飛べない小鳥は、歌をうたう 【紹介】 小鳥の声が、聞こえたんだ――。 高松に住む女子高生・右京は、親友のハルカからちょっとした頼み事を引き受けることになった。 その頼み事とは――書店でボーイズラブの小説を買ってくること。 だが、右京はこれまで書店に行ったことがない。商店街の真ん中で立ち往生してしまった右京に救いの手を 差し伸べたのは、アツモリと名乗る謎の好青年であった――。 瀬戸内海を舞台にした、ちょっぴり甘くてほろりと苦い歴史ファンタジー風ラブストーリー。 【目次】 第一章 背中と胸の悩みゴト ........................................................................................................................ 1 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? ...................................................................................................... 6 第三章 私の手に、本を持たせて。 ........................................................................................................... 13 第四章 ラッキーネームの人だから ........................................................................................................... 20 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 .................................................................................................... 24 第六章 秘密の才能、秘密の過去 ............................................................................................................... 30 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 ............................................................................................. 36 第八章 神社と恋人と知識の島................................................................................................................... 42 第九章 小鳥が残した記憶 .......................................................................................................................... 48 第十章 人魚姫は涙を流さない................................................................................................................... 54 第十一章 不良少女のミステリー ............................................................................................................... 61 第十二章 暗闇の世界、光の世界 ............................................................................................................... 67 終章 飛べない小鳥は、歌をうたう ........................................................................................................... 70 第一章 背中と胸の悩みゴト 第一章 背中と胸の悩みゴト 親友とおしゃべりする時、私はいつも後ろ向きに座る。 顔がそっぽを向いても構わない。どうせ顔を合わせたって意味ないし。それに。 背中をくっつけて手を触れ合えば、友達のことなら何だってわかるんだから。 「赤ちゃんって、ほんっとに可愛いんだよね!」 ここんところ、私が切り出す話題といったら決まってこれだ。 ちひろ 「ウッキは千尋ちゃんの話ばっかりしよるが」 ハルカはそう言って背中で笑う。 優しい彼女はいつも私の話題に合わせてくれる。彼女の温かい背中も柔らかい掌もおっとりした讃岐弁も、 私はみんな大好きだ。 「千尋ちゃん、もう一か月くらいになったん?」 「うん。ずっしりと重くなったよ」 「それで、顔はどななんな?」 「わかんないんだよね。まだ触ったことなくってさ」 でもね、顔がわからなくても可愛いったら可愛いんだ。だって私の妹なんだぞ! 「生まれたての頃はシワシワだったけど、今はお肌もモチモチでスベスベだよ。あんなに触り心地がいいも のは他にないね」 「ウッキはえんでかぁ。ウチ、赤ちゃんに触ったことないん」 「そっか。ハルカのとこは兄貴しかいないもんね」 ハルカの背中がちょっぴり丸くなる。背中は本当に正直だ。 「ハルカ、今度ウチに来なよ。千尋を触らせたげるから」 そう私が言っただけで、ハルカの背中が今度はびっくりするほど伸び上がった。 私は慌てて一言付け加える。 「一応お母さんに相談してからね。コーイチはがさつだからアレだけど、ハルカなら絶対オッケーだよ」 「何とな!」 ハルカの声が弾んで、 「ウチ、絶対に行くけんね!」 「ひゃんっ! こらっ、ハルカ! くすぐったいっ!」 喜びを表したり冷やかしたりする時、ハルカは頭をそらして髪の毛で私の首筋をくすぐってくる。 クセっ毛のハルカは髪がピンピンと跳ねる攻撃的なヘアースタイルだから、私のさらさらストレートでは とても攻撃を防げない。 「千尋ちゃん、ウッキみたいになったらええんや」 「ん? どうして?」 「ウチのお兄ちゃんが言よったん。ウッキは綺麗になりよったわ、て」 「……ふうん」 「なんで? ウッキは綺麗言われて嬉しないん?」 「うん」 だって実感がわかないから。自分で見られるわけでもないし。 「だけど半分は嬉しいかな。私はともかく、千尋が美人になるに越したことはないね」 「ウッキはホンマに千尋ちゃんが好きやな」 「ふふふ。誰でも自分の妹は可愛いもんよ。誰かさんのお兄ちゃんが妹をすっごく可愛がってるみたいにね ー!」 な ん 「なっ、何言よんな、ウッキ!」 さあ、今度は私がハルカをくすぐる番だ。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 1 第一章 背中と胸の悩みゴト 「あれー? 誰のことを言ってるのか、まだわかんなーい? このこのっ!」 「ひゃはははっ! こそばいっ! ウッキ、指を使うのは反則やけんね!」 「そんなルール知らないもーん」 盲学校の放課後の教室。 楽しいおしゃべりの時間はどんどん過ぎていく。 私たちは、一番近くにいる友達の顔すらも見えない。 だけど、大好きな友達と背中を触れ合っておしゃべりする楽しさは何物にも代えがたい。 温かくて柔らかくて、ほのかにシトラスの香りをまとったハルカの背中は私だけのポジションだ。譲らな い。 そのくらい大切なハルカが急にしんみりとした口調になった。 「ウッキ……ちょっと相談があるんやけどな」 ◇ 「どしたの、相談って?」 私がそう返事をするのと腕時計がピッと鳴るのが同時だった。 「あーっ、もう四時じゃん! 千尋がおなかすかせて泣いてるーっ!」 私が慌てて立ち上がると、ハルカも立って背中越しに叫ぶ。 「ウッキ、相談の続きは明日やけんね! 約束やで!」 校門の前では既にハルカのお母さんが待っていた。 帰り際にハルカは私に「明日やけんね」と何度も念を押していった。 そんなに深刻な相談だったの? 何だろね。 私のおしゃべりに一方的に付き合わせて悪いことしちゃったかも。 ハルカを乗せた車が行ってしまうと私は大急ぎで家に帰る。とは言え走ったりはできないので、可能な限 り早足で歩く。 家に着けば白杖はもう要らない。玄関のドアを開けるやいなや「ただいま! 千尋は?」と対句のように 叫ぶのが、この高倉家に千尋が来てからの私の習慣だ。 耳を澄ませば、奥の赤ちゃん部屋からほにゃほにゃと赤子の声が聞こえてくる。ちょうど、いや、ギリギ リ間に合った感じだ。 さて、赤ちゃんのお世話の基本はおむつとミルクだ。 この二つは目が見えない私でもそこそこ普通にこなすことができる。 最初にチェックするのはおむつ。 紙おむつはおしっこを吸収した時にマークが浮き出る仕様らしいけど、そんなもの見なくたって外から触 ればわかる。 お尻を拭くのも問題ない。うんちの時はちょっと面倒だけど、これはお母さんがやっても面倒なことに変 わりはない。 すっきりしたお尻にベビーパウダーをぱふぱふと当てて、新しいおむつをあてがって粘着テープで留めれ ば無事完了。 汚れたおむつは小さく丸めて専用のごみ箱に捨てましょう。 お尻が心地よくなると赤ちゃんはミルクを欲しがる。 必要なものは消毒済みの哺乳瓶とキャップと乳首、それに湯ざましと六十度のお湯。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 2 第一章 背中と胸の悩みゴト さらに、一回分の粉ミルクを量って取り分けたミルカーという容器も使う。赤ちゃんのいる家ではごく普 通に置いてある容器だ。 千尋は毎回一六〇ミリリットルのミルクを空っぽにしちゃうから、今回作るのも同じ量だ。 半分のお湯を哺乳瓶に入れてから粉ミルクを溶かし、最後に湯ざましを加える。 私は最初のお湯に全神経を集中させる。なぜなら、決まった量のお湯を注げば、粉ミルクと湯ざましを加 えたときにちょうど予定量のミルクになるから。 それでもどうしてもばらつきが出るけど、お母さんが言うには「右京が生まれた時にも適当にやってたか ら構わない」って。そんな適当に育てられた私でも平気だったんだから千尋もきっと大丈夫。 ただ、ミルクが溶けたかどうかを私には確かめようがないから、振り混ぜる時だけは十分気合いを入れる ことにしている。 調乳が終われば、いよいよ楽しい授乳の時間だ。 ぽやぽやした髪の千尋の頭を左の肘に乗せるように抱いてクッションに腰を下ろし、右手で哺乳瓶を軽く 持ちながら人差し指の腹で千尋の口を探す。 ミルクを待ちきれなくなった千尋の唇は、乳首だと思って私の指をちゅーちゅーと吸ってくる。 こうして指を吸われる時の快感さといったら他にないんだけど、千尋には指じゃなくて乳首を吸ってもら わなきゃならないから、私は泣く泣く指をどかして哺乳瓶の乳首を千尋の口にあてがう。 千尋が舌を動かしてミルクをんぐんぐっと飲み始めると哺乳瓶越しに振動が伝わってくる。 私もここぞとばかりに「いい子でちゅねー」とか「たくさん飲んでまちゅねー」なんて甘ったるぅい言葉 をかける。千尋もわかっているのかいないのか、紅葉のような小さい手で私の胸をぺたぺた触ってくる。 そのたびに、私の胸はずきゅんと痛む。 ごめんね、千尋。 ぺたんこの胸しか触らせてあげられなくって。 ◇ あれは千尋が生まれる前のこと。 ショッピングモールで触れてみたマネキンと私の体格があまりにも違うことに愕然としたのが始まりだっ た。 お母さんは娘を気遣って「他の子と変わらないわよ」 「右京の気にしすぎよ」なんて言ってくれるけど、な らば下着コーナーに様々な大きさのブラがある理由をどう説明する? 普通に目が見える女の子たちは、お互いに見比べながら「大きい」とか「小さい」とか判断してるのかな。 それができれば私も気が楽なんだけど、決定的な事実をバーンと突きつけられて二度と立ち直れなくなっ ちゃうのも困る。 ああっ、けれど誰かと比べてみたいっ。ハルカに相談しちゃおっか。 でも、どうやって? 「胸触らせてくださーい」なんて言えるか? そんな破廉恥なお願いをしたことが校内に広まったら、恥ずかしくて私は学校に行けなくなっちゃう。 考え事をしているうちに千尋がミルクを飲み干してしまったらしく、つーつーと美味しそうに空気を飲む 音が聞こえる。 千尋の口から哺乳瓶をちゅぽんと引き離し、千尋の頭が私の肩に乗っかるように縦抱きしてから背中をぽ んぽんと軽く叩いてゲップを促す。 けぷっと可愛い音がしたら授乳はおしまい。 さて。ぺたんこの胸に千尋を抱きかかえたまま、私は授乳中にふと思い出した胸の――じゃなくてハルカ 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 3 第一章 背中と胸の悩みゴト のことをお母さんに相談してみる。 キッチン方面から聞こえるかすかな音を頼りに「お母さぁん」と呼びかけたら、思ったとおり「なあに、 右京」と返事があった。 「ハルカがね、赤ちゃんを触ってみたいんだって。ねえ、ハルカに千尋を抱っこさせたげてもいいよね?」 はるか 「 遥 ちゃん? もちろんいいわよ」 二つ返事で了承された。 ハルカこと多田遥はとってもいい子で我が家でも信用されているから、まあ当然と言えば当然だ。 「その代わり右京が抱っこする時間を減らそうかしら。最近、右京は千尋に構いすぎてるみたいだから」 なっ……なんてこと言うんですか、お母さん! 「あまり赤ちゃんを抱いてばかりいると、抱き癖がついちゃうわよ」 抱き癖って何よ? 赤ちゃんを抱っこしたくてたまらなくなっちゃうこと? それならまったく心配ご無用、私は全然困らない。それに、多分もう手遅れだ。 「反対よ。抱っこしないと赤ちゃんがぐずったり泣いたりすることを抱き癖って言うのよ」 だったらずっと抱いてりゃいいじゃん。 私なんて一晩じゅう抱っこしてても平気だね。 ◇ 翌日の放課後。ハルカはいつものように普通科教室にやって来た。 「ウッキ、どなんしたん?」 背中合わせに座りたがらない私にハルカは思いっきり不審げな声をぶつけてくる。 「な、何ちゃないけん!」と私も慣れない讃岐弁で応酬する。 だけどさすがは親友ハルカ、私の身体の異変にしっかりと気がついた。 ハルカが私の背中につつっと触った途端、電流を通した有刺鉄線に触れたような激痛が背中を突っ走る。 「痛ぁいっ!」 「ウッキ、どななっとんな! 背中パンパンやんか!」 「それが、その……千尋があんまり可愛くて、つい一晩じゅう抱っこしてたら……」 「そら大変やわ! ウッキ、その椅子に馬乗りになって座り!」 「はぁ?」 「座ったらうつ伏せになる感じで……ウッキ、もうええか?」 「何を……するつもりなの?」 訊いてもハルカは教えてくれない。 仕方なくハルカに言われたように生徒机に顔を伏せ、ぺたんこの胸を椅子の背もたれに押しつける。 「ウッキ、痛かったら言うんやで」 「?」 私の頭がその言葉を疑問に感じるよりも早く、唐突に痛みはやって来た。 パリッパリに固まった私の背中にそっと手を添えていたハルカが、やおら指先に全体重をかけるように力 をこめて―― ぐぎゃっ! と、押したのだった。 身体の内側に鉄の棒を通されたような鈍痛が、今度ばかりは私の脳髄にまで達した。 「あぁっ…………!」 「だ、大丈夫?」 ハルカが叫び、感電でもしたみたいに手を引っ込める。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 4 第一章 背中と胸の悩みゴト 「大丈夫……そのまま、続けて……」 ハルカは「うぅん」と肯定とも疑問とも否定ともとれる返事をしてから、さっきと同じように私の背筋を ゆっくりと強く押していった。 ああっ……気持ちがいいっ。 肩から背中にかけて凝り固まっていた筋肉がほぐれていくこの感覚。たまんない。 「ウチや、まだ全然習うとらんのやけどね」 「そうなの? ハルカ、すっごく上手だよ」 「ウッキも一緒に保健理療科に進んだらよかったんや」 そうなんだ。 この四月から私とハルカは別々のクラスになってしまった。 私は普通科でハルカは保健理療科だ。普通科の授業は通常の高校と変わらないが、保健理療科はマッサー ジ師や指圧師になるための教育に力がおかれている。 視覚障害者のために昔から開かれている数少ない職業訓練のコースだ。 「マッサージの需要はいっぱいあるんよ。最近は『十分間マッサージ』いうんもあるんで」 「十分間……マッサージ? 何それ? どんなの?」 「商店街とかショッピングモールにお店があるん。で、お客さんは買い物途中とか仕事の帰りにぶらっと入 るんよ。すぐにできよる言うて人気なんやて」 なるほど、十分間マッサージか。それはいいね。 ストレス社会ではマッサージの需要は増えこそすれ、減るわけがない。 マッサージチェアが高機能化したって人の手の温もりにはかないっこない。ハルカに背中を揉んでもらえ ばよくわかる――。 なんてことを十五歳の少女が恍惚として言ってる場合じゃないか。 「そっかあ。それでハルカはコーイチと一緒に保健理療科にねえ――」 「ちっ、違うっ! ウッキ、何言よんなっ!」 「いてててっ!」 ハルカ……今のはわざとやったでしょ……。 でもさ、ハルカがこうして反応するってことは、今日の相談内容はやっぱり恋人のコーイチとのことなん だね? 「ううん、違う」 「ふうん、それじゃ……って、まさか? ハルカの兄貴とか?」 「しっ! ウッキ、声がおっきい!」 自分で想像した内容の意外さに驚き、のけぞって叫んだ私の上半身をハルカが力ずくで椅子に押さえつけ た。 やめてよ……私の胸がもっと平べったくなったらどうしてくれるのよ……。 「ウチはお兄ちゃんから聞いたんやけどな」 精一杯トーンを落としたハルカの声が、私の背後から遠いつぶやきのように聞こえてくる。 「だから……何を、聞いたのよ……?」 「ウッキは『ボーイズラブ』いうんを知っとんな?」 ボーイズラブ――? 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 5 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? ボーイズラブ。 直訳すれば、少年の愛。 英語が大っ嫌いだという理由で受験科目に英語がない保健理療科を選んだと私にこっそり教えてくれたハ ルカでも、このくらい和訳できるでしょ。 「そういう本があるらしいて、お兄ちゃんが言よったん」 「そのボーイズラブって純愛のことじゃないの?」 「純愛?」 「うーん、説明が難しいけど……恋人のことを純粋に愛するみたいなの」 二〇〇四年は純愛元年です――。 そんなことをテレビかラジオで言ってたっけ。 純愛を描いた小説が空前の売り上げを記録した、映画化にあたってロケ地にこの香川県が選ばれた、今月 から上映されている映画がなかなか好評らしい――。 どれもこれも、子育てをしながら噂話を集めることにだけは余念のないお母さんから聞いた話ばかりで恐 縮だ。 だけどハルカのうなり方からすると、純愛とは何となく違うみたいだった。 「お兄ちゃんの話やとな……それが、その……男の人と男の人みたいなん」 「ふんふん、なるほど。男同士の愛ってことか」 つまり "BOY'S LOVE" じゃなくって "BOYS' LOVE" なんだね。 アポストロフィ 短縮記号の位置が少し違えば、意味するところは大きく違う……って? 「えええ――――っ! そ、そ、それってつまり、あのその……ど、同性……愛?」 いきなりしどろもどろになった私の言わんとするところを、ハルカは背中にあてがった両手の親指だけで 推察したらしかった。 「最初はウチもそない思うとったけど、ホンマの恋愛みたいにうまげな話書きよる言うんやわ」 「てことは、やっぱり純愛みたいなものなの?」 返事はなかった。 実際のところ、ハルカもよくわかってないんだろう。 まあそれは別にいいけどさ。ハルカ、さっきから手が止まってるぞ。私が言えた義理じゃないが。 「ウッキ、そこでや」 私の耳をくすぐるような、ハルカの悪戯っぽいひそひそ声。 「ボーイズラブ、ウッキも読んでみたい思わん?」 ◇ 「読んでみたいって、それって、本……なんだよね?」 ハルカが兄貴から聞いた話、正体不明だけど何やら面白そうな本、それに読書の誘い。 この三つが頭の中で三題噺のようにつながった。 「わかった! 可愛い妹とその友達のために、ハルカの兄貴がボーイズラブって点字図書を大阪の本屋さん で買ってきてくれたと……いてててっ!」 「ウッキ! この話、お兄ちゃんには絶対に内緒やけんね!」 囁き声のままハルカが耳元で叫ぶ。 しかも、私の背中を貫通するんじゃないかってくらいの殺意を指先にこめて。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 6 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? 「でも、ハルカは兄貴から聞いた話だって……」 「お兄ちゃんはウチがそない怪しげな本やこし読まん思うとるんで! もう死んでまう……」 なーにが、「ウチはもう死んでまう」だっ。このブラコン娘が。 私は机から頭をもたげ、いくぶんヒステリックに怒鳴った。 「もうっ! ハルカが何を言いたいのかさっぱりわかんないっ!」 お兄ちゃんにばれよったら、ウチは 嘘だ。本当はもうわかってる。 ハルカがどうして私を選んで相談を持ちかけたのかってことを。 それでも一度はしらばっくれておくのが、親友とのコミュニケーションの基本。 「あのさ、コーイチに頼んでみたらどうかな?」 ごまかしの言葉を発した勢いで、私はそのまま早口でしゃべりつづける。 「コーイチは弱視だから、拡大器を使えば字を読めるんだよね。きっと本屋さんに行ったことも本を買った こともあると思うんだ。だからここはコーイチに任せ……いででででっ!」 「コーイチにしゃべったら学校じゅうに広まるでないな! そななったら、ウチら恥ずかしくて二度と学校 に来れんので!」 ウチらってことは、私は早くも道連れ確定ってこと? けれど、ハルカのいない学校に通いつづける気になんてなれないから、結局は道連れみたいなもんか。 「ウッキ、お願いや。ウチはウッキしか頼れる人がおらんけん」 私の背中を愛おしそうに撫でながら、ちょっぴり鼻にかかった声で甘えてくるハルカ。 その讃岐弁はおっとり度に磨きがかかり、語尾の「けん」も「けぇん」に聞こえる。 とにかくやけに色っぽい。 家族にも恋人にも言えない、女の子だけの秘密の共有。 うん。いいよね、そういうのって。私だって憧れちゃう。だけど。 たったそれだけの動機では、たとえ親友の頼みといえども私は首を縦には振らなかったと思う。 いくらなんでも無謀すぎる。 それでも私は「いいよ」と答えた。 なぜって、その……ひとことで言えば、私も興味がわいちゃったのだ。 ボーイズラブと称する、危険な香りが漂う男の子の物語とやらに。 ◇ 夕食の後、千尋を抱っこしながら私はごちゃついた頭を整理することにした。 別にどうでもいいんだけど、ベビーベッドで寝ている千尋がいつも両手を握りしめてガッツポーズをキメ ているのはどうして? この高倉家の次女と生まれたのがよっぽど嬉しいに違いないなどと勝手に想像し、小さい妹を両手でゆぅ らゆぅらとあやしながら心の中で相談を持ちかけてみる。 あのね、千尋。聞いてくれる? 千尋はまだ気づいてないかもしれないけど、お姉ちゃんは目が見えないんだ。 だから、可愛い千尋の顔だって一度も見たことがないの。 そんなお姉ちゃんがね、同じように目が見えないお友達に頼まれちゃって、本屋さんへ本を買いに行くこ とになったんだ。ふふふ。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 7 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? どう? お姉ちゃんって結構すごいでしょ。無謀でしょ。 だけどその本はちょっぴりエッチな本かもしれないんだ。 エッチってのは……ええっと……とにかく、見つかっちゃだめな本なの! もしもそんな本を買ったことがばれたら、お姉ちゃんは学校をやめることになっちゃうかもしれない。 そうなったらその時は、お姉ちゃんがずうっと千尋のお世話をしてあげるからね――。 ……はっ。こんな後ろ向きなことを考えてる場合じゃない。 まずは、この家で本屋に一番詳しそうな人物に聞いてみよう。 千尋を抱っこしたまま「お父さぁん」と甘ったるぅい声で呼んだら見事に無視された。 私が千尋に話しかける時の調子で言ったものだから、お父さんもまさか自分が呼ばれているとは思わなか ったみたいだ。 