戦争、同化と公民身分の追求-「志願兵」について 莫 台湾 素 微 中華技術学院 sobi@cc.chit.edu.tw 論文要旨 「志願兵」は、周金波が 1941 年の戦時期に書いた小説である。当時の評論者は、「志願兵」 は積極的に時代を反映した作品と評価した。 1 しかし、戦後になって周金波はこの小説とデビ ュ-作「水癌」と合わせて、台湾の「皇民文学」の最も代表的な作品と見作されていた。厳し い批判が与えられている。 2 周金波はこの小説のために「皇民作家」という多くの議論を引き 起こすレッテルを貼られてしまう。 時代の変遷に伴い、 「志願兵」に対する評価も異なっている。だがそれらの評価はいずれも、 公共領域としての文学作品それ自体が、内在的な論争の場を提供するものであるという機能を 軽視している。 本論はこうした観点から、テキストと植民台湾の社会構造に対する読み直しによって、周金 波は「志願兵」を利用し、論争を通じて異質化されたアイデンティティーを消去するための公 共領域を提供しようとした、ということを明らかにする。「志願兵」という論壇は、決して最 終的な目標や信念ではなく、意図的に用いられたのであり、植民地体制下の人間性に共通する 真実を反映したものである。なぜならそれは、帝国の作為と価値に対して、疑問を投げかける ことを容認しているためであり、個人的な利益の計算などで、台湾人が自省すべき課題を提供 してくれるからなのである。 キ-ワ-ド: 周金波、志願兵、皇民文学、同化、公民身分 午前中台湾軍夫の出征を送る。台湾人はこの時に完全に兵役を分担したのだ。歴史の変動期 にはいつでも、台湾人も歴史に参加するのは、極めて当然なことなのだ。 -呉新栄『呉新栄日記』 公民は旗を振って叫ぶだけでなく、国家のために戦い、総動員に参加する義務がある。 -Michael Mann 1.前言 戦争や軍事行動は、人類の歴史とともに長期にわたって共存してきた社会的メカニズムであ る。戦争行為がもたらす傷害や破壊・飢餓・疾病は、文学・哲学・政治・社会科学などの研究 者によって、この社会的メカニズムが非難されてきた主たる原因である。しかし現実には戦争 1 は継続的に発生しており、このことは戦争を準備するあらゆる社会的行為が、特定の時空条件 のもとでは合理化・正当化されてきたことを裏づける。特定の時空条件もまた、ある意味では 戦争それ自体や戦争に参加する人員の社会的評価を決定する。したがって、戦争を描写した文 学が、いわゆる皇民文学と反戦(反侵略)文学に分類されるのは、創作者と評論者が、この時 空条件に対して意図的に行った選択と解釈の方向性を反映しているにすぎない 3 。だから戦争 を描いた文学とその創作者を理解し、公正に評価するためには、戦争が発生した原因とその社 会的意義を探求するだけでなく、これらの時空条件を透視し、分析し、そこに還元しなければ ならないのだ。 「志願兵」は、形式上は一人称( 「私」 )による主観的叙述をはじめて試み、ふたりの主人公 の冗長な対話に焦点をあて、表現しようとしたものである 4 。3人の登場人物は、異なった階 級の台湾人を代表し、これまで台湾には存在しなかった共通の言語によって、この公共領域の 場を借りて、異質化されたアイデンティティーを消去するための論争を展開する。客観的な一 人称は、冷静で自省的なまなざしの構造であると同時に、あらゆる可能な目標や打算を包括す る舞台でもある。 本文は「志願兵」の中の豊富な対話と論争を通じて、作者がこの共通の言語を用いて構築し た公共論壇を分析する。重苦しい植民の抑圧を経た後に、戦争によって内地人と対等の待遇を 勝ち取る機会が現れた時に、本島人が選択できた2つの、またはもっと多くの選択肢を明らか にしたい。また作品中の2つの対話の主体が、戦争に対する2種類の期待-対外的なナショ ナルアイデンティティーの統合と、対内的な階級の平等-に対応しているだけではなく、作 者のこれ以後の作品(例えば「郷愁」)中に、たえず出現する2つの矛盾する自我-ひとつ は確固とした「すでに日本人である」という帝国エリートおよびその代言人である側面、そし てもうひとつは植民地の野蛮性や原始的エネルギーを象徴する、未開化な暴力を秘めている側 面-に対する、初めての凝視であることを論じる。 2.「志願兵」の內容 (1)人物 東京で執筆した処女作「水癌」発表の半年後、周金波の第二作「志願兵」が『文芸台湾』 (1941 年 9 月 20 日、第 2 卷第 6 号)に掲載された。前作「水癌」との最大の相違点は、 「志願兵」は、 完全な小説の構造と人物像を備えていることである。作品の分量も大幅に増加した。こうした ことから、文芸創作という生涯に本格的に踏み込もうとする、周金波の意志を窺うことができ るだろう。「志願兵」は、一人称( 「私」 )による叙述を行う。主な登場人物は以下の通りであ る。 1. 「私」 。張明貴の「義兄」で、日本留学経験者である。8年前に故郷の基隆に戻って働いて いる。満腔の情熱は、生活のために磨り減っている。 2.高進六。血書志願する青年。張明貴の公学校時代の同窓生。日本人になるという目標に向 かって前進し、日本人になることが台湾を向上させる方法だと考えている。最後には血書志願 2 によって、皇民になるという目標を達成する。 3.張明貴。夏休みに帰郷した台湾人の日本留学生。高進六と同様に、日本人となるために努 力をする。しかし2人の方法論が異なるため、争いになる。最後に、高進六の血書志願が新聞 で報じられ、進六の台湾を愛する心に服さざるをえない。そして「私」とともに、台湾の成長 を推進するために、さらなる努力をすることになる。 (2)小説の概要 小説は、帰郷する人を出迎える人でごった返す基隆港の場面から始まる。帰郷する多くの若 者たちを乗せた「高砂丸」が、ゆっくりと基隆港に入ってくる。 「私」は感慨にふけりながら、 「吉野丸」級の船で故郷に帰ってきた8年前のことを思い出す。「私」は東京生活と自由に別 れを告げ、「離愁」を抱いて伝統的な赤煉瓦の家に戻り、台湾で根をおろした。職業と家庭の 圧力が、帰国当初の青年らしい夢想と情熱を、粉々にしてしまった。帰郷した時と同じ港にや って来た「私」は、同じ航路で帰って来る義弟の張明貴を出迎えながら、しばし東京の記憶を 蘇らせ、懐かしさを覚える。 「私」が思いにふけっている時に、明貴の公学校の同窓生である高進六も、彼を迎えるため に港に来ている。高進六が流暢な日本語を話すだけでなく、街で評判の親孝行な青年であるこ とや、その礼儀正しさに「私」は気づき、好感を抱く。 岸壁で張明貴を待ちながら、「私」と進六が張明貴からの手紙について話をしている時、彼 が突然姿を現わす。家の者が結婚を迫るので、手紙も書かず写真も送らなかったこと。毎週一 回は図書館で台湾の新聞を読み、台湾の変化を知っていたので、帰りたいと思ったこと。しか し、期待が高すぎたためか、第一印象はいささかがっかりしたということ。などを明貴は語る。 進六は、台湾が変化したところを明貴はまだ見ていないのだと言い、言い争いが始まる。 進六が帰った後、明貴と「私」は彼のことを話題にする。進六の日本語が流暢なのは、公学 校を卒業するとまもなく日本人の食料品店で働き、名前も「高峰進六」と変えたためだと説明 する明貴は、 「私」に改姓名をしたのかどうかを尋ねる。 「私」は年寄りの説得が難しく、改姓 名はできないと弁解をする。しかし「私」が予期していたように、冷淡な批判を明貴は行おう としない。そうしたことから「私」も、明貴の寂寞に気がつくのだった。 その晩、明貴を訪問し散歩に出ようと「私」は誘うが、明貴は進六を待つと言う。明貴は「私」 に土産(銀座で買った上品な煙草入れ)を渡し、家に土産を買ってこなかったために叱られた と、恨みがましく話す。同じような経験があり、彼のやりきれなさが理解できる「私」は、堅 い思想の殻を打破するのは難しく、すでに不感症になってしまったと語る。会話の途中でやっ て来た進六は、報国青年隊に入隊し、忍耐心を試すために禁煙したと言う。拍手を打つ修練儀 式に、明日にでも一緒に体験しに行こうと進六は明貴を誘うが、明貴は疑いと無関心ぶりを露 わにする。 4日後、明貴の家を訪れた「私」は、日本人になる方法をめぐって、2人が激しく論争して いるのを目撃する。 「私」は仲介しようと試みるが失敗し、むなしく引き返す。翌日の晩、進 六から逃げるために「私」の店にやって来た明貴は、進六のなんら疑問を抱くことのない形式 3 主義に同意できないことや彼と和解したくないと言明するのだ。 その 10 日後、朝刊の「血書志願、高進六君」という見出しを見た「私」は、急いで明貴を 訪ね、彼の家の手前で、進六の家を訪れた明貴に追いつく。明貴は「私」に対して、進六に負 けたこと。彼こそ台湾のためになる人材であることを認め、頭を下げてきたこと。自分も更に 努力しなければならないということを、告げる。最後に、明貴の後に従って、とても長く感じ られる階段を「私」が上っていく場面で、この小説は結ばれている。 3.平等な地位の渇望 歴史学者のマイケル・マンは、2度の世界大戦と階級の関係を分析した時に、次のような指 摘をしている。1850 年以後、国家の境界を形成した資本は、その後の国際競争に従ってます ます国家化し、特定の階級の地縁的政治意識がより鮮明になった。市民国家の中で資本活動と 密接に関わる中産階級は、対外的にはまとまって強力な、そして略奪可能で地縁的に優勢な国 家の建設を求めた。また対内的には公民の権利を勝ち取り、法律・宗教・教育の面で、優越的 ポジションを得ることを求めた 5 。前者は、外在的な圧迫感に対する個人の反応であり、社会 的な要求である。後者は、公民権利に参加することによって獲得可能な物質と栄光、自尊心に 代表される。このふたつの成分は、戦争に対する公民の態度を解釈するのに適している。つま り公民が戦争を支持し、それに参加するのは、対外的には愛国主義やナショナルアイデンティ ティの実現を期待するためであり、対内的には自己の階級的ポジションと資源的利益を確認で きるからなのである。 日中戦争以後、日本政府が積極的に推進しはじめた皇民化政策における「皇民」6 とは、 「皇 国臣民」の略称である 7 。 「皇民」の意義とは上から下に対する、つまり皇国によって臣民たる 者に対して滅私奉公、犠牲的な貢献を要求するものであり 8 、命令的かつ政策的な色合いが濃 い。市民国家における公民のポジションや身分とは、いささか異なるものだ。それは同一の主 権領域内において、社会福祉と政治参加、そして平等な権利を享受する、ある人々の集団を意 味している。これらの人々は、政治参加を通じて経済的資源を共有し、自らそれを管理する。 戦前の明治憲法下における公民の権利とは、このようなものであった。こうした「律令制国家 の民」は、地方自治に参与し(選挙権) 、地方の公職に就く権利を有しただけでなく、その他 の法律上の保護も享受していたのである。 しかし、被植民者と彼らの土地は、通常は植民母国の一部とは見なされず、隔離され、臣服 するのが当然の領土だと考えられている。これは植民地と母国には、血統および文明のプロセ スなど時空的条件で、なお相当の差異があることに起因する( 「現在でさへ我々は実にチツポ ケな人種じやないか。 (中略)文化的レベルの極く低い人種だ」 「志願兵」)。たとえ血統の問題 を考慮しないとしても、畢竟のところ植民地は社会的条件と文化的プロセスにおいて、母国と は差異があった。このため、やはり母国によって、 「文明化」 「近代化」-教育や公共衛生な どの設備を通じて、母国と共通する記憶を徐々に複製することも含む-を与えられることで、 「国民統合」が実現できると見なされたのである。ゆえに第二次世界大戦以前には、イギリス、 フランスと日本などの植民帝国は、植民地の人民に植民母国の国籍を付与することには同意し 4 ていたが、彼らが本当の帝国公民だとは決して見なしていなかったのである 9 。 権利とは、公民の身分を有する人にのみ帰属するものである以上、まだ公民ではない植民地 の人民は、教育・就業・政治参加・さらには単純な経済生活や物質面においてすら、必然的に 差別される。こうした差別は、ある種の「植民的精神構造」10 -以下に述べるような植民地 エリートが母国のスタンダードに対して抱く憧れと、差別に対する嫌悪や焦慮など-を主観 的には作り上げてしまうかもしれない。しかし、その原因は客観的に存在するのだ。 こうした差別待遇があるために、植民地の人民は、植民母国の国民と同様の政治的経済的権 利を取得し公民の地位を獲得したいと、一致して希望する 11 。こうした希求は、一部の論者が 言うように、ただ表面的な「にぎやかで騒がしい東京の街頭に代表されるモダニティ」12 のみ を追求していたのではない。それは精神と物質、世間と人間に対する総体的な昇格であって、 内地人と同様の完全なる人格を獲得することであった。だから、「志願兵」のテキストにも、 「いや、なに建物とか広場とかをいつてるんぢやないんだよ。例へば苦力だつて囝仔だつてさ うかはつたとは思へないぢやないか。先刻、白衣の勇士を見かけただらう、その前を平気で横 切つた苦力や囝仔がゐたぢやないか、僕がいつてゐるのは具象的なことぢやないんだよ」とい った一文を、見いだすことができるのである。 とりわけ植民地のエリートは、内地で教育を受け「日本人らしい生活」 (「水癌」)を自ら体 験した後で、どのように突破すればよいのか、いつになったらそれが終わるのかが分からない 被差別体験によって、往々にして「長い孤独の殻」 13 に陥ってしまう。「旧態依然」で「さう 進歩したやうな跡はないやう」( 「志願兵」)な台湾とは、「いつも外れている」 。それでいて、 自分には日本人になる資格があるのか否かを確認する術がなく、苦しむのである。共通の土台 -言語や共通の利益と運命など-が欠落している状況において、台湾の「文明化」の進展 は緩慢なものであった。知識階級は、 「同族の心の医師」 ( 「水癌」 )を自認し、植民母国の教育 や知識の権威によって、理想とする文明的な状態を実現しようと努力した。しかし、結局のと ころ現実の世界の力には抗しがたく、「書いていること、言っていることはほんとうに共鳴を 得ているのではない」。それは、彼らの台湾における境遇を、よそよそしいものとさせ、焦燥 感に駆りたてさせた。これこそが志願兵制度の発表以前に、周金波が承認せざるをえなかった、 偽りのない心情なのである。 日本を含む市民国家において、公民の身分は決して当然のごとく獲得できたものではない。 ひとりの公民として、市民社会が追求しようとする共同の価値観を理解し、それに賛同するこ とが求められる。さらに権利を享受するためには、義務を負担-法律の遵守・納税・兵役等々 の能力など-しなければならないのだ 14 。 共同の価値観とは、多数のグループあるいは「先住者」の強力な言説によってつくられる。 公民になる者は、この共同の価値観に「同化」 、さらには「近代化」・ 「文明化」されなければ ならない。その基準は先住者によって認定される。しかしながら日本統治期の台湾における「同 化」は、初期の分離と漸進主義であれ、中期・後期の同化主義であれ、近代化教育を受け、す でに台湾に戻って大いに手腕を発揮しようとしている植民地の「指導階級」にとっては 15 、あ まりにも緩慢なものだった。 領台初期、日本政府は台湾が近代化される以前に、台湾人に自治を任せて公民の身分を 5 取得させることが可能だとは、考えていなかった。1919 年に就任した最初の台湾文官総督で ある田健治郎の次のような施政方針まで引き継がれ、実践されてきたのである 16 。 「台湾は帝国を構成する領土の一部にして、当然帝国憲法の統治に従属する版図なり。英 仏諸国属領の唯本国の政治的策源地となり、又は経済的利源地たるに止まれる殖民地と同一 視すべきに非らず。随つて其の統治の方針は、総て此の大精神を出発点として、諸般の施設 経営を為し、本嶋民衆をして、純然たる帝国臣民として、我が朝廷に忠誠ならしめ、国家に 対する義務観念を涵養すべく、教化善導せざるべからず。統治の方針此の如しと雖も、之を 実地に行ふに当り、其の施行の方法に就ては、慎重なる査核を遂げ、其の緩急順序を謬らざ るを期するの要あり、地勢、民情言語風俗を異にする台湾民衆に向つて、急激に総て内地と 同一の法律制度を実施せんとするが如きは、忽ち齟齬扞格を来たし、却て之が疾苦を招くの 虞なしとせず、先以て教育の普及に務め(中略)之を醇化融合して内地人と社会的接触上何 等逕庭なき地歩に達せしめ、結局政治的均等の域に進ましむべく教化善導せざるべからず。 」 その後 40 年の統治を経ても、日本の公民が享受すべき憲法上の権利を、台湾人は獲得でき なかった。植民母国は依然として、 「憲法は其根本の道理よりして台湾に行はるゝものにあら ず。 (中略)之を行ふは台湾に於ける内地人の数増加し、教育の普及して、土人が日本を祖国 とするの念の信頼すべきを見て、大日本皇帝が憲法を台湾に行ふとの詔勅を発するの日に初 まらざるべからず」17 と考えていた。台湾の文化的発展の度合いに対する留保もあるが、本島 と内地の生産的連関における従属的関係、および内地の階級と繋がりのある権力関係に基づく 意図的な圧制が、主要な原因である。 義務を負担する能力という点で、公民たるものは、国家の保護を受けるだけでなく、社会に 参与し貢献する能力が求められる。だから公民は、社会生活に積極的に参加する能力を持たな ければならない。知力・心身の健康・教育程度や専門的な職業技術訓練などは、社会に参加し、 貢献する能力を証明すると同時に、公民が備えるべき基本的な人品なのである。 これらの能力は、市民国家の日常活動を支えている目には見えない社会的価値を、十分に反 映したものである。さらに重要なのは、公民の身分を獲得したい人にとって、「受け入れに同 意」するものの、単に公民の権利を「享受」したものではない時に、これらの能力は、備える べき資格と支払うべき代価を提示している。簡単に言えば、これは公民が国家に忠誠を表明す る際の、日常的な形式の一つなのだ。 国家のための労役や兵役は、公民の身分条件に符合することを、最も具体的に証明する。し かし、すべての国民が兵員たりうるわけではない。軍人精神と軍紀の涵養が、根本的な要件で ある。つまり、「国家の共同目的に対する理解の欠乏や、共同生活において完全なる個性を発 揮できずにいる努力者」は、軍人としての職務を担うことができないのだ 18 。そのため、植民 地の人民に兵役を施行するという問題は、明治 22 年以降激しい論争があったものの 19 、昭和 17 年に陸軍特別志願兵制度が実施されるまで、軍隊で最も重要な日本語能力に疑問を持たれ ていた台湾人は、志願役であれ徴兵であれ、参与することができなかったのである 20 。 だから台湾で志願兵制度が発表されると 21 、「一変しました。みんな生き生きとした表情に 6 なり、多弁になり、真実をさらけだしました。私たちは、何のためらいもなく面と向かって「密 着」しました。精神の高揚からくる同じ高さ同じ強さが、「密着」を可能にしたのです」と周 金波が発言したのも無理はない 22 。なぜなら、 「志願兵制度には台湾人の願望がかけられてい」 たからだ。この「台湾人の願望」とは、植民母国の戦争活動に参加することによって公民の身 分を獲得し、差別される位置から抜け出すことである。さらに一歩進んで、これまで曖昧だっ たナショナルアイデンティティの統合が可能となるということもあった。周金波にとって、志 願兵などの奉公活動によって緊密に結合される「私たち」とは、ただ本島人と内地人を指すだ けではなく、作者のように孤独なエリートであっても、台湾社会とためらうことなく密着し、 それにアイデンティティを抱き、疎遠ではないようにさせるものであった。帝国の観点によれ ば、志願兵制度は台湾人を「皇民化」させるものであったが、台湾人にとっては、平等なポジ ションを獲得する「公民化」として受けとめられたのである。 当然、植民地のエリートが志願兵制度に対して作り上げた同化のイメージだけでなく、小説 「志願兵」にはもう一つの重要な事実が描かれていることも否定できない。それは、志願兵に 投じた者の多くは、台湾社会の下層階級(例えば高進六のような)や、経験不足ではあるが、 体力と信仰心のある若者たち(「無題」の敏司のような)だったということである。彼らは奉 公に参加することで、その他の台湾人さらには日本人と、経済的社会的に平等なポジションを 獲得しようとしたのである。以下に示すいくつかの文章は、それを裏づけるものである。「出 征した軍夫軍属の家には日の丸の下に「誉れの家」の栄誉の木札が貼られて、「国語の家」と 同様に、日本人並の特配や子弟就学の優遇などの特権が与えられていた」 。 「文官帽が駄目だっ たら飛行帽だ。 (海軍飛行将校が新竹の街で)闊歩していた姿が目に浮か」んだ 23 。 「日本人の 配給は台湾人より多かった。日本人の名前に改姓した台湾人は、日本人の子弟と同様に、特別 の配慮があった」24 。 「街の雰囲気も一変した。今まで、 「阿呆な客家ばあさん」とばかりわが 家を見くびっていた御用紳士や、屋号もないわがソバ屋を配給止めにした飲食店組合長、幾度 も母を拘留した経済警察、学校の先生方や役所の官吏達などの態度が一夜にして変わったのだ。 通りがかりにわが家にたち寄っては挨拶したり、両親を褒めたり慰めたりして、食料品や日常 品の特配券もくれた」 25 。 同じように志願兵を題材とした作品として、周金波が「台湾で最も尊敬している作家」と述 べた張文環の「頓悟」(1942 年)や呂赫若の「清秋」 (1944 年)は、どちらも志願兵と徴兵制 が、島民の現実生活-就業や転業のきっかけ、さらには差別的なポジションに置かれて骨抜 きにされているという焦燥感など-を改善する機能を果たしたことを強調している。 「頓悟」 に登場する「私」は、中学校にも進学できない貧しい家の生まれでありながら、高踏的な気持 の持ち主である。しかし学識と生活に迫られ嫌々ながら店員とならざるをえず、心身ともに虚 弱になった「私」は、密かに恋心を抱く相手に告白することもできない。ところが、志願兵制 度の公布によって、 「この社会と云ふ密林を突き破るためには兵隊になることに限るのだ」と 悟るのである。志願兵とは、「精神生活を飛躍」させるだけではなく、身体を鍛え、男性の価 値も再構築する。