マケドニア 文化と 土地と 自然の 揺りかご 経済省 観光局 マケドニア共和国 マケドニア 共和国 観光マップ 発行者:経済省 本文執筆:Danilo Kocevski 写真撮影:www.dzingo.com 制作:Skenpoint 文化と土地と 自然の揺りかご マケドニアの起源ははるか昔、聖書の時 代までさかのぼります。聖書によれば、 使徒聖パウロが初めてアジアの外へ旅し たとき、マケドニアを訪れてマケドニア 人に説教したといいます。現代世界文学 の使徒ともいうべきガブリエル・ガルシ ア・マルケスは、小説『百年の孤独』の 中で「マケドニアの賢い錬金術師たち」 に触れています。マケドニアという名前 の由来についてはいくつかの言い伝えが あります。ある説によれば、同国のマケ ドン王の名をとってつけたのだといいま す。 また別の学説によれば、マケドニアの古 語「makos(大きくて高いこと) 」と「don (土地) 」からきているといいます。2 つ の語を合わせると、大きくて高い、山の ある土地という意味になります。 いまのマケドニア共和国は、まさに文 化と芸術の宝庫です。これほど多くの歴 史遺産がある地域は、世界中を探しても そうはないでしょう。教会、イコン、修 道院、考古学遺跡、モスク、古書、その 他の芸術作品などです。 マケドニアのイコンのコレクションは、 シナイやアトス山やロシアのコレクシ ョンと並んで世界でもトップクラスと 認められています。最古のイーゼル・イ コンは 10 世紀後半のものですが、マケ ドニア東部の Vinitsa の町に近いヴィニ ッコ・カレ遺跡で見つかったテラコッ タ・イコンは非常に貴重な品です。4 世 紀後半~6 世紀半ばの初期キリスト教芸 術を代表する作品です。 スラブの初期の文字と文学のルーツ もマケドニアにあります。サロニカの聖 キュリロスとメトディオス兄弟による 文化事業は、全スラブ人にとってきわめ て重要な意味をもっています。ふたり は、サロニカ周辺のマケドニア・スラブ 人が話す言葉をもとにグラゴル文字を 考案し、礼拝に必要な、あるいは異教徒の スラブ人たちをキリスト教徒に改宗させる という使命に必要な主な宗教文献を古スラ ブ語に翻訳しました。 マケドニアの教会や修道院には長い伝統 があります。プレスパの近くのクルビノヴ ォ村に近い、12 世紀に建てられた小さな聖 ヨハネ教会内のフレスコ画は、スコピエ近 くのやはり 12 世紀建設の聖パンテレイモ ン教会のフレスコ画と並んで、当時のビザ ンチン芸術の頂点を示すものです。そのほ か、ヴォドチャ村のレオンティウス教会と Velyusa 村の聖母教会――どちらもストル ミツァ地方にあります――、クマノヴォ地 方の Staro Nagorichane 村にある聖ヨハネ 教会、プリレップ地方の Treskavets 修道 院、クラトヴォ地方のレスノヴォ修道院(14 世紀)、ゴスティヴァル地方の聖ヨハネ・ ビゴルスキ修道院(19 世紀)――ここ にある木彫りのイコノスタスは、Miyak 木彫り職人の手になる名品です――も 忘れてはなりません。 マケドニアは古代から、バルカン半島 及び南ヨーロッパにおいてきわめて戦 略的な位置を占めていました。バルカン 半島の中央部にあることから、コミュニ ケーションの要衝でした。マケドニア共 和国の国境線は 849 キロメートル、国 土面積は 25,713 平方キロメートルで す。国民はマケドニア人、アルバニア人、 トルコ人、セルビア人、ブラック人、ボ スニア人、ルーマニア人などです。最近 の国勢調査によれば、人口はおよそ 205 万人。憲法にもとづく自治独立の市民民 主国家で、国民は出身民族にかかわらず 同等の市民権と自由を享受しています。 共和国内の主たる交通網は道路です。基本 となる道路は古くローマ時代に建設され ました。ローマ時代のヴィア・エグナティ ア街道はローマを起点とし、オフリドとサ ロニカを経由してコンスタンチノープル まで通じていました。