西岡本遺跡発掘調査中間概要 日 がつけられていたはずであるが、その名称(﹃イチヤ マ水車﹄か っ)が分からないいま、この水車に字名 を付して﹁野寄大山田水準﹂と命名しておく.水車 遺情は﹁沌歪﹂と呼ばれる水車回転部の滞状遺情と 水車小屋内の諸施設に分げられる。旧の水車遺附を 5 Dll、新の水車遺構を5 Dl2と呼称する。 om、深さ二一五 5Dliは長さ五 ・二m、幅八 回の開渠をもち 、その先は﹁く﹂の字に折れて幅五 が沌謹と呼ばれる水車回転部である。 omの暗渠となって下疏へ流れている。この関東部 もので、その後日本人の手を経て、昭和の初めには は、この建物は明治来頃ドイツ人プレン氏が挫てた 代洋風迎築物調笠報告内)。地元の問主取り調査で 式遺備や、竃遺州刑、 材料保管用の土崎明、排水用の土 関連遺榊としては﹁アンドン﹂と呼ばれる半地下 三間(五 ・四m) の水車が回っていたという。 の関知部(滝箆)が現在まで口を聞けており、直径 5 Dl 2は、長さ五 m余、幅一 m、深さ一四Om 西岡本遺跡は神戸市東護区西岡本六丁目八 ・九 ・ ドイツ人 肋 シュネル氏が居住し、昭和四二、三年ご 発掘調査は、六甲山猿遺跡調査会(代表橋本久) 則性はない。規模は、主屋が一五 ・一×九 ・二m、 長手積 ・小口積 ・イギリス僚 ・フランス般などの規 A + ・・ の三 都類 の刻印があ り、そ の横み方には 煎り、蒸すための施設である。 時叫遺構は、灯火用の 泊 の材料になる菜種平綿実を は敷石に石灰の漆喰が施さ札ていた。 るい分ける選別機で、一間四方の部屋を二h三つな いだも のである 。笠は石積みと漆喰で つくられ、床 アンドンは菜租 ・綿実の怖さ粉や白米とぬかをふ 管とマンホー ル遺栴 などを 検出した。 一 O に所在し、マンション建設工事に伴う確認調査 基礎はモルタル ・レンガ造りで、主屋と付属医に が昨年一二月一九白から一一ヶ月間の予定で、神戸 付属屋が一 0 ・五×六 ・三mの全長二八 ・八五 mを 分かれ、それらは廊下で結ぼれている。レンガには 市教育委員会の指導のもと実服している。調査は地 また、材料保管用の土墳の一つからは炭化した綿 , o 突を採取した。さらに拙用のぬき臼と履き臼、油絞 形上 二回 に分けて行なっており 、本報告はその第一 主屋の中央には隠炉台が白かれ、南向きの居間には りの重し(正当石 )を検出しており、竃遺構との関 六回・山麓の水車は 、元禄末から宝永年間(一七00 江戸時代後期には機業していたことは確かである。 11の始業時期は詳らかではないが、出土遺物から つぎに水車の椋働 時期についてみてみよう。 S D n 出窓が設けられている。間取りについてはある程度 迎が注目される。 測り、主屋の北側に五 ・五三一 ・七mの厨房がつく。 二、プ レン(シ ュネル )邸跡 調査 地 の最上段に残る典 人館 の基礎 である。日本 三、野寄大 山田水車遺構 建築学会 近畿支部 ・神戸洋 風建築物調査特別委員会 が神戸市域の調査を実施した一九 七凶年にはまだ建 物が残っていたらしく 、 一覧表に﹁元シユネル邸 ・ 段から検出した。水車小屋にはそれぞれ固有の名称 南北に並行した新旧二基の水車遺併を調査地の下 木造二階怨﹂ と記されている ( 神戸市内 における近 推定できたが、紙聞の都合よ、図 ーを参照のこと。 回目の調査概要である。 はその扇状地の股上段に立地する。 にきれいな扇形をした扇状地を形成しており、迎跡 で発見された。その位置は 、住吉川がちょうど六甲 六甲山麓遺跡調査会 ヒ イ ろ亡くなられた後は廃虚になったとのこと。 一、は じめに 史 料 館 i7 浩 文 m T 川 〉舌戸濃江 網 売 行 師 山中 から抜け出た左岸にあたる。 住吉川は六甲山認 1 9 8 9・8 ・1 0 只合は両横とむ未踏閉山であるが、石室の上半部は削 室の石材は六甲山産出の御影石を用いている。残存 五O 叩にかけて 散乱しており、惜 の大きさはI号境 残っていた。桔の鉄釘はその腔骨のあたりから奥蛍 棺台はなく、奥壁から二 mのところ に腔骨の 一部 が 5Dー ーが含まれて とほぽ同じに考えられる。また、石室の 入口には閉 頃1 一七一この頃住吉川水系の野寄村に六両築か れたのが段初といわ れており、 った。 ており、その周聞に惜の鉄釘が散乱していた。石室 していた。石室の中央には相台の石が 二個設閉山され 副葬品は引割前応部ばかりで、奥笠部に杯一組、右貯一 に杯 一組 杯 身 挺 版 、 左 壁 に 府 の 七 点 が 納 められ 時刻は l号墳よりもやや古い様相をむ つものが混 ていた。 1号噴 同様、埠おはない。 の範晴でとらえられる。 じるが 、総体的に見て 1号墳同様TKl209型式 以上が一回目の調査で 冊認した主な遺構の概要で 五、お わ りに ある。野寄附肘相指尉の 1 ・2号噴はその副弊口叩から六 世紀末闘の古漬であることがわかった。しかし、 1・ しており、柏輸はいずれも須芭質で、タガの形態主 2号墳 に伴わない家形埴輪、円筒植輪、金環が出土 副葬品は石室の奥蛍部に須恵器(杯一組 塞石が数点認められた。 1 三段の石積みしか残っていなか 平されており 、 一 潰丘は径七 mの正 円形に つくられ 、周聞に一 ・五 m前後の周溝がめぐらされている。