徳川将軍と贈物 - ScholarlyCommons - University of Pennsylvania

University of Pennsylvania
ScholarlyCommons
Department of East Asian Languages and
Civilizations
School of Arts and Sciences
2016
徳川将軍と贈物
Cecilia S. Seigle
University of Pennsylvania, cseigle@sas.upenn.edu
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Seigle, Cecilia S., "徳川将軍と贈物" (2016). Department of East Asian Languages and Civilizations. Paper 10.
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徳川将軍と贈物
Disciplines
Arts and Humanities | Asian History | Cultural History | East Asian Languages and Societies | Japanese
Studies | Social History | Sociology of Culture
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婚姻と贈物
1
贈物はいろいろあるが、冠婚葬祭のうち、とくに筆者の興味を引くのは結婚祝いの贈物
である。江戸城中心の贈物活動をしらべてみて、五代将軍綱吉の時代は特に贈物活動が
盛んであり、その中でも面白く思われるのは徳川将軍の姫君の婚姻の場合で、これは世
界の歴史上にも珍しい例ではないかと思えたので婚姻の贈物を調べてみた。珍しいとい
うのは将軍綱吉が、実の娘および養女たちの御資装(嫁入り道具)を命令によって大名
たちから集めたからである。
A. 一般論としての結婚と贈物の関係
B.平安期の政略結婚
C。戦国時代の政略結婚、人質、婚姻政策
D。江戸時代武家の結婚
E. 徳川将軍の養女と政略結婚
F. 花嫁代償から持参金
G. 将軍の姫君嫁入り支度
H.綱吉の姫君婚姻御資装集め
I. 姫君の祝義贈物交換
J. 大奥の伝統執着
K.不可解な養女縁組
L. 吉宗の将軍相続
M. 竹姫君-吉宗時代の婚姻と贈物の謎
O. 吉宗以後の姫君婚姻御資装集め探し
P. 結論
A. 一般論としての結婚と贈物の関係
結婚と贈物ということの関係について考えてみると、三つのおおまかな相互関係が考え
られる。第一に、冠婚葬祭といわれるように、結婚は人間の一生の歴史のなかで一番重
要な行事のひとつである。今では一生にただ一度経験するのは出生と死亡だけ、結婚は
一度も経験しない人もあれば十回に近い結婚をする人もいる。二回三回の結婚の経験を
する人はさらに多い。けれども二度以上というのは今もって特殊なケースと見られ、今
でも大多数の人たちは何度も結婚するつもりで式にのぞむのではない。当事者は一度の
結婚が一生続くことを願い、他の人たちはそれを祝って贈物をするのがふつうである。
その場合、個人的に、花嫁だけが使える物を贈る人もいるが、多くの場合、若い夫婦が
所帯を持つために必要な物を贈る事が多い。この習慣も東西共通に見られるが、西欧で
その習慣が民間に定着したのは十九世紀のことだという。上流階級には東西ともに早く
からその習慣はあり、日本でその記録があるのは平安時代からである。
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第二の問題として、人間と結婚の贈物の関係を見よう。それは花嫁自身が贈り物である
という考えである。フェミニストのルース・イリガレイは「世の中は女の交換でなりた
っている」と書いている。 (Luce Irigaray. "Women on the Market" Alan
D. Schrist, ed. The Logic of Gift (Routledge, 1997]. 174) 娘を褒美
として家来につかわすとか、一族の政治的、経済的勢力をかためるために娘を強力で裕
福な権勢者に与えるというやり方が昔からあった。東南アジアでその習慣を観察研究し
たレビ=ストロースが、女性は贈り物としては最高に価値付けらる商品、贈物と見られ
ていることを指摘した (Claude Levi-Strauss, The Ełementary Structures
of Kinship [French original, 1949]. London. 1969, Trans., James
liarle Bell, John Richard won Strusser, and Rodney Noodham
[Bostom: Beacon Pross, 1969, p. 363)
イリガレイの言葉はその極端な見方を盾にとっての抗論である。彼女はレヴィ=ストロ
ースが「女性はすべて望ましいわけではないので、たとえ男女の人口が半々であったと
しても、消去法によって少数になる」と書いているので「それでは男はみんな同様に望
ましいのか」と反論した。息子を贈り物にしてあげるという話は聞かないが、日本でも
昔から財産や地位のある人々が世継のない場合、血統的に自分に一番近い男性や少年に
家と家職を継がせたり、養子にしたりする習慣は存在した。日本の封建時代には後継者
がなければ家系が絶えてしまうという規制があったから、多くの武家が養子を余儀なく
されたからである。それから実際の世継がその器でない場合、養子を迎えたり、娘にす
ぐれた婿を選んでその人材を世継にする方法が江戸時代にはしばしば行われた。しかし
男の子を贈物と見なした様子はない。ところが娘を贈物として与えるという考え方は太
古から東西に共通した見方であったようである。おとぎ話の王様や領主が娘の婿をさが
すのに難題を出して、それを解いた人間に褒美として娘を与えるという話は世界共通の
民話パターンである。また同じような権力者が外部から難題をかけられてそれを解決し
なければ国の存亡にもかかわるという危機に、その問題を解決したり、外敵を追い払っ
てくれた若者に娘を褒美として与えるという話はよくあった。(櫛名田比売[くしなだひ
め]と須佐之男命、大国主尊、[古事記 p.117]、親指太郎、ものぐさ太郎, プッチーニ
のオペラ、トゥーランドットなどにある。)
日本の神話では安康天皇が自分の弟のためにオオクサカノミコの妹をもらってやる。オ
オクサカノミコは天皇からの命令を予期して妹を風にもあてないように大切に育ててき
たから喜んで差し上げましようと言った。その時結納を送っている。木の形に作った押
し木の玉鬘であった。娘や妹を与えるということは普通の贈り物よりもっと外の意味が
あるのである。統率者の場合、娘を与える人物を自分の後継者として撰び、娘や妹の保
護者として彼女をゆだねるということであった。相続法で女性が財産を相続することが
認められている国や民族では娘や妹の結婚によってそれだけ財産が減るということにも
なる。これは後述の第三の観点にかかわるが、彼女がもし生産力を持ってい入る人なら
ば、その家族の収入がその生産高だけ減少することになる。したがって多大な利害損得
関係がからんでいて、食べ物や刀を贈るのとは全然違うのである。しかし世の中の男女
ジェンダー二種類の一方が、他方を物質視するというのは失礼な話である。人間が他の
人間を奴隷化することが不道徳なように、個人の意志をすこしも尊重せず物のように他
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人にあげてしまうのは人権に反する。にもかかわらず、女性を贈り物とすると言う考え
方は人間が人権について目覚める大分前のことだから、何世紀もの間それが通用してい
た。
第三に結婚について花嫁代償という考え方を江守五夫氏は次のように書いている。
ところで、妻方居住婚から夫方居住婚への移行に重要な役割を果たした慣習
と考えられるものに、「花嫁代償」(bride-price)があげられよう。花嫁
代償とは、結婚に際して夫 (ないしその親族) が妻方の親族に提供するある
種の物品ないし金銭である。そもそも結婚に際しては夫方と妻方の両親族の
あいだで儀礼上の贈り物の交換がおこなわれるのが一般的であり、そのよう
な儀礼的な贈与は、今日の社会においてもそうでありそれほど高額なもので
はない。それ故そのような儀礼上の贈与が夫方から妻方へなされても、それ
はけっして代償的な意味をふくんではいない。
実際、ある場合には花嫁の持参財産がそれに匹敵したり、ないしは価値にお
いてそれを上まわることさえある。しかし、人類学者が「花嫁代償」という
術語でよんでいるものは、夫側が妻をもらうために妻方の親族にたいして
"支払われる代償”というより積極的な意味をもち、またそれだけに高額に達
しているものである。そしてそれが多額な価値のものとなり「対価」的ない
し「有償」的な性格をおびるとその婚姻は通常「売買婚」(marriage by
purchase)とよばれるのである。
(江守五夫『歴史のなかの女性』 彩流社。 1995, p. 97)
そうして江守氏はこの代償は、妻方居住婚が衰退する過程で、妻方の親族に女性(妻)を
外へやらない決心を諦めさせ、夫方に引き渡す事を承諾させるための代償として発生し
たと書いている。これは西欧の人類学者たちが種々の文化圏で実地観察して得た結論で
ある。(江守、p。97) 女性がその家族のために重要な労働力を提供していたのに、そ
れを失うことになるので、その代償なのである。特に妻方居住共同体ならば夫が来て労
働を提供するはずなのに、その反対になれば特に損害は大きいからである。だから家父
長制社会に入ってからの「妻の人身にたいする代価」という意味はないので、この形の
結婚を人身売買を連想させるような「売買婚」と呼ぶのは避けた方がよいと江守氏は書
いている (江守、 98)。
クロード・レヴィ=ストロースの近親についての研究は親類家族の組織の下に一つの大
きな交換組織という象徴的な構造を考える見方である。その交換の主要要素は結婚であ
って、縁組みできる関係のグループとそれを禁じられている関係のグループにわかれて
社会の法則、道徳規律がつくられている。 そうして交換の贈物は花嫁であるが、花嫁
の位置によって各家族なりグループが債権者と負債者の位置にわけられるようになって
いるのである。親族関係が結婚 (贈物としての娘の交換) をつくり出し、道徳を生み
出し、結婚が親族関係をつくり出す。その関係がまた経済を支配し (物質の分配をきめ
る) 新しい階級組織を定義する。
B.平安期の政略結婚
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娘を贈物にするという考えは平安以前からあった。庶民はいざ知らず、平安貴族の結婚
は全部政治結婚であり、上流階級では、はっきりとした政治的意図のない結婚などなか
ったといってよい。それも一般論と同じように娘を贈物にして何かを得るという考えか
らきている。奈良時代、あきらかに政治的目的をもって娘を天皇に進めたのは (或いは
それがはっきりと歴史に現れているのは) 二人の娘、小姉君と堅塩媛を欽明天皇と結婚
させた蘇我稲目が始めてだろうと思うが、藤原氏はそれに工夫を重ねて政略結婚を完全
に政治的技術にまで磨き上げた。娘がいなければ養女をして入内させるという方法も藤
原氏が発明した。子供は多ければ多い程よかった。娘は朝廷に捧げる贈物になり、男の
子は政治の要所につかせて家門を固めるために必要だった。藤原北家の娘達はことごと
く天皇か、未来の天皇、皇太子の配偶者に擬せられて入内させられた。はっきりと女御
、更衣でなくても御櫛笥殿とか尚侍とかの職掌で天皇の身辺に配置された。
この方法を一番効果的に使って成功したのは藤原道長で、四人もの娘(彰子、姸子、威
子、嬉子) をそれぞれ女御、中宮の座に配すことに成功した。『栄華物語』(全三冊、
小学館、新編日本古典文学全集) 巻 20 の 27 の噂によると、長和五年、もう一人の娘
寛子も東宮敦明親王の女御にする計画だったが、敦明親王(二十四歳)は皇太子の座を
辞退して小一条院となった。(『栄華物語』 上巻:ゆふしでの巻、1:106ー107, お
よび大日本古記録『御堂関白記』寛仁元年 1017/8/4、p。149)。
しかし道長は最終的には計画通り,御匣殿だった寛子を小一条院と結婚させた。
三女威子(二十歳)の後一条天皇(十一歳)への入内は寛仁二年(1018)三月七日、立后は
同年の十月十六日であった。その立后を祝う宴席で公卿たちを前にして大満足の次の歌
を詠んだことはよく知られている。
この世をば、わが世とそ思う望月の欠けたることもなしと思えば
(小右記、小野宮右大臣藤原実資の記録) この世で自分の思いの儘にならない事は一
つもない、という大威張りの歌である。グーグルによると、実資は批判的で、この歌に
対しても、唱和を要求した道長に対し、「御歌優美なり。酬答に方なし。満座只だ此の
御歌を誦すべし」と言って婉曲に辞退したそうである。この歌は『小右記』に出ている
だけで、道長の記録『御堂関白記』には出てこない。
小右記増補史料大成、2、別巻, 小野宮右大臣藤原実資の小右記、寛仁二年十月十六日
(p.205)
続いて道長直系の孫二人が天皇 (彰子と一条天皇の皇子たち、後一条天皇、後朱雀天皇
) になり、後には長男教通の娘たち、生子が後朱雀女御に、歓子が後冷泉の中宮にり、
次男頼宗の三人の娘が小一条院の女御、後朱雀天皇の女御、と後三条天皇の女御になっ
ている。道長は娘や孫たちが同じ天皇の後宮で不幸になってもかまわなかったのである。
平安時代に政略結婚という手段がなければ日本歴史はずいぶんちがった方向にすすんで
いただろう。クレオパトラの鼻についてのパスカルの卓見は偶然による世界史の進路を
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皮肉ったものであるが、藤原氏の政略結婚は藤原彰子が不美人だったらとか、男の子を
二人生まなかったら、というような一度の偶然、道長一代の幸運ではなくて、藤原不比
等以来三世紀にわたって計画的にすすめられ、構築された「娘=贈物」政策であった。
この方法は平家に踏襲され、貴族化した平氏はそれぞれ娘を入内させたが、始めに娘に
次の世の天皇を生ませることに成功したのは平時信である。娘の滋子 (建春門院) が
後白河天皇に入内して高倉天皇を生んだ。滋子は清盛夫人時子の妹で、清盛と時子の娘
徳子が高倉帝に人内する路線を築いた。清盛の八人の娘はそれぞれ有力な朝廷人と結婚
したが、天皇の配偶者としての徳子が、清盛が最も望んでいた未来の天皇を生むことに
成功し、清盛は天皇の外祖父となった。そうして外孫安徳天皇と自分の老妻二位局の悲
劇的な最後を知らずに死んでしまった。建礼門院徳子は孤独な晩年を、幼いまま入水強
いられた安徳天皇の菩提を弔って大原の寂光院で三十年近く永らえた。
もう独り清盛が勝手に天皇への贈物にした娘がいる。厳島内侍が生んだ巫女姫君で、高
倉院がさまざまな悩みで病気になって二十歳で崩御したあと、不幸のつづいた後白河院
を慰めるためという口実で清盛は十八になる巫女姫君を法皇へ贈った。
上臈女房たちあまたえらばれ、公卿殿上人おほく供奉してひとへに后御人内
の儀式にてぞありける。「上皇かくれさせ給ひてのち、わづか三七日だにも
過ぎざるに、いつしかかくある例、しかるべからず」とぞ人々はささやぎあ
はれける (『平家物語』新潮日本古典集成、新潮社。1963.中巻:128)
と批判された清盛の独断横暴の一つであった。
嫁入り道具については厳密には贈物ではないのだが、親がそれらを娘に贈って娘の前途
を祝うのであり、やはり贈物の一種といえよう。他家からの贈物も大切であったが、
何よりも目ざましい贈物は親が娘のために心を入れて準備するさまざまな必要品であり、
それがはっきり見える平安朝を見ると、多くの藤原大臣は早くから娘の嫁入り支度をと
とのえた。
特別目立つのは藤原道長の長女彰子が一条天皇に入内した時の支度である。道長は豪華
な道具を作らせただけでなく、あらゆる準備に手をつくして彰子を嫁入らせた。道長は
娘が適齢期になるのを長い間待ち切れない思いでいたが、彼女が十二歳になったのでそ
うそうに人内を決定したのである。
一条天皇はすでに四歳年上の定子中宮と結婚していて二人は仲睦まじかったが長徳元年
(995) に定子の父関白道隆が急死してから、中の関白家は定子の兄の伊周と弟の隆家
の浅慮な行動から謀反者扱いにされ不幸が重なった。道長の彰子人内準備は『栄華物語
』(全三冊、小学館、新編日本古典文学全集、1995.1:299-310。かがやく藤壺)が
描写しているように、絢爛たる道具「御几帳、御屏風の襲まで、みな蒔絵、螺鈿をせさ
せたまへり。女房の同じき大海の摺裳、織物の唐衣など、昔より今に同じやうなれども
、これはいかにしたるぞとまで、見えける」という風で、お供の女房は四十人、童女六
人、下仕え六人すべてえりすぐって美しく育ちのよい人々を集めたのだった。
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彰子は藤壺に入るのだがその御殿は「照り輝きて女房も少々の人は御前に参り仕うまつ
るべきやうも見えず、いといみじうあさましうさまことなるまでしつらはせたまへり」
(『栄華物語』1:303,かがやく藤壺)。 明らかに道隆時代を遥かに超えた栄華である
。女房達全部が着ている八重紅梅の模様の上着はすべて唐綾であるという賛沢さ。道長
は天皇の心を定子中宮から彰子に移そうとありとあらゆるものを取り揃えた。名香、櫛
箱、硯箱など珍しいものばかり。巨勢弘高の描いた絵草子、藤原行成の書いた歌集、若
い天皇はさすがに見るものすべて心惹かれるものなので政治がおろそかになると冗談を
いうくらいであった。(同上、1:305)
道隆の弟、道長の兄の道兼が羨ましがって「粟田 (道兼の山荘のあった所) といふ所
にいみじうをかしき殿をえもいはず仕立ててそこに通はせたまひて、御障子の絵には名
ある所々をかかせたまひてさべき人々に歌詠ませたまふ。世の中の絵物語は書き集めさ
せたまひ、女房数も知らず集めさせたまひて、ただあらましごとをのみいそぎ思したる
も、をかしく見たてまつる」(『栄華物語』1:168ー9,さまざまのよろこび)とある。
これは入内させる娘もいないのに支度ばかりに力を入れている道兼の事を世間の人たち
が笑っているのである。
道長が彰子入内のために整えた仕度が目立って華美であったので、それを基準としたそ
の後の入内の支度や贈り物は次第に賛沢になっていった。時代がすすむにつれて多くの
摂関家の姫君が天皇家に嫁ぐのに、結婚の贈物は外見が立派であるだけでなく、名声を
もたらす物品ほどよいとされるようになった。ふつうの品物ではもう面白くないといっ
て特別仕立ての物を作らせた東宮大夫の藤原斎信の挿話が十一世紀にすでにその兆候の
あったことを示す。(『栄華物語』2:21ー22,つぼみ花)。 江戸時代の将軍も家光は特
別の嫁入り道具をつくらせたが、五代将軍綱吉はその大部分を大名からの贈物でまかな
うことになる。
平安時代の嫁入り支度は時代の平和、藤原氏の繁栄、政略結婚の花盛りとあいまって、
いろいろな描写が残っている。正暦二十二年 (991) 十二月、藤原済時は東宮居貞親王
(後の三条天皇) の望みで娘の娍子を入内させる準備をしなければならなかったが、村
上帝の時済時の妹の宣耀殿女御芳子が非常に帝に可愛がられて多くの調度品を作っても
らった事が役立った。それを全部相続し、娍子のためには御装束と女房の装東だけ準備
すればよかった (『栄華物語』1:185、みはてぬゆめ)。
道長は娘だけでなく長男の嫁取りにもいろいろ心を配ってその支度品を贈った。寛弘六
年(1009)、長男の頼通がまだ結婚していなかったので、村上帝第七皇子中務宮具平親
王の王女隆姫をもらうことにした。隆姫の母親は源高明の娘で血統は申し分なく、具平
親王は学問にも陰陽道にも医学にも驚く程蘊蓄のある人物であった。 彼は娘を帝に入
内させたいと思っていたのだが, これも宿世だと思い、また頼通の様子もよく、娘に対
する愛情も深いらしいので満足した。結婚式の様子は当世風で女房二十人、童女と下仕
が四人づつ、「よろづいといじじう奥深く心にくき御有様なり」。今は見られない薫衣
香という世に有名な香なども使われた。「姫宮の御年十五六ばかりのほどにて御髪など
督の殿 (頼通) の御有様にいとよう似させたまへる心地せさせたまふに、めでたき御
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かたちと推しはかりきこえさせたまふへし」。それで中務宮も大満足であった (『栄華
物語」1:435ー436、はつはな)。
一条帝の東宮は冷泉天皇の皇子居貞親王 (後に三条天皇) であった。寛弘七年(1010)
二月二十日 (栄華物語では、寛弘六年[1009] 十二月になっていて史実と違っている
が、描写は事実に近いのではないだろうか) 道長は計画通り、十六才になる娘の一人姸
子(母は倫子) を東宮に人内させた。
結婚のお道具類も、彰子中宮の時、世間で「輝く藤壺」ともてはやされたが、姸子の人
内は比類のない程立派であった。彰子入内からもう十年も経っているのだから、栄光の
一途をたどる道長家の豊かさも増すばかりであった。東宮居貞親王が姸子の嫁人り道具
を片っ端から広げて御覧になると、道長夫人倫子や君達が競争で準備したかいあって、
御櫛筥、小筥の中身はもちろんのこと、何もかも眼を見張るようなものばかりだった。
相当前から東宮の女御だった宣耀殿女御娍子の所には前述したように村上帝が昔宣耀殿
女御芳子のために用意された蒔絵の御櫛筥一双が保管されていた。それらを東宮はたい
へん立派だと思っていらっしゃったのであるが、姸子のとくらべると、前の物は格別古
臭く見えるのだった。これはやはり時代に従う目移りなのだろうかと居貞親王は思われ
たが、やはり目の前の道具がすばらしいので、呆れるくらい徹底した道長の心遣いに感
心された。専耀殿女御のお調度のなかの屏風は為氏、常則などが描いて色紙形は小野の
道風の名筆で書かれたもので相当昔の物で美しかったが、姸子のいくつかの屏風は巨勢
弘高の描いたものに藤原行成が賛を入れたもっと近代風で立派な物である。それとこれ