いまでは、最大の国 際自動車道 E75 号線がオステンドからス タートし、ブリュッセル、ニュールンベル グ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード を経由してスコピエを通り、アテネまで通 じています。空路もまた重要です。マケド ニアには、スコピエとオフリドの 2 カ所 に空港があります。マケドニアの航空会社 だけでなく外国のエアラインも発着して います。近隣諸国の一部空港まではほんの ひとまたぎです。こうした交通網のおかげ で、バルカン半島の中央に位置するマケド ニアへのアクセスは抜群です。 全国各地にある郵便局の郵便サービスを 通じて、世界と迅速、簡単にコミュニケ ーションができます。 マケドニア共和国は美しく貴重な自然 に恵まれており、 「バルカン半島の真珠」 と呼ぶ人も少なくありません。一方、ス イスの美や地形や気候になぞらえる人も います。渓谷も多いのですが丘陵や山も 多いので、平均高度は 830 メートルに達 します。マケドニアは水もきわめて豊富 で、 「湖の国」と呼ばれることもよくあり ます。多くの地殻変動湖や氷河湖や人工 湖があるからです。国内には約 50 もの大 小の湖があります。中でも重要なのはオ フリド、プレスパ、ドイランの 3 つの地 殻変動湖です。 マケドニアの川は 3 つの流域を形成して います。うち最大なのがエーゲ流域で、 その主流はヴァルダル川です。この川は マケドニア北西部の Vlainitsa 山のふも との Vrutok 村を起点とし、全長 350 キ ロメートルです。うち 264 キロメートル はマケドニア国内を流れています。この 川はサロニカ湾でエーゲ海に注ぎます。 ヴァルダル川はマケドニアの水力発電の 主力です。 「ヴァルダル渓谷」プロジェク トは、まだ初期段階ですが、いずれマケ ドニアの繁栄にとって大きな意味をもつ でしょう。ヴァルダル川の支流としては トレスカ川、Pchinya 川、Tsrna 川など があります。一方、オフリド湖から流れ 出すブラック・ドリム川はアドリア流域 に属しており、美しさで知られています。 ラディカ川も絵のような眺めです。シャ ラ山からデバル湖に注いでいます。 マケドニア共和国は、動植物も驚くほど 多種多様です。地中海性の植物とヨーロ ッパ・シベリア地方の植生とが共存して います。高い山、深い森、青々とした草 地が牧畜の発展をうながしました。その ため、渓谷地帯で牧畜が行われている牧 歌的な地としてのマケドニアを描いた 絵画が数多くある一方で、堂々として畏 怖の念を抱かせるような山の景色を描 いたものもあります。山々は、カモシカ の一種シャモア、クマ、シカ、イノシシ、 オオカミその他多くの動物の自然生息 地となっています。動植物種が豊富なた め、山岳地帯の多くが国立公園や保護林 に指定されています。そのひとつに Galichitsa 山(標高 2,225 メートル)が あります。 この山は、オフリドとプレスパ平原を隔 てる自然の境界線となっており、山頂か らはふたつの湖の絶景がのぞめます。ビ ストラ山にあるマヴロヴォ国立公園は、 珍しい動植物、水晶のように澄み切った 水、マヴロヴォ湖のすばらしい眺めに恵 まれています。Pelister 国立公園(標高 2,600 メートル)は、マケドニアでもっ とも美しい山のひとつにあります。その シンボルは、モリカという珍しい種類の 松です。地中海性の植生が豊富なのは、 エーゲ海からほんの 60 キロメートルし か離れていないためです。アドリア海 も、マケドニアの西の国境からわずか 80 キロメートルのところにあります。 こうしたことから、国内には地中海性、 温暖大陸性、山岳性と 3 つの気候帯があ ります。 こうした便利な気候と珍しい動植物 は、山岳観光の発展にとって理想的な環 境です。 海外でも名を知られているウィンター スポーツのメッカがいくつかあります。 ポポヴァシャプカ、マヴロヴォ、クルシ ェヴォ、Pelister、ゴラク、Ponikva な ど。これらの地域は、スポーツやレクリ エーションに必要なあらゆる施設を備 えています。