回顧録 日本と朝鮮の狭間で。 February 04, 2010 13年前、1997 年 7 月 9 日(水曜日)の午後だった。伊賀上野に住む大連時代からの友人島 名政雄宅に転がり込んで一ヶ月ばかり滞留し、彼と伊勢神宮を一緒に訪れて、帰り道に明野の村に寄った。七 月の青空には綿雲が浮かび、車の両側に浅緑の田圃が広がった。明野には、現在自衛隊の空軍基地がある。 平原太郎と言う青年が僕と一緒に、大連時代の日本人社会と朝鮮人社会の狭間に居た。大連中学を僕の 七年前に卒業した、法政大学学生だった。当時、大連で日本人に殆ど限定された住宅地に住む朝鮮人家庭 は極度に日本化した、専門職のいわゆる「シンニチハ」家庭だけだった。僕の父親は満鉄に勤める技術員だった し、母は婦人科医師だった。平原太郎は混血児だ。父親が日本人の軍医で、陸軍中佐だった。混血児であっ たせいもあろう、彼は極端な「皇国少年」だった。そして、僕の母と平原夫人は親友だった。 1944 年 6 月に米軍がサイパンに上陸し、翌月 7 月に大本営がインパール作戦の失敗を認めて,作戦中止を 命令したころ、東条内閣が総辞職した。テニヤンの日本軍守備隊が全滅した。9 月 12日には、大本営が台湾 沖航空戦大戦果を虚偽に発表した。18 日には陸軍省が 17 歳以上の青少年を兵役に編入した。11 月 24 日にはマリアナ基地から B29 が東京を初めて空襲した。 ハワイ・ホノルル「KRHO」放送局から1010キロサイクル、31メートル・バンドを通じる短波放 送、「ヴォイス・オヴ・アメリカ」で、僕たち一家は戦雲が傾いた真実を知っていた。「知らぬは亭主ばかりなり」。大 連在留の日本人はその頃になっても、御上と「必勝」を信じていた。既に、平原太郎の父は物故し、母親を残し て彼は法政大学に在学中だった。 1944 年の初冬だった。何月何日だったかは漠然としていて覚えていない。ある午後、平原夫人が茫然とした顔 つきで母の診療所の玄関に入ってきた。彼女は常時和服だけしか着なかった。寒風が吹き込むドアを閉めた彼 女はいつものコートを着ていなかった。聖徳街二丁目から四丁目まで、彼女はコートなしに歩いてきたのだ。予め の電話なしに彼女は普通来訪しなかった。 草履を脱ぎ、三畳の入り口間で跪いて草履を前向きに丁寧に揃え、小さな赤いコンパクトを取り出して顔を点 検し収めたあと、彼女が僕に言った。「お母さんに取り次いでね」と。間もなく、診察室から母が顔を出した。異常 な雰囲気が漲った。母は患者に別れを急いで告げ、平原夫人を二階の僕たちのアパートに連れ去った。 押し殺されたすすり泣きが二階から聞こえ始めた。すすり泣きにしろそれは号泣だった。それから数ヶ月間、平原 夫人が午後に来訪するたびに、心臓を突く号泣がひっそりと毎度二階から聞こえた。何故だか、母は理由を話さ なかったし、僕が毎度在宅していたわけでもない。 平原夫人はやがて、忽然と大連から姿を消した。 日本降伏後、大連市内にソ連軍が進駐したさなかに、母はあの冬の日に太郎から「特攻隊志願」 の手紙がついたのだったと僕に告げた。告げられたその日、母の診療所にはソ連兵に強姦された日本女性が続け て、運びこまれていた。診療所の門前には彼女たちを守る魔除けのように、日章旗を黒い墨で塗り替えた大極 旗が翻った。 アメリカで、半世紀たった後日、僕は太郎の死についての委細を知った。彼は日本降伏のたった二ヶ 月前に沖縄の沖で特別航空攻撃隊の一員として、出撃して死んだ。 そして、「出撃」前に明野で特別訓練を受けていた時に母親と一緒に撮った下掲写真を手に入れた。 夫人が大連から姿を消した直後らしい。その委細を僕のこの Blog で知人となった日本の友人が昨日知らせてく れた。下掲写真に纏わる委細が明るみにでたのだ。(太郎は写真前列左端から二人目。三人目が母。) この写真は 1945 年春に撮られたものだと思う。栄光ある名誉の戦死だったと人は言う。僕は彼を知 り、彼を兄として愛した人間だから書く、「彼は確かに死んだ。おくにのために。だが、もともと死にたくて、死んだので はなかった。」 究極的に彼の死が善であるか、悪であるかは僕には判断ができない。 寄り道して訪ねた明野基地には正門があった。哨兵に尋ねた。「昔、ここは特攻隊の訓練基地だったと聞きまし たが、記念館がございますか?」「さあ、どうですかね。一寸お待ちください。」と答えたが返ってきた。 電話連絡で下士官が出てきた。「初耳ですよ。そりゃ。何も残ってないと思います。」 伊賀上野への帰り道で、僕は考えこまざるを得なかった。太郎の後輩にとって、太郎は彼らの記憶から完全に欠 落しているのだ。彼は何のために死んだのだろう?そして、亡くした息子の遺骨さえ貰えない両親や近親たちのひ そかな号泣が耳に蘇った。 父親を失い、後に遺された子供たちが何人いることだろうか? 靖国神社の名前に僕は身震いする。日本帝国主義下に、亡国少年として生まれて育った思いでか ら僕は快復していない。 然し、靖国神社の存在にしがみつく遺族の気持ちを裁く気持ちを僕は持てないし、持たないし、裁く 資格もない。 誰に罵られても、生きている限り東京に行くたびに、僕は独りで靖国神社に行く。アイコクもバイコクも へったくれもない、そこに浮かぶ僕の世界は僕だけのもの。 そこにしか、太郎の墓はない。 ★★★ Comments 1 ■そちらは、おはようございます。でしょうか すごいお話です 母親からすれば、どれだけ泣いても足らないでしょう 靖国神社だけしかないというのは残念です 今の靖国は収入UPのために一生懸命です 魂が安らぐはずがありません 特攻は沖縄海域でしょうか だとすれば、そこの海に魂はいるはず どこにも行けず亡くなったその場所に居続けていることと思います 明野に行かれましたか 偶然ですね 明野は私が生まれた松阪から30分の位置です 昔から特攻訓練の場所とは聞いたことがありません 安全な場所だったろうから、普通の飛行訓練はあったのでしょう おそらく名目上、特攻とは言わず飛行訓練と言ったのではないでしょうか 語り部 なまくら二等兵 2010-02-05 16:20:35 2 ■Re:そちらは、おはようございます。でしょうか >語り部 なまくら二等兵さん 勿論太郎のあとを捜しに行った僕は明野の現状を知る由もありませんでした。そこの哨兵さんさえも知らなかった。 そしたら、昨日の夜に新潟の襄君かあ Email があって下記の情報を与えられました: http://www.geocities.jp/ikikansai2/hurusatokonjyaku/h19.10akenoireisai.html 調べて御覧なさい、明けのでは定期的に広範な特攻隊隊員の記念行事が行なわれています。 この Blog を続けているおかげで、この HP のような News が耳に入れるわけです。感謝いたしております。 書き込みありがとう。 Thomas thomas-penfield 2010-02-05 17:39:56 写真日記 費城仲春早録。 February 05, 2010 写真日記。1月下旬と2月初旬。(Jan 28- Feb2) 真冬の近頃、寒い単調な毎日が続く。 ほぼ二十年前に、野鳥が何処からか齎して、前庭大窓の下で発芽し、伸びだした Ivy(キヅタ)が下掲写真 のように大きくなってしまった。 大窓から窓下を走る道路を遮って聳えるこのキヅタの向こう側に小鳥の群が屯しては、このキヅタの赤い果実を 食べ始めている。赤い実を食べては向こう側の木立に飛び戻って順番を待つみたい。 まだ相当に赤い実が残るから、二月初旬中は小鳥の訪問にはことかかないだろう。 今日は2月3日、水曜日。朝、あまりに寒かったので病院体操をサボッタ。昨金曜日、1月29日にチャックの 発案で都心のコムカースト(Comcast)Building で仲良しのマイクル神父と落ち合い、そこの地下街食堂で 昼餐を一緒にした。 この界隈は昔は一寸スラム化してもいて、現在修理中のこの三階建てはそのころインパイヤドめいた木賃宿だった。 背後に聳えるコンドミニウムも四十年前に当時に新築されていて、チャックと僕でも問題なく買えた。(今じゃ不 動産価格暴騰で買えやしない。)その朝、チャックと歩いたら、この木賃宿を誰かが買って造り直しているようだ。 僕がイエール大學から転勤してきた当時、40年前、フィラデルフィアでは市庁の天辺に聳える初代ペンシルヴェ ニア総督ウイリアム・ペン銅像より高い建物を建てるのはご法度だった。だが、今になってはそんな Blue Law (青い法律)は全部撤廃されてしまい、高層建物が雨後の筍のようにあちこちに生えだしている。 この高いのが、コムカスト・ビルディング。そして、その下に地下街が広がる。 そこで、日本鮨の折り詰めを買って、昼食にした。ひどく不味かった。笑。 回顧録 僕たち二人のアイルランドと朝鮮。(1)。ノーラ。 February 06, 2010 ★ アイルランド。 もう一人の母。ノーラ。 1990年、二十年まえだった。秋にノーラが亡くなった。 肺閉塞でゼイゼイと喘ぐ彼女を聖フランシス病院に近くのヴィラテレサ養老院から担ぎこんだが、三週間後にひっそ りと七十五年の人生を閉じた。(アイルランドで日露戦争の1905年に生まれた彼女は、アメリカに1928 年に渡来し、62年こちらで暮らした。) ノーラの少し丸ぼちゃで桃色がかった顔には皺がなかった。ブロンドから変わった白髪にはいつも櫛が通り、上着と スカートと靴は完全に色彩調和されて、お洒落には一分の隙もなかった。そして、最新流行な透明な縁の眼鏡 の後ろにいつも青い瞳が澄んでいた。 僕はノーラの息子のチャックと今まで四十年以上、ずっと一緒に暮してきた。チャックには四歳上の兄貴がいたが、 あのころどうしてもチャックだけが老いた母親を面倒みる羽目になった。 だから、ノーラを二十一年間、加えて僕がソウルから連れてきた母を十五年間ばかり、二人共同で面倒みたこと になる。 (そのうち、ほぼ十年は両母を同時に世話したわけだ。) その二十一年間、入院と見舞いを繰り返すか、それとも週末に僕たちの家に連れてきては昼食をとらせるのが週 課だった。 彼女が亡くなってから遺言状を読んだら、僕の母をブルク(Burke)家の墓に合葬するようにとあった。 韓国から突然連れてきた母に、ノーラはよくしてくれた。彼女を養老院に預けても不平を一度も言わなかった。 毎土曜日養老院から来て、彼女は居間のソーファに母と仲良く坐った。 一緒に座る彼ら二人は(上掲)ノルマン・ロックウエルの超感傷的な風俗絵みたいだった。 僕の母は緑茶を飲んだ。アイルランド生まれのノーラはそんなちゃちな真似をする筈がない。いつも、猪口になみな みと琥珀色のアイリッシ・ウイスキイをデカンターから注ぎ、ちびりちびりとやった。 彼女には妖精(レプリコン)めいたいたずらっぽさがあり、チャックをひやひやさせた。 修道女たちが経営する養老院は無論禁酒だった。時たま尼さんたちの眼を盗んでは隣町の酒屋にタクシーで乗 りつけてウイスキイを仕込み、ラッパ飲みと洒落込んだあと未開封の酒瓶はこともあろうにヴェランダにある雨樋の 陰に隠す。 どうやって聖なる尼さんたちが酒瓶を見つけたかを、僕は知らない。尼さんのことだから、天に住む聖アントニオ直 通の電話線でもあるのかもしれない。毎度その悪事は露見し、酒瓶はクリスマス基金集めの酒瓶盛り籠に特別 収納された。 毎度、チャックは固く縮まり、修道院長さんは噴出すのをやっとこらえる僕に、僕に「あなたはチャックよりもずっとアイ ルランド的だわ」といたずらっぽく片目をつぶった。 昭和初期のアイルランドはその頃の朝鮮と少しばかりにし似ていた。英国のアイルランド統治は日本統治ほどせっ かちで、峻厳ではなかったにしろ。だが、とどのつまり喰えない社会だったのが事実だ。 英国のアイルランド植民統治は安徳天皇が壇ノ浦に沈んだ年に遡る。昭和三年に二十三歳だったノーラは父の 反対を押し切って、単独でアメリカに出稼ぎに出稼ぎ労働にやって来た。あのころ、植民地だったアイルランドには 未来がなかった。昭和一桁時代だったもの。 ワスプ(英系米人)富豪宅の女中奉公を続け、三十を過ぎてから結婚して、ウイリアムとチャック二人の子供を もうけたのも束の間にご主人が急性肺炎でぽっくり亡くなった。 勿論生命保険もなかった。子供二人を抱える寡婦に住み込み女中の口は回ってこない。 学歴がない彼女は掃除婦をして子供を育てた。 大學寄宿舎で働き、朝から晩まで身を粉にしてベッドを「造り」、電気掃除機をかけ、床を磨いた。 疲れきった身体を引きずっては家に帰り、寝る前に子供二人のシャツにアイロンをかけ、靴を磨いた。 四季の変わり目には、窓に毎度糊付けして隈なくアイロンをかけたカーテンを架け替えた。 家具には、絶対に埃がついたことがなかった。その潔癖をチャックは受けついでいる。 