9 2014年秋号 - レンタルサーバー動作状況

宮ヶ瀬湖から
風のたより
2014年秋号
NPO宮ケ瀬湖ボートクラブ
発行人
目
ご挨拶
頁
1
1~7
次
鍋島 久夫
三原さんを偲んで
谷内 一郎、谷藤 繁、鶴野 省三、中村あかね
新艇の報告
7月の遊漕会には、保有艇すべて出払うほどのご参加があり、開
会に当たり黙祷をささげて出艇しました。
7
7
このたび慣れ親しんだユニフォームの在庫が切れたので新ユニ
フォームを作ることになり、三原さんデザインのロゴとカラーが選
ばれました。秋からは衣替えして練習に、そしてレースに臨みま
す。
8~9
8
8
9
9
9~10
10
8月にはエイトの「摩利支天」が大阪浜寺マスターズクラブにもら
われ、鶴見から来る「ヘリテージ」に更新されました。秋の紅葉レ
ガッタにはレベルの揃った艇を提供できるようになります。
活動報告
村上 寛治・・・沈体験(8/9)
高山 修・・・・・スカル教室(7/5)
新沼 邦恒・・・遊漕会(7/21)
新沼 順子・・・子供ボート教室
新ユニフォーム・・・立花 栄治
年会費納入状況と寄付金の御礼…新沼 順子
新入会員ご紹介・・立花 栄治
新年度一番の行事、全日本マスターズレガッタで突然の悲報。
7
試合報告
弓場 常正・・・横浜市民レース(4月・7月)
鍋島久夫
素晴らしいことに、宮ヶ瀬に集う皆さんは、進んで艇の整備や得
意な知識と技術を持ち寄り、安全管理、漕法指導など、前にもま
して活動しております。
新沼 順子、登里 貞治、村上 寛治、川﨑 友義
弓場 常正・・・全日本マスターズ(5月)と三原さん
会長
三原さんがもう居ないという実感がないまま行事を進めておりま
す。
池田 照樹、栗原 啓子、清田 眞一、立花 栄治
新沼 邦恒
ご挨拶
鍋島久夫
運営には気を引き締めて当たり、御来湖の皆様が楽しく安心し
てローイング出来るよう心がけております。宮ヶ瀬湖が皆様のエ
ンジョイローイングの場として今後も充実するよう努力してまいり
ます。
三原さんを偲んで
三原さんと全日本マスターズダブルスカル出場
池田 照樹
2009年6月13日、諏訪湖で行われた全日本マスターズレガッタの一葦会フォル
ダに、次のような短い結果報告を見つけた。僕が書いたのか、三原さんが書いた
のか、覚えていないが、どうも三原さんのようだ。
「2Xレースは、スタートで狩野川クルーが半挺身リード、一葦会クルーがそれに
続いていたが、その後三菱が飛び出してそのまま圧勝。その他の3艇は中盤から
900m付近まで団子状態、三原・池田組がやや遅れていたが、最期の100mで三
田漕を差し切ることができた。接戦で1秒ちょっとの間に3クルーとも入った。1000
mのあいだ、自分たちの両サイドにずっと相手がいる状態というのは疲れるが、
レースとしては大変面白いものであった。年令カテゴリーが一つ上の東芝京浜の
柴原・岡井組にタイムでは敵わないだろうと思っていたが、わずかに上回ったのも
予想外であった。」(次ページに続く)
(スタート前の緊張した二人:バウ三原さん、整調池田)
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
(スタートして間もないところ
3レーン(向こうから2番目)が三原・池田組)
しい言葉だろう。学生時代にコーチのメニューによく出てきたが、
団塊号での練習では全くなかった。とにかく辛い響きである。相
模湖に通った三原さんとの練習も辛かった。その頃の三原さんは
元気でフルマラソンのタイムを年々更新していた。ポジション決め
で、「池田さんは後ろのことは気にしなくてもよい。とにかく力いっ
ぱい漕げばよい。」ということで池田が整調をする羽目に。それに
してもリズムよく漕いでもらわないといけないと言うことで、三原さ
んが見つけてきたのはスポーツ用(縄跳び用)デジタル式メトロ
ノ ー ム。カ チ、カ チ、カ チ とリ ズ よ く 音 を 出 す。3 拍 子 の 一 つに
キャッチを合わせる感じ。レート30だと目盛を90に合わせる。よ
くこんなものを見つけるもんだと驚いた。現在は自分でもシングル
スカルを漕げるが、スカル系の漕艇技術はこのときの三原さんと
の練習で上達した気がする。
結果は、上に述べた通り。僕は満足していいのか、悔しがるべき
か、よくわからなかったが、三原さんは最後に三田漕を差して3位
になったことで大喜びし、狩野川にもう少しだったことで悔しがる
など、はしゃいでいた。三原さんにとっては(少し)本格的なレース
で思い切り漕げたことが嬉しかったのではないだろうか。
三原さんから「ダブルスカルで全日本マスターズに出よう」と誘われ
たときは、そのことの意味もよくわからず、「誘いを光栄に思い」引き
受けた。6月の大会にはまだ遠く、寒い頃、三原さんから相模湖での
定期練習に誘われた。「500mシュトレッケをやろう」と。なんと懐か
この頃は三原さんにずいぶんご迷惑をおかけしたが、最近少しは
うまくなったので、(恩返しのつもりで)また三原さんとダブルスカ
ルで参戦し、今度は優勝をねらいたいと思っていた矢先である。
三原さんと共立女子大学ボート部との思い出
共立ボート部はスキー合宿導入を、10年前、ボート一辺倒の生活に
体力をつけつつ、もっと広い視野をもってもらいたいと思い、始めま
した。
当初は若手OGの手助けにより成り立っていましたが、会社を休ん
での参加には限りがあり、「女性ばかりの為、どなたかご一緒に協
力してくださる方を!」と、宮ヶ瀬湖ボートクラブの村上さんに男子二
人体制でとお願い致しました。その時こちらから出した条件が、
スキーがある程度できる
(初心者の女子大生の指導ができる。)
車を持っている
(交通費を安くする。)
雪道を運転できる
(スリップ事故は困ります。)
栗原 啓子
今年の2月16日〜18日も八ヶ岳のスキー合宿を予定しておりまし
たが、未曽有の大雪で、中止を余儀なくされました。その時三原
さんのメールで、早々に中止をした決断は良かったと褒められ、
嬉しかったです。しかし次年度のスキーはご一緒できないと、寂
しく悲しい思いです。
スキー合宿以外にも、共立ボート部OGとマラソン、山登りと、お
付き合い頂きました。
ボー ト を な さる 方 は、マ ラ ソ ン、山 登 り、自 転 車、水 泳、卓 球、
等々、体を動かすことが好きで、自己鍛錬、自己との挑戦、自分
の限界を見極めようとする方が多い様に思います。
三原さんはさらに、翻訳の分野でも長けていたようです。海外の
ボートの翻訳等、知的な才能もお持ちでした。これは漕法の参考
になるからと、DVDを頂いたりもしました。
宮ヶ瀬湖ボートクラブの理事会を、鶴見の「ホテルときわ」で行う
とき、それまでの書類での会合から、プロジェクターを使用した会
