分子スピン量子コンピュータ/ 量子情報処理システムの開発

夢を実現しよう 6
分子スピン量子コンピュータ/
量子情報処理システムの開発
化学のチャレンジ−真の多量子ビットコンピュータへのロードマップ
●
北川勝浩 工位武治 佐藤和信 森田 靖
Masahiro KITAGAWA
Takeji TAKUI
Kazunobu SATO
Yasushi MORITA
量子アルゴリズムを実行した画期的な量子コンピュータ(QC)は、実にフッ素置換分子のフレームワークで達成された。以来、
/量子情報処理(QIP)システムの開発に向けて、様々な物理系で実験的試みが進展し
最近の数年間、量子コンピュータ(QC)
た。一方、真の多量子ビットQC/QIPシステムの開発上の問題点も明らかになり、いよいよ、物質合成の魔術師である化学者の
登場が待たれる段階に入った。
発見したことによって一躍注目を集めることになった3)。
はじめに
今なぜ量子コンピュータか?
直近の数年、量子情報技術は理論と実験が融合した
2007 年 10 月 21 日に実施されたスイス連邦の国会選
新しい学際領域として飛躍的に発展する段階に入っ
挙において、ジュネーブに本社を置く id Quantique 社
た。この領域はすでに、量子エレクトロニクス・超伝
の量子暗号通信技術が、中央集計センターへの選挙集
導を含む量子物理学を中心に、情報科学・数学、分子
計の通信を盗聴・妨害から守るために使われ、量子情
科学を横断しつつある。本稿ではまず、今なぜ QC/
報技術の実用化の時代が到来したことを印象づけた。
QIP なのかに焦点を絞って研究の技術的、社会的背景
ここ数年来、
科学技術立国を標榜する先進各国(豪州、
を概観し、量子コンピュータが化学者にとって物質探
シンガポールを含む)では、量子コンピュータ(QC)
求・合成の挑戦/好機であることを示し、真の QC/
/量子情報処理(QIP)の開発・実用化を視野に入れ
QIP を実現するための化学的なロードマップを描く。
た国策的な研究機関の設立や研究ファンドの確保が相
インターネットに代表される今日の情報化社会は、
次いで実現し、最近 10 年間の開発競争は日進月歩の
暗号技術によって支えられており、その代表的なもの
1)
が Rivest、Shamir、Adleman の 3 人が 1977 年に発表し
感がある。量子コンピュータは 1985 年の R. P. Feynman 、
2)
D. Deutsch の理論的考察・研究に始まるが、1994 年
た RSA 暗号と呼ばれる公開鍵暗号である。RSA 暗号は、
に 米 国 AT&T 社 Bell 研 究 所 の 数 学 者 P. W. Shor( 現
大きな素数の積からなる整数の素因数分解に整数の桁
MIT)が素因数分解を高速に解く量子アルゴリズムを
数に対して準指数的な手間がかかり、百桁程度を超え
るとスーパーコンピュータでも数億年以上かかる手に
きたがわ・まさひろ
大阪大学大学院基礎工学研究科 教授
〔専門〕量子物理、量子情報科学。
〔連絡先〕5608531 豊中市待兼山町 1-3(勤務先)
E-mail: kitagawa.m@ee.es.osaka-u.ac.jp
負えない問題となることを安全性の根拠としている。
ところが Shor のアルゴリズムを使えば桁数の 3 乗の
手間で高速に素因数分解ができるので、その安全性の
根拠は崩れてしまう。そのため 1994 年の Shor の発見
を契機に、RSA 暗号に立脚した情報化社会はパラダイ
ム転換を迫られ、先進各国は国策として、盗聴不可能
たくい・たけじ 大阪市立大学大学院理学研究科 特任教授
〔専門〕分子科学、電子スピンサイエンス。
〔連絡先〕558-8585 大阪市住吉
区杉本 3 丁目 3-138(勤務先)
。
E-mail: takui@sci.Osaka-cu.ac.jp
さとう・かずのぶ 大阪市立大学大学院理学研究科 教授
〔専門〕量子化学、磁気共鳴。
〔連絡先〕同上。
E-mail: sato@sci.osaka-cu.ac.jp
もりた・やすし 大阪大学大学院理学研究科 准教授
〔専門〕有機化学。
〔連絡先〕560-0043 豊中市待兼山 1-1(勤務先)
E-mail: moritamorita@chem.sci.osaka-u.ac.jp
な量子暗号通信システムと量子コンピュータの開発を
目指した量子情報技術の研究に乗り出した。
量子暗号が既存の光ファイバ通信技術の延長線に近
いところにあって実用化段階に入っているのとは対照
的に、量子コンピュータの基本構成要素である量子ビ
ット(qubit、キュービット)は、論理的な 0 と 1 を表
CHEMISTRY & CHEMICAL INDUSTRY │ Vol.62-1 January 2009
031
す基底 |0> と |1> の任意の重ね合わせの状態を取るこ
