋荏原中延支店としての開業でした。戦後、大成 祭典に名前を変え、冠婚葬祭互助会を取り入れ、婚礼業務も開 当時は「焼き場通り」とも言われた、下町有数の売り上げの ある砂町銀座通界隈です。工場のひしめく周辺の狭小敷地と無 -155- 【理事紹介】 て決められています。 アンケート重視の業務評価をする。会社の方針はこれらに従っ 位の仕事をする。利用してくださった方の御意見を第一にして、 当社の社風は昔から変わっていません。良いと思うこと新し いことを取り入れる。パートナー会社の会社の力を借りて高品 ています。 ます。貴重な体験や記憶に触れ、研究活動を社会に発信してい いこと、民話や迷信に近い内容では書籍化されないこともあり により情報交換が行われています。本や教科書には載っていな 歴史を尊重し未来を展望するこの会の活動に大きな期待をし ています。特に例会あとの懇親会においては様々の立場の会員 東礼自動車は、現在二三〇台の霊柩車と六〇台の小型バスで、 東京一円をエリアとした葬儀送迎専門の運送事業者です。創立 常任理事 村田和隆 くことが、これからの葬送文化をより豊かにしていくと確信し 私は五年間のサラリーマン生活の後、家業である葬儀業に就 きました。一八年前になります。そしてすぐに、青年フューネ ラルフォーラムに参加し、次いで日本葬送文化学会の前身であ る葬送文化研究会にも入会しました。当時は八木澤研究室のあ る東京電機大学の教室で開催されていました。講師を招いての 講演会は少なく、会員の経験を伝え、思ったこと考えたことを 発表する会合でした。 に書いています。これは葬儀担当者が、事前相談・見積もりか ご家族のご要望や様子、喜ばれたこと失敗したことなどを中心 業務報告として担当者による三行程度のメモを残しています。 時代背景までは残しません。当社では事務的な記録とともに、 の記録も仕様や金額は残りますが、その時の当事者の気持ちや 葬儀をしていたかは記録があまり残されていません。葬儀社内 作、配置換え等会社全般にわたっての業務活動を行っておりま 今は経営者として稼働促進のための営業所の統廃合、付帯業 務の販売促進、又、車両部長も兼任していることから、車両制 様々な業務を行ってきました。 舗訪問しての営業活動、火葬場との連携、クレームの処理等、 移ってからは、約三五年近く葬祭事業者さんの行事の出席、店 私は、昭和四七年に車両部に入社、総務部を経て現在の事業 部(営業部)の常務取締役として勤務しております。事業部に は昭和一九年三月三一日で、今年七〇周年を迎えました。 ら集金・法事の手伝いまで一気通貫で一人が担当することを原 す。そして今は社員教育が重要と考えており、入社時研修はも 宗教の典礼や、皇族、武将などの葬儀記録は文章としてしっ かり残されています。しかし、市井に生きた庶民がどのような 則としているためできることです。 -156- 【理事紹介】 応や交通安全教育などにも力を注いでいます。 言う組織があり、私が委員長を務めています。そのため事故対 向上に努めています。それと社内で「交通安全推進委員会」と ちろん、最低でも年に一回は現場教育を行い、運送サービスの 婚葬祭業の知識が薄かった為、葬送文化を理解するために参加 知ったことからだったと記憶しております。当時は、社業の冠 青年フューネラルフォーラムにおいて学会(研究会)の存在を したのは、前身の葬送文化研究会の時で、入会のきっかけは、 いまでは、ただの法人会員というだけで活動はしておらず、霊 う機会をいただき葬送文化以外でも多くの知見を頂きました。 学会を語るうえで特に印象的だったのが、日本葬送文化学会 の特徴ともいえる研修視察旅行で、学会の先輩方と同じ飯を食 しておりました。 柩車に関係のあるような報告の時の定例会に出席していたくら 私がこの「葬送文化学会」に加入したのが従前の名前がまだ 「葬送文化研究会」と言うときでした。ですが三~四年前くら いです。 全国冠婚葬祭互助協会理事や平成一九年度日本商工会議所青 年部専務理事などが忙しくなり、一時、学会から遠ざかってお 危機の可能性のある問題を判断するにあたり、勘と経験で判断 りましたが、商工会議所青年部の卒業を機会に、会社経営に没 することは、東礼自動車が全国で大手の会社ということで、私 して小さなミスをいくつも犯しました。 