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鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 48: 17-27, March 30, 2011
研究ノート Note
うらどめ
鳥取県岩美町浦富 5 号墳出土資料について
東方仁史
1
A study on artifacts of the Uradome No.5 Tumulus, Iwami-cho, Tottori, Japan
Hitoshi HIGASHIKATA
1
はじめに
十m下った所に位置する。浦富砂丘はかつて流れてい
本稿で紹介する資料は、岩美町浦富に所在する浦富
たと考えられる蒲生川 ( 現吉田川 ) の河口に形成され
5 号墳
で出土した資料である。1966 ( 昭和 41) 年に
たもので、過去には湾口を塞ぎ潟湖が作られたと考え
発見・調査されたもので、これまで岩美町誌等で触れ
られている。岩美町内には古墳が多く存在し、これま
1)
られているが ( 岩美町 1968 ほか ) 、報告書が刊行され
で約 450 基が確認されているが、海岸地帯では潟湖が
ておらず、古墳と出土資料に関する具体的な様相は明
埋積・形成された平野を見下ろす丘陵上に密集して営
らかになっていない。
まれることが多い。海岸近くの砂丘上に築かれた浦富
今回紹介するのは当館に所蔵されている、同古墳出
古墳群は特異な立地と言える。
土資料の一部である。いかなる理由によるものか、出
浦富古墳群は、それぞれ近接して築かれており、こ
土資料全てが所蔵されている訳ではないが、古墳の時
れまで 5 基の存在が知られる【図 2、表 1】。このうち
期や性格の一端を明らかにできる資料がそろってい
4 基について調査が行われているが、いずれも砂に完
る。また、同古墳出土資料の中には錫製耳環が含まれ、
全に埋もれていたため、偶然に発見されたものである。
須恵器に出雲産と考えられるものがあり、漆書記号が
1 号墳は昭和 35 (1960) 年頃井戸掘りの際に発見され
存在するなど、興味深い資料でもある。本稿では、浦
ている。昭和 38 (1963) 年には、農作業中に 2 号墳が
富 5 号墳出土資料の一部である館蔵の資料について報
発見され、木山竹治、県立科学博物館 ( 当時 )、岩美
告し、それらからみた浦富 5 号墳の特徴について触れ
中学校社会科クラブによって調査が行われている。横
てみたい。
穴式石室から見つかった箱式石棺は、岩美中学校に移
築復元されている。3 号墳は昭和 62 (1987) 年に、畑地
1 立地と周辺の遺跡
造成中に偶然見つかったものである ( 岩美町教育委員
浦富 5 号墳は、鳥取県の東端、岩美郡岩美町浦富に
会 1988 )。墳丘は既に失われており、規模・墳形等は
所在する【図 1】。岩美町の海岸線は、海岸に迫る岩山
不明である。横穴式石室内に、柱状節理の安山岩を立
地帯と白砂の砂丘地帯とが交互に分布し非常に変化に
て並べて羨道側に横口をつけた石棺状施設が見つかっ
富んでいる。そうした特色から、山陰海岸国立公園 ( 浦
ている。保存されることになったため、棺内の調査は
富海岸 ) に指定されており、地質学的にも重要な地域
行われていないが、石室内で出土した須恵器から、7
として世界ジオパークにも認定されている。
世紀前半の築造と考えられている。出土遺物の中では、
浦富古墳群は砂丘地帯 ( 浦富砂丘 ) にあり、海岸線
銀象嵌のある鍔が注目される。4 号墳については、全
からは 300 mほど内陸に築かれる。浦富の集落が広が
く情報が無く不明である。今回紹介する 5 号墳は、昭
る「旧砂丘」と、その海側に半月形に形成された「新
和 41 (1966) 年、耕作中に横穴式石室が発見され、同
砂丘」の境界付近にあたり、砂丘の最高点を陸側に数
年 11 月∼ 12 月にかけて鳥取県教育委員会によって緊
鳥取県立博物館 〒 680-0011 鳥取市東町 2-124
Tottori Prefectural Museum, Higashi-machi 2-124, Tottori, 680-0011 Japan
E-mail: higashikata-hi@pref.tottori.jp
