プリントのデータを画像として鮮明にするための問題8 http://okadome.net

プリントのデータを画像として鮮明にするための問題8
【17】
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2005 年 関西学院大学
文学部
次の①~⑩の文中の下線部が誤っているものにはその記号に,すべての下線部に誤りがない場合はeにマークし
なさい。
①
メソポタミア文明においては,aジッグラトと呼ばれる聖塔が建てられ,天文学・数学・暦法などの学問が盛
んで,b楔形文字,c太陽暦,d六十進法が使われた。
②
紀元前 1900 年頃,セム系のaアムル人がバビロンを首都とするb新バビロニア王国を形成し,cハンムラビ王の
時に全メソポタミアを統一した。彼が定めた法典は「目には目を,歯には歯を」というd復讐法の原則に立つも
のであった。
③
エジプト古王国は下エジプトのaテーベを都とし,bクフ王などのファラオたちはcギザなどに巨大なピラミッ
ドを建設した。紀元前 21 世紀からは中王国が栄えたが,その末期にはシリア方面から遊牧民dヒクソスの侵入を
受けた。
④
エジプト新王国のaアメンホテプ4世はbアモンを唯一神とし,都をcテル=エル=アマルナに移した。この時
代には,独特のd写実的な美術が栄えることになった。
⑤
紀元前 1200 年頃に「海の民」の侵攻によりaヒッタイト王国が滅亡すると,シリアではbアラム人がcダマスク
スを中心に内陸での中継貿易で活躍する一方,dフェニキア人はシドンなどを拠点に海上貿易で栄えた。e
⑥
紀元前 10 世紀後半,aソロモン王の死後にヘブライ人の王国は南北に分裂した。その後,南のbユダ王国はcア
ッシリアに征服され,その住民の多くがバビロンへ連行された。長い苦難を経験した人々はdアケメネス朝によ
り解放された。
⑦
紀元前7世紀に全オリエントを統一したアッシリアは,その過酷な支配のために長続きせず滅び,aエジプト,
リディア,cミタンニ,dメディアの4王国が分立した。
b
⑧
紀元前6世紀中頃,ペルシア人のaキュロス2世がアケメネス朝を建国し,その子bカンビュセス2世のもとで
全オリエントの再統一が成し遂げられた。また,この国ではc最後の審判をとなえるdゾロアスター教が信仰された。
e
アケメネス朝のダレイオス1世は,都aスサの造営に着手する一方,小アジアのbサルデスへと通じる「王の道」
⑨
を建設した。また,各州をcサトラップたちに統治させるとともに,王直属の監察官を巡回させて彼らを監視し
た。「王の道」に面したベヒストゥーン碑文には,ダレイオス1世の事績が刻まれているが,これはイギリス人
ローリンソンによって解読された。
d
⑩
紀元前 30 世紀~紀元前 12 世紀に栄えたエーゲ文明の存在は,aシュリーマンがミケーネなどを,bエヴァンズ
がクレタ島のクノッソスを発掘した結果として判明した。また,線文字のうちcクレタ文明のものである線文字
Bをdヴェントリスが解読した。
【18】
2003 年 関西学院大学 総合政策学部
次のA~Eの文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
A
メソポタミアで最初の高い文化を形成した(1)シュメール諸都市は,アッカド人により次々に征服された。そし
て前 24 世紀頃(2)この国王のもとで,メソポタミアにはじめての統一国家が実現された。この地の交易圏・文化
圏が拡大したことも事実だが,この国王は機動力をもってする戦争でたちまちメソポタミアを席巻した。当時の
碑文はいう。「この国王は 34 回の出征に勝利をおさめ,海の岸に至るまでのあらゆる城砦を砕いた。……エン
リル(神々の長)の手は,この国王に敵対する者を許さなかった。毎日この国王の御前で5万4千の兵が食事をと
った」と。しかしこの膨大な数の兵士を維持するための略奪的支配を2世紀以上続けることは不可能だった。
B
ヒクソスを追い出して成立したエジプト新王国は,馬と戦車の軍隊でシリアにまで進出し,ミタンニやヒッタ
イトと衝突することになる。前 13 世紀初頭ダマスクスの北方 80 キロメートルの(3)この地で,ついに(4)エジプト
とムワタリ王率いるヒッタイト軍が戦端を開いた。この戦いは古代最大の戦いのひとつで,その戦術と戦闘隊形
が判っている最古のものであるが,興味深いことに両軍とも自軍の健闘をたたえ,それぞれに勝利を宣言・休戦
したうえで講和を結んだ。これが現在確認できる最古の国際条約である。この後両者は姻戚関係を結び,エジプ
ト側の司令官であった国王の長い治世の間には平和が続いた。
C
前 10 世紀も中頃になるとヘブライ王国は(5)この国王のもとで隆盛をきわめることになった。そうした繁栄を伝
える逸話が『旧約聖書』の「列王紀」である。この国王は「戦車用の馬の厩舎4万と騎兵1万2千を持っていた」
という。彼こそ,古代世界きっての大馬主だったのではないか。しかしこの国王没後,ヘブライ王国はイスラエ
ル王国とユダ王国に分裂し,後者は新バビロニアに滅ぼされ,(6)バビロン捕囚の悲運をなめた。
D
前2千年紀初め以来,北メソポタミアで勢力を強めてきたアッシリアは前7世紀にはエジプトをも併合して,
史上はじめて全オリエントを支配する帝国を樹立した。アッシリアは騎馬を軍事力として効率的に組織すること
ができた。そのために,この帝国には馬に関する石のレリーフが多くみられる。この場合,馬は勝利と支配の象
徴だった。(7)アッシュール=バニパルの宮殿から出土したレリーフについて,ある解説は「シャマッシュ=シュ
ム=ウキンに勝って意気揚々としたアッシュール=バニパル王は戦車の上に立ち,彼の馬はきらびやかな装飾品
で飾り立てられ,背後には妻が従い,そして陽光から守るために王にさしかけられた傘。こうした壮麗さ以上の
ものを,果たして描き得るであろうか」といっている。しかしこの王の死後,アッシリア帝国はその過酷な支配
で反感を買い,そのために,(8)4王国に分裂してしまう。
E
アッシリアの後を受けてオリエントの統一を確立したのが,ペルシア人である。彼らはアケメネス朝のもとで,
前6世紀,しだいに勢力を広げ,エジプトからインダス川流域におよぶ大帝国を建設した。なかでもダレイオス
1世の時,この帝国は行政・財政制度と(9)交通網を整備し,服属する民族の慣習も尊重して古代オリエントの専
制支配を完成させた。一方,帝国形成とその維持に大きく貢献したのは,ペルシアのすぐれた馬事文化の伝統で
あった。すなわち征服戦争では騎馬の機動戦術によって,帝国維持の面では駅伝馬のネットワークによってであ
る。カンビュセス2世死後の混乱のなかから(10)ダレイオス1世が誕生した経緯について,以下のような逸話が残
されている。王位継承者7人を明け方に騎乗させ,最初にその騎乗馬がいなないた者に王位継承の資格が与えら
れることになっていた。未来の新王の馬がいなないた。これは馬丁の策のおかげであった。石の浮彫像を作らせ
いっ し
ることが新王の最初の命令となった。その碑銘には,「ヒュスタスペスが 一 子,馬と馬丁の功績によってペルシ
アの王位を得たり」と刻まれている。
[問
い]
(1)
シュメール諸都市の文化に直接関係のない事項はどれか。
(2)
(3)
(4)
(5)
a.ジッグラト
b.楔形文字
d.六十進法
e.1週7日制
c.太陽暦
この国王はだれか。
a.サルゴン1世
b.ギルガメシュ
d.ティグラトピレセル3世
e.ハンムラビ
c.オシリス
この地はどれか。
a.スミルナ