どんなにへとへとになって帰宅しても、彼女は子供二人には缶詰をあける怠け者のの簡易食を絶対に食べさせな かった。 厳しい母親だったとチャックが言う。 チャックは奨学金を貰ってイエズス会系エリートの聖ヨセフ高校に通った。 金持ち息子が多い学校だ。ある日、級友の一人が訊ねた。「君、よくしてくれる執事もあるものだね。君の靴は丹 念にいつも磨かれているもの」、チャックはそう語って絶句した。 僕たち二人は、ノーラの養老院費には住みなれたチャックの生家を売り払ってあてた。 彼女は一生涯夢にまで見た故郷、クロングーナ村を訪れないまま亡くなった。 やがて、朝鮮半島から連れてきた僕の母も老衰が進んだ。 アメリカで一分も働いたことがない新来の母にアメリカ政府は社会保障恩典を適用してくれた。フィラデルフィアの 西郊外にある二万坪は優にある老人看護センターに無償で入院させ、一ヶ月三十ドルの小遣いまで支給し、 散髪やマニキュアの代金まで払ってくれた。 アメリカ政府のおかげで、全てが無償だった。 小遣いは余るから貯金した。法定の貯金制限額を越えたら、係員が電話をくれてその貯金は葬式代の前払い に使えと指示ししてくれた。 母が亡くなる五年前にノーラが先だって1990年に逝った。 僕たちが彼女の故郷アイルランドメイヨ県バリハウニスを訪ねたのは、彼女の一週忌の1991年秋だった。 アイルランドを訪れることができなのは、僕がノーラに根掘り葉掘りアイルランドの生い立ちについて質問しては、ノ ートに書き留めておいたお陰でもあった。 ★★ (続)。 「僕たち二人のアイルランドと朝鮮。(#1-#3) (1) ノーラ。 (2) ノーラの故郷、バリハウニス町。 (3) 二人で訪ねたアキール島とクリフデンの町。 ★ 新潟の襄から。受信: 2月4日、EST 20:30. 大雪警報発令。 朝は凍結道路に雪が積もり、滑り易い道路状況でした。 新潟市は50cmの積雪だったとか。 ところが、長岡は雪が降らなかったのです。 それどころか、みるみる青空が広がって、快晴に。 まさに「立春」でしたね。 おかげで、快適なスキー教室でした。 ただし、スキーなどほとんど滑ったことのない子もたくさんいて、 私たちは疲れ切りました。 今夜から降り出し、大雪だそうです。 今日の Blog に関連して、こんなページがありました。 http://www.geocities.jp/ikikansai2/hurusatokonjyaku/h19.10akenoireisai.html (Thomas から:明野基地の哨兵さんが、こんなに基本的なことを知らなかったとはね。一寸驚きます。襄君あ りがとう。 I should say Japan does have changed a lot indeed.) ★ Thomas: 今金曜日、午前5時14分。今夕、大雪が降ると気象通報が報告している。 回顧録 僕たち二人のアイルランドと朝鮮。(2)バリハウニス。 February 07, 2010 ノーラが亡くなった一年後、1990年の9月に僕たち二人はニューヨークのケネディー空港からアイルランドのシ ャノン空港に愛蘭航空を使って飛んだ。(二十年前のそのころ、フィラデルフィアからシャノンへの航空便はなかっ た。) シャノン空港は下掲愛蘭地図の Ennis 市の真南で、エニス市とリムリック(Limerick)市とのほぼ中間点に見 受けられる空港標識だ。 チャックの母の故郷バリハウニスは、上掲地図に見受けられるゴールウエイ市(Galway)北(直上)に記されて いる青風船玉だ。 僕たちはシャノン空港に着いた後、大事をとって、ゴールウエイの西郊外の村で一泊したが、事実シャノンからバリ ハウスまではたいした距離ではなかった。下掲地図では、バリハウニスはクレアモリス(Claremorris)の隣町だと 思えばよい。 翌朝、ゴールウエイから二車路の街道を伝って北上して、バリハウスについた。 ノーラが口癖のように話していた黄色い壁の荒物店が遠くに見えた。Y 状に道が分岐する街角なのだとノーラがい つも語ったとおりだった。 前世紀始めに、この荒物店はバリハウニスでは一種の百貨店的存在だった。ノーラは少女時代に町の外のクロン グーナ集落からここまでよく歩いたと語っていた。この店の名前を僕は忘れてしまった。 町へ這入る前に撮影したこの写真では、チャックの右側の遠くの道路街角にその店が見える。 バリハウニスはこの地方の家畜と農産物集散競売地だ。 町を支えているのはパキスタンから流入した移民の一人が始めて成功した屠殺場と缶詰工業だそうだ。 その事実を示すかのごとく、大きなイスラム寺院がこの町の中心に聳えていた。 東洋では恐らく考えられないことだろう。 町並みは平凡な、ただの田舎町で、眼新しい店がない。 一応書き留めるが、所謂「英国、大英帝国」という呼称は正確でない。ブリテン聯合王国が正しい。 下図にみられるように、英国、ウエールス、スコットランド、それに北アイルランドの四部が聯合王国を構成している のだ。聯合王国は連邦的組織で、「大日本帝国」のように単民族から構成された均質社会ではない。 アイルランドは七百年の間、英国への「同化」を避けた。巧妙な英語強制によって、現在アイルランド語(ゲール 語)を話すのはアイルランド全人口の僅か1%に過ぎないけど。韓国併合後、日本は日英同盟当時の誼みに 甘んじて、英国がアイルランドを七百年統治した経験から学んだ。土地調査、町村市計画、税収機構、言語 強制、社会内差別制度温存など英国歴史には社会史の研究話題が未だに残る。 建設初期フィラデルフィア市の都市計画も英国植民史に負うことが多い。委細にはふれない。 バリハウニス町のどまんなかで、町の中心人物らしい老年の「Auctioneer 競売人」に出会った。 「あの爺さんはこの町の生き字引だよ」と紹介してくれた男が僕たちに囁いた。この老人は路傍に立つたまま囲ん でいる人たちと話していた。(半世紀前に生きていた)チャックの祖父を覚えていた。祖父のそのころの渾名ま で。 このあたりの地名は極度に細分化されている。日本を訪問するアメリカ人は日本の地名に苦労する。道路に沿っ て番地がついてなく、番地がとびとびだから。同じように、アイルランド集落内も、あちこちに小分された地名が散在 する。だから、チャックの母が育ったクロングーナ部落はこの写真に出てくる Tuairin(Tooreen)部落の次になる。 地名が英語綴りとアイルランド語綴りでは違うのに注意。 バリハウニス町内で教えられたが、 Tooreen 集落には、悪魔が主催するダンス・ホールがあるそうだ。 その悪魔の建物が上掲写真右端の白い建物。(邪推だが、もともと悪魔のこの建物は、英国支配時代の往 時日本が韓国各地にオッタテタ神社のようなプロテスタント教会だったのかもしれない。この写真も悪魔的に傾斜 している。笑。)クロングーナはこの建物の背後で右折する路地に沿ってひっそりと存在していた。 半世紀以上も経ってしまい、母の親類はただ一人だけが生きていた。下掲写真は、ノーラが育った家の廃墟で、 トタン屋根だけが残る。上掲写真は現存する隣家。ノーラの家もおそらくこのような建物だっただろうと思った。 廃墟に立つチャックを撮影した。このあと、チャックの祖父母が埋葬されているコスグローヴ(Cosgrove)家の墓 地を訪ねた。 僕たちの人生は不思議だと思う。地球の東西両端からお互いに流れて、アメリカで一緒になり、四十年を過ごし た。 僕が根掘り葉掘り訊問しては残したノートを頼りに、このクロングーナを探し当てのだから。 仏教の語る縁だ。 ★★★ Comments 1 ■おはようございます 明野基地から特攻が行われていたのですね 行先はレイテと沖縄・・・ 初めて知りました 同じ三重県に住んでて恥ずかしいです 増してや明野の哨兵が知らなかったには、もっと恥ずかしいことです またまた勉強させていただきました ありがとうございます 語り部 なまくら二等兵 2010-02-07 19:28:17 2 ■Re:おはようございます >語り部 なまくら二等兵さん 書き込みに感謝いたします。 事実、お上の特攻史記述に、僕は依頼いたしません。貴方たちの調査がずっと精密だし、正直ですから。そこに公史と私史の違い があるのでしょうね。 三韓史だって、公的記述が済んだら資料は皆焼いてしまったのでしょう?あの膨大な大蔵経だって、サンスクリット原典が中国にどれ ぐらい残っていることでしょうか? 般若心経だって、サンスクリット原典は中国ではなくて、正倉院で見つけられたと聴きました。 明治初期に、梵語経典研究の本場は東京ではなくて、フィラデルフィアでした。(笑)。 書き込みありがとう。 Thomas thomas-penfield 2010-02-07 19:49:03 Diary. February4. Thursday. とクリフデン。 アキル島とその南部, コネマラ地方。 僕たち二人のアイルランドと朝鮮。(3)アキル島 ノーラの故郷であるバリハウニスを探訪したあと、僕たちはアイルランド西岸のアキル島に行くことに決めた。 僕たちがバリハウニスを訪れて投宿したホテルはバリハウニスの隣町、ノック村(Knock)(上掲地図参照)にあ った。 昔この町に童貞マリアが御出現になったという大変な村で, 巡礼が絶えず、結果として比較的安価で設備がよ い巡礼ホテルがあったからだ。使わなかったが、おまけに巡礼相手の空港まで完備していた。 僕たちが訪ねることにしたアキルの島は上掲地図の黄色い円が示す。 下掲のメヨ(Mayo)郡地図によると、バリハウニスは地図の下部右端(東端)に位している。僕たちはバリハウ ニスから、Claremorris, Castlebar, Newport, Mulranny を経て、Achill アキル島に渡ることに決めた。 何もこの島にについて知っていたわけではない。僕たち特有のあたりばったりな旅だった。 運がよかった。素晴らしい経験だった。あてもなしにのこのこアキル島に赴いて、上掲地図#4にあたる Keelk- ル村で見つけて投宿した B&B 下宿が Bervie というホテル。 一週間泊まった。清潔で安価な庶民ホテル。 アドレスは下記: The Bervie Guest House The Strand, Keel, Achill Island, Co. Mayo. Contact: Elizabeth Barrett Tel: 098-43114, or Fax: 098-43407 Email: bervie@esatclear.ie Web site: www.bervieachill.com Direct access to Keel Beach. 読者も、もしも機会がおありになったら行かれるとよい。貸し自動車が必要なのが欠点だが、道路が混雑していな いし、庶民アイルランドの醍醐味を鑑賞するのにはもってこいな旅だと思う。 大西洋を見渡す大窓が旅室に据えつけられているし、 手料理の食事が毎度味わえた。 そして、朝夕のこのような眺めはなかなか経験できるものではない。 一週間の毎日、僕たち二人は島内各部を点検して遊びまわった。 それに、アイルランド庶民の美点は、僕たちみたいな外来者にヒトミシリしないことだった。 酒場で名物の黒ビールを飲みながらまわりの連中と話し込んで、僕は数知れない友人を作った。 ★ 暇潰しに、僕たちはまた南部のコネマラ区域に脚を伸ばして、歩き回った。 勿論この町、クリフデンは一見あまり何の取り柄もない平凡な田舎町だ。だが、それだから、僕の気にいった。 アイルランド風景の特徴は、何処の町に行ってもカトリック教会と(英国国教の)聖公会教会が一見仲良く揃 って建ってることだろう。だが仲がよいわけではない、競争してるのが事実だ。 英国人はアイルランド征服後、(ヘンリー八世が離婚により羅馬法皇から破門されて、聖公会を樹立したせいも あって)行き先ごとに聖公会(英国国教教会)をおったてた。 その名残が今でも残ってるわけだ。(勿論聖公会がアイルランドで流行るわけがない。) これは路傍に見かけたお城のような修道院。新しいそうだ。 そして、クリフデンの町は今でも僕の記憶の隅に懐かしく残る。 年寄りの推薦なんだが、欧州旅行するなら団体旅行もよいだろうが、二人組で地図と辞書を片手に木賃宿を 巡ってアイルランドの田舎旅行をするのも一興だろう。 英語が下手なら、下手まるだしで旅すればよい。何も卑屈になる必要はないのだ。 僕はポーランドの田舎を辞書と地図を頼りに歩き回った。 文法なんてどうでもよいのだ。意志さえ通じれば。 がクリフデン町の中央広場。もう二十年前の写真です。 Diary. February5-6. Friday-Saturday. 大雪。 日記。2 月5-6日。土曜日-日曜日。 土曜日早朝に台所で水を呑んでから、寝室に戻るのに居間に通って大窓の外を眺めたら、昨夕降り出した雪が 吹雪に変わっていた。