2010 年6月 20 日 大阪空襲訴訟ニュース第8号 第 8 号 2010 年6月 20 日 ( 1 ) ( ) インターネットでも随時 情報を提供しています。 原告団・支える会 http://www.osaka-kusyu.org/blog/ 弁 護 団 http://o-bengosi.hp.infoseek.co.jp/osaka-kusyu/ 第 7 回口頭弁論で原告、弁護団が意見陳述 空襲は住宅地を狙った非人道的攻撃 原告の永井さん「戦争で人生を狂わされた」 「大阪空襲訴訟」の第7回口頭弁論が 5 月 26 日、大阪地裁で開かれました。平日 にも関わらず大法廷の100席近い傍聴席 は満席。兵庫県芦屋市の永井佳子さん(79) が意見陳述し、「戦争は平和な小市民の平 穏を蹂躙し、人生をも狂わせるものです」 と訴えました。 この日から裁判長が黒野功久判事に変 更となり、まず、弁論更新にあたって高木 吉朗弁護士がこれまでの弁論の概要を意見 陳述。続いて、篠原俊一弁護士が8人の原 告の被害の実情について詳述しました。西 晃弁護士は各地の空襲が無差別爆撃という より、住宅地を狙った極めて非人道的攻撃 であったという最新の研究を挙げた上で、 「正義と道理にかなう歴史的判決を」と訴 えました。 女学校の防空壕で被災 原告を代表して意見陳述に立ったのは、 1945年6月1日の第2次大阪大空襲で 大火傷を負った永井さん。その日の朝、永 井さんは当時通っていた大阪市内の女学校 で空襲に遭いました。避難した同じ防空壕 の中で同級生3人が命を落とし、永井さん も焼夷弾の炎で背中や足に大火傷を負いま した。満足な治療も受けられず、生きるか 死ぬかの瀬戸際で、母親は「女の子だし。 このひどい火傷では結婚もできない。いっ そこのまま死んだ方が……」と思ったそう です。 火傷で差別に苦しめられ 何とか一命を取り留めて迎えた終戦後 も、火傷によるケロイドに対する差別に苦 しめられました。銭湯に行けば「あの子、 皮膚病やから近くに寄ったらあかんで」と 言われ、深く傷ついたそうです。食料も、 家もなく、差別を受け続けたという永井さ んは「戦争は、私の人生を大きく狂わせま した」と訴えました。 最後に永井さんは、10 数年前、イラン・ DVD「大阪大空襲」上映会 7 月 17 日(土) 午後 1 時 30 分∼4 時すぎ ドーンセンター特別会議室 (地下鉄・京阪 天満橋駅より 5 分) 参加費:無料 主 催:大阪空襲訴訟原告団・弁護団・支える会 *作品紹介は 6 ページに 7 月31日(土) 午後 1 時 30 分∼4 時 難波市民学習センター (JR 難波駅のすぐ上) 参加費:無料 主 催:新聞「うずみ火」 (電話 0663755561 Fax0662928821 へ申込みを) ( 2 ) 大阪空襲訴訟ニュース第8号 2010 年6月 20 日 イラク戦争のテレビニュースを見て「かっ こいい」と言った男の子を見た時のことを 語りました。「花火のように見えるその火 の下で,どれほど恐ろしいことが起こって いるのか、この子は知らない。こんな子が 大きくなり、社会を牛耳る時代が来た時、 また『かっこいい戦争』を始めたら大変だ と思い、あの空襲で何が起きたのかをきち んと伝えたいと思った」と、裁判長の目を 見ながら訴訟の意義について言及しまし た。 最後に、黒野裁判長が、今年3月に亡く なった原告の小見山重吉さんの遺志を遺族 が引き継ぐことを確認し、この日の裁判を 終えました。なお、次回の裁判の日程はま だ決まっていません。 報告集会 「主人の遺志は家族が引き継ぎます」 小見山孝子さんの決意に拍手が 「今日は皆さんのお陰で法廷を満杯にで きた。ガッツポーズを取りたい」。閉廷後、 中之島公会堂で開かれた報告集会(約80 人参加)では、弁護団を代表して篠原俊一 弁護士が支援者に謝意を表明しました。 集会には3月22日に急逝した原告の小 見山重吉さんの妻、孝子さんも参加。「主 人の遺志は家族が引き継ぎます。原告の皆 さん、一緒に頑張りましょう」とあいさつ すると、大きな拍手が沸きました。 