例会等における霊柩車に関しての話などは、現在、「千葉 定 県霊柩自動車協会」会長の荒木由光氏が理事を務めていました が荒木由光氏の後任ということで常任理事になりました。 これらのミスから経営上の未熟さを痛感し、このままではい けないと一念発起して、経営(冠婚葬祭)の研究者としての道 頭しました。会社に時間を費やすと次々に迫ってくる経営上の 理事になって改めて感じたことです。定例会で発表される内 容が多岐にわたり、素晴らしく、この「葬送文化学会」がもっ を歩むことを決意し、理論だった経営ができる思考能力を身に が、理事をおりられることになり、葬送文化の中で霊柩車に関 と活躍できればと思っています。私はまだ理事になって期間が 着けるための手法として大学院に通いました。その成果の証と は、葬祭ディレクター一級、葬祭ディレクター協会葬祭ディレ 現在、日本葬送文化学会においては、常任理事と中部支部事 務局を拝命いたしております。業界に関連する取得資格として して博士(経営学)の学位を取得いたしました。 少ないですが、少しでもお役に立てたらと考えています。 常任理事 浅井秀明 一九六〇年のねずみ年生まれです。日本葬送文化学会に入会 -157- 【理事紹介】 クター審査官。ブライダルプロデューサーグランドマスター級、 運行管理者資格者証を保持しております。 仕事は、愛知県全域と静岡県西部において冠婚葬祭の施行の 全般を扱う出雲殿の名古屋法人、豊田法人の代表取締役社長を いたしております。出雲殿の葬祭部門の屋号は、「イズモ葬祭」 で統一しております。 業理念は、 「出雲殿グループは地域社会に最高のサービス 企 することを使命とする」です。 イズモ葬祭が考える最高のサービスとは、①地域社会に貢献 し、②非日常空間の中で、③お客様の期待以上のサービスを、 ④常に提供し続けることを言い、①、②、③、④を更に説明す ると、 ポートすることであると考えています。 参考文献 出雲殿資料 碑文谷創(二〇一二) 、 『増補三訂 葬儀概論』 表 , 現文化社。 常任理事 多村至恩 pp.10-12 私は、浄土真宗寺院の後継住職である一方、儀礼を専門とす る研究者でもあり、大学では宗教に関する講義を担当していま す。 当学会のことは、研究リサーチ中に知ったのですが、研究者 だけでなく、葬祭関連業者の方が多数参加していることに興味 を持ち、例会に参加するようになりました。 ③ 隠れたニーズの引き出し、高い満足度、また来たい、使 いたい というのも、研究者だけで構成される通常の学会では、発表 される内容に、研究者の視点や分析といったバイアスが掛かる となっています。 ① 社会的必要性、安心感 ② 癒し、感動 ④ 本物と流行、最高のサービスを継続し目指し続ける、こ れでいいという妥協はしない。 からです。ですが、当会の発表は、現場に従事する方の「生の 実際、研究会に参加してみると、現場に従事する者ならでは の視点・問題提起が、研究者の私にとって、大変意義深いもの ということです。 とって、「宝の山」といっても過言ではありません。 また他方では、研究者の視点が入ることによって、現場の意 声」が聞け、フィールドワークやデータ収集が必須の研究者に 具体的には、碑文谷氏(二〇一二)の挙げている葬儀の五つ の役割(処理) 、社会的な処理、遺体の処理、霊の処理、悲嘆 の 処 理、 さ ま ざ ま な 感 情 の 処 理 を 遺 族 が 全 う で き る よ う に サ -158- 【理事紹介】 なっています。 り、 私 に と っ て は、 理 論 と 現 場 が 融 合 す る、 大 変 貴 重 な 場 と 義が見出され、歴史的変遷が整理確認されているのも事実であ がしております。 ことが出来るかが課題となり、様々な施策を行ってまいりまし か、また、それを行うスタッフが誇りをもってリードしていく りません。それだけにお客様に如何に心静かにお帰りいただく 定かではありませんが、二村さんの紹介で入会したのではな いかと思います。 ① 当学会入会のきっかけ 常任理事(二六年度新任) 寺村公陽 ておる次第です。 