その証拠に普段の声で「お父さん」と呼んだら、今度は低い声で「何だ?」と反応があった。 お酒で調子が狂わない限り、お父さんの声はいつも無感情で一本調子で抑揚がない。 私は右手を後ろに回し、 「ここ、ここ」って感じでぽんぽんと床を叩く。 でもお父さんはそこには座ってくれない。背中合わせでおしゃべりしたいと願っても、恥ずかしいのか威 厳が損なわれると思っているのか、このポジションには一度も来てくれたことがない。 お父さん、高倉右京は娘として寂しく思いますぅ。 そんなわけでスキンシップは未遂に終わる。 ボディランゲージは私にはわからないから、お父さんの無感情な声だけから得られる情報は実に乏しいも のになってしまう。 しかし! だからと言ってお父さんの感情が理解できないなんてことはない。 思春期の少女の勘ってものをナメてもらっちゃ困りますっ。 ◇ 「お父さんって、仕事で使う本とかいっぱい買うんでしょう?」 「ああ」 二時間待ってもカツ丼が来なくてイライラしている容疑者みたいなお返事。 別に尋問してるわけじゃないんだから、もうちょっと娘に愛想よくしてほしいな。 などと詮なきことを思うのは程々にして、話の流れで偶然そうなったふうを装いつつ、さりげなく私は本 題を切り出してみる。 「そういう本って、やっぱり本屋さんで買うのよね?」 「いや、本屋ではあまり買わないな」 「どうして? だったらどこで本を買うの?」 「最近はもっぱらオンライン書店を使っているんだよ」 オンライン書店? それは何でしょう? ライオン書店なら高松のライオン通り沿いにあっても不思議じゃないけど、別物だよね。きっと。 「オンライン書店では欲しい本をインターネットで注文するんだ。注文した本は家まで配達してくれる」 嘘っ? それじゃ、お出かけしなくても本が買えちゃうんだ。 「欲しい本はどうやって探すの?」 「本の名前や著者などを入力して検索するんだ」 お父さんはこの手の話になると急に舌が回り出す。それから意外そうに語尾を上げて、 「右京、何か欲しい本でもあるのか? 本の名前か著者がわかれば探してやるぞ」 そりゃあ意外に思うよね。普通の本に縁がない私から出し抜けにこんなことを聞かれたら。当の本人です ら意外に思っているくらいなんだから。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 8 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? でも、これはチャンスかも。 ここでお父さんに頼んでしまえば、わざわざ本屋さんに足を運ばなくたってボーイズラブが手に入る。 「いや、その……。あのね、お父さん……。実は、ボ……ボ……」 言えなかった。 そもそも私はボーイズラブって本のことを何も知らない。 その前に、このことは家族にも知られちゃいけないんだった。 危うく地雷を踏むところだった。やっぱりここはどうしても内緒で買いに行かなきゃ。 「お父さんは、その……オンライン書店で内緒の本を買ったりするの?」 何気なく話題を切り替えて言ったつもりだったのに、この質問で私は本物の地雷を踏んでしまった。 お父さんはいきなりボリュームを最高レベルに上げて、 「そ……そんな本はないっ!」 と叫んだものだから、私より先にびっくりした千尋が腕の中でびくんと跳ねた。 慌てて千尋をゆっさゆさと揺らし、声をひそめて私は叫ぶ。 (お父さんっ! 静かにしなきゃだめっ!) (す、済まん、右京) きまり悪そうに小声で謝ったお父さんは逃げるように自分の部屋へと入っていったから、本屋さんについ ての詳しい話を聞く機会はなくなってしまった。 でもさ、ガードが甘いよね。あんなにわかりやすいサインを残すなんて。 私はもう秘密を知ってしまった。お父さんは内緒の本を持っている。これは大収穫だ。 私が買ってきたボーイズラブの本(買えたらの話だけど)が見つかっても、お父さんにならこの秘密と引 き換えに見逃してもらえる。 お母さんに見つかった場合でも、お父さんを引き合いに出せば責任は半分に減る。お父さんだって内緒の 本を持ってるじゃん、とか言って。 だけど、赤ちゃんのいる温かい家庭の平和をこんなことで乱したくはないから、それは本当に最後の手段。 ◇ 明くる朝。 私は出勤前のお父さんから高松市内で一番大きな本屋さんの場所を聞き出すことに成功した。 もちろん、お礼のついでにフォローをすることも怠らず、昨日のことは内緒にしとくねと耳打ちしておく。 うん、お父さんを責めちゃいけない。 お父さんだって男の人なんだから、ヤバい本を持ってても驚いちゃいけない。 それに、生殖の仕組みを知っている思春期の娘から赤ちゃんをねだられた時にはもっと驚いたはずなんだ から。 今まで苦労をかけたけれど身の回りのことはもうできるから、赤ちゃんのお世話もできる限りのことはす るから、だから私に弟か妹をください。 私がそんなお願いをしたのは去年の春先のことだったけれど、両親は私のそんな期待にしっかりと応えて くれたんだから。 ええっと。話を「お父さんのヤバい本」から「私のヤバい本」に戻す。 私は今日のうちに行動することに決めた。 ハルカが昨日マッサージしてくれたおかげですっかり軽くなった背中を誇らしく伸ばして「行ってくるよ」 と宣誓するように言ったら、ハルカは無言で私の手をぎゅうっと握りしめてくれた。 ハルカが帰った後、すぐに私は携帯電話を取り出して自宅に連絡を入れた。 突発的な用事ができちゃったので遅くなると言ったらお母さんは喜んで許可を出した。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 9 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? 私の育児時間が減るのがそんなに喜ばしいんだろうか。 校門から右に歩いてすぐのところにバス停がある。 もう少し先にはJRの駅もあるけど、街へ行くなら断然バスだ。 高松の駅は町外れにあって不便だし、身体障害者手帳を見せればバスは半額になるのに、鉄道は長距離じ ゃないと半額にはならないから。 盲学校前を通るバスの運転手さんは誰もが優しい。 プシューとドアを開けて「高松駅行きです」と行き先を告げるだけでなく「どちらまで?」と聞いてくれ る。このバスに乗るべきか、乗るならどこで降りればいいかまで教えてくれるのだ。 私が乗り降りする時にも「気をつけてね」と声をかけてくれる。私が座るまでバスを発車させずに待って くれたこともあった。 バスの乗客も優しい人が多い。わざわざ私の手を引いて空いている席まで案内してもらったことが何度も あった。知らない人にいきなり手を摑まれると私はびっくりするのだけれど、こういう好意はいつもありが たく受け取ることにしている。 そんな優しい乗り物に揺られているうちに、車内放送が繁華街近くの停留場の名前を告げた。 運転手さんにお礼を言ってバスを降りた私はふうっと一息ついて、それから考える。 さてと。ここからどうやって行けばいいんだっけ。 ◇ 私がいる場所は中央通りといって、高松駅と空港を一直線に結ぶ市内で一番広い道路だ。 まるがめまち お父さんが教えてくれた本屋さんは丸亀町ってところにある。生粋の高松っ子であるハルカの情報によれ ば、丸亀町は中央通りの先にあるらしい。 要するに、私はこの中央通りを渡って向こう側へ行けばいいんだ。 横断歩道の場所はすぐにわかった。 この横断歩道はそのまま商店街に直結しているからか、大勢の人が信号待ちをしているのが気配でわかる。 ついでに言えば、足音が一斉に鳴り出した瞬間に信号が青に変わったこともわかるんだけど、それを信じて 動くのは危険だから過信はしない。 車の来ない商店街を歩くのはとても楽しい。 ほろんと苦いコーヒー豆の芳香、洋菓子屋さんの生クリームの甘い誘惑、よだれが出ちゃいそうな焼き鳥 の甘辛い煙。耳をつんざく音とともに煙草の臭いが漂ってくるのはパチンコ屋さんで、繁華街を歩く時には 非常にわかりやすい目印になる。 ビジネス街の中央通りと比べて、商店街では女性の割合が多い。 女の人のヒールはカツンカツンと高く響く。男の人の革靴はトスントスンと鈍い音。革靴が制服に指定さ れている女子高校生もいるけれど、彼女たちはいつも友達と一緒にきゃあきゃあとおしゃべりしながらダラ ダラと歩くから聞き分けるのも簡単だ。 商店街はいろんな足音に満ちている。 私はそんな足音の中を、白杖で探りつつ慎重に歩き進む。 杖の先が人にぶつかることはまずない。真っ正面からつかつかと近づいてくる足音は、五歩くらい手前に 来るとすっと左右に分かれていく。道を譲ってくれているのがわかるから、私はすれ違いざまに心の中で「あ りがとう」と言うことにしている。 だけど。人にはぶつからなくても無機物はかなり手ごわい。 いつだったか杖の先がマンホールの空気穴にすっぽりと嵌まったことがあった。 いきなりつんのめった次の瞬間、白杖がビィンとしなって手元から消えた時には何が起こったのか全然理 解できなかった。その時は通りかかった小学生の男の子が「勇者の剣みたいに立ってたよ」と感心しつつ私 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 10 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? に杖を返してくれたんだけど、私は勇者ってことなの? こんな話を私がすると決まって「大変ねえ」などと同情めいたことを言う人がいる。 盲学校などでアイマスクを付けて白杖歩行の体験をしてもらうことがあるけれど、半分くらいの人は「怖 かった」なんて感想を述べる。 当たり前でしょ、そんなの。 普通に目で物を見ている人がいきなり視力を奪われて、杖だけを持たされて路上に投げ出されたら誰だっ て怖いと思うに決まってる。 この白杖だって普通の杖みたいに握ったりはしない。グリップを親指と人差し指で挟んでから残りの指で 杖を安定させる。長ーいペンを持っている感覚だと思えばいい。このように持てば、杖の先で触れた物を最 も鋭敏な指先で感じ取ることができる。 視覚に代わる情報を得るために、私たちはそれだけの労力を払っているんだから。 だけど私はそんな苦労を知ってほしいなんて思わない。 誰かの手を借りなければ歩くこともできなくて泣いていた私が、はじめて白杖を使って一人で歩けた時に どれだけ嬉しかったか。一人でお出かけができるようになってどれだけ喜んだか。 そのことを知ってほしい。 アイマスクを外してしまえば、目が見えなくなった時の恐怖は消えてしまう。白杖を使って手探りで歩く 苦労だって忘れてしまう。 けれど私たちの喜びを知ってくれた人は、そのことを決して忘れはしないと思う。 感情を共有するなら、同情や恐怖や苦労よりも喜びのほうがずっといい。 ◇ ええっと。 丸亀町に着いた――と思う。 より正確に言うならば、私は中央通りから一ブロックほど歩いてきた。 私の立ち位置の前を道路が横切っている。なぜなら、人がそうやって横方向に歩いているのが音でわかる から。 だから、ハルカの情報によればここは丸亀町で、お父さんの情報によればこの付近に県下屈指の本屋さん がある。 で、どっちに曲がればいいんだっけ? うーん。 道がわからない時の解決策は極めて単純で、しかも全国共通だ。 人に聞く。それだけ。きっと誰でもやったことがあると思う。 ただ、この単純明快な解決策も白杖を持ちながらとなるとバリエーション豊富な選択肢が用意されている。 まず、誰に聞くかという問題がある。 歩いてる人を捕まえて聞けばいいじゃん、なんて思ってるでしょ? 実はそれがとっても難しい。誰がどこを歩いているのか全然わからないから。 もちろん、捕まえようと思えばできないことはない。 向こうから迫ってくる足音を慎重に聞き分け、その人が右か左に避けると同時に自分も同じ方向に一歩を 踏み出し、すかさず「すみませんっ!」と叫ぶ。 大抵の人は立ち止まってくれるけれど、急いでいるのか横をすり抜けていく人もたまにいて、私のぺたん この胸はずきゅんと痛む。 道行く人を呼び止めるのはかくのごとく難易度が高いから、往来の真ん中で不特定多数に向かって「お願 いします」とはっきり声をあげる方法を私はよく使う。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 11 第二章 ボーイズラブって純愛ですか? 誰も反応してくれなければ北極の真ん中に放り出されたような孤独感を味わうこと確実だろうけれど、今 までの人生では一度もない。救いの手を差し伸べてくれる人が一人や二人は必ずいる。 次の問題。道を教えてもらう方法にもパターンがいくつかある。 一番簡単なのは方向だけを教えてもらうもの。 たまに「あっちです」と言う人がいて、恐らく「あっち」を指先で示してくれているんだろうけど、その 指先は私には見えないから「『あっち』ってどっちですか?」のように謎かけみたいな質問を繰り出す羽目に なる。 でも、大半の人はわざわざ自分の時間を割いて私を目的地まで案内してくれる。 手を引っ張られるより、できれば私から右肘あたりを持たせてもらえると嬉しいな。 私は白杖を使って一人で歩けるけれど、それは普通の人と同じように安全に歩けるという意味じゃない。 だから、こうして付き添ってもらって歩くと本当にほっとする。そんな人と出会うたびに、日本って国は 捨てたもんじゃないなって思う。 ただ、捨てたもんじゃない証拠に、たまに――私のことを過剰に気にかけてくれる人がいたりする。 いや、心遣いはすごく嬉しいんですよ? 心配してくださるお気持ちもよくわかりますし、私なんてはたから見ると危なっかしくて仕方がないんだ ろうなって思います。 けどね。 私が「連れてってください」とお願いした場所が常に最終目的地とは限らないわけ。 ハンバーガー屋さんにはトイレを借りに行くだけかもしれないし、郵便局に案内してもらうのは二軒隣に あるハルカの家に遊びに行くためかもしれない。トイレに行く途中で手を引っ張られて「カウンター、そっ ちじゃないわよ!」と大声で言われた時には泣きそうになったんだからね! それとも、道を教えてもらう時には何もかも説明しなくちゃいけないんだろうか。 私にだってプライベートもあればプライバシーもある。人に話したくないことは話さずに済ませたい。 とりわけ、本屋さんにボーイズラブって本を買いに行くんです、みたいな話は。 よって、結論。 この場で誰かに助けを求める。できればその人に本屋さんまで連れてってもらう。 そこから先は何を言われてもお断りする。ボーイズラブの本を買い求めるのは、あくまでも私と本屋さん との交渉だ――。 と、私が頭の中で練り上げた作戦をすべてぶち壊す言葉が投げかけられたのは、その直後のことだった。 その言葉は――男性の低くしっかりとした声で、こんな感じだった。 「何かお手伝いしようか?」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 12 第三章 私の手に、本を持たせて。 第三章 私の手に、本を持たせて。 「お手伝いしようか?」 最初の言葉が聞こえなかったと思われたらしく、男性の言葉はもう一度繰り返された。 のみならず、私の肩がぽんぽんと軽く叩かれた。 頭の中を最高速に回転させて作戦を練り直そうとしたけれど、私が最初の意思表示までにできたのはすべ ての作戦を破棄したところまでだった。 「はい?」 私はそう返事をして、その声がするほうへ反射的に顔を向ける。 「君はどこへ行きたいの? 俺でよければ」 男性の言葉の語尾には「案内するよ」が省略されている。 だから私は、 「……本屋さんに行きたいんです」 と素直に答えるしかなかった。 と、いきなり私の手首がぐいっと摑まれた。 その掌の熱さと力強さに私は驚き、身体をびくんと後ろに引いて「あのっ」と声を洩らした。間もなく「何 があった?」と言わんばかりに腕の力が緩んだ。 手を引っ張らないでほしいと私がお願いしたら、男性はさも申し訳なさそうに右手を貸してくれた。まく っていたのを下ろしたばかりといった感じのシャツの袖を、私はちょこんと握らせてもらった。 「歩くよ」と男性は低い声で合図のように言って、そんなにゆっくりでなくてもいいですよと注進したくな るほどの足取りで歩き出した。私も男性の袖に引かれて同じペースでついていく。 一歩前を行く男性が、私にいろいろと話しかけてくる。 「一人で来たの?」 「……はい」 「本屋には本を買いに行くのかい?」 「……はい」 私は最低限の答を返しつつ、こんなことを思っていた。 もう、だめかもしれない――。 ◇ 善意に感謝していないわけじゃない。話しかけられるのが嫌いなわけでもない。 むしろ事実はまったく逆だったりする。 私は人の温もりが大好きだ。 科学技術がものすごく進歩して掃除機くらいの大きさになった盲導犬ロボットがどこへでも連れてってく れるようになったとしても、「お手伝いしましょうか」なんて申し出があったら絶対にお願いしちゃう。 そうやって見知らぬ人に親切にされた時には、私もその親切にできる限り応えたいって思う。だけど私に はお礼を述べることくらいしかできないから、せめて付き添ってもらっている間だけでも楽しいおしゃべり をしようと心がけている。大抵の場合、付き添いの人の質問に私が答えることになる。 聞かれたくないことは答えないけど、それ以外に一般の人が興味を持っていそうなこと、例えば盲学校で の生活の話などは喜んでしてあげる。 だから今回も、この男の人と和気あいあいと歩きながら、 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 13 第三章 私の手に、本を持たせて。 ――点字ってすらすらと読めるものなの? 「練習次第ですね。慣れれば印刷された文字を目で読むのと大して変わらない速さで読めますよ。右手で読 みながら左手で次の行を先読みしちゃうこともできますし」 ――点字は書くこともできるの? 「専用の器具があるんですよ。最近は点字専用のプリンタも使います。打つときは紙を裏にして点をへこま せていくんです。だから点字は右から左に裏返しで打ち込むことになりますね」 ――盲学校では点字の勉強をしているの? 「まさか! 他の学校と時間割は変わらないんですよ。あっ、 『自立活動』の時間があるのがちょっと変わっ てるかも。白杖歩行の練習などはこの時間を使ってするんです」 ――体育の授業とかもあるの? 「もちろんありますよ。球技はボールを転がすことになってます。どこにボールがあるのか、音で大体わか るんですよ」 ――つまり、他の高校とそんなに変わらないんだね。 「私たちは他の高校のことをそんなに知りませんけど、きっと違わないと思います。学校行事だってちゃん とありますし。違うのはクラスあたりの生徒数が少ないことと、点字や拡大器を使って教材を読むことくら いでしょうか」 ――なるほど。それじゃ恋愛とかも普通にあったりするわけだ。 「そっ、そうですね! 私の友達には素敵な恋人がいるんですよ。私はその……ちょっと……ですけど」 こんな感じの会話を楽しみ、最後の質問にだけはちょっぴり傷つき、本屋さんの前で「ありがとうござい ましたっ!」と一陣の爽やかな風のようにお礼を言って、意気揚々と本屋さんの門をくぐる。 そんな計画はすべて崩れてしまった。 会話の主導権が奪われたまま、私のところに戻ってこない。 最初がすべてだった。私が先に声をかけるか、向こうから先に声をかけられるか。 そんな微妙な違いが決定的な差となり、会話の方向性を百八十度変えてしまう。 だから私は受け身になって、男性が発する次の質問を黙って待つしかなかった。 「その本は、君が読む本なのか?」 私は返事ができなかった。 なぜなら、その答を私は持っていなかったから。 ◇ というか、どうやって本を読めばいいんだろうね? 去年だったか、印刷された本をパソコンに読ませる方法があるとお父さんが教えてくれたことがあった。 たまたま雑誌に載ってたみたいなノリだったけど、わざわざ私のためにお父さんが探してきた情報だとす ぐに察しがついた。 だってお父さん、感情を隠すのが苦手なんだもん。 もちろん私は一も二もなくその情報に飛びついた。 だってさ、この私でも本が読めるようになっちゃうんですよ? そんな方法が世の中にあるって言うんだ から、私だって驚いちゃう。 だけど世の中そんなに甘くはなかった。スキャナだとかOCRだとか、私が今まで聞いたこともない単語 がお父さんの会話中に四つくらい並んで出てきた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 14 第三章 私の手に、本を持たせて。 無理、そんなの。私に操作できるわけがない。 私と一緒に説明を聞いてたお母さんも「さっぱりわからなかった」とぼやいてたから、メカ音痴はどうや らお母さんからの遺伝らしい。 これがお父さんからの遺伝だったら、目が見えない私でも本が読めるようになれたのに。 「どんな本が欲しいんだ?」 「…………」 「欲しい本はどうやって探すんだ?」 私は歩くのを止めた。 私が立ち止まったことに気づいた男性もその場でじっと待機していた。 もう心が折れてしまいそうだった。 この場で手を放して「ごめんなさい」ってこの人に謝っちゃおうかと思った。 そう――。 結局は本を買うことだってできないんだ――。 私は学校帰りにここへ来た。だから制服だ。 盲学校は生徒数も少ないから制服を見たことのある人も少ないだろうけど、それでも私が盲学校の生徒だ ってことは白杖を見ればたちどころにわかる。 本屋さんに着いたら私は店員さんに相談するつもりでいた。ボーイズラブの本をくださいって。どんな本 でも構いませんからって。 そうお願いすれば店員さんもきっと優しく応対してくれると思ってた。 だけど、店員さんがもしも親切すぎる人だったら? 親切心を働かせて、学校に電話で「お宅の生徒さんがこんな本を買いにいらっしゃいましたが、何かの間 違いではないでしょうか」なんて言ってくれたとしたら? その瞬間、何もかも終わってしまうんだ――。 ◇ 私が手をゆっくり放そうとした、その時だった。 「俺に手を貸してほしいんだが」 聞き違いじゃないかと思った。 私が人の話を聞き違えるなんてあり得ないのに、それでも本気で聞き違いを疑った。 頭の中で言葉を再生し、確かにそう言ったと確認した私の結論は、この人が単に言い間違えたんじゃない かというものだった。 だから私は当然のように聞き直した。 「何かの間違いじゃないですか?」 いいですか、手を貸してもらっているのは私です。あなたが私に手を貸しているんです。 俺の手を返してほしい、そうおっしゃったのならわかるんですけど。 ええ、ちょうど私もお返ししようと思ってたところです――。 ところが男性は、 「君にどうしても頼みたいことがあるんだ」 「私にできることなんて何もありませんけど」 それとも私に赤ちゃんのおむつ替えを頼みたいなんて思ってる? 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 15 第三章 私の手に、本を持たせて。 まだ若い、二十歳くらいの学生さんの声にしか聞こえないのに。 「俺は世の中の人々に物語を聞かせる仕事をしているんだ」 私の言ったことが聞こえているのかどうかわからない調子で、彼はどんどん話を進めていってしまう。 「君が協力してくれれば俺も助かる。是非教えてほしいんだ。面白い話や感動した話、それに……」 「私は……見せ物じゃありません……」 私の声は震え、かすれていた。もう少しで泣き出しちゃいそうだった。 「私が本を買うのがそんなに面白いんですか? そんなに感動するんですか?」 男性は黙っている。 ◇ 涙声にならないように、私は早口で次々に言葉を重ねていった。 「私は本も買っちゃいけないって言うんですか? 本を買うのがそんなに無謀なことなんですか? 確かに、 私は――」 「君、何か勘違いしていないか?」 「だって……だって、あなたが……」 「俺はただ、君が興味を持っている本のことを知りたいだけなんだが」 「……本?」 「人はどんな物語が好きなのか、俺はそれを知りたいんだ。でなきゃ物語を聞かせる仕事なんてできやしな い。例を挙げると、今の日本は純愛ブーム一色だ。純愛をテーマにした本が売れているが、あれを買ってい る人は本当に純愛の物語が好きなのか、それともブームに流されているだけなのか、それを知っておくのは 極めて重要なことなんだ。わかってもらえるだろうか」 「はあ」 「俺が知りたいのはランキングみたいな数字じゃない、生の声だ。どんな本が面白かったか、あるいは感動 したか。どんな本が読みたいか、書きたいか――まあ、書きたいと言う人は多くはないが――とにかく、そ ういったことをなるべく詳しく教えてほしい」 読みたい本のことを……教える? 私が? この人に? 「こ、こ、困りますっ!」 そう叫んだ拍子に、摑んでいた袖を私は思わず放してしまった。 男性は「そうだろうな」と相槌を打ち、 「こういった調査の常としてプライバシーは厳重に保護することに なっている。協力者に関する情報で必要なのは年齢と性別、それに都道府県までだ。あとは俺の簡単な質問 に答えてくれるだけでいい」 「でも、その……」 「もちろん協力者に謝礼を出すのも常識だ。