p 国難など、これまで幾度と無くあった 『TROY』という小冊子にもありましたように、日本は今、侵略されています。日本を我が 物にし、 そればかりかアジア・オセアニア・アフリカをも呑み込もうと野望を抱く中国共産党と、 そして日本侵略を許し続ける民主党によって、今現在、 こうしている間にも、この国はゆっくり、 ゆっくりと滅びに向かっているのです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ しかし真実の姿を、これから少し明らかにしていきますが、 「国難」と名のつくものなど、こ れまで幾度と無くあったのです。そしてその度にこの国は、その国難を打ち破り、乗り越えてき たのです。 さくほうたいせい ひ み こ かつてこの国は、卑弥呼の時代に朝貢して冊封体制に入り、中国の属国となりましたが、しか おのの いもこ ずい ひ い ところ て ん し ひ ぼっ ところ て ん し し聖徳太子は小野妹子を隋(当時の中国)へ送り、 「日出ずる 処 の天子、日没する 処 の天子 へ」 つつし という手紙を持たせました。あるいは当時の日本は、大国中国に対して、 「東の天皇、 敬 みて、 もう 西の皇帝に白す」と、堂々と対等の外交を行ったのです。 つまりかつての日本は、 「西の貴方は皇帝であるが、私は東の天皇である」と、堂々と大国に ようだい 述べたのです。当時の中国の皇帝、煬帝を「小国が何をぬかすか」と怒らせもしましたが、しか しそれは、 「大国に対しても決して媚びへつらうことはしない」という、我が国の誇りの現れで した。 さく ほう たい せい こうして日本は、中国に「対等な国」として認めさせ、冊封体制から抜け出して、きちんと独 立国家になったのです。 それでも中国大陸からの侵略は、時代を経てまた起こりました。チンギス・ハーン率いる大軍 げんこう が、日本を攻め滅ぼそうしてきたのです。いわゆる「元寇」です。 しかし鎌倉武士が必死に国を護らんと戦 かみかぜ い、しかも「神風」とも呼ばれる季節はずれ の台風が二度も吹くことによって、チンギ ス・ハーンの軍隊は日本侵略をあきらめ、国 難は打破されました。 すなわち、すでに日本は、二度も中国の侵 略の刃を退けてきた歴史を持つのです。昔の 日本人は強かったのです。 大切な何かを失ったことで、この国は滅びの危機を迎えている ではなぜ、この国はこれまで幾度とない国難を乗り越えてくることができたのでしょうか。そ して今なぜ、この国は国難を乗り越えることができずに、押しつぶされようとしているのでしょ うか。 その答えは、実に簡単です。 それはこの国に今現在、生きる私たち日本人と、かつてこの国に生きていた日本人とでは、決 ・ ・ 定低に異なる点が一つあるからです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 表現を変えれば私たち日本人は、ある 大切な何かを、アメリカとの戦争の敗戦、そしてその後 いちじる の 著 しい経済発展とひきかえに、いつしか失ってしまったのです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ では、そのある大切な何かとは何でしょうか。 えん こうひょう 『台湾の大災難』という本を書いた北京大学の元教授・袁 紅 冰 氏は、 「中国は腐敗した自分 たちの政権を維持するために、2012年に台湾を統治することを目指している」と、そう中国 政府を批判した上で、私たち日本人に対しては、次のように述べました。 「日本は自由の名の下に武士道精神を再建し、真理と自由の側に立ち、 (中国のアジア・アフリ カの侵略から護るべく)人類の自由のために貢献をすべきです」 確かにかつてこの国には、武士道精神がありました。今ではもう失われてしまいましたが、こ の国の人々の心には、武士道精神が宿っていたのです。 そしてもしも今を生きる私たち日本人の胸に、武士道精神が宿っていたら、おそらく過去二回、 中国の侵略を退けたように、やはり今回も同じように、中国の侵略を退けることができるでしょ う。 なぜならいくら経済力や軍事力を誇ろうとも、その根本の精神が軟弱であれば、国家は護れず 滅びていくからです。もちろん経済力や軍事力を完全に無視して、精神論だけで、竹槍で大国か ら国を護り抜くこともできませんが、しかし現在の日本のように、いくら優れた経済力と軍事力 を持とうとも、その根本の精神が軟弱であれば、やはり国を護り抜いていくことはできません。 おそらくそうしたことを見通して、北京大学の元教授は、私たち日本人に向かって、 「武士道 精神を再建して人類のために戦うべきである」と、そう述べているのでしょう。 映画俳優の故・三船敏郎氏は、スティーブン・スピルバーグ監督のハリウッド映画『1941』 に出演しました。その内容は、大東亜戦争もテーマに含まれており、三船氏の役柄は、日本兵で あったそうです。 そして彼はスピルバーグ監督から、 「遠い東南アジアの地で焚き火をしながら、祖国日本を想 い、家族を想いながら、苦しい戦場に疲れてはてて、涙を流して欲しい」と言われたそうです。 しかし三船氏は「泣かないのだ」と答えたといいます。 「日本男児は強く勇ましいために、そんなことでは弱音を吐かず、決して泣かないのだ。そし て日本男児は誇り高く勇ましいために、人前では泣かないのだ。だから私は日本人として、たと え監督の頼みだろうと泣くことなどできない」と、きっぱりと言い切ったそうです。 現代の日本の風潮や俳優ならば、ハリウッド映画に出演が決まれば、それだけで浮かれて、大 ・ ・ 監督の頼みとあらば、ホイホイ泣くどころか、女装でもやりかねませんが、こうした違いが過去 と現在の日本ではあるのです。 ・ ・ ・ ・ そしてその違いが何かと言えば、やはり日本人の胸の中に、武士道精神が在るか無いか、その 違いと言えるでしょう。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ しかし私はさきほど、 「かつての日本人は、ある大切な何かを持っていた ・ ・ がために、中国の侵略を二度に渡って退け、そして現代の日本人は、ある ・ ・ ・ ・ ・ 大切な何か失ったがために、この国は今、中国の侵略によって滅びようと ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ している」と、そう述べましたが、ではそのある大切な何か、武士道精神か と言えば、そうではありません。もっと私たち日本人の根本にあり、そして 日本人が武士道精神を築き上げるにあたり、最も根源にあったもの、その ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 大切な何かを私たち日本人は失ってしまったのです。ですからその大切な ・・ ・ 何かを、私たちは取り戻さねばならないのです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ では、その“ある大切な何か”とは、果たしては何でしょうか。 三船敏郎 武士道とは、かつての日本を日本人たらしめていた その答えは、武士道精神を突き止めることによって、明らかになるのです。言葉を変えれば、 もののふ 「精神」とは「心」のことでありますから、 「武士の心」を探っていくことによって、その心を 生み出していた源流を明らかにすることができるわけです。では、武士道精神、あるいは武士の 心とは、果たして何なのでしょうか。 に と べ いなぞう かつて新渡戸稲造という方がいました。彼は、 「青年よ、大志を抱け」という言葉で有名なク ラーク博士のもとで、キリスト教の洗礼を受けたクリスチャンであり、国連の創設にあたって多 大な尽力された偉大な方ですが、彼は外国の教授と散歩している際に、その教授からこう言われ たそうです。 「それでは貴方の国には宗教教育はないと、そうおっしゃるのです か?」 彼は「ありません」と、きっぱりと答えました。するとその外国 の教授は、驚いて歩みを止めて、 「宗教教育無しで、どうして人々に 道徳を授けることができるのですか?日本人は何を基準に物事の善 悪を学んでいるのですか?」と、そう驚き、少し怒り気味に言った そうです。 外国の方にそう問われて、それから新渡戸氏は、自分たち日本人 はどのようにして道徳を得て、何に基づいて物事の善悪を学んでい るのか、それを考えてみました。そして彼はやがて、 「日本人には武 士道教育がある」ということに気が付いたのです。 新渡戸稲造 そして彼は、日本人を外国の方々に理解してもらおうと、 『武士道』 あらわ という書物を世に 著 しました。 つまりかつての日本人に「武士道精神」を与えていたものとは、それは「武士道教育」であり、 そして「武士道教育」とは、かつての日本人にとって、とても重要なものであり、言葉を変えれ ば、私たち日本人を日本人たらしめていた教育であったわけです。 みにくいアヒルの国・日本 では、その武士道教育とは、果たして何であり、そしていつ、どのようにして生み出されてき さかのぼ たのでしょうか。これを考えるにあたり、私たち日本人は、真実の歴史を 遡 らなければなりま せん。 真実を述べますが、今を生きる私たち日本人は、実はまるでアンデルセンの童話、 『みにくい アヒルの子』のような国民なのです。 この物語は誰もが知っているでしょう。つまりアヒルのタマゴの中に、一つだけ白鳥のタマゴ が混ざっていた、という話です。 ひな 主人公のアヒルは雛のうちは、兄弟からも、周りの生き物からも、 「みにくいアヒルの子」と イジメられ続けます。しまいには母親からも、 「本当に醜い子ね、どこかに行ってくれたら助か るのに」などと、酷いことを言われてしまいます。 こうしてみにくいアヒルの子は、いたたまれなくなって姿を消し、一人で旅に出るわけです。 そしてやがてアヒルの子は、白鳥の群れに出会うわけですが、最初は「ああ、こんなみにくい僕 を殺しに来たんだ」などと、そのような感想を抱いたそうです。何とも可愛そうなことではあり ますが、まさしく彼自身に、誇りも、夢も、希望も残っていなかったわけです。しかし季節は移 り変わり、いつしか醜いアヒルの子は、美しい白鳥に成長していました。 このアンデルセンの童話・ 『みにくいアヒルの子』と、 まったく同様なことが、実は日本と周辺諸国の間で起こ っていると言ったら、果たしてどのように想われるでし ょうか。 中国、北朝鮮、韓国といった諸外国が、過去の歴史を 持ち出して、 「日本は悪い国、日本は醜い国」などと、 罵ることがよくありますが、しかし実は、その言葉は嘘 と偽りであることのほうが多いのです。しかも中国人も、 北朝鮮人も、韓国人も、みにくいアヒルの子の兄弟たちのように、自分たちが嘘をついているこ とを知らずに、そう罵っていることも実は多いのです。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 白鳥の子が何かをキッカケに、アヒルの群れに紛れてしまい、そして真実の自分の姿を知らな いがために、他の兄弟の「みにくい子」という言葉を信じて、 「自分はみにくいアヒルの子だ」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ と、自虐的になっていたがごとく、この日本という国も、何かをキッカケに時代の波に呑み込ま れてしまい、そして真実の歴史を知らないがために、他の諸外国の「悪い国」という言葉を信じ てしまているのです。そしてその結果、日本国民自身が、 「日本は悪い国なのだ」と、自虐的な 歴史観を身に着けて、自分の国に対する誇りを持てなくなっていることが、実はあるのです。 そうであるならば、中国からの侵略が迫る今だからこそ、かつての日本は何ゆえに中国の侵略 を退けることができたのか、それを探り当てることが重要であります。 そしてこれを探り当て追求しようとすると、必然的に私たち日本人は、真実の歴史を明らかに して、そして今まで嘘の歴史で覆い隠されていた、本当の自分たちの姿を知ることになるのです。 ですからまず、真実の歴史を明らかにしていきたいと想います。 これから述べる歴史、それは真実の日本の姿であり、そしてこの日本という国が、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 失ってしまった大切なものを取り戻して、中国の侵略を退けるにあたり、とても大切な真実なの です。 コロンブスの「見方」によって歴史の見方も変わる では、真実の歴史とは果たして何なのでしょうか。 「歴史」というものについて深く考える時、ある一人の人物に対する評価が変わってくること を、私たちは知らねばなりません。その人物とはクリストファー・コロンブスです。 コロンブスは、先人の冒険家であるマルコ・ポーロの『東方見聞録』に出会いました。そこに は、どこでどう情報を入手したのか、 「ジパングは黄金で家が作られ・・・、バラ色の真珠で溢 れ・・・、死者は口に真珠を含んで埋葬される」などと、かなり誇張されて描かれておりました。 もちろんジパングとは日本のことです。そのためにコロンブスは、 「いつか自分も黄金の国ジパ ングに行きたい」と、そう考えるようになったのです。 そして1492年、スペイン王の援助を受けたコロンブスは、インドに行こうとして、偶然に アメリカ大陸を発見しました。そのためにインドとは何ら関係のない土地が、今でも「西インド 諸島」などと呼ばれているわけです。 あつ コロンブス自身は、好奇心と冒険心が旺盛で、なおかつ勇気に溢れた信仰心篤 きクリスチャ ンであり、善人であり、また彼がアメリカ大陸を発見したことによって、人類の歴史が大きく前 進したことも事実です。 しかし彼がアメリカ大陸を発見してから後、アメリカ大陸に移り住んだ人々の中には、残念な がら邪悪な心を持った人も大勢いました。そのために、 人類の進歩の裏側で、犠牲となってしまった人々が大 勢いたこともまた事実なのです。 コロンブスは、欧米人にとっては新大陸を発見した 英雄でありますが、しかし元々住んでいた先住民から すれば、決して英雄などではなく、邪悪な心を持った 人々を自分たちの土地に大勢連れてきた、死神にさえ 見えたのかもしれません。 アメリカ大陸にたどり着いた白人たち 進歩の裏側には多くの犠牲があった 当時のヨーロッパでは、 「バイキング」 、つまり海賊が暴れまわっていました。 日本で「バイキング」というと、 「食べ放題」という穏やかなイメージであったり、 「海賊」と いっても、子供向けのアニメまで作られておりますが、しかし実際のバイキングは、国や町や村 さつりく を侵略し、金目の物を根こそぎ略奪し、火を放って放火を行い、殺戮の限りを尽くし、人々を捕 らえては奴隷として売り払い、より珍しい宝物を求めて遠くへと遠征する、ヨーロッパ中を恐怖 に陥れた存在でした。 しかもこのバイキングは、やがて国家規模へとなっていったのです。欧米人の中には、 「自分 たちの祖先は勇敢だった」と、開き直っていることもありますが、ヨーロッパ諸国の中には、元 をさかのぼればバイキング国家が確かにあるのです。 ・ ・ そしてコロンブスが新大陸を発見して以降、海賊たちの争奪戦は、 さらに激しさを増しました。 ・ ・ ・ そのために当時のキリスト教・ローマカトリック教会は、オランダとスペインに対して、勝手に 世界を二分してしまうほどでした。これをいわゆる「トルデシリャス条約」と言います。 ヨーロッパから新大陸に移り住んだ白人たちの多くが、現地 に住んでいたネイティブ・アメリカンを追いやり、抵抗する者 を皆、虐殺しました。アメリカ大陸は北も南も、かつては「イ ンディオ」と呼ばれる先住民たちのものでしたが、しかし北に はイギリスから、南にはスペインやポルトガルなどから、多く の人々が移り住むことで、アメリカ合衆国やブラジルやアルゼ ンチンといった国が誕生したのです。 これらの国の建国にあたって、少なく見積もって三千万人、 多く見積もって一億人の先住民たちが、 「アメリカ大陸に生きて いた」 、 「肌の色が白色ではない」 「キリスト教徒ではない」など という理由によって、白人たちが持ってきた病気と虐殺によっ て命を奪われました。 黒人を家畜同然に扱った大航海時代 アメリカ大陸に移り住んだ白人たちは、最初は先住民たちを奴隷にして、彼らを鉱山などで働 かせおりましたが、しかし農園を開き始めると、次は人手不足に困り始めました。それは短期間 の間に、あまりにも多くの先住民たちが、この世を去ってしまったからです。 そこで彼らが目をつけたのが、当事、 「暗黒の地」と考えられていたアフリカ大陸でした。彼 らは黒人をアフリカから連れてきて、奴隷として農場で働かせたのです。 むち 白人たちは、黒人を銃や鞭で脅して、船の中に強引に押し込んで、アフリカから運ぶわけです れつあく が、黒人たちはギュウギュウ詰めにされて、トイレも行けない劣悪な環境の中で運ばれました。 ですから長い航海の中で、死んでしまう黒人も実はたくさ 黒人を虐げる白人たち んいたのです。病気になった黒人は、容赦なく海に投げ捨 てられました。 もちろん健康な黒人さえ手に入れば、病弱で体力の無い 黒人が何人死のうとも、当時の白人たちには関係がありま ・ ・ せん。なぜならかつての白人たちにとって、黒人は家畜 で ・ ・ あり、そして商品であったからです。 市場に行けば私たちと同じ人間が、「肌が黒い」という ただそれだけの理由で、牛や豚と共に並べられて、 「安いよ!安いよ!」と売られている暗黒の 時代、それが「大航海時代」です。年若い少女が、裸にされて売られていることさえ現実にあり ました。焼印を押されて売られた黒人たちの運命は、全て持ち主が決めたのです。 そんな愚かな時代が、1863年にリンカーン大統領が、 「奴隷解放宣言」をするその時まで、 ・ ・ ・ 四百年もの長きに渡って続いたのです。 まず最初に日本を護ったのは、「自然」と「地形」 このように、かつての白人たちは、肌の色が黒いとか、黄色いとか、そうした理由だけで、有 色人種を人間とはみなしてはおりませんでした。そのために白人たちは、 アメリカ大陸だろうが、 アフリカ他陸だろうが、もちろんアジアであろうが、自分たちより弱い人間であるならば、何ら いと 厭 うことなく侵略と虐殺を繰り返したのです。 これは1800年代のことですが、白人たちがオーストラリアを植民地支配した際、数十万人 の先住民・アボリジニは大虐殺されて、タスマニア島に住んでいたアボリジニにいたっては、ま るで動物でもハンティングするかのように、馬で追い回され、面白半分で殺されたのです。その ために、四千人とも、三万七千人とも言われているタスマニア島のアボリジニが、全滅してしま いました。 あるいはフィリピンは、1521年にセブ島にマゼランが到来してから後、スペインの王様、 「フィリップ王」の名にちなんで、名前を変えられてしまうばかりか、何百年にも及ぶ植民地支 配を受けていました。 世界中を白人の白い牙が襲っていたのです。しかしこの日本だけは、ヨーロッパから陸路でも、 航路でも、どちらでもとても遠いたために、なかなか白人たちの襲来を受けることはありません でした。 つまり龍の落とし子のようなこの日本列島は、自然を味方にしながら国を築き上げてきたわけ です。 世界で始めて、鉄砲を戦に使用した信長 た ね が しま しかし1543年、鹿児島県の種子島に、火縄銃と共にポルトガル人が辿り着きました。 当事のヨーロッパ諸国のアジア諸国への侵略の手口、それはまずキリスト教の宣教師を派遣し て、そして宣教師たちにキリスト教の布教をさせると共に、現地調査を行わせて、その後に本国 から軍隊を派遣する、というものでした。フィリピンが当時のイスパニア(スペイン)から植民 地支配を受けることになったのも、やはりこの宣教師の後にやって来た軍隊であったのです。 最初の日本の戦国の覇者は織田信長でした。 彼は武田信玄の息子・武田勝頼と戦うのですが、武田騎馬隊に対して、信長は三千丁の火縄銃 で挑みました。歴史上名高い「長篠の合戦」です。武田騎馬隊に対して、織田勢は鉄砲隊を三段 に構えて迎え撃つ、という作戦に出たのです。 これはまさしく信長にとっても一つの賭けでした。 なぜなら実はこの織田信長こそ、銃を戦に大規模に使 用した世界最初の人物であり、それまでは誰も、部隊 として大規模に銃を使用したことがなかったからで す。ですからもしも真正面から迫り来る「戦国最強」 と名高い武田騎馬隊に対して、鉄砲隊がその恐怖心に 耐え切れず、一人逃げ、二人逃げと逃げ出したりすれ ば、鉄砲隊は総崩れとなり、大敗することも十分に考えられたのです。しかし結果は織田軍の圧 勝でした。 ちなみに武田信玄の最大のライバルであった上杉謙信は、 「手取り川の合戦」で、信長軍の鉄 砲隊に対して騎馬隊でもって戦い、そして火縄銃の最大の弱点である雨や川といった水を駆使す ることで、信長軍に圧勝しております。この事実からみても分かるように、当時の銃の技術を考 えたら、戦に銃を使用することが、必ずしも勝利に繋がるとは限らなかったわけです。 つまりそれまでの戦の常識は、 「戦では騎馬隊が強い」というものであったのですが、その当 くつがえ 時の常識を、信長は見事に打ち破ったのです。そして信長が、当時の戦の常識を 覆 すことによ って、銃の重要度がさらに高まり、そして銃の量産と改良が急激に進んでいきました。 文字通り、種を増やして侵略を防いだ ・ こうして日本は、種子島にたどり着いたたった3丁の火縄銃を、文字通り「種」にして、10 丁に増やし、そして僅かな時間で量産と改良を加えて、性能の良い何千丁の銃へと増やしていき ました。それは第二次世界大戦後の焼け野原となった日本が、欧米諸国が発明したラジオやテレ ビやクルマを改良して、さらに性能の良いものにして、高度経済成長を果たしていったことにも 似ています。 その結果、いつしか日本は、世界で最も多くの火縄銃を持ち、最も切れる刀を持ち、 「サムラ や ま と なでしこ イ」と呼ばれる最も死を恐れない強く勇ましい男たちと、そして「大和撫子」と呼ばれる、それ を支える慎ましやかでな女性たちの国になっていきました。 ダートマス大学のノエルペリン教授が書いた『鉄砲を捨てた日本人』という本によれば、当時 の日本は、どの国にせよ、あえて日本侵略を乗り出すには強すぎたそうです。 ですから当時のヨーロッパの王者・ポルトガルは、日本を侵略するどころか、その考えすら起 こりませんでした。どうやらもう一方のヨーロッパの王者・スペインは、一度だけ日本侵略を考 えたかに思われる記録が残っているそうですが、しかしその浅はかな考えは、いとも簡単に退け られた、という記録も残っております。 それは1609年に、スペインの太平洋方面総督に対して、フィリピン当局者であったアント ニオ・デ・モルガが述べた日本の強さ物語る記述です。そこにはこう書かれてありました。 「我 が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」 秀吉によって白人たちの野望は打ち砕かれた 天下人となった織田信長は、当時すでに堕落し始めていた仏教徒たちを目の当たりして、 ひ え い ざ ん えん りゃく じ 比叡山延 暦 寺を焼き討ちにする一方で、異国からやってきた 宣教師たちが、日本でキリスト教を布教することを認めまし た。しかし後に天下人となった豊臣秀吉は、白人たちの侵略 もくろみ の目論見を見事に見破ったのです。 それは九州にいた外国人宣教師が、日本人を奴隷として売 り払ったからです。 とくとみ そ ほ う 徳富蘇峰という方が書いた『近世日本国民史』によれば、 当時の大名、小名、豪族たちの中には、戦で使用する火薬が 欲しいがために、日本人を白人たちに売り飛ばしていた者が いたそうです。そのために日本にやって来ていた白人たちの 船の中には、黒人同様に日本人が獣のごとく縛られていて、 豊臣秀吉 船内には押し込められた女性たちの泣き叫ぶ声がひびき渡り、それはまさしく地獄のようであっ たそうです。 おおむら すみただ そうりん 当時のキリシタン大名であった大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の甥たちが、天正少年使節団と して、ローマ法王のもとに行きましたが、彼らの報告書によると、行く先々に日本人女性が奴隷 とら として囚われていたといいます。 こうした奴隷売買の真実を知った豊臣秀吉は、神父のコエリョを呼び出して、次のように命じ ました。 「九州に来る西洋の商人たちが、日本人を多く購入して連行していることをよく知っている。い ままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、せめてポルトガル船に買われて、 まだ日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ。そんなに金が欲しいなら代金はあとで 渡す。 」 今の日本の政治家や総理大臣は、北朝鮮に日本人を拉致されておきながらも、何も強い発言が できませんが、しかし昔の日本の政治家や天下人は、外国など決して恐れはしなかったのです。 この秀吉の主張に対してコエリュ神父は、次のように答えたと言います。 