古墳の築造方法 i 境﹀ 八 号 いた可 能性は捨てきれない。その後、明治の 末頃に 当地に梨人館が迎てられるにおよんで廃業したもの と思われる 。 そして、これに代わってその東隣に5 SDl2は酒造用の米車として稼働していたとい D12が つくられて 、操業 を継続したようである。 る方法をとっている。 うことであり、検出した遺梢 ・遺物に鑑みてSDl 、は地山に二Omほどの土を入れて整地した後、石室 梢築部分を閉山り くぽめ、石室を築いてから噴丘を盛 lは 灯 火 用 の 油 車 と し て 操 業 し て い た と 考 え ら れ る。 m、嬬一 m、最大高さ六七叩、 二段の石積みが残存 標高七=一mあ たり に東西に 二拡並んで検出 した。 石室は無制式の横穴式石室で、鋭校は長さ凶 ・二 園、野寄群 集墳 商から l号境、 2号境 と命名 したが、さらに2号境 。 の入 口部に は凶器石が数点見られ る m ・高 の東側に古墳 らしいマウンドと周溝の一 部 を確秘し ・五 川、幅七、八Omと推 ており、等高線にそって三基以上並んでいたものと 釘の位白から長さ二1 杯 ・挺瓶 ・議資)ばかり六点である。憾 の大きさは の調査に期待が寄せられる。 紀にわたって築かれ絞けた群集墳と考えられ、今後 存在するようである。このように野寄併銀墳は半世 どからV則に鴎し、六世紀前楽につくられた古噴が 思われる 。 この地区は昭和五 ・六年頃に区画整理が v 時期 は陶邑古申出社併編年のT K 209型式に 比 一 一 群はない。 定できる。追一 実施されており、その際調査地の西隣から 二基の 繊 穴石室と須恵器などたくさ んの 造物 が出土したと い われ、さ ら に新落合橋南東詰め には ﹁ミナ塚﹂と時 定できる。 また、純文時代の石銑や弥生土器、緑利陶器など ばれていたマウンドがあ ったとのことである。﹁ミ ナ 境丘は南北八 m、東西七 mの楕円形を呈し、 1号 A2号墳 なっては古漬の有無は確かめられないのが残念であ れの時代 の遺 梢が検出さ れる可能悩もある。 も出土しており 、今後の調 査如何に よってはそれぞ 塚﹂ は昭和 ご二 年の大風水瞥で流出した た め、今と には周期間は認められない。古漬の築造方法は土砂取 噴問機周溝がめぐるが、かなり不整形なうえに東側 ある。(文訂浅間俊夫) 機会をえて、二回目の 調査 概要も報告す る予定で るが、この辺りに十基以上の古墳が存在していたよ り土を入れて技地し、石室設出部分を岡山削した後、 りなどで馬蹄形にえぐれたところに 二、 三Omばか うである 。表 六甲では山礎的酬 に 沿 って岡本搬林群集 墳、鴨子ケ原 群集績などが知られて いる。おそらく 存高さは段高七八 叩、 三段の石 税みが認められる 。 石室 の術進 ・規模は 1号境とほぼ同じである。残 石室を築き、封土を盛 っている。 この野寄にも群集境が築かれていたで あろう。そこ でこれ を野寄群集境と呼ぶことにした 。 1 ・2号噴とも古噴の形態は、同規模 ・同形式で あり、どちらもほぼ真南に閉口して いる。古績の石 - 2ー 日納 l J i . 1 1 1 " 〈主屋〉 L l 1 i J非 4 玄関 土管 U J// 図 1 ブレン邸基礎配置と間取り図 @ 甘 〈付属屋〉 雨落土管 風呂 食 1 品 暖炉台 け閏 居間 ・応接間 主L 便所 暖炉台 廊下 居間 。 5 1 0 写真 右 1 ・ 2号墳全影 左上 2号墳石室内遺物出 土状 況 左下。 5 0ー 1 (水車滝萱)全影 3- 最い女子 主て 太 ?郎 ? 家 史料館研究員 卓 でちょうど百年。このような、神戸市、また、東灘 谷 同展の展示の一部にあてた次第である。その際、展 ご協力により、同家の所蔵する持軍な資料を惜別し、 よれば、この 建物 は総てられてから少なくとも約三 格的な立茸きの建造物である。同家所蔵の文瞥等に 岡本 村全国よりヘポ ソ塚 の位 置 誕生した。また、この時東灘区の前身である旧五ケ 百年は経過しているという。 この特別展では、東灘区の旧家 ・井上好太郎家の の特別展を企画したのである。 町村(御影町 ・住吉村 ・魚崎村 ・本山村 ・本庄村) はたんに名称の羅列にすぎず、十分なものとは言え てれでは、特別展で展示した井上家所蔵の資料を 三、資料解脱 水車業を営み、江戸時代には旧岡本村(中世宋にで た年代が記されていないが、同家にはこれとほぽ同 色塗りの岡本村の絵図である。この絵図には拙かれ 縦一五八句、繊一 O五勺の絹布の上に拙かれた、 川岡本村全 国 紹介することにしよう。 きた郷村で 、明治二二年の町村制施行で旧本山村の 中心とを つて 分類整担を行ない、その全貌が明らか の文献に関しては、数年前市史編集室の木南弘氏 が をはじめ多数の文献を所蔵している。こうした同家 そのため、旧岡本村の村政や水車業に関するもの 図には記されており 、そ の頃 界についてもこの絵図 消え去ってしまった古い集落名(小字名)がこの絵 のと 思われる 。 なお 、 町名変更のあおりで、今では地図の上から 絵図があることから、これも同年代に制作されたも じもので明治八(一八七五)年制作の文字が人った にされた(同家の文献目録については ﹃ 判戸市文献 から明らかにすることが可能である。 