とどこに優劣があるだろうかと居貞親王は思案にくれていらっしゃった (『栄華物語』
1:444ー445、はつはな)という描写で道長の娘に贈った嫁人り道具への心入れがしの
ばれる。
『栄華物語』は全部が事実の記録でないにしても十分信頼に値する記述である。『源氏
物語』のいろいろな結婚の支度も、誇張ある物語に過ぎないが、その雰囲気や支度品の
種類や描写はある程度信用できる。それは紫式部が宮廷生活、道長家の栄輝ぶりをとく
と観察して書いた『紫式部日記』でもわかるのである。また道長の『御堂関白記』は父
親として誇りに思う娘たちの入内準備の様子など簡潔ながら華やかさが十分うかがえる
。
『御堂関白記』の中の十月十六日の威子の立后の儀式について道長は珍しく長い記人を
している (1018/10/22、寛仁 2 年、下巻:25ー28) この日の働きを謝して道長は修
理典侍 (天皇の理髪) と宰相典侍 (天皇の陪膳) に贈物をした。各薫香を入れた銀の
小箱一双が銀枝につけられていた。地に螺鈿をほどこした火取は銀籠。蒔絵の細櫃には
女装束と長絹がそれぞれ十五疋人れてあった。それらを二人の典侍の退出用の車の中に
入れた。同じく宮中から手伝いに来た掌侍への贈物は女装束、絹七走、道長家からの手
伝いの女方には白褂・袴・絹五疋。髪上げ、きぬがさ、御額の者に白褂・袴・絹三疋と
道長が着ていた衵などを与えた。自余の四人には褂一重・絹二疋を与え、采女に白複褂
を贈った。太皇太后彰子は妹の立后を祝って額髪飾り、全部白の御装束、袴、綾掛を贈
り、威子はそれらを立后式のために着た。(寛仁二年、下巻:24-25) その日以後も道
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長は家族の他の面々、妻倫子の女房たち、三十人以上の内侍所の女官たちに多くの物を
贈っている。(1018/3/25) これは多分威子が入内する前に尚侍として内侍所につとめ
たからだろう。
子供が政治的贈物に使われない場合を見よう。皇族貴族の男性達が次々に関係を持って
女性に子供を生ませたのは江戸時代の武家貴族も同じだったが、平安時代は後のように
自動的に門跡寺へ子供達を入れてしまうような残酷なことはしなかったようである。世
間の人が貴族の子供たちが出家することをどう見ていたかは清少納言が書いていること
でわかる。
思はむ子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。ただ、木の端などのやうに
思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進もののいとあしきをうち食ひ睡ぬる
をも若きはものもゆかしからむ、女などのあるところをもなどか忌みたるや
うにさしのぞかずもあらむ。それをもやすからずいふ。(『枕草子』新潮日
本古典集成、上巻、27。東京:新潮社、1977)
兼好法師も自分が得度していたにも拘わらず、
法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。『人には木のはしのやうに思はるる
よ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。いきほひまうに、ののし
りたるにつけて、いみじとは見えず、増賀ひじりの言ひけんやうに、名聞苦
しく、仏の御教にたがふらんとぞおぼゆる。(『徒然草』新潮日本古典集成、第 1
段、p。22。東京:新潮社、1983) 。
と書いている。畢竟僧侶になることは、有名な僧正になったとしてもあまりよくは思わ
れていなかったようである。
裕福権勢の家の娘達が政略結婚の贈物にされた一方、人口過剰の娘たちは父親が大臣や
皇族であっても親が早く亡くなって後楯がなくなれば、身の置きどころもなくて、親類
筋の中宮や女御の所へ出仕しなければならなかった。『源氏物語』にそんな人たちが何
人か出て来るのはやはり現実にそのような例が多かったからである。
実際の例をあげれば、一時は誇り栄えた中関白家の伊周の娘周子が、伊周や叔母定子中
宮の従姉妹、彰子大宮に出仕しなければならなくなった。七日関白の道兼(道長の兄)の
娘粟田の姫君も東宮女御威子の所へ強く望まれて涙ながらに出仕することになった。 (
『栄華物語』あさみどり、2:142)、母親の道兼夫人が泣いて「御調度どもは、故殿の
さまざまし設けさせたまへりしあめり。銀の御髪の筥さへあるこそ (お調度の品は亡く
なられた殿様がいろいろ用意なさったのがありますが、銀のお櫛箱まであるのに)」と
てまた泣きたまひ「世にかぎりなき御身とこそ思ひきこえたまひけめ (あなたのことを
類のない出世をなさる方と期待していらっしゃったのでしょう)」とてもまた泣きたま
ふ (同上、144) という状態であった。
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C.戦国時代の政略結婚、人質、婚姻政策
戦国時代に下がると女性はまるきり物品で、武将の娘達が政略結婚の贈物、或いは人質
としておおいに使われた。西岡虎之助氏は『日本女性史考』のなかで戦国時代の政略結
婚の残酷さの実例をいろいろ上げている。まず政略結婚の二つの意義は、一つには婚姻
によって親交をかたくし、今一つには万一の場合、人質にもなるべき子女をおくって他
意のないことをしめすのだと書いている(西岡虎之助『日本女性史考』株式会社新評論
、1977、p 172)。それはどちらにしても娘や妹が結婚する男性は他人であり、親兄弟
は血のつながる肉親であるからこそ効果を発揮するのである。そもそも結婚する当人同
士の間に愛情がないという前提に基づいている。そうして、そのように残酷なことをし
た男性は娘なり妹なりが、いざとなれば当然夫をうらぎって生家の父や兄に忠誠をみせ
ることを期待していた。これは非常に奇怪な考え方で物品のように扱われた女性は怒っ
て父や兄にそむいても当然であるべきだった。しかし戦国時代の女性は反抗したりせず
大人しく犠牲になってどこへでも命令のままに動いている。いいつけられるままに夫を
裏切ったり夫が亡くなれば何度でも言われるとおり再婚したりしている。又、すこし後
になるが徳川家康の姪で家康の養女になった満天姫など始めに嫁入った福島正則養嗣子
正之の子供を産んだが、自分の息子の直秀を殺して再婚相手の津軽信枚の息子の信義が
津軽家を再興するのを助けたという。 西岡氏があげた例のなかでもとくに娘や妹を贈
物扱いにしたのは武田信玄や織田信長であるがこれらは有名な史実であるから繰り返さ
ない。
秀吉は非常に無情なやり方で妹や養女たちを贈り物の形で政略結婚に利用した。異父妹
の朝日姫のケースやお市の方の三人の娘のこともよく知られている。とりわけ織田信長
の妹お市の方と浅井氏の三女、お江与 (お江、達子) など、秀吉は利用したいだけ利
用し、三度結婚させた。贈物としての女性のリサイクルであった。まず天正年間にお江
与を尾張大野城主(五万石) 佐治与九郎平一成(母織田信長妹)と結婚させたが、小牧の
一戦のあと家康が佐屋の渡りで船がなくて困っていたのを佐治が助けて船を都合したた
め、秀吉は立腹して「淀君病気」と称してお江与を呼び返し、離婚させてしまった。そ
の時「佐治は予が相聟には不足なり」といったそうである。お江与は十二歳であった。
その後秀吉はふたたびお江与を養女として養子の丹羽少将秀勝(織田信長四男)に与え、
一女が生まれた。この娘は九条関白幸家公に嫁ぎ後の関白道房公を生んだ。秀勝の死後、
秀吉は再度お江与を養女として今度は徳川家康を懐柔するために秀忠に六歳年上のお江
与をおしつけたのである。家康は秀吉に朝日姫を押し付けられただけでなく息子にも
再々婚のお江与を押し付けられてさぞ気分を害しただろう。しかし家康はまだそれを断
れない立場にあった時代である。秀吉はそれを見越して秀吉養女としてのお江与をたい
した贈物であるかのように秀忠に嫁がせたのである。この婚姻は文禄四年
(1595/9/17)に伏見城で行われた。お江与は破格に強気の女性であったが、秀忠が律
儀で穏やかな男性であったのでこの結婚は事なくすみ徳川家は栄えた。
結婚の仲立ちが大好きだった秀吉は、一方同じ文禄四年(1595) に婚姻法を発した。
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一、諸大名縁辺の儀、御意を得、その上申定むる事。
一、小身の儀は申すに及ばず、大身たりとも、みだりに目掛(妾)の女房、大勢相
抱えまじき事。
という法であった。婚姻が危険な大名どうしの条約につながる事は明らかだったからで
ある。亡くなる直前、慶長三年七月十五日、秀吉は諸大名に一子秀頼に対する忠誠を誓
わせ、また八月五日に家康、前田利家、長束正家、石田三成、浅野長政、前田玄以の間
で誓書を交わさせ、秀頼の将来を案じる遺書を書いた。
こうして娘を政略的に目上あるいは目下の相当の人物に与えることは各時代踏襲された
が、家康は秀吉のやり方から学んだだけでなく、生家の松平家で政略結婚事情を十分見
て育っていた。家康の祖母、美人で有名な華陽院お富の方(一説お岩) は高価な贈物の
ようにつぎつぎと五人の男性の手に渡った。はじめは水野忠政、次は世良田(松平) 清
康に強く望まれて結婚した。お富の方が二十三歳、清康は十八歳だった。そこで男子一
人、女子一人を産んだ。男子が家康の父松平信康である。清康が森山崩れと呼ばれる事
件で二十六歳で不慮の死を遂げたあと、お富の方は星野備中守秋国と結婚し、星野の死
後、菅沼藤十郎定望の妻となり、菅沼の死後川口久助盛祐と結婚した。都合五度の結婚
をしているので『徳川諸家系譜』でさえ「乱世の時節にはかかるためしもあるものなれ
と、後人是を不審せり」と評している。(「柳営婦女傳系」、『徳川諸家系譜』1:
129)。徳川幕府の権力が確定すると女性や結婚に対する考え方が次第に保守的になっ
て、女性が何度も結婚することを否定的に見はじめたからだろう。美人であったお富の
方は多くの人にのぞまれて嫁いだことはたしかであるが、彼女の父や養父や兄はそれに
よってなんらかの利を得たと察せられる。
家康の母親のお大の方は水野忠政とお富の方の娘であったが、岡崎の松平清康は嗣子(
母は前室青木筑後守貞景女) 広忠にお大をめあわせた。お大は広忠と幸福にくらし、子
供の竹千代 (家康) も生まれたのに、兄の水野下野守信元に無理矢理に離婚させられ
岡崎から刈屋へ返された。(一説によれば離婚は信元が松平家の恩義のある今川義元に
そむいて尾州織田方についたので、広忠が決めたという)。その旅の終わりにお大の賢
明な判断で警護に同伴した夫の家臣を刈屋につく前に岡崎へ返して兄の郎党の襲撃から
守ったことはよく知られている。その後お大は兄の同盟者久松佐渡守俊勝と結婚させら
れ男子三人女子三人を産んだ。これらを見ると女性は全く家のための贈物、子供を産む
道具のように扱われていたようである。
D. 江戸時代武家の結婚
江戸時代の武家階級にとって結婚とはまず世継を得るための行為であった。世継のない
武家の家系はその後存続を許されなかったので家系を保存するためにはどうしても世継
が必要であった。その世継は正室から生まれた嫡子であれば申し分なかったが、その条
件は必ずしも必要ではなかった。上流階級の結婚は愛情と関係ないのが普通だったが、
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普通の武士の家庭でもまず家同士の釣り合いとか好条件とかが考慮され、世継を得るた
めには妾とか養子などが必要な場合があった。
しかし徳川将軍家にとって婚姻 は普通の武家家庭以上に苛酷な、徹底的な政略結婚であ
った。もちろん結婚が世継を得ることが第一の目的であることに変わりはなかったが、
正室の生んだ嫡子が理想的とは考えられなかったばかりでなく、暗黙のうちに避けるべ
きこととされていた。というのは三代将軍からは一国の統率者である将軍の地位に品格
威光と正当性を添えるために将軍の御台所は天皇になるべく近い京都の宮家か摂家の家
系から迎えられたからである。御台所が世継を生めばその父親と周囲の京都の勢力者に
政治的権力を与えることになる怖れがあった。それは平安時代の藤原氏の常套的なやり
方から結果がよくわかっていた。
一方将軍の周囲の御台所以外の女性にとっては、将軍の世子を生むことは非常に名誉で
あるばかりでなく、権力の源であった。世継を生めば、大奥での地位はもちろん、名前
も待遇も権力も生家の厚遇も全部一変した。それは彼女の容貌、出生、知能、年齢など
と全然関係なかった。この考え方が幕府の方針であったことの確証は柳営婦女傳系,九
(p。139)に出ている。三代将軍家光に長い間女性に対する興味がかけていたことは知
られている。しかし春日局などの努力によってある時期から家光公の女性に対する興味
は活発になった。寛永十六年(1639)に五条宰相藤原純卿の十六歳の息女が伊勢宇治
郷内宮慶光院を相続したとき、継目のお礼をいうために江戸に登って家光にお目見えし
た。非常に美しい少女であったので将軍はたちまちみそめて彼女を還俗させ、お萬の方
と名を改めさせ有髪の中臈とした。
しかし老中の内意があってお萬は懐胎を禁じられた。彼女は上級公卿の出身ではなかっ
たが、一応京都の冷泉家の出身であるところからの厳命であった。そうして非常に寵愛
されたものの子供は産まなかった。
家光の世継を生んだのは土屋忠兵衛(一色庄右衛門)という浪人狩人の娘お蘭で、
母親の紫が七沢作左衛門という侍と再婚した後、浅草の町中の道でお蘭が 遊んでいると
ころ へ春日局が通りかかり、お蘭の容貌がお萬の方によく似ているところから大奥に召
出したという話が知られている。(柳営婦女傳系,九、 142−145)
将軍の血を受けて生まれた男の子は、乳児の死亡率の高かった江戸時代、何番目の子供
であろうと将軍の地位を継承する可能性があった。女性の天皇の例は奈良時代と、江戸
時代にもあったが、女性の将軍は例がなかったので、将軍の娘の扱いは男子とは違って
いた。しかし家康の例からわかるように、娘も政治的には非常に重要な存在であった。
特に戦国時代には諸国の大名はお互いに同盟を結んで敵視する他国に侵害されることを
避け、またそれによって戦争を避けたり、名声を得るために娘を望ましい大名へ嫁がせ
ることが多かった。しかしそのために娘が犠牲になったことはしばしばあり、戦国時代
の女性にとって結婚は 幸福をもたらすものではなかったのはほぼ確かであった。
この状態は徳川氏による全国の平定が完了し、幕府の勢力が安定保証されてからは少し
違ったものになり、富裕で勢力のある大名を味方につけるための政略結婚はそれほど必
要ではなくなった。しかし 将軍は娘を大名にあたえることによって彼らの忠誠を確保し、
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また大名の働きを嘉承する意味で娘を与える例は続行した。そのために親類や京都貴族
の娘を養女にして将軍の娘として嫁入らせることは江戸期を通じて行われた。そうして、
将軍の娘の結婚は大体『降嫁』であったから相手はそれにふさわしい御三家か裕福で権
力のある大大名でなければならなかった。
呼称
ついでに将軍の娘の称号についてここでいうと、姫君という称号は平安時代から身分の
高い公家の娘から中流貴族の娘まで その呼び方が通用したのだが、江戸時代に至って、
姫君の称号は幕府の規制によって将軍の娘にだけ許されるようになった。大名上級旗本
の娘はたか姫、みち姫、であり、京都貴族の娘は普通たか君、みち君、と呼ばれた。し
かし後述するように個人的に公卿の家庭の内部で娘を姫君と呼ぶことはあった。
市岡正一の『徳川盛世録』によると、江戸時代の称号、尊称上下の区別は非常に厳しか
った。『将軍は公方様と称し、その妻を御台様と称す。未だそうぞくして将軍宣下なき
間は上様と称す。世嗣は西丸様と称し、右近衛大将に任せられし時は右大将様と唱えそ
の妻を御簾中さまと唱ふ。また将軍の女(むすめ)は諸侯に婚嫁せしも皆姫君様と称す。
ただ三家三卿の妻となりしものは某御簾中様と称し、将軍職を退きたるものは大御所様
と称し、その妻を大御台様と呼ぶ』とある。
京都の摂家などでは娘を個人的にいつまでも『姫君』と呼んだことは『基熙公記』や
『无上法院殿御日記』で明らかであるがそれはあくまでも個人的な内緒の呼び方である
らしかった。(市岡正一『徳川盛世録』巻の 2,第七章:吉凶之諸礼式。24−25。「尊
称上下の区別」・東京:博聞社、明治22年8月6日。
何度も再婚した祖母を持つ家康は結婚について合理的な考えを持っていたらしく、娘を
再婚させることを躊躇しなかった。天正十一年に秀吉の意向で北条氏直に嫁いだ家康の
娘督姫君は小田原落城とともに救い出され、後に播磨宰相池田輝政に嫁いで幸福になっ
た。孫の千姫も大阪落城の後、自分で望んだと言われる本多中務大輔忠刻と再婚してま
ずまず幸福な何年かを過ごすことが出来た。同じく慶長元年に秀吉の媒配で蒲生秀行に
嫁いだ振姫君も、同十七年に秀行が亡くなると、家康は、豊臣家臣でありながら元和の
役に忠誠を見せた浅野但馬守長晟に振姫君を与えた。(彼女は三十七歳であったが翌年
出産によって亡くなった)。家康に娘や孫たちを哀れむ気持ちがあったとしても、大部
分の縁組は大名への褒美と徳川家の勢力地固めのためであった。家康は実の娘だけでは
足りず、二十余人もの養女をして徳川家の将来をかためる結婚のために使った。
しかし家康は太閣の婚姻政策をまねて元和元年(1615)七月大坂落城直後、自分の死の
前年に「武家諸法度」の第八条に次の法度を入れることを忘れなかった。
一、私に婚姻をむすぶべからざる事。それ婚姻は陰陽和同の道なり。(略)而して縁
を以て党を成すは、これ姦謀の基なり
(稲垣史生『考証江戸武家史談』(河出書房新社、河出文庫、1993) p.125。
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この婚姻に関する御法度は後に六代将軍家宣の「武家御法度」によってさらに広範囲の
人々の生活に及んだ。
一、婚姻は万石以上、布衣 (諸番頭など)以上の役人、並びに近習の輩等、私に相約
することを許さず (小姓衆、小納戸衆の如きは、布衣以上の中にこもれり。それよ
り下なりとも。近習の人々は、私に婚姻を約すべからずとなり)。
もしくは公家の人々と相議するに於いては、先ず上裁を蒙りて後に、其約を定むべ
し。
嫁娶の儀式、すべて旧制を守りて、各其分限に相随ふべき事。
附。近世の俗、婚を議するに、或は聘財 (結納品) の多少を論じ、或は資装の厚薄
を論じ、甚しくては貴賤相当らざる者婚をなすに至る。(財利を貧るの甚しきに至り
ては、よき者も賤しき者と婚姻を結びて、両家の貴賤相当らぬを云う也。令に異色
相娶るなどいう事の如くなり)。比等の弊俗、一切禁絶すべき事。
(稲垣『考証江戸』126ー127)。
これほどきびしく統制されてようやく許可を得た縁組だったから、その都度、将軍のみ
ならず、実際に許可を発行してくれた老中たちに縁組みの時と婚姻がすんだあと、挨拶
と贈物を献上しなければならなかったのである (稲垣、同上。129)。婚姻に上裁を必
要とした習慣は日本陸海軍が存在した 1945 年まで、将校は上官の許可を得て結婚する
という規律によって残存した、ということだ。
この情報は子供の時、海軍士官だった義兄から聞いたことなので、規則を書類によって
確かめるべくいろいろ探したがみつからなかった。
江戸時代を通じて、幕府は秀吉や家康の精神を体して、旗本やご家人の娘と息子をめあ
わすべく努力したのか、幕府の文書にはよく集団結婚の許可(命令)が出ている。まる
で現代のムーン師の集団結婚のようである。
E. 徳川将軍の養女と政略結婚
徳川将軍が娘を諸候に与えたり、そのために養女をしたりした理由は時代々々によって
変遷したが、家康の天下統一の時代はまず自分のためによく働いてくれた人々の労を謝
し、結婚の絆によってそれらの人々の忠誠を確保保証するため、又将軍と縁戚になる名
誉と、自分の旧姓松平の苗字を与えて喜ばせようというこんたんだった。そのために上
流階級の女性は江戸初期には再婚をみとめられていたのに、徳川家の勢力がいったん確
立されると再婚することはほとんど不可能になった。これは幕府が家康を神格化し、将
軍の地位を異常に高めたためである。将軍のように地位の高い人と一度でも関係した女
性は将軍の没後、当然尼となってその菩提を祈るべきであるという、「貞女二夫にまみ
えず」の考え方である。将軍と公式に正室側室、あるいは側室と認められていない中臈
としてでも、一度でも関係した女性が、将軍の死後形だけでも落飾して再婚しなかった
のは、何時からの習慣か明らかではない。家康時代の柔軟な再婚状態を見ると家康は娘
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にたいして親切だったのかと錯覚しそうになるが、決してそうではなくて、彼は徳川家
の将来を考えて娘たちを諸候への贈物にし、また縁戚になった重臣の娘を養女として所
望することによって更に縁を固め、感恩と誓忠を強いたのだと解釈する方が正確だと思
う。
後水尾天皇と結婚した家康の孫女和子以外は諸大名に対する御褒美ないし徳川の地盤固
めともいえた徳川初期の政略結婚の実情を並記すると次のようである。
家康が娘あるいは養女を結婚させた人々:(+は結婚相手)
亀姫君(母家康御台所築山殿)+奥平美作守信昌
督姫君(母西郷局)+1.北条左京大夫氏直 +2.播磨宰相松平(池田)輝政(継室)
振姫君(母下山之方)+1.蒲生飛騨守秀行 +2.和歌山藩主淺野但馬守長晟
市姫君—許婚伊達政宗息陸奧守忠宗。市姫君夭折。
養女栄姫実姪(父保科弾正忠正直、母家康妹多劫の方)+黒田筑前守長政(後室)
養女阿姫実姪(父松平隠岐守定勝、母奥平貞友女)+山内二代土佐守忠義
養女清浄院(父水野和泉守忠重)+ 肥後熊本藩初代藩主加藤肥後守清正(継室)
養女蓮姫 (父長澤松平九代当主康直)+久留米藩初代藩主有馬玄蕃頭豊氏
養女名不明実姪(父家康異母弟松平因幡守康元)+1.大須賀出羽守忠政+2.長島
藩二代藩主菅沼織部定芳
養女洞仙院(父家康異母弟松平康元)+美濃大垣藩初代藩主岡部長盛(継室)
養女流光院(父家康異母弟松平康元)+伊勢長島藩初代藩主菅沼定仍
養女満天姫(父家康異母弟松平康元)+1.福島正則の養嗣子福島正之(正之
幽閉処分の後)+2.弘前藩二代藩主津軽信枚
養女久松院(父家康異母弟松平康元)+1.筑後二代国主田中忠政+2.