また「清秋」において志願兵と徴兵制は、飲食店の経営に苦労していた者に 転業の機会を与えただけではなく、借り手の生存権を奪ったり、市場競争をしたくないと考え ている主人公の耀勳(彼は日本で医学を学んでいる)に、意外にも開業の動機を与え、それに 7 よって「一家は繁榮し、父を安心させ」るという、現実的な思考をもたらすものとして描かれ ている。 しかし志願兵制度の現実的な機能について、同じ方向を向いてはいるが、「志願兵」がこれ ら2つの作品と最も大きく異なっているのは、志願という選択が、階級構造に及ぼす事態に対 する憂慮 26 と、それが本島における既存の社会権力状態に対する挑戦であることを、より深く、 しかし密かに描き出していることである。この点については、以下に述べよう。 4.共通の言語を舞台とした論争と計算 これまで述べてきたような、同化のプロセスにおける政治的経済的背景と階級的な矛盾を認 識することで、どうして「志願兵」が持続的な対話と論争の形式によって展開するのかが理解 できる。この対話と論争は、内容の上で実質的な意義があっただけでなく、論壇の形式自体、 とりわけ使用されている共通の言語が、異質化されたアイデンティティーに抗う道具となって いるのである。以下に引用するのは、皇民時期文学の機能に対する周金波の認識である。「蓋 し大東亜共栄圏文化の確立は民族問題の解決なくしては考へられず、又台湾文学の意義はこの 問題を取上げずしては考へられないのであります」 27 。 周金波にとって志願兵制度とは、「台湾に於ける三つの民族」に「聖戦完遂に協力邁進」す る理由を提供し、相互に承認し対話を行うきっかけを与えるものだった。しかし、志願兵制度 によって切り開かれた共通言語-日本語-は、3つの民族の中の日本人・福佬人・客家人 と原住民やそれぞれ異なる階級が、この公共論壇に参加可能となる前提だったのである。 「志願兵」に何度も取り上げられている言語能力の問題から、私たちはこの思考の形跡を見 出すことができる。 「私」と高進六が初めて知り合った場面の対話において、共通言語の持つ 奇妙な機能が早くも描かれている。 「私」は高進六とは初対面ではあるが、 「へんにうちとけた 気持」を抱き、彼に対して好意を持つ。その上、彼のことを、明貴の中学校の同窓だと考えて しまうのだ。 「いゝえ同窓といつても公学校時代のです。僕は高等科しか出ておりません。」 「さうでしたか。あなたの国語が余りお上手なものだから僕はいままでさうだとばかり 思つてゐましたよ。」 高進六の「熟達した国語の操作」に対して、「私」はある種の魅力を感じる。それは学歴と 階級の制約を超越し、相手のことをよく知らない「私」でさえ、張明貴に向かって思わず賞賛 の言葉を口にしてしまうほどだ。 「国語がうまいね。内地人かと間違へたほどだ」。 ともに東京で学び、もしくは大学を卒業した張明貴と「私」の日本語の能力の高さは言うま でもないだろう。張明貴は、さらに明確に次のように発言している。「僕は日本に生れた。僕 は日本の教育で大きくなつた。僕は日本語以外に話しができない。僕は日本の仮名文字を使は なければ手紙が書けない」 、と。 日本語は、 「志願兵」においては、植民地の知識階級と労働者、それぞれの民族が論争し対 話をする橋梁となっている。そして植民地の人民にとって最初の共通認識でもあるのだ。面白 いことに、日本語という公共機構は、植民者によって提供されたものなのである。日本が台湾 8 を占領した当初、台湾島内の言語系統は複雑だった。福佬語あり、客家語あり、さらには各種 の原住民諸語があった。それぞれのエスニックグループの間に共通する言語は存在せず、公共 の場で論争する機会がなかったのも当然である。漸進的な同化政策のために、当初はさほど普 及しなかった日本語教育であるが、日中戦争勃発後、各地に講習所が開設されたことで、全島 の日本語理解率は顕著に向上し、1943 年にはほぼ 70%まで達していた 28 。 「この(国語能力に 対する)反省こそ、現代の本島青年をして、発奮させ、激励する原動力となつてゐると思ひま す。一昔前の本島青年にとつては、この最も重要なる国語の問題についてさへも、閑却されて ゐたのであります。それだけ現代の我々は真剣なのです。一昔前の青年達のやうに、本島人だ から国語が拙くても恥かしくない、と云つた考へ方は、実に唾棄すべきだと思ひます」 29 。 しかし「志願兵」において、日本語は各階級の台湾人が相互に意思を疎通させるための道具 にすぎず、陳火泉の「道」が暗示したように、台湾人が純正な日本精神を理解する基礎となり、 台湾人が公民身分を取得しうるか否かを決定するようなものではない。「志願兵」は、台湾人 間の対話を舞台としている。だから台湾人の日本語は、「醇正な」レベルにまで達する必要は ないし、日本人に認めてもらうことで、一視同仁の資格とする必要もない。当然ながら、日本 語は恒久的に台湾人を差別する理由には、なり得ないのだ 30 。 藤井省三は、「ある日本語作家の死-周金波追悼」の中で、世界史にも稀有のものであるこ うした言語を通じた同化によって日本化された例を取りあげ、「共同意識の形成を助け、台湾 における等身大のナショナリズムが萌芽した」ものと指摘している 31 。国家機構によって創造 されたアイデンティティー論争を契機とするパラドックスは、「水癌」以降、周金波が創作に よって関連づけようとした3つの課題-「現代化-公民化-国家化」32 に、呼応したもので あった。つまり、国家の力-近代的な知識を伝達する言語能力の構築など-に依存するこ とによってのみ、指導階級はそれ以外の台湾人とのコミュニケーションが可能になり、近代化 の実現に導くことが可能となる。 「志願兵」において、それぞれの階級が論争を展開したアイ デンティティー意識とそのための方法こそ、近代化の基礎を築いた後に、台湾人が公民化に向 かう道を邁進するための前提条件なのであった。 5.血統の政治学 対話と論争の実際の面で、台湾文学界は志願兵制度という舞台によって、これまで手をつけ ることすらできなかった根本的な社会意識と矛盾に対処すべきだと、周金波は大胆に提唱した。 民族(当然、血統、共通の価値観や文化程度など)問題だけでなく、階級対立の可能性も暗示 したのである。 すでに述べたように、いまだ同化されていない植民地の「異民族」は、必然的に差別を受け る。そして「血統」こそ、 「異民族」を判別する最も簡単な手段なのだ。長期にわたって閉鎖 状態に置かれてきた単一国家にとって、血統という規範はかなり客観的なものである。祖先か ら伝えられてきた血統は、実父や実母、出生証明や戸籍、居住地の調査報告書 33 などによって 証明できる。しかし 19 世紀以降、版図拡張に努めてきた日本などの国家にとって、植民と混 血は不可避であったために、現実の面でも政策の面でも、血統の範囲は客観的ではありえなか 9 った。だからこそ叙述と制度によって、その境界をイメージしなければならなかったのである。 言い換えれば、血統には科学的な人種的因子だけではなく、共通の祖先を持つという隠喩が 含まれている。この「共通の祖先」は、ナショナリズムを結集させる共通性や帰属感を提供す ると同時に、共同の生活や共通の文化を分け持つという親密なイメージを構築するのである 34 。 血統の伝承は、進化と繁栄の遺伝子を追求し保存しようとする人類の心の奥底にある必然性を 反映したものだ。しかし、遺伝子に対するこのような信仰の多くは、国家的な知識人が創造し た叙事詩や神話に依存している。例えば、共通の祖先が劣悪な生存条件に抵抗したこと、困難 を極めた移住、敵に対する抵抗(もしくは侵略)や殲滅、誤ちを犯して衰亡したり流亡に到る も再び復興を成し遂げた、などの高度に劇的なストーリーのことである。それは、遺伝子が存 在し続けているという価値を証明するために創造されたものにほかならない。血液を伝承する というのは、当然ながら、智慧に満ち強靱で「優秀な血液」に含まれているこの国家の遺伝子、 およびその遺業(血統の利益)を継承することでもあるのだ。 故に、血統が定義するコードは、決して実体的・客観的なものではなく、国家表象の解釈権 を握っている多数派や「先住者」の主観によって決定される 35 。血統描写の基礎となるのは、 周囲の自然条件によって決定された生存方法や慣習かもしれないし、現存する体制が依存し、 かつ維持している政治哲学かもしれない。「外地」の台湾人が、日本人と同様の血統的利益を 得られるか否かという解釈権も、当然ながら母国の植民権力の手に保持されているのである。 新たに附属することになった「外地」に対して、日本の血統論はふたつの方向に分岐した。 一つは優生学に基づいて、日本の血統は「純粋な血縁関係(blood purity)」を基本とすべし と主張(いわゆる「純血主義」)し、出生の血縁を血統純粋性の唯一の証とするものだ。血縁 の純粋性を堅持し、異民族との混血を拒絶するのは、 「建国三千年以来君臣ノ義ヲ以テ錬成凝 結シタル大和民族」 36 は、「族父」たる天皇の血脈が伝わることで形成された「同祖同族」関 係にあると考えられたためである 37 。過去の歴史に参加しなかった外地異民族に対して、たと え精神的感化を与えたとしても、同化して大和民族になることはできない。「同一」民族とな れない以上、台湾や朝鮮など植民地の人民に、苦労して義務教育などを施す必要はないのであ る。 もう一つの主張は、血統を機能化することで、ナショナルアイデンティティの政治哲学の根 拠とすべきだという主張である。植民地の人民が、一定程度の教育を受け入れ義務を果たすな ら、理論上は植民母国の公民身分を獲得できるとする 38 。国家は、機能的に血統のスペクトル を外地の異民族にまで拡大することが可能であり、国家ために血と汗を流すよう彼らを奨励す ることによって、同一国家の憲法のもとで、新領土の人民の権利と義務が真空になるという状 態も解決できるのである 39 。 晩熟型の植民帝国であった日本は、領土拡張の初期において、イギリスやフランスなどの植 民帝国のように、資本市場とプロテスタント文明の依存関係を考慮することはなかった。だか ら植民地の「文明化」によって日本帝国の統合範囲を拡張するという計画もなく、新たな領土 も生産原料の供給地としてしか見なされていなかった。だから、血統に関する議論でも、保守 的な純血主義を採用したのである。純血主義のもとでの教育と権利義務をめぐる政策が、台湾 統治が始まってから 30 年間の、植民地台湾の「文明化」のプロセスに、直接的な影響を及ぼ 10 した。 純血主義に対する最大の挑戦は、限定的な忠誠心によっては包括可能な限度を越えてしまっ た、日本内地の帝国戦争の進行によってもたらされた。1930 年代の後半には、植民地の皇民 化政策の推進を前提とするまでに、動員の範囲を拡張しないわけにはいかなくなった。保守的 な血統論述は、「内外一体」の必要に応じて変更を迫られ、機能的な理論へと接近した。とり わけ血統は、最も典型的な戦争という機能と関連づけられた後に、それがイメージする解釈空 間は、共通の政治認識や共通の言語などを含むそれへと拡大された。