意見陳述した永井佳子さん(=写真)は 「冷静にならなければと思いながらも、つ い感情移入してしまった」とふり返りつつ、 「裁判官の目を見て話すことはできました」 とほっとした表情で語りました。 この日の口頭弁論では、新たに担当にな った黒田功久裁判長に対して西晃弁護士が 「空襲被害に真っ正面から向き合うこと」 を熱っぽく訴える姿が注目を集めました。 西弁護士はその理由について「実は黒田裁 判長は、同じ年に司法試験に受かった同期 なんです」と明かし、 「次回の口頭弁論(期 日未定、秋ごろ)からは原告や証人が法廷 で証言する『立証』のステージに移る。後 世の歴史家が、よくやった!と言える判決 を」と意気込みました。 控訴審で係争中の東京大空襲訴訟団から は、原告世話人の西沢俊次さんが参加し、 8月14日午後に東京・台東区民会館で開 かれる空襲被害者全国集会の成功を呼びか けました。この日、初めて開廷前の街宣活 動に参加し た作家の大 垣さなゑさ ん は「 こ の 裁判は判決 に至る過程 そのものが、 次世代が平 和を考える 遺産になり ます」とエ ールを送り ました。 *今回の原告永井佳子さんの意見陳述や弁護団の主張、これまでの7回の口頭弁論の 資料は次のホームページからダウンロードできますので、ご利用下さい。他にも多く の資料が掲載されています。 http://o-bengosi.hp.infoseek.co.jp/osaka-kusyu/ 2010 年6月 20 日 大阪空襲訴訟ニュース第8号 ( 3 ) 今後の裁判の進行について 秋から証人尋問、本人尋問が始まります <1>これまでの訴訟の中で、我々弁護団 は、原告一人一人の方の被害状況のほか、 国に対して謝罪と賠償を求める根拠を詳細 に展開してきました。 今後は、その主張を裏付けるため、原告 の方々の本人尋問や、専門家の先生方の証 人尋問が行われる予定です。専門家の先生 に関しては、東京大空襲訴訟で証言された 先生方とは重複しないようにします。 <2>原告の方のうち何人の方が証言する のか、専門家の先生は何人にするのかなど、 詳細はまだ決まっていない部分が多いので すが、現段階において、弁護団で考えてい る大まかな予定をまとめると、およそ以下 のようになります。 ①戦前・戦時の先行行為に関する証人1名。 戦時の防空法制の下で、国民がいかに縛 り付けられていたかを浮き彫りにします。 国はこれまで、軍人は戦地におもむいたの だから補償があってしかるべきだが、銃後 の一般国民には補償がなくとも仕方がな い、との立場をとり続けてきました。しか し、戦時の防空法制は、国民が軍人と同じ ように、国のために闘うことを要求しまし た。「軍官民共生共死の一体化」とは、単 なるスローガンではなく、現実に法律の力 で強制されていたのです。 このようなことを、当時の状況を踏まえ て具体的に証言したいただく予定です。 ②戦後の立法不作為に関する証人1名。 戦後、空襲被災者に対する補償立法は制 定されないまま現在に至っていますが、他 方で、一部の類型の人たちは救済され、そ の不平等は無視できない程度に至っていま す。 このあたりのことを証言していただける 証人を検討中です。 ③原告本人尋問 弁護団としては、できるだけ原告の方全 員に証言していただきたいと考えています が、裁判所が何人の尋問を認めてくれるか はまだ不明です。 <3>9月2日、裁判所で進行協議期日が 予定されており、この場で、裁判所と双方 の代理人が協議して、証人を何人尋問する か、原告本人は何人尋問するのか、どのよ うなスケジュールで尋問するのか、等の点 が裁判所で決まっていくことになります。 その後、秋ころから尋問が始まることに なると思われます。引き続き、多数の傍聴 よろしくお願いいたします。 (弁護団事務局長 高木吉朗) 裁判を傍聴して すことは出来ません。 原告の皆さんが青春を!!元のからだ を!!そして家族を返せ!!と身を乗り出 し、涙ながらに訴える震えた怒りの後姿を 見たとき、思わずこぶしを固く握りしめま した。 この訴訟を絶対時効にしてはならない。 