短期研修・それぞれの 異文化体験

短期研修・それぞれの
異文化体験
留学はオハイオ大学でけではありません。3 年次の派遣留学や Oxford や
UNE や British Columbia への短期研修もあります。さらに、卒業後もワーキ
ングホリデイや派遣社員として海外で活躍している人、海外で結婚生活をして
いる人もいます。この章では、そのような人達の驚き満載の異文化体験を綴っ
てもらいました。Enjoy!
僕の小歴史:留学、英語学習と仕事
三上仁志
このエッセイでは、留学経験と英語学習が
僕の人生に与えた影響について、短く振り返
ってみようと思う。
僕が初めて留学を経験したのは 18 歳の時
(2004 年)で、留学先はアイルランドだっ
た。当時通っていた高崎経済大学と Dublin
City University(DCU)の間の交換留学制
度を利用して、DCU で 3 ヵ月間英語や一般
の授業を履修した。この留学について特に記
憶に残っていることは、自分の英語力の低さ
に毎日イライラしていたこととケバブという食べ物が美味しかったことだ(当時は日本で
ケバブがほとんど売っていなかったので、留学前には食べる機会がなかった)。帰国後は、
英語力の低さを克服したくて自主的に英語のテレビ番組を見たり英語の本を読んだりする
頻度を増やしていった。
でも、僕が本格的に英語を「勉強」しだしたのは、仕事を始めてからだった。僕が初め
て就職をしたのは 2008 年のことで、この時は MBA(ビジネスの修士号)を英語圏で取る
ことを人生の大目標にしていた。僕は大学で経済学を勉強していたので、MBA=世界で活
躍してお金もちになるための切符というイメージを頭の中に持っていた。そして、この英
語圏で MBA を取得するための条件(の 1 つ)が、TOEFL iBT®や IELTS®といった英語の
テストで良い成績を取ることだった。僕がこれらのテストで高得点を取るためには、意識
的に単語力や文法力を鍛え直す必要があった。最初は留学のためだと嫌々勉強していたの
だが、何回かテストを受けて成績が上がってゆくにつれ、夢が自分に向って近づいてきて
いることが実感できて、次第に英語の「勉強」が楽しくなっていった。
英語の勉強を進める中で、効率的な勉強方法が紹介されている本を何冊か読んだ。その
中の 1 冊では、科学的な勉強方法 ― 人が言葉を覚える仕組を軸にした勉強法 ― が紹介
されていた。その本の著者紹介欄を見ると、著者は、応用言語学という変わった学問分野
の研究者だった。この読書体験から応用言語学に関心を持つようになり、大学院でそれを
勉強してみたいと思うようになった。そして 2010 年の大学院入試に合格したことをきっか
けにそれまで勤めていた会社を退社し、大学院に進学した。
僕は、1 つ目の修士号を名古屋大学の国際開発研究科で取得している。この学科の留学生
比率は 50%を超えていて、毎日普通に英語で会話をしていた(いま考えると、国内にいな
がら留学に近い環境で勉強をしていたことになる)
。この 50%の留学生の多くは、アジア、
アフリカ、アラブ圏などの出身で、学科の雰囲気も随分と国際的だった。1 つ例を挙げると、
大学院生室の隅にイスラム教の人が神に祈りを捧げるための専用スペースがあった。多く
の留学生と仲良くしていた縁で、2011 年から大学院生を続けながら名古屋大学に通う留学
生達が暮らす寮の Residential Assistant(RA)としても働くことになった。RA とは、簡
単にいえば日本語が話せない留学生達が暮らす寮に住み込んで、彼/彼女らの生活をサポ
ートしてあげる係のことだ。RA をやっていた時には、交通事故にあった留学生のために通
訳なんかもしたりして、随分色々なトラブルに対処していた。
そんな生活を続けながら、
2012 年に国際開発研究科の博士課程に進学した。この頃には、
自分の名前を売るために学会発表を英語でこなし、論文もなるべく英語で書くようになっ
ていた。この活動のおかげで英語が出来るという評判が立ち、ある時、医療通訳の仕事を
依頼された(そして引き受けた)
。僕には医療の知識なんてほとんどなかったが、とにかく
出来るだけの備えをして 2 週間の仕事をこなした。この時の仕事がきっかけで、定期的に
通訳の仕事も依頼されるようになった。もちろん仕事自体は大変だったが、通訳の仕事で
は台湾に出張させてもらうなど楽しい経験も多かった。
通訳の仕事とほぼ同時期に、翻訳と研究スタッフの仕事も始めた。翻訳では名古屋大学
全学同窓会の資料を英訳して、研究スタッフでは名古屋大学の新教育プログラムの立ち上
げ補助をしていた。研究スタッフの仕事の一環で、2014 年にはアメリカの North Carolina
State University で 2 週間国際ビジネスについて学ぶこともできた。
2014 年の 9 月からは、奨学
金 が で た こ と も あ っ て The
University of Warwick の修士
課程で 1 年間、英語教育学を学
んだ。留学先では、色々な国か
ら来た経験豊かな教員たちに
交じって英語の教育法を学ん
だ。彼/彼女らと楽しく酔っ払
ったり、授業で充実した議論を
したりしたことは、今でも良い思い出だ。
こうして振り返ってみると、留学を通して英語に興味をもち、また英語を勉強してきた
ことは、僕の人生にとって大きなプラスだったように思う。僕の場合、英語で仕事をして、
しかも仕事を通して英語力を高めることができた。その意味で、僕は実に幸運な学習者だ
った。また今では、英語の授業を通して自分の商品価値を高めさせてもらっている。
「学ぶ
ことは教えることの半分」と言う諺(ことわざ)がある。学んだ知識や技術が本当の意味
で自分のものとなるのは、それを自分の言葉や行動で人に示すことが出来た時だ、という
意味の諺だ。この諺は実に的を射ている。学生に英文の構造を教える際に The University of
Warwick で教わった方法をそのまま使っても上手くいかないことがあるのだ。この場合、
学生の英語力や特徴を考えながら三上流の方法をその場で作り上げてゆくしかない。この
三上流を確立するため、今では毎日の挑戦日々だ。今後も生徒と協力しながら、彼/彼女
らが英語との良い関係を保って人生を歩いてゆけるベストな方法を探求してゆきたいと思
っている。
【Oxford 短期研修】
オックスフォード短期研修:「百聞は一見にしかず」
西尾みさ
私はイギリスやアメリカに興味があり、また英語
をペラペラになるまで学びたいと思ったので、本学
の英語英米文化学科に入学した。ただ、英語やイギ
リスに興味があっても、どんなに話を聞いたり本を
読んだり調べたりしても、実際に行かなくてはわか
らないことがたくさんあると思った。私はまだ1年
生だが、もう自分の目で早く見たくて、我慢ができ
なかった。親に頼み込んで費用をまかない、夏休み
にオックスフォードでの英語短期研修に参加した。
結果から言えば、まさに、百聞は一見にしかず、見
て、聴いて、肌で感じて本当に留学してよかったと
思っている。
出発前の私の目標は、英語力を身につけ、実際にイギリスの生活や食事などの文化に
触れることで普段習っているアメリカ英語との違いを見つけるということであった。現
地へ行き、まず注目したのがイギリス英語だ。ホームステイ一日目からそれを実感した。
いくつか例を挙げたい。まず、
“lovely”という言葉だ。私たちはこの言葉を「かわいい」
という意味に捉えがちだが、イギリスでは「素晴らしい、いいね」という意味で使われ
ており、食事のときには「おいしい」などといった意味で使っていた。またエレベータ
ーのことを“lift”という。美術館やデパートなどで“elevator”はどこにあるのかと尋
ねても理解してもらえず、
“lift”というと案内してもらえたということがしばしばあっ
た。また、日本やアメリカでいう一階のことは“first floor”とは呼ばず、
“ground floor”
と呼ぶ。そのためエレベーターに乗ったときは行きたい階のボタンを押すたびに、はっ
とすることがあった。最もアメリカ英語と違っていたのは“r”の発音の違いで、それ
に特に気づかされたのは“better”という単語だ。アメリカ英語では“ベラー”と流す
ように、また“r”の音が強く聞こえるのに対して、イギリス英語でははっきりと“ベ
ッター”と聞こえた。
食事の面では、日本での白米の役割を果たしていたのは「じゃがいも」だった。その
ためホームステイ先での食卓にはよくじゃがいもが出された。予期していなかったがと
てもよかったことは、自分たちと同じように、イタリア、ロシア、ポーランド、スペイ
ンから英語を学びにきた人たちやホームステイ先が同じだったトルコからの留学生ら
と交流できたことだ。一緒に食事をしたり、英語で会話をしながら互いの国の文化を教
え合ったりした。イタリアでは、ピザを一人で一枚食べることが普通であるなどといっ
たイギリス以外の国の興味深い文化も知ることができた。彼女たちと交流できたのは私
にとって良い経験であり、素敵な思い出となった。
しかし良いことばかりではない。問題も起こった。2 週間程過ごしてきたホームステ
イ先の家族に 1 週間の旅行に行くから自分以外のステイヤーと協力して過ごしてほし
いと言われ、ステイヤーそれぞれにお金が渡された。契約違反であることはもちろんの
ことだったが、そのホストファミリーの収入源はホームステイを受け入れることだけだ
からこのことを知られると今後の生活に影響があるため、私は彼らに学校には黙ってお
くよう言われた。私はこれを聞いたとき、自分は学校へ言うべきかそれとも言いつけを
守り最後の 1 週間を過ごすべきか悩んだ。その結果、私には 3 週間という少ない時間し
かイギリスに滞在することができないのであるから、最後の 1 週間を有意義に過ごすた
めに、私はホームステイ先を変えるという選択をすべきだと考えた。しかし、ここで日
本人的な考えが出てしまった。新しいホームステイ先を見つけてもらうということは学
校にとっては迷惑なことだと思い、放っておこうとも思ったのだ。だが、ある方に言わ
れた。「他人に迷惑をかけるということより、自分にとって良い研修となるための環境
づくりのために語学学校や中部大学がある。
「要
求する」ということが海外生活では不可欠だか
ら、この機会にそういったことも、学ぶことが
大切だ。
」確かにその通りだと思い、思い切って
ホームステイ先を変えてもらったが、結果はよ
かった。そこで私は気づいた。日本と外国はそ
れぞれが異文化であり、考え方が違うのだ。私
は遠慮することが悪いことだとは思っていなか
った。しかしそれは日本特有の文化であるのだ。
自分の意見をしっかり相手に伝えるということ
は外国で生活するために必要なことだというこ
とも学ぶことができた。
帰国して、もっと滞在していたかったという
気持ちはもちろんのこと、さらに多くの人と色々なことについて英語でコミュニケーシ
ョンをとりたかったと悔やんだ。私は自分の英語に自信が全くなかったが、それはきっ
と皆がそうだったはずだ。せっかく研修に行ったのだから、もっと会話をしたかった。
ありがたいことに、今後留学をする機会がある。今回のようにならないよう積極的に会
話をしたい。
この研修で私は英語力も考え方も大きく成長したと思う。本当に決心をして留学して
よかったと思っている。得たものは大きい。まさに、「百聞は一見にしかず」だ。次の
留学でもさらに成長したいと思う(もちろん、精神面での話である。念のため.
.
.
)
。
死んでいいと思えるほどの幸せな誕生日
~Oxford での人々に感謝~
西村卓真
私は去年オハイオ大学での長期海外研修に参加した。去年のオハイオで得たものは沢
山あったが、今回のイギリスのオックスフォード留学でもそれ以上のものを得た。それ
は人への感謝の心である。
今回は二度目の留学であり特に不安はな
かった。むしろ楽しみで留学を待っていた。
オハイオ大学への留学と違うのは、寮で生
活するのではなくホストファミリーの家で
生活することだった。私は子供のころから
ホームステイに憧れを持っていた。しかし、
いざホストファミリーの家の前に着くと緊
張が止まらなかったが、マイナスな緊張で
はなく、これから三週間、この家で何を得
られるのかという楽しみも含めた緊張である。
到着するとホストファミリーのお父さんが迎えに出てきてくれた。そして‟Welcome,
Takuma!”と言ってくれた。まるで私がそのホストファミリーの一員になったかのよう
に素敵なおもてなしをしてくれた。自分が乗っていた飛行機がこの日かなり遅れてしま
い、もう夜中の 1 時を過ぎていた。もう皆は寝ていると思っていた。しかし、ホストフ
ァミリーのお父さんは私が来るのを待っていた。言葉に出来ないほど本当に嬉しかった。
この日は全く眠れず、気が付けば朝日が昇っていた。しかし起きていたおかげで自分の
部屋の窓からとても綺麗な朝日が見えた。起きていて良かったと思った。イギリスはよ
く雨が降る国なので、綺麗な朝日が見ることが出来たのはこの日だけであった。ホスト
ファミリーのお母さん、お姉さんと挨拶し、一緒に朝ご飯を食べながら、日本について
喋った。特にお姉さんは日本に興味あり、寿司が好きだったので、色々な寿司の写真を
見せながら話をしていた。
私たちは Eckersley という語学学校に通った。その学校の先生達は本当に優しく、と
ても面白い方々であった。初日の授業はあまり先生の言ったことが理解できなかった。
しかし、オハイオへの留学とは違い悔しくて泣くことはなかった。ある日、先生が朝の
スピーチをやってみたい人と尋ねてきた。私は悩む間もなくすぐに手を挙げた。それは
8 月 24 日、そう私の誕生日だったからである。私は何について話そうか考えていた。
私は最近好きになった SEKAI NO OWARI について話をしようと決めた。セカオワの
RPG は特に好きな曲で何かに挫けそうになった時はよく聞いている。行きの飛行機の
中でもリピートしていた。
スピーチ当日、発表する前に先生や学校の友達が‟Happy birthday, Takuma!”と言っ
て私の誕生日を祝ってくれた。本当に嬉しく泣きそうになった。スピーチでは、オハイ
オで public speaking のクラスで学んだことを思い出し喋り始めた。私はオハイオの
public speaking で学んだこといつ使うのだろうかとずっと疑問に思っていたが、意外
と早く使うときが来た。発表を終えると、大きな拍手を貰った。私はこの日は人生で最
高の日にしようと決めた。授業中は沢山発言して、意見も言うように心がけた。
午前の授業が終わり、休憩の時間になった。外に散歩している間、Eckersley の先生
の Kyron を目にとめた。私は‟Hi! Kyron. Where’re you going?” と話しかけた。Kyron
は‟It’s a secret!”と言った。少し気になったが、時間になったので学校に戻った。午後
からの授業は Kyron 先生が担当だった。ホワイトボードに彼は Happy Birthday の歌
を書き始めた。そして最後に、Dear Takuma と書いてくれた。そして教室にいた学生
と一緒に歌ってくれたのだ。こんなにも暖かく祝ってもらったのは初めてだった。そし
て授業の終わりに Kyron がクッキーを持ってきてくれた。さっき秘密と言っていたの
はこのことかと思った。皆でクッキ
ーを一緒に食べて、この日は終わっ
た。人生で最も幸せな誕生日であっ
た。
家に帰ると、さらにホストファミ
リーがバースデーメッセージカー
ドと小さな熊のぬいぐるみを私に
プレゼントしてくれた。本当に嬉し
くついに私は泣いてしまった。そし
て一緒に中華料理のバイキングレ
ストランにご飯を食べに行った。こ
の日はもう死んでもいいと思うほど、一生忘れないくらい幸せな時間を過ごした。そし
て 3 週間が経ち、ついに帰国する日になった。正直帰りたくなかった。お迎えのタクシ
ーが着た時はまた泣いてしまった。またオハイオの時と同じく必ず戻ってくると誓い日
本に帰国した。
この留学で得たものはもちろん友達だが、一番大きなものは感謝の気持ちである。ホ
ストファミリーのおもてなしや先生からの誕生日プレゼントなど素敵な物を貰い素晴
らしい時間を過ごした。先生、友達、そしてホストファミリーに本当に感謝している。
彼らがいなければ、この留学がここまで充実したものになったか疑問である。感謝の気
持ちで一杯である。今ここでもう一度お礼がしたい。本当にありがとう。
お前はいつもコーラを頼むじゃないか?