現在、間接人員を極端に減らしている弊社ですので、時間の 都合が付かず、積極的に活動が出来ないことに申し訳なく思っ 史・民俗学が大好きな私には楽しい時間となりました。 当 た り 前 の 様 に 行 っ て い る 事 の 意 味 や 起 源、 地 域 差 な ど、 歴 葬送文化を担う様々な仕事をお持ちの方々とお話すると、や はり視点が違う事を気付かせてもらえます。また、儀式として と思ったのを覚えております。 んななか、野崎社長が毎月楽しそうに葬送文化学会の例会 そ に出かけていく姿を見るにつけ「そんな学会があるんだな~?」 た。今ここに在るために経験や知識を積み重ねた……そんな気 近年のメディアでは、葬儀や死に関する話題が、頻繁に取り 上げられるようになりました。一連のトッピクスが、タブーで なくなったことは歓迎すべきことですが、他方で、間違った理 解が定着することを危惧しています。 よって、今後は、後進の育成だけでなく、広く一般の方々に、 葬送儀礼についての正しい理解を啓発できるよう、微力ながら 努めて参りたいと思っています。 常任理事 会計 石井範明 私が葬送文化と仕事として係わりを持つようになったのは今 から七年前の事です。 弊社の野崎社長よりお招きを受け㈱誠行社のスタッフの一人 となり、手探りの状態からはじめました。会社経営を客観的に 見ることは前職の関係で慣れておりましたが、自分で計画を推 進するとなると如何に大変であるかを経験させて頂きました。 火葬場という職場は、悲しみにくれる御遺族が葬儀の最後に 係わる場所です。火葬場だけではありませんが、この業界のお 客様は一生のうち、数えるほどしか直接係わりを持つことはあ -159- 【理事紹介】 ② 興味の対象、研究テーマ 消費者の意識の変化や葬送のあるべき姿について、歴史的な 変遷と意識調査データ、業界動向などを研究していきたいと考 えています。 その上で、当社がどういったお手伝いができるのかを探求し ていきたいと思います。 ③ 学会への期待 学会員の皆さんの様々な価値観やご意見をいろいろ聞いて見 識を広められたらいいなと思います。 ④ メッセージ 私は、天野さんのご推薦を頂き、一九歳の時から研修旅行会 などに参加をさせて頂いておりました。 当時はまさに、今以上に右も左も分からない若輩者でしたの で、今思えば、既に会員であった父に連れられている子のよう な状態でした。 そんな私でしたが、会員皆様の温かいご指導のお陰様で、役 員に就くまでに育てていただきました。 私は、紋幕・看板(門標)・祭壇、テント等、レンタル全般 を扱い、葬儀式場の装飾、設営を行う仕事に従事しており、父 の後を継ぎ、二代目として日々精進しております。 うになればと思います。 せて頂いておりましたので、非常に良い学びの環境下にあった の範囲を超える学びの機会は、自ら作らない限り少ないと思っ 仕事において、葬送・葬儀に携わる機会は多々ありますので、 実務としての経験は、それなりに積ませて頂きましたが、実務 また、常任理事として学会の発展に貢献できるように、当社 のサービスや施設紹介なども含め会員の皆さんにご紹介すると と思います。 当社は、葬儀とお墓・仏壇を取り扱っていますが、学会での 研究を通し、さらに広範囲に供養サービスを提供していけるよ ともにご意見・アドバイスをいただければうれしいです。よろ 様(葬儀社)より、火葬のみ(直葬)の増加と、会葬者減少に 弊社は、東京都足立区に事務所を構えておりますが、都内に おいても、葬儀の縮小化、多様化が言われており、実際にお客 でもあります。 ております。私は、各分野の専門家が在籍する、当会に関わら しくお願い申し上げます。 古来の文化を識り 新しい文化を創造する』これは弊社の 『 カタログに記載されている文言であり、先代から続く基本理念 常任理事(二六年度新任) 杉浦真也 平成二六年度より、常任理事に就かせていただきました、杉 浦真也です。 -160- 【理事紹介】 ついて、嘆きの声を聞く事も増えました。ここ数年で、消費者 の選択肢も随分増えた印象を持ちます。この先、葬送文化はど のように変遷していくのか、誰もが興味深い未来を考える上で、 その歴史、過去を学ぶ事は最重要と考えます。 