2013年1月号 - アジア学生文化協会

2013 年 1 月 20 日 第 500 号(隔月 20 日発行)
12-1
DECEMBER-JANUARY
2012-2013
アジアの友 500 号記念座談会
「穂積先生と ABK の思い出」
新校舎の上棟式行われる
2013 年 1 月 15 日(火)
2014 年 4 月に開校を予定している新日本
語 学 校・ 校 舎 の 上 棟 式 が 1 月 15 日( 火 )
ABK 役員および工事請負業者である橘設計、
小川組他担当者参加のもと執り行われまし
た。また式の後には内部の見学が行われま
10 月中旬の様子です。
した。工事は予定通り進行しており、3月
末の完成を予定しています。
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
2012 年 12 − 2013 年 1 月号 第500号
目 次
<表紙作品>
しあわせの環
『今の幸せを大切にし、未
来の幸せを頑張って作る』
がこの年賀状(作品)で伝
2
えたい私の思いです。幸せ
「アジアの友」500 号記念特集
そうな顔をしている白蛇を
環にして、辰年が巳年に変
わっても、続けて日本を守
ることをイラストで表現し
2013 年新春のご挨拶 (財)アジア学生文化協会 理事長 小木曽友
4
6
「アジアの友」表紙の変遷
編集担当者がふりかえる「アジアの友」
・「史子さんのこと」 小倉尚子
(関連コラム)「アジア文化会館の食堂」 小木曽史子
ました。そして、日本の伝
統的な色である赤と白の他
に、環の中に松竹梅や出世
・「アジアの友に携わって」田中宏
桜などの縁起物を配置し
・「社会批判の精神無ければナンセンス」工藤正司
て、色豊かで楽しそうなお
正月を描きました。
18
★参加者 小木曽 友(アジア学生文化協会理事長)
<作者>
ガ
Hoi Chun)
1986 年香港生まれ
学生文化協会日本語コース
34
入学。2011 年 4 月 専門学校
HAL 東京(CG 学部・4年制)
入 学。 現 在 HAL 東 京(CG
デザインコンテスト』入
賞・製品化、12 月に本表紙
作品で東日本大震災チャリ
スト 2013』入賞・商品化(主
38
42
43
催 株式会社博報堂アイ・ス
タジオ)
ヒサマロ
寄稿「穂積先生とアジア文化会館の思い出」石川 毅
「日本の大学は3年で終わりですか?」
ヤップ ジャー ピン(マレーシア)
ティー企画『Yahoo! JAPAN
年賀状 学生デザインコンテ
グ
私の意見私の体験
36
学部・4年制)2年在学中
2012 年 7 月『PLAYBUTTON
ル
雅留宮 久麿(インド)
橋本 イスラム ヌルール(バングラデシュ)
グル アハマッド バハドル アーセフィ(アフガニスタン)
ホラス ノリブン(インドネシア)
羅 凱雋(ラ ガイシュン、Lo
2009 年 10 月財団法人アジア
座談会「穂積先生と ABK の思い出」
44
News & Events
知友会通信
イベント情報
MEMBERS
会費、ご寄付のご報告(2012 年 10 月、11 月)
募金途中報告
ABK 同窓生募金(2012 年 11 月 30 日現在)
1
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
ABK同窓生募金 国別・地域別寄付金額(2012 年 12 月 31 日現在)
国・地域
件数
合計額
備 考
日本
364
19,588,712 含、在外 / 同一人複数回
マレーシア
318
13,706,656
含、在外 / 同一人複数回 / 日本人
26/ シンガポール 1
タイ
51
6,856,007 内日本人 17
中国
42
2,455,000 含、在外 / 在日他
ベトナム
7
ブラジル
14
1,423,000 含、在日
657,627
韓国
7
420,000 含、在日他
カンボジア
1
300,000 在日
シンガポール
8
380,140 含、在日
インド
7
190,000 含、在日
謹
んで新春のご挨拶を申し上げます。
上記の表は、2012 年 12 月 31 日現在の「ABK同窓生募金」に寄せら
れた寄付金の国・地域別総額です。2010 年 6 月に、「1人1万円、1
燈やがて万燈となるごとく」をモットーに始まった「ABK同窓生募金」は、東
日本大震災・原発事故、タイ大洪水、ヨーロッパの経済危機、円高などの逆風に
もかかわらず、
「1波は万波を呼ぶ」運動となり、タイ、マレーシア、中国、ブラ
ジル、日本など 19 か国・地域延 1000 人を超える同窓生(個人・団体)の皆様から、
2012 年 12 月末現在、46,772,142 円のご寄付が寄せられ、2013 年 3 月 31 日の締め
まで最終目標の 5000 万円まであと一息というところまできました。皆様の絶大な
るご支援に対し、改めて心より御礼申し上げます。
2
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
国・地域
件数
香港
4
台湾
12
合計額
備 考
170,000
485,000 含、在日
ミャンマー
1
50,000
バングラデシュ
2
40,000 含、在日
イラク
1
10,000
インドネシア
1
10,000
パキスタン
1
10,000 在日
ペルー
1
10,000 在日
ラオス
1
10,000 在日
合計
843
46,772,142
目標残
3,227858
お陰さまで、昨(2012)年 9 月には新しいABK日本語学校(学校法人ABK学
館)の新校舎の建設計画が東京都より承認され、本年 3 月末には竣工の予定です。
その後、学校法人設立の本申請を都に対して行い、6 月ころには認可が得られる
ことを期待しています。
一方、財団法人アジア学生文化協会の公益法人への移行につきましても、本年中
頃には内閣府への申請を行うべく準備をすすめております。
このように、本年は弊協会にとりまして文字通り正念場の時を迎えております。
目標達成に向けて、内外の関係者の皆様には、一層のご支援・ご鞭撻を切にお願
い申し上げます。
(財)アジア学生文化協会
理事長 小 木 曽 友
3
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
お陰様で「アジアの友」は通巻 500 号となりました
ア
ジア学生文化協会(ASCA)の機関誌として 1958 年に生まれた「アジアの友」は、およ
そ半世紀にわたりアジア・アフリカからの留学生・研修生をはじめとした在日外国人、関
係者の声を伝えてまいりました。当初 ASCA の機関誌としては季刊誌「アジアの友」と月刊誌「会
報」の二本立てでいく予定でしたが、季刊誌2号、月刊誌1号が発行された後二つは統合。月刊
誌の2号に「アジアの友」の名が付けられ、今号で通巻 500 号の発行を迎えるに至りました。
今回は 500 号発行を記念して過去の表紙を振り返るとともに、初期の編集担当者による思い出
コラムと、留学生 OB による座談会の模様をお届けします。
「アジアの友」表紙の変遷
創刊号(1958 年9月) B5 版2
色刷。題字は穂積五一初代理事長
による揮毫
創刊号の発刊はアジア文化会館建設前で、当時の岸首相
より、会館建設への期待の言葉が寄せられた。なお第 2
号発行は会館完成後の 1960 年9月となる
1960 年9月会報として定期刊
1966 年 3 月号(No.33)〜、
1988 年 4 月 号(No.262) 〜、
行がスタート。B5 版・黒1色に
A5 版・2 色。 本 文 は 縦 組 と
B5 版・2 色。サイズが大きくな
横組みの簡素なデザインだった
なり、段組による割付がされ
るとともに表紙に写真やイラスト
て本らしい体裁となる
が掲載される。本文は横組に変更
された
44
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
1992 年 7・8 月号
(No.302)
1996 年9月号(No.348)
1997 年 4 月号(No.354)
〜、B5 版・2 色。 タ イ ト ル
〜、B5 版・ 4 色。 こ の 号
〜、B5 版・ 4 色。 躍 動 す
部分を中心にマイナーチェン
より日本宝くじ協会様の
るアジアを多彩なカラーと
ジ
助成をいただけることとな
デザインで表現した
り、カラー化された
2003 年9月号(No.418)〜、B5 変形版・4色。
ドネシアの留学生ヘリ・フドラシャ・イマ・ファティ
アジアをフィールドに活躍する写真作家の方の作品
マさんの作品「アジアのダイナミズム」が長期にわた
が表紙に。作品は毎号差し替えとなり、各年度お一
り採用された。また、2001 年 4 月号(No.394)よ
人、計 5 人の作家の方に御担当いただいた
りそれまでの B5 サイズから現在の変形サイズに小型
化された
2010 年 4 月号(No.484)〜、B5 変形版・4色。
2008 年4月号〜、B5 変形版・4色。主に美術系
アジア文化会館および ABK 日本語学校の行事写
分野の現役留学生や OB より作品を御提供いただ
真を毎号差替で掲載。発行が月刊から隔月刊に
き、毎号差替で掲載した
変更となる
5
「アジアの友」500号
1998 年 4 月号(No.364)〜、B5 版・4色。イン
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
初期の「アジアの友」の編集を担当した元職員に、当時の苦労話や、これからの本誌に
対する期待などを綴っていただきました。
史子さんのこと
小倉 尚子
(初代編集者 1960 年〜 1963 年在職)
東大正門まえに、自治制の寮(新星学寮;
新星学寮。
アジア文化会館の母体)があって、今年度
私は昭和 30 年に農学部を卒業して、な
から女子学生も入れるそうだという情報が
んとなく大学院に残ったが、寮は学部学生
入り、早速応募することにした。1953 年、
のみということで、肴町の三帖間に越した。
昭和 28 年のことである。幸い中林寮長の
でも近いので、寮には始終出入りしていた。
面接にパスして、橋本玲子さんと二人、第
大久保さんの事件(*)でも、谷川へ行っ
一回女子寮生になった。
た覚えがある。(最初は谷川か天城山かと
当時の寮は、吹き通しの廊下、奥の食堂
二つの説があった)。小木曽友さん〔現(財)
へ渡る廊下は歩くときしんだ。住人は、穂
アジア学生文化協会理事長、東京大学農学
積先生夫妻とナポちゃん(長男一成さん)
、
部農芸化学修士卒)の入寮はこの頃ではな
明子さん、田井重治、直民兄弟、永田隆彦
かったろうか。同じ農学部と言うことで、
さん、川崎竪雄さん一 家に、寮生は何人
なんとなく親しみを感じていたのだが、大
だったか。一室に二人ずつ。食事は、当番
変真面目な勉強家と言う印象をもったもの
制の自炊だった。当時の食費は一人当たり、
だ。
15 円、これで朝と晩を賄うのは当時でも
そのうちアジア文化会館(ABK)建設
工夫を要した。魚の切り身を買うと一切れ
の話が具体化してきて、東大龍岡門近くの
10 円、森川町の八百屋で、たくあん漬け
仮事務所には、寮の OB 諸兄が机を並べた。
の大根の葉を貰ってきて、味噌汁の具にし
丁度 60 年安保改正反対の最中で、デモの
たりした。というのが、1950 年代前半の
合間に時々顔をだした覚えがある。
6
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
新しい財団の広報のために会報を出そう
と言うことで、寮友の誰彼の文章やら会館
建設資金の募金状況やらをのせて、永田さ
んのガリ版で会報「アジアの友」No.1(1960
年 9 月 25 日発行)を発刊。
〔会報「アジア
の友」は、その後タイプ印刷になり No.32
(1965 年 12 月発行)まで発刊される。1966
年 3 月から「月刊アジアの友」として装い
新たになる。
〕
いよいよ会館の建設が始まり、形ができ
てきたので、記念号を出すことになった。
小木曽史子さん(左)と筆者
もなれない者には一仕事だった。最後の校
小木曽友さんがいた。彼は寮時代のとおり、
正は、永田さん始め、全員徹夜だった。そ
大変真面目な勉強家で、朝は早くから、夜
の意気に感じて、印刷や(三咲印刷)の社
は遅くまで、実験室で働き、会館は寝るだ
長が、バーに招待してくれて、初めてコ
けと言う生活だった。
ニャックの味を知った。
当時は住人がいるのだから、食堂は始め
財団の最初の行事は北海道旅行ではな
ていたが、なにぶん素人の集まり、食習慣
かったろうか。第一回目は 1958 年 7-8 月だっ
の様々な国の人々の集まりの食堂は容易で
た。それが大成功だったので、第二回目を
はない。それで栄養短大
(女子栄養短期大学)
ということで、1960 年に 二回目があった。
の先生をお願いして、ご指導していただい
このときは私も同行を許され、よい思いで
た。しかし、いつまでもお願いしているわ
となった。参加者のなかの劉彩品と親しく
けにはいかず、食堂の責任者を見つけるこ
なり、未だにつきあいがつづいている。彼
とはかなり急務になっていた。生来のお節
女が部屋を借りていたお寺が近かったので、
介で、私には、一人思い当たる人があった。
始終往来したし、新星学寮にもつれていっ
前記のとおり、私は肴町の三帖間を借り
た。漱石の(虞美人草)に知己と言う言葉
ていたのだが、同じ家の二階を借りている
があるが、彼女はこの意味で、穂積先生の
女性と口を利くようになった。ある日彼女
知己になったのではあるまいか。
の言うことに、従姉で、女子医大の食堂で
さて会館は 1960 年に住人が入り、留学生
栄養士をしているのがいる、彼女が遊びに
と日本人学生が住むようになっていた。そ
来るから、一緒にお茶をのみにこいという。
の中に元寮生で、当時は農芸化学の院生の
それが、木内史子さんに会った最初で ある。
7
「アジアの友」500号
これは色刷りの本格的な印刷で、広告集め
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
あくまでも優しく、穏やかで芯は強い人
そんな雰囲気の中で、勤勉そのものの小
柄に惹かれ、彼女の借りている部屋が農学
木曾友さんの会館への帰りがだんだん早く
部に近いこともあって、その後度々お邪魔
なり、なにくれとなく食堂の手伝いをする、
するようになった。心当たりは勿論彼女。
そのうちバタコのかわりに史子さんのエス
穂積先生にその話をしたら、何も言わな
コートを勤める。その後の話はここで書く
いで「一度会館につれてきなさい。
」といわ
こともなかろう。
れた。丁度 1960 年 9 月の開館の直前、前総
そのうち私は会館のおかげでエジプトに
理も招待して、華々しい 開館だったので、
留学することになった。63 年はじめのこと。
史子さんには「人手が足りないから手伝っ
発つ前に、友さんと史子さんが当時流行っ
てくれないか」とか何とかいったのだった
たバイキング料理によんでくださった。そ
か。そして先生に史子さんを紹介した。そ
の折、私は「こんな奥さんは鐘と太鼓で探
の短い会見で、おめがねにかなったのか、
したって見つかるものじゃない」といった
それから約 1 年半後、前任の食堂主任の退
ら友さんは「小倉さんもそう思うか」とう
職を承けて史子さんにお願いすることに
れしそうなので、安心して日本を出た。
なった。先生は、
「こういうときにはタクシー
その史子さんが亡くなって、友さんはど
は駄目、ハイヤーを呼べ」とおっしゃって、
うなるかと心配した。しかし、先日『啄木
女子医大学長宅へ史子さんを貰いうけにい
と昴とアジア』という友さんと史子さんの
らした。 文集を読み、いたく感動。史子さんは友さ
そして、史子さんは、食堂主任の大任を
んの中で生きているということをいたいほ
はたすことになった。一応のスタッフはそ
ど感じた。これだから『同行二人』で友さ
ろっていたのだが、住人は多国籍、食習慣
んはやっていけるという感を深くした。
も様々、ずいぶん大変だったろうと思う。
日本は一人の土壌学者を失ったけれど、
でも史子さんは良くこなした。留学生たち
余人を以って代え難いアジアと日本の架け
も協力的だった。中には料理のアイディア
橋をえた。 やこしらえ方を教える人もいた。香港の曹
さん(曹基鏞さん)は豚肉の生姜焼きを提
案して、翌日から、メニューのひとつになっ
た。私も未だに生姜を欠かさず、良い豚肉
があると、生姜醤油に漬けて焼く。いつか
らか会館に棲みついた野良犬のバタコも食
堂の人に言われて、夜遅く帰る史子さんを、
電車通りまで送っていくようになった。
8
(*)大久保さん事件:寮生で学習院大学
に通っていた大久保武道さんと大学で同級
生であった満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の実
弟溥傑の長女愛新覚羅慧生さんが、1957 年
12 月 4 日天城山山中で心中した事件。
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
(関連コラム)
をひかえて急がれる方が多いので、トース
ターの故障、人員の不足などで一寸手順
アジア文化会館の食堂
が狂いますと、瞬く間にお盆がずらりと並
小木曽史子
時計をみつめながらイライラしていらっ
び、その後にも、又、人垣、その方々が皆、
しゃると思うと、カウンターに立つ私達も
ボーっとしてしまう程です。その中でこち
した食堂も、早いもので、もう 2 年の歴史
らは熱いミルク、あちらは冷たいミルク、
をもつようになりました。
あの方の目玉はオーバーフライ、この方の
食堂経営には、殆ど未経験な若い女性ば
ボイルドエッグはハーフボイル、と個人個
かりでしたけれど、遠く故国を離れて、食
人の嗜好を細かく見分けて、間違いなく、
習慣の全く異なった日本にいらした方々
素早く出すには、かなりの熟練を必要とい
に、何とかさびしい思いをなさらず食事を
たします。卵料理では、オムレツに一番特
楽しんでいただきたい、その一心で手探り
徴があるようです。一般に、日本のオムレ
ながら、一歩一歩ここまで歩いてきました。
ツは、半熟状態の柔らかいのが賞味されま
現在、会館の食堂利用者は、1 日平均、
すが、東南アジアの方は、よく火の通った
朝食約 70 人、昼食 60 人、夕食 70 ~ 80 人、土、
ものを好む方が多いのです。(お魚やお肉
日は、遊びに外出なさったり、反対にお客
も同様です。
)そのためか、形も日本のよ
様をつれていらっしゃる方が重なったりで
うな木の葉型でなく、フライパンの大きさ
特に変動が激しく、多いときには 100 人を
のままに、丸くひろがったものを裏返して
超えることもあります。
焼き上げます。少しでも柔らかい所が残っ
食事時間は、朝食 7 時~ 8 時半、昼食 12
ていると、もう一度フライして下さい、と
時~ 1 時半、夕食 6 時~ 8 時となっており
いわれます。中に入れるものも、オニオン
ます。朝食は、トースに牛乳やミルクコー
という方、チリをという方、いろいろ好み
ヒーの方が多いですけれど、その外にコー
が異なっています。
ンフレーク、オートミール、各種卵料理(主
昼食、夕食は(A)
、
(B)
、
(C)の定食
にボイルドエッグ、フライドエッグ、オム
を出しております。
(A)定食は、スープ、
レツ、ハムエッグ、ベーコンエッグ等)野
ライス付きで 120 ~ 140 円。大体週に一度
菜ソテー、少数ですが、ポーク、ビーフを
マトンをします。これは特に回教の方の為
召し上がる方があります。また、主に日本
に、お祈りをしてあるお肉をとどけてもらっ
人学生や職員の方達は、御飯にみそ汁と簡
ています。チキンはヴェジタリアン以外の
単な一品料理、梅干といった定食も欠かせ
方は食べられるので週に 5 回そして牛 3 回、
ません。
豚 2 回、海老 2 回、魚 1 ~ 2 回の予定で献
朝食は 7 時からですが、学校や工場研修
立を組みます。
(B)は、80 ~ 90 円、
(C)
9
「アジアの友」500号
昭和 35 年 7 月、会館新築と同時に発足
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
として、デザートを常時作っておくよ
う心がけております。これは、特にヴェ
ジタリアンの方や、来客の場合などに
喜ばれます。主にプディング類、ゼリー
類、フルーツポンチ類です。 その外に、毎食必ず用意する特殊なも
のとしては、野菜カレー、野菜フライ、
炒飯等です。又、真赤な唐辛子に生トマ
は、主にみそスープでライスと共に 60 円内
ト、にんにく、玉葱を入れてミキサーで
外、その他に、昼は(D)として、麺類(月
どろどろにし、それを塩、味の素で調味し、
見うどん、月見そば、きつねうどん、五目
ピーナツ油で炒めて作った「サンバル」も
うどん、ラーメン、冷やしそば、冷麦、湯
欠かせない一品です。切らした時など気の
麺、カレーうどん、鴨南蛮等)
、館内の日
毒でお断りするのに心が痛みます。それを
本人職員のために用意いたしますが、外人
そのまま、御飯にのせたり、みそスープや
でも、好んで食べる方もございます。夜の