~オックスフォードでの辛くて、楽しい貴重な異文化体験~
小林将輝
私はイギリスのオックスフォードに短期語学留学をし
た。三週間という短い期間ではあったが、異国の地に行
きさらに外国人の家で外国人と住むことは、国外に行っ
た経験のない私にとっては大冒険であった。イギリスに
行く前の私は、紳士の国と耳にしていたので、きちんと
している人が多いイメージを抱いていた。だが、実際に
生活するとそのようなイメージが変わる出来事が多く
あった。さらに日本では、ほとんど経験することができ
ない貴重な経験をすることが出来た。それらの出来事を
紹介していきたい。
私はオックスフォードの語学学校で英語を学んでいた。昼になると学生は近くにある
市場や大通りでランチタイムを過ごす。私は毎日のようにバーガーキングに通った。そ
こで私は日本では経験できないような経験を多くすることができた。まず入ると、レジ
にいる定員が当たり前のように鼻歌を歌いながら陽気に働いていた。私が訪れるときは
毎回その鼻歌の定員だった。私はいつもハンバーガーとポテト、コーラを注文していた。
ある日私は、水を持っていたのでコーラを頼まなかった。だが、その定員はコーラを付
けて出してきた。「コーラは頼んでない」と言うと、定員は驚くべき回答をしてきた。
彼は怒りっぽく、
「お前はいつもコーラを頼むじゃないか。
」と自分が正しいと言わんば
かりに文句を言われた。私は驚いて何も言えずにコーラを受け取り、お金を払ってしま
った。彼は、オーダーを間違えたのではなく、聞かずに出してきたのだ。日本で店員か
ら文句を言われることはないと思うので、貴重な体験をしたと思う。また別の日には、
お金を支払う際に、私は細かいお金を把握しておらず 30 秒ほどお金を探していた。す
ると私の後ろには次に待っている客がイライラしてみていた。それを見た店員はこう言
ってきた。「時間がかかりすぎだ。もう細かいお金は払わなくていいからどいてくれ。」
そして次の客の注文を取っていた。これも日本ではありえないことだ。この二つの出来
事は、日本ではありえない苦い経験であったが、非常
に良い異文化体験ができたと思っている。イギリスの
イメージががらりと変わる事件であった。
イギリスでの生活で辛く悔しい経験もした。それは
自分の英語能力の低さを痛感する時だ。私も先輩方の
体験談を見たとき、やはり多くの人がこの壁にぶつか
っていたことを知った。やはり私も同じように悩まさ
れた。語学学校では半数が日本人で、ほとんどの日本
人が日本人同士で固まっていた。私は常に外国人とい
ることを決めていたのでポーランド、スペインからき
た留学生2人と時間を過ごした。その二人は私よりも
はるかに英語を喋れて、ほとんどネイティブスピーカーのような感じであった。三人で
会話をすることが多く、彼らは容赦ないスピードで会話を進める。私は聞き取ることに
も苦労し喋る余裕すらない時もあった。さらに何を話しているのか理解できず、二人が
笑いながら話しているのを隣で愛想笑いをしながら見ていることもあった。そして彼ら
は私が英語を上手くしゃべることが出来ないとわかると、その場に私が存在していない
ように全く話しかけず二人で話す。とても悔しかった。私がもっと会話することが出来
たら、素直に笑いながら会話できたはずなのに、と何度も落ち込んだ。だが、この経験
により自分の英語能力の低さに気づくことができ、英語がまともに喋れないと存在すら
認めてくれない外国人を見返してやる、と強い意
志を持つことが出来たのである。自分から失敗を
恐れずに挑戦したことがこの経験を生んだと思
う。
ほかにも、たくさんの貴重な体験をすることが
できた。これらの経験を通して、自分の英語に対
する気持ちが大きく変化し、英語がさらに好きに
なった。これから留学する人には、留学中にたく
さんのことに挑戦し、異文化体験を通して、多く
の収穫を得てほしいと思う。
今が頑張りどき
杉山愛理
今 年 の 夏 休 み に イ ギ リ ス の Eckersley
Oxford へ 3 週間留学した。ホームステイをし
ながら、現地の学校に月曜日から金曜日まで
通い、授業では 「昨日何したか」をテーマに
15 分間隣の席の人と話したり、文法や単語に
ついても学んだ。どの授業も自分の意見を積
極的に発言する機会があったのが印象的だ。
また、その学校にはいろんな国から留学生が
来ていて、イタリア人の友達をつくることが
できた。最初は不安でいっぱいでしたが、留学を経験できて本当に良かった。
3 週間だけだが、異文化に触れることのできた貴重な時間であった。行く前は、自分
で申し込んだにも関わらず、誰よりも日本離れたくないと言っていたクズな私だが、ほ
んとのほんとに行ってよかったと心から思う。ホストファミリーをはじめとしてイギリ
スでの色々な出会いは、とても新鮮で素晴らしいものであった。優しく迎え入 れてく
れたホストファザーマザー、毎日遊ぼうって誘ってくれた姉弟、学校で出会って仲良く
してくれた異国の友だち、応援してくれた人たち、一 緒に研修に参加して仲良くして
くれた子たち、ほんとにみんなのおかげで私にとってのかけがえのない経験になった。
皆さん、本当にありがとう。 もっと上手に伝えたいが、ありがとう以上の言葉が出て
こない。英語でも日本語でも全部うまく言葉
にできなくてだめだ。残りの1年でもっと心
を伝える言葉を学びたい。
昔から憧れているキャビンアテンダント
になりたいと思っている。新たに目標を定め
たことで今まで以上に英語の勉強を頑張る
ようになった。1、2 年生までは大学生活を
なんとなく過ごしていたが、就職活動を控え
て、将来について深く考えるようになり、今
が頑張り時だと思っている。将来の夢に再度
チャレンジするやる気を起こさせてくれた
この短期研修に参加して本当によかった。
【British Columbia 短期研修】
精神面での成長を感じたカナダでの4週間
西田千織
カナダ・バンクーバーでのホームステイ先
での生活は、私にとってとても貴重なものと
なった。私のホームステイ先はおばあさん一
人暮らしで、私のほかにもカメルーンと ブラ
ジルからの留学生もいた。ホストマザーは今
までに 1200 人ほど留学生を受け入れていて、
文化の違いを理解している方だった。何事も
自分でやってごらんと言われていたので、料
理を手伝い、庭で野菜を収穫した。いろいろ
なことにチャレンジすることができて、自分にとって良い経験になった。
また、もう一つのホームステイ先のホストマザーは英語の教師だったため、料理を手
伝いながら日常生活で使う単語の発音の練習もほぼ毎日してもらった。一番良い経験だ
と思ったことは色々な国の料理を食べたことだ。ディナーのメニューが毎日違う国の料
理で、まるでカナダにいながら世界を周っているような気分であった。カナダ料理はも
ちろん、イタリ ア、メキシコ、ジャマイカ、東ヨーロッパなど日本では食べる機会が
なさそうな料理も食べることができた。
ホームステイ先の家では食事の前に大切な習慣があった。それは全員で「いただきま
す。」を言うことだ。しかも英語での「いただきま
す。」ではなかった。日本語の「いただきます。」
からはじまり、韓国語、ポルトガル語、インドネシ
ア語、メキシコ語、フランス語、ドイツ語、ウクラ
イナ語、ルーマニア語など全てを言うのである。ホ
ストマザーはなにも見ずに目をつぶって言ってい
た。そこの家に長く住んでいる留学生も同じように
スラスラと言っていた。わたしは新しく来た留学生
のためにその言葉が書かれた専用のメモがあった
ので、見ながら発話することができたが、読み方が
難しく最初のうちは苦労した。しかし、毎日行って
いると慣れるもので、もうすぐ日本に帰るというこ
ろにはスラスラと言えるようになっていた。
カナダでの生活はとても楽しかった。しかし、慣れないこともたくさんあった。洗濯
が週一回で洗濯機も日本と違い複雑でやり方が全くわからなかったこと、日本ではあま
り馴染みのなかったベッドメイキング、ごみの分別などは難しく、わからないときもあ
った。また、カナダは水不足で日本のように水を多量に使うと注意されるときもあった。
自分では日本では普通だと思っていたことがカナダでは全く違い、慣れるのには苦労し
た。しかし、同時に文化の違いや環 境のことを学ぶことができたのでよかったと思う。
語学面だけではなく、精神面でも自分の成長を感じることができた。カナダに滞在し
たのはたったの4週間だったが、毎日が濃くとても充実していて、私にとって貴重な体
験になった。
【New England University 短期研修】
引率者から見たニューイングランド大学
英語短期研修
柳 朋宏
中部大学で実施されている英語短期研修
の行き先は、イングランド、カナダ、オース
トラリアの 3 ヶ所である。このうちイングラ
ンドとカナダへの研修は夏休みに、オースト
ラリアへの研修は春休みに行われる。なかな
かイメージが掴みにくいが日本が寒い冬で
あっても、南半球にあるオーストラリアは夏
なのである。寒い冬を日本で過ごすより、暖
かいオーストラリアで英語を勉強する方がよいのか、毎年全体で 20 名程、英語英米文
化学科の学生は 3 名程が参加している。様々な学部学科の学生と行動をともにすること
ができる研修である。
ニューイングランド大学英語短期研修は 2015 年度で 5 回目の開催である。この研修
の特徴は英語を学ぶだけでなく、オーストラリアでの他文化共生や持続可能な社会につ
いても学ぶことにある。もちろん、日本を離れて暮らす以上、必然的に異文化を体験す
ることにもなる。研修はシドニーから飛行機で 1 時間程のアーミデールという町にある
ニューイングランド大学で行われる。大学が町中から離れており、送り迎えは基本的に
ホストファミリーが行ってくれるので、学校帰りに友達と遊びに行くなどということは
できず、研修に集中できる良い環境であ
る。
研修の参加者がまず戸惑うことはオ
ーストラリア英語だろう。私自身「デイ」
が「ダイ」になることは理解していたつ
もりだが、レジ打ちの人が言った at the
end of the day が at the end of the ‘die’ の
ように聞こえた時は「この人は大丈夫だ
ろうか」と少し驚いた。G’day, mate. は
少し古い表現になりつつあるが、覚えておくべき挨拶として最初のオリエンテーション
でも教えられる。もちろん「グッダイ・マイト」と発音される。こちらの人はよく短縮
した語を使うとも言われている。BBQ (barbecue) は barbie となり、afternoon は arvo
となる。学生はこうしたオーストラリア英語のスラングを学び、それらを使って即興で
ミニコントを上演するという授業もある。
参加者はホームステイをするが、たいていの学生が直面するのが「水」の問題である。
比較的雨量が少なく、家のタンクに水を貯めて使用していることがあり、日本とは違い
水はかなり貴重な存在である。日本人は湯船につかり、水を出しっぱなしでシャワーを
浴びるイメージが強いらしく、シャワーの使用制限についてはかなり強く指導される。
バスタブのない家庭も多いらしいが、
「シャワーを浴びる」つもりで take a bath といっ
てギョッとされた学生もいた。日本にいる時には意識しなくても、きちんと take a
shower と言わなければ、正確なコミュニケーションができないという例である。
英語の授業は、他国からの留学生と一緒に受ける。中国や韓国、ベトナム、サウジア
ラビア、リビアからの留学生がいて、授業はもちろん、日常生活でも共通言語として「英
語」が使用されている。授業はレベル別で、GE (General English) と EAP (English for
Academic Purposes) に大きく分けられる。GE クラスは文法事項の確認をし、覚えた文
法を使えるようにするクラスである。
繰り返し練習が中心であるが、様々
な課題を組み合わせているので、90
分もあっという間に過ぎてしまうだ
ろう。
EAP は大学進学を目的としたク
ラスなので、GE と比べると少し難し
い内容となっている。学生の多くは
恐らく、これまで何となく英語を読
んだり書いたりしていたと思うが、EAP ではきちんと理由をつけて説明してくれる。
ある程度の文法事項は身に付いていることが前提であり、大学での授業についていける
よう、授業内容の中心は「効果的に読む技術」や「論理的に書くための技術」に当てら
れている。
参加者は研修の最後に、ニューイングランド大学の関係者やホストファミリーの前で
プレゼンテーションを行うことになっている。英語でのプレゼンテーションを成功させ
るため、学生は中部大学生だけの特別授業を 4 週間にわたり受講する。全体の構成から
始まり、テーマ選び、プレゼンテーションで使用する英語の表現など、段階を追って指
導を受けることができる。残念ながら引率者は最初の 1 週間のみの滞在であるので、こ
の最後のプレゼンテーションは見ることができないのだが、大学関係者からは毎年素晴
らしい発表だったと賛辞をいただいている。今年の参加者もこれまで以上に楽しく立派
なプレゼンテーションをしてくれるものと楽しみにしている。
オーストラリアに来て本当によかった
石黒莉沙子
石黒さんには facebook から留学の様子を報告したも
らいました。少し、日記風になっています。
まだ 4 日目だけどオーストラリア来て本当よかった
と思います。❤ホストファミリーとの日常会話するだけ
で勉強になるし、オーストラリアの文化をたくさん知れ
るからすごい楽しいです😆😆。今日の勉強は、オーストラ
リアは乾燥してるから火事がよく起こるのと、ドラッグ
の問題、カンガルーが畑の食べちゃうから毎年数匹殺さ
ないといけないのと、ガンで亡くなる人が周りに多いっ
ていう深刻な話をしたのが印象に残りました。受け答え
はできなくても怒られなくて、理解しようとしてくれるので本当に有難いです!!オー
ストラリアについてたくさん教えてくれるので私もたくさん質問してます(*^^*) たく
さんの刺激がある毎日なので復習のためにも日記を書いてます。
夕食のあとに、庭へホストファミリーと星を見に行くと、綺麗すぎて、涙が出そうな
くらい感動してしまいました。😭😭💗💗 もう星の数が違います!!!でも 30 分後に見たら
雲で月も星も隠れちゃいました。〜😟😟本当に綺麗!!月が見えない方の空は特に綺麗で
した。留学中に南十字星を見つけたいと思います!(*^^*)とても親切でたくさん会話し
てくれるホストファミリーに出会えてとても幸せ💗💗💗💗💗💗
今日は After school🐾🐾にはアーミデイルのダム湖連れてってくれて、湖の周りを一周
して、その後馬に青りんごをあげました🍏🍏ホストファーザーのビルがタンポポの綿を
「ふーっ」としたらマザーのエスターが何かお願い事
したの?っていうやり取りが好きだった😊😊💭💭こんな
素敵な夫婦になれたらいいな💞💞
今日は午前も午後も英語の授業の ELC でした!!