当会の特徴である、各分野の専門家が集まる貴重な学びの場 に、業界関係者のみならず、一般の方でもご参加いただけるよ う、広い間口を作り、そしてこれまでのように世代を超えて継 続する会であるよう、理事として一生懸命、貢献に努めてまい ります。 -161- 【活動報告】 平成二五年度活動報告 総会 定例会 〈四月 第一一回定時総会〉 日 時 平成二五年四月二五日 午後六時三〇分~午後八時 場 所 東京文化会館 中会議室① 〈五月 野外研修〉 日 時 平成二五年五月二三日 午後二時三〇分~午後五時 場 所 国立歴史 民 俗 博 物 館 内 容 「死と向 き 合 う 」 見 学 案内人 国立歴史民俗博物館 研究部民俗研究系 准教授 山田慎也 氏 〈六月 定例会〉 日 時 平成二五 年 六 月 二 〇 日 午後六時 三 〇 分 ~ 午 後 八 時 場 所 東京文化会館 小会議室① 内 容 学会シンポジウム開催にあたり意見交 換会 〈七月定例会 講演会〉 日 時 平成二五年七月二五日 午後六時三〇分~午後八時 場 所 東京文化 会 館 中 会 議 室 ② 講 師 雑誌SO G I 編 集 長 表現文化 社 代 表 碑 文 谷 創 氏 テーマ 葬送をテーマとした「評論」の視点 ~あくま で 私 的 に ~ 〈八月 中部支部設立記念 研修旅行〉 日 時 平成二五年八月二二日・二三日 場 所 名古屋市内 内 容 南山大学にて中部支部会員による研究 発表会 〈九月 定例会〉 日 時 平成二五年九月二七日 午後六時三〇分~午後八時 場 所 東京文化会館 中会議室① 内 容 高齢化するペットのエンディングを考 える 報告者 福田 充 氏・藤井 高 氏・ 岩㟢孝一 氏 〈一〇月 定例会〉 日 時 平成二五年一〇月一七日 場 所 東京文化会館 中会議室① 内 容 日本葬送文化学会シンポジウム 最終準備会 〈一一月 日本葬送文化学会シンポジウム〉 日 時 平成二五年一一月一六日 午後一時~午後四時 場 所 東京国立博物館 大講堂 テーマ 変わる葬送文化 ―今なぜ「家族葬」なのか― パネラー 八木澤壯一 氏・柴田千頭男 氏・ 長江曜子 氏・勝山宏則 氏 コーディネーター 福田 充 氏 〈一二月 Ⅰ部定例会 Ⅱ部忘年会〉 日 時 平成二五年一二月一九日 Ⅰ 部 午後六時三〇分~午後七時三〇分 場 所 東京文化会館 中会議室① 内 容 第一五号会誌発行 発表会 Ⅱ 部 午後七時四五分~午後九時 場 所 上野 中華料理翠鳳 内 容 忘年会 〈一月 定例会 講演会〉 日 時 平成二六年一月二三日 午後六時三〇分~午後八時 場 所 東京文化会館 中会議室① 講 師 春風事務所 司法書士 藤田真弓 氏 テーマ 司法書士として成年後見による高齢者 支援を通じて見えてきたこと 〈二月 定例会 講演会〉 日 時 平成二六年二月二〇日 午後六時三〇分~午後八時 場 所 東京文化会館 中会議室② 講 師 真言宗豊山派 金剛院 住職 野々部利弘 氏 テーマ 都会のお寺として葬儀と供養のあり方 〈三月 定例会〉 日 時 平成二六年三月一九日 午後六時三〇分~午後八時 場 所 東京文化会館 小会議室① 内 容 Ⅰ部 日本葬送文化学会シンポジウムの反省 Ⅱ部 平成二六年度活動計画案の提案 -162- 【活動報告】 定例常任理事会 〈第一回〉 日 時 平成二五年四月一八日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 第一一回定時総会準備 〈第二回〉 日 時 平成二五年五月一六日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 平成二五年度 五月・六月・七月・ 八月の例会に関して 〈第三回〉 日 時 平成二五年七月一九日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 平成二五年度 七月・八月・九月・ 一〇月の例会に関して 一一月シンポジウム開催に関して 〈第四回〉 日 時 平成二五年九月一二日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典 本 社 会 議 室 議 事 平成二五年度 九月・一〇月・一二月 の例会に関して 一一月シ ン ポ ジ ウ ム に 関 し て 〈第五回〉 日 時 平成二五年一一月二二日 