人工心臓研究との戦い - Japanese Society for Artificial Organs

●私の歩んだ道
人工心臓研究との戦い
東北大学大学院医工学研究科
井街 宏
Kou IMACHI
1. 何故人工心臓か
2. モノ作りの開始
京都大学大学院工学研究科機械工学の修士課程を修了し
当時使っていた富士高分子社製人工心臓は,そこに内蔵
て日立化成工業株式会社に入社した私は,2 年後の 1970 年
されている人工弁の流体抵抗が高くて十分な拍出量が出せ
4 月に医学系研究科大学院生として東京大学医学部医用電
ないという欠陥があった。これが血栓形成や動物が麻酔か
子研究施設の渥美和彦教授の研究室に入れてもらった。
「自
。
ら覚めない原因と考えられた。「ポンプ流量を増やそう」
分は将来研究者となって誰にもできないテーマをライフ
そこで,藤正先生と新しい人工弁の開発を試みた。これが
ワークとして研究するのだ」という高校時代から描いてい
私の東大におけるモノ作りの第一歩であった。開発目標期
た将来の青写真を実現するためであった。それが人工心臓
間を 1 週間と決め,どういう弁を作るかをブレーンストー
であった。人工心臓の研究が始まって 10 年が経過してい
ミング(当時の流行語)的に机上で徹底議論した。抵抗が
たが,人工心臓で動物がかろうじて自発呼吸をするという
小さくて作るのが簡単ということで,ドア形弁を第一候補
のが唯一のバイタルサインであり,立ち上がったり食餌を
とした。第 2 日目からは早朝から深夜まで,モノ作り→モッ
とったりするなど夢のまた夢という時代であった。
ク回路実験→データ解析→改良のための討論の連続であっ
当時,渥美一家には桜井靖久,藤正巖の両助手がおり,
た。弁座を斜めにして楕円形の弁葉を 2 本の手術用ポリエ
渥美教授共々私には雲の上の存在であった。この 3 人の先
ステル縫合糸(2-0)でバランス良く吊った OED(Oblique
生からは実に多くのことを学んだ。3 人に共通して言える
Elliptical seat Door-type)弁が最終のモデルであった。ポン
ことは,実に行動が早いということであった。「思い立っ
プ流量は 2 倍強に増えた。丁度 1 週間での完成であった。
たが吉日」とか「今日できることを明日へ延ばすな」といっ
かくして動物実験の準備はでき上がった。
た格言を地で行くような行動の早さであった。雑用を絶対
嫌がらないというのも 3 人に共通していた。動物実験が終
3. ヤギが生きた!
わると箒やモップを取り合うようにして掃除を始めるのも
1971 年,このポンプは長期生存を目指してヤギに装着さ
この 3 人であった。渥美教授と桜井助手は外科の出身で
れた。両心バイパスの形で人工心臓を装着後,心臓を細動
あったので,まず私が 1 人でも動物実験ができるように,
状態にし,機能的に完全人工心臓の状態を作る(心細動型
外科の基礎のテクニックから厳しく指導してくれた。お陰
完全人工心臓:FTAH)という東大独自の方法であった。
で何年かすると,そこいらの外科医には負けないぞ,とい
術後ヤギは覚醒し,起立して水を飲む。餌もぼそぼそでは
う自信すら持てるようになった。
あるが食べる。これだけでも画期的で皆大喜びした。その
日は全員が研究室に泊まった。翌日,しかしヤギは死なな
いで元気である。皆の興味は何時まで生きるかよりどう
■著者連絡先
東北大学大学院医工学研究科
(〒 980-8579 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉 6-6-11, 901-1)
E-mail. imachi@bme.tohoku.ac.jp
なって死ぬのだろうという点にあった。その夜も誰も帰ら
なかった。3 日目になると,誰もがひょっとするとしばら
く死なないのではと考えるようになった。しかも 2 日間全
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イライラして殺気立っていた。
渥美教授は,元々臨床外科医であっただけに,人工心臓
ヤギが死に瀕すると,その原因の究明よりも輸血などの対
症療法的処置によって生かすことを主張することが多かっ
た。しかし,輸血をすると,ヤギは異型輸血らしき反応で
ショック死してしまう(後日ヤギには血液型が 20 数種類あ
り,事実上輸血が不可能なことが判明)。このようなこと
が数回続くと,輸血をするしないで意見が真っ向から対立