学習者中心の授業ってこういうものなんだ😳😳って感
じです! 常に参加して、話して、書いてずっと集中
してるから疲れるけど楽しいし、時間が早く感じます
👍👍
授業終わって、わかんないモヤモヤした気持ちに
ならない授業だから好き😊😊💗💗4 週間じゃなくてもっと
受けたいくらい😂😂今日の帰りに Jess と一緒に写真撮ってもらいました❤Jess は大好きな
先生☺
オーストラリアの生活から見習わないとと思うことがたくさんあります。例えば、食
事は自分のほしい分だけ取って余った分はパックで冷凍して 他の日のご飯にするので、
とても生ゴミが少ないです。しかも、生ゴミは庭の植物や動物にあげてます。食器の洗
い方やシャワーの時間、洗濯の頻度など日本と違うところがたくさん発見できて勉強に
なります👍👍�水が貴重のオーストラリアでは、シャワーはいつも 5 分くらいで浴びていま
す。でも、慣れてきました😂😂
いい写真をたくさん撮ってくれる柳先生にも感謝です😄😄🙏🙏
これからどんな勉強や
経験ができるか本当に楽しみです。先生も親切だし、自然も本当に豊か。オーストラリ
アに来て本当によかった。
【長期派遣留学(UNE)】
How are you?
小林龍生
“How are you? I am
fine. Thank you and you?”
この表現は私が中学校で
英語の授業を始めるとき
の英語教師との会話だっ
た。しかし、オーストラリ
ア留学8ヶ月を経て、
“How are you?”の表現に対するベストな受け答えはなんだと、理解するまでに膨大な時
間を費やした。一見、“How are you?”と聞かれたときに簡単に答たられそうであるが、
日本語で直訳すると「調子はどうですか」という表現になる。まず、日本人の友達同士
の会話で毎回の挨拶程度で「調子はどうですか」と聞かれ、あなたがもし答える側なら、
どう感じて、どう答えるだろう?私は、日頃聞く機会がない表現であり抽象的で何を聞
き出したいのかと感じ、変な質問するなと感じるだろう。恐らく、答えるにしても、な
にか悪い事、よい事が合ったら学校、アルバイト、友人関係、家族などのプライベート
のことを詳細に伝わりやすいように話すだろう。この会話のスタイルが日本で生まれ、
育った、私なりの礼儀である
しかし、私が訪れた国、オーストラリアでは“How are you?”は挨拶程度で毎日使われ
る。特に難しいのがすれ違い様に“How are you?”である。答える時間は恐らく2、3秒
程度であり、なにが話せるのだと感じる。実際に私も初対面の人に急に聞かれた時、き
ちんと答える事ができず、日本人なりに答えようと、一瞬変な空気を作ってしまい、そ
の人と仲良くなることは留学中に残念ながらなかった。この悪い空気の裏には、私がオ
ーストラリアの礼儀を分かっていなかったということが問題点であると後に、現地での
授業で明らかになった。その授業では“How was your weekend?”が例にあがった。恐ら
く多くの日本人ならこの質問に対して詳細に週末どう過ごしたか詳細に答えるだろう。
オーストラリア人はこの答えに対し、“Good”、Not bad”のような短く、深く入りすぎ
ないように答えるのが礼儀だと学んだ。そしてここで同時に分かったのが、“How are
you?”のベストの答えは“Good”で程度の短く、深入りしない答えであるということであ
る。
二つの例から分かることは、これは単なる挨
拶であり、本当に私の週末や、調子に興味を持
って聞いてくるのではないということだ。その
ときに答える側は、相手と話が共感、共通して
いること、短い、そしてあまり詳細に話さない
ことだ。ここでコミュニケーションをする上で
問題になったのが、一見言語の壁に見えるかも
しれないが、その国で生まれ育った流儀、文化
も大きな要因である。そして、私は日本人であ
ることは、マイナスにもプラスにも働くこともあった。コミュニケーションをする上で
よく日本人が礼儀正しいという固定概念がよくある。これは、話者の言語、性格などで
だけではなく、普段の私たちが育った文化、環境で当たり前にやってきたことがいい面
も悪い面でも働きとても丁寧または変な印象をうけるのかもしれない。そして、外国人
の様な異なったバックグランドを持った人と約8ヶ月間ニューイングランド大学で交
流することにより、自分が日本人という認識がさらに高まった。
【フィリピン研修(個人)】
フィリピンの貧困地でのボランティア活動
加藤治紀
ある日、大学でフィリピンのセブ島への留学
のチラシを目にした。英語力を伸ばすことに専
念したかった私は授業内容と価格が決め手でこ
の留学に参加することにした。朝から夕方まで
TOEIC のための勉強をマンツーマンで教えて
くれるという面白いプログラムだ。留学に行く
前のフィリピンのイメージは綺麗な海や美味し
いフルーツといった良い面とともに、治安や生
活環境の悪さといった悪い面も思い浮かび、本
当はどのような国なのかが分からず不安であっ
た。実際、家族や友達にフィリピンに行くと言
うと「危ないから気をつけてね」と言れるのが
現実である。しかし、治安が良くないといわれ
ている国は他にもあるので、たくさんの国の文
化や歴史を勉強してきた私は、あまり気にならなかった。むしろ、フィリピンという国
について知ることができる楽しさでいっぱいであった。
フィリピンでは勉強の他にどうしてもやってみたいことがあった。それは貧困地での
ボランティア活動だ。テレビや話だけでしか聞いたことがなかった私は絶対に貧困地の
実態を自分の目で確かめたいと思い、留学スタッフにお願いをした。幸運なことにボラ
ンティア団体を紹介してもらえることができた。そのボランティア団体の活動は路上で
生活している子供であるストリートチルドレンが通う音楽スクールの運営であった。
最初に出会った子供は路上に住んでいる2才児であった。可愛い子どもだが着ている
服は穴だらけで、全て拾い物なので服のサイズもぶかぶかであった。フィリピンは貧困
層が住む家とその他の人が住む家の差がはっきりとしていた。栄えている場所のすぐ真
裏に目を移すと、ボロボロの家やごみがたくさん捨ててある風景に変わる。急激に成長
するフィリピンの表と裏を実感する光景である。
ある日スクールに通う1人の子の家を訪ねた。そこでは全部で7畳くらいの2階建て
の家に 11 人が生活していた。見るもの全てが自分が育ってきた日本の環境とは違い、
衝撃を受けた。しかし、そこに住む家族は皆、笑顔であった。フィリピンの一部が今も
貧困社会で戦っている。そういった関係で一部の地域は治安が悪くなってしまう。生き
る希望を失ってしまう人たちに希望を与えられる活動をしている人たちを見て、素敵な
ことだと感じた。3週間だけの滞在ではあったが1日1日が大切な思い出となった。
日本に帰った今でもフィリピンの子どもたちのことが忘れられない。ここで得た経験
や思いはこれから先自分の人生や考え方に多
くの影響をもたらすだろう。先進国とは違い発
展途上国である国だからこそ、体験できたこと
が多い。1つの視点から物事を見るのではなく、
実際に住んで現地の人と会話をして、彼らと同
じ視点から見たことによって私はフィリピン
という国が大好きになった。これは全てのこと
にいえるはずだ。私はこれからもいろいろな視
点から物事を自分なりに見て、たくさんの異文
化に触れていきたい。もちろん TOEIC の点数
は飛躍的に上がり、充実した留学生活であった
が、それ以上に、発展途上国の貧困問題や教育
問題を目の当たりにして、フィリピンという国
の現状が実感できた大切な留学になった。
フィリピンで英語の魅力に気づく
~授業後も昼休みも勉強する自分に驚いた~
杉山祐樹
私はこの大学三年生の夏、初めてフィリピンのセブ島
に海外留学に行った。それまで英語英米文化学科に所属
しながら海外留学に行ったことが無かった。英語英米文
化学科にはオハイオ大学への留学プログラムがあった
が、成績が悪く行くことはできなかった。その時は何故
英語英米文化学科に入ったのだろうかなどと私自身考
えてしまった。そんな事も忘れていた三年の頃、友達に
フィリピンへの留学を誘われた。私は行動力が皆無なの
でその誘いはとてもありがたいものだった。留学プログ
ラムの内容は、三週間で TOEIC のスコアアップに重点
を置いたものだった。初めは何気なく行ってみようとい
う気持ちで返事をしたが、いざ出発日になると不安な気持ちになった。
フィリピンに到着してからはそんな気持ちも消えていたが、日本から離れたことが無
かった私は普段とは違う光景に驚いていた。ほとんど信号の無い道路やトイレに至って
は紙を流せないことにとても抵抗があった。紙はトイレにある箱に入れるのである。
フィリピンの学校での授業形式は主にマンツーマンの授業であり、日本語はもちろん
通じない。先生が話す言葉はすべて英語で、何を言っているのかわからないことや、意
味が分かってもなかなか英語に直すことはできず先生を困らせていた。辞書をみながら
必死に伝えるのが精一杯であった。何より私は発音が悪く、聞き返されることが多々あ
った。中部大学の先生には通じていたなどと思いながら言葉の壁というものを思い知ら
された。団体での授業もあり、その授業では主に TOEIC のための授業であった。そこ
で私は自身の英語力の無さを心底思い知らされた。授業内容は過去の TOEIC の問題を
ひたすら解き、先生がそれについて解説するというものであった。私は簡単な問題にも
関わらず皆が正解しているのに私だけ間違っていたり、時間に間に合わなかったりなど
今まで英語英米文化学科で何をしていたのだろうかと深く反省した。
私はそれを境に今までにないほど勉強に時間を費やした。一日の授業が終わってもす
ぐに自習室へ行き勉強、昼休憩の時間でさえ休憩することなく授業の復習、予習をして
いた。今までろくに勉強をしたことなかった私が何故か英語だけは必死になって勉強す
ることができた。それは悔しさと同時に英語が好きになれたからである。寝る時も常に
洋楽を聞くようにしたり、携帯の言語を英語に変えたりなどして、いつなんどきも英語
に触れるようにした。そして次第に結果は表れてきた。先生ともある程度会話ができる
ようになったし、積極的に会話をするようにした。わからなかった言葉や表現などは聞
き返してその場でメモを取り、夜には復習するという繰り返しを続けた。次第に英語を
勉強することが楽しく感じていた。
プログラムには無かったが二週間目には貧困地域であるスラム街にボランティアへ
行った。そこで出会った子どもたちはとても無邪気で、何より見ず知らずの私たちとと
ても楽しそうに遊んでくれる子どもたちは言葉にできないほど私を元気にさせた。フィ
リピンに来たことにその時ほど感謝した
ことはなかった。そのスラム街である人
に貴重な話を聞いた。どんな生活をして
いるのか、こんな時はどうするのかなど
沢山の話を頂いた。その後は日本人が開
いているボランティアスペースへ行き、
そこで子どもたちが練習している楽器の
演奏を聴いた。演奏の手伝いをしたり、
一緒に演奏したりするなど、子どもたち
と触れ合う時間はとても楽しく、すぐに
過ぎていった。子どもの話す英語には独特ないわゆるフィリピン訛りやこどもの訛りが
あり、先生と話す時よりも難しく感じた。英語は多様な言語であると実感した瞬間であ
った。
私にとってこのフィリピンでの三週間の留学は私自身を変えるきっかけともなり、英
語本来の魅力に気づかされるなど貴重な体験が詰まった留学となった。留学は大きな経
験を与えてくれる。少なくともフィリピンの私に関わった人々はたくさんの体験、経験、
そして私自身を変えるきっかけを与えてくれた。私はそこで出会えたすべての人に感謝
している。一つ思い残りがあるとすれば、帰りの飛行機の中でキャビンアテンダントに
ドリンクを聞かれた際、water を頼んだにも関わらず発音が悪くコーラが出てきたこと
であろう。確かに1ヶ月間の集中的な英語の勉強の後でのこの出来事は悔しかったが、
これもいい思い出だ。
【New Zealand 研修(クラブ)
】
ニュージーランドでラグビー合宿
林
俊輔
私は大学1年生の春休みに私の所属するラグビー部
の希望者約 20 名とともにニュージーランドへ合宿に行
った。私は、これが人生初の海外だったので行く前から
とても楽しみにしていた。
今回は、香港を経由してオークランドへ向かった。経
由地の香港で人生初の英語でのファストフードの注文
をした。自分が勉強してきたことが生かせるかどうかと
ても心配だったが何とか成功して、嬉しかった。オーク
ランドに到着して、飛行機を乗り継いで最初の合宿地で
あるダニーデンに到着した。ダニーデンに着いて最初に
驚いたのは自然がとても豊かで、町の真ん中に大きなグ
ラウンドがあったことだ。
さすが、ラグビー王国。驚いたのはグラウンドにはラグビーの H ポールもなければ
ラインも描かれてないのにいくつかのグループが仲間同士で思い思いに練習していた
ことだ。私たちも長時間のフライトで疲れてはいたが少しだけ練習した。練習が終わり
ホテルに向かうときに現地の方の一人が「Where’re you from?」と聞かれた。私はチー
ムで合宿に来ていることを伝えると「That’s nice. Welcome to New Zealand!」と歓迎
してくれ、非常に嬉しかった。日本では外国人に対してどこからきたのかとか、出身を
聞くことはなんとなく失礼という遠慮もあり、聞かない。だが、話したり歓迎されるこ
とがこんなに嬉しいとは思わなかった。
ホテルには食事が無かったので、練習後に近くのスーパーに買出しに行った。そこで
もたくさんの驚きがあった。まず、最初に驚いたことは、物価が高いことだ。日本の約
2倍程高くて、少しでも安く済ませようとした。また、売っているものの大半が大きい。
鶏の丸焼きが棚いっぱいに陳列されており、牛乳などの乳製品の量は大きいもので 1 ガ
ロン、つまり 3.8 リットルもあった。
合宿3日目にはアファ監督の母校であるオタゴ大学のラグビー部と練習をした。練習
の中で体格の差や、練習への取り組み方は日本とはまったく違うことが分かった。英語
がつたない私たちでもわかりやすく指導していただき、英語を使いながらラグビーをす
るという楽しく貴重な経験ができた。
次の日には、世界最高峰のラグビーの大会のスーパーラグビーの試合の観戦に行った。