午後四時~午後六時 場 所 鎌倉 誠行社 議 事 平成二五年度 一一月シンポジウム報告 一二月・一月・二月・三月の例会に関 して 平成二六年度 人事案・予算案に関して 〈第六回〉 日 時 平成二六年一月九日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 平成二五年度 一月・二月・三月の例会に関して 〈第七回〉 日 時 平成二六年二月二六日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 平成二六年度 活動計画案に関して 〈第八回〉 日 時 平成二六年三月一四日 午後六時~午後八時三〇分 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 平成二五年度 三月の例会に関して 平成二六年度 活動計画案に関して 「第一五号」会誌編集委員会 〈第一回〉 日 時 平成二五年二月二八日 場 所 東京文化会館 応接室 議 事 発行時期決定・内容構成検討 〈第二回〉 日 時 平成二五年三月一四日 場 所 大成祭典本社会議室 議 事 原稿募集および担当決定 〈第三回〉 日 時 平成二五年一二月一〇日 場 所 巣鴨 ルノアール 議 事 最終校正確認 会誌発行 平成二五年一二月「第一五号会誌」発行 -163- 【活動報告】 支出の部 平成24年度予算額 180,000 20,000 31,500 360,000 500,000 200,000 200,000 30,000 150,000 70,000 100,000 150,000 0 50,000 100,000 2,141,500 2,817,175 4,958,675 単位 : 円 平成24年度決算額 摘要 200,200 0 20,000 360,000 523,500 38,010 120,000 0 78,960 70,000 0 0 30,000 JETO みやぎ 30,000 理事会 6,661 1,477,331 3,538,029 5,015,360 会場費 通信費 慶弔費 事務局経費 会報印刷 ホームページ管理費 講師料 懇親会等補助金 旅行研修助成金 配送料 部会研究費 研究助成金 協賛金 会議費 雑費 小計 次期繰越金 合計 -164- 第一一回定時総会 報告 単位 : 円 平成24年度決算額 摘要 720,000 24社 555,000 37人 432,000 未収 0 385 1,707,385 3,307,975 5,015,360 (平成二四年四月一日~平二五年三月三一日) 平成24年度予算額 750,000 600,000 300,000 0 700 1,650,700 3,307,975 4,958,675 年会費 収入の部 法人 30,000円×25 個人 15,000円×40 広告代 会誌販売 雑収入 小計 前期より繰越金 合計 日 時 平成二五年四月二五日(木) 午後六時三〇分~午後八時〇〇分 場 所 東京文化会館 中会議室① 一、開会 二、挨拶 会長 杉浦昌則 三、議長選出 藤井 高 理事会推薦『承認』 ・総会成立条件 [会則七条二項]会員総数の過半数の出席 (委任状提出 者 は 出 席 と み な す ) 法人会員二八 社 正 会 員 五 二 名 総会員数八〇 名 (平成二五年 四 月 一 日 現 在 ) 総会出席者二 〇 名 委 任 状 二 七 通 合計四七名 よって第一一回定時総会は成立いたします ・議決構成[会則七条二項] 出席会員の三分の二以上の賛成により議決 四、議事 第一号議案 平成二四年度活動報告に関する事項 事務局報告 『承認・議決』 第二号議案 平成二四年度収支決算に関する事項 会計報告/監査報告 『承認・議決』 第三号議案 平成二五年度活動計画(案)に関する事項 事務局説明 『承認・議決』 第四号議案 平成24年度 収支決算報告 (平成24年4月1日~平成25年3月31日) 【活動報告】 収入の部 年会費 法人30,000円×28 個人15,000円×52 広告代 会誌販売 雑収入 小計 前期より繰越金 合計 支出の部 会場費 通信費 慶弔費 事務局経費 会報印刷 ホームページ管理費 講師料 懇親会等補助金 