暗い窓外の下方にマノア路の街灯が車道を赤く照らし出す。すでに、積雪が4インチはあ る。 (この写真の時刻は朝になってからカメラからコンピュータに移写した時刻。) 庭の鳥風呂にこれだけ積もった。背後の春日灯篭が殆ど埋もれている。 夜が明けてから、居間大窓から写した風景。 十数年前に伊賀上野を訪ねた折に信楽村で買い求めた灯篭がすっぽりと雪を被ってしまった。 ★★★ Comments 1 ■雪は 風情がありますね。 雪に埋まった灯籠 趣がありますね。 雪は日常生活を不便にしますが、心に安らぎも与えてくれます 非まじめクリスチャン 2010-02-09 08:34:26 2 ■積雪が4インチ アメリカに住んでいる人は、 インチを使っているんですか? 重さもポンドですか? センチ・メートル、キロ・グラムは あまり使わないんでしょうか? japanese-ful 2010-02-09 09:23:11 3 ■Re:雪は >非まじめクリスチャンさん こんな大雪は十年前に一度だけあっただけです。 灯篭は大好きで、庭のあちこちに於いてあります、全部コンクリートのアメリカ製ですが、案外丁寧に複製されたものが売られています。 二十年前には、人気がなくて、ただみたいな値段でしたが、日本文化ブームになったらもう手が届かなくなってしまいました。あの時、 数個か買い貯めておいてよかったとチャックと話してます。 thomas-penfield 2010-02-09 12:01:54 4 ■Re:積雪が4インチ >japanese-ful さん そうです。CGS システムは通用しません。 温度も華氏です。 欧州の連中と文通していて、頭痛がすることが多いです。あそこは英国を除いて全部が CGS ですから。 thomas-penfield 2010-02-09 12:04:48 Diary. February8-9. Monday-Tuesday. 日記 EST 2月8日。 ★ チャックと今日は買出し。CVS 薬局 と Genuardi 超級市場。 Blog 記事で、アイルランド歴史に一寸だけ触れた。 だが、一くち話に纏めるのに苦労した。 ★新潟の襄より。 JST: 2月9日(火曜日) とむさん 長岡の雪かと見紛うばかりの雪景色。 こんなに積もって、ドアが開くのでしょうか? 野晒しの車は、どんな状態になっているのでしょう? 庭の木々が、雪の重みで倒れたり枝を折ったりしませんか? 買い物にも、出られないのでは? もしも積雪のために停電にでもなったら、一体どうなるんでしょう?? こんなに雪が積もったフィラデルフィアの光景は、初めて見ました。 こちらは雨でした。 グラウンドの雪が、どんどんかさを減らしています。 子どもたちの心は、もう春の遊びに。 早く雪が消えないかなあと言っています。 でもまだ、もう一降りはしそうです。 ★ 日記。EST 2月9日。火曜日。 大雪のあと、酷く寒い。チャックは教会が心配になるらしく、しかも明日はまた雪が降るとの予報なので正午前の 郊外急行で都心にでかけた。僕は全日引き篭もって過ごしている。 ★夕餐はチャックが中華デリカテッセンで買ってきた Meatballs. しんやの Computer Purchase が宙ぶらりん。 こちらは、ひさのさんのご主人の協力でトウシバ機を買うことになるだろう。 どうしても外国語機能を備えた Microsoft Window は別に買って Install しなければならないらしい。 買値が見積もりの倍にはなるだろう。 没法子。メイファーツ。今、火曜日、午後九時。明日の天気予報、またもや大雪。 ★ Diary. February9. Tuesday. 銀行強盗の訴状。 ★ 2月9日深更。 今朝のニューヨーク・タイムスが一寸愉快な挿話を報じていた。 1997年から1998年わたって、ネブラスカの田舎町五箇所で銀行に押し入ってはピストルを押し付けて、 総額20万ドルを強奪して逃げ回った若い男が居た。 その青年の名前は Shon R. Hopwood. (ショーン・R・ホップウッド)。(何時もの僕の愛蘭贔屓だが、 Shon はおそらく John の愛蘭式呼称 Sean の米国訛りなんだろう。) それからもう13年経った。 彼は逮捕されて裁判にかけられたあと、懲役13年を宣告された。 謝るショーンに裁判官のリチャード・コフさんが告げたそうだ、「お前さんが真実に心をいりかえるかどうか、13年経 たなきゃわからないさ。」って。 彼が語る、「あん時、僕は Bill of Rights 米国市民基礎人権法にどんな人権が列挙されてるかなんて、権利の 一つだって頭の中に入ってなかったんだよ。」 だが、アメリカの監獄は服役したこのショーンを変えた。 アメリカの監獄にはちゃんと図書館が完備されている。 投獄された囚人はそこで自分が宣告された判決の内容は勿論、その図書館の備書を使って、法律の勉強をす ることさえ許されている。法律のホの字も知らなかったショーンは独学で、その図書館で学びだした。 ショーンと同じく監獄で服役していた囚人に「Feller フェラー」という男が居た。 その男がショーンに服役したときの裁判経緯を打ち明けた。 その経過が不当だと思ったショーンは上告訴状 "petition for certiorari"をそこの監獄図書館で起草して、米国最高聯邦法廷に提出した。 一介の銀行強盗が最高法廷に上告告訴状をだしたってわけだ。 この書状のタイトルが "Fellers v. United States"だった。 ショーンの名前は現れない、彼は弁護士でなかったから。 その年、最高法廷に同種類の上告訴状が7209件提出されていたそうだ。 「ショーンが起草した訴状を読んでね、感心したんだ。あんな訴状は読んだことがなかった。よく書けていた。最良 の訴状だったよ。」 U. S. Socilitor General 米国主席検事だった Seth P. Waxman セス・P・ワクスマン氏が語る。 この主席検事は最高法廷で五十回以上も出廷して関わったことがある老練な弁護士だ。 彼は提訴者フェラーを探し出して、無償で弁護することを申し出た。ただし、起草者のショーンが出廷に加わること が条件だった。 勿論異議がある筈がない。(フェーラーの有罪判決は麻薬事件に関わっていた。) 六年前の2004年1月に最高法廷の判決があり、9対0の勝訴だった。しかも、判決文は有名なサンドラ・ オ’コンオル最高法廷判事が書いた。 ショーンは1987年から1988年にかけて銀行強盗を働き、逮捕され、投獄された。13年懲役を宣告 された彼は投獄されて、そこの監獄図書館を発見して法律を独学で学んだ。そして、五年後に監獄で囚人のた めに控訴上告文を起草して、こともあろうに聯邦最高法廷に提出した。 そして、勝った。 大學法学部をちゃんと卒業して、「まともな」弁護士になった人でも、最高法廷に出廷できることは夢想だにでき ない。ましてや、監獄の囚人なのに。 こんな「馬鹿げて居て、常識から外れている」ような突飛なことが起きるから、僕はアメリカが好きだ。 六十年前に、僕も無一文、無国籍、無正当旅券でボストンについた。まるで、乞食だった。 その僕に、この国は大學教育を授けてくれた。 そのような社会だったからこそ、僕も生き延びることができた。 現今34歳であるショーンは僕よりはずっと頭脳明晰だろうが、彼が辿った運命は僕のと平行している。 そのことを僕自身は、絶対に忘れてはならない。忘れまい。 (満期で出獄した彼は、現在34歳。オマハ市の 法律関係印刷会社で働いているが、ワクスマン検事総長 のとりなしで来年ミシガン大學法学部に入学するそうだ。ダーツマス大學を僕が卒業した後、僕が学んだ大学院 がミシガンでもあった。昨8月に彼は結婚して、昨クリスマスに男の子が産まれたという。) Diary. February10. Wednesday. 廃墟。 日記。2月10日。 今日もまた雪が降り続けた。 Chuck は、時々雪掻きに外にでたが、毎度戻って来て近所の子供たちが道路 の雪掻きは済ましてしまってるんだよと告げた。 アメリカ社会はまだ健在なんだと、つくづく思った。考えてみると、 僕たち二人はもう完全に老人だと隣近所には思われているようだ。 日中、2月10日記事「アイルランド史雑話(1)」を書き直して、残そうと思ったら、記事作成の規則違反だ った。Oy Vey. 一旦公開したあと、修理はご法度なんだ。 だめです、”残せませんでした”という告示がもどってきた。 あわてあたらしく、書き直そうとしたら、手順を間違えて、その記事を消去してしまった。 消えたものはもう手遅れだ。アイルランド史雑話は新しい、Series として続けるつもり。 次号に”雑話(1)の 概略”は書き換えておくつもりだ。尻切れトンボになるから。 昔の文献を調べていながら、大正末期の朝鮮知識階級がいかに社会閉塞に悩み、自分たち被支配民族の将 来を模索していたかを知り、愕然とした。 間島や沿海州で朝鮮族が搾取に悩み、シベリア出兵が起き、一方イルクーツクで朝鮮共産党が組織され、上 海には穏健派の臨時政府が樹立され、ジョージ・ショウ(愛蘭系英国市民)が追い回され監禁され、李光沫 が独立運動の内部分裂に幻滅して東京だかに戻った時期だ。 当時ウイルソン大統領が提唱した、「少数民族自治」は憧憬の的だった。(ウイルソンはブリンモアで若い時に教 えた。) 当時のソウル新聞にはアイルランド自治運動の趨向がつぶさに記録され、記事数だけども数百を超えた。前に掲 載したことがあるかもしれないが、そのころ朝鮮の知識界で発表された閉塞の詩を記しておく。もうすでに、忘れら れてしまった詩だ。この詩が公表されたのは1920年、朝鮮独立宣言発布の一年後だった。朝鮮併合の十 年後だ。 アイルランド独立宣言は1916年。おそらく、このような詩を記憶にとどめている人はもう居ないだろう。 La Ruino Jam spiras autuno Per sia malvarmo kruela; Malgaje mal brile rigardas la suno Kaj ploras pluvanta cielo.... Kaj chiam minace Alrampas grizegaj la nuboj; De pensoj malgajaj jam estas mi laca. Penetras animon la duboj.... 廃墟。 もう秋が息づいている。 その酷い冷気でもって、 鬱々とくすんでる太陽は見下ろし 降りこめる天は慟哭する。 それでいて、何時も脅かすごとく、 鉛の雲が這いよってくる。 沈鬱な思いに、僕はもう疲れ果てた。 心の底に、疑惑が忍び込む。 (阿部新美訳) (出典:廃墟、 V.1 #1、1920) 自由と希望と未来を失った当時の故人たちを偲びつつも、彼等は不幸だったと思う。 そして、彼等の不幸に続いて、タロウのような優秀な青年たちが生命を失い続けた。 (このような詩を思い出し、訳してここに書き記しておけるのも、あの時代幼児だった僕に、父がエスペラントを叩 きこんでくれたからだと思う。僕はイソップの寓話も、アンデルソンの童話も全部エスペラントで覚えた。 国が無かった子供の僕にとって、それだけが僕の夢のなかに持てる国だったから。) Diary. February11.Thursday. 山口のカンガス神父さま。大雪後の晴続き。 EST 2月11日。 T)は米国東部標準時間(EST)より12時間先。 結果として、そちらの明日が、こちらの今日になるわけ。) ★ EST、2月11日。 更に重なって積もった大雪。 昨日早暁、応接間の大窓を覗いてたまげた。また、降っていた。 夜が明けてから眺めたら、あちこちがすっぽり雪を被っていた。 裏庭の雪景色が僕には素晴らしく見える。 このように湿った雪を少年時代の大連では観たこともなかった。 鳥風呂の雪が更に積み加われ、 裏庭に積み重なった雪はまた格別な雰囲気を齎す。有史来、未曾有の大雪なんだそうだ。 隣近所の子供たちが率先して僕たち”ろうじん”宅の周りの除雪を済ませてくれた。 ありがたいことだ。アメリカの良さ、親切さを満喫させてくる雪の冬だ。 ★ ひさのさんからの通信。 日本駐在のあるイエズス会神父。 http://d.hatena.ne.jp/hiroshisj/20100209/1265663213 (参照) チャックさんに通じますね。 久乃 ★ 黙想が明けた日に、山口教会で田丸神父の最終誓願式があり、修道院で大きな祝賀会が行われた。その最 中に見た出来事が、カンガス神父をわたしのヒーローにしてしまった。 祝賀会には 50 人ほどが招かれていたが、その日、あいにく修道院には賄いさんが 1 人しかいなかった。そのこと を知っているカンガス神父は、最初の皿が終わって洗い物が出始めたところですかさず立ち上がって台所に入り、 賄いさんと一緒に洗い物を始めた。