快適なリゾートやホテル、 ケーブルカー、スキーリフトなど。ポポ ヴァシャプカには 2,000 人、マヴロヴォ には約 1,200 人、クルシェヴォ(マケド ニア国内でいちばん高地にある町で、標 高 1,250 メートル)には約 600 人分の宿 泊施設があります。Pelister には近代的 なホテルや設備の整った山小屋があり、 約 500 人を収容できます。ゴラクと Ponikva は隣り合っており、自前のイン フラやリゾートを備え、快適な宿泊施設 や質の高いスポーツ・娯楽施設もありま す。 国内に数多くある山、森、川、湖は狩 猟や釣りには最適で、観光客にとっては 大きな魅力です。狩猟区は獲物が多く、 特別な管理下にあります。ヴィレッジ・ ツーリズムも発展しつつあります。ビス トラ山の山頂、標高 200 メートル地点に ある絵のように美しい Galichnik 村に は、毎年夏、多くの熱心な観光客が訪れ ます。長年にわたって受け継がれてきた マケドニアの風習にのっとった、伝統的 な結婚式を見物するためです。この村は 羊小屋、農場、一級の乳製品や貴重な手 織りじゅうたんでも知られています。マ ケドニアの立地や地形や気候や水源は、 観光の発展には理想的です。しかしトラ ンジット観光も忘れてはなりません。中 央ヨーロッパとエーゲ海、黒海、地中海 東部を結ぶ重要な幹線道がマケドニア 国内を通っているからです。 マケドニアの浴場は古代から有名です。 60 以上の温泉があり、数カ所の温泉場に 引かれています。 中でも有名なのはスコピエの近くのカ トラノヴォ温泉、クマノヴォの近くのプ ロエヴォ温泉、デバルの近くの Kosovrasti 温泉、ストルミツァ近くのバ ンスコ温泉、ゲヴゲリヤ近くの Negortsi 温泉、シュティプの近くの Kezhovitsa 温泉、そしてコチャニ温泉です。これら の火山性温泉には薬効成分が含まれてお り、呼吸器、神経系、腎臓、消化器、生 殖器などのさまざまな病気やリューマチ を治す効果があります。水温はクマノヴ ォ温泉の 30℃からバンスコ温泉の 72℃ までといろいろです。どの温泉場も、近 くの町まで定期のバス便があり、きちん とした宿泊施設もあります。 マケドニア地方には、紀元前 4500 年の新 石器時代に早くも非インドヨーロッパ系 住民が暮らしていました。インドヨーロッ パ語族がバルカン半島に定住したのち、こ の地には古代マケドニア人、イリュリア 人、トラキア人、古代ギリシャ人などが住 みつきました。古代マケドニア人はバルカ ン半島の中心部で暮らしていました。古代 マケドニアが絶頂期を迎えたのは、フィリ ポス 2 世とその息子アレキサンダー大王 の時代です。フィリポス 2 世のもと、マケ ドニアは統一された強大な中央集権国家 になりました。アレキサンダー大王は史上 有数の軍司令官であり征服者で、帝国の領 土をアドリア海、インド、エジプトにまで 拡大しました。 紀元前 2 世紀、ローマ人がマケドニアを征 服しました。紀元 4 世紀にはマケドニアは ビザンチン帝国の属領になりました。6~7 世 紀 に は Berezites 、 Dragovites 、 Velegizites、Sagudates、Rinhines 等のス ラブ人部族が住みつき、sclavine と呼ばれ る特殊な領土区画を形成しました。 10 世紀後半になると、サムエル帝が強大 なマケドニア王国を築きあげました。首都 は最初はプレスパに、次いでオフリドにお かれました。その頃ローマが、独立したマ ケドニア教会の創設を認めました。つまり オフリド総主教です。 マケドニアは 13 世紀にはセルビアに、 14 世紀にはオスマントルコに征服されま した。オスマントルコの支配は、1912 年 のバルカン戦争に至るまで 5 世紀にわたっ て続きました。バルカン戦争の結果、マケ ドニアの小さな領土が 3 分割され、それぞ れブルガリア、セルビア、ギリシャへ 1913 年に併合されました。 マケドニア人は他 のユーゴスラビア人とともに反ファシス ト戦 (1941~45 年)に加わりました。 