これは長期にわたって異 質なアイデンティティを強制され、困難な境遇に追いやられてきた植民地の人民にとって、平 等な待遇を獲得できるという希望を、瞬時に切りひらくものとなった。「志願兵」を含む皇民 化時期の台湾文学は、そのほとんどすべてが、この希望をめぐる共通の、あるいは個人的な見 解に基づく論争と対話、およびそこから発せられた驚きや興奮、ため息であったと言えるだろ う。 当然ながらここで見落とせないのは、長年の純血主義のもとで、血統の視認性(例えば階級、 職業別、さらには知力、道徳水準によって、誰が日本人となる資格を有しているのかを判断す ること)と、それが引き起こした各種の神秘的で情緒的な反応によって、こうした植民地の希 望は、同時に奇妙な色彩に染められてしまったということである。結局のところ、血統の連想 が他者の身体に表現された時には、当然であるがエキゾチック(exotic)なものになった。し かし、それが自らのナショナルイメージの中に出現した時には、進化に反し、汚染されたもの と受けとめられ、ひどい場合には「先住者」たちの非理性的な反撥を引き起こしかねないもの となった。まさにこういった曖昧で絡みあった、解きほぐすことのできない情緒は、「中心の 日本人」と本土のエリートとの階級的緊張(例えば「志願兵」)や、混血操作が触発した骨抜 きにされることへの焦燥感(例えば「道」「奔流」 )、さらに一瞬にして辺境から中心に持ち上 げられることに対する違和感(例えば「郷愁」 )など、台湾文学の悲壮なる一章を、豊かなも のにした。 6.「流血」であり、「混血」、「血液のきり換へ」ではない 皇民化時期の台湾の同化論には、教育制度・公共衛生と文化的条件を通じて、徐々に植民母 国との間に「共感の共同体」を形成するというものだけでなく、「内台通婚」およびそれによ って生まれる「転籍」効果によって、台湾人の地縁血縁関係を解体し、帝国の臣民系統に編入 させる 40 という考えも、伝統的な血統論を突破するものと見なされ、 「一視同仁」の重要な政 策として実践された。 しかし、周金波の最後の中篇「郷愁」において、九州からやって来た日本人の血統を持つ女 性に対する密かなイメージを除いて 41 、「志願兵」には、皇民化時期の文学作品にしばしば用 いられているこうした混血の隠喩が現れていない。男女の情感や身分関係を回避することは、 周金波の一貫した男性的な創作のスタイルとも関連する。しかしそれよりも、日本人との血統 上の内台融合によってではなく、台湾で生存する主体としての台湾人が、どのようにして近代 化を追求するのか。いかにして台湾人の身体の血を洗いそそぎ、内地の日本人と対等な公民階 11 級へと昇格するのかが、周金波の関心事であったことこそが、主な原因なのである。 王昶雄の「奔流」に登場する、 「帝都の地」で 10 年間生活したことのある「私」が、たえず 自分を「内地化」しようとするのは、「無意識のうちに内地人の血が自分の血管に乗り移り、 それがいつの間にか静かに流れてゐる」と自覚するためである。この「内地化」と最も密接に 関連するイメージは、 「東京の或る良家の一女性」との感情であった。 「私」は彼女のことをひ っそりと恋いこがれているが、自分には内地人と結婚する資格があるのかと懐疑的になるため に、とうとう良縁を失ってしまう。 「私」は同じ本島人留学生の伊東が、 「何のためらひもなく それを決行して」、内地人を妻としていることに感服し、彼が毅然と混血を生み出す決意を、 「まさに千両役者である」と考えている。 また陳火泉の「道」の主人公である青楠は、重い家計の負担と不潔で悪臭の漂う陋屋に朝から 晩まで取り囲まれ、さらに日本人の同僚の冷ややかな敵意などのために、心身共に疲れ果て、 発狂寸前にまで追い込まれている。ただ隣の席の「らうたき感じを与へずには居られな」い日 本人少女の稚月女と会話をする時に、 「何か自分をよみがへらしてくれるやうなものを感」じ、 「救はれたやうな思ひがするのだつた」 。 青楠は日本の血統ではないために昇進することができず、激高のあまり志願兵に志願すること を決意する。彼の年齢と体格では採用される機会はほとんどないのだが、最後には稚月女の怒 ったふりをした励ましを受けることで、未だ解決されていない現実の問題を忘却してしまうの だ。なぜなら内地からやって来た女性( 「大いなる日本の母」)の承認によるバーチャルな混血 を創りあげることで、彼の心に「もう屈託はな」くなってしまうからである。 それに対して「志願兵」から「郷愁」 ・ 「無題」まで、アイデンティティを主題とする周金波 の作品には、これに類似した日本の血統に恋いこがれたり、あるいはそれを追求する痕跡は見 られない。周金波にとって台湾人が追求する内台の一視同仁は、政治・社会と経済的地位の平 等のためであり、すでに進歩の果実を味わった知識階級が、日本のように未だ近代化されてい ない台湾にアイデンティファイする際に遭遇する困難を、解決するためのものだったからであ る。混血によって皇民化し、血液中に本物の日本の成分を注入することは、彼の戦略には含ま れていなかった。内地に「改籍」 ・「入籍」し、 「血液のきり換へ」 (「フアンの手紙」第六信) によって日本人となるということでさえ、周金波が賛同した方法ではなかったのである。 周金波の 1942 年の作品「フアンの手紙」に登場する頼金栄は、気持ちを打ち明けられる対 象(作家の「先生」 、周金波の化身)にたえず手紙を書き、改姓や内地に行って日本籍に入る ことで、現在の職場の差別的な待遇から脱却し、 「影の薄い存在(第五信)」である現状を変え たいと議論してくる。さらに「先生」の賛成を求め、手紙を暗記しさえするのだ。しかし第七 信で、 「先生」が「何か遠慮されてゐる」こと、これが「一時的な情熱」に過ぎないと心配し ていることを匂わせるだけで、たとえ頼金栄自身が台北に赴き、自宅を訪問してまで賛同を求 めても、 「先生」は明らかになんら積極的な回答を与えていない。 「志願兵」と同様に、周金波 が一貫して表現しようとしたのは、台湾が日本の血統と繋がらなければならないのは、日本の 血統に密かに含まれている各種の価値判断-階級や職業などの社会的条件、知力・道徳水準 と公共衛生など-を追求するためだ、ということである。混血と入籍が、日本人の血統と繋 がるための最も早く、手軽な手段であることは間違いない。しかし、公共生活に参加すること 12 によって、日本の血統に伝達されている共通の価値観や文化的条件を承認することは、台湾人 全体の地位の向上にとってより効果的なのである。 個人的に台湾の血縁から切断する「血液のきり換へ」は、周金波の目から見て社会条件と文 明程度の進化を追求し、さらには台湾人に大きな声で発言させるために、 「血を流せば大きい ことが言えると、まずは義務を果たして要求しましょう」42 という発想と比べて、遠く及ばな いものだった。個人的な「血の切り換え」43 ではなく、志願兵に加入し戦争の「流血」に参与 することによって、台湾人は日本の血統の中の共通の価値を実践し、地位の向上を勝ち取るこ とができるのである。 7.国民文化と戦争の決意 機能化された血統は、植民地の人民が母国の公共生活に足を踏みこむための鍵であることは 言うまでもないが、鍵の目的-戦争そのもの-を合理化するわけではない。 「志願兵」を 含む皇民化時期の台湾文学が、歴史の後知恵により最も非難されるのは、帝国戦争の合理性を 盲目的に、あるいは屈従的にではあれ支持したという点である。しかし実際には、主観的ある いは客観的に、これらの作品が日本人の立場に立ち、日本公民のこの戦争を合理化することな ど、ありはしなかったし、そのようなことは可能でもなかった。 多くの領土を持つ植民帝国は、対内的には帝国内部のエスニックグループから派生する複雑 な問題に向きあわねばならず、対外的には境界を完全に維持することで、周辺の強大な勢力と 対抗して、帝国の生存系統を維持しなければならない。そのために、帝国意識の「共感と共通 の価値観(shared sensitivity)」を、必ず作りあげなければならないのである。これがすな わち帝国の「国民文化」である。エスニックグループや地理的な境界を超越する対話空間を提 供し、それによって国家が必要とする共同意識を凝縮し構築する。 いわゆる「国民文化」とは、ある種抽象的な文明経験である。この経験を通じて、特定の人 間集団の生活とその社会的価値は、永続的に存在する。人間集団が存在し繁栄するためには、 特定の時空条件がある。このプロセスと条件の記述-歴史と共通の記憶-によって、エス ニックグループの経験と価値は後世に伝えられ、その生命に共通する起源が想像され呼び起こ されるのだ。前述した血統理論と同じように、賦与され創造された共通する記憶のはたらきに よって、歴史や共通する記憶も、通常は客観化されることはない。むしろ象徴化・物語化・叙 事詩化されたもの 44 であるからこそ、迅速かつ効果的に共通する過去と運命を提示することが できるのである。それによって共通の郷愁を引き起こし、共通する任務を明示するのだ 45 。 「国民文化」の内容の大部分は、知識人が苦心して創作したものである。そのため、ある種 の選択や偏った好み、さらには歪曲までも必然的に含んでしまう。しかしこの「大っぴらに承 認された集団的自己崇拝」46 は、往々にして親しく伝授された後に、自らそのコピーを作成し、 さらには信仰を形作り、生活態度を変更させる。動員力を持つ政治的力に転化することもある。 帝国も、言語と記号の絶え間ない訓練を積極的に行い、何度も反復して述べることで、過去の 共通する栄光を実現したり、共通する恥辱を除去する任務があることを、国民に信じこませる。 国家の任務実現に参加することによってのみ、個人の内在的自由(あるいは抑圧)は解放され、 13 人格は国家と結びつくことが可能になる。そうしてはじめて、本物の調和が完成するのだ 47 。 自由民権運動と西欧の強力な貿易勢力の衝撃によって引き起こされた論争や批判は、日本帝 国では 19 世紀末に、「敬神・尊王・愛国」の三位一体の思想となり 48 、「国民文化」のうわべ を飾る外部的構築物となった。 この「国民の想像」のもとで、日本人の生命に共通する起源は、 「吾人歴代の祖先が奉戴し たる皇祖皇宗の神霊」、 「一気同体なる祖先」と定義された。国民の生活と社会における共通の 価値は、福沢諭吉が提唱した市民的自治の精神の点で、西洋の市民社会の自主と近代化の追求 が、その前提になると考えられた 49 。最終的には「泰西平民社会ノ道義」の境地まで到達する ことが求められ、「忠臣・良民」という前提のもとで、平等の民権を享受するものとされた。 この自治的な市民社会は、日本帝国の生存系統の基礎であり、組織的に中心化された社会が 手を携えて作りあげた体系であった。それは対内的には市民の政治的・経済的そして教育的権 利における需要に応え、対外的には市民の利益を集約し、戦争によって領土や剰余資源を奪取 する。それゆえ戦争を含む帝国のあらゆる行動は、対内的な政治的意義だけでなく、対外的な 地縁的戦略も含んでいる。こうしたことからも、後に 1940 年代になって皇民錬成所が構築し ようとした「信仰体制」50 が、いわゆる「戦争の道義性」 (対外)と「個人の内面の確立」 (対 内)という二大理念を含んでいた理由が分かるであろう。 