b.イェリコ
d.ティルス
e.カデシュ
c.ロゼッタ
この時のエジプト国王はだれか。
a.トトメス3世
b.アメンホテプ4世
d.ラメス2世
e.クフ
c.ツタンカーメン
この国王に関する記述で誤りを含むものはどれか。
a.先王はダヴィデである。
b.王国第3代の王である。
c.リディア遠征を行った。
d.首都はイェルサレムだった。
e.ヤハウェの神殿を建築した。
(6)
(7)
(8)
(9)
バビロン捕囚を解いた勢力はどれか。
a.アケメネス朝
b.アッシリア
d.エジプト新王国
e.セレウコス朝
c.メディア
アッシュール=バニパルが大図書館を建設したティグリス川中流の場所はどれか。
a.エクバタナ
b.バビロン
d.ベヒストゥーン
e.アッシュール
c.ニネヴェ
この4王国のなかで,前7世紀にはじめて貨幣の鋳造が行われたのはどれか。
a.リディア
b.メディア
d.ペルガモン
e.エジプト
c.カルデア
ヘロドトスが「王の道」と呼んだ国道を早馬で駆け抜ければ,首都のひとつスサからイオニアの州都まで
1週間程で到達できたという。イオニアの州都はどれか。
(10)
a.ビザンティオン
b.アンティオキア
d.アルベラ
e.シラクサ
c.サルデス
ダレイオス1世と直接関係のない事項はどれか。
a.ペルセポリス造営
b.サトラップ任命
d.金・銀貨鋳造
e.ゾロアスター教弾圧
c.ペルシア戦争開始
前 2 千年紀末の東地中海における諸語族の動きについて,400 字以内で述べよ。
前 13~前 12 世紀の東地中海地域では民族移動による大きな変動が生じた。バルカン半島
ではクレタ文明の影響を受けた印欧系ギリシア人の一派アカイア人によるミケーネ文明が栄
えていたが,衰退期に民族系統不明の「海の民」の侵入と鉄器を持つギリシア系のドーリア人
の南下してきた。小アジアでは,最初に鉄器を使用した印欧系のヒッタイトとエジプト新王国の
二大勢力が対立していたが,「海の民」の侵入によリ,ヒッタイトは滅亡してエジプトも衰退に
追い込まれた。二大文明圏の勢力が後退した東地中海岸ではセム語系諸民族の活動が活
発化した。フェニキア人はシドン・ティルスなどの都市国家を拠点として地中海沿岸を結ぶ海
上交易で,またアラム人はダマスクスを拠点に内陸貿易で活躍し,彼らが改良した表音文字は
東西世界に大きな影響を与えた。またパレスチナではヘブライ人がエジプトから逃れた部族
を加えて王国を形成し,後のユダヤ教の原型を成立させた。
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題9
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【19】
2005 年 成蹊大学 文学部
次の文章を読み,設問(1)~(10)に対する答えをa~eから1つ選んで,その記号を所定欄にマークしなさい。
アーリヤ人がイラン高原をこえてインドへ侵入してきたとき,もっとも主要な敵対者となった原住民は
あった。
1
1
で
は,その言語とインダス文字との関連の深さから,インダス文明を担った民族である可能性が指摘
されている。彼らは,アーリヤ人侵入の際には全インドに広がって定住しており,森林を開拓して耕地や牧場をも
ち,部落の周囲に城砦を築き,青銅製の道具を用い,黄金の装飾をも衣服につける階層をもつ民族であったと考え
られている。そのような文化を持つ民族でありながら,アーリヤ人に侵入され征服されてしまったのは,アーリヤ
人が彼らの持っていない
3
2
を持っていたからであった。
アーリヤ人は征服者とはいえ,文化を持つ原住民に対する警戒感は強く,それは差別意識と結びついた。聖典
『リグ・ヴェーダ』には,アーリヤ人が神々の力を借りて退治する悪魔の姿が描かれているが,その悪魔は,皮膚の
色が黒く喋り方も異様であると表現されて恐れられており,これは原住民への言及と考えられている。階層身分の
ことを指す
4
という言葉は,もともとは色を意味し,皮膚の色の白かったアーリヤ民族が皮膚の色の異なる異
民族のことをさす言葉だったが,アーリヤ人がガンジス河を取り囲む大地に
5
を確立していくにつれて,皮膚
の色とは無関係に,厳しく分断された4つの階層身分を意味するようになった。これがのちのカースト制度の基礎
である。広大なインドを征服したアーリヤ人であるが,アーリヤ民族全体の統率者も,民族全体にわたる政治的統
一も存在しなかった。しかしさまざまな危機や異民族への攻撃という場合には,それぞれの部族が同盟関係を結び,
目的を達していた。それを可能にしたものは,政治統合ではなく,むしろ宗教に対する共同の強い自覚であった。
だからこそバラモンは,たんに宗教的権威であるだけではなく政治権力と不可分の存在であり,したがってこの社
会の最上位に君臨する階層となったのである。しかし6紀元前 500 年前後になると,バラモン教への批判がひろが
り,時代に呼応する新しい宗教がつぎつぎに生まれた。たとえばヴァルダマーナがひらいたジャイナ教,ガウダマ
=シッダールタがひらいた7仏教などである。さらに,この頃には二大叙事詩『マハーバーラタ』と8『ラーマーヤ
ナ』の原形がつくられた。
インド初の統一国家となるのは,強大な軍隊と官僚組織を持つにいたったマウリヤ朝であった。第3代のアショ
ーカ王の時代にマウリヤ朝は最盛期に達し,その領土は南端を除く大部分のインド亜大陸におよんだ。しかしアシ
ョーカ王は,9紀元前3世紀前半に激戦のうえ征服に成功した国を訪れた際,その戦禍に衝撃をうけ,それを機に
武力による統一政策を転換してしまう。以後,10 王は仏教に深く帰依し,仏教精神にもとづく統治をめざし,社会
事業を進め,さらに仏教の保護と国外への布教にもつとめた。王は仏教信仰にもとづく政治理想の実現のために,
周辺諸国の王のもとへ使節を派遣した。使節の赴いた諸国では病院や薬草園などがつくられ,それを聞いたアショ
ーカ王は大変喜んだという。
<設問>
(1)
(2)
1
が,のちに樹立する王朝として適切なものは,次のうちどれか。
a.クシャーナ朝
b.シャイレーンドラ朝
c.チョーラ朝
d.ナンダ朝
2
e.パガン朝
にはいる言葉として適切なものは,次のうちどれか。
a.馬と戦車
c.火薬と馬
b.戦車と火薬
d.火薬と組織された重装歩兵
e.戦車と組織された重装歩兵
(3)
下線部3に関連した事柄の説明として,適切でないものは次のうちどれか。
a.インド=アーリヤ系諸民族とヨーロッパ系諸民族との,深い民族的・文化的関係が立証されたのは,
グリム兄弟がおこなった言語研究がきっかけであった。
b.イラン高原からインド北西部に移住するとき,アーリヤ人はカイバル峠を越えた。ここは古くから交
通の要衝であり,大乗仏教が北方へ伝えられるときにもこのルートを辿った。
c.「アーリヤ」とは「気高い,高貴な」という意味であり,彼らが自らを称して使っていた。
d.インドを中心にみられる牛を神聖視する風習は,アーリヤ人の風習が現在に受け継がれたものである。
e.『リグ・ヴェーダ』は,アーリヤ人の自然崇拝が賛歌や儀礼集というかたちでまとめられたものであ
り,数種類ある『ヴェーダ』のなかで最後に集大成されたものである。
(4)
4
にはいる言葉として適切なものは,次のうちどれか。
a.ヴァルナ
b.カスタ
c.カルマ
d.ジャイナ
e.ジャーティ
(5)
5
にはいる言葉として適切なものは,次のうちどれか。
a.漁労社会
b.巡礼都市
c.商業都市
d.農耕社会
e.遊牧社会
(6)
