2015/4/12 門戸聖書教会 礼拝説教 コリント人への手紙第一 講 解 15 Ⅰコリント 7:1-16 平和を得させようとして 1.模範的とは言い難い現実の中で 新 しい年 度 も、ともに聖 書 をじっくりとごいっしょに学 べますことを、心 より感 謝 いたします。今 年 度 は、昨年度に引き続き、クリスマスといった特別な時以外は、第 4 週のオープン礼拝では、「イエスと 出 会った人 々」というテーマで福 音 書から、それ以 外 の時 は、この『コリント人 への第 一 の手 紙 』から 学ばせていただきたいと思います。 ちょうど、今日のところ、この 7 章 のところから、『コリント人への第一の手紙』も後半に入ってまいり ます。そして、話は教会の牧会のより具体 的な、踏み込んだ内容へと入ってまいります。今日の箇所 が扱っているテーマは、「結婚」についてです。 正 直 に申し上げれば、これは私にとっては、できたら飛ばして進みたい、語るのが難しいテーマで す。何度かお証ししたことですが、自分自 身が破 綻した家庭の出身ですし、自分たち夫婦が、クリス チャンとしてみなさんの模範になれているとはとても言い難いということもあります。 さらには、みなさん の中 にも、色々な背 景 を持 った方 がおられます。クリスチャンファミリーの方 もおられますし、連 れ合 いがクリスチャンではない、未信 者の方もおられます。また、独 身の方もおられますし、離婚を経験し た方もおられます。そういうみなさんを前に、クリスチャンの結婚とはかくあるべしと自信を持ってメッセ ージするのは、なかなか難しい。 けれども、改 めてコリント教 会 のことを思 うのです。これまでのメッセージを聞 いてこられた方 には、 何 度も申 し上げたことですが、このギリシャの街、コリントは性 的 にも乱 れた街 でした。愛 の女 神 アフ ロディテの神 殿 には、数 千 人 の神 殿 娼 婦 がたむろし、「コリントす る」という言 葉 が売 春 することを意 味するほど、頽廃した都市だったのです。 そういう文化の影響が教会にも入ってきて、コリント教会も乱れておりました。前回 、6 章の終わりの ところに出てきましたが、クリスチャンであるといいながら、遊 女のところに通 い、不 品行 の罪を犯 すと いうあるまじきことまでが行 われていたり(6:16)、「父の妻 を妻 にする」(5:1)者がいたり、本 当 に目 も当てられない状況があったわけです。 だとすれば、コリントの教会 のクリスチャンたちの結 婚 生 活、夫 婦の関 係は、どうだったのだろうか。 それは、必ずしも、模 範的なものばかりであったということではないでしょう。パウロは、そういう、模 範 的とは言い難い現実の中で、ある意味で、結婚生活、夫婦関係の難しさの間で右往左往しているコ リントのクリスチャンたちに語っているわけです。 であるとするならば、やはり私たちも、それぞれ自 分が置かれている「結婚」に関 する状況 は異なる でしょうが、みことばから、自分自身に対する、主のメッセージを読み取っていきたいのです。 1 2.プラトニックな結婚 !? さて、今日の聖書の箇所の最初のところは、このように始まっております。 Ⅰコリント 7:1 さて、あなたがたの手 紙に書 いてあったことについてですが、男が女 に触 れないの は良いことです。 これはつまり、コリントのクリスチャンたちからパウロのところに、 この『コリント第 一 の手 紙 』 以 前 に、 質 問 の手 紙 が行 っていたということです。その質 問 にパウロが答 えているわけです。その答 が、何と 言 いますか、とても「赤 裸 々」なのですね。ここでパウロが取 り上 げているのは、 結 婚 生 活 における、 夫婦の性の問題です。 どうやら、コリントのクリスチャンたちの中 に、 極 端 に「霊 的」な人たちがいたようなのです。この人 た ちは、不品 行 の罪 を侮 蔑するあまりに、性 やセックスそのものを汚れたものと見ていたようですね。そ れで、結 婚 することを良 くないことのように思 いある種の「独 身 主 義」を主 張したり、結 婚していても、 夫婦の性の交わりを嫌悪するという傾向 があったようです。 私は、これは良 く分かるんです。 私も、父がそういう方 面では奔 放な人で、母 が随 分 苦 労するのを 見てきました。それで性 に対しては、やはり、それ自 体が汚 れているというか、低 俗 なイメージしか持 てなかった。その反 動で、聖 い世 界や、プラトニックなものに 強 い憧れがありました。今でも覚 えてい るのですが、高 校 の保 健 体 育 の時 間 に、作 文 の課 題 が出 されました。テーマは「プラトニックラブは ありえるのか?」