見知らぬ観客19

(承前)ジョン・ヒューストンは、俳優の父親からは芸人の血を、ジャーナリストの母親からは
文学的DNAを受け継いだが、幼少時は虚弱体質だったらしく、療養所生活を送ったあと十代
半ばで学業を捨てボクサーになった。その後、ブロードウェイを経てハリウッド入りし、脚本の
才能が認められて監督となる。ハンフリー・ボガートとの出会いがかれの人生を順風満帆に
向かわせた。そのヒューストンも戦後間もなく米国を離れたことがある。所謂赤狩りの時代に
ジュールス・ダッシンやジョセフ・ロージーといった映画人がヨーロッパに逃れたとき、マッチョ
志向の強いヒューストンには特段思想的背景があったわけではないが、おそらく自由を求め
る気性と反骨の気概ゆえに国を離れ、メキシコに移住した。この時代、「エデンの東」のエリ
ア・カザン監督は若気の至りでアメリカ共産党に関係した過去を清算するため仲間の名前を
密告して免罪符を手に入れ、多くの映画人から顰蹙を買った。そういうことにも嫌気がさした
のだろう。
やがて、ヒューストンはアフリカロケを敢行する。ボガートにとって忘れられない作品「アフリカの女王」(51年、写真上)だ。舞台は
東アフリカ。「アフリカの女王」と名付けられたポンポン蒸気船のしがない船長(といっても乗組員はかれひとり)に扮したボギーが英
国からやってきたオールドミスの女教師にさんざん振り回されるという設定がおかしい。教師に扮したキャサリン・ヘップバーンが巧
いのは当たり前で、むしろボギーは珍しいコミカルな役どころにもかかわらず希有の名女優を相手に好演した。新境地を開く役作り
が受けて、遅咲きの大スターは、これで待望のアカデミー主演男優賞に輝いた。ヒューストンとしても嬉しかったに違いない。年長の
盟友がヒューストン手ずからの監督作品でオスカーを獲得するなんて監督冥利につきるではないか。もっとも、ヒューストンは猛獣狩
りがおもしろくて撮影に何度か穴を空けたらしい。このあと、これに気をよくしたボギーは「ティファニーで朝食を」の原作者トルーマ
ン・カポーティが台本を担当したブラックユーモア漂う異色作「悪魔をやっつけろ」(53年)をヒューストンと共同製作し主演する。地中
海を舞台にジーナ・ロロブリジーダを初めとするイタリア勢と個性豊かな英米の名脇役からなる布陣はアクが強すぎて、さしもの
ヒューストンも手を持て余した感がある。なにしろ、ロバート・モーレイ、ピーター・ローレ、サーロ・ウルツィというだけで胃がもたれそ
うなほど強烈だ。こういうクセ者連中を相手にしても、ボギーの個性が引けをとらないところはすごいといえばすごい。
喜劇にすっかり開眼したボガートの捨てがたいキャラに注目したのがビリー・ワイルダーである。ワイルダーはハリウッド内幕もの
の問題作「サンセット大通り」(50年)を撮り終えると、もはやシリアスドラマはこれまでとばかりに喜劇の世界を邁進する。恋愛喜劇か
らドタバタ、人情喜劇、重喜劇まであらゆる喜劇のジャンルに挑んだ。巨匠ウィリアム・ワイラーがオードリー・ヘップバーンをうまく生
かしてロマンチックコメディの秀作「ローマの休日」(53年)を撮ると、ワイルダーも負けじとヘプバーンを使って「麗しのサブリナ」(54
年)を企画する。その相手役には二枚目を使わずボガートを起用した。ヘップバーンと三角関係になる恋敵にはハンサムだが美男で
はないウィリアム・ホールデンを当てた。その前に、赤狩りの犠牲者エドワード・ドミトリクの「ケイン号の叛乱」(54年)では、ボギーに
とって久々のアンチヒーロー、臆病で卑怯な駆逐艦の艦長を好演した。「サブリナ」を挟んで、ジョセフ・L・マンキウィッツの映画界の
内幕もの「裸足の伯爵夫人」(54年)では打って変わってエヴァ・ガードナー相手に映画監督の役をこなした。
調子づいたボギーは続いて当たり役の脱獄囚に扮したコメディ「俺たちは天使じゃない」(55年)に主演し、ついに最後までニコリと
することなくコワモテのままずいぶん笑わせてくれた。因みに、この映画のメガホンをとったのは、例の「カサブランカ」を撮ったマイケ
ル・カーチス監督である。矢継ぎ早にワイラーのシリアスな脱獄ものの秀作「必死の逃亡者」(55年、写真下)に主演する。ワイラーが
得意とする舞台劇の映画化で、平穏な家庭に突如三人組の脱獄囚が押し入り、家族を人質にとって立てこもるという室内劇だ。家
長に扮した舞台の重厚な名優フレドリック・マーチと脱獄囚の首領ボギーの対決は見応え十分だった。むしろ、「アフリカの女王」より
こちらのほうがオスカーにふさわしかった。遺作は名匠マーク・ロブソンのボクシング界の内幕もの「殴られる男」(56年)。1957年1月
愛妻ローレン・バコールらに見守られながら食道がんのため57歳で永眠した。いま思うとず
いぶん若い。
いっぽう、その後のヒューストンは、総天然色のロートレック伝「赤い風車」(52年)を撮り、
実はこういう繊細な映画も撮れるところを披露した。アメリカの国民文学である「白鯨」の映
画化(56年)はかれらしい企画だが、甘い二枚目のグレゴリー・ペックが偏執狂的なエイブラ
ハム船長を大見得を切って熱演する姿が失笑を買い、興行的にも失敗した。60年代にかけ
てバート・ランカスターとオ-ドリー・ヘップバーンの共演「許されざる者」(59年)、図らずもク
ラーク・ゲーブルとマリリン・モンローの遺作となった「荒馬と女」(61年)、リチャード・バートン
にエヴァ・ガードナー、デボラ・カーを配した「イグアナの夜」(64年)など実に多彩な作品を
放っている。とりわけフロイド伝(「フロイド/隠された欲望」62年)や性的倒錯(「禁じられた
情事の森」67年)など当時としては誰も手を出しかねていた主題に果敢にも取り組むところがヒューストンの反骨精神である。70年代
に入ると壮大なホラ話風の佳作「王になろうとした男」(75年)をショーン・コネリー主演で撮り、80年代になってもなお創作意欲は衰え
ず、あの一筋縄ではいかないジェームス・ジョイスの短編集「ダブリン市民」の一編を映像化(遺作「ザ・デッド/『ダブリン市民』より」
87年)しようという試みは、実験精神に富んだ文学志向のあらわれであり、とても人生の終焉を迎えた老人の境地ではない。巨匠と
いうより怪物といったほうがふさわしい人であった。映画完成後、公開を待たず81歳で天寿を全うした。 (2013年7月1日)