俺はいつも図書カードを渡しているが……それとも現物のほう がいいか?」 「現物?」と私が尋ねたら、「本だよ」と男性が答えた。 「これから本を買いに行くんだろ? 何だったら、俺がその本を買って謝礼代わりに渡してもいい」 言い換えれば、私の代わりに本を――買ってくれると。 「あの……どんな本でも、いいんでしょうか……?」 「残念ながら千円以内という条件つきだ。ただし差額を支払う用意があれば、それこそどんな本だって俺は 買ってくるつもりだが」 男性はそこまで言うとやにわに私の手首を摑み、さっきのようにシャツの袖を私に持たせて再びゆっくり 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 16 第三章 私の手に、本を持たせて。 と歩き出したのだった。 「あのっ、私はまだ協力するって決めたわけでは」 「わかっている。ここからは君の自由意志で決めればいい」 男性の声の調子は変わらなかった。 「俺は君を本屋に連れていく。その上で、俺に協力してくれるつもりならもう少し一緒にいてほしい。その 時は、俺は君が言ったとおりの本を買って君に渡すことになるだろう。また、断るつもりなら本屋の前で手 を離してくれればそれでいい」 ――ずるいよね、この人。 心が折れちゃいそうな時に、こんなに大きな助け船を出してくるなんて。 ◇ 「ボーイズラブか。なるほど」 私たちは既に本屋さんの中にいるらしかった。 男性に促されるように売り場の隅に移動して、二人でひそひそと会話を進める。 「それだけでわかるものですか?」 「俺はプロだからな」男性は前置きするように応じて、 「そのくらい知っていなければ、俺たちの世界では仕 事をやっていけない」 よかった。何とかなりそうだ。けれど、俺たちの世界ってどんなところなんだろう。 「ところで、作者やレーベルやジャンルについての希望はあるか?」 「へっ? レーベル? ジャンル?」 「ボーイズラブと一言でくくってしまう人は多いが、実際にはいろんな作品があって多数の作家がそれぞれ の腕を競っている。レーベルはわかりやすく言えば出版社だな。学園モノを得意とするレーベルもあれば、 ホスト系に力を注いでいるところもある。ジャンルのほうは一対一のストレートなもの、攻守が入れ替わる もの、三人あるいはそれ以上、女性も加わるもの、それから――」 「あのっ、もう……もういいですっ」 私がストップをかけたら男性の滔々たる解説も止まったけれど、いったい何なんだ? もしかして、この世界って奥がめちゃくちゃ深かったりする? たとえて言うなら、点字のメニューを置いてないファミレス――大抵置いてないんだけど――のウェイト レスさんが、十種類あるパフェの名前に続けて中身に何が入っているかまでいっぺんに説明してくれた時み たいな満腹感があったんですけど。 「特に希望がなければ、俺が適当な本を選んでくる。それでいいか?」 首をすくめて「はい」と返事をしたら、男性は私の肩を持って「ここでじっと待っててくれ」と言い、私 を立たせたままふいっとどこかへ消えてしまった。 今頃は私の本を探してくれてるのかな。 というか、ここは本屋さんなんだよね。 冒険の末にとうとうたどり着いた本屋さん。達成感がじわっと込み上げてくる。 本屋さんって、今までに嗅いだことのない匂いがする。 針葉樹のような紙の匂いに、ちょっぴりシャープで化学的なインクの匂い。 図書館みたいな静寂を想像していたのに案外そうでもないのは、おしゃべりしながら本を選ぶ人が多いか らだってことにも気づく。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 17 第三章 私の手に、本を持たせて。 じっとしてろと言われてたけど、我慢できなくなって白杖をちょっとずつ動かしてみる。 右足の近くで杖の先が固いものに当たった。私はどうやら本棚の隣に立っているらしい。 ゆっくりと右手を伸ばしてみると指先が何かに触れた。これはわざわざ硬さを確かめるまでもなく紙だと わかる。 つまり、私の隣には山積みになった本があるってことだ。 本ってスーパーの野菜みたいに積まれて売ってるんだね。 私は図書館と同じように整頓されてるものだとばかり思ってたから、一つ勉強になった。 好奇心をかきたてられて、上にある一冊を手に取ってみた。 それは私の手に収まるほどの大きさしかなくて、しかも軽々と持ち上げることができた。 ◇ 本って、小さくて軽いんだね――。 電子図書ならもっと小さく軽くできるってコーイチが言ってたけど、こんなに簡単に持てるんだったら誰 だって本のほうを買っちゃうよね。 電子図書を読むには機械が要るし、機械の値段も高そうだし、電池が切れたら使えないし。不便なことだ らけだ。 でも、重くてかさばって調べにくくて売ってない点字図書はこれ以上不便になりようがないから、電子点 字図書ってのがあればこれは絶対に便利になる。 点字は簡単にデジタル化できて、コーイチの弁によると百冊分や二百冊分のデータが十円玉くらいの部品 の中に余裕をもって格納できるらしい。 あまり小さくすると落とした時に探せなくなっちゃうから、カードくらいの大きさがいいな。カードの表 面には本の名前が点字で書いてあるの。 カードを機械にセットして電源を入れたら、点字が機械仕掛けでぴょこんと浮き出てくる。あまり機械が 小さいと点字がほとんど出せないし、かといって何十行もあったって指先で同時に読めるのは二行分しかな いんだから、そろばんくらいの大きさがベスト。 読みたいページや行を検索するのは機械にやってもらう。目次をつらつらと指でなぞり、 「ここだっ!」と ボタンを押したらそのページにジャンプする機能があれば最高だ。 あっ、音読してくれればもっといい! 点字は発音をそのまま書くという単純なルールがあって、例えば「私は学校へ行く」は「ワタシワ ガッ コーエ イク」って具合だから機械に読ませるのだって簡単なはず。 バスに乗ったら、私は鞄の中からイアホンを取り出してそっと耳に入れるんだ。 隣のおばあちゃんに「何聴っきょんな?」って聞かれたら「本を読んでるんですよ」なんて笑顔で答えた りして。 こんな「本」が本屋さんにあったら絶対に買いに行っちゃう。 それこそ毎月、本屋さんに通い詰めると思う。 道筋を完全に覚えちゃって、案内がなくても一人で本屋さんへ行けるようになるのは間違いないね――。 ぽすん。 そんな音を伴って私の肩が叩かれた。 直後、私の手に持たされたものは――。 「ほら、買ってきたぞ」 ああっ、この感触。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 18 第三章 私の手に、本を持たせて。 さっき触れたのと同じ、本の感触。私のものだよね? 折れそうになった心を励まして、ついに、ついに私はこの本を――? 本が、私の本がどっかへ消えちゃった? 「これは協力者への謝礼だ。そういう約束だったはずだが」 「……そうでした」 私は人の話を決して聞き漏らさないし、聞き違えたりもしない。 だけど、聞いた話を忘れちゃうことがあるんだよね――。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 19 あれっ? 第四章 ラッキーネームの人だから 第四章 ラッキーネームの人だから 私の帰りが遅くなってはいけないからと、男性への調査協力は歩きながら私が質問に答える形で行うこと になった。 男性が付き添って歩いてくれるから、私は歩くのに神経を使わなくて済む。 しかも協力のあかつきにはめでたく本が手に入る。いいことずくめだ。 「……一九八九年一月五日生まれ、やぎ座のO型です」 「つまり『十五歳・♀・香川県』だな」 私に確認を求めるように男性が言った。 さっきからピコピコと音が鳴っているのは携帯電話を使って入力してるからなんだって。 「女の子は誰でも星座と血液型を言うんだな」と男性は笑って、 「君は――というか君も占いが好きなのか?」 「ええ、大好きです。だけど雑誌は読めないから、毎朝テレビの星座占いを聞くんですけどね……あっ! よ ければお名前を教えてもらっていいですか?」 「名前って、俺の名前か?」 私が「はいっ」とはきはきした声で言ったら、ややあってから返事が来た。 「――アツモリだ」 ア・ツ・モ・リ。 一・四・五・三……おおっ、すごい! 「アツモリさん、ラッキーネームじゃないですか!」 「何だ、そのラッキーネームってのは?」 「名前を点字で書いた時に使う点の数を並べるんです。全部同じ数か、逆に全部ばらばらの数の人はラッキ ーネームです。『ア』が一つで『ツ』が四つ、『モ』が五つで『リ』は三つだから見事にばらばらですよね? 四文字でラッキーネームの人、ほとんどいないんですよ! すごいですねっ!」 「はじめて聞いたぞ」 「でしょ? 私とハルカの二人で編み出したオリジナル占いですから。それなのに、私もハルカもラッキー ネームじゃないんですよ。いいなあ、アツモリさん」 「……そろそろ本題に入ってもいいか?」 「あっ、どうぞどうぞ」 よしよし、ちょっと打ち解けた。きっとアツモリさんがラッキーネームだからだね。 ラッキーネームの人とは何をやってもうまくいく。だってそういう運命だもん。 その証拠に家路のほうも順調だ。中央通りを右に曲がれば盲学校前まで一本道だから、進む方向をアツモ リさんに教える必要もない。 もう少し先へ行くと香川大学があって、その先の交差点を曲がれば私の家はすぐそこだ。 ああ、こんな楽しい散歩ならずっと続けてたいな――。 ◇ ところが。 私が最近読んだ本について聞かれて正直に答えた途端にアツモリさんの態度は一変した。 何となくそうなるんじゃないかなーって予感はあったんだけど。 「なに? 今年は一冊も本を読んでないだと?」 「だって、私……ずうっと子育てに熱中してたんですぅ。だから本を読む暇がなくって。あははっ☆」 私が無理に作った小悪魔的スマイルは、アツモリさんにはまったく通用しなかった。 誰だよ、私のことを綺麗だなんて褒めた奴は。 「どうしてそんな大事なことを前もって言わないんだ」 「す、すみませんっ!」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 20 第四章 ラッキーネームの人だから 「――今さら仕方がない。その代わり、これから読みたいと思う本についての調査項目を増やさせてもらう。 それでいいな?」 「え――――っ!」 私のささやかな抵抗に対し、アツモリさんから返ってきたのは無言のプレッシャー。 怖いですぅ……。 「では質問を続ける。まず『十五歳・♀・香川県』は読みたい本をどこで知ったのかについて――」 「あのお」 「どうした?」 「その呼ばれ方、何だか生物標本みたいなんですけど」 「ならば何と呼べばいい?」 「…………」 「協力者のプライバシーは厳重に保護されると言ったはずだが」 「……右京、です」 「それでは、右京はボーイズラブのことをどこで知ったんだ?」 「…………」 「協力者のプライバシーは厳重に保護される」 「友達に教えてもらったんです。よくわからないけど怪しくてちょっぴりエッチで面白そうな本だって」 「どうして右京は本を買おうと決意したんだ?」 「…………」 「協力者のプライバシーは以下同文」 「誰にも頼めなかったからです。ボーイズラブの点字図書はありますか、なんて尋ねて図書館の人に私のこ とを覚えられても困りますし。そもそも怪しい本なら点訳もないだろうし。だから自分で本を買いに行くし かなかったんです」 「その本を買って、どうやって読むつもりだったんだ?」 「さあ、どうなんでしょう」 「ん?」 「きっと読まない……というか読めないんでしょうね。『ほら、買ってきたよ!』って友達と盛り上がって、 だけど二人だけの秘密にして、結局は読まずにそのまま捨てちゃうのかもしれません」 私がしゃべり終わると、携帯電話の音だけがピコピコと聞こえてきた。 ◇ アツモリさんの歩幅がどんどん狭まり、ついには止まってしまった。 「そういう事情ならば――この本は右京には渡せない」 「……どうしてですか?」 「俺の仕事は物語を聞かせることだと言ったのは覚えているか」 私の反応を待たずにアツモリさんは続けた。 「どんな物語にも命が吹き込まれている。俺はそのことを知っている。ゆえに、読まれることなくむざむざ 捨てられるとわかっている本を俺は見殺しにはできない」 「そ、そんな……。だって……」 「俺は右京が『読みたいと思う本』について質問した。なのに結局は読まないと言うのならば、回答の有効 性まで疑わなければならなくなる」 何かを言おうとして口を開きかけたけれど、やめた。 私は口と心をぴたりと閉ざした。 アツモリさんに何を言っても、私やハルカの気持ちをわかってもらえるわけがないから。 私たちがどんなに本を読みたいと思っているか。本を読むのがどれだけ難しいことか。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 21 第四章 ラッキーネームの人だから 熱っぽく訴えても、結局わかってはもらえないんだよね――。 大事に摑んでいた袖を、私は諦めるようにそっと放した。 ところがすぐに、アツモリさんが私の手首をぐいっと握り返してきた。 商店街で案内してもらった時と同じように、力強く熱いその掌で。 「なっ……何するんですかっ!」 「よって『十五歳・♀・香川県』の回答には追加検証が必要になった。済まないがあと少しだけ協力しても らう」 「いやですっ! 離してくださいっ!」 この腕を振りほどきたい。 だけど、それは無理というものだ。 離せと言われて素直に離してくれる人は、最初から腕を捕まえたりはしない。 それに。手が離れたとしても、目が不自由な私はこの人から逃げられない。 結局は捕まっているのと変わらないんだ――。 「集めてこい」 魔王のように低い、厳しい声が響く。 「何を……集めてくるんですか……?」 「『十五歳・♀・香川県』の回答を事実と仮定すれば、ボーイズラブの本を読みたいと願っている同年代の少 女が二人いるはずだ。その二人を一箇所に集めるんだ。俺はその場でこの本を少女たちに読み聞かせてやる」 「……どういう、意味ですか?」 「何度も言うが、人々に面白い物語を聞かせるのが俺の仕事だ」 アツモリさんが一呼吸置くと同時に、腕の力がほんの少し緩まったような気がした。 「ときには小説を読み聞かせることだってある――もっとも俺はプロだから、そこいらの朗読と一緒にして もらっては困るが」 「本を……読んでもらえるんですか? 私たちに?」 「さあ、 『十五歳・♀・香川県』の真意が不明だからな。で、どうなんだ? 聴きたいのか?」 「は……はは……」 「日時と場所はそっちで指定してくれ。なるべく静かなところがいい。決まったら俺に連絡してくれれば、 俺はこの本を持って指定された場所へ行く。連絡がなければ――『十五歳・♀・香川県』の回答を破棄して、 それまでだ」 ずるいよね。このアツモリって人は本当にずるいよ。 私が絶望しきっているところへ、豪華客船みたいな助け船を出してくれるなんて。 ◇ その夜、私はハルカに電話をかけた。 ハルカは私の話をちっとも信用しなかった。 のみならず、彼女は私の話を疑うのだ。まるで私のことを新手のなりすまし詐欺と誤解してるみたいだっ た。 あのさ。ハルカも耳がいいんだから、詐欺じゃないってことくらい声でわかるでしょ。私は冗談を交えつ つ、そんな意味のことをハルカに言った。 だって、わかってたから。 ハルカは私の言うことを絶対に信用する。そして、アツモリさんの提案に必ず乗ってくる。 そう信じるに足りる理由を私は四つも持っていた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 22 第四章 ラッキーネームの人だから まず、私はハルカの親友だ。親友の頼み事はそう簡単には断れない。 次に、ボーイズラブを読みたいと最初に言い出したのはハルカだ。怪しい物語世界への誘惑を言い出しっ ぺが断るはずがない。 三番目の理由は私たちがとても大切にしているものだ。 私たちは人の温もりを信じて生きている。 道を歩く時だけじゃない。服の色を知りたい、回転寿司のお皿を選びたい、スーパーの棚から中華風ドレ ッシングを取りたい。そんな時には私たちは誰かの善意に頼るしかない。 世の中いい人ばかりじゃないことは知っている。お釣りをごまかされかけたことが一度もないなんて言わ ない。 だけど最初からすべての人間を疑うようになったら、私たちはこの社会でやっていけない。 アツモリさんの熱く力強い手を思い出す。 あの手には何の迷いも下心もなかった。純粋に私を助けようとしてくれたような、そんな手だった。 あの掌の温もりを私は信じる。そして、ハルカもきっとそのことをわかってくれると思う。 納得してからのハルカの行動は非常に素早く、ハルカの家の近くにある公民館の一室を次の土曜に予約し てしまった。 私がしたことはハルカから聞いた詳細情報をアツモリさんの携帯電話にそのまま伝えたことだけだった。 ああ、週末がすっごく待ち遠しい。 喜びと期待感で心のコップが飽和した私は、あふれ出た喜びを惜しげもなく千尋と分かち合う。 千尋、聞いてくれる? お姉ちゃん、がんばったんだよ。ちゃーんと本を買ってきたの。 しかも、親切な人に本を読んでもらえることになったんだ。ハルカも一緒だよ。 いいでしょ。すごいでしょ。ふふふ。 ふと気づくと、抱っこした千尋に向かってこんなことまでつぶやいてた。 まあ、そのくらい嬉しかった。 えっ、四番目の理由? アツモリさんがラッキーネームの人だから。以上。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 23 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 待ち望んでいた週末はあっさりと訪れた。 だけど、その一日の長いことといったらなかった。 明け方に千尋がほにゃほにゃとぐずり出した。 千尋のおむつを替えてミルクを飲ませたら、千尋はすぐにこてんと寝ちゃったけれど、私はもう眠れない。 そのまま夜中に身支度を始めて、まだ熟睡していたお母さんを揺り起こして「行ってきます」とだけ言っ て家を出て、手ぶらで行くのもどうかと思って菓子折りを買おうと馴染みのコンビニに立ち寄って、それか ら始発のバスまで三十分も待って。何やってんだろね。 私が公民館の場所を知らないから、今日はハルカに公民館まで案内してもらう手筈になっていた。 ところが、ハルカの家に私が着いたのは朝の七時半。 「ええっ? ウッキ、もう来よったん?」 「ごめん……。どうしても間がもたなくって」 「ウチ、まだ朝ごはんも食べとらんが」 ハルカにそう言われてはじめて、自分が何も食べずに来たことに気づいたほどだった。 ハルカに道を案内してもらう方法は、目が見える人に案内してもらう時と基本的には変わらない。 ハルカは自分の白杖を使って前を歩き、私は二人分の荷物を持って一歩後ろからハルカの肩を持つ。余計 なおしゃべりは一切しない。 触れた肩からいつになくハルカが緊張しているのがわかる。ピンピン跳ねるハルカの髪が私の手の甲を撫 でる。 腕ではなく肩を持つのは何かあった時にハルカが両手を使えるようにするためだけど、女の子の肩は借り るほうも気を遣う。急に立ち止まった拍子に誤って胸のほうへ手が滑らないとも限らないから。 そんなことでハルカの胸を触っちゃったら、私はいろんな意味で二度と立ち直れない。 公民館には予定の時刻より十五分も早く着いたのに、アツモリさんはもう駐車場で待っていた。 ここへは車で来たらしい。そりゃそうか。地方都市では車のほうが何かと便利だもんね。 早めに入館させてもらえた公民館でハルカとアツモリさんが簡単に自己紹介をする。 ハルカが私に「ラッキーネームやね」と耳打ちし、私はふふふと不敵に笑う。 そのとおり、私たちには今日はイイコトが待っている――と胸躍らせていたのだが。 「俺はこういうものは受け取らない」 と、アツモリさんは私が用意した菓子折りを突き返しながらそう言うのだった。 「俺は回答の追加検証をしているだけだ。謝礼をもらうためじゃない」 「だけど、わざわざ時間を使って読んでくださるんでしょう?」 私たちが何度勧めても、回答の客観性が損なわれるからとアツモリさんの態度はびくともしなかった。 「そんなにお礼がしたければ、君も回答に協力することだ。そのほうがよっぽど助かる」 「ウ、ウチがですか?」 そんなわけでハルカこと多田遥――ではなく「十五歳・♀・香川県」のデータがもう一件追加で採取され た。 せっかくだから私も親友の読書趣味を聞かせてもらおっと。 ふふん、ハルカはライトノベルが好きなんだ。背中合わせのおしゃべりを長年続けてきたのに、そんなの ちっとも知らなかったよ。 けどさ、ライトノベルの点字図書ってかなり貴重なんだよねえ……。 あっ、わかった! 兄貴がラノベ好きなんだ! それで、兄貴が家で読んでる時に一緒に聞かせてもらってるんだな。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 24 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 頭が良くて優しくてお世辞がうまい兄貴。ハルカがブラコンになっちゃうのもわかるよね。 兄貴が読んでるそのラノベ、もしかしてブラコンの妹が出てきたりして……。 きゃーん。変な想像をしてしまう。 けれど、そんな私の想像なんて実に幼稚なものだった。 この後でアツモリさんが聞かせてくれたボーイズラブの世界に比べれば。 ◇ 公民館の和室の畳はところどころがケバ立ち、青く爽やかな匂いがまったくしない。 日頃はこの部屋でお年寄りが日なたぼっこしながら俳句でも詠んでいるんだろう。 ちゃぶ台の向こう側からアツモリさんが、さながら乱取り稽古のような口調で、 「さて、そろそろ始めようか」 「あのぉ……お願いがあるんですけど」 そう言ったハルカに私がすかさず続ける。 「私たち、背中合わせに座ってもいいでしょうか?」 アツモリさんは私たちのお願いを快く許可してくれた。 私とハルカはアツモリさんに横を向けて背中合わせに立ち、互いに腕を組んでゆっくりと座る。 微妙な位置調節が終われば手を広げて身体の両側に置き、自分の右の掌を相手の左手の甲に重ねる。 これで準備は完了。だけど私たち二人は一応は女の子の体型をしてるわけで、肩甲骨からお尻にかけて結 構な隙間ができちゃうのが残念だ。 「今日読んでくださるのはどんな本なんですか?」 私の背後から出されたハルカのもっともな質問に、アツモリさんは実に事務的に答える。 「ああ、 『ボクらの危険な化学反応』と書いてあるな」 化学? てことは、理科の本? 理科とラブが頭の中でちっとも反応しない。 「読んでからの楽しみだな」とアツモリさんがもったいぶって言うから、私も深くは考えないことにした。 この『ボクらの危険な化学反応』のあらすじは、私も途中までなら紹介できる。 き せ の 主人公の木瀬野クンは、王都大学の化学研究室に所属する男の子。 りん 凛ちゃんという生物学研究室のガールフレンドと一緒に平和な学生生活を送っていたんだけど、実験中に アンチモン 木瀬野クンが偶然作ってしまった物質メシタリンを巡って秘密結社「闇地門」に狙われることになっちゃう。 チン 木瀬野クンを籠絡すべく香港から派遣されたのは謎の科学者アスター・陳と、凛ちゃんそっくりの美貌を ランタン 持つ蘭譚という男の子。 最初の作戦は、妖艶なチャイナドレスの美少女に化けた蘭譚が木瀬野クンを誘惑するというものだった。 蘭譚少年を凛ちゃんと見間違えた木瀬野クンは悪魔の誘いに乗ってしまい、二人は横浜中華街近くの海を 見下ろすスイートルームへ――。 このあたりからは私もよく覚えていない。 背中のハルカが急にそわそわを始めて、私の手の甲に「の」の字を書いたり、私の脇腹を肘で小突いたり してきたから。 私にもよくわかる。落ち着かなくなるハルカの気持ちは。 ◇ このアツモリさんって人は読み聞かせの天才だった。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 25 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 普通の朗読と一緒にするなと自分でそう言っていたほどだから、もしかしたらラジオドラマみたいなもの かなって予想はしていた。 でも、違った。私たちは天才を甘くみすぎていた。 リアリティと言うのか臨場感と呼ぶべきか、もう迫力がまるで違う。 例えば。 「……蘭譚の唇が、今にも触れんばかりに迫る。 その姿勢のままに、薄く開いた唇が甘い吐息のような言葉を洩らす。 『ねえ、木瀬野さんはボクと化学結合したくないの?』 『だめと言ったらだめだっ! 僕には凛という彼女が――』 言いかけて僕は絶句した。 僕の目に止まったのは、蘭譚が手にしたクロロホルムの小瓶……」 つっかえずに読む基本レベルはもとより、声色を使い分ける中級レベルも、生々しい感情をセリフに吹き 込む上級レベルもとっくに超越している。 ワールド 声だけがすべてのアツモリさんの世界に、私たちはすっかり呑み込まれてしまっていた。 