証明してくれている。それはヘポソ塚の向きと形状 ところで、 この絵図は非常に重要なことを我々に 史料第八巻﹄l昭和六 二年三 月、神戸市教育餐民会 努めてきた旧家である。 一部となる)の庄屋 ・年寄を、明治時代には戸長を 東灘区岡本七 丁目にある井上好太郎家は近世から 示品解説を行ないたいと思う。 二、井上 好太 郎家 に ついて なかった。そこで、本総をお借りして、その時の展 示資料の出品目録は会場において配布したが、それ b も同時に誕生している。それか ら、今年 の四月一日 れた市制 ・町村制に基 づき、神戸市が産ぷ声をあげ 一八八九(明治 二二)年四月一目、前年に公布さ 区にとっても時代の大きな節目となる年に我々の街 己に井 事つ上 史料館では本年度特別展 の第一弾として﹁東灘の 型料・ の歴史を振り返ってみようというねらいのもと、こ 品資村 歴史﹂展を開催した(凶月 二九日1六月 二五 日)。 一、はじめに 道 なお、同家の家屋は都会の住宅地には珍しく、本 発行を参照されたい)。 4 所旧 蔵岡 の本 井上京全景 の西北西向きの 辺侭人﹃東獲歴史散歩﹄一五頁参照 )に よれば、こ 阪急とJR の間にあ った古墳である。文献など(田 である。ヘポソ原(嗣保目線)は現在の岡本一丁目、 ことにする。 も可能であるのでそちらの方について解説を加える ある。残りの一枚については保存状態が良好で解説 が消えかかっており、肉眼での解説は非常に困難で 二枚の太政官札が所蔵されているが、うち一枚は字 寛永末から究交年 間 にかけて領内の広範聞にわたっ 三 五 ( 寛 永 = 乙 年 背 山 幸 成 が 尼 崎 藩 主 になると、 一六六三 (寛文三)年に行なわれた岡本村に閲す の古漬は古漬時代前期の全長六 O μ ヘボソ塚の様子から、明らか に へポソ原は西北西向 に等しかった。ところが 、 この絵図に記されている してしまった現在、そのことを証明するものはない 政府は施政方針として一八六八(慶応四)年三月一 の第一傍の三箇条である。江戸幕府滅亡後 、明治新 この太政官札は明治新政府 が出した﹁五傍の掲示﹂ については﹃本庄村史資料編第一巻﹄三七頁以下 がうことができる。(尼崎漆の 寛文検地に関する意義 で、このあたりの太閤検地以降の土地の変化をうか に豊臣秀吉が行なった太閤検地以来の大規艇なもの て検 地を 行なったの である 。 この験地 は一六世紀末 岡本村は江戸時代、尼崎務の領地であった@一六 る検地械である。 前方後円墳であったとされている。が、古墳が消滅 きに迭られ、その形状む前方後円墳であるというこ 四目、﹁五箇条の御誓文﹂を内外に公布した。そのと を車吉岡⋮ )。 とが斑明されるのである。 古による新しさを見いだすことはできない。 き同時に民衆に対して示されたのがこの指示であ る。内容は旧幕府の禁令を踏襲しており阿ら王政復 明治新政府の段高行政機関である太政官が出した ω太政官札 UR山河川 ι 小 5ー なお、三筒条のうち、第一糸には五倫の道(儒教 A3 4AWB 監理a n e t ・77 trezS訂主 ab ,団長 F elj i j 3 岡本村検地帽 で、人の守るべき五つの近、すなわち、君臣の設 ・ 父子の親 ・夫婦の別 ・長幼の序 ・朋友の信のこと) が強調されており、第 二条ではみよ りのない者や病 気の者を倒れむ ことを、第 三条は殺人 ・放火 ・窃磁 以下にこの太政官札の全文をあげておく。 の祭止をうたっている。 ﹁定 a FZ 市i z匂括主 ・ ha ゆ心i 陶 坦 dEh , eaM j ' e A雀 e o n -e必KOAnAr z リJ パZ ¥ i l / , " ¥、ノ 一 人堂留もの 五倫之道を 正しく春週起事 銀寡孤独廃疾の ものを倒れむへき事 人を殺し家越焼き 財を踏む等之恕柴 太政官﹂ 慶応四年三月白 あるましく事 ω岡本村検地帳 ノ ト 、 • ‘へ ・ 、 . > 曳 r " メ A 高札のことを総弥して太政官札という。井上家には 太政官札 その時作成された検地帳がこの資料である。なお、 このような尼崎潜の検地に関しては、岡本村でも これらニつの資料はいずれもこの付近の水車業を営 武庫菟原両郡米純水車事業組合規約魯﹄を展示した。 業会成議録﹄と一八八七(明治二O ) 年の﹃摂津国 について解説してきたが、問家にはこの他にも数多 特別展﹁東灘の歴史﹂展で展示した井 上家の資料 あったことをうかがわせてくれる食料である。 四、おわりに のであるうが 、こ のあたりにまで大塩の 乱の影響が の庄屋であったため、このようなものが残っている に付き触宙写﹄を展示した。当時、井上家が岡本村 及び、大嵐の乱を取ワ締まる法令の写し﹃大塩の乱 起を呼び掛けた文の写しである﹃大塩の乱倣文写﹄ 兵したものである。その時、大塩が農民に対して決 の私塾﹁洗心澗﹂の 門下 生や近郷の農民を集めて挙 元与力の大塩平八郎が、それを無視されたため、彼 天保の飢餓の際、その救済を懇願した大坂町奉行所 に閲する資料も展示した。この乱は、前年におきた また、一八三七(天保八)年におきた、大塩の乱 む者の同業組合に関するものである。 