[受領 Received 7 December 2010 /受理 Accepted 21 December 2010]
1
18
東方仁史
図 1.浦富 5 号墳周辺古墳分布図(国土地理院発行 2 万 5 千分の 1 地形図〔浦富〕・〔田後〕を使用)
A 浦富古墳群 B 熊井古墳群 C 高山下猫山古墳群 D 高山上ノ山古墳群 E 恩志古墳群
F 新井三嶋谷古墳群 G新井南谷古墳群 H 新井古墳群 I 新井下屋敷古墳群 J 新井兵主古墳群
K 浦富日ヶ崎古墳群 L 岩本古墳群 M 太田古墳群 N 本庄古墳群 O 平野古墳群 P 小畑古墳群
1 浦富横穴墓群 2 牧谷横穴墓群 3 坊谷横穴墓群 4 平野横穴墓群
急調査が行われている ( 亀井 1967)。
これら浦富古墳群の特徴として、墳丘が完全に砂丘
に埋没し、発見されるまではその存在が全く分からな
かったことが挙げられる。そのうえ、いずれも封土を
完全に失っており、石室は新たに堆積した砂に覆われ
ていたようである。浦富砂丘の形成との関係で、その
時期や過程を明らかにする一端となろう。また、横穴
式石室で天井石が確認された 2 号墳、5 号墳とも、鳥
取県東部の千代川以東に多く分布する「中高天井」で
はなく ( 下高 1989) 、「平天井」である点もまた注目さ
れる ( 岩美町 2006)。
2 浦富 5 号墳の概要
5 号墳は、古墳群の中で西南端に位置している。古
墳は砂丘に完全に埋没しており、耕作中に発見されて
緊急の調査が行われた。埋葬施設として横穴式石室が
確認されている。右片袖の横穴式石室で、全長 8 m、
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玄室長 4.4 m、幅 1.4 m、高さ 2 mをはかり、花崗岩
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の割石と自然石を積んで築かれる。天井は前述の通り
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平天井である【図 3】。発見時には石室中に砂が充満し
図 2.浦富古墳群分布図(岩美町教育委員会 1988 より)
ていたようである。
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石室内からは、10 体余りの人骨と須恵器 47
点、玉
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19
岩美町浦富 5 号墳出土資料について
表 1.浦富古墳群古墳一覧
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類 17 点、鉄器類 13 点が出土した ( 亀井 1967) 。当館
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鏃 20 点がある。
には須恵器 ( 完形 ) 15 点、鉄器 26 点のほか、須恵器
1 は直刀である。刀身の大半と茎の先端を破損する
片 4 点、土師器 1 点、耳環 4 点、貝殻 1 点、炭化木材
ほか、刀身表面の大半が剥離している。関部は両関と
2 点、石 1 点が所蔵されている 2)。人骨と玉類の全て、
なり、刃部側は直角関、背側は撫関で、いずれもさほ
および大半の須恵器については、現在のところ所在不
ど大きくは切れ込まない。茎は先端に向かって緩やか
明である。
に幅を減じる。X線写真でも目釘孔は確認できない。
なお、調査に関する記録については、当館には調査
茎の表面には木質が残るが、背部には木質が付着しな
時の写真の一部(35mm モノクロフィルム)、石室およ
い部位があり、柄の構造を示すものと考えられる。ま
び遺物出土位置の略測図の青焼きコピーが存在するの
た、刀身の表面にも木質がわずかながら付着しており、
みである 。出土資料のうち、土器類のほぼ全点と鉄
鞘に収められていた可能性がある。
製品・玉類の一部、耳環などを故亀井
2 ∼ 14 は鉄鏃である。いずれも長頸鏃で、頸部は
3)
人氏が実測し
ており、その実測図が残されている。
8cm 以上とやや長めである。現状で 20 点が確認でき