国際資源を争奪する舞台において、欧米諸列強と比べて晩熟の資本主義帝国であった日本は、 もともと劣勢におかれていた。特に山東問題と海軍軍縮会議では、日本ははっきりと欧米の集 団的な敵視と外交圧力を感じ取っていた。この時に、市民が参与する地縁政治の内在的圧力を 緩和し、同時に資源分配に対する態度を明確に表明するために、戦争はもはや不可避のものと なった。そのために、「極東の尊厳を保ち」 、「国家と国民の生活を蘇らせ」、 「国民の内在的生 活と条件を充実させ、米英帝国と対等に渡り合う」こと 51 が、戦争準備期間における日本帝国 の国民意識となったのは、当然なのである。 しかし、長期にわたり外地異民族の地位に置かれた台湾人は、上述したような市民社会日本 の「国民文化」が生み出した戦争意識など持っていない。なぜなら市民的権利と地縁的な政治 的ポジションにおいて、母国と全く異なっている台湾人には、もともと存在しなかった共通の 過去などイメージできないし、母国の敵に対して同じように敵愾心を燃やすことも不可能だか らである。厳格な経済統制と植民母国に対する一方的な輸出という生産モデルのもとで、辺境 の生産単位であった台湾の資産階級は、母国と同様の地縁的政治意識を形成することはなかっ た。台湾の資産階級にとって闘うべき相手は、全世界または地域市場をコントロールしている 英米の強大な勢力ではなく、むしろ日本内地からやって来た資本家だったのである 52 。 「不景気は地方自治体の自力解決が必要で」 、 「自治は全島民の希望であり」 、 「不景気の未解 決は内地人の無関心によるもので、これは政治権利の獲得を含めた自治が対策として不可欠で ある」と、唐沢信夫は彼の著作で述べている 53 。 自治の獲得によって、台湾の資産階級は台湾の生産品(米と糖)の日本への輸出総量と価格 制限という経済統制から抜け出し、台湾人の経済的位置を向上させることが可能になる。しか しこうした要求は戦時経済下において、米と糖そして台湾の廉価な労働力を大量かつ低価格で 必要とした内地のニーズと矛盾するものだった。そのため台湾の資産階級の利益は、戦争を開 14 始しようとしていた日本内地の資本家と、厳重に対立していたのである。台湾人の公民的権利 の要求が、内地の公民と衝突する時に、日本人の角度に立って、完全に日本公民のものである 戦争を合理化することなど、どうしてできるだろうか? 一方で、これまでずっと抽象的な政治に対して冷淡だった労働者階級は、植民母国の横暴な 市場統制(農民の生活水準を低く抑え、強制的な転作により就業の機会を失わせるなど)や徹 底的な収奪のために、「個人の内面」で「戦争の道義性」を承認することなどできるはずもな かったのだ。 8.帝国に命を捧げる植民地の計算 台湾人と内地は、戦争の利益の上で矛盾していたが、戦争はもはや避けられない趨勢にあり、 従属する台湾は戦争に巻き込まれざるをえなかった。この時、台湾人は自ら対策と計画を持た なければならなかった。このことから、 「私」が張明貴に対して「細かい計画だね」と皮肉を 言ったり、運命を「東京で得たインテリの算盤で計算」している人物だと指摘した理由が、分 かるだろう 54 。張明貴にとって公民になるということは、「日本人になる」という個人的な権 利要求に止まっていることが明らかで、戦争によって形成された運命共同体-植民地台湾 -の指導階級として持つべき省察が欠落しているからである。 「何故日本人にならねばならぬか。それを僕は先づ考へるんだ。僕は日本に生まれた。僕は 日本の教育で大きくなつた。僕は日本語以外に話しができない。僕は日本の仮名文字を使 はなければ手紙が書けない。だから日本人にならなければ僕は生きたつて仕様がないん だ」 。 しかし、すでに間近に迫った公民の戦争は、台湾は差別されることによって日本とは対立す る共同体であるという事実により、張明貴にとって「決定できかねる要素」だとされる。しか し同じように日本から台湾に帰郷した「私」にとって、長年向き合い続けてきた異質なアイデ ンティティという困惑を解決するための決定的な要素であった。 「さういふ期待を漠然ではあるが彼にかけたのは私が八年前東京生活に別れをつげたとい まもつて消えない感傷なのだらうか」 。 こうした決定的な外在的要素に対して、 「東京で得たインテリの算盤で計算」することはも はや不可能であり、必ずや「台湾のために台湾を動かす」立場から出発しなければならない。 労働者階級の高進六は、皇民錬成と志願兵制度を通じて、島内の同階級が、従来備えていなか った団体的な律動を推し進めたことに気がついている 55 。 「祈るのみ、行ふのみ。行はずば得られない。この信条が我々隊員間をますます結束させ てゐるんだ」 。 「帝国の戦争が合理性を欠いている時、一見浅薄で盲目的な愛国主義は、労働者階級が戦争 を利用し、「本国」の政治的力量のある団体を追い求めるための偽装手段なのだ」 56 。今日、 労働者階級は自らの政治的経済的位ポジションを向上させるため、一歩を踏み出した。それな 15 ら指導階級のエリートはどうするのか?少なくとも「志願兵」の結末では、これまで堅持して きた日本的な立場の合理性が「頭でつかち」であることに、張明貴は気づいており「私」の賞 賛もかちえている。指導階級は「叩き直しをや」り、台湾を近代化、公民化へと導き、自らの アイデンティティの困惑も解決しなければならない、とされる。 「志願兵」の中で、自らの利益のために展開される階級間の論争や省察と比べると、陳火泉 の「道」は、技術労働者としての階級意識を持った「私」が、運命共同体内部でその他の階級 と対話をする機会が全くない状況で、自ら進んで公民階級の戦争に飛び込んで行く。日本人の ように皇民への道を歩み死を決意するというのは、あまりにも唐突な感じがぬぐえない。 9.環境決定論と隠された階級衝突 いかにして日本人になるかという高進六と張明貴の論争には、その後の周金波の小説( 「郷 愁」 「無題」)にも潜在する秘められた憂慮が、初めて登場する。それは公民の身分を追求する 過程で、指導階級が感じる階級移動というプレッシャーである。 公学校高等科の教育しか受けておらず、労働者階級に属する高進六は、島内の皇民錬成道場 (報国青年隊)に参加し、 「拍手を打つことによつて大和心に触れ、大和心を体験することに 努め」るという形式主義的体験によって、日本人になれるという主張を堅持している。だが日 本留学生の知識階級である張明貴は、これに一貫して反対している。彼は、こうしたことは知 識人の「頭では承知できない」やり方であり、根本的に「目かくしされた馬鹿みたいに盲目滅 法に走り出す」ものだと考えている。彼は、形式主義を信奉する彼ら労働者階級を、 「馬車馬」 と貶めさえするのだ。 日本に留学している間、台湾における「代弁者」であり、自分とは「ずつと親しくつきあつ てゐる」「たつた一人の知己」に対して、同じように日本人になりたいと願っているだけなの に、どうしてこんなに厳しい批判をしてしまうのだろうか。またとうとう彼から逃げ出してし まうのはなぜなのだろうか。それは、指導階級が自らの優越性を強固なものにする「環境決定 論」が、新たな挑戦を受けたためなのである。 小説の冒頭部分から、張明貴が環境決定論者-「皇民錬成は環境からつくりあげてゆける と思つてゐた」-であることを、作者は明示していた。張明貴や「私」など、東京に留学す るエリートにとって、長年の東京生活は「一抹の哀愁」と同時に「生き甲斐」を与えてくれる ものである。なぜなら日本での教育や、 「二重橋前に額づいてあの厳粛さに感激でき」 、「靖国 神社に額づ」くなどの環境条件が、日本精神を自らに注入してくれるからである。それゆえに 張明貴と「私」は、日本人になれる。「僕は判然と日本人になりきつてゐると断言する。日本 人になることがそんなに難しいことなのか、僕はさう難しいこととは思へない」 。 環境決定論は、日本が進歩史観によって台湾で採用した漸進的な同化政策を基礎としたもの で 57 、血統論とはコインの裏表のような関係にある。 「自然風土のもっとも顕著な部分というのは、そこに住む人の体質と気質であり、この要素 はまた民族の形成と密接に関係している。風土は生産力に影響し、さらに民族としての発展の 度合いに反映されてくる。これは発展史の観点からの考え方である。」 58 。 16 国民が生長する環境は、生存競争に勝利した遺伝子の構成および血縁が伝えられることと、 絶対的な関連をもつある種の符号である。外から見れば、生長環境は、一種客観的で容易に識 別できる境界であり、異なった血統を相互に隔絶させる。とりわけ日本のように天然の国境を 備えた国家においては、そうなのである。同時に、土地や気候などの自然条件それ自体が、高 度に集合的な象徴性を帯びており、生存競争に勝利した遺伝子が勝利したその所以を裏づける ことができる 59 。土地や環境は、共通する祖先の神話と叙事詩が誕生する場である。その土地 を開発し、耕し定住するエスニックグループは、当然ながら血統が継承した記憶と象徴を引き 継ぎ、創造し続ける任務を負う。だから伝統的な日本の国家認識においては、その環境で生ま れるか、もしくは民族の生活が理想とする歴史教育を伝承した者だけが 60 、こうした任務と血 統の利益を継承する資格があると考えられてきた。日本の伝承する歴史教育を受けることので きた者は、子弟の教育に熱心な台湾資産家の子孫が中心になる 61 。台湾人で日本に渡った留学 生の数を基礎として考えれば 62 、日本人になる資格のある者は、決して多くはない。 環境条件と階級の既得利益の間には、このような必然的な関連があるために、張明貴は「欠 けてゐたところの教養と訓練」を受けた「内地と同じレベルに引き上げ」る人だけが日本人に なれるのだと、頑なに主張しなければならないのである。たとえ安定した段階にあった「私」 も、「先づ文化の向上、生活の向上からだ、といふんだろ。それにはもつと自由な気持で広く 他からとり入れたいといふんだろ人だけが、公民階級に昇進する資格があるのだと考えてい る」。 王昶雄の「奔流」には、苦労して内地に留学し、体格でも言語能力でも日本人に引けを取ら ない台湾人教師の伊藤が、同じようなことを語っている。 「俗に日本精神といふけれど、しかしこれは古典を通じて見なければ、凡そ意味をなさな い(中略)日本の古典を離れては日本精神もないもんだよ」。 内地文化を通じた環境的な装りによって獲得された階級の安定性は、志願兵制度という突然 の改変によって、打ち破られてしまう。自分に対して当初は「懐かしいのだらうか、羨ましい のだうか」という感情を表すだけで、慎重にお世辞を口にしたとしても、冷淡にぶっきらぼう に回答すればよかった労働者階級が、現在は流暢な日本語で自分と対等な位置に立ち、日本人 になる方法をめぐって激しく論争をしかけてくるのである。そればかりか、自分がそもそも馬 鹿にしていた(あるいは出来なかった?)日本の姓名に換えるなどの具体的な行動や、皇民錬 成の方法によって、一歩一歩自分の指導的位置に迫ってくる。