した。真夜中に渥美教授から電話が入り,
「井街君,ヤギがひどい貧血なので輸血をしようと思う
図 1 初めて 151 時間生存したヤギと,左から西坂,井街,藤正,
渥美,桜井(1971 年)
のだが…」
「駄目です。輸血をすると直ぐに死んでしまうし,結局
データがめちゃくちゃになって原因もわからなくなってし
まいます」
員が 1 ∼ 2 時間しか寝ていない。これは大変だとあわてて
「それでもこのままでは死んでしまうぞ」
当直表を作る。寝ていないため出前で何を取っても味がし
「構いません。たとえ死んでも原因をつかむべきです」
ない。そんな時,渥美,桜井両夫人が交代で差し入れてく
「バカを言うな。オレは教授だからオレが決める」
ださった握り飯の味はいまだに忘れられない。
「じゃあ勝手にしてください」
4 日目頃からヤギに変化が現れ始めた。極度の貧血,低
タンパク,起立不能,食欲不振,無尿,便秘などが段々ひど
くなってきた。そして頻回の輸血の甲斐もなくヤギは死亡
ガチャン !! といったことがしばしばあった。翌朝大学へ
行くとヤギが死んでいた。渥美教授が偉かったのは
「井街君,君の言うとおりだったよ」
した。151 時間の生存であったが,これは我が国の人工心
と,入学して 1 ∼ 2 年の医学に全く素人の学生に対して
臓の歴史の中では大きな一歩であった。人工心臓で生存が
非を認めることであった。しかし,このような真剣勝負に
可能であるという確信をチーム全体が抱いた瞬間であっ
も拘わらず事態は一向に解決の方向に向かわない。
「何が
た。しかし,これは成功へのほんの序章に過ぎなかった
起こっているのだろう?」「何か我々が見落としているも
(図 1)。
のがあるのではないか?」。寝ても覚めても考えた。電車
の中でも,歩きながらも必死になって考えた。
4. 1 週間の壁を突破しろ
151 時間の生存から OED 弁の優秀さは保証された。次
5. 謎は解けた。制御が問題だ。
はこの弁を内蔵したポンプの開発をねらった。諸外国では
一つのヒントは病理像から得られた。大学院生の真野勇
阿久津らがシリコーンゴムで,Kolf f や Pierce らは Biomer
君が,病理像の共通的な特徴として①腎臓の皮質壊死が起
(ポリウレタン)でポンプを作っていた。しかし,我が国で
こっていること,②ほとんどの臓器の細動脈が異常な収縮
はこれらの材料は手に入らない。こんな時,桜井先生が画
を起こしていることを見出した。
期的な材料を持ち込んできた。これが「ポリ塩化ビニル
「人工心臓によって末梢循環の制御がめちゃくちゃに
ペーストレジン(以下,PVC)」であった。この材料は様々
なっているのでは?」「人工心臓を駆動しながら末梢循環
な成型法が可能で,任意の厚さの膜が数十分で作れるとい
が観察できる方法はないか?」
う優れものであった。この材料の入手によって血液ポンプ
この年の日本 ME 学会で国立公衆衛生院の浅野牧茂先生
の製作時間は 10 分の 1 以下に短縮された。そして 1972 年,
が,ウサギの耳に透明なチャンバーを装着して顕微鏡下に
念願の OED 弁を内蔵した PVC ポンプが完成し,拍出量も
微小循環を長期に観察していることを発表された。
「これ
シリコーンゴム製ポンプの 3 倍も出るようになった。けれ
だ!」と講演直後に浅野先生にお目に掛かって共同研究を
どもヤギは一向に長生きしなかった。5 ∼ 7 日で 151 時間
お願いした。
直ちにウサギ用の人工心臓(容積 2 cc)を作り,
ヤギで経験した貧血,低タンパク,起立不能,食欲不振,無
浅野先生立ち会いの下 FTAH の実験を行った。これで何か
尿,便秘で再現性良く死亡した。対症療法としての輸血や
大きなヒントが得られると全員が期待した。けれども「末
ステロイドの投与は延命どころかかえって死を早めた。皆
梢は良く流れており,微小循環独自の生体リズムも保たれ
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ており,正常ですね」というのが浅野先生の結論であった。
皆半ばがっかりしたが,同時に自信にもなった。
た。Kolf f 教 授 の 研 究 室 で は 毎 朝 8 時 ∼ 8 時 半 の 30 分 間
「モーニングカンファレンス」を行い,研究室内の研究経過
「末梢は人工心臓下でも正常に維持できているのだ」
「で
の報告や訪ねてきた客人に話をさせるのが常だった。Kolff