「日本人売買の禁止は、かねてからのイエズス会の方針である。問題なのは奴隷売買をする白人 ではなく、外国船を迎える港の領主のほうである。よって責任は、厳しく日本人売買を禁止しな い日本側にある。 」 このやり取りで秀吉は激怒しました。そして彼は1588年、 「バテレン追放令」を出します。 バテレンとは日本に布教にやってきたキリスト教宣教師のことです。そして秀吉は、スペインの フィリピン総督フランシスコ・テーリョに対して、次のような書状を送りました。 「最近、キリスト教宣教師が日本に来て、異国の宗教を説いて、我が国の身分低い男女をひきつ けて、そして日本の風土を乱し、国の政治を害したので、予(私の意味)は堅くそれを禁じた。 しかし貴国より来た宣教師たちは、その追法令に従うことなく帰国せず、各地に赴いて、身分 低い人々に異国の宗教を説いてやまないので、予はそれを聞いて黙っていることができず、我が 国の法律に基づいて彼らを処刑した。 聞くところによれば、貴国はキリスト教の布教でもって、謀略的に外国を侵略しようとしてい るということだが、もし我が国から貴国に教師や俗人が入って、そして人々に神道を説いて、人 きょう 民を惑乱することがあれば、国主たる 卿 (偉い人に対する尊称)は喜びはしまい。これを思う べきである。 きょう おそらく 卿 らは、そのような宣教師による侵略の手段をもって、これまで様々な土地の領主 を退けて、自分たちが新たな君主となったように、我が国をも支配しようと企てたのであろう。 」 このように天下人となった豊臣秀吉は、彼ら白人たちが日本に持ち込む十字架の下に、銃が隠 れていることを見事に見抜き、そして日本はフィリピンのようになることを避けて、キリスト教 の布教を禁止したのです。 一度目の侵略を退け鎖国に入った日本 その後、秀吉が世を去ると、天下人となったのは徳川家康でした。 そして当時のオランダ国王が、天下を治めた徳川家康に対して、 「スペインやポルトガルは、 キリスト教を利用して、植民地拡張政策をとっている」と繰り返し忠告したこともあって、やが て日本では、キリスト教を禁止して、そしてオランダ以外の国との貿易を断ち、鎖国することに なったのです。 こうして一度目の白人たちによる日本侵略は、上手く退けられたのです。 しかし世界は、侵略と戦争を繰り返し、ヨーロッパでは十年と戦 争が起こらない時代がありませんでした。その一方で徳川幕府が約 三百年も続き、日本は平和な時代を迎え、その中で人々の教育レベ ル、文化、芸術など、様々なものが発達しました。 白人たちの侵略の刃が、本格的に日本に襲い掛かり始めるのは、 徳川幕府が終焉を迎える頃ですが、しかし作家・松原久子氏が主張 し続けるように、この徳川三百年の蓄積が、やがてその危機の時に 発揮されることになるのです。 は ん し はんのう なぜなら戦国時代の頃は、まだ「半士半農」といって、武士をし ながらも農業に携わる者が多かったのですが、この太平三百年の間 へいのう ぶ ん り 徳川家康 に、武士と農民が分けられていく、いわゆる「兵農分離」が行われ ・ ・ ・ ・ ・ ることで、武士階級を中心に武士道教育が進んだからです。 そして武士道教育が進んだ結果、国を護り抜くためであるならば、死をも恐れないサムライた ちが日本各地に増えていきました。このサムライたが、いずれ再び、日本を護り抜くことになる わけです。 病んでいたかつての白人たち その徳川三百年の間に、白人たちは大砲などの軍事技術を向上させると共に、 航海技術も進歩 ほ させました。それまで船は、人間が漕ぐか、 あるいは帆で風を受けなければ進めませんでしたが、 石炭を燃やして水を沸騰させて、その蒸気の圧力によって船を進ませる技術を開発したのです。 つまり蒸気船の誕生です。 そして人類は、武器と航海の技術を向上させたことで、肌の色が異なる人間や異教徒の人間に 対して、自分たちより力の弱い国を、そっくりそのまま頂くことを、ついに発明しました。 しかも当時は、チャールズ・ダーウィンによって『種の起原』という書物が出版されて、 「進 化論」が唱えられたこともあって、 「白人こそ最も進化した、最も優れた人種である」というこ ごうまん とが、にわかに信じられ始めた時期でもありました。そのために、より白人たちを傲慢にしてし まったのです。 現代の中国が、未だに思想的な病から抜け出しきれずに、チベットやウイグルを滅ぼすばかり か、この日本をも滅ぼそうとしているように、当時の欧米諸国は、 「白人優越思想」という思想 的な病にかかっていた、と言っても過言ではないでしょう。 つまり当事の白人たちは、 「黒人はゴリラの仲間であり、黄色人種はサルの仲間であり、白人 ・ ・ ・ こそ最も優れた人種である」と、真剣に考えたわけです。だからこそ白人たちは、ライオンがウ サギを狩るように、アメリカ大陸を我が物にするばかりか、アフリカからは黒人を連れ去り、ア ジアの国々を次々に植民地支配していったのです。 こうして欧米の列強国がアジア・アフリカを植民地支 配する時代、 「帝国主義時代」が、本格的に幕を開けた のです。 その結果、フィリピン、グアム、ハワイはアメリカの 植民地にされ、インド、パキスタン、バングラデシュ、 マレーシア、ミャンマー、スリランカはイギリスの植民 地にされ、インドネシア、パラオ、ベトナム、ラオス、 カンボジアはフランスの植民地にされてしまいました。 つまりアジアでは、かろうじてタイとネパールが、ア 有色人種を虐殺する白人 フリカではエチオピアを抜いて全ての国が、白人たちの植民 地にされてしまったわけです。 ちなみに現在も続くアフリカの貧困と紛争は、かつて欧米 諸国がアフリカの歴史や文化や人々の生活を全て無視して、 植民地支配を行い、破壊と殺戮の限りと尽くし、働き手を奪 い続けたマイナスの遺産であり、そしてアメリカの黒人たち がスポーツの世界で華々しく活躍しているのは、「奴隷船で マイケル・ジョーダン 生き残るためには、体力が強靭でなければならなかった」、 という皮肉な遺産であるとも云われております。 今の常識で帝国主義時代を考えることはできない 今、この地球上においては、ようやく肌の色や目の色でもって、人間を堂々と差別するような ことは行われなくなりました。それは紛れもなくガンジーやキング牧師、あるいはネルソンマン デラといった、 「人種差別」というものと戦い続けてくださった偉大な方々がいるからです。 ですから、かつてには凄まじいまでの人種差別があり、現在とかつてとでは、あきらかに「人 種」というものに対する考え方が違うのです。 たとえば白人女性が着替える時、そこに有色人種が入ってきても、かつての白人女性たちは気 にも止めませんでした。それは人間が着替えをしている時に、猫や犬が入ってくるようなものと 同じに考えていたからです。 あるいは私たち人間は、フライドチキンや魚の骨、もしくはマンモスや恐竜の骨、こうした動 物の骨を見ても、それほど何とも感じませんが、しかし人骨に対しては、やはり驚いたり、恐怖 を示したりと、何らかの反応を示すものです。しかしかつての白人たちは、黄色人種の骨を見て も何も感じず、むしろコレクションにしたり、プレゼントにしていたくらいなのです。 はくせい 今でもシカやクマなどの動物の剥製が、装飾として展示されていることがありますが、実は同 じようなことが有色人種に対しても行われていたのです。たとえばフランスの自然史博物館によ ると、 「19世紀のヨーロッパでは、入れ墨入りの有色人種の首が装飾品として人気を呼び、中 には輸出するために、わざわざ頭部に入れ墨を彫り、殺害された例もある」と言います。 い お う とう もしくは第二次世界大戦において、日本の硫黄島に上陸したアメリカ兵のヘルメットには、ア メリカ的な皮肉なジョークもあってなのか、 「ネズミ駆除業者」と書かれていたほどです。 このように今の常識でもって、帝国主義時代を考えてはならず、真実の歴史を知り、なおかつ 真実の日本の姿を知るためには、私たちは当時の常識を、今一度再確認する必要があるのです。 そして確かに当時の白人たちは、有色人種を犬や猿の仲間とみなしていたのです。 帝国主義時代は目茶苦茶だった 大航海時代の王者は、スペインとポルトガルでしたが、しかし帝国主義時代になると、王者は 入れ替わり、イギリスとアメリカになります。ですからこの二国も、やはりアジア・アフリカの 国々に対して、目茶苦茶なことを行ないました。 たとえばイギリスは、中国から茶や絹、陶器などを買 っていましたが、自分たちは中国に売りつけるものが何 も無かったので、インドで生産したアヘンを売りつけま した。しかしアヘンが流れ込んだことで、中国には麻薬 中毒者が激増したので、中国政府は民衆からアヘンを押 収して処分しました。 するとこれに怒ったイギリスは、アヘン戦争を開始し アヘンに狂う人々 て香港を奪い取ったのです。当時のイギリスのとある政治家も、 「これほど原因が不正義である 戦争は聞いたことがない」と述べたほどでしたが、何も売るものが無いのでアヘンを売りつけて、 中毒患者を激増させて、アヘンが処分されると逆ギレで戦争を開始して、 そして領土を奪い取る、 こうした無茶苦茶なことが、僅か百年前に行われていたのです。 もちろんアメリカも負けてはいません。アメリカは世界の権力を握るために、世界一流の海軍 を作り上げ、その責任者となったセオドア・ルーズベルトはこう言いました。 「我々はどんな戦 争であれ、大抵は大歓迎だ。この国には戦争が必要だと考えている」 そしてアメリカは、かつての世界王者・スペインから、キューバやフィリピンを奪い取ったの です。当然のことながらフィリピンの人々は、自分たちの利益と自由を守るために、スペインと 戦った時のように、アメリカにも戦いを挑みました。しかしアメリカ兵には、 「焼き尽くし、殺 し尽くせ」という命令が下り、六十万人ものフィリピン人が死にました。 1898年から1934年までの間に、アメリカはホンジュラスに七回、ニカラグアに五回、 キューバとドミニカ共和国とコロンビアにそれぞれ四回、メキシコに三回、ハイチとパナマに二 回、グアテマラに一回、侵略戦争を行っています。つまりほぼ毎年、アメリカは戦争をしていた わけです。 しかもこの間に、第一次世界大戦が含まれています。第一次世界大戦とは、世界各国に植民地 を持っている欧米列強国が、アジアやアフリカをどのように分割して、世界を植民地支配してい くか、ということを掛けて戦った戦争です。 例外無くアメリカも病んでいた 当時のアメリカ人たちは、自分たちがアジアやアフリカを植民地にして、そして利益を略奪し ていくことを、少しでも正当なものにするために、実に手の込んだ人種差別論を作り上げました。 そしてそれはアメリカの首都・ワシントンで、熱狂的に受け入れられたのです。 アルバート・ビベリッジ上院議院は言います。 「我々は世界を支配すべき人種なのだ。だから 世界の文化文明を担うべく、神に託された人種としての使命がある。我々はその使命を放棄しな い。神は我々を選んだのだ。我々は野蛮でもうろくした人々(アジア・アフリカ・オセアニアの 非白人種の人々)を治めるために、政治の達人として創られたのである」 白人優越思想のもとに生み出された、こうした「アメリカが他国を侵略して、領土を拡大して いくことは、神に託された明白な運命である」という考え方のことを、 『マニフェスト・ディス ティニー』と言います。 ですからアメリカは、決して「日本を近代化させてあげよう」などと、親切心でやって来たの ではなく、日本を植民地支配することを目的にやって来たのです。それは日本にとって再びの国 難でした。 しかしアジアは遠いので、アメリカはまず燃料や食糧の補給場所として、ハワイを自分たちの ものにしていきました。そしてそれから日本にやってきて、ペリーは日本人に白旗を渡して、こ う言ったのです。 「日本が鎖国を続けるのならば、我々はいつでも大砲を打ち込んで戦争を開始する。戦争を開始 すれば、必ず我々の国が勝つから日本は防戦すれば良い。しかし戦う気が無いならば白旗をあげ よ」と。このようにペリーは、わざわざ親切にも「白旗の意味」を教えた上で、日本を侵略しに やって来たわけです。 結局、当時の江戸幕府はペリーの脅しに逆らうことができませんでした。なぜなら、利益を貪 り続ける欧米列強国と、鎖国を続けて平穏に暮らす日本とでは、比べものにならない国力の差が あったからです。つまり種子島に三丁の銃と宣教師が辿り着いた時期と、この当時とでは、大き く状況が変化していたわけです。 こうして鎖国の扉が強引に開かれたことで、関税 の割合を決めることもできず、外国人が日本で犯罪 を起こしても、その罪を裁くこともできない、そん な不平等な条約を、日本は結ばされることになって しまいました。そのまま時代が進めば、日本が他の アジアやアフリカの国々のように、領地を奪われた り、植民地になってしまうことなど、もう目に見え ていたのです。 ですから今と同じように約150年前も、実は日本消滅の危機があったのです。 またしてもサムライによって国は護られた しかし武士道精神とも、武士の心とも言えるものを持ったサムライたちが、立ち上がりました。 黒船が来航して日本の一大事となった時、吉田松陰はじっとしてはいられず、死を覚悟で黒船 に密航しようと企てました。一説には、見聞を広めて欧米列強に植民地にされることのない、そ んな日本を造り上げるためとも、また一説にはペリーを暗殺するためとも言われております。 しかし松陰の密航は失敗に終わりました。そして江戸に護送される途中、松陰は泉岳寺を通り 過ぎる際に、赤穂浪士四十七士と自分を重ね合わせたのか、次のような句を詠んでいます。 や や やまとだましい 「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ 大和魂」 密航などしようとすれば、この様な結果になってしまうだろうと、自分でも十分に分かってい やまとだましい たけれども、しかし私のこの熱い「大和魂」だけはやむことが無かったのだ、松陰はそう詠ん だのです。 高杉晋作は師である吉田松陰に、 「男子とはいかなる時に死ぬべきであるのか」と、そう問う ふきゅう たことがあります。そして松陰はこう答えました。 「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべ たいぎょう し。生きて大 業 の見込みあらばいつまでも生くべし」と。 つまり松陰という方は、自分の教え子たちに、 「男子というものは、 いつ死ぬかを問題にするのではなく、公のためにいつでも死ねる覚悟 な を決めて、大業を為す努力を全力で行って生きろ」と、そう教えたわ けです。 きみ くに やす す また吉田松陰は「かけまくも 君の国だに安かれば 身を捨つるこ しず ほ い なり と 賤が本意也」とも詠みました。つまり「この国が安らかで栄えれ ば、私の命は捨てることも本望である」と、彼はそう詠んだわけです。 その一方で、松陰は自分が処刑される前に、こんな詩を詠んでいま 吉田松陰 す。 「親思う 心にまさる 親心 けふの音づれ 何ときくらん」 つまり「私が両親を思っている以上に、両親は子の私を思って下さっている。だから今日の私 の処刑の知らせを聞いたら、果たしてどれほどに悲しまれるのだろうか」と、そう詠んだわけで す。 この詩からも分かるように、この国を護り築いてきた方々は、決して死に急ぐ変人や狂人など ではありませんでした。彼らにも親がいて、友がいて、愛する人がいて、 「もっと生きたい」と 願う、我等と同様に普通の人間でありました。しかし彼らは、死に急ぐわけではなくとも、死を 覚悟で、時には駄目もとであろうとも、天下国家のためならば命を掛けて生きたのです。 華やかなイメージの強い坂本竜馬も、幕府から追われる身となり、金銭もろくに無くなって、 ふんどし 西郷隆盛の嫁に使い古しでいいから 褌 をくれないかと頼みました。その話を聞いた西郷隆盛 ほんそう は、 「彼は国家のために天下を奔走している人であるから、新しいのを買 って差し上げなさい」と、その様に嫁に言ったほど、竜馬は貧しい生活 を強いられた時もあったのです。 最後は暗殺されてしまう竜馬ですが、彼はこんなことをよく人に言っ ていたそうです。 「人はことを成すためにうまれてきた。 しかしこんな時代だ。志半ばで命尽きることもあるだろう。 しかしたとえそれがドブの中であろうとも、前のめりで死んでいこう」 こうして武士道精神を持ったサムライたちが立ち上がることで、江戸 幕府は倒れ、外国に侵略されることのない豊かな国造りが行われていき 坂本龍馬 ました。すると身分制度もなくなり、 「近代化」という名の夜明けを迎え ることで、日本は欧米列強国が500年かけて遂げた進歩を、わずか数十年でやり遂げたのです。 おかげで日本はどうにか国を護り抜くことに成功しました。その結果、日本の多くの人々の暮 らしは守られたのです。いわゆる明治維新であり、この明治維新は千名ほどのサムライたちによ って成し遂げられた、と云われております。 劣等感を抱いた有色人種と戦い続けた日本人 かつての白人たちが、 「自分たちこそ優れた人種だ」と大きな勘違いをしていたように、実は かつての東洋人や黒人の側にも、 「もしかしたら自分たちは劣っている人種なのではないか?」 と、勘違いしていた面があります。なぜならアジアやアフリカの人々は、白人たちからの植民地 支配を、黙って大人しく受け入れたわけではなく、むしろ彼らは、自分たちの自由と利益を守る ために、そして自由と利益を奪い返すために、何度も、何度も、武器を手にとって、抵抗と反乱 を繰り返し、そしてその度に彼らは、何度も、何度も、白人たちの持つ進んだ科学兵器の前に、 鎮圧・虐殺されてきたからです。 そのために、東洋人や黒人といった有色人種の側にも、 「自分たちが白人に勝てるわけがない」 ししそ んそん という失望の思いが実はあったのです。そして「自分たちは子々孫々、永遠に白人たちに従わな ければならないのだろうか?」と、そのように絶望しかけたことさえありました。 そうした白人たちが世界を支配していく時代の中で、有色人種の中で、唯一日本人だけが、明 治維新を遂げて、近代国家の建国に成功しました。 しかしそれは結局において、日本が世界規模の戦国時代に巻き込まれていったことを意味して いたのです。そのために日本も、日清・日露の両戦争を戦う羽目になり、ロシア国内が革命中で あったこともあって、日本は両戦争に勝利しました。 これは「白人こそ優れている」と考えられていた当 時において、世界中の人々を驚かせたのです。いや、 「白人が有色人種に敗れた」ということは、白人社会 にとっては衝撃的事件であり、ロンドンの町は、まる でお葬式のように暗く沈んでいたとも云われており ます。 つまり劣等感を抱くばかりか、失望しかけていた当 時の有色人種の中で、唯一、日本人だけがその当時の 流れに抗い、そして欧米諸国と肩を並べるばかりか、 時には白人たちを追い抜く勢いさえ持っていた、とい うことです。 アメリカの歴史学者、ロスロップ・スタッタードは、自身の著書の中で、日露戦争の日本に勝 利に対して次のように述べております。 四百年間の連続的勝利によって、白人たちは自分たちの膨張は、無限に継続していくものだと 本能的に信じていた。1904年の日露戦争以前には、自分たちの膨張が停止するなどというよ うな思想は、白人千人中に、一人も考えがおよばなかった。 (中略)1900年は、その四百年 間の白人たちの勢いの頂点であった。白人たちはその時、威名と実力の頂上に達したのである。 しかしそのわずか四年後に、日本は猛然と立ち上がり、ロシアに抗い、そして旅順港に巨砲弾 を浴びせて世界を驚かしたのである。その刹那に白人たちの後退が始まった。 『有色人種の勃興』 このように、1919年に「国際連盟」が作られた時、日本が「人種差別撤廃」を人類で最初 に主張しました。もちろん当時の白人たちは、 「猿」とみなしている日本の申し入れなど、受け 入れるはずがありません。 戦争は絶対に美化すべきものではない もちろん戦争は憎むべき忌み嫌うものであり、絶対に美化するべきものではありません。戦争 で行った悲惨な体験によって、それがトラウマとなり、精神に異常をきたしてしまう人は、今も 昔も数知れません。 たとえばベトナム戦争を戦った五十万人ものアメリカ帰還兵は、戦争の恐ろしい記憶に悩まさ れ、ストレス症に悩まされています。そのために、何十万人もの帰還兵が路上暮らしをするよう になり、実はベトナム戦争で死亡したアメリカ兵よりも、戦争が終わったあとに自殺したアメリ カ兵のほうが多いのです。 あるいはイラク戦争の時も、アメリカ人の女性兵が、イラク人男性を虐待し、侮辱している写 真を撮って、 そしてその写真が明るみになることによって、世界中を驚かせたことがありました。 戦争という悲惨な日常生活の中で、普通の女性であっても、精神を壊してしまったのかもしれま せん。 ですから私たち人間は、戦いと争いの極みとも言えるこの「戦争」という行為を、美化したり、 肯定すべきではないでしょう。 しかし暴漢に襲われたら、誰でも自分や家族の身を守ろうと闘うように、あの白人優越主義の 強い帝国主義の当時は、侵略されて植民地支配を受けないために、日本も戦わねばならなかった のです。 ですから私たち人間は、戦争というものを美化、肯定すべきではありませんが、その一方で、 戦争を完全否定し、全て醜悪なものと位置づけることもまたできないのです。なぜなら欲望によ って悪の側に立つ、人々から「自由」を奪う侵略戦争というものもあれば、正義の側に立ち、自 分たちの「自由」を守るべく戦う、護国戦争というものもあるからです。 この真実を、私たち人間はよく知っておくべきではないでしょうか。 日本と欧米諸国との違い 世界規模の戦国時代に巻き込まれていくことで、日本も欧米列強と同様に、アジア諸国に植民 地支配を広げていきました。 しかしたとえばインドネシアなどは、 三世紀にも渡って植民地支配 さつりく さくしゅ していたオランダが、殺戮に次ぐ搾取を繰り返して、あまりにも酷かったために、結果的には、 日本人が白人たちからインドネシアを解放したことになりました。 そして日本が戦争に負けると、再びオランダはインドネシアを植 民地支配しようとするのですが、現地に残っていた日本人約200 0名の兵士が、身命を賭して、インドネシア独立のためにオランダ と戦い、そして死んでいったのです。 彼らは最初、 「武器をインドネシアの人々に盗まれた」と嘘を言っ てインドネシア人を支援しましたが、しかしあまりにもインドネシ アの人々が、戦いに不慣れで、オランダ軍に苦戦していたのを見て、 彼らは放っておくことができなくなりました。ですから彼らは、祖 国日本のためではなく、インドネシアの人々が再び酷い扱いを受け ることを、黙って見過ごすことができずに戦ったのです。 そうしたこともあって、インドネシアの歴史を知る人々は、今で も反日感情を抱くどころか、むしろ日本をどの諸外国よりも愛してくれています。 さくふう たいせい あるいは台湾は、古くは中国の冊封体制から抜け出すことができずにおりましたが、やはり他 のアジア諸国と同様に、スペインやオランダから植民地支配を受けておりました。しかしインド ネシアと同様に、かつての日本はオランダ軍を蹴散らして、台湾を植民地にしました。 ですからもちろん台湾の中にも、日本からの解放を望んだ人もおりましたが、しかし戦後に中 国大陸からやって来た国民党軍が、あまりにも酷かったために、 日本の植民地時代を懐かしんで、 「親日感情」は強まったのです。 や ゆ 国民党軍の酷さは、 「犬が去って、豚が来た」と揶揄されるように、日本軍は犬のように国や 上官に対して忠実で、そして礼儀正しく、しかもきちんと統率が取れているのに対して、国民党 ぼう じゃく ぶ じん わ い ろ 軍はまるで豚のように統率が取れておらず、傍 若 無人で賄賂を好み、礼儀礼節が全くなってい なかったからです。 さくしゅ しかも欧米諸国が、植民地から利益を吸い上げて、搾取していくのに対して、むしろ日本は、 本国から国家予算の四分の一ものお金を持ち出しました。そして道路、鉄道、水道などのインフ ラ整備と、衛生環境の向上や教育も行って、台湾の発展に尽くしたのです。そのために真実の歴 史を知っている台湾人は、今でも親日感情を持っております。 どこからが植民地支配で、どこまで植民地支配ではないのか、その定義はとても難しいことで きんびれい すが、しかし台湾人から日本人に帰化されて、中国の脅威を訴え続けている金美齢さんのように、 台湾の人々の中には、 「私たちは一度も日本から植民地支配を受けたことなどない」と、そう胸 を張って語る人もいるくらいです。 ・ ・ ・ ・ またパラオという国は、スペインやドイツから九割の人が殺されてしまうほど、酷い植民地支 配を受けていましたが、しかしやはり日本は、オランダ軍をパラオから追いやると、もちろんパ ラオから利益を吸い上げて奪うことはしませんでした。 それどころか、戸籍制度も学校も無かったパラオに、日本は学校を建てて、戸籍制度を作り、 教育も行ったのです。そうしたこともあって、パラオは戦後に独立を果たすと、なんと日の丸を モチーフに国旗を作るばかりか、敬意を払ってあえて日の丸を少し左にずらしているほどです。 