1944 年 8 月 2 日、ASNOM(マケドニア 人民解放反ファシスト会議)の会議におい て、マケドニアのヴァルダル地域が適法な 国家と宣言され、ユーゴスラビア社会主義 連邦共和国を構成する 6 連邦共和国のひと つになりました。1991 年の国民投票によ り、マケドニア共和国は自治独立国家とな りました。 豊かな宗教的、文化的伝統を背景にして マケドニアの国民意識が目覚めたのは、19 世紀後半のことです。当時はナショナリズ ム運動が活発で、Miladinov 兄弟、Grigor Prlichev 、 Rayko Zhinzifov 、 Kuzman Shapkarev、Marko Tsepenkov といった 人々が文化復興を目指して戦いました。そ して国民的レジスタンスとオスマン支配 からの解放への道を開きました。この流れ を引き継いだのがマケドニア革命運動の 使徒、ゴツェ・デルチェフです。1903 年、 有名なイリンデン蜂起が勃発し、クルシェ ヴォにおいてバルカン半島最初の共和国 の樹立宣言が行われました。この共和国は 短命に終わったものの、マケドニア人の独 立への思いの強さを物語る出来事でした。 マケドニアの町の建設時期は古代、中 世、オスマン占領時代とさまざまにわたっ ていますが、どの町にも共通の特徴がみら れます。 街を囲む城壁、アッパー・ゲートとロウア ー・ゲート、市場、隊商宿、旅館、橋など。 これらの特徴が顕著なのがスコピエ、ビト ラ、オフリド、ヴェレス、シュティプ、ク マノヴォ、クラトヴォ、クリヴァパランカ、 Sveti Nikole、ラドヴィシュ、カヴァダル ツィ、キチェヴォ、テトヴォ、ゴスティヴ ァル、ストルミツァ、ゲヴゲリヤ、クルシ ェヴォ、レセンなどです。 マケドニア地方では数々の古代都市が栄 えました。ストビの街は、いまのヴェレス の近くにありました。ストビの集落が初め て記録に登場するのは紀元前 4 世紀、フィ リポス 2 世がパエオニアと戦争を始めたと きです。ストビの街は繁栄し、精緻なモザ イク、宮殿、寺院、浴場、劇場などを備え ていました。ビトラの南方にあった古代都 市ヘラクレア・リンケスティスは、紀元前 4 世紀半ばから紀元 6 世紀にわたって千年 あまりも栄えました。スコピエの近くのス クピは、マケドニアがローマの属領だった 頃に建設され、長らくその地方の宗教的、 経済的中枢でした。ストビもヘラクレアも スクピも都市化が進んでおり、街路、水道 橋、劇場 、浴場などがありました。セントラルヒー ティングを備えた邸宅までありました。 現在のマケドニア共和国の行政の中心 は、人口 60 万あまりのスコピエです。2000 年の長きにわたる伝統をもち、東西文化が 絶妙に融合している街です。多くの道路や 文明がこの地で出会い、交わってきました。 Zlokuchani 村と Bardovtsi 村の中間にある 古代都市スクピが最初に記録に登場するの は、ローマ人がダルダニ人を征服してこの 地を占領したときです。スクピは 518 年に 大地震で壊滅しましたが、スクピ生まれの ビザンチン帝国のユスチニアヌス 1 世が程 なく、ユスチニアナ・プリマという新都市 を建設しました。この都市はスクピの宗教 的、法律的重要性を受け継ぎました。長き にわたる執拗な包囲攻撃のあげく、ついに スラブ人がスクピに入城したのが 7 世紀の ことです。1392 年にオスマントルコに征服 されたのち、この街は独自の東洋的な外観 を備えるに至りました。しかしキリスト教 的特徴も、歴史のあらゆる変転にもめげず 生きのびました。街は繁栄していましたが、 疫病が蔓延したため、17 世紀にオーストリ アのピッコロミニ将軍の命令で焼き払われ ました。19 世紀になると市中の商業は再び 繁栄し、マケドニアのブルジョワ階級や 知識人の復興にとって願ってもない基 盤となりました。 第 2 次大戦後、スコピエは、ユーゴスラ ビア連邦のひとつマケドニア社会主義 共和国の首都になりました。いまでは独 立国マケドニア共和国の首都です。 