前述の通り一六六三(究文三)年に行なわれており、 附本村の検地を行なったのは次の藩主の青山幸利で 背山幸成は一六四三(究永 二 O ) 年病没したため、 ホY 旧県庁舎(現 ・兵庫県公館)の平面図である。こ 。 。川兵庫県庁舎平面図 の旧県庁舎は一九O ニ(明治三五}年五月、最初の 県庁舎として建築されたものである。こ の建物は近 あるが、第二次世界大戦で大きな被害をうけ、戦後 世フランス式ルネサ ン兄の様式を取り入れた作品で ている。 兵臨港に閲しての遊歩の区域を規定し、 一八七六(明 関して、引上家では将来的に同家の立政きの建物を くの貨盟な資料が所蔵されている。これらの資 料に 兵庫に関する遊歩区域はこの図によれば、東は川 治九)年に作成されたも のである。 に岡本村の南に位置した田中村にあった岡本村の飛 そのまま民俗資料館にして、展示 ・公開する計画を 都市化がますます進み、古い家が取り壊されてい 持っておられるようである。 く中、こうした文化財を次の世代へ継承して行くの 弥陀、北は川辺郡大原野、品紀郡川原 ・ 宿・ 八上下 ・ としている(兵庫の居留外国人の遊歩区域に関して 谷 ・犬飼、多可郡岡高 ・明楽寺 ・償尾 の各村を限り 辺郡小戸 ・営恨 ・平井 ・中山、函は印南郡回線・阿 いることから、江戸時代に惜白かれたものではないか の中央に 旧荘園 の本庄と山路庄の同世界線が引かれて と思われる。 に関する資料も多数あり、その中から今回の展示で 拘上家は近世より水車業を営 んでいたため、水車 ことを願ってやまない。 近い将来、岡本に街かどのミニ博物館が挺生する られる 持上家の方々には顕の下がる思いである。 は我々の貨務であり、それを実行しようと考えてお は﹃兵向山県百年史﹄九凶頁以下参照)。 一都から一 O里以内を除き、開港地の については、京 は 一八八五(明治 一八 )年の ﹃武庫菟原両部水車問 間その他 ω兵庫県遊歩規定図 日本役所から一 O盟以内に限られていた(日米修好 開港後、日本に居留する外国人が遊歩出来る区域 通 商 条 約 一 八五八年ーによる)。この図はその内、 - 6ー 復旧された。なお、現在では迎賓館として使用 され この平面図は建物が建てられる三年前、一八九九 (明治 三二)年 に脅かれたも ので、 現在、保もこの 平岡図は所有していないらしく、珍しい資料といえ よう。 ω岡本村飛地図 兵庫県選捗規定図 地を示している。年代は記載されていないが、絵図 問本村の飛地を示した絵図である 。この飛地は主 品 d且 mm分野 の栴威 まだ若いけれど、自然地理学でも沖 に実りある成果を次々発表し、独自の分野を開拓し であり、兵庫県下の数多くの遺跡の実地割査を基盤 水田に 関係した遺構や遺物が発見されること自体向 OOか所を越えよ うとしている。今や全国的にみて かり歳月を経た現在、水田祉の発掘された遺跡は 三 静岡県登呂遺跡 の発砲調査が終って既に閉O年ば 水田巡回刑の穏をいま少し続けてみたい 。 か厄介な仕事なのである。 ﹁分膚﹂と呼んでいるが、これが初心者にはなかな 時間の差を呈色や土貨を拠所に識別する作業を俗に ある。土居を細かく観察し、堆積環境の遣いや堆積 現織を体験すると、土というものは判らないもので 策をやかましく言われる。災際、初めて発州側資の それ以来、私も発掘現場や工事現場で切遇された 寺遺跡A地点 の調査を進めていた時であるが、実は 初めてお会いしたのは、一九八五年の四月、芦屋廃 によって氏の存在を知っていた。芦屋の発鋸現場で 噴時代前期水回社の研究があるが、私もその成果物 ぬ の志知川沖田南遺跡(兵庫県 三原郡西淡町) の古 摂津の考古学からみた東灘同 つつある。 ら珍しくないわけであるが、兵mmmに限って 言えば 、 究室の先輩たちがいとむ楽々とそうした作業をやっ 土府断面をみるたびに 、水田腐の泉忽が認められは 芦屋市教育委員会 まだ実例が乏しく、奈良時代以前のものはおそらく O遺跡に満たないのではないだろうか 。 一 てのけるのを見て、一砲のカルチャーショックを受 氏の岡田れたフィールド捌査の産物の一つに、淡路 前号では、弥生時代前期 の初 期農耕 の問題に つい け、たかが地球の皮をさらに細かく薄くするだけの ようになった。久保遺跡の中世水図面の検出は、そ しないかと、観点を変 えて土を凝視する姿勢をもつ / する事実を御教示頂いた。 ではなく、重なり合ってここかし こに 普遍的に遺存 その時に近世以前の水田土犠がそれほど珍しいもの て、東灘区の遺跡を中心にすえ、二、一一一の私見を述 ことによく精神を集中することができるものだと感 ないと絶対判らないと脅す強引な先鑓も中にはい " いずれにせよ、ニO年もそんなことをやっている 水田断面の観曲目 時J と、土についてはすこぶる強くなるもので、何も語 らない土をいいことに、もっともらしい解釈を付会 させたい願盟にかられることもしばし。それ以 と、無性に例経が苛立ってくることさえある。 上に土周が読めない調査員がいっしょにいたりする 余談はさておき、そんな私も水田土様だけは苦手 である。というのも、政初に箆屈する水回岡山を教え られた持、こんなにも置な っていたのかという続き となぜそれが見抜りなかったのかという自戒が私を 襲ったからである。