パラオの人々の中には、戸籍制度が出来た時、あえて日本人の名前を付けた人もいるくらいです。 このようにインドネシアや台湾やパラオやビルマなどの国々は、白人国家から植民地支配を受 けているために、帝国主義の時代が、どんなに悲惨な時代であったのか、それをよく知っていま す。こうしたこともあって、こうした国々には、実は今でも親日感情があるわけです。 逆に、北朝鮮や韓国の大多数の人々が、帝国主義の時代が果たしてどんな時代であり、そして 自分たちの国がどのように近代化を果たし、日韓併合の時代の中で、本当は何が行われていたの か、これらの真実の歴史を知らないがために、反日感情が強いのです。 日本人は有色人種を人間とみた あえて「植民地」という言葉を使用させて頂きますが、かつての喰うか喰われるかの帝国主義 時代において、強国の植民地の方法には大きくわけて三種類ありました。 一つは虐殺、強奪をいとわない方法です。これはオランダやスペインが行いました。 ・ ・ ・ 二つ目は、差別的な法律や制度を作りながらも、一応は会社組織を作って、植民地から利益を 出させ続け、なおかつその利益を奪い続ける奴隷国として扱う方法です。これはイギリスやフラ ンスなどが行ったやり方です。 そして三つ目は、本国からお金を持ち出してでも、その国を発展繁栄させて、なおかつ現地の 人々を差別しない方法です。この三つ目の方法を行ったのは、他でもないこの日本だけです。 なぜ帝国主義のあの滅茶苦茶な時代において、日本だけがこの三つ目の植民地政策を行い、そ して他の諸外国は、すべて虐殺、強奪、搾取を伴う、そんな植民地政策であったのか、その理由 は実に簡単です。 それは当時、有色人種の国の中で、欧米諸国と肩を並べることができたのは、唯一日本だけで あり、そして当然と言えば当然ですが、 日本人は決して有色人種を差別するようなことなどなく、 や むしろ差別撤廃を訴えていたからであり、日本はあくまでも、已むに已まれず白人たちが繰り広 げる戦国時代に、巻き込まれていった側であり、本心では平和を望む国であったからです。 ですから、かつての帝国主義時代において、白人たちは有色人種に対して、猿やゴリラの仲間 とみなしている一方で、日本人はアジアの諸国民をきちんと人間をみなしていた、この歴史的真 実を、私たち日本人は忘れてはならないのです。 はらから 「四方の海 みな同胞と 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん 」 四方の海は皆、同胞と思うこの世において、なぜ波風が立って、騒ぎが起こり、争いが続くの だろうか、という意味であり、血を血で洗う当時の世界規模の戦国時代において、平和を望まれ た明治天皇が詠まれた詩です。 全てが裏目に出てしまった日本 かつてのアメリカが、 『マニフェスト・ディスティニー』という思想を持っていた一方で、か だいとうあきょうえいけん だいとうあきょうえいけん つての日本は、 「 大東亜共栄圏 を構築する」 という思想を持っていました。 いわゆる 「大東亜共栄圏 しそう 思想」です。これは「アジアの国々を白人たち欧米列強国から解放して、欧米列強国に対抗でき だいとうあきょうえいけん る一大勢力を築こう」という考え方であり、この勢力のことを「大東亜共栄圏 」と言います。 だいとうあきょうえいけん し そ う こうした「大東亜共栄圏思想」という考え方があるために、真実の歴史を知る人の多くが、先 の日本と欧米諸国との戦争を、 「太平洋戦争」などとは呼ばずに、 「大東亜戦争」と呼ぶわけです。 しかし当時の日本は、ソ連という共通の巨大な敵に対して、 「敵の敵は味方」という発想と、 そして凄まじいまでの人種差別から、孤立無援の状態であったために、独裁者ヒトラー率いるナ チス・ドイツと手を組んでしまいました。 人種差別意識の強い時代背景の中で、日本が独裁者ヒトラーと手を結んだことは、かなりのマ イナスイメージとなったことでしょう。 しかも日本が日露戦争に勝利することで、世界で初めて有色人種の国が、白人たちの国を打ち 負かすばかりか、第一次世界大戦においては、日本が戦勝国に属していたこともあって、次第に おうかろん 白人たちの間では、 「黄禍論 」が強まっていきました。 おうかろん りょうが ・ ・ ・ ・ 「黄禍論」とは、 「やがて黄色人種が、白色人種を凌駕する恐れがある」という恐怖思想です。 当時の白人たちが、 「黄色人種は皆、野蛮な動物に近い種族である」と誤解すると共に、 「白人こ そ優れた人種であり、負けない人種であり、支配されない人種である」という妄想を、日本人が打 おうかろん ち砕いたがために、いつしかこんな「黄禍論」という恐怖思想が生まれてしまったのです。 おうかろん そしてこの「黄禍論」が強まることによって、欧米列強国のアジアに対する圧力、特に日本に 対する圧力は、次第に正当化されてしまいました。 それにキリスト教が盛んな欧米諸国からしてみれば、神道という見知らぬ宗教を信じる当時の さいせんばこ 日本は、恐怖の対象であったのです。賽銭箱に小銭 かしわで を投げ入れて、二度礼をして、拍手を二度打ち、さ らにもう一度礼をする日本人の姿を見て、彼らキリ スト教徒たちは、 「日本は悪魔の宗教を信じている 国」と、どうやら想い込んだようです。 なぜならキリスト教の考え方では、 「キリスト教 以外の教えは、全て悪魔の宗教である」と考えるか らです。この「キリスト教絶対思想」も、やはり異 教徒である日本人を大きく誤解させてしまいまし た。 しかも欧米列強国が、アジア・アフリカ・オセアニアといった有色人種の国を侵略、虐殺して いる最中に唯一、有色人種の国の中で、欧米列強国側についた国がありました。 それが中国です。 中国は、自分たちの力では日本に勝てないために、欧米諸国に日本を倒させようと画策しまし ・ ・ ・ ・ ・ た。そこで中国が思いついたのが、歴史上悪名高い「南京大虐殺」です。当時はイギリスとドイ ツが戦争中であり、そして日本は中国と戦争中であったのですが、中国はアメリカに日本を倒し てもらいたいがために、 「南京大虐殺」という捏造事件をでっち上げたのです。 おうかろん ですから「黄禍論」が強まりつつある時代の中で、 「日本は悪魔の宗教を信じる国である」と 誤解されるばかりか、中国によって「南京大虐殺」という悪魔の所業を行ったことにされ、さら にユダヤ人に対する迫害を続け、世界制覇を企む本当に悪魔の国であったナチス・ドイツと手を 結んでしまった日本は、結果的にアメリカの「マニフェストディスティー」の思想を、より強め てしまったのです。 このように様々なことが、全て裏目、裏目にでることによって、日本はますます孤立し、次第 にアメリカに敵意を抱かれていくわけです。 戦争屋が約束した第二次世界大戦 しかし当時のアメリカ国民は、戦争に次ぐ戦争の繰り返しで、すでに戦争に疲れ果てていまし た。しかも当時の大統領・ルーズベルトは、すでに大統領を二期も務めて、幾度も戦争を繰り返 していたことから、 「戦争屋」などとあだ名されてしまっていたのです。 そのために彼は、三度目の大統領選挙で当選するにあたって、 「もう絶対に戦争は行わない。 皆さんの子供たちを戦場に送ることはない」と公約を掲げ、国民にそう約束していました。 しかしルーズベルト大統領は、アメリカ国民には内緒で、イギリスのチャーチル首相と、イギ リスとドイツの戦争に参加して、イギリスを支援することを約束してしまいます。 なぜならすでにナチス・ドイツは、ポーランドを侵攻後、ノルウェー、デンマーク、オランダ、 ベルギー、ルクセンブルク、フランスと次々に侵攻し、そして制圧していたからであり、しかも ナチス・ドイツは、人々の予想を遥かに上回るほど、残虐であったからです。フランスのオラデ ュールという村は、村人の全てが殺されてしまうほど、ナチス軍は残酷性を持っていたのです。 そうしたナチスの悪魔のごとく侵略が、ヨーロッパ中を襲い、しかも最後のヨーロッパの希望 であるイギリスでさえも、ナチス・ドイツに劣勢であったことから、ルーズベルト大統領は、 「戦 争はしない」と公約を掲げて大統領に就任しつつも、国民には内緒で、ナチス・ドイツを叩きの めすべく戦争に参加することを、イギリスの首相に約束したわけです。 当時の財務長官の日記にも、ルーズベルト大統領が、 「私はナチス・ドイツとの戦争に勝つた めなら、嘘だってつく」と語ったと記されております。 ですから当時のアメリカのルーズベルト大統領は、悪魔のように世界を破壊し続けるナチス・ ドイツと戦争を行うために、まずアメリカ国民を納得させる必要があったのです。しかしアメリ カの公約は、日本の公約とは異なり重たいために、なかなかアメリカはイギリスを支援すること ができず、ドイツを叩きのめすことができずにおりました。 その頃、当時の日本は、中国と戦争状態であり、そして自力では日本に勝てない中国も、やは り偏った正義感に燃えているアメリカを利用しようと、 「南京大虐殺」 をデッチあげたわけです。 こうして、 「マニフェスト・ディスティニー」などという思想に染まるアメリカは、 「ドイツを 叩きのめすと同時に、日本をも叩かなければならない」という思いにかられていきました。そし てアメリカは、日本を利用しようと企み始めるわけです。なぜなら、もしもアメリカと日本が戦 争になれば、それは結果的に、日本の同盟国であるナチス・ドイツとも、アメリカは戦うことに なるからです。 こうしてアメリカは、悪魔の国ナチス・ドイツを叩きのめすがために、悪魔の国とみなされて いた日本を、次第、次第に追い詰めていくわけです。 しかしもしもアメリカが日本と戦争になって、日本の同盟国のドイツとも戦うことになれば、 世界中の国々が戦火に巻き込まれて、世界戦争が始まることを意味していたから、つまり「戦争 ・ ・ ・ はしない」と口にした戦争屋は、第二次世界大戦を決意していたわけです。 用意周到に日本を追い詰めたアメリカ とうじょうひでき しかし第二次世界大戦が始まる前、東条英機を始めとする日本の政治家の多くが、アメリカと の戦争に勝てないことを見通して、実は何とかして戦争を避けるための活動を行っていました。 その一方でアメリカは、絶対に日本との戦争に勝てると見通して、そして生意気な日本と世界制 ほういもう 覇を企むドイツを叩きのめすために、 「ABCD包囲網」といって日本に対する包囲網を作り、 石油や食糧を、日本に輸出することを禁止しました。 Aはアメリカ、Bはイギリス、Cはチャイナ、D はオランダという形で、日本は次第に追い詰められ ていったわけです。 そのままでは日本の経済が破綻し、日本に生きる 人々が職を失い、餓死することなど、誰の目にも見 えていました。鎖国を続ける江戸時代のように、日 本国内だけで自給自足の生活ができていれば、石油 などの資源を封鎖されたところで、日本の経済が破 綻することもなければ、日本に生きる人々が職を失い、餓死することも無かったでしょうが、し かし当時の日本はすでに近代化を果たし、車や電車が走り、海には船が浮かんでいたからです。 ですから当時の日本にとって、 「資源を輸入することを禁じられる」ということは、明らかに 日本を逃げ場の無い方向に追い込んでいるわけです。 そしてアメリカのコーデル・ハル国務長官は、日本に対して無理難題を押し付けて追い込みま した。いわゆる『ハル・ノート』です。 この『ハル・ノート』が、日米戦争を決定づけました。 どんな無理難題を押し付けたのかというと、それは簡単に言って、 「明治維新前の江戸時代の 頃の日本に戻れ」と言っているようなものであり、言葉を変えればそれは、 「有色人種の分際で、 我々白人たち欧米列強国と肩を並べるな」と言っているようなものでした。 しかしもしも日本が明治維新前の頃に戻れば、それこそ欧米列強国の思う壺であり、日本は他 の有色人種の国と同様に、 ただ植民地にされて、虐殺されて、奴隷国にされていたことでしょう。 戦後に行われた東京裁判において、判事を務められたラダ・ビノード・パールは言います。 「ハ ル・ノートのような無理難題を突きつけられたら、日本ではなくとも、たとえモナコのような小 さな国であっても、戦争をせざるをえないだろう」と。 きゅうそ ねこ ですから「窮鼠猫を噛む」ではありませんが、追い詰められたか弱いネズミが、最期の希望を 託して、勝てるわけもない猫に噛み付くことがあるように、こうして日本も、最後の希望を託し て、勝てるわけもない戦いに、ズルズルと引きずりこまれていったのです。 「狂気の男」と称されたルーズベルト むすめむこ ルーズベルト大統領の娘 婿 の著書、 『操られたルーズベルト」には、ルーズベルトのこんな言 葉が記されております。 「私は宣戦布告はしない。私は戦争を作るのだ」 また当時のスチムソン陸軍長官の日記にも、ルーズベルト大統領が、会議において、次のよう に述べたことが記されております。 「日本軍に最初の一発を発射させることは確かに危険なことだ。しかしアメリカ国民から戦争の 完全な支持を得るためには、日本軍に攻撃させて、誰がどう考えても、どちらが侵略者であるの か、それを一目瞭然にさせたほうが良い」 このようにアメリカは、自分たちがヨーロッパの戦争 に参加して、ナチス・ドイツと日本を叩くために、用意 周到に日本を追い詰めて、大義名分を作り上げていった のです。 フーバー元アメリカ大統領は、ルーズベルト元大統領 に対して、 「狂気の男」と称しました。 「戦争を作った」 とされているルーズベルトに対して、日本人が「狂気の 男」と言っているのではなく、またアメリカの一般市民 が言っているのでもなく、アメリカの元大統領が言って フランクリン・ルーズベルト いることのこの重要性に、私たち日本人は気がつかなけ ればなりません。 しかしそれはおそらく、 『マニフェスト・ディスティニー』という思想に染まり切ったルーズ ベルトなりの正義感から、悪魔の国であるナチス・ドイツと、神道の国である大日本帝国を叩き のめすための、考えに考え抜いた戦争計画であったと言えるでしょう。 フランクリン・ルーズベルトの友人であり、後には対立したアメリカ政界の巨人であり、共和 党の党首まで努めたハミルトン・フィッシュは、次のように述べています。 「ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って、ついにアメリカを日本との戦争に巻き込む ことに成功した。そのことは、アメリカをヨーロッパにおける戦争に参戦させる、という彼の最 終的な目的を達成させた。 」 宣戦布告する予定であった真珠湾攻撃 やまもといそろく 当時の日本の連合艦隊司令官・山本五十六氏は、精神論だけでは物量で勝るアメリカに勝てる はずもないので戦争に反対していましたが、しかし「やるならば短期決戦しかなく、最初に奇襲 攻撃を仕掛けて、アメリカの太平洋艦隊を壊滅させてしまう必要がある」と主張しました。 そして確かに1941年 12 月8日、日本は太平洋艦隊を叩くために、当時はまだアメリカの 一つの植民地でしかなかったハワイの真珠湾を奇襲攻撃しました。しかも確かにそれは、歴史に 残っているように、 「宣戦布告の無き奇襲攻撃」でした。 しかし本当は、日本はアメリカに対して、宣戦布告を行う予定であったのです。ところがアメ リカにある日本大使館の職員たちが、前日に行われた職員同士の歓送迎会のせいで、アメリカ政 府に宣戦布告することが遅れてしまったのです。そのため日本人は、それ以来、世界から「卑怯 らくいん 者」の烙印を押されることになってしまいました。 しかし実は一秒でも、一分でも、攻撃の前に宣戦布告していれば、たとえ奇襲攻撃でも国際法 ひよどり ごえ 律上、何ら問題はありませんでした。しかも織田信長の『桶狭間の合戦』や、源義経の『 鵯 越 の坂落とし』にもあるように、戦争という行為の中では、実は奇襲攻撃が当たり前であり、特に 劣勢である戦争においては、奇襲攻撃はよく行われております。 ですから「宣戦布告無き奇襲攻撃」という行為は、確かに卑怯な行為には他なりませんが、宣戦 布告があったからといって、 「被害そのものはあまり変わらなかった」ということは事実であり、 そして何よりも、人種差別をすると共に、戦争よりも平和を望む国を、たくみに戦争に引きずり 込む行為も、やはり卑怯な行為と言えるでしょう。 利用したイギリスと中国、戦争を企画、遂行したアメリカ しかもアメリカは、いつ日本が真珠湾を奇襲攻撃するか、盗聴と傍受によって、事前に知って いました。しかしルーズベルト大統領は、どちらが侵略者で、どちらが悪者で、そしてどちらに 正義であるのか、それをアメリカ国民や世界に思い知らせるために、あえてハワイにいるアメリ カ軍には何も知らせなかったのです。 後に、どうしてあれほどまでに真珠湾の被害が拡大したのか、それを調査する「ロバーツ委員 会」というものが設置されて、そして調べたところ、 「戦争を企画し、準備し、遂行したのは、 実はルーズベルトであった」という、驚くべき意見が出てきたのです。 しかしルーズベルト大統領は、あえて真珠湾攻撃を知らない素振りをして、そして攻撃の直前 に、 「アメリカは平和を希望しています」という文書を日本に送っています。それもやはり、ど ちらの国が正義で、どちらの国が侵略国家であるか、それをアメリカ国民を始めとする世界の 人々に見せ付けるためです。 そして真珠湾攻撃から数時間後、何度も国民に「戦争はしない」と演説していた戦争屋のルー ズベルト大統領は、アメリカ国民に向かって、こう演説しました。 「リメンバー パールハーバー(真珠湾を忘れるな) 」 ・ ・ ・ ・ 実はアメリカという国は、今も昔もかなり狡猾かつ、巧妙であるために、自分たちと敵対する 国を強引に戦争に巻き込んで、そして自分たちの大義名分を作り上げることを、とても得意とし ています。 たとえばその第一の例が、アメリカとメキシコとの戦争です。1845年、当時、メキシコの おとり 領土であったテキサス州に、アメリカは砦を築いて、そこで二百名のアメリカ兵を 囮 にして、 ・ ・ ・ そしてわざとメキシコ軍の犠牲にしました。するとアメリカは、 「リメンバー アラモの砦(ア ラモの砦を忘れるな) 」という言葉によって、アメリカ国民のメキシコに対する憎悪をかき立て て、そしてメキシコに宣戦布告したのです。 こうしてアメリカは、メキシコからテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを奪い取って、 自分たちの一つの州にして、国旗の星の数を増やしたのです。 第二の例は、アメリカとスペインの戦争です。1898年、アメリカは、当時スペインの領土 であったキューバで起こった独立運動の混乱にまぎれて、戦艦メーン号をハバナに送りました。 ・ ・ ・ ・ しかしメーン号は、何者かに爆破されて、260名の犠牲者が出たのです。 するとアメリカは、 「これはスペインの仕業である」と国内外に宣伝して、 「リメンバー メー ン号」という言葉によって、やはり国民の憎悪をかき立てさせて、そしてスペインに宣戦布告し たのです。こうしてアメリカはスペインから、キューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコを 奪い取ったのです。 これと同様に、ルーズベルト大統領が、 「リメンバー パールハーバー」と演説すると、あれ ほど戦争に反対していたアメリカ国民でしたが、しかし「リメンバー パールハーバー」という 叫びにも近い声がアメリカ全土を覆いつくし、日本に対する憎悪がアメリカ国民の心の中に広が り、こうして日本とアメリカの間に、ついに戦争が開始されてしまったのです。 ちなみにチャーチル首相は、アメリカが戦争に参加した知らせをうけて、その気落ちをこう記 しております。 「救われたという想いと、感謝の想いで、ぐっすり眠ることができた」 つまりこういうことです。イギリスのチャーチルは、ヨーロッパを手中に治めようとする独裁 者ヒトラーを叩くためにアメリカを利用して、中国も日本をアメリカに日本を叩いて欲しいため に、 「南京大虐殺」をデッチあげてアメリカを利用して、そして「戦争をしない」と国民に約束 していたアメリカのルーズベルトは、戦争に参加する大義名分を作るために、悪魔の宗教を信じ ている野蛮な国とみなしていた日本を、まんまと利用したわけです。 このように最も利用されたお人よしの被害国、実はそれは日本であったわけです。 真珠湾攻撃は東洋人たちにとってありえない出来事だった 当時、ビルマという国は、イギリスから植民地支配されていて、軍隊も外交も財政の権限さえ さくしゅ も、一切認められていませんでした。まさしく彼らは、白人たちから搾取 されていたわけです。 そこでビルマのウー・ソオ首相は、イギリスのチャーチル首相に、 「イギリスのために、私た ちはビルマ人を兵として戦場に送るから、その代わりに戦争が終わったら、ビルマの独立を認め てほしい」と頼みました。しかし人種差別意識の強かったチャーチル首相は、論議をすることも なく、ウー・ソオ首相を追い返しました。 次にウー・ソオ首相は、一筋の希望を持って、アメリカに渡りました。ルーズベルト大統領に 会うためです。しかしやはりルーズベルトも、ウー・ソオと会うことすらせず、彼は三週間も待 って、やがて帰ることになりました。 イギリス首相にも、アメリカ大統領にも相手にされなかったウー・ソオ首相は、自分たち東洋 人が、白人たちと戦って勝てるわけもなく、独立の希望が全く見えない失意の中で、偶然ハワイ に立ち寄りました。 ごうおん そしてある朝、彼は轟音に目を覚まして、窓の外を見ました。そこには日の丸をつけた無数の 戦闘機が舞い、黒煙の立ち上る真珠湾に、そして米軍基地に襲いかかっていたのです。 ウー・ソオ首相は、 自分が真珠湾で目撃したものが、しばらくは信じられなかったといいます。 なぜなら、それまで「劣っている」と考えられていた同じ肌 ・ ・ ・ ・ ・ の色をした人々が、白人たちの英知の象徴とされていた飛行 機を自由に操り、自分たちを苦しめ続ける白人たちを叩きの めしていたからです。 おびえて逃げ惑う白人たちの光景など、彼からすれば初め て見るものであり、それはまったく予想していない光景であ り、もしかしたら彼からすれば、その光景は痛快にさえ見え たかもしれません。 そして彼は、 「ビルマが白人たちの支配から独立を果たすためには、日本を頼るしかない」と 考え、日本大使館を訪れて、その想いを伝えたそうです。しかし日本政府内のやりとりの大半は、 実はすでにアメリカのFBIに盗聴・傍受されていたために、彼はイギリス政府に逮捕・投獄さ れてしまいます。 実は東洋人にとっても「リメンバー パールハーバー」 ルーズベルト大統領は、 「リメンバー パールハーバー」と演説しましたが、しかしタイのク クリット・プラモード元首相は、こう書いています。 「日本のおかげで、アジア諸国は独立を果たした。日本という母は、難産して母体を損ないま したが、しかし生まれた子どもたちは、すくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、 アメリカやイギリスと対等に話しができるのは、一体誰のおかげであるか。それは身を殺して、 な 仁を成した、日本という母がいたからである。 12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心 をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」 。 つまりタイの元首相は、 「12 月8日の真珠湾攻撃は、白人たちから有色人種が自由と権利を取 り戻していく記念すべき日であり、この日を忘れてはならない」と、そう述べているわけです。 もちろんガンジーやキング牧師、ネルソン・マンデラといった偉大な方々が、あるいはその他 の大勢の方々が、人種差別と戦うことによって、人類はバラク・オバマという初のアメリカ黒人 大統領誕生にまで進歩したわけですが、しかしそれは1941.12.8のあの日が無ければ、 ありえなかったことだったわけです。 ですからアメリカ国民にとっても、 「リメンバー パールハーバー」でしょうが、全ての有色 人種にとっても、 「リメンバー パールハーバー」であり、このセリフは、私たち日本人のもの なのです。 1941年 12 月8の日本 ゼロ せん ふ さ た 真珠湾攻撃直前、第三制空隊隊長として、零戦に搭乗する飯田房太氏 28 歳は、部下たちにこ う述べました。 ・ ・ ・ ・ ・ 「真のサムライである軍人にとって重要なことは、最後の決意である。たとえば私が燃料タンク に致命的な損害を受けたのならば、敵に最大の損害を与えるために、生還を期することなく、目 標に向かって体当たりするつもりである」 ふ さ た そして飯田房太氏たちは、ハワイ真珠湾において、反撃してきたアメリカ戦闘機を次々に撃墜 しました。ところが飯田氏の乗る戦闘機は、敵の対空砲火で被弾し、ガソリンが流れ出してしま ったのです。彼は仲間の戦闘機が帰還できるように誘導すると、手を振って最期の別れを告げ、 ・ ・ ・ 反転し、ただ一機、引き返して、アメリカ軍の飛行機工場の格納庫に垂直に突入したのです。 