スコピエには真新しいブールバード、 橋、ショッピングモール、文化施設など がありますが、有名なオールドバザール や数々の史跡は古代の精神をとどめて います。聖セイヴィア教会(中世の建築。 19 世紀に修復された)、Nerezi の聖パン テレイモン教会及び修道院(12 世紀)、 スルタン・ムラート・モスクとムスタフ ァ・パシャ・モスク(いずれも 15 世紀 の建築) 、クルシュムリ隊商宿(16 世紀) 、 ストーンブリッジ(15 世紀にローマ時 代の遺跡の上に建設された) 、昔の要塞、 カレ、その他多くの史跡があります。 観光客にとって最大の魅力はもちろ ん旧市街ですが、スコピエには近代的な ホテル、マケドニアの伝統的なもてなし を受けられる民族レストラン、劇場、博 物館、美術館、ナイトクラブ、バー、カ ジノ、喫茶店などもたくさんあります。 人口 10 万のビトラは、マケドニア第 2 の大都市です。伝統建築や、マケドニ アの昔ながらの職人芸が残っています。 ビトラが領事館と外交官の街だった時 代(1870~1913 年)の栄光がいまも漂 っているのが感じられます。ビトラには 立派な劇場、一流の出版社、一見の価値 のある美術館などもあります。世界的な 文化イベントも開催されます。ババ山と Pelister 国立公園に近いので、夏冬の観 光の発展には理想的な条件が整ってい ます。 オフリドの街には湖、自然美、歴史・ 文化遺産があり、まさにマケドニア共和 国の珠玉といえます。ユネスコの保護対 象に指定されています。湖には珍しい動 植物が生息し、ヨーロッパ最大級の生物 保護区となっており、訪れる者の好奇心 をかきたてます。そのため「淡水の海」 と名づけられました。面積 358 平方キロ メートルで、最深地点の深さは 228.7 メ ートルあります。水は澄み切っており、 215 メートルという抜群の透明度を誇 ります。 湖に住む動植物の中には、ユーロアジア全域 にかつて繁殖していた古代の動植物の生き残 りで、いまでは中東のチベリウス湖かシベリ アのバイカル湖でしか見られない種もいま す。湖に住む 17 種の魚は驚くべき存在です。 中でも有名なのが、オフリドの固有種である 2 種類のオフリド・トラウト、letnica belvica (Salmothymus ohridanus)、それに大きい ものでは長さ 1.5 メートルもあるウナギで す。これらの魚は釣り人にとってはやりがい のある挑戦、グルメにとってはごちそうです。 とくに、有名な「オフリド流」のトラウト料 理法を知っている人にとっては。 オフリドは街そのものが博物館であり、マ ケドニア文化の宝庫です。しばしば「バルカ ン半島のエルサレム」と呼ばれるほどです。 湖岸にあるため、自然美や宗教美が豊富です。 イギリスの著名な美術史家ハーバート・リー ドは、オフリドを「ヨーロッパ芸術の重要な 架け橋」と評しています。古代はリクニドス という名前でした。聖クリメントと聖ナウム の活動で知られるようになりました。ふたり は、最初のスラブ人教育者であり啓蒙家、キ ュリロスとメトディオス兄弟の弟子です。ク リメントとナウムは、かの「オフリド文学派」 の創立者でもあります。オフリドは宗教や教 育や文学の中心地として高度な発展をとげ、 ヨーロッパの文化中枢のパイオニア的存在で した。オフリドにある数々の文化・歴史遺産 の中でも、とくに注目すべきものがいくつか あります。聖ソフィア教会(11 世紀)は、マ ケドニアでもっともすぐれた中世建築です。 聖母 Peribleptos 教会(13 世紀)は、有名な イコン・ギャラリーと同じ敷地にあります。 聖ヨハン・カネオ教会(13 世紀)からは、湖 のすばらしい眺めが楽しめます。聖ナウム修 道院(10 世紀)は、街から 30 キロメートル 離れた、湖を見下ろす険しい崖の上にありま す。聖ナウムはここで暮らし、働き、埋葬さ れました。どの教会にもある貴重なフレスコ 画は、貴重な中世芸術であり、多くの国際的 な中世史家の研究対象となっています。