他の料理につけて食べていらっしゃるよう
(D)は、サラド、精進揚等、主に野菜の一
です。非常に刺激が強く、
「サンバル」を作っ
品料理を出しております。それでも定食が
た容器を洗っただけで、眼や口のまわりが
好みに合わなかったり、不足したりします
ひりひりする程です。食物はどこも同じ、
と、ビフテキ、ポークソテー、或は野菜と
とおっしゃる方もありますけれど、食品材
ポーク又はビーフの炒めもの、卵料理、炒
料は似たものがあっても、食べたいという
飯等と、オーダーがふえて、レンジの前に
のは、民族や宗教、気候風土や習慣の相違
立つ人は息つく間もない程の忙がしさにな
でこんなにもちがってくるものかと驚かさ
ります。炒飯も一応誰でも食べられるよう
れます。
なものを用意しておくのですが、中に入れ
定食以外、ジュース類、コーラ類、牛乳、
るものに、それぞれの好みがあって、オニ
ヨーグルト、コーヒー、紅茶等の飲物、そ
オンは必ず入れてという方、入れては困る
れに季節の果物、デザート等は、食事時間
方、卵のみ、野菜と卵その上にポーク又は
外(但午前 7 時~午後 9 時)にも出してお
ビーフを入れる方、こうなると一度にまと
ります。
めて作ることが出来ないので、大変時間が
この食堂は、独立採算のたて前になって
かかります。予約制でないので、
どうしたら、
おり、人件費から、光熱、ガス、水道をは
定食を過不足なく仕込み、オーダーの数を
じめ、一般備品から消耗品まで、すべてを
減らすことが出来るかに頭を悩まし、献立
賄ってゆかなければなりませんので、他の
や調理に苦心します。 又、
出来るかぎり
(E)
留学生会館の食堂のように、人件費、光熱、
10
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
ダーにあきたらなくて、好みのものを自分
事を出せる所と較べると、どうしても、割
で調理なさるのです。思い思いの材料を整
り高になります。それは、理解していた
えて、2、3 人グループになって作る場合が
だいても較べれば高い事には変わりないの
多いようです。そんな場合は、珍しい材料
で、作る私達としても大変苦労いたします。
の扱い方や、調味料の加減を教えていただ
出来るだけ人件費を少なくするために、在
いたり、その味を味わわせてもらったりし
館の方々にも協力していただき、開館当初
ています。 から、カフェテリヤ方式を採り、食事はす
目の前で講習を受けるようなものですか
べてセルフサービスにしております。現在
ら、大変参考になり、有難いチャンスで
の広さは、厨房 75.1 平米、食堂 209.67 平米、
もあるわけですけれど、現在、厨房内に
ますます殖える利用者に対して、余裕ある
は、炊飯器を除いては、5 つしかレンジが
広さといえませんが、今年 6 月、待望の冷
なく、その 5 つで 4 つの定食に汁二種類そ
凍室も出来ましたので、食品の保存がよく、
の他ヴェジタリアンのための野菜カレー、
ケース単位の計画購入も可能になり、飲物、
炒飯、野菜ソテーを準備しなければなりま
フルーツ、デザート、サラド等も冷たいの
せんので、あるだけのレンジをフルに使用
を味わっていただけるので、暑さの烈しい
しても、まだ足りないことが多いので、そ
夏の間は特によろこばれました。食堂に続
の上に個々の調理希望者が現れますと、お
いて 18.936 平米の特別食堂があり、これは、
互いに思うようにならず、肝心の定食に支
主に研修生の会食(歓迎会、研修修了式等)
障を来し、多くの方に迷惑をかけること
や、座談会・中間検討会等のお茶の会に
になって了います。そこで協議の結果、厨
使われます。時には、留学生、研修生のお
房利用は、午後 2 時~ 4 時の厨房内の空時
客様の会食にも使用されます。最近は研修
間に限ること、事前に申込用紙で申し込ん
生のコースが殖えて、2 日一度の割合で、
でいただくことになりました。全然お断り
会食やお茶の会が開かれるようになりまし
するのは、折角の楽しみを取り上げてしま
た。在館者の殖えたところへ、会食の回数
うようで、食堂としても大変辛く、自由に
も多くなり、限られた設備と、少ないスタッ
調理が出来るコーナー又はそんな一室を作
フではなかなか十分な事は出来ないのです
る案も、前々からあるのですが、まだ実現
けれど、研修協会や文化協会の方々の協力
に至らない現在では、限られた時間内での
の下に頑張っております。
調理で我慢していただいています。この頃
どこでもある事かもしれませんが厨房内
は、使った器具類を洗って行く方が多くな
にはいって、自分の好きな料理をつくりた
りました。忘れて行く方には、理由をお話
いという方があります。特に宗教上、お祈
し、きちんとして下さるようお願いしてい
りのすんだチキンやマトンしか食べられな
ます。
い方や、どうしても定食や、限られたオー
今、ここアジア文化会館の中には約 30 か
11
「アジアの友」500号
水道等の補助があって、純材料費だけで食
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
国の国の方が泊っています。同じ国でも広
ます。あとの方には食事が合わないために
い国では地方によってそれぞれ料理の特質
日本にいることが一層さびしい思いをおか
があります。同じインドの野菜カレーでも
けしない様、出来るだけ今までたべていら
北と南では材料から異なり、北の方は、ポ
した材料と味に近いものを調えるよう努力
テト類を入れてとろみのあるものを、南の
しております。ヴェジタリアンの中には卵
方は、大根などもつかい、サラッとした仕
は勿論チーズもたべない方があります。
上げのものを、好まれるようです。また私
その方々は数多い雑多な食べ物の中から
達に教えて下さる方によっても銘々ちがい
これだけはどうにか安心してたべられると
が出て参ります。一方の方から、今日のは
いうものを探し出してあげると、毎食それ
大変美味しいと喜ばれるかと思うと別の方
を召し上がる方もあります。もう印度に帰
から、こんなカレー、見たこともない、な
られましたが、お豆腐一丁をそのまま、必
ど云われることもあり、作る方でも悩みま
ず日課のようにたべた方がありました。宗
す。けれど、同じ日本の中でも、地方によっ
教上豚を食べない方は、会館の外ではお魚
て特色があり、同じ地方でも、細かく云え
でもラードで揚げてある時があるので、安
ば、各家庭の習慣、その家に伝わる伝統の
心しては食べられないと、必ず予約のチケッ
ようなものがありましょう。又、年代によっ
トをおいていらっしゃる方もあります。
てもその違いは大きいものと思います。味
そんな事情ですので、私達は一層、責任
覚は、個人差が大きい。まして、こんなに
を感じ、どうにかして信頼に応えたいと思
いろいろな国の、それも一度も行ったこと
います。すべての方に、一度に満足してい
のない国の様々の方の食事をあずかり、す
ただくことは、とても不可能ですけれど、
べての人に満足してもらおうと思うのが無
せめて、週に一度位は、ああ、なつかしい
理な話。と思ってしまえば、少しは、心が
料理だな、美味しかったと心から満足して
安まりますけれど、やはり、生まれ育った
いただけるように、各国の特色ある料理を
国をはなれ、ことばも習慣も全く異なった
順番に献立にのせることが出来たらと考え
中で、食事が安心してたべられるか、そう
ます。
でないかは、大きな問題と思い直して、努
力しております。
開館 2 年、素人ばかりで始まった創生期
日本へ来られて、積極的に日本のものを
の苦しみは終わったといっても、まだ、よ
とり入れて、自分の味覚にあったものを探
ちよち歩きです。確実に、一人歩きが出来
す方と、多くは宗教の為と思いますけれど、
るように皆様のたのしい食堂となるように、
今までの食習慣を厳しく守る方の二通りが
利用する方とのよい協力関係の中で、今後
あるように思われます。前の方には、なる
も育ててゆきたいと思います。
べく日本料理にも親しんでいただける様に、
あちら風に香辛料を加えたりして、工夫し
12
(
『研修』
海外技術者研修協会 1962・12)
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
「アジアの友」に携わって
田中 宏
(1962 年〜 1972 年在職)
ろって巻頭
退職が 1972 年春なので、約 10 年間在職し
言だけがま
たことになる。
「アジアの友」の編集に係
だという時
わるなかでまず思い出すのは、やはり瀬川
に は、 先 生
保さん(司馬遼太郎さんの友人で産経新聞
に話を聞き
の記者だった方)の存在である。それまで
それを文章
の B5 版のタイプ印刷のものを、雑誌とし
にして手を
ての体裁と内容に“大変身”させて下さっ
入れて頂い
た。第 33 号(1966 年 3 月刊)からひと回
たことも時
り小さい A5 版に変えて縦書きとなり、
「巻
にはあった。先生の没後に編まれた『内観
頭言」欄を設け、穂積先生にその執筆をた
録』
(1983 年刊)にはその巻頭言がすべて
のむことにされた。また、題字の「アジア
収められており、その分量もかなりの部分
の友」を先生に揮亳してもらったのも瀬川
を占めている。これも瀬川さんの「功績」
さんのアイディアだった。たしか何枚も何
といえるかも知れない。
枚も書いてもらい、最終的なものは瀬川さ
瀬川さんはプロだけあって、タイプ印刷
んが決定したと思う。そういう意味からも、
の「会報アジアの友」を雑誌型の「月刊ア
現在は中扉に入っている先生の揮亳を表紙
ジアの友」に変えただけでなく、送料が節
に登場させ、それが穂積先生のものである
約できる「第三種郵便」がとれる内容をめ
こともどこかに掲げてほしい。
ざされ、1966(昭 41)年 11 月、その認可
先生はいきおい、毎号、巻頭言を書くこ
が実現した。毎月の発刊が必須となり、毎
とを余儀なくされることになる。先生の文
回、宛名用のガリ版に小さなロールで宛名
章では「仮名遣い」は「歴史的仮名遣い」
を一枚一枚印刷して、本郷郵便局に運び込
に固執された。占領軍にいわれて、唯々
んだ日々が懐かしい。「アジアの友」の定
諾々と変更するわけにはいかない、という
期発行は大変だったが、それが「寮友」と
主張だった。そうは言っても、先生もやや
のパイプとなり、納めてもらう会費への「見
不安なところがあるということで、私は
返り?」ともなったように思う。そういう
部厚い『新潮国語辞典』を片手に確認をし
こともあって、誌面には、「寮だより」「会
ながら作業を進めた。また、他の原稿がそ
館だより」や「協会日誌」が設けられてい
13
13
ア
5友
0」
05
号0
記0
念座
「ジ
アア
ジの
ア友の
号談会
私 が ABK に 入 っ た の は 1962 年 春 で、
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
た。また、時々の留学生に関連する事件や
問題をとりあげたが、それが寮友以外の留
学生関係者にも読まれるようになり、誌友
がひろがったように思う。
瀬川さんは、
当初「随想」欄としてスター
トさせたものに、途中から「一点鍾」との
名 を 付 け ら れ た(42 号〈1967 年 3 月 号 〉
から)
。そのコラムは誰が書いたか今となっ
てはわからないようだ。先日、会館を訪ね
てバックナンバーをめくって見ると、
「一
1966 年 12 月号(No.39)より
点鍾」の文末に「烏城」とあるものがあっ
の友」、39 号 1966 年 12 月号所収)がそれ
たが、これは私だと思う。私の出身地岡山
である。民族の独立、解放へのアジア・ア
の城は別名「烏城」だったのでそれを使っ
フリカの青年に通底する熱いものが盛り込
たのである。瀬川さんの真骨頂のあらわれ
まれていたように思う。同じ号に、インド
の一つが「一点鍾」を生んだともいえる。
のジャガナタ・ラオさんも「故レモス君に
先生の口述を書きとって、それに手を入
捧げる」を寄せている。
れてもらって巻頭言としたこともあるとさ
レモス君が都立駒込病院でなくなった
きに書いた。実は、もう一つ同じような方
時、ごく事務的に火葬の手続きを進めよう
式で文章化した忘れられないものがある。
としたところ、多くの在館生がぜったいに
在館生の一人であるアフリカのアンゴラ出
火葬にだけはすべきでない、もし将来遺族
身のレモスさんが病気で亡くなったのは
と連絡がついた時、火葬にしたと聞いたら
1966 年 10 月のことである。当時のアンゴ
驚くかもしれない、という。しかし、東京
ラはポルトガルの植民地で、民族解放の武
では土葬にすることはできない規則になっ
力闘争が展開されていた。レモスさんの死
ていて、ほとほと困り果てたのである。そ
には、アジア・アフリカの青年たちは特別
うこうしている内に、エジプト人留学生が
な思いを寄せていた。私は、その「思い」
あちこち連絡をとり山梨の塩山の文殊院に
を何とか文章化して誌面化したいと考え、
回教徒のための墓地が確保されていること
何人もの在館生に依頼したが執筆となると
を突きとめ、回教徒ではないが特別の許可
なかなか難しい。結局、ヘンフチョンさん
を得てくれたのである。翌日、町屋の火葬
(マラヤ留学生・東大)の部屋に入り込ん
場に行くのをとりやめ、車で塩山まで遺体
で、彼のレモスさんへの熱い思いを聞きと
を運び、当時は中央高速もなく、現地に着
り、それを私なりに文章化し、彼に校閲し
いたのは夕方で、夕焼けを背景に遺体を静
てもらって紙面に掲げることができた。ヘ
かに土に返してホッとしたことを昨日のよ
ンフチョン「悲運の友の墓標に」
(
「アジア
うに思いだす。その光景はアフリカの大地
14
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
に埋葬するかのようだった。享年 26 歳。
日本の現状なり、アジア・アフリカ・ラテ
当時と状況は異なるかもしれないが、昨
ンアメリカの現状なり、そこと日本との関
今の日本及び東アジアの状況には多くの問
係などについて、率直な意見を書いてもら
題が横たわっている。
「一点鍾」のような
うなり、インタビュー記事を載せたらどう
コラムを設けて、在館生やその OB・OG
だろう。そこに、日本人の OB・OG を加
の在日する人に、匿名でも発言してもらう
えることも考えてもいいかもしれない。前
場を設けたらどうだろう。日中関係、日韓
にも触れたが、やはり、新星学寮、アジア
関係、日本の状況などについて、貴重な意
文化会館、そして日本語学校の日誌的なも
見が聞けそうに思うがどうだろう。昔の在
のを記録として残すことが必要ではなかろ
館生で帰国後かなりの時間がたって再来日
うか。
した人々のインタビュー記事には仲々興味
当時の思い出を綴り、若干の提案も加え
深いものがある。在日の OB・OG の人々に、
て小文を閉じたい。
工藤正司
(在職期間 1968 年 4 月~ 1975 年 3 月、1977 年 6 月~ 2012 年 5 月)
私がア文協(財団法人アジア学生文化協
いいんだろう。
」とせがむ母を押し切って 25
会)に入職したのは 1968(S.43)年の 3 月
日に ABK(アジア文化会館)に戻って入職
だった。入職前に帰省しておこうと思って、
したのである。
3 月中頃職員にその旨伝えに行った。そうし
仕事を始めて一番恐かったのは電話が鳴
たら、当時職員だった田中宏さんが、
「いつ
ることだった。自分の目の前で鳴っている
帰って来るの?」と聞くので、「3 月 25 日頃
電話を先輩職員にまかせるわけにもいかな
」 と応えた。そうしたら、すごいパンチを食
い。大学の 4 年生と大学院修士の計 3 年間
らった。
「
『ごろ』とは何だ !! 25 日より遅く
を ABK で過ごした私は、職員の管理のズボ
ても、いつでもいいが、仕事をするのなら、
ラさをいつも批判し、電話も交換台に休日
はっきり『何月何日』でなければならない。
」
毎に日本人学生仲間の当番制で、ボランティ
と言うのだった。私は「マイッタ」と思っ
アで座っていたから、ABK は自分の家みた
た。それで、
「もっといたら、4 月からでも
いなもので、電話もお手のものだったはず
15
15
ア
0」
05
号0
記0
念座
「ジ
アア
ジの
ア友
の5友
号談会
社会批判の精神無ければナンセンス
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
だが、職員として世の中に通用する受け応
の役割」であった。先生は、どちらかと言
えは訓練できていなかったから、職員に囲
えば、アジアにとって明治維新が役に立っ
まれた中で電話に出て、
「何だ、その話し方
た面を探ろうとする視点から、政府は自国
は !!」とやられはしまいかと、びくびくだっ
の利益しか考えないから常に当てにならな
たのである。
いが、民間人の中には、当てになる者がい
当時は、千代田博明さんが、まだア文協
るとして、具体的人物をあげて説明するの
におられて、
「工藤君、これやってみて」と
に多くの時間を費やした。ただ、日本と他
仕事が回ってきた。それらの紹介は別の機
のアジア諸国が西欧の進出に対して示した
会に譲って、明治百年関連に触れよう。私
違いを、
西欧の進出を「許容」したか、
「拒否」
の入職した年が明治百年に当たっていたの
したかにあったとした。この論は、留学生
と、
『アジアの友』とも関連するから。
に大きな議論のテーマを与えることになっ
ア文協は、日本ユネスコ協会連盟と共催
た。西欧の近代化は、他を侵略してのもの
で、明治百年をどうとらえるかについて懸
であり、日本もそうであった。では、アジ
賞論文をアジアの留学生に募っていた。小
アはどこを侵略すればよいというのか?先
木曽友さんが担当で、既に優秀賞等入選者
生の論に従えば、弱肉強食の論にならざる
は決まっていた。ただ、入選者等で明治維
を得ないではないかというのであった。
新ゆかりの地を巡る旅行行事が残っていた。
『アジアの友』
(昭和 43 年 6 月号、
第 56 号)
それに、小木曽さんと共に、私と新星学寮
に、私がこの件を報告した。そして、翌月
(ABK 設立の母体となった学生寮)の日本
号(第 57 号)に、留学生の旅行参加の感想
人寮生三人がついて回ることになったので
文が載った。すると、衛藤先生から、先生
ある。明治維新の精神的支柱の吉田松陰の
の言い分も載せるようにと抗議があった。
郷里山口県萩に松下村塾も訪ねた。初日に
確かに、留学生の反応の報告だけでは片手
セミナーが組まれていて、何人かの先生が
落ちと思われたので、先生の真意を知りた
明治維新にちなむ歴史の講演をされた。最
いと、杉並区久我山に先生のご自宅を訪ね、
初は、東京学芸大学教授の小沢栄一先生の
次号に先生の講義録を載せた。
(第 58 号)
「日本の近代化と明治維新」で、質疑応答に
その何年か後、
『アジアの友』の編集を、田
入ると、真先に留学生から「近代化」を何
中さんから引き継いだ。田中さんが、愛知
で測るかについて提案があった。
「西欧の国
県立大学の先生になって、ア文協から去っ
家形態を基本尺とするのではなく、
『人民の
たからである。それにしてもア文協は人材
主権の拡大・深化』で見るべきではないか」
を、惜し気もなく他に放出してきたものだ
というのであった。この提案は、このセミ
と思う。退職者を別にして、田中さんと同
ナー・旅行行事の成果を決定したとも言え
じ頃柳瀬修三さんをタイ TPA(泰日経済技
た。第二回目の講義は、東大の教授衛藤瀋
術振興協会)の立ち上げ支援に出向させた
吉先生の「アジア近代史における明治維新
(柳瀬さんは出向終了後もタイに残って、国
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アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
籍は日本だがタイの人となった。タイに往
の赤字への転落等々。そして、何と言って
く人で彼のお世話にならない人は殆どいな
も、終身雇用制等、上昇期の日本が特徴と
い。
)のを皮切りに、千代田さんを AOTS
していた文化の否定である。他方、論調は
〔
(財)海外技術者研修協会〕の事務局長に(千
どうかと言えば、他に耳を傾ける余裕等無
代田さんは AOTS 崩壊を救い、現在弁護士
く、自らを誉めちぎり、他の欠点を挙げつ
として自活の道を歩んでいる。
)
、長谷川義
らうのに汲々としていはしまいか。他と自
春さんを日中友好会館の求めに応じて移籍
を敵・身方に分け、身方を誇り、敵を罵倒
(現在ベトナム在住)
、また、栖原暁さんは
する単純な構図に陥っているとすれば情け
ない。こうなると、自らの自己矛盾や欠点
それに現在ア文協に戻っているが、佃吉一
を指摘するだけで利敵行為とみなしてしま
さんを’70 年台から 30 年近く JTECS〔
(社)
う。他に学ぶことなど論外で「敵を知る」
日・タイ経済協力協会〕に出向させ、
(その
ことさえ許さなくなる(戦時中が「鬼畜米英」
間タイの TPA に二度も出向させた。
)白石
と英語を学ぶことを禁じる等、そうだった)
。
勝己さんを約5年間 TPA に赴任させ、布施
これで、日本の復興は本当にできるのか?