そうやって数百に及ぶ皿やスプーン、フォークなどを洗い終えたころには、祝賀 会はほとんど終わりに近づいていた。そこでようやくカンガス神父は席に戻り、残り物の中から食事をとられた。 しばらく食事をとられた後、カンガス神父は再び台所に入って残りの洗い物を片づけた。さらに、テーブルを元の 位置に戻したり、椅子を片づけたりされ、全てが終わったところでようやく部屋に戻られたのだった。立ち去り際に、 賄いさんに深々と頭を下げ「今日は本当にありがとうございました」と言ったカンガス神父の姿を、わたしは一生忘 れないだろう。 その間わたしも彼の横で手伝っていたが、カンガス神父は自分だけが洗い物をし、他の人たちが手伝わないこと について最後まで一言も文句を言わなかった。むしろ、みんなのために喜んで自分を捧げている様子だった。黙想 指導のあいだに「片柳さん、もうわたしくらいの歳になると残っているのは感謝だけですよ」と述懐しておられたが、カ ンガス神父はまさに日々を喜びと感謝の中で生きておられるのだろう。 ★ 訂正。 昨日の記事”廃墟”の(エスペラント語)詩の日本語翻訳は阿部新美さんの作品で、僕の翻訳ではありません。 僕が翻訳した作は彼女の作に比べて見劣りがしたので、消去して載せませんでした。 訂正いたします。 ★EST2月12日、午後二時半。 大雪後の酷く寒い二月の日。チャックは郊外急行で都心のレディング市場に出かけて、野菜を抱えて戻って来た。 積み重なった雪は解けるまで随分時間がかかると思う。 Diary. February13. Saturday. 守髄一小父さん。 日記。週末、2月13日。 ★ 新潟の波田野節子教授と文通していて、成文化した守髄一小父さんの背景情報を教えていただいた。 ”守随一という人とお父様とは、親友だったのですか。 この人の周りは、柳田國男の関係もあってずいぶんといろんな著名人がいますね。 それにやはり満鉄なんですね。" http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni25.html 雑誌「民間伝承」を編集していた守随一(しゅずい・はじめ)は「木曜会」の同 人だが、この年(1938 年)10 月から南満州鉄道(満鉄)調査部に勤務するため、 満州の新京〔現長春〕に渡ることになった。 http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni19.html 守随一(しゅずい・はじめ)は東大在学中、左派のサークル新人会に属し、母校 の浦和高校や武蔵高校で教えていた(旧制浦和高校校歌の作詞者でもある)。山 村調査に参加し、雑誌「民間伝承」の編集を担当する。のち満鉄調査部に勤務 し、いわゆる「満鉄事件」で処分されたあと逮捕され、釈放後、獄中で感染した チフスにより死亡している。” ★ Thomas雑記。 大連時代に守髄小父さんと父とは無二の親友だった。二人に連れられて僕はよく レストラント・ヴィクトリアに行 ったものだ。 食卓の上に大きな Water Pictcher がデーンと何時も置いてあった。中身は Vodka だった。始めはそれが白系露西亜人経営だとばかり思ってた。なぜなら其処のスタッフは常時白系ロシア人ばかり だったから。 だが、そこの本当の経営者の背後の資本は、大連中学同級生曹長祥一家だったってことを、アメリカに来てから 知った。 日本降伏後、僕が学んだメリノール学院(ステラ・マリス、海星学院)に彼の異母弟二人が通学していた。その あと曹一家がどうなったかはしらない。おそらく粛清されたのだろう。曹長祥は中共軍に徴兵されて朝鮮戦争に従 軍させられて前線で死んだとたしかアカシアの連中が話してくれた。 この大通りは「大山通り」、もともとは露西亜名で ◎◎ Prospect と露西亜語で呼ばれていたのを、 日本政府が日露戦争接収後、当時の日本軍指揮官の名前に変えたのだ。山縣通りがこの通りに平行して走 っていた。ヴィクトリアが大山通りだったか山縣通りだったかを忘れた。 上掲写真が少しぼけている理由は、第二次大戦後、伊賀上野の島名政雄君が大連を再訪した時に、ポーラロ イドでとった小さな写真を僕の当時のカメラで複写したしろものだから。昔の洒落た面影は消滅しつつあり、中国 語の看板が目立つ。 僕と母が二人だけで、よく来訪もした。そしてこの写真一階の二つの黒い窓の左側の窓の下の食卓に何時も座っ た。あそのボルシチは忘れられない。 大通りの真ん中を電車が疾走していた線路は、この時期にはもうすでに撤去されてしまっていたようだ。 欧州のヒットラーの独逸や占領下だったポーランドやリトワニアから逃げてきた人たちの面倒を守髄の小父さんや 父はここで食事させていた。そのあと、彼等は上海に連絡船で去った。会話は常にエスペラント語でだった。 守髄の小父さんは満鉄事件に巻き込まれて、奉天憲兵監獄にぶちこまれ、発疹チフスに罹って死んだ。 遺骨を取りに小父さんの弟さんが日本内地かれ来られて、僕の家に逗留したのを覚えている。 当時、論語をエスペラントに翻訳された野原四郎(?)先生、日本エスペラント学会の主事だった三宅四平 (?)先生が大連に来られたのを覚えている。何故来られたのか勿論僕は知らない。 僕は守髄小父さんが遺した蔵書を殆ど全部読んで少年期を過ごした。 ★ 新潟の襄から。 JST 2月11日(木曜日) とむさん ひどいお天気の一日でした。 それほど期待していた訳ではありませんが、こんなに雪が降らなくてもいいのに。 息子の新生活のために家具屋に行きましたが、小一時間の間に車がすっかり真っ白になっていました。 その他、電化製品もいくつか買いそろえました。指定した日にアパートに配達して貰います。 まだまだ、金が掛かる! アメリカの豪雪も、盛んにテレビが紹介しています。ニューヨークからワシントン。残念ながらフィラデルフィアが取り上 げられることはありませんが、当然同じ状態でしょうから、かなりの積雪ですね。今の長岡よりも、ずっとひどい。記 録的な豪雪だと伝えています。くれぐれも、外出時には足下にご注意ください。 明日一日頑張ると、また休日です!! 襄。 ★ 土星の月。 February 16, 2010 00:00:00 Theme: ブログ 傘寿を過ぎたら、学を成すとかの昔はとうに過ぎ去ってしまってる。 随分前に僕は嫌いな書物は読まないし、やりたくないことはやらないことに決めた。 だが、一年まえに発見して購読しているのが下記の雑誌: Astoronomy. PO Box 1612, Waukesha, WI, #53187-9950, U. S. A. Subscription: 1 year (12 issus) $42.95 2 years (24 issues) 79.95 3 years (36 issues) 114.95 知らないこと、知らなかったことばかりが、随分でてくる。 すこし値段が張るが、僕のような老人にはもってこいな「天文学雑誌」だ。ただし、英語。 これは一昨日届いた3月号に掲載されている「土星の月タイタン Titan 」の写真。この月に於いて観測 されている地質学的現象は地球にとても似ているそうな。 地球の場合は「水」によって風化されるが、タイタンの風化は液体メタンによるそうだ。地球では、火山がラヴァ (溶岩)を噴火するが、タイタンではこの前の「火山噴火」の場合、水とアンモニア混合物が噴き出されたと言う。 数年前、NASAが送った探検機ホイゲンス号が映写したこの月の映像を下記サイトで見ることができる。 http://video.google.com/videoplay?docid=-287238877012213463&ei=JBN2S_dsi4yrAu ek4OEH&q=Titan&hl=en# この映像報告のほかに他の報告も多数ある。 Googeの Videoで、 Titan と 打ち込んだらあ る午後一杯を視聴することができた。映像が素晴らしい。 知らないことばかりを教えてくれる雑誌だが、案外読みやすい。勿論僕には天文学の素養なんかない。若い時に もっと勉強しなかったことが悔やまれる。 Saturn's Moon, Titan 04:50 - 2 years ago This movie was built with data collected during the 147-minute plunge through Titan's thick orange-brown atmosphere to a soft sandy riverbed by the European Space Agency's Huygens Descent Imager/Spectral Radiometer on Jan. 14, 2005. In 4 minutes and 40 seconds, the movie shows what the probe 'saw' within the few hours of the descent and the landing. On approach, Titan appeared as just a little disk in the sky among the stars, but after landing, the probe's camera resolved little grains of sand millions of times smaller than Titan. At first, the Huygens camera just saw fog over the distant surface. The fog started to clear only at about 60 kilometers (37 miles) altitude, making it possible to resolve surface features as large as 100 meters (328 feet). Only after landing could the probe's camera resolve the little grains of sand. The movie provides a glimpse of such a huge change of scale. The Huygens probe was delivered to Saturn's moon Titan by the Cassini spacecraft, which is managed by NASA's Jet Propulsion Laboratory, Pasadena, Calif. NASA supplied two instruments on the probe, the descent imager/spectral radiometer and the gas chromatograph mass spectrometer. This movie was built with data collected during the 147-minute plunge through Titan's thick orange-brown atmosphere to a soft sandy riverbed by the European Space Agency's Huygens Descent Imager/Spectral Radiometer on Jan. 14, 2005. In 4 minutes and 40 seconds, the movie shows what the probe 'saw' within the few hours of the descent and the landing. On approach, Titan appeared as just a little disk in the sky among the stars, but after landing, the probe's camera resolved little grains of sand millions of times smaller than Titan. At first, the Huygens camera just saw fog over the distant surface. The fog started to clear only at about 60 kilometers (37 miles) altitude, making it possible to resolve surface features as large as 100 meters (328 feet). Only