議となったのも、彼のおかげだと思います。
高潔な、聖人君子であること
(問題を起こさない。)
このような条件を考慮し、村上さんよりご紹介いただいたのが三原さ
んでした。口数は少なくとも、いつもニコニコして物静かな三原さん。
女子大生とおじさん二人のスキー合宿は、6,7年たつでしょうか。実
に村上さんも良い相方を得、合宿以外でも毎年お二人でスキーに出
かけ楽しまれたようです。共立のスキー合宿では、もっと滑りたいと
ころのお二人に、スキーの脱着から歩き方、滑り方、リフトの乗り方
と、2泊3日の短い間に初心者でも中級のコースを滑り降りるまでに
ご指導いただきました。
三原邦夫さんの思い出
いつか三原さんにダブルスカルに乗せてもらった時だと思う。艇庫
前を漕ぎ出してカヌーコースを抜け再びそのコースを渡り返したあた
りから、風が強く吹き始めた日。下手くそな私のオールは、横揺れの
ために空を切ったり反対に深く水中に切れ込んだりして、まったく艇
の推進力にならない状態になっていた。いわゆる「ウサギが跳ぶ」と
言われる白波が立つような状況になりつつあったのである。こんな
時に初心者が考えることは決まっている。いつ「引き返す」と三原さ
んが言ってくれるかな、それとも強行するつもり?はてまたここから
湖岸までの距離はどのくらい?右と左とどっちが近い?等々。要す
るに浮き足立ってくるのである。
三原さんは黙々と漕ぎ続けている。いやバランスをとりながら私に
又、宮ヶ瀬湖紅葉レガッタでは、試合のタイムの集計、年齢別ハ
ンディの計算をして、レガッタの運行に深くかかわりながら、ス
ムーズな運営進行に尽力されたと認識しております。
彼亡き後、この機関紙「風の たより」の編集を初め、宮ヶ瀬 湖
ボートクラブにとって、彼の存在があまりに大きく、様々な不安が
ありますが、残された私達は彼の情熱を受け止め、頑張って、
宮ヶ瀬湖ボートクラブを盛り上げていきたいと切に思っておりま
す。これからも皆の英知を集め、頑張っていきましょう。
清田 眞一
漕がせている。こうして10分ほど漕いで山びこ大橋を少し過ぎた
ころ、突然「清田さん、引き返しましょう!」と背中に声がかかっ
た。きっぱりとした決断であった。
こんな時、素人の私に「どうする?」なんて聞くのはかえって相
手を不安にさせるだけというあたりまえの判断を三原さんはされ
たのだと思う。私も含めて大抵の場合は、ああだこうだと言葉の
緩衝材をいれた挙句に「引き返しましょうか?」となりがちなのだ
が・・・。
心は決まった。白波の立つ帰り道を漕ぎながら、艇を安定させ
るための三原さんの短いアドバイスが続く。途中、ずっと三原さ
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
んが左右のオールを巧みに漕ぎ分けてバランスを修正してくれて
いるのがわかった。波の静かな艇庫前での2~3回の往復練習
の後、船台に艇を寄せる中で、「波が強くて残念だったね、また一
緒に漕ぎましょう」と笑顔で声をかけていただいたのが本当に嬉し
かった。なぜならそれが「清田といっしょで散々だったよ」の反対
だったから。
人の気持ちというのは、案外単純な道筋で繋がっているのかも
「おもわるよう、三原さん」
「人間、出会いは絶景」。これは私がことある毎に口にしている
ことば。そしてもうひとつ。人生は出会いと別れと再会のドラマ。三
原さんと出会って10年。こんなにも早く永訣を迎えるとは思いもし
ないことだった。60代で得る友は人生の宝だと言った人がいる。
同い年で迎えた古稀。共に、漕いで登って歩いて走る。そして映
画を語り本を交換する。どれだけ刺激を受けたことか。IT弱者で
アナログ派の私を揶揄しながらも、事務局業務を肩代わりするの
はもちろん、レコード針を譲ってくれたり、最新英書をまわしてくれ
たり、あれこれ気遣ってくれた。NPO活動のここまでの発展は、
三原さんの企画力と行動力なくしてはなしえないことだった。
5月24日の全日本マスターズのエイトレース途中で突然倒れ、
搬送された病院で翌日未明、息を引き取った。奥様とご子息方の
驚愕と悲哀は想像を超えるものだった。心房細動の治療を受けて
いたことは、私たちクルーも承知していたが、2ヶ月間の練習中そ
の不調を感じさせなかった。整調として主導し、私たちを鼓舞する
ぐらいの熱の入れ方だった。レースの数日前の仕上げ練習後に
見せた三原さんの落ち着いた声と自信ありげな顔が忘れられな
い。ご遺族への申し訳なさと無念の気持ちがぬぐえない。
三原さんへ
三原さん、私はもう長らく前から「断捨離」をせにゃならんと頭には
あるものの、何とも遅々として進まず困ったものです。でも、手を
付け出した小さな証が:何と、昭和38年11月2-3 全日本ジュニア
選手権プログラムを開くや舵手付フォア予選で三原さんのクル―
と医科歯科大と私達外大クルーの三杯レース! 三原さんとはそ
んな昔から御縁を頂いて居たんだなと。私は名前通り一浪でした
から、年齢は一歳上だったでしょう。決勝戦日大に僅か30cmの
差で宮越牌を。日大舵手は埼玉県漕艇和田理事長。彼のクルー
も高校からの経験者揃い。三位以下:法政、明治、東経と全て私
立でした。自転車で伴走してくれた最上級生二人から何度も言わ
れた事ですが:「ゴールがあと30センチ先だったら負けたな」この
時の資料をお見せしたいと願い乍叶わず。その後のボート三昧
への大きな出発点的意義深い大会でした。私には想像もし難い
事なのですが、きっと何の変わった風情も漂わせずに、淡々と机
に向われたであろういくつもの翻訳作業、就中THE BOYS IN THE
BOATにはまっこと驚愕を。大きな時代背景、当時の西海岸庶民
の日々、作家の行き届いた取材を適切な日本語でplaybackされ
三原さんとの思い出の記
「OARSMAN三原」の文字がぴったり当て嵌まる人、それが今は亡
き三原さんではないでしょうか。私が三原さんと最初にお会いした
のは、もうかれこれ10年近くなる宮ヶ瀬湖ボートハウスでした。弓
場さんに案内されて訪れた宮ヶ瀬湖は噂に違わず素晴らしい場所
でした。そしてそこに集うボートマン達はこれ又魅力溢れる人たち
ばかりでした。
久しぶりに握るオールから伝わって来る、ねっとりとした水の感触、
一掻きごとに増す艇速、ひたひた船縁を叩く水の音、私の周囲はメ
ルヘンに包まれ、うっとりしながら漕いでいる内、ふと何となく違和
しれない。三原さんはその単純な道筋をまっすぐ相手にさしだして、
何の屈託もない本当に爽やかな人だった。
敢えてここで軍事用語を持ち出して言えば「指揮官先頭」、何事
にたいしてもハッキリとした判断と、卑怯なところのない行動力、そ
んな強い印象を私の中に残して急逝されてしまわれた。レース中の