知子さんを 3 年以上 TPA に赴任させ、帰国
近年の国内の就職難も重なって、若者が海
後、JTECS に 7 年近く出向させた。そうい
外に職を求め(
「セカ就」
)
「
、やりがいがある。
う中でア文協はよくもったものだと思う。
日本はつまらない。
」と言っていると伝えら
れているではないか。
さて、私の『アジアの友』編集当時に移
自らを自慢し、他をけなして溜飲を下げ
ると、読者の一部から「反日的」だと幾度
ていても、自分がよりましになるわけでも
かお叱りを受けた。当時日本は、マスコミ
ないから、自らの発展は望むべくもない。
も「日本ほど、自分がどう見られているか
結局、
「学ぶこと多き者が勝利する。
」ので
気にする国はない。
」と書き立てていた。他
あってみれば、これを阻害する風潮を破ら
からの批判を気にして、良く受け止めてい
ねばならない。
『アジアの友』は、
もっともっ
たのである。自らの欠点克服に努めること
とアジアを知るためにアジアの視点で、日
は、
発展の要点に違いない。
『アジアの友』
も、
本社会を批判的に見たらいいと思う。
「反日
アジアの視点で見よう、日本だけで通用す
的」のお叱りを恐れ日本だけで通用する論
る内向きの議論ではダメだと論陣を張って
調に迎合してはナンセンスである。ABK の
いたから、一部には「日本を批判する『反
創設者は、ABK は「アジアの独立と繁栄の
日誌』
」と見た人もいたかもしれない。1970
ためのもの」と言っている。本論も、
「日本
年代、80 年代のことである。
の復興」を論旨にしているようでは、それ
それが今はどうだろう。マスコミはじめ
とは道遠しではあるが、いつの日か創設者
あらゆる言論界が日本の衰退を言っている。
の呼びかけに合流できる道を歩み続けねば
若年人口の減少、産業の空洞化、貿易収支
ならない。
17
17
「アジアの友」500号
東大留学生センター教授に(2011 年逝去)
。
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
「アジアの友」500 号記念座談会
穂積先生と ABK の思い出
小木曽 友(アジア学生文化協会 理事長)
ガ
ル
グ
ヒサマロ
雅留宮 久麿(インド)
橋本 イスラム ヌルール(バングラデシュ)
グル アハマッド バハドル アーセフィ(アフガニスタン)
ホラス ノリブン(インドネシア)
共生の素晴らしさを若い世代に
考えたんですね。というのは、お互いが本
当に仲良くなるためには共同生活が一番だ
編集部 みなさまお久しぶりです。今日は、
と。それは穂積先生が新星学寮で経験したこ
日本留学後さまざまな事情で日本に長く暮ら
とを ABK でもやりましょうということでし
し仕事を続けておられる 4 名の方にお集まり
た。もう一つは、通産省(当時)の要請に
いただき、また、1960 年にアジア文化会館
よって AOTS(海外技術者研修協会)を作
(ABK)ができた時、日本人学生として入館
ることになり、技術研修生も一緒にここで生
してから今日まで ABK 一筋で人生を送られ
活するということになりました。これは今か
てきた小木曽友(財)アジア学生文化協会理
ら考えるととっても大きな意味があった。学
事長に加わっていただき、久々に穂積先生の
生はまだ社会に出ていない勉強中の人です
こと、ABK 在館中の思い出などについてお
が、研修生はもう自分の国で学校を出て、社
話を伺いたいと思います。それではまず、小
会で働いている人たちで、タイだったらタイ
木曽さんからお願いいたします。
の社会のことをそのまま持ち込んでくるよう
小木曽 穂積先生が一番はじめに考えたの
な人たちですよね。ABK で留学生と研修生
は、この ABK はもちろん留学生のための宿
と日本人学生が「同じ釜の飯を食う」
(一緒
舎ということが第一ですが、日本人の学生
に生活する)ことになった、これが結果と
も一緒に住むということが絶対に必要だと
して、アジア、アフリカ、中南米に帰国留
18
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
学生・研修生の同窓会(ヒューマンネット
ワーク)ができる固い絆となった。そしてこ
の同窓会を基盤として、タイには泰日経済
技術振興協会〔TPA:Technology Promotion
Association(Thailand-Japan)〕 や 泰 日 工 業 大
学(TNI:Thai-Nich Institute of Technology)
、
ベトナムにドンズー日本語学校などが生ま
れ、インドにも日本語学校や IT 企業が生ま
れることになった。たぶん ABK での生活が
大学の留学生だけだったらこのような深い発
小木曽友 (財)アジア学生文化協会理事長
展はなかったのではないか、と思います。留
を得て、あまり大きすぎない、留学生と日本
職員)も一緒に生活した−いわば一種の梁山
人学生が一緒に住める寮をもっと作って、若
泊であった、ということが、今から考えると
い人たちがそういう生活ができればいいと思
とても大きな意味があったのではないか、と
いますね。
思います。
ガルグ 今は、中国、韓国との経済戦争が起
イスラム 私が、新星学寮(ABK の母体と
きています。ですから、そういう時代にそれ
なった学生寮)に住んでいた頃には、毎日寮
ぞれの若い人をどうやって結びつけるかが重
の掃除も、食事の準備も寮生が当番で交代で
要です。例えば、外では難しい問題がありま
してました。それまでほとんど料理を作った
すが、ABK には、今でも色々な国の人が来
こともないし、それにたくさん作るので、最
て暮らしています。中国人も韓国人もいっぱ
初はどうしてよいか分かりません。私も、国
いいるじゃないですか。そういう交流は大変
に手紙を書いてカレーの作り方を聞いてつ
大事ですよ。
くったりしました。
(今は上手ですよ!)ま
Home away from home
た、週末には誰かの部屋に日本人学生も留学
生もみんなが集まって、話したり、飲んだり、
食べたり、色々と、やはり楽しかったです
小木曽 もう一つ先生が凄かったのは、アジ
ね。それでも、喧嘩もするし、お互いに困っ
アの国には大国もあるし、小国もある。また
たことをサポートしあったりしていたんです
経済的に豊かな国もあれば貧しい国もある。
ね。そうした助け合いは留学生だけじゃなく
政治体制も資本主義の国もあれば社会主義の
て日本人もいたから成立していたと思いま
国もある。あのころは中国の留学生はまだい
す。今でも、日本人学生もアパートが高くて
ませんでしたが、キューバの研修生はいまし
田舎の親が大変な時代と聞いてます。だから、
たから。少なくとも ABK の中では、
そういっ
ABK がその経験を生かしてどこからか支援
た民族や政治体制、宗教、風俗習慣の違いも
19
アジアの友500号記念座談会
学生だけでなく、技術研修生も日本人(学生・
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
度実現して、当時日本はまだアジアの留学
生がアパートの部屋を借りるのも大変な時
代だったけど、ABK の中では、Home away
from home が実現していたと思います。あ
る時、フィリピンのアレグレさんという留学
生から、
「小木曽さん、穂積先生というのは
不思議な人ですね。
」と言われたことがあり
ました。ABK には何十という国の人がいて、
それで言葉もあまりわからない、風俗習慣も
全部違うのに、まるで自分の国にいるように
自由に伸び伸びとやっている。そういう場を
作った穂積先生というのはどういう人だろ
雅留宮久麿(がるぐひさまろ)
う、不思議な人だ、というわけですね。
インド出身 エーザイ(株)インド担当顧問、(株)
ガルグ “Home away from home”ですよね、
ニューリンクジャパン取締役会長
みなさん。例えば私が ABK にいた 1971 年の
東京大学・早稲田大学留学
頃、インド、バングラデシュ(*1)とパキスタ
ンの人がここで一緒に住んでいるんですね。
超えて、みんな平等だという考え。また、日
当時は第 3 次印パ戦争の時ですから考えられ
本は戦争を起し、アジアの国を植民地支配し
ないですよね。しかし、お互いに喧嘩もしな
たり侵略もした。そういう意味では日本は他
いし、いがみ合いも罵りあいも何もないわけ
のアジアの国と対等ではない。アジアの留学
です。ABK でピンポン大会などあればみん
生・研修生に接する場合は、日本人の価値観
な一緒に応援しているわけですよ。パキスタ
を捨てて、まず相手から学びなさいと。そう
ン人も、バングラデシュを応援してるんです。
いう気持ちでアジアの人々と接して初めて仲
その時私は、ABK 自治会〔アジア学生文化
良くなれる、と先生は仰ってました。
「あら
会(*2)〕の会長だったんですが、本当にすご
ゆる個人、あらゆる民族の自主と平等」とい
いことだと思いました。ABK はそうした雰
う理念を穂積先生は ABK で実現しようとさ
囲気でしたよ。
れたのではないでしょうか。
小木曽 その時、バングラデシュの学生もパ
そして、その理想は ABK の中ではある程
キスタンの学生も、ここ(ABK)の別々の
(* 1)東西パキスタンの対立が激化し、1971 年 3 月西パキスタンが東パキスタンに軍事介入し、内乱が勃発。そして、
1971 年 12 月、インドが軍事介入し、第 3 次印パ戦争がはじまりインドが勝利し、東パキスタンがパキスタンから分離独
立してバングラデシュとなる。
(* 2)職員も学生文化会のメンバーで、ここで、会館の生活の問題やルール作りが話し合われた。また、文化活動、スポー
ツなどの諸活動が委員会で計画され職員と協力して行われた。
20
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
部屋でプラカードつくり、デモに出かけてい
く。ABK の中では決して喧嘩をしない、と
いう申し合わせをして。外では、お互いに対
立した主張をする。それは不思議な光景でし
た。また、同じ頃、ベトナム学生が反戦運動
を起こした時も、学生が新星学寮や ABK に
集まってデモに出かけるんですが、その時、
穂積先生はそのデモの後について行くんで
す。自分が預かった留学生だから責任がある、
トラブルが起こらないように私はついて行く
んだと言って、デモに付き添って行った。
バハドル ベトナム戦争の時代はベトナムの
橋本 イスラム ヌルール
ベトナム人留学生と当時の法務大臣のところ
バングラデシュ出身 スリジョン株式会社代表取締
に行って、在留資格のことでお願いをしたこ
役 電気敷設コンサルタント
ABK 同窓会奨学金の研修生として来日、東洋大学
とがありましたね。1968 年にベトナム戦争
で学ぶ。卒業後発展途上国での電気通信関連の事業
のソンミ事件があって、69 年にそのソンミ
に従事
事件が暴露されてから、日本でもベトナム人
留学生、それに外国人留学生も抗議のデモを
よくわからない。ある日、穂積先生から電話
やったんですね。いろいろ大変なことがあっ
がかかってきて、
「友さん元気かね?」
、
「はい、
た時代です。田中宏さん、亡くなられた田井
元気です。
」
、
「あなたのアパート代は今いく
さん、工藤さん、小木曽さんなど、穂積先生
らかね?」って聞くんですよ。その時いくら
と一緒に色々な支援をしてくれましたね。
か忘れましたけど、
「○○○円です。
」と言っ
たら、
「ああ、そうかね。それじゃあアジア
文化会館(ABK)の方が安いね」
。それで僕
三つの心得
はすぐピンと来て、
「あ、わかりました。行
小木曽 私は 1960 年、ABK の開館と同時に
きます。
」と即座に答えて、その一週間後に
日本人学生として入ったでしょ。新星学寮を
荷物を全部リヤカーに積んで ABK に来たん
出てから、何となく穂積先生の回りにいたく
です。それが僕が ABK に入ったきっかけで
て ABK の近くのアパートに住んで、大学院
す。当時は日本人は僕のほかに杉浦正健さん
に行ってたんですね。当時、アジア文化会
や関川弘司さん、勝山隼さん、久保哲也さん
館(ABK)がそろそろ出来る頃だというの
など、
4 階と 5 階の 4 人部屋に住んでいました。
を知っていて、出来たら入りたいなあと思っ
会館での生活が始まるとき、穂積先生が日本
ていたんです。でも、どうしたら入れるのか、
人の学生や職員によく話した「三つの心得」
21
アジアの友500号記念座談会
留学生も大変でしたね。特に田中宏先生が、
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
い殻を捨てると、穂積先生がそれをだまって
拾うんです。それを見て彼らはびっくりする
わけですね。特に玄関のところに吸い殻が
いっぱい溜まっていて、それを穂積先生が拾
うんですが、ただ拾うんじゃなくて、みんな
国を離れて寂しいんだろう、それでここでタ
バコを吸って家族のことなどを思い出した時
に、つい捨ててしまうんだろうと。そう思い
ながら拾っているんだと僕に話したことがあ
る。そういう先生の気持ちも伝わって、タバ
コのポイ捨てをする人もだんだん少なくなっ
ていきました。
グル アハマッド バハドル アーセフィ
「心得」の二番目は「留学生・研修生に学べ」
。
アフガニスタン出身 通訳、翻訳家
実はこれがよくわからなかった。留学生は日
文部省国費留学生として来日、静岡大学、上智大
本に学びにきた人たちだから、留学生に教え
学、創価大学で学ぶ、専攻は政治学
なさい、というならわかるけど、留学生に学
べ、というのはどういう意味だ、と。そして、
というものがありました。その第一は、
「ゴ
「心得」の三番目は、
「アジアの人と接する時
ミを拾え」
。穂積先生はご自分も会館に来る
は、まず日本人の価値観を捨てよ」というの
とゴミを拾っていました。
です。これが全くわからなかった。穂積先生
ガルグ 覚えてますよ。よく拾ってましたね。
の言われるには、日本人はアジアの国のこと
小木曽 それはどういう意味かというと、何
をよく知らない、中国や韓国は「一衣帯水」
十という国の人がいて、民族性も言葉も宗教
とか「同文同種」とか言っているが、日本人
も風俗習慣も違う。だからどこか一つの国の
は実は良くわかっていない。特に侵略戦争や
法律とか道徳とか価値観で統一することなど
植民地支配の日本は加害者、アジアの人々は
できない。ゴミを拾う、つまり生活の場所を
被害者ということを日本人はよく自覚してい
いつも清潔にするが大切だということは、国
ない。ABK の中で留学生と日本人の間で意
の違いを超えて誰にでも理解できることだ、
見の対立などがあった時に、それが違うとか
というわけですね。穂積先生は、若い頃禅寺
いいとかいうことを日本人の価値観ですぐに
で修業して、新星学寮で寮生が自分達で掃除
決めつけたら、相手はそれで心を閉ざしてし
をしたり食事を作ったりするのも禅寺の方式
まい、関係は終わりだよ。まず、こちらが心
を取り入れたものでしたから、ABK でもそ
を開いて、相手の言うことをよく聞くこと。
れを実践されたわけですね。来日したばかり
そしてだんだん理解が深まって、本当に仲良
の留学生・研修生がタバコを吸ってポンと吸
くなってからなら、今度は何を言ってもいい。
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アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
「留学生に学べ」というのはそういうことだ、
というんですね。ここは日本だから、絶対日
本人の方が優位な立場に立っている。だから
優位にある方が謙虚になって心を開いて、そ
れで初めて留学生・研修生の人たちが心を開
く。ここは自分たちの気持ちをよくわかって
くれる所だとなって、だんだん心を開いて仲
良くなることができるから、という意味だっ
たんですね。当時の僕たちはそこまで理解で
きずに、わからないままにやっていたわけで
すが、この「三つの心得」に従って生活して
いると、
本当に仲良くなることができた。
「あ、
ホラス ノリブン インドネシア出身
な。
」と実感したわけです。
東京水産大学大学院修了(現東京海洋大学)
現在インドネシアで南洋真珠養殖及びインドネ
実は、こういうことを実現するためには、
シア鉄道車両事業に従事
ABK は民間の力で建設し運営する必要があ
る、という固い信念が穂積先生にはあって、
留学生の会館を運営するには、多額の経費が
う校名表札の字を揮毫されたのも、そうした
いるだろうからと、当時の岸首相(穂積先生
ご縁に遡るわけですね。
の大学の先輩。上杉慎吉博士の同門)の計い
自国の社会発展に貢献してください
で、政府(文部省)から補助金が出るように
するというようなお話もあったようですが、
先生は民間の自由なやり方で運営したい、と
編集部 ガルグさんはどんな経緯で ABK と
いう意思を貫かれ、政府からの補助金は辞退
関係を持ちましたか。
したと聞いています。
ガルグ 私は学振(学術振興会)の研究者
ガルグ 私は岸さんに会っているんですよ。
として 1970 年に初めて来日したんですが、
小木曽 ABK のニューイヤーパーティー
(新
ABK に入ったのは、東大で私の Phd. の指導
年会)に来て歌を歌われたことがありまし
教授だった小林先生からの紹介です。当時は
た。岸さんの女婿の安倍晋太郎さん(現安倍
ラオさん
(インド人留学生、
当時 ABK 在館生)
晋三首相の父上)が、まだ毎日新聞の記者の
が小林先生を知ってたので、それで ABK を
ころからアジア学生文化協会の理事になっ
紹介されたんですよ。
ていただいた、というような親密な関係でし
インド人の場合、まず日本には来ないじゃ
た。安倍首相が以前、タイの TNI(泰日工
ないですか。食べ物の問題もあり、言葉の問
業大学)を訪問され、
「泰日工業大学」とい
題もありますから。私の働いていたインドの
23
アジアの友500号記念座談会
なるほど、これはそういうことだったんだ
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
い。土・日は日本に着いても大学に電話がつ
ながらないし、東大の先生には連絡がとれな
かったんですね。持っているのは手紙だけで
すよ。宿泊先はアジア文化会館と書いてある
先生からの手紙だけでした。仕方がないの
で、リムジンに乗って、シティに行きたいと
思ったけど、当時はまだ英語を喋べる人がほ
とんどいない。とりあえず、シティのホテル
へ行ってみようと、銀座のどこかのホテルま
で行ったんです。そうしたら酔っ払いが一人
ホテルから出てきた。冬の夜中の 2 時ですよ。
彼は「キャンアイヘルプユー」と英語で言っ