こうした予想もしなかった新た な局面に対して、張明貴などの指導階級は、「あぐらを組んで浴衣の裾をかいこみ、細い腕で 足首をぎゆつと掴んだ姿勢」で「眼は異様にギラギラ光」らせ、自分の指導的なポジションを 奪取しようとする者を、迎え撃つべく準備をしないではいられないのだ。 こうした皇民錬成の加速と志願兵制度によって引き起こされた島内の階級的緊張に関しては、 台湾に常住していた日本人警察官の鷲巣敦哉の記録から、その糸口を知ることができる。 思想運動の喧しかつた時代には、数は少くても、所謂インテリ階級が尖端に立ち、大衆も心 密かに共鳴するのが多かつたのが厄介であつた。皇民化運動も此の階級が共鳴し、応援せぬ中 は、甚だ浮薄なものとなりはせぬかと憂ふるものである 63 。 島内の知識階級は、速成型の皇民化に対しては、自らの階級利益に基づいて概ね「共鳴せず 17 支持しない」というためらいの態度をとった。島内だけではなく統治者陣営の内部にも、高進 六のように「拍手を打つことによつて」堂々たる日本人になれるという「一つの信念」を信じ る形式主義に対して、反対の声が実際にあがっていたのである。 「皇民精神の涵養は普通教育の徹底的普及を待って完成すべきことは言ふまでもないのであ る。(略)最近本島の皇民化運動の外形改變に趨り過ぎてその精神涵養を伴はない嫌ひある を見てとに重ねて普通教育の普及、義務教育の實施が皇民化運動の最大急務たることを建言 するものである」 64 。 こうした当局による速成の民族主義は、内地でも階級的な緊張関係を作り出していた。帝国 の中心における資源分配は、台湾からやって来た大量の「辺境日本人」の加入によって、再度 調整することが必要となった。こうした変化に対して、「中心日本人」が行った潜在的な抵抗 も、台湾人の公民への道が、平坦なものであるかどうかを決定する「呪文」となったのである 65 。 「これから僕は僕の叩き直しをやるんだ。だから義兄さんも応援してくれ」。 明貴の声は、こみあげてくる熱いものがほとばしり出た甲走ったものでありながら、語調は それを押さえつけようとしている。彼はその後「とつとつと」三階への階段を登っていく。 労働者階級が国家の力を借りて、勇猛にも奪い取った生まれ変わろうとする機会は、「こみあ げてくる熱いもの」に似ていて、 「細かい計算」をする指導エリートたちは、 「無理にもおし潰 さうと試み」る。だが、この「叩き直し」が報われるかどうかは、答えが与えられていない。 10.結び ある論者は、 「志願兵」が伝えようとしたのは、植民母国日本に対する究極のアイデンティ ファイであり、植民者が苦心して創りだした植民的思考や植民意識にはまり込んだものだ、と 考えている。 「志願兵」の「日本アイデンティティ」が、植民権力(皇民化)によって賦与さ れたものである以上、たとえそこに抗いや論争があったとしても、皇民化自体のロジックから 離れることはできず、やはり植民政策の産物であり 66 、これを皇民文学だと類別する正当性を 証だてているという。しかしこうした解釈は、明らかに文学を過度に「国家施設(state establishiment)」そのものに解消していて、文学作品が内在的な弁論を提供する公共領域た りうることを見落としている。実際のところ、警察によって戦時期には厳しく統制されていた 文芸評論圏は、「志願兵」や陳火泉の「道」などの作品も含めて、賛否両論の論争を展開して いた(濱田隼雄、西川満、辻義男、韓哲、窪川鶴次郎など) 。また戦後に抵抗作家と見なされ たもの、あるいは皇民作家とされたものを問わず、戦時期には誰もが創作につとめ、発表に努 力していたという事実からも、文学作品が提供する思考領域は、国家意思が全面的に統制でき るものではなかったことを理解させてくれる。 その次に、たとえ誰もが従わざるを得ないような強力なアイデンティティ政策のもとでも、 やはり「脱植民」という思想は存在可能であった。もしも、いわゆる「脱植民化プロセス」を、 18 植民者が主体的に採用するものや、被植民者が展開する具体的な反抗的行動(例えば暴力革命、 非協力、または文化の上で他の民族主義を借用する、主権を再度表明する、など)に限定する のでなければ、サイードが描いたように、「巨大で力強い努力によって、宗主国との間で平等 をめぐる論争を展開したのである」67 。事実が証明するように、後者のような反抗的行動の試 みは、軍事動員の時期から日本敗戦に至るまで、台湾においてはそもそも存在しなかったので ある 68 。 もしも植民意識を、従属的でありながら受けいれざるをえない差異と蔑視に満ちた異質な帰 属意識 69 だと定義するならば、その描写を拒絶するほか 70 に、むしろ積極的にそれを描くこと によって、この異質化された新しい論証を消滅させること-「反植民化」や「逆植民化 (reverse colonialization)」を含む-によって、従属する人民に、共通の言語を通じて、 新たな、あるいは彼らに共通する利害の基礎を獲得させることも、脱植民の過程と見なすこと ができるだろう。こうした描写のなかで、作者は宗主国(帝国)の文化的地形に制約されるだ けではなく、帝国の空間と植民地を連結させ、逆に帝国の機構を利用して、利他的な任務を賦 与することで-これによって帝国が養成しようとするものを止揚することを含む-永久 に欲しいものは何でも手に入るという二級の位置を提供する。 周金波は「志願兵」を利用することで、論争を通じて異質な帰属意識を消滅させる公共領域 を提供したのである。「私」と張明貴、そして高進六という異なった階級に属する台湾人は、 これまで台湾には存在しなかった共通の言語-流暢な日本語-によって、この公共領域の 場で、異質化された帰属意識を消滅させる論争を展開したのである。客観的な「私」は、冷静 で自省的な内面を凝視するだけでなく、あらゆる可能な目標や計算された舞台を受け入れてい る 71 。 「私」は冷ややかに、しかし具体的に内地で受けた教育を、 「まるで(帝国文明に)取り 付かれたみたいだ」と描写することができる。台湾に帰郷した後に、そこでの交通にさえ適応 できない「指導階級」の苦境と寂寞感も、または公学校を卒業しただけの土着労働者階級が、 儀式と集団の力でアイデンティティの信仰を創造するための直接的手段も、同様に受け入れる ことができる。当然ながら「私」には、作者が内心奥深いところに秘めた矛盾-中産階級に 属し、古い殻を揺すぶることができないことへの不感症と、新興階級の挑戦に直面した恐れに 挟まれた矛盾-が反映されている 72 。この矛盾は作者にこれ以後もつきまとい、再三にわた って周金波のその後の作品(「郷愁」や「無題」など)中に、見え隠れする。 だから、志願兵制度という論壇は、決して最終的な目標や信念ではなく、周金波にとって意 図的にに用いられ、植民地体制下の人間性に共通する真実を反映したものなのである。なぜな らそれは、帝国の作為と価値に対して疑問を投げかけることと、個人的な利益を計算すること を是認しているからである。周金波が参加した 1943 年 10 月 17 日の文芸台湾の「徴兵制をめ ぐつて」と題する座談会で、長崎浩や神川清、さらには陳火泉など政治的戦略任務を与えられ た作家の積極的な発言と比べると、周金波は重要なことは言わずに、関係のないことを語った り、とんちんかな返答をしているのが明らかだ。彼が本当に気にしていたのは、座談会で極力 目立たないようにすることだった。そこで彼は、「台湾の感激」や制度として「民族の間に於 ける精神の燃焼を描き、さう云つたものに解決の道を見出して行く」こと。「同じ世代の中の 二つの違つた考へ方(中略)この時代を代表する二人の本島青年」を描き出すこと。さらには 19 本島人の言語能力の重要性など、台湾人が自省すべき課題について話題提供しているにすぎな い 73 。兵役制度の日本帝国に対する貢献など国粋的な議題は、そもそも周金波文学が関心を寄 せているテーマではなかったのだ。彼が関心を持っていたのは、ただ「台湾のために台湾を動 かす」ということだけだったのである。 「志願兵」の中の「私」は、高進六の独りよがりの形式主義や血書志願に対しても、そして 張明貴の知識階層としての狡猾な計算に対しても、絶対的な評価を下していない。「私」は、 張明貴が高進六に対して負けを認めたことについても、感情的な反応を示さないし、張明貴の 言う叩き直しに対しても、具体的な成果がどのようなものでありうるのか、ただ漠然と期待す るだけなのだ。周金波も、高進六のような「もう理屈なしに、自分はもう日本人だと云ふ」考 えを持ち、当時の客観的な状況では、これこそが「正しく此の時代に生きてゆく」74 道である という感慨を抱いているのかもしれない。しかし、「私」と作者は、高進六の選択に対して、 決して多くの論者が解釈しているように「肯定」しているわけではない 75 。そうではなく、階 級の衝突や流血、おそらくは効果がないこと、そして自らの無力さを自省する、密かな憂慮に 満ちたものなのだ。まして「皇民化」を台湾の「近代化」の同義語として見てはいないのであ る 76 。 まさにこのために、「志願兵」の中で「私」は、台湾人のアイデンティティ構築に繋がるこ の道が、決して明るいものではなく(「遮られて暗い」) 、恐らくはかなり長いものであること (「かうしてゆつくり登つてゐると階段もなかなか遠いのだ」)を理解しているのである。しか し戦争という時空の中にあるという主観的客観的な条件のもとで、台湾人にはこれ以外の選択 肢は存在しなかった。だからこそ「私は明るみを拾ひながら一段一段数えるやうに登」るとい う、冷淡で重苦しい結末となったのである 77 。陳火泉が「道」の結末で、「皇民への道といふ は、死ぬことと見附けたり」と直接的かつきっぱりと、疑問を持たずに叫び声をあげたのとは、 全く異なっている。今日、戦後の反帝・反植民の後知恵によって、志願兵制度が周金波が予期 したように、台湾人に公民身分や物質条件での平等すらもたらさなかったことによって、作者 の思考が「無思考な、しあわせな精神奴隷」78 だと論断するのは、台湾文学研究者にとって余 りにも安易な道だと言わざるをえない。 周金波の小説が選択した題材や人物および構成、さらにその中の論争形式と関心を寄せたテ ーマから、彼は確かに台湾人を主体とした「愛郷土、愛台灣」79 の作家だと、我々ははっきり と理解できるのだ。ただ、彼の「愛郷土、愛台灣」は、決して台湾の山川や土地、風土人情を 叙事詩的に詠っただけではない。心の中は焦りで満ちていた彼は、 「ながい目でものを見」 、 「大 胆に現実のなかに跳びこむだけの据わつた精神」80 を表現することで、自らの台湾に対する強 烈で複雑な感情を描こうとしたのだ。彼は「下手の長談義といふのが私の方法で、厚かましさ が私の勇気」 81 だと、自ら認めている。たとえ「志願兵」が「素材を早急に構成した」 82 もの であったとしても、作品の構造はかつてなく曖昧かつ巧みなものだった。周金波が「志願兵」 で選択した道を、戦後の台湾人が改めて構築した台湾アイデンティティと結びつけるのは、困 難なことではないのであろう。 20 注 1 「志願兵」は 1941 年 6 月の台湾人志願兵制度の決定に応え、直ちに書き上げられた作品であるが、 『文 芸台湾』(1941 年 9 月 20 日、第 2 卷第 6 号)に掲載された。 