立命館大学 の高橋学氏 は年令は 志知川沖田爾遺跡の古境時代前期上層水田祉 9 8 7年から ) (兵庫県教育祭員主 1 O年程昔に初めてその経験をした持、大学の研 ニ べてみたので 、ひき続き、古境時代以降 の展開を追 人 心したことがある。シルトと粘土の違いは口に含ま 秀 うことにしよう。 岡 て、実際粘っこい土をロにしたことむある。 、 - 1ー 森 考古学では土の地積状況や土質そのもの の肉限観 t.~,'、""酔令 ・‘ 久保遺蹟町中世水田祉 (牛の足跡やスキ耕作密が図面に残る │ iL 1 1 L当 を集めることになったが、それ以上に重要なことは、 の一部に弥生前期の水回遺構の存在が判明し、衆目 なすものであろう。一九六八年の調査では、低湿地 古代水田遺構への土峨学分野からのアプローチ は、何といっても岡山県津島遺跡の調査が始まりを たと思う。 チl ムのささやかな結果であることは、以前にふれ であり、開田から年月をおかない現使用水田ではと みるわけである。それは古代の水田に特徴的な現象 とおよび、その下部に至って斑紋の集積層が形成を なる。鉄に比べ般化が迎いマンガンはさらに下賠へ 不溶性に戻るため、割れ目の部分に沈着することに あり、十分な政紫が保たれているため、まず鉄分が 陪に還元溶脱され、鋤床府を通過し、耕転の全くお よばない心土府に達する 。 心土岡山には多くの空隙が のような観察眼が少しずつ備わってきた芦屋の潟笠 その段階に既に上部に累積した幾虫もの水田土壌が らえることができないようである 。 花向岩土横が深部にあれば、浸透水を呼ぶため、 床土直下において酸化、 三倒の古水酸化鉄に変わり、 見出された点である。現象的には、導水排水の作用 マンガンの集積閣が生成されやすいという話も聞い に起因する含水般化鉄の斑紋状の沈殿娘割引とその下 郡家遺跡の 古墳時代 中期 の水間 祉 たことがあるが、其偽の組はわからない。 県下の士口漬文化期の水田社は、前期の例が先にふ 部に認められるマンガン化合物の沈殿集政の組合せ たときに発する色捌を示し、後者は熊本山色の独特の れた淡路の志知川沖回附遺跡や川西市栄恨巡跡など 発姻されている。また、弥生時代から古境時代中期 五O Mの距離をおいて東西に走る二本の大畦鮮に区 四O平方討前後という。士山知川沖田南遺跡の水田は、 五、四七平方討の規模格差が存在する。平均面積は 恩師制する経線を経て、人口水路を開削導入したよう 回祉は第一九次制査で附制限されており、南側の E地 西の微高地 問 の低湿地であり、方形に近い小区画水 - 8ー が観数存在したわけであるが、前者は鉄がサピつい の分離状況は、乾悶耕土の手がかりとして、発御現 呈色で、その頃、そうした鉄 ・マンガン斑紋集初回 にかけての水田祉が淡路 ・雨流遺跡で検出されてい で見つかっており、東穂区の本庄町巡跡においても ここで水田土境学 の解釈を媛用して、その発現形 る 。 場ではよく問題にされたものである。 態に簡単な説明を加えておこう。専門家かち得た知 を数える水田が確かめられた。而的に把姪された上 である(﹃淡路 ・志知川沖田雨遺跡﹄、兵庫県教育委 三原川水系の旧河辺を北に配して開国され、これが 画された中に不定形な小区画水田が営まれており、 一・一れの傾斜地に立地し 志知川口押回南遺跡では、第 m-w区で延八、八O O平方討が広域に調査されており、断面観察で五面 て一四一枚の岡田を数え、水利系統は中央に存在す 目前部における好例は、川西市栄根遺跡にある。水 層水聞は、回仰向0 ・五1 などの有機物は、大量の般紫を供給して微生物に分 施肥や緋起の際耕土に入り込んでくる柿株 ・稲わら る大陸畔により明確に分割給水が図られている 。 国 容が検出されたもの二四枚を数え、一一一、九一 1 一 一 一 日会、一九八七年三 解され、そのため作土内部の土居は酸紫欠乏により が発開制されている。その立地 は、集穫の営まれた東 G地区で八O平方れ 区でこOO平方M、北側のF ・ ているが、その浸透水に溶出した鉄 ・マンガンは下 図面水は一日およそ一 l=一勺減少することが判明し 還元下浮遊して泌水には溶けやすい性質に変わる。 強い還元状態となる。耕土中の鉄分とマンガンは、 下回水田は開田範囲が上府のそれより狭いが、全 0 ・五O平方M の附設がみられ 績は六、八九1 ニ 一 るが 、平均菌加はおよそ五O平方M となる。 低い地下水位の乾田(縮減水利用田)において、 きた。 心者にも問機の説明を幾度となくくり返し行なって 識の受付売りで甚だ恐縮だが、発岡山体験の乏しい初 郡軍遺跡御影中町地区水 田祉の現地説明書風景 ( 1 98 8 ' 手g月 4日婦影) 回が七区画ばかり検出されている。水田地帯の西方 は 一三 M程 M あろうか 。住吉川より石屋川に近接する の緩傾斜地である。海岸にほど近い沖積地で、同制高 水田商の比日法の・告しい部分に地水単位の区画を目 高級に平行している。地形変化に則しての鈍首で、 には 北 から流 れ てくる自然河川が存在し、古明時代 的として造られたようである。その幅は五01六O 戸市教育委員会の努力により実絡されており、いく 郡家遺跡はかれこれ四O回を越える発旧制調査が神 によって固まれた個々の水田面も疏路 の疏下方向に 句程度の小規侠なものにすぎない。しかし、小岐畔 回面を仕切る意図をもつようで、幅二O句、商さ五 句、高 さ 一五今を測る。