カンボジア見聞録#5(隣国との国境) プノンペン在住 柴田幹雄 カンボジアは、タイ、ラオス、ベトナムに国境を接し、南西側の一部が海に面 しているもののほとんどが陸続きの国境に囲まれている。 島国の日本もそうだが隣国とは関係が深いがゆえに摩擦が大きい。カンボジア もまた然りである。タイ国境、ベトナム国境もいくつかの箇所で確定しきれてい ない部分があり隣国とは微妙な関係になる。 カンボジアの地形を見て思う カンボジアの面積は18万平方キロで日本の約半分。ほぼ中央に広大なトンレ サップ湖があり、これに流れを発するトンレサップ川がプノンペンでメコン川 に合流する。湖と両河川の流域は平坦で、ほとんどが標高100m以下である。 南西部にカルダモン山脈、北部はタイ国境となるダンレク山脈、北東部はラオス、 ベトナムに広がるモンドルキリ山地があり国全体が一つの盆地のような地形で ある。(地図:wikipedia) 昔の癖で、境界を見るとどちら 側が高いところを取っている か気になってしまう。高いとこ ろを取っている方が軍事的に 有利だからだ。南西のカルダモ ン山脈はほとんどをカンボジ ア側が持っているが、北のダン レク山脈、モンドルキリ山地は 高い側はタイ、ラオス、ベトナ ムが保持している。特に北側の タイ国境を構成するダンレク 山脈は、標高600mほどで台 地状であり、いわばタイ側から 台地がせり出してきてストンと落ちたような地形である。分水嶺を国境として いるのだが地形上分水嶺はかなりカンボジア側に近く、両者の主張の違いで確 定していない部分もある。日露戦争の時旅順港を砲撃する観測点を取るため2 1 03高地の争奪戦になったが、高いと ころを保持しているということは軍 事的には大きな意味を持つ。タイとの 国境確定できていない高台にある観 光地として有名な遺跡プレアビヒア がある。 プノンペンからトンレサップ湖の 西側を通り、プルサット、バッタンバ ン、シソポン(地図:wikipedia)を結 び、タイ国境の都市ポイペトまで続く 国道5号線を走るとほぼ全行程で地 平線が見えるほど平坦地である。雨期 には国道5号線は道路の両側が湿地 帯のようになる場所も多く背の高い草や灌木が水面上に出ている状態で、乾季 に通った時と風景は一変している。雨で増水しトンレサップ湖は何倍にも広が る。 内戦は国内いたるところで行われ、このような平地でもおそらく戦闘があっ たと思われるが、自分が指揮官だったらこんな地形でどうやって攻撃、防御をし たのだろうかと考えてしまった。 地域によっては高さ1m を超すようなアリ塚が群生しているところがある。 雨期になるとあたり一面水浸しになり、アリ塚だけが水面から顔を出す。座る場 所とてないから、人はついアリ塚に上って休憩したがるが、内戦時代にその心理 をついてアリ塚の周り対人地雷が仕掛けてあった。大きな木、アリ塚の周りは要 注意である。 現在バッタンバン州で地雷処理をしているが、この辺りはタイ国境にも近く 多少の丘陵もある。各種調査でまとめた地雷原表示地図で丘陵のあるところを 見て興味深いことを発見した。地雷原の配置からある丘に注目した。仮にその丘 に陣地を取ったとすると、それぞれの地雷原に説明がつく。機関銃や迫撃砲の有 効射程 0.5~3km 位の範囲内で、攻撃側が展開して前進してくるだろう場所、 道路交差点や川の渡渉点になりそうなところ、そして自陣地の後ろに回り込ま れるのを防ぐ地点と思しき場所などにきっちり地雷原が表記されている。敵が 地雷原でおろおろしているところへ機関銃や迫撃砲を撃ち込む。私の推測が正 しければだが、こういう基本的な戦術は、国は変われども共通なんだと妙に感心 した。もっとも日本は 1997 年対人地雷禁止条約に調印したので、自衛隊は対人 地雷を破棄させられ、持っていない。つまりそういう戦術は使えない。 タイ国境を超える幹線道路は、5号線で、トンレサップ湖の南西のカルダモン 2 山脈と北のダンレク山地に挟まれた隘路、と言ってもその幅は100km位あ るが、その中央のポイペトが国境の町である。その道路はタイ国内で国道 33 号 線となりバンコクに通じている。プノンペンから南東へは国道1号線が走り、メ コン川沿いにベトナムのホーチミン市と結ばれており、この1号線と5号線で タイ~カンボジア~ベトナムという3か国を結んでいる、いわば国際道路であ る。