下線部6に関する説明として,もっとも適切なものは次のうちどれか。
a.バラモンは他の階層に重税を課したため,不安や反発がいっきに高まったが,新しい宗教はこの苦難
に耐える価値を説いたので社会的騒乱は抑止された。
b.新しい宗教は,バラモンの祭式が形式主義に陥って形骸化したことを批判し,勢力を拡大しつつあっ
た商人や職人たちに歓迎された。
c.バラモン教は厳しい身分的宗教戒律を定めていたため,新しい宗教が登場するとバラモン内部からも
その支持者が多く出た。
d.新しい宗教は,民衆から離れていたバラモン教の精神を生活実践のなかにとりいれる試みを含んでい
た。
e.バラモン教は異民族が次第に増える社会に対応する術を失っていたが,新しい宗教は民族を問わない
ため,アーリヤ人以外の流入民族がその主な担い手となった。
(7)
下線部7に関連する記述として,もっとも適切なものは次のうちどれか。
a.個人的な解脱という目的から万民の救済を目的とする仏教へと変化して成立したのが,小乗仏教であ
る。ナーガールジュナは小乗仏教の理論書『中論』を著した。
b.仏陀とは悟りを開いた者のことを意味し,菩薩とは,厳しい修行中の者を見守る仏の慈悲の心を意味
している。菩薩は民間への布教に大きな役割を果たした。
c.義浄は,グプタ朝が建立したナーランダー寺院で学び,インド,南海を経て帰国したが,この途中,
スマトラ島で当時まだ造営中のボロブドゥールに立ち寄った。
d.上座部仏教は,形式化しがちな戒律に厳しく縛られることなく,長老たちの知恵を伝承することによ
って救済の道を模索した仏教分派である。スリランカで発展した。
e.ラマ教とは,伝播した大乗仏教とチベット固有の土着宗教とが融合したものである。吐蕃の国教とな
るがその末期には衰退し,再び元朝時代に国家の保護をうけ栄えた。
(8)
下線部8に関する記述として,もっとも適切なものは次のうちどれか。
a.マガダ国の王(→王子)ラーマが,奪われた愛妻の救出をする英雄叙事詩である。
b.商業が発展した時代状況を反映して,登場人物はすべてヴァイシャ(→クシャトリヤ)である。
c.戦禍の悲しみをテーマにした四行詩集であり,現世の無常を説いたものである。
d.仙人の娘と若き王が恋を成就させるまでの冒険物語である。
e.サンスクリット語で書かれ,4世紀ころに現在の形式がととのった。
(9)
下線部9の国は,次のうちどれか。
a.アンガ国
b.カピラ国
c.カリンガ国
d.クル国
e.コーサラ国
(10)
下線部 10 に関連する記述として,もっとも適切なものは次のうちどれか。
a.アショーカ王は,釈迦の没後はじめて,釈迦の教説を集め編集する「仏典結集」をおこなった。
b.アショーカ王は,ストゥーパとよばれる石柱に,ダルマの理想政治にもとづく自らの勅令を刻ませた。
c.アショーカ王は,仏教の理想を伝える使節を漢の武帝のもとに送った。
d.アショーカ王は,自らの王子を布教のためにスリランカに派遣し,その地の仏教化に成功した。
e.アショーカ王の死後も,マウリヤ朝は約2世紀のあいだ存続した。
【20】
2002 年 成城大学 経済学部
つぎの文章を読んで,後の設問に答えよ。
古代インドにおいて成立した仏教とヒンドゥー教はともに,インド北部においてはるかに以前から有力な宗教で
あった
aバラモン
ッパ系の
bアーリヤ
教の影響のもとに形成された。(A)
a
教の成立にかかわる文化的伝統は,インド=ヨーロ
人が,前 1500 年頃,中央アジアからパンジャーブ地方に侵入して住みつき,さらに前 10
00 年頃以降,東のガンジス川流域へと進出する歴史の長い時間のなかではぐくまれてきた。その長期にわたる民族
移動の過程で定住も進み,農業生産が向上して余剰が増大し各地に都市国家が形成される。それにともない,
b
人支配層が先住民族などを階級的に支配する社会構造も確立されて,今日にいたるまでの(B)インド社会に特
有の複雑で固定的な身分秩序の基礎がかたちづくられることになる。
前 500 年頃の
cガウタマ=シッダールタ
を開祖とする仏教の発祥には,(C)そうした階級・階層社会にたいする
批判の一面もみられる。それにたいして,その後に隆盛するヒンドゥー教は
a
教を直接の母体としその伝統を
継承しつつ,さらにインドの(D)民間信仰や仏教の要素をとりいれながら発展し,インド的な身分秩序の維持に即応
する側面が濃厚である。ヒンドゥー教は,とりわけ4世紀に成立した
dグプタ
朝の時代から盛んになる。とこ
ろが仏教は,その頃からヒンドゥー教に吸収されるようなかたちで,(E)インドにおいてはしだいに衰退し,後のイ
ンドのイスラム化の過程で決定的な打撃を被ることになる。
問1
文中の空欄a~dを埋めるのに最も適切な語句を記せ(同一記号は同一語句)。
問2
下線部(A)について,
(1)
この宗教の神々への讃歌を記した文献から当時の文化をうかがい知ることができる。その神々への讃歌
の文献を総称して何と呼ぶか。
(2)
ヴェーダ
上記(1)に関連して,この宗教に独自の哲学的思索について記した「奥義書」とも訳される聖典は何か。
ウパニシャッド
(3)
上記(1)の文献の記述に使用された言語から発達して洗練され,インドの古典の表記に古代から用いられ
てきた,梵語ともいわれるインド=ヨーロッパ語系の言語は何か。
問3
サンスクリット語
下線部(B)について,
(1)
この身分秩序の基軸として,四つの「種姓」と訳される階級構造がある。種姓にあたるインドの言葉を
カタカナで記せ。
ヴァルナ
(2)
上記(1)に関して,四つの種姓のうち,下層の被征服民の種姓を何と呼ぶか。
(3)
上記(1)の種姓に,さらにジャーティといわれる多様な出身集団が組み合わさり構成されたインド固有の
身分秩序をポルトガル語起源の言葉で一般に何と呼ぶか。
問4
シュードラ
カースト
下線部(C)について,
仏教の発祥と同じ頃に,これと同様の批判的な観点をもって登場し,しかも,今日のインドにも約 400 万人
の信者がいる,不殺生・菜食主義の宗教は何か。
問5
ジャイナ教
下線部(D)について,
民間信仰をとりいれることにより,さまざまな神々が生み出され民衆に信仰されることになったが,なかで
もヒンドゥー教の最高神とされる二つの神々の名前を記せ。
問6
シヴァ神・ヴィシュヌ神
下線部(E)について,
(1)
仏教は,インドにおいては衰退していったが,その後も,一方では中国やチベットや日本で,他方では
東南アジアなどで盛んに信仰されるようになる。そのうち前者にあたる,おもにインド以北の地域で信仰
されるようになった仏教を総称して何と呼ぶか。
(2)
大乗仏教
上記(1)の,北方に伝わった仏教の教義について思索してまとめ,中国や日本の思想にも影響をもたらし,
日本の仏教界でも南都六宗・天台宗・真言宗の「八宗の祖師」と仰がれた,2~3世紀の南インド出身の
仏教理論家は誰か。
【21】2002 名古屋大学
問1
ナーガールジュナ
仏教に関する以下の問に答えなさい。
ガウタマ=シッダールタ
仏教の祖となったシャカ族の王子の名前を答えなさい。
問2(1)
マウリヤ朝のアショーカ王は,どのような仏教振興政策をとったか,説明しなさい。
第3回仏典結集を行い,サーンチーなどストゥーパの建立やセイロンなど各地への布教を行っ
た。
(2)
前3世紀 〔
それは何世紀のことか,答えなさい。
問3
仏教は,上座(上座部)仏教と大乗仏教との二派に大きく分かれた。上座仏教と大乗仏教の教えの違いを簡潔に
説明しなさい。〔
上座部仏教が,厳格な戒律による個人の解脱を強調したのに対し,大乗仏教は