る6)。それを解決するためにペンタセンの三重項状態
とができるスピン 1/2 と等価な量子系であり、演算は
を用いた初期化が研究されている7)。Qubit としては
qubit(s)のユニタリ変換であって、既存のエレクト
高磁場・極低温で初期化可能な電子スピンが有利であ
ロニクス技術と全く様相を異にする。そのため、超伝
る。最近、分子の電子スピンを qubit とする QC が現
導、半導体量子ドット、イオントラップ、中性原子、
れた8∼10)。
光子、分子の核スピン・電子スピンなど様々な物理系
実際に RSA 暗号に使われている百桁の整数を素因
で qubit と量子ゲートの研究・開発が活発に行われて
数分解するには、少なくともその 3 倍の桁数を扱える
いる。
1,000-qubit の量子コンピュータが必要である。さらに
一方、半導体集積回路に立脚するエレクトロニクス
各 qubit の重ね合わせの位相が失われるデコヒーレン
にもパラダイム転換が迫られている。1956 年 CALTECH
スによる誤りの伝搬を防ぐために量子誤り訂正符号に
から化学の学位を授与された Gordon Moore は「1 個
基づくフォールトトレラントなアーキテクチャが必須
の IC チップに搭載された構成要素数が年々倍増する」
と考えられており、その何倍もの冗長な qubit が必要
4)
と予想した。このムーアの法則 は半導体産業におい
となる。RSA 暗号で鍵をかけた秘密は、今のところ大
て 35 年間継続しており、2000 年には 1 Gbit の DRAM
規模量子コンピュータが存在しないことによって守ら
が登場し、最小単位は 0.18 mm に減少した。ムーアの
れている。それなら、量子コンピュータはできない方
法則は、2010 年頃には 100 Gbit のチップ、最小単位
がよいと思われるかもしれないが、安全かどうかわか
は 70 nm 以下を予想するが、ここに至り従来の半導
らない状況が暗号にとっては最も危険である。量子情
体技術は、根本的な困難に直面する。微細化により顔
報技術の可能性がある以上、その存在を前提とした新
を出し始めた量子効果の考慮なしには、集積回路の設
たなパラダイムに移る以外にないのである。
計自体ができなくなるからである。このことは、逆に
確かに大規模な量子コンピュータの実現は現時点で
量子ドットやスピンなど量子効果を積極的に活用した
は技術的に困難で最後のフロンティアとも言われる挑
新しい動作原理のデバイスやその先に量子コンピュー
戦的な目標ではあるが、少なくとも物理の基本法則に
タを視野に入れた研究の推進力となっている。
照らして不可能という証拠も見つかっていない。
数千、数万以上の qubit を整然と配列した大規模量
量子コンピュータと化学
最初の量子コンピュータは分子で創られた?
子コンピュータのハードウェアを思い描くと、電子ス
2001 年に IBM の I. L. Chuang(現 MIT)らは、フッ
ピンという天然の優秀な qubit を化学者の手を借りて
素置換した核スピン 7-qubit の閉殻系分子(図 1)を
分子や超分子の形で並べるのが、最も有望な実現方法
合成して、NMR 分光の手法を使って Shor の量子アル
の一つであることは間違いないだろう。
3)
5)
ゴリズム による 15 の素因数分解を実行して見せ 、
量子コンピュータが実現したら何ができるかについ
SF 的存在に過ぎなかった QC の世界に実験的な現実
ては、量子アルゴリズムの発見に負うところが大きく、
−6
味を与えた。実は、室温の核スピンの偏極率は 10
まだよくわかっていない。巡回セールスマン問題のよ
程度しかなく、その初期化に手間がかかり過ぎて、こ
うな NP 完全問題が解けるとは考えられていないが、
の実験では量子計算の高速性は完全に失われてい
素因数分解と同程度の困難な問題が解けることが予想
されている。量子アルゴリズムの発見には量子力学的
センスと計算機科学的センスの両方が要求され、量子
化学者の新たな活躍の場となるかもしれない。
最も現実性の高い量子コンピュータ分子系は?
なぜ分子スピン qubit が真の量子コンピュータの候
補になり得るのかを述べ、化学的な開発のロードマッ
図 1 NMR-QC 用 7-Qubit 分子5)
○の F と
032
13
C の核スピンが qubit。
化学と工業 │ Vol.62-1 January 2009
プに言及したい。大規模な量子コンピュータの実現に
は 7-qubit5)から多 qubits への拡張性(scalability)が求
められる。この qubit 数の拡張性は、いかなる物理系
でも実用的な量子コンピュータ開発のために越えなけ
ればならない非常に高いハードルである。では、電子
スピンを qubit とする分子スピン系ではどのような物
質系を合成すればよいのであろうか?