まだ声変わりしていない、少年のような少女のような蘭譚の声。 相手が男の子だと知って焦りつつも葛藤に苛まれる木瀬野クンの上ずった声。 二人のセリフが交互に切り替わる場面での間の取り方は見事としか言いようがない。 木瀬野クンに感情移入していた私には、蘭譚の甘い息遣いがすぐ耳元で聞こえてくるように感じられた。 少しでも首を動かせば蘭譚の唇に触れてしまいそうで、私は顎を引いて生唾を呑み込んだ。 ハルカの様子も私と似たようなものだった――わけではなく、もはやすっかり落ち着きを失って次々に何 かを囁きかけてくる。 (ウッキ! 化学結合って何や?) (わ、私にそんなこと聞かないでよ!) (クロロホルムって、そんな薬を何に使いよるんな?) (麻酔じゃないの? 私、じゃなくて木瀬野クンを眠らせて……) (ね、眠らせて……それから……?) それから? さあ、どうなるんでしょ。大体想像はついてるけど。 そして――ハルカ。お願いだから私の手に爪を立てないで。痛いから。 物語は果たして私の予想どおりというか大方の予想どおりに進行し、意識が朦朧としちゃった木瀬野クン は下着一枚だけのあられもないお姿になってダブルベッドのシーツの上に横たわっていた。 身体の自由がきかなくなった木瀬野クン。 寄り添う蘭譚の手が妖しく動き、木瀬野クンの首筋にしっとりと触れる……。 「ああっ……!」 蘭譚の手が突然ぴたりと止まった。 正確には、蘭譚になりきっていたアツモリさんがぴたりと読むのを止めた。 なぜなら、喘ぎ声を洩らしたのは木瀬野クンでもなければ、木瀬野クンを演じるアツモリさんでもなかっ たから。 「あのっ……すみませんっ、ウチ……ちょっと、トイレに……」 一呼吸ほどの間を置き、本がぱさんと閉じられた。 「よし、十分ほど休憩しよう。俺も少し喉を休める」 さっきまでの艶っぽい声とは別人にしか思えない、低くクールなアツモリさんの声がした。 ◇ 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 26 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 休憩時間になると、エアコンを全開にしたように和室のテンションが急降下した。 ぐびぐびっと鳴る音はアツモリさんが水でも飲んでいるんだろう。 ところがハルカは全然立ち上がろうとしない。 加速したままのハルカの胸の鼓動が震える背中越しに伝わってくる。その上、私の左手をくいくいっとし きりに引いてくる。 「あの、私もトイレに行ってきます」 その言葉がスタートの合図代わりになった。 ハルカがいきなり私の手を引いて立ち上がり、そのまま一言もしゃべらずに自分の家でもそんなに速く歩 けないんじゃないかってくらいの勢いで私をトイレまで引っ張っていった。 「ハルカ、何があったの?」 大丈夫? なんて聞いたりしない。顔色をだってわからないけど、友達の様子が普通でないことくらいと っくに気づいてる。私たちはそのために背中を合わせているんだから。 「ウチ、もうあかん……」 季節を間違えて真冬に現れた幽霊みたいに、ハルカの声には元気がない。 「お兄ちゃんがウチに勧めんかった理由がわかった……。あれ以上聞きよったら、ウチ……頭がぐちゃぐち ゃになってまう……」 「もうやめとく?」 無言でハルカは手を握り返してきた。言葉を使わない時はこれが肯定のサインだ。 「ウチ……ちょっと家で休むわ。ごめんな、ウッキ……」 私より先にハルカがのぼせてしまったのには理由がある。 女の子は言葉を感覚と結びつけるのが男の子より得意で、小説を読んで想像を膨らませるのも大好きだ。 だから今回も過激なストーリーを聞きながら、いろいろとイケナイ方向の想像をたくましくしていた。 ビジュアルなイメージを想像するのは難しくても、ビジュアル以外で男の子を想像することなんていくら でもできる。 正直言うと、私もかなりヤバいところまでイッてた。なにせ、魅力的な男の子たちを演じているのは読み 聞かせの天才なんだから。 けれども幸か不幸か、私の想像力にはちょうどいいところに限界が用意してあった。 思わずヨダレが出ちゃいそうな美少年の描写がどれほど生々しくても、せいぜい私は「ああ、きっとカッ コいい男の子なんだろうな」程度の想像しかできない。 だけどハルカは違う。 ハルカには幼なじみの恋人コーイチがいる。 さらに――こっちのほうがずっと影響が大きいと思うけど――ブラコンの対象者としての兄貴がいる。 ハルカは恐らく頭の中で、危険なまでに接近する二人の男性を具体的に思い浮かべていたはずだ。耳元に 寄せる吐息まじりの甘やかな声も、喘ぐように荒ぶる息遣いも、瀬戸内の潮風のようでちょっぴり野獣的な 少年の汗の臭いも、抱き寄せられた胸の鼓動や血潮の熱さも、私の何倍にもなってハルカにのしかかってき たんだろう。 それじゃハルカが先に参ってしまうのも当然だよね。 「わかった」と、だから私はハルカにそう返事した。 「ハルカは具合が悪くなったから帰りますってアツモリさんに言っとくよ」 「ウッキは……まだ聞きよるん?」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 27 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 ハルカの言葉は疑問文ではなく、ただ確認だけを求めていた。 そりゃそうだ。私がハルカのことをわかっているのと同様、ハルカも私のことをわかっているわけだから。 そう――私はすっかりボーイズラブの世界にのめりこんでしまっていた。 ◇ 結局この日はお流れになった。 「続きを聞く時にはまた連絡してくれ」と言うアツモリさんにペコペコと謝ってから、まだ頭に血がのぼっ ているハルカを背負うようにして、今度は私が前に立って歩いた。よく無事に多田家までたどり着けたよね。 その後しばらくハルカとおしゃべりをする機会がなく、もしかしたらボーイズラブがよっぽど身体に悪か ったのかなと思い始めた水曜日の夜。 私が千尋のおむつを交換している真っ最中に携帯電話がハルカ専用の着信メロディを鳴らした。 代わりにお母さんに用件だけを聞いてもらったところ、同じ公民館を土曜に予約したとの連絡事項をお母 さんは私に伝えてくれた。 しかも「どうして公民館なんて予約するの?」という詮索つきで。 「右京と遥ちゃんで何をやってるの?」 「うん、まあ……ボランティアの人といろいろね」 もちろん、いろいろの実態なんて絶対に言えません! さて、六月上旬のすがすがしい週末の朝。 私の運命を翻弄した二本の電話がたてつづけにかかってきた。 一本目の電話は家を出た直後。私はまだ最初の角も曲がっていなかった。 電話の主は、低く優しく変幻自在なあの声。 「アツモリさん?」 『十五歳・♀・香川県、右京の電話だな』 そんな身もフタもない確認の後で、 『今、どこにいる?』 「どこにって、ちょうど家を出たところですけど」 『それならまだ間に合うな』 まだ間に合うってことは、もしかして都合が悪くなって中止になったとか。 『行きがけに車で拾って行くから、目立つ場所まで出てきてくれないか』 「ええっ? そ、そんな……悪いですよぉ」 『ついでだ。遠慮しなくてもいい。もっとも、嫌なら無理にとは言わないが』 これはラッキーだ。さすがはラッキーネーム。やることが違う。 盲学校の正面にある中央図書館を指定してから悠然と歩いて行くとアツモリさんはもう到着していて、私 の肩をぽぅんと叩いてくれた。 アツモリさんに誘導されて車に乗り込もうとする直前、二本目の電話がかかってきた。 今度は専用の着信メロディが鳴る。 「おはよ、ハルカ。どしたの?」 『ウッキ、どこにおるん?』 「学校の前。アツモリさんが車に乗せてくれるって」 『何とな!』 心底驚いた時に「何とな!」と叫ぶのは絶対に讃岐弁だ。 我が家は転勤族だから私もいろんな町に住んだことがあるけれど、 「何とな!」は高松でしか聞いたことが ない。 『ウッキ、もうアツモリさんと一緒になってしもたん?』 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 28 第五章 一人の天才と二人の過激な少女 一緒になったって……あらぬ誤解を招くじゃありませんか、その表現は。 「うん。だから、あと十五分くらいで着くと思うよ」 『それがな、ウッキ……もう間に合わん思うけど』 もう間に合わないってことは、もしかして都合が悪くなって中止になったとか。 いいよ。怒んないから言ってみなよ。 そう言ったけれどハルカの声は、鋭敏な私の聴覚をもってしても聞き取れないほど小さい。 「えっ? 何? もうちょっとはっきり言ってよ!」 私のボリュームに反比例してハルカの声はますます小さくなっていく。 携帯電話のノイズキャンセラにカットされてもおかしくない通話からようやく事情を聞き出した私は、電 話を切ると深ーい絶望的な溜め息をついた。 アツモリさんは何も言わない。けれど、視線はきっと私のほうをしっかり向いてるんだろうね。 「あのっ、実は……ハルカがですね……そのっ、どうしても……心の、準備がっ……それでっ……」 調子の悪いマイクのような私の弁解を聞いたアツモリさんは「ふうん」とたった一言、既に何もかもお見 通しのような態度で片づけてしまった。 「それで、場所の予約はしてあるのか?」 「はい、それは問題ないんですけど……いや、ほんとは問題があるんですけど……」 八週間。 間違いなく、ハルカはそう言った。 「そんなに借りちゃったのぉ? ハルカ、まさか本気でアツモリさんに毎週来てもらうつもりで……」 『ウチやないん……。公民館いうんはまとめて借りるもんやて、お母さんが……。ウチ……ウチ、どないし ょう……』 結局はそれもアツモリさんに正直に言って謝った。 「なるほど、事情は理解した」 アツモリさんはこともなげに言う。次に聞こえたのは車のドアが開く音。 「さあ、早く乗ってくれ」 「あの……本当に今日も読み聞かせをやるんですか?」 「会場があり、聴衆がいる。何ら支障はない。もっとも、嫌なら無理にとは言わないが――」 「ああっ、行きます行きますっ!」 アツモリさんの車にはその後何度も乗せてもらったけれど、はじめて乗ったのは二本の電話を受けた後の、 この時のことだった。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 29 第六章 秘密の才能、秘密の過去 第六章 秘密の才能、秘密の過去 アツモリさんの車はちょっと変わっている。ひとことで言うなら圧迫感。 乗せてもらっている身でこんなことを言うのも人間としてどうかと思うけど、アツモリさんの車は何だか 息詰まる感じがする。 どうしてかな……ん……何だ、足元にあるものは? がさごそ。靴の上から探ってもわかる。ペットボトルにコンビニの弁当。 「ゴミ、片づけないんですか?」 「ああ、そのうちな」 「ペットボトルを転がしてるとブレーキのところに挟まっちゃって危険ですよぉ」 「そうだな」 アツモリさんの言葉は情報量がゼロ。そしてまたすぐに会話が途切れちゃう。 男の人ってこうなのかな。あんまり繊細って感じがしない。 アツモリさんも例外じゃないってことですか。 そんなことを考えてたら、今度は車内が何とも言えない――音で満たされた。 それは、ギターの音色。 高く低く、強く弱く。爪弾く奏者の息遣いまで聞こえそうな、手を伸ばせば届きそうな、心に迫るその旋 律。 足元のゴミから押し寄せる圧迫感が、溶けるように消えていく。 いい曲ですねえ、とひとりごとのように言ったらアツモリさんが反応した。 「俺の曲だ」 「へ?」 「俺が作曲して俺が弾いたんだ。そんなにいい曲なのか」 「……自分の曲を聴いてるんですか?」 「音楽を聴かせるのも俺の仕事だ。自分の演奏を聴くのは格好のイメージトレーニングになる」 「はあ」 読み聞かせだけが仕事じゃないんだ。 この人もかなり変わった人だな。 変わった車に、変わった人。 この時の私は、まだそこまでしか気づいてはいなかった。 ◇ うら寂しい公民館。 たった一人が相手でも天才は手を抜かない。 「今日は俺と背中を合わせてみるか?」 「いいんですか?」 「俺はプロだからな。聴衆を楽しませる努力は惜しまない」 数分後、私ははじめて男の人と背中合わせに座った。 アツモリさんの背中は私より二回りも大きくて厚くて真っ直ぐだ。ハルカと座る時にできる隙間もほとん どない。 ただこうして座っているだけでいいやと思っちゃうほど、この背中は居心地がよかった。 その姿勢のまま先週の続きが始まった。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 30 第六章 秘密の才能、秘密の過去 先週同様にあらゆる表現技法を披露しながら、木瀬野クンと蘭譚のアンナコトを止めさせようと乱入して きた凛ちゃんと三人でのコンナコトとか、ミッションに失敗した蘭譚がアスター・陳に折檻されてソンナコ トになっちゃったとか、謎の化学物質メシタリンの恐るべき効果によって木瀬野クンが……ああ……とにか く私の想像を絶するすごいコトを四十八種類くらい束にして音声化してくれた。 いろんなコトがあった割には、『ボクらの危険な化学反応』は意外にもハッピーエンドで幕を閉じた。 なぜか八方丸くおさまる形で戦いに決着がつき、木瀬野クンの部屋には凛ちゃんと秘密結社「闇地門」の 二人、アスター・陳と蘭譚が同居するというドタバタ風味なオチだった。 それって凛ちゃん的には全然ハッピーエンドじゃないじゃんって思ったけど、こういう本はきっとノリで 楽しむものなんだよね。 「終わったな」 「終わっちゃいましたね」 トイレのドアをノックした時みたいな会話。 「他に何か読んでほしい本はないのか」 「…………」 「予約は今日を含めて七週間分あるんだったな。それだけあればかなり分厚い本が読めるぞ」 言えない。もうこれ以上は頼めない。 人の力を借りるのはもちろん悪いことじゃない。 だけど、力を借りることと甘えることは違う。どこかで線を引かなきゃいけない。 「もう一人の『十五歳・♀・香川県』はどうなんだ」 ハルカにそんなこと聞けるわけないでしょ。 電話の向こうであんなに恐縮していたハルカが今頃どんな思いをしていることか。 「本当に……ありがとうございました」 気詰まりな沈黙に耐えきれずにそんなことを言った後、さらに重苦しい沈黙が訪れた。 部屋の空気は手を伸ばせば触れられるほどパリパリに張りつめていた。 ごめんなさいと叫んで部屋から逃げ出そうかと思い始めた頃、アツモリさんが口を開いた。 「――腹が減ったな」 ぼそりとつぶやくような低い声。ひとりごと? 「俺はこれから飯を食いに行きたいんだが。右京も一緒に来ないか」 「…………」 「もう一度言う。一緒に昼飯を食わないか。これは俺からの誘いだ」 これって、もしかして。 生涯はじめての「デート」のお誘いなのでは? 岩盤のごとき背中の壁がいきなり取り払われ、支えを失った私は真後ろにひっくり返りそうになった。 あわわ、と空に伸ばした私の腕をアツモリさんの温かい手がはっしと摑む。 「ほら、行くぞ」 「ま、待ってください!」 私が叫ぶと、腕を引っぱり上げた格好のままアツモリさんの動きが停止した。 聞き耳を立てているであろうアツモリさんに向かって、私は言葉を重ねていく。 「行くのは構わないんですけど……変なコトしませんよね?」 「例えば?」 「例えば、そうですね……」 よく知らない男の人にエッチな小説を読ませるとか。 それをキャーキャー騒ぎながら聞いて喜ぶとか。 なあんだ。私のほうがよっぽど変なコトしてるじゃん……。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 31 第六章 秘密の才能、秘密の過去 「夕方までには図書館に送り届けると約束する。行くぞ」 「…………はい」 ◇ ゴミとギターのサラウンド環境が充実したドライブは三十分ほどで終わり、アツモリさんが「着いたぞ」 と渋く落ち着いた声でアナウンスしてくれた。 アツモリさんの案内もだんだんと洗練されてきて、車を降りて待っている私の左手にシャツの袖をさらっ と触れさせてくれる。 「このうどん屋さん、大きくてお客さんがいっぱいいるんですね」 「ああ。地元タウン誌が火つけ役になって、さぬきうどんが大ブームらしい。俺もブームに乗っかって押し かけてるクチなんだが――」 アツモリさんは私の言わんとすることに気づいたらしい。 「右京……見えてるのか?」 「いいえ、まったく」 そこで言葉を切った私は、ちょっぴり得意気にタネ明かしをば。 「うどん屋さんだってことはダシの匂いですぐにわかりました。人の数は、がやがやと聞こえる声を数えれ ばわかりますよね」 「……広さは?」 「狭い部屋なら音が鋭く響くんです。この店の音はそんなふうには聞こえないし、それに風の動きも感じま すから……どこかで窓が大きく開いてるんじゃないでしょうか」 「……そのとおりだ。右京、すごい能力だな」 「ふふっ。食べ物屋さんの時には特に鋭くなるんですよぉ」 さて、私が持っている四つの感覚のうち嗅覚、聴覚、触覚までは使った。 残るは味覚を存分に発揮させるだけだ。うどん、うどん。早く私の前に来てね。 やがて、ごとんと鈍い音がしたところでアツモリさんが私を試した。 「うどんがどこに置いてあるかわかるか?」 「私の手が届く範囲なら、多分わかります」 私は超能力者のようにテーブル上空に手をかざし、 「ここですっ!」と寸分の狂いもなく器を両手で摑んだ。 なお、ヒントは立ち上る湯気です。 「ふふふふっ。これが高松っ子の実力ですよぉ」 と、軽やかに勝利宣言をしたところまではよかった……のだけれど。 この器、ちょっと大きすぎるんじゃないの? 生まれてこのかた香川県を出たことのない生粋の高松っ子であるハルカの家で、うどん打ちを手伝ったこ とがある。 物に触れる遊びが大好きなハルカと私は、ハルカの兄貴が途中で飽きて投げ出したうどん生地を「もうや めてくれ」と拝み倒されるまで踏んでいた記憶がある。 その後で食べた茹でたてのうどん、美味しかったなあ。 そのうどんは普通の丼に入っていた。間違ってもこんなオバケみたいな――。 「この店では、うどんをたらいに入れて出すんだ」 「たらい?」 想像の限界を突破した弾みで「たらい」なる器から離れた私の左手に、アツモリさんが湯飲み茶碗みたい なものを持たせてくれた。 茶碗はほんのりと温かく、甘辛いような香ばしいようなダシの匂いがする。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 32 第六章 秘密の才能、秘密の過去 「たらいからすくったうどんを手元のダシにつけて食べる。右京にできるか?」 はあ。そんなうどんの食べ方があるんだ。さぬきうどんは奥が深い。 「一度にすくうのは三本くらいに抑えて、ダシからうどんを迎えに行くのがコツだ。薬味は青ネギと生姜、 欲しければ俺に言ってくれ」 「なるほど、東京の『もりそば』みたいなものですね。だけどここは香川県だから、それを熱いうどんで… …あっ」 「どうした?」 「もしや、アツモリさんの名前ってうどんから取ったんじゃないですか?」 「どうして俺の名前がうどんなんだ?」 「だって、アツいうどんをモリそばのように食べるから……じゃないんですか?」 「ふっ……ふふふっ……」 「あのっ、やっぱり違いますよね? 実は私も違うかなーって思ったんですけど」 だめだ、フォローが遅すぎた。というかフォローにもなってない。 直後にアツモリさんが吹き出して、 「あっはははは! 面白い……右京は実に面白いなあ……。俺、今度ネタで使わせてもらうわ……」 「…………いただきます」 もう、そう言ってごまかすしかないじゃん。 ◇ アツモリうどん、もとい釜揚げうどんをはじめて口にした私の感想はこうだ。 香川県での私の五年間は、いったい何だったんだろう。 二度と来ない貴重な青春を、私は釜揚げうどんを食べずに過ごしてしまった。 茹でたての熱気を放つうどんと「俺はそばつゆじゃねえっ!」ときっぱり自己主張する小魚系のダシが喧 嘩するどころか見事にタッグを組んで、敵なんてもうどこにもない。 たらいと称する大きな丸い戦場で私とアツモリさんは互いに箸を闘わせ、汲めども尽きせぬうどんをしき りに口へと運んでいた。 さっきの話題が尾を引いて、私たちはうどんをすすりながら名前の話を始めた。 けれどアツモリさんはあれだけ大笑いしておきながら自分のことをちっとも教えてくれないから、話題は もっぱら私の名前の由来になってしまった。 「京都に住んでた頃に私が生まれたんです。そやから」 「そやから?」 「そやから、ウチ……京女どすぅ」 「…………」 しまった。滑った。 「それで、右京は右京に住んで……紛らわしいな。つまり、高倉右京は、京都市の右京区あたりに住んでた のか?」 「よくわかんないんですよ。家の近くに大きなお寺があったらしいんですけど」 「京都なんてどこもかしこもお寺の近くじゃないか。それじゃ場所が特定できんぞ」 アツモリさんは実にもっともなことを言い、ずるるるっと威勢のいい音を出してうどんをすすった。 「だって、しょうがないじゃないですか」 「ああ、生姜がないのか? 貸してくれ、俺が入れてやる」 「ちっ、違いますっ! 仕方がなかったって意味ですっ!」 何だかさっきから話が微妙にかみ合わない。もしかして私のせい? 「京都に住んでたのは一年もなかったんです。それからすぐにお父さんが転勤になっちゃって」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 33 第六章 秘密の才能、秘密の過去 「そうか。それだと右京は『おばんざい』は作れないんだろうな」 「簡単ですよ、そのくらい。ほらっ!」 私が箸を置いて両手を挙げてみせたら、 「それはバンザイだろ?」 あうう。やっぱり、私ってこういうキャラなのかな……。 「右京の天然キャラは才能だな」 私にとどめを刺したアツモリさんは、 「京都のおばんざいも高松の釜揚げうどんも知らないってことは、よ ほど引っ越しばかりしてたんだろうな」 「ええ、三年か四年くらいすると引っ越してました。仙台、神戸、横浜……。高松に越してきたのは十歳の 時だから、高松が一番長く住んでますね」 「そんなに多くはないな。俺だって京都と神戸くらいなら住んでたことがあるぞ」 「アツモリさん、何となく神戸が好きそうですもんね」 「それは……どうしてわかったんだ……?」 「えっ、もしかして当たってました?」 私も自分の能力にあらためて驚き、慌てて「ペットボトルですよ」と付け足した。 「車に置いてあったゴミのことか?」 「ええ。さらに二箇所あるドリンクホルダーの両方にも刺さってました。あれ、神戸の水ですよね」 「ああ」 「ボトルの形でわかりましたよ。あの水には私もお世話になりましたから。私なんて味まで判別できちゃい ますよ」 神戸、水、とアツモリさんは口の中でつぶやいた。 「右京は――大震災を知ってるのか?」 「はい」 「その時は神戸にいたのか?」 「ええ。でも、ほとんど覚えていませんけど」 アツモリさんは物問いたげに何かをつぶやいていた。 私は箸を止めて待っていたけれど結局何も聞かれなかったので、再びうどんを箸で探しはじめた。 けれど――この時もしも地震のことを聞かれていたら、まだハルカだけにしか打ち明けていないことを私 はアツモリさんに言えたと思う。 私が視力を失くしたのは、あの地震の時だったんですよ――。 ◇ 何もかもを変えてしまったあの日まで、私はごく普通に暮らしていた。 その頃の私は幼稚園に通っていて、絵本を読んだりクレヨンで絵を描いたりするのが好きだった。幼稚園 は楽しかったけれど、赤いぴかぴかのランドセルを背負って小学校に行く日をもっと楽しみにしていた。 まだ六歳になったばかりの私には、光や色のない世界があることなど想像すらできなかった。 あの日のことは、ほとんど覚えていない。 世界のすべてが壊れるかのような、その音と振動と恐怖で私はベッドから弾き出されるように跳ね起きた。 その直後、私の頭の上に洋服ダンスだか本棚だかがどさりと倒れ込んできた。 私が覚えているのはそこまでだ。 私はすぐに目を覚ましたつもりだったけれど、後から聞かされた話によると地震から既に三日が経過して いたらしい。 周辺の病院や私が通う予定だった小学校の避難所ではどうにも手の施しようがないと判断した両親の手に 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 34 第六章 秘密の才能、秘密の過去 よって、私は自宅に寝かされていたのだった。 神戸市一帯は停電していたが、その時には空は明るかったという。テレビドラマで医師を演じる俳優がそ うするように、お父さんは私の目の前でちらちらと手を振ってみせたらしい。私はそれにまったく反応しな かったから、お父さんの芝居じみたその仕草も立派に役目を果たしたことになる。 お父さんの手だけじゃない。めちゃくちゃに破壊された神戸の街も、人々が悲嘆にくれる避難所も、無残 にひしゃげた赤いランドセルも、私の目には映らなかった。 原因不明――。 死に物狂いで被災地を抜け出した両親に連れられた私が、京都の大学病院で聞かされた診断結果だった。 実際のところ、失明の原因がわからないことは決して少なくないという。 