広く万人の救済を目指した。
問4(1)
〔
〕
クシャーナ朝のカニシカ王が保護したのは,上座仏教,大乗仏教のどちらであったか,答えなさい。
〔大乗仏教
(2)
〕
〕
クシャーナ朝が栄えた理由を,交易という観点から説明しなさい。
東アジアから中央アジアを経て西アジア・ローマあるいはインドに至るシルクロードの要衝
をおさえていたから。
〕
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題 10
【22】
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2004 年 上智大学 神学部,文学部(心理学科),経済学部(経営学科)
設問1
次の文章の空欄(1~16)に入れるのにもっとも適切な語を選択肢(a~d)から選びなさい。正解がない場
合はeをマークしなさい。
6世紀後半,アラビア半島西部の町(1a
メッカ)は,ビザンツ帝国と(2c
ササン朝ペルシア)の長年の抗争
による東西交通路の変化により,中継商業都市として栄えていた。(1)に生まれたムハンマドは,
610 年ごろ宗教的に覚醒し,厳格な一神教を唱えたが,多神教信仰が根強い(1)では受け入れられず,
(3b
(4e
622)年に少数の信者を連れて別の町に移住し,そこでムスリムの共同体を建設した。この移住を
ヒジュラ)といい,移住の年はイスラーム暦の紀元になっている。それから数年後,ムハンマドはムスリム戦
士を率いて(1)を征服した。その後アラブの諸部族はつぎつぎに彼の支配下に入り,彼が没するまでにアラブ人は
イスラーム教のもとに統一された。
ムハンマドの死後,ムスリムは共同体の指導者としてカリフを選出した。アラブ人はカリフの指導下に大規模な
征服を行った。(2)を(5d
ニハーヴァンド)の戦いで破ったのもこのころである。しかし急速に拡大した支配地
はさまざまな対立を呼び起こす。第4代カリフが暗殺されると,(6c
(7e
ムアーウィア)がダマスクスに
ウマイヤ)朝を開いた。(7)朝は,東はインド西部,西は北アフリカを征服し,イベリア半島に進出して
(8a
西ゴート)王国を滅ぼし,さらにヨーロッパ内部に進出したが,732 年にフランク王国と戦って敗れ,ピレ
ネー山脈の南に退いた。
(7)朝の政策はアラブ人の特権が顕著で,征服地の先住民は地租と(9b
ジズヤ)を払わねばならず,彼らはイ
スラーム教に改宗しても免除されなかった。このような(7)朝の政策に反発する人々は,ムハンマドの叔父の家系
による革命運動に協力し,750 年に(7)朝を倒し,(10b
(11a
マンスール)の時に新しい首都(12c
アッバース)朝が開かれた。(10)朝は,第2代カリフ
バグダード)を建設し,アラブ人の特権を徐々に廃止し,アラブ人か
被征服民かを問わず,ムスリムであれば徴税の点で平等に扱う原則を確立した。(10)朝の最盛期は8世紀末から9
世紀初頭にかけての第5代カリフの(13a
ハールーン=アッラシード)の時であった。
9世紀になると,帝国内の各地で,民族的自覚に目覚めた非アラブ人の独立王朝が成立し,(10)のカリフは宗教
的権威のみの地位に転落していった。また,すでに(10)朝建国の時に,(7)朝の一族はイベリア半島に逃れて,(1
4c
後ウマイヤ)朝を建てており,(10)朝と対抗していた。また,イスラーム少数派の
(15
e
シーア派)は 10 世紀にチュニジアで(
16b
ファーティマ)を建て,エジプト・シリアを征服し,カイロ
を首都にして,(10)朝の権威を否定した。こうして,10 世紀ごろには,(10)朝,(14)朝,(16)朝それぞれのカリフ
が並び立ち,イスラーム帝国の分裂は決定的となった。
1
a
メッカ
b
2
a
パルティア
3
a
618
b
622
c
627
d
630
4
a
ウンマ
b
ヒジャーズ
c
ジハード
d
シャリーア
5
a
タラス河畔
6
a
アブー=バクル
7
a
ファーティマ
b
メディナ
c
セレウコス朝シリア
b
c
トゥール―ポワティエ
b
b
アリー
アイユーブ
ヤスリブ
c
カーバ
ササン朝ペルシア
c
ニコポリス
ムアーウィア
c
d
アッバース
d
d
エフタル
d
ウマル
d
ブワイフ
ニハーヴァンド
8
a
西ゴート
b
東ゴート
c
ヴァンダル
d
ロンバルド
9
a
ハラージュ
b
ジズヤ
c
アター
d
ジンミー
10
a
ウマイヤ
b
アッバース
b
c
サーマーン
アブー=アルアッバース
d
サファヴィー
11a
マンスール
12
a
13a
ハールーン=アッラシード
14
a
ナスル
b
ブワイフ
c
後ウマイヤ
d
アッバース
15
a
マフディー
b
マワーリー
c
スーフィー
d
スンナ派
16
a
ムラービト
ペルセポリス
b
b
c
ウスマーン
c
バグダード
イスファハーン
b
スレイマン1世
ファーティマ
c
【23】
c
d
No.10
ニザーム=アルムルク
d
バスラ
トゥグリル=ベク
ムワッヒド
d
d
サラディン
アイユーブ
2004 年 青山学院大学
経済学部
次の文章を読んで,文中の空欄〔(a)~(m)〕に適切な語句を入れ,下線部分〔(1)~(11)〕について以下の設問に
答えよ。
ウマイヤ朝は,661 年,
(a) ムアーウィヤ
によって創始された。第五代カリフのアブド=アルマリクの治世
には,アラビア語の公用語化や(1)アラブ貨幣の発行が行われ,続くワリード1世の治世には,711 年にイベリア半
島の
(b)西ゴート
王国を滅亡させるなど,ウマイヤ朝の勢力は拡大し,その最盛期を迎える。首都
(c)ダマスクス
にウマイヤ・モスクが建造されたのもこの時期であった。
やがて,(2)非アラブ人や地方のアラブ人などの不満が高まると,それを背景としたウマイヤ朝打倒の運動がアッ
バース家によって組織化され,750 年,ウマイヤ朝は滅亡した。アッバース朝(3)初代カリフの兄で,754 年にその後
を継いだ
(d)マンスール
は,首都
いく。また,第五代カリフの
(e)バグダード
を建設する。(e)は,国際的な交易都市としても繁栄して
(f)ハールーン=アッラシード
や第七代のマームーンらの奨励によって,ギリシ
ア文献の収集・翻訳が進展するなど,(4)学問が大いに発展した。
9世紀以降,アッバース朝のカリフの権威はしだいに低下し,地方には(5)諸王朝が割拠するようになった。また,
869 年から 883 年まで続いた
(g)ザンジュ
〔黒人奴隷〕の乱もアッバース朝を弱体化させた。
イラク南部のサワード地方で起こった反乱。反乱軍の兵士の多くがザンジュ zanj と呼ばれた黒人奴隷であったた
め,一般にこう呼ばれる。サワード地方では,灌漑,排水,地表の塩分除去が農耕に不可欠で,その作業を奴隷に
させる大農場経営がササン朝時代から盛んであった。サワード=〈黒〉または〈黒い物体〉を意味するアラビア語。
都市近郊の農耕地帯のほか,とくに現在のイラク共和国南部の肥沃な沖積平野をサワードと呼んだ
そして,946 年,イラン系の
(h)ブワイフ
朝のアフマドは(e)に入り,カリフから実権を奪った。(h)朝の統治
は安定せず,混乱が続いたが,1055 年,トルコ系のセルジューク朝の
(i)トゥグリル=ベク
が(e)に入り,カリ
フからスルタンの称号を受けた。第二代スルタンのアルプ=アルスラーンは,1071 年,ビザンティン帝国との
マンジケルト
の戦いに勝利し,小アジアのトルコ化への先鞭をつける。そして,第三代
(j)
(k)マリク=シャー
の