これからも皆さんと共に勝利する日まで戦 いの道を歩んでゆくつもりです。 思わずこぶしを固くしめた 矢崎 正一(大阪市西成区) 『正義のための侵略戦争なんてありえな い』、私の持論です。 共存共栄に名を借り、軍と財閥が時の権 力を使って引き起こした戦争、そして国民 の財産と命を奪い、傷つけたことは絶対許 ( 4 ) 大阪空襲訴訟ニュース第8号 2010 年6月 20 日 追悼・小見山重吉さん 取材に訪れた記者に「ぼくのような目に遭わせた くない」(毎日新聞・立石記者)、「国から謝罪を受 けるまでは死ねへん」(朝日新聞・武田記者)と熱 く語っていた小見山重吉さんが急性肺炎で死去した のは今年3月22日。原告団の先導役でもあり、精 神的支柱だった小見山さんを失ったことは訴訟関係 者にとって大きな痛手ですが、小見山さんの遺志を 受け継いで闘い続けること誓いの一文を原告団代表 世話人の安野さんに寄せていただきました。(写真 は 07 年5月、大阪駅前で不自由な右手を差し出し ながらマイクを握る小見山重吉さん) 小見山重吉さんを偲んで 霊前にいい報告を届けたい 大阪空襲訴訟原告団 代表世話人 安野輝子 小見山さんが脳梗塞に倒れたのは、大 阪空襲訴訟を起こす手だてを探していた 2007年10月。 当時、仲間の中で最年長だった小見山 さんは「原告団長」になるはずだった。 私たちは一瞬、どうしょうと立ちすくん だけれど、裁判が実現したら小見山さん は、きっと元気になってくれると信じて 弁護士探しを続けた。何人もの弁護士に 断られた末、08年夏、高木吉朗弁護士 に引き受けて頂けることになった。それ を伝えに行くと、車椅子で現れた小見山 さんは「長かったなぁ。やっと裁判がで きるんやなぁ」と涙を流して喜ばれた。 やんちゃ坊主のまま大人になったような 笑顔が、今も脳裏から離れない。 * * 小見山さんは、1945(昭和20) 年3月13日の大阪大空襲の焼夷弾で顔 や手足に大火傷を負った。 「わしの青春は15歳までやった」 「朝、 顔を洗おうと洗面所に立てば、いやでも 顔のケロイドを見てしまうんや」。 曲がった指をかざしながら嘆き、謝罪 も補償も拒絶する国に憤った。それで も、なにくそ!と不自由な手で金型製造 工場を切り盛りし病に倒れる日まで働き 通した。そんな小見山さんが懸命に生き た日々に、なんの手も差しのべなかった 非情な国に、怒りと失望を改めて感じて いる。 * * 小見山さんが法廷に来られたのは1回 だけだった。提訴前後の猛烈な忙しさに、 お見舞いに行くのもままならなかったこ とが悔やまれてならない。「孫を同じ目 に遭わせられん。2度と戦争を起こさせ んようにせなあかん!」。 小見山さんが人生をかけて達したその 教訓をたくさんの人に知ってもらい、ご 霊前にいい報告を届けたいと、今は思っ ている。 2010 年6月 20 日 大阪空襲訴訟ニュース第8号 ( 5 ) 今でも大事に、2 枚の診断書 原告 藤原まり子(東住吉区 65 歳) 大阪市東住吉区 の藤原まり子さん (65)は今でも、2 枚の診断書を大事に 保管している。 「い ずれ役に立つ時が来 るから」と母が持た せてくれたもので、 <去ル三月十三日、焼夷弾ニヨリ第三度火 傷ニシテ加療セシコトヲ証ス>と書かれて いる。 国が起こした戦争で娘が左足に大やけど を負った。いつの日か補償してくれるはず ――。そんな母の願いは今もかなえられて いない。 誕生の 2 時間後に防空壕で 藤原さんが阿倍野区の自宅で生まれたの は 1945 年3月 13 日の夜。その2時間後、 母とともに運ばれた防空壕に焼夷弾が直 撃、産着に燃え移り、左足に大火傷を負っ た。 無慙なケロイド状態で、指のない足先は 変形し、ひざの関節は曲がったまま。成長 とともに左右の足の長さに違いが出てきた ため、小学校への入学とともに左足に補助 具をつけ、それを隠すために太目のズボン をはいて通学した。 「私の足がみんなと違う」と意識したの も、そのころ。母に尋ねると、「戦争でケ ガしたんや」。辛そうな表情を見て、聞い てはいけないことと幼心に悟った。 