るが、茎部のみの破片が 3 点あり、同一個体を別々に
3 出土遺物
数えている可能性もある。鏃身部の形態は、三角形、
(1) 金属製品【図 4】
鑿前式、柳葉形がある。2 は 8 本の鉄鏃が銹着したも
鉄製品
のである。全て鏃身部を同方向に向けるが、向きがや
鉄製品として、直刀 1 点、刀子 3 点、金具 2 点、鉄
や不揃いであることから、束ねて副葬していたかどう
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図 3.浦富 5 号墳石室・遺物出土位置図
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図 4.浦富 5 号墳遺物実測図①(金属器)
かは不明である。また、部分的に矢柄とは異なる木質
である。これらを含め、茎部が残るものでは表面に有
が付着するが、性格は明かではない。鏃身部の形態は、
機質が遺存する。関付近では、茎と直行方向に有機質
三角形 2 点、鑿前式 5 点、不明 1 点である。3 ∼ 7 は
が残存するほか、矢柄本体の木質の下に交差するよう
鏃身部が残るものである。3、4 は三角形、5 は柳葉形、
に巻かれた有機質が見られる。
6、7 は鑿前式である。8 は頸部のみの破片、9 ∼ 11 は
15 ∼ 17 は刀子である。いずれの柄にも木質が付着
頸部∼茎部の破片。頸部関は棘状のものが多いが、10
する。15 は刃部の大半を破損する。関部は両関で、背
と 11 は台形関である。12 ∼ 14 は茎部先端のみの破片
部は直角、刃部は撫角である。茎の表面には木質が良
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岩美町浦富 5 号墳出土資料について
好に残存する。全面に幾重にも交差するように巻かれ
る。9 は径が小さく、口縁部の立ち上がりも短い。10
た有機質が認められ、その上を柄縁の部分のみ茎に平
は口縁部直下がくびれる形の杯身である。底部は平底
行する木質、背と腹は海綿状の有機質が覆う。柄縁は
に近く、ヘラ切り後ナデ調整を施す。11 は高台のある
木製、その他は鹿角製の柄があったものと想定される。
杯身で、底部外面には回転糸切りの痕を明瞭に残す。
16 は刃部先端と茎先端を欠損する。関部は撫角である
体部はやや内湾し、高台はやや高く直線的に広がる形
が明瞭ではなく、緩やかに茎に移行する。茎表面には
態をとる。底部外面と体部側面に「×」の漆書記号が
木質が残るが、15 のように有機質を巻いていない。側
あるが、体部のものは剥離して痕跡が残るのみである。
面の中央に山形の部分が遺存しており、柄の内側に空
12 ∼ 15 は高杯である。12 は無蓋高杯の脚部を取り
隙があったものか、別材が存在したものと考えられる。
去ったもので、破面を丁寧に研磨している。口縁端部
17 は細く茎も短小である。両関で、いずれも直角である。
も摩滅しており、意図的に加工されている。体部には
18、19 は金具である。いずれも内面に木質が残る。
櫛状工具による列点文が施される。13 も無蓋高杯の杯
18 は幅 1.7cm で、カーブなどから直刀に伴う装具と考
部と考えられる。14、15 は有蓋高杯で、脚部は低く太
えられる。19 は幅 3cm 以上のもので、表面に目の粗
い。いずれも脚部にスカシはない。15 は杯部と脚部の
い布 (5 目/ 1cm) が銹着する。この布や銹で不明瞭で
破片があり、接合しないが胎土や色調から同一個体と
あるが、端部は肥厚するようである。
考えられる。
16 は
で、やや扁平な胴部を持ち、肩部に幅広の沈
その他金属製品
線を施す。胴部下半は回転ヘラケズリ。頸部が細く造
20 ∼ 23 は耳環である。20 ∼ 22 は銅芯に銀板を貼っ
られているため、内部に穿孔に伴う粘土塊が取り出さ
たものである。腐食が進行しており、銀板の多くが欠
れずに残っている。17 は
損している。21、22 は同形同大で、つくりも似ており、
図示したが、脚付壺などの脚部の可能性もある。18 は
セットと考えられる。23 は錫製で、環体の 2 分の 1 弱
器台の脚部端と考えられる。凹線が 2 条残り、波状文
が残存する。表面は腐食し、大小のヒビが入っている 。
が 4 条巡る。
4)
などの口縁部の破片として