ほぼ全区間が平坦地だから道路もまっすぐで、片側1車線だが速い車は時速 100km 位で走る。荷物満載のトラクターやトゥクトゥク等低速車も多く、対 向車もある。そこを追い越しをかけながら走っていくのは結構スリリングでは ある。国境の町ポイペトについては後程紹介する。 隣国との関係から見るカンボジアの歴史 カンボジアはかつて9世紀から13世紀までク メール王朝が栄え、ベトナム南部メコン川流域か ら現在のラオス、タイをも含む広大な地域を支配 していた。 (右地図の赤い部分:wikipedia)しかし13世紀 後半からシャム(タイ)のアユタヤ王朝の侵攻を 受け、国力が衰退していく。1795 年にはバッタン バン州、バンテイメンチェイ州、シエムリアップ 州などをタイ領に編入されてしまう。さらに19 世紀に入るとタイ、ベトナム両国からの侵略をう け両側から侵食され2か国に隷属する形になった。たまりかねたカンボジアは 当時東南アジアに利権を求めつつあったフランスの保護を求め、保護条約を結 ぶ。両国からの圧迫からは逃れたものの、結局タイを除くインドシナ半島はフラ ンスの植民地とされ仏領インドシナとなる。そのおかげでと言うと皮肉な言い 方だが、フランスの圧力でバッタンバン州などカンボジア北西部の州は仏領イ ンドシナに返還され、形としてはカンボジアに戻った。 1940 年フランスはナチスドイツに降伏して、ビシー政権ができ、いわばフラ ンスは枢軸国側になった。これを受け日本は仏印進駐を行い、カンボジアにもフ ランス軍と共に日本軍も駐留していた。当時日本を除くアジア唯一の独立国で あったタイは1940年11月、仏領インドシナの一部であるカンボジアやラ オスに侵攻し領土をめぐり仏領インドシナとの間で紛争が起こった。日本が仲 介に入って調停(東京条約)を結んだが、その際バッタンバン州とシエムリアッ プ州がタイに割譲された。当時タイは日本と攻守同盟を結び枢軸国として日本 に協力していた。 現在バッタンバンには JMAS の地雷処理チームとインフラ整備のチームが活 3 動しており、私もたびたび訪れている。シエムリアップはカンボジア第 2 の都 市で空港もありアンコールワットへの入り口でもある観光地だ。夜ともなると ショートパンツに T シャツの欧米系の観光客が目抜き通りを闊歩する都市でも ある。JMAS 勤務ですっかりカンボジア贔屓になった私は、バッタンバンやシ エムリアップがタイ領なったり戻ったりした歴史を知って、もともとカンボジ ア領だったのに日本が仲介して同地をタイに渡したのかと何とも言えない思い に駆られた。もっとも日本はいずれ東南アジア諸国を独立させることが得策で あると判断し独立の後押しをしていた。 一方連合国のノルマンディー上陸作戦後、イギリスに亡命政権を立てていた ドゴール将軍がパリに凱旋しビシー政権が消滅するとまたインドシナでもフラ ンスは日本にとって敵国になる。日本軍はインドシナ半島のフランス軍を駆逐 するための作戦「明号(めいごう)作戦」を発動する。1945 年 3 月 9 日作戦開 始に先立ちカンボジア、ラオス、ベトナムの国王、皇帝に武力行使の通知と独立 を宣言することが可能であるとの連絡をした。これを受けノロドム・シアヌーク 国王は 1945 年 3 月 13 日独立を宣言する。しかし日本の敗戦により、カンボジ アはベトナムの侵略を恐れ、1946 年条件付きとはいえ再びフランスの支配を受 け入れてしまう。その後シアヌーク国王の粘り強い独立運動で、1953 年独立を 勝ち取る。この独立に際しかつて失ったバッタンバンとシエムリアップをも取 り返した。 シアヌーク国王以降、親米ロン・ノル将軍のクーデター、ベトナム戦争のカン ボジア拡大、中国の支援を受けたポルポト率いるクメール・ルージュ時代、そし てベトナムに支援されたヘン・サムリン政権の誕生と反ベトナムで協力する三 派連合等、延々と政変、内戦が続く。このあたりの話は JMAS の関わる地雷、 不発弾に直接関係する歴史的背景だが、やや複雑なので次回以降書くことにし て隣国との関係を見る歴史としてはこの辺でひとまず区切りたい。 タイとの国境係争地 プレアビヒア寺院 プレアビヒア寺院は北部国境のダンレク山脈の上、切り立った断崖ぎりぎり に位置するヒンドゥー教寺院である。