タイのクーデターについて

2006年9月22日
タイのクーデターについて
9月19日に、タイで軍部によるクーデターが起こりました。クーデターといえば、
日本で戦前に勃発した2.26事件のように、下級将校らによる無秩序な武力蜂起を
想い出しますが、タイでは政変の一つと捉えられています。今回クーデターは、タク
シン首相の米国外遊中に起こったものであり、内外では予想外の事態として受け止め
られています。ただし、プミポン国王がこれを事実上容認し、国民も概ね支持してい
るようです。
1.
クーデターの性格
今回のクーデターを主導したのはソンティ陸軍司令官であり、海軍、空軍も加
えた3軍が協力して実行されたものであった。タクシン首相は、その上に立つル
アンロー国軍最高司令官に対し、クーデターへの対処を指示したが、結果的には
抑えきれず、同司令官も3軍に加わった形となった。さらに警察もこれに参加し、
武力を持つ国家権力がすべてクーデターの当事者となり、
「無血クーデター」が事
実上成功した。
ソンティ司令官は、20日、2週間以内に暫定新憲法を制定した上で文民政権
に政権を移譲し、1年以内に総選挙を実施すると表明した。その意味からは、今
回クーデターは、通常ある政権奪取が目的ではなく、タクシン政権を引きずりお
ろすためのものであったといえよう。
また、同日プミポン国王が、ソンティ司令官の「民主改革評議会」の議長およ
び暫定首相の就任を認めた。これは、国家元首たる国王が、事実上クーデターを
承認したものと捉えられている。なお、ソンティ司令官は、国王のもっとも信頼
している側近のプレム枢密院議長(元首相、陸軍出身)と親密であり、同氏との
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綿密な事前打ち合わせがあったものと想像される。
もっとも、タイの軍事クーデターは、1932年の立憲君主制移行以来20回
以上起こっており、直近では91年2月に発生した。このため、国民にとってク
ーデターは政変の一種とみられている。
タイでは、今年在位60周年を迎えたプミポン国王が国民の敬愛を集めており、
憲法上、国王は国家元首でタイ国軍の統帥者とされている。したがって、過去の
クーデターにおいても、タイの王制をくつがえすような形式が採られたことはな
い。今回も首謀者たちは、タクシン政権の腐敗を糾弾する国民の怒りを背景に、
国王の支持が取り付けられるとの確信をもって、クーデターの実行に踏み切った
ものと思われる。
日本を含む他国の例をみると、クーデターが失敗に終わった場合、
「内乱罪」や
「国家転覆罪」として訴追され、首謀者は死刑を含む極めて重い刑に処せられる。
このため、クーデターは命懸けで行うことになり、めったに起こらないものであ
る。ところが、タイの場合は、憲法第7条に、
「本制度に適用すべき規定がない場
合は、国王を元首とする民主主義制度の政治慣習に従う」と規定されている。し
たがって、立憲君主制を維持しつつ、国王の支持が取り付けられる前提であれば、
憲法上クーデターも許容されるとも解することができる。
このように、プミポン国王の極めて高い求心力と、同国の憲法の規定が相俟っ
て、そもそもタイには、クーデターが起こりやすい素地があるということが指摘
できよう。
また、このことからも、今回のクーデターを他国のものと同様に、過度に深刻
に受け止めることは適当ではないと考えられる。即ち、本来選挙という民主的な
手段で政権交代を行うべきところを、民主主義が有効に機能しないとの見通しの
もと、あえて強行的な手段が採られたものと考えられる。言い換えれば、タイで
は、「よくある話」ともいえるのではないか。
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2.
クーデターの原因
タクシン首相は、警察官僚から実業家を経て権力に就いた人物であるが、実行
力に富み、地方を中心に国民の支持も高かった。反面、強権的な政治手法、親族・
側近の優遇や不正蓄財の疑いなどへの批判も強かった。これに拍車をかけたのが、
06年 1 月の一族による株式譲渡の事件であった。この際には、一族が巨額の売
却益を得ていながら、課税金額を極めて少額にとどめたことや、首相が法律面で
一族に便宜を図った疑いなどに対し、国民各層からの非難の声が高まった。
いずれにしても、当初予定からは延期される可能性が高くはなったものの、
11月ごろにはやり直しの下院総選挙が行われることになっていた。ここで、民
主的な政権交代が行われる可能性は残されており、タクシン首相は、この選挙で
与党が勝利しても、4月に自身が表明した通り、首相指名は受けない可能性が高
いといわれていた。ところが、予定通り総選挙が行われると、地方に強い与党愛
国党が前回同様に勝利する可能性が高く、たとえ別の首相が起用されても、事実
上タクシン院政が敷かれ、政治情勢は大きく変らない可能性が高いことが指摘さ
れていた。
そこで、恐らくソンティ司令官は、プレム枢密院議長や軍・政府関係者などか
らの決起要請を受け、政治的混乱と腐敗政治に嫌気が差した国民や国王の支持も
得られるだろうとの読みのもとで、今回クーデターに踏み切ったものと考えられ
る。
さらに、個人的には、ソンティ司令官が、タイでは少数派のイスラム教徒であ
り、テロが頻発し、イスラム教徒と仏教徒の対立が激しい南部3県に対するタク
シン首相の強圧的な手法に反発を抱いていたことも関係している可能性がある。
また、タクシン首相が、身内や側近を軍の要職に就けるべく、これまで画策して
きており、これが軍関係者の反発を招いたということも指摘されている。
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3.