丹波亀山藩初代藩主松平成重(継室)
養女名不明(父家康異母弟松平康元)+1.遠江横須賀藩初代藩主大須賀忠政
+2.丹波亀山藩初代藩主菅沼定芳
養女浄明院(父康異母弟松平康元)+1.伯耆米子藩主中村一忠+2.長門初代藩主
毛利秀元(継室)
養女因幡姫(父紀伊徳川賴宣、母中川氏)+松平(池田)相模守光仲
養女松姫(父紀伊徳川賴宣、母山田氏)+松平左兵衛守(鷹司)信平
養女小松姫(稲, 父本多中務大輔忠勝)+真田伊豆守信幸(信之)
養女唐梅院花(父桜井周防守康親)+近江国彦根藩初代藩主井伊兵部大輔直政
養女菊姫(父岡部内膳正長盛)+肥前佐賀藩初代藩主鍋島信濃守勝茂(継室)
養女名不明(父戸田康長,母家康異母妹松姫)+美濃大垣藩初代藩主戸田采女正
氏鉄
養女名不明(父保科正直)+会津藩二代藩主加藤式部少輔明成
養女名不明(父奥平信正,母家康長女亀姫)+大久保加賀守忠常
家康が孫娘を結婚させた人々:
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千姫(父秀忠,母御台所お江与)+1.豐臣秀頼+2.播磨姫路藩初代藩主本多忠刻
子々姫君(珠姫、天徳院;父秀忠,母お江与)+金沢三代藩主前田利光(利常と
改名)
勝姫(高田様)(父秀忠,母御台所お江与) +越前福井藩主宰相松平忠直
初姫(父秀忠,母御台所お江与)+高次流京極家二代若狭守忠高
和子(東福門院)(父秀忠,母御台所お江与)+後水尾天皇
熊姫(妙高院)(父家康長男松平信康)+姫路城主本多美濃守忠政
登久姫、峯高院(父家康長男信康)+信濃松本藩初代藩主小笠原秀政
秀忠養女土佐姫(喜佐姫,父越前中納言秀康)+長州藩初代藩主毛利長門守秀就
秀忠養女千代姫(父小笠原兵部大輔秀政)+肥後熊本藩初代藩主細川越中守忠利 1
秀忠養女実姪びん姫(父奥平大膳大輔家昌)+出雲松江藩2代藩主堀尾山城守
忠晴
秀忠養女実姪振姫(利久姫,母家康女督姫君,父播磨宰相池田輝政)+伊達陸奥守
忠宗 2
秀忠養女実姪琴姫(父蒲生飛騨守秀行)+肥後熊本藩二代藩主加藤肥後守忠広 3
秀忠養女実姪亀姫(寧子、父越前宰相松平忠直)+高松宮初代二品弾正尹
好仁親王
秀忠養女鶴姫(福正院)(父榊原康政、母大須賀康政娘)+播磨姫路藩二代藩
主、岡山藩池田家宗家二代松平(池田)武蔵守利隆
秀忠養女茶々姫(父池田輝政)+丹後宮津藩二代藩主京極丹後守高広
秀忠養女喜佐姫(父結城秀康、母秀康側室清涼院中川出雲守女)+長州藩
初代藩主(松平)毛利長門守秀就
秀忠養女京姫(鶴姫、普峯院)(父尾張徳川義直,母貞松院)+広幡権大納言忠幸
家康の曾孫女を養女として結婚させた人々:
養女国姫(実家康曾孫女,本多美濃守忠政長女)十 1.堀越後守忠俊(14 才)
改易後+2.肥前日野江藩主有馬左衛門督直純(継室)
養女亀姫、(円照院。実家康曾孫女,本多美濃守忠政次女)+小笠原右近將監
忠政。始めは兄小笠原忠脩室、松本藩の世嗣・忠脩に嫁いだあと、元和元年(1615
年)4 月、夫が大坂夏の陣で戦死した。家康の命により、元和 2 年
(1616 年)12 月、その同母弟の忠政に再嫁した。
1慶長14年4月24日婚。化粧料
3000 石、寛永9御遺金 100 枚,衾 1000 枚。
200 枚,銀 1000 枚。
3寛永9秀忠御遺金 200 枚,銀 1000 枚
2加賜千石。秀忠御遺金
万姫(幼名)、お虎、敬台院。(実曾孫女、父小笠原兵部大輔秀政)+
阿波国徳島藩初代藩主松平(蜂須賀)阿波守至鎮
============
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家康没後、秀忠養女と結婚した人たち:
養女名不明(実は松平(久松)甲斐守忠良女)+松平(黑田)右衛門佐忠之
秀忠養女勝姫(母千姫、父本多中務大輔忠刻)+松平(池田)新太郎光政
家光娘、及び養女と猶子
実娘千代姫君(母お振の方)+尾張大納言徳川光友
養女1亀姫君(大姫とも。実は水戸中納言頼房女)+加賀筑前守前田光高
養女2鶴姫(福井藩主松平忠直と秀忠娘勝姫の娘)+九條左大臣道房
猶子1:亀姫(加賀藩主前田利常と夫人家光の姉,子々姫の娘)+森忠広
猶子2:通姫(池田新太郎光政と秀忠養女勝姫の娘)+一条大納言教輔
家康が在世中にととのえた実の娘や養女たちの縁組の相手、そうそうたる諸候、譜代の
リストを見ても、家康がそれまでに見てきた伝統的政略結婚を、徳川家の必要に応じて
柔軟に改変しながら利用実行したことが明らかである。徳川家の繁栄が固められた家光
時代以後は養女をとる理由は徳川初代ころの理由と相当違って来るのでこのリストに入
れない。しかしどの時代であっても、将軍は自分の娘を大名と結婚させる時、まず娘を
贈物として与えるように、なにか特典をほどこしているように感じていたに違いない。
そうしてそれを感恩深謝され、結婚の相手からは感謝の品を、周囲の人々からは祝賀の
品を捧げられることを、別に望みはしないが当然の経緯として理解していた。
F.花嫁代償から持参金
法社会学者文化人類学者の江守五夫は母権制から父権制への移行に重要な役割を果たし
た慣習について示唆と与えている。上記のように「花嫁代償」と呼ばれるものでこれは
夫側が妻側の家族に提供する物品ないし金銭のことである。こんにちでも結婚にさいし
て儀礼上の贈り物の交換があるが、今では代償的な意味を含んでいない。「しかし、人
類学者が"花嫁代償"という術語でよんでいるものは、夫側が妻をもらうために妻方の親
族にたいして "支払われる代償”というより積極的な意味をもち、またそれだけに高額
に達しているものである」としている (江守五夫『歴史の中の女性』彩流社、1995、p
。97)。更にこれは「妻方の親族に妻を引きとめておくのを断念させ、夫方に妻を引き
渡すことを承諾させるための代償ーとして発生したようである」と説明している。西側
でなされた研究を引用しながら証明するような例が何人かの人々にによって提出されて
いる。(F.Boas Schmidt, Westermarck, etc. See page 110 notes 5,6,
and 7 in 江守)。特にそれをはっきり説明するものとして、江守は妻側に代償が払
えない男性が「労役婚」として無報酬で妻側のために一定期間労役に服すことがあった
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例を引いている。このような報酬あるいは贈物の交換にたいする考え方ないし習慣は人
類学的には世界に普及しているらしく、「有償の婚姻」「無償の婚姻」という学術語ま
であるそうである。それはすべて金銭の移動にかかっているらしく、もし夫が妻の家へ
移り住んで働く気があれば代償の支払いは要求されない。筆者は人類学者ではないし、
婚姻の形の研究が主目的ではないのですべての議論を評価することはしないがたいへん
面白いと思う。
その女性の労働代償のような夫側の贈金がなぜ女性側からの持参金に変わったかという
ことを江守は多くの結婚形態の変化とその過程の説明の後、こう述べている。それは財
産相続とか財産の分散とかいろいろな他の問題を引きずっているのだが、一夫多妻制か
ら一夫一婦制への発展上で嫁の持参財産(嫁資)が果たした役目をマックス・ウェーバー
がといてみせた。それは家父長制度時代に妻、妾、女奴隷との間に地位的差異がなく、
夫は労働家畜として妻を何人でも持つことができたのでその妻たちを女奴隷と同様に絶
対的に支配していた、という。ウェーバーはそのような状態の家庭に娘を嫁がせること
を拒んだ人々が娘の権威と身分相応の生活を保証するために(花嫁代償を取らぬのみか)
持参財産を夫方に提供し始めたのだと言う(江守、123)。これがウェーバーやプリフォ
ールトや三木清の言及した持参金の意義だそうである。江守は「たしかに、持参財産が
“名誉ある”婚姻のメルクマールであったことは、当時の文学作品のなかからもうかが
えるのである」としてギリシャ劇ユーリピデスの『アンドロマケ』を引いている。
ネプトレモスに嫁いだへルミオネは立派な持参金つきの花嫁であったが、ネプトレモス
に愛されるようになった未亡人のアンドロマケも又、始めの夫へクトルに嫁いだときに
は沢山の持参金を携えて行ったので恥じるところのない妻の資格を持っていたのだった
。しかし結局悲劇の最後に長老によって述べられる警告は「いかほど豪勢な持参金を家
の中に持ち込もうとて、ゆめゆめ悪しき妻を望んではならぬ」というものだった (江守
、125) しかし持参金がギリシャの世界に社会的名声のためや地位を保証するために重
要だったとしても、それは法的にも社会的にも決して一夫一婦制を保証するものではな
かった。ギリシャ社会だけでなくどこの社会でも、どれだけ多くの持参金をもって結婚
しても、夫が正妻以外の女性と関係することを阻止することはできないのである。そう
なれば男子たるもの、一番条件のいい、いちばん持参金を沢山持って来てくれる女性を
妻にするのがよいということになる。その上で真実愛するが貧しい女性と関係を持つこ
とはいくらでもできたからである。ここに至って持参金という贈物の意義も全く変貌し
てしまった。純粋な動機をもってなされるべき贈物が取り引きの対象となるだけでなく
、それは量質ともに堕落腐敗の原因になっているのである。その交換価値の効用はどう
いうことになるか、井原西鶴は持参金のことを「世間胸算用」のなかで皮肉な調子で何
度か書いでいるがその痛烈な皮肉の一つの例を引用する。(他例:巻二の三「尤も始末の
異見」183、188 等)
すこし娘子はらうそくの火にては見せにくいかほにても三十貫目が花に咲き
て花よめさまともてはやし何が手前者の子にてちいさい時からう
まいものばかりでそだてられ頰さきの握り出したる丸がほも見よし又額
のひよっと出たもかづきの着ぶりがよいものなり鼻の穴のひろきは息
づかひのせはしき事なし髪のすくなきは夏涼しく腰のふときはうちかけ小袖
を不断めせば是もよし爪はづれのたくましきはとりあげばばが首すぢへ取り
つくためによしと十難をひとつひとつよしなにいひなし爰が大事の胸算用三
十貫目の銀を慥かに六にして預けて毎月百八拾目づつおさまれば是て
四人の口過ぎはゆるり内儀に腰元中居女物師を添て我もの喰なから人の機嫌
を取。(『世間胸算用』定本西鶴全集、中央公論社。第七巻:217-218)
18
どんなにお多福で太って鼻の穴の広がった娘でも三十貫もの持参金があれば、仲人はひ
とつひとつの欠点の効用を言い立て、夫はただその金をどう運用すべきかを考えればい
いと言いくるめるのである。西鶴は『日本永代蔵』にも持参金の多い嫁を引き寄せるた
めに家を富貴に見せかけ、見栄をはって無理な新築や使用人を雇ったりして家の破滅を
招く人のことを語っている(『日本永代蔵』巻一「世は欲の入れ札に仕合わせ」40。新
潮日本古典集成 9、新潮社、1977)。
また娘を持つ親は自分の分限よりずっと相手の経済状態を選り好みして、身代の外、諸
芸も達者、世渡りも上手、美男で世のためになるしゃれた若い男を聟に取りたい気でい
るが「よい事過ぎて、かへって難儀ある物ぞかし」と書いている。娘の親は持参金を持
たせる価値のある男を探しているのである。(『日本永代蔵』 同上、41)
近代の縁組は、相性・形にも構はず、付けておこす金性の娘を好む事、世の
習ひとはなりぬ。さるによって、今時の仲人、先づ敷金 (持参金) の穿鑿し
て、後にて、「その娘御は片輪ではないか」と尋ねける。昔とは各別、欲ゆ
ゑ人の願ひも変れり。
(『日本永代蔵』巻五「三匁五分曙のかね」175ー176)
これらは日本の社会のみの兆候ではなく、あらゆる時代に世界のさまざまな社会におい
て妻候補の女性の持参金が男性にとって望ましい結婚条件となると共に、家柄はよいが
貧しい娘は素性も相応で裕福な男性が来て求婚するのを待つという症状がおこっていた
。つまり美しい贈物にはそれ相応の反対給付がされなければならないのである。十八、
九世紀の西欧文学、特に英国のジェーン・オーステン、ブロンテ姉妹、チャールス・デ
イッケンズなどの作品にはそうした事情がふんだんに盛り込まれている。小説は小説だ
からオーステンやデイッケンズや エリザベス・ガスケルの小説では貧しくても心掛け
のよい娘は金持ちの男と結婚し、清廉潔白な男性はしばしば持参金のある良い娘と結婚
することになる。東西ともに勧善懲悪的小説世界では下心のない清廉な人間が幸福を得
るのである。そうしてはじめから持参金だけが目当ての男や、愛はなくても金持ちの男
をつかまえたいと待ち構えている女は見事にスカタンを食わされるのである。
現実ではそうはいかない事が多い。しかし結婚や恋愛にたいする態度や価値観がまった
く変わって来ている今の世の中でさえ持参金が等価交換の対象になることがあるのであ
る。アメリカ、ヨーロッパ、日本の社会に持参金や親からもらう家につられて、自分が
少しも愛していない魅力も徳もない女性と結婚する男が今もいる。不思議なことである。
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G.将軍の姫君嫁入り支度
結婚はどの文化圏でも贈物がおおいに活躍する機会である。生家を離れて新しい家庭を
築く若い夫婦のために祝福の意味をこめて日常生活に必要な役に立ちそうなものを贈る
習慣はどの国にもある。しかしそれは普通の家庭の娘のことであって江戸時代の将軍や
大名の娘達は事情がまた違っていた。結婚の贈物の公的記録が大量に残っているのは江
戸時代である。
徳川二代将軍秀忠の娘千姫と豊臣秀頼の縁組は将軍の娘の輿入れの例のなかで最も有名
なもののひとつであるが、その二年前、千姫の妹で、満二歳にもならない子々姫君 (珠
姫) が前田筑前守利光 (利家四男、後に利常と改名)と縁組みさせられた。数え年三つ
で加賀へ興入れしたのである (慶長六年[1601]五月十一日。『徳川諸家系譜』2:61;
『実紀』正月二十九日、1:383)。
慶長十年四月、前田中納言利長は跡継ぎになった弟の猿千代 (利常) をつれて伏見で
秀忠と大御所家康に謁見した。利常は元服叙任の直前だったようである。前田家から将
軍に金五千枚、加賀絹五百反、時服百領が献じられ、大御所には金三千枚、加賀絹三百
反、時服五十領が献じられた(1:387)。これは初めて将軍にお目見えの謝礼とともに子
々姫君降嫁への感謝の贈り物でもあった。品数は少ないが総量にすると非常に大きい額
で、その時両御所が前田利長と利常に下賜した刀とはつり合いがとれない。その量質と
もに財力を誇っていて、ちょっと真似のできない贈り物だったが、それが先例を作った
ようである。この後は大名の嫡子の将軍初謁見の時も、男女の別なく将軍家の一員が諸
候に婚姻あるいは養子縁組する時も贈り物をする習慣の範例となった。しかしこのあと
まもなく豊臣秀頼に興入れした千姫の場合、大きい贈り物はどちらからもなかったよう
である。
千姫は慶長八年(1603)七月二十八日に母親の御台所お江与 (おごう;達子[さとこ、
みちこ])に付き添われて大阪城に入ったのだが、何の祝宴も儀式的献上品も記されてい
ない。これは片桐且元が「将軍家は専ら倹素をこのみ華麗を悪 (にく) みたまへば」
(1:85)千姫を迎える様式も華美を制した、ということと関係がありそうである。世の
中はまだ平和が確立されたわけでなく不安な時代のことではあり、贈物も多少あったに
違いないが、徳川側も豊臣側も子供を与えることにって、両方とも相手に大きな恩恵を
施しているつもりだったのだろう。
前田家の将軍家との立派な婚姻贈物の範例をさらに伝統習慣として定着させたのは陸奥
の伊達家と将軍姫君の縁組みである。先に政宗の長男忠宗は家康の娘慶長十二年生まれ
の市姫君と縁組みが決められていた。家康の寵の深かった母親お勝の胎内にあるとき、
この縁組みはすでに約束されていたのだが、三年後に市姫君は早世した。お勝の嘆きは
一通りでなく、哀れに思った家康が後に水戸徳川の始祖となった十一男頼房をお勝に養
子として与えた。その上家康はお勝を孫振姫の準母ということにした。振姫の母は家康
の娘督姫、始め北条氏直室で、北条が滅びたあと、池田宰相輝政と再婚した女性である
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。振姫はまもなく秀忠の養女となり、元和三年十二月十三日伊達忠宗に興入れした。こ
れで伊達家に将軍の娘を与えるという約束は果たされたのである。その月十八日伊達(
松平)陸奥守政宗は美作守忠宗をつれて江戸城に出頭、振姫君の降嫁を謝した。
その時の政宗からの贈り物は、
秀忠へ:太刀一振、小袖十、銀二百枚、黒毛の馬一匹。
若君(家光)へ:太刀一腰、銀百枚、鴇毛の馬一匹。
御台所へ: 綿二百把、銀百枚。
国松君 (家長) へ:太刀一振、銀五十枚、鹿毛馬一匹。
忠宗からは、
秀忠へ:太刀一振、小袖三十、銀五百枚、鹿毛馬一匹。
若君(家光)へ:太刀一振、銀二百枚、栗毛馬一匹。
御台所へ:小袖十、銀二百枚。
国松君(家長)へ:太刀一振、銀百枚、鹿毛馬一匹。
将軍からは、
政宗へ別所貞宗の脇差。
忠宗に長光の刀と「太鼓磐」の銘のある貞宗の脇差。
忠宗の家司たち、伊達安房成実と伊達安芸定宗に拝謁をゆるし、
時服を賜った。
前田・伊達の例を見ると、もちろん結納は別にあったのだが、幼い花嫁に対する贈品の
斟酌配慮は少しもなく、将軍家自体に対する贈物に徹しているようである。これはすで
に書いたことだが、日本でも外国でも結婚が若い二人の意志ではなく政略結婚である場
合、結婚の当人は考慮の外、親に対する心証こそが大切だからであって、今日でさえ見
られる現象である。ちなみに両親がよほど進歩的である場合は成人式や結婚式の招待状
が子供たちの希望や意向を直接反映しているが、親が保守的で社会的立場にあればある
ほど、結婚式招待客のリストは親の知己によって占められる事が多い。
徳川政略結婚の最たる物は秀忠の娘和子の後水尾天皇への入内であった。家康は和子が
生まれた時すでにそれを計画したと言われているが実現したのは家康没後、元和六年
(1620/6/18) である。この盛儀は後々までかたり伝えられ、絵巻などにも描かれたほ
ど華々しいものであった。その日徳川家の京都本拠二条城から皇居へ運ばれた調度の一
部でさえ長櫃百六十棹、 四方行器(ほかい)十荷、屏風三十双、翠簾箱一対、几帳箱二
荷、幕箱一対、衣桁箱三、長髢箱一、円行器十荷、小円行器五荷、御膳行器二荷、弁当
五荷、葛籠、挾箱二荷、担二十荷、長櫃百棹、箏箱三、二十一代集箱一、双紙棚一、黑
棚一、御廚子棚一、貝桶二荷、呉服箱三荷、匂唐櫃三、装束唐櫃一対,御服唐櫃五荷、
という大荷物であった (実紀 2:192)。次に局以下の上臈が四十挺の長柄の輿にのり、
中臈以下の女房が三十六挺の車に乗って先に御所へ着いた。いづれも五衣に緋袴を着し
、かんざしをつけ、紅の扇をかざし、青女房 (女中)に裾を持たせて女御の到着を待っ
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た。和子は何百人もの幕府と朝廷の高官に守られ、六台の金銀梨地蒔絵の車にのった上
臈たちにつきそわれて入内した。
和子からの天皇への贈り物は夏冬の装束、夏のは御引直衣、単衣精好同じ大口、紅生絹
の袴。冬の御料は冠、御引直衣、単、衵、打衣、打の袴、扇、その他いろいろの衣百領
、銀一万両であった。和子から女院(後水尾の母近衛前子、中和門院) へは美しい御衣
五十、銀五百枚。女房たち全体へ銀二百枚の贈り物があった。盃ごとがすんでから、後
水尾天皇はこれらの贈り物を検閲したそうである。(実紀 2:194ー195) 秀忠からこの
入内にさいして朝廷の面々に贈られたものは諸衛諸司の最下層にまで達した。
和子の入内に際しては前述のように、諸大名は所定の方式によって「女御入内をほぎ奉
り、一萬石以上の輩樽肴献ずること差あり」(1620/8/28、実紀 2:198)それぞれの位
と所領によって樽肴を捧げたが、それ以上の贈り物を強請されることはなかった。つま
り婚礼御資装は徳川家、ないし幕府が調えたのである。
婚礼支度で有名なのは三代将軍家光の長女千代姫君の「初音」の調度である。千代姫君
が生まれると(寛永 14 年,1637)すぐに家光の意向によって幕府お抱えの蒔絵師長重
が注文を受けて調度製作にあたり、三年目に完成した(実紀 1:640)。千代姫君が尾張
徳川家二代光友に興入れしたのは寛永十六年(1639/9/21) であるから二歳になるかな
らないかで結婚したのである。後に五代綱吉将軍が娘や養女の嫁入り道具を大名に献納
させはじめたのだが、家光は御資装献上の指令を出した様子はない。ただ、何人かの大
名達が自発的に若干の調度を献上したらしく、紀伊徳川家からは長持二十棹、その他少
数の大名から手巾架、布帛などの道具類が献上されたことが記されている。
(1639/8/27、実紀 3:150)。
「初音」の御調度は家光が幕府の資材を投じて娘のために用意させた嫁入り道具で、七
十五点が一括されて国宝に指定されている。そのうち四十七点に『源氏物語』初音の巻
にちなむ意匠の蒔絵が施されている。貝桶、厨子棚、黒棚、書棚、文箱、硯箱、刀掛け
、十二手箱、沈箱、火取り香炉、櫛箱、鉄漿箱、色紙箱、文台、鏡台、化粧道具、耳盥
などすべて、徳川全盛時代の豪華絢爛たる調度品である。「日本の婚礼調度及び蒔絵の
歴史の上で最高峰」の品とまでいわれている。(「徳川義直と文化サロン」カタログ
142)。このように特別注意を払って作られた調度はさすがに品質高く、今日でもその
美しさを十分に鑑賞できる。それにくらべて、後に諸候から歴代将軍の娘や養女の婚礼
調度として献上された品物は 千代姫君の「初音」に匹敵したものは少なく、残ってい
るものも多くはないようである。(L.竹姫君の項で残っている有名な婚礼調度の例をあ
げた。)
家光は実の娘は千代姫君一人だったが二人養女をし、他に二人を猶子(相続をしない親
子関係)として結婚させた。始めに養女にした亀姫(鶴姫とも大姫とも呼ばれた)は水
戸頼房の娘であった(1633/5/10) 。亀姫が大姫君として前田筑前守光高に興入れたの
は寛永十年十二月五日で調度すべてが前日に搬入された。献上品でまかなったものは一
品もない。光高から家光への献上品は一文字の太刀、銀千枚、小袖百、絹二百足。父の
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常利からは行平の太刀、金百枚、小袖五十、綿五百把。他にも淡路守利次から太刀目録
、小袖二十、宮松丸利治から太刀目録、小袖十が献じられた。将軍からは光高に正宗の
刀、吉光の脇差、常利へ正宗の脇差を賜り、常利はそのお返しにまた五月雨郷の刀と正
宗の脇差を捧げた。利次には来国光の脇差、利治には行光の脇差が下された
(1633/12/25、実紀 2:615)。大姫君は家光薨去後御遺金二万両と御葉茶壷をもらっ
た。正保二年(1645)に夫の加賀前田筑前守光高を失った後、清泰院と呼ばれて千代姫
君と同等に扱われた。
家光の二番目の養女鶴姫(廉貞院)の父は福井藩主松平忠直、母は秀忠三女の勝姫で、
九条右大将道房と縁組みした。鶴姫は父母ともに家光のいとこだったということになる。
寛永く年十一月に上京して輿入れした。
贈り物として銀五白枚、伽羅三庁、沈香二庁、薫物五包、板物百反を貰っている。
(1632/11/3、実紀 2:572) 家光の遺金として金千枚、銀千枚をもらって
猶子1:亀姫(洪妙院)(父加賀藩主前田利常、母家光の姉,子々姫珠姫)+津山藩世継
森右近太夫忠広。寛永五年婚姻;寛永七年(1630)病死。(幕府祚胤伝、徳川諸家系譜第
二巻、87)
家光の二番目の猶子通姫は松平 (池田) 新太郎光政の娘で一条大納言教輔と縁組みし
た。(1649/6/22、実紀 3:607) 光政の夫人の勝姫(秀忠養女)は、家光の姉千姫と
再婚相手の本多中務大輔忠刻の間にできた娘であったから通姫は家光の姪の娘である。
家光からの贈物は:
化粧田として二千石、銀五百枚、小袖百五十、羽織五十、板物(厚織物)百反、
伽羅二斤、沈香三斤、薰物五包、杉原紙五十東、蝋燭五百挺、青銅三百貫。、
大納言家綱からの贈物は:
銀百枚、糸五十斤。陪従の上臈、
小上臈へは銀二十枚づつ、
総女房に銀二百枚、執事に小袖三。
その他、調度類、衣類、布団類、女房たちの衣類調度、京都での新住宅と方々への贈り
物、護送の家来達への充分の手当てと褒美など、ことごとく家光から贈られた。
(1949/11/20、実紀 3:628;幕府祚胤伝、徳川諸家系譜第二巻、88) 姫が京都について
興入れしたのは十二月二十ー日であった。新夫の父、一条関白昭良からの返礼品として
は太刀馬代。大納言教輔からは太刀馬代、三種一荷が贈られた (1650/2/25、実紀
3:635)。
将軍家の男女の子供達と結婚を命じられた大名は、徳川御三家であれ大大名であれ、結
納品の外に多くの贈物が必要であることは以上のような例で定着してしまったらしい。
とびきり裕福な前田家、東北随一の伊達家などは上記のような贈物ができたのだが、外
の諸候には大きな負担であったので、花嫁を迎えるための用意で借金に苦しんだ大名が
多かった。御三家の紀伊徳川でさえ、中納言光貞の嫡子中将綱教に綱吉の鶴姫君を迎え
るため、また綱吉の紀州藩邸への訪問、藩主光貞,綱教、綱職の葬式費用,大旱魃など
23
でたいへんな財政困難をきたしたということである。(大石慎三郎『吉宗と享保改革』
日本経済新聞社、1994)10.