試合の日の町はどこもお祭り状態で家やバーでパーティなどをして大盛り上がりだっ
た。私が観戦した席のゾーンは ZOO と呼ばれるところだった。なぜ、ZOO と呼ばれる
かというと、ゾーン全体が試合をしている選手の声をかき消すほどの叫び声や爆音の音
楽が流れていて、まさしく動物園の
ようであるからだ。日本のスポーツ
観戦とはまったく違っていて、F*ck
などの汚い言葉や相手チームを馬鹿
にしたような歌を歌いだしたり、過
激すぎて終始圧倒されていた。こん
な光景は日本ではありえないと思っ
た。
週末には次の合宿地であるウェリ
ントンに向かった。そこではニュー
ジーランドで1位の高校である、
Scots College との合同練習があった。練習の前に相手の監督から中部大学ラグビー部
の紹介のスピーチをしてほしいと頼まれた。もちろん、1年生である私はキャプテンで
はない。ただ唯一、部内で英語が少し喋ることができるということで頼まれたのだ。外
国人に向けてスピーチなどしたことは今まで一度もなかったので、とても緊張して何を
話したかすら覚えてない。ただ1つ覚えているのが Scots College の方々が真剣に聞い
てくれていたことを鮮明に覚えている。とても嬉しかった。練習の最後には高校生の
方々がニュージーランド代表チームなどが試合前に行うハカというニュージーランド
の伝統的な踊りを生で披露していただいた。今までテレビでしか見たことがないハカを
目の前で見ることができた。また、その迫力は凄まじかった。
今回のニュージーランド合宿は初めてなことばかりで驚きや感動でいっぱいになっ
た。言葉は違っていてもラグビーを通じてたくさんのことを学べたと思う。また、英語
と文化を専攻として学んでいて、ラグビー部に所属している私にとっては1番好きなこ
とを同時に勉強できたことは、これからの人生で非常にいい経験になったと思う。また
これからの人生でこの初めてで感じた感動を何に対しても大切にしていこうと思った。
【フランス研修(個人)
】
テロの直後にフランスを訪ねて
有本あかり
私がフランスに訪れたのは大学 2 年次の 2 月と大学 3 年
次の 11 月である。この 2 回の経験を異文化体験という観点
から綴ってみたいと思う。
大学生の春休みはとても長く、ただ単にバイトだけで終
わる春休みは避けたかったため、昨年の春休みを利用して
ずっとしてみたかった一人旅をした。まず始めに行き先を
決めるのだが、私の条件としては、観光のしやすさ、海外
で運転はできないので電車で周りやすい場所などの条件に
当てはまる場所を探し、最終的に決まったのがいつか訪れ
てみたいと思ったフランス・パリであった。
希望期間は 1 年前の 2015 年 2 月下旬から 3 月上旬だ。
しかし、1 月上旬にシャルリー・エブド襲撃事件が起き、
立て続けにイスラム過激派組織に日本人が拘束され人質に
される事件が起き、イスラム教徒の移民が多く流れてくる
フランス・パリに旅行予定の観光客はこれらの事件を理由
に渡航をキャンセルする人も大勢いた。私が渡航するのは
これらの事件があった約一ヶ月後であり、友人や親からは
心配された。もちろん私は予定をキャンセルしようという考えは全くなく、予定通り出
発してしまった。
パリに向かう便は中部国際空港から羽田経由でパリにエールフランスで向った。機内
での機内食は 1 食分の食事でフランスパンとクロワッサンが付いてきてさすがフラン
スだと思った。初めてのフランスは見るもの全てが新鮮で、見るもの全てがオシャレに
見えた。現地の空港からはバスで市内に向かい市内から電車でホテルへと向かった。ホ
テルでチェックインする際、何度も英語を聞き直す私に対してとても優しくしてくれた
ボーイさんにはとても感謝している。私の部屋は 4 階だったのだがフランスでは 1 階が
0 階と表示されているため少し戸惑ったが異文化を感じた瞬間であった。パリの電車は
日本の電車に比べかなり乗りやすいと感じたが、夜になると昼と雰囲気がかわり怖かっ
た。それに、駅員がいるのに平気で改札をまたいでいる若者がおおくて驚いた。さらに
電車やバスで寝るのは日本人だけというのも本当のことだと実感した。もしパリの電車
の中で寝たら一瞬でスリに合うだろうという異様な雰囲気を感じた。しかし、襲撃事件
の影響か銃を持った軍人さんがパリ市内にたくさん見受けられ、かなり防犯政策は整っ
ているようだった。だがマシンガンを街中で持ち歩いている光景がかなり異様で怖かっ
た。
私はこの旅行中に行きたいレストラン
があった。そのお店は予約を取っておら
ずリーズナブルで大衆食堂のような雰囲
気のお店である。1 番面白いと思ったのが
大体の人が相席になること、そのため私
は台湾から来ていた親子とフランス人の
おじいさんと相席になった。だがフラン
ス人の年配の方は、英語は全く話せない
ため、あまりコミュニケーションをとる
ことができなかったのは残念であった。
ほとんどの会話は笑顔とジェスチャーで
終わった。
この旅行をしているうちに気付いたことはフランス人の体型だ。アメリカ人と比べる
と太っている人が全然いない。むしろ細い人が多い印象で面白いと感じた。
次に二回目にパリに渡航した話を書きたいと思う。2015 年 11 月 13 日にパリで大規
模なテロが起きたのだが私が渡航しようとしていたのは 11 月 18 日であった。私の中
では渡航を諦める気は全くなかったのだが、やはりかなりの覚悟は必要だった。今回は
親に言えば当然のように反対されることはわかっていたため、友人にのみ知らせて出発
した。だが、最終的にはとても内容の濃い旅行になった。
前回はホテルに泊まったのだが少し寂しかった。よって前から少し興味があったドミ
トリーに泊まってみようと思った。私の宿泊したドミトリーは日本人専用で朝ご飯と夜
ご飯が付いて 20 ユーロ(約 3000 円)でかなりリーズナブルだったがパリから少し離れた
場所にあった。観光には少し不便だなと感じたが、前回の旅を思い返すと本当にいろん
な人と関わる機会が多かった。同じ宿には現地で働いているソムリエやパティシエ、シ
ェフ、世界を旅しているバックパッカー、などなど本当に様々な人がいた。特に面白か
った話は、日本人は働きすぎなぐらい働いているのにフランス人より豊かな暮らしがで
きていない、という話であった。確かに私が見た中でもフランスのお店はほとんどが
20 時に閉店し日曜日はほとんどのお店が休みをとっているのだ。
私が訪れた時期はジビエシーズン
で、せっかくなのでジビエ料理を食
べようと思い、宿の人に教えてもら
った日本人の夫婦が経営しているレ
ストランを訪れてみた。お客さんが
私一人しかいなかったので、お店の
方はテロが起きてからキャンセルが
続いていることや、みんな外出を控
えていることなどたくさんの話をし
てくれた。確かに前回の旅行は観光
客も多く、お店に入る時は警備員にカバンの中身を軽く見られるだけだったが、今回は
前回とは明らかに違い、観光客も少なく、お店に入る時はかなり厳重にカバンの中身を
チェックされた。ジャケットもチェックされる厳重っぷりでテロの影響の大きさを物語
っていた。パリの観光スポットのエッフェル塔では 16 日に営業を再開し 25 日までの
間トリコロールにライトアップされているのを見た時は不謹慎かもしれないが珍しい
光景を見れてラッキーだと感じた。
テロの跡地は行くのを少しためらった。観光地に行くノリで行くのは良くないと思っ
たのだ。だが、やはり現状を自分の目で見たかったので見に行ったのだが想像していた
より重くて暗い表現のしようがない空気が漂っていた。来なければよかったとさせ思っ
たほど重く、辛い想いをした。現場には沢山の花や写真や各国々の言葉で書かれた手紙
が備えられていたが立ち止まって写真を見てしまうと、泣きそうになりそうだったので
長居はできなかったが、そっと心の中で手を合わせてきた。被害の壮絶さを感じること
ができた。もう二度とこのような事件が起きて欲しくないし、フランスにはイスラム教
徒が多く、この事件が起きてからイスラム過激派と関係のない人たちにも罵声を浴びせ
たり喧嘩になったりという事件も起きていると聞いた。残念である。しかし、フランス
はシリア(イスラム国)をアメリカとイギリスと一緒になって爆撃してきている。テロ
対策とはいえ、戦争をしている
のだ。そう考えるとフランスに
仕返しがあることも想定の範囲
かもしれない。誰が良いとか悪
いといことではない。早く元ど
おりの平和で、活気あふれたパ
リを取り戻して欲しいと願う。
これはシリアに対しても同じで
ある。
テロの後のフランス旅行であ
ったので、不安があったが、こういう情勢だからこそ、感じ取れるものがあった。2 回
の旅行で世界には本当に様々な価値観を持った人が大勢いて、複数の視点と寛容な心を
もって共存することがこのグローバル社会に本当に求められているということを実感
した。授業やテレビからは情報は得ることができるが、実感することはできない。まさ
に、「百聞は一見に如かず」とはこのことだと思う。次は、どこの国に私は一人旅する
のだろうか。不安でもあり、楽しみでもある。
【ワーキングホリデイ(カナダ)】
カナダでのワーホリで学んだこと
阪野竜一
私はカナダのバンクーバーに約 1 年
間ワーホリを利用し留学した。一人で
海外で生活することの大変さを実感し
たと同時に、英語学習をどのようにす
ればいいのか、分かってきたような気
がする。また、留学でしか学べないこ
となども体験した。いつくかをかいつ
まんで順に述べていきたい。
まず、なぜ私がわざわざワーホリで
カナダのバンクーバーを選んだのかに
ついて述べたい。英米科の学生は現在もオハイオ大学の短期留学のプログラムがある。
私はそのプログラムに参加しなかった。理由は当時留学してまで英語を伸ばそうという
気になれなかったのと、留学するなら最低でも 1 年以上の留学プランがいいと思ってい
たからだ。3 年生になり友人の留学話をきっかけに私も行ってみたいと思うようになり、
経済的負担の少ないワーホリでカナダにいくことに決めた。
日本を旅立ちバンクーバーの空港に着いた時、いままでの人生で味わったことのない
雰囲気を感じた。耳から聞こえる音は聞き取れない英語のみ。そして周りは全員外国人
だ。普通は不安になり、日本に帰りたくなる瞬間だと思うが私の場合はその逆であった。
非常に気持ちが高揚し一つの大きな冒険が始まる高揚感を味わえた。その後空港をあと
にしホームステイ先に向かった。ホストファミリーはフィリピン人だがカナダの国籍を
持つ立派なカナダ人でもあった。そこで毎日のように家族と会話をし、最初は英語を話
すことを恐れていたが、一か月の間だけでもかなり話せるようになった。また、同じ留
学生の立場としてきた韓国人と仲良くなり、お互い英語を使い買い物やご飯にでかけた
のはいい経験になった。
同時進行で語学学校にも通い、さらなる英語のみの環境のなかで勉強をした。語学学
校はアジア人、ヨーロッパ人をはじめ多国籍社会であるため、いきなりネイティブを相
手にする中部大のプログラムよりは楽に英語に入り込めたかもしれない。日本人は英語
を話すことに対して恐怖感や恥ずかしさがある。文法を強く意識したりわざわざ難しい
単語を使おうとするのは、よくあることだが、その壁も語学学校がスタートであったた
めか、自分にとっては恐れる場面はなかった。ブラジル人を見ていると話す恐れなど全
くいらない。むしろ話さなければもったいないとさえ感じた。彼らは基本文法はめちゃ
くちゃだが日本人より話せてしまう。
それは話すことを恐れず英語による会
話の経験値に差があるような気がする。
とにかく会話し英語を身体で覚えたほ
うが字を書いたり、教科書を読むより
印象的に残るし覚えやすいようだ。ま
た、留学生同士、同じ学校に通うと徐々
に成績に差がうまれる。こういった競
争心を煽られるのも刺激的で自分のた
めになった。
語学学校とホームステイでの生活は半年間続き、次のステップとしてカナディアンレ
ストランでバイトをしつつ、約半年間自分の力で生計を経てた。飲食店で主にシェフと
して働いていたが、そこでは学校よりもより生きたカナダの現代英語に触れ、とまどう
こともあったが会話自体は慣れていった。だが、お金を貰う立場にいるため英語はでき
てあたりまえだし、学校にいたときよりもより正確に理解しないと周りに迷惑をかけて
しまうプレッシャーとの戦いがあった。それが学校と職場の違いだ。そのおかげか自宅
に帰ると常に辞書で英単語を調べたり、ビジネス単語も覚えることができたのでよかっ
たと思う。
バンクーバーは毎月のように祝日には大きなイベントがあり、勉強もそうだが思い出
もたくさん残せた。またご飯に困ることも少なかった。バンクーバー自体が留学の街と
して有名だが、そのおかげでスーパーにいっても日本食があり、レストランも日本食か
らジャマイカ料理など世界各国の料理が本格的に食べれるのも魅力的で楽しかった。
留学をして英語力も上がったが一番私の財産になったのは一人で異国の地で一年間
やりとげたその姿勢だと思う。もしいま目標もなにもなくただただ大学生活を送ってい
る学生がいたら私は留学を勧めたい。経済的にもワーホリなら問題はないので一度考え
て見たらいかがだろうか。きっと私のように何か今後の人生で役に立つ何かを得られる
と思う。
【卒業生 海外生活・海外企業派遣】
夢は「語る」ものではなく、「叶える」もの
~ベトナム航空の客室乗務員になって~
吉田美沙子
大学4年の冬より中部国際空港で約 3 年間大
韓航空のグランドスタッフ業務を経験した後、
2007 年 11 月よりベトナム航空の客室乗務員と
して働き始めて現在 9 年目になる。今は、ベト
ナムベースで日本線(成田、羽田、名古屋、大
阪、福岡)を中心にベトナム国内、東南アジア、
オーストラリア、ヨーロッパ線に乗務している。
ベトナム航空は、
現在航空機 101 機を保有し、
18 ヶ国 46 都市とベトナム国内を結ぶ重要な役
割を担っている。ベトナムは 1986 年のドイモ
イ政策後、外資系投資家が参入できるようになったおかげで急速に市場経済が発展し、
外国からの移住者も急速に増加した。歴史的には、フランス、ドイツ、ロシア、オース
トラリア、アメリカと深い関係にあり、これらの国にベトナム人が多く居住しているこ