てくれたんですよ。それで手紙を見せたら
「アイノー、ディスプレイス」といって、一
大学(ベナレスヒンドゥ大学)に日本に留学
緒にタクシーに乗せてくれ、赤坂の“アジア
経験のある先生が一人いたんです。彼は 6 か
会館”に行ったわけです。本人は私をアジ
月の奨学金をもらって来日し、3 か月で帰国
ア会館で降ろして帰っちゃったわけですよ。
してしまったそうです。当時、私はカナダと
本当にとても親切な人でした。到着した場所
日本から奨学金をもらえることになっていた
は違いましたが、そこに空室があったので、
ので、どちらに行くべきか、いろいろ調べた
その晩はアジア会館で寝たわけです。そして
んですね。そこでその先生に話を聞いたら、
次の日、アジア文化会館(ABK)のラオさ
日本には行かないほうがいいと言われまし
んに電話をしてやっと ABK にたどりついた
た(笑)
。食べ物の問題、言葉の問題、文化
わけです。そして、ラオさんの紹介で穂積先
の問題、
・・・、問題が多いと。それで、私
生と田井さんと小木曽さんにお会いして館
は3か月で戻ってきたと。じゃどうしようか
内をいろいろ案内してもらいました。
と思っていた時に、東大の先生からこうい
来日後思ったのは、インドで聞いた日本人
う研究をやりましょうという手紙が届いて、
の印象と違って、日本人はすごく優しかった
それで決心して日本に来たわけです。当時は
ということです。酔っ払った人が夜中にタク
インドから海外に出る時には 100 ドルしか持
シーでホテルまで送ってくれた。今でもその
ち出せなかったんです。日本にはエア・イン
方に会いたいと思うんですよ。そして ABK
ディア(インド航空)で来たんですが、搭乗
に来たらいろんな国の人がいるじゃないです
予定の飛行機がキャンセルになってしまい、
か。雰囲気が外の世界と全然違う。聞いてい
それが金曜日で、結局土曜日の深夜 12 時ご
たことと全然違うわけです。そして ABK が
ろ羽田に着きました。当然迎えは誰もいな
私の日本の家になったんです。しかし、ABK
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アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
が、その時かつて ABK に住んでいた人たち
が 1970 年のことです。
にもよく出会いました。会った時のフィーリ
穂積先生とはあまりたくさん話しはしな
ングですね、どこでも ABK の印象が同じな
かったのですが、帰国する時、
「雅留宮」と
んですね。フィロソフィーですよ。どこでも
彫られた象牙の太い印鑑をもらったんです。
みなさん ABK を忘れてないんですね。ブラ
その当時は学生で、日本では印鑑をサインと
ジルでもメキシコでも、
・・・。本当に不思
して使うということを知らなかった。だから
議なフィーリングですよ。
インドに帰って家に飾っておいたわけです。
小木曽 いろんな国で ABK の同窓生に会っ
その後、ABK でアルバイトをしていた岡田
たわけですね。
さんと深谷さんという外大(東京外国語大学)
ガルグ ええ。やはりフィーリングなんで
の学生 2 人が、1年間インドに留学すること
す ね。 ど この 国 の お 医者 さ ん で あ って も
になりました。その時、私が大学やビザの手
ABK での生活は忘れてない。同じフィーリ
続きをしたのですが、彼らがインドに留学し
ングなんです。だからそのフィーリングが
た後、私の家に来てその印鑑を見て、それが
何んなのか考えると、
『人間はみな平等だ』
飾り物でないことや、漢字の意味を教えてく
ということです。それが一番大事ですよね。
れたんです。それで改めて、穂積先生は私と
それは ABK に住んで身体に入ったものなん
はたまに話すだけだったのに、私のことをよ
(*3)
ですね。
く見ていてくださったのだと思ったんです。
それから、穂積先生は自立した人になりな
その後日本人と結婚してインドの大学で働
さいと。私はエーザイで「インドに会社を作
いていましたが、穂積先生、田井さんから手
りましょう」と、10 年くらい言い続けてきた
紙をもらい再び日本に戻って来ました。今度
んです。でもまだ早いということで在職中は
は小木曽さんの紹介で、ABK 同窓会の研修
実現しませんでしたが、定年後引き続きエー
生としてエーザイに入りました。その後、
エー
ザイでインド担当顧問として長年の夢であっ
ザイの社員になって、退職まで働きました。
たインドに 100%エーザイの会社を立ち上げ
エーザイは製薬会社ですから、やはりヒュー
る事が出来ました。先生のフィロソフィーに
マンヘルスケアをおこなう仕事でもあるんで
『自国の社会の発展に貢献してください』と
すね。その仕事で 65 か国に行ったわけです
言うことが、心の片隅にあって、そうしたい
(* 3)1964 年に同窓生の発意によりつくられたアジア文化会館同窓会の設立趣意書には「このたび、私たちアジア・アフリ
カ・ラテンアメリカ諸国の青年学徒は、アジア文化会館における数年間の共同生活を通じて、すべての個人すべての民族の自
主と平等の原則を実証しながら、相互の連帯の意識をつよめ、ここに、内よりの自発的意欲を持って、アジア文化会館同窓会
を結成することになりました。従って、私たちの同窓会は、自己の充実を通じて民族の発展に寄与するとともにひろく、アジ
ア、アフリカ・ラテンアメリカなどにおける新興諸国の向上に裨益せんとするものであり、そのことは、同時に、全世界の平
和に通ずるという信念と輝かしい理想にあふれ、それを成就しようとする青年の活力と創造力に満ちたものと言えましょう。
……」とうたわれている。
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アジアの友500号記念座談会
の外に出るとまったく違うわけですが、それ
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
と。そのことが定年退職してから実現したわ
小木曽 今、ガルグさんの話を聞くと、ガル
けです。今 8 年になりますが、すでにインド
グさんは、穂積先生が信頼して判子までつ
で 500 人の社員を抱えて仕事をしています。
くってもらったり、自分だけが特別のことを
社員 500 人にそれぞれ 5 人の家族がいるとす
してもらったと思っているでしょ。ところが
ると、2500 人ほどの人の面倒を見ているわ
留学生・研修生はみんなそう思っているんで
けですね。その後工場も建設されました。自
す。エジプトのメルザバニーさんという人が
分の人生の中で、インドに貢献することが
文章に書いているんだけど(
『アジア文化会
実現できた。先生のフィロソフィーの影響
館と穂積五一』
)
、穂積先生と会った人は全員
を受け、今それが実現でき本当に嬉しく思っ
自分が特別待遇を受けたと思っているんだ
ています。その後、私は自分の新しい会社
と。しかも面白いのは、留学生だけじゃな
も設立しました。社名は「ニューリンクジャ
くて日本人もそうなんですね。例えば私も、
パン」といいます。
「ニューリンク」とはど
穂積先生は俺を一番かわいがってくれたと
ういう意味ですか、とよく聞かれるんです
思っているわけで、なるほど確かにそうなん
が、これは、マイオールドフレンズとニュー
だなと(笑)
。
フレンズ、その二つをリンクして仕事をや
あなたは何か困ったことないの?
る、
そういう意味なんです。何をやるか。今、
薬に関連したいろいろな仕事をやっていま
す。薬は世界中のどんな患者さんに対しても
編集部 イスラムさんは、ABK、新星学寮
同じです。インド人にはインドの薬、イタリ
とはどんな出会いですか。
ア人にはイタリアの薬ではないですから。そ
イスラム 私は 1970 年に、ABK 同窓会の研
うした薬を日本の多くの患者さんにも、でき
修生で来日したんです。当時、東パキスタン
るだけ安く、ハイクオリティーなものを提供
(その後、バングラデシュ)の製紙会社の電気
したい。仕事も何か社会に役立つことをしな
部門で働いていたんですが、そこを辞めてパ
ければならないという思いでやっています。
キスタンのダッカ同窓会の推薦で日本に研修
穂積先生に影響されたんですね。どこまで正
で来日したんです。同窓会の奨学金に受かっ
しいかわからないけど、私は日本に来て人生
たという情報はダッカには来てたんですが、
が変わっちゃったんですよ。名前まで変わっ
私が住んでいたのはチッタゴンというところ
て、奥さんも ABK で働いていた日本人だし
で、郵便事情も悪かったのでその知らせを受
(笑)
。だから日本に来て良かったですよ。あ
け取ってなかったんですね。知ったのは、た
の日本行きを反対した先生は、もう亡くな
またまダッカに遊びに来て同窓会事務所に立
りましたが、一度報告しました。日本に行っ
ち寄った時で、あなたを探してましたよと。
て良かったと。やっぱり ABK に住むことが
あと 3 日間遅かったらキャンセルになってい
でき日本の生活、印象が全然違ったんだろう
たそうです。本当に運命ですよ。さっきガル
ね。ABK の生活は全身に影響するんですよ。
グさんが話したようにめぐり逢わせと運命
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アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
は、私の場合きっとそこだったんですね。そ
れで 1970 年 9 月に来日したわけです。その時
空港に迎えに来てたのは小木曽さんでした。
最初は中部電力で研修しました。そこで3
か月の研修が終わったら帰国するはずだった
のですが、ちょうどその頃東パキスタンと西
パキスタンの対立が激化してきて危ない状態
になり帰れない。小木曽さんに相談したら、
新しい研修先を探してくれて、その後、三菱
あるけど、あなたは本当に日本に残るつもり
間研修を受けたんです。それでまた帰国とい
なら、ここしかないけど行きますかって。そ
うことになるわけですが、1971 年 12 月に東
したら、彼はしばらく考て、
「私はやります。
」
パキスタンが独立してバングラデシュになっ
と答えた。その時の目がすごかった。で、新
て政府も変わってしまい、会社もたぶんない
星学寮に入ったんですね。
わけです。どうすればいいのかまた小木曽さ
イスラム 大学は東京農工大の受験に落ち
んに相談して、自分は学校に行きたいんだと
て、私立の工学部で一番安かった東洋大学
言った訳です。あの時私は専門学校を出て 1
に決めたんです。小木曽さんに願書を取寄
年くらい働いてから来日しましたから大学に
せてもらいましたね。実は、国立大学も地
はすぐに入れない。そこで東京農工大の聴講
方なら行くチャンスはあったのですが、東
生になって1年間過ごしました。ただ自分は
京ほどアルバイトで稼げないので、いろい
聴講生の意味をよく理解してなかったので1
ろ考えて東洋大学に入ることにしたんです。
年間いて聴講生をやめて日本語学校に行き、
そこで、入学金を払うことになって、帰国
もう一度一から出直したんです。それできち
用に持っていた飛行機のチケットを現金に
んと日本の大学に入るための準備をしたわけ
したのですが、それでも 10 万円足りなかっ
ですが、お金はアルバイトで稼ぐしかない。
た。それで毎日悩んでいたんです。ところ
研修生の生活が終わった時に小木曽さんが私
がある朝、アルバイトに出掛けようと歯を
に、あなたは ABK には住めないから、新星
磨いていたら穂積先生に後ろからポンと肩
学寮に行かないかと言われたわけです。
をたたかれて、
「あなたは何か困ったことな
小木曽 もう研修生が終わっているから収入
いの?」と聞かれたんです。そしてちょっ
がないでしょ。でも ABK だと部屋代を払わ
と一緒に朝飯を食おうと言うんです。それ
ないといけない。その時新星学寮が頭に浮か
で奥の先生のところで朝飯を食べながら、
んだけど、あそこは冬は寒い。木造の古い家
入学金のことを話したら、
「わかった。いく
屋で、電気ヒーターしか使えない。それでイ
ら足りないんだ。
」
と。私が 10 万円と言うと、
スラムさんに聞いたのね。こういうところが
「じゃあ私が貸してあげるから、アルバイト
27
アジアの友500号記念座談会
重工で3か月間、それから新潟鉄鋼で3か月
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
をしながら毎月どこかに口座を作ってそこ
イスラム だから私もガルグさんが言った
に返しなさい。
」と言ってくれたんです。そ
ように、ABK と新星学寮で人生全部変わっ
れで無事入学することができました。
ちゃった。
大学に入って最初の夏休みに、たまたま東
小木曽 穂積先生はただお金を貸すというこ
京でインドやバングラデシュの高校生を招待
とはしない。やはり自分で自立してやらない
したセミナーが開かれたんです。その時に私
とダメだと言うことを考えているわけですね。
に小木曽さんか誰かから、ベンガル語、英語、
イスラム それとその時思ったのは、あの当
日本語、ヒンディー語、4つの通訳をやれな
時の 10 万円って大金でしょ。よく知らない
いかと言われてやったらすごくお金をもらっ
私に貸してくれるって、これはどういうこ
たんです。10 万円以上もらったので、それ
とって、びっくりした。それがまず一点。そ
を穂積先生のところへ持って行ったら、
「あ
の前にもガルグさんと同じように日本人の親
なた、約束が違うよ。
」って怒られました。
切さを感じたこともありました。私は中部電
仕方がないから、その 10 万円は口座に入れ
力で研修を受けていた時、中部研修センター
ておいて、アルバイトをしながら大学生活を
〔財団法人海外技術者研修協会(AOTS:初
続けたんです。そして、卒業したとき、穂積
代理事長は穂積五一)の研修センターで所在
先生のところに挨拶に行きましたが、先生は
地は名古屋〕にいたんですが、研修は終了し
口座の 10 万円を受け取らず、
「これはいいよ。
たものの帰国できず、滞在期間を延長して新
あなたへのプレゼントだよ。
」って。あの当
たに探してもらった研修先である神戸の三菱
時の 10 万円は凄い金額だったんです。
重工に行くことになったんです。だけど、神
小木曽 穂積先生はもともとあげるつもり
戸へ行くのに 3 万円くらいお金が足りなく
なんだけど、あげるって言っちゃうと、心
なってしまい、当時中部研修センターの高木
が弱くなるでしょ。だから返しなさいと言っ
さんにお金を借りたんです。私はお金をも
て、それで心を強くさせた。イスラムさん
らったらすぐに返しますと言って貸してもら
は英語塾のアルバイトなどしてて、だいた
い、そして約束通りにすぐ郵便で返したんで
い夜の 12 時ごろとかに寮に帰ってくるわけ
すが、そうしたら高木さんからすぐに電話が
ね。で、たまたまあなたが帰って来て寮の
あって、
「珍しい人だな、あなたのような人
玄関のドアを開けた時に、穂積先生と僕が
には初めて会ったよ」と言われました。誰も
そこにいたんです。先生が、
「遅くまで大変
がそう思って当然の時代なのに、彼は快くお
だね。あんたの身体からは後光がさしてい
金を貸してくれたんですね。
る。
」と言われたのを覚えています。僕は先
会館をつくった貢献の大きさ
生がイスラムさんにお金を貸したことは知
らなかったんだけど、先生は、イスラムさ
んが必死でやってるのをずっと見守ってい
編集部 バハドルさんはいつごろ ABK に入
たんですね。
りましたか。
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アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
バハドル 私は 1968 年だったかな。ここに
入って、初めに小木曽さんと誰だったかな、
面接しました。私は 1967 年に文部省の奨学
金で来日して、はじめは駒場に住んでました。
文部省の奨学生は 1 年は駒場に住まないとい
けなかったんですが、自分の希望としてはど
こか外に下宿して、日本人といろいろ交流し
て早く日本語ができるようになりたいと思っ
ていたんです。だから、下宿先を探して下宿
をしたんですが、来日後まだ 1 年にならない
ので、文部省から下宿のお金が出してもらえ
ない。しばらく下宿していましたけど、お金
を探すかしなければなりません。そこで、当
時私は外語大(北区西が原)で日本語を勉強
していましたが、誰かの紹介で外語大の近く
にアジア文化会館(ABK)という留学生の
環境に暮せたことは大変重要です。先生は後
宿舎があると聞き、ABK を希望して面接を
年理事長室のソファーでよくお休みになって
受けたわけです。
いましたが、こういう会館をつくった貢献は
そして、ABK に入ってからしばらくして
大きいですね。また、穂積先生を支え、そこ
静岡大学に編入試験を受けに行くことになり
で働いていた職員の方々、田井さん、小木曽
ました。その時 ABK のみなさんには本当に
さん、田中宏さん、工藤さん、永田さん、柳
親切にしてもらいました。静岡に行く時誰か
瀬さん、阿部さんはじめ食堂の方々も皆さん
に紹介してもらいましたね。藤本さんとあと
非常に親切でしたね。
は誰だったかな。静岡大学の先生も紹介して
それから留学中の 1978 年にアフガニスタ
もらいました。そして、無事静岡大学に入り、
ンに政変(*4)があって、その時はクーデター
そして卒業して、また東京に戻り上智大学の
でしたが左派政権ができて、私は左派政権を
国際学部の研究生になりましたが、その時ま
支持してここで記者会見もやりました。ま
た ABK に入りました。そして、その後は創
た、アフガニスタンでは 1965 年ころに大学
価大学の大学院に入り、ABK には長い間住
の教師、学生を中心とした新しい民主化運動
みました。私は、穂積先生とは、あまり話は
の動きが始まり、私も来日前に学生運動に加
したことはないですが、アジア、アフリカ、
わっていました。世界的にもそうした潮流が
ラテンアメリカからの留学生、研修生、研究
ありました。日本でも学生運動が盛んな時期
者などがこうした恵まれた、住み心地のよい
でした。東大、早稲田、…。私が来日して外
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アジアの友500号記念座談会
が少し大変だったので、また駒場に戻るか他
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
人間的和合
編集部 ホラスさんは国際学友会の旧学生
寮の最後の人でその後 ABK に移ってきたで
しょ。その頃の話からしていただけますか。
