たとき、新しく誕生した都市の横浜だけが局 ■ガイダンス 先に本誌で「洋種園芸は横浜から発進し た− 明 治から戦 前まで」と題して、安 政 6 外中立の空間として存在し、 プラントハンター たちに活躍の足場を提供しました。 (1859)年開港後、横浜の外国人居留地か らバラを始めとする洋種園芸植物が導入さ 第 一 部 第 一 回 シ ー ボ ル ト が 演 出 し た 日 本 植 物 の 世 界 へ の デ ビ ュ ー ● 前 編 椎野 昌宏 横浜市在住。現在、日本花菖蒲協会会長、横浜 さくらそう会会長、横浜朝顔会監事として、日本 伝統花の普及保存に努める。日本ベゴニア協会 理事として、世界のベゴニア原種に焦点をあて、 その導入研究を進める。園芸をグローバルな視 点から捉えることを座右の銘とする。共編著(分 担執筆を含む)に『世界のアイリス』 『世界のプリ ムラ』 『ベゴニア百科』誠文堂新光社がある。 4 ■プラントハンターのタイプ れ、栽培流通していった足跡をたどりました。 プラントハンターには二つのタイプがありま その素地をつくったのは、幕末、開港直後に、 す。ひとつは観賞用の植物を中心に集めた 冒険魂をもって日本に来て、横浜などを起点 園芸学的収集家であり、 もうひとつは科学的 として活躍した欧米のプラントハンターたちの 探求を目的とした植物学的収集家です。また 植物調査収集活動です。嘉永6(1853)年 プラントハンターの資質として、植物を含む博 のペリー艦隊来航は、日本人に対し史上空 物学に関する広い知識をもっていること、現 前の国民的衝撃を与え、幕末にかけて攘夷 地の人たちと言語は別として順応性をもつ人 をめぐる争論や、テロリズムや弾圧が交差す 柄であることも大切でした。博物学というと、 る内乱の時代となりましたが、ひとり横浜は開 動物学、鉱物学、地質学などを含みますので、 港へのレールを走っていきました。港と背後 学習するには大変でしょうが、当時のプラント の都市を建設する人々の活気がプラントハ ハンターたちは皆かなりの素養を持っていた ンターや外国人たちにも、安心感を与え、近 ようです。また現地の言語も滞在期間が短 代日本の曙光を見せたのでしょう。各国から かった場合はともかくとして、通訳も殆どいな の外 国 人 居 留 地もでき、日 本 中が徳 川 方 い状況では自らカタコトでも話すように努力し (佐幕) と薩長方(尊王)に分かれて争ってい たのでしょう。 プラントハンターの横浜関連年表 年 号 プラントハンターの動静 横浜関連の出来事 1853(嘉永6年) ペリー艦隊1回目来航 異国船到来し米価暴騰 1854(安政1年) ペリー艦隊2回目来航 ペリー横浜応接所で日本代表と会見 随行のサムエル・ウィリアムスたちが鹿児島、 米人が応接所前で組立てた蒸気機関車を運転 種子島、下田、函館で植物採集 ペリー横浜村に上陸、民情を視察し、名主の石川徳右衛門宅に寄る 1855(安政2年) ジョージ・ロジャース・ホール来日(横浜) 江戸安政大地震、倒壊17,000戸、死者7,000人 1856(安政3年) 米国総領事ハリス下田に入港 1857(安政4年) ハリス将軍家定に謁見、大統領親書を呈す 1858(安政5年) 米・蘭・英・仏と修好通商条約締結 1859(安政6年) シーボルト2度目の来日(長崎ー横浜) 横浜開港 横浜の日本人の人口3046人、戸数614戸 三井横浜出店 1860(安政7年ー ジョン・グールド・ヴィーチ来日(長崎ー横浜) 3月幕府井伊大老桜田門外で暗殺さる 万延1年 ) ロバート・フォーチュン来日(長崎ー横浜) 横浜居住外国人44人(英10、蘭10、米15、仏1、他9) カール・マキシモヴィッチ来日(函館) 関内戸数200戸、前田橋、谷戸橋架橋 