とも弊社が各都市へ就航する理由の 1 つでもある。以下、私の経歴を追いながら、ベト
ナム航空で働くようになって思うところを書いてみたい。
大学~グランドスタッフ時代
大学時代は、大学のプログラムでオハイオ大学に約 4 ヶ月間留学し、言語や異文化を
学んだ。アメリカでの 4 ヶ月間は私の人生に初めての大きな衝撃を与えたことを深く記
憶している。言葉はもちろんのこと、文化や習慣が今までの自分の世界とは 180 度違い、
見るもの、感じるもの全てが新鮮で、毎日朝 3 時までの図書館での勉強やネイティブス
ピーカーの学生と同じ授業を受講し、理解することは大変だったが、何をしていても楽
しい日々だったことを思い出す。
私は小さな頃から飛行機が大好きで自宅の近くにある小牧空港によく通っていた。幼
い頃は航空管制官に憧れたが、小学校に入学する頃から、英語を含む他言語が使え、色々
な国を飛び回ることができ、様々な文化を持った方々と触れ合える仕事であるこの客室
乗務員になりたいと思うようになった。留学から帰国してすぐ大学での授業と同時進行
で、客室乗務員になるための専門学校に通い、客室乗務員になるために必要な所作や言
葉遣い等を学んだ。英語に関しては、専門学校で TOEIC の集中講座を受講したり、大
学のプログラムでボランティアとして留学生のカンバセーションパートナーに応募し
たり、オハイオ大学留学時代の友人とメールを交換したりと積極的に英語を使える機会
を探していた。就職活動では一般企業は全く受験せず、航空会社一本に絞って活動した。
そんな中、大韓航空のグランドスタッフとして内定を頂き、在学中を含め約 3 年間中
部国際空港で働いた。偶然にも出発ゲートで塩澤先生を送り出したこともある。ここで
の経験は私にとって次のステップに進むための大きな糧になったと今でも強く感じる。
大韓航空在籍中も客室乗務員の募集が出れば必ず応募していた。数えきれないほどの書
類を送り、数えきれないほどの面接を受けに日本全国を飛び回った。客室乗務員の試験
は少し特殊で、人物像やコミュニケーション能力、所作の他にも、特にアジア系の航空
会社からはその会社のカラーにあった容姿、身だしなみが求めらる。面接の度、受験す
る会社の求めている人材を細かい部分まで調べ上げ、私が実際に制服を着て乗務したと
きのことを面接官が想像しやすいように準備して面接に臨んでいた。また、職を持ちな
がら面接を受けることは日程の面で毎回容易ではなかったが、同僚の理解とサポートの
おかげで転職活動を続けられた。前職の同僚たちに対しては今でも感謝の気持ちでいっ
ぱいだ。
ベトナム航空客室乗務員に
2007 年 11 月にベトナム航空から内定を頂いた。訓練日程のメールを頂いた時、母と
共に涙して喜び合ったあの感激は今でも忘れられない。3 ヶ月の訓練期間は、驚きの連
続であった。期待に胸膨らませていた自分の思い描いていた環境とは違い、初めてのベ
トナムでの生活、初めての訓練、勉強と試験の毎日、同僚との共同生活、会社との契約
交渉など、現実の問題に打ち
当たり解決策を見つけるとい
う自分の全能力が試される試
練の日々の連続であった。夢
だった客室乗務員として初フ
ライトに乗務できる日を心待
ちに、日々の訓練を乗り越え
ていたことを思い出す。初フ
ライトは大阪線に乗務し、満
席のお客様と共に飛行機が離
陸し、飛び立った瞬間のあの
感動は今でも鮮明に覚えてい
る。やっと今まで努力してきたことが実った、ここまでの道のりは単調ではなかったが
諦めずに本当によかった、小さな頃からの夢がやっと叶ったのだと、初めて心から思え
る瞬間だった。
言葉の壁、文化の違い、教育の違い
ベトナムに来た当初は、文化や習慣の違いに驚くことばかりで、またベトナムは社会
主義国ということもあり、様々な面で矛盾を感じることが多く、平等ではない社会に疑
問を感じることも未だ多くある。
日本では当たり前だったようなことも、教育の違いだろうか、どのように説明しても
そのことの意味さえも理解してもらえず、苦悩、葛藤した。また、ベトナムはタクシー
や街中ではあまり英語が通じない。相手が伝えようとしていることを理解できない。自
分の伝えたいことが伝えられない。身振り手振りでなんとか意思疎通はできるものの、
当初は何をするにも時間と手間がかかった。言葉を勉強することが一番の解決法なので、
ベトナム語も必死で勉強した。だが、とうてい生活や仕事で使えるレベルまでには簡単
には上がらない。私は外国人としてこの国にいるということ、この国は日本ではなくベ
トナムだということ、スムーズに行かないことが当たり前、予定通りに行かないことも
また面白味があると、発想の転換をしながら、どのようにすればストレスなくスムーズ
に事が運ぶのかを日々模索した。
昨今ベトナム経済は低迷とのニュースが蔓延っているものの、まだまだベトナム経済
の可能性は果てしなく、特に日本線は観光のお客様より出張やお仕事でご利用になるお
客様が多くいる。日本のお客様が求めているサービス、細やかな心遣い、おもてなしの
心をどのようにしたら現地クルーに理解してもらえるか、お互いの文化の相違を理解し
合い、受け入れ、歩み寄りながらお互いにとってベストな着地点を見つけることに苦労
した。
このお仕事をさせて頂くようになって本当にたくさんの方々との出会いがあった。ベ
トナム人の同僚や欧州をはじめ世界 47 カ国
からの集まってきた 4000 人の多国籍の同僚
に始まり、プライベートでも様々な文化を
持った方々と交流させて頂く機会が多くあ
る。日本人としての私、客室乗務員として
の私ではなく、枠を取っ払いお互いの価値
を認め、ひとりの人としてお付き合いして
くださる方々に恵まれたことには心から感
謝している。様々な考え方や文化を持った
方々との出会いの中から、日本で生活して
いた時はコンプレックスに感じていた自身
の個性や価値観、人生のコンセプトを自信
を持って認めることができるようになった。発言することのできる環境、個性があるこ
とが当たり前、価値観の多様性が認めてもらえる。多国籍な方々とお目にかかることの
できる環境にいて、本当によかったと思う。
夢に向けて行動すること
最後に後輩の皆さんへのメッセージでこのエッセイを閉じたい。まず、夢が見つから
ないと苦悩している皆さん。夢は自分の気付き次第で見つかるはず。夢に気付こうとす
るマインド、夢に気付ける視点を持てるよう、また、自分の人生に何が必要か気付ける
よう、今、自分を客観的に見つめながら模索してほしい。考えることから逃げないでほ
しい。そして、それに向かって行動してほしい。今だけではなく 10 年後、20 年後の自
分自身がどうなっていたいかを想像できれば自ずとビジョンが膨らむと思う。
次に、就職に向けて活動されている皆さん。夢は夢で終わらせなければ必ず叶います。
皆さんの考え方次第、行動次第、努力次第でどんな世界でも切り開いて行けるはずです。
挫けそうになったとき、諦めそうになったとき、
「夢は見るものでなく、語るものでも
なく、叶えるものだよ」と、母から言われたことが私の中で大きな励みになりました。
一度や二度失敗しても問題はない。そこから学ぶことは一度で成功するより遥かに多く
あるはずです。
どんな夢でも、スタートするのに遅過ぎるということはありません。ベトナムに来て
9年、この経験の中から私自身も今次の夢に向かって進もうとしています。人生は、常
に気付きと学びの連続です。それらと真剣に向き合い、惜しまず努力し続けた人にのみ、
人生の真の恵みと心からの幸福が与えられると私は信じています。
後輩の皆さん、忘れないでください。人生は一度きりということを。皆さんの人生は
皆さんのその手で創り上げるものです。様々なことに挑戦して、経験を重ねて、恵み多
き人生を皆さんのその手で開拓して、構築していかれることを心から願っています。
カナダで生きる
~主婦、寿司シェフ、漁師、そし
てハンターとして~
有紀子今泉 Thomas
2015 年の 12 月で、カナダで生活を初めて 9 年が経
った。30 歳ギリホリ(ギリギリワーキングホリデー)
で来たカナダも今では、自分の生活する場所だ。山で、きのこを探しながら、犬の散歩
をしたり、日本なら不可能かもしれない女性の寿司シェフとして生活を営んでいる中、
いろんな異文化を経験している。
私はカナダ人と結婚し、今はカナダの田舎に住んでいる。私がこの町に来た頃、日本
人は私しかおらず、引越し後すぐの頃は、スーパーで買い物をしていると、二度見され
ることもよくあった。気分が悪いと思うこともあったが、その後、アジア人の私に慣れ
たのだろう。今では、白人特有の気軽に話しかけるという状況が多くなった。
ここカナダでは、マッシュポテト、ゆでた野菜にメインはお肉にグレービーソースが
夕食の基本である。地元の人があるときお寿司を買いに来てくれたときの話だ。お客様
が生の魚と聞いて、遠慮なく、
「それは、気持ち悪い!」とか「オエー」などとハッキ
リ言った。日本人なら少し遠慮しながらその気持ち悪さを伝えるが、こちらの人は、実
にハッキリと自分の気持ちを伝えてくる。ストレートでわかりやすいが、たまにカチン
と頭に来てしまう。そのときは、気持ちを抑えて、調理済みのお寿司もあるよと勧めた。
「オエー」と言ってた彼女も、お寿司を食べていくに連れて、本物のお寿司に慣れてい
くはずだと考えた。いまでは、生の魚のお寿司を食べて、
「うわーワンダフル!」
「デリ
シャス!」などと言ったハッピーな返答も帰ってくる。皆、楽天家たちだ。
昨年の秋、カナダでは政権交代があった。新しく国民から選ばれたトルドー首相が選
んだ三十人の閣僚たちは、女性が半数だ。男
女平等の社会である。私たちの家のお隣のブ
ラッド夫妻は、奥様アマンダが仕事に出て、
旦那様のスコットが「主夫」である。スコッ
トは朝食はもちろんアマンダのお弁当、ディ
ナーを作り、洗濯、家の掃除、ゴミだし、芝
刈り等すべての家事をしている。アマンダが
「ビール」と言えば、
「はい、どうぞ、ベイビ
ー」と笑顔で言いながらビールを冷蔵庫から
不動のアマンダへ渡す。究極のレディーファ
ーストの家だ。私が主人のためにビールを冷
蔵庫から渡すとアマンダは、
「ノー!
駄目!
それは男の仕事」と私に言うほどだ。日本の
男性もレディーファーストで優しくなってき
たが、カナダの男性は、その表現が比較にな
らないくらい上手であると思う。ドアを開け
るのはもちろん、コートやジャケットをさりげなく奥様や彼女に着せる、椅子をひいて
あげるなど、女性への優しさやもてなしが素晴らしい。小さい小学生の男の子でもレデ
ィーファーストが出来てしまう。子供の頃からレディーファーストを身に付けている。
また、彼らは 18 歳を過ぎると、日本人と比べて、
非常に独立しているというか大人であると感じる。
私もそうだったが、親に一部だが学費を払ってもら
い中部大学へ通っていた。だが、多くのカナダ人は
自分で学生ローンを組み、大学へ行き、卒業し、三
十代後半になってもそのローンを自分で返すことが
一般的である。また、田舎だからだろうか、この地
域では大学へ行かず、家の家業、漁師や農家などを
継ぐというのも多い。生きるということが、教育や
労働と非常に密接に関係していることを実感する社
会である。若いからといって、日本の大学生のよう
になんとなくその日暮らしで生きて、卒業後もなん
となく生活が送れるというようなことはない。広大な自然と厳しい冬、仕事と暮らしの
質が直結している。生きる厳しさと喜びを常に実感して暮らしているような気がする。
私も頑張ってトラック(バン)を購入し、ペンキを塗り、週に何回か寿司を町に売りに
行く。春や夏には夫とハマグリや魚を近くの海辺まで取りに行く。冬には愛犬と一緒に
雪の中を散歩して、時には猟銃をもってハンティングに行くこともある。もちろん取っ
たものは、冷凍にしたり、小さいものはその日の夕食になる。日本とはかなり違う生活
だが、幸せな日々である。
これからも、カナダ人からすると異文化であるお寿司を売りながら、私はカナダの異
文化を満喫していきたい。こんな異文化だらけの生活をしていると、主人には、皮肉っ
ぽく英語や異文化コミュニケーションを学んだ甲斐があったねとよく言われる。私はも
ちろん “Of course!”と答える。
異文化では何の意味もなさない日本の常識や感覚
~激変する中国で働いてみて~
古田
亮
日本の本社から香港支社に赴任して 1 年程が経ち、ようやく海外の生活に慣れて来た。
小さい頃中国で生まれ育った私は、中国の生活に簡単に慣れると思っていたが、そうで
はなかった。中国残留孤児となった祖母と小学生の頃日本に帰国して以来、私はすっか
りと日本の便利な生活に慣れ過ぎていた。
私の会社は香港に事務所と深圳に工場があり、
一週間に香港と深圳を行ったり来たりしている。
こちらの気候は日本と違い、四季はなく一年を通
して暑い。湿気も多く、気づけば服がカビていた
りすることもよくある。言語は普通話(中国北京
語)と広東語と英語を主に使っているが、香港の
広東語は粵語と呼ばれ、深圳の広東語とは少し違
っている。普通話と広東語は文法や表現方法、発
音が全く違う。普通話の声調が四声であるのに対
し、広東語では九声である。また、多くの鼻音が
あり、何度も勉強しようとしたが鼻炎になりそう
で諦めた。香港の食べ物は広東料理と呼ばれるが、
深圳には元々深圳人はおらず、周りの地域から移住した人で成り立っているので、いわ
ゆる深圳料理というものはない。それぞれの地域の料理を食べらることができるが、ほ
とんどが舌が痺れてしまう辛い料理である。
香港と深圳で最も大きく違うのは人と文化である。香港はかつてヴィクトリア・ハー
バーと呼ばれていた。イギリスの植民地だった香港は、中国福建省から移住した人々で
成り立っている。台湾やシンガポール、マレーシアにいる華僑にも福建省出身者が多い。
台湾語の閩南語も福建省の方言である。香港人は、中国大陸に住む人たちのことを「大
陸人」と呼び、彼らは教育のレベルが低く、教養がなっていないと軽蔑している部分が
ある。しかし、日本人は賢く、頭が良く、教養があるとして好かれている。
香港は香港政府管轄の自由貿易区域の為、色んな海外製品を購入することができる。
但し、海外で購入する価格のおよそ2、3倍の値段で買わなければならない。私が一番
理解できなかった香港人の文化は空調で、真冬でも冷房 18 度に設定しておくことだ。