1941年の 12 月8日は、イギリス領であったマレーシアにも、日本は戦闘を仕掛けていま した。 「日本を撃退するために、空母一隻を派遣するべきではなないか?」という軍のアドバイ スを受けて、当時のイギリス首相・チャーチルは、こう言っていたそうです。 「日本人のような 劣った人種は、戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを派遣しておけば、簡単に抑止でき る」と。 しかし戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズは、 「劣っている」とみなされていた日本 人によって、わずか二時間で沈みました。チャーチル首相は、その知らせを受けて、のちにこう 述べたそうです。 「私は一人きりであることが幸いだった。戦争の全期間を通じて、私はこれ以 上の衝撃を受けたことがなかった」 インドのラグ・クリシュナン元大統領は、このイギリス戦 艦が二時間で沈んだ事件について、次のように述べています。 「インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどというこ とは、想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である 日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって 『東洋人でもやれる』という気持ちが起きた」 ちなみに人種差別も薄れつつある1971年、パールハー あ っ ぱ たた バー三十周年で、アメリカ海軍は飯田房太氏の戦いぶりを、 「敵ながら天晴れ」と讃えて、彼の 慰霊碑を建てています。 当時の日本男児にはサムライ精神があった この飯田房太氏を見てもわかるように、当時の日本の軍人は、吉田松陰や坂本龍馬と同様にサ ムライでした。ですから「たとえ死のうとも、靖国(神社)の桜の木の下で会おう、そして生ま れ変わって、 またこの日の本の国を護り抜こう」 、 これが当時の男たちの合言葉であったのです。 つまり武士道精神は、第二次世界大戦までは受け継がれていたわけです。 なぜなら江戸幕府を倒した長州藩や薩摩藩が、明治政府を創り上げるわけですが、長州や薩摩 を通して武士道精神は、日本の軍人たちに受けつがれていったからです。明治維新後の日本の軍 隊は、とくに長州藩が大半をしめたのです。 ゆえにこそ、かつての日本の軍人たちのほとんどが、サムライであったのです。 そしてそうしたサムライたちは、敗戦色の濃くなった日本において、最後の手段として、世界 しんかん かみかぜ とっ こう たい 中を震撼させた神風特攻隊を生み出しました。 神風特攻隊というと、多くの人が飛行機に爆弾を積んで、相手の戦艦目掛けて突っ込んでいく と考えがちですが、しかし神風特攻隊の中には、戦艦大和のような戦艦による特攻さえありまし た。 戦時中、アメリカ人たちは、この日本の特攻隊が全 く理解できず、 「特攻隊員は鎖で操縦席に縛り付けら れているのではないか?」とか、 「麻薬中毒者を軍が 利用しているのではないか?」とか、そんな憶測さえ 飛びました。 また映画『硫黄島からの手紙』にもありますように、 そうした神風魂を持った人々によって、硫黄島におい て、アメリカ兵との間で熾烈な戦いが行われました。 くりばやしただみち あの映画の中で、栗 林 忠道陸軍中将が述べているよう に、アメリカとの戦争に勝てないことなど、多くの日 本人が分かっていたのです。しかし一日でも長く硫黄 島を守り切り、日本のサムライの恐ろしさをアメリカ 人に見せ付けることによって、アメリカに本土での決 戦を諦めさせようという狙いが、神風特攻隊にはあっ たのです。 そしてこうした作戦が功を奏して、実際にアメリカ 人たちは、 「海戦や航空戦では勝てても、もしも本土 じんだい で地上戦を行えば、アメリカ側にも甚大な被害が出 る」ということを予測して、本土での地上戦をあきらめたのです。 つまり山本五十六が、戦争が始まる前に述べていたように、日本が負けることは、やる前から いくさ すでに分かっていたのですから、神風特攻隊というのは、実は相手を倒し、 戦 に勝つために行 われた作戦ではなく、死をも恐れぬサムライ精神を、アメリカを始めとする白人たちに見せ付け て、そして日本人を恐れさせて、本土決戦をさせず、日本を護り抜くところに、本当の目的があ ったのです。 アメリカ太平洋艦隊司令長官であるチェスター・ニミッツは、日本のサムライたちに対して、 次のように述べております。 「この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ。どうか故郷に帰ったら伝えて欲し。この島を守る ために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心の奥深きを。 」 イギリス第 14 軍司令官、スリム中将も日本のサムライたちに対して、次のように述べていま す。 「たたかれ、追い詰められ、疲れても、己が生きる伸びるためではなく、本来の攻撃のために、 凄まじいまでの勇猛な攻撃を行った、日本の第三十三師団の戦いぶりは、おそらく歴史上に例を 見ない勇ましき戦いぶりであろう」 穴沢利夫少尉の婚約者への手紙 日本人は今、武士道精神を忘れているために、 「神風特攻隊」という言葉を聴くと、暴力的に とらえてしまい、そして已むに已まれず特攻を行ったサムライたちを、狂人のように考える人も いるかもしれません。しかし黒舟に密航を企てた吉田松陰が、志ある偉大なる常識人であったよ うに、彼らも常識人でした。 彼らは常識人でありながらも、公のためには死をも恐れない精神、武士の心が彼らサムライに あなざわ と し お はあったのです。彼らが偉大なる常識人であったことを証明するにあたり、穴沢利夫少尉という 方を紹介したいと思います。 穴沢氏は、幼い頃から読書好きで、夢は故郷に児童図書館を作ることであったそうです。そう したことから彼は、文部省図書館講習所を卒業し、そして中央大学に進学しました。 しかし今とは時代が違い、当時は親の仕送りが無い人がほとんどですから、彼はお茶ノ水の東 京医科歯科大学の図書館で働きながら勉強しました。 その図書館に、昭和16年の夏、図書館講習所の後輩たちが実習にやってきました。そこで彼 ま ご た ち え こ は運命の出会いをしました。それは孫田智恵子さんという女性です。 二人の交際は、昭和16年の暮れ頃から始まりました。学生の男女が付き合うことを、 「はし たない」とされた時代であったために、二人の交際は大半が手紙でした。 智恵子さんが図書館に持ってきてくれたグラジオラスの花を、 彼が模写した絵を手紙に添える ゆうべ と、智恵子さんは「たまゆらに 昨日の 夕 見しものを」と詠んで手紙を書き、するとさらに かきもとひとまろ ろ け ふ あした 彼が、柿本人麿呂の「今日の 朝 に 恋ふべきものか」と返す、そんな芸術性と知性に富んだ二 人の恋愛が始まりました。 やがて二人は結婚を望みます。しかし穴沢氏の兄は、都会の娘である智恵子さんとの結婚に反 対しました。そしてその兄の意見に引きずられる形で、両親も結婚に反対したのです。 大東亜戦争の真っ只中であったために、 穴沢氏は戦時特例法によって、 大学を繰り上げ卒業し、 そして熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入隊しました。 昭和20年3月8日、穴沢氏は自分が属する隊の隊長から、特別休暇をもらって帰郷し、そし て結婚に反対していた両親を説得します。そしてようやく彼は、智恵子さんとの結婚の許可を得 ました。 大喜びした穴沢氏は、翌3月9日に、さっそく東京の智恵子さんの家を訪ねて、その報告をし ました。そしてようやく結婚が決まったその日、彼は目黒にある親戚の家に泊まりました。 しかし何とも皮肉なことに、翌日、ある事件が起きます。3月10日、この日は歴史上悪名高 い、死者を8万人以上だし、東京の3分の1を焼き尽くした東京大空襲の日であったのです。 町中至るところが火事となり、死傷者が町中に溢れかえる大惨事となりました。 穴沢氏は、婚約者の無事を心配して、まだ夜が開けないうちに親戚の家を飛び出して、智恵子 さんの実家へと向かいました。同じ時、彼女も彼の身を案じて、目黒に向かいました。 そして二人は大鳥神社のあたりで、バッタリと出会い、どうにか互いの生を確認できたのです。 そして穴沢氏は、大宮の飛行場に帰らなければならなかったので、彼女と共に二人は電車に乗り こみました。 しかし電車は、空襲のあとで避難する人々で溢れかえり、あまりの混雑の息苦しさに、智恵子 さんは池袋駅で電車を降りてしまいました。 これが二人の最後の別れとなったのです。 ・ ・ ・ それから一ヵ月後、彼女の元に穴沢氏から最後の手紙が届きます。 つい 二人で力を合わせて務めて来たが、終 に実を結ばずに終わった。 いちぐう 希望を持ちながらも、心の一隅であんなにも恐れていた〝時期を失する〟と言うことが実現 してしまったのである。 去年十日、楽しみの日を胸に描きながら、池袋の駅で別れたのであったのだが、帰隊直後、我 きゅうてん が隊を直接取り巻く情況は急 転 した。 発信は当分禁止された。 (勿論、今は解除) てんてん ところ 転々と 処 を変えつつ、多忙な毎日を送った。 そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。 ~中略~ 今は、いたずらに過去における長い交際のあとをたどりたくない。 問題は今後にあるのだから。 常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。 しかし、それとは別個に、婚約をしてあった男子として、散って行く男子として、女性である あなたに少し言って征きたい。 「あなたの幸を希う以外なにもない」 「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」 「あなたは、今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の中には、もう存在しない」 しょうらい せ い き ばめんばめん 極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将 来 生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、 自分勝手な、一方的な言葉ではないつもりである。 純客観的な立場に立って言うのである。 当地は既に桜も散り果てた。 わか ば こう 大好きな嫩葉の侯がここへは直きに訪れることだろう。 今更、何を言うか、自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってたい。 1 読みたい本 万葉、句集、道程、一点鐘、故郷 2 観たい画 ラアフェル「聖母子像」 、芳崖「悲母観音」 3 智恵子、会ひたい、話したい、無性に。 今後は明るく朗らかに。 穴沢利夫少尉 自分も負けずに朗らかに笑って征く。 昭和 20 年 4 月 12 日 智恵子様 福島県出身 中央大学卒 陸軍特別操縦見習士官1期 陸軍特別攻撃隊 第20振武隊 昭和 20 年 4 月 12 日沖縄周辺洋上にて戦死 23 歳 手紙の書かれた日付と、穴沢氏の戦死の日付は同じです。ですからこの手紙は、おそらく出撃 直前に書かれたものでしょう。智恵子さんは、 「いつも一緒にいたい」との想いから、自分が巻 いていたマフラーを彼に贈っていました。 どうやら穴沢氏は、そのマフラーを巻いて出撃されたようです。 その様子が、次の写真です。一番手前のサムライが穴沢氏ですが、 一人だけ首の部分に何か巻いているのが分かります。 現代の日本人男性の中には、愛する女性の幸福を優先するどこ ろか、むしろ自分の幸福ばかりを優先させている者さえおり、そ してそんな男たちが、時には女性を泣かせるばかりか、ストーカ ー行為をすることさえありますが、しかしかつての日本のサムラ イたちは全く違い、愛する人の幸福こそ優先させつつも、天下国 と 家のために命を賭したのです。 過去と今、どちらの男たちが男らしいのでしょうか。 出撃前のサムライ 女性たちにもあった神風魂 何としてでも日本を護り抜く、この精神を持っていたのは、実は女性たちも例外ではありませ んでした。 はじめ 藤井 一 少佐は、陸軍飛行学校において、 「真のサムライたる軍人とは如何なるものか」と、武 士道精神を生徒たちに教えていました。彼は、いわゆる吉田松陰のような仕事をしていたわけで す。そうしたなかで彼は、生徒たちに対して、 「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、私 も必ず行く」と教えていました。 そして敗戦色が濃くなり、特攻隊の神風が世界に吹き荒れると、彼も教え子たちとの約束を果 たすために、特攻隊に志願したのです。しかし彼には妻子がいたこと、彼が長男であったこと、 そして彼自身がパイロットではなかったこと、これらの理由からその志願は二度も却下されてし まいました。しかしそれでは生徒たちとかわした約束を破り、先にこの世を去っている仲間たち を、彼が裏切ることになってしまいます。 志を同じくする者たちを裏切る、サムライである藤井氏にとって、そんなことが耐えられるわ けもありません。 そうした彼の苦しむ心を理解した妻・福子さんは、幼い二人の子どもを背負い、 「一足お先に 逝って待っています」と手紙を残して、荒川に入水自殺をしました。 ・ ・ ・ ・ こうした経緯よって、彼の三度目の特攻隊の志願は、ようやく受け入れられ、彼は同志との約 束を見事に果たすことになりました。 死出の旅に出る藤井氏を囲んで、送別会が開かれたそうですが、参加した人々は、彼を気遣っ て誰も福子さんや子どもたちのことを口にする者はなく、笑顔で酒が酌みかわされたそうです。 このように男女を問わない、死さえも恐れない武士道精神を持ったサムライたちによって、こ の日本列島は白人たちの侵略の刃から護られるばかりか、白人優越思想を打ち砕く最初の一撃と なったのです。 戦勝国は善で敗戦国は悪というのはウソ 日本とアメリカは様々な攻防戦を繰り返しながら戦争を行い、そして1945年の夏、広島と 長崎に二発の原爆が投下されることで終戦を迎えました。 そして敗戦後、日本の戦争犯罪を裁く いしはら か ん じ 東京裁判において、石原寛治は「なぜ戦争を行ったのか?」と問われて、 「理由を知りたければ ペリーを呼んで来い」と主張しました。 彼は無罪判決を受けましたが、彼の言葉をまるで裏付けるかのように、 1945年の9月2日、 軍艦ミズーリ号の上で、日本降伏の調印式が行われましたが、その時に使われた星条旗は、あえ て約百年前のペリー来航時のものを使用するという、アメリカらしい演出が行われました。 当時のニューヨーク・タイムズ紙も、 「我々はペリー以来の願望を達成した。もはや太平洋に ・ ・ ・ ・ ・ 邪魔者はいない」と書きました。こうしてアメリカは、日本をついに疑似植民地にして、自分た ちの支配下に置くことに成功したのです。 こうした第二次世界大戦の背景を考えれば考えるほどに、 日本人を始めとする世界中の人々が、 だま ・ ・ ・ ・ ・ 騙されている一つの真実が明らかになります。それは「第二次世界大戦において、戦勝国は善で あり、敗戦国は悪である」という考え方です。 確かに既に述べたように、第二次世界大戦中、日本が手を組んだのは、ユダヤ人を迫害し、世 界制覇という野望を抱く、独裁者ヒトラー率いるナチス・ドイツでした。しかし日本は決して、 世界制覇を野望に抱いたわけではありませんし、民族迫害も行ってなく、むしろユダヤ人を保護 していたくらいです。 それに当時のイギリス首相チャーチルは、「ヒトラー を倒すためなら、私は悪魔とも手を組むだろう」と口に したように、実はアメリカやイギリスが、最終的に手を 組んだソ連のスターリンという人物は、ヒトラー以上の 独裁者でした。 しかも日本は、ドイツと同盟を結んだ後、ソ連とも「日 ソ不可侵条約」といって、「互いに戦争を仕掛けない」 という約束を結んだのですが、独裁者スターリン率いる ソ連は、一方的にその約束を破って日本に攻撃していま す。ですから「戦勝国が善で、敗戦国は悪」という歴史観は、実は大きな間違いなのです。 東京裁判というアメリカが行ったプロパガンダ ではなぜ、これほどまでに世界中の多くの人々が、 「日本だけが悪い国」という歴史観を持っ ・ ・ ・ ・ ているのかといえば、それは戦後に行われた東京裁判にこそ原因があります。 実は、当時の国際法(ハーグ陸戦条約、ジュネーブ傷病者条約)において、非戦闘員の殺傷、 無防備都市への攻撃、不必要に残虐な兵器の使用、捕虜の虐待などは禁止されています。つまり 当時の国際法では、 「戦争というものは軍人同士が行うものであり、民間人に対しては危害を加 えてはならず、民間人が大勢住んでいる都市も攻撃してはならない」という決まりがあったので す。 しかし当時の国際法には強制力がなく、いつしかなし崩しになっていました。そうした中で、 生真面目で、お人よしの国・日本は、自分たちは負けることが分かっているにも関わらず、この 国際法を素直に守り抜き、その一方でアメリカは、この国際法を、ことごとく破って、広島、長 崎に原爆を落として、東京大空襲を行ったのです。 これらの軍人や民間人を問わない無差別攻撃によっ て、何十万人もの人間が死傷するばかりか、被爆によっ て戦後も、多くの日本人が苦しんできました。 しかもアメリカは、もっと早いうちに日本との戦争を 終わらすことも出来た可能性があるにも関わらず、「や っと完成させた核兵器の威力を試してみたい」という理 由と、やがて始まると予想されていたソ連との対立にお い か く いて、 「核兵器によって、ソ連を威嚇しておきたい」と いう理由から、あえて日本が飲むはずのない難しい条件を突きつけて、勝利が確実であった戦争 を、わざと長引かせた可能性さえあります。 その証拠に、核兵器の開発者たちの中には、核兵器を砂漠か無人島に投下すれば、きっと日本 も降伏するだろうと大統領に述べたのに対して、バーンズ国務長官は、大統領に対して次のよう に述べました。 「核兵器は、戦争が終わった後の世界情勢において、アメリカを有利な立場におくでしょう。な ぜなら核兵器の威力を見せ付けることによって、ソ連やその他の国々に、アメリカが譲歩する必 要がなくなるからです。 」 ですから広島と長崎に対する原爆投下は、実は「見せしめ」と「人体実験」の二つの意味を持 っていました。そのために広島、長崎に落とした核兵器は、ウラン型とプルトニウム型であり、 アメリカは、すでに完全に勝利が見えていた戦争において、わざわざ異なる型の核兵器を日本で 試したのです。 つまり当時のアメリカ側の考え方、それは「原爆投下させるまで日本に降伏させるな」という ものであったわけです。 しかし戦争に負けた国は、勝った国の言うことを聞き入れなければなりません。ですから日本 もアメリカの言うことを聞き入れました。そしてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指導の プ ロ パ ガ ン ダ もとに、東京裁判という名の政治宣伝活動によって、 「アメリカは日本に対して東京大空襲を行 い、原爆を二発も落としたけれども、しかしそれは日本が外国を侵略する悪い国だったから、正 義のためには仕方が無かった」という嘘の歴史観が、日本国内のみならず、朝鮮半島や中国、ア メリカ、日本、そして世界にまでバラ蒔かれたのです。 プロパガンダというのは、国家が行う政治的な宣伝のことです。 日本だけが裁かれたのは間違い 東京裁判で、東条英機を始めとする多くの方々が、 「人道に対する罪」 「平和に対する罪」など によって、A級戦犯にさせられておりますが、しかし広島、長崎に対する原爆投下は、紛れも無 く「人道に対する罪」であり、 「平和に対する罪」です。 それに冷戦時代において、アメリカとソ連は、幾度も「人道に対する罪」と「平和に対する罪」 を犯しましたが、 一度もその罪は裁かれてはおりません。それともアメリカがベトナム戦争中に ま ばら撒いた枯葉剤が、人道的に正しい行為とでも言うのでしょうか? 中国は第二次世界大戦後に、なんと十七回も戦争を行ったり、軍事介入をして、チベットやウ イグルを自国の領土にしてしまいましたが、それらは一度も、平和に対する罪、人道に対する罪 を犯していないとでも言うのでしょうか? 地雷という武器は、人間を殺す武器ではなく、人間の手足を奪って障害者にしてしまい、相手 の国の経済を麻痺させて、国を衰退させるという、とても安く造れる非人道的兵器ですが、地雷 全面禁止条約に調印していないのも、ロシア、中国、そしてアメリなどです。そして冷戦時代に たくさんの地雷が世界中に埋められ、今でも20分に一人の人間が、地雷によって足を失ってお りますが、これがどうして、 「平和や人道に対する罪ではない」などと言えるのでしょうか? 本来、裁判というものは、正義がどこにあるのかを追求して、その上で罪を導き出すものであ るというのに、あの東京裁判は、戦勝国によって敗戦国を、一方的に悪と決め付ける不正義の裁 判であったのです。これではただの公開処刑以外の何ものでもありません。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 実はこうしたことと同じことを、東京裁判において、日本側の弁護にあたったアメリカ軍のブ レイクニー少佐という方も言っています。 「我々は原爆投下を計画した参謀長の名前も、その国 の元首の名も承知している。その人たちが裁いている」と。 これはつまり、 「戦争に負けた」という理由だけで、日本だけが裁かれたのは大きな間違いで ある、ということです。 アメリカは自分たちの罪を日本になすりつけた 東京裁判が不正義の名もとに行われたことを証明するその証 人こそ、東京裁判で判事を務められたラダ・ビノード・パール という方です。 パール判事は、東京裁判において、東条英機を始めとする戦 犯の全員無罪を主張しました。 そして彼は、東京裁判について、次のように述べています。 パール判事 要するに彼ら(欧米諸国)は、日本は侵略戦争を行った、ということを歴史にとどめること によって、自分たちのアジア侵略の正当性を誇示しようとしたのだろう。そしてそれと同時に、 日本の一七年間の一切を、罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。 私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を、二年七ヶ月かかって調べた。この中 つづ には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。 その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはず だ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、 「日本は犯罪を犯したのだ」 、 「日本は侵略の暴挙 を敢えてしたのだ」を教えている。 満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していた だきたい。 戦後、アメリカの詩人であるウエン・コーエンという方は、 『ルーズベルト大統領と第二次世 界大戦』という本を読んで、第二次世界大戦の真相を知り、彼は、戦争を仕掛けたのは実はアメ リカであったこと、多くのアメリカ国民がルーズベルトに騙されていること、しかもアメリカが 嘘を突き通すために東京裁判を行って、 無実の日本人まで処刑してしまったこと、これらの真実 す が も を知りました。そして彼は、巣鴨にある刑務所跡を訪れて、次のように詩を書き残したのです。 「ああアメリカよ。汝は法を曲げ、正義を踏みにじった。ジョージ・ワシントン、アブラハム・ よ み リンカーン。今、黄泉の国にて汝らの非道を正す」 冷戦時代が本格化すると、アメリカは東京裁判などどうでも良くなってしまいます。そして判 決が決まっていなかった人々は、実は全員無罪となったのです。その中には、やがて日本の首相 になる岸信介氏もいました。 こうしてアメリカを始めとする戦勝国は、自分たちの中にも実は「悪」の部分が相当あるにも 関わらず、 「東京裁判」というプロパガンダを行うことで、自分たちの「悪」を力でもって、強 引に「正義」にすげ替えたのです。そして敗戦国・日本だけが「悪者」にされてしまったわけで す。 このアメリカの行為はまるで、自分が犯した悪を、弱者を見つけ出して、なすり付けることで 責任逃れをして、誤魔化しているようなものなのです。 焚書を行って狼藉国にされた日本 ふんしょ ふんしょ しかも敗戦後にやってきたGHQは、焚書まで行いました。焚書 と いんぺい は、書物を焼くことによって、思想を弾圧したり、記録を隠蔽するこ とです。