年 史』)。 六代 目は 、弟 子 を裸 に剥 い た代 わ りに 、 自分 も よ く裸 に な っ た。 基調報告 六 代 目菊 五 郎 の舞 踊 と身体 慶 応 の野 球 部 を集 め て 、 自分 は裸 に な っ て歩 い て みせ 、 そ の役 の職 業 を あ て させ る 、 な ど とい う 遊 び も した (浜崎 真 二 『四十 八 歳 の青 春 』)。海 水 児玉竜一 六 代 目菊 五 郎 の 日本 舞 踊 へ の 貢 献 は あ ま りに も 大 きい 。 九 代 目団 十 郎 の 衣 鉢 を継 い だ 「忠 信 」「娘 道 成 寺 」 「鏡 獅 子 」 な どの 継 承 、 明 治 末 か らの 岡 村柿 紅 を 擁 した 狂 言 舞 踊 の 創 作 、 舞 台 装 置 ・照 明 を含 め た 演 出 の 刷 新 と再 構 成 (「保 名」 「藤 娘 」 「船 弁 慶 」 「浮 か れ坊 主」)、さ ら に、 人脈 面 で の 多 大 な 貢献 が あ る。 こ こ で は 、〈六 代 目菊 五 郎 の 近 代 〉 とい う テ ー マ の た め の 問 題提 起 と して 、 六代 目の 身 体観 を中 心 と した い 。 夙 に言 わ れ る こ とで あ る が 、 六代 目菊五 郎 は 、 相 反 す る 役 柄 を兼 ね る こ と を得 意 と し、舞 踊 に お い て もそ れ は 遺憾 な く発 揮 され た 。 例 え ば 「浮 か れ坊 主」 は 、 三代 目三津 五 郎 初演 の 清 元 「願 人坊 主」 に 「まぜ こぜ 踊 り」 を加 え て 再 構 成 した もの で あ る 。 昭和 四年 六 月歌 舞 伎 座 で の 初 演 で は 単 独 演 目だ った が 、 昭和 六 年 三 月東 京 劇場 で の所 演 か らは 、前 に 「羽根 の 禿」 をつ け て 、 可憐 な 少 女 と願 人坊 主 と対 照 的 な 二 役 を替 わ っ て みせ た 。 こ う した 極端 に対 照 的 な二 役 に 、例 え ば 「 船 弁 慶 」(昭 和 四年 四 月 明 治 座 初 演)の 静 御 前 と知 盛 の 霊 が あ り、 最 大 の 当 り役 「鏡 獅 子 」(大 正 三年 一 月市 村 座 初 演) の お小 姓 弥 生 と獅 子 の精 こそ 、実 は この路 線 の最 た る もの と言 え よ う。 六代 目は 、幼 少 時 に 九代 目団十 郎 か ら踊 りの教 え を うけ た 。 団十 郎 の教 授 法 の特 色 は 、裸 に して 教 え る こ とで あ っ た。 こ れ に は 、 九代 目 自身が 幼 少 時 に うけ た 、 四代 目歌 右 衛 門 の影 響 が あ る。 工 藤 や五 右 衛 門 を得 意 とす る大 兵 肥 満 の歌 右 衛 門 は 、 同 時 に女 方 も よ く したが 、 そ の秘 訣 を 「踊 りが 身 を助 け る の だ」 と、 幼 き九 代 目 に 諭 した (『団 洲 百話 』)、技 術 に よっ て作 っ た女 方 の秘 密 は 、歌 右 衛 門 か ら九代 目、 やが て六 代 目へ と継 承 さ れ る。 同時 代 の七 代 目三 津 五 郎 らの修 行 謳 に は 、 こ う した話 柄 は登 場 せ ず 、父 五 代 目菊 五 郎 が 「とて も お れ に は そ こ まで 出来 な い」 と驚 い た とい う とこ ろ を み る と、裸 に して教 え る とい う方 法 は、 一 般 的 な もの で は な か っ た よ う だ。 しか し、 六 代 目 は 弟 子 も裸 に剥 い て教 え た。 六 代 目が 内 寺 町 に住 ん で い た明 治 末 か ら大 正 四 年 まで 、 隣 家 にい た 徳 川 あ ろ う。 裸 にす れ ば 、 わ か る 、 とい う思 想 。 六 代 目 は、 そ れ を さ らに突 き詰 め る。 