図 6-20 は長頸壺で、肩部は明瞭な稜を持ち、上下
(2) 須恵器・土師器【図 5、6】
に 2 条の沈線が施される。体部下半に 1 か所、口縁部
須恵器
に 3 か所、2 条 1 組の沈線が巡らされる。高台はハの
須恵器は、完形あるいは完形に復元できるもので杯
字形に開くものでやや長めの形態である。高台中央に
蓋 4 点、杯身 7 点、
沈線が 1 条巡らされる。口縁部は外反し、外面に段を
1 点、高杯 3 点、長頸壺 1 点、
破片で高杯、器台などがある。
有する。
1 ∼ 4 は杯蓋である。1 は明瞭な稜を持たず、緩や
かにカーブする形態で、天井部を丁寧に回転ヘラケズ
土師器
リする。2 は緩やかに盛り上がる天井部に中心が凹む
土師器は 1 点のみである。図 5-19 は杯で、全面に
つまみを持ち、内面に口縁部よりも突出するカエリを
赤色顔料が塗布される。口縁部がやや肥厚し、端面は
有する。3 は小型の蓋で、杯蓋ではなく直口壺などの
外傾する面を持つ。内面は口縁直下に段を有する。底
蓋の可能性もある。天井部はヘラ切り後ナデて仕上げ
部外面はヘラケズリの後ミガキ調整されるが、体部上
る。4 は輪状つまみで内面にカエリがないもので、口
半は幅広の板状工具で整えられる。
縁部はほぼ垂直に垂下する。つまみ内と上面の 2 か所
に「×」の漆書記号がある。
(3) その他
5 ∼ 11 は杯身である。5 はやや径が大きいが浅い作
「浦富古墳出土」と描かれた小箱に入ったもので、
りである。底部は丁寧に回転ヘラケズリで調整する。
二枚貝の貝殻 1 点、炭化材 2 点、石 1 点がある。貝の
6 は底部外面が自然釉に厚く覆われ、調整が確認でき
種類は「コタマガイ」で、調査時の写真によれば須恵
ない。口縁部は他の個体と異なり、内面側がほぼ垂直
器杯身上から見つかっている【図 7】
。炭化材の出土位
に近く立ち上がる形態をとる。7 は口縁部の立ち上が
置は不明である。
りが小さく、底部は静止状態でのヘラケズリにより仕
上げられる。8 は蓋受部が短小な作りである。ヘラ切
4 若干の考察
り後のナデ調整がほとんど行われず、底部には木目状
(1) 時期
の圧痕が残る。内部には赤色顔料が多量に残存してい
時期を考えるにあたって、須恵器の検討を行う。な
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図 5.浦富 5 号墳遺物実測図②(須恵器・土師器)
お、鳥取県東部 ( 因幡 ) においては古墳時代の須恵器
須恵器のうち、蓋杯類は形態がかなりバラエティに
編年が確立されておらず、古代についても伯耆の成果
富んでいる。受部をもつ杯身は、底部調整が①回転ヘ
を援用するにとどまる ( 中森 2010)。
今回は陶邑編年 ( 田
ラケズリ (5、9)、②静止状態でのヘラケズリ (7)、③ナ
辺 1981) および出雲編年 ( 大谷 1994、岡田 2010) など
デ (8) がある。①のうち、9 は立ち上がりが短く、径
から時期を推定していく。
も小さい。陶邑編年で、杯身 5 と 6 が TK209(6 世紀末)
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岩美町浦富 5 号墳出土資料について
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産と考えられる。出雲の杯身Ⅱ A 類のうち、A3a 型式
にあたる。この杯身に、同じく出雲産と考えられる輪
状つまみの蓋 4 が伴うと考えられる。蓋 4 は、蓋Ⅱ類
のうち C2 型式にあたる。このセットは出雲編年のⅢ
期に該当し、7 世紀末∼ 8 世紀前葉に比定できる。同
時期の出雲産須恵器は、近隣では南東約 1km のところ
に位置する浦富 4 号横穴墓でも出土が知られる ( 中島
2003)。6 の静止状態ヘラケズリは、近隣では高野坂 2
号横穴墓での出土がある ( 岩美町教育委員会 1992) 程
度で、類例は少なく他地域からの搬入品と考えられる。
土師器杯は、やや小型で全面に赤色顔料を塗布し、
底部をケズリの後ミガキ調整するもので、口縁部内面
に段を持つ。そうした特徴から、畿内産と考えられる。
時期は 7 世紀末∼ 8 世紀前葉であろう。
土器類からは、6 世紀末に築造され、7 世紀末∼ 8