今後の方向性
ソンティ陸軍司令官は職業軍人であり、自身が権力を握ることは考えていない
と目されている。実際にも早期の民政移管を表明しており、既に複数の文民が暫
定首相候補として取沙汰されている。
一方、タクシン首相は、外遊先のニューヨークから私邸のあるロンドン入りし
ており、当面は不正帰国などで訴追の恐れもあるタイへの帰国を避け、事実上の
亡命生活に入るものとみられている。スラキアット副首相もタクシン首相に同行
している模様である。政権側では、チッチャイ副首相など4名が拘束された。軍
部内に親タクシンの軍人は多数残っているとみられるが、既に一部は投降し、残
りの勢力も、勝敗がほぼ決した現時点で反旗をひるがえす可能性は低い。結果的
に、タクシン政権側が今後何らかの反撃を行う可能性はほとんどないだろう。
さらに、世論調査でも、国民の大半が今回クーデターを支持している。したが
ってこのまま暫定政権のもとで、国政がリードされていく可能性が極めて高いと
考えられる。
ただし、近日中に体制が固まる予定の暫定政権の政治的力量は、当然ながら未
知数であり、暫定憲法策定から1年以内とされる総選挙の実施までにはだいぶ時
間がある。91年2月の前回クーデターに際しては、軍部の政権奪取の後、やは
り暫定首相として文民で元外交官のアナン氏が任命された。その後、92年3月
に新憲法下で総選挙が行われたが、結局多数党が現れず、軍部寄りの5党の連立
政権が生まれ、その後も政治混乱が続いた経緯がある。民主政治に慣れた国民が、
今後軍事政権を希望することはまずあり得ないが、総選挙後の新政権が、タクシ
ン政権よりもいい政治体制になるかどうかは何ともいえない。
4.
経済への影響
官公庁、学校、為替・証券市場などは20日には休業となったが、21日から
は通常に復した。市民生活や生産活動もほぼ平常に戻っている。再開された21
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日午前の為替市場では、バーツ相場がクーデター前より下落したが、大きな変動
とはなっていない。一方、株式相場も同日の午前中には大幅に下落したものの、
午後には回復した。今後、為替相場、株式相場とも弱含みに推移する可能性はあ
るが、市場は概ね冷静に受け止めているようである。
今後、暫定政権が約1年後に見込まれる総選挙まで継続することから、やはり
経済面においては、マイナスが大きいものと考えざるを得ない。特に、大型公共
事業や外交を含め、政策決定、執行の遅れが避けられず、経済成長率も、ある程
度の低下は避けられないだろう。また、無血とはいえ、これまで15年間なかっ
たクーデターが発生したことにより、カントリーリスクの高まりから、日本を含
む諸外国の同国への投資意欲が抑制される可能性がある。
実際に、日本をはじめとする先進諸国は、やむをえない事情があるとしても、
今回民主的な政権交代がなされず、軍部のクーデターという形が採られたことに
対し、失望の意と早期の混乱回復への希望を表明した。
5.
JCIFのレーティング
JCIFによるタイのレーティングは、97・98年のアジア経済危機に伴う
経済状況の悪化を受けて、それまでの「B」から漸次「C」まで引き下げた。そ
の後の立ち直りにより、03年9月に「B」に引き上げ、以降現在まで据え置い
ている。今月初めの見直しにおいても、「B」で不変とした。
今回クーデターにより、カントリーリスクの評点自体は下がることになろうが、
JCIFのレーティングは、将来の債務返済能力を判断しているものである。こ
の観点からみて、同国の対外債務の着実な減少、良好な財政状況、ほぼ均衡した
経常収支、史上最大レベルに積みあがった外貨準備高等からみて、債務返済能力
には大きな変化がないものと捉えられる。したがって、同国の今後の状況を注視
していく必要はあるものの、現時点でのレーティングの見直しは行わないことと
したい。
(以上)
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