時代にセルジューク朝は最盛期を迎えることになる。この繁栄を支えたのが,第二代・第三代スルタンに仕えたイ
ラン人の(6)宰相
(l)ニザーム=アル=ムルク
であった。彼は,諸都市に学校を建設するなど,(7)文化の発展に貢
献したことでも有名である。しかし,以降,セルジューク朝は一族の内紛などによって混乱し分裂していった。
アッバース朝の衰退が顕著になっていた 10 世紀初めの 909 年,チュニジアではファーティマ朝が成立した。そし
て,第四代カリフのムイッズは,969 年にエジプトを征服すると,新都となるカイロを建設した。この都市の発展
に示されたようにファーティマ朝は繁栄するが,その後,11 世紀半ばの大飢饉などにより,弱体化していく。1169
年,実権を握ったクルド人の(8)サラディンによってアイユーブ朝が成立するが,その死後,一族による分割支配が
行われた。(9)1250 年,エジプトでは,アイユーブ朝のスルタンが殺害され,トルコ系奴隷兵によるマムルーク朝が
成立する。1261 年には,第五代スルタン
(10)
(m)バイバルス
がカイロに
アッバース朝のカリフを復活させ,これにより政権の権威が高まった。そして,マムルーク朝は(11)紅海貿易など
によって繁栄した。
問
(1)
貨幣流通の進展を基礎として,現金での支払いが行われるようになる軍人・官僚の俸給を何と呼ぶか。
アター
(2)
非アラブ人のイスラーム教改宗者を何と呼ぶか。
(3)
(イ)
初代カリフ治世の 751 年に,唐軍に大勝した戦いを何と呼ぶか。タラス河畔の戦い
(ロ)
この時,西アジアに伝わった技術は何か。製紙法
(4)
マワーリー
アッバース朝時代の数学者・天文学者で,アラビア数学を確立したとされるのは誰か。
フワーリズミー
彼がインドから導入したもので,アラビア記数法やそれに基づく計算を意味する〈アルゴリズム〉という
語は,彼の名前が転訛したものである。彼の著作のうち最も有名なものは《代数学》で,これはアラビア
数学の嚆矢をなすばかりでなく,後のヨーロッパに初めて代数というものの存在を教えたものである
(5)
868 年,トルコ人がエジプトに樹立した王朝は何か。 トゥールーン朝
アフマド・ブン・トゥールーンの創始したエジプト・シリアにまたがる王朝。868‐905 年。アフマド・ブン・
トゥールーン(在位 868‐884)はトルコ系軍人で,868 年,アッバース朝によってエジプトに派遣されそこ
で実権を握り,アミールの称号を得,アッバース朝の宗主権は認めながらも事実上独立した王朝建設
(6)
彼がその整備・運用に腐心した,軍人に徴税権を与える制度を何とよぶか。
イクター制
カリフやスルタンから授与された分与地を意味するアラビア語。
(7)
ジャラーリー暦作成に参加したイラン系の数学者・天文学者・詩人は誰か。ウマル=ハイヤーム
(8)
サラディンと戦った第三回十字軍に参加したイギリス王は誰か。リチャード 1 世
(9)1250 年,エジプト・マンスーラの戦いにおいて捕虜となった,第六回十字軍を主導したフランス王は誰か。
ルイ 9 世
アイユーブ朝のスルタン,サーリフのマムルーク(奴隷軍人)となり,1250 年マンスーラの戦でルイ 9 世
を捕虜にしてから頭角を現した=バイバルス
(10)
チンギス=ハンの孫で 1258 年にアッバース朝を滅ぼしたのは誰か。 フラグ
(11)
紅海貿易においてマムルーク朝の保護の下に活躍した商人を何と呼ぶか。
カーリミー商人
紅海経由の香辛料貿易に活躍したイスラーム商人の呼称。カーリミー の語源であるカーリムの語は〈回船〉ある
いは〈船主グループ〉の意味とされる。
マムルーク朝スルタン,バルスバイの専売政策により打撃を受け,15
世紀半ば以降は政商化した商人がこれにかわった
【24】
2005 年 青山学院大学 経済学部
空欄(a)~(g)に適切な語句を,また空欄(A),(B)に適切な年号(西暦)を記入するとともに,(1)~(6)の問いに答
えなさい。
歴史の教科書で,ここまではイスラム教の時代,ここからはキリスト教の時代というと,ある種の断絶があるか
に想像しがちである。もちろんそういう側面もなくはないけれども,都市空間やそこでの生活から見ると,別の側
面が見えてくるし,それがそれぞれの場所の文化として受け継がれていくことによって,その空間をゆたかにする。
しかるに自らとは異なる宗教を敵視し,「文明間の衝突」を騙ってはばからないようなところに,ゆたかな文化の
開花はありえない。
スペイン南部のアンダルシーア地方の都市コルドバは,ローマ人が紀元前から都市を建設したところである。そ
こにゲルマンの一族である
(b)後ウマイヤ
(a)西ゴート
が進出し,教会をつくった。そのあとイスラム勢力が進出して
朝ができ,メスキータと呼ばれる巨大なモスク(イスラム礼拝堂)が建てられる。この先は「千
載ののちまでも」(シェークスピア『ジュリアス・シーザー』第3幕第1場)といきたいところだが,時は容赦なく
流れて, (A)1492
年にイスラム勢力の最後の王国である
(c)ナスル
朝がスペイン勢に敗れ,その拠点のグラ
ナダを放棄,(1)北アフリカに逃れる。これが,キリスト教勢力によるイベリア半島の再征服――いわゆる
(d)レコンキスタ
の完了に当たる。かれらはこののちイスラム教のメスキータをキリスト教のカテドラル(大伽
藍)に衣替えする。
とはいえ,キリスト教化の中で破壊をまぬがれたイスラム建築物は少なくない。なかでも
(e)アルハンブラ
宮
殿は,その繊細さと優美さのゆえに,キリスト教勢力といえども,さすがに壊すに壊せなかったのだろう。ビザン
ツ帝国の首都
(f)コンスタンティノープル
が(2)オスマン・トルコの攻撃によって陥落したのが
(B)1453
年の
ことであるから,当時のキリスト教勢力には(3)トルコ・イスラム台頭の脅威に身を震わせる日々が続いていたであ
ろうに。
われわれはともすると,アラブ世界はイスラム一色で,キリスト教徒やユダヤ教徒,あるいは(4)ゾロアスター教
徒とつねにいがみ合っているように思っているが,そうではない。イスラム勢力が主たる支配を確立している世界
にあっても,異なる宗教が共存していたということは,特記すべき歴史上の事実の一つである。
シリアを例にとろう。その首都の旧市街の外にキリスト教徒の墓地がある。この地ではキリスト教といっても,
アルメニア教会,コプト教会などさまざまの教会が並存している。微妙な政治的問題がそこに絡んでいるにせよ,
社会生活の上ではそれぞれが共存している。ベドウィンの民の言語(アラビア語)の墓碑銘が刻まれたキリスト教徒
の十字架には,奇妙な感じを受けるかもしれないが,現地の人たちにしてみれば,「そんなのは遥かむかしから」
ということになる。それに,この宗教の聖書のオリジナルがアラビア語と同じセム語族系の
(g)ヘブライ
語で
書かれたことを知っていれば,奇妙でもなんでもない。
ダマスクスのガイドブックのページをくくると,旧市街の中心には古代ローマのゼウス(ジュピター)神殿の遺構
があるが,神殿を囲んでいた石積みが,(5)ビザンツ文化を代表する細密な模様や装飾を取り入れたイスラム教のモ
スクの外壁のかたちで残っている。バプティスマ(洗礼者)のヨハネが没したのはこの付近とされ,現在もモスクの
中にヨハネの墓がある。そしてそこからほどないところで,(6)シーア派の聖人が,ソクラテスさながらに「夢一つ
見ないながい眠り」に就いている。
(1)
ヨーロッパ人はイスラム化した北アフリカ西部原住民を,その本来名ではなく,別名で呼称することが多い。
その別称を書きなさい。