after landing could the probe's camera resolve the little grains of sand. The movie provides a glimpse of such a huge change of scale. The Huygens probe was delivered to Saturn's moon Titan by the Cassini spacecraft, which is managed by NASA's Jet ...all » This movie was built with data collected during the 147-minute plunge through Titan's thick orange-brown atmosphere to a soft sandy riverbed by the European Space Agency's Huygens Descent Imager/Spectral Radiometer on Jan. 14, 2005. In 4 minutes and 40 seconds, the movie shows what the probe 'saw' within the few hours of the descent and the landing. On approach, Titan appeared as just a little disk in the sky among the stars, but after landing, the probe's camera resolved little grains of sand millions of times smaller than Titan. At first, the Huygens camera just saw fog over the distant surface. The fog started to clear only at about 60 kilometers (37 miles) altitude, making it possible to resolve surface features as large as 100 meters (328 feet). Only after landing could the probe's camera resolve the little grains of sand. The movie provides a glimpse of such a huge change of scale. The Huygens probe was delivered to Saturn's moon Titan by the Cassini spacecraft, which is managed by NASA's Jet Propulsion Laboratory, Pasadena, Calif. NASA supplied two instruments on the probe, the descent imager/spectral radiometer and the gas chromatograph mass spectrometer.« ★ 新潟の襄から。 とむさん ご近所さんの親切のおかげで雪かきの心配がないというのは 実に有り難いですね。 でもそれというのも、とむさんたちが「良き隣人」だからです。 きっとそうです。 「廃墟」は、エスペラントで表記されているのでしょうか。 初め、文字をローマ字読みしながら「これは何語だ?」と思いました。 エスペラントと聞くと、勝手な私の思い込みなのでしょうが、希望とか光とか未来とか夢とか平等とか、 そういう+の方向性を想起させることが多いのです。 それなのに此処では、「廃墟」という雑誌名や陰々滅々たる詩の内容が、ひどくそぐわない印象をもちました。 この詩、裏日本の冬空のようです。 そしてこの雑誌は、何を掲げて創刊された雑誌なのでしょうか? 一般的に雑誌の創刊と言ったら、世に対して声高に叫ぶものがありますよね。 それなのにこの詩は、憂鬱さだけが心の中に沈殿してしまう。 「不幸」だけは、嫌というほど伝わってきます。 「廃墟」と聞くと、「アメリカ人は廃墟好き」というとむさんの言葉を思い出します。 ★ Thomasから。 あの雑誌の最初の詩はたしかに沈痛だし、憂鬱ですね だけど、読んでいる貴方の念頭には、幸運にしてあのころの検閲制度の苛酷さがありません。 総ての出版物は検閲を必要としました。 言論の自由? 高齢の花でした。 思想的にあのころ一寸でも検閲官の基準から離れていると、黒い墨で削除されたものです。 出版禁止は日常茶飯事でした。 だから、あのころの雑誌ではうっかりすると、 「●●は、xxしていて、●●になると」とかいうキテレツ奇妙な記述 になることが多かったのです。ことに思想的に左がかった論文はみなそうでした。 憂鬱にしろ、あまり思想くさくない詩を巻頭に選んだには理由があると思います。 それにあのころ流行した思想的撲殺事件などは著者を愉快にはしなかったことでしょう。 講演会でもそうでした。講師の前に警官が陣取っていて、「発言禁止!」とのたまわると、それで御仕舞でしたか ら。講師も発言に注意したものでした。 あの時期からもう百年近く経た現在では、考えられもしないことです。 ★ Diary. February14. Sunday. ポーランド・ベンディンの要塞城VIDEO. 2月14日。 ベンディンの要塞城、 youTUBE のヴィデオ。 YouTube を、 Zamek, Bedzin, Poland で検索したら、下掲の Video が 見つかった。 http://www.gvsmedia.com/1/video/Mostu/yt-mstkYRPLUEY.html 大正末期のベンディン。そのころ丘の上のお城は廃墟だったし、大きなユダヤ寺院が立っていた。 ジャックの父堂はこのシナゴーグに通って育った。だが、1940年にドイツ軍が占領して総てを爆破してしまっ た。 ベンディンはポーランド最南部の上シレジアの町で、カトヴィーチェ(Katowice)近郊だ。悪名高いア ウシュヴィッツからそんなに離れていない。 下掲写真は上掲写真に見受けられる(もと大寺院の前あたりの現在風景)。 これらは、再建された要塞城の現在。 ひさしぶりにこのZamek (要塞)の散歩ができた。 ただし、Bedzinの町を画くVideoがな い。歩き回った昔がなつかしかった。 ★ 新潟の襄から。 2月14日(日曜日) とむさん とむさんからの郵便は、まだ届きません。 待っているのですが。 でも、遅れても子どもたちは大喜びです。 なんと言っても、アメリカからの手紙ですもの! 凄い雪ですね。 長岡並みです。 と言っても、現段階では長岡の積雪はすっかり少なくなっていますが。 今日はとても良いお天気になりました。 新生活を始まる息子の買い物に、またまた付き合いました。 東京での生活を始めるためには、事前に荷物を運び込み、 準備をしておく必要があります。 大学の説明会が3月10日に行われるのですが、その日に合わせて 電化製品や家具を配達して貰うことにしてきました。 息子が部屋で荷物を受けとることができます。 長男は親頼みが多かったのですが、次男は自分でとっとと進めるので、 その点は楽です。 ただしその分、用心深さに欠け、危なっかしい。 一長一短ですね。 慎重な長男は生活でも勉学でも過つことが少なく、安心でした。 次男は心配。浪費しそうな気配も漂っています。 勉強も、危ない。 不安だ!! もう日曜が終わりました。(T_T) ★ 2月14日、EST.早暁。 日本の日曜日が終わって、こちらが日曜日になった。寒い朝。今午前5時45分だが、チャックはもう教会オツト メで郊外急行のスケジュールを心配してる。ミサのあとLiturgistとLentのSchedule について、相談始めるそうだ。 また、このアメブロBlogの下書き、保存などの書きいれ仕様不調。厭にナる。 ★ 2月15日、EST.早暁。 今日は月曜日だが、教会でまたお葬式があるんだそうだ。 チャックに「緊急」電話があった。 はじめは隠居仕事奉仕だったが、こうなるともう本職だ。 これだけ彼の老後が忙しいし、彼が絶頂の信頼を受けているのが喜ばしい。 今午前5時。 極度に寒いし、僕の書斎窓外は一面に積もった雪。 フロリダからアンディが戻った。 そのうちにジェームスとやって来るだろう。 彼ももう70歳ちかい。高校の英文学教師だったが、六年前だったかに博士号を取得した友人。 チャックとほぼ同じ歳だ。street smartな男で、学校教師のみみっちい給料なんてなんのその、 蓄財と投資の腕がすごい。黒人町のどまんなかに豪勢な住宅を買ってもう半世紀近く住み、 貸家数軒の大家さんだ。そして、ブンガク博士だ。 もうご隠居さんだから、フロリダの別荘にジェットで通う大尽暮らし。 あんな高校教師は東洋には居ないだろう。常識超脱だから。 ★ Diary. February15. Monday. ハルピンからのたより。 (EST2月15日受信) ★ハルピンの金君から。 大兄 ご返事送れて済みません。聞くところによると、其方も大雪との事、ハルピンも今年は雪が毎日降 って います。お手紙に書いている大和ホテルは今の国際ホテルと推察します。日本人が建てた建物の中では一番素 晴しい建築です。ホテルは十字路の一角を占め、十字路の中央は広場で、真ん中には’ニコラ教会’で全部木 材造りです。釘一本使っていません。惜しいことには文化革命の時壊されて今はガラス張りの記念碑が立ってい ます。 十字路の右側に伸びる道路は大直街と呼ばれ、これが所謂新市街ではないかと推察されます。この道を沿 って行くと左側に建物に挟まれた教会があります。 (Thomas註:新しい、見たことがないハルピン) もう少し歩くと右側の街角に教会が一つあります。その教会はロシヤ人の墓場のそばにあり、墓場には日露戦争 の時旅順港を守ったクロポトキンの衣塚がありましたのでスラヴ系の教会に違いありません。そうすると前に述べた 左側も教会がポーランド系の教会だろうと考えます。 (Thomas 註:消え去ってしまった昔のハルピン風景、キタイスカヤ・ウリーツァ。) 私は教会にかんしてはまったく知識が無いので、只幼いときにカソリックの神父は妻帯せず、キリスト教民は禁 酒だと聞かされました。復活祭の時ロシヤ語先生の宅のパーテーに参加しました。スラブ教の神父様がお祈りを 上げて食卓に置かれた杯を取り一口に飲み干すのを見て驚きました。そばにお座りの先生がスラブ教は酒を禁じ ないし神父に妻帯も許可すると。但し生涯一回だけ。それで奥様を非常に大切にすると。先生のお願いで神父 さんは典型的のロシヤ人の酒の飲み方を私に披露しました。彼曰く酒は飲むのでなく流し込むと。頭部を後ろに 傾けて杯を倒すと酒は細い流れとなり喉に注がれます。人間味のあるスラブ教だと感心しました。聞くところに拠る と教民の禁酒はアジヤに限られた掟だとか。 お元気で。 church 1 は 上記のスラブ教会で今はキリスト教会です。 (Thomas註:写真が JPEG でなかったので、すぐに掲載できませんでした。ごめんなさい。 転載の仕方を習います。) ★ 金君。おたよりありがとう。ハルピンが懐かしいです。 勝手ですが、ちょっと前の写真三枚を飾らしていただきました。 ★後記。満洲の地図を見るたびにハルピンが占める地政学的重要さを感じる。 ①朝鮮半島からハルピンを通りホロンバイル平原を過ぎてウランバトールからアルマトイを経てカスピ海の向こう側 のアストラカンを結ぶのが、僕たち朝鮮、満洲、蒙古、韃靼、突厥族の生命線だった。 ②露西亜族の帝国主義的発展はその線の北側のシベリア鉄道、 ③漢族の西漸はその線の南側だった。 ④フランス、英国とアメリカの欧州勢力はさらにその南側にイラク、アフガニスタン、パキスタン上に直線を引いてい る。 これら四本の直線線魅かれる結果の葛藤と問題は現在にも尾を引いている。 ★ Diary. February16. Tuesday. 灰の水曜日。 日記。2010年2月16日。深更。 ★ 火曜日。 2月16日。明日は「灰の水曜日」、カトリック教会ではLent、即ち大斎節四十日の最初 の日だ。 欧州では、今日は大斎節直前の日なので、謝肉の日すなわちカーニヴァルだ。食べて、飲んで、酔っ払って、ふし だらの限りを尽くそうってわけ。 チャックがまさか、謝肉遊びをするはずがない、彼は午後全部をお御堂の掃除、祭壇の準備、真鍮磨きに捧げて 午後4時に戻ってきた。 僕は一日中、18世紀から20世紀にかけての露西亜庶民社会史を読んですごした。 