ボートでの死は、三原さんらしいいかにもその用語を象徴している
ように思われてしかたがない。
立花 栄治
葬儀は、大和斎場でキリスト式にしめやかに行われた。前夜式と告
別式両日合わせて、ボート関係者だけで100名以上が参列し、ご遺
族が「これほどにもボートの方々に慕われていたのか」と驚いてお
られた。三原さんが得意とするネット情報や趣味としてつづけてきた
ボート関連書の翻訳などで多くのボート愛好家に大きな影響を与え
ていたことがわかる。三原さんを敬愛し畏敬の念で親しんできた漕
友たちのやるせない思いを強く感じた。
亡くなって一ヶ月半経た7月12日、宮ヶ瀬湖艇庫内で「偲ぶ会」を
開いた。遺影と三原さんの活躍した姿を映した写真の数々を飾り、
その前でいつもの昼食会をすませてから、20数名の仲間がひとり
ひとり想い出を語った。それぞれの心に刻印された大切な宝が皆
に共有されたと思う。遺影の三原さんがそこにいるとしか思えない2
時間。競漕よりも漫漕を愛していたと、私は思う。宮ヶ瀬湖が大好き
だった。召天した三原さんは、いつも宮ヶ瀬湖の上にいる。葬儀式
次第の表紙に、「わたしは、よみがえりです。いのちです」とあった。
君との再会は、そちらかな。「おもわるよう!」(いつまでも忘れない
よ)。(完)
谷内 一郎
ている。未だ母校クラブ役員には提言してはいませんが、現代の
ボート部活動にとっても何も古くなど無く、感化されてしかるべき事
象のあれこれが。例えば、油で揚げた何何を口にするなよとウルブ
リクソンが部員に語る一場面にはほとほと吃驚しましたよ。これが
ヒットラーオリンピックの前なのですからね!私の戸田時代には水
を飲まずに漕ぐという恐ろしい無知悪夢。なんと貧相な寂しい時代
にあの炎天下荒川で! 話を戻します。著名なる出版社から傑作を
ものしたLeni Riefenstahlの“Olympia”も長らく温めて来た一冊です
が、三原さんと御一緒にと念じていました。昨日順子さん宛にゆう
パック致しましたので貴クラブが、三原さんの御家族が、ご覧下され
ばと。2006「来た、見た、漕いだ」Swiss Tourのアルバムも同封致し
ました。初日Welcome Reception風景二葉と湖上の一葉、共に三原
さんが写っています。ご家族にとっては、在りし日の御主人・お父様
がいつもと変わぬ優しさで静かに。とても高潔なoarsmanでいらし
た。今思えば、私は三原さんとじっくりお話した事はありませんでし
た。宮ヶ瀬で、鶴見で、戸田で、そして、スイスでも。ご挨拶は欠かさ
ずでしたが。Hondaへ移られた時の想いの程を伺いたかった。
谷藤 繁
感を覚え始め一体どうしたんだろうと思っている内コックスの「イー
ジーオール」の号令がかかり漕ぐのを止めました。休憩の間暫くこ
の違和感を考える内、はっと思い付いたのが自分の漕ぎ方がみん
なと合っていないのではないかという事でした。しばしの休憩が終
わり再び漕ぎ始めてからは、前を漕ぐ三原さんのオール捌きを念
入りに観察しながら約1時間半のローイングを終えました。艇庫に
引き上げてから、私の疑問を種々投げ掛けたところ、それに対して
丁寧に答えてくれた人が三原さんでした。
それからは機会がある毎に現在使われている漕法について頑迷
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
固陋な私に対し嫌な顔一つせずに諄々と講義してくれました。一緒
に乗艇の際は、後ろから必死で三原さんのオールを目で追いなが
ら、キャッチ、フィニッシュ、フォワードのスピードその他真似出来る
ものは全て自分の物にしようと努力しました。それまで自分の中に
在った古い漕法、見栄、自負心、プライド・・・・等全部かなぐり捨て
三原邦夫さんを想う
川上利男氏から頂いた三原君最後のレースビデオを何度も見
返すうちに、三原さんは正に天国に漕ぎ上ったのではないかと思う
ようになった。
“三原さん倒れる”に続き、そのまま帰らぬ人になったとの報せ
を受けた時の衝撃と戸惑い、それが現実のものとして受け止めた
時の落胆、淋しさ、無念さは我々漕友が等しく抱いた思いであった
と思う。元気いっぱいでレースに臨んでいた三原さんが、まさかと
誰もが思ったことであろう。ビデオに残された雄姿と現実の乖離は
あまりにも大きい。
三原さん自身は倒れた後も必死にオールを引いていたのでは
なかろうか。彼の漕姿を見るとそのように思えてならない。
三原さんとは、愚生が助手で母校に残った関係で、彼の学生時
代から続いたことになるが、濃密な関係になったのは愚生が定年
を迎え、また三原さんも定年近くになったころからで、特に大和市
に退職後の居を構えてからであった。
大和市に転居したとの知らせを受けた愚生は三原さんに宮ヶ瀬
湖ボートクラブ入会の勧誘をした。すると二つ返事で快諾。それか
らの三原さんは宮ヶ瀬湖ボートクラブを拠点に、市民ボートレース
や母校の指導と八面六臂の活躍を始められた。そしてたちまち
宮ヶ瀬湖に“三原あり”の存在になられた。兎に角、ボートが好き、
ボートを愛し、ボート仲間と楽しんだ10年間ではなかったかと思う。
ボートだけではなく、フルマラソンも山登りも楽しんでいた。その上
多方面にわたる豊富な知識と情報収集力、翻訳、文才、デザイン
三原さんを偲んで
ハンサムで紳士で頼りになる、「オアズマン」という言葉がピッタ
リのお方でした。私の母校の共立女子大学ボート部は、スキー合
宿や初漕ぎでの餅つきをサポートして頂くなど大変お世話になりま
した。そして私自身は、ボートをはじめ登山やマラソンでもご一緒さ
せて頂き、いくつもの楽しい思い出があります。
そのひとつが2008年4月の弘法山・桜ハイキングです。満開の桜
と天候に恵まれ絶好のお花見日和。山頂を待たずしての宴会、下
山後の温泉でまた宴会となりました。皆さんご機嫌でしたが、中で
も普段は紳士でクールな感じの三原さんが少年のように笑っていら
したことが印象的でした。温泉の売店に、地元で採れた野菜と並ん
で生花があり、「三原さん!奥さんに花をプレゼントしたら?」と声を
かけられると、「今まで花なんて贈ったことないですよ。」と照れなが
らもお土産にされ、電車の中でも恥ずかしがっていらしたことを昨
『風のたより』作りを共にして
「まあ、いいでしょう。」きっぱりやさしく終わらせる三原さんの言
葉。話し合いが必要な場合とそうでない場合を、頭の中でいち早く
判断して、結論を出す。最初の頃は、「だって」の文字がくすぶった
が、徐々に彼のペースへ。三原さんにおまかせすれば、間違いな
い。でも、これで良かったのだろうか。もっと三原さんの中に入って
行ったら、「まあ」なしの「いいでしょう。」が聞かれたかもしれない。
「そろそろ『風のたより』を引退したい。毎回同じ報告内容を新人に