2 例えば、台湾文学研究者の葉石濤は次のように述べている。「理念上では植民地政府の政策を容認し、 親日の路を歩む作家達もいた。それは周金波の『志願兵』と『水癌』などである。」葉石濤「 第二章台 湾文学運動的展開」『台湾文学史綱』(台湾:文学界出版社、1987)を参照。 3 同様の意見として、西川長夫の「戦争と文学-文学者たちの十二月八日をめぐって」、『立命館文学』 第 573 号、2002.2、p.515 を参照。西川は「文学や文学者が戦争に協力したとか抵抗したとか言うのは 正確ではなく、文学や文学者は戦争を行う国家と国民に協力したり抵抗したのではないでしょうか」と 述べている。 4 作者周金波が、いわゆる「自己を奴隷化」し、台湾人の「漢民族としての主体性」を剥奪した、と強 烈に批判して、作品を誤読している陳映真(陳映真「精神の荒廃」 『聯合報』1998.4.3)のように。周金 波の文学作品は、「皇民作家」のレッテルが貼られたために、戦後、「しずかに埋もれていた」と描くも のが多い。主には中島利郎「つくられた「皇民作家」周金波-遠景出版社版『光復前台湾文学全集』 をめぐって」『台湾文学研究の現在』、緑蔭書房、1999、p.115。垂水千恵「三人の「日本人」作家」『越 境する世界文学』、 (東京:河出書房新社、1992)、p.257。および、F. Y. Kleeman, Under an Imperial Sun: Japanese Colonial Literature of Taiwan and the South (Honolulu: University of Hawai’i Press, 2003), at p.202-204。などを参照。 5 M. Mann, “War and Social Theory”, in State, War and Capitalism (Oxford: Blackwell , 1988), at pp.154-156。 6 「皇民化政策」、「皇民化教育」が推進された時代的背景とその理論的な基礎については、長浜功『国 民学校の研究-皇民化教育の実証的解明』(東京、明石書店、1985)、p.41 を参照。 7 坂本多加雄「国民・皇民・公民」 『国家と人間と公共性』 (佐々木毅、金泰昌編) (東京、東京大学出版 会、2002)、p.1。 8 このことは、皇民奉公会が 1941 年 4 月 18 日に成立した際に採択した実践要綱四原則(「皇国精神の貫 徹」、 「赤誠をもって本分を尽くす」、 「後方の生活体制の確立」、 「非常時経済の合同推進」)からも、うか がうことができる。皇民奉公會成立を待望する。『台湾日日新報』1941.4.19。 9 J. Costa-Lascrox, “L’acquisition de la nationalité française, une condition d’intégration” in S. Laacher, Question de Nationalité (Paris: CIEMI/L’Harmattan, 1987), at p.129,以及E. I. Chen, “The Attempt to Integrate the Empire: Legal Perspectives”, in The Japanese Colonial Empire, 1895-1945 (R.H.Myers, ed.) (N.J.:Princeton University Press, 1984), at p.243。 10 呂正惠「皇民化與現代化的糾葛-王昶雄「奔流」的另一種読法」、『台湾文学研討会』(台北:1996)。 11 当然ながら植民地陣営内部にも、同化に反対する声は少なくなかった。例えば蔡培火は、自然な発展 と非強制的な手段によって、内地との普遍的な同化を達成すべきだと考えていた。その結論として、彼 が理想的な方法としていたのは、本島人に相当程度の自治を付与し、内地と平行し共生する文化を自ら 発展的に生み出す、というものであった。蔡培火「吾人の同化観」 『台湾青年』第 1 巻第 2 期、1920、p.67。 12 L. T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation (Berkley: Univ. of California Press, 2001), at p.28。中国語訳は、荊子馨『成為日本人-殖民地台 湾與認同政治』(台北:麦田出版、2006)pp.51-52。 13 周金波「私の歩んだ道-文学・演劇・映画」『周金波日本語作品集』緑蔭書房、1998、p.253。 14 T. Marshall & T. Bottomore, Citizenship and Social Class (New York: Free Press, 1992), at. p.8。 15 周金波が描く「指導階級」に関しては、莫素微「現代化與公民化-由周金波「水癌」中的医療主題出 発」『台湾文学学報』第 6 期、政治大学中国文学系、2005.2、p.77 を参照。 16 『田健治郎傳』東京:田健治郎傳記編纂会、1932、pp.384-385 頁。 17 竹越與三郎『台湾統治志』東京:博文館、明治 38 年 9 月 5 日、p.73。 18 佐藤鋼次郎『軍隊社会問題』東京:成武堂、1922。 19 加藤陽子『徴兵制と近代日本』東京:吉川弘文館、2000、p.141。 20 同注 19、p.254。台湾人に兵役義務がなかった原因について、加藤邦彦は異なった見解を示している。 彼は、中国人と同じ漢民族に属する台湾人の忠誠心に、日本政府が不信感を抱いていたためだと考えて いる。加藤邦彦『一視同仁の果て-台湾元軍属の境遇』東京:勁草書房、1979、p.56。また林継文『日 本據台末期(1930-1945)戦争動員体系之研究』台北:稲郷出版社、1996、p.22。 しかしこの説は、台湾と朝鮮の徴兵制度が、昭和 17 年以前に論じられていた理由(言語と国民精神の 訓練所も、とっくに建設されていた)を説明できない。その上台湾人より激しい抵抗を行っていた朝鮮 人に対しては、比較的早く徴兵制が実施されている。実際のところ、普遍的な国民的負担となってしま う徴兵制の実施に対しては、日本政府はずっと慎重な態度をとり続けてきた(加藤陽子の前掲書、同上、 p.55 以下を参照)。だから、高いコストを伴う行為の効率(言語教育が普及していない状態では、軍令 21 が徹底されない可能性がある)を確定できない段階では、台湾に施行したくない、というのが正確な答 えであろう。 21 陸軍特別志願兵制度が台湾に適用されたのは、1941 年の5月から6月にかけて、陸軍三長官(大臣の 東条、参謀総長の杉山、および教育総監の山田)がその政策に同意し、6月5日の陸軍省課長会議で正 式に報告された。会議では、昭和 17 年度から 1000 名の陸軍志願兵を採用し、その実績を見ながら、10 年後に台湾で正式に徴兵制を実施することを検討することを決定した。6月 20 日、陸軍大臣と拓務大臣 (秋田清)は、内閣に「台湾ニ志願兵制ヲ施行ノ件」を提出。同日、内閣が決議し、正式に実施される ことになった。これまで素質が不揃いな台湾・朝鮮の兵員を、同じ船に乗せることに不安があり、兵員 の需要もさほど多くはなかったため、植民地の志願兵の受け入れをほとんど考慮していなかった海軍で あるが、1942 年以後、海戦で多くの兵員を失ったため、1943 年にやはり閣議によって、台湾に「海軍特 別志願兵令」を実施することを決定した。同年 10 月に 1000 名の訓練生が採用された。台湾の志願兵制 度に関する研究は非常に多いが、本論では主に、近藤正己『総力戦と台湾-日本植民地崩壊の研究』東 京:刀水書房、1995、pp.47-51 を参考にした。 22 同注 13、周金波「私の歩んだ道-文学・演劇・映画」。 23 黄華昌『台湾・少年航空兵-大空と白色テロの青春記』東京:社会評論社、2005、p.31。 24 柯旗化『台湾監獄島』高雄:第一出版社、2002、p.15。 25 同前注 23、p.37。 26 B. Anderson, Imagined Community (London: Verso, 1991), at pp.110-1。アンダーソンは、海外の 植民地昇進階級に脅かされない統治階級だけが、植民地の独立を悲しみ、庶民階級は競争者がいなくな ったことを喜んだ、と述べている。 27 周金波「皇民文学の樹立」『文学報国』3、(昭和 18 年 9 月 10 日)。中島利郎・黄英哲編『周金波日本 語作品集』(日本:綠蔭書房、1998)、p.281 を参照。 28 この数字は藤井省三の推論による。藤井省三「ある日本語作家の死-周金波追悼」 『台湾文学この百年』 東京:東方書店、1998、p.162。藤井の推論は、当時の台湾児童の平均就学率が 71.3%に達していると いう、 『台湾統治概要』 (台北:台湾総督府、昭和 20 年)の記載を根拠にしているものと思われる。これ 以外の具体的な数字としては、例えば昭和 12 年の国語普及率の指導方針が、3年以内に平均 80%の普 及率を達成すべきだとしたもの(白井朝吉・江間常吉『皇民化運動』東台湾新報台北支局、1939、p.249 を参照)がある。 しかしこれは、当然ながら実現不可能な当局の計画であって、鷲巣敦哉の論述(鷲巣敦哉『台湾保甲皇 民化読本』台北:台湾総督府内台湾警察協会、1941、pp.229-230)にあるように、実際には 1941 年に おいても義務教育の普及率は、5割にも満たなかったはずである。 29 「徴兵制をめぐつて」『文芸台湾』37(昭和 18 年 12 月 1 日)。中島利郎、黄英哲編『周金波日本語作 品集』日本:綠蔭書房、1998 、pp.288-289 を参照。 30 「道」に描かれた「国語」観に関しては、陳培豊「走向一視同仁的日本民族之「道」-「同化」政策脈 絡中皇民文学的界線」、『台湾文学史書写国際学術研討会』、2002.11.22 を参照。 31 藤井省三「ある日本語作家の死-周金波追悼」、同注 28、p.162。その他の植民帝国の言語同化政策と 比較した場合、戦時期日本の台湾における言語同化政策の成果は、確かに稀なものだった。陳培豊「重 新解析殖民地台湾的国語「同化」教育政策-以日本的近代思想史為座標」 、 『台湾史研究』 、第 7 巻第 2 期、 2001、6、p.8。 32 莫素微「現代化與公民化-由周金波「水癌」中的医療主題出発」、同前注 15、p.84 を参照。 33 例えば、いわゆる「天正検地帳」など。本田豊『江戸の非人:部落史研究の課題』東京:三一書房、 1992、p.201 以下。および朝尾直弘「「身分」社会の理解」、奈良人権部落解放研究所編『日本歴史の中 の被差別民』東京:新人物往來社、2002、p.87 以下を参照。 34 A.D. Smith, The Ethnic Origins of Nations (Oxford: Basil Blackwell, 1987), at p.24. 