教授は「明日お前に 5 分やるから何かしゃべれ」と言ってき
は何か別の要素があるに違いない」。
当時の人工心臓の制御は,Kolf f グループの「Starling の
た。私は「5 分じゃしゃべりきれない,30 分よこせ」と主張
法則に従い,静脈圧に応じて心拍出量を増やすべきである」
した。彼はニヤリと笑って「じゃあ 15 分やる」と言ってく
という主張が一般に認められており,我々もこれを踏襲し
れた。
ていた。しかし術後,Starling の法則に従って拍出量を増
翌朝,私は 16 ミリの映画とスライドを交えて人工心臓ヤ
やしていくと心拍出量は次第に多くなり,正常値(80 ∼
ギが元気に立っている姿,ウサギの人工心臓と微小循環の
100 ml/kg/min)の 2 倍にも達することがあること,心拍出
話を得意気に披露した。当時,米国では人工心臓を装着し
量の増加と貧血,低タンパクの度合い,尿量の減少が相関
た動物はまだ立ち上がれない状態であったので,この講演
していることなどに気がついた。「ひょっとすると心拍出
は大いに受けた。カンファレンスが終わると Kolf f 教授が
量が多過ぎるのではないか?」という疑問が湧いた。そこ
「お前のやっている研究は非常に面白い。オレの研究室に
来ないか」と誘ってくれた。私は即座に「いやだ」と答えた。
で以下のような仮説を考えた。
「望んでいない過剰な心拍出量が来ると,末梢はそれを
彼は「オレが誘ってノーと言ったのはお前が初めてだ。何
防ぐために細動脈あるいは毛細血管前括約筋を緊張させ
故ノーなのか」と不思議かつ不満そうに尋ねた。
「私は渥
る。自然心臓と異なり,人工心臓ではそれにお構いなしに
美教授のところで自分のやりたい研究を何でもやらせて
駆動空気圧を上げて無理矢理血液を送り込もうとする。そ
貰っている。だのに何故この研究室に来なくてはいけない
の状態が長く続くと最終的には末梢は壊死に陥り,総末梢
のか」これが私の最終回答であった。Kolff 教授は「判った。
循環不全の状態で死に至る」。
その代わり来たくなったら何時でも手紙を書け」と言って
この仮説に基づいて,心拍出量が上昇したら静脈圧を無
視して心拍出量を強制的に 100 ml/kg/min に減らして維持
する実験を行った。全てのデータは思った通りに動き,
くれた。この件以来,彼は私あるいは東大グループをずっ
とライバルとして扱ってくれた。
こんなことがあった。1984 年,我々が 344 日という世界
1974 年 12 月,遂に 30 日の生存が得られたのである。「遂
最長生存を記録し,ASAIO(American Society for Artificial
にやった!」とその日は OB まで駆けつけどんちゃん騒ぎ
Internal Organs)で報告した帰途ユタ大学に寄り,Kolff 教
になった。
授の部屋を表敬訪問した。この記録は彼の研究室が保有し
このようにして心拍出量を 80 ∼ 100 ml/kg/min に固定
ていた 297 日という最長生存を破ったものだった。Kolf f
する制御方法が確立した。従来の Starling の法則に基づく
教授は私の顔を見るなり「おめでとう。オレの所は 300 日
制御と比べてみると,生存時間だけとっても最長 / 平均生
生きてないが,お前の所はそれを大きく越えた。うらやま
存日数は Starling の法則制御群が 10/4.5 日(11 例)に対し,
しい。今夜はお祝いに何でもご馳走するぞ」と言ってくれ
心拍出量固定制御群が 100/36 日(19 例)とその効果は歴然
た。この話には後日談がある。1986 年,Kolff 教授が第 2 回
としており,生存状態(食欲,尿量,便量,行動など)もほ
の日本国際賞を受賞し,東京でそのお祝いの会が催された。
ぼ正常となった。しかし,制御の問題はこれで完全に解決
参会者全員が思い出も含めてお祝いの言葉を述べた。私は
されたわけではない。軽度の貧血,静脈圧の漸増とそれに
上記の話をした後,最後にこう付け加えた。「今日はお祝
伴う肝不全,甲状腺ホルモンの低下などがなお問題であっ
いに好きなものを何でも食べてよろしいと言いたいところ
た。この解決に対する挑戦はこのあとさらに 10 年続けら
ですが,我が国の大学の教官の給料は極めて安いので,気
れ,電気刺激による病態生理の改善などを経て,最終的に
持ちだけで我慢して下さい」
。Kolf f 教授は「You are ver y
阿部裕輔氏(現東大大学院医学系研究科准教授)の発案し
