天国と地獄 シリーズ6 20130324

十字架の対照的な二つのもの
シリーズ 6
棕櫚主日
天国と地獄
2013 年 3 月 24 日
説教者:芳賀弥男
世の中の多くの宗教は、人間が死んだ後について明確に伝えていません。または、死後の世界についての教えは、変化します。
それは人間の教えだからです。生きている人間にとって、死後の状態は未知のものなので知る由もありません。しかし、神の言葉
である聖書は、天国と地獄という二つの場所の存在について一貫して教えています。その存在だけではなく、どのような人がそれ
らの場所に入ることになるのか、それはどんな場所なのかもはっきりと教えています。残念なことは、私たちにとって未知の事柄
は、既知の事柄によってたとえられなければまったく想像することもできません。たとえば、
「夏の高校野球の試合中の選手たちの
体感温度は、サウナの中で野球をやっているかのような暑さです。
」と言えば、そのような経験したことのない人でもある程度想像
できるでしょう。ですから、未知の状態である天国と地獄は、象徴的、比ゆ的な表現によって表されるしかないのです。
私たちは今日の説教で、ゴルゴタの丘の 3 つの十字架とそれらに架けられた人たちから、対照的な天国と地獄の情報の一部を思
い巡らしましょう。
地獄の苦しみ
地獄の苦しみはどれほどひどいのでしょうか。聖書では「永遠に火で焼かれる」
「永遠に真っ暗闇」という表現で、地獄の永遠の
罰を描写しています。地獄に入る人も、終わりの日によみがえり、朽ちない体を持って地獄に入ります。この場合、朽ちない体を
与えられることは悲劇です。たとえ火で焼かれても、その罰が終わらないからです。永遠に苦しみ続けるのです。
しかし、実際に地獄で火によって焼かれ続けるかと言えば、おそらくそうではないでしょう。人間ならば、誰もが火に触れる経
験をしたことがあると思います。ですから、その痛みが永遠に続くことは、誰でも想像しやすいです。また、真っ暗闇は全ての人
間が恐れる状態です。長い時間、暗やみにいると人間はおかしくなるようです。小さな子供でも、真っ暗闇を一人で歩くことを想
像するだけで恐ろしくなると思います。ちょうどイエスが十字架にかかった時にも、全地が 3 時間暗やみに包まれたことも、この
地獄の恐ろしさを表現しているようです。つまり、神は私たちの日常生活の身近なものによって、地獄がどれほど恐ろしい場所で
あるかを教えてくださっているのです。そして、私たちが地獄を安易な場所と考えないようにさせ、地獄の永遠の罰からの解放を
求めるようにさせているのです。それも、神の愛の厳しさです。
しかし、聖書の中の文字だけではなく、十字架に架けられたイエスは、地獄のもっとも酷い苦しみを視覚的に私たちに示してい
ます。地獄の苦しみは、イエスが経験した十字架上での、のどの渇き、釘で貫かれる痛み、鞭で肉をそがれる痛み、民衆のあざけ
ると侮辱と辱めを受けること、そして肉体的な死ではありません。地獄の苦しみの本質は、イエスが十字架の上で叫んだ 4 つめの
言葉にあります。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私わたしを見捨てたのですか)」(マタイ
27 章 46 節)と叫びました。 つまり、神に見捨てられることが、永遠の苦しみの根本的な問題です。もっともあわれみ深い神、
愛深い神、どんな罪人さえも愛してやまない神が見捨てるとは、いったいどんなに恐ろしい状態なのでしょう。私たちも日常生活
で〈見捨てられる〉ということが、どれほど辛いことかを知っていますが、その比ではないのです。火で焼かれるのも、暗やみに
閉じ込められるのも苦しいですが、神に完全に見捨てられるほどに苦しいことはありません。
このように、地獄ではもはや全ての希望、助かる見込みがなくなります。一滴の慰めと癒しもありません。それは地獄で苦しん
でいる、あるお金持ちが教えています。
「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やす
ように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。
」(ルカ 16 章 24 節)
彼のわずかな望みすら、
かなえられませんでした。(日本の「くもの糸」のように、地獄から天国に行くことはできません。)
しかし、これらの情報は、イエスが受けた苦しみを正しく伝えていません。なぜならば、イエスはあなただけの永遠の罰を代わ
りに受けたのではなく、過去、未来、全人類の永遠の罰を代わりに、完全に負ったからです。まさしく、このような任務は神にし
かできません。そして、その罰に対して神であるイエスですら、うめき、汗を流し、悶絶しながら「父よ。みこころならば、この
杯(神の怒り)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ 22
章 42 節)と言わせたほどに恐ろしく、苦しいのです。この受難節に、私たちはイエスの苦しみを思い巡らすとき、罪の罰、そして
地獄での永遠の罰を恐れ、それを回避する唯一の方法を再確認し、求めるべきなのです。
地獄に入る人
では、どんな人がこんなに恐ろしい地獄に入り、永遠の罰を受けるのでしょうか。それは全ての罪人です。罪人とは神の御言葉
に背く全ての人です。罪人は心と言葉と行いにおいて、罪を犯します。一つの罪でも永遠の罰に値します。人間が神に背く訳です