世紀前葉まで長期にわたり使用されたことが窺える。
10 体余りの人骨が確認されたという事実からも、かな
り長期にわたって埋葬の場として追葬が行われたこと
が推定されるが、土器類の様相もそれを裏付ける。そ
の他の資料の年代観もこの間におさまるので、副葬品
として問題はない。
なお、詳細な埋葬回数・時期については、全ての須
恵器の分析を行ったわけではないので、今後の課題と
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図 6.浦富 5 号墳遺物実測図③(須恵器)
(2) 錫製耳環について
浦富 5 号墳からは、3 点の銅芯銀貼りの耳環と、1
点の錫製耳環が出土している。錫製耳環は 2 分の 1 以
に並行すると考えられ、蓋 1 もこの時期に比定できる。
上を破損しているが、環状を呈している。銅芯銀貼耳
また、9 は TK217(7 世紀前葉)
に並行すると考えられる。
環よりもやや大きく、大きさからすると耳環とするよ
10 は出雲産杯身のⅠ類 A1 型式にあたる。7 世紀後半
りも環状製品とするのが適切かもしれないが、さしあ
の時期が想定できる。11 は糸切り底で内湾する体部と
たって耳環としておく。
ハの字に開く高めの高台を持つ杯身で、10 同様に出雲
県内では、管見の限り 6 基の古墳・横穴墓で、銅芯
金貼 ( 鍍金 )・銀貼でない耳環が出土している【表 2】。
錫製・鉛製の耳環については、これまで県内の出土資
料で成分分析をした例はほとんどない。青銅に特徴的
な緑青が生じていないこと、鉛であれば腐食により白
色を呈しやすいこと、錫は鉄に外見が似るがひび割れ
が顕著であること、いずれも硬度が低いため変形しや
すいこと、などから肉眼および写真で判断した。
錫製は、浦富 5 号墳の他、材質分析を行っていない
ため確言できないが、江府町北谷ヒナ 1 号横穴墓 ( 江
府町教育委員会 1990)、陰田横穴墓群 ( 米子市教育委
員会ほか 1984) に推定できる耳環が存在する。鉛製は、
倉吉市服部 36 号墳 ( 倉吉市教育委員会 1973・1974)、
図 7.貝殻出土状況
鳥取市用瀬町余井古墳 ( 用瀬町教育委員会 1979) での
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表 2.鉛・錫製耳環出土古墳・横穴墓
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出土がある。これら古墳・横穴墓の築造時期は、6 世
れている ( 米子市教育委員会ほか 1989) ほか、湯梨浜
紀後葉∼ 7 世紀中葉である。古墳の規模、埋葬施設、
町長瀬高浜遺跡でも漆書記号のある須恵器が出土して
副葬品においては特に共通性はなく、一般的な後期の
いる。これらは本古墳例よりもやや古く、7 世紀前葉
古墳・横穴墓であると言えよう。ただ、西部において、
∼後葉にかけてのものであるが、石州府古墳群では、
錫製耳環が横穴墓で出土するのが目につく。
同様に「×」印も認められる。漆書記号は鳥取県東部
古墳時代の錫製品については、成瀬正和や小嶋義孝
の古墳では初めての確認で 5)、但馬北西部で同時期の
らによって集成され ( 成瀬 1989、小嶋 1996)、また、
漆書記号が見つかっており、関連が窺える。
特定地域での様相について比佐陽一郎により検討が
また、既述のとおり、杯身 8 の内部には赤色顔料が
行われており ( 比佐 2004)、畿内に少なく関東・東北
多量に付着しており、あたかも顔料を入れていたかの
地方を中心に地方に多く分布することが指摘されてい
ようである。分析はしておらず成分は不明だが、漆書
る。鉛製耳環も含め、こうした銅芯金貼 ( 鍍金 )・銀
記号とは明らかに異なる色調である。朱書記号のある
貼でない耳環は、畿内以外に分布すること、出土状況
土器と赤色顔料を入れた壺が共伴する例があるが、浦
に規則性が見られないことなどから、地方での製作の
富 5 号墳では朱書記号は見つかっていない。所在不明
可能性も考えられている。なお、比佐は錫・鉛製の耳
の資料中にあるのかもしれないが、記号用の顔料とは
環の性格にまで踏み込んでおり、「銀を用いた耳環の
別の意味を考える必要があろう。