露西亜の農民社会でいかに農民たちが搾取され、虐げられていたかを知って驚いた。 19世紀末に中欧から移民してきた人たちの悲惨さを僕自身よく観て知ってはいるし、友人たちにも欧州移民 末裔が多いが、やはり系統的に整頓してある歴史書は読むべきだと思う。 たとえば、コサックの歴史を僕はほとんど読んでいない。 ★ 水曜日。 2月17日。今日は、灰の水曜日だ。午前中ひさしぶりにひさのさんが来訪。日本語で喋れて 生きがえったような気分になった。午後5時にチャックはAsh Wednesdayのミサの助祭のために都 心にでかけた。 単純な一日だった。 ★ ハタノ先生から来信: インターネットで検索していて、私の朝鮮語の恩師である菅野裕臣先生が、小坂 狷二さんの弟子であることを初めて知りました。 http://www.han-lab.gr.jp/~kanno/cgi-bin/hr.cgi?autobio/autobio-1.html#esperanto わたくしは最年少のエスペランチストとして特に小坂先生にかわいがっていただ き,洗足の先生のお宅を何度も訪れ,先生のエスペラントの蔵書(これは今日本 エスペラント学会に所蔵されていると聞く)やタイプライターの打ちかけの原稿 も見せていただいた.わたくしはエスペラント気狂いが高じてやがて中学校で一 人でエスペラント展覧会をするまでになったが,この時も小坂先生は快く蔵書を お貸しくださり,わざわざわたくしの展覧会を見に来てくださった.また確か 1949 年 (昭和 24 年) 12 月の東京のザメンホフ祭では小坂先生がわたくしにエス ペラントで挨拶するようにと仰ってくださった.わたくしはエスペラントでスイ ス,ドイツ,チェコスロヴァキアのエスペランチストと文通を始めた.この頃の わたくしは英語の読解も作文も難しいものとほとんどあきらめていたが,エスペ ラントならば貧弱な語彙を駆使してほとんど自由に即座に,自分でも面白いぐら いに,口をついて出た(ただし恐らくそのエスペラントなるものは細部では誤り の多いブロークンなものではなかったかと思う) .中央区の社会科や理科の合 同研究発表会で月島第三中学校代表で国際語についての発表もやった. 『日本エスペラント運動史』に「満州エスペラント運動」をほんの少し紹介して あり、守随一さんの名前もでていました。波 ★ これで、小坂先生を中心に、僕の父、守髄小父さん、そしてハタノ先生の師菅野先生に一寸にしろツナガリ があったことになる。 ★ Diary. February18-19. Thu-Fri. 鹿地亘、宋慶齢、メーコン(GA)。 日記。2月18-19日。 たしか1975年前後の夏だった。ダーツマス大學を卒業してからもう二十年以上経ていた。在米ほぼ25年 目だった。 突然大學在学中の親友アルファ・ボンド(Alpha Bond)が手紙をくれ、メーコン(ジョージア州) のマーサー大學で社会学を教えていることを知った。 アルファは僕より一級上で、ニューヨーク市の東側を流れるハドソン対岸のTenaflyテナフライ町の出身 で、ヴァーモント・ヤンキーを父に、ノルウエイ出身の母をもつ少年で、社会学博士の学位はコロンビア大学大学 院から取った。 僕は当時もうイエール大学の仕事を終えて、ブリンモア大學図書館副長の職に移っていた。 フィラデルフィアから高速道路#95を南下し、デラウエアとヴァージニアを横断し、たあと、北カロライナを過ぎ、南 カロライナからオーガスタ付近でジョージャ州にはいり、南部の綿畑を走る道は格別だった。 綿畑の向こう側に林が散在し、まだ一世紀しか経ってない奴隷解放戦争時代からの誰も住まない荒れ果てた 黒人奴隷小屋が散らばっていた。 僕の目的地Maconメーコンは、GAジョージア州のAtlantaアトランタとSavannahサヴ ァナーを結ぶ直線の丁度中間点にあった。この直線路は南北戦争中に北軍が使った焦土戦術で有名だ。北軍 は南軍を攻めるのに、総てを焼き尽くし、総べてを破壊したから。 米国南部の農村風景はそれなりに美しい。 メーコンでは、アルファ夫婦に会い三日を過ごしたが、その際その町にあるメソヂスト教会系のウエスリー大學図書 館を訪ねた。 その訪問には、僕の少年時代にまつわる思い出があった。 支那事変と呼ばれたあの戦争中の1938年ごろだった。「天に替わりて不義を討つ」とかで始る軍歌が流行り、 南京や重慶が新聞の第一面を飾っていた時期だ。何時だったかを、僕はまだ子供だったからよく覚えていない。 鹿地亘という人が居た。 亡命した重慶から対日放送を続けていた。僕たち一家は短波ラヂオで国際放送を密聴取していたから、それぐら いのことは知っていた。 (鹿地亘) その際鹿地さんがまず亡命した上海で世話になったのが宋慶齢女史だった。 僕がメーコンを訪問したそのころには宋美齢も宋慶齢もまだ生きていた。その宋慶齢がメーコンのウエスリイ大學を 卒業した。(妹の宋美齢はウエスリイ大學に入学したあと、ボストンのウエルズリイ大學に転学した。そして蒋介 石に嫁いだが、太平洋戦争中彼女が話す流暢な英語にジョージャ訛りが這入っているので有名だった。それに、 ウエルズリイー大學はブリンモア大學の姉妹校だ。) 前置きが長くなってしまったが、このウエスリイ大學図書館の公文書部には宋慶齢自筆の手紙がどっさり残ってい た。みすぼらしいダンボール箱に。 共産中国になってから、宋慶齢はその副大統領に選ばれていたが、冷戦中を通じて綿々とウエスリイー大學とは 文通を続け、母校に対する彼女の愛情は死ぬまで消えなかった。誰かの歴史学修士論文の基礎材料にはなる だろう、ことに日本出身女性の学者にとっては。 短く書くが、メーコンからの出身者にWilliam Burke(ウイリアム・バーク)というメソジスト教会 宣教師が居た。 チャックの兄と同名だ。あの家系の長男はよくウイリアムと名付けられる、ノルマン・英族の一家の初祖がウイリアム 公爵だったからかもしれない。この宣教師は上海南部の松江(ソンジャン)の町に教会を建てたが、日支事変 中松江住民保護に尽力し、真珠湾勃発後日本軍により拘引軟禁されたが、1942年に僕が読んだ記事に よると松江住民の歎願により日本軍が1942年に釈放したはずだ。 彼は戦争中に松江で死んだと思う。委細は知らない。彼の一生も、確実に誰かの卒業論文にはなる。彼の英 文自伝が一冊存在するはずだ。 僕はその自伝を50年前に一度読んだ記憶がある。勿論もう絶版だろうが。 ★★★ Comments 1 ■こんにちは 移民されてからの方が長く過ごしてらっしゃるのですね。日本では、戦後からずっと報道弾圧があり、かなり不自由していますが、そち らはいかがでしょうか? 宋家は、上海で聖書印刷で財を成された一族で、アメリカでも南部でも、メソジスト教会関連者の方たちとの御付き合いがあって、 力を持っていらしたとか。 私は被害が在って、宗家の方達の事はあまりよくは思えないのです。 でも、みんな、それぞれの御国でのそれぞれの時代のそれぞれの方達の思いがあっての事と思われます。 「心を尽し、精神を尽し、力を尽して、善なる神を信じよ」 聖書の、GODですが、GOODとして、聖書中の善良な霊から来る存在は、当てはまると思われませんか?それ以外の霊は、ピ ックアップの仕方からか、善霊と思えないものが在る気もします。それは、GODとか? 「狗のような者」は、マフィアの庭でよく飼われていたドーベルマンのように、邪悪で人を殺す活動であれ、忠実に仕えて命令を実行す る人。 ヨハネの第一の手紙4章 1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者 が世に出てきているからである。 3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて 聞いていたが、今やすでに世にきている。 ヨハネの第一の手紙5章 21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。 May GOOD bless you! nao_a_jp 2011-04-17 07:50:58 Diary. February19. Friday. 西羽潔先生逝去。 国籍を問わず日本海外に住む僕たちにとって、重要な存在でいられた西羽潔先生が 2 月 17 日に逝去された。 勝手ながら、公表されました、ご長女森岡めぐみさんからのお手紙を転載させて戴きます。 米国東部時間、昨日金曜日の午後10時に告別式が芦屋市で催されました。 僕たちは真に日本を愛し、世界を愛する友を失いました。 謹んでお悔みもうしあげます。 ★ 西羽潔逝去について(長女より) 差出人: 西羽さん "NISHIHA Kiyoshi" 送信日時 2010/02/18 21:40 ML.NO [no_more_war:24033] 本文: 「戦争を語り継ごう」メーリングリストの皆様 初めまして。西羽潔の長女、森岡めぐみです。 皆様に父、潔が昨日、2 月 17 日の夕方に永眠したことをお知らせする ため、このメールを差し上げました。 父は 3 年半前に、突然、進行の早い悪性のスキルス性胃癌の末期、ス テージ4であることがわかり、余命 1 か月と宣告されました。しかし 父は不屈の意思で転院し、それから厳しい抗癌剤治療に耐えぬきまし た。昨年 6 月は出血が止まらなくなる危機を外科手術で乗り切り、な んとか命をつなぐことができたのです。しかし先月末に、毎月モニタ ーをしていたのにも関わらず、肝臓に大きな腫瘍が発見され、あまり の進行の早さにこれ以上の抗癌剤投与は危険であり、なすすべもない ことが主治医から告知されました。 そこで父は覚悟を決め、身の回りを整理し、私たち子どもを集め、今 後のことについて託し、無用な延命治療は不要であると、自宅での終 末ケアを望み、私たちもそれを支え、昨日、全うしました。 父が最後まで気にかけていたのが、このメーリングリストです。 じつは先日最後に父が皆さまに病状悪化をご報告したとき・・・その ときはまさに病気の深刻さは瀬戸際まできていたわけですが・・・パ ソコンを開いて、見る力さえありませんでした。しかし父は皆さまに ご心配をおかけしないように、ぎりぎりまで公表を控えていたと思わ れます。わたしは父に頼まれ、口述筆記で投稿させていただきました。 すると、さっそくに皆さまからのあたたかい励ましや、感謝のことば をたくさんいただき、わたしは心を打たれました。紙に打ち出して父 にみせると、もはや起き上がる力もなかった父は、横になったまま、 震える手で一枚一枚、目を通しておりました。元来無口な父は特段な にかを話すことはありませんでしたが、感極まっていたようでした。 それが死にいく父のどんな慰めになったことか。最後に自分のやって きたことは実りあることであったと確認することができ、たいへん幸 せであったと思います。 皆さまには長年、父とともに想いをわかちあっていただき、病床にあ たたかいお言葉を寄せていただいて、ありがとうございました。 また、管理人を引き継いでいただいた、堀池さまもありがとうござい ました。 なお、父の「お別れの夕べ」と「告別式」についてご案内させていた だきます。故人の遺志により無宗教で行います。お香典は遠慮させて いただきますが、お気持ちを頂戴した場合は、やはり故人の遺志に 従い社会貢献に寄付させていただきたく存じます。 故 西羽潔 「お別れの夕べ」2 月 19 日(金)18 時~19 時半 「告別式」2 月 20 日(土)12 時~13 時 場所(両日とも) クレリ芦屋ホール 2階 芦屋市浜芦屋町4-21 0797-34-3232 阪神芦屋駅徒歩 4 分 喪主 西羽真 (長男) 無宗教方式ですので、宗教的行事がない分、会場で父の活動を取材 していただいた過去の NHK のニュースを一部紹介させていただこう かと考えています。この「戦争を語り継ごう」の活動は、父の心血を 注いだ仕事でしたので。 本当にありがとうございました。 ★★★ Comments 1 ■本当に惜しいです MLで、私はお世話になってました 西羽さんのメンバーへの対応ぶりは、おそらく誰も真似ができないでしょう ひそかに、私は憧れてました 病気と闘いながらも最後の最後まで、伝え続けた、あの精神力も驚きました その意志は我々に確実に受け継がれております トーマス様もいつまでもお元気でいてください 語り部 なまくら二等兵 2010-02-21 18:38:39 2 ■心暖まるお手紙 森岡様のお手紙、読ませていただきました。 世界平和のために、「戦争を語り継ごう」の活動に尽くされた西羽潔先生。 そして終末ケアのご家族の様子。 存じ上げない方ですが、心暖まるお手紙です。 西羽潔先生のご冥福をお祈り致します。 grow-greens 2010-02-21 22:15:46 3 ■Re:本当に惜しいです >語り部 なまくら二等兵さん 虚心坦懐な方でしたね。 