10月5日 礼拝説教 詩篇 46 編「静まって神を知る」 はじめに 詩篇 46 篇は「神への信頼」と「勝利の信仰」を歌ったものです。表題を見ればコラの子たちによっ て歌われた歌であることが分かります。コラという人はかつてモーセに反逆した人物で罪の故に神の裁 きを受けました。ところがあわれみ深い主は、その子どもたち、その子孫を主に仕える者、レビ人とし て用いてくださったのです。コラの子たちは誰よりも主のあわれみを覚えて賛美の奉仕をしたのです。 主はわれらの避け所 1~3節は「主はわれらの避け所」と歌い、すぐそばにある助け主である主、力を与えてくださる主 を見上げて歌っています。人生には困難や病などいろいろな問題が起こります。 (2,3)その出来事 は余りに大きくて自分たちの手に負えないこともあります。キリスト者は決して人生の困難から逃げる わけではありませんが、避け所が必要です。避け所とは安全な場所です。シェルターのように守ってく れる場所です。マルティン・ルターは、この詩篇 46 篇を通して大いに励ましと力を得て宗教改革を成 し遂げました。讃美歌「神はわがやぐら」 、聖歌「み神は城なり」はこの詩篇から生まれた賛美です。 神はあなたのすぐ近くにある助けです。その助けは信仰のない者には見えないので気がつかないかも知 れません。主に霊的な目を開いていただきましょう。そして目を上げていと近き助けである神の御名を 叫び求めましょう。今日、神ご自身が確かな避け所となってくださいます。 休息(セラ) この詩篇には 3 箇所「セラ」という言葉が記されています。 「セラ」とは休止、休息という意味があ ります。 「セラ」という指示は今まで歌い、賛美し、告白してきたことを思い巡らすための「間」でも あります。立ち止まり、振り返り、神の恵みを思い巡らす「間」です。こうした思い巡らしの「間」は 決して無駄な時間ではありません。み言葉をじっくり味わうときであり、次に進む力を得るときでもあ ります。 私達の人生にも「セラ」が必要です。日曜日の礼拝は一週間の区切りをつけるという点で大 切な時です。またこの安息は主イエスを避け所とする時に与えられます。主イエスは魂の安らぎを与え てくださいます。 (マタイ 11:28) 「セラ」という言葉の背後に主イエスの招きを見ることができます。 静まって神を知る 10 節の「やめよ」と言う言葉はいろいろな言葉に訳されています。口語訳聖書では「静まって」 、新 共同訳では「力を捨てよ」となっています。これは人間的な作戦や馬や戦車という武器に頼らず、主に 信頼するようにと言うことです。 (イザヤ書30:15)10 節は「 」でくくられています。これは誰 が誰に向かって語られた言葉でしょうか。神ご自身が敵に向かって、直接的には外国の軍隊に向かって 語られた言葉と見ることができるでしょう。万軍の主が「私に敵対するな。無駄な抵抗は止めなさい。 あなたたちに勝ち目はない。 」と宣言しているのです。あるいはイスラエルの人々に語った言葉として も受け取ることが出来るでしょう。イザヤがユダの王や民に「落ち着いて主に信頼せよ」と語りかけた メッセージが反映しているのかも知れません。 私たちは今日、このみ言葉を自分自身に語られた言葉 として受け取りたいのです。動揺し、恐れる心、自分の力に頼る生き方を捨てなければなりません。落 ち着いて万軍の主に頼ってください。そして「万軍の主はわれらとともにおられる」と勝利を宣言して ください。 おわりに あなたの人生にどんなことが起きようと神を避け所とするなら安全です。大水が押し寄せても、逆巻 く波が襲ってきても、敵が攻め寄せても万軍の主がともにおられます。神は苦しむときそこにある助け です。落ち着いて、静まって主を見上げましょう。主に信頼するならあなたも驚くべき主のみわざを見 ることができます。
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