その種の害が一番顕著に見られたのはずっと後、十一代将軍家斎の時代である。 将軍
の五十四人の子女のうち生き残ったのは二十七人だったが、大大名の諸候はその男女の
子供を押し付けられたので、名誉なはずの将軍家との縁組が大恐慌の種になった。ご降
嫁の姫君のために「御守殿」を建てる話は有名だが、誰もが義務付けられていたわけで
はなくて、御三家、御三卿や三位まで昇進できた例外的な大大名だけにそれが義務づけ
られていた。しかし将軍の姫君を迎えるのに古いままの家ではいけないというので別棟
や新しい御殿を新築しなければならない大名が多かった。降嫁させなければならない姫
君が多すぎたので三田村鳶魚は将軍家から嫁や聟を迎えて借金に首がまわらなくなった
大名の事を多く書いている。(『三田村鳶魚全集』、1:104ー111:141-145、155159、174-176; 3:10、15-16、165)。
H.綱吉の姫君婚姻御資装集め
綱吉が行った新しい風習のなかで目立つのは、将軍家の姫君の婚姻に費用不足の問題解
決法として行った身勝手な方法、嫁入り道具集めである。それまで、家康、秀忠は嫁入
り道具の支度をすることはなく、前述のように、綱吉の父、家光は娘の千代姫君を尾張
家へ嫁がせるについて早くから幕府の出費で立派な嫁入り道具を準備させた。諸大名に
わずかなお祝いの品を差し出すように方式的なお触れを出したが、それは大名たちにと
ってたいした出費ではなかった。将軍家綱には子供がいなかったのでその配慮は必要で
はなかった。
綱吉が将軍職について江戸本城に移住した延宝八年(1680•7•10)から鶴姫君婚約まで
の贈物活動状況は従来と同じように贈官位報謝、家綱将軍の遺物の分配、綱吉の本城へ
移住の祝いなどだった。しかし諸大名の新将軍綱吉との初の拝謁の際の太刀献上太刀目
録は従来よりも目ざましかったようである。
鶴姫君への納采(結納)
綱吉将軍が一人娘鶴姫君の紀伊徳川家への輿入れを発表したのは将軍職について間もな
い天和一年(1681・7・18、実紀 5:420)で鶴姫君はまだ四歳、それは婚約発表だけで
あったが納来(結納)は行われた。
紀伊家から届いた結納の内容は小袖二十、帯六筋、銀五百枚,樽二十荷、肴二十種であ
った(1681/7/25、実紀 5:421)が紀伊家からの他の献上物は下記のようである。
将軍へ: 綱教の父の光貞卿からは太刀、銀二百枚、時服三十。
綱教からも、太刀、銀三百枚、時服三十。
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若君徳松へ: 光貞卿から太刀、銀百枚、時服十。
綱教から太刀、銀二百枚、時服二十。
御台所へ: 光貞卿から縮緬三十巻、三種二荷。
綱教から銀二百枚、三種二荷。
桂昌院へ: 光貞卿から綿百把、三種二荷。
綱教から縮緬三十巻、三種二荷。
姫君の生母 (お伝の方)へ: 光貞卿から縮緬二十巻、三種二荷。
綱教から金十枚、三種二荷。
納来の日、大奥の女房たちも銀をいくらか紀伊中納言と中将から贈られた。
そのほかにも御三家はじめ一万石以上の大名は方式命令によって樽肴を将軍に奉った。
三十万石以上: 三種二荷。
十万石以上: 二種二荷。
五万石以上: 二種一荷。
一万石以上: 一種一荷。
若君へ:上記と全く同じ
姫君へ: 三十万石以上: 二種千疋。
十万石以上: 一種千疋。
五万石以上: 一種五百疋。
一万石以上: 一種三百疋。
(鶴姫君様御婚礼書物八冊天和元年、内閣文庫 153,194)
綱吉が娘鶴姫君の縁組を改めて発表したのは姫が満六歳の時で (1684/4/7、実紀
5:512)、紀伊邸の面々から将軍、桂昌院、御台所、お伝の方へそれぞれ三種二荷や絹
織物などが贈られた。興入が実現したのは貞享二年二月 (1685/2/22) だがその前の月
に「城主ならびに三万石以上の輩より御資装を奉る」とある。 (1685/1/21, 実紀 5:
536。内容は後記の姫御資装献上品表を参照)。
綱吉の命令によって嫁入り道具を諸大名に献上させた、とは書いてないが、その意味で
あることは、「城主ならびに三万石以上の輩より」 と献上者を形容していることと、
その数が百六十人も書き出されていることである。今まで将軍の娘に結婚祝いはごく少
数の大名が明らかに任意の品物を贈っただけであった。豊かでない百六十人もの大名が
命令もないのにいっせいに実用品を姫君に贈るなどということは考えられないことであ
った。 これは命令が出たとしか思えない。
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鶴姫君の婚礼記録のなかには、千代姫君の御婚礼のときにはかれこれ、この場合もかれ
これ、という記録がしばしば見える。
例えば,鶴姫君の婚礼道具は大名から献納されたもの以外にも幕府のお細工所で作らせ,
紀伊徳川家にその費用を払わせたものが非常に多くあった。その記録に一々尾張徳川家
へ嫁いだ家光の娘千代姫君の道具と比べて「お長持三百五十。千代様五百さほ(棹)百五
十さほへらし候」とか「おみす(御簾)二十けん。千代様五十けんとて,三十けんへらし
申候」「おまく弐十けん。千代様五十けんとて,三十けんへらし申候」という項目が随
所に見える。これは注文の量をへらして倹約したのだということを大奥で自慢している
のである。綱吉が贅沢をしながら同時に倹約と強調したのでその指令に従っているのだ
というところを見せたいので、二十近くの項目を『千代様』のときよりずっとへらした
ということを記録している。(鶴姫君様御婚礼書物八冊天和元年、内閣文庫 153,194
の内、鶴姫君様御道具(全三冊)の中。おふく箱、御長持,御みす、御まく、御さし樽、
おぬりおけ、等々。)
鶴姫様御道具という三冊の帳面には幕府御細工所に注文した物は嫁入り道具だけでなく、
紀伊家の人々のための身の回り道具、日常道具、衣装などがぎっしりと書き出されてい
る。若夫婦のためのもの、綱教の両親のもの、この結婚で待上臈をつとめた綱教の妹の
いく姫のための道具, 光貞の娘が嫁入った上杉家の両親の道具までもすべて紋入り塗り
物で注文している。
これは幕府からの命令で作らせたのだが、支払いは紀伊徳川の責任であったらしく、紀
伊にとってはまことに迷惑千万であっただろう。
紀伊家の方からは千代姫君が尾張家へ嫁入った時、連れて行った男性の従者達は何人だ
ったのかたずねたらしく、一つ一つの職掌の数と、それにたいして「足軽頭四人,二人
か三人可然候,足軽六十人,三十人程可然候。御下男五十人,三十人ほど可然候。」など
という説明が入っている。そうして「千代姫君様御婚礼之せつ尾張殿より末々役人まで
祝儀遣被申候儀不残遣被申哉。其節彼相勤候衆斗遣被申候哉云々」の質問が入っている。
其答えとして「御祝言之役勤候斗へ軽可被遣候」と書いてある。そのあとにこの祝言の
時に紀伊家がチップをあげた人々や献上品のリストがつづく。
またそれぞれの紀伊家の人々から御台所,桂昌院,姫君の女中たちへあげなければならな
い祝儀について紀伊家の質問が何度も何度も大奥へ来ていて,これは一種のいやがらせ
ではないかと思わざるを得ない。将軍の娘の降嫁先の出費と迷惑は全く気の毒になるく
らいで、嫌がらせを言いたくなるのも当然、という感じであるが、そういう面倒なこと
まで一々踏襲されていたのだとわかる。
『先日被仰聞候御指図ニハ公方様惣女中に銀三百枚遣候儀は相済申候。
(返事:先日ハ三百枚とか着付趣申候書違候二百枚可然候)
御台様惣女中之儀銀二百枚程桂昌院様御袋様惣女中江銀百枚ほど遣わし被申度被存候。
奥方より公方様女中衆御台様桂昌院様御袋様の女中衆へも右を請相応に遣之可被申哉。
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この際先例を引いたような手紙が二通,その他の手紙で質問の形になっているのは四十
九項目あり、この際紀伊家が非常に困惑しながらも先例に従うのが安全と考えていたの
がわかるのである。(鶴姫様御婚礼御用 紀伊殿伺 内閣文庫)
綱吉はその後、四人の少女を次々に養女にして結婚させた。第一の養女八重姫君は綱吉
の御台所信子の姪(鷹司前関白房輔の孫女)であり、信子の強い望みで元禄十年二月
(1697/2/25)に御台所の養女となることが発表された。ついで将軍は同年四月十八日に
八重姫君は水戸少将吉孚に降嫁あるべしと発令した。元禄十一年二月には水戸吉孚が新
築していた邸が完成し、将軍、御台所、五丸から祝儀の品々が贈られた。そうして元禄
十一年二月、
「廿三日、三万石以上の輩より。八重姫君の御資装を奉べしと命ぜらる」
と、はっきりと将軍の命令が発せられている(1698•2•23、実紀 6:320)。
これは憶測すると八重姫君は綱吉の実の娘ではないし、鷹司家は京都で五摂家の一つで
はあったが京都の貴族は総じて豊かではなかったので、将軍も八重姫君の嫁入り道具を
諸大名に献納させることを躊躇しなかったのではないだろうか。
I. 姫君の祝義贈物交換
八重姫君の婚礼祝儀物
八重姫君の水戸家への輿入りが発表された一週間後に水戸家から納采として下記の品々
が届けられた。(「八重姫君様御養子被仰出之留」および実紀 6:295、1697/4/30)。
水戸吉孚からの八重姫君への納来は時服二十、帯二十筋、銀五百枚、大鯛十二、中鯛十
二、餾三十二串、海參三十聯、昆布三十把、子籠鮭十六、鱸十二、鰹節十二聯、鹽鰤十
二 鹽鱒十二、鱧十二聯、熨斗鮑二十把、石首魚六十、からすみ十聯、鹽鰊六十、鹽引
鮭十六 干鯛二十二、こち二十、干鱈二十、鯣五把、酒二十樽」
その日、将軍から御台所と桂昌院へ銀五十枚、三種二荷づつ、五丸 (お伝の方) へ銀
三十枚、三種二荷が贈られた。
水戸吉孚からの贈物:(出典は上記と同じ)
将軍へ:太刀一口、時服二十、銀二百枚。
御台所と三丸 (桂昌院)へ: 銀五十枚、縮紗二十巻、三種二荷づつ。
五丸殿 (お伝) と鶴姫君へ: 銀三十枚、縮紗十巻、三種二荷づつ。
右衛門佐(將軍上臈)へ: 白銀二十枚。
尾上、高瀬、松元(将軍のお年寄)へ: 白銀十枚づつ。
将軍表使四人へ: 白銀五枚づつ。
将軍総女中へ: 白銀五十枚。
御台所お年寄てふへ: 白銀十枚; 同つぼねへ: 白銀五枚づつ。
御台所総女中へ: 白銀五十枚。
八重姫君お年寄と御乳人へ: 白銀十枚づつ。
八重姫君総女中へ :
白銀五十枚。
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宰相綱条から将軍へ: 太刀目録、時服二十、銀百枚。
御台所と三丸へ: 各白銀五十枚、縮絹二十巻、三種二荷づつ。
五丸殿と鶴姫君へ: 白銀三十枚、縮絹十巻、三種二荷づつ。
光国中納言から将軍へ: 三種二荷。
御台所と三丸へ: 二種一荷づつ。
五丸殿と鶴姫君へ: 一種一荷づつ。
中納言宰相殿より八重姫君へ被進物無之。
(光国と綱条は八重姫君へ何もあげなかったとわざわざことわっているが上記によると
贈物をしているようである。)
甲府中納言綱豊、尾張中納言綱誠、紀伊宰相綱教より
将軍へ: 各三種三荷。
御台所、三丸、八重姫君へ: 各二種二荷。
五丸へ: 各一種一荷。
紀伊宰相綱教と徳川右衛門督吉通より
将軍へ: 各二種一荷。
御台所、三丸、八重姫君へ: 各一種一荷。
五丸へ:
各御肴一種。
なお、『八重姫君様御養子被仰出之留』によると、九月五日には「八重姫君様江御一門
方及諸大名献上物数品達事」とあり、元禄十一年四月二十三日には「御一門及在府之大
名献上物之事」、さらに四月二十三日には「在国在邑之大名献上物之事」という題目が
書き出されていて、将軍がこの婚礼のために、江戸に出勤中の大名だけでなく在郷中の
大名にも全員献上品を命令したことがはっきり出ている。
それとは別に幕府から号令の出た諸候の方式的献上品は、
将軍へ: 三十万石以上 三種二荷。
十万石より二十九万丸千石まで:二種二荷。
五万石より九万九千石まで: 二種一荷。
一万石より四万九千石まで: 一種一荷。
松平加賀守、井伊掃部頭表向二十万石の内也。稻垣安芸守不及献上也。
(なぜ前田家と井伊家が表向き二十万石扱いなのか、またなぜ稲垣が免除されたのかわ
からない)。
御台所、三丸、八重姫君へ:
三十万石以上: 二種千疋づつ。
十万石より二十九万九千石まで:一種千疋づつ。
五万石より九万九千石まで: 一種五百疋づつ。
一万石より四万九千石まで: 一種三百疋づつ。
28
大久保加賀守、阿部豐後守、戸田山城守、土屋相模守、小笠原佐渡守、柳沢出羽守、松
平右京大夫よりは:
将軍へ:各二種一荷。
御台所、三丸、八重姫君へ:各一種一荷づつ。
五丸と鶴姫君へ:各一種五百疋づつ。
八重姫君の女中二人へ:各三百疋づつ。
水戸宰相綱条、同御簾中、水戸少将吉孚へ:各二種一荷づつ。
水戸中納言光国へ:各箱肴一種。
秋元但馬守、加藤越中守、米倉丹後守、本多伯者守よりは:
将軍と八重姫君へ:各一種一荷。
御台所、三丸、五丸へ:各一種三荷。
以上は元禄十年 (1697/4/30) 納来の日の記録に見られるものである。
最後に名前を出された人々は老中ならびに綱吉にとくべつ親しい側近である。それらの
人々がふつうの大名の方式からはずされて指示を受けているのは、綱吉があくまで寵臣
を特別扱いにしていたことを示す。(八重姫君様御養子被仰出之留、国立公文書館、内
閣文庫草稿元禄十年、十一年)。(八重姫君様御婚礼之留、国立公文書館、内閣文庫草
稿元禄十・十一年. #153-207)。
『徳川実紀』によると元禄十一年五月に霊元上皇をはじめ大内の方々より八重姫君の婚
姻を祝って歌書、調度などが贈られた(1698/5/29、実紀 6:330)。六月には将軍から
八重姫君に小笠原佐渡守を使として下記の贈り物があった(1698/6/15、実紀
6:332):
光忠の御太刀、青江の御刀、広光の御差添、砂金三千両、伽羅三貫目、
茶壺(黄緑三笠山)、色糸五十斤、 綿二百把、時服五十襲。
三日後には小笠原佐渡守を使として将軍より水戸家の人々に贈り物があった:
``少将吉孚へ:正宗の御刀、国次の御差添、銀三百枚、時服二十。
宰相綱条へ:貞宗の差添、銀二百枚、綿三百把。
家司執事にも賜物差あり。
将軍への返礼には、
宰相綱条より: 正恒の太刀、時服十、綿百把、金二十枚。
少将吉孚より: 守次の太刀、国宗の刀、正宗の脇差、銀二百枚、時服十。
中納言光国より: 時服、太刀馬資金、三種二荷(1698/6/18、実紀 6:332)。
禁裏より八重姫君の入輿相済為御祝、
將軍へ: 御太刀御馬代黃金二枚。
御台所と三丸へ: 紅白縮緬十巻づつ。
八重姫君へ:
紅白羽二重十疋。
仙洞より、
将軍へ: 御太刀御馬代黄金一枚。
御台所と三丸へ: 紅白縮緬五巻づつ。
八重姫君へ: 紅白羽二重五疋。
女院より
将軍へ: 黄金一枚、二種一荷。
御台所と三丸へ: 縮紗五巻、二種一荷。
八重姫君へ: 緞子三卷、二種一荷。
准后と女御より
将軍へ: 各縮紗紅白五巻づつ。
御台所と三丸へ: 各縮緬紅白三巻づつ。
八重姫君へ: 各繻珍二巻。
(「八重姫君様御養子被仰出之留」(1698/7/2;実紀 6:335)。
禁裏への謝礼品:「八重姫君様御養子被仰出之留」(1698/7/21)。
将軍より
禁裏へ: 御太刀目錄、綿百把、白銀百枚、三種二荷別祿。
仙洞へ: 御太刀目錄、白銀五十枚、二種二荷別祿。
女院、准后、女御へ: 白銀三十枚、二種一荷づつ。
御台所より
禁裏へ: 緞子二十卷、三種二荷別祿。
仙洞へ: 緞子十巻、二種一荷。
女院、准后、女御へ: 各緞子五巻、二種一荷づつ。
三丸 (桂昌院) より
禁裏へ: 繻珍二十卷、三種二荷別祿。
仙洞へ: 繻珍十巻、二種一荷。
女院、准后、女御へ: 繻珍五巻、二種一荷づつ。
八重姫君より
禁裏へ: 白銀五十枚、三種二荷。
仙洞へ: 白銀三十枚、二種一荷。
女院、准后、女御へ: 白銀二十枚、二種一荷づつ。
他に八重姫君婚姻を賀して将軍へ:
29
尾張大納言光友、紀伊大納言光貞、お部屋、尾張右衛門督吉通より:
各二種二荷。
三十万石以上大名より: 各三種二荷。
十万石以上より、と大老井伊掃部頭より: 各二種千疋。
五万石より九万九千石までと、侍従以上の隠居、および三人の老中と三人の
寵臣より: 各二種五百疋。
一万石より四万九千石までと、四人の少老より: 二種三百疋づつ。
九人の側近より : 一種三百疋づつ。
安宮と甲府殿御簾中 (熙子)より: 各二種二荷。
松平伯者守母、松平伊予守内室、松平安芸守祖母、上杉弾正大弼室より:
各二種五百疋づつ。
御台所、三丸 (桂昌院)、八重姫君へ:
甲府中納言綱豊、尾張中納言綱誠、紀伊宰相綱教より: 各三種二荷。
尾張大納言、紀伊大納言、德川右衛門督より: 各二種一荷。
十万石以上、と大老井伊掃部頭より: 一種千疋づつ。
五万石以上九万九千石までと、侍従以上の隠居、および三人の老中と
三人の寵臣より: 一種五百疋づつ。
一万石以上四万九千石までと、四人の少老より: 二種三百疋づつ。
九人の側近より : 一種三百疋づつ。
五丸、鶴姫君、喜知姫(尾張綱誠女、綱吉養女)へ:
甲府中納言綱豊、尾張中納言綱誠、紀伊宰相綱教より: 各二種二荷。
尾張大納言、紀伊大納言、徳川右衛門督より: 各一種一荷。
大老井伊掃部頭より : 各一種五百疋。
三人の老中と四人の寵臣より : 一種三百疋づつ。
四人の少老より : 箱肴一種づつ。
御台所、桂昌院、五丸、鶴姫君、喜知姫へ:
安宮、甲府殿御廉中より: 三種二荷づつ。
八重姫君へ:
甲府中納言より: 白銀百枚、三種三荷; 三人の上臈へ: 白銀五枚づつ。
尾張中納言、紀伊宰相より: 各白銀百枚,三種二荷: 八重姫君の三人の上
臈へ: 白銀五枚づつ。
尾張大納言、紀伊大納言、徳川右衛門督より: 各綿百把と二種二荷づつ。
安宮、甲府殿御簾中より: 各二種三荷。
松平讃岐守、同播磨守、同大学頭より : 各三種二荷。
松平能登守、同筑後守より: 各二種一荷。
御台所、桂昌院へ:
吉孚少将より: 白銀五十枚、三種二荷 (4/30)。
30
松平伊予守室、松平安芸守祖母、上杉弾正大弼室より:
松平伯者守母は御台所だけへ: 二種三百疋。
二種三百疋づつ。
その他女性達へのお祝儀、あるいは女性間で八重姫君の慶事にあたって交換され
たお祝儀は、
将軍より:
御台所、三丸、五丸、千代姫君、鶴姫君、喜知姫へ、三種二荷づつ。
御台所より:
将軍へ、 三種二荷。
三丸、五丸、千代姫君、鶴姫君、喜知姫へ、二種二荷づつ。
千代姫君より:
将軍へ、三種二荷。
御台所、三丸、五丸、鶴姫君、喜知姫へ、二種二荷づつ。
喜知姫 (二歳未満の綱吉養女) より :
将軍へ、三種二荷。
御台所、三丸、五丸、千代姫君、鶴姫君へ、二種二荷づつ。
三丸より:
將軍、御台所、五丸、千代姫君、鶴姫君、喜知姫へ、不相知。
五丸より:
将軍へ、 三種二荷。
御台所、三丸、千代姫君、鶴姫君、喜知姫へ:二種二荷づつ。
鶴姫君より:
将軍へ、三種二荷
御台所、三丸、五丸、千代姫君、喜知姫へ、二種二荷づつ。
婚礼後、将軍より祝いの下賜品、元禄十一年(1698/6/18)。
吉孚少将へ、白銀三百枚、時服十。
八重姫君へ、 白銀二百枚、綿二百把、三種二荷。
水戸宰相綱条へ 白銀二百枚、綿三百把。
宰相御簾中へ、白銀百枚、綿二百把、三種二荷。
水戸中将請取中山備前守へ、白銀百枚、時服。
御貝桶請取之役山野辺若狹守へ、 白銀百枚、時服六。
水戸家老三人へ、白銀三十枚、時服六づつ。
吉孚少將傅役二人へ、白銀三十枚、時服四づつ。
少将付局へ、白銀二十枚、紗綾十巻。
八重姫君付上臈二人の介添女中へ、白銀二十枚、紗綾七巻づつ。
八重姫君小上臈二人へ、白銀十枚、紗綾五巻づつ。
八重姫君年寄分四人へ、白銀十枚、紗綾三巻づつ。
惣女中へ、 白銀二百枚。
御用人山高八左衛門へ、白銀二十枚、時服四。