-多 くのクラスメートが「そんなのあり得ん」という回答 をする中で、私は「プラトニック ラブこそが真の愛である」と声高々に語る作文 を書きました。しかし、実際には、自 分の中に、全くそ ういった理 想とはかけ離 れた現 実があることにも気 づいておりました。その引き裂かれた魂 の状 態が、 自分を聖書へ、教会へと向かわせたように、今では思います。 パウロは、そういう極端にプラトニックな、一部のコリントのクリスチャンをたしなめるのです。確かに、 「男が女に触れない」で、独身でいること、そうして祈りに専念することも、「良いこと」には違いない。 Ⅰコリント 7:2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の 夫を持ちなさい。 パウロは人 間 の弱 さを良 く知 っているわけですね。いや、というより、そもそも、性 や体 に対 する見 方が、全く違うわけです。コリントのクリスチャンたちは、不 品 行に行くのか、プラトニックになるのかは 別にして、「霊」と「体」を分けて考えている。霊肉二 元 論に陥っているわけです。大 切なのは「霊」の 問題であって、「体」のことは、低次元 の問題なのだと。ですから、不 品 行に陥りながら、「いや、霊は 聖いのだ」と言ったり、そもそも性のことなど口にするのも汚らわしいと、避けている。 しかし、パウロは、そうではないというのです。本 当 に「霊 的」であるということは、「実 際 的」なことな のだと。神 様 は、私 たちの霊 も、肉 体 も造 ってくださった。性 もまた神 様 の豊 かな賜 物 であるわけで す。神様は人を「祝福して」仰せられました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記 1:28)-そこに は、祝福としての性への大きく豊かな肯定 があります。 2 朝顔教 会で以 前牧 師をされ、今 は恵 泉 塾のチャップレンをしておられる後 藤敏 夫 先生が、こういう 問題は、現代の教会でも、変わらずあるのだと指摘しておられます。 1 「敬虔主義的な教会で、<霊的>と言 われる場合、それは<精神化>ということと非常に近いと思 うのです。身体や性のもつ霊的な意味が考えられていない。…でも創世記…にある「男と女に造られ た」とは、肉 体 を含 めた全 人 格 的な人 間 の、あるいは男 女 の交わりが神 のかたちであることを言って いると思 います。…ナーウェンは「牧 師 や司 祭 が、…観 念 の世 界 だけの務 めに生 き、自 分 が伝 えて いる福 音を一 連 の価 値ある認 識 や思 想というものにしてしまうと、肉 体 は、愛 情と親 密 さを求 めて叫 び声をあげ、すぐに復讐をしかけてくる」と言います。…観念的に福音を語る時に、人格の中に地割 れが起きる。これは、私自身のこととしてもよくわかる気がします」 難しいところもありますが、要するに、本 当に「霊的である」ためには、頭でっかちじゃいけないという ことです。霊 的である、信 仰的であるということは、精神 的ということとは違う。福 音は全人 格に関わり、 人生の全領域に関わってきます。もちろん、性の問題もそうです。 パウロは言うのです。結婚とは、夫婦とは、互いに互いを与え合うもの。 Ⅰコリント 7:3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自 分の夫に対 して義務を果たし なさい。7:4 妻 は自 分 のからだに関 する権 利 を持 ってはおらず、それは夫 のものです。同 様 に夫 も 自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。 たとえ、しばらく祈りに専 念するとしても、それは「合意の上で」、しばらくの間にしなさい。「あなたが たが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。」 3.独身、結婚、離婚について 次にパウロが扱うのは、独身 の問 題です。パウロは、自 分 自 身 が独 身であったこともあって、とても 独身であることを肯定的にとらえていますね。 Ⅰコリント 7:7 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から 与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。 彼 が、独 身 であることを肯 定 的 にとらえているのは、主 への奉 仕 に専 念 できるからです。少 し後 の 箇所にこうあります。 Ⅰコリント 7:32 あなたがたが思い煩 わないことを私は望んでいます。独身 の男 は、どうしたら主に 喜ばれるかと、主のことに心を配ります。