ジョン・グールド・ヴィーチ離日フィリッピンへ グランドホテル山下居留地で開業 1861(万延2年ー ロバート・フォーチュン離日北京へ 横浜居住外国人127人(英55、米38、仏14、蘭20) 文久1年 ) 英人ハンサード横浜初の週刊誌『ジャパン・ヘラルド』発刊 大田屋新田開発移住民増える 弁天社裏に馬場を造り、在留外国人による最初の洋式競馬挙行さる 1862(文久2年) トーマス・ホッグ来日、横浜滞在 生麦事件起こり、薩摩藩士により英人リチャードソン殺害され騒然と シーボルト離日、 ドイツへ帰国 なる ジョージ・ロジャース・ホール離日、米国へ帰国 英国代理公使ニール厳重抗議、武力衝突寸前となる カール・マキシモヴィッチ横浜ー長崎ー横浜 下田連杖、野毛に写真館を開く などに滞在 英人ワーゲマン諷刺漫画誌『ジャパン・パンチ』創刊 居酒屋の伊勢熊、入船町に最初の牛鍋店を開く 吉田橋架橋 輸入額(金属など)、輸出額(生糸86%) とも前年比倍増と増える 1863(文久3年) カール・マキシモヴィッチ離日、 ロシアへ帰国 生麦事件処理の遅れと、攘夷派襲撃の懸念から英国など17隻の艦 ジョン・グールド・ヴィーチ、 オーストラリア、南海 船を派遣 横浜や近辺の人びと避難脱出 三井店頭へ天誅の張 諸島などへ行く り紙 サヴァティエ来日 英人カーチス山手で初めて西洋野菜栽培 ロバート・フォーチュン『江戸と北京』出版 1864(文久4年) 居留地外国人309人(英98、米97、蘭33、ポルトガル9、普20、 ほか52) タイクンホテル本町通りに開業、 グランドホテル改装 1865(慶応1年) 原善三郎、弁天通3丁目に生糸売込商開業 南北戦争終了し米国向け茶の輸出増加 1866(慶応2年) サヴァティエ横須賀滞在 坂本竜馬のあっせんで幕府打倒の薩長密約なる 本町1丁目(現海岸通4丁目)西波止場まで海岸埋立工事に着手 飯島栄助元町に洋酒店開業 1867(慶応3年) 10月将軍慶喜大政奉還、11月坂本竜馬暗殺さる 米太平洋郵船会社サンフランシスコ−横浜−香港を結ぶ定期航路 を開始、 コロラド号(3750トン)入港 英人ブラック、 『ジャパン・ガゼット』創刊(日刊) 1868(慶応4年ー 政情不安で動乱を避け江戸からの避難民10万人に達す 明治1年 ) 江戸無血開城 1869(明治2年) トーマス・ホッグ離日、米国へ帰国 関内の家の板葺き屋根を瓦葺きに改めること布告 裸体で関門、路上を通行すること厳重取締布告 注:ホッグ明治6年(1873)再来日、明治8年(1875)帰国 サヴァティエ明治4年(1871)離日、明治5年(1872)再来日、明治8年(1875)帰国 ホール明治8年(1875)再来日、短期間滞在 チャールス・マリース明治10年(1877)来日、明治11年(1878)離日 サージェント明治35年(1892)8月来日、同年11月離日 ウィルソン大正3年(1914) と大正7年(1918)来日 本稿第1部では日本の各方面に影響をあ たえたフランツ・シーボルトと、 『 江戸と北京』 の著作で当時の日本人を活写したロバート・ 第1部 第1回 植物の 演出した日本 シーボルトが 前篇 ) ( ー ュ 世界へのデビ 植物誌、民俗誌研究を仕上げることが動機 であったとされています。最初の来日で追放 され帰国した際には、乗船したジャヴァ号に フォーチュン、 そして少し時代は進んで日本、 485種の植物を本国向けに積み込んだとされ 中国の温帯系樹木を導入して世界的な米 フィリップ・フォン・シーボルト (Philipp von ます。それら植物は本国に到着後、戦争によ 国の樹木園を築いたチャールス・サージェント Siebold)については、江戸時代末期から幕 る混乱に巻き込まれて喪失し、結局わずか80 とアーネスト・ウィルソンを取り上げます。