ベルベル人
(2)
当時のオスマン・トルコの皇帝はだれか書きなさい。メフメト 2 世
(3)
9世紀ころからある教義論争を契機に対立し,11 世紀に東西二つの教会に分裂していたキリスト教勢力であ
るが,15 世紀に入り台頭いちじるしいオスマン・トルコの脅威の前に和解の機運が高まり,分裂に終止符を打っ
た。①この論争は何に関するものであったか,②カトリック(ラテン)教会と称される西方教会に対して,東方教
会は何と呼ばれていたか書きなさい。
①聖霊の発出
②ギリシア正教会
コンスタンティノープル総主教ケルラリウスとローマ教皇レオ 9 世の全権使節団が相互破門をおこない、
東西の教会が最終的に分裂した。ケラリウスは、聖霊が「父および子から」発出するとする複数発出論や
「種なしパン」をもちいる聖体儀礼に反対していた。レオ 9 世は和解のための特使を派遣したが、ケラリウ
スがこれを拒否したため、使節団はハギア・ソフィアの祭壇に呪詛状をおいて総主教を破門。ケラリウス
側もこれに応酬したのである。このできごとは、はるか以前から進行していた関係悪化のひとつの象徴的
事件にすぎない。両者の分裂は 1204 年、第 4 回十字軍によるコンスタンティノープル侵略によってクライ
マックスをむかえる
(4)
歴史上最古の宗教とされるゾロアスター教の聖典は,ある人物が紀元前 330 年に古代ペルシャのペルセポリス
を侵し,都下に火を放ったさい,炎上する王宮と運命をともにしたという。①この宗教の聖典名は何か,②この
都市を攻略した人物とはだれか書きなさい。
①『アヴェスター』
②アレクサンドロス大王
(5)
こうした模様や装飾は何と呼ばれるか書きなさい。
(6)
シーア派は主にイランに存続するイスラムの一宗派であるが,今日のイランで多数派をなすのはシーア派のあ
る教派である。その教派の名前を書きなさい。
モザイク
十二イマーム派
【25】
93 年
東大
10 世紀のイスラーム世界で成立したシーア派の王朝を二つ挙げよ。
これら二つの王朝がスンナ派のアッバース朝カリフにどのように対応したかをそれぞれ 60 字以
内で記せ
ファーティマ朝とブワイフ朝
前者=当初からカリフを称し、アッバース朝の権威を否定
{バグダードに対抗してカイロをイスラーム文化の中心に}
後者=バグダードに入城し、カリフに代わり一切の政治的権限を行使して武断政治を開く
{アッバース朝カリフは名目的に}
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題11
http://okadome.net/wp
【26】
2007 年 早稲田大学 教育
オスマン朝に関する次の文を読み,設問1,2に答えなさい。
13 世紀末にアナトリアに建国されたプリントのデータを画像として鮮明にするための問題11
http://
okadome.net/wp オスマン朝は,14 世紀後半にバルカンに侵攻し,1396 年にハンガリー王と西欧の騎士たちを破っ
た(1)が,1402 年に
A
アンカラ
の戦いでティムールに敗れて一時分裂した。しかし,すぐにもりかえし 1517
年にはエジプトをあわせ(2),メッカとメディ
ナの保護権を手にいれ,スレイマン1世(3)の時代に最盛期を迎えた。オスマン朝はイスラーム法に基づく統治(4)を
徹底させた。
しかし,第2次ウィーン包囲(5)の失敗により衰退をはじめ,1699 年の条約で,ハンガリー・トランシルヴァニア
などをオーストリアに割譲(6)し,1774 年にロシアにより黒海の北岸(7)を奪われた。
1789 年に即位したセリム3世は,体系的な西洋化改革に着手し,西欧式の新軍隊(8)を創設した。
1839 年,アブデュル=メジト1世は
改革が始まり,1876 年には宰相
C
B ギュルハネ勅令
ミドハト=パシャ
の勅書を発布し,オスマン朝では全般的な西洋化
がアジアで最初の憲法を発布するにいたった。
オスマン朝は第一次世界大戦に参戦して敗れ,国土の大幅な縮小を強いられた。これに抗議し,ムスタファ・ケ
マル(9)がたちあがり,1923 年に連合国との間に新国境を定め(10)トルコ共和国を樹立した。
設問1
空欄
設問2
下線部(1)~(10)に関する問いについて,適切な解答をa~eの中から選べ。
(1)
(2)
(3)
(4)
A
B
C
に入る適切な語を所定欄に記入しなさい。
この時のオスマン皇帝は誰か。
a
オスマン1世
b
セリム1世
c
バヤジット1世
d
ムラト2世
e
メフメト2世
〔
〕
〔
〕
この時,滅ぼされたエジプトの王朝の名は何か。
a
アイユーブ朝
b
ナスル朝
c
ブワイフ朝
d
マムルーク朝
e
ワッハーブ朝
彼の事績を選べ。
a
ジズヤを廃止した。
b
トプカプ宮を創建した。
c
ビザンツ帝国を滅ぼした。
d
モハーチの戦いでハンガリーを破った。
e
レパントの海戦で勝利した。
〔
〕
イスラーム世界の裁判官を意味し,オスマン朝では地方行政も担当した官職を何というか。
a
カーディー
カーディー=イスラム法に基づき,民事・刑事の訴訟に判決を下す裁判官。孤児・精神遅滞者の財産,モ
スク・ワクフの管理,近親に男子のない女子の婚姻契約書作成も職務に含まれる。イスラム法施行の責任
はカリフにあり,そのため政府は国内各地にカーディーを任命するが,この原則が確立したのは 7 世紀末ご
ろで,それ以前にカーディーと称された者の多くは,地方公庫の管理者か戦利品分配の責任者,あるいは
紛争の調停者(ハカム)にすぎなかった。
b
シャリーア
e
ミスル
c
スーフィー
d
ティマール
ミスル=イスラム初期に征服地に建設された軍営都市。複数形はアムサール amo´r。アラブ・ムスリムの
勢力が,アラビア半島の外へと拡大し各地を征服した時に,征服地の統治の拠点として,またその後の征
服活動の基地として軍営都市が建設された。
(5)
〔
この事件が起きた年,王(帝)位についていなかった人物は次の誰か。
a
アウラングゼーブ
b
康熙帝
c
チャールズ2世
〕
17 世紀後半(1688 年)
ムガル帝国第 6 代皇帝。在位 1658‐1707 年。
清朝第 4 代皇帝。在位 1661‐1722 年。
イギリス,後期スチュアート朝の国王。在位 1660‐85 年。チャールズ 1 世の次男
(6)
(7)
(8)
d
ミハイル・ロマノフ
e
ルイ 14 世
ロシアのロマノフ朝初代皇帝。在位 1613‐45 年。
フランス絶対王政最盛期の国王。在位 1643‐1715 年。
この条約を何というか。
a
カルロヴィッツ条約
b
キュチュク=カイナルジ(ャ)条約
c
サン=ステファノ条約
d
セーヴル条約
e
パッサロヴィッツ条約
〔
〕
〔
〕
この地域にあってオスマン朝に服属していた国を何というか。
a
アストラハン=ハン国
b
カザン=ハン国
c
クリム=ハン国
d
シビル=ハン国
e
ヒヴァ=ハン国
この軍隊を何というか。
a
イェニチェリ
b
c
シパーヒー
d
ニザーム=ジェディット
イクター
セリム 3 世 Selim III,(在位 1789‐1807)が新設した西欧型新軍団〈ニザーミ・ジェディード Nizam‐そ C
edid〉に象徴されるように,帝国の改革はまず軍事組織から始まった。
マフムト 2 世(在位 1808‐39)は,イエニチェリ軍団を全廃
e
(9)
(10)
ミッレト
彼の政策でないものを選べ。
a
アラビア文字のローマ字化
b
トルコ帽の着用禁止
c
女性の地位向上
d
スルタン制の廃止
e
スンナ派の国教化
〕
この時,ギリシアより回復した地はどれか。