7:33 しかし、結婚した男は、どうしたら妻 に喜ばれるかと世 のことに心 を配 り、 7:34 心 が分 かれるのです。独 身 の女 や処 女 は、身 もたましいも聖 くなるため、 主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。 ですから、神様は独身の方にも、そういう立場でしかできない使命を与えておられるわけです。でも、 それは独身 の方が結 婚しているより尊いとか、その反 対とかではなく、それぞれに主 が賜物を与えら れ、それぞれに導きがあるということです。 1 『今 日 における<霊 性 >と教 会』(いのちのことば社 、片 岡 伸 光 他 ) P.16 3 でも、昨今は、特に若い方々の中で、結婚すると大変だというので、「苦痛」を回避するために結婚 しないという方が増えているということも聞 きます。そういう方に申し上げたいことは、パウロは、苦痛を 避けるためという「消極的」な理由で独身 であったということではなく、 主に心置きなく仕えるという「積 極的」理由のために独身であったということです。 10 節からのところは、離婚に関する教えです。パウロはまず信者同士の場 合について教えます。 Ⅰコリント 7:10 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。 妻は夫と 別 れてはいけません。 7:11 ──もし別れたのだったら、結 婚せずにいるか、それとも夫と和 解する か、どちらかにしなさい──また夫は妻を離別してはいけません。 離 婚 をしてはならない。これが大 原 則 であり、イエス様 ご自 身 が教 えられたことです。 例 外 は、「不 貞」です(マタイ 19:9 他)。ここには、結 婚生活を破壊するような暴力も含まれるでしょう。しかし、そ れは、あくまで人間のかたくなさと罪のゆえの許容であって、勧めではありません。 12 節 からのところに書かれているのは、配 偶 者 が未 信 者 の場 合 です。この場 合 、未 信 者 の方 が 「いっしょにいることを承 知している場 合は、離 婚してはいけません」 と言います。コリントのクリスチャ ンの中 には、偶 像 を拝 み汚 れている夫 といると、自 分 や子 どもまで汚 れるのではないかと心 配 した 人々がいたようですね。パウロは反 対に、いや、むしろ、福 音の良い影 響は信 者をとおして、未 信者 の家族にも及ぶのだと言っております。 ただ、この箇 所 をもって、まだ未 婚 の信 者 が、未 信 者 と結 婚 することがよしとされていると考 えるの は、早 計でしょう。キリストを信 じる者と、そうでない者 は、 生 活 の原 理 が異なるわけです。どれほど、 いい人であっても、生きる土 台が異なる時 、それは大きな違いを生みます。 これから結婚 をする若い 方に牧師として心からの忠告と勧告をすることは、クリスチャンの人と結婚するということを、心に決心 して、祈り始めなさいということです。「つりあわぬくびき」(Ⅱコリ 6:14)を負い続けるのは、本当に大 変なことです。 4.平和を得させようとして Ⅰコリント 7:15 しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そ のような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させ ようと してあなたがたを召されたのです。 神は、「平和を得させようとして」、私たちを召してくださった。 本 当 にそうなのだろうか。ならば、どうして、私の結 婚 、私 の家 庭 には、「平 和」がないのだろうと思 われる方もいらっしゃるかもしれませんね。こういう、離 婚や再 婚 についての教 えを読んで、中 には、 パウロは独 身だったから、気 軽にこういうことが言えたのではないかと、実 際の結 婚 生活 は中々大変 で、そんな理屈どおりにはいかないのだと、思われる方もいるかもしれない。 しかし、今回、初めて思い至ったのですが、パウロは生涯独身というわけではなかったかもしれませ ん。この手 紙を書 いていた時 には、確 実 に独 身です。当 時 のユダヤ人 男 性 は普 通、20 歳 くらいで 結 婚しますし、そうするように教 えられます。大体 親が相 手を決 めるわけです。パウロのような名家 の 4 出身者が、結婚していなかったということの方が不自然であるわけです。 配偶者を早くに亡くしたのかもしれません。しかし、恐らく一番可能 性の高いのは、クリスチャンにな ったことで、正 統 派のユダヤ教 徒であった実 家からは縁を切られたということでしょう。そういう中 で、 パウロは妻 や子 どもと別 れざるを得 なくなったのかもしれません。聖 書 に一 切 記 されていないことで すので、これは想 像 です。