から、それは正当な裁きです。しかし、ゴルゴタの丘の真ん中の十字架で、その罪の罰を全て一身に負ってくださっているのがイ
エス・キリストです。イエスは全ての罪人の罪が赦されるために、ご自身を犠牲にしてそれらの罰を受けているのです。イエスの
上に、全ての罪の罰は処されました。ですから、執行された全ての罪は、もう問われないはずです。
しかし、このイエスの好意を受け入れない人はどうなりますか? その人はせっかく自分の罪の罰を負ってくださると言う方を拒
否したので、その罪の罰はその人に与えられます。聖書でも「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの
御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒 4 章 12 節)と
あるように、イエスの他にあなたの全ての罪の罰を身代わりに負うことをすすんで引き受けてくださる人も物も約束もありません。
唯一の神だけがそれを約束し、成し遂げてくださいました。ですから、私たちの罪の罰を取り除くイエス・キリストを信じず、拒
む者が、自分の罪のせいで地獄での永遠の罰を受けるのです。この基準で全ての人が裁かれるのです。この世でたくさん罪を犯し
た人でもなく、ひどい罪を犯した人でもありません。それは難しい要求でしょうか? いいえ。もっとも簡単な要求です。苦行や、
供養、受験、試験よりも簡単な方法です。要するに地獄で苦しむ人は、あなたの身代わりとなってくださる方であるイエスを拒む
全ての人なのです。実際にそれはイエスの十字架の隣で十字架にかけられていた一人の犯罪人がその一人です。彼は隣で救い主が、
自分の罪の罰を負ってくださっているにもかかわらず、イエスをあざけり、最後まで受け入れませんでした。
天国とはどんなところ
聖書では天国についての描写もたくさん書かれています。地獄と同様に、この世の言葉と事例で天国の栄光は正確に伝えられま
せん。ですから、唯一天国に行って、見て、戻って来たパウロも、天国について語ることを許されませんでした。(2 コリント 12
章 1-5 節) 神は天国の状態を「ある」
「ない」という描写でシンプルに教えています。死、悲しみ、労苦、病気、罪、あらそい、悪
魔、別れ、暗やみ、太陽や月、敵がありません。そして、永遠の命、イエスの栄光が天国の全てを照らすこと、真の喜び、真の平
安、完全な神の愛、神の用意する最上な物、私たちの住まいがあります。さらに、私たちはそこで奴隸でもお客でもなく、
「こども」
として受け入れられるのです。父なる神の物は、私たち子供の物として相続されるのです。全能であり、真の愛である神ご自身が、
私たちのために永遠に仕えてくださるのです。そこは私たちが期待するいかなる状態よりも、この世のどんな喜びや楽しみよりも、
はるかに勝っています。天国で天使たちと全ての人は神を力と知恵を尽くして永遠に賛美します。神はそれほどのことをこの地上
でも天国でも行なってくださることを知るからです。(仏教が教えるように、天国から地獄に落ちることもありません。)
天国に入る人
十字架に架けられたもう一人の犯罪人は、自分の罪を悔い、隣で自分の罪の罰を負っているイエス・キリストを自分の救い主と
して謙虚に受け入れました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ 23 章
42 節)
イエスは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。
」と答えてくださいました。
ですから、墓参りをしたり、仏壇に供え物をしたり、供養すること、修行やお参り、聖遺物を拝礼すること、神に祈ることは天
国に入るためにまったく必要がありませんし、役に立ちません。また、この世での善行や悪行が天国に入るための基準にもなりま
せん。ただ、神の恵みとイエスの働きの故なのです。ですから、私たちが天国に入る時、ご自分の全てを捨ててくださったほどに
私たちを愛する方を誉めたたえずにはいられないのです。
「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それ
はすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。全ての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。
」(ローマ 3 章 22-24 節) キリストが
あなたの代わりに天国に入国する基準に合格してくださいました。キリストがあなたの代わりに罪のために罰されました。天国へ
の永住権は、このキリストによって無条件で、無償で与えられているのです。自力で得るものではないのです。私たちはそれをた
だ信じて受け入れるだけなのです。
ちょうど今は受験のシーズンが終わりました。学生たちには、いくつもの進路の選択肢がありました。しかし、人間には死後の
選択肢は二つしかありません。どちらに入りたいですか? 天国に入るために、聖書を猛勉強し暗記する必要はありません。入学金
も学費も手続きも必要ありません。制服も買う必要がありません。全ては、私たちを愛する主イエスが用意してくださいました。
私たちは謙虚に、素直にこの方を受け入れ、共に賛美しましょう。アーメン