僕のように海外で日本を眺めててあの太平洋戦争を過ごした人間にとって、西羽先生のBlogは嘘をつかない、自分を騙さな い、そして相手の言い分をよく聞く人々の集まりですし、いつもそうでした。 僕の人生もあと少ししか残ってません。先生の最後を見習います。海を隔てているので、お葬式に出られなかったのが残念です。 書き込みありがとうございました。 あの集いの発展と成功をアメリカから祈ります。 Thomas thomas-penfield 2010-02-22 06:52:52 4 ■Grow-Green さんのコメント。 このコメントが現れませんが、通知がありましたので明日の記事欄に転載させていただきました。 Grow-Greenさん書き込みありがとう。 Thomas thomas-penfield 2010-02-22 18:23:20 Diary. February20. Saturday. みすず、2009 年度アンケート特集。 日記。土曜日、2月20日。早暁。 ★ デ・ローザ駆虫会社の一年間契約に169.60ドル払った。完全な駆虫は不可能みたいだ。毎年一 度やってきては消毒剤を吹捲ってくれるが、有効だった毒薬が使用禁止になって、代用薬を使っている。 今日は土曜日。チャックはまたもや大斎節の教会オツトメ。応接間大窓外のデッカカッタつららが解けて地面に落 っこちた。あたり一面が雪景色。ロビンの群が昨日中飛来しては Ivy の赤い果実をつば続けた。 今朝そのIvy樹木は赤い果実が、もう視界から消えた。 ★ ミミズ書房。2009 年度、読書アンケート特集。 昨夜、東京からシンヤが送ってくれた”みすず、#579、2010年1月2月合併号”の2009年読者 アンケートを読んだ。 素晴らしい書評集だ。アメリカにはこんなに親切で、よく纏めていて、便利な年刊はない。 ただし苦言。前にも、後にも、まともな見出し、索引が全然あんまへんな。 後学者をもっと親切に扱ってくれるとね。 ★(キャロル・グラック。58頁。) ① Bruce Cummings の”Dominion from Sea to Sea: P acific Ascendancy and American Power”(Yale,20 09)を評価している。 ② Watt, Lori.When empire comes home: Repatria tion and Reintegration in Postwar Japan.(Har vard, 2009)は、ことに満洲から引き揚げた日本人たちを日本内地がどう受け入れ、待遇したかを 詳細に綴る。僕たちあのころの植民社会から戻った連中の生涯を、同じような経験を辿った欧州の連中(英国、 フランスの黒足など)と対照して調べてるらしい。 ③ Nelson, Crhistopher. Dancing with the dead: Memory, performance, and everyday life in pos tWar Okinawa。(Duke, 2008) も沖縄における同様な問題。 アメリカで日本社会が内包する”異端種類取り扱い”に注目しているのは良いことだ。それだけ、東洋社会の本質 に関して理解が生まれている証拠なんだろう。 感想: 三書を見る視点が纏まっている。 ★(三原弟平、24 頁) ④ 家永三郎著。”数奇なる思想家の生涯、田岡嶺雲の人と思想”(岩波文書、1957-8)を独逸文 学者の三原弟平が綴っている。(家永先生はダーツマスで教えたあと、イエールで教えて人生を閉じた。) ★(富原真弓、44頁。) ⑤ アーサー・ケストラー。”真昼の暗黒”。中島賢二訳。(岩波文庫、2009) アーサー・ケスラーが書いた ”Darkness At Noon”は、”またもや反共文学書”だとあの左翼 狩りが連続した時期に馬鹿にしてよく読まなかった・ボルシェヴィキの奴隷社会が明るみに出た現在では再評価さ れてるようだ。僕も再読する。あのころ1984年は遠い未来だった。今じゃ遠い昔だ。(富原真弓、44頁) Diary. February21. Sunday. 父、思い出すままに。 日記。2 月 21日。日曜日。 ★ Grown-Greenさんから。 森岡様のお手紙、読ませていただきました。 世界平和のために、「戦争を語り継ごう」の活動に尽くされた西羽潔先生。 そして終末ケアのご家族の様子。 存じ上げない方ですが、心暖まるお手紙です。 西羽潔先生のご冥福をお祈り致します。 ★僕の父、思うままに。 僕は父をよく知らない。東洋でも、アメリカに逃げて来ても、理解していなかった。 僕ほど親不孝だった人間は居ないだろう。 彼の生い立ち、人生にまつわる委細は残酷だった。 僕自身でこう書くのは気が引けるが、僕の少年時期は上海事変、満洲事変、支那事変と僕たちが住んでいた 大連を多かれ少なかれ囲んで血生臭い情報が渦巻いた。そして、朝鮮少年ではあったにしろ、僕は植民社会の どまんなかで、日本人として、純日本人文化内で育っていた。小学校の大部分一緒に学び一緒に遊んだのは全 部日本少年ばっかりだった。山形県出身の担任先生が父親のように、僕を庇い、僕を指導してくださった。 中学に入り、あの皇国熱風のさなかで、僕自身の祖国を模索し、苛められているまま、伏見台のあの教会に逃 げ込んで白系露西亜子弟仲間に加わり、中学では中華系級友たちの仲間に入ったりしたのは、ずっとあと、真 珠湾事件以後の太平洋戦争中だった。 やがて、総てが終わった。六十年が過ぎた。 あの時期に、父は悩んだだろうし、彼の苦衷は察するにあまりある。 だが、あの戦争憎悪の渦巻きの最中でも、彼は日本人を絶対に憎まなかった。 太平洋戦争終了 10 年後に、アメリカ・アーケンソーの山奥の訓練師団基地の兵舎で、大岡昇平の「俘虜記」 を読みながら、僕は父が正しかったことを思い知らされた。 その時すでに、僕はアメリカ兵士の軍服を纏っていた。 エスペラントは父が僕に残してくれた一番重要な遺産だった。 Diary. February22. Monday. 日記。2 月 21 日、22 日。 午後四時ごろにひさのさん来訪。 お願いしてあった、ToshibaーL505を届け、取り付けには、ご主人のゆうじさんが電話で指示してく ださり、総てがうまく行った。でも、このLaptopの使用はマニュアルを読まなければならない。 ひさのさんが居られるから良いものの、コンピュータの総てが変わってしまってるから、また心配ごとが増えた。 僕がダーツマス大學一年生のとき、形式論理学の講座をとったときはまだ、Truth Tableが存在し て、バイナリー表記なんてありもしなかった。ポーランドのタルスキ教授がPolish Notationを 編み出して学会で問題になったのは米国陸軍から僕が除隊して大学院に戻り、こんどはMathemati c Logicと改名された講座をやりなおした時だった。Computerはまだ存在せず、僕たちはPr ogrammingを形式論理学方程式の筆記法を使って習った。バイトじゃなくて、当時はビットだった。 Fortran,Cobol, PL-1など全部を習った。数字のほかに、英語単語を扱うにはすべてを Declare(前述)しなければならなかったし、SORTという単語がなかった。 今とは世界がもう違う。 ★★★ Comments 1 ■お久しぶりです。(^ω^) トーマスさん、お元気ですか。 初期のコンピューターの話、興味深いですね。 私はずっとコンピューター会社で働いていますが、Fortran は大学の数学科以外では使ったことがないです。 最近、MS が F#という言語を開発しました。Fortran の影響もあるようです。 論理学はフレーゲが有名ですね。彼の著書も勉強したいと思っています。 ちなみに、最近、日本では MS などがコンピュータをコンピューターと書くことにしたようです。 世間の表記にあわせたんですね。(^ω^) toraji.com 2010-02-25 20:30:20 2 ■Re:お久しぶりです。(^ω^) >toraji.com さん Comment ありがとう。 僕の世代はBASIC以前でした。あのころ、僕たちはFORTRANとCOBOLを両方とも使わされました。 SORTはAssembly語を使ってSubroutineとして呼び出したのです。勿論Direct Stora geがなかったから、Tapes 開けたり、閉めたりでした。 僕のように東洋人の顔をしてたら、掃除人じゃないから、職員だというわけでIBMで書籍や参考書は湯水のようにくれました。 もうあんな時代は戻らないでしょうね。 Thomas thomas-penfield 2010-02-26 02:07:41 Diary. February23. Tuesday. 早暁。 日記。水曜日。2月23日早暁。 一日中雨がじくじく降り続けた。コネチカットの家内から電話。あそこでは雪が積もったという。 長女のアナスタシアがはネヴァダのラスヴェガスに飛ぶそうだ。亡くなった姉マリオン系のいとこ家族たちとあそこに集ま って騒ぐのだって。確実に僕の一家はこの国に定着している。 一日中新しいComputerと過ごした。・ ★ エスペラント記事を通じて、新潟のハタノ教授と東北大学のゴトウ教授から来信。 僕の父母についての情報がすこしずつわかってきた。 Internetはとてもありがたい。 母は日露戦争前後に朝鮮水原、父は19世紀末に忠清北道永同で生まれた。 だが、僕は父母の東京時代に東京で生まれて、満洲で育ったから、僕には両場所ともあまり関係がない。 それでも、アメリカで育つ身内の子供たちのために、一応記録は残しておきたい。 あと五、六年しか時間が残らないだろうから。またそうするのが、長男の僕の責任でもある。 ただし、十民族かれ構成する僕の孫世代がどうこのような記録を扱ってくれるか? 作成した記録のCopyはDartmouth大學図書館の古文書館には、日本語と英語全記録とも 来年末まで収めてしまうつもりでいる。(僕はあの大學の最初の朝鮮族学生二人の一人だし。) 書き加えるが、朝鮮王朝最初の英語学院の教師はオリヴァー・ハルバートHulbertで日露戦争前後に セオドール・ローズヴェルトに国王高宗が送った密使だった。(手元にノートがないが、Hulbert は1886年にダーツマスを卒業して、彼の記録ファイルはダーツマスの古文書館にあるのを僕は確かめた。 事前に日米秘密協約が存在していて、ハルバートは門前払いにされた。彼は1948年に僕がソウルを離れる 直前に韓国に戻ったがソウルで死んだ。韓国人民の国葬を経て、ソウルの墓地に眠る。僕がダーツマスに入学し たのは、その一年あとだった。 ★ Diary. February24. Wednesday. ロンドンの新米国大使館計画と高山右近の 高岡城。 日記。2月24日。水曜日。 定例水曜日で、ひさのさんとBorders書店でお茶。午前10時にお会いして、3時間楽しく駄弁った。 チャックは水曜日だから、午前中全部が教会奉仕。午後2時に二人でCVS薬局に行って、僕の投薬剤を受 け取って戻り、落ち着いた。 今日のNYタイムスに今回、ロンドンに新しく建設されるという米国大使館の予想図が大きく掲載された。 もう何回も僕たち二人はロンドンを訪れているが、ハイド公園東北にあるエドワード・リア(Edward Lear)ホテル が定宿だ。清潔で安価だし、朝食がふんだん、大理石門がすぐ傍でバス利用交通至便だから。みみっちい僕たち 老人年金生活には最適ってわけ。勿論、ロンドンに行ったら僕たちは毎度腰を落ち着けて、十日か二週間は滞 在する。自動車利用なんて考えもしないで、もっぱらバスか地下鉄で暮らす。外食はできるだけしない。 デパートの食品市場で既成品のサラダかサンドイッチを買って、ホテルのCoffee沸かしを使って済ましてし まう。英国の食事は世界一不味いし、高価すぎるから。笑。 そのロンドンでできるだけ通う教会が農園路のジェズイット教会だ。リア・ホテルからオクスフォード路を越えた南部 中心にあり、歩いて通える。そして、頻繁に(僕たち二人にとっては懐かしい)ラテン語のミサが催される。アメリカ では殆ど消え去ってしまっている現象だ。あれだけ過ごいカトリック迫害があった英国にしろ、ロンドンでこの教会通 う信者は多い。勿論地元の人々だ。読者はエヴェリン・ワウ原作の「ブライドヘッズ再び」を覚えているかもしれない、 あの小説にもこの教会が出現する。前世紀のアングロ旧教徒たちにはお馴染みだった古い教会だから。 農園路教会に通うたびに通り過ぎる建物に、グロスヴェナー広場の米国大使館がある。 僕が嫌いな建物だ。