一方 、小珪畔はほぼ 同一の い 地域だが、明らかに河川の本疏は避けられた機所と つかの地区制がなされているが、水田祉が発見され むつ部分が認められる。 向かって僅かながらレベルを落としており、水口を え 令。 2噌 れている。珪畔の間隔は八 計前後の所が多く、規路 中 ・後期 の河 川に より水田面の北西部は大きく削ら たのは御影中町地区(第 三次)と呼ばれる地綬であ があったのかもしれない(﹁川西市栄綴遺跡第一九次 現地説明会資料﹂一九八七年)。 る。北方の大蔵地区はその中栂部と目され、大型柱 疏路の南側には、 L字型に取り付く幅0 ・五抗、 地 に堆積が 進 んだ泥土を耕土とし、生産域と居住区 深さ0 ・三れ程 の小川附がみられ、水田へ の導水を図 との遺跡 は、久保遺跡の発抑を担当した頃、F G地区の発掘の様子を見聞させてもらったが、低湿 穴を有する掘立住建物祉が確認されている。周辺一 る用水路と考えられている。これ自体は南東半の田 帯は古度時代中期から後期の居住区になっていたら さて、 東穂区では、やや時期が 下 るが、古漬時代 しく、削器穴住居などが多数検出されているが、也に も存在していた可能性は残る 而しか刷聞きないから、凶商を走る流路は上手の方に との関係がつかめる点でも興味深い。 中期 とみられる水田祉が近年み つか っている。所在 の住居の一部 には、 L字型の煙出しを付設したb の 予怨した程には京良時代の他物は少ない 。古 漬時代 e 地は、阪急電鉄神戸線御影駅付近を北限と し、南は 調査区は北から雨に自然傾斜し、水図面も概ねこ 疏路 ・用水路を含めて洪水などが瞬時に襲い、あっ る。間掛色耕作土の直上を粗い黄色砂が湿っており、 O勺の搭泣を有して低 ︿なってい の方向では六1 一 000平方灯のほぼ全峨で検出 水田枇は調査区 一 が顕著なことも大きな特徴の一つである。 も存在し、遺跡をトー タ ルでみた場合、滑石製遺物 されており、昨年初秋開催された現地説明会で近隣 被覆膚中の土器によって行なわれている(﹁ 部家遺跡 とヨう聞に廃絶したようである。水田の時期比定は、 発問問区の北京偶かち南西側附にかけては、ニー三争 、神戸市教 ︹御影中町地区第三次︺現地説明会資料﹂ の読者の多くも実見したことであろう。 の小流路がからみ合うように流れている。流路の規 この遺跡の水田枇からは、足跡が多数みつかって いたが 、その後の調査で、稲株痕む確認されたと聞 育委員会 ・神戸市スポーツ教育公社、一九八 八年三 く。稲株痕の検出例は、大阪府巨摩廃寺遺跡、滋賀 桜は幅二1 一 一 一 討 、深さ0 ・三10・七れぐらいで 、 直交する畦畔によって区画された悶而は二五枚以上 水田はこの両側に営まれている。流路に平行ないし を数え、長方形の小区画が主体 で、回酬明は五1 一 八 まだまだ実例が乏しく、貨車な資料として記憶にと 県服部遺跡、岡山県百 間川遺跡などにみられるが、 郡家遺跡と同期の水自社を近畿地方に求め、比較 五世紀頃の水田経営 めておいてよい。 平方針の範囲に収まるミニ水聞によって構成され、 る 。 北 ・百 ・筒の三万にはかなり広がる気配をみせてい 畦畔は大小 の二極類が 存在し、大畦畔は北京から 南西に向かう方向に三本遺存して、緩傾斜を示す等 - 9ー 阪神電鉄御影駅付近まで広がる郡家遺跡 の南端部 に あり、その立地は六甲山地雨施 の海岸平野にか りて 郡富遺跡御影中町地区の古墳時代中湖水田祉 (神戸市教育委員書 1988年から) と土二=ゴ しつつその頃の水田経営の実態を簡潔に述べ、しめ めがたい。この点、大阪府下 の志紀遺跡や友井東 池 跡 ( そ のこ) など、六 世紀以降の水田が規枯性の強 い整美な方形小区画水田を志向するタイプとして出 現してくるのと対照的である。 五世紀と吉田えば、巨大古墳に表徴される大 王椛が 著しく肥大する時期であり、民兵の而でも鉄製U字 形鍬 ・鋤先 ・山 刃鎌の導入と波及が認められる。当 然、水田造成といった土地改造の面でも画期があっ てしかるべきのようだ が、近年 に至 っては 、 いわゆ る古境時代大開発論に疑いをもっ考古学者も出てき 三重 県北堀池遺跡では、五世紀前半頃 の水田約一 住吉宮町遺跡など大きな古漬時代の墓域をすぐ東に を一にしている点が関心をひく。郡家遺跡の場合も 築造停止と当集落の消滅、水田域の廃棄がすべて軌 人々が居住した集落と考えられており、同古噴幹 の 八尾南遺跡は、長原古摘出群の形成に直接携わった を与えていないと考えている 。御影の郡家辿跡で発 成形 態や 区綱引川闘を変化させるまで版本的には影響 畿内王権や地方首長の農業経営革新政策が水田の造 、 的発展をあまり評価しない立場を採っている ので 期初頭)以降、六世紀あたりまでの水稲段耕 の技術 定的にならざるを得ない 。私は庄内式(古成時代前 ており、洪積台地上の水田化についてはこの時期否 回OO平方れが調査され、国制一 01六O平方れ程 控える関係から、このような基 ・ムラ ・耕地の連鎖 年 ) 。 度の回が一 OO枚前後認められた 。沼沢地を挟んで 東に水田域、西に居住区が存在し、併存する 。水田 。 と消長が追えるかもしれな い くくりとしたい 。 