外科的には何の問題もなかったらしい。目が傷ついたわけでも視神経が切れたわけでもない。脳が損傷を 受けた形跡もない。 なのに私の目は一切の光を感じなくなってしまった。 原因不明ってことは、どこも悪くないってことだ。 私の頭の中の写真屋さんは、ちょっとお留守にしているだけだ。必ずいつか戻ってきて、また私に写真を 見せてくれるようになるんだ。 「待たせたなあ、お嬢ちゃん」なんて微笑みながら。 そんな無邪気な想像を、私は何度も繰り返した。 けれど、あるかどうかもわからない希望の可能性に夢を託すには、九年間は長すぎた。 その長すぎる月日のうちに、ゆっくり成長する氷の結晶のように私は少しずつ理解を深めたのだった。 原因不明とは原因がないのではなく、治しようがないという意味なのだと。 「……どうした? さっきからちっとも箸が進まないぞ」 遠くのほうから聞こえるようなアツモリさんの声。 彼は私の正面から心配そうに呼びかけてくれていた。 遠くにいたのはアツモリさんじゃなくて、九年前の私。 ちょっと考え事をしていたもので。そう断ってから今さらのようにダシを手に持ってうどんを探るふりを する。 だけど、うどんもダシもすっかりぬるくなってしまっていた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 35 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 もう少し付き合ってくれと食後にアツモリさんが言うので、私は喜んで同意した。 でも、アツモリさんが教えてくれた行き先に私はすかさず疑問を呈した。 「アジ? あんなにうどんを食べたのに、まだ食べるんですか?」 「右京、食べ物の味や魚のアジと勘違いしてないか?」 「それじゃ、どんなアジですか?」 あ じ 「――これから庵治という名前の町へ行くんだ」 そんな町、高松の近くにあったっけ。自慢じゃないけど地理の知識はまるでない。 「その、庵治って町には何があるんですか?」 「何もないなあ」とアツモリさんは笑ってから車をゆるゆると発進させた。 何もない町に私を連れて行ってどうするつもりだ。何だか怖いぞ。 だが、そんな恐怖が具体化するよりも早くアツモリさんの車はさっさと目的地に到着してしまった。 「ここがどんな場所だかわかるか?」 私がまだ車内にいるうちにアツモリさんは私を試そうとする。よーし。 そんな気合いを入れるまでもなく、車のドアを開けた瞬間にそれはわかった。 瀬戸内海の潮の匂いと、穏やかな波の音。 「港ですね」 さすがだな、と満足そうに言うアツモリさん。私もなぜだか嬉しくなる。 「ここからは歩いて行こう。すぐそこだ」 自信満々といった足取りでアツモリさんは前を行く。 私もすっかり頼りきっていたんだけど、思わぬところで足をすくわれた――というか、つまずいた。 「きゃあっ!」 バランスを崩した私はとっさにアツモリさんの手を摑もうとした。 が、結局間に合わなくてアツモリさんの背中に強烈な頭突きを食らわせてしまった。 「だ、大丈夫か、右京?」 痛いはずの背中のことは気配にも出さず、アツモリさんは私を気遣ってくれる。 それは、それは嬉しいのですけど……。 「か、階段の時は……先に教えてください……」 「済まん。気づかなかった」 ◇ アツモリさんを信用しないわけじゃないけど任せきりなのも良くないと思い、私は杖を併用しながら階段 を上ることにした。 右手で杖を少し高めに持って、前方にある階段の角に杖の先をぶつけて歩く。 杖が空を切ったら、階段はそこで終わっている。 ところでアツモリさん。ここには何があるんでしょうか。 「ちょうど正面に屋島が見える。テーブルみたいな形をしている」 「屋島、ですか」 形を知っている具体的なものに例えて景色を説明してくれると非常に助かる。 「テーブルみたいな形の島……面白そうですね」 「面白そうって……俺たちは屋島から来たところなんだぞ。さっきのうどん屋、屋島にあったんだ」 「はて? 島なのにどうして車で行けるんですか?」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 36 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 「島だったのは源平の合戦の頃の話だ。今は陸続きだ」 そんなことを私に言われたって。 「他には?」 「ここからは見えないが、もう少し上に行けば小豆島が見える」 「小豆島って『二十四の瞳』の舞台の島ですよね」 「ああ。映画のロケ地も残ってる。右京は『二十四の瞳』を知っているか」 「香川県で『二十四の瞳』を知らない子なんていませんよ。映画は知りませんけど本なら読みました」 「面白かったか?」 「面白かったって言うか……重かったですね」 岬の分教場に通う十二人の教え子たちは、戦争でばらばらの運命をたどる。 五人は戦死や行方不明などで二度と会えなくなった。生き残った二人の男の子のうち一人は戦争で両目を 失い、二十四あった瞳は最後の同窓会の場面では半分の十二にまで減ってしまう。 戦争の悲惨さを訴えたいのはよくわかるけど、目の見えない者の苦労なども描かれてたりして結構重くて きつい。 「私が読むならやっぱり現代の恋愛モノですね。純愛とか、ボーイズ……」 劇薬のような化学反応の場面を思い出してしまい、私は語尾を曖昧にした。 「ボーイズラブなら大昔からあるんだぞ。右京は知ってるか」 「ええっ? 大昔って……いつからですか?」 「それこそ源平の合戦の頃からだな。当時は出家する者が多かったんだが、お寺というのは禁欲的な場所だ。 そこでお寺の稚児をだな――。興味があるなら俺が聞かせてやろうか」 「いえっ! け、結構ですっ!」 せきこんで否定する私に、アツモリさんはさらに意外な情報を私に提供してくれた。 「それに純愛とか言ったよな。この公園、実はあの恋愛映画のロケ地なんだ」 「えっ、ほんとですか?」 「そこのブランコに恋人たちが乗っていた場面を覚えている。間違いない」 ◇ その有名なブランコのところまで私は案内してもらった。 どこまでも交わらない、平行に伸びる二条の鉄の鎖。 私が軽く揺すると膝のところに何かがぶつかった。 「その板に座って、揺らして遊ぶんだ。揺らし方は知ってるか?」 「馬鹿にしないでくださいよ! 幼稚園の頃は公園で毎日遊んでたんですからね」 そんな啖呵を切ってはみたけれど、近所の公園にブランコなんてあったっけ? 落ちたら危ないとか奇妙な理由をつけられて外されてたような気が。 「何だか枯れすすきみたいな揺れ方だな」 失礼な物言いだが、風流で的確な表現だ。 アツモリさんは私の背中に立ち、遊び方を優しく――乱暴に教えてくれた。 「な、何するんですか? 後ろに引っ張らないでくださいっ!」 「そのまま両手で鎖をしっかり持ってろ――そうだ。放すぞ」 アツモリさんの手が鎖から離れた瞬間、私の身体が前に放り出された。 「足は真っ直ぐ前に。でないと地面にぶつかるぞ」 「は、はいっ!」 前に、後ろに、私が揺れる。 私の頰のすぐ横を風が囁きながら走り抜け、去り際に長い髪をなびかせて行く。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 37 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 風の感覚。気持ちいいなあ。 自分から動いて風を感じることなんて本当に久しぶりだ。補助輪なしで自転車に乗れるようになった時以 来かもしれない。 あの時も公園だったっけ。運動神経の鈍い私が練習で何十回も転んで、やっと乗れた自転車だったのにな。 私はもう自転車には乗れない。まだ若かったお父さんの嬉しそうな笑顔も、ピンク色の可愛らしい自転車 も、輪郭がぼやけて上手に思い出せない。 宙ぶらりんになった記憶が心の奥底から揺り起こされる。 私の揺れるリズムに合わせて、きい、きゅうと鎖が軋る。きっと最初から油なんて注していないんだろう。 その音が隣からも聞こえてきた。まったく同じリズムで。きい、きゅう。 アツモリさん、と私は隣に呼びかけてみた。 「私に合わせてブランコをこいでくれてるんですか?」 アツモリさんは「ん?」と語尾を上げ、 「ああ」と得心がいったように相槌を打つ。 「右京、振り子の等時性ってのは知ってるか」 「まったく聞いたこともありません」 「同じ長さの振り子は、揺れ幅や重さに関係なく一定の時間で往復する。右京が乗っているブランコも俺の ブランコも長さは変わらないから、リズムが同調するのも当然だ」 ……何それ。てっきり合わせてくれてるものだとばかり思ってたのに。 「わかってしまうと案外つまんないんですね」 「そうでもないと思うが……物語の場合には言えるかもな。結末がわかっている物語ほどつまらないものは ない」 隣の鎖がさらに大きく軋る。私は惰性でぶらぶらと揺れながら、同じリズムの音に耳を傾ける。 「俺はここへ来てみたかったんだ」 向こうのブランコの声が言った。 「物語の舞台に立ち、面白い物語や感動する物語について考えたい。俺はそう思った。屋島、小豆島、庵治 ……ここへ来ればすべてがわかるんじゃないか。そんな気がしたんだ」 ――ふうむ。 大昔の戦争の物語に、ちょっと昔の戦争の物語。 だけど、平和な世界に受け入れられるのは愛の物語だ。純愛はもちろん、ときにはボーイズラブだって。 「この公園も小豆島みたいに有名になればいいですね。恋愛映画の好きな人がここへ集まってきて――」 隣のブランコが突然がしゃんと鳴った。 アツモリさんがブランコから飛び降りたとわかったのは、私のブランコが彼の手で止められたからだった。 「面白いものを教えてやろう。こっちだ」 ◇ それはブランコの真後ろにあった。 十歩も行かないうちにアツモリさんが私の手首を持ち、私の指先に何かを触れさせた。 「それ、何だかわかるか」 それは冷たく滑らかな感触があって、指先でつまめるほど小さいのにずしりと重かった。 留め具のようなもので針金らしき場所にぶら下がっている。 このU字形のがっしりとした部品の形状、どこかで触った覚えがある。 「鍵、ですか?」 「厳密に言うならば錠前だな。それは南京錠だ。錠前を開ける鍵のほうは恋人たちが持っているはずだ」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 38 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 私は周囲にも少し手を伸ばしてみた。 針金だと思っていたものは金網の一部で、網目の一つひとつに南京錠がじゃらじゃらと鈴なりにぶら下が っているのだった。 「どうして公園の金網に錠がかかってるんですか?」 「さあな。何かのおまじないか、あるいは縁起かつぎか。ただ、恋人同士がお互いの愛を確かめ合うための 小物であることは間違いないな」 どういうことだろう。南京錠でどうやって愛を確かめ合うんだろう。 心に鍵をかける愛。互いに互いを縛りつける愛。あるいは深い意味など何もなくて、恋愛映画の舞台を訪 れた二人が記念に残しているだけかもしれない。 私は密集する南京錠に背を向け、一つ一つ言葉を選ぶようにして言った。 「こういう即物的なものは記念としてはいいんでしょうけど、何というか……純愛とはちょっと違うような 気もするんですよね」 「そうか。それはなかなかに興味深い意見だな」 私の背後でぎいっと錆びついたような音がした。 アツモリさんはしゃべりながら金網にもたれかかっているらしい。 「ならば、愛とはどういったものか。右京はどう考える?」 「愛、ですか……?」逆に私のほうから聞いてみた。 「愛のない物語は存在しない。物語は愛を必要としている。物語だけじゃない。人生のあらゆる場面に愛が ある。今日だけでもいろんな愛があったはずだ。ボーイズラブ、純愛、『二十四の瞳』の先生と教え子たち、 戦争で人が死ぬこと、金網の南京錠……」 私は黙ってアツモリさんの言葉を聞いていた。 「右京のことだけに限定しても、まだまだ多くの愛がある。友達と背中合わせに座ること、右京が友達をか ばったこと、一緒に揺れるブランコに喜んだこと。右京が妹の面倒を見ていることや、おしゃれをしないこ となどもヒントになるかもしれない」 「待ってください! 愛と私のおしゃれにどんな関係があるんですか? 私はただ――」 「俺はヒントの可能性を示唆しただけだ」 動ずる素振りも見せずにアツモリさんは応じる。 「それでどうなんだ? 右京にとって愛とはどんなものなんだ?」 「ええっと、愛とは二人がすっごく好き合ってること……ですか?」 「――よし、それは宿題にしよう。愛とは何かを考えてきてくれ。次の週末にはもう少しマシな答が聞ける ことを願っている」 「宿題? それに来週って……ええっ?」 「まだ六週間分も予約があるんだろ? それとも何か問題があるのか?」 「いや、そういうわけでは、ないんですけど……」 これって、来週の予定をさりげなく取り付けられたってことなのでは。 つまり、来週もデート。きゃーん。恥ずかしいっ。 「別に本の読み聞かせでなくても構わない。何かしたいことがあれば遠慮なく俺に言ってくれ。できる限り のことは右京にしてやれると思う。もちろん――」 アツモリさんはそこで言葉を切ってブランコが一往復するほどの間を置いてから、なぜか蘭譚の悪戯っぽ い声を出して、 「変なコトをしたいと右京が願うなら、ボクも喜んで相談に乗るケド」 「そっ、そんなお願いなんてしませんっ!」 ◇ 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 39 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 私の腕時計が三時を鳴らしたのが帰り支度の合図になった。 「ありがとうございました。今日は本当に楽しかったです」 私が言うと、 「デートのお礼みたいだな」とアツモリさんは笑った。 「ええ、そうですよ」 ドライブして一緒に食事をした後で愛について語り合うってのは、客観的に見ても立派なデートコースだ と思う。だから今日は私にとってはデートだ。 それなら、デートついでにもう一つだけ甘えちゃおう。 「手を、貸してください」 左手を少し持ち上げ、小さく振りながら私は言ってみた。 アツモリさんは黙って私の掌に右手の肘を当ててくれた。チャンスだ。 私はアツモリさんの腕の間に自分の手を通し、すがるようにぎゅうっと抱きしめた。アツモリさんの肘が 私の胸にちょっぴり触れた瞬間にはどきりとしたけれど、それ以上にアツモリさんが動揺したようだった。 アツモリさんの腕が一瞬離れかけたほどだから。 「私、このほうが安心して歩けるんです」 彼が何かを言い出す前に、さりげなく先回りして退路を断っておく。 本当は、付き添って歩いてくれる人にこんなことをしちゃいけない。ルール違反だ。 けれどアツモリさんの腕を抱いていると安心できるのは、これは紛れもない事実だ。 お願いします、と私が促すとアツモリさんも観念したらしく、マインドはすっかり恋人気分の私を横に従 えたアツモリさんは心なしか重い足取りでのそのそと歩き始めた。 恋愛映画の舞台になった公園を二人で歩く。何だかとっても幸せな気分だ。 ところが、そんな幸せな気分は一分もせずに終わってしまった。 「階段だぞ」 私がお願いしたとおり、アツモリさんはそう予告して足を止めた。 どこから階段が始まるんだろう。私は杖の先でそろそろと地面に探りを入れる。 その時、 「右京、ちょっと腕を離してくれないか」 「えっ……?」 「この石段を下りてからなら何度抱きつこうが構わない。だから、いったん腕を離してくれ」 アツモリさん、案内してくれないの……? 下りの階段が一番怖いってことを、アツモリさんは知らないんだ。 一段下りた先がどうなっているかを白杖で探ろうと思えば、どうしても身体を前に傾けた不自然な姿勢を とらなきゃならない。要は、非常に転びやすくなる。 それでも上り階段なら、たたらを踏むくらいで済む。けれど、下り階段で足を滑らせたら行き着くところ は奈落の底だ。しかもこの石段には滑り止めもない。 頼りにしていたアツモリさんの腕が離れた途端、私は目隠しで路上に放り出された白杖歩行の体験者のよ うな恐怖にとらわれた。 足がすくんで動けない。杖を持つ手が、指が震える。腕をいっぱいに伸ばしても杖の先は何物にも触れな かった。 どうしよう……。 「右京」 私の隣から冷やかな声がする。 「これから右京に――魔法をかける」 ◇ 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 40 第七章 愛に関する一考察および振動の原理 「は……はぁ? 魔法?」 このシチュエーションで聞けるとは思わなかった言葉。もちろん聞き違いではない。 私は迷うことなくアツモリさんの神経を疑った。 「冗談じゃないんですよ! そんなこと言うんだったら私のお手伝いを――」 「もちろん冗談ではない、至って本気だ。その証拠にもう一度言う。右京に魔法をかけるから、黙って俺の 言うとおりにしてくれ」 「…………」 「まず、両足をそろえて立つ。次に、杖を身体と平行になるように持ち、両手の拳を握りしめて胸の前で組 み合わせる――そう、それでいい。そこまでできたら、あとは全身の力をすうっと抜く――」 言われたとおりに私はそうしてみた。 ところで、これって何かのキメポーズですか? テレビを観られなくなってからのアニメのことは知らないんですけど、純愛ブームの陰でこういう魔女っ 娘がひそかに流行ってるとか、そう言いたいんですかアツモリさん? あるいは正真正銘のマジだったりして。 私はこれから本物の魔法をかけられちゃうのかもしれない。 フリフリ衣装の魔法少女に変身したり、空を飛んじゃったりするのかも――。 結論を言うと、変身なんてするわけがなかった。だけど、空を飛ぶことはできた。 私の身体がふわんと宙に浮いてから、何が起こったのかを私が自覚するまでにたっぷり五秒はかかった。 「この石段を下りるまでの間、右京にはお姫様になってもらう」 知らないうちに変身までしていた。しかもお姫様。 「今から一気に下りる。じっとしてろよ」 言い切るやいなや、アツモリさんは息も継がずに石段を駆け下りた。 ブランコでゆらゆらと優雅に揺れていた身体が、今度は上下にがくがくと揺れる。 「いや――――んっ!」 身体を縮こまらせ、両手を硬く握りしめたままに私は叫んだ。 「悪いと思っている。だから、少しの間だけ辛抱してくれ」 私の悲鳴にもまったく怯まない、アツモリさんの低い声。 「右京は階段が苦手だってことを知らなかったんだ。許してくれ」 「付き添いのルール違反ですっ! 変なことしないって言ったのにっ!」 「……先に抱きついといて、今さらルール違反もないだろ」 まだもがこうとする私の手足をたくましい腕が締めつけてきた。 「頼むから暴れないでくれ。でないと二人とも落っこちるぞ」 結論を言うと、二人とも落ちなかった。 けれど、私が落ちたのは確かにこの時だった。 この時――そう、私はアツモリさんとの恋に落ちてしまったのだった。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 41 第八章 神社と恋人と知識の島 第八章 神社と恋人と知識の島 愛とは何か。 そんな昭和チックなテーマをアツモリさんに堂々と突きつけられ、これってもしかして恋じゃないかしら という乙女心の整理もつかず、週末のドタキャンで恐縮しっぱなしのハルカに相談をもちかけることもでき なければ、何かと詮索したがるお母さんに話を切り出すわけにもいかない。 狂おしくなるばかりの内なる思いと闘いながら、千尋のお世話だけを淡々とこなしつつ何とか一週間をや り過ごしたのだった。 雨上がりの土曜日の朝、玄関を出た私がいくらも歩かないうちにアツモリさんからの電話が鳴った。 「図書 館で」とだけ言って電話は切れた。 そのタイミングの良さに感心し、どこかからアツモリさんが見てるんじゃないかと勘繰りたくもなってく る。 そんなバッチタイミングのアツモリさんと比べて私ときたら、 「ところで、今日は何をしたいか決めてきたか」 「えっ、そんな話がありました?」 「何かしたいことがあれば遠慮なく言ってくれとか、そのような意味のことを右京に話した記憶ならあるが」 しまった。アツモリさんに出された宿題に気をとられてすっかり忘れてた。 行きたいところはいっぱいある。一人では行けない場所なんて数えきれないくらいある。 けれども「どこへ行きたいか?」と正面きって聞かれても、こんがらがった私の頭は何の答も用意しては くれなかった。 だから、 「……先週みたいなのがいいです」 と主張するだけでも私にとってはかなり勇気が必要だった。 「先週って?」 「車に乗って、美味しいものを食べて、遊んで、いろんなものに触れて、いっぱいおしゃべりをして……。 先週のデート、私はとっても楽しかったんです」 「デート?」 「ああっ! そ、それは言葉の弾みで、つい……。すみません……」 アツモリさんにふふっと鼻で笑われた。けれど、それは私を馬鹿にするような笑い方ではなかった。 「ならば今回の『デート』も俺にお任せでいいか? ちょっと遠出になるかもしれないが」 「そのぉ……今日は遠出なんですか?」 「日が暮れるまでには帰ると約束する。それで何か問題があるか?」 「私、車に長時間乗っていると酔っちゃうみたいなんです」 送り迎えや先週くらいの短距離なら大丈夫だけれど、くねくねした山道を走ると私はすぐにだめになっち ゃう。私の視覚障害と何らかの関係があるのか、それとも単なる体質のせいなのか、そのへんのところは自 分でもよくわからない。 「山道はほとんど通らない予定だが、念のために酔い止めの薬を飲んでおくか」 はいっ、と小気味よく返事をした私の掌にぽつんと置かれた小さな錠剤を、軽く舌の先に乗せてからこっ くんと飲み下す。 甘いと感じたのは最初のうちだけだった。何この薬っ! 苦いっ! 「ほら、水だ」 空を摑む手に持たせてくれたペットボトルを口につけ、ゆっくりと傾けていく。 あっ、これは神戸の水だ。ごくごく……ん? このボトル、どうして口が開いてるんですか? 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 42 第八章 神社と恋人と知識の島 「ああ、俺の飲みかけだ。右京はそういうのを気にするタイプか?」 「気にしますよっ! らって、間接キスやないれすかっ!」 「……どうした?」 「あれれ……なんらか、いいきもひに……なってきたんれすけろ…………」 「この薬、右京にはきつかったのか……。おい、しっかりしろ!」 「しっかり…………れきまへん………………」 先週のようにアツモリさんが私をお姫様に抱きかかえて車に乗せてくれたところまでは覚えていた。 薬で朦朧としている少女を連れ去る怪しい車。ボーイズラブの世界みたいだ。 ああっいけない、現実と空想社会の区別もつかなくなっちゃった。 でも、アツモリさん……変なコトしないって……言ったのに…………。 ◇ 「ん」 目覚めた時には、まわりの様子がずいぶんと変わっていた。 とは言っても、景色がどう変わったかなんて私にはわからない。ただ、市街地とは明らかに様子が違う。 車のエンジンは止まっていた。少し開いた窓から潮風が流れ込んでくる。 カーステレオの電源は入っていて、優しく歌うようなギターの音色が潮風と混じり合う。 「おお、やっと起きたか」 アツモリさんにからかわれるほど寝ていたみたいだ。 とりあえず、 「ここ、どこですか?」なんてベーシックな質問から入ってみる。 「安芸の宮島だ」 えーと、聞いてもさっぱり理解できない時は……もう少し詳しく聞いてみよう。 「四国のどのあたりになるんですか?」 「ここは広島県だ。四国じゃない」 「広島県? それって香川の左のほうに――」 「左じゃなくて西だな」と、わざわざどうでもいい指摘をするアツモリさん。 「島を結ぶ道を通って尾道で遊ぼうと思っていたんだが、眠り姫がまったく起きる気配がないから適当に車 を転がしてたらここに着いたという次第だ」 ごめんなさい。でも、眠り姫に変身したのはアツモリさんがくれた強烈な酔い止めの薬のせいだと思うん ですが。 「ちょうど昼だ。食事をしてからぶらりと観光しようか」 「昼って……今、何時なんですか?」 自明な質問をアツモリさんにぶつけるかたわら、私は眠っていた時間を逆算してみた。 今朝は八時過ぎに家を出てすぐにアツモリさんに会ったから、つまり私は四時間近くも寝ちゃっていたと。 そりゃ、アツモリさんにからかわれるわけだ。 ◇ お昼は二人で広島名物のお好み焼きを食べた。 二人ってのが私の最重要ポイントで、アツモリさんと一緒だと何を食べても美味しく楽しく感じちゃう。 アツモリさんは穴子めしを勧めてくれたんだけど、丼のごはん粒を残さずに食べるのが私は苦手だから敬 遠しておいた。 お昼を食べるとアツモリさんは、 「さあ、これからが本番だ」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 43 第八章 神社と恋人と知識の島 「それはとっても楽しみですねー」と私も無邪気に喜んで、「で、どこへ行くんですか?」 「厳島神社に参拝するんだよ」 「神社? そんなとこへ行くんですか?」 