医師東宗雲とお台所頭小川市兵衛へ、白銀十枚、時服二づつ。
31
32
御台所より: (1698/6/18)
吉孚少将へ、白銀百枚、時服六、三種二荷。
八重姫君へ、白銀五十校、紗綾二十卷、三種二荷。
水戸宰相綱条へ、白銀百枚、時服三、三種二荷。
宰相御簾中へ、綿百把、三種二荷。
水戸中納言光国へ、時服六、三種二荷。
少将付局、八重姫君付上臈と二人の介添女中へ、白銀十枚づつ。
八重姫君小上臈二人へ、白銀五枚づつ。
八重姫君年寄分四人へ、白銀三枚づつ。
惣女中へ、白銀五十枚。
御用人山高八左衛門へ、白銀十枚。
医師東宗雲へ、白銀五枚。
お台所頭小川市兵衛へ、白銀三枚。
三丸より: (1698/6/18)
吉孚少将へ、 白銀百枚、時服六、三種二荷。
八重姫君へ、白銀五十枚、紗綾二十卷、三種二荷。
水戸宰相綱条へ、 白銀百枚、時服六、三種二荷。
宰相御簾中へ、綿百把、三種二荷。
水戸中納言光国へ、時服六、三種二荷。
八重姫君付上臈と二人の介添女中へ、白銀三枚づつ。
惣女中へ、白銀三十枚。
五丸より: (1698/6/18)
吉孚少将へ、 白銀百枚、時服六、三種二荷。
八重姫君へ、白銀五十枚、紗綾二十卷、三種二荷。
水戸宰相綱条へ、白銀百枚、時服六、三種二荷。
宰相御簾中へ、綿百把、三種二荷。
水戸中納言光国へ、時服六、三種二荷。
八重姫君付上臈と二人の介添女中へ、白銀二枚づつ。
惣女中へ、白銀二十枚。
千代姫君より: (1698/6/18)
吉孚少将と水戸宰相綱条へ、白銀二十枚、二種一荷づつ。
八重姫君へ、紗綾十卷、二種一荷。
宰相御簾中、水戸中納言、方姫御方 (綱条養女) へ、白銀二十枚づつ。
八重姫君上臈と二人の介添女中へ、白銀二枚づつ。
惣女中へ、白銀二十枚。
鶴姫君より: (1698/6/18)
吉孚少将、八重姫君、水戸宰相綱条へ、各白銀三十枚、紗綾二十卷、
二種一荷づつ。
宰相御簾中へ、綿百把、二種一荷。
水戸中納言へ、時服四、一種一荷。
八重姫君付上臈と二人の介添女中へ、各白銀二枚づつ。
惣女中へ、白銀二十枚。
33
喜知姫より: (1698/6/18) (喜知姫は一ヶ月後7月7日に死亡)
惣女中のほか、鶴姫君と全部同じ。
惣女中その他外部者には下されものなし。
八重姫君よりの謝礼贈物 (1698/6/14)
将軍へ、時服六、白銀百枚、三種二荷 (6/18)。
水戸宰相綱条へ、白銀百枚、時服六、三種二荷。
水戸中納言光国へ、時服六、二種二荷。
水戸宰相御簾中へ、銀五十枚、綿百把、三種二荷。
待上臈方姫(水戸綱条養女)へ、銀五十枚、紗綫二十卷、二種二荷。
水戸家家老、大名分、用達、番頭など二十八人へ、時服四づつ。
吉孚少将付家来十一人へ、時服三づつ。
甲府中納言、尾張中納言、紀伊宰相へ、時服六、三種二荷づつ。
尾張大納言、紀伊大納言、徳川右衛門督へ、時服五、二荷一種づつ。
安宮、甲府殿御簾中へ、二種二荷づつ。
松平讃岐守、同播磨守へ、三種二荷づつ。
松平能登守、同筑後守へ、二種一荷づつ。
その他八重姫君は大老、老中、少老、綱吉側近の多くの人々に時服六、五、四、
三づつ進上。自分の上臈一人に紗綾十巻、年寄四人に同七巻づつ、
表使四人に同三巻づつ。惣女中に白銀百枚を与えている。
御台所の二人の上臈に白銀五枚づつ、二人の小上臈に三枚づつ、三人の年寄と二人
の表使に二枚づつ、惣女中に五十救を与え、御台所の用人三人に総計時服八を与え
た。 三丸の上臈一人に白銀三枚、小上臈一人と年寄七人に白銀二枚づつ、惣女中
に白銀三十枚。四人の用人に総計十二の時服を与えた。
五丸の年寄四人に白銀二枚づつ、惣女中に白銀十枚、二人の用人に時服
三づつ。
千代姫君の侍女六人に白銀二枚づつ、惣女中に白銀二十枚。
鶴姫君の上臈二人と老女二人へ白銀二枚づつ、惣女中に白銀二十枚、
五人の家司用人へ全部で十二の時服。
喜知姫の上臈へ白銀二枚、惣女中に白銀十枚。
以上は八重姫君から将軍の側近と大奥の女性達への謝礼である。
御台所からは八重姫君の入輿にあたって勤めた十八人の用人、勘定方、細工方の男性へ
多くの衣類、絹巻物などが贈られている。
34
八重姫君がどれほど愛され大事にされたかは彼女が吉孚の子供美代姫を産んで非常な祝
福を受けたことでもわかる。宝永五年(1708)二月七日に美代姫の七夜の祝いがあり贈
物が飛び交った。
美代姫の七夜の祝いの祝儀
将軍より:
八重姫君へ、銀五百枚、縮緬二百卷、五種五荷。
美代姫へ、産衣二十、銀二百枚、五種五荷。
吉孚の父綱条へ、貞宗の差添、銀二百枚、綿二百把、三種二荷。
中将吉孚へ、正宗の刀、来国次の差添、銀三百枚、時服二十、三種二荷。
綱条夫人へ、銀百枚、綿百把、二種一荷。
家司中山備前守信成へ、銀三十枚、時服五。
他家司六人へ、銀二十枚、時服四づつ。
執事十人へ、時服三づつ。
姫君用人山高八左衛門信賢へ、金二枚、時服三。
医員余語古庵元善へ、銀二十枚。
用達へ、銀十枚。
台所頭へ、五枚。
総中へ、五十枚。
綱条、吉孚、綱条夫人、姫君の女房たちにも若干の銀。
西 (家宣)より:
八重姫君へ、銀二百枚、綿百把、三種二荷。
美代姫へ、産衣十、銀百枚、三種二荷。
吉孚朝臣へ、時服二十、二種一荷。
綱条卿へ、時服十五、二種一荷。
綱条夫人へ、縮緬三十卷、一種一荷。
御台所信子より:
八重姫君へ、紗綾五十卷、二種一種。
美代姫へ、あまがつ(人形)、大張子、産衣十、二種一荷。
吉孚朝臣へ、時服十、一種一荷。
綱条卿へ、時服六、一種一荷。
綱条夫人へ、紗綾二十卷、一種一荷。
家司中山備前守へ、時服三、他の家司へ:時服二づつ。
その他男女に布絹、金銀若干。
御廉中熙子より:
八重姫君へ、紗綾三十卷、二種一荷。
美代姫へ、産衣三重、二種一荷。
吉孚朝臣へ、時服三、一種一荷。
綱条卿へ、時服五、一種一荷。
綱条夫人へ、紗綾十五卷、一種一荷。
五丸より:
八重姫君へ、羽二重二十足、二種一荷。
美代姫へ、産衣二重、二種一荷。
吉孚朝臣へ、時服二、一種一荷。
綱条卿へ、羽二重十疋、一種一荷。
綱条夫人へ、紗綾七卷、一種一荷。
将軍綱吉より、家宣、御台所、御簾中熙子、五丸へ、一種づつ。
大納言家宣より、将軍綱吉、御台所、御簾中熙子、五丸へ、一種づつ。
御台所より、将軍綱吉、家宣、御廉中熙子、五丸へ、一種づつ。
御簾中熙子より、将軍綱吉、家宣、御台所、五丸へ、一種づつ。
五丸より、将軍綱吉、家宣、御台所、御簾中熙子へ、一種づつ。
八重姫君より :
將軍へ、肴十種、樽十荷、行器十荷。
御台所へ、五種五荷、行器十荷。
家宣へ、三種二荷、行器十荷。
御簾中熙子へ、三種二荷、行器五荷。
五丸へ、二種一荷、行器三荷。
水戸吉孚より:
將軍へ、綿二百把、三種二荷。
家宣と御台所へ、綿百把、二種一荷づつ。
御簾中熙子へ、縮緬二十卷、二種一荷。
五丸へ、縮緬十卷、一種一荷。
水戸綱条より:
将軍へ、時服十、三種二荷。
家宣へ、紗綾三十卷、二種一荷。
御台所へ、紗綾二十卷、二種一荷。
御簾中熙子へ、紗綾十卷、二種一荷。
五丸へ、紗綾十巻、一種一荷。
綱条夫人より:
将軍へ、羽二重二十疋、一種一荷。
家宣へ、羽二重十五疋、一種一荷。
御台所へ、羽二重十疋、一種一荷。
御簾中熙子へ、羽二重七疋、一種一荷。
五丸へ、羽二重五疋、一種一荷。
35
尾張綱誠、紀伊綱教より:
将軍へ、各三種二荷。
家宣、御台所信子へ、各二種一荷づつ。
御簾中熙子へ、各一種一荷。
松平(前田)綱紀より:
将軍へ、二種、千疋。
家宣へ、一種、千疋。
御台所信子へ、一種、五百疋。
松平摂津守義行、松平出雲守義昌、松平大字頭賴貞(光国甥)、松平掃部賴明
より:
将軍へ、各一種五百疋。
家宣、御台所信子へ、各一種づつ。
松平肥後守正容、井伊掃部頭直通、松平讚岐守賴豐より:
将軍へ、各二種、千疋。
家宣へ、各一種、千疋。
御台所信子へ、各一種、五百疋。
松平紀伊守信庸より:
将軍へ、二種、五百疋。
家宣と御台所信子へ、一種、三百疋づつ。
土岐伊予守頼殷より:
将軍へ、一種、五百疋。
家宣と御台所信子へ、一種、三百疋づつ。
その他、将軍へ:
十万石以上の大名より、 二種、千疋づつ。
五万石以上、 二種、五百疋づつ。
一万石以上、 一種、五百疋づつ。
御台所へ:
十万石以上の大名より、各一種、五百疋。
五万石以上:各一種、三百疋。
日光准后公弁法親王より、将軍へ、一種一荷。
(以上、1708/2/7、実紀 6:686-687)
女院 (霊元天皇中宮、御台所の妹房子) より (美代姫誕生の祝儀に)
将軍へ、紗綾五卷、二種一荷。
36
御台所へ、紗綾三巻、二種一荷。 (1708/2/18、実紀 6:688)
37
美代姫の七夜の祝いの後十一日ほど経て、御台所信子は姪八重姫君の江戸の水戸新邸を
訪問した。鷹司信子と近衛熙子はそういう珍しい外出の特権を行使することのできた御
台所であった。これは外出好きの桂昌院がたびたび自分の兄弟や綱吉の寵臣の邸、自分
のひいきしている寺院神社などを自由に訪れたのでその影響もあったのだろう。
御台所信子が江戸の水戸邸を初訪問したのは一大行事で、お側水野飛騨守重矩や大奥の
留守居役、その他大勢の護衛が動員され供奉した。その時の贈り物交換を下記する。
御台所信子水戸新邸訪間の贈り物
御台所より:
中納言綱条へ: 銀百枚、二種一荷。
綱条夫人へ: 大紋縮緬二十巻、箱肴。
中將吉孚朝臣へ: 銀百枚、縮緬二十卷、二種一荷。
八重姫君へ: 銀百枚、縮緬二十卷、行器十荷、二種一荷。
益姫(綱条養女、今出川右大臣公規女、滿十八才)へ: 縮緬十卷。
美代姫へ: 綸子十巻、一種一荷。
玉峯院尼(頼房女、光国妹)と鎌倉英勝寺へ: 紗綾十巻づつ。
松平頼貞、松平頼道、松平頼明へ: 時服五づつ。
松平筑後守頼道の長子将監頼慶へ: 時服四。
家司中山備前守信成へ: 時服三。
他家司六人へ、: 銀二十枚、時服二づつ。
大寄合へ: 紗綾三巻。
吉孚傳役三人へ: 紗綾五巻づつ。
用人十人へ: 紗綾二巻づつ。
八重姫君の老女たちへ: 縮緬あるいは紗綾五巻づつ。
若年寄、中臈頭へ: 三巻づつ。
表使四人へ: 二巻づつ。
総女房へ: 銀百枚。
吉孚の老女たちへ: 紗綾五巻づつ。
美代姫の抱守へ: 銀二枚。
美代姫の総女房へ: 銀十枚。
八重姫君の用人山高信賢へ: 縮緬五巻。
医員、用達へ: 紗綾三巻づつ。
綱吉将軍より:
御台所信子へ: 色縮緬五十巻、三種二位。
八重姫君へ: 色紗綾五十卷、三種二荷。
中將吉孚へ: 箱肴、二種一荷。
美代姫へ: 紅白羽二重二十疋、二種一荷。
38
西の丸家宣より:
御台所信子へ: 三種二荷。
八重姫君へ: 三種二荷。
中將吉孚へ: 箱肴。
美代姫へ: 箱肴。
御簾中熙子より:
御台所信子と八重姫君へ: 檜重一組、一種づつ。
中納言綱条、中将吉孚、綱条夫人、方姫 (綱条養女)へ:
美代姫へ:
箱肴。
五丸より:
一種つつ。
御簾中熙子と全く同じ
返礼品
御台所へ:
中納言綱条より: 紗綾三十巻、二種一荷。
綱条夫人より: 長綿五十把、二種一荷。
中将吉孚より: 縮緬三十巻、三種二荷。
益姫より: 色羽二重十疋、二種。
美代姫より:大紋羽二重十反、二種。 (1708/2/18、実紀 6: 688)
美代姫は大々的七夜の祝いの他に同じ年に色直しのお祝をしてもらった。
色直しのお祝
将軍より:
中納言綱条と綱条夫人へ: 箱肴一種づつ。
中将吉孚へ: 二種一荷。
八重姫君へ: 二種一荷、行器(ほかい)三荷。
美代姫へ: 紅白羽二重二十疋、二種一荷。
大納言家宣より:
中納言綱条と綱条夫人へ: 箱肴一種づつ。
吉孚卿へ: 二種一荷。
八重姫君へ: 二種一荷。
美代姫へ: 紅白縮緬十五卷、二種一荷。
御台所より:
中納言綱条と綱条夫人へ:
吉孚卿へ: 二種一荷。
箱着一種づつ。
39
八重姫君へ: 二種一荷、行器二荷。
美代姫へ: 紅白紗綾十五卷、一種一荷。
御簾中熙子より:
中納言綱条と綱条夫人へ: 箱肴一種づつ。
八重姫君へ: 二種一荷。
美代姫へ: 紅白紗綾十卷、一種。
五丸より:
中納言綱条と綱条夫人へ: 箱肴一種づつ。
八重姫君、美代姫へ: 箱肴二種づつ。
美代姫の色直し祝儀返札品
中納言綱条より:
将軍、家宣、御台所、御廉中、五丸へ:
一種づつ。
綱条夫人より: 将軍、家宣、御台所、御簾中、五丸へ:
中将吉孚より: 将軍、家宣、御台所へ:
御簾中熙子へ: 一種一荷。
五丸へ: 一種。
二種一荷づつ。
八重姫君より: 将軍、家宣、御台所へ:
御簾中熙子へ: 一種一荷。
五丸へ: 二種。
二種一荷づつ。
一種づつ。
美代姫より:
将軍へ: 二種一荷、行器三荷。
大納言家宣、御台所、御簾中へ: 一種一荷、行器二荷づつ。
五丸へ: 行器二荷。
(1708/6/2、実紀 6:697ー698)
以上のお七夜やお色直しの際の「美代姫より」というのがいかにも不自然に思われる。
美代姫はもとより生まれたばかりで七日目でも人間としての意識もさだかでない小さな
存在であった。そんな新生児が一種一荷 (肴一種酒一荷) を方々から受け取ったり、
行器 (ほかい) 三荷を将軍に捧げたりするのは考えられないことである。四ヶ月後の
お色直しの時もまだ赤ん坊であることに変わりはない。そういう習俗が大奥や水戸家の
奥向きで全部とり決められ、とり運ばれた。将軍家や家門の中では外部から届いた食べ
物は、用心のため主人や北の方が食べることはなかったそうだから、それらの贈物は全
部しかるべき家臣や女中に廻されるだけだった。そういう無駄や無意味が心ある人々に
はわかっていたのだろうが、変えられることなく習慣はますます深く根を張っていった。
40
J. 大奥の伝統執着
以上の八重姫君の婚礼や出産祝い、美代姫の七夜の祝いなどの煩瑣な贈物活動の内容や
量から、この時代の贈物がどれほど方式的に厳重に階級化され統制されていたかが分か
ると思う。第一前述したように、生まれた赤ん坊のお祝というよりも、その周囲の大人
が互いに物を贈り合っているのであり、全然関係のない五丸 (お伝の方)や松平(前田)
綱紀や将軍の老中などがなぜ上げたり貰ったりしなくてはならないのだろうか。上から
下まで、几帳面に階段式に量化され、質化されているが、実は皆、同じような物を機械
的に贈ったり受け取ったりしているだけである。すでに書いたように、これは贈り物そ
のものの内容を感謝するのではなくて、まったく象徴的にその行為によって義務を果た
していたのである。この贈物の交換は『家』の繁栄と非常に親密な関係があって、徳川
家の主幹に近い身分の高いメンバーはその一生の節目節目が認められ、祝われなければ
ならない。それらを実行することによって家門はますます強力になり繁栄するのである。
今日の感覚から推察すると、あまり関係のない人々を巻き込む結婚や出産は、その祝事
を心から祝う身近な人々、又その贈り物交換によって自分の地位の意義を認められて喜
ぶ人々はともかく、他の経済的余裕も心理的親密さもない人々には迷惑だけではなかっ
たかと思う。そうして、コントロールがきかない状態に絶望感を持ち、苦々しく思った
人々もいたかもしれない。しかしそれは今日の感覚による推察で当時はただただ将軍家
の繁栄を願い祝っていたのかもしれない。
なぜそんな無意味な慣例がこれほど盛んになったかを考えると、そこにこういう因習に
おける確固とした女性の地位が見えて来る。女性はその階段的方式の半分をしっかり支
えていたのである。そうしてその習慣を絶対に続けさせたのも女性であり、特に大奥の
女性であったことが推察される。
ということに別に確証があるわけではないが記録を見ていると、これは大奥の女性たち
の執着にちがいないと思えて来る。大奥で最も勢力をふるったのは一生を大奥での生活
にささげた老女たち、つまり「お年寄り」と呼ばれた実力者たちであるが、彼女達はす
べて旗本の娘たちであり、幼い時から将軍家に対する絶対忠誠を教えられて育って来た。
将軍と御台所に対する敬愛と大奥のしきたりを守り,固く身を持して生きてきた。彼女
たちが大奥と運命を共にすることは敷居をまたいだ時から決まっていた。お年寄りだけ
ではなく、中級以上のお中臈のたちは一生独身で死ぬまでご奉公、と誓詞を書いたので
ある。そういう精神だから将軍家の繁栄を願い、祈り、祝うのは当然だった。そうして、
同時に従来の習慣に従い将軍家の祝事を実行することによって自分たちの職場の安全を
図るのは当然だっただろう。
重要な制度に関しては彼女達が自分で取り決めることはなかった。大奥も幕府に統制さ
れた江戸城の一部であって主要な命令は幕府の老中から受けていた。将軍家の行事に贈
物を必要とするときは老中から指令があるのが普通だった。祝い事で大名たちに方式的
贈物の命令が出るのも綱吉のような意志の強い将軍の場合はその意向を反映しただろう
が、将軍からの直接の命令がなくても老中から適当に方式的贈物の命令が出ていただろ
41
う。それに慣れていた大奥のお年寄りたちが大奥内の統率規定についてはだいたい表の
老中にお伺いをたてるか、いつも決まったことならば先例を踏襲していた。
何年も後安永四年(1775)十一月朔日に、田安家の種姫(田安中納言宗武の息女)が十
代将軍家治の養女になったとき、六人の清水,一橋,田安家の老女たちが大奥のお年寄
りに年間に種姫君様にさしあげるべきものについて質問の手紙を出している。たとえば
年頭に御箱肴一種づつ,上已に御雛一対と御箱肴一種、種姫君様の御誕生日に御肴一折,
暑中と寒中に御肴一折宛、歳暮に御羽子板一飾と御箱肴を一種,差し上げるということ
でいいだろうか、という手紙である。こういう質問はしばしば分家の奥から大奥へ来て
いたらしい。そうして大奥からも千代姫君様、鶴姫君様,八重姫君様のときは誰それへ
の贈物はどうであった、という答えが見える。それらは皆自分たちの生活保証と幼いと
きからの信条である将軍御台所への忠誠をまもるために伝統にしがみついていた大奥の
女性たち存在の記録である。そういう状態が長く続いて大奥の女性たちはだんだん権力
を築いていった。(『田安種姫様御養女被仰出書抜』国立公文書館 220−202)大奥のお
年寄りのお手本になったのは三代将軍家光の乳母春日局であったが、その後だんだん同
じような性格の強い女性が現れて大奥での権力をほしいままにし、自分たちは老中と同
格だと公言するまでになった。
依田学海の残した『学海日録』に慎徳公(家慶)に仕えたお年寄り、万里小路と姉小路
という強力な上臈の噂が書いてある。上臈は御台所のお相手として京都から来た女性で
普通は実事に携わらなかったのだが、幕末には事情が変わり、性格の強さもあってその
女性たちは非常に権力をふるった上臈お年寄りであった。幕府瓦解の後に依田学海が雇
った老女はもと大奥で中臈だった人で、彼女に聞いた所によると『姉小路、その性よか
らぬものにして、諸幕士の請托を受けてその黜陟を執政に望み請ふことなどありしかば、
幕士にこれつきて職をのぞむものありて、賄賂数百金に及べりとぞ』ということだった
(明治十七年五月)。(学海日録第六巻 p.17。全十二巻。学海日録研究会編。岩波書
店、1992。
お年寄りという職は一時に六人から八人いたということだが、やはりその女性の性格に
よって非常に強いお年寄りと、それほど権勢をひけらかすことのない優しいお年寄りも
いたようである。どちらにしても大奥に永く仕えたお中臈などはお年寄りに昇級できる
ことを望んでいた。そうして旗本の子供などを養子にして家を一軒持つこともできたお
年寄りもいた。それは全く特別な例だったらしく、普通は、病気になったお中臈や、年
取って身寄りのないお中臈が死ぬまで過ごした桜田の養生所という建物で老後をおくる
らしかった。しかし彼女たちはそこにはいるよりも、江戸城近くに家を持って養子夫婦
に老後をみとられて一生を終わることを理想としたにちがいない。
K.不可解な養女縁組
綱吉は元禄十一年(1698)三月十八日に初めて尾張徳川家を訪問し、多産な当主綱誠の第
三十三番目の子、十四人目の娘である喜知姫を養女にすることを発表した。それはその