は水平峨では回面を広くとり、斜面峨では小区闘を 八尾南遺跡では、調査地位東端で一五九O平方討の 五世紀末1 六世紀初頭頃に廃絶する大阪府八尾市 等間線に直交ないしは平行に展開する小佐畔によっ 区制はないもの の、調査区内に三O枚以上の田面が の堆積に より廃絶した水田祉が存在するが 、計画的 八尾市亀井北巡跡(その 三)でも六 世紀代 の砂胞 るのは、七世紀末以降のことと想像され、台地上と る。本地域にあっても、山箆台地 の縁辺が 開発され きく改変しないで耕地 の開墾を押し 進 めたようであ 自然村にあったと批測され、基本的には旧地形を大 見された耕地も 、おそらくその経営の主体は近傍の なす。 ぽ同時期に経営された もの で、水田函 のレベル は居 水田祉が発掘されている。微高地の東縁に集落とほ もなれば中世 における耕地の 拡大 ゃあるいは近世の 新回開発を待たねばならなかったのではなかろう て仕切 られたも のであっ た。水 田 の面献は、最小七 ・ 向に直線状にのびる大畦畔が中央に、小さな畦はそ 住区より四OHンばか り低い 。感畔は化西か ら南東方 布M 婦立柱建物却や竪穴住居牡 の 一 群は、郡家の水聞社 OO平方討の 幅がみられるが、 二 一平方灯、最大 一 O平方討前後と 五O平方M前 後の 二つのグループに に肢も対応 する古境時代中期の居住区と推定されて 二 枚以上を数え れより派生するも ので、水図面は 一 古填時代中期 の水田社は、前期や後期の類例が急 おり、こ の水田を直接経泣した人々の存在が海浜近 北京 二五O Mの同地区内において検出されている 砂で埋没しており、したがって水口はない。区画は 法は基本的には弥生時代前期以来 の緩傾斜する地形 増する中にあ ってまだ少ないと 思われる 。問問凹の 手 集中する。 方形ないし台形を呈するが、畦畔の交差は必ずしも くの所でクローズアップされてくる。(つづく) る。国而は車甘か ら秋の滞水期に東除川 の氾濫を受け 十字にはならず、むし ろ互い 違いになり、回面の比 を巧みに生かしたもので、さほど変化した様子は認 高 差 は 二 一 々 を 計 測 す る (﹃八尾南遺跡﹄一九八一 - 1 0ー 大阪府八尾南遺跡 口-4地区白水田祉 ( 八尾南遺跡闘査会 1 9 8 11 芋か ら) 無量寺に関する伝説 史料館血事 太田垣 正雄 こ の 三 月 、熊鼠守の 役僧とな った。一二年間、忠 実に勤めていた。天保 一三年(一八四ニ)三月二三 けたたましい声が 聞こえた ので時の住職秀運がかけ 、 俄然 日、本堂の後門でうたたねをしていたと ころ 影町郡家元平野町 の庭聞にもまた、これと同 じ言い 家の主人が里正(庄屋職)として勤めをしていた時 に、奉行片桐且元から 贈られた むのだといわれ 、御 中 にも租励石といわれるものがあ って、むかし この のち にわか った 、 一導のbだえ苦しんだ原因は次 ないので投藁をすることもできないと、さじを投げ た。 に医師一藤消斎という人を呼んで診察を行なった が、医師む頭 を悩ませて 、 この病気は原因がわから つけたところ 、 二時はもだえ 苦 しんでいた。 ただ ち 青木の香雪山無量寺は天文八年(一五三九)西本 伝えのある手水鉢がある。これらに関して確実な記 白崎 の松尾仁兵衛氏(松尾仁兵術商応 )の庭園の 願寺末寺 として、僧玄智が開基した 。最盛期には壇 一、はじめに 徒千三百軒をこえ、周囲は白壁の土塀に固まれ、本 かないであろう。 録は残 って いないが、ま ったく無視するわけにはい 簡単に述べておきたい 。 無量寺に関する伝説を紹介する前に 、その沿革を 裳 ・山門 をはじめ 、錨楼 ・三閣の太被堂 ・一切経々 この無量寺の巨石も 背木の古老によると、盟公大 一導に﹁助けてくれ﹂と頼みながらその手を固く湿 た。その所へ一導の友人拡が火の車に乗ってきた。 ていると 、 一天 にわ かにかきくむっ てま っ暗になっ vともなく、う つろともなくし 一導が堺の大浜でw のとおりで ある 。 蔵など小さいながらも整った壮麗な寺院で あった。 当時この建築には巨費を要し、広く滞財を募った は堺で落命したとの卦報が無量寺に届いた。一導の のであった。その時刻に一世帯の乎を縫りしめた友人 りしめた。この時に一世帯がけたたましい声をあげた ある日その船が 、品川木浜沖 で突然シケにあい、積 を寄進のため海上輸送した。 坂嫌築城に、諸大名が香川県小一豆島から多︿の巨石 んで いた一巨石が海中に沈 んでしまった。この石が 手首には友人が鑑りしめた火傷の跡があって友人の ( 二 時間判官)を早め、制ない副業により資金の郡遥 がまかなえず、村申合により、村民一同起床 の時刻 この無量寺も明治六年(一六七 三)本裳 に背木小 手形そのままであった。一導も間もなく故人となっ に努めたとの美談が記されている。 ちが気味悪く感じ、不安にかられ、また何かのたた たが、天保一三年二八四二)三月二三日一導三四 夜になると海中に白い光を放つため、住民や漁師た 才と無抵寺 の過去帳には記してある 。寺において、 っていた。 りがあってはと、村の漁師が引き湯げ、無量寺に納 学校が開設され、その後十年余り子弟の教育を行な 壮麗な三層の太鼓堂も学校の校舎にあてられたた め、 いろいろな造作を行なった結果、明治十八年倒 無量寺山門造営の際、石段に用いたと ﹃武庫郡誌﹄ に記さ れている @ が、﹃武庫郡 誌﹄によると 、﹁弘化四年(一六四 七) 鐘を供出したのでその銘文を見ることはできない 回、祖師御奇瑞のこと 故人 とな りれた梅野とら 氏や山口五郎左衛門氏など からお 聞きした物露である 。 