ホラス 私が日本に来るのは父の真珠の仕事
の関係なんです。日本はミキモトという真珠
の有名なブランドがあって、真珠の養殖であ
れば日本は先駆者、草分け的存在です。海外
留学というとインドネシアではヨーロッパに
行く人が多かったんですが、あえて日本を選
んだのはこのためです。もう一つは同じ東洋
語大で日本語を勉強していたときに、外語大
人で差別がないという話も聞いてましたの
もしばらく閉鎖されました。それで、私たち
で。そして、1975 年に来日して国際学友会
留学生はオリンピアアネックス(国立オリン
日本語学校に入りました。学友会は昔から外
ピック記念青少年総合センター)という代々
務省の管轄(昭和 10 年外務省の外郭団体と
木だったかな、そこに移動して勉強しました。
して創立)で、関係省庁の役人の天下り先に
私たちは来日後、はじめは駒場東大前に住ん
なっていると聞きました。従って、政府から
でましたが、駒場キャンパスも学生運動で大
たくさん予算をもらっているのに、私が、学
変でした。その後は、年を追って学生運動も
友会日本語学校に在籍していた時、累積赤字
沈静化し社会も安定しましたね。この間私は、
がたまり土地を売却しなければならないとい
大学に編入し、研究生となり、そして大学院
う事態になって、私たち留学生は住んでいる
に入り、大学院を修了しました。しかし、そ
寮から突然出されることになりました。学友
の後もだいぶ長い間日本にいることになりま
会の土地は新宿区の真ん中、大久保に広大な
したが、それは学問のこともあるけど、やは
土地を持っていました。民間で、そんな場所
り左派運動にかかわり、帰国すると身の危険
を確保するのは非常に難しいですね。日本は
とか間接的にはあったからです。大学院を出
先進国であり、先端技術もいろいろ持ってい
た後、ダリ語の本を出版したり、外語大にペ
るにも関わらず、留学生の受け入れ態勢は非
ルシャ語学科が開設された時、講師を務めた
常に遅れているように思いました。私が、学
こともあります。
友会にいた時は、日本が高度経済成長期にあ
(*4)アフガニスタンの略史
1919 年独立 1926 年アフガニスタン王国に 1973 年アフガニスタン共和国成立 1978 年アフガニスタン人民共和国成立 1979
年ソ連のアフガン侵攻 1989 年ソ連アフガンから撤退 ~ 2001 年内線とタリバン政権 2001 年~タリバン崩壊と新政権
30
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
りながら、学友会は拡張でなく縮小
するというのはちょっと理に敵わな
いことでした。つまり学友会は土地
を売却して私たちの寮もなくなって
しまう。我々にとってこれは大変困
ることです。私たちは当面対応すれ
ばよいかもしれませんが、これから
日本に来る後輩達は寮がなければ困
るということで居座りました。その
時寮長をしていたのはベトナム人で
すが、当時の南ベトナム政府との政
穂積先生とホラスさん(右)
治的な理由で表立つことができない
た。結局、そのあと我々は強制的に寮を出さ
人という立場で表に出ました。
れ、その後、田中先生と荻田先生のおかげで
対外務省、日本政府が相手になりましたの
ABK に入ることになりました。
で、私たちは大使館に呼ばれて大変でした。
小木曽 最後は強制的に出されたわけです
その時に田中宏先生(愛知県立大学)が手を
ね。
差し伸べてくれ、学友会の寮に来てくれまし
ホラス 私は最後まで居座りしてましたが、
た。そこで初めて田中宏先生と会って相談し
最後は電気も消されて。しばらくはアパート
ました。その後、寮を出るか出ないかという
生活をして、その後 ABK に入りました。最
段階まで話が進んだ時には、田中先生と荻田
初会館で、私は面接という形ではありません
先生(東京 YWCA)
、鈴木弁護士の3人が寮
が、職員の原口多美子さんに伴われて理事長
に来て、学友会理事長、専務理事を交え話を
室に入り初めて穂積先生とお会いしました。
しましたが結論が出ず、更に外務省の次官ま
私は先生の晩年しか知らないのですが、会っ
で来て話し合いをしましたが、解決方法はな
た時はすごくシンプルだったんですよ。先生
いので出て行かなければならないということ
は何も言わずに、ただ「ホラスさん、この人
になりました。そこで、最後の最後に田中先
は原口多美子さんですね。しかし今は田中多
生は、外務省の次官に対してこのようなこと
美子さんです。
」と。それだけでした。
を言ってました。
「私たちは鉄砲を持って彼
先生はシンプルなんですよ。それが先生の
らの国を侵略したんだよ!このくらいのこと
最初の印象でした。
がやれなくてなんなんだ。
」と、田中さんは
私は ABK に入ってその後肌で感じたこと
すごく怒って言いました。我々は鉄砲を持っ
は、まさに留学生、日本人学生、研修生、そ
てこの人たちの国に行って侵略したんだと。
して JICA とか大学の先生といった研究者が、
それで私は大変田中先生に強く心引かれまし
ここには一同に集まって共に生活していま
31
アジアの友500号記念座談会
ため、そこで私とマレーシアの留学生が世話
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
学)1 年生の時に、私とシンガポールの留学
生と日本人の学生が、大学の図書館でたまた
ま話をした時、日本人の学生が自慢気にシン
ガポールのときの山下将軍の作戦はすごかっ
たねと。ほんとに開いた口がふさがらないと
いうか、シンガポールの学生の顔色が変わっ
てきたんです。まあこれは彼を攻めたてるこ
とではないんですが。一方、穂積先生の言う
和合という言葉と我々留学生とのスタンス、
また先生の言うアジアの人から学ぶというの
す。こんなコミュニティーはどこにもないで
はどういうことかといいますと、まさに先ほ
す。日本中探してもない。私にとって ABK
どの話とは正反対の立場で我々と付き合っ
滞在期間は人生の中でも大変貴重な時間でし
てることです。しかし先生は、もちろんそう
た。しみじみそう感じています。
いうことを一切意識していないのです。先生
田中先生の「鉄砲持って…」は大変インパ
は日本は皆さんの国に侵略し、迷惑をかけま
クトがありましたが、穂積先生がよく使って
したと。私は、田中先生が言った言葉に心
いた一つの言葉、
「人間的和合」という言葉、
引かれて ABK に入って、穂積先生と出会っ
私はこの言葉がすごく好きなんです。奥が深
て、ますます凄いところだなあと思ったのは
い言葉です。まさにその和合があれば世界中
ここのところです。それを言えるのは穂積先
は平和です。先生はこの「人間的和合」とい
生だけです。ところが他の人、外部の人たち
う言葉をみんなが理解すればおそらく戦争が
はそうじゃないんですね。それは彼らのせい
なくなるでしょと。私はただこの言葉を聴く
ではなく、教育のせいです。私たちも学生の
だけでなく、直感的に先生から感じられる言
時に、ABK で花金会とかラーメン会という
葉でした。
のを時々開いてました。職員、留学生、日本
それから、会館で先生と顔付き合う中で
人学生、そして研修生、研究者など、その時
思っていたのは、先生の発想、私たちとのス
集まれる人が声掛け合って集り様々な話をし
タンスは何なのか、というものが一つありま
たり、また、勉強会や討論会もしていまし
す。日本では、未だに年配の人たちも、ごく
た。一度、それぞれの国の歴史の教科書を持
ごく普通の人たちも、また若者も、未だにで
ちよって勉強会をやりましょう、という話題
すね、第二次大戦(大東亜戦争)は、日本が
が持ち上がりました。しかし、それは実現し
あなたたちの国を植民地支配から開放してあ
ませんでしたが、それで良かったと思ってい
げたんですよと、そしてそのおかげであなた
ます。なぜかというと、それぞれの歴史に共
たちの国は独立できたんですよと、言ってる
通点がありません。論議すれば平行線の結果
わけです。現に私は水産大学(現東京海洋大
になるでしょう。それはしかたないことだと
32
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
思います。つまり、日本の歴史で教
えているものと他の国のそれとは違
うんです。インドネシアの歴史はほ
とんどオランダの悪口がたくさん書
かれていて、そして3年半の日本の
悪口が書かれてる。日本の歴史教科
書では一切それに触れられてません
ね。韓国も韓国の歴史的なことは違
うわけですよ。これを議論しても傷
をなめ合うだけで何もよくならない
生の我々に対する理解とスタンスが、先生が
よくなりません。だからしなくて良かったな
他の人と違うところだと考えるところです。
あと思います。でも我々は、未だに日本人が
小木曽 そういう理解があって初めて「和合」
我々に対して、あなたたちの国はこの大東亜
が成り立つんですよね。そうじゃなければ和
戦争のおかげで植民地支配から独立したと
合も成り立たないですね。
言ったら、大変憤りを感じますよ。
ホラス 今、調査によるとインドネシアはア
小木曽さんは覚えていると思いますが、
ジアで一番親日国家と言われているわけで
九十九里浜で ABK の学生、職員の合宿をし
す。親日国家というのは、ミャンマー、イン
たときに、外部からの参加者がこれを言った
ドネシア、ベトナムですね。これが否定でき
んですね。
(
「大東亜戦争のおかげでみなさん
ない側面が確かにあります。例えば、今みな
は植民地支配から解放されたでしょう」と。
)
さんがジャカルタ行って、独立戦争英雄墓地
その言葉を聞いてみんなシーンとなってし
(カリバタ英雄墓地)に行くと、インドネシ
まった。私は立ちあがって怒鳴ろうと思った
ア独立戦争(1945-1949)に参加して亡くなっ
けど、
(穂積先生はすでに亡くなってました
た数百人の元日本軍の残留兵がそこに眠っ
が、
)先生のことを考えてその気持ちを抑え
ています。なぜかというと、彼らは戦争でイ
たんです。私はインドネシアのブキット族で
ンドネシアへ行った時、これは違うじゃない
すから血が粗っぽいので(笑)
。でも、当時
か、我々は迷惑をかけているんじゃないか
はそう思って当然。今は私もだいぶ頭がやわ
と。それで、日本が敗戦した後インドネシア
らかくなって、仕方がないと、これは教育の
に対する償いとして、自分の命を捧げ、鉄
せいだと思うようになりました。しかし私た
砲を持って、オランダと戦って血を流した。
ちに向かってこれだけは言って欲しくないと
だからインドネシアの独立戦争に日本が貢
思います。こうした我々の気持ちをよくわ
献したことは否定できません。しかし、それ
かっているのは穂積先生だけです。ですから、
はあくまでも彼ら残留兵自身の志願です。こ
そこで私は先生の言う人間的和合、そして先
れに日本政府は一切関与してません。ですか
33
アジアの友500号記念座談会
ですね。歴史的怨念だけを掘り起こすだけで
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
ら、独立戦争で生き残った日本人残留兵は、
般の人はその歴史教育のせいで、多くの人が
退役軍人としてインドネシア国家から英雄
未だにあなたたちの国は大東亜戦争の日本軍
として勲章をもらい、未だにインドネシア
のおかげで植民地支配から開放されましたね
に暮らしてます。ですから、インドネシア
と言ってます。それは間違った認識だという
の独立戦争には日本人残留兵があくまでも
ことを申し上げたい。
一個人として志願して参加し、独立に貢献
私が会館に来て先生とお会いした時に、
したと言えるわけです。
「あ、違うな」と思いました。どこが違うか
それから、インドネシアには当時隣組と
というのは、今、一生懸命私が話しているこ
か、いろんな日本語が残ってるんですね。
の気持ちを先生は理解している、やっぱりこ
現在のインドネシア国軍はアメリカの軍の
の人は違うなと思いました。先生が私たちと
教育がベースになっていますが、それ以前
付き合ってる時の私たちを見る目が違う。私
の原形は日本軍なんです。オランダと戦う
たちを受入れるスタンスが違う。こういう人
ために残留した日本兵たちがインドネシア
はまさにこの人だけだろうと、はなはだ感じ
軍に参加して、作戦などを教え、自らの命
ています。
を捧げて勝ちとった独立でもあります。少
小木曽 中に持っているものが違う。
数でも全体に与えた影響は大変大きかった
ホラス 穂積先生の代わりになる人はなかな
と思います。自分の母国でもない国で、鉄
かいないけど、先生の周りからそういう人が
砲を持ってその国のために戦うことができ
出てほしいと思っています。
ますか。本当に立派だと思います。
編集部 今日はいろいろ貴重なお話をありが
翻って先ほどの話に戻りますと、日本の一
とうございました。
アジアの友 500 号記念寄稿
穂積先生とアジア文化会館の思い出 石川 毅
私は研修生として 1978 年 6 月から 1980 年 11 月まで ABK にお世話になりました。
穂積先生と直接話したことはありませんが、すごく印象に残っていることが三つあります。
その1
ある日、いつものように ABK の事務所で昼間、職員と韓国の留学生と私が話してましたが、
その留学生が私に「大人の女性同士の話をするから、年下のあなたはあっちにいけ」と言
いながら私の足を数回蹴る素振りをしました。そのとき、誰も気付かなかったんですが、
34
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
穂積先生が 1 メートルくらい後ろで話
を聞きながら様子を見ていて、一言
おっしゃいました。「○○さん、はし
たないですよ」。その留学生は恥ずか
しいような、困ったような、どうして
いいか分からない顔をしていました。
それを見た職員は手を叩き、ロビーま
で聞こえるような大声で笑い出しまし
た。穂積先生でなく、田井さんや、小
木曽さん、工藤さんだったらどうなっ
たかな。
在館当時。職員、留学生と。後列右から二人目が筆者、
左端がホラスさん
研修が終わり、ブラジルへ帰国の日。親しくなった在館生(留学生、研修生)や職員が
ABK の玄関に集まっていました。車に乗る前に振り返ると、階段の上の端に先生と田井さ
んが並んでずっと見送っていたんです。感動でした。
その3
帰国後、ブラジルの日系企業に就職しましたが、先生がお亡くなりになり、しばらくして
ABK の仕事を手伝ってほしいとの連絡がありました。ABK の雰囲気が好きだった私はす
ぐにも来日したかったが、会社を退職するのに約半年かかり、1982 年 4 月に再来日しました。
すぐに先生のお墓と御自宅に伺いました。初対面でしたが奥様が「あなたなのね、先生が
よく話してましたよ、ブラジルから来た沖縄出身の変な、おもしろい研修生が ABK にいる、
と」と話してくれました。嬉しかったです。
再来日後、色々な方から先生の人柄や穂積精神の話を聞きました。しかし、私は穂積精神と
は教えられるのではなく、自分で探し、感じ、そして見つけるものだと思う。例えば、ホ
ラスと私は在館生のときからお互いに相手を呼び捨てです。ホラス⇔イシカワ、ノリブン
⇔ツヨシ、俺⇔お前です。信頼しあい、ABK 一家の兄弟だからできることで喜びや悲しみ、
悩み、すべて共有しています。そういえば在館生時代からホラスと私を「お兄ちゃん」と
呼ぶタイ人の「妹分」の留学生がいました。ABK 3色(3か国)団子3きょうだいです。
国籍、宗教、民族を超えて人と人が結びつく、それが私の穂積精神です。
寮、AOTS、ABK の職員、在館生、それぞれの穂積精神があると思います。
35
アジアの友500号記念座談会
その2
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
いていないのならと身が入らなくなり、授業の
質が落ちてしまうのではないかと心配です。
ですから先生は学生にある程度のプレッシャ
ーを与えて、授業に緊張感を持たせてほしい。
たまに厳しい先生の授業を受けてみると、本当
にそう思います。
例えば欠席や居眠りにマイナスポイントを課
すといったルールを作り、課題も毎週出して次
の授業で報告させる。そんな授業だと、私たち
のモチベーションも上がります。もちろん自分
自身のやる気が一番重要なのですが、先生にも
学生をやる気にさせるための工夫をしてもらえ
たらと思います。
また、授業の数が充実していて、たくさんの
魅力的な授業の中から自分が学びたいものを選
べるのは日本の大学の素晴らしいところだと思
うのですが、4年生になると就職活動のことを
考えてほとんど授業をとることが出来ません。
私の場合は予想より早く、4月に就職が決まっ
てしまったので、1年間、時間が空いてしまい
ました。
日本の場合は3年生の秋頃から4年生の秋頃
まで、ほぼ1年をかけて就職活動をしますが、
私はその期間をもっとコンパクトにできないか
なと思います。今は情報収集からはじめて選考
結果が届くまでの会社とのやり取りにとても時
間がかかっています。それをもうちょっとスム
ースに短時間でできるシステムを大学と企業で
作れないかと思うんです。
例えば4年生最後の半年を就職活動期間とい
うことに決めておいて、それまではしっかり授
業をとれるようにしてくれたら、もっとたくさ
んのことを学べますし、就職活動も集中して積
極的に行えるのではないでしょうか。
私の実感では、大学で本当に勉強したのは3
年間だけです。
“最後の1年は社会人になる前
の、貴重な遊ぶ時間”と考えられる人はいいの
ですが、高いお金を払って入った大学で、それ
ではもったいないなあと思います。
日本では日本人の信じられないほどの優しさ
に も 触 れ な が ら、
ここまで学んでき
ました。これから
は社会人という厳
しい環境での新た
な日本留学が始ま
ります。難しいこ
とがたくさん待っ
ていると思います
が、これまで支え
てくれたみなさん
のためにも、がん
ばって学んでいき
たいと思います。
▼同じ財団の奨学生達
と(前列左から7人目)
36
私が経験した大学生活は明治大学だけですか
ら、そこでの感想ということになりますが、日
本の大学はちょっと自由過ぎるかなと思います。
大学だから好きにやればいいという雰囲気が強
すぎて、授業中寝ている人も多い。たしかにそ
れも自由の一つだと思うのですが、私はやめて
欲しいですね。回りが緩い雰囲気だと、こちら
の集中力も殺がれますし、先生の方も、誰も聞
▲ バイト先の上司が「ぜ
ひ行きなさい」って、成
人式に参加しました。着
物を貸してくれただけで
なく、着付けも髪のセッ
トもしてくれて、幸せな
初体験でした!
初めてのホームステイではゆかたを着
せ て も ら い、 花 火 大 会 に 行 き ま し た。 ご
家族の優しさが本当に嬉しかった!