そのために、戦前、戦時中に欧米諸国が、フィリピンやビル マを始めとする、アジアやアフリカの国々に対して何を行ったのか、 そして日本がパラオや台湾を始めとする、アジアやアフリカの国々に 対して何を行ったのか、それを日本人や世界の人々によく分からなく させたのです。 いんぺい それは結果的に、 「忠臣蔵」の討ち入りの理由を、隠蔽して、消し去 あこ う ろう し ってしまったようなものなのです。もしも赤穂浪士が、何ら理由なく ろう ぜき くら 討ち入りを果たしのならば、それは「忠臣蔵」ではなく、 「狼藉蔵」と 言えるでしょう。しかし確かに彼らが討ち入りを行うには、彼らなり 日本に降り立つマッカーサー の理由があったのです。ゆえにこそ彼ら赤穂浪士に対して、私たち日 本人は、主君のために忠義に生き、そして死んでいったサムライに、今も賞賛を贈ることがある のです。 しかしアメリカを始めとする戦勝国は、 真実の歴史を埋もれさせ、 日本がアメリカと戦う理由 いんぺい おちい を隠蔽することでもって、日本を狼藉国家に 陥 れたわけです。 しかしGHQのダグラス・マッカーサーでさえも、日本が戦争を行った理由を詳しく知り、そ して日本に同情して次のように述べているのです。 「日本の労働者は、量においても、質においても、私がこれまで知っている中でも最も立派なも のの一つである。しかし彼らは、労働力はあっても、生産の基礎素材を持たない。つまり日本に かいこ は、 蚕 のほかに取りたてていうべき資源は何もないのだ。 だから日本人は、もし原材料供給が断たれ、経済封鎖されたら、一千万から一千二百万人が失 おもむ 業するのではないかと恐れていた。すなわち日本が第二次世界大戦に 赴 いた目的は、そのほと んどが安全保障であった。 」 (1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言) 判事が「歴史を書き変えろ」と訴える もちろん当時の日本人の全てが、当時の国際事情をきちんと把握して、理解していたわけでは ありません。 今も昔も国際情勢にうとい人はいるのです。ですから戦争への召集礼状、つまり通 あかがみ 称、 「赤紙」が届いて、家族や恋人や友人を失った人もいるために、日本人の中にもかつての戦 争を憎み、白人優越思想を持つ欧米諸国ではなく、日本を恨んでいる人もいることでしょう。 「赤 紙一枚で私は大切な人を失った」と、そう涙された方は多いことでしょう。 またその恨みを、昭和天皇にぶつける人も多いようです。しかし当時の日本は、まぎれもなく 身分制度のある封建国家でもなければ、独裁国家でもなく、民主国家でした。ですから内閣や国会 に決めたことに対して、天皇陛下も覆すことはできなかったのです。そのために昭和天皇は、ア メリカとの戦争が始まることを知り、明治天皇と同じ短歌を詠みました。 はらから 「四方の海 みな同胞と 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん 」 このように日本が、明治維新以降、幾度と無く戦争をしながらも、本心では戦争が起こらない平 和な世の中を望んでいたことは、すでに歴史的に明らかなわけです。 しかし「白人こそ優れていて、アメリカが領土を拡大することは、神から与えられた明白な運 命である」などと錯覚していた時代であったことを考えると、戦争を行わずに日本を守り、そし て今の発展と繁栄を得ることはできなかった、ということです。 とくに政治的な知識を持たない人の中には、日本が何ゆえに戦争しなければならないのか、何 ゆえに日本が、インドネシア、パラオ、台湾などのアジア諸国に対して植民地支配を広げていく のか、それを全く理解せず、「昭和天皇の命令によって、日本が勝手に暴走して侵略戦争を行っ た」と、そう思い込み、そして東京裁判をそのまま信じている人さえいたわけです。そして現在 でも、 「侵略国家は日本であり、欧米諸国はその悪の権化である侵略国家を、大人しくさせて、 自分たちの仲間にするために、仕方なしに戦争を行った」と、そう信じている日本人も多いわけ です。 確かにナチス・ドイツは、悪の権化であり、侵略国家でありましたが、しかしその同盟国であ る日本はまったく違ったのです。この複雑な歴史的真実を、私たち日本人は、中国からの危機が 迫る今だからこそ知るべきでしょう。 ですからラダ・ビノード・パール判事は、私たち日本人に次のように述べています。 たいはい 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを、私は平然とし ぎ ま ん て見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は 書き変えなければならない。 (昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演) このように、日本人ではなく、インドの方が、私たち日本人に対して、歪められてしまった歴 史を書き換えろ、とそう訴えているという真実を、私たちは知らねばなりません。 何をもって文明人や野蛮人とみなすべきか たしかにアメリカ大陸に元々住んで居た人々は、科学を持たず、発達した武器もなく、知識も 乏しく、フォークやナイフを使いこなせかったことでしょう。それに対して、新大陸を発見した コロンブスを初めとするアングロサクソン(白人種)は、科学を持ち、発達した武器を持ち、知 識にも溢れて、高い文化・文明を持っていたのかもしれません。 しかもどちらが美男子で、どちらが美女かと言えば、先住民よりも後々、アメリカ大陸に渡っ てきたアングロサクソンたちかもしれません。 また確かに彼らは、キリスト教という素晴らしい宗教を信じていました。 しかし親切で人柄も良く、仲良く幸せに暮らしていたインディアンたちを虐殺し、強盗し、策 略を練り、奴隷にし、領地を略奪し、不幸せのどん底に突き落とし、そしてさらに黒人たちを鞭 で打ち、銃で脅し、船でアフリカから連れ去り、病気になれば海に投げ捨て、焼印を押し、さら には女性であろうとも牛や馬と共に並べて売ったのも、まぎれもなくアングロサクソンです。 ならばこそ、どちらが野蛮人で、どちらが野蛮人ではないのか、その答えは簡単には分からな くなります。西郷隆盛は、 「西洋諸国は野蛮か野蛮ではないか」ということで、人と議論になっ たことがあるそうです。 議論の相手は、 「西洋諸国こそ文明国だ」と言い張り、それに対して西郷は、 「いや、西洋諸国 は野蛮である。文明国であるならば、文明未開の国々に対して、慈愛を持って接し、文明開化に 導くべきであるが、西洋諸国はそうではなく、文明未開の国々に対して、惨いことを行い、残忍 のこと行い、己を利することばかり行っているのだから、やはり野蛮である」と、主張したそう です。すると議論していた相手も納得したそうです。 野蛮か野蛮ではないか、その判断基準が、着ている物とか、使っている道具とか、住んでいる 家とか、目に見える容姿とか、持っている科学技術とか、そうしたものであるのならば、有色人 種こそ野蛮人かもしれません。しかしもしもそうであるならば、災害な どにあった人も、災害にあったその日から野蛮人に落ちた、ということ になります。 しかしそんなわけがありません。野蛮か野蛮でないのか、それを判定 するのは、私たち人間が心の生き物である以上、心であり、精神であり、 魂であり、そしていかなる心を持って、どのように生きていくか、とい うことに他ならないはずです。 つまりもちろん、アングロサクソンこそ野蛮人で、ネグロイド(黒人 種)やモンゴロイド(黄色人種)は皆、優れた人種であるわけではあり ませんが、しかし「アングロサクソンが優れた人種であったわけではな い」 、ということもやはり歴史的真実と言えるでしょう。 西郷隆盛 近代歴史学の父ランケの歴史観は間違っている 「近代歴史学の父」と呼ばれる方に、レオポルト・フォン・ランケという人物がいます。ラン ケは欧米諸国を、 「文明国家」として賛美する一方で、東洋諸国を蔑み、嫌い、 「野蛮国家」とし て位置づけました。 そして世界は未だに欧米諸国がリードしているために、世界のほとんどの国が、このランケの 世界史観に基づいて学んでおります。そのために世界の多くの人々が、科学技術やフォークやナ イフを使いこなしたか、ということによって、野蛮人、文明人を位置づけているのです。 そのためにいつしか、イギリスと中国の間で行われたアヘン戦争も、欧米人たちの間で美化さ れてしまい、 「アヘンは中国人の古来からの風習であり、イギリス人は中国人のその風習をやめ させた」と、そう考える欧米人まで現れる始末です。 そしてかつて日本の帝国大学、つまり現在の東大ですが、この東大に招かれて、世界史の指導 にあたったのは、ドイツのルードヴィッヒ・リースという人物であり、残念ながら彼もこのラン ケの弟子でした。そのためにこの日本も未だに、ランケの世界史観が、深く深く生きているわけ です。 しかし確かに、白人たち欧米諸国は、アジア、アフリカ、オセア ニアに対して、酷いことを行ったのであり、その証人こそ、 「空 飛ぶ法王」の異名を持ったヨハネ・パウロ二世です。 この方は、キリスト教徒の中でも、ユダヤ教やイスラム教の寺院 に招かれて、最初に祈りを捧げたローマ教皇でありますが、彼は地 動説を唱えたために、宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイに ついても謝罪するのみならず、過去のユダヤ人弾圧にカトリック教 会が関係したこと、イスラム教徒に対して十字軍を派遣したこと、 さらにはアメリカ大陸やアジア大陸に対して、かつての宣教師たち が、侵略の手先となっていたことについても、きちんと謝罪して、 キリスト教の二千年の歴史を懺悔して、世界中を飛び回ったのです。 ヨハネ・パウロ二世 この事実を見ても分かるように、ランケの「欧米諸国は優れていて、 アジア・アフリカ諸国は劣っている」という歴史観は、明らかに間違 っているわけであり、 そして彼の歴史観に基づいて歴史を学ぶこと自体が、すでに間違っている、 ということです。 日本人以外が語る日本の真実の姿 ここで、外国の方々が日本に対して述べている真実の言葉を紹介させて頂きます。 「日本はどんな悪い事をしたと言うのでしょうか。 大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月で、シンガポールを かんらく 陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを、彼らは屈服させたのです。 私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思いました。 日本は敗れましたが、しかしイギリス軍は、再びマレーシアを取り返すことができず、やがて マレーシアは独立したのです」 ( マレーシア・ガザリー・シャフィー 元外務大臣) 」 「なぜ日本が謝るのでしょうか? あの大戦で、マレーシア人と同じ小さな体の日本人が、大きな体のイギリス人を追い払ってく れたではないですか。 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。 この日本が払った尊い犠牲を否定することは、バックミラーばかり見て、前を見ないようなも のです。 」 (G・シャフエー〈マレーシア外相〉 ) 「アジアの希望は、植民地体制の粉砕でした。 大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を、日本が代表して行ってくれたものです。 大東亜戦争というものは、本来ならば、私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争 だったと思います。 もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。 大東亜戦争はそういう戦いだったのです」 インドネシア モハメッド・ナチール〈元首相〉 「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1,000人が帰国せずに、 インドネシア軍と共にオランダ軍と戦い、そして独立に貢献してくれたことです。 日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績をたたえて殊勲賞を贈っていますが、それだけですむも のではありません。 」 インドネシア サンパス〈元復員軍人省長官〉 「大東亜戦争の中で、アジア諸国に進駐していった日本の最大の特徴は、アジア各国の青年を教 育し、組織し、そして独立精神を育成した点にあります。その遺産は、戦後も様々な形で生き続 けました。 日本の敗戦は、東南アジアの独立運動に対して、決定的な意味を持っていたのです。それはア ジア各国の独立が、明確な可能性となった、ということです。そしてそれと同時に、欧米諸国の は ば める 植民地支配の復活を、アジア諸国民が自分たちの手で阻めるという可能性が浮かび上がってきた、 ということでもあります。 アジアの人々は、日本による占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力、これらを総 動員して、欧米諸国の植民地支配復活に対抗しました。 そしてイギリス、オランダは、日本による占領下で、アジアの人々の独立要求が、もはや引き 返せないところまで進んでしまったということを、思い知ることになったのです。 」 そせき 「この大戦は、植民地主義に終止符を打ち、 白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石 をおきました。 」 H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者) 「本当に悪いのは、侵略して権力をふるっていた欧米人のほうです。 日本は敗戦しましたが、アジアの解放は実現しました。 その結果、アジア諸民族はそれぞれ独立を達成したのです。 日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ、アジア独立の最高の功労者です。 さげす 自分を 蔑 むことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。 」 (サンティン・アムステルダム市長) アインシュタイは日本を「奇跡の国」と讃えた このように真実の日本の姿を見つめてみると、この日本という国が、みにくいアヒルの子であ るその理由が、よくお分かりになるはずです。 「白人こそ優れた文明人であり、有色人種は皆、劣った野蛮人であり、なおかつ日本は侵略国 家であった」などと考えていたら、日本がみにくいアヒルの子である理由は、永遠に分かりませ ん。しかし日本という国が、実は幾度と無く他国の侵略を退けて、な おかつ人種差別と戦い続けるばかりか、他国に対しては搾取や略奪せ ず、しかもアジア諸外国の発展の手助けを行い、さらにはアジア各国 に独立精神を授け、その手段としての武器まで与え、時には外国が独 立するために命まで掛けた、という真実の歴史を知った時、私たち日 本人は、自分たちの国が、実は驚くほど美しい白鳥であったことを、 知ることができるのです。 こうした日本に対して、天才物理学者・アインシュタインはこう称 しました。 「奇跡の国」と。 たとえば東北地方を津波と地震が襲った際、日本人が誰に言われず とも、きちんと列を作って物品を受け取っている姿を見たり、あるい アインシュタイン は暴動が一度も起こることなく、秩序正しく行動している光景を見て、 世界中の多くの人々が驚きました。これは阪神大震災の時にも言えることです。 フランスのジャーナリストは言います。 「今、世界中の人々が日本に驚いています。それはこ の災害を前に、パニックも起きなければ、略奪も発生していません。それはどうしてなのでしょ うか。 」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ あるいはトロイア遺跡の発見で有名なシュリーマンが、明治の初め頃に日本を訪れた時、彼は 税関の荷物検査を免除してもおうと、役人に幾らかの賄賂を差し出しました。すると当時の日本 ・ ・ ・ の役人は、きっぱりとこう言い切ったそうです。 「日本男児たるもの心づけにつられて、義務を 蔑ろにすることは尊厳にもとる」と。おかげでシュリーマンは、荷物を開けなければなりません でしたが、しかし彼は役人から言いがかりをつけられるどころか、簡単な検査だけで満足しても らったそうです。そしてシュリーマンはこう述べました。 「日本人は大変好意的で親切であり、また彼等の最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも現 金を贈ることである」 その一方で、かつて戦国乱世の時代、武田信玄は敵対関係にあった今川家から、領内に塩を持 ち込むことを封鎖されてしまいました。海の無い武田からすれば、これは死活問題でした。ある きゅうち 程度の貯えがあったものの、それも乏しくなると領民達は窮地に追い込まれました。その話を聞 し れ つ か い え ち ご いた上杉謙信は、武田信玄とは熾烈な闘いを何度も繰り広げて、 「甲斐の虎」 「越後の龍」と呼ば れ、戦国史上最大のライバル関係にあったにも関わらず、武田信玄に次の様な手紙を送りました。 「闘いは弓矢でするものであり、米や塩でするものにあらず。正面から闘う事ができないといっ て塩を差し止めるとは卑怯千万な行為。武士の恥。我は何度でも運を天に任せて貴方と闘い、決 着を着けようと思っている。宿敵とは全力で闘いたい故に、必要な分だけ塩をなんとしても送り 届けましょう」 上杉謙信も武田信玄も、決して慣れ合いをしたのではなく、生死をかけて戦をしていたのです。 ほまれ しかしこの国には、 「塩を贈ることを 誉 れとする心」があったのです。 今では失われつつありますが、確かにこの国にはかつて、 「見知らぬ者から現金を受け取るこ ラ イ バ ル とを恥とし、好敵手に塩を贈ることを誉れとする心」があったのです。義に生きることを美徳と し、卑怯に生きることを恥とする国民性が、たしかにこの国にはあったのです。それは言葉を変 えれば、私たち日本人にとって当たり前のことが、世界の人々からすれば、決して当たり前では なかった、という驚愕の真実があるということです。 ゆえにこそ、この国は、外国の方々から「奇跡の国」と褒め称えられたのです。ならば大震災 が起こり、中国からの侵略が迫りつつある今だからこそ、私たち日本人は自分たちの国に対して、 誇りを取り戻し、そして自分の国に対して、夢と希望を描くべきではないでしょうか。 かつての武士道精神とは人並み外れた公の心 では、何ゆえにこの国は、天才物理学者から「奇跡の国」と褒め称えられるまでの国と成り得 もののふ たのかと言えば、それは紛れもなく、この国を築き上げてきた人々の中に、武士道精神とも、武士 の心とも言えるものがあったからでしょう。 そしてそれは、新渡戸稲造という方が明らかにしたように、この国において、武士道教育が行 われていたからに他なりません。 ではその武士道教育とは、果たしてどのようにして生まれて、誰が築き上げたものなのでしょ うか。 この答えを追求するにあたり、かつてのサムライたちは、 「どのようにしてサムライに成り得 たのか?」 、これを考えると共に、 「人間とは果たして何なのか?」ということをも考えることが 大切でしょう。 彼らサムライたちは、外国に日本を侵略させないために戦い、そして彼らの多くのが年若くし て、新たな世を見ることなく、まるで桜の花びらの ごとく散っていきました。 とどろ それは当然ながら、自分の名を後世に 轟 かして、 銅像が建てられたかったからなどではありません。 そんなつまらない自己顕示欲などではなく、彼らは 手柄が欲しかったのでもなく、 「愛する日本を護り、 そして新たな素晴らしい時代を築きたかった」ので す。 この国を築いた先人たちが、もしも私心のみで生 きて、自分一人だけの幸せを考えていたら、きっと 日本は大きく変わっていたことでしょうが、しかし彼らは、じっと座していられなかったのです。 では、なにゆえに彼らは、じっと座していることができず、現代の日本人とは異なる生き方 ができたのでしょうか。 それは、坂本竜馬が常々、 「私情を挟まずに天下国家を第一に考えろ」と人々に語っていたよ うに、彼らは国家とか、時代とか、平和とか、そうした公に対して熱かったたからです。そのた めに彼らサムライは、じっと座していられなかったのです。 つまり彼らは「個」に対して熱く生きたのではなく、 「公」に対して熱く生きたのです。 なぜならそれが武士道精神だからです。武士道精神とは、刀を振り回すことではなく、町民や 農民といった当時の弱者に威張り散らすのでもなく、公のためならば死をも恐れずに命さえ捨て 去る、そんな人並み外れた公の心に他ならないのです。 かつてのサムライたちは神や天を信じていた では、かつてのサムライたちは、何ゆえにそのような武士道精神を持つことができたのでしょ うか。 黒舟密航が失敗に終わった吉田松陰は、下田にある牢において、人々から酷い扱いを受けまし た。 「恥知らず、愚か者」と、唾を吐きかけられ、石を投げつけられたの です。そこで笑えば、ただの悪漢になってしまいますし、牢の中から誤 解を解こうにも解くことはできないので、彼はじっと静かに黙って耐え ていたと言います。そして彼は、次の句を詠んでいます。 しず 「世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が誠は神ぞ知るらん」 つまり「私が正しいという事を、 神は知っておられるのだから、世 間の人は何とでも言えばいい」 、そう松蔭は詠んだのです。 あるいは吉田松陰は、こんな言葉も遺しています。 あま てらす あ あ 「天 照 豈に霊なからんや。先公豈に神なからんや。 」 あまてらすおおみかみ つまり吉田松陰は、 「天 照 大 神 の霊が無いはずもなく、天照大神は今 も霊として必ず存在している。これまでこの日本を築き上げてきた先人 たちが、神として存在していないはずもなく、彼らは八百万の神々とし て、今も必ず存在している」 そして彼は、さらにこう言葉を続けています。 くじ 「私の心が未熟であるために、八百万の神々はしばらく私に苦しみを与えて、私の志を挫ことう するのだろう。しかしたとえこの天下に、一人も私を信じてくれる者がいなかったとしても、そ くじ れは私にとって、少しも心を動かすものではなく、私の志が挫けるはずもない。ただしかし、天 照大神を始めとする八百万の神々に見捨てられたら、私にとってそれは耐えられることではな い」 また坂本竜馬も、 「日本を今一度、洗濯いたし申し候 事にいたすべくとの神願にて候」と姉 への手紙で書いています。つまり「日本を今一度洗濯する事こそが、神の願いである」 、そう竜 馬は手紙に書いたのです。 西郷隆盛にしても、 「敬天愛人」という信条を持っていました。 「敬天愛人」とは、 「天を敬い、 人を愛す」という意味であり、そして彼は「人を相手とせず天を相手にせよ。天を相手として己 とが たず のこ を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉を遺しております。つまり 彼は、 「私たち人間の相手は、他の人々ではなく常に天であり、誰か他人の欠点を責めさいなむ のではなく、常に自分の心の至らなさを悔い改めていくことが大切である」 、そう考えていたわ けです。 あるいは第二次世界大戦の時のサムライたちは、 「靖国の桜の木の下で再会しよう」と約束し て、戦地に旅立っていきましたが、そこにもやはり「霊」というものを信じる考え方がありまし た。 つまりかつてのサムライたちは、実は「神」や「天」や「霊」といったものを信じていた上で、 自分たちの人生観を築き上げていたわけです。そしてそうした「神」や「天」や「霊」といった 神秘的なものを信じたからこそ、彼らの心の中に、人並み外れた公の心が生み出されることで、 すさ 彼らは凄まじいまでの勇ましい人生を生き抜いていったわけです。 人はオオカミになりかねない では彼らサムライたちは、 「神」とか、 「天」とか、 「霊」について、果たしてどこで学んでき たのでしょうか。それはもちろん武士道教育でしょうが、ではこの国に広く広まり、深く根付い ていた武士道教育とは、誰が、いつ、どこで、どのように生み出したのでしょうか。 い か そうしたことを考えると、 「人間とは果たして如何なる存在か?」という本質的な問題を、追 及していかなければなりません。 たとえば、かつてインドに、アマラとカマラという少女がいました。彼女たちはオオカミに拾 われて育てられたために、5、6歳で人間に保護され た時、二足歩行ができずに四足で歩き、言葉が話せな いどころか遠吠えをし、手を使わずに口で直接、物を 食べました。 悲しいことに、実はこれが私たち人間の現実なので す。人は赤子として何も知らずに泣きながら生まれて 来るために、誰かから教わらなければ、物事の善悪ど ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ころか、「自分が人間である」という事実さえ分から オオカミに育てられた少女 ず、時にオオカミのようになってしまうことさえある のです。 