35 A.G. Hargreaves, Immigration, “Race” and Ethnicity in Contemporary France (London: Routledge, 1995), at p.149. 36 持地六三郎「県治管見」。駒込武『植民地帝国日本の文化統合』東京:岩波書店、1996、p.48 より引 用した。 37 安田浩「近代日本における「民族」観念の形成-国民・臣民・民族」『現代と思想』第 31 号、1992.9 を参照。 38 D. Heater, What Is Citizenship? (Cambridge: Polity Press, 1999), at pp.106-7. 39 大西祝「祖先教は能く世教の基礎たるべきか」 (1897)。引用は同前注 36、駒込武『植民地帝国日本の 文化統合』、p.59 より。 40 近藤正己『総力戦と台湾-日本植民地崩壊』、同前注 21、pp.252-253。および駒込武『植民地帝国日 本の文化統合』、同注 36、p.148 を参照。混血政策の歴史的議論に関しては、このほかに星名宏修「「血 液」の政治学-台湾「皇民化時期文学」を読む」、 『琉球大学法文学部紀要 日本東洋文化論集』、第7号、 2001.3、pp.30-32 を参照。 41 「郷愁」に現れた珍しい日本女性のイメージに関しては、莫素微「郷関何處-周金波的殖民地之旅」、 22 『台湾文学学報』、第 5 期、2004.6、pp.239-240 を参照。 42 周金波「私の歩んだ道-文学、演劇、映画」、同前注 13。 43 星名宏修は、周金波の「志願兵」は、「彼ら自身の「血」は否定されるべきものとして描かれる。「皇 民」となるためには「血の切り換え」が求められ、 「志願兵」に志願することが、模範的な解決方法だと されていた」と考えている。星名宏修「「血液」の政治学-台湾「皇民化時期文学」を読む」 、同前注 40、 p.41。 44 A.D. Smith,同前注 34、p.25. 45 同前注 34、pp.26-7. 46 E. Gellner, Nations and Nationalism (Ithaca: Cornell University Press, 1983), at p.56. 47 A.D. Smith, “Chosen People”, in Myth and Memory of the Nation (Oxford: Oxford University Press, 1999), at pp.140-1. 48 羽賀祥二「明治前期における愛国思想の形成-敬神愛国思想を中心として」、飛鳥井雅道編『国民文化 の形成』東京:筑摩書房、1984、p.116。 49 小股憲明「国民像の形成と教育」飛鳥井雅道編『国民文化の形成』、同前注、p.155。 50 寺崎昌男・戦時下教育研究会編『総力戦体制と教育:皇国民「錬成」の理念と実践』東京大学出版会、 1987、p.347。 51 大島高精『米国と太平洋』東京:新政倶楽部、大正 13 年、p.555。 52 台湾の資産階級と内地の資本家の闘争に関しては、柯志明『米糖相剋:日本殖民主義下台湾的発展與 従属』台北:群学出版、2003、p.197 以下を参照。 53 唐澤信夫『台湾島民に訴ふ』(台北:新高新報社、昭和 10 年)、pp.68-69、76、79。 54 小説の中で、またその後の評論の中で、なぜ張明貴を「細かい計画」の典型として作者が描いたのか、 という疑問に関しては、方孝謙「日據後期本島人的両極認同」、『殖民地台湾的認同探索』(台北:巨流、 2001)を参照。また和泉司は、張明貴を「近代主義者」の典型と見なし、教養と訓練を受けた同世代の 留学知識人が共有する感覚を代表していると解釈している。和泉司「青年が「志願」に至るまで-周金 波「志願兵」論」、『三田国文』第 41 号、平成 17 年 6 月、p.16。 55 宮崎聖子の研究によれば、高進六が参加した青年団は、進学のできない青年のために作られた教育機 関であり、街庄レベルの指導階級の育成を目的としていた。そのため青年団を通じて、これらの労働者 階級は集団化された結集を初めて安定して実践することが可能になった。宮崎聖子「植民地期台湾にお ける青年団-1935-40 年の漢族系住民の青年団を中心に」、『日本台湾学会第 6 回学術大会』、2004 を参 照。 56 M. Mann, “War and Social Theory”, in State, War and Capitalism,同前注 5、p.159。 57 本論ですでに述べた田健治郎の施政方針を見よ。 58 高島善哉『民族と階級:現代ナショナリズム批判の展開』東京:現代評論社、1970、p.361。 59 A.D. Smith, The Ethnic Origins of Nations (Oxford: Basil Blackwell, 1987), at pp.28-9。 60 西村真次『日本民族理想』東京:東京堂、昭和 14 年、pp.197-8。 61 「島内資産家にして子弟教育に熱心なるものにありては漸く学齢に達したる者の如きさへ、内地に派 遣するに至りし為なり」。『台湾総督府警察沿革誌第 3 巻』、東京:綠蔭書房、1986 年、p.24。 62 同注 61。 63 鷲巣敦哉「台湾皇民化の諸問題」、『台湾時報』240 期、1939.12、p.19 64 白井朝吉、江間常吉『皇民化運動』、同前注 28、p.23。 65 帝国の民族イデオロギーの「呪文」に関しては、B. Anderson, Imagined Community, 同注 25,at p.110 を参照。 66 L. T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation (Berkley: Univ. of California Press, 2001), pp.124-5。また中国語訳は、同前注 12 荊子馨『成為日 本人-殖民地台湾與認同政治』、p.171-2。 67 E. Said, Culture and Imperialism, (N.Y.: Vintage, 1994), at pp.226-7。 68 文学活動については、例えば陳芳明に「はっきりとした歴史観を持ち、皇民化運動と太平洋戦争が高 潮に達する段階において、確かに抵抗という政治的意義を有していた」と賞賛されている黄得時の「台 湾文学史序説」(1943 年 7 月 31 日に『台湾文学』3 巻 3 号に発表された)も、決して同化史観を具体的 に超越するものではなかった。(陳芳明「黄得時的台湾文学史書写及其意義」、陳芳明『殖民地摩登:現 代性與台湾史観』 (台北:麦田出版、2004、p.174) 。黄得時は、台湾文学が、清朝文学から明治文学まで が備えていない独特の特徴を持っていて、この性格によって植民統治下の台湾文学の特殊な発展過程を 説明できると表明したにすぎない。その性格は日本文学と異なっているとはいえ、陳芳明が想定したよ うに、はっきりと「植民の覇権的論述に対抗」-新しい叙述によって新しい台湾民族の文学的起源を 追求することなど-したわけではない。 このほかには、楊雲萍が『文芸台湾』6 巻 5 号で、黄得時の文章に対する「学術的」批判を行っている が、ここからもこの文章の「脱植民化」の効果の程が理解できるだろう。 張文環の、 「台湾には非皇民文学はありません。若し仮に非皇民文学を書く奴が居れば須らく銃殺に処す 23 べきである」という「決然」とした発言は、当時の文壇の客観的な状況を、より正確に解説するものだ。 69 植民主義の定義は、その焦点が地縁関係や経済・政治や文化など、テーマが多岐にわたるため、一つ にまとまっているわけではない。D. K. Fieldhouse, Colonialism 1870-1945 (London: 1983) at pp.6-7 を参照。中国語の文献としては、高岱、鄭家馨の『殖民主義史:総論巻』 (北京:北京大学出版社、2003)、 p.147 を参照。ここでは文化とアイデンティティの意義に関するものを挙げた。 70 ここでは荊子馨による新しい分類を指している。彼は皇民文学と反抗文学の間に、 「非皇民文学」を設 定している。L. T. S. Ching, 同前注 12、pp.121-3。荊子馨、p.167 以下を参照。林瑞明の観点によれ ば、投降するのでもなく抵抗するのでもない文学(王昶雄の「奔流」など)自体が、すでに反植民とい う道徳的基準を満たしているのである。 71 藤井省三は、 「私」を、個体的差異を越え、大日本帝国と向きあう植民地人だと見なしている。藤井省 三「“大東亜戦争”期における台湾皇民文学-読書市場の成熟と台灣ナショナリズムの形成」、 『台湾文学 この百年』、同前注 28、p.63。 72 垂水千恵は王昶雄や呂赫若と比べて、周金波の「志願兵」は「若々しく無邪気な使命感の告白」であ り、〈皇民化-日本化-近代化〉を一直線に採とらえ肯定した、と考えている。垂水千恵「「清秋」その 遅延の構造」、下村作次郎等編『よみがえる台湾文学 日本統治期の作家と作品』 (東京:東方書店、1995)、 p.384。 73 同注 29、 「徴兵制をめぐつて」、中島利郎、黄英哲編『周金波日本語作品集』日本:綠蔭書房、1998 、 p.279。 74 同注 29、『周金波日本語作品集』p.282-283。 75 これは絶対的多数の研究者が「志願兵」テクストの結末に対する解釈である。例えば垂水千恵「三人 の「日本人」作家」 『越境する世界文学』、 (東京:河出書房新社、1992)。星名宏修「再論周金波-以「氣 候與信仰與老病」為主」、『賴和及同時代作家-日據時期台湾文学国際学術会議』、1994.11。方孝謙「日 據後期本島人的兩極認同」 『植民地台湾的認同探索』 、p.159。及び呉叡人「他人之顔:民族国家対峙結構 中的「皇民文学」與「原郷土文芸」」、『跨領域的台湾文学研究学術研討会』、台北、2005.10.15、など。 76 塚田亮太「閲読『周金波日語作品集』:一位台湾「皇民作家」的精神軌跡」、『台湾文学学報』第 3 期、 2002.12、p.8、11 を参照。 77 中島利郎はこれを「台湾の庶民と彼ら留学知識人との間の懸隔を象徴的に示しているといえよう」と 解釈している。中島利郎「周金波新論」、咿啞之会編『台湾文学の諸相』 (東京:綠蔭書房、1998)、p.116。 78 藤重典子「周金波氏のプレゼント」『中国文芸研究会会報』第 180 号、1996 年 10 月、p.5。 79 同注 77、中島利郎「周金波新論」、p.106 80 周金波「台湾文学のこと」、同注 13、『周金波日本語作品集』、p.193。 81 周金波「受賞の感想(文芸台湾賞第一回受賞者)」、同上『周金波日本語作品集』、p.204。 82 辻義男「周金波論-一聯の作品を中心に」、『台湾公論』1943 年 7 月号。 また藤井省三も、 「周金波の代表作「志願兵」は、一九四一年六月の台湾人志願兵制度の決定に応え、た だちに書き上げられた小説である」としている。同注 26、藤井省三「ある日本語作家の死-周金波追悼」、 p.160。 24
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