場所はシエムリアップから北東へ直線距 離約140km、車だと250km位走ることになる。この寺院は9世紀末にク メール人によって建立されたもので文化的にはカンボジアのものと言える。長 年その領有権問題が懸案となっていたが、1962年国際司法裁判所によって カンボジア領として認められた。2008年にカンボジアが世界遺産登録を行 ったがこれを契機にまた遺跡周辺の国境問題に火が付き、カンボジア、タイ両国 の緊張が高まり銃撃戦まで発生した。寺院への徒歩観光ルートの出発点である 4 頂上駐車場にはカンボジア旗と国連旗が掲揚されており、寺院そのものはカン ボジア領で落ち着いているようだ。しかしふもとから上がっていく車両用の道 路は Google Map では未確定(点線)ながらタイ領とされる場所を一部通過して いる。 この寺院はダンレク山脈の南端であり、国境を山脈の分水嶺としたシャム(タ イ)と仏領インドシナの宗主国フランスとの国境画定条約に基づきフランスが 測量地図を作製し、1908年に公表、シャム側も受け入れた。この地図に拠れ ばプレアビヒアはカンボジア領になっている。ところが現地で見れば寺院の北 側にある観光者用駐車場から寺院の本殿のある南側まで緩やかではあるが上り で階段などある。明らかに標高は南側が高くなっており分水嶺は寺院の南端の 突端になる。シャムも1934年に独自調査をし、分水嶺と地図が一致していな いことを確認したがあえて異を唱えなかった。 歴史の項で述べたがタイは1940年のタイ・仏領インドシナ戦争でカンボ ジア側に侵攻した。日本が仲介し紛争は収まり東京条約を結んだがこの条約に よりバッタンバン州など共にプレアビヒアもタイに割譲され寺院もタイ領にな った。日本敗戦後の1946年ワシントン条約でバッタンバン州ほかの北部諸 州を仏領インドシナに返還された。しかしプレアビヒア寺院は、地図上はカンボ ジア、分水嶺原則からはタイ側という状態になったが依然としてタイが実効支 配していた。1953年カンボジアは独立すると、プレアビヒアに軍を出動させ 奪回を図ったがタイ軍に撃退され、カンボジアとタイは国交断絶に至る。 1959年カンボジアはプレアビヒア寺院の帰属、タイ警備兵の撤退などを 求め国際司法裁判所へ提訴した。判決はカンボジア側の主張を認めるものであ った。その理由の最大のものは、分水嶺原則に関わらずフランスの作成した地図 には寺院がカンボジア領になっていたことに対し、何度か意義を唱える機会が あったにもかかわらず受け入れていたことだった。また1930年シャムのダ ムロン王子がプレアビヒアを準公式訪問した際受け入れ接遇したのはフランス であったことから、タイ側がプレアビヒア寺院をカンボジア側と認めていたこ とが根拠とされた。日本もいくつか島の帰属で係争、問題を抱えているが何かあ れば必ず抗議をし、地図、教科書記述などで日本の主張を明確にし続けることが 重要であることがわかる。 プレアビヒア寺院そのもの帰属は明らかになったがその周辺地域の帰属は相 変わらず不明確なままで、寺院の世界遺産登録でまた火を噴いた紛争だが両歩 み寄りで現在は国境警備の要員のみを残し撤兵した。一応平穏に見えるがいま だに国境は確定していない部分がある。プレアビヒアの高台の近くのカンボジ ア側に地雷処理をしている現場があり、視察に行き、ついでに寺院も訪問した。 5 右の図は手書きの要図で、各種の 資料と記憶を頼りにしたものだか ら必ずしも正確ではないが全体の 様子はわかると思う。寺院が南北約 800mにわたって延びている。寺 院の敷地はタイもカンボジア側と 認めているもののその周辺はいま だ図で解るように認識が一致した ものではない。寺院に行くには観光 事務所で有料のピックアップトラ ックで駐車場まで乗っていく。おそ らくその道路や台上の駐車場はタイ側が 自国領と主張している範囲に入っている。 駐車場には土産物や飲み物を売ってい る店が2~3軒あり、お供え用の花売りの 娘などもいる。面白いのはそのすぐ隣に、 タイ側の凹地を見下ろせる場所に警備用 の掩蓋陣地が並んでいる。又陣地の脇には 小屋があっ ておそらく警備兵が休憩するためのものだろう。 家族と思しき母子と制服でのんびりしている兵 士もいる。平素からそういう警備体制なのか、非 番で休憩しているのかはわからないが、あまり緊 張した様子ではなかった。 