▲
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
「がんばれば可能性は高い」
。
本当に兄に言われた通りの結果になったん
です。
心 配 し て い た 経 済 面 で す が、 大 学 に 入 っ て
の 1 年 目 は 学 費 は 親 に 負 担 し て も ら い、 家 賃
を含めた生活費は全てアルバイトをして賄い
ま し た。 バ イ ト だ け で は な く、 勉 強 も が ん ば
り ま し た か ら、 2 年 生 に な る 時 に は 文 部 科 学
省 の 学 習 奨 励 費 を も ら う こ と が で き ま し た。
そ う な る と バ イ ト も 少 し 楽 に な り ま す か ら、
勉強にさける時間も多くなり成績も伸びまし
た。 そ の お か げ で 3 年 生 か ら は 民 間 財 団 の 奨
学金をいただけることになりました。
てからやっと本番が始まるといった感じです。
で す か ら、 私 も あ ま り 時 間 厳 守 の 意 識 を 持
て な く て、 先 生 と の 面 談 に 遅 れ て ひ ど く 怒 ら
れた時も、
「ごめんなさい」という気持ちより、
「 ど う し て?」 と い う 驚 き の 気 持 ち を 強 く 持
ち ま し た。 待 ち 合 わ せ で も、 日 本 人 は み ん な
時間前に集まっていて、一人も遅刻をしない。
そ れ を 見 て、 私 も 日 本 で 暮 ら す に は 自 分 を 直
さないといけないと感じました。
明治大学経営学部 4年生
) マ レ ー シ ア
Ms. Yap Jia Ping
日本の大学は3年で終わりですか?
ヤップ ジャーピン (
に全力を傾たため私より成績が悪かった兄の
私が留学先を日本に決めたのは、先に日本に
留学し、就職していた兄の勧めがあったからで 「僕にできたからおまえにもできる」という一
す。
言がすごく説得力に満ちていて(笑)
、不安に
感じることは全くありませんでした。
兄が日本を勧めた理由の一つは、環境がいい
ことでした。女性が一人、海外で生活するわけ
ですから安全なところがいいと。その点、日本
は治安が良くて、人々も温かいので心配なしと
いうことでした。
二つ目の理由は経済面でした。親からの仕送
りががあまり期待できない中で、経済的にやっ
ていけるのか私は心配でしたが、日本は奨学金
が充実しているので、がんばって勉強すればそ
れらを受給できる可能性はとても高いと言われ
ました。そして、勉強をしながらアルバイトが
できるということも大きなメリットだと。日本
の他に私が留学先候補としてあげていたアメリ
カの場合、留学ビザで仕事をすることはできま
日 本 に 来 て 一 番 驚 い た の は、 日 本 人 の 時 間
せんから。
に 対 す る 考 え 方 で し た。 日 本 人 は 時 間 に 対 し
最後に学習環境の面でも、日本は経済大国で、 て す ご く 厳 し い。 マ レ ー シ ア の 場 合、 例 え ば
私自身日本企業の経営について学んでみたいと
結 婚 式 の 開 始 時 間 が 7 時 だ と し た ら、 全 員 が
思っていましたから、行くのなら日本が最良だ
揃 う の は 8 時、 9 時 頃 で す。 み ん な そ れ を わ
と考えたんです。
か っ て い る の で、 全 員 が 揃 う ま で、 お 喋 り を
し た り お 茶 を 飲 ん だ り し て 過 ご し、 皆 が 揃 っ
問題は日本語ですが、バトミントンの部活動
37
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
News
早稲田大学 NEWS&PRESSRELEAS より
早稲田大学中野国際コミュニティプラザに大口の支援決定
早稲田から始まる「国際青年交流センター」構想
早稲田大学(新宿区戸塚町、総長:鎌田薫)は、
学生寮「中日青年交流センター」を設置するこ
政治経済学部卒(1971 年)の校友であり、
ファー
とにより、両国の未来ある若者の交流を通じた
ストリテイリング会長の柳井正様と香港の実業
持続的な友好関係を実現すべく、既に中国側の
家である曹其鏞(ソウ・キヨウ)様より、また
5大学に「中日青年交流センター」の設置を進
曹様の友人である香港の実業家・荻野正明様よ
めています。また、日本の大学にも同様のセン
り、2014 年度にオープンする国際学生寮「早
ターを設置することでその輪を拡げたいと考え
稲田大学中野国際コミュニティプラザ」
(中野区
ています。また、友人である荻野様もこうした
中野4)に、柳井様は個人として 3 億円のご寄
活動に賛同する香港の実業家グループの一員と
付を、また、曹様や荻野様を始めとする、香港
して、曹様とともにご支援いただくことになり
の実業家グループの皆様方より基金等を通じた
ました。
ご支援をいただくことになり、1月 16 日、小
一方、柳井様は日本の企業にグロ―バルな視
野梓記念講堂にて記者会見を開催し発表いたし
点が求められる中、母校・早稲田大学の国際コ
ました。今回のご寄付を契機に、早稲田大学は、
ミュニティプラザにおける国際学生寮を通じて
柳井様、曹様、荻野様らが抱いている、世界各
異文化理解と国際交流を推進しようとするプロ
国の学生が相互の認識と理解を深めて持続的な
グラムと、早稲田大学が起点となり、日本にお
友好関係を生む「国際青年交流センター」構想が、
ける国際青年交流センター構想が始まってほし
「早稲田大学中野国際コミュニティプラザ」を通
いとの考えと、20年来の交流がある曹様の活
して全国の大学に広がっていくよう、留学生と
動にも共鳴し、今回個人としての支援を決めて
日本人学生との共同生活や様々な寮内教育プロ
いただきました。
グラムを展開していきます。
早稲田大学は、中長期計画「Waseda Vision
150」において、人間力・洞察力を備えたグロー
●それぞれの理念が語られた記者会見の様子
バルリーダーの育成を掲げ、新たな人材育成モ
曹様は自らが東京大学留学中、都内の学生寮
デルを社会に発信するとともに社会貢献を果た
「アジア文化会館」で日本人と生活した経験を踏
していくことを目指しています。
「早稲田大学中
まえ、中日両国が過去の歴史に捕われず、民間
野国際コミュニティプラザ」はこうした教育を
交流を継続的に促進することにより、両国相互
強く推進していく施設であり、民間と大学が協
の認識と理解を深め、相互信頼の下で持続的な
働して国際交流を進め、民間が国際学生寮およ
友好関係が生まれると考えました。その長期的
び国際寮内教育プログラムの推進を積極的に支
な観点から、中国と日本の学生が居住する国際
援することの意義は大きいと考えています。
38
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
<柳井正様の話>
20 数年前に初めて香港でビジネスを
したのが曹さんの会社で、ビジネスには
国境も業界の際もないことを学ばせても
らいました。東日本大震災に際しても、
香港はじめ中国の取引先から日本国民に
対して多額の義援金をいただき、なん
らかのお返しがしたかった。また、早稲
田大学はわが母校であり、こちらにもお
返しがしたかった。曹さんと全く同じ意
見で、昨今の日中の険悪な関係が継続す
ることは非常に危険だと悶々と感じていたとこ
流センター構想を早稲田大学中野国際コミュニ
ろ、鎌田総長から「早稲田大学中野国際コミュ
ティプラザで実現したら、という提案を受けま
ニティプラザの建設計画が具体的に進んでいる」
した。日本における、中国の 5 大学のセンター
ということをお聞きしました。この構想がすぐ
に呼応した国際交流センター構想の実現につい
に実現できるとは思っていなかったので、すご
て、立案から 1 年も経たないうちに、東京で正
いご縁とタイミングだと思いました。日中友好
式に皆さんに対して、この計画を発表すること
にも繋がるすばらしい国際青年交流センターを
ができることは、楽観的な私でさえ予想すると
つくっていただきたいと思います。世界中から
ころではありませんでした。中国における中日
きた人々が寝起きを共にして、一緒に生活する
青年交流センターの設立及び推進に、最初から
ということは、若い時には何にも増してすばら
関与してきた香港の良き友人たちとともに、日
しい経験を積むことになると思うし、考えるだ
本において最初に国際青年交流センター構想を
けでもワクワクします。大きくいえば日本と、
実現する早稲田大学中野国際コミュニティプラ
香港含め中国への恩返しになると思います。服
ザの設立を心より歓迎、お喜び申し上げます。
を作って売るというビジネスには社会平和と繁
我々はこのプロジェクトを積極的に支持し、中
栄が不可欠であります。日本と中国はもちろん、
日友好関係の発展のために、応分の貢献をいた
世界の平和と繁栄を心より祈念しております。
したいと思います。
<曹其鏞様の話>
<荻野正明様の話>
3年前に私は中日友好のために、微力ながら
2年以上前にこの日中青年交流センターの
なし得ることを行おうと決心しました。この数
構想を曹氏から聞いた時に、今まさにやらなけ
年来、私は少なからず、時間を割いて、積極的
ればいけないことはこれなんだと直感しまし
に友人たちに語り、私の理念を説明し、賛同を
た。以来、微力ながらお手伝いをしてきたわけ
得ることができました。日本においても、この
です。日本には「寄付の文化」が育っていませ
行動が幸いにも、多くの方々に認められ、支持
ん。欧米は言うに及ばず、香港でも幼稚園から
を得ることができました。昨年4月に、鎌田総
始まって小学校、中学校、高校が個人の寄付に
長にお会いした際に、日本における国際青年交
よって作られ、また、香港のどの大学に行って
39
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
も寄付によって建てられた建物が数多くあり
<鎌田薫総長の話>
ます。しかし日本の場合一部の私学系を除き、
奇しくも、早稲田大学の構想と、曹様の構想、
国公立を中心に、本当にそういう寄付によって
柳井様のお考えが「早稲田大学中野国際コミュニ
建てられた建物が非常に少ないことに驚かさ
ティプラザ」で共鳴し、他に類例を見ない、国際
れます。これからもいろいろと紆余曲折がある
連携による大規模な国際学生寮建設支援のスキー
かもしれませんが、大切なことは、日中の若者
ムが実現いたしましたが、これは全くの偶然では
たちが交流することの意義を、常に自分の心に
なく、むしろ歴史の必然と言って良いのではない
抱き続けることであると考えております。寄付
かと考えています。今回、柳井様、曹様、荻野様
する側と受ける側の間で、時には糊のような、
から、早稲田大学に対して、破格のご支援をいた
またある時にはクッションのような役割が果
だく旨の意思を表明していただいたことは、わが
たせれば良いという気持ちを持ちつつ、若者の
国の大学の国際化を大きく前進させる貴重な機会
持つ無限の可能性にかけてみたい、というのが
になり、他の大学や篤志家の皆さまにも大きな刺
今の心境です。
激を与えるものと確信しています。
■曹其鏞様について
香港の企業「永新企業」の副会長で、1958 ~ 1962 年に東京大学工学部に留学。当時、都内の学生寮
であるアジア文化会館に入居し、寮生活を通じて日本やアジアの学生と生涯の友人関係を築けたという。
50 年後の現在、悪化している中日関係を憂い、若者が共同生活を送ることで双方の国民感情を改善しよ
うと、北京大学、清華大学、復旦大学、上海交通大学、浙江大学など早稲田大学と協定を結んでいる中国
の5大学に私財計1億元(約 13 億円)をご寄付し、それぞれ「中日青年交流センター」として中国と日
本の学生が入居する学生寮の建設を進めており、北京大学では昨年 10 月より運営されている。
■荻野正明様について
ファッションブランドや小売り業など 20 社以上を展開する国際企業グループ、フェニックスグループ
の会長。1941 年大阪生まれ、神戸外国語大学ロシア文学科卒業後、商社を経て貿易会社の香港支店長と
なる。支店閉鎖を機に独立し、
1970 年にフェニックスを設立、
日本向けニット製品の最大手に成長。上海、
ベトナム、中国国境地域に工場を設立し、1986 年にはプラダと契約。自社ブランドとしてアンテプリマ
も立ち上げ、ミラノコレクションのブランドとしてグローバルに展開している。1996 年からは総合スー
パーを香港、台湾、上海などに展開しており、グループは現在フェニックス・グループ・ホールディング
スに集約されて運営されている。
■「早稲田大学中野国際コミュニティプラザ」における国際学生寮について
2014 年度に中野区中野4にオープンする早稲田大学中野国際コミュニティプラザの中核施設となる学
生寮。872 名が入居可能で日本と多様な国・地域の学生が共同生活を通じて異文化・多文化を学ぶ。建
物は鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造・PRC造)中間層免震構造の 11 階建。3~7階が男子専用フロア、
8 ~ 11 階が女子専用フロア。2階には多目的教室、フィットネスルーム、音楽室、大浴室、学生ラウンジ、
一部の男子寮室。1階は地域社会に開かれた生涯学習の場づくりを提供する教育施設。
40
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
Event
第99回 ABK 帯津良一先生講演会 「気功的生きかた 凛として老いる」
<先生の一言>あと 15 年、煮え滾るものを生きるかなしみで包んで凛として老いてみようか。
●日 時: 2月21日(木)
19: 00~20: 30(開場:18:30)
* 講演終了後、15 分程の気功実技指導 ( 帯津式新呼吸法「時空」) を行います。
●会 場: アジア文化会館(ABK)<東京都文京区本駒込 2-12-13 /都営三田線千石駅 A1 出口徒歩
3 分、JR 山手線巣鴨駅/駒込駅徒歩約 10 分>
●講 師: 帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長 / 日本ホリスティック医学協会会長他)
●参加費: 3,
000円(但し、協会会員・語学講座受講生 2,
000円)
* 参加費は当日会場にてお支払いください。
●ご予約・お問合先:
(財)アジア学生文化協会 帯津良一先生講演会担当まで
TEL:03-3946-4121(代)
FAX:03-3946-7566
E-mail:asca50com@abk.or.jp
HP:http://www.abk.or.jp/abkd/news/index.html
*連続講座として設定していますが、それぞれ独立した話として聴講できます。
外国人相談従事者のためのセミナー(第 2 回)―相談者との文化の差異を乗り
越え、持続可能な相談活動を実現するためには―
●日 時: 2 月 23 日(土)18:00 ~ 20:00(17:45 開場)
●会 場: 板橋区グリーンホール 503 会議室
●講 師: 田中 ネリ(千葉メンタルクリニック・四谷ゆいクリニック・臨床心理士)
●内 容: ①外国人住民支援のための異文化間心理学(講義)
②相談者との間の文化の差異を乗り越えるには(個人ワーク・グループワーク)
※ 内容は予定です。一部変更になる可能性もあります。
●対 象: 外国人相談従事者及び関心をお持ちの方
●参加費: 無料
●申 込: 担当・加藤(jotaro33@gmail.com)まで、予めメールにてお申込みください。
件名を「第 2 回セミナー参加希望」とし、本文にご所属、お名前、メールアドレ
スをご記入ください。
●〆 切: 当日まで申込を受け付けます。(お早目のお申込みをお待ちしております。)
●主 催: 特定非営利活動法人 ASIAN PEOPLE’S FRIENDSHIP SOCIETY(APFS) Tel 03-3964-8739 / Fax 03-3579-0197 E-mail apfs-1987@nifty.com / HP http://apfs.jp/
41
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行 留学生∞ ABK ∞日本人 知友会通信 第 242 号
※ 各情報の詳細は主催団体ホームページ等でご確認ください。奨学金情報は、日本留学情報データ
ベースサイト= JPSS(http://www.jpss.jp/ja/)にて検索が行えます。
じょうほう
イベント情報
KANAGAWA CAREER EXPO 2013
がいこくじんりゅうがくせい
ごうどうかいしゃせつめいかい
けいけん
のうりょく
い
外国人留学生・キャリアのための合同会社説明会。「グローバルな経験・能力を活かしたい!」
かたがた
ため
きぎょう
しゃ
あつ
しゅうしょくせつめいかい
がっこう
しごと
いそが
そんな方々の為に、グローバルな企業(41 社)を集めた就職説明会です。学校・仕事が忙しい
かた
きぎょう
たんとうしゃ
はな
ぜっこう
方も、ゆっくりと企業の担当者と話すことができる絶好のチャンスです!
かいさいにってい
開催日程: 2013 年 2 月 14 日 ( 木 ) 11:00 ~ 17:00 かい
じょう
し ん と し
よこはまえきひがしぐちよこはま
かい
会 場: 新都市ホール ( 横浜駅東口横浜そごう9階 )
さんかたいしょう
がいこくじんりゅうがくせい
がいこくじん
ねんど
ねんどそつぎょうみこ
しゃ
参加対象: 外国人留学生、外国人キャリア(2013 年度・2014 年度卒業見込み者・
きそつしゃ
さんか
既卒者も参加 OK !)
さんかよやく
参加予約: http://www.ryugakusei-job.com/
しゅ
さい
かながわけん
かながわしんぶんしゃ
にっそう
かぶしきがいしゃ
主 催: 神奈川県、神奈川新聞社、日総ブレイン株式会社
りゅうがくせい
こうりゅうかい
留学生 スキー&スノボ交流会
くに
りゅうがくせい
にほんじん
わかもの
かずおお
さんか
いろいろな国からの留学生や日本人の若者が数多く参加するこのイベント。ウインタースポー
つう
たの
こくさいこうりゅう
さんか
ツやパーティーを通じての楽しい国際交流に参加してみませんか?
にほん
きちょう
おも
で
あたら
ともだち
ぜっこう
日本での貴重な思い出となるだけでなく、新しい友達がたくさんできる絶好のチャンス!