a
アレッポ
e
トラブゾン
b
イズミル
c
エルズルム
d
サムスン
【27】
2005 年 早稲田大学 社会科学部
次の文章を読み,問1~3については,適切な語を記入し,問4~10 については,選択肢の中から適切な解答を
それぞれ一つ選び,その記号をマークせよ。
インドへのイスラム教徒の侵入は8世紀初めに始まり,10 世紀以降本格化した。13 世紀初頭にアフガニスタンを
本拠とするゴール朝の奴隷武将アイバクがデリーでインド最初のイスラム王朝をたて,その後,北インドには,デ
リー=スルタン朝と総称されるイスラム王朝が続いた。一方,南インドでは 14 世紀前半にヒンドゥー教を奉じる
(イ)
ヴィジャヤナガル
王国がおこり,17 世紀半ばまで独立を維持した。
16 世紀前半にティムールの子孫といわれるバーブルは,インドに侵入し,デリーへ入城してムガル朝を創始した。
ムガル帝国の真の建国者といわれる第3代皇帝(A)アクバルは,領土を拡大し,ヒンドゥー教徒との融和を進め,官
僚機構や徴税制度を整備し中央集権体制を確立した。その後ムガル帝国の繁栄は続いたが,第6代のアウラングゼ
ーブは,イスラム化政策を強行してヒンドゥー教徒の反発を招き,彼の死後,帝国は衰退していった。
一方,インドに進出してきたイギリスとフランスは,それぞれの東インド会社が根拠地を建設してインドにおけ
る利権を争った。その結果,南インドでは
①
で,ベンガル地方ではプラッシーの戦いで,それぞれイギリス側
が勝利してインドでの勢力を固めた。イギリス東インド会社は
②
でムガル皇帝と地方政権の連合軍を破り,ベ
ンガル地方の徴税権や司法権を得て,東インドを実質的に支配するようになった。またイギリスは,4次にわたる
③
に勝利してインド南部を,また3次にわたる
④
によってインドの中央部を獲得し,さらに
⑤
によっ
て西北インドもイギリスの支配下となった。こうしてイギリス東インド会社は全インドにその領土を拡大するに至
り,ムガル帝国は名目化した。
イギリスは,新しい地税徴収制度を導入し,ベンガル地方などでは大地主に土地所有権を与えて納税の義務を負
わせ,一方,(B)南インドでは耕作農民に土地所有権を認め,彼らから直接に地税を徴収した。こうした土地政策と
商品経済の浸透によって,インドの伝統的な村落社会は崩壊していった。また,インドの手織り綿布はインドの最
も重要な輸出品であったが,(C)産業革命以後にイギリスで安価な機械織り綿布が生産され,インドに輸入されるよ
うになると,伝統的な手織り綿布産業は壊滅的な打撃を受けた。その後,インドは原料供給地および工業製品市場
と化していった。
イギリスは,鉄道や道路の整備,インド人官吏登用のための英語教育や新たな司法制度の導入など,植民地支配
を強化する政策を進めた。こうした中で,(D)インドの中間層の間では,ヒンドゥー教の伝統をふまえながら西欧文
化も摂取して,ヒンドゥー社会の改革をめざすものも現れた。だが,イギリスのインド支配に対してインド人の各
層の反イギリス感情は次第に高まり,ついに(E)シパーヒーが暴動を起こしたことをきっかけとして大反乱がおきた。
反乱は全国に波及し,広い層の国民がこれに加わったが,結局イギリス側に鎮圧された。反乱軍に擁立されたムガ
ル皇帝はイギリスにより廃位させられ,ムガル帝国は滅亡した。この反乱を機に,イギリスは東インド会社を解散
してインドをイギリス政府の直接支配下におき,さらに 1877 年,英領インド帝国が正式に成立した。インド帝国の
構成は,イギリス国王が兼ねるインド皇帝のもとに総督をおき,そのもとに植民地政庁の直轄地と,イギリスの保
護下で存続を認められた
(ロ)藩王国
をおくというものだった。また,イギリスはインド周辺の地域にも進出し,
第2次アフガン戦争の末に,アフガニスタンを保護国化し,(F)ビルマ(ミャンマー)を3度の戦争の結果,英領イン
ド帝国に併合した。
インド帝国成立以後インドではイギリスによる開発が進んだが,それはイギリス本国の利益を優先したものであ
り,インドの困窮化は進み,飢饉も頻発した。こうした中,(G)インドの都市知識人や民族資本家を中心に民族主義
的な運動が起こり,やがて自治の獲得とイギリスからの独立に向けた運動が展開されていくことになった。
問1
空欄(イ)に入るべき最も適切な語を記入せよ。
問2
空欄(ロ)に入るべき最も適切な語を記入せよ。
問3
下線部(C)に関し,産業革命期のイギリスで発明された紡績機で,細くて丈夫な糸をつむぐことができ,イン
ド産綿布に匹敵する高品質綿布の生産を可能にしたものは何か。最も適切な名称を記入せよ。
〔
問4
ミュール紡績機
〕
空欄①~⑤について,各空欄に該当する語が,各空欄の記号と適切に対応しているものは次のどれか。
a.
b.
c.
d.
①
カーナティック戦争
⑤
ブクサールの戦い
①
ブクサールの戦い
⑤
シク戦争
①
カーナティック戦争
⑤
マイソール戦争
①
ブクサールの戦い
⑤
e.
①
②
②
マラータ戦争
③
カーナティック戦争
④
シク戦争
③
マラータ戦争
④
マイソール戦争
ブクサールの戦い
③
マラータ戦争
④
シク戦争
カーナティック戦争
③
シク戦争
②
②
マイソール戦争
④
マイソール戦争
マラータ戦争
カーナティック戦争
②
ブクサールの戦い
ブクサール戦争=インド北部,ビハール州北西端,ガンガー(ガンジス)川南岸の町。1764
年マンロー He
ctor Munro の率いるイギリス東インド会社軍が,ここでベンガル太守ミール・カーシムとアウド太守,ム
ガル皇帝の連合軍を破り,イギリスのベンガルひいてはインド支配を確立した。
問5
③
マイソール戦争
⑤
シク戦争
④
マラータ戦争
下線部(A)に関し,アクバルについての以下の記述のうち,最も適切なものはどれか。
a.アクバルは,トルコ語を用いて『アクバル=ナーマ』という回想録を著した。
バーブル=トルコ散文学史上最高の傑作とされる回想録《バーブル・ナーマ B´bur‐n´ma》を著し,ま
たイメージ豊かな多数の詩を残した優れた文人でもあった。
b.アクバルは,首都をデリーからアグラに移転し,その後も他の都市に首都を移転した。
アクバルは 15 世紀にロディー朝によって建設された旧城砦を 1565 年に赤砂岩で築かれたアーグラ
城塞に改修し、この城市には「アクバルの町」を意味するアクバラーバードの名が与えられた。ま
た、1569 年には帰依するチシュティー教団の神秘主義者(スーフィー)の影響を受けてアーグラ
の近郊に周囲 11km に及ぶ市域をもった新都、ファテープル・シークリー(「勝利の都」)の建設
を始め、1574 年から都がラホールに移った 1584 年までの間、10 年間にわたって居城とした。159
8 年までアクバルの都であったラホールの城砦もアクバルの造営になるものを基礎としている
c.アクバルは,ヒンドゥー教徒だけに課していたハラージュを廃止した。
d.アクバルは,北インド全域を統一し,ムガル帝国時代の最大版図を実現した。
e.アクバルは,アグラ近郊に王妃の廟であるタージ=マハルを造営した。
問6
下線部(B)に関し,この制度を何というか。
a.ザミンダーリー制
1793年コーンウォリス総督によってベンガル管区に導入され,以後イギリス支配期を通じて北インドを中
心に実施された土地所有・徴税制度。〈永代ザミーンダーリー(地税)制度〉ともよばれる。〈ザミーンダール
Zam ̄nd´r〉とは,ペルシア語のザミーン zam ̄n(土地)とダール d´r(所有者)の合成語で,土地保有者一