シェイクスピアは『リア王』という作品の中で言います。 「人は泣きながら生まれてきた」と。 赤子があげるあの断末魔にも似た産声は、この地上に誕生したことを喜んで泣いているのではな く、むしろこの苦しみや悲しみが満ち満ちた人生という名の球形の舞台に、むりやりに頭から上 きょうがく げられて、これから始まる人生が恐ろしくて、不安で、驚 愕 して泣いているのだと、そうした ことをシェイクスピアは述べました。 そうです。人は泣きながら何も知らずにこの地上に生まれてくるのです。 宗教とは人間教育と文化文明の原点であり武士道教育は宗教教育 では、そんなオオカミにさえなりかねない私たち人間に、 「自分は人間である」ということだ けではなく、物事の善悪を教え、人として成長させてくれるものが何かと言えば、それは「教育」 です。武士道教育によって武士道精神が育まれてきたように、教育というものが、私たち人間を 育て、時にはサムライをも世に生み出していくことは間違いありません。 しかし科学の本には、核爆弾の作り方が書かれてあっても、その善悪までは書かれてはいませ ん。国語は、その国の言葉を教える教育であり、数学も数字の学問でありますが、善悪まではや はり教えません。 誰もが赤子として何も知らずに生まれてきた私たち人間でありますから、学校の先生や両親な どから物事の善悪を学んで、私たちは人として成長していくわけですが、しかしその先生や両親 も、もとをたどれば、赤子として何も知らずに生まれてきた、オオカミにさえ成りかねない人間 であります。 ですからこうしてずっと時代をさかのぼっていくと、実は必ずヨーロッパであればキリスト教、 そしてアジアでは仏教にたどり着くのです。 つまり「教育」の中でも、物事の善悪を教え、人として成長させ、人生に必ず訪れる様々な苦 しみや悲しみを乗り越えさせてくれる心の教育こそ、実は「宗教」というものなのです。 確かに道徳というものも、 「人を殺してはならない」 、 「盗みを働いてはならない」 、 「嘘をつい てはならない」 、あるいは「自殺してはならない」と、こうした善悪を、私たち人間に教えてく れる大切な教育の一つです。 ですからもちろん、 「道徳」も馬鹿にはできませんが、しかし宗教とは、 「なぜ人が人を殺して はならないのか」 、 「なぜ人は盗みを働いてはならないのか」 、 「なぜ人は嘘をついてはならないの か」 、そして「なぜ人は自殺してはならないのか」と、この「なぜ」の部分まで教えてくれるの です。 あるいは道徳でも、 「公の心を持って、世のため、人のため、天下国家のために生きることは 正しいことです」と、そう教えることはありますが、しかし宗教の場合は、 「なぜ公の心を持っ て生きることが正しい生き方であるのか?」というところまで教えてくれるのです。 また、 「経験」というものも、確かに私たち人間を成長させてくれる大切な教育ではあります ・ ・ ・ が、しかし「経験」はあまりにも授業料が高すぎることさえあるために、何も自分から積極的に 学ぶことなく経験だけに頼って生きると、時には泣きながら始まった人生を、泣きながら歩んで しまうことさえもあるのです。 しかもその道徳も、歴史の真相を明らかにすれば、ゼロから私たち人間が作り出したのでは実 はなく、オオカミなりかねない私たち人間が、宗教から善悪を学ぶことによって築き上げたもの なのです。ですから真実の歴史を述べるのならば、道徳も、法律も、倫理も、実は全ては宗教か ら生まれてきました。 そして宗教から道徳や法律が生まれて、世の中にある程度の秩序が出来上がり、人々の暮らし が安定することによって、やがて国語や数学といった他の学問も生み出されてきました。そして 国語や数学といった学問が生まれることで、やがて科学も発展してきたのです。 もちろん言うまでもなく、その科学の発展が、人々の移動手段を便利にし、大量生産を可能に し、通信手段を向上させることで、これまで経済は発展してきました。 こうして人類は、 「文化」というものを創造し、そして時代が流れることで、次第に「文明」 というものを興隆させてきました。 ですから宗教が存在せずに築かれた国などないのです。それは欧米諸国もそうですし、アフリ カもそうですし、もちろんアジア諸国もそうです。 すなわち宗教が元になって、他の様々な学問は生まれてきたわけですから、実は宗教とは人間 教育の原点であり、文化文明の原点であり、そして国家の柱であるのです。 これが私たち人類の歴史の真相なのです。 宗教の恩恵に預からない人はいない 宗教が人間教育と文化文明の原点であるために、 「ヨーロッパに生きる人で、キリスト教の影響、ある いは恩恵を受けていない人はおりませんし、このアジ アに生きる人で、仏教の影響、あるいは恩恵を受けて いない人は実はいない」 、というのが歴史的真実です。 そのために私たち人間は、たとえその人が、宗教の ことが好きであろうが嫌いであろうが、それを問わず、 誰であろうとも知らず知らずのうちに、宗教から何ら かのカタチで恩恵を受けていて、何かを学んでいる、 水を汲みに来た女性に説法するイエス という歴史的真実があるのです。 ですから、 「貴方が今、知っている物事の善悪は、一体どこから来たのですか?」と訊ねられ て、その人がオオカミとして生活しているのならばまだしも、その人が人間として、あるいは文 明人として、普通の生活を営んでいるのであるならば、 「その者が正しい宗教の名を口にしない」 ・ ・ ・ ということは、実は絶対に不可能なことなのです。 つまり日本人は皆、知らぬ間に何らかのカタチで宗教と関わっている、ということです。 天皇は宗教家であり、日本の権威であった そして実は、この日本ほど宗教と馴染みの深い国など、世界のどこを探しても存在していない のです。なぜならこの日本がある東アジアには、インドで生まれた仏教のみならず、中国で生ま れた儒教もあるために、東アジアに生きる私たちは、知らぬ間に儒教の影響と恩恵も相当受けて いるからです。 さらにこの日本という国には、神道という日本独自の宗教もありますから、日本人はさらに神 道からの影響と恩恵をも、実は相当受けていることになります。 こうして見ると、この「日本」と呼ばれる国が、実はとても“宗教的な高み”を持っている国 であることが、自然と明らかになるはずです。 日本には八万社もの神社がありますが、これはコンビニの2倍であり、2700年の日本の歴 史の中で、常に権威を持ってこの国を支えてきた「天皇」と呼ばれる存在は、キリスト教でいえ ばローマ法王のような存在です。つまり天皇陛下はまぎれもなく「宗教家」なわけです。 ですから日本の皇室とイギリスの王室は、少し似ている部分があるために、これらを同じに考 えている人もおりますが、しかしそれは大きな誤解です。皇室と王室は、実は意味合いが大きく 異なり、百億ドルもの資産を持つイギリスの王室は、 どちらかと言えば歴史にたくさんある王朝や徳川家 に近く、日本の皇室はローマ法王にこそ近いのです。 実際に今でも天皇陛下は、一年365日、欠かすこ となく宗教儀式を執り行っておりますし、これは第二 次対戦中でも、一度も途絶えることなく続けられてき ました。 そしてこの国は、この天皇という存在が権威を持ち 続けることで、権力者たちの暴走を止めて、独裁者の 日本神道の儀式 出現を阻んできた面が、実は相当あるのです。この国に おいて権力は、織田信長とか、豊臣秀吉とか、徳川家康とか、あるいは、源頼朝とか、伊藤博文 てんかびと とか、そうしたいわゆる天下人、政治家にありました。 てんかびと そして天下人や政治家は、時代の移り変わりと共に絶えず変わってきましたが、しかし権威は 常に宗教家である天皇陛下にあったのです。つまりこの国は、世界でもとても稀な国なのですが、 権力と権威が二つに分かれて、国を築き上げ、歴史を刻んできたわけです。 源頼朝も、足利尊氏も、徳川家康も、たとえ天下人に成ろうとも、皇室を潰そうとはしません ・ ・ ・ ・ ・ ・ でした。それはあくまでも、戦国大名が目指したのは、天皇陛下から征夷大将軍に任命されて、 幕府を開くことであったからです。 しかし天下人となった織田信長は、彼の中に独裁性があると共に、なおかつ天皇の存在を軽ん じていたことも、明智光秀の謀反を招いた理由の一つであったと言われております。なぜなら彼 が、天皇を超えた存在になろうとしていたのではないかと、そう思われる言動を幾つか行ってい るからです。 あるいは江戸末期において、江戸幕府を倒して明治維新を起こそうとす にしき み は た にしき み は た ちょう てき る倒幕勢力は、 錦 の御旗を掲げました。 錦 の御旗というのは、 朝 敵、つ まり天皇に敵対する勢力を、討伐する時に掲げる軍旗のことです。倒幕勢 力が錦の御旗を掲げると、今度は幕府側が朝敵となってしまったために、 よしのぶ 将軍・徳川慶喜は、倒幕勢力と戦わずに江戸に帰ってしまいました。こう して明治維新は起こりました。 もしくはイラク戦争において、たとえフセインがアメリカに捕まっても、 各地で争いが続きましたが、しかし第二次世界大戦において、たとえ日本 各地には、まだ敗戦に納得がいかないサムライが大勢いようとも、しかし 天皇陛下が「戦争は終わり」と言うと、日本は一瞬にして戦争状態を終え 錦の御旗 ました。 さらに第二次世界大戦後、日本が初めて軍事占領を許したGHQでさえも、天皇の権威を奪う ことはできませんでした。なぜならそれを行ったら、日本が崩壊していくと、彼らも考えたから です。 と 時代によっては天皇陛下が直接、政治を執り行うことで、宗教と政治が一つとなり、権威と権 力が完全に一体となったこともありましたが、とにかく一つ言えること、それは「天皇は宗教家 であり、そして常にこの国の権威であった」ということです。 バチカンを大きくし、様々な宗教によって築かれた日が昇る国 し いわ じゅきょう 初詣に行けば八百万の神々に対して柏手を打ち、学校では「子曰く」と儒 教 の論語を習い、 クリスマスには家族や恋人とイエス・キリストの誕生日に盛り上がり、死んで葬式を迎えると戒 名をもらって、あの世で仏陀の弟子になる、こうしたことからも分かるように、この日本ほど宗 教的に特質した国は、世界のどこを見渡しても存在しないのです。 「バチカン」という世界でも最も小さい国、あのキリスト教国家を、竜の落とし子のようなカ タチにして、大きくして、そして神道、儒教、仏教といった数多くの宗教によって築かれ、さら うま にはキリスト教をも受け入れてきた奇跡の美し国、それがこの日本なわけです。 ですから一つ視点を変えてこの国の人々を眺めてみると、 「本当に日本人の中で、無宗教で、 無信仰な日本人がどれだけいるのだろうか」と、そう疑問を持つことさえもできるわけです。な ぜなら私たち人間は、誰もが何も知らずに泣きながら生まれてくるために、宗教が無ければ、人 間として生きていくことなどず、しかもこの日本ほどの宗教国家も他に存在していないからです。 まれ そして多くの日本人が忘れていることですが、日本は世界でも稀な宗教国家であるがゆえに、 かつてこの国の精神性・国民性が、世界の他の国々と比較しても、かなり高かったのです。 そのためにこの国は、幾度と無く外国の侵略を退け、なおかつ人種差別と戦い、他国に対して は搾取略奪をせず、しかもアジア諸外国の発展の手助け を行い、さらにはアジア各国に独立精神と武器まで与え、 時には命を賭して外国のために戦ったのです。 宗教が、人間教育と文化文明の原点であり、そしてこ の日本が、世界でも稀にみる宗教国家であるがために、 この国はアインシュタインから「奇跡の国」と褒め称え られたのです。 やまとたけるのみこと 『古事記』という日本神道の書物の中で、日 本 武 尊 が、 や ま と ま ほ 「大和の国は真秀ろば」と称しているように、この国は たしかに世界に誇れる宗教国家であるのです。 人間味溢れた神話に彩られる日本神道という宗教 たかまがはら では、日本の中心的な宗教である神道とは、如何なる宗教かと言えば、神道は高天原 に生き さいし る八百万の神々を祭祀する宗教です。そして神道を今に伝えてきた『古事記』や『日本書紀』に あまてらすおおみかみ は、 天 照 大 神 という女性を始めとする、人間味溢れた神々の物語、神話がたくさん描かれて います。 て ん ち かいびゃく あ め の み な かぬ し の みこ と さんちゅう 日本神話では、まず天地 開 闢 から始まり、天御之中主之命 を始めとする 三 柱 がまず現れ、 いざなぎのみこと いざなみのみこと あまてらすおおみかみ すさのおのみこと そして伊邪那岐尊と伊邪那美尊という夫婦から、 天 照 大 神 と素戔嗚尊の二柱が生まれます。 いっちゅう にちゅう 神道では神々を「一人、二人」とは数えず、 「一 柱 、二柱 」と数えます。 すさのおのみこと いざなぎのみこと 素戔嗚尊は、父親の伊邪那岐尊から海を統治するように言われるのですが、父親の言うこと こくがくいんだいがく も て ぎ さだすみ を聞かずに母親に会いたいと泣きわめきく始末でした。國學 院大學 助教授、茂木 貞純氏によれ すさのおのみこと すさ ば、素戔嗚尊の「スサ」とは、力が強く勢いが盛んな様子を意味しており、 「荒びあらぶれる」 すさ とか、 「凄 まじい」とか、こうした言葉の語源になっているそうです。 すさのおのみこと あらがみ ですから素戔嗚尊は荒神でした。 あまてらすおおみかみ そのために、優しく我慢強い姉の天 照 大 神 であったのですが、し たかまがはら ろうぜき かし神々の住む高天原において、あまりにも弟の狼藉ぶりが酷いため あまてらすおおみかみ あま いわと に、最後に 天 照 大 神 は「天の岩戸」の中に隠れてしまったのです。 神道では、太陽神が姿を消してしまったことで、世界は闇に包まれ、 今も残る天の岩戸 様々な災害が起こったと伝えられております。 おもいかねのかみ これに困った神々が相談して、 思 兼 神 が一計を練りました。まず あめのうずめのかみ あらわ 鏡と玉が作られ、岩戸の前に掲げられました。そして続いて、天宇受売神という女性神が肌も 露 に踊ると、他の神々が一斉に笑い出したのです。 いわと あまてらすおおみかみ どんなに説得しても岩戸を開けない天 照 大 神 でしたが、しかし笑い声が気になり、少しだ け岩戸の中から外を覗いてみました。すると岩戸の外では眩しいほどの光が輝いていました。そ あめのたぢからおのかみ あまてらすおおみかみ の隙に天 手 力男 神が、一気に岩戸を開いて、天 照 大 神 を連れ出したのです。 天照大神が見た眩いほどの光とは、鏡に映った自分の姿でした。 すさのおのみこと やまた のおろち 一方の素戔嗚尊は、頭が八つ、尾も八つあり、次々と人間を襲う八岐大蛇 という怪物が出る く し な だ ひ め 根の国・出雲を訪れました。そして櫛名田比売神を貰い受ける変わりに、その怪物を退治しまし つるぎ すさのおのみこと あまてらすおおみかみ た。その怪物の体の中から やまとたけるのみこと 剣 が出てきて、素戔嗚尊はこの剣を天 照 大 神 に献上しました。 そしてこの剣は、やがて 日 本 武 尊 が、天皇家と敵対する豪族と戦った時に用いたと伝えら な くさなぎ つるぎ れ、野原で火に囲まれた時に、草を薙ぎ払って九死に一生を得たことから、 「草薙の 剣 」と呼 ばれるようになります。 さんしゅ じんぎ そしてこの草薙の剣と、岩戸隠れの際に作られた鏡と玉と合わせて、これらは「三種 の神器 」 みかがみ みたま と呼ばれ、草薙の剣は熱田神宮に、御鏡は伊勢神宮に、御玉 は皇居に今も安置されています。 これが戦前の学校などでも教えられていたために、戦前 の日本人ならば誰もが知っていた、 「天の岩戸隠れの物語」 やまた のおろち であり、 「八岐大蛇の物語」です。 おもいかねのかみ あめのうずめのかみ 思あめのたぢからおのかみ 兼 神 は知恵の神として、天宇受売神は芸能の神とし て、天 手 力男 神 は力の神として、今もそれぞれの神社に すさのおのみこと 祀られていますし、 素戔嗚尊は全国の八坂神社や氷川神社、 あまてらすおおみかみ あまてらすおおみかみ 天 照 大 神 は伊勢神宮に祀られ、そして皇室は天 照 大 神 の子孫として伝えられているのです。 ほうぎょ 昭和天皇が崩御された時も、実はその僅か三時間後には、 しょうけい ぎ 三種の神器を引き継ぐ「承 継 の儀」が執り行われました。 なぜなら三種の神器を引き継いでいることこそが、天照大神の子孫である証であるからです。 このように、神道という日本の中心的な宗教は、ギリシャ神話に負けるとも劣らない人間味溢 れる神話の数々で彩られていて、そして二千六百年もの長きに渡って伝えられてきたわけです。 日本は祭政一致で歴史を歩んできた このように日本の歴史を振り返ればお分かりになるように、かつてのサムライたちが、天皇と い ふ いう宗教家に対して、絶大な権威を感じ取り、畏怖さえしていたことは事実です。それは「サム ライ」という言葉を見ても明らかです。 「サムライ」の語源は、 「さぶらう」であり、この「さぶらう」とは、 「もらう」に接続語の「さ」 がついて、やがて「さむらい」へと変形していったそうです。では、 「もらう」とは何かと言え も ば、 「守らう」 、 「守る(護る) 」という意味であります。 すなわち「侍」という言葉は、 「貴人のそば近くで護る人」という意味から生まれてきたそう です。 では、かつてこの国において、 「貴人」と呼ばれ、サムライに守られていた人々とは誰かと言 えば、それは商人でもなければ農民でもなく、もちろん武士自身でもなく、身分高い大名も多少 は含まれますが、宗教家であるところの天皇陛下を始めとする皇室です。 このようにこの日本において、権威は天皇にあり、権力 は天下人にあり、そしてこの「天皇」という存在は、天下 人に対して絶大な影響力を持っていたのです。すなわちこ の日本においては、政治と宗教は常に密接な関係にあり、 さいせい い っ ち 日本は常に「祭政一致」であった、ということです。 まつ まつりごと それは 「政治」 のという漢字が、 「祀る」 を意味する 「 政 」 おさ と、「治める」という二文字から成り立っている事実から 見ても歴然です。 この「天皇」と「天下人」 、 「権威」と「権力」 、 「宗教」 やおよろず かみがみ と「政治」の関係、つまり祭政一致体制は、八百万の神々 あまてらすおおみかみ す さ の お みこと か み よ の主祭神とされている天 照 大 神 と、その弟の須佐之男 命 の時代、いわゆる「神代の時代」か ら続いているのかもしれません。 武士道教育も結局は宗教教育 宗教が人間教育の原点であることを考えると、 「この国を築き上げ、護り抜き、栄えさせてき た武士道教育も、結局は宗教教育であった」ということが明らかになります。 それは明治維新の志士、あるいは大東亜戦争の軍人、こうしたサムライたちの言葉と行動を、 事細かに見ればお分かりなるはずです。 えいれい いや、サムライたちが、 「英霊」として、 「神」として、神社という宗教施設に祀られている も さ 事実を見れば、サムライとは宗教教育を受けた猛者たちのことであり、武士道教育が宗教教育で あった真実が、誰でもお分かりになるはずです。 死を覚悟して黒船に密航する勇ましさ、時代の夜明けを夢見て、たとえドブの中でも前のめり で死んでいこうとする志、日本を護り抜くために命を賭して敵艦に特攻する潔さ、これらに共通 ふと うふく つ しているものは、紛れもなく「天下国家のためならば命さえも投げ出す不撓不屈の精神」に他な りませんが、そんな精神は、何らかの宗教を信じる信仰者でなければ持てないのです。 いや、むしろどうして宗教から学ばずして、死の恐怖を完全に克服し切ることができるという のでしょうか。 「何も知らずに生まれてきて、オオカミにさえなりかねない私たち人間が、何も学ばずにただ日 本列島で長らく生きていたら、 知らぬ間に武士道精神が生み出されて、いつしか日本の男たちは、 死をも恐れぬ世界で最も勇ましいサムライになっていた」と、そう考える人もいるかもしれませ んが、しかし真実はそうではないのです。 なぜなら日本列島以外にも、二千六百年間、人間が生きていた土地は他にもたくさんあります が、それらの土地に武士道精神はなく、またサムライもいなかったからです。真実の歴史は、宗 教から日本列島に武士道が生まれて、そして日本人の胸に武士道精神が生み出されて、大東亜戦 争においてアジアにサムライたちが散っていくことで、そのサムライ精神が、アジア各国に広ま っていったのです。 このように、かつての日本人に宿っていた武士道精神、それはまぎれもなく宗教精神だったの です。 奇跡によって奇跡の日出る国は築かれた では、サムライたちは、果たして如何なる宗教を信じていたのでしょうか? 神道でしょうか、儒教でしょうか、仏教でしょうか、それともキリスト教でしょうか。 実は神道には、心の教えに相当するものが、ほとんどありません。神道のバイブル、 『古事記』 や『日本書紀』には、天照大神を始とする八百万の神々の物語、神話はたくさんあるものの、実 は教義にあたるものは、何も書かれていないのです。 現在の宗教法人法では、 「宗教には教祖と教義と儀式が必要である」と、そう定められていま すが、しかし神道には儀式しかなく、教祖も分からなければ、教義、教えもありません。家に譬 えるならば、神道は柱と屋根だけしかないのです。そのために実は神道という宗教は、現在の宗 教法人法の対象となるような宗教ではないのです。 神道の教えの部分を埋めていたのが、仏教や儒教です。 しかし仏教は、自らの心を築き上げることに重点をおいているために、あまり政治には向いて はなく、戦いにも不向きです。実際に13世紀にイスラム教徒がインドにやって来て、仏教の寺 院を壊し、僧侶を殺してしまいますが、仏教徒たちは成すすべもなく滅ぼされてしまいました。 そのために仏教の発祥の地であるインドには、もうあまり仏教徒は残っておりません。またチベ ット僧侶たちも、焼身自殺という手段でもって、中国政府に抵抗を続けつつも、やはり彼らが戦 いには不向きであることは誰でも予想がつきます。 「天下国家のために生きる」という政治的傾向が強いのは、やはり中国の孔子によって生まれ た儒教です。実際に仏陀やイエスと共に世界四大聖人に名を連ねる、儒教の祖と言われる孔子自 身が、時には身を守るために武器を持って戦うこともありました。 かいりょく らん しん しかし儒教は、 「子、怪 力 乱神を語らず」とあり、孔子という方は、 「天」や「霊」の存在に ついては認めつつも、霊とか、生まれ変わりについては語りませんでし た。 くすのき まさしげ しちしょうほうこく しかし楠木正成というサムライは、 「七 生 報国」といって、 「たとえ死 のうとも、七度生まれ変わって国に報いる」という考え方を後世に遺し ました。この言葉は、明治維新の時も、アメリカとの戦争の時も、日本 のサムライたちの間で、幾度と無く使われてきました。 しちしょうほうこく 「七 生 報国」 、この考え方こそ、かつてのサムライ精神の真髄であっ たのです。 楠木正成 しかし「霊」や「生まれ変わり」について説かない儒教からは、この 「七生報国」 の思想は生まれて来ません。やはりこの七生報国の考え方が生まれてくるためには、 てんしょう り ん ね 仏教の転 生 輪廻、つまり生まれ変わりの思想が必要不可欠なのです。 つまり、 「日本のサムライたちは何の宗教を信じていたのか」 、ということを追求していくと、 「仏教だけでも、儒教だけでも、七生報国の思想も、サムライ精神も生まれてこない」というこ とが明らかになるわけです。いや、むしろ、 「仏教と儒教が組み合わさることで、七生報国の思 想やサムライ精神が生み出されてきた」 、ということが容易に予想できます。 では、仏教と儒教があれば、七生報国の思想やサムライ精神が生まれて、死を恐れぬサムライ たちが、次々と世に現れてくるのかと言えば、そうとも言えなさそうです。 なぜなら、これらの宗教は、どちらも中国から日本に伝わってきていますが、しかし中国には 七生報国の思想も、武士道精神も広まっていないからです。 こうしたことを考えると、仏教と儒教が融合されるにあたって、 「和」というものを重んじる 神道が、何らかの貢献を果たしていたことが、大いに予想されます。 つまり、日本建国の源流にある神道と、日本に伝えられた仏教と儒教、これら三つの宗教が、 この「太陽が昇る国」と云われる日本列島で、奇跡的に組み合わさることによって、いつしか仏 教でもなければ、神道でもなければ、儒教でもなく、それでいて仏教であり、神道であり、儒教 でもある武士度教育が生まれてきた可能性が確かにあるわけです。 その一つの証拠に、儒教の陽明学には、 「殺身成仁」 、 「己の身を殺してでも仁を成す」という 考え方があります。しかし「殺身成仁」で述べられているこの「身を殺す」とは、必ずしも「命 を絶つ」という意味ではなく、 「たとえ自分に苦しみが降りかかろうとも、仁を成し遂げる」 、と いった程度の捉え方だそうです。 