ぶたい
しょくじ
へ
や
おんせん
さいこう
舞台となる『キューピットバレイ』はゲレンデはもちろん、食事も部屋も温泉も最高です。スキー
じょうず
ひと
はじ
ひと
おも
さんか
やスノーボードが上手な人も初めての人も思いきって参加してください。
ぼしゅうにんずう
やく
めい
にほんじんがくせいふく
ていいん
しだいしめきり
募集人数: 約 90 名(日本人学生含む)定員になり次第〆切
じっしにってい
しゃちゅういっぱく
はく
実施日程: 2013 年 2 月 24 日(日)~ 27 日(水) ※ 車中 1 泊、コテージ 2 泊
じょう
じょう
にいがたけんじょうえつし
スキー場: キューピットバレイ・スキー場(新潟県上越市)
さんかひよう
参加費用: 29,400 円
さんかもうしこみ
参加申込: http://www.kokusaikoryu.com/event/ski_board/index.html
しゅ
さい
と く て い ひ え い り か つ ど う ほ う じ ん こくさいせいしょうねんこうりゅうきょうかい
主 催: 特定非営利活動法人 国際青少年交流協会
42
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行 留学生∞ ABK ∞日本人 知友会通信 第 242 号
がいこくじんりゅうがくせいたいしょう しゅうしょく
外国人留学生対象 就職フェア
がいこくじんりゅうがくせい
さいよう
きぎょう
しゃ
あつ
ちょくせつさいとうたんとうしゃ
かいしゃじょうほう
外国人留学生を採用したい企業(25 社)が集まり、直接採用担当者から " 会社情報 " や
さいようじょうほう
き
りゅうがくせい
みな
ちょくせつしつもん
" 採用情報 " を聞くことができます。留学生の皆さんから直接質問もできます。
にち
じ
たい
しょう
うけつけかいし
日 時: 2013 年 2 月 10 日(日)10:00 ~ 18:00(受付開始:9:30) がいこくじんりゅうがくせい
だいがく
だいがくいん
そつぎょうよてい
かた
対 象: 外国人留学生(大学・大学院を 2013 年 4 月~ 2014 年 3 月卒業予定の方)
てんしょくきぼうしゃ
たいしょう
ちゅうい
※ 転職希望者は対象としておりません。ご注意ください。
かい
じょう
あきはばら
会 場: 秋葉原 UDX Gallery 4F
あ き は ば ら え き と ほ いっぷん
とうきょう と
ち
よ
だ
く そとかん だ
(JR 秋葉原駅徒歩1分 / 東 京 都千代田区外神田 4-14-1)
さんかもうしこみ
さんかひむりょう
参加申込: WEB サイトより→ http://www.global.worksjapan.co.jp (参加費無料)
しゅ
さい
かぶしきがいしゃ
主 催: 株式会社ワークス・ジャパン
〈会費とご寄付の報告〉
2012 年 10 月
特別会員
(5口)
(株)スリーエーネットワーク
千代田区
(1口)
NOVEL ENTERPRISES
LIMITED
香港
立命館アジア太平洋大学
別府市
(株)シーボン
港区
賛助会員
(1口)
(株)エレクトロデザイン
亜細亜大学
中央区
武蔵野市
正会員
(1口)
杉浦 義昌
名古屋市
佐藤 和江
日野市
樋口 敏子
塩尻市
石川 毅/優子
北区
小野里 光博
文京区
(有)プルミエ(アクア)松戸市
小山内 美江子
横浜市
ご寄付
鶴尾 能子
佐々木 善子
横浜市
国立市
対馬 節子
品川区
文京区
柏市
船橋市
藤田 淑子
金野 隆光
福本 一
ご寄付
栗原
西垣
齋藤
金野
山口
静子
宰朋
美知子
隆光
憲明
気仙沼市
足立区
富里市
柏市
日野市
2012 年 11 月
賛助会員
(1口)
雅留宮 久麿/澄子
野田市
正会員
(1 口)
木下 幹康/澄江
萩原 伊助
広江 重徳
清水 恭子
中島 明彦/絢子 43
今回もたくさん
狛江市
千葉市
浅口郡
練馬区
横須賀市
の御協力をいた
だ き、 あ り が と
うございました
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
ご報告
ABK同窓生募金(2012 年 11 月 30 日現在)
ご協力ありがとうございました。募金のご報告は『アジアの友』並びに同窓会ホームページ
< http://www.abk.or.jp/abkd/fund/houmeiroku.html >で随時ご報告させていただきま
す。
●目 標 額:5,
000万円
●募 金 額:46,
222,
142円(目標残:3, 777, 858円)
●寄付者数:832件
〈 〉内は出身・在住国、地域、ABC 順
<ブラジル> Hiromu Onishi(大西博巳)<日本>50周年記念事業委員会、広江重徳、
来山文泰、西垣宰朋、西川惠、小木曽建、酒井杏郎、外山経子、鶴尾能子、山崎光郎<マレー
シア> 2012 年 ABK 在館マレーシア留学生、Ariel Cheng(鍾欣霖)
、Siew Soke Lee、
Tan Ai Lak(陳愛麗)<台湾> Lim Pi Chi(林丕継)<タイ> Vilai Tomorakul
以上、17件
2012 年9月30 日以前の寄付者(815件)
<バングラデシュ> A.K.M. Moazzem Hussain、Hashimoto Islam Nurul(橋本イスラム ・ ヌ
ルール、在日)
< ブ ラ ジ ル > Alberto Tachibana、Alice Nakamori、Francisco Ishihara、Hashiguchi
Mariuza、Matsubayashi Marcia、Mizuma Tachibana Aiko、Nelson Yamakami、Sekiya
Tachibana、Tomooka Tizuko、Yamauchi Atsushi 、Yamauchi Kazuko <カナダ> Chang Sou Wah(張素華、香港)
<中国>(C)Cai Jian Ping(蔡堅平、
在日)
、
Chen Hong Zhen(陳洪真)
、
Chen Xian(陳献)
(
、D)
Dai Zhi Jian(戴志堅 / 陳艶萍、
在日)
(
、G)Gao Rong(高栄)
(
、H)Hironaka Gunji[ 広中軍二(李軍、
在日)]、
(J)Jia Fu Zhong(賈舗忠)
、
Jia Hui Yi(賈蕙萓)
、
Jin Qiu(金秋)
、
Jing Dong Huan(金
東澣)
、
(K)Kuo Nan Yan(郭南燕、在日)
、
(L)Lee Chun Li(李春利、在日)
、Li Chen Xi(李
晨曦、在日)
、Li Hui Chun(李 惠春、在日)
、Liu Ming Hua(劉明華)
、Liu Ying Chun(劉映春)
、
Liu Yue(劉越、在日)
、Lu Xin Yi(呂新一、在日)
、
(M)Meng Ling Hua(孟令樺 / 計宇
生、在日)
、Meng Xiao Xiao(孟瀟瀟)
、
(N)Ni Yu(倪玉)、
(O)Ou Yang Fei(欧陽菲、在
日)
(
、P)Piao Shun Yu(朴順玉)
、
(Q)Quang Hao(全浩)
(
、S)Sha Lian g Xiang(沙蓮香)
、
44
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
Shang Jie(尚捷、
在日)
、
Sun Qian Jin(孫前進)(
、W)Wang Wei(王蘶)
、
Wang Wen(王穏)
、
Wei Qing Ding(魏慶鼎)
(
、Y)Yan Hao(厳浩)
、
Yang Yi Fan(楊一帆)
(
、Z)Zhan Xin(張新)
、
Zhan Xin Wang(張新旺)
、Zhang Hang(張航)、Zhang Yong(張勇、在日)
、Zhou Xiang
(周翔・黄軼)
、張建敏
<ドイツ> Heng Fu Chong(マラヤ)
<香港> Chan Sui Ngan(陳小雁)
、Choi Man Wa(蔡敏華)
、Leung Chi Shun(梁志瞬)
、
Yeung King Hong(楊経航)/ 蔡金燕(マレーシア)
< イ ン ド > AAAWI(AOTS Alumni Association of Western India)
、A. P. Wagle、ABKAOTS Dosokai Chennai Center、Abul Sharah、Ashok Saraf、Grug Kumar〔雅留宮久麿(在
日)/ 澄子(日本)
〕
、M. Ramamurthy
<インドネシア> Budhi Setiawan Kohar
<イラク> Mudhafar Al. Jabiri
<カンボジア>忍足林基(在日)/ 美恵子(日本)
井重光、荒川雄彦、アジアの新しい風、
(C)Ch atty B.Q.(ワタナベ)
、近山武子(3)
、千野克
子、
(F)藤原一枝、深澤のぞみ、福譲二、福本一、古川恵世、布施知子、
(G)50 周年委員会売上
(4)
(H)濱田洋子、浜崎長壽 / 和子、秦幸吉、橋口真人、林均、樋川好美、平井まりこ、平峯克、
平岡昭子(2)
、平田熙、帆刈礼子、堀香奈美、堀幸夫、堀内智代子、細川哲士、穂積亮次、
(I)井
出遊、飯沼英郎、池田俊二、池森亮介、池野朋彦・晶子、池添尚行、稲垣敏彦、井上恵子、井上駿、
犬塚雄大、伊佐玲子(2)
、稲澤宏一、石原廣、石原誉慎、石井信彦、石川毅・優子、伊藤郁子、伊
藤順(3)
、伊藤源之(2)
、岩井秀明(2)
、岩尾明、岩佐佳英、岩崎幸子、
(K)甲斐等、加倉井弘
行(2)
、兼重節、兼重道雄、兼重智雄、勝部純基、香月恵美子(2)
、河合秀高、川上剛(2;在ス
イス)
、川崎依邦(OCE)
、北マツ、北川泰弘、北原千絵、北山文泰(2)
、倉部絹代、小林浩、小林
泰子、小宮信介、金野隆光(3)
、久保哲也、久保木裕一郎、工藤正司、工藤幹雄(5)
、熊沢敏一、
倉内憲孝、栗原静子(2)
、黒田一雄、黒羽宏、久津間優子、
(M)町田恵子、町田航、牧美保子(2)
、
槇操、馬杉栄一、松平吉世、松井正枝(2)
、松岡弘、松崎松平(2)
、真弓 忠、宮野尾光正、宮
内俊治、水須善幸、森尾正照、森下明子、村田忠禧、村山秀男、
(N)中原和夫(2)
、中畠正喜(2)
、
中嶋源吾、中元菅根(2)
、中村洋一、中野正明、中曽根信(3)
、日本養成学会、西田祥子、西垣宰朋、
西原彰一、西嶋勝彦、西本梶、西村清人、西谷隆義(2)
、新田宣子(2)
、仁田裕子、野田(小金丸)
春美、野口明美、野村美知子(3)
、
(O)小田中聡樹、小川巌、小川輝夫、小木曽大(2)
、小木曽建、
小木曽友(3)
、小倉尚子、小原正敏、大西一郎、岡島昭治、岡崎道子(2)
、大木直美、大久保伸枝、
大野大平、大里浩秋、大島光恵、岡部洋一、奥山節子、奥山義夫、大村光、小野寺武夫、小野里光博、
大澤龍、忍足絵美、忍足眞理、大杉立、大谷里恵子、
(R)六文会、
(S)斉木史、斉藤雅史、齋藤
美知子、齋藤やす子、酒井杏郎(2)
、榊正義・正子、酒巻彩乃、坂元ひろ子、三溝弘悦、早乙女和義・
45
ABK同窓生募金
<日本>(A)ABK 留学生友の会、赤星裕、新谷美紀子 / 美也子、安藤哲生、新井敬二・由利、新
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
博子、佐藤郁夫、佐藤正文(2)
、佐藤玲、澤登千恵子(3)
、関正昭、渋谷寧伸、清水国夫、清水勇治・
泰代(2)
、篠塚景市、白石勝己、白石勤、白鳥文子、代田泰彦、尚美学園大学国際交流センター、
染谷公久、染谷誠、總寧寺、菅原照代、杉本宏樹、杉浦貴和子、杉山兼一、栖原暁、鈴木繁、鈴木智、
鈴木八重子、鈴木順子、
(T)田川明子、田口久美子、田口昌子、田尻英三、高道俊彦(3)
、高木桂子、
高橋喜久江、高橋満、高橋作太郎(2)
、高橋幸枝、高橋雄造、高野靖子、高柳直正、竹林惟允(3)
、
竹田肇・和子(2)
、竹嶋俊紀、宅間薫(2)
、田守智恵子(2)
、田中千佳子、田中雅幸、田中美智
子(2)
、田中利恵子、田中紳一郎、田中多美子(2)
、田中稔子・静子、谷口哲雄、寺門克郎(2)
、
寺尾方孝・三枝子、寺沢宏次、田井満里、田井良知、田井亮吉、戸田清、鴇田純一・由美(3)
、東
京華僑総会、富岡昭二郎、外山経子(9)
、豊島由久、土屋元子(2)
、土屋幸子、佃吉一(2)
、鶴
尾能子、堤祐子(2)
、
(U)内山敦之、宇戸清治、上高子、上田菜生、植田泰史、畝本昌介、漆嶌
才子、
(W)渡辺譲二、
(Y)籔下勝、山田健一、山田守一、山田裕子、山口憲明(3)
、山本斉、山
本出、山本章治、山野井昭雄、山之内正彦・萩子、山下靖典、山海保、山崎光郎(3)
、山口誠、依
田良子、横山昌幸、横沢喜久子、横山昌幸、吉原秀男、吉田裕子、吉田菜穂子、吉原エツ子、吉川
英一(在中国)
、湯山佳代、匿名希望(4 名)
、
< 韓 国 > 崔 銀 珠( 在 日 )
、Hahn Young Khoo( 韓 英 鳩 )
、 西 原 景 哲( 在 日 )
、Oh Bum Suk、
Youn Seong Kook(尹誠國、在日)
、Woo Su Keun(禹守根、在中国)
<ラオス> Chanthasone Inthavong(在日)
<マレーシア> 2011 年 11 月 12 日留日学生同窓会パーティー一同、
(A)Adelyn Ngo、Amy
Tan(陈春莲)
、Alan Tan Yu Poo、Ang Gi Moh(洪以谋)
、Ang Khoon Chye(汪坤才)
(2)
、
Ang Lip Chee(洪立志)
、Ang Sheng Feng(洪巧芬)
、Ang Wan Leng、Apple Vacation &
Conventions Sdn. Bhd. [ 苹果旅游有限公司;Koh Yock Heng(許育興)]、Aw Leong Gee(欧
良義)
、
(B)Beh Chor Kim、Beh Teck Chuan、Boon Woo Seng(温武成)
、
(C)CM Aung、
Cha Yee Seng(謝宇誠)
、Chai Koo Peng、Chan Huan Pang(曽煥邦、2)
、Chan Kok Foo(陳
国富)
、Chang Chew Chin(張昭成)
(3)
、Cheang Chuan Ley、Cheang Sai Keong(シンガ
ポール)
、Charles Chow(邹贵璋)
、Chaw Kam Shiang(周錦生)
、Cheah Soo Lin、Cheong
Bee Nah(鐘美娜)
、Chew Ching Seng(周昌盛)
(2)/Low Kim Lee(刘金莉)
、Chew Fook
Keong(周福强)/Goh Ger Teng(呉月婷)
、Chia Hong Hyiap(謝鴻業)
、Chia Li Teck(謝
礼得)
、
Chia Mee Hang(蔡美賢)
、
Chin Yok Wan(陳玉旺)
(2)
、
Chin Saw Kiun(陳少勤、
在日)
、
Chiu Jin Eng(冰周人英)/ 林恵冰、
Chong Piang Wee(张炳辉)
、
Chong Teek Foh(張德福)
(2)
/Chow Soo Lin、Choo(2)
、Yun Fah、Choong Chee Yee、Choong Yoon Seng、Chow
Kwee Lin( 邹 貴 仁 )
、Chuah Yeon Hang( 蔡 耀 漢 )/ Keong Chin Huai( 強 青 懐 )
、Chuan
Seong Tiang(Jeff Tiang)
、Chuie Wai Kong(朱威金光)
、Clifford Lee(李進才)
、
(E)Ee
Ley Tiong(余励忠)
(2)
、
(F)Fong Cheong Thiam(洪昌添)
、Fong Wee Keat、Foo Hee
Hiang(符気強)
(2)
、
Foo Keah Keat、
Foo Ming Lian(符明蓮)
、
Foo Siang Seng(符祥盛)
(2)
、
Foo Soo Kong(符素光)
(2)
、Foo Yuki(符優綺)
、
(G)Gan Kok Seng(颜国成)
、Gan Seu
46
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
Kian(顔綉涓)
、Gan Teck
2012/11/30 現在 ABK 同窓生募金国別集計
Yeow( 顔 得 耀 )
(2)
、Goh
Peng Ooi、Goh Swee See
(呉瑞獅)
、
(H)Ham Poh
Can( 范 宝 权 )
、Ham Poh
Chyan、Heong See Yoon
(香世运)
(2)
、Hew Boon
Thai、How Chai Nguan(侯
再源)
、
(J)Joan Wai Kim
Foh、(K)Kang Chin Yeh
( 江晋業)
、Kenneth Wong
(黄復翔)
(2)
、
Kevin Ng(呉
錦強)
、Khu Hwa Leng(邱
華龍)
、Koh Hong Hwee(許
ABK同窓生募金
鴻輝)
、Kong Guan Wie(江
元偉)
、Kong Kwee Song
(江回松)
、Kong Sian Shih
(江幸柿)
、
(L)Lai Yoon
Poh(赖永保)
、劉・有村開
順、Lau Kok Yong( 刘 国
栄 )
、Lau Sau Hong( 劉
少 峰、 在 日 )
、Lau Shiang
Horng、Lau Weng Wah(刘
润华)
、Lee Check Poh(李
志保)/Ng Sui Ying(黄瑞英)
、Lee Chee Heong(李志雄)
、Lee Kian Ling(李建霖)
、Lee
Kian Ling(李健霖)
、Lee Kong(李廣)/Lam Chok Yak(2)
、Lee Leong King(黎亮景)
、
Lee Liong Mui、Lee Miow Ying(李妙英)
、Lee Mow Tiam(李茂添)
(2)
、Lee Tee Boon(李
智文)
(2)
、Lee Tiam Hing(李天興)
、Lee Yuet Keong(呂月強)/Kek Sai Fong(郭思坊)
、
Leong Khee Hoo(梁其和)
(2)
、Leong Thiat Eng(梁徳栄)
(2)
、Leong Wing Sum(梁永
森)
、Lew Kim Song(劉金雄)
(2)
、Liau Kok Wee、Liaw CK(廖俊光)
、Liew Teck Boon(劉
徳文)
(2)
、Lim Bok Hek(林木火)
、Lim Chee Tian(林志田)
、Lim Chin Kok、林月秋 / 傳亮
(中国)
、Lim Chin Ee(林振意)
(3)
、Lim Chong Chan(林忠贊)
、Lim Hock Lai(林福来)
(2)
、
Lee Li Soon、Lim Liong Chu(林良住)
、Lim May Yan(Mmrcia Lum May Yan)
(2)
、Lim
Peng Jin (Scientex Japan Co., Ltd.)