事務所ではセーターを着て身を震わせながらいつも仕事をしている。彼らに言わせると、
空気の循環が必要だからということらしく、年がら年中 18 度でエアコンを点けている。
エアコンフィルターの方がよほど細菌だらけなのに…といつも心の中で思っている。彼
らのカジュアルファッションは日本人に近く、基本的にナイキ、アディダス、ニューバ
ランスが好きだ。ブランド品については、日本人のルイヴィトン、グッチ、シャネル好
きとは少し違っている。
香港人の仕事能力は高く、自分の仕事や任されたことは、監督しなくともしっかりと
最後まで期待以上のことをする。しかし、自分の仕事や担当ではないものについては、
関係がないと一切手伝おうとはしない。また、お金には敏感で、
「会社が儲かる=自分
達の給料が増える」と考えており、会社にとって誰かがマイナスをもたらすと、それが
日本人であっても彼らは総経理に構わず意見を述べるのである。一方中国人は、怠けら
れるなら怠けて一日を過ごし、自分にお金が入ることが一番であるため、会社の廃材を
個人的な闇ルートで売ったりと怪しいことをする人も沢山いる。深圳は香港に影響され
てか、英語を話せる人が多くファッションも自由で、統一性がなく、様々な格好をして
いる人がいる。お金持ちはなぜかパーティードレスの様な物を着ていることが多い。昔
のイメージである自転車だらけの中国とは打って変わり、今ではベンツ、BMW、クラ
ウンといった高級車で道路は埋め尽くされ、いつも渋滞だらけだ。中国では現在不動産
等で富裕層になった人たちは派手に遊び、いい物ばかりを食べているが、一般庶民は何
とか生活をやり繰りしているのは昔と変わらない。こちらでも高いとされる日本食レス
トランに行っても、下品に大声で笑ったり、酔っぱらっている中国人を多く見かける。
しかし、日本人がお金持ちなんて時代は遠に過ぎており、今は中国人の方が圧倒的にお
金持ちなのである。
その一方で中国がコピー大国であることは変わらず、街に行けばブランド品のコピー
物がいっぱいだ。それだけでなく、恐ろしい食品偽装はそこら中で起きている。例えば、
下痢止め剤を混ぜた腐肉ソーセージ、死体洗浄用のホルマリンに付けられたイカ焼き、
殻から中身まで全部偽物の卵、紙で作られた米、糞と汚水で作られている臭豆腐など、
数え出したらキリがない。だから、中国人は香港へ生活用品を買いに来るのである。因
みに私は中国食品は信じられないので、こちら
に来てからは外食では肉を殆ど口にしていな
い。小籠包を食べる時は、中の具をほじくり出
して、皮だけを食べている。不思議な目で見ら
れることにも、もう慣れている。
日本との違いや、伝えたいことはまだまだ沢
山あるが、最後に1つだけ皆さんに伝えたいこ
とは、中国政府の反日洗脳はもう効き目が無く
なっているということだ。実際土日に非常勤で
日本語教師のアルバイトをしている私は、多く
の学生から日本が好き、戦争洗脳ドラマはもう
見飽きたと言われることが多い。こちらで仕事
をしていると、日本では味わえないことや、考
えられないトラブルがある。それは画一的、閉
鎖的な日本では感じられないことでもある。私はここでの経験で実感したことは、私達
が知っている常識や感覚は異なる文化を目の前にすれば、何の意味もなさないというこ
とだ。世界は想像を絶するほど広く、多様で、常に新しい異文化体験がすぐそこで私達
を待ち構えているのだ。他人の目ばかりを気にして、それでいて自分の将来をまともに
考えていない日本の多くの若者など、あっという間に吹き飛ばされてしまうかもしれな
い。それが異文化というものだ。
5 年間のアメリカ赴任で思ったこと
網野
剛
5 年間のアメリカ赴任を終え今年
の 9 月に帰任した今、赴任期間の 5
年間と出張の期間を含めるとアメリ
カで働いている方が長くなってしま
ったことに気づく。私が入社した会
社は自動車部品関連と機械の自動化
設備を主に扱う会社である。先の某
自動車メーカーの現地調達の流れを
受け、アメリカにも会社を設立した
のがきっかけで、英語を勉強した人
材が欲しいという ことが縁で入社させて頂いた。
私の異文化体験について書く前に、アメリカの大きさと多様さについて触れておきた
い。今更何を言っているのだろうと思うかもしれないが、実際にアメリカという国に暮
らしてみて、その大きさと多様さには驚いた。多種多様な人種が暮らし、地域、州によ
って文化や法律まで異なる。アメリカが出来てからの歴史は日本より浅いながらも、そ
の地域の背負っている歴史によって文化の形成がかなり異なっている。地域によって風
土も環境も全く異なる。私が滞在していたのは南部であるため、必ずしも一般化できな
いということを前置きしておきたい。
さて、私の暮らしていたところは、ケンタッキー州のエリザベスタウンという場所で
ある。映画好きならばオーランド・プルームとキルスティン・ダンスト主演の映画『エ
リザベスタウン』の舞台になった(撮影のほとんどは違うところで行ったと会社の現地
スタッフに聞いてしまったが・・・)町である。ルイビル(人口全米 27 位)という大
きな都市から国道 65 号線を約 1 時間弱ほど南に行ったところにある。ケンタッキー州
というとまず先に、ケンタッキーフライドチキンが頭に浮かぶのではないかと思う。競
馬が好きな人ならば、ケンタッキーダービー、お酒が好きな人ならばバーボンが頭に浮
かぶはずだ。正直言って、日本人から見ればそれほど有名な観光地でもなく上記で書い
たこと以外は、日本になじみのない州である。
序論はこれくらいにしておいて、私が身近に体験し・感じ・失敗した異文化体験を衣・
食・住に分けて書いていこうと思う。
衣
初めに感じたのは、なんで現地の人はこんなに寒いのに薄着で平気なのかということ
だ。私を含め日本人スタッフや出張者が厚着をしていても現地の人はコートの下は T
シャツという姿の人が多い。実際気になっ
たので、現地のスタッフの何人かに聞いて
みたことがある。返ってきた答えが、ほと
んど同じだったのには正直驚いた。彼らが
言うには、自宅はセントラルヒーティング
で、夏は涼しく、冬はあったかい環境にあ
る、会社も、もちろんセントラルヒーティ
ング、一般的なお店もセントラルヒーティ
ングが入っている。だから、出社・帰宅の
時の車に乗り込むまでの数分だけ「暑い・
寒い」思いをするだけなので無意味に厚着
をする必要がないということだった。アメ
リカらしい合理的な考えで面白い。だが、
さすがに外気温が、–20°にもなると皆、厚
着をしてきたのが笑えた。
次に疑問に感じたのは、雨の日になんで
傘を差さないのだろうとういことだ。この答えはいまだに謎である。現地スタッフに聞
いても「なんでだろ? わかんないや(笑)」という答えしか返ってこない。日本なら
傘を差すような雨でも、ここでは小走りになる、又は、パーカーのフードを被るといっ
たことで雨をやり過ごす。大手小売りチェーン店のウォルマートでも傘のレパートリー
は驚くほど少ない。
サングラスをかける目的をどのように思っているだろうか? 日本ではサングラス
はファッション的な感覚が大きく、強い日光を防ぐという本来の目的では使われていな
いことも多々ある。私自身、ファッションで付けることが多かった。だが、アメリカの
日光は強烈である。正直、車の運転中に日光に向かって走る時はサングラスをかけなけ
れば辛い。日光浴も少しの間で「ぽかぽか」から「暑い」に早変わり。もし、アメリカ
に来て車の運転をする機会がある方はサングラスの持参が必須だ。
食
私自身は洋食が好きなので問題ないが、和食好き、または洋食嫌いにとってこちらの
食事は死活問題である。私の妻はどちらかといえば和食好きで、こちらでの少ない食材
の中から色々と考えて和食を作ってくれた。子供たち、特に長男が大好きなのがピザで
ある。ピザは日本に比べて驚くほど安くておいしい。日本の大手デリバリーピザの場合、
L サイズは 1 枚 3000 円くらいだが、こちらでは L サイズが 1 枚 10 ドルくらいで注文で
きる。しかも、トッピングから生地・ソースまで自分の好みで選べるのがうれしい。も
ちろん店オリジナルのレシピのピザもおいしいのだが、自分たちで自分たち好みのピザ
を作るのは一興である。一度試してみるといい。私のおすすめするピザ屋は、パパジョ
ーンズだ。
レストラン等での日本との違いは、サイ
ドメニューを自分で選べることだ。サイド
メニューとは付け合わせ料理のことであ
る。メインの料理、例えばステーキを注文
した場合は、メニューにサイド 2 つと書い
てあればサイドメニューから好きなサイ
ドを 2 つ選ぶことができる。このサイド選
びも人それぞれで面白い。
ハンバーガーの定義もアメリカで知っ
た。日本のマクドナルドやモスバーガーなどでは、バンズに何かを挟んだ食べ物をハン
バーガーと呼んでいると思うが、アメリカでのハンバーガーは牛肉のパティを使った物
のみがハンバーガーと呼ばれる。よって、魚や鶏肉を使ったものは「サンドイッチ」と
呼ぶ。現にアメリカのハンバーガーショップに行き、牛肉以外の肉を使ったものはメニ
ューにサンドイッチと書かれている。でも、牛肉を使った場合でもローストビーフサン
ドイッチ等が存在するのが謎である。
住
アメリカのキッチンには必ずディズポーザーが付いている。シンクの排水溝の下にミ
キサーみたいなものを設置し、生ごみ等を砕いて排水と一緒に流すシステムのことであ
る。アメリカでは一般的な装備で、アパートやキッチン付きホテル、一軒家に至るまで
結構な確率で設置してある。
このディスポーザーが生ごみを出さなくて良い点は本当に便利なのだが、これが曲者
なのである。ここでは興味本位で怖いもの見たさの私がした失敗談をお伝えしたいと思
う。まず、卵の殻や細かく切った野菜、細かい魚の骨は問題なく処理してくれる。ダメ
なのものは、セロリの繊維質、トウモロコシの髭と葉、生の牛肉の固いスジで、これら
は入れてはいけない。処理しきれずに排水溝の管に詰まってしまう。詰まってしまって
からの後悔は大きい。下の配管をばらして詰まったものを取り出すのだが、シンクの排
水溝とは言え排水溝なので相当臭い! その臭い中でつまりを直し、復帰するまでは結
構な労力が必要で、つらい経験になる。上記の 3 つはディズポーザーに流さないよう注
意が必要だ。
以上はあくまで私が感じ、体感した異文化体験である。人は皆、感じ方や考え方が違
う。私の体験を他の人が体験をしても同じようには感じないかもしれない。だが、身近
な細かい体験ほど教科書には載っていないもので、面白いと感じる可能性が高いはずだ。
日常のちょっとした習慣の違いや衣食住の違いこそ異文化の醍醐味であると私は今だ
からこそ思えるようになった。海外に出て、自分なりの異文化体験をして、自分で感じ
てみると色々なものが見えてくるかもしれない。発想の違いや価値観の違いがどこから
出てくるのか、ふとしたことから答えが見つかることもある。アメリカ人の大ざっぱさ
や楽観的なところは、やはりこの広大な空間や豊かな自然があるからこそ心に余裕がう
まれ、その結果産み出されてくるのだと実感できるはずだ。
まだまだ書きたいことは沢山あるが、紙面の関係上ここで筆を置く。後輩の皆様には
ぜひ自分が育った環境とは異なる「経験」や「空間」に身を置き、自分なりの体験をし
ていただきたい。世界を色々な角度から見る目が養われるとともに、自分の大きな成長
となる。つたない私の体験だが皆様の今後のお役に立てて頂けたら幸いである。
【卒業生海外体験】
これだから、ひとり旅はやめられない
~フランス一人旅のはじまりは野宿を覚悟~
坂
香澄
在学生の頃は落ちこぼれの私だったが、
オハイオ大学での長期研修を機に、今では
国内外問わず一人で旅に出るようになっ
た。そうした中、鹿児島に行った際に知り
合ったのがパリに住むアルゼンチン人の
女性セレステとフランス人の男性ヤン夫
婦であった。ふたりとも日本語は話せなか
ったが、英語が話せたのですぐに仲良くな
れた。旅の後も連絡を取り合い、「もしパ
リに来るならウチに泊まってね!」と言ってくれたので、知り合って約半年後の 12 月、
私は本当にふたりの住むパリへ一人飛び立ったのである。7 日間の滞在の中、機内で出
会ったイケメンやマルシェで出会ったおじさん、シャルルドゴール空港で口論をした受
付スタッフ…、書き連ねたいストーリーは山ほどがあるが、ここではフランスに着いた
直後のことを中心に書きたいと思う。
セントレアから北京で乗り継ぎ、シャルルドゴール空港へ着いたのは夕方 6 時ころだ
った。心優しいイケメンにバスターミナルまで案内してもらい、家の住所とセレステの
携帯番号が書かれたメモを片手に 7 時頃ようやくバスに乗った。しかし私はバス停の名
前の発音が分からず、そもそもバスの行き先はあっているのか? という不安にもから
れバスを降りてしまったのである。とにかくセレステに電話をしなければと近くにあっ
たショッピングモールへ入った。しかしクリスマスシーズンということもあり、とても
混んでいて、案内所にもたくさんの人がいた。日本のように公衆電話がないかと探した
が、それらしきものは見当たらなかった。大きなスーツケースを引きずりながら、私は
ショッピングモールを後にした。外で人が集まっているのが見えたので近づくと、そこ
は地下鉄の駅前であった。そこに集まっていたのはほとんどがアフリカ系の男性ばかり
で、確実に私が近寄れるような雰囲気ではなかった。時刻は 8 時 30 分を過ぎていた。
辺りを見渡してみると、公衆電話らしきものが目に留まった。「これで救われた!」と
思った。もしも公衆電話が見つからなければ、私はここよりも安全であろう空港へ戻り、
野宿すると覚悟していたからである。
足早に公衆電話に近づいて愕然とした。数字のボタンと受話器があるので公衆電話で
あることは間違いないのだが、コインを入れるとこ
ろがないのである。なにか書かれているがフランス
語なので全く分からない。仕方なくもう一度辺りを
見渡すと、駅の入り口付近に 50~60 代の小太りな
西洋系男性が立っていた。私は英語で"Excuse me, sir.
Do you speak English? May I ask..." と言ったところ
で、"No, I do not speak English."と遮られたのである。
え?
今の英語だったよね?
