金井 彩香 (739KB)

12. 研究活動
12. 研究活動
伝統、医学、そして母性
12.
研究活動
‐ポスト・ヴィクトリア朝イギリスの女性をめぐる医学事情‐
Tradition,
Medicine, and Motherhood
12.1 研究活動報告
-Post-Victorian Medicine for Women本学専任教員ならびに客員教員による平成 25 年度の研究活動については次のとおりです。
金井彩香(KANAI Saika)
Tel & Fax: 0123-27-6026
E-mail: s-kanai@photon.chitose.ac.jp
梅村信弘 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 99
坂井賢一 ・・・・・・・・・・・・・・・ 115
The early
twentieth-century
England was
enough for
mothers to place their
江口真史
・・・・・・・・・・・・・・・・
101 not mature
谷尾宣久
・・・・・・・・・・・・・・・
116lives in its
hands.
Because women
were obliged 102
to give birth to長谷川誠
healthy babies,
medicine should
have been able
王建康
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
117
to play
a major role
in supporting them.
between
the remarkable progress
of
大越研人
・・・・・・・・・・・・・・・・
103However, caught
平井悠司
・・・・・・・・・・・・・・・
118
modern
medicine・・・・・・・・・・・・・・・・
and the primitive medicine
of the福田誠
Victorian era,
women were the primary
victims
小田尚樹
104
・・・・・・・・・・・・・・・
119
of undeveloped gynecological medicine. As in the Victorian era, the risk of childbearing still
小田久哉 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 105
山林由明 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 120
threatened women in twentieth century.
カートハウスオラフ ・・・・・・ 106
吉田淳一 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 121
金井彩香 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 107
李黎明
・・・・・・・・・・・・・・・・ 122
20 世紀初頭、イギリスでは、近代医療への発展の影に、女性たちは未だ伝統医療の名残
唐澤直樹 ・・・・・・・・・・・・・・・ 110
に苦しめられていた。新世紀に入り、近代医療への発展が目覚ましい一方で、ヴィクトリ
川辺豊 ・・・・・・・・・・・・・・・ 111
ア朝時代の伝統に支配された非科学的医療が根強く残っていた。また、婦人科医療、産科
木村-須田廣美 ・・・・・・・・・ 112
専門医の発達は遅れ、女性をめぐる医療事情は厳しいままであった。そして、そんな時代
小林壮一 ・・・・・・・・・・・・・・・ 113
に多くの女性たちが翻弄され、健康と身体、そして人生を犠牲にされてきた。確かな発展
小林大二 ・・・・・・・・・・・・・・・ 114
の裏側で、伝統や迷信に支配された未熟さは、また当時の医療の現実であった。
20 世紀初期のイギリスの医療は、ヴィクトリア朝の未熟さと新世紀のめざましい発展の
狭間にあった。ヴィクトリア朝の家庭医に依存した非科学的な医学の伝統は、その中期を
過ぎても根強く残っていた。この時期、免疫学、内分泌学、遺伝学、神経生理学などが、
医科学の下の専門分野として生まれた。破傷風やジフテリヤなどの治療法である血清療法
の確立、脚気の治療研究からビタミンの発見、糖尿病治療の研究が進んだのもこの時期で
あった。また、医療の現場でも、診療装置を備えた検査室を用いたり、「効く」薬の開発が
進んだりと進化を遂げつつあった。
しかし、そうした大学や研究所の促進する先進的・科学的な医学に対する反動として、
ヴィクトリア朝期から続くヒポクラテスの理想は、第 2 次世界大戦 (1939-1945) 頃にまで
影響をのこした。中世・ルネサンス期を経て 19 世紀に至るまでの長い間、系統だった診察
法が導入される前の理想の医者とは、患者の体に触れて診ることはしない、むしろ書物か
ら得た知識が、経験、記憶、判断力そしてマナーのよさを兼ね備えた男性を指した。加え
て、イギリスでは、1911 年に National Insurance Act が施行され、初期医療は家庭医に委ねら
れたまま、進化する医療技術や医療知識の革新からも取り残された。
そんな時代において、婦人科医療は 20 世紀に至っても、発展する病院や研究所での医学
とは一線を画し、未だ伝統や迷信の中で差別や偏見に満ちたものであった。そして、その