要図でAK47と書いた場所は、AK47自動 小銃を近くの木に架け、その脇でしゃがんで湧き水で洗い物をしている隊員を 見た場所。つい「武器は常に携帯し体から離すな」と指導したくなった。いずれ にせよこの辺りはタイ側が自国領だと主張している場所なのにのんびりしたも のだ。 左はプレアビヒア寺院の遺跡の写真で、一番南の本殿の一角である。石造りの 典型的ヒンドゥー教寺院。本殿は駐車場のあたりからここまで五つの塔門を経 て上ってきた一番高い南端にある。 6 左の写真は要図の展望点と書いた場所からカン ボジア側を写したもの。この地点が分水嶺で一 番高く、カンボジア平原が一望のもとに見える。 指さしている方向にトンレサップ湖があるはず。 200km位先だから当然見えない。 展望点まで行って帰る途中、こんなところで 珍しく日本人 カップルとガイドに出会った。挨拶した後つい JMASの地雷処理活動の宣伝と、プレアビヒ アの国境問題や、土産物屋の隣の掩蓋陣地につ いて講釈してしまった。文化遺産として興味が あったので観光に来たが、意外な話が聞けてよ かったと喜んでいた。 駐車場まで戻った後、さらに北へ下って階段 のあるところまで行ってみた。あま り下がると国境で、それこそ地雷で もあったら大変だから、石段の上か らタイ側を見ていると、遠くに人影 が見えた。タイ国境警備の巡察隊員 だろう。木の陰でよく見えないが一 個分隊くらいだ。両国の国境を挟ん でいる地域であることを再認識した。 国境の町ポイペト タイとの国境問題について書いてきたが現在タイとは当然友好関係にある。 タイとカンボジア両国で、国境の地雷帯も逐次処理をして、タイ・カンボジア共 同事業で経済特区を設ける話も進んでおり、JMASも将来国境地帯の地雷処 理にも参画したいと思っている。そんなこともあり、国境の町ポイペトにも足を 延ばした。 町の中心部につくまではほかの中都市とそれほど変わらないが、検問所に近 づくにつれて国道5号線の両側にたばこや土産物などを売っている店が多くな る。それらの店ではタイのバーツも使える。写真にある駐屯地の警衛所みたいな 建物がカンボジア側の検問所。そのすぐ向こうにタイの国旗が立っていてその 間が国境である。この手前に出入国の手続きをする建物もあり、欧米系の観光客 らしい人たちが並んでいる。カートを押していくおばちゃんも、バイク、ツクツ ク、トラック、そして観光客を乗せたマイクロバスもタイへ行く。出国側だから 7 か、それらは検問所で止まり もせず通過していく。タイか ら入ってくる方は係官が何か チェックしているようだがそ れほど時間をかけていない。 パスポートだけでなく行き来 する業者など通行証のような ものを持っているらしい。 タイ側から来て検問所を過 ぎると、このアンコールワッ トを模した門に出迎えられる。 看板には「ようこそ」とか「歓迎」といった言葉はなく「カンボジア王国」とあ るだけ。あるカンボジアのガイドブックには、本の最後におまけのようにポイペ トの紹介がある。「大型トラックが土埃を巻き上げ て行き来し、活気はあるが見どころもなく、郊外に はまだ数多くの地雷も残っているので・・・」とい うことであまりお勧めではないようだ。こちらとし ては地雷が残っているので来る価値があったのだ けど。 埃っぽい道に、制服風超ミニのタイトスカートの 若い女性グループが歩いてきた。クメール女性はス タイルがいいから何を着ても見栄えがする。カジノ のスタッフだろう。残念ながら写真はない。国境の 町ポイペトにはカジノが多く、ゴージャスなホテル から一見日本のラブホテルかと思うような建物まで並んでいる。それらのカジ ノは外国人専用でタイ側からは簡単な審査のみで入れる。カンボジア人は入れ ない。タイでは禁止されているのでバンコクからポイペトまでカジノツアーバ スを仕立ててカモ、いやお客がやってくる。クメール女性のミニスカートと一獲 千金の夢を見ている観光客やタイのお金持ちから、カンボジアはしっかり稼い でいる。 隣国といろいろ摩擦はあるにせよ、カンボジアとタイはASEANの主要国 として協力して発展していかねばならない。JMASも少しでもカンボジア発 展の力になれればそれに越す幸せはない。 8 9
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