と私は一瞬かたま
ったが、もう一度話しかけた。"I just want to make a
phone call to my friend, so I want ..." "NO! NO
English!!" 玉砕である。こちらを見ることもなく、
片手で追い払うような仕草をされてしまった。拒絶
されたことは悲しかったが、フランス人の、特に年
配の方は英語が話せても使いたがらない、という話を聞いたことがあった。そんなフラ
ンスの文化を身をもって知ることが出来て、私は嬉しさすら感じたのである。しかし喜
んでいる場合ではない。私はセレステに電話をしなければならないのである。
西洋系男性に話しかけたことで緊張がほぐれたのか、もう怖いものがなくなった私は、
あのたむろしていたアフリカ系男性の集団に話しかけた。近くで見ると彼らは 30 代く
らいであった。私が英語で話し掛けると、"English?!"と一人が言い、おそらく「誰か英
語できる奴いるかー?」のようなことをフランス語で仲間たちに問いかけ、中でも一番
の大柄な男性が片手を挙げて私に近づいてきた。おおっ、とやや怯んだが、もう頼れる
のは彼だけある。私はまず公衆電話の使い方を聞いた。しかしあっさりと「知らない。
こんなもの使う奴見たことない」と返されてしまった。そこで私は、日本から友人に会
うためにパリに来たこと、友人宅への道のりが分からないので友人に電話をしたい旨を
男性に伝えた。すると彼は大きな声で"Do you have money?"と言ったのである。恐怖が
ちらついて返答に迷ったが、"Yes"と答えた。男性は、"Just one call, OK? One call!"と大
きな声で言いながら自分の携帯電話を差し出してくれたのである。見た目は怖かったが、
とても優しい男性なのだと分かり、私はお礼を言ってセレステに電話を掛けた。ところ
が、なんと留守番電話になってしまうのである。電話を貸してくれた男性も一緒に番号
を見ながらかけてくれたが、直ぐに留守番電話になる。
もう無理だ、と絶望的な気持ちになっていると、男性が、友達の住所は分かっている
のか? 地図は持っているのか? と聞いてきた。私が家の住所のメモと地図を差し出
すと、仲間たちと地図を囲んで場所を探してくれたのである。彼らのやり取りはフラン
ス語だったので何と言っているかは分からなかったが、「俺にも住所のメモを見せろ」
「家はこのへんじゃないか」などとと言っているように思えた。そして英語の話せる男
性が家の近くの駅名を紙に書き、地下鉄で行けると説明してくれた。さらには改札まで
荷物を運んでくれて、チケットを買うところまで見届けてくれたのである。
こうして私は何とか家の近くまでたどり着いた。最寄の駅に着いた頃、辺りのお店は
閉店し、すっかり真っ暗で人通りも少なかった。ここからはもう地図を頼りに家へ行く
しかないと思い、駅を出たところで立ち止まって
地図とにらめっこしていたが、方向音痴の私は地
図をくるくる回しながら一体どっちに行けば家に
たどり着けるのか全く見当もついていなかった。
そこへなんと、"Kasumi---!!"と叫ぶ女の人の声がし
たのである。振り返ると、大きく手を振りながら
私に向かって走ってくるセレステがいたのだ。
「ど
こにいたの? 何をしていたの? 無事でよかっ
た、会えないかと思った」と話すセレステに、私
はもう何から説明すればいいのか分からず、とり
あえずハグをした。涙が出そうになった。
その後セレステから聞いた話によると、私が伝
えていた到着予定時間を過ぎても連絡がないので
心配をして外を 3 時間も歩いて探してくれていたのだという。そして知らない番号から
の不在着信に気付き掛け直したら男性が出て、女の子に道を教え、家の近くの駅へ向か
ったと言われたので、大急ぎで最寄り駅まで戻ると、地図を持って途方にくれている私
を見つけた、ということであった。こんな嘘みたいな偶然が積み重なることもあるのか
と、私は自分の運の良さに感謝した。そしてこのようなハプニングも含めて、一人で旅
に出たからこそ味わえるものがあるのだと私は思う。これだから、ひとり旅はやめられ
ない。
カナダで気づく日本人としてのアイデンティティー
~1 年間のワーキングホリデイを終えて~
村瀬菜奈果
トロントは寒いとは聞いていた
が、予想以上の寒さだった。運が悪
いことに、私が留学した年は 20 年
に一度の大寒波と言われるほどと
にかく寒い年だった。正直、一年間、
この異常な寒さに耐えれる自信は
なかったが、-20℃越えを経験して
いくうちに、最高気温が 0℃の日に
は「今日は暖かいからいつもより薄着でいいかな」と思うようになった。慣れとは恐ろ
しい。朝、外に出て息を吸って鼻毛がパリパリパリッと凍る日は、「おー!今日は寒い
日だなー。」と震え上がった。鼻毛が凍るか凍らないかを基準にしていた。だが、寒い
国だけあって、家の防寒設備は素晴らしい。家のドアを開ければ玄関から廊下、家中す
べてが暖かい!素敵だ!街の地下設備にも感動した。寒い冬は地上に出なくても済むよ
うに、主要な部分は地下は全て繋がっていて、飲食店、服屋、銀行、色んなお店が揃っ
ていた。トロントは思っていた以上に快適な都会であった。
私が働いていた日本食レストランも地下
にあった。中国人が経営しているが一応日本
食レストランだ。カナダでは日本食が大人
気で、韓国人や中国人がオーナーの日本食
もどきのレストランはたくさんあった。寿
司にスパイシーマヨネーズをトッピン
グ?揚げカスが入って食べるとサクサク
するクランチロール?わけわからない寿
司たちが流行る、流行る!疑問だったが、食べてみ
るとこれが結構美味しいかった。社員さんもみんな中国人だ。だがウェイトレスは全員
日本人の女子で 15 人くらいはいただろうか?その理由は、日本人は「ハードウォーカ
ー」で、中国の女の子みたいにわがままや文句を言わない。それに可愛いのだそうだ。
なるほど。
オーナーは「こういう子を雇っていればチップをたくさんもらえるだろ」と言ってい
た。ちなみにチップは全部オーナーの懐だ。日本人は本当によく働くと言われた。カナ
ダでは、「勤務時間終わったから」と言って仕事を途中放棄して帰るのは当たり前で、
私たち日本人からするとせめて 5 分くらい延長してその仕事終わらせてから帰ってく
れ!という気持ちになったくらいだ。少し損をして働くくらいが当たり前の日本で生活
していると、そんな働き方が自然と染み付いていたのかもしれない。海外で働いて初め
て、これは日本人独特の働き方なのかなと気付かされた。やはり海外に出てみないとわ
からないことが色々ある。私は「菜奈果は海外の方が向いてそう~」とよく日本では言
われてきたうえ、自分でもそうかもと思っていたが、実際暮らしてみると日本人である
ことを強く実感したり、日本で暮らしたいと思った。それはカナダで働いて初めて経験
する感情であったと思う。
現地でできた友達に「今まで何人かの日本人と出会ったが、日本人は全員素敵だった。
悪い人には出会ったことないよ。」と言われたことがあった。正直驚いた!これは素晴
らしいことだと思う。私は楽観的な人間なので、自分も含めて「日本人の大半がいい人
ってことか!」と褒められた気分になり、非常に嬉しかった。
一年間日本を離れて生活して、カナダの良さよりも日本の良さに気付けたことは新た
な発見だった。「海外!海外!永住したい!結婚したい!」と言っていた私だが、日本
人のアイデンティティーに目覚めたこの 1 年間
のワーキングホリデイであった。カナダももち
ろん大好きだが、それ以上に日本が大好きにな
って帰ってきた自分に驚いた。もちろん、日本
人のアイデンティティーを持ちながらも海外
の生活もできるし、世界の人とコミュニケーシ
ョンもできるはずだ。本当の意味で国際人に
なるとは、こういうことかもしれない。それ
を実感した1年であった。
やりたいと思った時にしかできないこと
早川あや
私は大学卒業後、さらに英語を学
びたい、もっと自分の視野を広めた
いと思い、1 年間アメリカへ留学し
た。在学中、オハイオの長期研修に
も参加し、何度か短期留学で海外へ
行ったものの、周りには日本人が必
ず 1 人は居るという環境で、どこか
で甘えが出ていた。それでなかなか
本格的に英語を身につけることが
出来なかったという反省にちかい
思いがあった。ただ、たった 1 人で 1 年間も大丈夫なのかと、正直不安で押し潰されそ
うであった。自分の英語がどこまで通じるのか、現地の人たちに通じるのか考え出すと
キリがなく不安ばかりが募る日々だった。
いざ現地に到着すると不安が消え「やるしかない」という気持ちに自然となり、この
場に友達も家族も誰もいないゼロの状態で不安と戦っている暇はなかった。学校行く準
備を進めているとあっという間に学校が始まり、不安に思っていた友達作りもすんなり
と初日からできた。国が異なっていても「英語を学ぶ」という目的は同じで、友達との
コミュニケーション手段も英語しかないため、ぎこちない英語を話しているうちに少し
ずつだが相手が何を伝えたいのかわかるようになってきた。それが自分の自信へと徐々
に変わっていった。
この 1 年間の留学は辛いこと、悲しいこと、悔しいことなどたくさん経験した。例え
ば、1 ヶ月経った頃のことだ。3 ヶ月の間ホームステイでお世話になっていた人に自分
が伝えたいことが思うように伝わらず誤解を招いてしまったことがあった。少しのニュ
アンスや、語彙を間違えてしまうだけで正しく伝わらず悔しい思いだ。しかし、その悔
しい思いをするたびに誤解を解いて、次に同じ失敗をしないために気をつけるようにし
た。このような失敗から学ぶことが大きな経験となった。しかし、落ち込んでいる時に
力をくれたのは日本にいる家族や友達であった。その場にいなくても弱音を吐けば喝を
入れてくれ、辛い時は励ましてくれ、アドバイスや応援してくれたのだ。離れているか
らこそ、そのありがたみが実感できたのかもしれないが、友人や家族は本当に大切だと
実感した。
今しかできないことが必ずある。その「やりたい」と思った時に行動しないと必ず後
悔する。もちろん何か新しいことを始めるのには 1 人ではできないだろう。私も留学な
ど両親の理解と協力があってできたことでとても 1 人ではきっと「やりたい」と思うだ
けで行動に移せず、社会に出て働いていたかもし
れない。周りが就職し、社会人となり自分だけ置
いていかれたような、気持ちにもなった時があっ
た。だが、この留学が自分にとって今後非常に大
切なものになることを確信し、思い切って親に頭
を下げて、行動した。中部大学の信条ではないが
本気になったらまさに「不言実行」しかないと思
った。本当にやりたいことは、人に話す前に行動
するものだと実感した。言葉にしてから、相談し
ているようでは、まだそれは本当にそれをすべき
かどうかわかってない証拠だ。その意味で、この「不言実行」とは、確信をついている
言葉だと思う。
卒業後に留学をし、自分と同い年の人たちが1年前に経験した社会勉強を私は今、遅
れて経験している。しかし、この 1 年ブランクが空いても自分の「やりたい」と思った
ことはその時にしかできないことだ。そして、それはその遅れなどすぐに取り戻すほど
の価値もあるものとなった。後輩の皆様は「やりたい」と思った直感や気持ちを大事に
してほしいと思う。これから先、嫌でも必ず働くことになるのでやりたいことをできる
うちに、できる範囲でたくさん経験して自分の糧に繋げていけるようにしてほしい。お
金や家族や恋人や色々な問題があるのは当然である。だが、実行するかしないかは、本
人がどれだけ実現したいかと強く思っているかどうかだと思う。
早く、先にいった社会人先輩の仲間に追いつき、社会でまた新たな挑戦をしてみたい。
衝撃的な夕食に驚いたダンス留学
高岡希衣
私がアメリカでダンス留学をしたいと考えたのは、
周りの人が就職活動を始めた 3 年生の冬であった。友
人たちが就職活動を真剣にしている中、
「就職」とい
う文字が今後の生活を思い描いてみてもピンと来な
かった。6 歳の頃からダンス三昧だった私の生活を振
り返り、「こんなにダンスが好きなら海外のダンスを
見て、学ぶのもありだな」と漠然とした考えが、決断
に変わったのは 4 年も卒業まじかの年明けの 1 月であ
った。それまで貯金することが苦手だった私がすぐにお金を貯められるはずもなく、や
っと危機感を感じた頃にはもう卒業式が目前に迫っていた。3 月にこのままグダグダし
ていたらいつまで経ってもいけないと自分に喝を入れた。そして、4 月から 10 月まで
の半年間で無事 100 万円貯め、留学エージェントと話し合い、ロスへ留学が決まった。
100 万円あれば、何カ月も行けるのではないか、と何も調べずに思っていたが、ダンス
スクールの学費などを含めると、100 万円では 1 ヵ月半の滞在が限界だと知った。長さ
ではない。この期間をとにかく濃い時間にしようと思い直し、アメリカへ旅立ちたった。
ロサンゼルスに着き、現地のエージェントに迎えられホームステイ先の家まで連れて
いってもらったが、道路から建物から何から何までアメリカのドラマや映画で見たこと
あるまさに、
“アメリカ西海外”という風景であったので期待で胸が膨らんだ。しかし、
ホームステイ先に近づくにつれて、道路は汚く、周辺はなんとなく治安の悪そうな場所
となった。車から降りた時の町の匂いは想像していたアメリカとは程遠かった。臭かっ
た。ホームステイを受け入れてくれた 74 歳のホストマザーは、中国とフィリピンのハ
ーフで、英語も非常に訛っていたのでコミュニケーションは大変であった。
私はこのダンス留学では、英語を学ぶという目的はなかった。むしろ、それをしては
いけないとまで思っていた。ダンスの本場アメリカでの初めてのダンス留学である。ま
ず、これに集中したかった。同じホームステイ先の留学生は日本人であった。私が到着
した 1 日前に来たという希は語学留学生であった。2 人とも初日に顔合わせた時、もう
一人の留学生が日本人でよかった、と
言いあった。ダンス教室では、そのレ
ベルが予想通り非常に高い上に、英語
でのやりとりもままならず、大変悔し
い思いをした。予想していたことだが、
何度もこころが折れそうになった。だ
が、完全にポッキリ折れることはなか
った。希が一緒だったおかげで 1 ヵ月
半、生き延びることができたと言って
も過言ではない。
私は強い小麦アレルギーを持ってい
る。エージェントにも伝えてあったのだが、ホームステイ先のホストマザーは 74 歳の
おばあちゃんだ。全く忘れていたようだ。夜ご飯は何がいい?と聞かれ、「私は小麦ア
レルギーだからね」と念を押すと、その情報を始めて聞いたかのように驚いていた。こ
の時、私は日本の実家で一緒し暮らしている母方の祖母を思い出した。あ、なるほど、
とホストマザーの物忘れを思い出した。私はとりあえず、食べることが出来るものを伝
えた。ピザ、パスタ、パン、麺等は食べられない、と伝えたが上手く理解してくれてい
るかは不安であった。その日の夕食は私は目を疑ってしまった。私のテーブルの上には
ミカンが 1 つだけ置いてあったのだ。食べることが出来ない食材は理解してくれてたよ
うだが、なぜ、夕食にミカン 1 つだったのか。今でも理解できない。彼女は笑顔で「ミ
カンは食べることができると言っていたわね?」と聞かれたが、衝撃的な夕食すぎて何
も言えなかった。その日のミカンは人生の中で最も酸っぱい味のミカンとなった。
翌日からは、「お米を買ってきたから」というホストマザーの言葉に安堵したが、米
は長粒米でまずい。なによりもホストマザーの作る料理が最強にまずかった。見た目で
は、何なのかわからない料理ばかりで、とにかく鶏肉が多かった。ある日、豚肉が食べ
たい、とお願いをしたところ、産毛がついている豚肉が出てきたことがあった。見ただ
けで私たちは気持ち悪くなり、一口も手をつけることができなかったのを覚えている。
さらに衝撃的なのは、ホストマザーは私たちとは別の料理を食べるのだが、ご飯に牛乳
をかけて食べていたことだ。ご飯にアボカド乗せて、砂糖かけて食べていることもあっ
た。見ているだけで吐き気を催すものを、毎日おいしいと言って食べていた。私は心の
底から「異文化って怖い」と思った。
同居人の留学生の希の語学学校の日本人たちとはよくご飯や飲みに行った。希と私は
事ある毎に、「今日は夜ご飯いらない」とホストマザーに伝えた。一緒に夕食を食べず
に申し訳ないとは思うのだが、毎日毎日あの料理は耐えられなかった。
ダンス三昧な平日と、日本人の友人らとの旅行や観光で充実した日々を精一杯楽しん
だ 1 ヵ月半であった。本場のダンスを学ぶという目標は達成したが、あの家でのご飯は
もう二度と口にしたくはない。ダンス留学に行ったのだが、異文化の面白さや恐ろしさ
を再認識した 1 ヵ月半であった。
Life is a Journey
~人生の転機となった西海外縦断の旅~
伊藤修平
卒業して数年経つ。やっと1週間のお盆
休みが取れたので、ロサンゼルスからポー
トランドまでの西海岸の縦断旅行をした。
一人旅のきっかけは意外と単純なもので、
ふとアメリカ映画のように荒野を車で爆走
したいと思ったのが発端だ。元々、西海岸
の文化に興味もあったので良い旅になると
確信していた。
現地の人との出会いとファッションや食文化の旅となった。食文化において、日本で
もオーガニック料理は広まっている。その原点が西海岸である。当時付き合っていた女
性がそういったカフェの開業を夢見ていたということもあり、実際の雰囲気や味を調査
することにした。
まず、後にも先にも忘れられない衝撃を受けたお店がMoon Juiceである。LAへ着いて
すぐに立ち寄ったハリウッドセレブにも大人気のジュースバーである。カリフォルニア
ではオーガニックなジュースがブームで、漢方薬剤師監修によるジュースを早速飲んで
みた。日本を発つ前から楽しみにしていたが、とても美味しいとは言える味ではなく、
正直まずかった。体に良いのは間違いなさそうだが、セレブも大変である。日本の場合、
もう少し味を調整して出すだろう。他にもCafe Gratitudeというオーガニックレストラ
ンでディナー、Commissaryでブランチなどヘルシーな飲食店を巡った。前者で飲んだス
ムージーは絶品だった。どの飲食店も地元の農場より食材を厳選していることを明記し
ていた。
Chez Panisseというレストランをご存知だろうか?1971年にアリス・ウォータースに
よってサンフランシスコのバークレーにて開業されたレストランでオーガニック料理
の原点とされている。今なお何ヶ月も前に予約をしないと席の取れないレストランだが、
外観だけでも見ようとLAを早朝に出発し、おおよそ6時間かけてSFへ向かった。途中、
日本とは比べ物にならない広大な農園や荒野、砂漠を走ることもできた。
私はなんとか開店直前にそのレストランへ着いた。ウエイターに私の彼女のことやそ
の為に色々知りたいという旨を伝えたら、なんと予約無しで席へ案内して下さった。熱
意が伝わったようで嬉しかった。店内はレトロな感じで清潔感もありとても良い。素材
の味を生かし薄味で日本人の舌にも合う上品な味だった。食後、私は勢いで先ほどのウ
エイターに厨房を見たいと言うと、気軽に許可してくれた。厨房の中では10人ほどで活
気があり、仕込みや料理をしていた。ただでさえ、狭い通路をお邪魔しても誰1人嫌な
顔をせず、聞いたことに答えてくれた。今も予約が耐えないのは決して雰囲気や味だけ
ではない。何かがある。その「何か」を発見するために、このお店に私はまた来たいと
思う。
その後、私はポートランドへ国内便を
利用し向かった。「全米で住みたい町第