、Lim Sin Yean(林欣燕)
、Lim Soon Hang(林顺桁)
、
Lim Suat San(林雪珊)
、Lim Thian Huat(林天发)
、Lim Yok Chai(林意財)
、Loh KC(羅国
47
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
俊)
、Loke Hon Yee(陆汉宇)
(2)/June Tan(陈素芯)
、Low Cho Kee(刘助基)
、Low Han
Peng(刘汉平)
、Low Kim Lee(劉金莉)
、Low Leong Meng(羅亮明)
、陸培春留日センター、
Lwee Lew Chen(雷柳菁)
、Lwee Yuen Chiang(雷远江)
、Lwee Yuen Tung(雷远东)
、
(N)
Na Chin Teong(藍振忠)
、Ng Chee Meng、Ng Chin Keong(黄振強)
(2)
、Ng Chuan Aik
(Tony Cang;黄泉毓)
、Ng Eng Hooi(黄永輝)
、Ng Kim Chai(黄金財)
(2)
、Ng Mee Wah
(呉剣華)
(2)
、Ng Teong Guan(黄忠元)
、Ng Thian Eng(黄殿英)
、Ngiam Tee Seng(厳
世清)
(2)
、Ngwan Boon Ming(阮文明)
、
(O)Ong Cheng Chuan(王清川)
、Ong Cheng
Han(王清漢)
、
Ong Ching Long(王建龍)
、
Ong Chooi Lee(王翠莉)
、
Ong Poh Heng(王宝慶)
、
Ong Thye Beng(王泰明)
、Ong Wei Bing、Ong Yee Meng(王玉明)
、
(P)Pang Choon
Boon(彭俊文)
、Pang Pow Kwee(方宝貴)
、Pang Yuet Hueng(彭月紅)
、Phang Siew
Kiong(彭修强)
、Poh Siew Hui(傅秀慧)
、Puah Chin Chye、
(Q)Quah Saw Ting、Quah
Soh Teah、
(S)Sam Cha Peng(覃澤平)
、Seah Boon Chieng(謝文清)
、Shia Wei Jong
(余維忠)
、Siau Fook Siong(箫福祥)
、Siew Kooi Kam(萧钜金)
、Siew Moey Yen、Sim Ee
Looi、Sim Eng Kang(沈永江)
、Sim Kee Hong(沈其豊)
(2)
、Sim Kim Ling、Simon Liow
(廖天發)/Ho CL(何俅伶)
、Soo Ka Jin 、Soo Kee Chee(蘇克智)
、Soh Keh Woei(蘇克
偉)
(2)
、Soo Seck Heng(苏锡兴)
(2)
、Soon Kian Seng(孫健勝)
、SKK Kaken(M)Sdn
Bhd、Soon Sai Kheng(宋世勤)
、Stanley Lian、Su Kui Sheng(蘇桂昇)
、Sui Kwai Chan、
(T)Tan Boon Liang(陳文亮)
(2)
、Tan Chaik Kwang(陳澤光)
、Tan Chee Kiong(陳志
強)
、Tan Chee Teong(陳治中)
、Tan Cheet Yong(唐志勇)
(2)
、Tan Chew Mooi(陈秋妹)
、
Tan Hwee Ing、Tan Keah Moh(陳佳茂)
、Tan Kee Hang(陈继汉)
(3)
、Tan Pang Tee(陈
邦智)
、Tan Peck Ming(陳碧明)
、Tan Peck Ming(陳碧明)
、Tan See Seng(陳時生)
、Tan
Soo Sin(陳素芯)
、Tan Wee Pin、Tan Wee Seng(陈为胜)
(2)
、Tang Eng Huat(陳永発)
(2)
、Tang Gek Eng(陈玉英)
、Tang Kok Lian(湯国亮)
(3)
、Tang Miow Chin(湯妙晶)
、
Tay Kiam Guan(鄭謙源)
、Tee Choon Hong(2)
、Tee Kian Meng、Teh Chong Yee(鄭忠
義)
(2)
、Teng Kim Yin(鄧錦雲)
、Teo Bee Hong(張美宏)
、Teo Boon Lian(張文連)
、Teo
Chuan Soon(張川順)
、Teoh Eng Choo(張映水)
、Teo Kian Song、Teo Kim Chuan、Teo
Kwee Swee(张贵水)
(2)
、Teo Tiam Hwa(張添華)
、Teoh Eng See(張映絲)
、Tey Khern
(郑勤)
、Tey Kian Teong ( 鄭 建 忠 )
、Tham Kok Who、Thye Meng Yu( 鄭 茗 友 )
、Tiang
Chuan Seong(鄭俊雄)
、Toh Leong Chee(卓良志)
、Toh Peng(杜平)
、Ung Yat Keat、
(W)
Wong Chao Hsiung、Wong Chee Ken(黄啓耕)
、Wong Chin Shiuan(黄晋軒)
(2)
、Wong
Choon Leng、Wong Fee Ping(黄慧萍)
、Wong Jiunn Shyong、Wong Ka Seng(王家成)
、
Wong Kim Choy、Wong Kim Choy、Wong Kok Hoi、Wong Kuok Hung(黄國鳳)
、Wong
Mei Kin、Wong Seng Keng(黄成耕)
(2)
、Wong Sheong Chin(黄鐌进)
、Wong Tzong
Chyang(黄宗強)
(2)
、
(Y)Yap Men Fatt、YB Liang Teck Meng(梁徳明)
、Yeung King
Hong、Yew Kuen Ying(姚群英)
、Yew Siew Leong(姚瑞良)
、Yong Chin Chew(楊 清洲)
、
48
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
Yap Geng Yi(叶耿瑜)
、Yong Hwee Yan、Yap Shin Woei(葉信偉)
、Yew Siew Leong(姚
瑞良)
、Yong Cheng Yun(楊青雲)
、Yong Hon Wee(楊漢威)
、Yong Kian Teck(杨建德)
、
Yong Kok Lin(楊国霖)、匿名希望(1)
(B)坂東慶彦、
(F)藤田陽一、深民崇夫、
(G)五条章二、
(I)石原政一、伊藤要、稲田幸司、
(K)
越場直樹、
(K)工藤英弥、
河野修、
小松電機産業(株)代表取締役小松昭夫、
(M)水田康広、
水野伸明、
森下治幸、
(O)大須賀稔晴、貞包物産(株)
、
(S)柴田保、下村安秋、白石和也、SKK Kaken(M)
Sdn Bhd、
(T)田中公治、塚本秀幸、
(Y)山内一弘、山川勇人、山縣みさ、山根行弘
<ミャンマー> Aung Kyaw
<パキスタン> A. R. Siddiqi(在日)
<ペルー> Olga Shimada Keiko
、Foo Choo Wei(在日)
、Foo Yong Tse、顔尚強、
<シンガポール> Chia Guan Sey(謝元生)
王発其、Tan Choon Shian、Wong Meng Quang
<台湾> Chen Ai Chi(陳艾圻)
、張忠信(在日)
、李淑維(維維)、Lin Pi Chi(林丕継、在日)
、
<タイ>(A)ABK and AOTS Almuni Association(Thailand)
、Asami Hiroko(浅見博子、
在タイ)
、
(B)Bandihit Rojarayanont、
(C)Chamlong Srimuang、Chanintorn Mekaratana、
Chovet Yimsirikul、(D)Ditdi Chatputtongul、(G)Gannigar Koontanakulvong(2)、
(I)Itti Rittaporn、
(K)Kanzaki Sorda( 神 崎 ソ ラ ダ、 在 日 )
、Kornkeo Praisontarangkul、
Kraisorn Throngnymchai(在日)、Krisada Visavateeranon、
(M)Meena Thamchaipenet、
Mongkol Pianapitham、(N)Navarat Srisuponvanit、Ngampho Pattrawut、Niramai
Thanatavee、
(O)Onozaki Tadashi(小野崎忠士、在タイ)
、
(P)Patamavadee(Bongsayan)
Narushiso、Phiphat Chaichanavichakij、Pilaipan Mekaratana(2)
、Pisan Thanatavee、
Pholchai Limviphuvadh、Pornanong Niyomka H.、Prayad Kongkasawad、
P r a y o o n S h i o w a t a n a 、( S ) S a t h i d a M e k a r a t a n a 、 S a o w a n e e P a t r a k a r n 、
Shintaku Hikaru(新宅光、在タイ)
、Sivaporn Sirilatthayakorn、Sucharit Koontanakulvong
(2)、Suchittra Hunbuncharkit(2)、Supong Chayutsahakij、Suthee Chutchaiwett、
Suvit Vibulsresth、(T)Technology Promotion Association(Thailand-Japan)(TPA;
泰日経済技術振興協会)
、Thai-Nichi Institute of Technology(TNI; 泰 日 工 業 大 学 )
、Tana
Tangtrongsakdi、(V)Vachiranee Limviphuvadh、Vachiraporn Limviphuvadh、Virat
Thiravathanavong、
(W)Wannadee O'sorup、Wiwut Tanthapanichakoon、
(Y)Yanase
Shuzo(柳瀬修三、在タイ)
、Yoshiko Limviphuvadh
<ベトナム> Dao Thi Minh(在日)
、Dong Du(ドンズー日本語学校)
、Le Quynh Chi(在日)
、
Nguyen An Trung、Tai Anh Tien(在日)
、To Buu Luong(在日)
、Tran Thanh Viet(在日)
49
ABK同窓生募金
林登居・斎藤ヒサ子(在日)
、Liu Li Mei(劉麗美)
、堤井信力(在日)、廖婉淑、陳俊銘(在日)
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
おたより
I want to take this joyous auspicious occasion
TITLI BASU, Doctoral Student, School of
to wish you a peaceful, blissful, prosperous,
International Studies, Jawaharlal Nehru
and successful New Year 2013 (B.E. 2556;
University,New Delhi, India(インド)
Heisei 25).
Wiwut Tanthapanichakoon, Prof. Emeritus,
Shinnen akemashite omedetou gozaimasu.
Chulalongkorn University (CU) Prof., Tokyo
Myint Wai, Chairman, Waminn Group of
Institute of Technology (TITech) and
companies(ミャンマー)
concurrently, Adjunct Prof. of Kyoto Univ.
(在日、
タイ)
X’mas Greeting Card 張 素 華(Vhang Sou
Wah;在カナダ、香港)
To all friends of Asia Bunka Kaikan
merry christmas and a happy new year.
今年(2012 年)1年、皆様にはいろいろとお世話
Heng F.C.( 在ドイツ )
様になりました。日本では、年も押し詰まって政権
交代があり、年明け早々に本格的な新しい体制に向
Merry Christmas and Best Wishes for the New
け動き出すことになるのかと思われます。使い古さ
Year
れた感のある言葉ですが、2013年は日本にとっ
P.A.H.Fernando(在ニュージーランド、
スリランカ)
てもタイを含むアジアにとっても「激動」が予想さ
れる年という感じがします。こうした状況の中で生
Wish you a Happy, Healthy and Successful
きられることが幸せか否かは各個人で見解の別れる
2013
ところだと思いますが、歴史の一証人として、しっ
M.R.Ranganathan(インド)
かり目を見開いて来る 2013 年を迎え、それに向
かっていきたいと考えている年の暮です。良いお年
On the occasion of coming christmas and new
をお迎え下さい。そして、来る 2013 年が皆さまに
year events, we would like to thank for all your
とって良い年でありますよう祈念致します。小野崎
support and wish you a healthy and happy new
忠士(在タイ)
year. Best Wishes,
Sucharit and Gannigar(タイ)
Akemashite Omedetto gozaimasu! 2013 be
arriving soon. May you have a blissful, lovely
Wishing you a Merry X'mas.
year. All the best to you ! Best wishes from
Myint Wai, Chairman, Waminn Group of
Gary Tang & Family(マレーシア)
Companies/President, Myanmar Association
of Japan Alumni(ミャンマー)
All the best for a Happy and prosperous New
Year 2013
Wish you and ABK staff a merry christmas and
Mudhafar Al Jabiri ( イラク )
very happy new year. may God bless Japan. I
tried to make you a card in Japanese. Excuse
Wishing you a Merry Christmas and a New
my mistakes. I hope you like it. take care!
Year of Peace and joy
50
アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
Mr. Supong Chayutsahakij(タイ)
とうございました 本年もご指導ご鞭撻の程 よろ
しくお願い申し上げます。平成 25 年元旦 ブラジ
迎春 謹んで新年のお喜びを申し上げます。旧年中
ル広島県人会 会長 大西博巳 役員一同(ブラジ
は、格別のご厚情にあずかり、心よりお礼申し上げ
ル)
ます。本年もより一層尽力して参りたいと存じてお
りますので、何卒、昨年同様のご哀願を賜りますよ
う、よろしくお願い申し上げます。
ドンズー日本語学校 校長 グエン・ドク・ホエ(ベ
トナム)
新年明けましておめでとうございます。
年頭にあたり、ご家族の皆様のご健勝、ご多幸を祈
念申し上げます。何時も大変お世話になり、誠に有
り難う御座います。
本年もどうぞ宜しくお願い申しあげます。
平成二十五年 元旦。
シ ッ タ ア セ ン フ ア フ ン(SITTHA SANFUENG
マレーシア・ジョホールバルで 2012 年 11 月
FUNG SITTHA & ASSOCIATES LAW OFFICE、
22 日 に 開 催 さ れ た 第 7 回 四 木 会。 場 所 は The
タイ)
Bierhaus (Sentosa 阿坤鱼丸正对面 )
Happy New Year 2013 Wish you a Prosperous,
Healthy, Wealthy, Successful & Blissful Year.
Best Wishes. Maliwan Dejaritt(タイ)
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお
願いします。
Foo Hee Hiang(マレーシア)
明けましておめでとうございます。 先生のご健康と
ご多幸をお祈り申し上げます。ウェイ維(台湾)
新年明けましておめでとうございます。今年も宜し
くお願いします。Tan Chee Teong(マレーシア)
明けましておめでとうございます。皆様のご健康と
12 月 27 日( 木 )、 マ レ ー シ ア・ ジ ョ ホ ー ル
ご多幸を心からお祈り致します。
バ ル で 第 8 回 四 木 会 兼 第 1 回 忘 年 会 が、The
本年もよろしくお願いします。
(^∇^)Sunny
Bierhaus German Pub. に て 開 催 さ れ ま し た。
Pang(在日、マレーシア)
この会は、ABK 同窓生募金を契機に始まりました。
ご覧の通りとても気軽な集まりだそうです。まだ
続きますので、ぜひ一度ご参加ください !
謹賀新年 昨年中は大変お世話になり 誠にありが
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アジアの友 第 500 号 2013 年 1 月 20 日発行
マレーシアの同窓生募金発起人会が、ABK 同窓生
募金の最後の 300 万円の募金に向け、ABK 同窓
会 facebook で次のような呼びかけを始めました。
たくさんの関係者の方々に 1 口募金をお願いする
次第です。よろしくお願いいたします !!!
ご来館
マ レ ー シ ア の 莊 賜 鎂 さ ん(Ch'ng
Soo Bee、ABK 日本語コース 1991
ミャンマーのミンウェイ(Mynt Wai, 東
年度生)が、出身校の青山学院大学空
京工業大学卒、元 ABK 在館生、元 AOTS
手道部の創立 65 周年記念のため来日
研修生)さんが、2012 年 11 月 23 日、
し、空手演武会に出演。2012 年 11
40 年振りに ABK を来訪されました。ミ
月 29 日、ABK を来訪されました。
ンウェイさんは今、ミャンマーの元日本留
学者協会(留学生 , JICA, AOTS の元研修
生など、帰国生全部を含む)の代表を務め
ておられます。
マレーシアの Foo Hee Hiang さんご一家
(奥様、ご息女、ご子息)が、長女優稀さん
(ABK 日本語コース在学中)訪問と観光で来
ベ ト ナ ム の ク ワ ン (Quang Tien Nguye、
日、12 月 12 日、ABK を来訪されました。
元蒼生寮生、アメリカ在住 ) さんが 2012
奥様も ABK 日本語コースの卒業生。卒業後
年 11 月 28 日、久々に来館されました。
初めての来日で 25 年ぶりとのことでした。
52
新校舎の上棟式行われる
2013 年 1 月 15 日(火)
ご入会とご寄付のお願い
当協会は、政府の補助金を受けていない純
民間運営の公益法人ですので、財源に限り
があり、皆様方からお送りいただく会費、
寄付金は、本協会の活動を支える貴重な財
源となっています。何卒ご理解、ご協力を
お願い致します。
後記
本誌「アジアの友」が今号で500号を迎えた。1958年に創刊され、その後
1961年3月号から月刊誌として出発させたのが瀬川保さん。本誌33号から
だ(本誌の田中宏さんの記事参照)。深緑色の台紙に白字でくりぬかれた
協会のあらまし
名 称:財団法人アジア学生文化協会
ASIAN STUDENTS CULTURAL ASSOSIATION
えながら今日に至っている。なお、今は、財政的な事情で隔月刊となって
いる。そこで、創刊から50年を超える本誌の歴代の編集者に集まっていた
故穂積五一氏創設
目 的:日本とアジア諸国の青年学生が共同生
活を通じて、人間的和合と学術、文化
および経済の交流をはかることによ
り、アジアの親善と世界の平和に貢献
することを目的とする。
ABK 役員および工事請負業者である橘設計、
小川組他担当者参加のもと執り行われまし
た。また式の後には内部の見学が行われま
10 月中旬の様子です。
した。工事は予定通り進行しており、3月
末の完成を予定しています。
た。その後、時代の要請等、諸事情で何度かサイズも表紙のデザインも変
所在地:東京都文京区本駒込2丁目12番地13号
設 立:1957年(昭和32年)9月18日
語 学 校・ 校 舎 の 上 棟 式 が 1 月 15 日( 火 )
表紙は、それから1988年2・3月号(261号)まで長い間会員に親しまれ
(ASCA)
代表者:理事長 小木曽 友
2014 年 4 月に開校を予定している新日本
穂積先生の書、「アジアの友」の文字がとてもシンプルで凛とした印象の
だき話していただくのも現実的でない。鬼籍に入られた方もいる、連絡の
取れぬ人もいる。そんなことで、比較的長期間編集に携わり、創設者の穂
積先生とその時代を共にした初代編集長の小倉尚子さん、田中宏さん、工
藤正司さんのお三方に、担当当時の思いでや本誌の今後に寄せるメッセー
ジ等をご寄稿いただいた。(F)
1月7日に行った本誌の座談会は、久々の放談会でもあり長時間にわたり、
話題も多岐にわたった。人生・経験豊富な元留学生たちは、日々自国の情
◇主な事業◇
勢、近隣諸国の情勢、それに世界の情勢に関心を寄せ日本で生活している
(1)留学生宿舎の運営
(2)留学生日本語コースの運営(進学希望者向
けの日本語を中心とする教育)
(3)留学生に対する情報提供支援
(4)アジア語学セミナー
(5) 帰国留学生のアジア文化会館同窓会、(社)
日・タイ経済協力協会、ABK留学生友の
会との連携・協力
中、日本にはそうした変化に対応できる総合的な機関がない。従って対外
ことを再認識させられた会でもあった。今、世界が急速に変化している
的な対応が遅れがちだと。各国事情を研究する機関をつくり危機管理・安
全管理に対応する必要性があるのではとの話題で盛り上がったが、直後、
アルジェリアのテロ事件が起き、やはり情報が錯綜した。(F)
◇会費(年額)◇
正会員 1口 1万円
アジアの友 2012 年 1 2 月号 - 2013 年 1 月号
賛助会員 1口 5万円
特別会員 1口 10万円
2013 年 1 月 20 日発行(通刊第500号)
会員には広報誌「アジアの友」が無料配布され
ます。また、広報誌購入だけを希望される方に
は、購読料年間3千円(学生2千円)でお送り
しています。
年間購読(送料共)3,000円(学生2,000円)
1部 500 円(税込)
発 行 人
小 木 曽 友
編 集
発 行 所
アジアの友編集部
財団法人 アジア学生文化協会
東京都文京区本駒込2 — 12 — 13( 113-8642)
電話番号 : 03 - 3946 - 4121
ファクシミリ: 03 - 3946 - 7599
振替口座 : 00150 - 0 - 56754
E-mail:tomo@abk.or.jp
ホームページ:(http://www.abk.or.jp/)
published by ASIAN STUDENTS CULTURAL ASSOCIATION
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ください。
(ASIA BUNKA KAIKAN)
2-12-13, Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo, 113-8642, JAPAN
+81-3-3946-4121
+81-3-3946-7599
Email : tomo@abk.or.jp
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