fun」と言ってニッコリ笑ってくれた。
た 1/R 制御で完成を見る。これによって,全ての病態生理
的現象は無くなり,1995 年,532 日という世界最長生存が
7. 臨床用補助心臓の開発
OED 弁を内蔵した PVC ポンプは極めて優れた機能を示
得られている。
6. 君達はライバルだ! —Kolff 教授との出会い—
Kolf f 教授に初めてお目に掛かったのは 1972 年であっ
したが,抗凝固剤を一切使用しない実験では,100 日間と
いう当時の最長生存は得られたものの,ポンプ内は血栓だ
らけで PVC の抗血栓性の限界をはっきり示していた。そ
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こで,Avcothane という抗血栓性材料を PVC 表面に被覆す
の弁枠(チタン製)とポンプの隙間を中心に輪状血栓を生
ることを考えついた。この材料の抗血栓性は期待通りで,
じるという問題を生じた。これを解決するために Jellyfish
抗凝固剤を一切使用しなくても有形成分の付着はほとんど
弁を考案した。自転車のスポーク状の弁座の中心にポリウ
認められなくなった。同時に人工弁は耐久性の点から臨床
レタンの薄膜を接着するという簡単な構造で,血液ポンプ
用 Bjork-Shiley 弁を採用した。
内面に一体化して接着できる。この弁は人工心臓の動物実
1981 年,我々の人工心臓に日本ゼオンとアイシン精機の
験でも機能,抗血栓性に優れ,耐久性も十分という良好な
2 社が補助心臓開発の興味を抱き,共同開発を開始した。
結果が得られたが,1 年近く経つとまた新たな問題が生じ
しかし,これには事件とも呼べる布石があった。
た。弁膜にカルシウム沈着が生じたのである。一瞬がっか
1979 年,我々は,東レが通産省工技院医療福祉機器開発
りしたが,この弁膜を種々の方法で分析してみると非常に
プロジェクトで開発したサック型ポンプをヤギにより評価
興味深い現象が見つかった。まず平膜であった弁膜がス
する実験を行い,232 日と 288 日という長期生存を得,同時
ポークとスポークの間の部分で伸ばされ凹凸状になってお
に行っていた Avcothane 被覆 PVC ポンプでの 243 日と並ん
り(クリープ疲労),さらに面白いことには,カルシウム沈
で,同時に 3 頭のヤギが世界最長生存記録をうち立てたと
着は凹凸状になった膜の伸ばされた側の面のみに生じてい
いうことで大きなニュースとなっていた。そんなある夜,
た。このことから,カルシウム沈着の成因に関して新しい
丁度私がヤギ当直をしている時,渥美教授から緊急の電話
仮説を作ることができた。
「繰り返し応力によって材料が
が入った。三井記念病院で術後の患者が回復せず,どうし
伸展すると高分子材料の分子間にミクロの隙間を生じ,そ
ても補助心臓を着けて欲しいという要請があったというも
こへ血漿タンパクやリン脂質が入り込み,リンやカルシウ
のであった。ポンプは東レ製の新しいものが滅菌された状
ムを引っ張り込んでリン酸カルシウムの結晶を形成する」
態で在庫があった。駆動装置は藤正先生が作ったものを緊
というもので,海外で生じているカルシウム沈着の様子も
急消毒して深夜小型トラックで運び込んだ。手術および術
これでよく説明できた。この論文は本学会の 2002 年度の
後管理の担当医は許先生(現東大客員教授)であった。手
論文賞をいただいた。私が当学会の副理事長をしていた時
術は成功し患者は一時小康状態になったが,結局 1 日半で
に学会の活性化をねらって企画したこの賞を自分が受賞す
亡くなった。このポンプの使用に関しては事前に通産省工
ることは全く想定外だっただけに,感激もひとしおであっ
技院に断る時間がなかった。東レはその点で公にしないこ
た。その後,早稲田大学の岩崎清隆君(当時梅津研究室大
とを使用に当たっての条件としていたため,公表しなかっ
学院学生,現高等研究所准教授)が弁抵抗を増さずに膜の
た。しかし,これは第 3 者から見ると患者が亡くなったの
歪みを最も少なくする新しい構造を考案し,Jw(Jellyfish
で,隠したと思われた。1 週間後には新聞各紙の 1 面トッ
Waseda version)弁として刷新され,その耐久性はほぼ 10
プ記事となり,
「人工心臓で患者殺す!」「人工心臓で患者
倍近くになり,動物実験でも好成績が得られている。転ん