しかしこの国では、神道と儒教と仏教が奇跡的に合わさることによって、いつしか「殺身成仁」 ・ ならぬ、 「殺命成仁」となった感があります。 もののふ そのために日本の歴史の中には、 「武士とは死ぬことと見つけたり」と、つまり「武士道の真 はがく 髄とは公のために死ぬことである」と、そう述べた人さえおりました。いわゆる「葉隠れ」です。 つまりこういうことです。和を尊みつつも、教えそのものが無い神道、生まれ変わりを信じ、 死を恐れない仏教、天下国家のために仁を成すことを大切にする儒教、 これらの宗教が組み合わ ふきゅう たいぎょう さったからこそ、 「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。生きて 大 業 の見込みあらば いつまでも生くべし」といった、世界でも稀にみる精神が生まれてきた可能性があるわけです。 つまり仏教、儒教、神道、これらの三つの宗教が、この国において奇跡的に融合することによ もののふ って、武士の心・武士道精神は生まれてきたのです。 かげ ひ そして世界でも最も勇ましいサムライたちと、そしてその男たちを、陰日なたで支える世界で ひ い 最も美しき大和撫子たちによって、この日出ずる奇跡の国は築かれてきたわけです。 新渡戸氏が武士道の本質を見抜けなかった理由 ですから新渡戸稲造は、外国の教授から、 「宗教教育無しで、どうして人々に道徳を授けるこ とができるのですか?日本人は何を基準に物事の善悪を学んでいるのですか?」と、そう訊ねら れて、自分たち日本人がどのようにして道徳を得て、何に基づいて物事の善悪を学んでいるのか を考えて、やがて「日本人には武士道教育がある」ということに気が付き、 『武士道』という書 物を世に著しましたが、しかし結局においてその武士道教育も、仏教、儒教、神道といった日本 に深く根付いていた宗教が、奇跡的に組み合わさることで生まれた宗教教育であったわけです。 「仏教、儒教、神道、これらの宗教が組み合わさることで武士道が生まれた」 、この奇跡的真 実を新渡戸稲造が見抜けなかったのは、おそらく彼自身がクリスチャンであったために、仏教、 儒教、神道といった宗教に対する評価が、それほど高くなかったからでしょう。 信仰心ほど大切なものは実はない 宗教には、必ず神や仏が存在しております。そして神や仏を信じる心、そして神や仏に、自ら こうべ あお たてまつる しんこう しん が 頭 を垂れて、へりくだり仰ぎ 奉 る心、こうした心のことを「信仰心」と呼びます。ですか ら信仰心とは、私たち人間にとって実はとても大切な存在です。 なぜなら何も知らずに生まれて、オオカミにさえなりかねない私たち人間が、宗教から大切な ことを学び続けていくためには、その宗教の中で説かれている神仏への信仰というものが、必要 不可欠だからです。神仏への信仰が無ければ、キリスト教であろうが、イスラム教であろうが、 あるいは仏教であろうが、どこかの宗教において、絶えずその教えを学び続けていくことなど、 出来るわけもないのです。 つまり「宗教」というものは、その宗教に集っている人々の信仰心に よって成立している、とも言えるわけです。 ですからもしも、何らかの宗教に集っている人々の信仰心が無くなれ ば、その宗教は地上から姿を消してしまうと言えるでしょう。実際にマ ニ教やゾロアスター教など、もうこの世には存在しない宗教もかつては あったのです。 もちろん「信仰心」というこの膨大な存在を、一言で、ひとまとめに 語ることなど出来るわけもありませんが、しかし人類の歴史を振り返っ た時、 「宗教が無ければ人はオオカミにさえなりかねない」 、ということ は歴史的真実であり、 「教育と文明の原点には必ず宗教があった」という ことも歴史的真実であり、そして「宗教とは信仰心があるからこそ成立 する」 、ということも歴史的真実です。こうした幾つかの歴史的真実を総合して考えた時、私た ち人間が、太陽や空気や水の恩恵が無ければ生きてはいけないように、この地球上で、人間とし て生きている者にとって、実はこの「信仰心」というものほど大切な存在もまた無い、という重 大な歴史的真実を発見することができるのです。 ですから神仏への信仰心とは、私たち人間にとってとても大切なものなのです。 自分たちの国を「神国」と呼ぶことさえあった そして、私たち日本人が信仰の大切さを思い出すならば、この国で使われている「神」という ・ ・ ・ 言葉には、多義性があることも、よく知っておくべきでしょう。つまり日本語の「神」という言 は あ く 葉には、あまりにも多くの意味が含まれているわけです。この真相を把握していない方々が、時 に様々な誤解を生んでいるようです。 かみがみ この国では、 「神々」という言葉がよく使われますが、しかし「神々」というこの言葉は、キ リスト教、ユダヤ教、イスラム教の方からすれば、実はとても聞き慣れない不思議な言葉です。 なぜなら彼らの神、すなわち「ゴッド」や「ヤーヴェ」や「アラー」とは、この大宇宙を創造し た唯一の存在であるからです。そのために宇宙を創造した存在が複数いると考えたり、あるいは 複数系で呼ぶこと自体が、実は彼らからすればおかしいことなのです。 ではなぜ、日本やギリシャなどには、 「神々」という言葉が存在しているのかというと、それ は日本の建設や繁栄に尽くされた方々を、この国では「神」と呼んできたからです。 たとえば、松陰神社では吉田松陰を、東郷神社では東郷平八郎を、報徳二宮神社では二宮尊徳 を、そして靖国神社では第二次世界大戦で亡くなった多くの方々を祀っていますが、しかし彼ら は確かにこの日本で生きていました。彼らは確かに生きていた人間ではありますが、しかし彼ら が遺した偉大な功績を誉めたたえて、彼らの霊を神道では、 「神々」として祀り上げているわけ です。 うえ かく つまり「上」を「カミ」と呼ぶこと、あるいは「隠れる身」と書いて「カミ」と読むことなど から、 「上にあって隠れられている方々」に対して、 「神々」という言葉が、この日本では用いら れているわけです。 ですから日本語の「神」という言葉と、英語の「GOD」は同じ意味ではありません。 すなわち日本語では、大宇宙を創造した存在に対して、 「神」と呼ぶこともできますし、この 国に尽くされた方々をも、 「神」と呼んでいますし、さらには森羅万象に宿るとされている精霊 などに対しても、 「神」と呼んでいるわけです。 そして「神がたくさんいる」ということから、日本には「八百万の神々」という言葉があり、 そうした神々が「高天原」と呼ばれる霊の世界に生きていると、これまで神道によって伝えられ てきたわけです。 そして、キリスト教という宗教が、ローマ法王に 対してではなく、父(創造主)と子(イエス)と精 さ ん み いったい 霊といった「三位一体」を信仰しているように、神 道という宗教も、天皇陛下といった人間や、あるい はここ数十年で作られた日の丸といった国旗を さいし 祭祀するのではなく、宇宙を創造した神、日本に尽 くされた神々、森羅万象に宿るとされている神々、 や お よ ろず これら八百万の神々を祭祀しているわけです。 ですから現代の日本人の中には、高天原に住みた もう八百万の神々を祀ることなく、まるで天皇陛下 や日の丸こそを祀り上げている人々もおりますが、それは神道において、決して正しい信仰の姿 ではありません。それをキリスト教に譬えるならば、父と子と精霊を信仰することなく、ローマ 法王とバチカンの国旗を信仰の対象にしているようなものでしょう。 たが そしてそうした神道の本質を違えている人々が、 日本人はDNA的に遺伝子が優れていると勘 違いして、他の民族、とくに中国人や韓国・北朝鮮人を蔑み、暴言を吐いていることさえありま すが、口舌の刃でもって人間を切りつける、礼儀礼節を忘れたその暴力的な心こそ、本来の日本 人の和の心から、すでに大きく外れていると言えるでしょう。 この「日が昇る国」は、八百万の神々を祭祀する神道を中心に築かれてきたために、時にこの 国の人々は、自分たちの国を誇りに想い、 「神国日本」と称することがあったのです。 アメリカが宗教に手をつけ、サムライはいなくなった かつてのエジプトには、 「宗教」という言葉が無かったそうで す。それはあまりにも人々が信仰心を持って生きていくことが、 当然のことであったからだそうです。 つまり世の中には、政治とか、経済とか、教育とか、科学と ・ ・ か、芸術とか、そうした様々な分野がありますが、実はこの宗教 というものは、そうした一つの分野におさまるものではないの です。なぜなら宗教が人間教育と文化文明の原点である以上、 ・ ・ ・ ・ ・ 実は宗教とは「人間の原点」だからです。 ですから私たち人間にとって無くてはならない当然な存在、 それが「宗教」であり、そして「信仰心」というものなのです。 そしてかつての日本人は、どこの家にも神棚があり、誰もが神や仏を信じ、サムライならば論 ・ ・ ・ ・ ・ ・ そら 語を諳んじ、信仰心を持って勇ましくも心優しく生きていました。しかしこの国は、あの敗戦以降、 信仰心を失ってしまったのです。 なぜならアメリカは、驚くほどに強かった日本を弱体化させるために、3S政策を行って、日 本国民の関心を政治から遠ざけるばかりか、日本国民から宗教をも遠ざけたからです。 アメリカは、日本人が自分たち大国に勇猛果敢に戦ったことを恐れ、そして二度と日本がアメ リカに歯向かわないように、日本人を骨抜きにして、日本を弱体化させることを画策しました。 しんとう し れ い はつれい そしてアメリカ率いるGHQは、 「神道指令発令」というものを発布して、 「国家」と「神道」を 分けたのです。 つまりアメリカは、たとえイラク戦争を行おうとも、イスラム教を抑え込むようなことはしま せんし、宗教に手をつけることまではしなかったというのに、日本という国に対してだけは、今 とは時代が違うことも手伝って、宗教にまで手を出してしまったわけです。 その結果、いつしかこの国には、サムライがいなくなってしまったのです。 この国は、明治維新、敗戦、3S政策、神道指令発令、これらが見事に組み合わさることによ って、武士道精神は滅び、サムライは消え去り、皆が商人と農民になってしまったとも言えるで しょう。 この小冊子の冒頭において、この国に今現在、生きる私たち日本人と、かつてこの国に生きて いた日本人とでは、 「決定低に異なる点が一つある」と述べましたが、それは結局のところ、信 仰心が有るか無いか、その違いなのです。 『西遊記のサルのように自惚れた人間の姿』 にっきょうそ また、戦後の日本の教育界に強い影響を与えてきた「日教組」という教育者の労働組合が、滑 稽にも自分たちが教育者でありながら、宗教の大切さを知らずに宗教を嫌っているいこともあっ て、戦後の教育から宗教は完全に抜き去られてきました。このことも日本人が、宗教の大切さを 忘れている大きな要因と言えるでしょう。 しかも世界は、宗教が原点となって、発展繁栄を遂げてきたというのに、いつしか人間は自惚 れて、傲慢になり、宗教の大切さが忘れられているという矛盾が起きていることも、この国で宗 教の大切さが忘れ去られている要因の一つでしょう。 それはまるで、 『西遊記』に登場するサルのようです。 『西遊記』の孫悟空は、様々な力を手にしたことで仏にさえ挑みまし き ん と うん た。そして觔斗雲に乗って遥か遠くまで辿り着いて、 「自分は仏にも勝っ た」と喜んでいたそうです。ふと見ると大きな柱があるので、彼はその 柱にオシッコをひっかけて、居眠りを始めました。しかし結局、その柱 は仏の指であり、孫悟空は仏の手の上から飛び出すことさえできずにい たのです。 これと同様に、私たち人間は、宗教を原点として、学問を築き、法律 を作り、国家を建国し、そして科学を発展させることによって、様々な 力を得てきました。そしていつしか大きなビルを建てたり、大きな橋を建てたり、そして月にま で行くようになりました。するといつしか、 「神や仏など存在しないのだ。いや人間こそが神や う ぬ ぼ 仏なのだ」と、ついつい自惚れてしまっていたのが、サルのごとき私たち人間の愚かな姿なのか もしれません。 しかし月さえも大宇宙のほんのごく一部にしか過ぎず、巨大なビルも、大きな橋も、大宇宙か ら見れば、マッチ棒を立てたり、寝かしているにも満たないのです。それどころか大きなエベレ ストさえも、大きな海でさえも、神仏から見れば、シーツの皺や水滴がこぼれているにさえも見 えません。 ですから人間がどんなに科学を発展させて、地球の中で様々なものを作ったり、あるいはたと えこれから先、銀河を飛び越えていこうとも、それは親が見守る砂場の中で、子供が砂いじりを しているにさえも満たないわけです。 ですから私たち人類は、宗教の大切さを忘れてはならないのです。 宗教を否定した共産国家は善悪が麻痺した恐怖国家となった そうであるにも関わらず、その宗教の大切さを知らずに、 「宗教とはアヘンである」と考えた 人がいました。それが共産思想を生み出したカール・マルクスです。 現在の中華人民共和国という国を築き上げている思想、それは「中華思想」であり、建国の父 である「毛沢東思想」であり、さらにはこのマルクスという人が生み出した「共産思想」なので す。 かつての日本が、 「仏教思想」 、 「儒教思想」 、 「神道思想」が柱となって築かれていたように、 現在の中国は、 「中華思想」 、 「毛沢東思想」 「共産思想」 、この三つの思想が柱となり、背骨とな っていると言えるでしょう。 そして中国、北朝鮮、ソ連、東ドイツ、かつてのカンボジアなど、これらの共産国家は、宗教 の存在を否定しているがために、どこもかしこも善悪が麻痺した、恐ろしい独裁国家になってし まったのです。 中国では、政治犯は捕らえられて、拷問されて、なおかつ臓器を抜き取られ、その臓器が売買 されたりしておりますが、そうした悪魔の所業を平然と行える根底には、宗教を否定する共産思 想が国家の柱となっていることが原因なのです。 人口1000万人のカンボジアでは、ポル・ポト政権の わずか二年の間に、国民の二割から三割の300万人近い 人間が殺され、骸骨の山が築かれて、世界中を驚かせまし たが、しかしそれは、社会・共産主義国家からしてみれば、 実に少ない犠牲者にしか過ぎませんでした。 なぜなら社会・共産国家では、どの国でも強制収容所が しゅくせい 作られて、 粛 清 に次ぐ粛清が繰り返されてきたために、 ソ連や中国といった大国が自国民を虐殺した人の数を合 わせると、なんと日本の総人口を超えてしまうと言われているからです。 社会・共産主義の象徴的な色は赤なのですが、共産国家にとって思想的に赤く無い人間、政府 に歯向かう人間は、 「ただの不用品」であり、 「赤い国旗は、国民の血によって染め上げられてい る」と、そう言えるのです。赤い国旗の利点、それは独裁者が血にまみれた手を拭っても、 「汚 れない」ということなのです。 日本人も、アメリカ人も、中国人も、黒人も、アボリジニも、私たち人間に、民族や人種によ る優劣などあるわけもなく、どんな民族や人種であろうとも、人間は教育と本人の努力によって、 偉大なる聖人にもなれる可能性もあれば、善悪が麻痺したオオカミにさえなってしまうことさえ ありますが、しかしマルクスが生み出した共産思想は、人間の原点ある宗教を否定しているがた めに、そうした人間の可能性を奪ってしまうわけです。 マルクスが生み出した思想的な病にかかった国が、もしも地球の片隅にある小さな国であった のならば、それほど人類は大きな被害を受けなかったことでしょうが、しかし残念なことに、世 界で一番領土の広い国と、世界で一番人口の多い国が、このマルクス思想という病にかかってし まったことが、人類にとって大きな悲劇となりました。 世界で暗躍し続けてきた共産国家の工作員 1848年、マルクスによって生まれた共産思想でしたが、その後、1917年にロシア革命 が起こり、1922年に世界初のマルクス国家・ソビエト社会主義共和国連邦が誕生しました。 さかのぼ そして一般的な歴史の授業では、なかなかその名前さえ登場しませんが、それから 遡 ること 三年前、1919年に、ソ連のモスクワにおいて、世界を共産化するための組織、 「共産主義イ ンターナショナル」 、通称「コミンテルン(コミュニスト・インターナショナルのロシア語の略 称) 」が誕生しました。 「インターナショナル」と名前についているように、この「コミンテルン」は、国境を越え、 人種、民族を超えて、 世界で活躍して、世界各国を共産国家にしよと工作活動を続けてきました。 共産国家と対立するアメリカは、第二次世界大戦中の1940年から1948年にかけて、コ ミンテルンのモスクワ本部と、世界各地に散らばる諜報員たちのやりとりを傍受していました。 そして1943年から、その傍受した内容の解読に力を注ぐのですが、しかしコミンテルンもな かなか狡猾で、暗号を一回ごとに変えていくために、アメリカ側も解読作業に難航しました。 そして解読開始から37年もの月日をかけ、1980年にようやくその解読作業は終わりまし た。するとそのコミンテルンのやりとりから、驚くべき驚愕の真実が明らかになったのです。 それは、 「ルーズベルト政権の中には、すでに300人ものコミンテルンのスパイ・工作員が いた」 、という事実です。そしてそのコミンテルンのスパイのうち、最もルーズベルト政権の中 で力があったのが、ハリー・デクスター・ホワイトという人物でした。 このコミンテルンのモスクワ本部と世界各地に散らばっていた諜報員とのやりとりは、 「ヴェ ノナ文書」 、 「ヴェノナファイル」としてまとめられました。しかし解読作業が終わった当時は、 まだアメリカとソ連の冷戦中ということもあり、機密文書にされておりました。 そして冷戦が終わった1995年になって、ようやくその文書が公開され始めました。今では、 この「ヴェノナファイル」は、CIAとアメリカ国家安全保障局のホームページで、アメリカの公 式文書として公開されていて、誰でも見ることができます。 アメリカは、民主党と共和党という二大政党があり、ルーズベルトが民主党の党首であるのに 対して、対立する共和党の党首はハミルトン・フィッシュという人物でしたが、彼は戦後数十年 に渡って日米戦争を研究し続けて、そして次のような驚くべきことを述べたのです。 我々は、当時のアメリカ政府が、日本政府に対して、 『ハル・ノート』を突きつけているとは 全く知らなかった。外交員である私にでさえ、ルーズベルトは『ハル・ノート』の存在さえ教え ていなかったからだ。あんなものを突きつけたら、日本だって戦争せざるを得ないだろう。 共和党も大多数の国民と同様に、戦争には大反対であったが、しかし日本が真珠湾攻撃を行っ た時、私も日本という国を何とも卑怯な国だと思った。こうしてまんまとルーズベルトは、共和 党と国民を誘導して、戦争に踏み切ることに成功した。 しかし私は戦後40年間、日米戦争を研究してきて、驚くべき真実を知ってしまった。それは アメリカ人も真実を知れば驚くであろうが、あの『ハル・ノート』を書いたのは、実は当時の国 務長官コーデル・ハルではなく、コミンテルンのスパイ・ハリー・デクスター・ホワイトであっ た、ということである。 コミンテルンに操られていたルーズベルト 「真珠湾攻撃はルーズベルトの誘導のもとに行われた」 、これだけの真実でも多くの日本人に とって衝撃でしょうが、しかしそのさらに裏に、 「実はアメリカと長年に渡ってライバルであっ たソ連・コミンテルンの暗躍が潜んでいた」となれば、この真実は日本人のみならず、アメリカ 人にとっても衝撃でしょう。 しかしコミンテルンの暗躍は、まだまだ奥が深いのです。なぜならかつて、第二次世界大戦が 始まる前、日本と中国、ドイツとイギリスが戦時中であり、この四つの国で、二つの戦争が行わ れていましたが、しかしそのうちの日本と中国の戦争の影にも、実はコミンテルンの暗躍があっ たからです。 日本と中国の戦争が始まる前、中国国内では、毛沢東率いる共産党と、蒋介石率いる国民党が 戦っており、中国国内は内戦状態でした。そして蒋介石率いる国民党が優勢であり、毛沢東率い る共産党は劣勢であったのです。 そこでコミンテルンが目をつけたのが、日本軍の存在でした。そしてソ連のスターリンは、毛 沢東に対して、日本に対するテロ行為を行わせて、日本と中国を戦争状態にして、国民党を弱ら せるように指示を出したのです。 国民党の蒋介石は、部下である張学良が寝返ってしまったために、共産党に拘束されてしまっ たことがありました。この知らせを受けた毛沢東は、 「これでようやく宿敵の蒋介石を殺せる」 と、大いに喜んだそうですが、しかしスターリン率いるコミンテルンから、 「蒋介石を殺すな」 との横槍が入りました。スターリンは毛沢東に対して、 「国民党と日本を戦わせて、中国全土を 共産党の支配下に置け」と指示を出したのです。 そしてコミンテルンの指示通り、共産党によるテロ攻撃が続き、日本人の死者が続出しました。 おうかろん それでも当時の日本政府は、白人たちの間で「黄禍論」が強まり、アメリカが日本に対する圧力 を強めてきていることもあって、中国との戦争を何とかして避けようとして、停戦協議をするの です。しかしそれでも中国共産党の日本人へのテロ行為はやまず、むしろ攻撃は激しさを増すば かりでした。 そしてついに日本は日中戦争に踏み切ったのです。もちろん国民党率いる中国が、当時の日本 に勝てるわけもありません。そこで飛び出してきたのが、すでに述べた「南京大虐殺」であり、 白人たちに日本という国を、ナチス・ドイツと同じような「悪魔の国」に見せることでした。 ・ ・ ・ 「南京大虐殺」という捏造事件のルーツと言われている『戦争とは何か―中国における日本軍 の暴虐』という本があります。これはティンパーリィという人が、1938年の日米戦争の前に 書いた書物ですが、しかしこの書物こそ、コミンテルンの陰謀であると指摘する研究家もいます。 つまり、こういうことです。コミンテルンは日本に国民党を叩かせて、そしてその日本をナチ ス・ドイツと同じような悪魔の国に見せることで、アメリカに日本を叩かせることで、中国全土 のみならず世界各国に共産主国家を増やしていこうと、考えたわけです。 そしてまんまとルーズベルトは、そのコミンテルンの罠にはまって、日本に真珠湾攻撃を行わ せたのです。 これらの証拠として、戦後、毛沢東は田中角栄に会った際、 「国 民党を大陸から台湾に追い出してくれてありがとう」と、そのよ うな感謝の言葉を述べたと言われております。 ちなみに「日本は侵略国家であり、南京大虐殺を行った悪い国 である」と、自虐的な偽りの歴史を教えて、自分たちの国をいじ め続けることが大好きな日教組も、実はコミンテルンの指導 のもとに組織されました。そのために日教組の影響の強い学 修学旅行先の韓国で土下座させられる日本の高校生 校では、修学旅行で韓国に行って土下座させられたりしてい ぜんきょうそ ます。韓国には全教組といって、北朝鮮を賛美し、反日感情を植えつける教育者の労働組合があ りますが、この裏にも、もちろんコミンテルンの暗躍があります。 このようにマルクスが共産思想を生み出して以来、常に世界で暗躍を続けてきたのが、コミン テルンであり、そして共産国家なのです。 価値観の逆転を正す必要がある そしてソ連が崩壊し、ベルリンの壁が倒れて、東西のドイツが統合され、世界各地の共産国家 が倒れてきましたが、それでもなお、根強く共産国家のまま国家運営をしている国、それが北朝 鮮と中国なのです。 そしてその最後の共産国家の脅威が今、この元宗教国家に迫り、そしてこの国は滅びの危機を 迎えているわけです。 ならば今を生きる私たち日本人が、やらなければならないことが自然と明らかになります。 それは、日本人は今、政治の大切さと共に宗教の大切さをも思い出し、そしてこの国を護らん とする人が増えていくことです。言葉を変えれば、武士道精神を再建し、サムライがこの国に増 えていくことです。 えん こうひょう 北京大学の教授・袁 紅 冰 氏も、 「日本は自由の名の下に武士道精神を再建し、真理と自由の 側に立って、人類の自由のために貢献をすべき」と述べたように、私たち日本人は今こそ信仰心 を取り戻し、武士道精神を再建しなければなりません。 無宗教国家の侵略の脅威が元宗教国家に今、襲いかかっているわけですが、しかしそれはこの 国が宗教の大切さを思い出し、人々が信仰心を取り戻すことによって、その脅威を退けていくこ とができるわけです。 つまりこの国を護り抜くか滅びるかかという鍵が、実は「信仰」にあるわけです。 言葉を変えれば、この「価値あるもの」と「価値ないもの」が逆転したおかしな国において、 その価値観の逆転を正していくことが今、私たちに求められているわけです 。 人は真理を学び笑うために生まれてきた シェイクスピアの言うように、確かに人は、この苦しみや悲しみが必ず訪れる人生という球形 の舞台の上に、泣きながら何も知らずに生まれて来ます。しかしもちろん人は、泣くために生ま れてきたのではありません。人は真理を学び、悟りを高めて、苦しみや悲しみを乗り越え、笑う ために生まれてきたのです。 まこと まこと ことわり 真理とは「 真 の 理 」という意味であり、 「 真 」とは「真実」 ことわり を意味し、 「 理 」とは、簡単に言ってしまえば「自然法則」の ことを意味します。