「そんなとこって……先週行った庵治の公園だって神社の境内なんだぞ。右京は楽しかったと言っただろ?」 どこがどうつながってるのかわからない理屈で丸め込まれた私は、アツモリさんに連れられて厳島神社と やらまで歩いていくことになった。 車から神社の入口まで、私たちはかなりの距離を歩いた。 アツモリさんと出会った日に本屋さんから中央図書館まで歩いた時もかなり長い道のりだったけれど、そ れと同じくらい歩いた。 「どうして車で近くまで行かないんですか?」 「この島は道が狭いし駐車場も少ないから、車ではほとんどどこへも行けないんだ」 「そんな島なのに、車で来ちゃったんですか?」 「ああ。右京が起きていれば対岸に車を停めて来られたんだが」 ……だから私のせいじゃないんだってば。 神社に入ってからは板張りの床の上を歩いた。踏み歩くたびにギシギシと音がしてちょっと怖い。 カイロー、イシドーロー、ヒヤタキ、タカブタイとアツモリさんがいろいろ説明してくれるけど、正直言 って理解不能だ。そんなことより恋人らしき人たちの会話のほうが気にかかる。 私はもう一度甘えてアツモリさんに腕を組んでもらった。だって、何でも遠慮なく言っていいって約束し てくれたんだもん。 前もって伝えておいたせいか、今度はアツモリさんもそんなに驚かなかったようだった。 「私たち、恋人に見えるでしょうか?」 小声を弾ませてアツモリさんに聞いてみると、 「右京のその服装だと無理だな」 綿のシャツとジーンズってそんなに変な服装かなあ? 着やすくていいじゃん。 「この島に来ている女の人って、みんな素敵な服を着てるんですか?」 「俺にはそう見えるな」 「私……おしゃれも旅行も好きじゃないんです」 「理由を聞かせてもらってもいいか?」 「だって、どちらも見えませんから――自分の姿も、まわりの景色も」 「それで?」 「それが、全部です」 私は一つずつ確かめるように言葉を区切った。 「結構、つまんないんですよ。光や色のない、暗闇の世界ってのは」 ◇ 「なるほどなあ」 アツモリさんは相槌を打ってくれたけれど、まったく無感情で平板な声調なのが少し気になる。 「私の気持ち、わかってもらえました?」 「右京、おしゃれは自分で見るためにするものだと思ってないか?」 「違うんですか?」 「考えが浅いな」 「……それなら何のためにおしゃれするって言うんですか?」 「宿題だ。自分で考えてみるがいい」 むう。アツモリさん、手厳しい。恋人度にマイナスポイント。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 44 第八章 神社と恋人と知識の島 「だが、旅は自分の見識を広めるためのものだ。その点で右京がつまらないと感じるのは至極当然だろうな」 ですよね? やっぱりそう思いますよね。 「右京は何も見ようとしないからな。道理でつまらないと思うはずだ」 「あのぉ……見ようとしないんじゃなくって、見たくても見えないんですよ」 「いや、それは違う」 低く太い声でアツモリさんが言い返してきた。 「右京は何も見えないんじゃない。何も見ていないだけだ」 「だったら……私にどうしろって言うんですか?」 自分の声がきいんと響く。 その声に共鳴して、心のどこかで何かが壊れてしまいそうだ。 「どうやって見ろって言うんですか? 目が見えないのは私が怠けているからだと、アツモリさんはそう言 いたいんですか? 努力すれば見えるようになるとか、まさかそんなことを言ったりしませんよね?」 「さあ、どうだろうな」 「アツモリさん、ひどい……」 私はその場で立ち止まった。 もう、こんな人と腕なんて組みたくない。 何も見えなくても、手探りで頼りなくても、自分一人で歩く。 そう決めた時だった。 「右京は――何か努力をしたのか?」 ◇ 「しませんよ、努力なんて」 馬鹿じゃないの、この人。 努力するだけで目が見えるようになるなら、誰だってそうするに決まってる。 「右京は『ロミオとジュリエット』を知っているか」 「どうしたんですか? 都合が悪くなったから急に話題を変えるんですか?」 「俺は真剣に聞いている。知っているのか、それとも知らないのか?」 「……知っていますよ。悲しい恋の物語ですよね。それがどうかしましたか?」 「俺が『ロミオとジュリエット』を読み聞かせたら、右京は感動するだろうか」 「どうでしょうね。感動的に読んでもらえれば感動するかもしれませんけど」 「微妙な答だな」 アツモリさんは笑い声まじりに言ってから、ステレオのバランスを操作するように笑い声だけを消し去っ た。 「『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの作品だ。原文は英語だ。では右京に聞くが、原文を読み聞か せたら右京は感動するだろうか」 英語? ヒアリングは得意なほうだけれど――。 「きっと、半分くらいしか意味がわからないでしょうね」 「原作の舞台はヴェローナというイタリアの町だ。では、俺がイタリア語で『ロミオとジュリエット』を読 み聞かせたとしたら?」 「そんなの私にわかるわけないでしょ! いったい何が言いたいんですか!」 「同じ人が同じ物語を同じように聞いても、感動したりしなかったりするのはなぜだ?」 「私が日本人だからですよ! 私は英語やイタリア語がわかんないから――」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 45 第八章 神社と恋人と知識の島 「そこだな、ポイントは」 私の言葉にアツモリさんが割り込んできた。 「つまり、知識の有無が大きく影響すると。そういうことだな?」 「ええ」 ぶっきらぼうに私は答える。いいかげん疲れてきた。 「しかしながら、右京はつまらないと感じる理由を自分の目のせいにしているだけで、知識を得ようとする 努力をまるで怠っている。俺は右京に厳島神社のことを説明したと思うが、右京はそれを聞いて何か考えて みたか? 大鳥居に使われるクスノキの大木を探してくるのがどれほど大変なことか、波打ち際に建つ神社 を維持するのにどれだけの労力を払っているか、神事にかける人々の情熱がいかほどのものか、右京は少し でも考えたことがあるのか?」 「そんなこと知りませんっ!」 しびれを切らして金切り声で叫んだ。 「私は宮島に来たことも、来ようと思ったこともないんですよ! それなのに宮島の知識をぺらぺらとしゃ べったりできるわけがないじゃないですか!」 ふふっ。アツモリさんが鼻で笑った。 ◇ 「――京都の『おばんざい』とは何か、右京はあれから調べてみたのか?」 「えっ?」 「右京が生まれた家の近くにあったお寺の名前は? 帰ってから両親に聞いてみたか? 屋島はどうしてテ ーブルのような形なのか先生に質問してみたか? 庵治でアジを味わえる店があるかどうか友達とおしゃべ りしたのか?」 「だって、それは先週の……」 「楽しかったんだろ? また行きたいと思ったんだろ? どうしてもっと楽しくしようとする努力をしない んだ? せっかくの体験をどうして自分の知識に結びつけようとしないんだ?」 「そんなこと言われても……私は家で妹のお世話をしなきゃいけないし、調べたくても本だって読めないし ……」 「二十四時間、七日間、ずっと妹の面倒を見てたのか? それに俺は、右京に読んで調べろとまでは言わな かったぞ? 誰かに聞いてみたのかと、俺はそう尋ねてるんだ!」 海の底から鳴り響くようなアツモリさんの声が、私の鼓膜を震わせる。 私がアツモリさんを怒らせてしまったんだ。 怖い。逃げたい。でも、私は――。 「この宮島にはヘレン・ケラー女史も訪れたことがあるんだ。旅館の宿帳に記録が残っている」 急にアツモリさんの口調が和らいだ。 「そうだな。右京はヘレン・ケラーを知っているか?」 私たちの学校で彼女を知らない人なんて、一人もいないよ……。 「彼女は目が見えないだけでなく――」 「――耳も、聞こえませんでした」 「ならば、彼女は右京のように『つまらない』と言って帰ったんだろうか。右京はどう思う?」 「…………」 考えが浅い。 アツモリさんに怒られたとおりだった。 私は、私は――。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 46 第八章 神社と恋人と知識の島 「少し、言いすぎたかな」 アツモリさんの大きな手が、私の肩に柔らかく触れた。 「実際には目が見えないというハンデは大きいものだ。わからないことや感じられないこともいっぱいある だろう。だが、体験は知識によって増幅させることができる。見えないことで少なくなった体験は、代わり に多くの知識を得ることで必ずカバーできる。俺はそう信じているんだが」 「私も……信じることにします」 肩にかかった掌がぽんと弾んだ。 私がその手にすがりつくとアツモリさんは「行こうか」とだけ言って、またゆっくりと歩き出した。 二人で恋人のように歩いても、私はきっとアツモリさんの恋人には見られない。 そもそも私はアツモリさんの恋人ですらない。 だけど――。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 47 第九章 小鳥が残した記憶 第九章 小鳥が残した記憶 参道を通って駐車場へ戻る途中、アツモリさんがまた何かを言い出した。 「いい機会だから、右京には旅を楽しむ秘訣を教えておこう」 「秘訣なんてあるんですか?」 「ああ。そうすればつまらないと感じることもきっと減るはずだ」 さっきの件もあったので、私は余計なことを言わずに黙って聞くことにした。 「体験は知識だけでなく感覚によっても増幅される。覚えておきたい記憶は感覚と結びつけることでさらに 強固なものになるんだ。その際に――」 摩擦音のようなブレスの後、アツモリさんは私の様子を窺うような口調で、 「一番頼りにならないのが実は視覚なんだ。人間は視覚から得る情報が最も多いらしいが、逆に情報量が多 すぎて人間には処理しきれないんだろうな」 「はあ」 「記憶の中のイメージがどんどんぼやけていくのがその証拠だ。だから人間は写真を撮りたがるんだが、写 真に映ったものと記憶なんぞ一致するわけがない。結局、視覚を記憶に刻み込むなんて無理なんだ。だから 右京もその点で気に病む必要はない」 「それ、本当なんですか?」 「そうだ。むしろ右京のほうが人の何倍も有利かもしれないな」 アツモリさんは思わせぶりなことを言って、まだしゃべり続ける。 「視覚以外の感覚はかなり強固に記憶と結びついている。声を聞いた瞬間に何十年も昔の記憶が蘇ってきた なんて話はザラにある。食べ物の匂いや味なんてのもそうだな。何年後、何十年後であっても、右京が釜揚 げうどんを食べた時には『アツモリ』のことを思い出すはずだ」 「せ、先週のことを思い出さなくたっていいじゃないですか!」 ああ、先週私がやらかした天然ボケを全部思い出しちゃった。すごいぞ、人間の記憶。 「ものは試しだ。この宮島で練習してみるか」 「ここでやるんですか?」 「旅の楽しい記憶を刻んでおきたいんだろ? いい機会だと思うが」 だけど今日はアツモリさんに怒られてばかりだから、あまり楽しい記憶じゃないのよ。 それを刻み込むの? うーん。 けど、アツモリさんは私のために言ってくれてるのよね。 「いいか、右京。記憶と感覚だ。目を閉じるんだ」 「目を……閉じるんですか?」 「ああ、そのほうがいい――そうだ。目を閉じて、残りの感覚に集中するんだ」 「目を閉じて、集中……」 ◇ 集中って簡単に言うけどさ。何をどう集中すればいいと思う? とにかく何か楽しい記憶を思い出さなくちゃ。 今朝から何してたっけ? えっとえっと……ああっ、早くぅ……。 そうだ、お昼に食べたお好み焼きにしよう。うん、あれはもう一度アツモリさんと食べてみたい。関西風 もいいけど、今日食べた広島風のほうが断然イケる。キャベツのしっとり感とクレープみたいな生地のもっ ちり感がたまんない。甘辛いソースもよく合う。おっ、味を全部思い出してきたぞ。よだれが出ちゃいそう。 アツモリさんの言うとおり、私は結構有利なのかも――。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 48 第九章 小鳥が残した記憶 ぴいっ。 「え?」 何、今の音? 何かが聞こえた。間違いなく。 「アツモリさん、なわけないですよね」 「俺がどうかしたか?」 ぴいっ。 また聞こえた。本当に小さな音だ。しゃべっていると聞き逃しそうな。 「アツモリさん、私の……目の代わりになってくれますか?」 ああ、と当たり前のようなアツモリさんの声。 「探してほしいんです。私が聞いた、音の正体を」 そう言って、もう一度私は目を閉じた。残りの感覚に集中するために。 お願い、もう一度――あと一度だけでいいから鳴いて。 私が、私が必ず探してあげるから――。 ぴいっ。 「アツモリさん、そっちです!」 左手をいっぱいに伸ばし、私はアツモリさんに指示を出す。 手の示す先がどうなっているのか、私にはわからない。 ただ、これだけは言える。 「下のほうから鳥が鳴いたような音がしました。アツモリさん、ゆっくりと……足元を探してください……」 「わかった」 私は再び探索に戻った。アツモリさんががさごそと歩き回る音が聞こえてくる。 私にはアツモリさんがどちらの足を踏み出したかまで聞き取れた。 次に私が聞いたのはアツモリさんが驚き叫ぶ声だった。 「右京、いたぞっ!」 がさごそと小走りに戻ってきたアツモリさんは私の前に立ち、あからさまに興奮した様子でまくしたてた。 「そこの木の下に、雀の子が落ちてたよ。右京……この参道を一日にどれだけの人が通るか知ってるか? 何 千人もの人が自分の目で見てたはずなのに、誰一人気がつかなかったんだ。だけど右京は……右京にだけは、 この雀が見えたんだ」 アツモリさんに促されて差し出した私の手に、拾い上げられたばかりの小鳥が壊れ物のようにそうっと乗 せられた。 その子雀はボールのように丸くなって、ふわふわの羽毛を震わせていた。 針のように細い脚爪で必死に私の掌にしがみついていた。 小さな、本当に小さな命だった。 ◇ 手の中にいる小鳥の声が聞こえなくなった。 アツモリさんは船の中で一刻も休まずに携帯電話とカーナビを操作しつづけていた。対岸に着くとすぐに アツモリさんはタイヤを鳴らして車を走らせた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 49 第九章 小鳥が残した記憶 車にあったタオルでくるまれた子雀は、じっとしたまま動かない。私は小鳥を抱えて待つことしかできな かった。 ペットショップでアツモリさんは小さな鳥籠と袋入りのエサを買って戻ってきた。 私の手からアツモリさんは小鳥を取り上げて、それから鳥籠をがちゃがちゃといじる音が五分ばかり続い た。 「とりあえずエサは食った。ただ、この先どうなるかだな」 そこから高松まで車は一度も休むことなく走ったので、帰りは行きの半分の時間しかかからなかった。 家のすぐ近くまで送ってくれたアツモリさんは「育てられるか?」と二度ほど確かめるように言った。 私も鳥籠を抱えながら自分を励ますように「何とかしますよ」とか「妹がもう一人増えたと思えばいいん ですよ」なんて勝気に答えていた。 だって嘘でもそう言わないと、私にはとても自信なんてなかったから。 案の定、私が家に持ち帰った鳥籠を見るなりお母さんがきつい声で責めたてた。 誰が育てるの、病気を持ってたらどうするの、赤ちゃんのお世話で大変な時期に小鳥なんて無理よ――と、 極めて常識的な大人の論理で。 私は鳥籠を片手に玄関に立ち尽くしたまま、白杖を立てかけることすらできなかった。 「お母さん。一週間だけお願い」 私は鳥籠と杖を両手に頭を下げて、その姿勢で言葉を連ねていく。 「この子、人間で言うと私と同じ高校生くらいなんだって。一週間もすれば大人になるって。私が全部面倒 を見るから。千尋のお世話だって今までどおりきちんとやるから。だから、お願い」 いつまでも私が玄関から上がってこないのを不審に思ったのか、奥でくつろいでいたお父さんまでも玄関 に登場した。 「簡単に考えているようだが、野鳥の世話は大変だぞ。たとえ一週間でも、本当に右京が一人で全部できる のか?」 「……やる。だって、やるしかないもん」 「外に放してらっしゃい、右京」 お母さんの言葉を受けて、お父さんが車の鍵を取りに行った。 私は黙っている。 子雀はさっきから物音一つ立てない。 この籠の中に小鳥がいるのかどうか、私にはわからない。 だけど私は闘わなきゃならない。 この子は私に助けを求めたんだ。私だけがこの子の声を聞いたんだ。 それなのに私が諦めてしまったら、この子は――。 ◇ たった一度の機会は、お父さんが玄関で靴を履いている時に訪れた。 ひとりごとのように小さなつぶやき声で、私は誰ともなしに訴えかける。 「小鳥だから、捨てられちゃうの?」 お母さんが何か言いかけるのを、私は次の言葉で封じ込めた。 「小鳥も、私も、一人じゃ生きられないのに。私はみんなに助けてもらっているのに、どうして小鳥は捨て られちゃうの? 私は生きていけるのに、どうして小鳥は死ななきゃいけないの? どうして?」 「…………」 「私が小鳥だったら……やっぱり死ななきゃいけないの?」 自分の言葉のあざとさに、自分でも舌を巻く。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 50 第九章 小鳥が残した記憶 言葉が効いている証拠にお母さんは黙りこくっている。お父さんも靴を履きかけたまま動きが止まってい る。 私がまだ小さかった頃、わがままを通すために私はよくこの手を使った。 重い障害を持った何もできない女の子を演じれば、両親はよほどのことがない限り私の言うことを聞いて くれた。 私のプライドはそのたびに漆喰が剥がれるように壊れていったものだった。 どうやら今回もそうなるみたいだ。 「鳥籠はお父さんの部屋に運びなさい」とお父さんが言い、 「小鳥が死んだって知りませんからね」とお母さ んが言う。 高校生にもなって六歳の子供と同じ扱いを受けた私のプライドが壊れていく。 小鳥は何も答えてはくれない。 けれど、それでいいんだ。 私は、私は、この子を守ったんだ。 その夜から私の仕事が一つ増えた。 アツモリさんが買ってきた練り餌を一匙すくって小皿に取り、水を垂らしてかき混ぜる。粘り気と独特の 臭いから察するに、練り餌の正体は米ぬかだ。 味噌ほどの硬さになったら、練り餌を小豆くらいの大きさに丸めて箸の先に乗せ、鳥籠の中に静かに差し 入れる。子雀もかなり成長しているから自分で餌を取りに来るはずだというのがアツモリさんのアドバイス だった。 箸先がぴんぴんと揺れる。箸を取り出すと餌は消えている。 だけどこれでは本当に餌を食べているかどうかわからない。ぐいぐいと勢いよくミルクを飲んでいく千尋 と比べて張り合いがない。 姿が見えず、音も出さない小さな命。 その命が私の手の中で震えていた時の温もりを、私は感じたかった。 私は箸の代わりに自分の指を使うことにした。 丸めた餌を左手の薬指に乗せ、鳥籠の隙間からいっぱいに伸ばし入れる。 指の筋肉がつりそうになるけど、その姿勢のままでじっと耐える。 やがて指先が尖ったものでつんと突つかれた。ぴりっと鋭い痛みが走る。 「つっ……!」 指先は私の目の役割を果たす大事なインターフェースだ。 指を怪我すれば、私の感覚はその分だけ確実に鈍くなる。けれど、こうしないと私には小鳥の存在を実感 できない。 指先の痛みが、私に教えてくれる。 一秒の何分の一という短い時間、私と小鳥は確かにつながっている。 私の心臓に一番近い指が、小鳥の心と結ばれる。 ◇ 土曜日の朝、私は鳥籠を持って家を出た。 家を出る直前、ちょうど一週間前に私が立っていた玄関から家の中に向かって「雀、連れてっちゃうよ!」 と叫んだのに、お父さんもお母さんも出てきやしない。もちろん千尋も出てこない。一週間だけの居候の顔 も見たくないんだろうか。 私なんて雀の顔を見たくても見られないのに。そう思うと悲しくなってしまう。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 51 第九章 小鳥が残した記憶 アツモリさんに会うとすぐに、私は鳥籠を見せながら言った。 「この子、どうですか? 大きくなりましたか?」 「ああ、もう立派な大人だ」 それを聞いて安心した。今日、この子を空に返そう。 「アツモリさん、今日も宮島に連れてってもらっていいですか?」 「また行くのか?」とアツモリさんに聞き直されて、私は力強く「はい」と答えた。 「この子が生まれた島へ、神様が住む美しい島へ、私とこの子を連れてってください」 二時間余りのドライブと二十分ほどの船旅を経て、私たち二人と一羽の小鳥は宮島へと戻ってきた。 この美しい島の歴史や伝統を、私は知らない。島の美しさを私が目にすることもないだろう。 だけど、私は宮島での体験を忘れない。 今にも消えそうな鳴き声を、丸い小さな羽毛の柔らかさと温かさを、指先に感じた嘴の痛みを、私はずっ と忘れない。 「アツモリさん。今日の私の服、どうですか」 茶色のカーディガン、白のブラウス、グレーのスカート、黒のソックス。 頼んで出してもらったのはどれも秋物だったから、お母さんは訝しがったけれど。 「雀のお母さんみたいな格好だな」 「……そうなんです」 おしゃれは自分で見るものじゃない。人に見せるためにするんだ。 だから私はこの服を着てきた。自分には色すらわからないこの服を。 大人になった雀が巣立つのを、私は雀の服で見送ってあげることにしたんだ。 「このあたりでしょうか、この子を拾ったのは」 「そうだな」 アツモリさんがそう言って鳥籠を置いてから、不意に「あれっ」と声をあげた。 「この鳥籠、掃除をした形跡があるな」 「掃除、ですか?」 「この鳥籠は下のところが引き出しになっていて取り出せるから掃除も簡単なんだが……右京に言わなかっ たかな」 私はうなずいた。そして、今朝の出来事をすべて理解した。 お父さんとお母さんも小鳥の世話をしていたんだ。私の知らないところで。 一週間だけの居候に情が移ってお別れがつらくなったんだ。それで見送りに来なかったんだ。 「後でご両親にお礼を言っておくんだな」 「……はい」 私が返事をしたその時、小鳥が鳴いた。 ちっ、ちっ。 高く鋭い、力強い声。道端で震えていた小鳥は、もうどこにもいなかった。 そうか。きみは大人になったんだね――。 「ほら、雀がお母さんを呼んでるぞ。早く出してくれってさ」 籠の底にある四つの留め具を外していく。把っ手を持ち上げたら籠がふわりと浮いた。 しばらくは何も起こらなかった。だけどそれは突然やってきた。 ぱささっ。 羽音が素早く動いた。飛んだぞ、とアツモリさんが言った。 ちっ、ちっ。頭の上のほうで、雀が二度鳴いた。 それから再び羽音がして、私にはもう雀を見つけられなくなった。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 52 第九章 小鳥が残した記憶 「行ったぞ――。よくやったな、右京」 「アツモリさん」 「何だ」 「私、愛とは何なのか……少しだけわかったような気がします……」 「そうか」 笑ってそう答えたきり、アツモリさんはもう何も言わなかった。 それからアツモリさんは大きな温かい手で、泣いている私の肩をそうっと抱き寄せてくれた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 53 第十章 人魚姫は涙を流さない 第十章 人魚姫は涙を流さない 雀を返した次の日に、ハルカが家にやってきた。 いや、雀がいないのを何度も確かめた末にようやくハルカが家に来たと言うべきかな。 ハルカは生き物が大の苦手で、ペットがいる家には絶対に行こうとしない。 学校に盲導犬が来た時にもハルカだけは触れようともしなかったのだ。盲導犬はお利口だから大丈夫だと 私が連続再生で言い聞かせたって全然だめ。 だけど、もし人間の子供も嫌いだったらなんて心配はまったく無用で、早く千尋を抱っこしたくてうずう ずしているハルカを落ちつかせるのが大変だった。 さて、私たちが赤ちゃんを引き渡すにはちょっとした準備が必要だ。 「ハルカ、私の前に立った? ちょっと私の腕に触ってくれる?」 「ここやね……うん、ええよ」 「それじゃ一緒に座るよ。せーの……。座ったらできるだけ私に近寄って、下から米袋を抱えるみたいに両 手を出して」 「オッケー。……はい、持ったよ。ウッキはもう離してもかまんで」 妹は親友の胸の中に無事おさまったようだ。 会話ができるほどに千尋が成長していればハルカの胸に関する貴重な情報が得られるんだけど、無理なこ とは言わない。 「うわぁ、ホンマにすべすべやわ。千尋ちゃん、可愛いなぁ」 「ふふっ。私がメロメロになるのもわかるでしょ」 私はハルカの背中の側に回って腰を下ろす。今日は姉妹でハルカを挟み撃ちだ。 「ほらほらっ! 千尋ちゃんがウチの指を握って離さへんで!」 「赤ちゃんは反射で握るらしいよ。試してみなよ、足の指でも握ってくるから」 「どれどれ……ホンマや! 足でも握りよる! 千尋ちゃん、器用やねぇ」 「不思議だよね。こんな能力が大きくなると消えちゃうなんてね」 赤ちゃんのお世話をしたいってオーラがハルカの背中からこんこんと湧き出ていたので、ついでに育児も 体験してもらうことにした。 