代用品的な位置付けにあり、決して積極的に求められ
るものではなかった ( 比佐 2004, p.99)」とする。鳥取
県内における出土状況についても、西部において横穴
墓での出土が目立つ程度で特に規則性があるとは言え
ず、この見解を裏付けている。
(3) 漆書記号について
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須恵器のうち、杯蓋 4 と杯身 11 には「×」状の記
号が漆で描かれていた。いずれも外面の中心部分と側
面の 2 か所に描かれる点や漆の色調・線の運びが共通
しており、同時に記号が付されたと考えられる。
こうした漆書記号については谷本進、三木雅子らの
集成があり、但馬を中心に山陰地方に多く分布するこ
とが明かにされている ( 谷本 1995、三木 2005)【図 8】。
記号の性格については、古墳における祭祀に際して付
されたものとされている。県内では、米子市石州府古
墳群で漆書記号の描かれた須恵器が 50 点以上確認さ
図 8.漆書記号の出土地(三木 2005 を改変して作成)
鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 48. March 30, 2011 Ⓒ鳥取県立博物館 Tottori Prefectural Museum
岩美町浦富 5 号墳出土資料について
25
(4) まとめ
果たして実際に確認されたことがあるのか疑問を抱いてい
浦富 5 号墳は、古墳時代後期後葉、6 世紀末に築か
る。あるいは「4 号墳」と「5 号墳」とが同一古墳であるなど、
れ、7 世紀末∼ 8 世紀前葉まで追葬が行われたと考え
られる。その回数は、検討していない資料があるため
不明だが、10 体という多量の人骨の存在を考えると、
複数回にわたり埋葬が行われたとみて間違はないだろ
う。浦富古墳群内の他の古墳を見てみると、内容の分
かる 3 号墳には長期にわたる利用の痕跡はなく、5 号
墳のみの特異な点と言えるかもしれない。
情報の混乱が生じた可能性も捨てきれない。
2) 鉄器の数が増加しているが、これは銹着した鉄鏃 8 点を 1 点
として数えた可能性が高いほか、保管中に破損した可能性も
考えられる。耳環については記述がないが、故亀井氏による
実測図中にあることと、入れられていた箱の注記から浦富 5
号墳出土品と判断した。このほか、故亀井氏による実測図に
は、須恵器として杯蓋 14 点、杯身 11 点、椀 2 点、高杯 2 点、
長頸壺 3 点、提瓶 1 点、横瓶 1 点と、玉類として瑪瑙製勾玉
副葬品を見てみると、他地域との関係を窺わせる資
2 点、碧玉製管玉 2 点、水晶製切子玉 8 点、ガラス小玉 4 点
料が目につく。須恵器のうち、輪状つまみ蓋・高台付
などがある。当館に現在収蔵されるものは、展示に使用する
杯身は器形から出雲産と考えられる。そうした他地域
などのために特徴的な資料を選択した可能性がある。残りの
産の須恵器に、但馬などで多く見られる「×」の漆書
資料は別の場所に保管されている可能性が高いと考えるが、
記号が付されることは、被葬者像を考える上で興味深
い。同じく出雲産と考えられる須恵器に、当古墳同様
「×」の漆書記号が書かれた兵庫県香美町知見古墳の
例 ( 谷本 1995) などが注目される。
浦富 5 号墳は、海岸に近い砂丘上に立地し、他地域
との関係を窺わせる副葬品が見られることが特徴であ
る。砂丘によって作られた潟湖がこの時期まで存在し、
天然の良港として機能したとすると、被葬者は海上交
通との関係が深いことが想像される。
現段階では所在不明である。今後も調査を続けたい。
3) 岩美町 (1968) に掲載されている出土状況図と同じものであ
る。図 3 はこの青焼きコピーをトレースしたものであるが、
断面の斜線は追加している。なお、原図は所在不明である。
4) この錫製耳環については、平成 18 年度埋蔵文化財担当者専
門研修 ( 於:奈良文化財研究所 ) の保存処理課程Ⅰ ( 無機質
遺物 ) を受講した際に持参し、実際に蛍光X線分析を行った。
その結果、錫製であることが判明した。分析に際しては、降
幡順子氏にお世話になった。
5) 2010 年に行われた鳥取市高住平田遺跡の調査で、河川の中