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前の月に綱吉が諸大名三万石以上の輩は八重姫君に御資装を献上するように指令したの
で、献上品の嫁入り道具が次々に届いていた最中であった。喜知姫は将軍の二番目の養
女として四月一日に尾張邸から本城に移された。(実紀 6:325)。八重姫君は六月十三日
に結婚式を挙げた。乳児であった喜知姫は大奥で育てられていたのだが、三ヶ月後、病
気で吐乳し、三日目の七月七日には死亡した。(実紀 6:335)。
十年後の宝永五年(1708)の三月二十七日に綱吉は尾張徳川綱誠の三十七子,十七女であ
る松姫(始めの名は磯姫)を養女にすることを宣言し,四月の九日にはもう彼女と前田
若狭守吉徳との縁組を発表した。それは同年の二月一日に水戸の八重姫君が姫(美代姫)
を生み,お七夜の祝いや、色直し(1708/6/18)、御台所の水戸屋敷訪問(1708・2・18)
や京都の皇居の大火事(1708/3/8)などで非常に慌ただしい時期であった。その騒ぎがま
だ納まらないうちに綱吉は又竹姫を養女にすることを発表し(1708/7/25)すぐに彼女と
松平肥後守正容の長子久千代との定婚を命じた。この時も、一方では松姫御資装献上品
がぞくぞくと集まっていた時である。
八重姫君の場合も、 松姫君も、その後につづいた竹姫君や吉宗養女の利根姫君など、
どれも記録の上では急に「縁組みのことを仰せ出され」、その日のうちに決まったよう
に聞こえる。元禄十一年 (1698/3/18) 養女になって四ヶ月足らずで亡くなった喜知
姫君も、あるいは養女や縁組は事前に何ヶ月かの予備相談で決められていたのかも知れ
ない。実紀の元禄十一年六月の終わりに四月から六月までは日記が散逸しているので他
の記録で補充されているがおそらくは遺漏多かるべし、との但書きがついているのであ
る。綱吉がこれらの少女たちを養女とした場合、いずれの場合も養女の発表、その直後
あるいは間もなく婚姻の予定を発表したから、幼い人たちは何も知らないうちに事が運
ばれたのはたしかである。男性(少年)の方もいやおうなしに結婚させられたのだが、幕
府の方ではその親に対して、将軍の養女との結婚ならば文句はないはずという態度が言
外に含まれていた。
綱吉養女の謎を考えると、喜知姫君は多分前田家との縁組を考えて養女にされたのであ
ろう。そうして彼女の死後、松姫君が同じ目的のために養女にされた。それは必ずしも
吉個人の望みではなくて、幕府を司る将軍家の存続のため、有力な大名家と姻戚関係を
保つことは政策の一端だったのであろう。
徳川家姫君の結婚の歴史をみると、だいたいにおいて一番の骨組みは徳川家門及び加賀、
薩摩、陸奥という有力な外様大名との友好政治的協力提携という政策に築かれていたよ
うである。前田家はとくに豊臣時代には徳川の競争相手として敵対したこともあるよう
な大勢力であり、何度かの危機を経て寛永以後の平和に至ったのである。そのため、前
田家では、
三代利常夫人の将軍秀忠娘子々姫(珠姫)以来、
四代光高夫人は家光養女(水戸徳川頼房女)大姫君 、
五代綱紀夫人は家門会津の保科正之女摩須姫、
六代吉徳夫人は綱吉養女松姫君、
七代宗辰夫人は会津保科正容女常姫、
八代重熙夫人は高松徳川頼泰女長姫、
九代重靖夫人は紀伊徳川宗直女賢姫、
十代重教夫人は紀伊徳川宗将女千間姫、
十一代斉広夫人は尾張徳川宗睦養女(高須松平勝当女)琴姫,
十二代斉泰夫人は十一代将軍家斉女溶姫君、
という状態で、必ず徳川宗家か連枝との縁組であった。
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綱吉の四番目の養女竹姫君も側室大典侍と御台所の望みで養女に決まった時から徳川宗
家に近い親戚の会津松平との縁組がすぐに整えられ、その若い許婚者が亡くなり、二人
目の許婚者正仁親王の没後は前田家の次に有力外様大名の島津家とのつながりが非常に
望ましかったのである。
将軍の養女はそもそも徳川家親類筋の娘、あるいは徳川家も婚姻を望むほどの名家の娘
で、しかも将軍の娘としてえらばれたのだから降嫁先の親も重臣たちも抗議する人々は
いなかった。ほとんどの場合、婿君が花嫁の顔を始めて見る時はまだ少年で、姫君の方
は西も東もわからない幼さである。その幼い二人がだんだんとむつみあって、なんとか
夫婦になったわけだが、大人になっていやになっても、男性の方はまだ多妻の自由が許
されていたから満足を得る方法があった。女性の方はというと、小さいとき人形のよう
に生家から江戸城大奥へ移され、間もなくまた嫁入り先へ移された。自分が贈物の本体
になっていたことなど夢にも知らなかっただろう。何もわからないながら一生懸命、素
直に教えられたとおりにいい奥方になろうとつとめただろう。又悲しい運命を知ったと
しても何も言わなかっただろう。人間が自我を主張することを知らなかった時代だから
それですんだのであるが、美しい着物を着せられ、女中たちにちやほやされる生活を姫
君たちはどれほど楽しむことができただろうか。夫を愛することのできた姫君は幸せだ
った。記録がないからそれぞれの御台所や他家へ嫁行った将軍の娘や養女たちがどのよ
うな気持ちでどんな生活をしたかわからない。家光将軍と御台所が互いに嫌いあったら
しいというのはよく知られている。
六代将軍家宣の御台所近衛煕子は両親の日記のおかげで夫家宣を愛していたことがわか
る。家宣が煕子をある程度愛し、尊敬し、大事に扱ったことも記録に残っている。現代
社会のテレビドラマは製作にあたっていろいろ時代考証をおこなうのだが話を面白くす
るための歪曲も少しはあるかもしれない。
L.吉宗の将軍相続と竹姫君
ここでは将軍の養女のすこし変わった結婚の例として八代将軍吉宗時代の竹姫君をあげ
たい。
七代将軍家継は薨去のとき七歳であったから世子はなく、紀伊徳川の吉宗が選ばれた経
緯についてはよく知られている。吉宗が尾張と水戸の候補より優先されたのは、六代将
軍家宣の遺志だと言われているが、実はそうではなかった。それは早くに家宣が世継鍋
松の幼さと虚弱を憂いて新井白石に、自分の死後子供が成人する迄尾張吉通に一時将軍
の座についてもらうのはどうだろうか、と相談したときから、一度も紀伊家を将軍候補
44
として考えていた様子はなかった。家宣の遺書は東大史料編纂所の文書の中にもあり、
徳川実紀にも入っているが、紀伊のことは一言も書いてない。いずれも幼少の鍋松(家
継)のことをくれぐれも頼むということばかりである。普通伝えれている天英院が「家
宣の遺言だから将軍候補を紀伊の吉宗にするように」と言ったということだが、それは
老中が天英院に頼んでそう言わせたのであろう。 危篤がせまる前に家宣が天英院と間部
詮房と月光院を枕元に呼んで紀伊の吉宗を後継者に、と言った可能性が全然ないとは言
えないが非常に疑わしい。家宣が望んだ尾張吉通は正徳三年(1713)二十五歳の若さで変
死しており、その後尾張徳川家は内部の複雑な事情や相続者の短命から相続争いが続い
ていた。その上尾張の継友は家康の玄孫であり、水戸の綱條と紀伊の吉宗はそれよりも
神祖に一代近い曾孫であった。しかし綱條は年を取っていた。 それに対して、紀伊藩の
最悪の財政状態を立て直した若い吉宗の改革手腕は有名になっており、幕府の老中たち
にみとめられていた。とくに家宣家継時代に新井白石や間部詮房の政権力の独占で幕府
の中枢政治の座から追われていた老中及び譜代大名たちは、この際明らかに政治方針の
ちがう吉宗を望み、天英院を通じて彼に将軍の地位に継ぐことを要請したのである。そ
の後、吉宗が享保の改革を始めた後、老中や将軍家譜代の臣下や大奥の女性たちにとっ
ていろいろと思惑の違ったことが出てきたらしいが、この稿は結婚を扱っているのでそ
れには触れない。
吉宗は将軍になったとき、綱吉時代から大奥に属していた多くの女性を引き継がなけれ
ばならなかったが、その中の一人、 竹姫君はとくに人々の関心と憂慮を集めた存在であ
った。竹姫は綱吉の最後の養女であるが、京都の權大納言清閑寺熙定の娘として宝永二
年(1705)に産まれた。彼女の叔母(熙定の妹) 大典侍 (のちに寿光院)は綱吉の側室の一人
だった。多くの競争者のいる大奥で寂しい身の上の大典侍は姪の竹姫を養女にする事を
望み、 御台所信子もそれ強く望んだので、四年前宝永元年に娘の鶴姫君を失った綱吉が
自分の養女にすることを承諾したのである。
それにしても八重姫君の分娩や松姫君の結婚支度で忙しい最中に四人目の養女縁組を断
行し,すぐに彼女の婚約を発表した綱吉は変わった人物だと思う。松姫君養女の発表があ
ってしばらく後、 先の章でも触れたように、近衛基煕はその日記のなかに「加賀宰相の
息子に嫁取りのことが二月十八日にあったと言う...この姫君は今の尾張宰相の妹で
昨冬に大樹が養女になされ、諸大名は祝いを述べたが、実は(尾張)宰相も内輪では困窮
しておられるという。世人もまたなんのために養女をされたかと不思議がっている。毎
度結構な美を尽くした行事だが世間はまことに迷惑しているのだそうだ。人々は西の丸
(世子家宣)は下々のことを考えた政治をしてくださるのだと噂し、今の大樹が隠居な
さることをのみ願っている。言うなかれ,言うなかれ」というようなことを書いている
(基煕公記、1708・11・28)
竹姫の生家清閑寺の年収は百八十石で、摂家近衛の千八百石や鷹司家の千石にくらべれ
ば貧しい家系であったが竹姫は幼い頃から非常に美しい少女だった。
養女になった宝永五年に竹姫は数え年で四歳だったらしいが、将軍はすぐに一門の会津
松平久千代正邦との婚約を取りきめた。久千代は父の松平肥後守正容に連れられて登城
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し竹姫君降嫁を謝し将軍に正容から銀百枚時服十、久千代(正邦)から銀二百枚、時服
十を献じた。結婚式は翌年の十一月と決められていたが正邦は婚約後四ヶ月で病死して
しまった。(1708/12/26、実紀 6:718)
綱吉自身もその二週間のちの宝永六年の正月(1709/1/10)に疱瘡で薨去、御台所信子,
側室、とその他大奥の女性三十人が一月十八日に落飾した。しかし一月二十一日から大
奥で麻疹が発生し、浄光院信子自身も二月九日に亡くなってしまった。
竹姫君はそれまで大奥に住んでいたがその翌年寿光院と二の丸に移ったので将軍家宣が
姫君に料紙硯の箱二十巻と二種一荷、尼に硯箱、文台、縮緬十巻、一種一荷をつかわし
た。お返しは姫君から二種一荷、尼から一種一荷であった。(1709/4/2、実紀 7:20)
宝永七年(1710)八月十九日には家宣御台所煕子(後の天英院)の取次で竹姫君と有栖川
宮正仁親王との婚約が成立した。竹姫君は心もとない身寄りではあったが、その時点で
は 婚約しているということが彼女の存在に尊厳を与え、幼いながら自信と誇りを持てた
だろう。しかし不幸にも、有栖川宮正仁親王も婚前に病死してしまった。
世間では二度も結婚前に婚約者を失ったことは竹姫の責任であるかのように 噂した。迷
信深い時代の世評として無理もないことだったが、これが彼女の立場を非常に難しくし
た。 江戸時代の上流階級の女性の生きていく道は結婚しなければ尼僧になるより他はな
かった。そうして二人の許婚者を失った女性にはなかなか相手がみつからないのは、将
軍の娘であろうが普通の武士の娘であろうが当然のことだった。
一方少年将軍家継は享保元年、実紀によると五月一日に急性肺炎がますます重くなった
とあるが、実は吉宗が江戸城二の丸に入った四月三十日には家継はすでに亡くなってい
たことが知られている。 数え年三十三歳,満三十一歳の吉宗は享保元年五月二十二日に
本城に移って(実紀 8:9)すぐに 精力的に改革行為を始めた。そうして多くの大名から贈
り物を受け取ったがそれは蔬菜が多かった。将軍がまだ喪中だったからかも知れないが,
質素な将軍にはふさわしい贈物だった。(1716/6/2、実紀 8:12)
吉宗が本城へ移った祝いに:
三家ならびに三十万石以上は三種三荷を捧げた。
十万石以上は二種二荷。
五万石以上は二種一荷。
一万石以上と十万石以上の致仕又は嫡子は一種一荷。
吉宗は使いをもって、
天英院(家熙御台所煕子)へ三種二荷贈った。
月光院(家宣側室 3, 左京)、瑞春院(綱吉側室 1, お伝)、養仙院(八重姫君)、松姫君、
竹姫君へそれぞれ二種一荷。
法心院尼(家宣側室 1, お古牟),蓮浄院尼(家宣側室 2, お須免),寿光院尼(綱吉側室
3, 大典侍)、美代姫へそれぞれ一種一荷。
将軍へのお返しは、
天英院と月光院から二種一荷。
瑞春院、養仙院、松姫君、竹姫君から各一種一荷。
法心院尼,蓮浄院尼,寿光院尼、美代姫から各一種。
その他の贈物と六月二十四日の将軍家継の御遺物分けの内容は略す。(実紀 8:15)
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吉宗は紀伊時代宝永三年(1706)に伏見宮兵部卿貞致親王の息女真宮理子女王と結婚した
のだが女王は四年後に亡くなった。その後彼は何人かの女性と関係を持ったという。
吉宗が将軍職についた享保元年(1716)の十月七日に竹姫君の許婚者の有栖川宮正仁親王
が病死した。竹姫はまだ十二歳で 幼かっが、吉宗は居所のない竹姫君を哀れんだのか、
自分が結婚することを提案した。 そのことは、内大臣の一条兼香が享保八年
(1723/6/20) その記録『兼香公記』の中で「吉宗公は竹姫が美女であることを聞かれて
甚だ喜ばれ,ご自分の御台所にすることを申し出されたが,血は繋がってはいなくても
竹姫君は常憲院の養女であるから文昭院(家宣)の妹ということになり、吉宗公は文昭院
の遺命によって継がれたのだから吉宗公には妹になる、と諫言されて思いとどまった。
しかし当将軍は竹姫を妹のように振る舞われている。竹姫は二度も納采まですませた夫
が死んでしまった誠に不幸な女性であって、将軍が懇ろにされるのは不審である」 (兼
香公記 57MS, 1723/6/20) というようなことを書いている。京都までそんな噂が届いて
いたらしい。しかし竹姫が常憲院の養女だから吉宗の妹に当たるというのはあきらかに
間違っている。
竹姫君 はそのまま 叔母の寿光院と大奥二の丸に住んでいたが、なかなか結婚の相手が
みつからなかったのでその後いろいろ噂され、江戸市民の関心を集めていた。『譚海』(
津村正恭、図書刊行会、早川順三郎編、1970. 29:307;12:403). 『月堂見聞録』(5:304;
10:472)などが彼女の噂を記している。不幸な女性だったから嫁入り先が見つけにくか
っただけでなく、前述したように、将軍の姫君は普通の大名ではなく、徳川家ちなみの
家柄か、よほどの大大名でなければ縁談は持ち出せなかった。
竹姫君が二十五歳のころ島津大隈守継豊との 縁談が再開された。竹姫が正式に綱吉の養
女になる前,継豊八歳、竹姫四歳(数え年)の時に一度持ち出された話だがその時は実
現しなかった。その後 継豊はまもなく長州藩主毛利吉元の娘と結婚したが彼女は数年後
に亡くなっていた。享保十四年(1729)に老中がやもめになった継豊と竹姫君の話を持ち
出したとき、竹姫のことを気にかけていた吉宗は非常に乗り気になってその話を進めよ
うとした。継豊が初婚でないのは傷だったが、婚期を相当過ぎていた竹姫にとってそれ
以上の縁談は望めなかった。
竹姫君の入輿については鹿児島尚古集成館の土田美緒子女史の周到な研究があって、享
保十四年(1729/4/6)に老中松平左近将監乗邑から島津継豊に、鳥居丹波守を通じて竹姫
君を彼に娶らせたいという吉宗将軍の意向が伝えられてからの島津家の困惑が詳しく記
されている。当時の島津家の財政は破綻の間際にあり、竹姫の生活費だけでなく、彼女
が連行するという二百人以上の従者の給与などまかなうあてはなかった。
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その上 すでに継豊の妾の於嘉久に世継が産まれていて、島津家の近親や重臣たちは継豊
に於嘉久と結婚することをすすめていた。薩摩大隈藩は非常に保守的で、藩主が外部の
女性と結婚すること、特に二人もの許婚者を失った縁起の悪い女性を家に入れることに
大反対だった。将軍の養女という のも名誉どころか迷惑千万な肩書きであった。
幕府はこの話を進めるために、六代将軍家宣の未亡人天英院煕子が近衛家の出身であり、
天英院の甥家久の夫人は島津家の出身だったことと、さらに過去三百年近衛家の保護領
であった島津にいくらかの圧力をかけるために天英院に仲介を依頼した。天英院は高圧
的に縁談を進めることに乗り気ではなかったが、幕府の意向であったので仕方なく、彼
女の老女秀小路を島津家の老女佐川に連絡させ話を進めた。
土田美緒子氏の研究によると、継豊は初めからこの縁談は断るつもりであったが、父の
吉貴は受け入れるより他はないだろうという意見で、何度も手紙が往来した。特に秀小
路が島津の老女佐川に、天英院がいかにこの縁組を望んでいるかをこんこんと言い含め
たので、天英院の望みと知った吉貴の心は縁談承諾にきまったそうである。(土田「竹姫
入輿一件,尚古集成館紀要第一号,昭和六十二年三月二十一日,p. 44) 吉貴は娘の満
姫が天英院の甥に嫁いでいたので(1715 年に亡くなっていたが)近衛家に特別の親し
みをもっていたようである。
しかし島津家全体としては継豊をはじめ大勢がこの縁談を嫌っていたので受け入れる前
にいろいろ条件をつけさせた。その有名な四つの条件は次のようなものである。
1.吉貴に薩摩の自宅で隠居生活を 許されたい(それまでは継豊と吉貴は江戸
と国許で交代しながら生活していた)。
2.竹姫君に男の子が生まれても、妾於嘉久の生んだ益之助(宗信)を世子とする。
3.島津家は財政は豊かでないので、竹姫のために新しく出費はできない。
4.島津の江戸屋敷に神田川からの清らかな水を引き入れることを許されたい。
将軍の姫君として迎えられた女性に対してこれはいろいろと失礼な要求で, 見方によっ
ては morganatic marriage, つまり貴賎相婚——身分の高い男性が卑しい女性と結婚する
状態に近かったのである。
しかし吉宗はこれらのわがままな要求をぜんぶ呑み込んだだけでなく、それ以外にも、
いろいろな特権を島津家に与えた。 三位以上の大名が(島津は四位であったが)将軍の
娘と結婚するとき建てられる御守殿(将軍の姫君専用の屋敷)を建てることなど島津にと
っては思いもよらぬことだったが、吉宗は後述のようにそれを可能にした。
島津は増上寺の大名火消しの役目を免じられ、二年間米の免税も認められたという記録
がある(柳営秘鑑後編、ms、後編、1729/6/4)。
その上竹姫君の御守殿用地として、芝の島津邸の北四千七百坪という広大な土地が授け
られ、続いて万石以上の大名は竹姫君の婚礼調度を献上するように命ぜられた(実紀、
8:504.1729/7/21)。そればかりでなく、柳営日次記のその日の明細な記録によると
大名たちは何を献上しなければならないかまで申し渡されていたのである。姫君のため
48
の、強制的な資装献上は吉宗が綱吉の方法を継承したのである。様々な記録から数えた
所によると、全部で二百六十一名の大名と十六名の旗本、合計二百七十七名が立派な御
資装品を竹姫君に献上した。吉宗は大名たちからの御資装品が届き始めてから、二度 も
検察に出てきている。(1729/11/5日と 13 日。実紀8:514,515)。
七月二十四日にはさらに二千百九十坪が島津家に下賜され、御守殿用地は都合六千八百