変えて欲しい。」との三原さんの要望を全面受け入れることが出来
なかった。彼の作る紙面は専門的。「いつでも教えますよ。」を先
延ばしにすればするほど、磨きがかかる彼の技能。差は広がるば
かり。紙面を彩るイラスト、写真をネットから探し出し、完璧な状態
で印刷を依頼する。印刷会社はただコピーするだけ。美的センス
に加えて卓越したPC操作の持ち主。宮ヶ瀬湖会員に送付する作
て一からやり直す事にしました。特に車を止めた去年から、往復三
原さんの車に便乗させて貰い彼からボート以外にも多くの事を学
びました。彼の端整な容姿、物静かな紳士振り、その中でも忘れ
ぬユーモア、等総て今でも私の中に生き続けて居ります。
アーメン
鶴野 省三
の才など実に多能多才であった。三原さんはそれを惜しみなく提供
された。
三原さんは“Enjoy Rowing”の達人であった。特に、立花・村上・
弓場さんとのクルーワークが絶妙で、毎土曜漕ぐ会は”Enjoy Rowing & Enjoy Lunch” でいつも盛り上がっている。また多くの仲間を
欧州のローイングツアーに誘い、ボートを楽しみながら交流の輪を
広げられた。
三原さんを知るオアズメンはそのような彼をレスぺクトしていると
思う。本当に惜しい仲間を失った。もっと生きていてほしかった。
葬儀の後、Facebookに三原さんのご子息の父についての書き
込みがあった。ご子息は葬儀の時、大勢のボート仲間が別れを惜
しんで馳せ参じたことが、理解できない様子であった。愚生はどれ
ほど役に立てるかはわからなかったが、三原さんとの突然の別れ
についての思いを書かせて頂いた。三原さんは寡黙で、特に家庭
ではボートについて語らなかったようだ。
三原さんは多くの漕友とボートで結ばれ、忘れえぬ記憶を残され
たが、ご家族にはその部分が抜けているように感じられるのであ
る。時がたてば、ご家族も家庭では見せなかったオアズマン父三原
邦夫を探されるかもしれない。
そのような時が来れば、三原さんを語り合いたいものだ。三原邦
夫さん!ありがとう!
中村 あかね
日のことのように思い出します。
湘南マラソンでは、前年に初参加された時の経験から沢山のア
ドバイスを下さいました。マラソン後の打上げ会場としてマンション
のゲストルームを手配して下さり、また、ご自分が大会不参加の時
でも打上げにいらして、労いの言葉をかけて下さいました。
レガッタ運営をはじめ、漕艇場めぐり、ウォーキング、ポットラック
など、ご自身も企画を楽しまれながら、皆のためにお骨折り下さっ
たことに心から感謝します。
8月には、今年のボート合宿予定地だった荻野漕艇場へ参ります。
艇の上から空の上の三原さんへ、乗艇のご報告をしてこようと思っ
ています。
新沼 順子
業も、おしゃべりが楽しみな私達を暖かく見守りながら適切な指示
を出し、手はとまらない。プライベートなお酒の席でも、彼の姿勢は
くずれない。すいすいとワインを口にする。流れるような速さなのだ
が、はた目にはゆっくり見える。基本聞き役に回る三原さんだが、
新技術を学んだ時は饒舌になる。映像に字幕をいれる作業を完結
したときの苦労話は、これからでも字幕スーパーの職業に転身で
きるのではないかと思わせた。映像場面で話している内容を限ら
れた字数で、キャプションを入れる。こうしてできた作品は遊漕会、
紅葉レガッタでも流され、宮ヶ瀬湖ボートクラブの雰囲気を盛り上
げる。
三原さん、有難うございました。あなたに甘えて、楽な方向を取っ
ていました。もっと質問すれば良かった。もっと教えを乞えば良かっ
た。もっと感謝を口にすれば良かった。何もかも淡々とこなす三原
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
さんの仕事を奪えば良かった。ボートを愛した三原さんにこれで良
かったのだと言い聞かせながらも、あったかもしれない「これから」
や「ご家族」を想うと無念の思いがあふれ出る。告別式で送り出した
讃美歌。「また会う日まで、神の守り、汝が身を離れざれ。」を口にし
感
ながら、宮ヶ瀬の湖で何時も三原さんと一緒です。三原さんが完
結させた『風のたより』は鍋島会長自らが買って出てくださり、ご一
緒に進めていくことになりました。見守っていてください。
謝
登里 貞治
有志3名が集まって「宮ヶ瀬湖で週1回漕ぐ会」を立ち上げたのは確
か2003年頃だったと思います。それから暫くして三原さんが颯爽と
現れました。使い慣れた外国のユニフォームを着ておられたと思い
ます。ホンダのロスアンジェルス勤務から帰国したばかりで、母校防
衛大ボート部長、鶴野先生からの勧めで来たと伺いました。つまり、
三原さんは一葦会にとって正に「第4の男」となった訳です。
年中行事の一つになって、一葦会の活動に華を添えております。
当初、毎週土曜日、私は車で宮ヶ瀬に通っておりました。帰路、いつ
も歩くが如き大渋滞を余儀なくされ、練習の疲労も重なって居眠り運
転が続いておりました。危険そのものでした。それを聞いた三原さん
が中央林間から私を拾ってくださることになったのです。本当に助か
りました。そして、車中での会話が楽しみになりました。母校、新潟
高校、防衛大、及び、ロスでのRowing club lifeなどを語ってくれまし
た。奥様の健康管理にもきめ細かく心配りをなさっておられました。
奥様を大切になさる方であるという印象を強く持ちました。
三原さんは静かな人でした。謙虚な人でした。そして、エネルギッ
シュで粘り強い人でした。更に、内に闘志を秘めた負けず嫌いの
人でもありました。館林全日本マスターズの2週間くらい前だった
でしょうか。最近不整脈があって体調が良くないとおっしゃってい
ました。我が身の危険を顧みず、真剣勝負に挑む貴方の心意気
を称えます。日本ボート協会編さんの映像を拝見しました。ほん
の数秒間ですが、貴方の元気一杯の漕姿を拝見しました。万感
の想いがこみ上げてきました。しかし、会いたくなれば、いつでも
貴方に会えるとも思いました。
ボート関係本の翻訳やDVDの調整など質量共に三原さんでなけれ
ばできないことをいとも軽快にやって下さいました。貴方の能力とそ
の出来栄えに敬服していたのは私一人だけではありますまい。これ
らのお陰で、私は多くのことを学ぶことが出来ました。
約10年強の三原さんとのご交誼を振り返ってみますと、いつの間
にか、貴方流の「何気なく、黙って付いていらっしゃい方式」に私は
どっぷりと身を委ねていたと感じております。(実は、一葦会にはこ
の種のリーダーが多く集まっており、それが一葦会の良さであり、
奥深さであると思うのですが。)
Let’s row your boat together again in the life beyond !