裸 に して もわ か らな い もの は 、解 剖 す れ ば わか る、 とい う。 大 正 八 年 八 月 に最 愛 の 女 房 役 者 三 代 目菊 次 郎 が 急 逝 した際 、 六 代 目 は反 対 す る遺 族 を説 き伏 せ て 、 死 因 を確 か め る ため に菊 次 郎 を解 剖 して も ら った 。 の ち に は、 自分 の 体 も死 ん だ ら解 剖 して ほ しい と 述 べ て い る (「河 豚 の 戯 言 」)。生 意 気 な よ う だ が 何 か 他 の 人 と違 う こ とが あ る はず だ 、 とい うの で あ る。 同時 に六 代 目 は、 散 骨 願 望 も口 に して い る 。 同時 代 的 に は異 様 な まで の 無 信仰 で あ る 。 信仰 を 問 われ て 「己 の 心 」 と答 えた こ と もあ る。 こ こ に は、 近 代 医 学 とそ れ を支 え る 合 理 的 発想 へ の 、 極 め て 無 邪 気 な信 頼 が あ る 。 ス イ ッチ を切 り替 え る よ う に異 なる 役 に対 応 で きる 、 体 を機 能 的 に捉 え る視 点 が あ る。 折 口 信 夫 の い う 「菊五 郎 の 科 学 性 」 に通 じる 特 質 で あ ろ う。 そ の よ う に考 え る時 、 「問 は魔 に 通 じる」 と し た 六 代 目の 名 高 い 芸 談 は 、 彼 と して は例 外 的 な ま で に反 合 理 的 な 発 言 で あ る 。 合理 を極 め た彼 に し て 、 この 言 が あ る 。 夢 声 も、 窓か らよ く裸 に な っ た弟 子 達 を稽 古 して い る が み え た 、 と い う (『夢 声 自伝 』)。藤 蔭 静 枝 近代 人 ・六代 目菊五 郎 の核 は 、 そ こ に あ る だ ろ う。 は 、六 代 目の も と に稽 古 に 行 っ た 際 、 「私 も裸 に な る ので し ょうか 」 と尋 ね て 、 周 囲 の 暎 笑 と共 に 免 除 して も らっ た とい う (『藤 蔭 静 樹 着 姿 の ブ ロマ イ ドを最 も多 く残 した の も六 代 目 だ ろ う。近 代 的 な男 性 美 に 、密 か な 自信 が あ っ た に 相違 ない。 六代 目菊五 郎 を モ デ ル と した平 櫛 田 中 に よ る彩 色 木彫像 「 鏡 獅 子 」(現 在 、 国 立 大 劇 場 に 安 置) が あ る 。 この製 作 の過 程 で 、田 中が 「鏡 獅子 裸 像」 を作 っ た こ と も知 られ て い るが 、 こ の裸 像 は 、六 代 目の希 望 に よっ て作 っ た もの だ っ た。 しか も、 当 初 六 代 目 は 前 シ テ弥 生 の裸 像 を望 ん だ とい う (「現 在 の 眼 」 昭 和 三 十 三 年 十 月 号)。 田 中の 「鏡 獅 子 」 製 作 の取 材 と して 、六 代 目 の裸 体 を撮 っ た 写 真 が 、今 日、小 平 市 平 櫛 田 中館 と早 稲 田大 学 演 劇 博 物 館 に残 され て い る。 演 博 所 蔵 の 撮 影 者 ・溝 口宗 博 の ア ルバ ム に は 、裸 で 「花 に は憂 さ を も打 ち忘 れ」 の 中 ダメ の形 を とっ て い る一 枚 が あ る。 六代 目の望 ん だ前 シ テ の裸 像 のモ デ ル とな るべ き もの で あ っ た ろ う。 「鏡 獅 子 」 前 シテ で最 も至 難 と さ れ る 箇 所 、 そ の女 方 の姿 を裸 に剥 く とい う発 想 。 そ れ は、 衣 装 の下 の芸 の秘 密 を 開帳 してみ せ る、 とい う こ とで 藤蔭会五十 -125-
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