旅行研修助成金 配送料 部会研究費 研究助成金 協賛金 会議費 旅費交通費 組織対策費 広告宣伝費 イベント拠出金 雑費 小計 次期繰越金 合計 平成24年度決算額 720,000 555,000 432,000 0 385 1,707,385 3,307,975 5,015,360 平成25年度予(案) 840,000 780,000 432,000 0 380 2,052,380 3,538,029 5,590,409 28社 52人 単位 : 円 摘要 単位 : 円 平成24年度決算額 平成25年度予算(案) 摘要 200,200 210,000 0 0 20,000 30,000 360,000 360,000 523,500 530,000 38,010 200,000 120,000 200,000 0 50,000 78,960 80,000 70,000 70,000 0 100,000 0 0 30,000 0 30,000 30,000 理事会 100,000 支部訪問 100,000 支部活動 200,000 イベント広報 500,000 イベント開催 6,661 30,000 1,477,331 2,790,000 3,538,029 2,800,409 5,015,360 5,590,409 -165- 平成二五年度収支予算(案)に関する事項 会計説明 『承認・議決』 第五号議案 中部支部設立 に 関 す る 事 項 中部支部設立準備委員説明 『承認・議決』 第六号議案 役員改選に関 す る 事 項 事務局説明 『承認・議決』 議事終了 議長退席 五、閉会 以上 平成25年度予算(案) (平成25年4月1日~平成26年3月31日) 役職 正 会 員 〃 氏 名 五十嵐啓二 石井 隆 会社・所属 ㈱イガラシ ㈱公営社 目白営業所 ルーテル学院大学 国際日本文化研究センター ㈱中央セレモニー ㈱ユービジョン 大野屋商店 ㈲大野屋葬儀社 ㈱板橋 奈良大学 ㈱グランディメモリー 浄土宗 天然寺 ㈲光コーポレーション さとう葬祭㈱ ㈱キュア・エッセンス 早稲田大学人間科学学術院 田中商事㈱ 早稲田大学人間科学学術院 ㈲日野岩 ㈱中原屋 ㈱表現文化社 東洋工業㈱ 武庫川女子大学文学部教育学科 ㈲松江造花仏壇店 NCC 宗教研究所 宗教法人 妙法寺 ㈱溝口祭典 ㈱茂登山商店 〃 上村 敏文 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 中部支部 支 部 長 中部支部 法人会員 〃 中部支部 正 会 員 会 計 中部支部 正 会 員 〃 〃 〃 〃 〃 〃 海 外 正 会 員 〃 大杉 実生 宇佐美義昭 大野 寿満 大野 典明 加藤眞由美 木下 光生 木野島光美 後藤 尚孝 小林 寛子 佐藤 正幸 宿原寿美子 田中 大介 田中 真理 谷川 章雄 塚田 篤雄 原 敏之 碑文谷 創 藤井 高 藤井 達矢 松江 英寿 松田 史 松本 慈恵 溝口 勝巳 茂登山正人 森田 和彦 若月 洋介 安 剣星 石垣 智徳 鈴木 哲馬 中村 典充 ㈱プラン・ドゥ・ワカツキ ㈱星光 南山大学 ㈱のうひ葬祭 大栄㈱ 東京都豊島区 東京都世田谷区 茨城県古河市 神奈川県横須賀市 神奈川県茅ケ崎市 大阪府大阪市 東京都新宿区 東京都文京区 東京都武蔵野市 山梨県大月市 神奈川県横浜市 東京都小金井市 東京都杉並区 神奈川県川崎市 長野県長野市 神奈川県川崎市 東京都新宿区 東京都江東区 兵庫県西宮市 青森県五所川原市 兵庫県尼崎市 神奈川県横浜市 東京都八王子市 神奈川県足柄下郡湯 東京都豊島区 山梨県甲府市 茨城県取手市 愛知県名古屋市 岐阜県美濃加茂市 福井県福井市 加藤 久智 ㈱ほくせい 三重県桑名市 一柳 泰樹 加藤 京子 征矢 武平 玉川 貴子 南川 和充 可児 錠二 吉川 正洋 張 萬石 林 虎映 ㈱一柳葬具總本店 ㈱かとう ㈱盛花堂 名古屋学院大学 南山大学経営学部 トモエ陶業㈱ ㈱法輪 大田保健大学 愛知県名古屋市 愛知県稲沢市 長野県上伊那郡 愛知県名古屋市 愛知県名古屋市 愛知県瀬戸市 愛知県名古屋市 ソウル龍山区 大韓民国 myun yong in city south korea 住所 福井県福井市 