ありがとうございました。
全国の漕艇場巡りにも連れて行って下さいました。これらは今では
三原さん追悼
三原さんとはボートの他に多方面でお付き合いさせていただきまし
た。
まずはマラソン、2009年11月の湘南フルマラソンに立花さんが参加
するというので、負けじと私も参加表明、フルには出ないと言ってい
た三原さんも“堀を埋められてしまったな~”と肩をすくめながら参
加表明となりました。
それまでに宮ヶ瀬湖畔を周回するハーフマラソンには何度か出たこ
とがあるのですが、さすがにフルとハーフでは雲泥の差があり、
ハーフでは二人とも1時間50分前後で走ったもののフルでは5時間
前後となりました。
ところが、三原さんのチャレンジ精神(負けず嫌い?)は並みのもの
でなく、翌年のフルでは4時間11分で走ったのです。 私も4時間34
分で当時61歳としてはけっして悪い記録ではないのですが、66歳の
三原さんの記録には脱帽でした。
それなりのアスリートを気取る私としては悔しい思いもありました
が、もうすぐ同じ66歳になる私はあらためてその記録に感服し、三
原さんの凄さを素直に称えるものであります。
山には、立花さんと3人で鳥海山、山形の大朝日そして冬の蛭が岳
に登り、それぞれ頂上付近の山小屋で夕食を取りながらゆっくり夜
を過ごしたのが懐かしいです。 越後三山の一つ中ノ岳には5人で
行きましたが相当ハードで2人が途中で下山し、3人で登り着きまし
た。 その中には68歳の三原さんも居て、そのタフさに敬服しまし
た。
この他に白山や伊豆の万三郎、そして新潟の天水山を歩いたのも
懐かしく思い出されます。
スキーを最初に一緒に滑ったのは6~7年前かと。
共立監督の栗原さんに、共立の女子大生をスキーに連れていくの
で、その指導をしてほしいと頼まれ、三原さんに助っ人を申し出たの
を覚えております。
快く引き受けてくれたものの、彼は30年ぶりくらいに滑るのだと聞
村上 寛治
き、実はあまり期待はしていなかったのですが、流石でした。 昔
取った杵柄で直ぐに雪に慣れ、学生の指導もきちんとこなしてい
ました。 それでスキーの楽しみを覚えたのか、その後も何度か
共立のスキー合宿に一緒に出かけ、八ヶ岳周辺のスキー場にも
何度か足を運びました。
2010年には谷藤さんが毎冬籠っている秋田の田沢湖スキー場に
片道8時間もかけて二人で出かけ、温泉に浸かった後、秋田の銘
酒に酔ったことも楽しい思い出となりました。
今年3月に富士見パノラマスキー場に日帰りで出かけたのが最後
となりました。
もちろんボートも何度も一緒に漕ぎました。 全日本マスターズを
初め、横浜市民ボート大会、相模湖翠水レガッタ、そして特に思
い出深いのがFISA主催のオーストラリア漫漕ツアーで、10日間
ほど一緒に過ごしました。 その間ずっと同じ部屋で寝起きを共に
しました。隣に寝る三原さんの寝入りの早いこと...健康的な寝
息をいつも聞かされておりました。
シドニーでは彼の友人ブルースと北京パラリンピックに出場した
松本さんの4人で漕ぎだし、そこで見たSidney Harbor Bridgeの朝
日に映える姿が何とも美しく、今も脳裏に焼き付いています。
彼とはNPO活動で行動を共にすることが多く、またマラソンやス
キーの後で、山小屋で、ボート大会の後で、ビールを何度も飲み
交わし、私生活の多くの時間を共に過ごしてきました。
陰に陽に支えていただき、いつも私の先達でありました。
淋しいです・・・
どうぞ安らかにお眠りください。
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
三原さんとの思い出
三原さんと私が知り合ってからの期間は決して長くはな
い。初めて宮ヶ瀬を訪れた際に優しく受け入れて頂いて以来
2,3年程度であろうか?しかし、その期間が短いのと裏腹
に、関係は濃密だと勝手に思っている(もちろん片思いかもし
れないが・・・)。そして、その濃密さの理由は、もちろんボート
レースにある。そう、マスターズローイングの最高峰、全日本
マスターズレガッタでの2度にわたる優勝レースだ。
そのうちの1つは平成25年に愛知池で行われた第6回大
会のナックルレース。私は、整調立花、3番三原、2番鈴木、
バウ三文字(敬称略)という、宮ヶ瀬一葦会と団塊号の連合ク
ルーのコックスを請け負った。悪天候で専門のコックスが必
要となり、私に白羽の矢がたったのだった。組合せはシニア
最強の日本ボートマンクラブや名古屋、医王会などと当って
おり、うまくいって2位か3位だろう。しかし、レースが始まるや
否や、スタート直後から足蹴り級の漕ぎをポンポン繰り出す
クルーはボートマンクラブをも大差で引き離し、いわゆるぶっ
ちぎりのレースを演じた。ボートをしていると、練習を含め、年
に1回あるかないかの、極めてまれではあるが、驚くほど艇
が走る瞬間を感じる時があるのだが、ちょうどそれがこの
レースの時に巡ってきた感じだった。クルーもまさか?の会
心のレースに大喜び。私は整調と握手を交わし(演奏を終え
た指揮者とコンサートマスターの握手のようで、いいものなん
ですよ、これが)、コックス席からクルーの顔を伺うと、ひとき
わ喜びをはじけさせている三原さんがいた。三原さんとも握
手・・・が届かない。そこでとっさに思いついた『三原さん エ
アー握手!』。コックス席で立ちあがり、握手する真似をする
と、同じ動作で三原さんもエアー握手。そのシーンは普通に
握手するよりも 深々と心に刻まれた。また、その後に行わ
れた表彰式。その写真をご覧になった方も多いと思うが、表
川﨑 友義
彰台での三原さんの満足の笑顔がまたたまらない。メダルと表彰
式の写真は私の一生の宝物になった。
もう1つのレース、それは今年、館林での第7回。そう、三原さ
んがエイトのレース終了直前に、ローアウトされた大会だ。ちなみ
にローアウトは自らの極限を超えて漕いだことの証で、ローアウト
した選手は真のオアズマンとして、優勝者以上の賞賛を受ける。
ローアウトの経験のない私など、その境地に至った三原さんを、
心より尊敬している。
さて、話をレースに戻そう。このレースも宮ヶ瀬一葦会はナック
ルに出漕した。クルーは、整調川﨑、3番長野、2番高山、バウ小
林(秀)、コックスは団塊号の竹中さんにお願いした。三原さんは
元々このナックルのメンバーではなく、応援者であるはずだった