葬儀を営み中陰を勤めた。このことは先年九四才で めたら のということで ある 。 、 無 量 寺 役 僧 (一導 )手形 の火 傷のこと 一 = 天保年間(一八三 03一八四四)無量寺に一導と 沼造家木村氏の寄付 により鑓綾を築き﹂とある。 ) この白い巨石も安永八 、九年 頃(一七七九1八O いう 伴僧 がいた。元は大和の下市常通寺の弟子であ 壊してしまった。 上流 には多くの石切り場があり、石材の鍛出が盛ん ったが、酋青木の西林寺の諸人で天保二年ご八三 二、大坂嫌築 披の余 石の二と であった。そのため当地には大坂城 の余石を伝説す 城の一余石と伝えられてい た。当時芦屋川、住吉川 この無抵寺の 門前に一巨石があり豊太公大坂峨築 るものが今 も所々 に残っ て いる。 - 1 1- に届げ出をする期限が明日とせまった。村役ら同行 この鑓を鋳造した時のことであった。大坂町奉 行所 御影像の御服が例々として人を射るということであ を怠らなかった。その後も何か異変のある度ごとに、 されていた。住職は以来別人の如き人となって勤行 の西淀川区あたり)の渡しまでくると、日もトァプ 。 ,寺にとっては、なんとおそろしい伝説であろう。 三人が局げ出のため町奉行所へ向か ったが、 佃 (今 っていると、一人の渡し守が三 人 の到粧を待ってい リと暮れてしまった。渡し守もいない事だろうと思 { 協 団体} 神戸市教育委員会/神戸市観光線 /芦の芽グループ 本文は松田文魯 ・武庫郡誌と林住職、海野 神戸史学会 /深江背少年協議会 / サンテレビ 日本玩具博物館 /御影高校地歴部 /本庄五校図 芦屋市教育要員会 /国立神戸間船大学/東濃区役所 太二郎氏のお話から書き進めました。 ︿ 註 ﹀ 深江ショッピングセンター 東灘文化センタ ー/大丸百貨庖 た。三 人は 今頃、 カチカチ山の狸の泥舟でもあるま いと、半信半疑で乗ってみた 。すると鉛頭の言うの { 史料館員・役員 ] 小 嶋 悦 廊 /坂上和三郎/志 井 正 夫 事磯辺信 力いただいた関係者各位に感謝申し上げます。秋に 日をもちまして、好評のうちに終わりました。ご協 合一九八九容の特別展﹁東灘の股史﹂展も六月二五 すが、興味のある文読を織せることができました。 調査員 研究員 主任研究員・・ 事務局主事・ 0 館長代行。。 i- 松 尾 初 夫 /深 山 他 ニ も、特別展として﹁むかしの農具﹂展を開催します。 事務局員中島一 望月浩 阿部英子 大国正美 志井 保 治 /杉 浦 昭 典 /田辺岡山人 お永一 O年1明治九年) 血盆寺一四 世住職秀運 ( またご来館ください。 理 三/大 国 正 夫 /太悶垣正雄 には、﹁今しがた麻の衣を召した一人のいやしからぬ い。と頼まれましたのでここで待っていましたニと 僧が、後から来る三人の連れを渡してや ってくださ , h O 古史料館だより一三号を発行することができまし か その僧は向れへ行か れたかと 聞いたが、 行方はわか を探くお詫びします。その代わりと 言ってはなんで た。編者の個人的事情で発行に時間がかか ったこと 。編 者 らなかった。これを 聞 いた村人たちは、祖師の御奇 の耶であった。穏を 聞 いた三人は品川閉 山の思いをして、 瑞を現わされたものと、いよいよありがたく思った 時代は、背木には寺岡市郎兵衛 ・松田治左衛門 ・脱 台四月から川口さんに代わって、阿部さんが史料館 左の会幹事 ということである。 輪七郎兵衛 ・山形忠左衛門 ・浜屋茂兵衛 ・噌井太右 の主事として事務の 仕事をしていただく・﹄とになり 道谷点 /望 月 友 二 /山本 文 雄 /寺 岡 一 夫 刻 /磯 辺 信 三 大 原 康 弘 /柏 原 正 民 /西 村 教 悦治 廊/志井 小嶋保 容雄 久雄 /多田 版治/ 悶辺ゆかり 弘/佐野 末夫 /佐 原 浩 平 (以上常任) 肢 /吉川 容子 門前永 , 玉、一四世住 職秀理ざん げのこと 衛門 ・上杉利左衛門な ど、おおぜいの餓造家がいた ました。川口さんはご苦労様でした。阿部さんはこ 伊東 令子 / 田部美知雄 /藤 川 街 作 に飽きながら朝夕の励行も伴僧任せであ った。 あります。柏原正民氏の﹁東灘区考古学文献目録稿 です。次号を楽しみにしてください 。 ω﹂と望月友 二氏の﹁史料館所蔵の脂質についてω﹂ をいただきながら次回にまわさせてもらった原稿が 官紙面の 郎合と編集者 の見通しの怒さで、今回原稿 れからよろしくお願いします。 ので 、寺の経営も信裕で、 住除も豪響を僅め、酒食 ある日、伴仰がいつものように勤行にかかると、 組師 の御影像がなくなっているのに気がついた。こ れには住職b驚いて、仏殿の 中 を側べてみると、巻 このことがあってから、住股秀迎は心からざんげ いて納ま っていた。 した。すると不思議にも御影像 はまた 元の 如 く安世 納 f T大 多水 1 1 1 - 1 2ー カ
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