丘の 頂上には堂々たるサムエル要塞がそびえ、街 を支配しています。ここは最初のスラブ・マ ケドニア国家の公的な中心地のひとつで、以 来ずっと古代オフリドを象徴する存在となっ ています。 街の中心部にある Robevi 邸と Urania 邸 は、19 世紀の旧都市建築の傑作です。オール ドバザールには店や工房がたくさんあり、土 地の名産品をはじめとするさまざまな商品が 売られています。 有名なオフリド「真珠」や銀線細工もありま す。毎年夏には、クラシック音楽や演劇の一 流の国際フェスティバルがオフリドで開催 されます。南のアルバニア国境の方へ足を向 ければ、周囲の田園の独特の美しさに出会え るでしょう。青く澄んだ湖水が、山の景色や、 森のひんやりした新鮮な空気と混じり合い ます。近くのペトリノ山の山腹から街を見下 ろすヴェレストヴォ村からは、湖の絶景がの ぞめます。ピクニックやヴィレッジ・ツーリ ズムや、マケドニアの慣習や伝統との触れあ いにはうってつけです。さらに南へ行くと、 Goritsa と聖 Stephen という美しいビーチが あります。オフリド最高の場所のひとつが、 Gradishte 半島のリヴィエラです。Peshtani と Trpeytsa というふたつの愛らしい漁村に はさまれ、広々として設備の整ったキャンプ 場があります。村のレストランでは、おいし い魚料理や giomlezets(残り火で焼いた伝統 的なパイ)を食べられます。アルバニア国境 に近い聖ナウム地方は、まさに地上の楽園で す。砂浜、ブラック・ドリム川の水源となっ ている湧き水、聖ナウム教会と修道院。キャ ンプ愛好家なら、同じ名前の、管理の行き届 いたキャンプ場で宿泊できます。オフリド湖 のこのあたりには、マケドニアでもっともエ キゾチックな洞窟教会があります。ペシュタ ニ村に近い聖母教会と、Goritsa の近くの聖 Stephen 教会です。オフリドには申し分のな い宿泊施設があります。ホテル、民宿、最高 のビーチにあるキャンプ場。 オフリド湖の第 2 の「真珠」が、Struga の街です。オフリドからほんの 14 キロメー トルのところにあり、「Struga の詩の夕べ」 という国際的な詩のフェスティバルの開催 地となっています。街の古い建築や、昔の伝 統や文化の名残を示す数々の美観が見る人 を魅了します。マケドニアでもっとも美しい 川のひとつ、ブラック・ドリム川は聖ナウム の湧き水から発して湖を渡り、再び Struga の湖に姿をあらわします。古代には、この街 は Enchalon(ウナギ)という名前でした。 先 史 時 代 か ら人 が 住 み つ いて い ま し た 。 Struga は、19 世紀に起きたマケドニアの文 化 ・ ナ シ ョ ナリ ズ ム 復 興 運動 の 立 役 者 、 Miradinov 兄弟の生まれ故郷でもあります。 Struga やその周辺の観光スポットとしては、ほんの一例を 挙げただけでも聖母教会、カリシュタの修道院――聖書の場 面を描いたみごとな絵がある――、聖アサナシウス洞窟教会 などがあります。美しいビーチ、一流ホテル、キャンプ場な ども有名です。 街と周辺のホテルを合わせると 1 万 1,000 人あまりを収容 できます。民宿でも快適に泊まれます。もてなし上手のホス トが行き届いたサービスをしてくれ、我が家にいるようにく つろがせてくれます。 プレスパ湖の流域も人気の観光地です。マケドニアのサム エル帝は、この湖の並外れて野性的でユニークな美しさに魅 了され、この地を最初の首都と定めました。湖は小プレスパ と大プレスパの 2 つの部分に分かれ、面積 274 平方キロメ ートル、最深部の深さは 18.76 メートルです。湖には 11 種 の魚がいます。コイ、小ぶりだけれどおいしい nivichka と いう魚などです。平安とエキゾチックさを漂わせるプレスパ 湖は、休養には理想的なところです。オテシェヴォや Pretor にいくつかのキャンプ場や子ども向けリゾートやホテルが あり、快適に滞在できます。 