か、レースの時にはすでに旅立たれた後で、その悲報がレース前
に入っていた。前年に三原さんと、同じナックルで優勝をしたメン
バーの私は、このレースを三原さんに捧げると決め、ミツバツツジ
のユニフォームを身にまとった。尚、念のため申し上げておくが、
「レースを三原さんに捧げる」ということであって、「優勝を捧げる」
なんて大それたことは思ってもいない。ベストを尽くせばそれでよ
いと思っていた。それは、元来コックスの川﨑が整調の重責を担
い、2番の高山さんはサイドチェンジで初のストロークサイド、バウ
もコックス出身の小林さんで、力を発揮できるのは3番長野さんく
らいのもの、到底優勝できるような布陣ではなかったからだ。とこ
ろが、図らずも『このレースを・・・』ではなく 『この優勝を三原さん
にプレゼント』することになる。
レースはスタートから他のクルーに出られる苦しいものだった。
正確には分からないが、ひょっとしたらビリだったかもしれない。そ
の後、コンスタントに入れる頃には何とか3位(=ビリではないとい
う程度)を確保。ところが竹中コックスの甲高い声で『行けるぞー
行ける行けるー』。ほんまかいな?と思いつつ、全力を出しきる
という約束が心をよぎる。すると隣の新潟のクルーに見る見る追
いつきはじめ、一気に抜き去った。残るはトップの多摩川クルー。
しかし、残り200mくらいで4分の3艇身ほど負けていて、普通なら
敗色濃厚。ところがだ、竹中コックスから『もうひとつ行くぞー』の声
がかかり、クルーは奮起する。そして、ここで前年の優勝レースで
も経験した、あの驚くほど走る時 が巡ってくる。『それー行け―行
けるぞー』のコックスの声のとおりにグイグイ追いつき、並びかけ、
抜き去った。ほんの100mほどの間の逆転劇だ。もう苦しいのな
んの。その間、蹴り上げ、ラスト20本と、コックスの檄が飛び、反
応するクルー。どんどん差が広がり始める。このラスト100を切っ
た辺りで、ようやく三原さんに捧げるはずのものが『全力のレース』
から『優勝』へとグレードアップするのを感じた。コックスから『ラス
ト10本』『スパート行こうさあ行こう』。このまま、このままと念じ、つ
いにトップでゴール。その瞬間思わず『よーし!三原さんにプレゼ
ントー、三原さんにプレゼントだ― 』と叫んだ。そして名演奏を演
じた指揮者とコンサートマスターは固い握手を交わす。
思い出しても鳥肌が立つ、信じられないようなビリからの会心
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
の逆転レースを演じ、宮ヶ瀬ナックルは全日本で2連覇したのだ
が、1つ信じて疑わないことがある。それは、500mという短距離
の、しかも熟練者が多い全日本のレースでビリからの逆転など、
普通はありえないことで、三原さんが引っ張ってくれたに違いない
ということ、今でも真剣にそう信じている。そういう意味で、乗って
はいなかった三原さんと私を濃密に結びつけるレースとなったわ
けだ。
今、この原稿を書いている机の脇に、大会でもらったメダルが
いくつか置いてある、その中でも、上記2つのレースでの優勝メダ
ルは、ひときわ光を放っているように見えてならない。
新艇の報告
岸田さんのシングルスカル宮ヶ瀬湖BCへ
宮ヶ瀬湖BC会員の岸田洋子さんから所有している1X、「最上」を
宮ヶ瀬湖BCで譲り受けてもらえないかとの話を受けた。保管艇庫
のスペースが無くなったそうである。執行役員は原則的に受け入
れる方針で、アームの使用について県スポーツ課と話し合いを始
めたが、2月の大雪で艇庫は約一月、閉鎖状態になり、全ての事
案が停止状態に陥った。
岸田御夫妻が使用していたなら、状態が悪いはずはないと思わ
れたが、艇受け入れ前の点検を、今は亡き三原さんと私がするこ
とになった。 3月24日午後2時に、保管場所の三菱艇庫で、岸
田さんと妹さんの杉原さんに迎えられる。 外部チェック後、三原
さんは「最上」を戸田ボートコースへ浮かべ、check ride。20分程
の漕艇中、スパンを広げるために取り付けられたスペーサーの影
響で最初はオールを切り込んでいたが、すぐに癖を掴んで通常の
漕ぎになる。試乗後食堂で「最上」の状態を岸田さんと確認し合
う。岸田、杉原姉妹からチョコレートケーキ、珈琲のもてなしを受
け、なぜか病気、病院選びの話で盛り上がる。 三原さんの心房
細動の話になり、「カテーテルアブレーションの手術を受けたけれ
ど、結果は変わらないんだ。 医者の話によれば一回目60%、2
回目80% 3回目90%の確率で根治するらしいのだけれど。」と
淡々と言われていたのを思い出す。あれほど健康に気をつけてい
試
新沼 邦恒
たのに。まだまだ治療の方法があったのに、三原さんの急逝は本当
に残念でならない。
4月24日、立花さんと石谷さんが2トントラックをレンタルして戸田三
菱艇庫へ「最上」を引取りに行く。二人共慣れぬ道を、何度も迷いな
がらの運送だったと聞く。本当にご苦労様でした。
艇整備責任者(エキスパート)の池田さんの点検結果は、三原さんと
殆ど同じだったが、運送中の振動からか、分割結合部からの浸水が
あることが判明した。アッパーデッキの木部ひび割れはガラス繊維と
樹脂で補強、キャンバス固定版の釘の緩みは釘の打ち直しと樹脂で
固定。リガーの角度調整はオールロックのブッシュの交換で調整済
み。靴は汎用性を高めるためサイズの大きいものに交換済み。船底
前方中央部に水濡れの影響が出ているので樹脂塗装で硬度と防水
強化を図る。分割結合部は、結合部を開き、木部表面の清掃、グ
リースアップで水漏防止予定。調整に少し時間はかかるが、宮ヶ瀬
湖BCの2番目の1Xとして、「最上」は会員に重宝がられるだろう。ち
なみに、「もがみ」は光祐さんの故郷の川「最上川」から命名されたと
聞く。あらためて、故岸田光祐氏と洋子さんに、思い出が一杯詰まっ
た艇を寄贈された事に感謝の辞を述べたい。天空海を光祐さんと三
原さんがゆっくりと漕いでいられる姿を想像し、心からのご冥福を祈
る。
合 報 告
全日本マスターズ(5月)
今年もマスターズにはエイトで参加しようとなり3月にクルー編成
をしました。コックスは熱情家で指導力ある児玉 元、整調は三原、
7小林秀次郎、6立花、5弓場、4正木、3長谷川訓好、2吉田、Bは
鉄人の谷藤さん。 平均年齢約69才
目標は「優勝、どんな事でも最下位は嫌だ」ということで4月から毎