第2 末にかけて、日本の外交史、医学史、自然科 種だけとなりましたが、創設したライデン気候 部では色々な個人的背景をもって特色ある 学史など多方面にわたり影響を与えた最も記 馴化植物園に植え、栽培しました。この植物 収集成果をあげたトーマス・ホッグJr.、ロジャ 憶されるべき外国人として、多くの人が調査 園の植栽を充実させることも再来日の目的 ース・ホール、 ジョン・グールド・ヴィーチ、 カー し研究してきました。筆者は本稿では、2度目 の一つであったと思われます。 ル・マキシモヴィッチ、サヴァティエを紹介しま の来日期間中の日本植物に関する調査、研 す。更に続編では、日本には直接関係はあり 究成果に重点をおいて解説し、 シーボルトが いて、前篇では初来日及び再来日時の長崎 ませんが、中国で活躍したジョージ・フォレスト 日本植物の世界への扉を開いた功績につ の鳴滝中心にたどり、後編では再来日時の とチャールス・マリーズ、南米で業績を残した いて記述します。1度目の来日から30年もた 横浜を舞台にして探っていきます。 ウイリアム・ロブとジーン・ピアーズを、彼等の ち、63才になって、再来日したのは、未完の 本稿ではシーボルトの植物調査活動につ また本稿執筆にあたっては、 シーボルトの 発見した原種から大きな園芸グループが生ま れた経緯を辿り、 グローバルな観点からもプラ シーボルトの生い立ち、初来日時と帰欧後の活動年表 ントハンティングの場面を描出してみます。 1796年 1820年 なお、各プラントハンターの横浜に関連し た年表を別表にしましたので、あわせて参照 くださればご理解の一助になると思います。 ■プラントハンティングの対象となった 日本の植生 ドイツ、バイエルン州のヴュルツブルグで生まれる。 24才、 ヴュルツブルグ大学卒業。医学専攻、ほかに植物学、化学、地理学、民俗学に関心を持ち 学ぶ。 1823年8月11日 27才、 オランダ商館付き医官として長崎に赴任、出島に住む。 1824年 28才、長崎近郊鳴滝に鳴滝塾を開き、診察と学術研究を行い、多くの門人の養成を始める。 1826年2月 30才、 オランダ商館長に従い、江戸に向かう。3ヶ月江戸に滞在。 1830年 34才、 シーボルト事件(日本地図を海外への不法移出発覚)により、国外追放となる。1831年1月3 日離日。 1832年 36才、 ライデンで日本博物館を開設し、一般公開する。 1833年 37才、 『日本植物誌』第1分冊出版、以後1870年まで発行。 欧米のプラントハンターや彼らを日本に送 り出すスポンサーとなった植物園や園芸業 シーボルトの再来日時及び帰欧後晩年の活動年表 者が、日本に自生するであろう植物群をどの 1859年8月4日(安政6年) 1861年4月20日〜6月17日 1861年6月19日〜8月26日 1861年8月28日〜9月17日 1861年9月19日〜11月17日 1861年11月19日〜1862年1月13日 1862年1月23日(文久2年)〜1862年5月7日 1863年1月10日 1863年5月 1866年(慶応元年)10月18日 ように予想していたか、恐らく黄金の国ジパン グではないが、かなり期待していたでしょう。 17世紀に長崎出島のオランダ商館つきの医 師として赴任し、2年間滞日した、 ドイツ人の エンゲル ベ ルト・ケンペ ル( E n g e l b e r t Kaempfer 1651-1716)が出版した『日本 63才、 オランダ通商会社顧問として、長崎に来る。長崎滞在。 65才、横浜滞在。息子アレキサンダーとともにヨコハマホテルに宿泊。 江戸滞在。 横浜滞在。 江戸滞在。 横浜滞在。 