1位」と称されていることも有り、自然
と都会の共存、サイクリングロードの整
備、DIY精神や積極的な市民活動等、そ
の素晴らしさには納得いった。街中には
屋台があったり、オーガニックを掲げる
小さな飲食店やスーパーもあり、ジャン
クとオーガニックの両極端なモノが当
たり前に立ち並ぶ。どこの通りもワクワクする街に感じた。この街は、サードウェーブ
コーヒーの発信地でもある。その中でもStump Townという有名なコーヒー屋へ行った。
店内に入ると流れていたのは、80年代のシンセポップのNenaのレコードだった。西海岸
でも特にポートランドはレコードのリバイバルがすごい。ここで注文を受けてくれたの
が、Vincentだ。彼に今回の旅の話などをしていると、なんと代金を奢ってくれた。ま
た会いに行く約束をすると、“Whenever, man!”と気さくに答えてくれた。彼とは、SNS
で今でも繋がっている。この旅で、15人ほどSNSで繋がった。この便利なツールを積極
的に使うことをお勧めする。
最後に、ポートランドにはもう一つの顔があることをご存知だろうか。そう、全米1
ストリップが盛んな街でもある。この街には女性にもお勧めのヴィーガン向けの珍しい
ストリップバーCasa Diabloがある。こうしたお店へ行くのも立派な異文化体験になる。
珍しいのは、チップは1ドル札ではなく2ドル札を使うところだ。日本で言うところの
2千円札のように、なかなかお目にかかれない紙幣である。また、ストリッパーがフル
ヌードになることが州法上許されているのも珍しい。それに加え、お酒を扱うお店は食
事のアピールも義務づけられている。そこで私はハンバーガーを注文した。ヴィーガン
(菜食主義者)用のお店なので肉は一切使用していないが絶品であった。
社会人になり平凡な毎日を送っている私だが、今回の旅は転機になった。私は、今転
職活動中である。ポートランドで出会ったVincent、Tea Barというカフェのオーナーで
あるErica、CaravanというコテージのマネージャーのCarrie、サンフランシスコで出会
ったカードショップのRisaらとも関わるような仕事につきたいと真剣に思う。単純な思
いで出かけた旅だが、私の人生の転機にもなるような西海岸縦断の旅となった。
ネイティブのように話すって何?
中山
祥
私は大学を卒業して、2015 年の 6 月から 2016
年の 4 月までの予定でアメリカのニューヨークで
語学留学をしている。語学学校には世界中からの
英語学習者がいる。そこで英語を勉強していく中
で国籍によって様々な発音の特徴があることに気
づいた。アラビア系の人は/s/の発音が苦手だった
り、南米の人々は/w/の発音が苦手だったりと本当
に様々な特徴がある。ただ全員に共通しているこ
とは、皆、自信持って「自分の英語」を話していることだ。正直に言うと、日本人は英
語を話すときに自信無さそうに話しすぎだと思う。
私はここに来て本当に多様な英語を耳にしてきた。聞き取りづらい英語もたくさんあ
っが、どの英語も、皆が必死に伝えようとしてくれると自然と聞きとれることに気付い
た。だが、日本人の英語はどうしても聞き取りづらい。モゴモゴしている感じが多いの
だ。自信がないからか、妙にアメリカ人のように話そうとしているからだろう。そうな
らないように私は自分の英語に自信を持って自分の英語を話している。まずはしっかり
伝えたいという気持ちが大事ではないだろうか。
留学する理由に「ネイティブのように話したいから」と答える人がいるが、これは絶
対に無理だと思う。無理というか別にネイティブのように話す必要など、どこにも無い。
私も大学時代はネイティブのように話せたらいいと思っていた。だが、今私はニューヨ
ークに来て約 7 ヶ月経つが、発音を良くしようと思うことはあってもネイティブのよう
に話そうとは思ったことは一度もない。そんなことを
しなくてもネイティブスピーカーと呼ばれる人々と
普通に会話ができているし、クレームまで言えるよう
になった。ただリスニング能力は必要だ。ネイティブ
スピーカーでも一人一人話し方やテンポが違うので
それに早く慣れるのは大事なことは間違いない。
ある日、語学学校の授業で先生が「ネイティブスピ
ーカーの話し方なんてない」と言っていた。先生によ
るとアメリカの中でも方言があるしその地域独特の
話し方もあるそうだ。先生は続けて、「でもその人達
は自分達の英語に誇りを持って話しているので、君た
ちも自分の話し方に誇りを持てばいい。それはネイテ
ィブでも非ネイティブでも関係ない。向上させるのは話し方ではなく文法力や単語力、
そして1番大切な事はとりあえず話すこと、つまり内容だ」と言っていた。いま、その
意味が本当によくわかる。
ところで、この原稿は「後輩のために何か書いて」と言われ、NYで書いている。も
しこれを留学に行く前の人たちが読むなら 1 つ伝えたいことがある。それは、留学生活
での時間のメリハリはしっかり付けるべきだ、ということだ。私は個人で留学に来てい
るが、周りにも日本人は多い。ずっと日本人同士で遊んでる人達もいる。これは本当に
英語学習においては全く意味のないことだと思う。だが、不必要かと言われたらそうで
も無い。長い海外生活で悩むこともちろんある。そういう時はやはり日本人の友達はと
ても心強い。だからしっかり時間にメリハリを付けて、日本人と居る時間、アメリカ人
や他の留学生と居る時間をはっきりさせた方が英語力は伸びることは間違いないと思
う。
もし留学中に悩んだなら、それがどれだけ厳しくても絶対に後悔しない方を選んでほ
しい。そして、実りある素晴らしい留学生活を送ってほしい。苦労もあるがそれだけの
価値があるのが留学だと思う。渡米後 8 か月が経とうとしている今、これを書きながら
ふと、中部大学の異文化コミュニケーションの授業で『若者たち』という中国人の男性
が、苦労して 2 年かけて日本の大学に入学するというビデオを観たことを思い出す。主
人公の韓さんが最後にこんなことを言っていた。
「今は、人間として「原点」にもどり、
私は「素直」になった。どう生きていけばいいか解ってきたような気がする。日本でも、
アメリカでも、フランスでも何処でもいい。国を離れ、一度でも留学したなら、「生き
ていく意味」が新たに見えてくる。将来、私が年をとったら若い人々にこの「本当のこ
と」を伝えたい。私にはその「資格」がある。何故なら、、、
、私は、ここ日本へ来たこ
とがあるから、
、
、
」私の留学はまだ 8 ヶ月目だが、すでに後輩の皆さんに同じようなこ
とを言いたくて仕方ない。
My Rules: Making Mistakes and Taking Risks
Kohei Iriyonekura
I’m
from
Okinawa
and
studying at Chubu University, which
offers a variety of study abroad
programs. That is the main reason why
I came to this school and, of course, I
joined many study abroad programs. I
spent almost half of my college life
overseas in the U.S., Brazil, and
Australia, where I learned many
things which enlightened and empowered my life. Now I have a dream.
I have a dream that one day I will start a business. In order to do
that, I have to follow the rules that I made such as giving permission to
myself and taking risks. I’d like to explain why these rules are important to
the dream in this short essay.
First, let me explain what it means to give permission to myself.
According to Tina Seelig, who is teaching at Stanford University, not only do
we need to follow social rules, but also we need to follow our own rules. For
example, generally speaking, making mistakes is embarrassing for some
people, and this is why people tend to hesitate to try new things.
When I was a high school student, I really wanted to leave Okinawa
and go to a university where I could study English in a good system and go
abroad for sure. In fact I joined a semester-long study abroad program at
Ohio University in the U.S. and spent another year as an exchange student
at the University of New England in Australia. I also joined a delegate from
Okinawa and visited Brazil to talk about the Battles of Okinawa during
WWII, all of which gave me such good experiences and helped me grow into a
mature adult with some wisdom, knowledge and experiences. However, at
that time I was suffering from an emotional conflict. I thought that if I joined
these programs, it would be a burden on my parents economically. In fact, I
was about to give up on my goal, but because one of my close friends
persuaded me, I negotiated with my family and I was able to give permission
to myself, who was about to give extra financial burden to them.
Next I would like to write about the
second rule: taking risks. Abraham Lincoln
said, “Nothing can fail but without it nothing
can succeed.” In other words, not taking risks
is more risky. When I was a junior high school
student, I joined a handball team. I was from
the weakest elementary school team in
Okinawa while all of my teammates in junior
high school came from very strong teams. At
that time, I had an ambition of being selected
as a member of the national junior team
called JOC. In order to achieve this big goal, I
engaged in independent training more than anybody else every day on top of
regular training with other teammates. My dream was, in a way, a big risk
because I may have been wasting my time playing handball when I could
have been doing something else that I was better at. Even talking about my
dream to become a national team member was a big risk because the other
members on our school team may say that I was just trying to look cool.
However, I took this risk and practiced really hard. Then we won the JOC
Handball Championship in Japan and I was chosen as a junior national
team member. Yes, I realized my dream. If I hadn’t taken any physical and
emotional risks, I couldn’t have changed anything.
By following the rules I made for myself, I have been able to
challenge myself and gained a lot of experiences for my dream. I believe that
I can help people in a small, but good way if I have enough knowledge,
wisdom, and trust from people. I’ve already gained some of these by studying
in the Department of English Language and Culture at Chubu University,
meeting a number of stimulating people, studying in three different
countries, and running my own website for language learning. Maybe it is
possible to change someone’s life in an indirect way if I continue to challenge
myself—even if it is risky. I believe that becoming someone with a number of
experiences and wisdom could change someone’s life. I’d like to do this in the
field of business, which means I need to start my own business some day. I
really hope that one day I can realize my dream. Until then, I’ll try to follow
the rules I made for myself: giving myself permission and taking risks.
I CAN'T BELIEVE I'M IN NEW YORK
Miho Kagami
I couldn’t join the study abroad program at
Ohio University when I was in the
sophomore year for many reasons. But
instead I joined a short study tour program
at Oxford, UK, last year and now I am
studying English in Toronto, Canada. This
weekend I came to New York. Why? It’s because
I really wanted to visit the shooting sites of the
two popular American TV dramas: GLEE and
Gossip
Girl. I visited Washington Square Park, Lincoln
Center Plaza,
the Brooklyn Bridge, Serena's house in Lotte New York
Palace and Metropolitan Museum of Art among others. I learned English
and American culture through these TV dramas and now I’m standing at the
sites where they shot these films. It is really amazing, incredible and perfect
for me. I can't believe I'm in New York...One of my dreams came true😊😊💕💕 I’d
like to study English harder and make my next dream come true... What is it,
you may ask? Oh, I won’t tell you. Dream is not something you talk about. It
is something that you make it happen. Right? :-)
私たちの異文化体験 2015
「長期海外研修参加記」(第 11 号)
______________
発行---
2016 年 4 月 1 日
著者---
中部大学英語英米文化学科 2 年生他
編者---
塩澤正 グレゴリー・キング
デイビッド・ローレンス 島津信子
ヤーッコラ伊勢井敏子 本内直樹 柳朋宏 三上仁志
発行者---
中部大学英語英米文化学科
〒487-8501 愛知県春日井市松本町 1200
電話
0568-51-1111 内線 5441
電子メール english@isc.chubu.ac.jp; shioz@isc.chubu.ac.jp
ウェブページ http://www3.chubu.ac.jp/english/
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製本・印刷---(株)コウムラ