九十坪という広大なものになった。御守殿建設工事は幕府によって閏九月五日に始まっ
た。
吉貴の条件を受け入れるにあたっても吉宗は一応竹姫君に男の子を生んでも島津家を継
ぐことができないがそれでもいいかと聞き、竹姫君はそれを受け入れた。江戸期の上流
社会の結婚は当事者の個人的な希望や意見など全面的に無視したものであったが、吉宗
は一應竹姫君に断る自由を与えたのである。
竹姫は享保十四年(1729)年十二月十一日に島津家へ輿入れした。それも倹約家の吉宗が
大変な出費をしてこの婚礼を十八世紀で最も華やかなものにしたのである。竹姫君の嫁
入り道具の中にあった、江戸城お細工所の製作した雛道具など、今も島津家尚古館で大
切に保存されている唯一の雛道具であるという事実などから特別に立派なものであった
と知られる。(土田「竹姫入輿一件」、 39)
徳川姫君,近衛姫君などの嫁入り道具のなかの雛道具で有名なのは尾張徳川,水戸徳川,
広島の浅野家,仙台の伊達家などのものがあるが、薩摩島津家のものもその一つであろ
う。
いろいろな悪条件を背負って輿入れした竹姫だったので、彼女の島津家での生活は決し
て 楽しいものではなかっただろうし、 長年苦労したことと思われる。竹姫君は継豊や
家臣荷疎まれ、寂しい生涯を送ったとしている歴史家もいる。(緒方隆司『改革将軍徳
川吉宗』光風社、1994、147)しかし 苦労したのは竹姫君だけではなく、土田氏は「い
かに島津家,特に継豊の父吉貴が幕府に対して気を遣っていたか」を指摘している(土
田「竹姫入輿一件」 46)。また「同じく綱吉の養女松姫君への諸大名の献上した御道具
よりも竹姫の時の方が調度の種類が豊富なようである」と言っているが、「薩摩藩の方
でも御待請御道具として化粧道具,文房具、香道具など、身の回りの道具を一通り揃え
ている」とも書いている。お道具の種類が違うのでここではちょっと比べられないが,
献上した人たちの人数を比べると、松姫君には二百五十一名,竹姫君には二百七十七名
が献上している。しかも、献上人の数は松姫君の時に、綱吉がそれ以前の二人の姫君,
鶴姫君と八重姫君への御資装品献上の大名の身分を三万石から一万石へ下げたので八重
姫君の時の百七十人が松姫君の二百五十一人に急増したのである。(注: 松姫君様御養
子御縁組の留、草稿, 1708/6/9。この命令は徳川実紀には出ていない。 (実紀, 6:698,
1708/6/9) また、この献上大名の数値は最近もう一度調べ直したところによると不正確で
あると思える。)
これらの事情から吉宗がどれほど竹姫君の結婚に力を入れたかがわかるのである。それ
はその時代の大衆の噂通り吉宗が竹姫君に対して特別な感情を抱いていたのかもしれな
いが、筆者は後述するようにそれだけではないと思っている。
49
継豊は二度結婚したので、土田美緒子氏は「継豊公御婚礼之一巻留」という論文で両方
の祝宴の大草流の規式、料理故実を詳しく紹介している(尚古集成館第二号、1988,昭
和 63 年 3 月 31 日発行。)この結婚については尚古集成館の材料だけではなく、柳営
日次記(内閣文庫)、柳営秘鑑(東大史料編纂所)などがあるが、記録の徹底性や緻密
さは松姫君御入輿文書のほうがよほどわかりやすく優れているーーというのは筆者個人
の見解で正確ではないかもしれないが。
竹姫君の入輿以後の出来事について簡単に述べると、享保十四年十二月に継豊は従四位
左近衛中将に任ぜられた。同月竹姫君は継豊の長子益之助を養子とした。享保十八年、
竹姫君が二十九歳のときに女児菊姫を出産した。
実紀によると享保二十年二月十三日に竹姫君は八歳の益之助(宗信)と三歳の菊姫を連
れて大奥へ登り将軍吉宗に拝謁した。吉宗は益之助を御座に召し、曽祖父の島津綱貴に
よく似ているとほめて短刀を賜ったそうである。この挿話は有徳院御実記にも付録巻五
(実紀 9:180)にも出ている。そうしてその時いろいろな贈物の交換があったが吉宗の
三男小五郎からの益之助と菊姫への贈り物は人形であったというのはかわいらしい。
(柳営日次記録、享保 20 年 2 月 13 日;実紀 8:675)。
土田氏によるとこの時吉宗は実の孫が来たかのように喜んだとある。そうして菊姫にそ
ばへ来るようにというと菊姫が「そっちがこちらへくればよいというので、自ら立って
いくという好々爺ぶりであった」そうである。(土田「竹姫入輿一件」 54)土田 はこ
の頃が竹姫の権勢も絶頂期にあったと思われる、と書いている。
竹姫の夫の継豊は虚弱だったらしく早くから家督を於嘉久の子、宗信にゆずっている。
元文四年(1739)に島津宗信は松平号を許され、以後代々嫡子は松平を名乗ることになっ
た。それも竹姫君との結婚の余得であった。
寛保二年(1742)には菊姫と福岡藩主黒田継高男重政との縁談が内定した。菊姫十歳、竹
姫君は三十八歳であった。
宗信は尾張徳川宗勝の娘房姫と婚約が成立していたが、房姫がなくなり、房姫の妹嘉知
姫と婚約したが、寛延元年(1748)に宗信は二十二歳で死去した。その弟の重年が急遽相
続したが彼も二十一歳で亡くなった。其の後やはりいとこの於村という女性が重村の正
室になったが、彼女も宝暦四年(1754)年には二十歳で亡くなっている。
継豊が死去したのは宝暦十年(1760)、六十歳であった。竹姫君は髪を下ろして浄岸院と
呼ばれた。
重年も二十七歳でなくなったので、島津家は善次郎(重豪) によって継がれた。重豪は継
豊の孫で島津家二十五代当主になった人であるが十歳の時に江戸に登り、二十八歳にな
るまで養祖母竹姫浄岸院と住み、その影響を受けてハイカラ好みになったと土田女史は
見ている。(土田「竹姫入輿一件」 54)
竹姫君浄岸院は安永元年(1772)十二月五日に六十八才の生涯を終えたが、死ぬ前の望み
として、重豪に娘が生まれ,一橋家に男の子が生まれたらその二人を娶せるようにと遺
言して亡くなった。その夢のような望みが後年実現し、一橋宗尹の孫豊千代と重豪の娘
於篤は結婚したが、思いがけなく豊千代が将軍世継に命名され十一代将軍家斉になった
50
ので浄岸院の先見の明は讃えられた。 死後娘の菊姫の強い反対にもかかわらず遺体は鹿
児島に運ばれて,継豊の墓のある福昌寺で葬儀が行われ埋葬された。土田氏は菊姫の反
対は彼女の竹姫君との強い結びつきと、菊姫は墓参りがしばしば江戸できることを望ん
だのだろうと見ている。(土田、55)
M. 吉宗時代の婚姻と贈物の謎
さて話を将軍吉宗に戻すと、竹姫君の結婚には費用を惜しまなかった吉宗が自分の息子
田安宗武の結婚は対照的に質素にとり行ったことを述べたい。吉宗は徳川家が元祖の家
康から時間的に遠ざかるにつれて、自分も将軍継承問題に巻き込またことを考えたのだ
ろうか、将来の徳川家の存続をもっと容易にするために、御三家にあやかる御三卿を創
立した。吉宗長男の家重は九代将軍であるから、次男宗武の田安家、四男宗尹の一橋家、
家重の次男重好の清水家で御三卿を作った。徳川宗家や御三家に後継者のない場合、こ
の御三卿から将軍が選ばれることになったのである。
吉宗の長男家重は将軍の器ではないと家臣にも心配されたほど頭脳も弱く言葉の発音が
不明瞭だったらしく、側近の大岡忠光 だけに会話が通用したと言われている。それにく
らべて次男の宗武は頭脳明晰で賀茂真淵や荷田在満について国学や和歌を勉強し優秀な
人材だった。
この人に近衛家熙の娘森君(通子、森姫と改名)を推薦したのは天英院だったらしい。
森姫は天英院の養女となってその後援で享保十九年(1734)に田安宗武との婚約が整い、
結婚したのは享保二十年(1735/12/18)である。実記にこの記録はないが、柳営日次記にあ
る。(1735/11/25)。
結婚前に吉宗が森姫に餞別として贈ったものは御刀三原一腰、代金十枚,お茶壺「八重
垣」、伽羅五百目。結婚してからのお祝いは銀三十枚、綿二十把、二種一荷。自分の養
女でもなかった竹姫君への有形無形の豪華な贈物にくらべると非常にお粗末だったよう
である。田安家への輿入れに、森姫につきそったのは老中の松平乗邑と少数の従者だけ
であり、従者は酒と吸い物を振舞われただけだった。 将軍から宗武への贈物も少なく、
銀三十枚、巻物十巻、三種二荷 だけだった。それに比べて吉宗は天英院には銀五十枚、
綿五十把、二種一荷と彼女の御付き老女三人に銀三枚づつ、小上臈一人に銀二枚;中年
寄五人に金五百疋づつ;その他のいろいろな女中たちにも銀を下賜した。(柳営日次記
1729/11/19)。結婚した息子や其の妻へよりも天英院への贈物が多かったのは不思議で
ある。吉宗は享保十四年に婚姻についての贅沢禁止令を出しており、それを実践の手本
としたことはたしかである。
すべて近年奢侈の風習にそみしより。人々の衣食をはじめ。嫁娶の禮。
親戚の會宴。または直盧に持出す行厨など。これまでのならはしあるよし
により。所属あるものは。官長より心そへて。省滅を加へしむべし……
(1728・11・19、実紀 8;515)
というものである。
51
吉宗が将軍職についたころ、幕府の財政は崩壊の間際にあった。彼は大名の上納米をふ
やしそのかわりに参覲交代を短縮したり、借金取り消しを許したり、節減のために足高
制度を作ったり、いろいろ工夫しなければならなかった。その一方吉宗は自分にとって
政治的, 社会的, 経済的には何の得にもならない竹姫君の結婚のために大掛かりな支
度をし、治世中で一番立派な行事だっただろうと思われるような結婚式を挙行した。そ
れは何のためだったか?
学者に推測は許されないが、筆者は自分では学者だとは思っていないので推測してしま
おう。そのころの世間の噂では吉宗は竹姫君に恋愛感情をもったというが、彼は二十一
歳も年上だったので、可愛い妹くらいに思っていたのではないか。それよりも、吉宗の
散財は自尊心だったと思う。薩摩からいろいろ無理な注文をつけられた結婚である。薩
摩にも世間にも、将軍の娘であるということはどういうことかを見せてやろうと言う気
持ちがあったのではないか。彼は竹姫君の女中たちが見劣りしないように、六十二人の
侍女たちに結婚式用衣裳の費用として三千六百六十八両も与えたのである。気前の良か
った綱吉でさえ、八重姫君の婚礼の時,姫君付きの十三人の女性に支度金として十二両
づつあたえただけであった。(元禄十一年二月七日)
吉宗はまた、綱吉に恩義を感じていたということもある。元禄十年(1697)、父光貞と二
人の兄が将軍綱吉の拝謁にあずかった時、彼は風呂番女中の子供として馬鹿にされ,部
屋の隅にかしこまっていた。それを綱吉が呼び出して言葉をかけ、間も無く越前葛野藩
主三万石という地位を与えた。そのことで一生恩義を感じていたらしい。また父も二人
の兄も死去したのち将軍の名前の一字をもらって吉宗と改名し、紀伊藩主の地位につい
た。宝永元年から六年の間に三度、幕府老中たちは将軍に、吉宗の紀伊藩主にふさわし
からぬ不行儀と乱暴行為を訴えて罷免を推薦したのだが、綱吉はその度に退けた。(実
紀 6:731)。この事実は綱吉の小姓金田正明の言葉として 津村淙庵も引用している。
(津村淙庵、『譚海』、国書刊行会、1970、405)もし綱吉が老中の提案を入れていた
ら吉宗は絶対に将軍になれなかっただろう。
吉宗も綱吉を全面的に肯定したわけではないだろう。五代将軍の気まぐれ, 贅沢、度外
な生類哀れみの令、過度の特定家臣の寵愛ぶりなど、とても自分の性格に合わない面が
多かったからである。しかし吉宗は感謝の印として、先代からのこされた綱吉の側室や
養女姫君たちを丁重に扱った。それが竹姫君婚礼の大散財に現れている。
田安宗武と森姫が結婚した同じ年、享保二十年(1735)に、吉宗は自分の後を継いで紀伊
藩主になった従兄弟の宗直の娘利根姫を養女にし、仙台中将伊達吉村嫡子, 五代藩主松
平越前守宗村に嫁がせた。その時も諸大名に命令を下して資装(嫁入り道具)を献納さ
せた。
『利根姫君様御入輿ニ付万石以上之面々より献上物届候松平伊豆守宅家来呼寄渡之』(
柳営日次記 1735•7•1)
52
『先年竹姫君様松平大隈守継豊方江被為入候節之格式准之諸大名壱万石以上之面々相応
之献上物被仰付則被差上之品々筆記』とある。(柳営秘鑑巻之十二大尾 4156/78/217 東京大学史料編纂所。『利根姫君様御縁談御入輿御規式之次第』)
これは竹姫君の結婚の時綱吉のやり方を踏襲してから二度目であったが、息子の宗武と
森姫が結婚した時にはそういうことをしていない。宗武たちはほとんど何の支度もなく
新婚生活を始めたらしい。余談だが田安宗武は賢かったばかりに異母系の家重に憎まれ、
登城を禁止されたりした。個人生活で宗武は十五人もの子供を儲け、明和八年(1771)に
五十七歳で若死した。森姫は尼になって宝蓮院とよばれ、多くの子供も早世して寂しい
身の上であったが将軍家治の同情を受けて宗武生前の屋敷に仕えていた男女使用人もそ
のまま残され娘の定姫は本城にむかえられた。(1786/1/12、実紀、10:792)
竹姫君や利根姫君のそれと対象的な宗武と森姫の結婚はあまりにも違いすぎるので何か
深い理由があったのかと推測したくなる。これは吉宗の日頃の信念と深い考えからの行
動であるとしか思えない。吉宗の行動を調べると、彼は近しい人たち、自分の本当に愛
している身内は後回しにして、義理のある遠い者ほど優遇しているようである。彼が自
分の母親、自分に似て謙遜な田舎者である母親(浄円院)を深く愛し尊敬していたことは
あちこちに書かれていて確かであるが、物質的にも行動的にも母を特別優遇した様子は
ない。それは五代将軍綱吉が自分の母桂昌院にあらゆる贅沢とわがままを許したのと対
照的である。実記の「有徳院御実記付録」にも、前代将軍に仕えた大奥の女房達を殊更
に優待したとある。将軍家宣の未亡人天英院や側室月光院(七代将軍家継の母)を非常
に優遇し、物質的に助けた。天英院には年収金一万一千両と米千俵を与え、月光院に千
六百両と米千三百俵を与えていた。(実紀, 9:325)
自分の母浄円院を享保三年(1718)に紀州から迎えて孝養を尽くしたことは衆人が感動
するくらいであったと書いてある。しかし表立った厚遇はしなかったようである。その
例として紀伊から吉宗に供奉して江戸へきた内藤市郎大夫という小姓の話がある。彼は
老臣の言葉によって紀伊へ帰され押し込められた。小姓の母は瀬川という名で浄円院に
仕えていたが非常に悲しんで浄円院に訴えた。浄円院もあわれに思って吉宗に許すよう
に願ったが吉宗は無視して座を立とうとしたので裾を捉えてさらに訴えると、将軍は正
しく座り直して「天下の政治は非常に重要な問題で女子が口出しすべきものではない」
と言った。浄円院がそのよしを瀬川に告げると非常に悲しんだので、浄円院はひそかに
その次第を天英院に訴えた。天英院は折を見て将軍に、もう歳をとっている瀬川が非常
に嘆いていること、女が天下国家のことに口を出すべきではないのはわかっているが天
下の母たる者は一人でも嘆く者があれば助けるのが本分であるからこの際はまげてお聞
き入れいただきたい、と願われた。将軍は感心した様子でその日にすぐ命令を下して市
郎大夫を江戸へ召返した。(実紀,9:326)。
自分のもっとも愛している母に対しては公の立場を変えなかったが義理のある前将軍の
未亡人には礼を尽くしたのである。
53
また、浄円院が亡くなった時, 京都から彼女に贈位の話があったが辞退したと言うこ
とである。自分の母を天英院や月光院と同位につける事を固辞したのであった。そうい
う風に公と私を区別して固く守った人だったから、自分の息子の扱いを竹姫君や利根姫
君のそれと厳別していた事は信じられる。吉宗の信条は、まず 義理のある縁の遠い人
々を優遇し, どんなに大切な人物でも個人的に近ければそれは後回しにするということ
だったらしい。
それは吉宗の家臣についても同じ事が見える。吉宗のもっとも信用し重用していた家来
は松平乗邑であったが個人的には少しも寵臣のように厚遇はしなかった。乗邑の子供の
乗佑が初めて将軍に拝謁した時父親にねんごろなほめ言葉をかけたり、乗邑の母親が大
病ときいて家にいて看病するように言いつけたり, その母のために自分で作った漢方薬
、烏犀円を乗邑に与えたり, 四人の重臣に羽織袴を与えたり、すべて個人的な小さな
報酬しか与えなかった。(実紀 8:346, 378, 403, 460, 475, 585, 636, 808)。
将軍綱吉が寵臣の柳沢吉保を矢継ぎ早にとりたてて百五十石の小姓から二十二万石の大
大名に昇進させたのと対照的に、吉宗は乗邑が父から受け継いだ六万石を少しも加増し
ようとしなかった。 自分が引退した延享二年にやっと十万石に昇進させたが、そのあ
とすぐに家重が将軍になり、 乗邑は直ちに家重によって罷免され七万石を取り上げら
れた。吉宗は息子が将軍として独り立ちする事を願っていたのでそれについて何もいわ
なかった。これはあまりにも公私を切り離す信条の行き過ぎであった。(注:大石学は
『吉宗と享保の改革』の中で、乗邑は権力をふるって人民を苦しめ暴動のもとを作った
ことなどを指摘している [ 315-33]。しかし大石学も大石慎三郎の『吉宗と享保時代』
[62]も乗邑が愚昧な家重よりも宗武を将軍に推したことを家重の扱いの理由としてあげ
ている。これは『三王外記』によって指摘された説である。乗邑は最後には住む家にも
困ったそうである。しかし吉宗は乗邑の事を気にかけてはいたのである。彼は『左近は
十余年の間国家の為に力をつくし。あへて私をいとなまず。かかるおもはずなる事に逢
て。住所にさへ事かくとは。誠に近世の名臣ともいふべしと』と御感ありしといへり。
「さる故にや乗邑籠居の後も。かれに親しき奥医など御前にいづれば。常に其事をのた
まひ出て。左近今は何としてあるにや。かはる事もなしやなど宣ひ。またひそかに御存
問の仰を伝へられし事もありき」とある。( 実紀、9:200)
これらの吉宗の日頃の行動から判断して息子の田安宗武の扱いにも特別な考えがあった
のだろうと思われる。
O. 吉宗以後の姫君婚姻御資装集め探し
将軍姫君婚礼のための御資装献納がその後の将軍によって発令されたかどうかを『徳川
実紀』だけで調べてみたが,将軍からの命令で将軍家の姫君の御婚儀の調度を大名全部
と将軍に近い旗本たちが一斉に贈呈した例は吉宗以後なかったようである。
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例えば享保十六年五月から十二月までの間には、将軍の世嗣家重と伏見宮邦永親王の御
妹比宮増子姫宮御婚儀(1711/11/28)の記録、「比宮様御下向以後の留」及び「大納言
様御婚礼之留」をしらべたが大名からの贈物の記録はなく、『徳川実紀』には全部で十
四人の大名が調度を献じた記録があるばかりである。(実紀 8:576、579、583)。これ
は次の代の将軍の結婚であったから、少数の大名たちが自発的に結婚のお祝いとして贈
ったのだろう。
さらに将軍家重の時代,世継の家治が閑院宮直仁女五十宮倫子女王と婚約した時、幕府
から御資装献上の命令が出た様子はないが、御三家はじめ、二十数人の大名が日常用具
を贈っている。(1754/9/23−27;実紀 9:626; 御婚礼諸向伺)。
もちろん将軍が自分の結婚あるいは世嗣の婚礼のために諸大名に御資装献上の命令を出
すとは考えられないことである。
将軍家治には女子が二人生まれ,一人は夭折,もう一人の万寿姫君は珍しくも御台所の五
十宮倫子女王が宝暦十一年(1761/8/1)に生んだ姫君で、明和五年(1768/3/27) に尾
張中将治休卿と縁組が成った。しかし結婚に至る前,安永二年二月二十日に万寿姫君は
病死した。この場合も御資装の献上があった様子はない。