ジ ョージャ風な民家が林立して囲む広場の西側にEeero Saarinenがデーンとおったてた「最新 式に窓がやたらに多くくっつけてある倉庫状なバウハウス」で、入口の頭上にでっかい鷲が、来訪者の頭をあたかも つっつくように睨みつけている。 9・11世界貿易センター爆撃事件後、このグロスヴェナー広場は要塞化してしまった。あちこちにコンクリート製 の防御低壁が設けられ、厳重な警戒体制が大使館を囲む。至極平和だったロンドンの中心の高級住宅地の真 ん中に大アメリカ帝國を誇示するために設けられた大使館だったから、環境が一変してしまった21世紀ではこの ようなぎくしゃくした現象がシュッタイするのはやむをえないだろう。 上掲の世界貿易センターが暗示するように、アメリカ帝國最強時代の建築の主眼は Monumentality だった。 虚空に聳え、周囲を睥睨するのが目的の一つでもあった。 上掲はグローヴェズナー広場の現大使館場所と南部にある移転場所の地図だ。ロンドンが大都市として形成さ れてしまったあとだから仕方がないが、エルムス路が大使館の脇を素通りし、花市場は傍にあるらしい。 睥睨はともかく、問題が防御なんだろう。だけど、エルムス路が脇を走り、川にそって連立する建物が「背水の陣」 防御を不可能にしている。ただその点で、設計が溜池を設けているのは愛嬌がある。良い着想だと思った。 写真と地図を調べながら思い出したのが高山右近だった。少年時代に熱中した切支丹大名だ。彼は関が原の あと徳川家康から疑われ、石川県の前田家に「亡命」的に匿われた後、一般的な切支丹追放時期になり、棄 教を拒絶し、フィリッピンに追放されてかの地についてまもなく病死した。 彼が恩顧をうけた前田利家のために設計したのが高岡城だと言われている。 彼の設計では、本丸の前部が堅固に堀によって防がれている。当時の地勢的条件で、本丸背後は問題でなか ったらしい。まさか、高岡をロンドンに引っ張りこむという話ではないが、数百年後の今日、本の丸、二、三、四の 丸配置に関する高山右近の着想の豊富さに感心した。 欧州式築城との違いは本丸の位置と周辺防御に使う二の丸や三の丸だ。 欧州の城は本丸だけで、頑固に造られているが、周辺防御区域が狭いか欠落しているのが多いようだ。 大東亜戦争では、日本軍は周辺防御区区域が膨大で、太平洋一面に広がり、(東京)本丸が手薄だった。 歴史的に残る本丸では、木造建築さえあると指摘されているのを読んだことがある。 水の活用を考えた高山右近の設計は一寸奇異でさえある。(勿論籠城の際必要な、飲用水も考えたのだろ う。) 惜しいことだが、高山城は設計のあとを残すだけで、現存していない。訪ねてみたいなとはよく思う。 Diary. February25. Thursday. 1926 の父、宋禹憲。当時東京芝区在住。 日記。2月25日。木曜日。ひねもす降雪。 ★ 7時に食堂の窓外を眺めて、「雪がやんだね。灯篭が露出してるよ。」と言ったら、チャックが「とんでもない、 今日はまた降り続けるんだよ。」と答えた。 案の定、それから30分も経たないうちに降り出した。新潟に電話しが、襄は学校の宴会だそうだ。(彼等はよ く飲みますね。笑。) ● 午後9時半。 雪はまだ降り続けている。ただし、あまり積もらないが吹雪。 ● 父自筆の年譜を何処に仕舞いこんだか見つからない。そのうちに出てくるだろう。 ●一日中、別冊環⑯、藤原書店、を読んで暮らした。宮脇淳子の「大清帝國とジューンガル帝國」、164頁、 「近代ユーラシアのなかの大清帝國」、290頁が興味深い。ただし参照英文書籍が皆無。清朝が興隆から 繁栄期に入り、すぐに国運が傾斜し始めたのに驚く。 Owen Lattimore、「Manchuria.Cradle of Conflict」 が届いた。復刻版らしいが、既に古い。 ●読書するBibliographyはできるだけすぐに纏めるつもりだ。 ★★ 東北大学の後藤先生から:1926年(昭和1年)に父が既に東京に来ていて、 1926 年の日本エスペラント学会名簿と La Revuo Orienta 1933 年 12 月号 に記載されている旨知らせがあった。。 ●1926 年にはご父君は芝区三田四国町2の4号秋山志摩吉方に住んでおられた ようです。守随の住まいとも遠くはないようですが、当時から親しかったか どうか。二人が日本エスペラント学会評議員になるのは 1928 年ですから、 このころから学会に顔を出していたことは考えられますが。 もうひとつは La Revuo Orienta 1933 年 12 月号掲載の「宋禹憲氏の満洲行」 です。sindonema 且 humila laboranto, kas^ita laboro, 「宋氏の 謙遜そのものの謝辞」など、ご父君のお人柄を偲ばせる言葉が連ねられて います。 東京時代にはご父君自身による文章は、La Revuo Orienta 誌に掲載されて いないようです。 ●http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/temp/ 上掲データを調べたら、1937年12月大連エスペラント学会集会のプログラムが掲載されていた。集会につ いての、父からの報告だったと思う。(この写真には、このBlogでもう数回触れた。) Diary. February26. Friday. 東京三田近辺。僕の一族、2001年撮影。 日記。金曜日。2月26日。雪、午後2時以後晴。 ★ひさのさんから。 トーマスさん お父様が三田近辺にお住まいだったとのこと 従妹が綱町に住んでいたので、あの界隈は、よく覚えています。 港区は、坂の町と呼ばれ、坂の上の高台に豪壮な屋敷が並び、坂の下は、庶民的な町や商店街がありました。 中学生になって英語で down town という言葉を習った時、すぐにその近辺の情景が目に浮かびました。(それ も今から40年前です、もう殆ど残っていません) http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/news/31.html この中に出てくる府立第3は、名門女子校。私が私学の中学に入った時ですら、勉強が出来る上級生は、高 校で受けなおして移っていきました。(今の公立の不人気を考えると隔世の感あり) 四国町の辺りは、たぶん戦災で焼けてしまったのでしょう。戦後は、小さな家や工場などがありました。 ★朝中吹雪で少し積もり、午後になったら晴れた。 まだ、昨日後藤教授から戴いた、父の在東京時期(1926年)の情報が齎したショックから醒めていない。 ★ひさしぶりに、やっと東京の進也から。彼のComputerがどうやら「運行」開始。 朝から雨が降っていたので木更津行きは中止。しかし、気温は高い。ストーブはいらないくらいだ。フィラデルフィア とはだいぶ違うね。ただし、この気温はちょっと上がりすぎで、来週にはまた寒くなりそうだ。長期予報では今年はエ ルニーニョの影響があって低温だというが、東日本は暑くなるという。 エスペラント学会は記録をよく保存しているようだ。東京芝の四国町と言えば、たぶん慶応大学の近辺だったはず だ。君のお母さんは当時どこにいたのか、帝国女子医専の近くにいたのかな。こちらの探索は分かりにくい。学校の 在籍学生の記録でもあればわかるかもしれないね。 清朝も満洲もわからないことが多すぎる。でっち上げの国満洲だって参画した人たちは呉越同舟だったのではない か。理想に燃えて夢を託した人もいれば、満洲浪人と言われたゴロツキもたくさんいた。寄ってたかって十数年傀 儡政権を牛耳っていたわけだ。民衆こそやりきれない。僕は中国人で当時の政治にかかわった人たちの証言がほ しいと思うが、ないのだろうね。 今日は休養にあてるが、税金の申告の書類をつくる。手続きは西村君にやってもらっている。そして、2 月も明日 で終わりだから、3 月の準備をしなくてはならない。明日は延期した木更津に行く予定。11 時 15 分 ★新潟の襄から。 とむさん 曇りながら穏やかなお天気。 先週はお休みしたスポーツジムへ。 背中の筋肉が、どうも肉離れを起こしたようで、痛みます。 時々、激しい痛みが走ります。 ゆっくり伸ばしながら、身体をほぐしてきました。 脚の背面も凝り固まっていて、前屈もできない有様。 膝の裏側から内股にかけて指で揉みながらゆっくり伸ばしていきました。 教員の世界は、酒の席が多い。 いまだに「接待体質」が強く残っていて、何か指導を受けると指導者を「囲む会」。 行事の度に「反省慰労会」。 地域の協力者やPTAとの「懇親会」。 酒の席を設けることが礼儀となっています。 酒なんて無くても、礼は尽くせると思うんですけどねえ。 ★ どうやら僕のBlogの井戸端会議が平常に戻ったようだ。進也のComputerが機能してるし。 だけど、僕たちの新しいComputer,トーシバ、はまだ慣れてない。専ら今までの手製機械で運行して いる。 それに、写真、書籍、書類が未整理すぎるし、フシダラになってしまってファイルが滅茶苦茶。 傘寿を過ぎるとこうもなるんだなと厭になる。 次世代の在米恩津宋家たち。両方とも中央が僕。ただし、十年前。 Diary. February27-28. Saturday-Sunday. 二月月末。 2月27-8日。土・日曜日。 ● もう月末で、月曜日から三月。今朝(土曜日)に眼が醒めたらまた雪が降っていた。Newsはチレーで 8.8度の地震があったことを伝えている。寒いので一日中引篭った。チャックは今日も週末の教会お勤め。 ● 日曜日。今午前6時15分。チャックは丁度教会へ出勤。まだ真っ暗だ、ひどく冷えるが雪は止んだ。だが、 予報によれば、水曜日にまた大雪襲来とのこと。 ★東京の進也の新コンピュータが起動しだして、今朝も通信: 今日は予定どおり木更津に行ってきたのだが、天気を読み違えた。昨日は 9 時にはもうやんでいたが、今日はま だ雨が降り続いている。あすに延期はできないから雨の中を出掛けた。ところが、昨日チリで起きた地震の影響で、 津波が来るという。房総半島の太平洋岸や先端部分には電車が行かない。津波の到着時間は午後 2 時ころ という。もしかして電車が不通になると困るから、今日は早めに帰宅することにした。本八幡に着いた時には雨も 上がって晴れたが、風の冷たい 1 日だった。 『中国残留日本人という経験』蘭信三編、勉誠出版、2009、を読んでいる。ここでいう残留日本人とは、 残留孤児、残留婦人のこと。なぜ彼らが取り残されたか、帰国事業で帰国してからの生活、家族の呼び寄せ、 さらに孤児2世たちの言葉の問題、最近の国家賠償訴訟にも触れている。厖大だが、さまざまなケースを取り上 げていてよい研究だと思った。だが、多くの場合、彼らが十分な補償もなく、かつ孤立しがちなことが引き続き問題 だ。どこの国も同じかもしれないが、日本は特に戦後処理には不備が目立つ。進也、19時15分 ●中国に六十年前に遺棄された人々ね。気の毒だ。 ベオグラードの北、もとユーゴスラヴィア東北部、(ハンガリアやローマニアに接している)Vojvodnaヴォ イヴォドナは多国籍地帯で独逸植民たちがずいぶん住んでいた。ほとんど全部が二次大戦後追放された。(満 洲在住の日本人は米国軍の好意で、ヒキアゲという制度で米軍が葫蘆島や大連経由で人々を運んでくれたら しい。独逸植民たちにはそんなことがなかった。) (露西亜も勿論だった。)独逸は独逸族旧植民たちは全部無条件で受け入れた。その子供たちや孫たちがア メリカにも大分来ている。Vojdvodnaの首都Novi Sadで生まれた友人が昔一人居た。とっ くの昔に彼の父母が独逸を経てアメリカに移民してきていて、彼はどこかの大學で臨床心理学の教授をしている。 せめて独逸を見習ってくれたらね 満洲出身の日本人女性で帰還後、日本に住み辛くて、ブラジルに移民してから朝鮮戦争で捕虜になって釈放 されてから以北帰還を拒絶してサンパウロに送り込まれた元北朝鮮捕虜と結婚した人のことも聞いたことがある。 似たり寄ったりだよ。 ★★★ Comments 1 ■チリ大地震の津波 当日、お台場にチリ大地震の津波を見に行ったのですが、10cmぐらいの波しか来ませんでした。 ちょっと予報が外れたみたいですね。(^ω^) http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10470297948.html toraji.com 2010-03-04 21:42:39 2 ■Re:チリ大地震の津波 >toraji.com さん 大西洋側に住んでいるので、太平洋沿岸に酷く鈍感です。チリーの損害は甚大であるようですね。 米国は拱手傍観って感じがして、すまなく思います。 コメントありがとう。 thomas-penfield 2010-03-05 04:57:00
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