東京都豊島区 東京都三鷹市 平成26年12月現在 -166- 日本葬送文化学会 会員名簿 役職 会 長 副 会 長 〃 副 会 長/事 務 局 常任理事/会 計 常任理事 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 常任理事 中部支部 事 務 局 学術関係理事 〃 顧 問 〃 〃 〃 法人会員 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 氏 名 会社・所属 杉浦 昌則 長江 曜子 福田 充 阿島 武志 石井 範明 杉山 昌司 岩﨑 孝一 勝山 宏則 和田 裕助 三橋 初枝 多村 至恩 深澤 芳次 村田 和隆 寺村 公陽 杉浦 真也 ㈱北進 聖徳大学 ジャーナリスト ㈲一二三 ㈱誠行社 鑽設計 ㈱吾妻設計 大成祭典㈱ 有限会社ワイ・イー・ワイ ㈱薫風社 流通科学大学 石の声㈱ 東礼自動車㈱ ㈱ニチリョク ㈱北進 住所 東京都足立区 千葉県松戸市 東京都江東区 栃木県那須烏山市 神奈川県逗子市 埼玉県さいたま市 東京都江東区 東京都品川区 神奈川県茅ヶ﨑市 埼玉県川口市 兵庫県神戸市 山梨県甲府市 東京都新宿区 東京都新宿区 東京都足立区 浅井 秀明 ㈱出雲殿 愛知県名古屋市 柴田千頭男 山田 慎也 山床 節子 浅香 勝輔 八木澤壯一 天野 勲 ㈱テクノファースト ㈲アラキ ㈱いとう ㈱おおの 東礼自動車㈱ ㈱おかもと 富士建設工業㈱ ルーテル学院大学 国立歴史民俗博物館 ジャーナリスト 元日本大学理工学部 東京電機大学名誉教授 東京にっそう 新井 重克 荒木 由光 伊藤 茂雄 大野 益通 岡 伸二郎 岡本 昌乃 岡崎 晋 千葉県印西市 千葉県習志野市 兵庫県西宮市 千葉県市川市 東京都世田谷区 東京都文京区 神奈川県相模原市 千葉県八街市 長野県飯田市 栃木県鹿沼市 東京都新宿区 栃木県河内郡 埼玉県所沢市 浄土真宗本願寺派 総合研究所 ㈱清月記 ㈱セレマ ㈱タムラ ㈱ニチリョク ㈱誠行社 金剛院 燦ホールディングス㈱経営企画部 ㈱シービーサービス 日本炉機工業㈱ NPO 法人葬儀支援ネットワーク ㈱メモワール 佐々木惠精 菅原 裕典 杉浦 正樹 田村 浩章 寺村 公陽 野崎二三子 野々部利弘 廣江 輝夫 福田 桂二 村川 英信 安井 稔江 渡辺 正典 京都府京都市 宮城県仙台市 千葉県市川市 東京都江戸川区 東京都新宿区 神奈川県逗子市 東京都豊島区 大阪府大阪市 東京都墨田区 東京都板橋区 東京都品川区 神奈川県横浜市 -167- 日本葬送文化学会 ご案内 葬送文化 (象形文字) 日本葬送文化学会は、葬儀や火葬、お墓など葬送にかかわる歴史や文化、葬祭ビジネス 日本葬送文化学会は、葬儀や火葬、お墓など葬送にかかわる歴史や文化、葬祭 などを幅広く研究する団体です。本会の前身となる「葬送文化研究会」は、1985(昭和 ビジネスなどを幅広く研究する団体です。本会の前身となる「葬送文化研究会」 60)年から活動を続け、2001(平成13)年に「日本葬送文化学会」と発展し、以来四半世 は、 1985(昭和 60)年から活動を続け、 2001(平成 13)年に「日本葬送文化学会」 紀以上にわたり、海外も含めた葬送文化の研究に取り組んでいます。 と発展し、以来四半世紀以上にわたり、海外も含めた葬送文化の研究に取り組 会員は、学者・研究者、学生だけでなく葬祭業や霊柩車製造・運行、葬具商社など葬送 んでいます。 関連企業、火葬場、墓地、霊園、埋葬など幅広い産業分野の実務家や専門家が集っていま 会員は、学者・研究者、学生だけでなく葬祭業や霊柩車製造・運行、葬具商 す。そのため、古今東西の葬送文化の研究活動を基盤としながらも、家族葬や直葬といっ 社など葬送関連企業、火葬場、墓地、霊園、埋葬など幅広い産業分野の実務家 た今日的テーマや葬祭業の商品・サービスなど現実のビジネスに即したテーマを積極的に や専門家が集っています。そのため、古今東西の葬送文化の研究活動を基盤と 取り上げています。 しながらも、家族葬や直葬といった葬儀の形態変化をはじめ葬祭業の商品・サー 現在は、毎月1回、定例会を開催しています。葬送文化にかかわる研究者・実務家・宗 ビスなど現実のビジネスに即したテーマを積極的に取り上げています。 