マケドニアの地殻変動湖の中でいちばん小さいドイラン 湖は、国の南端にあります。いくつかのユニークな特徴があ ります。最長部分 9 キロメートル、最大幅 7 キロメートルし かなく、面積 43.1 平方キロメートルです。最深部の深さは 10 メートルです。気候が温暖で水が暖かい(夏には 28℃) ため、治療効果があるとされています。魚が豊富で、ブリー ク、コイ、ナマズ、チャブなどがいます。釣り人にとっては まさに天国です。この湖では、いまも鵜飼いという古代から の漁法で魚をとっています。世界でもめったに見られない珍 しい光景です。湖岸にはいくつかのホテル、リゾートやキャ ンプ場があります。 マケドニアでは、伝統的な民族芸術・工芸をいまも大切に しています。いくつかのフォークグループの活躍により、マ ケドニアの歌や踊りは世界中で知られるようになりました。 民謡が何世紀にもわたって生き残ったのは、マケドニアの口 承伝統のおかげによるところが大です。細かい刺繍をほどこ した民族衣装は、個々の女性の芸術的才能と、集団としての 美的独創性をあらわしています。魅力たっぷりの民族衣装 は、昔から毎年夏にオフリドで開かれる「バルカン民族フェ スティバル」で見ることができます。 赤と黒のリネン糸や木綿糸や麻糸の刺 繍は、地方色豊かです。マケドニアの一 部の村や、Struga の市の立つ日には、 いまでも民族衣装を着ます。刺繍の色の 多彩さは、多くの現代画家にインスピレ ーションを与えてきました。数々の伝統 の職人工房、たとえば銅細工、銀細工、 樽屋、鉄砲鍛冶、カフタン仕立屋、大工、 靴直し、鍛冶屋、金細工屋などは、マケ ドニア人の伝統と精神の保持に重要な 役割を果たしてきました。その一部はい まも、昔ながらの市場で見られます。 マケドニア料理には、どんな外国人観 光客も惹きつけられます。17 世紀にマ ケドニアを訪れたトルコ人の歴史家 Evlia Chelebi は、当地の人たちは「大 した食道楽」だと述べており、とくに「特 別な調理法でつくったラム・ケバブと各 種の魚料理」に触れています。 マケドニア料理は、テーブルを飾るさま ざまな民族料理を抜きにしては語れま せん。yaniya、shketo、ライスキャセロ ー ル 、 pindjur 、 ベ イ ク ト ビ ー ン ズ 、 turli-tava、taratur、焼き肉、魚料理、 pastrmaliya、各種のスープなど。マケ ドニアは、良質なワインの生産に最適の 条件を備えています。中でも最高級は、 チクヴェシュ地方産のワインです。 マケドニアでは、国じゅうのどの街や 観光地にも店の立ち並ぶショッピング センターやバザールがあり、なんでもそ ろっています。地元の職人が作品を売っ ていることもあります。刺繍、金線細工、 ハンドメイドの革製品、毛皮・ウール製 品、陶器、金銀の宝飾品など。マケドニ アの野菜市場には昔から、あらゆる旬の 果物や野菜、それにあらゆる経路からの 輸入品があふれています。 自動車部品、スポーツ用品、キャンプ用 品などを扱っている専門店もたくさん あります。 マケドニア共和国は、現代世界の文化 の発展と足並みをそろえています。数々 の国際イベントがマケドニアで開催さ れ、国内外のあらゆる芸術・文化分野の アーティストの注目を集めています。ク ラシック音楽、ジャズ、演劇、美術、詩、 民族文化など。マケドニアでは各種の見 本市、科学学会、シンポジウム、主なス ポーツの大会なども開催されます。貴重 な自然と芸術、歴史と古代文明、山と湖、 狩猟と釣り、古い伝説と新たな友情、い いワインとおいしい食事を愛する方は どなたでも、 ぜひマケドニアへいらしてください! お待ちしています! マケドニア共和国 経済省 電話:+389 2 3093 536; 3093 540 ファックス:+389 2 3093 540 メールアドレス:tourism@economy.gov.mk http://economy.gov.mk
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