銭湯で小さな男の子から指差さされ、 「変 な足」と笑われたことがある。たしなめる でもなく、男の子の母親はこう言った。「悪 いことをしたら、あんな足になるんやで」 と。 泣き寝入りはしてはいけない 「私が悪いんやない、戦争が悪いんや」 という言葉は、声にならなかった。 義足をはめるために左足を切断したの は中学2年の時のこと。「スカートがはけ る」と思うと嬉しかったが、それ以来、義 足が傷口と擦れて痛みが襲う。 「戦争さえなければ、自分の足で思いっ きり走ることができたのに。何より『私な んか、みんなに迷惑をかけるだけ』という 無力感を抱えることもなかったのに、と戦 争に対する怒りや悔しさが消えることはあ りません」 藤原さんは、30 数年前から国家補償を 求め、不自由な足で奔走してきた。そして 仲間たちに呼びかけ、提訴。戦後の歩みと ともに齢を重ねてきた、最年少の原告であ る。 「私たち一般の戦争被害者には、国はい まだに謝罪も補償もしていません。どうし て我慢を続けなければならないのでしょう か」と訴える藤原さんはこうも言い添えた。 「子どもや孫のためにも泣き寝入りはし てはいけないと思っています。あの戦争を 風化させないために、これからの子どもた ちの平和のためにも」(聞き手 矢野 宏) ( 6 ) 大阪空襲訴訟ニュース第8号 2010 年6月 20 日 「記憶」を「記録」として残す 大阪大空襲の DVD 全 5 巻が完成 「新聞うずみ火」が、大阪府の委託を受 けて制作していたDVD・ビデオ『大阪大 空襲』(全5巻)が完成しました。「大阪空 襲訴訟」の原告を含む 34 人が語り継ぐ証 言映像で、大阪市中央区の「ピースおおさ か」などで平和学習に役立てられています。 大阪が焦土と化した、あの惨劇から 65 年。戦争を知らない世代が人口の4分の3 完成したDVD・ビデオは、第1次大空 を占め、空襲そのものが歴史のひとコマに なりつつあります。空襲被災者の「記憶」 襲の「3月編」が2巻、第2次から第5次 大空襲の「6月編」が2巻、第6次から第 を「記録」として残すことで、戦争は何を 8次大空襲の「7月・8月編」が1巻の計 もたらすのか、空襲で誰がどのように亡く 5巻です。当時の資料映像も使い、わかり なっていくかという想像力を一人ひとりが やすい作りになっています。貸し出しは 取り戻してほしい――。そんな願いを込め て、昨年 11 月から5カ月間、事前取材や 「ピースおおさか」(☎06・6947・ 7208)まで。無料です。 インタビュー、撮影、編集などの作業を進 (上映会の案内は 1 ページに) めてきました。 6 月 7 日の第 3 次大空襲で関連行事が開かれる 「大空襲65周年東淀川のつどい」が6 月5日、大阪淡路教会(東淀川区)で開かれ、 原告4人が参加しました。同区や都島区、 旭区などが火の海になった「6月7日空襲」 (第3次大阪大空襲)の被災者3人が体験 を証言。その1人として原告の小林英子さ んが、母や弟を見失うなかで足に大けがを 負い、65年間、曲がらなくなった不自由 な足で生きてきた苦難を語りました。 □ □ 「6月7日空襲」で亡くなった518人 の名前を刻んだ戦災犠牲者供養塔がある崇 禅寺(東淀川区)で6月6日、慰霊法要が ありました。支える会から矢野宏代表らが 参列。読経のあと、鎮魂歌として「千の風 になって」の尺八演奏があり、涙を誘いま した。母、妹、姪の3人を亡くした中田豊 子さん(75)は「65年たっても悲しみ は消えない。体調が悪く、毎回これで最後 という思いでお参りしています」と話して いました。 □ □ 6 月 7 日に旭区の城北公園では千人塚慰 霊法要が行われ、法要の前には近くの城北 小学校から校長を始め教師、児童ら 200 人が参列、千人塚の主宰者東浦栄一さんが 子どもたちの当時の様子を語りました。手 塚治虫の 6 月 7 日の空襲体験を調べてい る摂津市の菅富士夫さんは、「こども達が 65年前のこの地域で起こった悲惨な出来 事を知ることはとても意義あること」と感 想を語っていました。 