66才、長崎滞在、離日。 67才、 ドイツ、ボンの自宅に帰る。 日本で収集した植物約270種をライデン気候馴化園に移植。 ドイツ、 ミュンヘンで死去。享年70才。 誌』に書かれた日本の植物についての記述 を読んだりして、漠然とした知識はもっていた でしょうが、全くの未知の分野への挑戦とし て、使命に燃えていたことでしょう。 日本はアジア大陸の東側に沿って、南北 約3000kmにわたって弓なりに存在していま す。モンスーン気候帯に位置することから、雨 量多く、亜寒帯から亜熱帯にわたっているた め、気候の変化も著しく、動植物相は極めて 多様です。同じように島国である英国と較べ ると、面積は英国の1.5倍であるのに対し、種 数で植物が2.2倍、哺乳類が2.2倍、鳥類は 2.4倍生育していると言われています。植物 については環境庁の調査によると、 シダ以上 の 高 等 植 物は、 日 本に5 , 6 0 0 種 、 英 国に シーボルト肖像 川原慶賀筆 2,500種自生しており、世界各地へのプラン トハンティングの導火線をしいた英国にとっ ては日本も魅力ある土地であったでしょう。 シーボルト肖像 エドアルド・キヨソネ画 (ライデン国立民族学博物館蔵) 最 晩 年のシーボルト写 真( 原 写 真:ハーグ国立中央文書館蔵、写 真の複製:シーボルト記念館蔵) 5 動きや調査した植物名について、石山禎一、 旬には買い求めた鳴滝の別荘に移りました。 アブラチ マンサク属(Hamamelis japonica)、 牧幸一訳『シーボルト日記−再来日時の幕 正確な敷地面積は不明ですが、古い居宅の ャン( Parabenzoin praecox )、サンシュ 末見聞記』2005年を参照し準拠させていた 台所や付属家屋を全面的に改築し、庭園と ( Cornus officinalis )、 クロモジ( Lindera だきました。 畑地の一部を学術的な植物園とし、1862年 umbellata )、 ミヤマウグイスカグラ ( Lonicera 春に新しい家屋に彼の蔵書を、付属家屋に gracilipes )、 シバヤナギ( Salix japonica )、 長崎の植物調査拠点の変遷 博物学上の収集品を入れたと記録していま シデコブシ (Buergeria stellata →Magnolia その1.初来日時の出島の花畑と鳴滝塾 す。鳴滝別荘は外国人名義で売買を許され stellata )、常緑小高木や低木のヒサカキ属 1641年平戸のオランダ商館は平戸から出 ていないため、シーボルトの娘の楠本イネの (Eurya)やジンチョウゲ (Daphne odora)、常 島に移され、交易、外交を行うかたわら、 まわ 名義としてあり、 シーボルト帰国後は実質的 緑つる性のスイカズラ属( Lonicera ) も育って りに花畑が設けられ、日本や外国の花卉類 にイネの所有となり、 その管理を下見国吉に いました。 がたくさん植えられていました。植物に造詣 任せました。 ( Epimendium grandiflorum )、バイモ の深い、 ケンペル(Kaempfer 1651-1716)、 ツンベルグ/ツュンベリー (Thunberg 1743- 鳴滝別荘で栽培された植物 ( Fritillaria verticillata )、ケマンソウ属 1828)、 シーボルトが館員(医官) として赴任 シーボルト日記1861年3月24日付けによる ( D i e l y t r a → D i c e n t r a )、ナツトウダイ してさかんに植栽したことにより、1829年には と、 私の庭に咲く花 として、次のものを記録 ( Euphorbia sieboldiana )、 フキ ( Petasites 既に1千種あまりの、植物が栽培されていた しています。