土曜日と隔週水曜日に練習を開始。メニューは児玉さんに一任。
4月はスタミナ作りで徹底してロング漕を中心、5月はレースモード
横浜市民レース (4月6日)
宮ヶ瀬湖一葦会から混成エイト、混成クオド、男子クオドの三種目
に参加しました。クルーはクオドが児玉コックス、佐藤、今井、清
水、川上。混成クオドが三原コックス、村上、新沼ご夫婦、山口厚
子。混成エイトは児玉コックス、三原、小林秀次郎、弓場、新沼、
山口厚子、新沼順子、それにアメンボーから楠、和久田女史が入
り特別編成をしました。
横浜市民レース (7月27日)
梅雨も明けて35度の猛暑のなかで開催。最後は「雷が鳴り」7レー
スを残して終了。一葦会からは男子エイト、クオドにナックル、そ
れに混成エイトの4種目にエントリー。結果は男子エイトと混成エ
イトが優勝。
特に男子エイトは「三原さんを偲ぶ」という事で一葦会のなかで猛
弓場 常正
でスタート練習や500mを3回、1000メートルを1回漕ぎました。漕ぐた
びに「士気も自信も」上がりクルー全体に戦う男の顔付きになった
気がします。
本レースは900mで三原さんが倒れ残念、無念。悪夢であって欲し
いと今も思っています。応援、声援や代漕していただいた皆さんに
感謝お礼申し上げます。
弓場 常正
成績は混成エイトが大逆転で鶴見川マスターズに勝ち見事優勝し
ました。懇親会も盛上り、二次会は有志でカラオケへ。長谷川さん
の手振り、身振りの「恋のメキシカンロック」は実に愉しい、清水さん
の「北の漁場」はこれまた実に情感溢れ楽しい一時でした。
弓場 常正
者を選んで参加。見事60歳台の部で優勝(8クルー参加)しました。メ
ンバーはコックス児玉、以下は篠原、池田、大槻、百瀬、伊藤、長
野、河口、谷藤でした。
三原さんも喜んでくれたと思います。
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
活 動 報 告
シングルスカル教室
高山 修
7月19日に荒天等で延びていたシングルスカル教室を実施しま
した。
いくつか気が付いたことと、今後のスカル練習についてまとめてみ
ました。
会員の中からシングルスカルに乗りたいという希望が多く出てい
ましたが、初心者が1度に多くのシングルスカルに乗ると、救援
するのに時間がかかるためなかなか実施することができません
でした。皆さんの期待に応えるためモーターボートを出して、1度
に多くの人にシングルスカルを体験していただこうという趣旨で
今回シングルスカル教室を実施しました。
1、皆さんそれなりに漕げているので教室よりも回数を増やした方が
いいのではないか。
2、シングル3杯を交代で、全部で6人が妥当な人数だと思いまし
た。(1往復で何度も交代したのは着岸、離岸、乗艇、離艇の練習
をしてほしかったから)
山口さん、川上さん、藤田さん、鈴木さん、正木さん、中村邦男
さん、中村和子さんの7人が参加し、小雨がぱらつくあいにくの
天気でしたが、風や波が無く水面はベストコンディションの中、練
習することができました。
3、正面水域で、モーターとシングル1杯(私がのった)と船台の立花
さんで全体を見ることができた。4、今回はカヌーが出ていない、無
風状態という好条件での練習だったが、特にこの時期カヌーが出て
いるときのシングルスカル教室の実施には注意しなければならな
い。
艇を1人で持つときのバランスのとり方などの説明の後、実際に
艇を出し、乗り方、降り方の説明、フォワードからキャッチまでの
手の使い方などを説明し、グループに分かれて1往復ずつ交代
で正面水域を漕ぎました。
このことから今後は、2週間に1回ぐらいシングルの日を設け、初心
者を対象に、6人ずつの教室ということでなくSS漕ぐ日ということで
練習すればいいのではないかと思いました。(モーターと経験者の
シングルを配置)
モーターに弓場さん、佐藤さんが乗り、立花さんが船台から着
岸、離岸の指導をしていました。
希望者をリストアップして順番に6人ずつ乗ってもらうようにしたらど
うかと思います。(モーターとシングルからアドバイスはする)
乗り方、降り方の講習中
シングルスカル練習中
第三回 宮ヶ瀬湖遊漕会
7月21日(月曜日、海の日)に第三回宮ヶ瀬湖遊漕会が開か
れました。
遊漕会は厳密なレガッタではなく、並べをしたいクルーは、本湖
南面で並べを、漕艇と景色を楽しみたいクルーは湖上を、コック
スミーティングで指示された航路を漕艇する集いです。並べク
ルーもコースへの行き帰りには結果的に遊漕になります。遊漕
会は今年から申込先着順で使用艇が一杯になると締め切りま
す。ですから使用艇は大会中参加クルーの貸切となります。
参加者延91名、大会役員21名、総勢112名の大会となりま
した。
沈体験教室
今回は台風が四国に接近とのニュースを耳にしながら、ときど
き雨降る中、予定通り8月9日(土)に第4回沈体験教室を開講し
ました。
募集は8名まででしたが、多くの方々から参加希望をいただ
き、数名の方々にはお断りをしながらも、結局大人13名、小中学
生10名の参加を受け付け、午前と午後にフル回転してなんとか
終了いたしました。 シングルスカル漕者数は増加傾向にあるの
か、きれいな水を溜める宮ヶ瀬湖で沈体験をしておきたいという
新沼邦恒
並べは、2杯レースで、
エイト
2レース
クォード
1レース
ダブルスカル
1レース
ナックル
2レース
9時半の受付、故三原邦夫氏を偲ぶ黙祷、鍋島会長の挨拶に始ま
り、並べ、漫漕も予定通り行われ13時に大会は閉会。 閉会後は
宮ヶ瀬湖名物の冷やししるこが参加者に振舞われました。エイト4
杯、クォード4杯、ダブルスカル4杯、ナックル4杯、合計16杯が宮
ケ瀬湖、本湖に散開するのは珍しいことでした。
村上寛治
希望者が増えてきております。
参加者にはまずPC画面で“沈”からの回復ビデオを見てもらい、
それからNPO担当者による注意事項の説明、湖上にての実演
(沈、船腹への腹這い、水中からの回復)を経て各自に沈から回復
までの一連の動作を実践していただきました。 結果は船腹への腹
這いまでは殆どの方が成功、ボートを再度漕げるようになるまでの
回復は数名しかいないという状況でした。 皆さんには、実際に沈を
した際に混乱しないように沈そのものを体験してもらい、また体温の
宮ヶ瀬湖から
Page 9
風のたより