2010 年6月 20 日 大阪空襲訴訟ニュース第8号 ( 7 ) 大阪空襲訴訟・関係団体の主な活動記録 2010 年3月下旬~6月上旬の主要な取り組みを掲載しました < =原告団 =弁護団 3月17日 3月21日 22日 4月 1日 4月 3 日 4月16日 4月16日 4月24日 5月14日 5月18日 5月19日 5月21日 5月26日 6月 5日 6月 6日 6月 8日 6月12日 6月19日 =支える会> 大阪弁護士会で戦後補償問題に関する研修に参加 小見山重吉さん通夜 同 告別式 弁護団会議 高槻革新懇学習会(森永) 弁護団会議 ピースおおさか特別展「焦土大阪—写真で見る大空襲」へ原告 16 人 大阪中央法律事務所で空襲交流集会(奴井、安野、永井) なにわ 9 条の会 5 周年記念集会(森永、安野) 弁護団会議 進行協議期日 3 者合同会議 証人尋問予定者との打ち合わせ(井関、高木) 淀屋橋で街頭宣伝 第7回口頭弁論 報告集会(中央公会堂) 大空襲65周年東淀川のつどい(小林、山岸、渡辺、安野) 民主主義と人権を守る府民会議・大阪空襲訴訟と反戦平和の闘い(藤原、矢野) 弁護団会議 訴訟ニュース編集作業 訴訟ニュース発送 写真で見る訴訟関係の取り組み ② ④ ① 5 月 26 日裁判の始まる前に淀屋橋で 街頭宣伝 ② 6 月 5 日大空襲65周年東 淀川のつどい ③ 4 月 24 日中央法律事務 ① ③ 所主催の大阪大空襲交流会で原告 ④ 6 月 7 日城北公園の千人塚慰霊法要 =原 告 =弁 護 =支える ( 8 ) 大阪空襲訴訟ニュース第8号 2010 年6月 20 日 (仮題) 『大阪大空襲ものがたり』の創作・上演の企画 来年 3 月半ば、第 1 次大阪大空襲の頃を予定 昨年7月、堺空襲を描いたミュージカル 『炎の街から』 (=写真はステージの一場面) からの上演運動は、1870名の人々に観 ていただき大成功しました。この取り組み を通じて大阪空襲訴訟に関心を持つ方が増 えたことは間違いないと思います。私自身 も、大阪空襲訴訟の裁判を傍聴させていた だくようになりました。 この訴訟も来年は結審・判決が予想され ますます重要局面を迎えることと思いま す。これに向けて、できれば来年3月半 ば、大阪大空襲の3月13日頃に照準を合 わせ、ミュージカル風のお芝居を創作・上 演し、広く大阪空襲訴訟をアピールしたい と企画・準備中です。 (劇団きづがわ 代表林田時夫) 訴訟 2 周年のつどい 日時:12 月 8 日(水)PM6 時 3 0 分〜 会場:ドーンセンターホール(7 階) *詳細は未定ですが、8 月中には決めて お知らせします。 原告が語り部に、弁護士が裁判の意義を解説します 地域や職場、団体の平和の催しに出かけます 多くの方に、空襲の体験と戦後の苦しみを知っていただきたい、裁判の意義は何 なのか理解を広げたいとの思いで大阪空襲訴訟の23名の原告や13名の弁護士、 そして支える会の事務局のメンバーが「出前」します。 これまでも多くの地域、団体からお招きをいただきましたが、よりいっそうその 活動を広げて行きたいと考えています。手頃で分かりやすいパンフレットもできま したので、あわせて活用をお願いします。 お申し込みお問い合わせは、訴訟関係連絡先までお願いします。 原 告 団 安野輝子=電話& FAX.072—271—5364 〒 593—8325 堺市西区鳳南町 5—517—69 メール genkoku@osaka-kusyu.org 弁 護 団 高木吉朗=電話 06—6942—7860 FAX.06—6942—7865 〒 540—0033 大阪市中央区石町 1—1—7 永田ビル4階 大阪中央法律事務所内 メール bengo@osaka-kusyu.org 支える会 谷川 眞=電話 090—3357—4635 FAX.072—253—3340 〒 591—8021 堺市北区新金岡町 4—2—10—506 メール sasaeru@osaksa-kusyu.org
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