でも、この「信 者 でないほうの者 が離 れて行 く」 というのは、まさに、パウロ 自身の経験であった可能性もあるわけです。 しかし、そういう中で、パウロ自 身 がやはり、苦しみながらも、「平 和」を与えられたのではないでしょ うか。具体的な状況を考えると、それは「平和」というにはほど遠いけれども、けれども、主が共にいて くださることの大いなる平和の中で、パウロ自身も生きていたのではないでしょうか。 吉 田 鉄 也 さん・優 子 さんというご夫 妻の証しを読ませていただきました。 2 お二 人 はスキー場での 仕 事 で出 会 い、結 婚 されました。そして、 卵 巣 嚢 腫 という試 練 を乗 り越 えて、3人 の子 宝 にも恵 まれ ました。けれども、優 子 さんの体 調 は思 わしくなく、鉄 也 さんの収 入 が十 分 でなかったため、不 調 を おして働かなければなりませんでした。 次 第 に優 子 さんの心 の中 に、鉄 也 さんへの不 満 が募 ってきました。悪 いところばかりしか見 えなく なってきました。「なんとかこのつらさを分 かってほしいと思 っていただけなのに」-「離 婚」の二 文 字 が心に浮かぶようになってきていました。 「そんなあるとき、外 出 先から帰 宅 途 中 、優 子 さんのもとに鉄 也 さんから携 帯 メールが届 いた。『帰 りは何 時 くらいですか? 愛 してるよ』 それを見 た瞬 間 、優 子 さんは頭 に血 が上 った。「うそだ!そ んな わ けな い。ほ んと に 愛 して いるな ら、 今 まで の 苦 しみ を 見 て なに もしな かっ た の はな に? ふ ん!」。それからは売 り言 葉 に買 い言 葉 です。「愛 しているなんて思 えない」「愛 してないの ?」「は い」「じゃ、離婚ですか?」「はい。」 その場で離婚を決めた。 でも、後で分かるのですが、鉄 也さんの「愛している」のメールも相 当勇 気を振り絞って書 いたのだ そうですね。「このままじゃいけないと」。でも、その思いのたけを込 めたメールをあっさり拒 絶されて、 心が折れた。 実は、優子さんは、苦しい結婚 生 活の中で、子どもを連れて、教会に行くようになっていました 。離 婚 後 は「すばらしいクリスチャンの夫 が欲 しいです」と祈 っていたそうです。でも、子 どもたちからは、 「とうちゃんと一 緒に住 まないの」とよく聞 かれた。心 苦 しく感 じながらも、「とうちゃんがクリスチャンに ならなければ無理」と言っていた。 離 婚 後、1 年 半 くらいが経 った頃、優 子 さんは事 故で足 を骨 折 するのですね。病 院から帰る車 を 運 転 する人 を探 していたら、子 どもたちが鉄 也 さんと待 合 室 に立 っていた。「えー、なんで一 番 頼 り たくない人なのに」と思い、その後も子どものこと以外は頼らなかった。 2 『百 万 人 の福 音 』(2010 年 6 月 号 )P.26 5 しかし、ある時、受洗準備のクラスで牧師が「あなたのご主人はどんな人ですか」と聞いてこられた。 その時、自 分でも不 思 議な言 葉が出 た。「ずっと彼は苦 労 してきたんです」と。 実 はお二 人とも酒 乱 の父を持つ家 庭で育った共 通した痛みを持っていたのでした。その時、唯 一苦 労 が分かってあげら れたはずなのに、鉄也さんを見放したことが胸に堪えた でも、洗礼を受ける前に、許しなさい。和解しなさいとのみことばに励まされ、受洗前日に謝った。 「てっちゃん、離婚したのは私のわがままであやまちでした。ごめんなさい」。鉄也さんは、謝罪を受 け入れ、洗礼式にも来てくれた。 その元妻 の洗 礼 式で鉄 也 さんは牧師 に教会 に誘 われた。誘 われるまま教 会に来 るようになり、今 度は鉄也さんが洗礼を受けられた。その洗礼式では、「復縁の宣誓式」も行われたそうです。 この離婚、復縁がきっかけとなり、優子さんは身近にいる危機的状況の方をサポートする働きを始 めたそうです。 みなさん。キリストは平 和 を得 させようとして、私 たちを召 されたのです。 今、置 かれた状 況 が、必 ずしも理 想 通 りではないかもしれない。つらい結 婚 であったり、自 分 だけがクリスチャンという家 庭 で あったり、不 本 意 な独 身ということかもしれない。しかし、主は、そういう中でもあなたに平 和を得 させ ようとしておられる。平和を願う祈りに答えようとしておられる。 そのことを信じますか。 あなたの家 庭 に、夫 婦 の関 係 に、独 身としての歩 みに、主 の平 和 がありますように、お祈りさせて いただきます。 祈りましょう。 6
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