ことが、産科医療における、専門医の整備の遅れ、高い出産死亡率や病気の発生に少なか
らず影響をおよぼしたといえよう。そもそも婦人科医療は、長きにわたって「女性である
こと」そのものと密接な関わりの中にあり、病気や症状に加え、女性そのものを扱う医学
としてみなされてきた。婦人科医学と女性の社会的地位との関連付けについて、Christopher
Lawrence は次のように述べる:
- 107 - 98-
12. 研究活動
12. 研究活動
The language and practice of gynaecology demonstrated to Victorians, on a day-to-day basis,
the enormous determining power of the female reproductive part. From this determinism
flowed naturalistic prescriptions which defined the role of middle-class women in Victorian
society. Women who revolted against that role were deemed to have gone against their nature,
perhaps involuntarily, through a disorder of their reproductive physiology. (61)
活動については次のとおりです。
・・・・・・・・・・・・ 115ヴィクトリア朝時代から受けいれられてきた女性の性質とそれに基づいた社会的役割は、
・・・・・・・・・・・・ 116女性の生殖システムに根付いたものであった。また同時に、Ornella Moscucci のいうように、
・・・・・・・・・・・・ 117婦人科医学は、その女性全体の研究であり、「身体的」「心理的」そして「女性らしさの倫
・・・・・・・・・・・・ 118理的側面」を融合させるものであった (103)。そして、そうした考え方の表れとして、たと
・・・・・・・・・・・・ 119えば、19 世紀半ばにおいてさえも、女性の性欲が狂気の要因であるとして性器の一部を切
除したり、多くの婦人科医が、月経困難、子宮筋腫、初期の狂気やてんかんの治療のため
・・・・・・・・・・・・・ 120
健康な卵巣の除去を主張した (Moscucci 105)。また、出産が精神疾患の要因だという診断が
・・・・・・・・・・・・・ 121
なされることもあった (Loudon, “Puerperal”)。さらに、19 世紀末には、産婦人科医は、精神
・・・・・・・・・・・・・ 122
施設のスタッフとして任命され、女性の精神疾患の診療への日常的に婦人医学的検査を取
り入れることが推奨された。このように、婦人科医学は、生殖器官など女性に特化した身
体部分と「女性の精神」
「女性らしくあること」など女性が生きること全体を扱う医学分野
として女性を扱ってきたのである。
こうした伝統と混沌とした医学事情の間で、婦人科医療の中核をなす産科医学は、医療
分野としては新しくもあり、専門分野として長く軽視されていた。それには、18 世紀初期
まで、出産は社会的イベントの一部として伝統的に妊婦とその家族や友人の女性たちによ
ってとり行われていたという背景がある (Loudon, Western 206)。そんな歴史の中で、19 世紀
には男性助産師が出現し、また一般開業医も家庭医の役割の一環として出産を担うように
なったが、一方で産科を専門とする医師による病院での出産はなかなか一般化されなかっ
た。Irvine Loudon は、1880 年のイギリスとウェールズにおける全出産のうち 96%が、1938
年になってもその 75%が、家庭で助産婦もしくは一般開業医によって取り上げられていた
ことを指摘する (1980 年では 1.2%が家庭) (Western 213)。当時存在したおもな出産病院は、
慈善活動もしくは教育のための象徴としてしか機能していなかった。さらに、助産師や開
業医としての男性が出産にかかわるようになったという事実の裏には、医学界での産科と
いう専門分野の発達の遅れという事実がある。助産のような仕事は、大学教育を受けた紳
士には、相応しくないとみなされたのだ。産科を軽視する態度は、イギリス最古の医学機
関 Royal College of Physicians といった権威ある機関でも同様であった。1930 年代になって
も、依然、産科医学の実習は短期に終えられ、外科学や病理学といった「本来の」医学を
学ぶことを奨励された。こうした事実は、助産師については、1902 年の The Midwives’ Act
以降、認定や教育環境の整備が積極的に進められてきたことと対比される (Lane 126)。
そうした医学界の産科医療の実状において大きな問題のひとつであったのは、20 世紀に
はいっても未だ高く維持された出産死亡率であろう。出産死亡率の最大の原因のひとつは、
産褥熱であった。1930 年代以降の出産死亡率の低下も、感染症治療薬スルホンアミド、輸
血、ペニシリンなどの導入を以ってこの感染症を克服できたことが大きな要因のひとつと
考えられている (Chamberlain 559-60)。また、この出産死亡率において、特徴的なのは、下
流階級よりも中流・上流階級の出産死亡率が高い点である。それは、前述の産科医学とい
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