から出土した須恵器蓋の輪状つまみ内側に「×」
「△(乙?)」
おわりに
などの漆書記号が書かれたものが出土している ( 鳥取県教育
今回紹介した浦富 5 号墳出土資料は一部であり、前
文化財団 2010)。なお、本遺跡の漆書記号については、鳥取
述の通り残りは現在所在が不明である。しかし、本稿
県教育文化財団田中正利氏に実見に際してお世話になり、多
により、これまでほとんど知られていなかった本古墳
の副葬品の主要部分が明らかになったといえる。砂丘
地という立地もさることながら、副葬品に他地域との
関係を窺わせる特徴的な点が多々あることが明らかに
なった。今後も所在不明資料の調査を続け、所在が明
らかになった際にはそれらの資料もあわせ、再度本古
くの教示を受けた。
<参考文献>
岩美町 (1968)『岩美町誌』.
岩美町 (2006)『新編岩美町誌』.
岩美町教育委員会 (1988)『浦富 3 号墳発掘調査報告』岩美町文
化財調査報告書 第 10 集 .
墳について検討することとしたい。
岩美町教育委員会 (1992)『高野坂古墳群発掘調査報告書』岩美
浦富古墳群出土資料については、資料の探索等で岩
大谷晃二 (1994)「出雲地域の須恵器の編年と地域色」『島根考
美町教育委員会中野智氏の手を煩わした。また、資料
のX線撮影においては、鳥取県埋蔵文化財センターに
お世話になった。記して感謝申し上げます。
町文化財調査報告書 第 17 集 .
古学会誌』第 11 集 , 島根考古学会 : pp.39- 82.
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<註>
1) 当館での資料登録名は「浦富 4 号墳」であり、須恵器の注記
亀井
人 (1967)「古代を発掘する」『郷土と科学』12- 2, 鳥取県
立博物館 : pp.5- 9.
として「岩美町浦富古墳」と記入されている。また、故亀井
倉吉市教育委員会 (1973)『服部遺跡発掘調査報告 ( 遺構篇 )』.
人氏の実測図には「浦富 2 号墳」と書かれている。本稿で
倉吉市教育委員会 (1974)『服部遺跡発掘調査報告 ( 遺物篇 )』.
は、岩美町誌などの記述に従い、「浦富 5 号墳」としている。
しかし、4 号墳が詳細について全く不明なこと、資料が「浦
富 4 号墳」として登録されていること、古墳群の古墳は全て
砂に埋没し偶然の発見であったことなどから、「4 号墳」が
江府町教育委員会 (1990)『北谷ヒナ横穴群発掘調査報告書』江
府町埋蔵文化財発掘調査報告書 1.
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鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 48. March 30, 2011 Ⓒ鳥取県立博物館 Tottori Prefectural Museum
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東方仁史
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浦富 5 号墳出土資料計測・観察表 〔単位:cm、△:残存値(復元値)〕
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鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 48. March 30, 2011 Ⓒ鳥取県立博物館 Tottori Prefectural Museum
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岩美町浦富 5 号墳出土資料について
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鳥取県立博物館研究報告 Bulletin of the Tottori Prefectural Museum 48. March 30, 2011 Ⓒ鳥取県立博物館 Tottori Prefectural Museum
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