おむつの交換やミルクの調製は初心者には難しいから、結局は授乳しか任せられないんだけど。 「楽しいーっ! 哺乳瓶が引っ張られるーっ!」 そりゃあ楽しいでしょうよ。一番簡単で美味しいとこだけやってるんだから。 「いつも機嫌がいいとは限んないんだからね。夜中にぎゃーぎゃー泣いてる横でミルクを作る時なんて結構 焦るんだよ」 「そやかて赤ちゃんは泣くんが仕事やんか。ようけ泣かしたらええん」 「私だってそうは思うんだけどね。ただ、真夜中に泣かれると隣近所が気になって」 「泣く子はそれだけでええ子やわ。ウチなんか産声もあげんかったから、家族に心配ばっかりかけたん」 「それ、ハルカのせいじゃないじゃん」 「結果は同じことやけん」 「でも……」 私たちの学年には昭和生まれと平成生まれがいる。 予定どおりならばハルカの誕生日は私と同じで、しかも貴重な昭和六十四年仲間になるはずだった。 ところがハルカが生まれたのは予定より二か月以上も早い十月の下旬で、両手ですくえるほどの大きさし かなかったハルカは生後すぐに保育器に入れられ、家族はハルカを抱くどころか触ることすらできなかった。 昭和最後のクリスマスの夜、ハルカの兄貴が「プレゼントはいらないから、いもうとをだっこさせてくだ さい」とサンタクロースに頼んだという話をお母さんから聞いた時、私は不覚にもぼろぼろと泣いてしまっ 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 54 第十章 人魚姫は涙を流さない た。 そんなに妹思いで紛れもなく世界一優しい兄貴の顔を、けれどハルカは見たことがない。 平成最初の桜が散り始めた頃にようやく退院できたハルカの目は、その頃にはもう見えなくなっていた。 ハルカはよく「もっと昔に生まれとったらウチは助からんかった」と言う。 きっとそれは事実なんだろう。 けれど、どうして命と引き換えに光を奪われなきゃならないの? ハルカは童話の人魚姫じゃない、血の通った人間なのに。 私たち姉妹に温かい背中と胸を貸してくれる、優しい女の子なのに。 ◇ 泣きそうになったところをハルカに悟られないように「宮島のお土産持ってくるね」と断って立ち上がっ た私は、トイレの中で思いっきり泣いた。 ようやく泣き止んだ後で、私はダイニングからお土産を持って赤ちゃん部屋へと戻った。 「千尋もおなかいっぱいになったことだし、私たちもコレでおやつにしようよ」 雀を空に返した後、虚ろになった鳥籠を提げて立ち寄った土産物屋さんで買ってきたものだった。 触れ込みによると八種類の味が楽しめるらしい。 「もみじ饅頭、千尋ちゃんの手とそっくりな形をしよるね」 「うーん……どれもこれも千尋の手だよ? どうやって見分けんの?」 それぞれ違う形のラベルが貼ってあるみたいだけど、読めなきゃしょうがない。 結論。わからないものは気にしない。 片っ端からバリバリと開けて、ほっこりと半分に割って親友と分けっこする。 どんな味かは食べてからのお楽しみ――だと面白いんだろうけれど、大抵は割った瞬間に匂いでわかって しまう。ただ、つぶあんとこしあんだけは判別できなかった。 「お姉ちゃんはお出かけして美味しいものをいっぱい食べてまちゅねー。いいでちゅねー」 「ハルカ、いったい誰としゃべってんの?」 「千尋ちゃんも早く大きくなって、お姉ちゃんと一緒におぴっぴを食べまちょうねー」 「ちょ……ちょっと! 千尋に変なもの食べさせないでよっ!」 「ん? ウチは何ちゃ食べさせとらんが」 「だけど、さっき……ええっと……」 「ああ、 『おぴっぴ』な? それ、うどんのことや。離乳食におぴっぴを食べんと立派な讃岐っ子になれんの で」 香川の文化はよくわからない。五年住んでるくらいじゃ足りないのか? 「ほんで、ウッキはアツモリさんとどななんな?」 「まだ恋人未満っていうか……友達未満っていうか……」 「全然あかんやんか。で、家族はアツモリさんのことは知っとんな?」 「それが……まだ……」 「まあ、内緒にしといたほうがええんやろね」 「ねえ、ハルカ……。愛って何だと思う?」 私はアツモリさんに出された宿題のことをハルカに話し聞かせた。 「ウッキ……それ、アツモリさんのプロポーズでないな!」 「いや、それはあり得ないって! そんなの冗談に決まってるって!」 私は背筋を伸ばしてころころと笑ってみせた。 「アツモリさんが冗談や言よったん? 冗談みたいな態度やったん?」 「…………」 「ウチは全力でウッキを応援するで。ウッキ、今度アツモリさんに会うたら『愛とはあなたを好きなことで 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 55 第十章 人魚姫は涙を流さない す』って言いまい! それがアツモリさんの期待しよる返事やけん」 「なっ……!」 「千尋ちゃん、よかったでちゅねー。もうすぐ新しいお義兄ちゃんができまちゅよー」 「こらっ、ハルカ!」 ◇ その日の会話はおちゃらけて終わったけれど、将来のこととなるとこれは安穏としてはいられない由々し き事態なのであった。 アツモリさんは週末になると私をドライブに連れてってくれた。 運転が巧いのか私が車を克服したのか、どこまで遠出しても車酔いにはかからなかった。 い や や ま 晴れたと言っては祖谷山の田舎そばを賞味し、雨が降ったと言っては市内の博物館へと私を案内してくれ た。琵琶法師の蠟人形がしゃべっているところはなかなか面白かった。 けれどそんなドライブの後で「愛とはあなたを……」なんてこっ恥ずかしいセリフが私に言えるはずもな く、ああっこんなんじゃいけないと私が悶絶しているうちに一週間、また一週間と過ぎていくのだった。 頭を抱えて私は悩む。 昨日から家の近所で道路を掘り起こしていて、ドガガガガガと騒々しい音を私の鋭敏な耳が拾ってくるか らちっとも思考に集中できない。 そりゃね、私だってアツモリさんのことは好きですよ? 優しくて背が高くてがっしりとして力強くて頭も良くて、おまけに顔もいい――最後のは私の想像だけれ ど、とにかくアツモリさんは世の中のいいものを全部持っている。 だけど私には何の取り柄もない。 そんな私ごときが思い余って「好きですぅ」なんて口走ったらアツモリさんだって困ると思うんだ。 せめてもう少ししっかりした人間にならないと。 あー。ぐだぐだ、ぐだぐだ。ドガガガガガ。 言いたい。けど言えない。 永遠に等しかった八週間も、振り返ればもう六週間も過ぎてしまっていた。 アツモリさんに会えるのは明日と来週末の二回だけ。その二回で先のステージを目指さないとアツモリさ んとはそれっきり。私の思いは泡と消えちゃう。 そんなの嫌だ……。 違う。こんな卑近な未来じゃない。 本気で自分の将来を考えなきゃいけないんだった。 こないだ先生に言われたんだよね。高倉は将来のことを考えているのかって。 正直、何も考えてない。まだ私、十五歳だよ? 高等部に入ったばかりだよ? 将来なんてまだまだ先に あるものじゃないの? それとも世の中の高校生はみんな十五歳の時に将来を決めてるわけ? その点、ハルカやコーイチはしっかりしてる。マッサージ師になるって今から決めてるんだもん。 でも、私は何になりたいんだろうね? ◇ 私にはどんな道が待ってるんだろう。 青春には無限の可能性があるなんて非現実的でクサいことなんてハナから考えてない。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 56 第十章 人魚姫は涙を流さない むしろ、普通の人よりずっと小さい可能性しかないって現実もしっかり認識している。 ただ、真面目に考えてみたことがないんだよね。 ヘレン・ケラーとか引き合いに出されてもさ。向こうは「奇跡の人」だからね。 それにさ、世の中の女の子が全員ナイチンゲールやキュリー夫人を目指してるわけじゃないんでしょ? それと同じだと思うんだけど。 大学を目指すってのはアリだと思う。 点字でも受験はできるし、今から勉強をすれば何とかなりそうな気もする。 だけど、大学で私は何を勉強したいのかがわかんない。 何も勉強するものが決まってないのに大学を目指すってのはどうなの? それならば仕事を探してみる? 仕事どころかアルバイトだって難しいのに。 私は幼稚園の頃から大それた夢なんて持ってなくて、ケーキ屋さんとかハンバーガー屋さんとかスーパー のレジ係とか、そういうわかりやすい仕事に憧れてた。 だけど、ここに挙げた仕事も目が見えないと難しそうだよね。 ケーキのデコレーションは無理でも、ハンバーガーを挟むのならできそうなんだけど。 家事手伝いってのはどうかな。 これならまあまあ自信がある。少なくともお父さんよりはできる。 洗濯は機械がやってくれるし、裁縫もボタンくらいなら留められる。掃除は適当にやることにする。 料理は家事の中でも一番得意だ。お母さんがガスを使わせてくれなくて「料理ができなきゃお嫁に行けな いっ!」と私がごねた翌日にお父さんが買ってきてくれた電磁調理器で着実にレパートリーを増やしている。 こないだはカレールウが溶けきってないのに気づかず失敗しちゃったけど。たまにはそんなこともある。 私は家に残ったほうがいいと思うんだよね。 無理して努力して社会に出たって、いろいろ大変そうだもん。 両親だってそのほうが嬉しいんじゃないかな。たった一週間飼ってた雀と別れる時ですらあんなに落ち込 むんだから、もっと苦労をかけさせた私が親元を離れることになれば半狂乱になっちゃうかもしれない。 だから社会に羽ばたいていくのは千尋の役目ってことにして、私は年老いた両親の面倒を見ることに徹す る。 それならきっとお父さんもお母さんも安心だ。 だけど……本当にそうかぁ? 二人が元気なうちはいいけれど、お父さんもお母さんも自分たちがいなくなった後のことを心配しちゃう かもしれない。 だから、細々とでも仕事はしたほうがいいんだろうね。結婚して両親と一緒に住むってのができればベス トだ。 ああ、結局は仕事か。 ケーキ屋さん、やりたかったな。裏方でいいからケーキ屋さんの仕事させてくれないかな。 クリームを混ぜたり、生地を、こねたり……生地を……。 そうだ、うどん屋さんはどうだろう? ◇ 私は今までうどん屋さんになろうなんて考えたこともなかった。 でもさ、検討してみる価値はありそうだよね? 小麦粉に加える水と塩の加減はその日の皮膚感覚で決めるそうだけど、皮膚感覚なら私はそこいらの人に 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 57 第十章 人魚姫は涙を流さない は負けない。 うどん生地を足で踏むのも大好きだ。生地を薄く伸ばして切るのは機械にやってもらおう。大丈夫、世の 中にはうどん製麺機がきっとあるはずだから。 うどんを茹でるのも、茹で上がったうどんを水で締めるのも問題ない。 うどんのダシを煮干しから取るのも難なくこなせる。というか味見では私は負けない。 薬味のゴマとカツオ節は買ってくる。生姜は私でも下ろせる。ネギを細かく切るのは難しいから、これは 誰かにやってもらおう。 両手に丼を持ってテーブルまで運ぶのは大変だからセルフサービスの店がいい。 香川県にはそんなうどん屋さんがいっぱいある。ついでにおにぎりやいなり寿司を並べておけば選択肢が 広がってお客さんも喜んでくれる。 あっ、そうか! ネギもセルフサービスで切ってもらえばいいんだ! お客さんがネギを切るうどん屋さんが県内にあるってコーイチが言ってたぞ。ウチもそうすればいい。 私に代わってネギを刻んでくれたお客さんにはうどんを一杯サービスしちゃおう。 いけるんじゃないか? うどん屋さん。 もしかしたら私一人でも何とかなるかもしれない。 お店を開くなら庵治の公園の近くがいいな。 映画のロケ地を訪れたお客さんにうどんを出すんだ。 二人で食べれば永遠の愛で結ばれる純愛うどんとか、隠しメニューのアツモリうどんとか。アツモリうど んの中身は釜揚げうどんってことで。 お店の名前はもちろん「さぬきうどん 右京」だ。 口の中でつぶやいたら、生まれながらにうどん屋さんの娘になる運命だったかのようにしっくりときた。 決めた。私はうどん屋さんになる。 味では誰にも負けないうどんを、私は作ってみせる。 アツモリさんと二人で、決して大きくはないけれど幸せいっぱいのうどん屋さんにしてみせる。 一日の仕事が終われば私はアツモリさんにマッサージをしてあげて(習ってないけど) 、その代わりアツモ リさんには本を読んでもらうんだ。 感動してぽろぽろと泣いちゃう純愛モノもいいけれど、ちょっとエッチなボーイズラブもたまにはいい。 おお、何だかすごい計画ができた。道路工事の騒音ごとき、しょせん私の敵ではなかったね。 そうと決まればさっそくうどん打ちの修業だ。 どこかのうどん屋さんでお手伝いしながら一つずつ仕事を覚えよう。千尋の離乳食は私が練習で打った「お ぴっぴ」で決まりだっ。 大丈夫、私には卒業まで三年も残っている。うどん屋さんだって厳しく大変な仕事だろうけど、そんなこ とを気に病んでいたら私にできる仕事はこの世からなくなってしまう。 学校へ行ったらすぐに先生に相談だね。 いや、その前に家族に伝えなくちゃ。 お父さんお母さん、喜んでくれるだろうか。 おまえはうどん屋さんの娘になる運命じゃない、なんて言われたらどうする? ◇ 「アジ?」 そんなふうに聞こえなかったのは明らかなのに、敢えて私は聞き直してみた。 「アジじゃない、モジだ」と丁寧に訂正するお父さん。「門司に転勤になるんだよ」 「久しぶりの引っ越しね」とお母さんは満更でもない様子だ。 「お父さん、部長に昇進するんだって」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 58 第十章 人魚姫は涙を流さない ふうん。そんなのどうでもいい。というか、お父さんの仕事って何だっけ。 「門司ってどこにあるの?」 「九州の北の端だ。ちょうど壇の浦の対岸あたりだな」 壇の浦? どっかで聞いたことある地名なんだけど思い出せない。 「九州って香川の左のほう?」 「左のほうじゃなくて、西のほうだ」 お父さんもアツモリさんと同じことを言う。二人、気が合うかもね。 「それで、お父さんは結局私に何を言いたいの?」 「そうだな……」 「私の意見が聞きたいの? それとも感想が欲しいだけ?」 「……右京、いろいろと大変だとは思っている」 だったら最初からそう言えばいい。大変だとわかっているのなら。 大好きな親友と別れなきゃならない。 うどん屋さんになる夢も捨てなきゃならない。 家の回りの目印も、学校へ行く道も、最寄りのコンビニの場所も覚え直すことになる。それまでの間、私 は一人で外を歩けない。 歩けなくなるのは外ばかりじゃない。身体で覚えた家の間取りや家具の配置も白紙に戻される。私は家の 中の歩き方から練習しなきゃならない。 それでも歩けるうちはまだいい。 千尋が這い回るようになれば、私は千尋を踏んづけたり蹴とばしたりしないように注意しながら移動しな きゃいけなくなる。 きっと私は家を歩くこともできなくなる。その時は千尋と同じように這い回ればいいんだろうか。 「右京には……できるのか?」 お父さんの一言。 できないよぉ。そう叫びたい。 いやだよぉ。行きたくないよぉ。離れたくないよぉ。 言ってしまえばそれで済む。きっと誰かが何とかしてくれる。 単身赴任になるか出世を諦めるか、あるいは仕事を探すのか。お父さんの決断は私のあずかり知らないと ころで行われる。 そして、その瞬間にすべては終わる。 九年間かけて手探りで築き上げた、私の世界のすべてが泡と消える。 一人で何でもできるから、私に赤ちゃんをください。 両親と交わした約束を、私は自ら反故にすることになる。何もできないと泣いていた、かわいそうな女の 子に私は戻る。 何もできない子に、外の世界なんて要らない――。 「……できるのか?」 お父さんが再び尋ねてくる。残酷なほど優しい声で。日頃はあんなに無感情なのに。 お父さんは私に言うことを聞かせる方法をちゃんと知っていた。雀を飼う時に私がしてみせたように。 私はきつく唇を嚙みしめ、がっくりと首を落とすようにうなずいた。 私は童話の人魚姫じゃない。 何かを得る代わりに何かを失う。人はそうやって生きていく。感傷の入る余地なんてどこにもない。 商品を買ってお金を払う。赤ちゃんは足で歩く代わりに足の指で握る本能を失くしていく。同じことだ。 私は千尋を得る代わりに多くのものを失う。それだけのことだ。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 59 第十章 人魚姫は涙を流さない だけど、親友も将来の夢も一人で歩く喜びも失った世界は、何もかも失った世界とどこが違うんだろう。 わからない、私には。 アツモリさん……会いたいよぉ。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 60 第十一章 不良少女のミステリー 第十一章 不良少女のミステリー 土曜日の朝。 いつもより早く起きた私は、いつもより多めにごはんを炊いた。 今日はお弁当を持っていく。それも、おにぎりだけで勝負する。おにぎりだったら私はお母さんにも負け ない。 この時期の食べ物は足が早いから、塩をちょっと多めにしておく。具は梅干しとおかかだけ。香川名物の しょうゆ豆もつけない。 私の一番得意な料理を持って、そして思いを伝えるんだ。当たって砕けても構わない。 アツモリさん。私、引っ越すことになったんです。 私の知らない、遠い遠い地の果てに行くんです。アツモリさんにも、もう会えなくなっちゃうと思います。 だから私、今日はお弁当を作ってきました。 アツモリさんにどうしてもお礼が言いたくって。こんなんじゃ全然足りないんですけど、私にはおにぎり くらいしか作れませんから。 アツモリさん、美味しいですか? 本当に、本気で美味しいって思ってますか? 美味しいものを食べると、人は笑うんですよ。アツモリさん、笑ってますか? 私に見えないからって、 嘘をついちゃだめですよ……。 ごはんを握りながら変なことを考えてたら泣けてきちゃった。 おにぎりがこれ以上しょっぱくなると困るから、私は涙を拭いておにぎり作りに専念する。 おかげで家を出るのが少し遅くなってしまい、玄関のところで携帯電話が鳴り出した時にはものすごく焦 った。 外に出るとすぐに電話の主に折り返し連絡を入れた。 今日も道路工事の音がうるさくて、さしもの私も電話の声が聴き取りにくい。アツモリさんは今日も図書 館前で待っているとのことだった。 あいにく、図書館への近道は道路工事の真っ最中だった。 足元の状態が悪く、おまけに騒々しい音で聴覚が殺されてしまう工事現場は危険がいっぱいだ。ここを迂 回して歩き慣れない道をそろそろと歩いたら普段より十分も余計に時間がかかってしまった。 慣れた動作ならこなせても、イレギュラーなことにはまるで対応できない。 私が特に不便を感じるのはこんなときだ。 図書館の駐車場で待たせてしまったアツモリさんに、私は一つお願いをした。 「ちょっとコンビニに寄ってもらえませんか? 場所は私が案内しますから」 大学通りに私がよく買い物をしているコンビニがある。 優しいお姉さんが一人いて、コンビニのことをいろいろと教えてくれたものだった。 私が店内の構造を知り尽くしているたった一つのコンビニ。だけど、このコンビニともお姉さんともお別 れだ。 「アツモリさん、神戸の水でいいですよね」 「ああ。俺も一緒に行こうか?」 「ふふっ、ここは私に任せてください。私、ここで買い物するの得意なんですよ」 ◇ 私は車にアツモリさんを残し、外のガラスに手を触れながら入口まで伝って歩いた。 店のレジにはいつものようにお姉さんがいて、何から何まで全部一人でこなしていた。 店が空いていれば挨拶をしたかったんだけど、案外混んでいるみたいなので私はさっさと用事だけを済ま 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 61 第十一章 不良少女のミステリー せることにした。 お店の中ではあまり白杖を使わない。ショッピングモールなどで点字ブロックに沿って歩いていくと案内 所へと直行してしまうのは、そこで案内を頼んでくださいって意味だ。コンビニの場合は案内もバイトのお 姉さんがするんだろうか。ただでさえ忙しいお姉さんを煩わせたくはないなあ。 自力で奥のドリンク棚まで歩こうとしたけれど、途中で誰かにぶつかってしまった。通路を空けてくれそ うな気配がなかったので、私のほうから避けて歩く。勝手を知っているからといって平然と歩いていると、 私の目が見えないことに気づかれないのかもしれない。 白杖を持ってくればよかったかな。だけど今から引き返して取ってくるのも挙動不審だよね。 大きなドリンク棚の扉を開き、ミネラルウォーターのペットボトルを手で探す。 いろんなボトルがあるけれど、私には中身も値段もわからない。 携帯電話がバーコードを読んでくれれば便利なのにね。商品に携帯電話をかざすと「コーラです」とか「天 ぷらうどんです」とかしゃべってくれる機能があればいいのに。そんな携帯があれば買い物が百倍は楽しく なる。 だけど私の携帯はアドレス帳すらしゃべってはくれない。 ようやく目当てのボトルを探り当ててレジの前まで戻ってきたところで、レジのお姉さんがびっくりした ように尋ねてきた。 「あら? 高倉さん、来てたの?」 私は挨拶もそこそこに、手にしたボトルを持ってお姉さんに聞いてみた。 「これ、神戸の水で合ってますよね?」 「そうだけど……レモンフレーバーでいいの?」 「えっ、レモン?」 いつの間にそんな味ができたの? オシャレな神戸だから? おにぎりにレモン。微妙に合うような、合わないような。 「高倉さん、ちょっとここで待っててね」 「あのっ、いえっ、結構です!」 私が言い終わらないうちにお姉さんはレジを飛び出して、私の横を小走りに抜けていった。 奥の扉がばたんと開き、再びばたんと慌ただしく閉じられる。 「お待たせ。他には?」 こんな状況で追加なんてできない。私の後ろには人が立ち並んでるのに。 ああ……。お店に慣れてるからって調子に乗るんじゃなかった。 一人で先に進まずにお姉さんにお願いすればよかった。 できるところを見せようなんて思わずに、アツモリさんと一緒に来ればよかった……。 ◇ 「百五十七円です」 天気予報のような声でお姉さんが言った時、私はまだお金の用意もしていなかった。 後ろに人を待たせているのに、何をやってんだろ。 背後でちっと舌打ちする音が聞こえて、私は慌てて小銭入れを取り出す。こんな時に限ってファスナーが なかなか探せない。 夏も近いのに、私の手は氷のように冷くなっていた。かじかむように震える指先でコインを確かめていく。 「大丈夫? 私が取ってあげようか?」 悔しい。普段なら百円玉なんて爪で触れたってわかるのに。 私は観念してお姉さんに小銭入れを渡そうとした。 だけどこの時は本当に間が悪かった。お姉さんが伸ばしかけていた手に小銭入れをぶつけてしまい、コイ ンがじゃららっと小銭入れからこぼれ落ちた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 62 第十一章 不良少女のミステリー 「あっ!」 「ご、ごめんなさい!」 謝ったのは私じゃなくてお姉さんのほうだった。 どうして私に謝るんだろう。お姉さんが悪いわけじゃないのに。 お姉さんは早口で「いくら入ってたの?」なんて聞いてくる。 十枚ほど落ちたのは聞こえたけど、中身まで知らないよ……。 「あの、いいです。落ちたお金は諦めます。ですから早く次のお客さんを」 お姉さんは私の言葉に耳を貸さなかった。 再びレジから出てきて、カウンターの上や床に散らばったコインを拾っていく。 私が「いいです」と何度も頼んだのに、お姉さんはずうっと黙っていた。 その時、背後から知らない男の人の声で怒鳴られた。 「ったく、何やってんだよ!」 私はびくんと震えて身をすくめた。 「申し訳ありません。もうしばらくお待ちください」 お姉さんの声は私のすぐ足元から聞こえてきた。 「お姉さん……私、後回しでいいですから……。迷惑かけてますから……」 「いいの、高倉さんのほうが先だから」 さっきの男の人が「早くしろよ!」と怒鳴り、お姉さんがまた「申し訳ありません」と謝った。 そこで私はようやくカラクリに気がついた。 後ろの男の人はお姉さんを怒るフリをして私に怒ってるんだ。 そして、お姉さんは私をかばって、私の代わりに怒られてるんだ。 こんなの――もう、我慢できない。 私は後ろを振り返り、そこに立っているであろう男の人に向き直った。 「言いたいことがあるなら、直接私に言えばいいじゃないですか!」 男の人が「何だよ」と吐き捨てるように言うのが聞こえた。 見えないのに、刺すように冷たい視線を本能的に感じてしまう。 「ぼけっと突っ立ってないで、一緒に拾ったらどうなんだ?」 「できるものならやってますよ!」 声のするほうに向かって私は叫んだ。 「見えないんですよ、私には……。目が見えないんです。拾ってと私がお願いしたら、あなたもぼけっと突 っ立ってないで一緒に探してくれるんですか?」 「……だったら買い物に来なきゃいいんだよ」 「それ、どういう意味ですか?」 