物質スピン多 qubit 系では、スピン qubit を 1 次元∼
3 次元に配列して、隣接するスピン間の交換相互作用
や双極子相互作用を用いて量子演算を行う。したがっ
図 2 (ABC)
n1 次元周期構造をもつ拡張可能ななスピン qubit 系
て、qubit 数を増やせば、直接演算できない qubit の組
部から隔離されており、分子内部の自由度に由来する
が増大する。このディレンマを解決するアプローチと
スピン緩和も抑制されていることが重要である。外部
して、S. Lloyd は、図 2 に模式的に示す(ABC)n の 1
からの摂動に影響されず、周期境界条件がしっかりし
11)
次元周期構造をもつスピン系を提案した 。A、B、C
た分子骨格の選択が鍵となる。このような条件を満足
は異なる化学シフトまたは異なる g 値をもつスピン
する(ABC)
n 系には、スピン quibit に関する量子化学
qubit である。このような構造をもつ分子や超分子が
的な知識、周到な分子設計論と超分子合成を視野に入
化学合成戦略のターゲットとなり得る。各 qubit 間は
れた合成戦略が不可欠である。DNA のピッチ内に安
最隣接相互作用(= Jij)が支配的で、各スピンの磁
定有機ラジカルを望む配向でπスタッキングさせるア
気共鳴周波数は、図 2(b)に示すように(00, 01, 10,
プ ロ ー チ、 三 重 螺 旋 で 縛 り 上 げ た 多 核 金 属イオン
B
ac
11)の 4 つに分裂する。n
は、スピン Qubit B に隣
qubit の helicates などが有力な分子系である13)。
接す Qubit A の状態が |a>、Qubit C の状態が |c> であ
2 電子スピン qubit の位相制御技術がやっとでき上
るときの Qubit B の共鳴周波数を表す。 これらの共鳴
がったばかりであるが8b)、次の物理的ハードルは、フ
線に対して、スピンの向きを反転させる p パルスの
ォールトトレラントな大規模 QC を可能とする電子ス
系列を照射すると、隣接する qubit の状態を交換する
ピン多 qubit 系の精密な量子制御と単一スピン測定技
スワップゲートや、もう一方の隣接 qubit が |1> の場
術の確立である。物理と化学の融合によって QC/QIP
合のみスワップを実行する制御スワップゲートを作る
の分野が飛躍的に進歩することが期待される。
ことができる。これらを組み合わせることによって、
1) R. P. Feynman,
1985, , 11.
2) D. Deutsch,
1985,
, 97.
3) P. W. Shor,
.,
124, IEEE Comput. Soc., Los Alamos, CA, 1994; ibid.
1997, , 1484.
4) 1975 年, ムーアは 1 個の IC チップに搭載された構成要素数は 2 年ごと
に倍になると修正した. 1977 年ロバート・ノイスは, 18 ヵ月で倍とした.
5) L. M. K. Vandersypen, M. Steffen, G. Greyta, C. S. Yannoni, M. H.
, 883.
Sherwood, I. L. Chuang,
2001,
6)(a)北川勝浩, 数理科学, 1998 年 10 月号, 43, 1998;(b)北川勝浩,「量
子譲歩科学とその展開」III-4 NMR 量子コンピュータの近況, 111, 2003.
7) A. Kagawa, Y. Murokawa, K. Takeda, M. Kitagawa,
.,
in print.
8)(a)M. Mehring, J. Mende, W. Scherer,
2003, ,
153001;(b)M. Mehring, W. Scherer, A. Weidinger,
2008,
2004, , 206603;(c)W. Scherer, M. Mehring,
, 052305.
9)(a)R. Rahimi, K. Sato, K. Furukawa, K. Toyota, D. Shiomi, T.
Nakamura, M. Kitagawa, T. Takui,
2005,
, 197;(b)K. Sato, R. Rahimi, N. Mori, S. Nishida, K. Toyota, D.
Shiomi, Y. Morita, A. Ueda, S. Suzuki, K. Furukawa, T. Nakamura, M.
Kitagawa, K. Nakasuji, M. Nakahara, H. Hara, P. Carl, P. Hoefer, T.
Takui,
2007, , 363.
10) J. J. L. Morton, A. Tyryshkin, A. Ardavan, S. Benjamin, K. Porfyrakis, S.
A. Lyon, G. A. D. Briggs,
2006, , 40.
11) S. Lloyd,
1993,
, 1569.
12) Y. Kawano, S. Yamashita, M. Kitagawa,
2005,
,
012301
13)Y. Morita, et al., submitted.
1 次元構造上でデータを自在に転送することができ
る。この構造の両端だけは、境界条件が異なるので、
異なる共鳴周波数をもち、これを利用して、両端でデ
ータの入出力を実行できる。このようなバケツリレー
方式によって最近接 qubit としか相互作用をもたなく
ても任意の量子回路が実現でき、リレーに要する手間
も量子計算の高速性を損なわないことがわかってい
る12)。ところが、Lloyd 型 qubit 系は提案から 15 年に
なるが合成はおろか、合理的な分子設計がなされたこ
ともなかった。合理的な設計とは、どのような条件が
満たされればよいのだろうか。各スピンサイトの g テ
ンソルが異なり(g-Engineering)、かつ選択的なマイク
ロ波による励起が可能な程度に ESR 共鳴線が分裂し
ていることが望ましい(弱交換相互作用系)
。QC/QIP
の qubit 操作の過程では、qubit 間の量子もつれ状態や
重ね合わせ状態は、すべての演算が終了するまで保持
されることが必須である。このためには、qubit が外
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