教家などの講演や研究成果の報告会を開催しています。また、国内各地の葬送文化にかか わる旧跡や施設・企業などを訪ねる国内研修旅行や海外研修旅行などを実施しています。 現在は、毎月1回、東京・上野駅前の東京文化会館で定例会を開催しています。 定例会のスケジュールは、ホームページで確認できます。 葬送文化にかかわる研究者・実務家・宗教家などの講演や研究成果の報告会を 開催しています。 (平成26年7月 野外民族博物館リトルワールド) ■役 員 また、国内各地の葬送文化にかかわる旧跡や施設・企業などを訪ねる国内研 会 長 杉浦昌則 修旅行や海外研修旅行などを実施しています。 副会長 長江曜子 福田 充 ■役員 会 長 杉浦昌則 阿島武志 ■事務局 副会長 長江曜子 日本葬送文化学会事務局 福田 充 〒 103-0027 阿島武志 東京都中央区日本橋3-2-14 ■事務局 栃木県那須烏山市金井1−8−12 日本橋 KN ビル4階 ウィズスクエア内 有限会社一二三・内 阿島武志 TEL : 03-5201-3364 tel 0287-82-2536 FAX : 03-5201-3712 fax 0287-82-2614 e-mail: sosobunka@gmail.com E-mail sosobunka@gmail.com ■定例会会場 ■定例会会場 東京文化会館 野外研修会の模様(平成 24 年8月) 東京文化会館会議室(JR上野駅公園口前) ティアラこうとう(江東区住吉) http://www.t-bunka.jp/access/ ■当学会ホームページ ■当学会ホームページ http://www.sobunken.jp/ http://www.sobunken.jp/ 26年11月には拡大月例会として「公開講座」を開催 上野・東京文化会館の定例会 定例会は、事務局にご連絡をいただければ 定例会は、事務局にご連絡をいただければ 会員外の方でも無料でご参加いただけます。 会員外の方無料でご参加いただけます。 切り取り線 TEL:03-5201-3364 東京都中央区日本橋3-2-14 FAX:03-5201-3712 日本橋KNビル4階 ウィズスクエア内 Eメール:sosobunka@gmail.com Funeral・Care あなたの大切なひとのために ㈱イガラシ 代表取締役社長 五十嵐啓二 〒910-0121 福井市定正町913-2 TEL:0776-56-4147 FAX:0776-56-4143 お客様の声に良心で応える ㈱中央セレモニー 代表取締役 大杉実生 東京都豊島区巣鴨3-30-8-101 TEL:03-3949-6098 FAX:03-3949-0739 〒395-0801 長野県飯田市鼎中平2820 TEL:0265-23-1000 FAX:0265-53-8000 霊柩車・葬儀送迎バス 東礼自動車㈱ 代表取締役社長 岡伸二郎 〒160-0008 東京都新宿区三栄町29 TEL:03-3358-7301 FAX:03-3351-0757 株式会社 ほくせい 加藤久智 代表取締役社長 〒511-0937 三重県桑名市志知 865 TEL:0594-31-4242 FAX:0594-31-8668 http://www.soso.co.jp/ 鈴木哲馬 代表取締役 〒505-0027 岐阜県美濃加茂市本郷町 6-7-30 Tel 0574-24-2255 Fax 0574-27-5677 http://www.nouhi.co.jp 代表取締役 可児 錠二 〒489-0915 愛知県瀬戸市北浦町三丁目36番地 Tel 0561-83-3674 (代) Fax 0561-82-4261 E-mail:kani-co@mtf.biglobe.ne.jp http://www.tomoetogyo.jp 葬送文化(第一六号) 発 行 日本葬送文化学会 会長 杉浦 昌則 三 - 三六四 事務局 - 一 -四 東京都中央区日本橋三 二 日本橋KNビル四階 ウィズスクエア内 - 二〇一 電話 〇三 五 平成二六年一二月三一日 発行日 一〇〇〇円 定 価 ワイズ 会誌編集委員会 編 集 株式会社 印 刷
© Copyright 2024 Paperzz