「邪魔なんだよ。おまえみたいな――」 「おまえみたいな……何が邪魔なんですか?」 さすがにその先は言われなかった。 だけど、私には聞こえてしまった。声に出されなかったその言葉を。 心の中で、私をどう思ってるかってことが。 ◇ 「私は……邪魔なんですか」 そうか、私は邪魔者なのか。そうなんだ。 親切にしてくれる人たちも、心のどこかで私のことをそんなふうに思ってるんだ。 私にどうしてほしいんだろうか。 邪魔だから隅っこに寄ってろとでも言いたいんだろうか。 今でさえ、隅っこにいるのに。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 63 第十一章 不良少女のミステリー みんなと同じ学校にも行けないのに。好きな本を読むことも、買い物を楽しむことも、使いやすい携帯を 持つこともできないのに。もっと隅っこに寄れって言うんだろうか。 そうして世界の隅っこに追いやっておいて、自分たちは映画を観ながら「これが愛だよね」なんて騒いで るのか。 愛って……愛ってそんなものなんだね。 「お邪魔、しました」 お邪魔、のところに嫌味ったらしくアクセントをつけて、私は手ぶらでコンビニを後にした。 お姉さんが後ろで何か叫んでいたけど、もうどうでもよかった。 車で待っていたアツモリさんは私の様子にすぐに気づいて、ドアを開けて外に出ようとした。 私はアツモリさんの腕にすがりついてそれを引き留めた。 「だめ……。アツモリさん、行かないで……」 「だって、右京――」 「お願いです……もう、何も言わないでください……」 どうしてこんなに頼み込んだのか、自分でもわからなかった。 虚構とわかった手探りの世界に、もう何の未練もなかったのに。 プライドだけが残ってたんだ。 人間が人間らしく生きるという、ちっぽけでくだらないプライドが。 「早く……車を出してください」 アツモリさんが無言でドアを閉めて、私が何事かを言うとすぐに車は発進した。 この時、私はなんて言ったんだっけ……。ああ、思い出した。 人のいない場所へ連れてってください――。 私はアツモリさんにそう言ったんだ。 ◇ その日――というかその夜、私が家に帰ってきたのは十一時頃だったと思う。 私がドアを開けるとすぐにお母さんが飛んできた。そして、 「こんな時間までどこへ行ってたのよ!」と誰 でも思いつきそうな言葉でヒステリックに叱りつけてから、お父さんの待つダイニングへ私を引きずってい った。 「どれだけ多くの人に迷惑をかけたか、右京はわかってるのか」 緊急家族会議室と化したダイニングで、お父さんが殊更に重々しく口を開いた。 私が「意味がわかんないんだけど」と答えたら、お母さんが私の胸元に何かを投げてよこした。それが神 戸の水のペットボトルだってことは袋の上から触れただけでわかった。 「コンビニの人が家に来た。盲学校に通っている高倉さんの家はこちらですよね、と言ってな。右京が商品 を受け取らずに店を出たから後を追いかけたが、もうどこにもいなかったと言っていた」 過剰な親切だ。 私の家を誰に聞いたか知らないけど、教えるほうも教えるほうだ。 あまつさえ両親まで親切心を過剰に発揮して、八方手を尽くして娘の行き先を尋ね回ったってわけか。 「右京、遥ちゃんに何を言ったの? 怒らないからお母さんに教えて」 「ハルカが……しゃべったの?」 「しゃべってくれれば、お父さんもお母さんもこんなには心配しなかったんだ」 「ねえ、ほんとに意味わかんないんだけど?」 「遥ちゃんがあんなに強情な子だとは知らなかったわ。右京の行き先なら知ってます、だけど右京と約束し たから絶対にしゃべりません、何かあったら責任は全部ウチが取りますから、ウチを信じてください……。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 64 第十一章 不良少女のミステリー 何度聞いてもその一点張りだったのよ」 ハルカの嘘つき。 私、ハルカに行き先なんて言ってないのに。 五年間ずっと仲良しで一緒だったハルカ。ハルカは私に一度も嘘なんて言わなかった。 それなのに、はじめてついた嘘が私をかばうためのものだったなんて。 こんな友達、もう二度と探せないよ。 別れたくないよぉ……。 「ハルカは何も悪くないよ」 震える気持ちを抑えて、私は無理に語気を強めた。 「私が男の人と一緒にいたことも、京都までドライブに行ったことも、私はハルカに言ってないんだもん。 ハルカが知るわけがないよ」 「京都だと?」お父さんの音量が上がる。 「京都まで何をしに行ったんだ?」 「私が何をしたっていいでしょっ! どうせ、私が黙ってたってどこかから根掘り葉掘り聞いてくるんでし ょ! それならどうして放っといてくれないのよ!」 男と出かけて深夜に帰り、両親に逆らう女子高生。私は立派な不良少女だ。 私の叫び声に驚いた千尋が赤ちゃん部屋でぐずり出した。 ◇ 「千尋っ!」 立ち上がりかけた私の肩をお母さんが押さえつけると、 「右京はお父さんと話してなさい」 と言い残してダイニングから消えた。私はついに千尋まで奪われてしまった。 「それで、右京は――京都から車で帰ってきたと言うんだな」 「当たり前でしょ! 車で出かけて電車で帰ってくる馬鹿がどこにいんのよ!」 「お父さんは真面目に聞いてるんだ!」 どんとテーブルが叩かれ、食器棚がびりりと揺れる。私はこんな脅しには怯まない。 「何よ。気にいらなければ私を叩けばいいじゃない。遠慮なんかしないでさ」 挑発的な言葉をけしかけたって私は平気だ。別に心が咎めるわけでもない。 私は安全地帯にいる。叩かれるわけがない。私に手を振り上げたことすらないお父さんになんて。 そう、私はお父さんを甘くみていた。 だからこそ、体罰より恐ろしい言葉でお父さんが反撃してくるなんて私は思いもよらなかった。 「……どこまで送ってもらったんだ」 「もちろん家の前までよ。彼ったらとても優しいのよ」さらに挑発する私。 「本当に、その男が運転する車に乗って帰ってきたんだな」 「そうよ。お父さんが私の言うことを信じるならね」 ふうぅ、とお父さんは深い溜め息をついた。 海鳴りのようなその溜め息が意味するところを、私はまだ知らなかった。 「右京、家の回りの様子がいつもと違うことに気づかなかったか?」 「さあ。私には気づかないことなんて数えきれないくらいあるから」 「家のすぐ近くで道路工事をしていただろう? 右京も音は聞いたはずだ」 ――そう言えば。 「右京が工事現場の看板に気づかなくても仕方ないが、工事は金曜から始まって日曜まで続く予定だ。期間 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 65 第十一章 不良少女のミステリー 中は車が通れない。今はまだ土曜の夜だ。それなのに車に乗って家の前まで運ばれてきたと、右京は今しが たお父さんに説明したんだよ」 「だって、本当にそうだったのよ……」 「もう一度聞くぞ。右京は本当に――その男が運転する車に乗って帰ってきたのか? 乗っていたのは本当 に車で、運転していたのは本当に――人間の男だったのか?」 言葉の意味がわからない。わかりたくもない。 こんな言葉、聞きたくない。こんな事実、知りたくない。 怖いよ。 怖いよ、アツモリさん――。 ◇ 「右京はその『男』にどこへ連れて行ってもらったんだ? 「それは……」 隠さず全部言いなさい」 源平の合戦の舞台になった屋島。 平清盛が造営した、宮島の厳島神社。 平家の落人伝説が残る祖谷山。 高松市内に造られた平家物語歴史館。 そして――京都。 「平家ゆかりの地が見事に並んだものだな」 お父さんはもう一度深く息を吐き、 「残るは壇の浦くらいなものだな」 壇の浦。再び持ち上がった、その地名。 「ああ。右京が門司に行きたいと言っていれば、右京は今頃その『男』と壇の浦にいたのかもしれんな」 「……どうして?」 「右京は『耳なし芳一』の話を知っているか」 「!」 私たちが通う学校で『耳なし芳一』を知らない子は一人もいない。 この物語が怪談の範疇を超えてどれほど子供たちを震え上がらせているか、他の人に説明したって絶対に わかってもらえないだろう。 目が見えないばかりに平家の怨霊に取り憑かれたことにも気づかずに、ついには大事な耳までも奪われて しまう――。 「違うっ!」 私は喉も破れんばかりに叫んだ。部屋の向こうで千尋がまた泣き出した。 「アツモリさんは怨霊じゃないよ! だって……だって、あんなに優しいんだよ? 何度も……親切にして くれたんだよ……? それなのに……お父さんは、どうして……怨霊だなんて……違うよ……」 怨霊じゃない。 アツモリさんは怨霊なんかじゃない。 突っ伏して泣き叫ぶ私の背中を、お父さんがそうっと撫でてくれた。 私に思春期の物心がついてから、はじめてお父さんが私の背中に触れてくれた。 ああ、わかっている――。 震える私の背中をさすりながら、お父さんは感情に乏しい声でそう言ったのだった。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 66 第十二章 暗闇の世界、光の世界 第十二章 暗闇の世界、光の世界 次の日、お父さんは私を自分の部屋に呼び寄せた。 鳥籠が置いてあった机の横に、私がすぐに使い始められるように用意されたパソコンがあった。その日は 朝から晩までお父さんが私に付きっきりでパソコンの簡単な使い方を教えてくれた。 画面を読み上げる機能を持ったパソコンが私をインターネットの世界に連れ出した。そこには私の知らな いことがいくらでも書いてあった。 検索方法を私に教えたお父さんは、アツモリさんのことを私に調べさせた。 お父さんはいろんなヒントを出してくれたけれど、結局私には何も見つけられなかった。 日が暮れる頃になって、お父さんは一つのページを開いて私に読ませた。 そこには彼に関するすべての情報が余すところなく記されていた。 その夜、私はアツモリさんに電話をかけた。 来週行きたいところがあるので、私を案内してください。 それだけを伝えて、私は電話を切った。 週末はすぐにやってきた。 私はいつものように車の助手席に座り、カーステレオのギターを聞き流していた。 気のせいか少し饒舌なアツモリさんは時折りペットボトルに手を伸ばしつつ、これから渡る橋の名前を一 つずつ私に教えてくれた。 素敵な日常になりかけていた、特に変わったところのないドライブだった。 けれど、今日はお別れの日だった。 二人は住む世界が違う――。 パソコンの前で肩を落とす私に、お父さんはそんな宣告を下した。 文字どおりにしか解釈できないその言葉を、私はただ黙って受け入れることしかできなかった。 ◇ 「右京が教えてくれた住所だと、このあたりになるな」 「近くに公園はありますか?」 「ああ、目の前……じゃない、すぐそばにある。俺が案内しよう」 アツモリさんと手を取り合って、私はゆっくりと住宅地を歩く。 私が住んでいた街。とても――とても美しかった街。 「どうだ、覚えているものがあったか」 「わかりません。昔と何もかもが変わっちゃったみたいで」 私は正直にそう答えた。 九年前、私は神戸のこのあたりに住んでいた。 私の記憶にあるのは九年も昔の、しかも輪郭のぼやけた街の情景しかない。 震災後の街がどう変わったのかを私は知らない。 それに。私の感覚で得られる情報は、どう工夫したって当時の記憶とは重なりようがない。 あの頃の私は、手探りで道を歩いたりしなかったのだから。 歩いてすぐのところにある児童公園にはブランコがなかった。 私をベンチに座らせたアツモリさんは、少し横向きになるように私の隣に腰を下ろした。あの温かい背中 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 67 第十二章 暗闇の世界、光の世界 が私の背中と触れ合った。 「アツモリさん、ここは――神戸はいいところですか?」 「俺は好きだな」 「このあたり、昔は一の谷という合戦場だったんですよね。合戦場の正確な場所は今もよくわかっていない そうですけど」 「ああ、人の記憶はうすれていくものだからな」 「私、やっとわかったんです。アツモリさんが……いいえ、あなたがどうしてアツモリと名乗っているのか を」 私がお父さんにアツモリさんの名前を告げた時、お父さんは真っ先に織田信長の舞で知られる「敦盛」を 思い浮かべたのだそうだ。 だが、織田信長は平家とは関係がない。 たいらのあつもり お父さんと一緒にパソコンを使って調べた末に、私はついに一人の人物―― 平 敦 盛 にたどりついた。 もちろん、私の隣にいる人は平敦盛ではない。そのことを私に教えてくれたのもお父さんだった。 「どうしてあなたは――弟さんの名前を騙ったりしたんですか?」 「敦盛が死んだのは数え年で十六の時だった。そう――ちょうど右京と同じ年なんだ」 「弟さんは一の谷の合戦で戦死したんですよね。そして――あなたも」 平家ゆかりの人物である彼を特定する情報は全部で四つあった。 に ん な じ まず、彼が男色に詳しかったこと。幼い頃に稚児として仕えていた京都の仁和寺で彼が寵愛を受けていた という記述が『平家物語』に見つかった。 次に、彼が弦楽器――特に琵琶の使い手であったこと。これも『平家物語』のエピソードだ。 三つ目は、京都と神戸に詳しいと彼自身が言っていたこと。彼が京の都で生まれ一の谷の戦いで死んだと いう史実と完全に符合する。 そして最後にアツモリという名前。彼は――そう、平敦盛の実の兄なのだ。 ◇ たいらのつねまさ 「あなたの正体は、 平 経 正 ――。そうですよね?」 「とうとう、右京にばれちゃったな」 アツモリさんは、いや、彼はそう言ってきまり悪そうに笑った。 「俺はこの世に未練があったんだな。 『人間五十年』の敦盛のほうがよっぽど人生を達観しているよ」 ツ・ネ・マ・サ。 四・四・四・三。 「あなたはラッキーネームじゃないんですね」 「俺たちの時代に点字はなかったからな」 彼はまた笑ったけれど、それからしばらく二人とも黙っていた。 「右京のことは、生まれた時から知っていたよ」 「そうだったんですか」 「右京は――俺が暮らした地で生まれ、俺が死んだ地で大きな怪我をした。そんな右京のことを俺はずっと 気にかけていた。それでも、右京に手を貸すつもりはなかった。暗闇を手探りで歩く君を、右京を、俺は遠 くから黙って見守っていくつもりだった」 「それ、嘘でしょう?」 その言葉を口にしたら、私の背中が小さく震えた。 「だったら、どうして……あなたは私に手を貸してくれたんですか?」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 68 第十二章 暗闇の世界、光の世界 「――小鳥の声が、聞こえたんだ」 彼はベンチから立ち上がり、引きずるような足取りで私のまわりを歩いていた。 「その小鳥はあと少しで大人になるところだった。いっぱいに背を伸ばし、一日も早く大人になろうとして いるみたいだった」 私はうつむき、だだをこねるように首を振った。 「小鳥には大きなハンデがある。大人になっても飛べないかもしれない。歩くことすら難しいかもしれない。 それでも懸命に羽ばたこうとしていたんだが――少しだけ力が足りなかった。その時、俺は小鳥の声を聞い たんだ」 「小鳥は、 」今度は私の声が震えた。 「その小鳥は、大人に……なりましたか……?」 「右京、人間は小鳥とは違う。人間は小鳥のように一週間で大人になんてなれない。ブランコのように行っ たり戻ったりを繰り返して、少しずつ大人になっていくものなんだ」 「…………はい」 人の顔を見られないことが、こんなにもどかしいと思ったことなんてなかった。 けれど、彼の顔を見てしまったら、私の感情はきっとばらばらに壊れてしまう。 「右京、君はこれから大人になるんだ。大人になって、君の世界を生きていくんだ。俺は――暗闇の世界か ら君を見守っていくよ」 「暗闇の……世界……」 二人は住む世界が違う。 つねまさ 古典芸能に『経政』という能楽の作品がある。それをお父さんが調べて私に教えてくれた。 名前の漢字は違いこそすれ、平経正が主人公なのはストーリーを追えばわかる。 平経正を弔う法事の席に本人の霊が現れる。経正の霊は得意の琵琶を弾き、舞を踊って遊びを楽しむ。 しゅらどう ところが、修羅道の苦しみが突然彼を襲う。永遠に戦いが絶えることのない修羅道に苦しむ自分の姿を人 に見られるのを恥じた経正は、灯を消して暗闇の世界へと消えていく。 暗闇の世界へ――。 「お別れだな、右京」彼が言った。 「君と一緒にいられて楽しかったよ」 もうどんな言葉も出せなかった。どんな表情も作れなかった。 私はベンチに腰を下ろしたまま、両手に顔をうずめてしくしくと泣きつづけていた。 「いいかい、君が歩くのは暗闇の世界なんかじゃない。光の世界だ。戦いのない、平和な――光の世界だ。 だから、君をこれから光の世界に返す」 彼は泣いている私の手を取り、その上に小さな丸い錠剤を置いた。 酔い止めだと言って飲まされた薬。甘くて苦い、破れた初恋の味がする薬。 その薬を、私は押し込むように飲み下した。 あふれる涙と、そしてもう二度と言えなくなった言葉と一緒に。 あなたが、好きでした――。 私の意識が深みに引きずり込まれる直前に、柔らかいものが私の唇にそっと触れた。 神戸の水の、味がした。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 69 終章 飛べない小鳥は、歌をうたう 終章 飛べない小鳥は、歌をうたう 「お姉ちゃん! ここ、足元に気をつけてね!」 千尋が元気いっぱいの声で叫び、勢いよく私の手を引く。 「ちょっと、あんまり急がないでよ」 私の言葉は単なるポーズだ。五歳の子供の歩幅なんて急いだところでたかが知れている。 今日は大勢の観光客が船に乗っているようだ。宮島はちょうど紅葉の季節だが、私たちは紅葉狩りに来た のではない。 今日は妹の千尋を連れて、他の人と同じものを見るために――そう、見るためにこの島を訪れたのだ。 手を摑まれて歩くのは今も苦手だけれど、千尋なら全然構わない。 千尋はオクラホマミキサーのように自分の腕を肩口のところまで上げてくる。私を気遣ってのことだろう が、それでは千尋が疲れてしまう。 「ねえ、もっと普通に手を引いていいわよ」 「それじゃお姉ちゃんが前かがみになって大変でしょ? ……そうだ、こうすればいいのよ!」 そう言うと千尋は私の手を持ち上げて自分の頭の上に置いてしまった。 だめよ、と私は千尋を保母さんのような口調でたしなめる。 「手が滑って、私の指が大事な千尋の目に入ったらどうするの」 「大丈夫よ。そんなことにならないように、この帽子を買ってくれたんでしょ?」 ……ま、いいか。 頼んだわよ、子雀。 千尋は右京の小さい頃にそっくりよ。 お母さんにそう言われるのが恥ずかしくて、私は最近サングラスで目を覆い隠すようにしている。 私には千尋の顔を確かめる術がないけれど、雀の尾のように千尋の背中でぴょんぴょん揺れる長い髪だけ は本当に私にそっくりだ。あと半年もすれば千尋の髪も腰あたりまで達するだろうか。 「お姉ちゃん、私たちはどこへ行くの?」 私が手を乗せている野球帽の下から千尋が不安げに聞いてくる。 「この参道の先に赤い大きな鳥居が見えるでしょ? 鳥居の正面に本殿っていう建物があるの。これから私 たちが行くのは、その本殿の先にある宝物収蔵庫よ」 妹の可愛らしい歩みが一瞬止まる。 「お姉ちゃん……見えてるの?」 「ううん、全然。だから、千尋はお姉ちゃんをしっかりと案内してね」 私はこれからも覚束ない足取りで歩いていくのだろう。 だけど私は歩くのを恐れない。 あの日、勇気を出して外に出なければ、私はあの人には会えなかった。 五年の間に、いろんなことがあった。 高松を離れる日、私は親友と抱き合ってわあわあ泣いた。 彼女の胸が私と大して違わないことがわかり、私のコンプレックスは少しだけ解消した。 引っ越し先の町は坂道が多く歩きづらかったけれど、そのぶん目印も多かったので道を覚えるのは早かっ た。海の近くにあるところがどことなく高松に似ていた。 千尋は成長するにつれてやんちゃぶりを発揮し、散々私を悩ませた。 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 70 終章 飛べない小鳥は、歌をうたう 私が離乳食を与えようと苦戦している時に千尋が突然「ねーねー」としゃべった。千尋のはじめての言葉 を聞いた私は、離乳食のスプーンを握ったまま袖を顔に押し当てて泣いた。 パソコンは完全に私のものになった。 食料品を買うのも物語を読むのもインターネットでできるようになった。 携帯電話で電子マネーを使うようになり、コンビニで小銭をまき散らすこともなくなった。 私は光の世界を歩いている。 そこは世界の隅っこだけど確かに世界とつながっていて、人の温もりを感じながら一日一日を生きている。 失ったものも多かったけど、得たものはさらに多くて。 ブランコのように行ったり戻ったりを繰り返して。 そして―― 私は、大人になった。 もちろん空なんて飛べないけど。 それどころか上手に歩くことだってできないけど。 だから私は、歌をうたう。 ◇ 入館料を払って宝物収蔵庫に入りかけたところで、受付の人が私を呼び止めた。 いいんです、皆さんと同じものを見ますから。 私はそれだけを言い、先へ進むようにと千尋の背中を押した。 へいけのうきょう 厳島神社の宝物収蔵庫では平家納経が展示されている。 常時展示されているのはレプリカだが、年に二回、春と秋には国宝中の国宝といわれる平家納経の本物が 一般公開される。 私はこれを見るために宮島へ来たのだ。私の目の代わりをしてもらうために、幼い妹も一緒に連れて。 「ねえ、千尋。ちょっとお願いしてもいいかしら?」 「なあに、お姉ちゃん」 「この部屋にね、細長い紙がいっぱい並んでいると思うの。千尋には見えるわよね?」 「うん」 「それじゃ、その中から千尋が一番綺麗だと思ったものを選んで、お姉ちゃんをそこまで連れてってほしい の。できるわよね?」 「うん、わかった!」 その元気な返事を聞き終わるより早く、千尋は私の手元から消えてしまった。 またすぐに戻ってきた千尋は「こっちよ!」と言いながらぐいぐいと私を引っ張って行く。 「これが一番好き。お姉ちゃんだって絶対にそう思うわよ」 「……どうして千尋はそう思うの?」 「綺麗な服を着た、髪の毛が長い女の人の絵があるの。お姉ちゃんにそっくりなのよ!」 「それ、本当にそっくりなの?」 「うーん……お姉ちゃんのほうがちょっとだけ美人かも」 幼稚園児の審美眼は何だか心もとない。それでも我が妹は私の目の役割を立派に果たしてくれた。 だから私は信じることにする。この巻物がきっとそうなんだ。 「何が?」 「お姉ちゃんはね、この巻物を書いた人を知ってるの」 「ほんと?」 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 71 終章 飛べない小鳥は、歌をうたう 「本当よ。とっても――優しい人だったのよ」 でも、もう会えないけれど。 全三十三巻からなる平家納経は、栄華を極めた頃の平家一門の男子が一巻ずつを受け持って写経したと伝 えられている。 誰がどの巻を手掛けたかはほとんどわかっていないし、私が生きている間にそれが詳らかにされることも ないだろう。ただ、三十三人が誰であったかはほぼ解明されている。 その中に、平清盛の甥にあたる平経正の名も含まれていた。 文武に秀でた、平家の若き貴公子。 芸術をとりわけ愛した彼のことだから、必ずや最も美しい一巻を仕上げたに違いない。 だから、千尋が選んだこの巻物こそが彼の手によるものだと、私はそう信じる。 ねえ。私のこと、ちゃんと見守ってくれてますか? 五年前に、愛とは何かを私に教えようとしてくれた人がいましたよね。 私、やっとその答を見つけたんです。 だから、私は愛の歌をうたうことにしました。 美しく生き、美しく戦い、美しく散っていった平家の人たち。 この国が世界に誇れる美しいものを、後の世に残してくれた平家の人たち。 あなた方のことを物語に託して、私は人々に語り継いでいきます。 戦いのない、平和な、光の世界で。戦いの悲しさと、愛の優しさを。 二十一世紀の琵琶法師に、私はなります。 あなたが愛した琵琶の音を、私の胸の奥で静かに奏でて――。 「千尋、ちょっといい?」 私が呼びかけると、千尋はいつも素直に「なあに?」と答える。 「千尋は、お姉ちゃんのお話を聞くのは好き?」 「うん! だーい好き!」 「お姉ちゃんね、お話を読み聞かせる仕事をすることにしたんだ」 「へーっ! お姉ちゃん、すごいね!」 「ふふっ。それでね、今日はとっておきのお話を聞かせてあげようと思ってるの」 「えっ? なになにっ? 聞かせてっ!」 ちょっと待っててね、千尋。お姉ちゃん、涙が出てきちゃった。 だって、私の最初の物語はどうしても千尋と――あなたに聞いてほしかったから。 えっ、どんな物語なのか聞きたいって? それはね――。 《了》 飛べない小鳥は、歌をうたう / 藤原 平城 72 飛べない小鳥は、歌をうたう 藤原 平城 ©2010 Fujiwara Heijo
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