つまり「真理」とは、永遠に変えられない 自然法則のことです。 こ も 春になれば桜が舞い散り、木漏れ日射してくるのも、夏にな せみ れば虫たちが騒ぎだし、蝉の声が岩に染み入るのも、秋になれ ば夕暮れに木の葉が舞い、日陰が伸びていくのも、冬になれば か か し 白銀が山を覆い、田んぼに案山子が一人取り残されるのも、す べては自然法則です。 あるいは月が一面だけを我々に見せつつ、地球の周りを回る さけ のも、それによって海の満ち引きが起こり、鮭が川を遡上し、 くじら 鯨 が渡り鳥のごとく一年に数万キロも大海原を回遊するのも、 すべては自然法則です。 そしてこの地球も365日かけて太陽の周りを回り、その太 陽系そのものが銀河系の中を何億年もかけて回るのも、すべて 自然法則です。 そうした極大の世界のみならず、原子や電子といった極微の 世界においても、遥かなる宇宙が繰り広げられているのも、さ らには質量がエネルギーに変換され、物体が光の速度で動くことで時間を止めてしまうのも、す べては自然法則です。 それがどんなに複雑で、どれほど難解で、私たちの頭では理解し切れないものであろうとも、 確かにこの世界・大宇宙には、何らかの自然法則が常に働きかけており、そしてこの自然法則は 永遠のものです。 どんなに狡猾に生き延びて、たとえ生前に検事や判事の目を欺き、法律の目を上手くかいくぐ ることができようとも、あるいはたとえ愛を誰かに与え続けて、それが誰にも気づかれず、感謝 もされず、そればかりか誤解されたままであろうとも、決して誤魔化すことも、くらますことも、 まこと ことわり 見落とされることも、忘れ去られることもない、こうした真実の自然法則のことを、 「真の 理 」 し ん り という意味から、人類は長らく「真理」と名づけて呼んできたのです。 しかしこの国では、オウムという間違った宗教団体が、教団の名前に「真理」という言葉を使 用していたために、日本国民の中には、 「真理」という言葉に対して、何か醜いイメージを抱き、 忌み嫌う人さえおりますが、しかし仏教も、キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教も、哲学や 儒教でさえも、真理を元に創られてきました。 人間の原点である宗教や哲学は、真理より生まれ、そして真理を人々に伝えてきたのです。 ですから真理とは、オオカミにさえなりかねない私たち人間を人間たらしめる、何ものにも変 えられない美しきものなのです。 真理から得られる悟りこそ人としての賢さ そしてこの真理というものを学ぶことによって、人は学問とは異なる部分の能力を高めて、 「悟 え り」を得ることことができます。 ですからこの真理の学習の先から得られる「悟り」というものこそ、 人生に訪れる諸問題を乗り越えていく力であり、善悪を見抜いていく 力であり、未来を見通していく力であり、物事の本質を見抜いていく 認識力や洞察力であるのです。 「悟り」こそ「真実の知の力」に他ならないのです。つまりこの「悟 り」というものこそ、本当の意味での、私たち人間の賢さなわけです。 そのために、幼い賢者もいれば、年老いた愚者もいるのです。ある いは東大を出ているような、たとえ知識的にはとても頭が良い人であ ろうとも、悟りが低ければ善悪を見抜く力が弱く、物事の本質を見抜 けないことなど山のようにあるのです。その一方で、たとえソクラテ スのように無知を自覚している者であろうとも、悟り高き賢者もまた ・ ・ いるわけです。なぜなら「善悪」というものは、行為によって決まる ものではないからです。 たとえば街中で意味も無く人を殴れば、それは紛れも無く「悪」でありますが、暴漢に襲われ て身を守るためならば、正当防衛の範囲で「善」になる場合があります。 また健康な人が意味もなく薬を乱用すれば、それは「悪」になることがありますが、しかし病 気療養中の人が、痛み止めで薬を飲むことは「悪」ではありません。 街中で意味もなく人に銃を向けて撃てば、それは悪そのものですが、では独裁者が今にも核爆 弾のボタンを押して、一千万人の人間を殺そうとしていたら、仕方なしにその独裁者に向けて銃 を撃つ行為はどうでしょうか? 「歌を唄う」という行為そのものは、悪ではないように思えますが、しかし学校で、先生が授 業している時に、生徒が歌を唄えば、それは授業の妨害になりますから、やはり悪であり、しか し音楽の授業中に先生の指示のもとに歌を唄うことは、やはり善になります。 この様に「正義」というものは、行為によって分けることはなく、 「人、時、場」によって移 り変わるわけです。 つまり「善悪」というものは、二元論的、あるいは知識的に、 「この行為は善で、この行為は 悪である」と、はっきりと完全に峻別することは実はできず、人、時、場によって移り変わって いくものであるのです。そのために、たとえ知識的には優れた人であっても、善悪を見抜けない ことがあるわけです。 ちゅうどう 右でも左でもなく両極端を離れたところ、仏教ではこれを「中 道 」と呼びますが、中道の中 にこそ正義はあり、そして中道の中にある正義を見つけ出していく力、これが「悟り」というも のなわけです。 「奇跡の国」と呼ばれた国は「精神的貧困国」 そして苦難や困難が満ちたこの地上世界に、人は泣きながら生まれてきますが、しかし悟りを 高めていくことによって、それらの苦難や困難を乗り越えて、人生に笑顔を増やしていくことが できるのです。ですから「悟りの力」とは、人間を幸福にしていく力です。 私たち日本人は、豊かな先進国に長らく生きてきたために、すでに学んでいるはずです。それ は、お金があっても、地位があっても、名誉があっても、不幸な人はいるということを。あるい は、お金や地位や名誉も大切ですが、それが以外に、私たち人間が幸せな人生を生き抜いていく ・ ・ ためには、何かが必要であるということを。それを「家族」と言う人もいるでしょう。 「仕事」 と口にする人もいるかもしれません。あるいは別の何かを口にされる人もいるかもしれません。 しかし全ての根本にあるのは、私たち一人一人の心であり、そして「心の向上」 」のことを、 仏教では「悟り」と言うのです。 しかし現代の日本は、宗教国家の歴史を刻んできたにも関わらず、その宗教の大切さを忘れて いるために、結果的にその「悟りの力」を否定しております。それは結果的に、日本に生きる人々 が、人生の問題を乗り越えられずに、自殺者の増加を招いてしまっていると言えるでしょう。あ るいは現代では、心を壊してしまった人々によって、親殺し、子殺し、さらには常軌を逸した詐 欺、強盗、殺人が横行しておりますが、それも人間の原点である宗教、そして信仰心を私たち日 本人が忘れ去っているからに他なりません。 戦後の日本は、物質的にも繁栄し、学問的にもとても進歩したでしょうが、しかし宗教の存在 ・ ・ ・ ・ ・ を隅に追いやることでもって、結果的に真の知の力をも隅においやって来たのです。それは結局 において、この国の精神の貧困を招き、さらには、ある意味における退歩を招いたとも言えるの かもしれません。 それを物語るかのように、かつてマザー・テレサが日本に訪れた時、彼女はこう言いました。 「日本は貧しい国です」と。 インドのスラム街からやってきた宗教家であ り、一人の聖女が、経済大国であり、かつては「奇 跡の国」とまで称賛されたこの日本を見て、 「貧 しい」と言ったわけです。そして彼女はこう続け ました。 「日本は貧しい国です。なぜ日本人は隣 で苦しみ悲しんでいる人がいるというのに、救い の手を差し伸べないのですか?」と。 つまりマザー・テレサは、日本に対して経済的 に貧しいと言ったわけではありません。 ひと か 世界にはたった一欠けらのパンが無いために、生まれてすぐに死んでしまう赤ん坊が大勢いる というのに、 「自分が面白おかしければいい」 「自分が幸せだったらそれでいい」と、常に「自分 が、自分が」と自分のことしか考えずに、自己中心的で、私心ばかりで生きている私たち日本人 に対して、彼女は「貧しい」と言ったわけです。 信仰心を失ってしまうことによって、公の心を忘れてしまった私たち日本人の心に対して、マ ザーは「貧しい」と言ったわけです。 宗教を否定することで暴力と武力の違いが明確に分からなかった そして、戦後の日本が、 「悟りの力」が不足していたその証拠こそ、 「憲法九条にある」と言っ ても過言ではないでしょう。 憲法九条とは、 「陸・海・空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め ない」という有名なあの条文ですが、もしも憲法九条を掲げるだけで、その国の平和が守られる ちょうへい のならば、韓国や台湾も徴 兵 制度などやめて、今すぐにでも憲法九条を掲げれば良いのですし、 チベットやウイグルも、今すぐにでも憲法九条をつくるべきです。しかし冒頭でも述べましたよ うに、現実には世界は進歩の途中にあり、世界46カ国が戦争中であり、世界は未だに軍事力に 基づいて動いております。 つまり戦後の日本は、暴力と武力の区別すらもつかずに、いつまでも答えの出ない議論を続け てきたわけです。 言葉を変えれば、善悪が人と時と場によって移り変わる ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ように、「力 と いうものも 人 と 時 と 場 に よって善 にも悪 ・ ・ ・ ・ にもなる」というこの真実が、悟りの力が不足していた戦 後の日本は、まるで分からなかったわけです。 暴力とは、何も生み出すことのない破壊の力であり、憎 むべき悪であり、平和を創造するどころか、むしろ破壊し ほこ ていく力です。一方の武力とは、 「武」という文字が、 「戈 ほこ (矛)を止める」と表記するように、そして「戈」とは、 古代の中国で使われた戦争の道具であるように、 「戈を止 める」とはすなわち、 「暴力を止める」ということに他なりません。 つまり暴力とは、破壊の力であり、憎むべき悪でありますが、しかし武力とは、その憎むべき 暴力を抑え、平和を守る力であり、中国の侵略戦争を止める力にもなるわけです。 あや 包丁が人を殺める道具にもなれば、料理を作ることで人を生かす道具にもなるために、包丁そ のものは価値中立であるというのに、しかしまったくもって情けないことに、戦後の日本は、信 仰心を失うことで、 “悟りの力”が不足していたがために、右翼も左翼も左右両勢力を含めて、 暴力と武力の違いが明確には分からずに、いつまでも答えの出ない議論を続けてきて、結果的に この国は、 「包丁は悪である」という結論のまま、時代を経てきたわけです。 左翼の人々は、 「自衛隊も暴力装置であり、解体せよ、米軍は日本から出ていけ」などと、中 国や北朝鮮を喜ばせる主張をしているのに対して、右翼の人々は彼らを論破できなかったのです。 「正義というものは人・時・場によって移り変わり、力も同様に善にも悪にもなり、武力にも 暴力にもなるにも関わらず、現在の日本国憲法は、未だこの力に基づいて動く未熟なこの世界に おいて、暴力と共に武力までも否定している。そのために日本は、いつまでもアメリカの言いな りとなるばかりか、中国や北朝鮮の暴走を許し続け、ついには滅びの危機を迎えている。これら の理由から考えてみても、現憲法は明らかに間違っており、決して平和憲法などではなく、むし ろ破壊を招く破壊憲法である」 、こんな簡単な答えを導き出せなかったのが、宗教の存在を否定 し、信仰心を失ってしまった、元宗教国家日本の戦後の悲しき姿であったわけです。 真のサムライとは最期の決意を決めて公に生き抜く武人 「武」という文字が「戈を止める」と書くように、武力が暴力を止める力である以上、 「武士」 とは、紛れもなく「暴力から守る人」に他なりません。 「サムライ」とは結局、神仏に対する信 仰心を持ちつつ、天下国家のために生きながら、もしも誰かに暴力が迫ってくれば、それに毅然 と立ち向かう、そうした正義の側にたった勇ましい人々のことなのです。 ですから確かにサムライは武人であり、戦いの人です。しかしその戦いは、現在の格闘家のよ うに、むやみやたらに戦って、それを人々に見せ付け、楽しませるものでは決してないのです。 人間の肉体はそれほど丈夫ではありません。今、日本を始とする世界で、格闘技が流行ってお りますが、しかしスポットライトが当たらなくなった頃に、格闘技の後遺症に苦しんでいる人、 廃人となってしまった人、命を落としている人が大勢いることを、歓声を上げてリングに熱中す る前に、私たちはよく知っておくべきでしょう。動物愛護教会は、闘犬や闘牛に抗議しておりま すが、しかし私たち人間も、戦うための肉体など誰も持ってはいないわけです。 この日本や世界における格闘技の流行は、かつてのローマのコロッセオにおいて、人々の心が 退廃した時代に行われていた、ライオンや人間が死ぬまで戦った時代に、合い共通するものがあ ることを、私たちは知っておくべきでしょう。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 確かにサムライは武人であり、戦いの人でありますが、あくまでも武人とは、戦いを止める人 であり、 「守る人」のことなのです。したがって格闘技と武道は同じものではありません。 またサムライは信念の塊とも言うべき存在であるために、確かに見方を変えれば頑固な存在か もしれません。 「仁に当たれば師にもゆずらず」 、もしも師が仁の道に外れるようなことがあれば、 自分はたとえ誰であろうとも譲ることはない、そういった信念と頑固さがサムライにはあると言 えるでしょう。しかしその頑固さは、決して己の名誉やプライドといった、そんなもののために 頑固なのではなく、あくまでも公のためです。 ですからサムライとは、決して傲慢なヤクザとは違うのです。天下国家への公の心を忘れ、私 心のみで、営利を貪り、ヤクザとして生きることをもって、サムライとは決して言わないのです。 「義を見てせざるは勇無き也」と言うように、つまりこれは、正義に直面しておきながら、行 動できないということは勇気が無いことに他ならない、という意味に他なりませんが、真実の勇 気とは、あくまでも正義の側に立って行動を起こしていくことに他なりません。 ですから、ただやみくもにリングの上に立って戦うことも、人々を押し分けてヤクザとして生 ふ さ た ゼロ せん きることも、決して真のサムライとは言わず、真珠湾攻撃直前に、零戦に搭乗した飯田房太氏が、 「真のサムライである軍人にとって重要なことは最後の決意である」と述べているように、真の サムライとは最後の決意を決めて、公のために生き抜く武人に他ならないのです。 奇跡の宗教国家はアメリカの言いなりとなった しかし戦後の日本は、信仰心を失うことで、武士道精神も失いました。そしてその代わりに憲 法九条を大事に守ることで、アメリカにお金を貢いで、アメリカから守ってもらってきました。 かつてこの日本は、 “アジアの希望”であったというのに、戦後の日本は、いつしか“アメリ カの子分”となり、まったくもって情けないことですが、アメリカに守ってもらわねば国家とし て成り立たない、そんな哀れな状態にまで堕ちぶれてしまったのです。 簡単に言って、アメリカとの戦争で負けて、宗教にまで手をつけられて、その結果、アメリカ の言いなりとなってきた国、それが戦後の日本の真実の姿なわけです。 しかしこんな状態のこの国を、かつてのサムライたちが見たら、果たして何て言うでしょうか。 明治の政治家である板垣退助という方は、襲われて殺されそうになった時、 「板垣死すとも自 由は死せず」と語り、 「たとえ自分が死んでも自由民権運動は終わらない」と、そう訴えたそう ですが、この国に今、自由や繁栄があるのは決し て偶然ではありません。実は先人たちが努力に努 力を積み重ねて、そして時には身も命も惜しまず に、この国を築き、そして護ってきたのです。 私たちが生まれた時には、すでに当たり前のよ うに日本があり、そして自由、平和、繁栄があり、 そしてそんな国を私たちは人生の土台にして、こ れまで生きてきましたが、しかしそれは決して当 たり前でもなければ偶然でもなく、そこには先人 たちの汗と涙と血の努力があったのです。 しかしもしも、この国を築き上げてきた「英霊」とも、 「神々」とも称される先人たちが、今 のこの国の現状を見たら、果たして何て言うでしょうか。マザー・テレサには「貧しい」と言わ れ、アメリカに守ってもらわねば国家として存続しないために、結果にアメリカの言いなりとな り、親殺し、子殺し、詐欺、強盗、殺人が当然のように置き続けるばかりか、ついには中国によ さんじょう って滅びようとしているこの 惨状 を見て、先人たちは果たして何ていうでしょうか。 「靖国で会おう」と、そう約束を交わして、この国を護り抜いたサムライたちがいましたが、 しかしこの国は今、中国・北朝鮮・韓国から、 「かつての日本は侵略国家であり、靖国神社は日 本の軍国主義の象徴である」などと、そのようなデタラメな歴史を突き付けられることで、現代 の日本の天下人(首相)は、靖国を参拝することすらできずにおります。このふがいない状況を 見て、かつてのサムライたち、 八百万の神々は、果たしてどのように感じられているでしょうか。 日本人は日本に生まれた幸せを知らない この国は、四つの大きな島と、四千以上の小さな島からなる列島からなり、八十以上もの活火 山があり、数年後ごとにどこかの火山が動き出していることもあって、日本各地で温泉が沸いて おります。 何よりもこの国には、地軸や緯度の関係で四季があります。しかし世界には、氷で埋め尽くさ れた厳しい極寒の地もあれば、砂で覆われた厳しい灼熱の地もあり、たとえ季節の移り変わりが あっても、日本のような明確な四季はないのです。この「四季」というものを、多くの日本人が 当たり前のように捉えておりますが、しかしそれも決して当たり前ではありません。 もしも日本に四季が無ければ、日 本の芸術も乏しいものになり、私た ちの暮らしも、何か味気ないものに なっていたことでしょう。 確実に言えること、それはもしも あけぼの 日本に四季が無ければ、 「春は 曙 」 から始まる春夏秋冬の素晴らしさ せいしょうなごん まくらのそうし を表現する、清少納言の「枕草子」は存在していませんでした。そしてもしもそうであったら、 清少納言のライバルであった紫式部の「源氏物語」も、無かったかもしれません。 そして源氏物語は、その後の日本の文学・芸術界に多大な影響を与えていますから、 「源氏物 語」が無ければ、日本の芸術はもっと質素なものとなっていたことでしょう。 日本に生きる人々は、外国と日本をきちんと比較したことがないために、 「日本に生まれた幸 せ」ということを、知らないことがよくあります。そのために日本の誇れる文化や歴史を忘れて、 目に見える欧米文化ばかりに憧れて、 「日本」に対して不平不満ばかりこぼしていることも、ど うやら少なくないようです。しかし確かにこの国には、世界に誇れる文化と歴史があり、そして それは、決して欧米諸国に勝るとも劣るものではありません。 そればかりか悲しいことに、世界には自分の国を誇りに思うことができないばかりか、 「その 国に生まれた」という理由だけで、辛く苦しい思いをさせられている人々が、確かに大勢いるの です。 世界には一度も他国から侵略を受けたことが無くても、それでも未だに発展や繁栄のない、貧 困国もたくさんあります。誰だって一度でも海外に旅行して、そしてその国の美しい観光地だけ でなく、その国に生きている人々の暮らしぶりを目の当たりにすれば、必ずと言って良いほど、 「貧しさ」というものに直面させられるはずです。 わ い ろ あるいは世界には、 賄賂が横行している国もあり、何の罪も犯していないのに警察に捕まって、 賄賂を払えば牢屋から出られて、お金が無い人は牢屋から出られない国さえあります。つまり人 権が軽く扱われている国なんて、たくさんあるわけです。 世界46カ国が戦争中であり、世界が未だに軍事力に基づいて動いている以上、 「国境を無く す」ということを夢見ることは良いですが、しかしそれは現実的には不可能なことであり、それ はすなわち、人間はパスポートを持たずに外国に出かけていくことは、今はまだできない、とい うことです。 そしてレストランやホテルにランキングがあるように、実はこのパスポートというものにもラ ンキングがあります。その国に対する「信用」によって、ランキングが変わるのです。世界には 人口の少ない国から、中国のような十何億もの人口を抱える国さえあるわけですが、外国の人を 自分の国に受け入れる時、 「犯罪に手を染めないか」 、 「観光や留学で来て、そのままビザ無しで 居ついたりしないか」 、 「何かトラブルが発生した時、国がきち んと責任を背負ってくれるか」 、 こうしたことによって 「信用度」 が決まるわけです。そして日本はその「信用度」が高いために、 日本のパスポートは世界のトップレベルであり、ノービザで多 くの外国に行くことができるのです。 日本に生きる多くの方々が、 「日本に生まれた幸せ」を知らな いことがよくありますが、このように「日本という国に生まれ た」ということは、実は世界の人々からすれば、とても恵まれ ていることなのです。 太陽の時代の到来を目指して そしてその恵まれた美まし国が今、滅びの危機を迎えているわけです。 それは何度も述べているように、まぎれもなく日本が武士道精神を失ったからであり、そして その原因は、私たち日本人が宗教の大切さを忘れて、信仰心を失ってしまったからです。 日本人が信仰心を失い、武士道精神をも失ったその証拠として、現代を生きる多くの日本人が、 「神仏を信じている」と聞くと、何か弱々しい人間のイメージを抱くのではないでしょうか。あ るいは誰かが、 「宗教を信じている」と口にすると、その人は弱者のレッテルを張られてしまう のが、現代日本の風潮と言えるのではないでしょうか。 しかしかつてのサムライたちは、お坊さんのような真理を世に広めていくタイプの宗教家では ありませんでしたが、確かに神や仏を信じており、そしてそれゆえにこそ彼らは、強く、逞しく、 勇ましく、そしてなおかつ優しかったのです。 もののふ なぜならその勇ましくも優しい心、それが武士の心であり、武士道精神だからです。 現代の日本人の中にも、強く逞しい人はたくさんおられるでしょう。勇ましい人もいらっしゃ ることでしょう。しかしかつてのサムライたちのように、公のために勇ましい人がいるかと言え ば、おそらくそうはいないでしょう。 この違いは、まぎれもなく信仰心が在るか無いか、その違いなのです。 信仰心、これは強く勇ましい心なのです。 「宗教を信じる」 、この行為は決して弱者が、困難な現実から逃避するための手段などではな いのです。宗教を信じ、信仰心を持つ、これは死後の生命、魂の存在を信じながらも、この地上 を勇ましくも優しく生きていく、その行為の始まりでしかないのです。 故にこそ、神仏に対する信仰心を持ち、仏教、儒教、神道によって作り上げられた武士道精神 を持っていたかつてのサムライたちは、現代の私たち日本人よりも、遥かに勇ましく、遥かに優 しく生きることができたのです。 ならばアメリカに守ってもらわねば国家として存続せず、今まさに中国によって滅びようとし ・ ・ ている、この現代において、私たち日本人が成すべきことは一つです。 それは、醜いアヒルの子が白鳥になるがごとく、私たち日本人一人一人が真実の日本の姿を知 り、そして宗教の大切さを思い出し、神仏への信仰心を持って生きていくことです。 アメリカと共産主義者たちの手によって失わされてしまった神仏への信仰心を、今こそ私たち 日本人は取り戻さなければなりません。 ・ ・ なぜならこれまでこの国には、 「国難」と名のつくものなど、幾度と無くあり、そしてその度 にこの国は、その国難を打ち破り、乗り越えてきたからであり、その背景には信仰心を有したサ ムライたちがいたからです。 ひ い そして私たち一人一人が、信仰心を持ってサムライになっていく時、この日出ずる国は、中国 による侵略を退け、アメリカから独立を果たすばかりか、太陽の時代を迎えるのです。 作者 ――― 与国秀行 ※この小冊子に関する全責任は作者が請け負います。 なお、この小冊子を通して、 少しでも多くの方が、 宗教と信仰心の大切さに気がつくとともに、 国難に立ち上がる志を持って頂けたら、 幸いであります。 共に、 「自分の国は自分で護る」という、 独立国家としての気概を持った国を 築いてまいりましょう。 私もペンでもって戦い続けます。 この小冊子をご希望の方は、メールにて、ご依頼下さい。 icchidanketsushi@gmail.com なお下記の URL からダウンロードも可能です。 『Zipangu』ダウンロードページ↓ その他の作品紹介 『《上巻》TROY ~侵略されている日本~』 『《中巻》Zipangu ~太陽の時代を迎えるにあたり知るべき真実の姿~』 『《下巻》PANDORA ~誤解と偏見を説く~』 Zipangu―侵略されている日本― <新装第 1 版>
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