低下を少しでも防ぐために船腹に腹這いになる方法を習得してい
ただきましたが、同時に回復がいかに難しいかということも体験か
らしっかり学んでいただいたものと思っています。
子供ボート教室
今回の体験を活かし、「正しく”沈”を怖がる」ということを念頭にシン
グルスカルローイングを楽しんでいただくことを願っております。
新沼順子
2014年第一回子供ボート教室が、8月2日に行われた。気温26度、
水温27度と、都会の猛暑に較べると、過ごしやすい。3年目となる
志摩さんご一家が来湖。艇拭き用にと、何よりのタオルを一杯お
土産に。お嬢さんのこずえちゃんは、中学生になり、ladyへと変
身。はじめてのクオドへの挑戦。長谷川さんのコックス指導のも
と、エルゴからスタート。オール運び、オール装着、号令の基本な
ど復習した後、湖へと漕ぎ出す。整調志摩さん、3番こずえちゃ
ん、2番新沼、バウ志摩厚子さんで、まずはペアー漕ぎから。バラ
ンスのとり方をしっかり学びながら、鳥居原まで。40分程漕いでい
る内に、全員漕ぎができるようになる。始めてのスカルにしては、
新ユニフォーム 完成
揺れが少ない。皆、足で漕ぐこと、オールを握らないこと、キャッチ
では突っ込まず、静かに水面にオールを置くだけ、などと口にしな
がら、「気持ちが良い!」「最高の夏休み!」「周りを見ている余裕
などないはずなのに、きれいな景色!」「今年、初めて晴れた!!」
との歓声が。「何て水がきれいなの!」とこずえちゃんは何度も手で
水をすくう。小学校から始めたという百人一首の教室が土曜日にあ
るため、通常の漕艇日には、参加できないが、是非またスカルを漕
ぎに来たいと、目を輝かせる。いつかは、ダブル、シングルへとの
声を耳に、毎年成長していく子供達に会えるのが、子供ボート教室
の醍醐味だと、主催者側の喜びも一入であった。
立花 栄治
3年前に作成したミツバツツジ色のユニフォームが在庫切
れになったことから、新しいものを作ることになりました。作成
検討委員として川上利男運営委員が選出され、当クラブ役員
と一葦会メンバーにアンケートを依頼したところ、故三原邦夫
さん作成のデザインによるシャツが選ばれました。生地の色
は、若々しいライトグリーン。そこに黄色の丹沢山塊とミツバツ
ツジ色のオール四本。そしてクオドルプルを漕ぐ4人。宮ヶ瀬
湖の漫漕を楽しむいつもの仲間を想起します。レース会場で
も目立つ若草色ではないでしょうか。
各サイズ在庫の予備がありますので、1枚2000円にて追加注
文を受けつけます。会計担当新沼順子までご連絡ください。
事務局
(新沼順子連絡先 電話 045-592-0581
email: yoriko@dream.email.ne.jp)
2014年度の年会費納入状況と寄付金の御礼
会員の皆様には毎年の会費納入を誠に有難うございます。
7月末現在、正会員総数97名(含む故三原氏)及び賛助会員である
「ホテルときわ」と「神奈川中央交通」のうち、84名の正会員と2賛助
会員から年会費を納入していただいています。会費納入を失念され
ていると思われる方には再度納付書を送らせていただきますので、
何卒よろしくお願い申し上げます。
会計担当
新沼順子
ま た、今 年 度 も 引 き 続 き 寄 付 金 を 募 り、下 記 の 方 々 か ら 合 計
253,000円の寄付金をいただきました。あらためて御礼申し上げま
す。昨年度はエルゴ、オールの購入に充てさせていただきました
が、今年も既存の老朽艇及びオール等の維持整備に活用させて
いただきます。
宮ヶ瀬湖から
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風のたより
2013年9月〜12月受領分(2013年度寄付金計上)
池田 照樹
今井 義明
折井 正博
高原 茂雄
百瀬 弓子
山浦 博
海内 盤石
鈴木 政憲
2014年1月〜7月受領分 (2014年度寄付金計上)
秋葉 武志
池田 照樹
今井 義明
今田 智彦
大久保 敏治
大島 勇次郎
大隅 多一郎
折井 正博
海内 盤石
鎌倉 篤子
河口 道晴
河原崎 義雄
岸田 洋子
北澤 ちぐさ
工藤 忠
栗原 啓子
最所 崇文
斎藤 攻
佐藤 徹
佐藤 正雄
佐野 幸子
柴原 和紀
清水 賢介
杉原 惠子
鈴木 信太郎
鈴木 政憲
須永 定博
清田 眞一
高山 修
立花 栄治
館 次郎
田中 博三
田ノ本 一彦
坪井 教一
鶴野 省三
寺田 喜宣
豊田 収二
永澤 昭夫
鍋島 久夫
新沼 邦恒
新沼 順子
登里 貞治
橋本 俊之輔 華房 亥三夫
氷見 昌樹
堀口 仁
三原 邦夫
宮川 重
村上 寛治
村木 啓治
百瀬 道夫
百瀬 弓子
山浦 博
山口 厚子
山口 輝雄
弓場 常正
横山 忠雄
(敬称略 あいうえお順)
NPO宮ヶ瀬湖ボートクラブ 今年度新入会員(2014年1月~6月)
立花栄治
今年1月から正会員として次の10名の方々が入会されました。これで6月末現在の正会員数は97名となりました。いつ
でも、誰でも、漕歴に関係なく、歓迎しています。「一度漕いだら忘れられない宮ヶ瀬湖」というクチコミで広がっている気
がします。ぜひ、皆さん、晴好雨奇、風光明媚、明鏡止水、山紫水明の湖で漕ぐ喜びを広く伝えてください。新会員の皆
さんには、これから折りを見て自己紹介記事を書いていただきます。
・石井勝美さん
(一葦会・団塊号。相模湖でボートに出会い、今では初心者指導まで担当)
・正木信明さん
(団塊号・一葦会。全日本マスターズの一葦会エイトに出場)
・華房 亥三夫さん (鶴見川マスターズで活躍。鈴木信太郎さんのご紹介)
・川﨑友義さん
(団塊号・一葦会。全日本マスターズ・金メダリスト)
・田知本 治さん
(一葦会メンバー。オーストラリア在住。奥様は本格的オアズウーマン)
・吉田 章さん
(団塊号・一葦会。全日本の一葦会エイトに出場)
・守屋 敦夫さん
(あめんぼうで活躍。宮ヶ瀬湖行事に参加たびたび)
・小林秀次郎さん (団塊号・一葦会。全日本の一葦会エイトに出場)
・児玉 元さん
(桜艇会・団塊号、一葦会。全日本の一葦会エイト舵手)
・福田慎次さん
(団塊号・一葦会。漕艇だけでなく、写真・動画撮影者として活躍)
以上
お問合せは
立花栄治(宮ヶ瀬湖ボートクラブ事務局長)宛 電話:0462-88-2151
e-mail: ryoucha@fa3.so-net.ne.jp