八年後、安永四年(1775•11•1)に将軍家治は田安中納言宗武卿の息女種姫を養女にし、
将軍世子の大納言家基の妹ということにした。家基は優秀な少年で次の将軍として嘱望
されていたが、安永八年(1779)に鷹狩りの帰りに急病になり満十六歳で変死したので
色々な暗殺説がささやかれた。種姫君と六歳年下の紀伊徳川の岩千代との縁組が決めら
れたのは天明二年(1782/2/7)のことである。その年岩千代がようやく十二歳で元服し
て常陸介治宝となったが、婚儀がおこなわれたのは天明七年十一月二十三日であった。
(続徳川実紀 1:51)。これは種姫君の養父の家治将軍が天明六年三月十三日頃から病気
になりその後一応回復したものの八月にはまた感冒にかかり、その後悪化するばかりで
天明六年九月八日に五十歳で薨去したということもある。治宝十七歳、種姫二十三歳で
あった。
天明七年九月ごろから少しずつ諸侯からの種姫君御入輿のための贈物が散見できる。
(続実紀 1:43−48)屏風や緞帳から台所用具、本、文台などまで、始めから数えて五十
二人の大名の献上であるがこれは任意の贈物なのか、幕府からの命令で献上されたもの
かはっきりしない。大名の総数は二百人以上であるので、これは多分任意の贈物だった
のだろう。「御婚礼諸向伺」は天明八年に家重、家治、と種姫君の結婚の記録をまとめ
た物だが、通常の贈物の記録はあるが大名からの捧げ物は出ていない。治宝は寛政元年
(1789)に養父九代紀伊藩主治貞の死によって十代藩主にったが種姫君は五年後に三十
歳で病没した。
種姫君の婚礼が進行中、天明元年(1781) 一橋家斉は将軍家治の世嗣となった一橋家斉
は安永五年に島津薩摩守重豪の娘茂姫(寔子、篤姫)と縁組したが婚姻に至ったのは寛
政元年(1789)である。浄岸院竹姫の望みが実現したのであるが、豊千代(家斉)が将
軍嗣子となったとき、外様大名の娘であった茂姫の御台所としての資格が問題にされた
のでその結婚がみとめられたのはずっとあとのことで、天明七年(1787•11•15)に御三
55
家との対面があり、その日から姫君と称されることになった。(続実紀 1:50)。翌年の
二月に家斉と茂姫の結婚があるので諸大名が御資装を捧げた。(1787•12•11、続実紀
1:81—83)しかし調度を進呈したのはたったの十九人の大名であった。これは問題にな
った茂姫の出自と関係がありそうであるが、茂姫は後には広大院として押しも押されぬ
御台所となった。
寛政元年(1789•3•2、続実紀 1:91)家斉に長女の淑姫が誕生し(母、於満武、平塚氏)
お七夜やお色直しなどいろいろな祝賀があった。次の年すでに淑姫と尾張大納言宗睦の
子,治行卿との定婚が発表された(1790•8•28、続実紀 1:130)。寛政一年(1789•8•13)に
淑姫君はその年十一月に御入輿在るべくとの仰せが出ている。御資装献物命令は見えな
いが九月三日に(続実紀1:413)第一の献物、続いて全部で五十六人の大名が相当な贈
物をしている。増上寺からの昆布一箱(大名ではないので簡単な贈物)を入れると五十
七人であるが、将軍から御資装献物の命令が出たとすればもっと多くの大名小名が贈っ
たはずである。
淑姫君誕生に引き続いて家斉には多くの子供が色々な側室を母として生まれ、将軍はそ
れらの子供たちや家族親類の子供の縁組の命令を次々に出した。世継ぎ竹千代は夭逝し、
次男、後の将軍家慶は寛政四年(1792•7•13)に生まれ、家斉の御台所が養母になった。
最初は子供が生まれる度に祝賀、七夜の祝賀もお色直しもあり贈物が交換された記録が
ある。しかしあまり次々に生まれるのでもう発表しなくなったのか「お披露目なし」と
いう言葉がしばしば見え、後にはそれさえなく、生まれたとも書かれず、 産穢のため
霊廟への代参を立てられなかったという記録があるだけである。普通は側室の名前が子
供の母親として出ているが、それも出ていない事が多い。
その次に将軍の命令で結婚が決まったのは峯姫君で、水戸徳川家の鶴千代へ婚嫁の仰せ
付けが出た。(続実紀1:512、1803•6•18)
将軍家斉の治世下は平和であったが家斉と世子の家慶の両方で子供を作ることに忙しく、
しかも多くの子供が次々と早世した。
家斉は娘を嫁入らせるだけでなく、息子も親類や大大名に押し付けた。例えば文化三年
に生まれた第二十二子の虎千代は家斉の命令によって紀伊治宝の婿養子になっていた。
しかし虎千代が五歳で早生したので(続実紀1:656)、家斉は 清水家へ養子として入
っていた七男の 菊千代(家順)を紀伊家へはいらせて 治宝の娘豊姫と結婚させた。 4
4豊姫は
外出の際芝居町を通って二つの芝居小屋に駕籠を止めさせ助六の見せ場を見る
という徳川夫人にあるまじき行動をとり、それを言い付けられて可能にした実現させた
家来を幕府の命令で切腹に終わらせ、自分も押し込めの罰を受けた。(三升屋二三治
「芝居秘伝集」 江戸文芸資料 第 1 卷 『 三人懺悔冊子/ 一名三人法師 ; 芝居秘伝集 』 17−
19。東京 : 珍書刊行会, 大正 5 [1916]
56
家斉はまた要之丞を田安家養子に入らせ(1813•12•25、続実紀1:718)、保之丞には清水
家を継がせた。(1816•12•2、続実紀 1:779)。
一方十二代将軍家慶は何人かの子供をもうけた後、有栖川宮織仁親王の王女楽宮(ささ
のみや)貴子(喬子)と婚礼をあげた(文化6・12•1、続実紀1:639)。その時も諸侯
からの贈物は見えない。この親王家王女は御簾中としては 珍しく度々妊娠し、家慶第一
子、若君 竹千代を安産したが、竹千代は文化十一年八月二十六日に死亡。文化十二年二
月十七日にも御簾中に儔姫が生まれたが、同月の二十八日には夭折した。
子供が死んでしまった後で五度ばかり、御簾中御平産お祝として贈物があった事実が見
える(続実紀1、747、748,749)。これはこの時代お産で亡くなる女性が多かったの
で、乳児が亡くなったことと関係なく、母体の無事が祝われたのだろうか。家慶夫人楽
宮貴子は五回懐妊しながら結局一人の子供も育たなかった。文政三年(1821•2•20)に家
慶が将軍の座におさまる前に二十六歳(数え)で薨去した。
東京谷中の墓地に三人の皇室系徳川女性の宝塔が並んでいる:家綱夫人浅宮顕子、家治
夫人五十宮倫子、家慶夫人楽宮喬子。
将軍家斉は自分の子供達だけでなく、御三家の娘たちの結婚も命じている。例をあげる
と紀伊の鍇姫は伊達斎宗ヘ(続実紀 1:692)、一橋民部卿の娘英姫は島津斎興の子供邦丸
(島津斉彬)へ、一橋斎敦の娘栄姫の奥平昌高への入輿もきめた。(続実紀 1:706) そ
の後も度々命令が見られる。
家斉の姫君の次の結婚は、七女の峯姫君 (峯寿院) で水戸徳川斉脩に嫁いだ。文化十一
年(1814•9•16、続実紀 1:733−735)、全部で二十六人の大名が相当な調度を呈上してい
るが、そのための命令が出た様子はない。
その後、朝姫君、文姫君、盛姫君、元姫君、喜代姫君、溶姫君、末姫君,和姫君、泰姫
君などの結婚は記録されているが、御資装献上は綱吉時代のように大がかりではない。
例えば 文政四年(1821• 2・23)元姫君と松平容衆の婚礼を祝って一万石以上の大名が
使いを送って将軍に樽代,箱肴を将軍と御台所へ方式的に奉ったが姫君への呈上はない。
この元姫君は同年の八月二十二日に原因はわからないが亡くなってしまった。 数え年
十四歳ということだった (続実紀 2•61)。 元姫君の夫だった会津松平家七代の藩主松平
容衆もその翌年の三月十日になくなっている。まだ若く、満十九歳だった。嗣子はなか
ったので将軍の命令で水戸徳川家から要敬が来て会津松平家を継いだ。
盛姫君と鍋島斎正の婚姻のために三十人の大名が捧物、文姫君と松平宮内大輔頼胤の結
婚のためには諸大名四十一人、溶姫君と前田斎泰の婚礼のためには三十八人が御資装を
呈上している。和姫君(毛利斎広夫人)には五十五人で相当に多い。婚礼は文政十二年
(1829•11•27)、しかし和姫君も天保元年(1830•7•20)に病没した。これは将軍の命令に
よるものではない。命令された時は献上人は四十、五十という数ではなかったはずだか
らである。
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このように将軍綱吉が始めた命令による総大名からの御資装献上のきざしは吉宗以後見
られないが、 命令による他の方式献金はあった。例えば、江戸城西の丸の火事(天保
九年三月)の後、天保九年(1838•3•22)に命令が出て御三家以下,一万石以下の輩も、
諸職人、番士、寄合、小普請五百苞以上は西の丸營作のため禄百苞に金二円づつ、五百
苞以下百苞以上は同じく、禄百苞に金一円半づつ,この冬までに収むべし、というお達
しであった。何人かの大名が一万両,二万両、三万両という規定以上の献金をしている。
島津斉典など十万両、細川越中守斉護も八万五千両という多額の寄付であった。これら
は将軍の姫君婚礼御資装以上に大きい出費であった。(続実紀 2:352)
天保九年四月から、諸大名諸氏が次々に献金をして六月二十一日迄(続実紀 2:362)に全
部で二百九十四人が献金した。禁裏,仙洞からもひそかに大御所へ屏風が贈られた(続
実紀 2:357)。金額は多くの場合書かれていないので全部でどれほど集まったのかは不
明であるが、命令による寄付者の数は必ず大名の総数二百数名を越えるはずなのでこれ
は号令一下であり、姫君の御資装献上は吉宗将軍の竹姫君と利根姫君以後、将軍の命令
で献上されることはなかったことがわかる。
その後も、天保十二年(1841•5・28)に家慶の世子家定と鷹司政熙女有姫の婚姻がきまっ
て同年十一月始めには八人の大名からの器物の呈上が記録されているが(続実紀 2:442)
その後はない。婚姻は日を待たず執り行われたが(1841•11•21、続実紀 2:433) 有姫君
は嘉永元年(1848•6•10)に病没した。
その後家慶には側室による出産が続いたにもかかわらず、有栖川宮家から二人の王女を
養女として引き取った。天保十三年(1842•11・9)には詔仁親王の王女精宮韶子が家慶の
養女となり、嘉永三年(1850•8•18)には幟仁親王王女線宮幟子を京都から迎えた。精宮
韶子女王は久留米藩主有馬頼咸と定婚を仰せつけられ(続実記 2:575)三十三人の大名
が御入輿のための調度を呈上している。線姫君は嘉永三年(1850•11•23)に水戸徳川慶篤
との定婚を仰せつけられたが、非常な美人だったため、大奥の女性たちが寡夫だった家
定に同情して、ぜひ御台所にと言いだしたりしてしばらく問題になった。しかし線姫君
は嘉永五年(1852•12•14)には予定通り水戸家へ入輿した。線姫君のための調度呈上は実
紀にも「線姫君様音引移伺留」にも「線姫君様音引移書付渡」にも記録されていないよ
うである。翌年六月には養父の将軍家慶は逝去。水戸徳川御簾中線姫君は嘉永七年
(1854)閏七月に長女・随姫(随子)を出産したが安政三年(1856•11•19)に 二十一歳で
死亡した。自殺の疑いでいろいろな風説が流れた。
それ以前嘉永元年(1848•10•15)右大将家定と一条忠良の養女寿明姫の婚礼があり、その
ため、御三家と少数の溜詰の大名達が器物を奉ったと記録されている。(続実紀 2:634 )。
しかしすべてこれらの限られた贈物は自発的に行われたものだと思われる。
P.
結論
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これで江戸城と将軍を中心とする贈物文化の研究が終わったとは決して思っていない。
まだまだ研究が足りないし、ただただ山のような贈物のリストを並べて見ても意味はな
い。それらが何の為に存在したのか、そうしてどんな風に変わって行ったか、それが何
を意味するか、はっきり解析できれば少しは役に立ったかもしれないがそれはこの時点
ではまだできないでいる。
しかし日本人の贈物義務感、冠婚葬祭だけでなく、さまざまな個人的なお祝いや見舞い、
他家を訪問する時などに贈物をしなければいけないような思いをする日本人の DNA 的衝
動がどこに端を発したのか、示唆は得られると思う。それは江戸時代上流武士階級を中
心に発達したもので、その習慣が町方の市民によって模倣され踏襲されたものであるこ
とが想像ながら納得できるのである。もちろんはじめに述べたように日本の贈物の習慣
は古代から存在した。しかし、それは江戸時代上級武士階級の贈物交換の習慣が存在し
なければ今のような形で残ることはなかっただろうと思う。
江戸の(江戸だけではないが)町民階級は高級武士階級に憧れていた。大都市の町民階
級は全体的に武士階級よりも裕福だったが、大名旗本クラスが経済的にどんなに苦しん
でいたかは彼らの知るところではなかった。そのため、富にまかせて彼らが想像した大
名の生活を再現しようとした。十八世紀以前は武士階級と町人の結婚は許されていなか
ったがその後やや法律がゆるんだので、娘や息子を武家の一員と結婚させて、婚姻によ
る武士階級と関係を築いたりした。しかしそれは高級武士階級(大名、高級旗本)との
婚姻ではなかった。もちろん贈物祝物の贈答は民間にもそれ以前に存在したのであるが
その習慣が一般化するには経済力を必要としたので市民が豊かになった江戸中期を待た
なければならなかった。将軍家を中心とする贈物の往来は、先に述べたが、 民間にま
で知られていて、その習慣が模倣されたに違いない。江戸城では時代が 十九世紀に近
づくに従って、将軍を中心とする幕政下の贈答習慣はこの稿で引用したリストによって
知られるように、 すっかり形骸化してしまった。
しかし習慣が形だけになってしまった時代の終末でも個人的には心のこもった贈物がな
かったとは言えない。特に「贈物」を社会的国家的なことではなく、自分という個人に
限っていうと、それは好意や友情を示すために他人に何かをあげること、というのが太
古からの本来的な意味でそれは消滅したとはいえない。
現代では冠婚葬祭とそれ以外の祝いがさらに増えてお中元、歳暮、誕生、七五三、入学、
卒業、就職、昇進、結婚記念日、五節句、還暦、古稀、喜寿、傘寿、米寿などの祝い、
病気回復祝い、そのほかいろいろあって、この五十年くらいはバレンタインなどという
若々しいお祝いまで盛んになってチョコレート産業の株価を高めている。これらは現代
では個人的に贈物をすることが多く、必ずしも交換にはならない。日本ではお葬式や結
婚式の場合、等価交換ではなくて半分くらいの価値の物を返すのではないか。私はもう
半世紀以上日本に住んでいないので今それらの習慣がどうなっているかよく知らない。
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現に私は病気見舞いに現金の贈物をするということを知らなかった。私が若い頃はそん
なことはしなかったと思う。それである年日本滞在中に義兄が病気で寝ているとき配下
からか現金のお見舞いが来たのを見てびっくりした。姉にそういうと「まああなたは知
らなくてもしょうがないでしょう。心配しないでいいわよ」と言った。私の無知が日本
に住んでいないからと言う理由で許してもらえるのは便利である。
それは江戸城と関係はないが、特定の祝日や吉事に贈物をかならず送ると言う習慣は江
戸城から一般に普及して今日まで続いているようである。
けれども個人的な贈物も実に多種多様であって、価値もピンから切りまでなので概括は
できない。子供がお友達のために庭や道端の花をつんであげるのも個人的な贈物だし、
医科大学の裏口入学をさせるために親が知人の教授をツテに使うために高価な贈物を持
って行くのも個人的な贈物である。入学入社させてもらってからの知人へのお礼金も一
応は贈物である。神社仏閣に入学就職のおん札絵馬奉納という形もあるし、寄付とか慈
善という形も贈物に近い。ちゃんとした給料のきまりのなかった頃、報酬として与える
ものが贈物のような形だったこともあっただろう。個人同士の贈答でも、全部特別意図
を欠く善意ばかりの贈物ではなく賄賂に近いものがある。一体だれがどうしてそれをみ
きわめることができるのか?
ところで一体下心のない贈物があるだろうか、といい出したのはマルセル・モースであ
る。モースがこの理論を提出してから欧米の社会学者、人類学者、歴史学者たちは堰を
切ったように贈物の意味にも目を向け、その社会的、政治的、経済的意味を検討し始め
た。贈物の義務に重圧を受けた日本人にもいろいろな質問が出てきたが、昔からそんな
ことを考えていた人もいるだろう。それでも平凡な普通の人間はなんとなく習慣に流さ
れて別に疑問も抱かず、みんながすることだから自分もという気持ちで、「何をあげた
ら喜んでもらえるか」よりもまず「いくらぐらいの価値の物をあげるべきか」を考えた
りするのである。
買い物をしに行って店員に事情を話して相談すると、必ず「おいくらくらいのご予算で
すか」と聞かれる。これもいやなものである。少ないとケチと思われるだろうし、多す
ぎるとこちらの懐が痛い。だいたい女はケチだが見え坊度は高いから、まあこのくらい
かしら、と少し多めに言って言ってしまうのが落ちである。
現代では独立精神の発達した若い人たちが大勢いて、必ずしもこれらの習慣が厳しく守
られているとは言い難い。しかし一般的に言って、冠婚葬祭は別として、初めて人を訪
問するにあたって贈物を用意することは今でも実行する人々がいるらしく、これを日本
特有の習慣と見ている外国人がいる。
この稿の始めに書いたように、その人々は何を贈ったらいいかと聞くのである。
日本人同志ならこれは何ももって行かなくてもいいという判断がつく。未知の他人訪問
に何か持っていくのは何か頼みごとがある時だけである。けれども外国人は何も義理は
ないけれど、音にきく日本人の習慣だから、それを尊重して一応従っておけば、これか
らの付き合いがうまくいくだろう、という希望的観測から進物を女房や秘書に買いに行
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かせるのである。全然知らない人だから何をあげようにも、趣味も好みもわからない。
しかしどこそこの国のように「何々をあげるのは非常に失礼だから絶対にそんなことが
ないように気をつけなければならない」というような物品は、棺桶や尿瓶ならいざ知ら
ず、意外と日本には失礼にあたるような品物は少なそうである。アメリカからはその州
とか市を代表するような物を持って行けば無難だろう、というので、このあたりなら近
くの有名陶器の製品で独立記念堂などの陳腐な絵が描いてある鉢や皿を持っていったり
する。大体心がこもっていないから貰った方はすこしも嬉しくない贈物である。けれど
もあげる方はわりと高価なものだから、一応あげておけば気がすむのである。「下心の
ない贈物はない」という見解も、この場合も自分が安心するという目的だけでも下心と
言えるかもしれない。
結論として、贈物は人間同士の温かい関係を作り出すため、お互いの好意を端的に表現
するため、愛情を示すため、感謝の気持ちを表すため、相手の健康や安寧幸福を気遣っ
たり願ったりするため、弔慰を表現するために、ある個人から他の個人へ送られる物品
である場合、非常に端的で嘉するべき行為である。それは今日でさえ日本社会のあちこ
ちで、個人的に、また家族として存在すると信じても良いと思われる。そういう、人を
喜ばせる、慰める、人とのつながりを作る、という望みはほとんど人間の本能的なもの
である。だからこそ贈物の習慣は太古の世界中に生まれ、今もなお存在するのであろう。
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