春爛漫の風景が彷彿とされま japonicus)、 フクジュソウ属(Adonis) 、 セッコク といわれています。シーボルトはオランダ人が す。シーボルトが買った鳴滝別荘は、長崎市 (Epidendrum moniliforme →Dendrobium 居住を義務付けられていた出島の外にある 西部の七面山大菩薩に詣でる道筋にあり、 moniliforme) 、 ウコンソウ (Curcuma domes- 鳴滝に鳴滝塾と呼ばれた私塾を設ける特例 小川が流れ、森には野生のツバキが咲き、 カ tica )がありました。貴重な高山植物もあり、現 を与えられ、 そこで幕末から明治初期にかけ ッコウやキジバトが飛び交う、自然豊かな環 在の山草愛好家たちでも喜ぶような素晴らし て活躍した門人たちを指導しました。鳴滝塾 境にあったようです。植物収集を広げるため、 い顔触れとなるよう、短期間のうちに収集し の所在地にどのような植物を植えていたかど 家の背後の丘にある草むらを開墾して整地 植栽に努めたようです。 うかは記録がないのでわかりませんが、出島 したり、特殊な植物の栽培のため、高台に湿 のオランダ屋敷の花畑は日本の本草家たち 地や日陰の部分を作ったりしました。日本を の賛仰の的であったようです。 その2.再来日時の鳴滝別荘 ロバート・フォーチュンが見た鳴滝別荘庭園 象徴するサクラ類のイトザクラ/シダレザクラ 来日してすぐ1860年10月12日に、 シーボ (Prunus spachiana ascendance) 、 マメザクラ ルトの庭 園を訪れたロバート・フォーチュン カンザクラ ( Prunus × ( Prunus incisa )、 (Robert Fortune)はその著『江戸と北京』 シーボルトが再来日した1859年8月4日の kanzakura ) と春を彩るモモ( Prunus persi- のなかで、「彼はちょうど在宅で、大変親切に 時点では、初来日時に出島に作った植物園 ca )、 ウメ ( Prunus mume )の花々が咲いて 迎えてくれた。彼の家は上等な日本建築で、 は壊されて、資材置場となってしまい、 シダレ いました。落葉小高木や低木のトサミズキ属 仕事場や書斎に案内された。そこには彼の ヤナギ、チョウセンマツ、 イヌマキなどが僅か残 ( Corylopsis )、モクレン属( Magnolia )、 レン 専攻の博物学に関する、日本各地での研究 っているだけだったようです。息子アレキサン ギョウ( Forsythia suspensa )、 ミツマタ 資料が収集されていた。けれども私が特に惹 ダーと共に、当初出島に滞在していましたが、 ( Edgeworthia chrysantha )、ユキヤナギ かれたのは、 その庭であった。」と書いていま 本蓮寺に移転し、1860 年6月下旬〜7月上 (Spiraea thunbergii) 、ハシバミ属(Corylus) 、 す。植えられていた植物のうちで、のちにプラ 出島図(ロッテルダム プリンス・ヘンドリック海事博物館蔵) 左側:花畑、右側:商館の建物 6 草 花 類 で は 多 年 草 の イカリソ ウ 現在の出島の和蘭商館・薬草園跡(写真提供:石山禎一) シーボルトが文政9(1826)年に建てた、ケンペル・ツュン ベリー記念碑(上) と出島先学顕彰薬園碑所在標(下) 特 集 アスナロ 写真提供:神奈川県自 然 環 境 保 全センター 田村 淳 ロシアの植物学者、マキシモヴィッチ (Johann Maximowicz 1827-1891) も 彼 のアシスタント須 川 長 之 助とともに、 コウヤマキ 写真提供:神奈 川県自然環境 保全センター 田村 淳 1862年春、鳴滝別荘を訪ねた記録がひ とつのエピソードとして残っています。