般を意味したが,本来,イギリス支配以前に存在していたヒンドゥー領主層,村落の小地主層,またムガ
ル時代に土着化していったムスリム(イスラム教徒)豪族層など多様な在地支配層が含まれていた。しか
し,イギリス東インド会社は最大の地税収入を確保すべく本制度を生み出した。
b.イクター制
c.マンサブダーリー制
インドのムガル帝国における軍事・官僚機構。第 3 代皇帝アクバル時代(1556‐1605)の中期,1570 年代半ばから 90
年代にかけて成立したといわれる。マンサブ manoab はアラビア語で〈位階〉を意味し,ダール d´r は〈持つ〉
の意のペルシア語 d´shtan の語根で,〈マンサブダール manoabd´r〉は位階を持つ者の意。当初の制度では,軍
人,一般官僚を問わず,帝国に仕える者はすべて,皇帝からマンサブ(最低 10 位から臣下としての最高 5000 位まで)
を与えられ,なんらかの功績のあるごとに昇進していくしくみとなっていた。マンサブを与えられた〈貴族〉も含め,
すべて帝国官僚はマンサブダールと呼ばれたはずであるが,〈貴族〉は実際はウマラー umar´(アミールの複数形)
と呼ばれ,特別な階層を成した
d.マハールワーリー制
マハール=「不可触民」カーストに位置づけられていたマハールの出身。その伝統的職業は村の見張り
や清掃などの雑役であった。
e.ライヤットワーリー制
19 世紀前半にイギリス支配下のインドにおいて,マドラス,ボンベイ両管区に導入された土地所有・地税制度。〈ラ
イーヤト〉とはペルシア語で〈耕作者〉の意。ザミーンダーリー制度に対する批判から新たな地税制度が求められ,
1792‐99 年,アレクサンダー・リードらによって南インド南部の内陸地域バーラマハールで試行され,やがて 19 世
紀初期,マンローによってマドラス管区で,またエルフィンストンによってボンベイ管区で本格的に実施された。そ
の内容は,(1)小経営自作農民を土地所有者と規定,(2)政府と土地所有者とが直接に地税徴収契約を結び,徴税請負
人や大地主を認めない
問7
下線部(D)に関し,バラモン出身で,ヒンドゥー教の偶像崇拝や寡婦殉死(サティー)に反対し,ブラフマ=サ
マージという宗教・社会改革団体を設立した運動家はだれか。
a.タゴール
b.ラーム=モーハン=ローイ
ベンディグや,ラームはインド人への英語教育を推進するとともに,ラーム・モーハン・ローイなど
に協力して,寡婦焚死(サティー)の慣行を禁止(1829)した
c.ラクシュミー=バーイ
インド民族運動の女性指導者。インド大反乱(セポイの反乱)の英雄。マラーター同盟の末裔に生ま
れ,ジャーンシー王国のガンガーダル・ラーオと結婚。嫡子なき王国は併合というイギリスの政策によ
り,王の死後併合される。1857年大反乱勃発により,反乱側の指導者となり,マラーター同盟系の
人々と協力,反乱軍の中でも有能かつ勇敢な指揮者だった。グワーリオール落城の際,戦死。
d.ティラク
e.ダヤーナンド(ダヤーナンダ)=サラスヴァティ
〔
〕
ダヤーナンダ・サラスバティー 1824‐83
近代インドの宗教改革者。別名ムーラ・シャンカラ M仝 la ㌫a△kara。24歳のときに不二一元論の系統をひ
く〈サラスバティー教団〉に入団,インド古来の伝統的宗教思想に戻るべきであると主張し,〈ベーダにかえ
れ〉という有名なスローガンを掲げた。ブラフマ・サマージの指導者の一人ケーシャブ・チャンドラ・セーンに
出会い,強烈な影響を受け(1872),ついにみずからアーリヤ・サマージをボンベイに設立した(1875)。彼
は,四つのベーダ本集こそが正しい知恵と宗教的真理の本源であること,また,ベーダに登場する諸神は
名称が異なるだけで,実は神はただ一つであることを主張,ベーダを全階層に解放し,カースト制度,幼
児婚など,社会の不正と不平等を撤廃する社会事業,教育事業を展開した。
問8
下線部(E)に関し,この反乱の発端となったシパーヒーの暴動が起きたのはどこか。
a.スーラト
b.カーンプル
c.ボンベイ
d.ラホール
e.メーラト
問9
下線部(F)に関し,イギリスがビルマ(ミャンマー)をインド帝国に併合したのはいつか。
a.1886
b.1858
c.1880
d.1904
e.1899
〔
〕
内陸国家に転落したビルマは、インドシナに進出したフランスとむすぼうとしたが、イギリスは、85~86 年
に第 3 次の戦争をおこし、ついにコンバウン朝は滅亡、ビルマはイギリス領のインドに併合された。
問 10
下線部(G)に関し,19 世紀後半から 20 世紀初めにかけてのインドの民族運動に関連する以下の記述のうち,
最も適切なものはどれか。
a.1885 年にデリーでインド国民会議派の創立大会が開かれたが,その中心メンバーは穏健な民族資本家
や知識人であった。
一つはイルバート法案闘争の中で S. バネルジーらを中心に結成された全インド国民協議会 All‐IndiaNa
tional Congress で,これはイギリス側の人種差別行政に反発するインド知識人や中間層を代弁した。他
はイギリス人官吏のリベラルな部分であった。この流れを背景に,A. O. ヒュームら退職官吏,すでにイギ
リスで活動していた D. ナオロージーらが尽力して創設したのが国民会議派で,前記協議会も86年以降
これに統合された。
b.1906 年にイスラム教徒は全インド=ムスリム連盟を結成し,当初はヒンドゥー教徒とともに反英運動
を展開したが,やがて対立するようになった。
c.1883 年にバネルジーなどの政治家が中心となり,イギリスの人種差別政策に反対して,全インド国民
協議会が結成された。
バネルジー=インドの政治家。ベンガルの出身。カルカッタ大学卒業後,渡英してインド文官職(ICS)の試
験に合格。帰国して文官勤務に入るがイギリス人上司の人種差別的措置のため解雇される。このあとカ
ルカッタにカレッジを開くなど,青年の教育につとめる。1883 年に全インド国民協議会設立を推進するが,
85 年にボンベイで国民会議派が結成されてからはこれに参加し,以後国民会議派内の親英的穏健派の
代表となる。
d.1906 年のインド国民会議派カルカッタ大会では,インド分割令に反対して民族の自治と独立を意味す
るスワデーシーがスローガンの一つとして採択された。
スワデーシー(国産品愛用)
e.1911 年に制定されたインド統治法により,イギリスはインド人の行政参加を認めたが,イスラム教徒
に有利な分離選挙制度を導入して,民族運動の宗教的分断をはかった。
1861 年、92 年、1909 年制定の法は、いずれもインド参事会法 The Indian Councils Act の名称をもつ。
1861 年の参事会法では、総督および地方管区(州)知事の下にそれぞれ参事会がおかれたが、その行政
や立法の面での役割は名目的なものにすぎなかった。1919 年のインド統治法は、前年に提出されたモン
タギュー=チェルムスフォード報告にもとづいて制定された。教育や農業など州所管事項の一部が移行事
項として、被選出議員が過半数を占める州の立法参事会にゆだねられた。植民地インドとしての最後の
1935 年統治法は、州と藩王国を合体したかたちでの連邦制をうちだした。州では、イギリス任命の知事に
最終決定権がのこされてはいたが、インド人による責任内閣(議院内閣制)がみとめられた。しかし、中央
においては、議会の役割は総督の特権のもとにいちじるしく制限され、結局、藩王国の不参加によって議
会は開催されなかった。