2 日生かす」などセンセーショナルなタイトルが踊った。
でもただでは起きないという研究者魂の例である。
さらに 1 週間後には週刊誌が多数押し寄せてきた。さすが
の渥美教授もすっかり弱気になっていた。我々もこれで補
9. 医学会総会の思い出
助心臓の臨床応用は遅れるなと思った。しかし,企業は別
医学会総会は医学会のお祭りであり,ここでは楽しい思
の見方をしていた。先の 2 社は,
「社会がこんなに関心を
い出がある。1983 年大阪での第 21 回総会の時,渥美教授
持っているのなら大きなビジネスチャンスである」と考え
に人工心臓関連の展示の依頼があった。丁度アイシン精機
た。この両社は我々のノウハウをほぼ忠実に技術導入し,
と日本ゼオンの臨床用補助心臓(いわゆる東大型)の試作
安全性,信頼性,量産性を高める努力を加えた。そして
機ができたところであった。展示としてはこれらを出展す
1983 年から日本大学の瀬在幸安教授(当時心臓外科,後に
れば十分なのだが,何か物足りない。
「ヤギに人工心臓を
総長)が中心になって臨床試験,臨床治験が開始された。
装着して大阪までトラックで運び展示しよう」と誰ともな
かくして 1990 年,東洋紡社製の国循型と共に世界で初め
く言い出した案に反対する者は誰もいなかった。何事にも
ての国の製造販売認可を得た臨床用補助心臓が誕生したの
挑戦する,やると決めたら直ちにやるというのが渥美一家
である。
の伝統となっていたからである。直ちに総会本部と交渉し
て展示ブースの一角にヤギを展示できるスペースを作って
8. Jellyfish 弁の開発とカルシウム沈着仮説
もらった。誰も手術に失敗して運ぶヤギがいないとか,運
臨床用ポンプにも使用されている Bjork-Shiley 弁は,そ
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搬中あるいは展示中に事故や故障,血栓などでヤギが死ぬ
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美教授がこの 500 km の人工心臓ヤギ運搬の報告を行った。
座長の Kolf f 教授が「来年は ASAIO にヤギを運んでくるの
か?」と冗談で質問したが,この十数年後,日本から補助
心臓を装着した患者がチャーター機で心移植を受けに来る
時代が来るとは誰も考えていなかった。
10. まとめ
私の歩んだ道を書け,という編集委員会からの依頼を受
けた。書くことは山ほどあった。読んで若手の研究者のた
めになること,かつ面白いことに焦点を絞った。筆のおも
むくままに書いていたら 400 字詰め 20 枚(図表含む)の依
図 2 第 21 回医学会総会に運搬展示された完全人工心臓ヤギ
(1983 年)
頼に対してあっという間に図表無しで 56 枚にもなってし
まった。これを半分以下にどう縮めるかが大問題であった。
そのために迫力がなくなった点も多々あると思う。
人工心臓の研究ほど奥が深くて面白い研究はない。単に
など考えなかった。それほど当時の我々のチームには自信
小型で高耐久性,高生体適合性のハードウエアの開発とい
があった。
う工学的興味に留まらず,生体をコントロールすることに
1983 年 4 月 1 日の早朝,ヤギ 1 頭,駆動装置 2 台,バッテ
よって生体を知ることができるという医学的,生物学的興
リー多数に藤正,井街,中澤(アイシン精機)を荷台に乗せ
味が人を引きつけるのである。渥美,能勢ら多くの先人達
た大型トラックが本郷を出発した。ばかげた企画にマスコ
を見ても,人工心臓の研究に一旦とりつかれた人は,引退
ミも後を追いかけてきた。途中仮眠を取り,翌日早朝大阪
後も自分は現役であるという意識を変えようとしない。私
に到着,無事総合展示会場のブースに収まった。国立循環
自身もそういう年になってきた。しかし,38 年に及ぶ私の
器病センターも我々の話を聞き急遽左心バイパスヤギを展
人工心臓への挑戦はまだ終わったと思っていない。心臓移
示したので,この年の医学会総会は 2 頭のヤギの共演で異
植を凌駕する完全埋込型人工心臓の時代が必ず来ると信じ
様な活気に溢れた(図 2)。そして見事 2 頭のヤギはお役目
て,その完成に自分も寄与するんだという気持ちは今も持
を果たし,東京と吹田へ戻って行った。翌年の ASAIO で渥
ち続けている。
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