訪 問した時、 シーボルト所蔵の植物標本を 見せてもらいました。そのいくつかにつ ントハンターたちが競って導入した、 アオキの が来て、許可も受けずに、新しいすべての植 いて、種名・産地等を尋ね教えを請うたが、 雄木(Aucuba japonica) 、 アスナロ (Thujopsis 物の枝を折り、花を摘み取ったが、 そういう行 故意か、からかい半分か、それに答えようと dolabrata)、 コウヤマキ (Sciadopitys verticil- 為に利己的な学問上の争いの気配を感じ せず、 じっとその様子を見ていた。長之助は lata )、サワラ ( Retinospora pisifera )、 ヒノキ て、父はすっかり興奮してしまった。」(『シー 一つ一つ丁寧に観察しながら、「これは何々 ボルト最後の日本旅行』アレキサンダー・シー のようだが、 これは何々の仲間かな。これは ボルト著、斎藤信訳) どこそこのものだな」とつぶやきながら見てい (Chamaecyparis obtusa) に加え、 コノテガシ 、 グミ (Elaeagnus) 、ハイ ワ (Thuja orientalis) ネ ズ( Juniperus conferta )、イヌ マ キ フォーチュンは中国、日本時代を通じ、精 ました。ところがそのほとんどは、ずばり的中 ( Podocarpus macrophyllus )、 ヒサカキ 力的なプラントハンターであり、かなり強引な していたので、 さすがのシーボルト先生も、チ (Eurya japonica) などの常緑樹にフォーチュ 面もあったようです。 ョウノフスキーの慧眼に驚きました。 (『マキシ モヴィッチと須川長之助−日露植物界の交 ンは注目しました。そして竹類やツバキ類な どについても記録しています。 鳴滝別荘を訪れたプラントハンターたち 流史』井上幸三) シーボルトの鳴滝植物園には中国原産の 英国人のジョン・グールド・ヴィーチ(John シーボルトは、当時の幕府関係や知識人 ものもありますが、勿論日本の自生種が中心 Gould Veitch 1839-1870) も1860年7月下 たちにとって、知名人であり、 またプラントハン でした。植栽後、 あまり年月は経っていない 旬から8月中旬の長崎滞在のあいだに鳴滝 ターや植物学者たちは『日本植物誌』の著 でしょうが、品揃えは豊富で、当時の日本に 別荘を訪ねたようです。シーボルトは後日の 作をみて来日したはずであり、 シーボルトに おける私有植物園としては注目すべきもの 日記で「日本でとても豊富に見られる針葉 会うことを強く望んでいたのでしょう。 で、やがてヨーロッパに送られる待機場でもあ 樹の系統に目を向けよう。その大部分は幸 ったのでしょう。息子のアレキサンダーは後 運にも2人の不抜な旅行家、植物学者フォー 日、次のように書いています。「鳴滝の新しい チュン氏とヴィーチ氏のお世話により、 ヨーロ 植物園のことを聞いて、かなり多くのヨーロッ ッパに輸入された。2人とは江戸と長崎で握 パの植物学者がやってきた。ある日ちょうど父 手を交わす栄誉に浴している」と好意的に が不在だった時に、 ローバート・フォーチュン氏 も書いています。 『長崎風俗図』シーボルト門人・伊東昇廸筆(個人蔵)に見 られる1827年頃の出島にあるシーボルトの部屋。左下に 「悉以勃児都部屋(シイボルトヘヤ)」とある。 鳴滝別荘 シーボルト再来日時の写真。 鳴滝塾跡地のシーボルト胸像 7
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